(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ダグラス・アダムズ - Wikipedia コンテンツにスキップ

ダグラス・アダムズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダグラス・アダムスから転送てんそう
ダグラス・アダムズ
Douglas Adams
誕生たんじょう (1952-03-11) 1952ねん3月11にち
イングランドの旗 ケンブリッジ
死没しぼつ 2001ねん5月11にち(2001-05-11)(49さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 カリフォルニアしゅうサンタバーバラ
墓地ぼち イングランドの旗 ロンドン ハイゲイト墓地ぼち
職業しょくぎょう 作家さっか
ジャンル SF、コメディ、風刺ふうし
署名しょめい
公式こうしきサイト http://www.douglasadams.com/
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ

ダグラス・アダムズDouglas Adams1952ねん3月11にち2001ねん5月11にち)は、イギリス脚本きゃくほんSF作家さっか。ファンのあいだではBop Ad や Bob、もしくはDNA(フルネーム "Douglas Noël Adams"より)とばれている。存命ぞんめいちゅうぜん世界せかいで1500まんれた『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』の作者さくしゃとしてられる。どう作品さくひんは1978ねんBBCのラジオドラマとしてはじまったもので、続編ぞくへんかれ、テレビドラマ、演劇えんげき、コミックス、コンピュータゲーム、映画えいが(2005)などになっている。イギリスのラジオ文化ぶんかへの貢献こうけんにより、The Radio Academy殿堂でんどうりをたしている。

ファンが "Bop Ad" とぶのは、サインがみにくく "Bop Ad" のようにめるためである[1]動物どうぶつ環境かんきょう保護ほご活動かつどうでもあり、はやくるまとカメラとApple Macあいした。かみろんものであり、みずたまりが世界せかい認識にんしきしたとしたら「これはわたしがいる興味深きょうみぶか世界せかいであり、わたしがいる興味深きょうみぶかあなわたしなか々うまくっている。のところこのあなはものすごくよくっているから、わたしれるためにつくられたにちがいない!」とおもうだろうという有名ゆうめい言葉ことばがある[2]生物せいぶつ学者がくしゃリチャード・ドーキンス著書ちょしょかみ妄想もうそうである』(2006) をアダムズにささげ、アダムズのについて「科学かがく友人ゆうじんうしない、文学ぶんがく有名人ゆうめいじんうしない、マウンテンゴリラとクロサイは勇敢ゆうかん擁護ようごしゃうしなった」としるしている[3]

ぜん半生はんせい

[編集へんしゅう]

イングランドのケンブリッジまれる。3ねんいもうとスーザンがまれたが、1957ねん両親りょうしん離婚りこん。ダグラスとスーザンはははとも母方ははかた祖父母そふぼエセックスしゅうブレントウッドのRSPCA動物どうぶつシェルターにした。ダグラスはここで枯草かれくさねつ喘息ぜんそく悪化あっかしたとわれている[4]

アダムズのちちは1960ねん7がつ再婚さいこんし、半分はんぶんのつながったいもうとまれている。ははも1964ねん獣医じゅうい再婚さいこんし、いもうとおとうとが1にんずつまれた。

学生がくせい時代じだい

[編集へんしゅう]

アダムズはブレントウッドの Primrose Hill Primary School にかよっていた。6さいのとき全寮ぜんりょうせい学校がっこう Brentwood School入学にゅうがく試験しけん合格ごうかく同校どうこう卒業生そつぎょうせいにはジャック・ストローデイヴィッド・アーヴィングといった有名人ゆうめいじんがいる。同級生どうきゅうせいにはスタッキズムのアーティスト チャールズ・トムソン英語えいごばん、1学年がくねんにはグリフ・リース・ジョーンズがいた。1959ねんから1964ねんまで準備じゅんび学校がっこうかよい、その全寮ぜんりょうせい学校がっこうには1970ねん12がつまで在籍ざいせきした。学級がっきゅう担任たんにんのフランク・ハルフォルドはアダムズについて「すうひゃくにん少年しょうねん学校がっこう卒業そつぎょうしていったが、ダグラス・アダムズは文字通もじどお群衆ぐんしゅうなか目立めだっていた。かれ異様いようたかく、やや自意識じいしき過剰かじょうえた。それでもかれ本当ほんとうかがやかせたのは、最高さいこう物語ものがたりつむかれ能力のうりょくだった」とかたっている[5]。アダムズは12さいで1.83mの身長しんちょうがあり、最終さいしゅうてきには1.96mまで成長せいちょうした。「時計とけいとうした」や「戦没せんぼつしゃ記念きねんした」のわりに「アダムズのしたおう」というジョークがあったという[6]かれ担任たんにんのハルフォルドが作文さくぶんで10てん満点まんてんの10てんをつけた唯一ゆいいつ生徒せいとだった。アダムズはスランプにおちいるとそのことをおもしたという[7]

この学校がっこう時代じだいいたものも一部いちぶ出版しゅっぱんされている。たとえば、写真しゃしんクラブの会誌かいし The Brentwoodian 1962年版ねんばん学校がっこう Broadsheet掲載けいさいされたふざけたレビューなどである。後者こうしゃ編集へんしゅうちょうパウル・ネイル・ミルネ・ジョホンストネはの「銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド」の登場とうじょう人物じんぶつになっている。アダムズは Broadsheet表紙ひょうしをデザインしたこともある。また1965ねんには少年しょうねんコミック The Eagleおくった手紙てがみ短編たんぺん小説しょうせつ掲載けいさいされたことがある。ビートルズウィリアム・ブレイクろんじた宗教しゅうきょうについての溌剌はつらつとした論文ろんぶんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくセント・ジョンズ・カレッジに進学しんがくし、えい文学ぶんがく専攻せんこうしたが、かれがそこをえらんだ最大さいだい理由りゆう有名ゆうめいなコメディアンを輩出はいしゅつしていたコメディクラブ フットライツ参加さんかするためだった。しかし、クラブにすぐにれたわけではなく、まずウィル・アダムズとマルチン・スミスとで「アダムズスミスアダムズ」というグループを結成けっせいして、脚本きゃくほんいてえんじることからはじめ、根気こんきつよ活動かつどうしたおかげで1973ねんにフットライツに入会にゅうかいできた[8]勉強べんきょうはほとんどしなかったが、3年間ねんかん論文ろんぶんを3ほんき、1974ねんえい文学ぶんがく学士がくしごう取得しゅとくして卒業そつぎょうした[9]

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

執筆しっぴつ

[編集へんしゅう]

1974ねん、アダムズの初期しょき作品さくひんがフットライツのレビュー(寸劇すんげき)の編集へんしゅうばんとしてBBC2放送ほうそうされた。そのレビューのあるはんをロンドンのウエスト・エンド上演じょうえんし、モンティ・パイソングレアム・チャップマンがアダムズを見出みいだすことになった。2人ふたり共同きょうどう執筆しっぴつおこなうようになり、『そらぶモンティ・パイソン』のあるエピソード(エピソード45、最終さいしゅうばなし)にアダムズの表示ひょうじされた。そのなかの "Patient Abuse" (世界せかい一番いちばんアブナイ医者いしゃ)というスケッチがアダムズのかかわったものである。なお、オリジナルのメンバー以外いがい表示ひょうじされたのはアダムズ以外いがいにはニール・イネスしかいない。そのスケッチは、看護かんごはらされたおとこながしながら診察しんさつしつはいってくるところからはじまる。医師いしかれ治療ちりょうまえおおくの非常識ひじょうしきなフォームに記入きにゅうするよう要求ようきゅうする(のヴォゴンじん事務じむ手続てつづきにつうじるものがある)。アダムズは『そらぶモンティ・パイソン』だい4シリーズに2出演しゅつえんしている。アダムスとチャップマンはモンティ・パイソンとは関係かんけいないプロジェクトでも共同きょうどう執筆しっぴつしており、Out of the Trees などがある。

ラジオでのアダムズの初期しょき作品さくひんとして、The Burkiss Way(1977) や The News Huddlines がある。また、テレビではグレアム・チャップマンと共同きょうどうDoctor on the Go のあるエピソード(1977ねん2がつ20日はつか放送ほうそう)の脚本きゃくほんいた。

コメディ脚本きゃくほんとして生活せいかつりたせるのは大変たいへんで、アダムズは病院びょういんのポーター、納屋なや建設けんせつ鳥小屋とりごや清掃せいそうといった様々さまざま仕事しごとをしていた。カタール石油せきゆおう一家いっかのボディガードとしてやとわれたこともある[10]

1979ねん、アダムズとジョン・ロイドは30ぶんのアニメ番組ばんぐみ Doctor Snuggles邦題ほうだい:『不思議ふしぎ博士はかせ冒険ぼうけん』)の2つのエピソードの脚本きゃくほんいた。ジョン・ロイドはオリジナルのラジオばん銀河ぎんがヒッチハイクガイド』の脚本きゃくほん一部いちぶいており、The Meaning of LiffThe Deeper Meaning of Liff といったほんともさくしている。2人ふたりギネス・ワールド・レコーズをベースにしたSF映画えいが企画きかくでも協力きょうりょく関係かんけいにあった。この企画きかくジョン・クリーズ国連こくれん事務じむ総長そうちょうえんじ、ほしじん運動うんどう競技きょうぎ人類じんるいまけかそうとやってくるというはなしで、人類じんるいはギネスブックにあるような馬鹿ばからしい競技きょうぎ提案ていあんしてほしじんつ。ただし、この企画きかく実現じつげんしなかった。

銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』のラジオばん好評こうひょうだったため、アダムズはBBCのラジオプロデューサーとなり、Week EndingBlack Cinderella Two Goes East といった番組ばんぐみかかわったが、6カ月かげつには『ドクター・フー』の脚本きゃくほん編集へんしゅう抜擢ばってきされプロデューサーをめた。

銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド

[編集へんしゅう]

銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』はアダムズとラジオ・プロデューサー のサイモン・ブレット[11]が1977ねんBBC Radio 4 にんだSFラジオドラマのコンセプトだった。アダムズはパイロットばんといくつかのストーリーの概略がいりゃくかんがした(ニール・ゲイマン著書ちょしょ Don't Panic: The Official Hitchhiker's Guide to the Galaxy Companion収録しゅうろく)。

アダムズが『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』をおもいついたとされているオーストリアのインスブルックでの Towel Day 2005 の様子ようす小説しょうせつちゅうでヒッチハイカーの必需ひつじゅひんとされているタオルが象徴しょうちょうとなっている。Towel Day(5がつ25にち)は2001ねん、アダムズのの2週間しゅうかん最初さいしょいわわれ、その毎年まいとしつづいている。

アダムズ自身じしんによると、そのアイデアはオーストリアのインスブルック広場ひろばぱらってよこになりほしながめているときにおもいついたという。ただし、つづりがやさしいという理由りゆうでBBCはスペインだったと主張しゅちょうするだろうと冗談じょうだんえている[12]。そのときかれHitch-hiker's Guide to Europe というほん片手かたて各地かくち放浪ほうろうしていて、まったはなしつうじないまちにたどりついた。あたりをうろついてしばらくんだのちかれ広場ひろば中央ちゅうおうねむり、そのまち人々ひとびととコミュニケーションができないことからインスピレーションをた。なお、なんもこのはなしをしたため、そのときの記憶きおくはもうすっかりわすれてしまって、かれなか改変かいへんされた記憶きおくだけがのこっているともかたっている。

概略がいりゃくはアダムズのオリジナルだったがだい1シリーズの最終さいしゅう2はジョン・ロイドに手助てだすけをもとめた。ロイドは発表はっぴょう自作じさくのSF GiGax のごく一部いちぶ提供ていきょうした[13]。しかし、この ロイドが提供ていきょうした部分ぶぶん小説しょうせつばんやテレビシリーズにはまったのこっていない。テレビシリーズはラジオばん最初さいしょの6もとづいているが、ロイドの寄与きよした部分ぶぶん大幅おおはば改稿かいこうされている。

BBC Radio 4最初さいしょのラジオドラマを1978ねんの3月と4がつ毎週まいしゅう1ずつ放送ほうそうした。評判ひょうばんかったため、追加ついかのエピソードが制作せいさくされ放送ほうそうされた。これが一般いっぱんにクリスマス・エピソードとわれている。だい2シリーズ5は1980ねん1がつ21にちから25にち一夜いちやに1かたち放送ほうそうされた。

このラジオシリーズにかかわりながら(そして The Pirate Planet などにもかかわりながら)、アダムズにはりをまもれないというわるくせがでてきた。アダムズはけっして多作たさく作家さっかではなく、だれかに強制きょうせいされないとけないほうだった。のちに『さようなら、いままでさかなをありがとう』を完成かんせいさせるさいには、3週間しゅうかんホテルに缶詰かんづめにされている[14]かれは「わたしりをあいしている。りがとおぎるときのヒューというぶようなおときだ」とべている[15]りにわれながら、結局けっきょくアダムズは5つの小説しょうせつき、それぞれ1979ねん、1980ねん、1982ねん、1984ねん、1992ねん出版しゅっぱんされた。

このシリーズは漫画まんがされ、コンピュータゲームされ、1994ねんには写真しゃしんやイラストをえたはん出版しゅっぱんされた。のちにアダムズ自身じしんがデザインした 42 Puzzle(生命せいめい宇宙うちゅう、そして万物ばんぶつについての究極きゅうきょく疑問ぎもんこた)を表紙ひょうしにしたはん出版しゅっぱんされている。

1980ねん、アダムズは『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』映画えいが最初さいしょこころみを開始かいしし、ロサンゼルスになんき、ハリウッドのいくつかのスタジオを訪問ほうもんし、プロデューサー候補こうほった。よく1981ねん、ラジオドラマをベースとしてBBCがテレビドラマのミニシリーズ "The Hitch Hikers Guide to the Galaxy" ぜん6放送ほうそう。2001ねんにカリフォルニアでくなったときも、かれは1998ねん映画えいがけん購入こうにゅうしたディズニー映画えいがはなしすすめていた。2005ねん映画えいがはアダムズの死後しごKarey Kirkpatrickえた脚本きゃくほんもとづいて2003ねん9がつ制作せいさく開始かいしされたものである。

ラジオ・プロデューサー Dirk Maggs はヒッチハイク・シリーズの3さく小説しょうせつをベースとしてラジオドラマのだい3シリーズを制作せいさくするけんを1993ねん、1997ねん、2000ねんの3かい、アダムズと相談そうだんしている[16]。かれらはまた、「さんさく」を構成こうせいする5作品さくひん最後さいごの2さくをラジオドラマする可能かのうせいについても漠然ばくぜん議論ぎろんした。映画えいが同様どうよう、このプロジェクトもアダムズの死後しご実現じつげんした。ラジオドラマのだい3シリーズは BBC Radio 4 で2004ねん9がつ放送ほうそうされ、のちにCDされた。『宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう』をアダムズ自身じしん朗読ろうどくした録音ろくおんのこっていたため、アグラジャグのこえはアダムズ自身じしんのものが使つかわれている。『さようなら、いままでさかなをありがとう』と『ほとんど無害むがい』からラジオドラマのだい4およびだい5シリーズが制作せいさくされ、2005ねん5がつと6がつ放送ほうそうされ、のちにCDされた。最終さいしゅうシリーズの最終さいしゅうはなし最後さいごは「ダグラス・アダムズの『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』の最終さいしゅうかいは、愛情あいじょうめて作者さくしゃささげられる」という言葉ことばわっている[17]

Dirk Gently シリーズ

[編集へんしゅう]
ダグラス・アダムズ(2000ねん3がつ

1985ねんMark Carwardine とのマダガスカル旅行りょこうから、その Last Chance to See として結実けつじつした一連いちれん旅行りょこう合間あいまに、アダムズはあらたな登場とうじょう人物じんぶつ使つかった長編ちょうへん小説しょうせつを2へんいた。1987ねん出版しゅっぱんされた Dirk Gently's Holistic Detective Agency についてアダムズは「幽霊ゆうれい-ホラー-探偵たんてい-タイムトラベル-恋愛れんあい-コメディ-叙事詩じょじし一種いっしゅで、どろ (mud) と音楽おんがく量子力学りょうしりきがく主題しゅだいにしている」と説明せつめいしている[18]。アメリカでは熱狂ねっきょうてき書評しょひょうられた。自身じしん脚本きゃくほんいた『ドクター・フー』のエピソード(City of DeathShada)のアイデアの一部いちぶ使つかっている。

翌年よくねん続編ぞくへんThe Long Dark Tea-Time of the Soul出版しゅっぱん。しかし、書評しょひょうでは1さくほどの評価ひょうかけなかった。

ドクター・フー

[編集へんしゅう]

1978ねん、アダムズは『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』ラジオばんのパイロット脚本きゃくほんを『ドクター・フー制作せいさくはんおくり、The Pirate Planet脚本きゃくほん依頼いらいされた。またもっと以前いぜんに "Doctor Who and the Krikkitmen" という映画えいがよう脚本きゃくほんおくろうとしたこともあり、それがこうの『宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう』のベースになっている。アダムズは1979ねんのシーズン17で脚本きゃくほん編集へんしゅうとしてかかわった。そして全部ぜんぶで3つのはなし脚本きゃくほんいている。

  • The Pirate Planet シーズン16(1978-1979ねん)のだい2(4エピソード)
  • City of Death シーズン17のだい2(4エピソード) - Graham Wiliams、David Fisher とともさく
  • Shada シーズン17よう脚本きゃくほんだが、制作せいさく途中とちゅうられ、放送ほうそうされず。

アダムズ原作げんさくのエピソードはアダムズがノベライズを許可きょかしなかったため、小説しょうせつされていない。アダムズが出版しゅっぱんしゃたいして通常つうじょうよりたか原作げんさくりょう要求ようきゅうしたためだという[19]

アダムズは『ドクター・フー』の自分じぶんいたエピソードや脚本きゃくほん編集へんしゅうとしてかかわったエピソードで内輪うちわけのネタとして『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』に言及げんきゅうすることをゆるしていた。また『ドクター・フー』のそののシリーズでもヒッチハイク・ガイドへの言及げんきゅうがあり、最近さいきんでは2007ねん42 というサブタイトルのはなしがあった。ぎゃくにヒッチハイク・ガイドの小説しょうせつに『ドクター・フー』への言及げんきゅうすくなくとも1カ所かしょある。『宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう』で主人公しゅじんこう2にんローズ・クリケット・グラウンドのピッチじょう突然とつぜんあらわれる。そのときのラジオのコメンテーターの反応はんのうが『ドクター・フー』の1965-66ねんだい8 The Daleks' Master Plan でドクターのターディスおなじクリケット競技きょうぎじょう突然とつぜんあらわれたときのコメンテーターの反応はんのう酷似こくじしている。

ShadaCity of Death要素ようそはアダムズの小説しょうせつ Dirk Gently's Holistic Detective Agency にもさい利用りようされており、Dirk Gently はドクターとおなじプロットじょう役割やくわりになっている(性格せいかくまったことなる)。Big Finish ProductionsのちShada をオーディオドラマとしてリメイクした。これに一部いちぶアニメーションしたイラストをけたものが、2003ねんにBBCのウェブサイトでインターネット放送ほうそうされ、そのCD2まいぐみとして発売はつばいされた。2005ねん12がつ10日とおかには BBC7 がデジタルラジオで放送ほうそうしている。

なお、リチャード・ドーキンスのちつまとなる Lalla Wardわせたのはアダムズで、Lalla Ward は『ドクター・フー』に出演しゅつえんしていた女優じょゆうだった[20]

アダムズは学生がくせい時代じだいDoctor Whichだいした脚本きゃくほんいて舞台ぶたい上演じょうえんしたことがある[21]

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

アダムズは左利ひだりききながらギターをき、生涯しょうがいに24ほん左利ひだりきようギターを収集しゅうしゅうした(最初さいしょのギターは1964ねん入手にゅうしゅ)。1960年代ねんだいPaul Wickens からピアノとギターをならった。Wickens はポール・マッカートニーのバンドでピアノを演奏えんそうしていた(また、2004-2005年版ねんばんのラジオばん銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』では音楽おんがく担当たんとうしている)[22]ビートルズピンク・フロイドプロコル・ハルムの3しゃはアダムズがおおきな影響えいきょうけたアーティストである。

ピンク・フロイド

[編集へんしゅう]

もともとのラジオばん銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』ではピンク・フロイドきょく直接ちょくせつ使つかわれていた。主人公しゅじんこうたちほし地形ちけい調しらべているとき、ロボットのマーヴィンがピンク・フロイドの「クレイジー・ダイアモンド」をハミングする。これはCDばんではカットされている。また、ノンフィクションの Last Chance to See ではフクロウオウムてる様々さまざまおとをピンク・フロイドと比較ひかくしている。

アダムズの公式こうしき伝記でんき題名だいめいはピンク・フロイドのきょく "Wish You Were Here" にちなんでいる。アダムズはピンク・フロイドのギタリスト デヴィッド・ギルモアとは友人ゆうじんで、アダムズの42さい(42という数字すうじはアダムズにとっては特別とくべつであり、生命せいめい宇宙うちゅう、そして万物ばんぶつについての究極きゅうきょく疑問ぎもんこたであるとともに、そのとしむすめまれている)の誕生たんじょうにピンク・フロイドのコンサートにゲスト出演しゅつえんしゃとして招待しょうたいされ、ギターをいて演奏えんそう参加さんかした。ピンク・フロイドの1994ねんのアルバム The Division Bell のタイトルはアダムズが収録しゅうろくきょく歌詞かしからえらんだ。ライナーノートにもアダムズのがある。また、ギルモアはアダムズの追悼ついとうしき演奏えんそうしている。

宇宙うちゅうてのレストラン』に登場とうじょうするロックバンド「デザスター・エリア」はピンク・フロイドがモデルであり、「銀河ぎんがいちおおきなおとてるロックバンドというだけでなく、あらゆる騒音そうおんなかでも一番いちばんうるさい」バンドとしてえがかれている。デザスター・エリアはステージ演出えんしゅつとして宇宙船うちゅうせん太陽たいようませるのだが、これもピンク・フロイドのステージの派手はで演出えんしゅつ発想はっそうもとになっているとられる。また、ピンク・フロイドには "Set the Controls for the Heart of the Sun"(1968) というきょくがある。

プロコル・ハルム

[編集へんしゅう]

アダムズは、プログレッシブ・ロックバンド プロコル・ハルムのメンバーゲイリー・ブルッカー友人ゆうじんだった。アダムズがひらいたホームパーティにブルッカーがよくていたという。あるとき、そのホームパーティでブルッカーがヒットきょくあおかげ」をフルコーラスうたったことがある。ブルッカーはアダムズの追悼ついとうしきでも演奏えんそうしている。

アダムズはブルッカーのステージに登場とうじょうし "In Held Twas in I" の演奏えんそう参加さんかしたことがある。

アダムズは執筆しっぴつちゅう音楽おんがくをかけていたが、ときおりその音楽おんがく執筆しっぴつ内容ないよう影響えいきょうされることがあった。プロコル・ハルムのアルバム Grand Hotel表題ひょうだいきょくがかかっていたとき、

きょく途中とちゅう突然とつぜんだい音響おんきょうのオーケストラになり、一体いったいなにきたのかとおもった。わたしは、その背後はいごなにがあるのかかんがつづけた。そしてなにかフロアショーのようなものが進行しんこうしているようにおもえた。なに巨大きょだい並外なみはずれた、そう、たとえば宇宙うちゅうおわりのようなもの。こうして『宇宙うちゅうてのレストラン』のアイデアがまれた。 — ダグラス・アダムズ、Procol Harum at The Barbican[23]

その音楽おんがくとのかかわり

[編集へんしゅう]

アダムズは影響えいきょうけた音楽おんがくやミュージシャンについて、よくほんなかれている。ヒッチハイク・ガイド・シリーズでは、『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』ではネズミのベンジイとフランキイが『究極きゅうきょくこたえ』にてきした質問しつもんとして「人間にんげんあるみちかずはいくつ?」(How many roads must a man walk down?) をおもいつく。これは、ボブ・ディランきょくふうかれて」のいちせつである。またどうさくで「黄金おうごんしんごうのコンピュータ(エディ)は2つのかくミサイルからのがれられず危機ききおちいったとき、「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」をうたいだす。このロジャース&ハマースタインきょくは『回転かいてん木馬もくば』というミュージカルのきょくで、イギリスで1960年代ねんだいにヒットした。そのサッカーファンがうた定番ていばんきょくになり、ピンク・フロイドもアルバム「おせっかい」に収録しゅうろくされた「フィアレス」の途中とちゅう挿入そうにゅうしている。「黄金おうごんしん (Heart of Gold)」という宇宙船うちゅうせん名称めいしょう自体じたいニール・ヤング曲名きょくめい (en) に由来ゆらいしている。

2さくの『宇宙うちゅうてのレストラン』は、ポール・サイモンの1980ねんのアルバム One-Trick Ponyささげられている。アダムズはそのアルバムを執筆しっぴつちゅうつねにかけていたとしている。4さく『さようなら、いままでさかなをありがとう』では、アーサー・デントがダイアー・ストレイツのLPをいているが、アダムズはそのギタリスト マーク・ノップラー敬意けいいあらわしている。作中さくちゅうでは曲名きょくめい明記めいきされていないが、アダムズはのちにアルバム Making Movies収録しゅうろくされた "Tunnel of Love" だとかしている。『ほとんど無害むがい』では、フォード・プリーフェクトとアーサー・デントがはいったバーでエルヴィス・プレスリーらしきおとこうたっているのを発見はっけんする。

ロック以外いがいにもアダムズはヨハン・ゼバスティアン・バッハ作品さくひん賞賛しょうさんしており、Dirk Gently's Holistic Detective Agency にそれがあらわれている。アダムズはモンキーズのマイク・ネスミスとも友人ゆうじんだった。1990年代ねんだいに『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』を映画えいがするはなしがあったが、そのときのプロデューサーがネスミスだった。

アダムズはビートルズのファンでもあった。『宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう』ではポール・マッカートニー言及げんきゅうし、『ほとんど無害むがい』や Dirk Gently's Holistic Detective Agency ではビートルズの曲名きょくめい引用いんようしている。たとえばつぎのように台詞せりふ全部ぜんぶがビートルズの曲名きょくめいという一節いっせつがある。

"Yes, it is", said the Professor. "Waitlet it be. It won't be long."
Richard stared in disbelief. "You say there's a horse in your bathroom, and all you can do is stand there naming Beatles songs?"
"Well, the bathroom window's open. I expect she came in through that."
"You're doing it deliberately, aren't you?"

The Salmon of Doubt でもたようなことをこころみている。

コンピュータゲームなど

[編集へんしゅう]

アダムズは Steve Meretzkyともに『銀河ぎんがヒッチハイクガイド』のインタラクティブ小説しょうせつはんコンピュータゲーム HHGG制作せいさくし、Infocom から1984ねん発売はつばいした。1986ねんにはルーカスアーツのゲーム Labyrinth のためのいち週間しゅうかんにもおよブレインストーミング参加さんかした。そのふたたび Infocom の Bureaucracy 制作せいさく参加さんかしているが、特定とくてい小説しょうせつ原作げんさくとしたものではない。1998ねんSimon and Schuster から発売はつばいされたコンピュータゲーム Starship Titanic制作せいさくにもかかわった。アダムズがゲーム本体ほんたい制作せいさくいそがしかったため、テリー・ジョーンズ付随ふずいしたほんである Douglas Adams’s Starship Titanicいた。1999ねん4がつh2g2という協調きょうちょうがた執筆しっぴつプロジェクトをげた。これは、『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』を実際じっさいつくってみようとする実験じっけんであり、インターネットにおける集団しゅうだんてき知性ちせい利用りようするこころみである。

1990ねん、テレビのドキュメンタリー番組ばんぐみ Hyperland[24]脚本きゃくほんき、出演しゅつえんした。Tom Baker はかつての Microsoft Office採用さいようされていたアシスタントあるいは失敗しっぱいわった Microsoft Bob のようなエージェントとして登場とうじょうしている。テッド・ネルソンとのインタビューでは、ハイパーテキスト利用りようかんしてはなしている。アダムズがハイパーテキストを発明はつめいしたわけではないが、かなり初期しょきからのハイパーテキスト支持しじしゃだった。なお、ティム・バーナーズ=リーがハイパーテキストのかんがかた使つかった HTML考案こうあんしたのもこのとしである。

信念しんねん活動かつどう

[編集へんしゅう]

かみろん宗教しゅうきょうかん

[編集へんしゅう]

アダムズは自身じしんを「急進きゅうしんてきかみろんもの」だとし、不可知論ふかちろんものではないことをあきらかにするために「急進きゅうしんてき (radical)」とけているとべていた。American Atheistsたいしてかれはこうしょうすることで説明せつめいらくになるとし、さらに重要じゅうようなことはかれ本気ほんきだということがつたわるのだとべている。「わたしかみがいないと確信かくしんしている」とかれう。それにもかかわらず、人類じんるい様々さまざま出来事できごとへの宗教しゅうきょう効果こうかのため、かれ宗教しゅうきょう関心かんしんつづけた。「わたしはそれをつついていじるのが大好だいすきだ。長年ながねんそれについてかんがつづけたので、わたしくものにはその影響えいきょうているはずだ」[25]

無心むしんろんしゃでもあるリチャード・ドーキンス著書ちょしょかみ妄想もうそうである』のなかかみろん議論ぎろん例証れいしょうとしてアダムズの影響えいきょう最後さいごまで利用りようした。かれ冗談じょうだんめかしてアダムズのことを「おそらくわたし唯一ゆいいつかみろん改宗かいしゅうできた」人物じんぶつだとしている[26]。このほんはアダムズにささげられており、アダムズの「妖精ようせいかくれていることをしんじなくたって、にわ十分じゅうぶんうつくしいじゃないか」という言葉ことば引用いんようしている。

環境かんきょう活動かつどう

[編集へんしゅう]

アダムズは環境かんきょう保護ほご活動かつどうでもあり、いくつかの絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅ保護ほご活動かつどうおこなっていた。たとえば、ノンフィクションのラジオ番組ばんぐみ Last Chance to See では動物どうぶつがくもの Mark Carwardineともフクロウオウムヨウスコウカワイルカといった希少きしょうしゅき、1990ねんには同名どうめいほん出版しゅっぱんしている。アイアイコモドドラゴンゴリラサイなどの現状げんじょう保護ほご現地げんち取材しゅざいしてべており、この書籍しょせきとBBCの4シリーズにもとづくCD2まいぐみThe Voyager Company として1992ねんている。

アダムズと Mark Carwardine は、Last Chance to See でゴリラにいにったことから The Great Ape Project というほんにもかかわった[27]。これは1993ねんによりおおきなプロジェクトとしてはじまったもので、人類じんるいとそれ以外いがい大型おおがた類人猿るいじんえん倫理りんりてき同等どうとうあつかうことを要求ようきゅうすることを目的もくてきとしており、Paola Cavalieriピーター・シンガー編集へんしゅうおこなった。

1994ねんには、イギリスの慈善じぜん団体だんたい Save the Rhino のために、サイのぐるみをキリマンジャロ登山とざんするというイベントに参加さんかした。この登山とざんには様々さまざま人々ひとびと参加さんかし、サイのぐるみを交代こうたいた。アダムズがたのは登山とざんはじまるまえのキリマンジャロのふもとまで道中どうちゅうのことだった。このイベントで10まんポンドの募金ぼきんあつまり、ケニア学校がっこうタンザニアでのクロサイ保護ほご活動かつどう寄付きふされた。アダムズは Dian Fossey Gorilla Fund熱心ねっしんなサポーターでもあった。2003ねん以降いこうSave the Rhino はアダムズの誕生たんじょうのころに毎年まいとし Douglas Adams Memorial Lecture を開催かいさいし、収益しゅうえき環境かんきょう保護ほご活動かつどう使つかっている[28]。これまでの講演こうえんしゃつぎとおり。

テクノロジー

[編集へんしゅう]

アダムズはテクノロジー全般ぜんぱんのファンでもあった。かれワードプロセッサはじめてったのは1982ねんだが、1979ねんには購入こうにゅう検討けんとうはじめている。のちかたったところによれば1982ねんまでは「専門せんもん用語ようごえられない障壁しょうへき」がちはだかっていたという。「どういう概念がいねん背後はいごにあるかもわからないそれらの単語たんご前後ぜんごっていた」という。1982ねん最初さいしょ購入こうにゅうしたのは Nexus という機種きしゅだった。1983ねん、ジェーン・ベルソンとともにロサンゼルスにかけたとき、DECの Rainbow を購入こうにゅう。そのApricotBBC MicroTandy 1000次々つぎつぎ購入こうにゅう[29]Last Chance to See ではザイールにキタシロサイをさがしにったときに Cambridge Z88っていったことをかたっていた[30]

死後しご出版しゅっぱんされた The Salmon of Doubt には、アダムズがテクノロジーを主題しゅだいいたエッセイがいくつかあり、MacUser けの記事きじインデペンデントかみ土曜どようばんけの記事きじ収録しゅうろくされている。それらによると、アダムズが最初さいしょにしたコンピュータは Commodore PET であり、Apple Macintosh愛好あいこうするようになったのは、1983ねんにマサチューセッツしゅうのInfocom本社ほんしゃにしたことがきっかけだったという(ただし、時期じきてきてMacではなく Apple Lisa だったとおもわれる)[31]

アダムズは1984ねん登場とうじょう当初とうしょから死去しきょする2001ねんまで Macintosh ユーザーだった。かく作品さくひんには、執筆しっぴつもちいた機種きしゅやソフトを明記めいきしていた。イギリスで最初さいしょにMacを購入こうにゅうしたのはアダムズだとわれている(文献ぶんけんによってはスティーヴン・フライ最初さいしょとされている)。アダムズはアップルしゃみとめた "Apple Master"1人ひとりだった(にはジョン・クリーズグレゴリー・ハインズがいる)。アダムズは、むすめ撮影さつえいしたビデオを初期しょきiMovie編集へんしゅうしてロック音楽おんがくのミュージックビデオを製作せいさくしている。このビデオはいまもアダムズのMobileMeのホームページに掲載けいさいされている。douglasadams.comのフォーラムには、4がつ26にちMac OS Xについて「インストールをなつまでつつもりだったがけてしまい、先週せんしゅうやってしまった。」「れるまでしばらくかかるし欠点けってんはある」「しかし」「すばらしい。完全かんぜんにほれんでしまった(I think it's brilliant. I've fallen completely in love with it.)」とべたのがアダムズの最後さいご投稿とうこうとなっている[32]

アダムズは電子でんしメールをかなり初期しょきのころから使つかはじめ、Infocom によるコンピュータゲームばん銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』の製作せいさくSteve Meretzky とのやりとりに使つかっていた。1993ねん、ニューメキシコにんでいたころあらたな電子でんしメールアドレスを取得しゅとくし、USENETのニュースグループ alt.fan.douglas-adams に投稿とうこうしはじめ、ときには comp.sys.mac にも投稿とうこうした[33]かれ投稿とうこうおおくはGoogleによって保存ほぞんされている。本人ほんにんかどうかをうたがわれることがおおかったため、自身じしんのウェブサイトにメッセージフォーラムをつくることになった。2001ねん4がつ。アダムズはサンフランシスコで開催かいさいされたみシステムかんする主要しゅよう技術ぎじゅつ会議かいぎの1つ Embedded Systems Conference の基調きちょう講演こうえんおこなった。かれはその講演こうえんで、テクノロジーが日々ひび生活せいかつでどのように役立やくだつべきかというビジョンを説明せつめいした[34]

私生活しせいかつ

[編集へんしゅう]

1980ねん、アダムズは当時とうじおっと別居べっきょちゅうだった小説しょうせつサリー・エマーソンこいちた。のちに『宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう』をエマーソンにささげている。エマーソンは1981ねんにはおっとしたもどったが、そのおっと Peter Stothard はアダムズの Brentwood School 時代じだい同級生どうきゅうせいであり、のちタイムズ編集へんしゅうしゃとなった。あいだもなく友人ゆうじん紹介しょうかいでジェーン・ベルソンと出会であい、恋愛れんあい関係かんけいになった。1980年代ねんだいちゅうごろのかれ著書ちょしょ著者ちょしゃ紹介しょうかいらんで「かれはイズリントンに女性じょせい弁護士べんごしとMacintoshとともんでいる」とかれていたが、この「女性じょせい弁護士べんごし」がベルソンである。1983ねん、『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』の映画えいがはなしがあったため、かれらはロサンゼルスで同居どうきょし、アダムズは脚本きゃくほんいていた。しかし映画えいがはなしがなくなり、2人ふたりはロンドンに移住いじゅう。その別居べっきょしたこともあったが、1991ねん11月25にち結婚けっこん。1994ねん6がつむすめまれた。1999ねん、ロンドンからカリフォルニアしゅうサンタバーバラ引越ひっこし、アダムズがくなるまでそこでごした。そのつまむすめはロンドンにもどっている[35]

とその

[編集へんしゅう]
ロンドンのハイゲイト墓地ぼち にあるダグラス・アダムズのはか

2001ねん5がつ11にち心筋梗塞しんきんこうそくによりアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンタバーバラ近郊きんこうモンテシートの自宅じたくのジムにて急逝きゅうせい。49さいぼつづかないうちに冠状かんじょう動脈どうみゃく徐々じょじょせまくなっていたことが原因げんいんである。5月13にちHarvey Mudd College学位がくい授与じゅよしきでスピーチする予定よていだった[36]葬儀そうぎはサンタバーバラで5がつ16にちおこなわれた。その火葬かそうされ、遺骨いこつは2002ねん6がつにロンドンのハイゲイト墓地ぼち埋葬まいそうされた[37]

当時とうじ、BBCのラジオ『The Hitchhiker's Guide to the Future』の最終さいしゅうエピソード放映ほうえいいち週間しゅうかんであり、映画えいがばん銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド」の脚本きゃくほん執筆しっぴつちゅうであった(『The Hitchhiker's Guide to the Future』はアダムズが音楽おんがく放送ほうそう出版しゅっぱんなどの将来しょうらいについてかたった4かいのドキュメント番組ばんぐみで、フィクションではない)。生前せいぜん最後さいご人前ひとまえ登場とうじょうしたのは、カリフォルニア大学だいがくサンタバーバラこうおこなわれた Parrots, the universe and everything(オウム、宇宙うちゅうすべて)とだいした講演こうえんで、生前せいぜん録画ろくがされた最後さいご映像えいぞうとなっている[38]。この講演こうえん文章ぶんしょうこしたものもある[39]

2001ねん9がつ17にち、ロンドンのトラファルガー広場ひろばめんした教会きょうかいセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ追悼ついとうしきおこなわれた。その模様もようはBBCがウェブじょうなま中継ちゅうけいした[40]。そのビデオはいまもBBCのサイトからダウンロード可能かのうである[41]

2002ねん5がつ少年しょうねん時代じだい投稿とうこうやエッセイ、短編たんぺん小説しょうせつ未刊みかんとなった作品さくひん "The Salmon of Doubt" の一部いちぶリチャード・ドーキンススティーヴン・フライ追悼ついとうぶん(イギリスばん)、Christopher Cerf追悼ついとうぶん(アメリカばん)、テリー・ジョーンズ追悼ついとうぶん(アメリカでのペーパーバックばん)を収録しゅうろくした作品さくひんしゅう The Salmon of Doubt出版しゅっぱんされた。出版しゅっぱんまえにせのレビューがいくつかべいAmazon.com掲載けいさいされるなどして、話題わだいとなった。"The Salmon of Doubt" は未完みかん長編ちょうへん小説しょうせつで、元々もともとは 《Dirk Gently》シリーズの1さくとなる予定よていだったが、《銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド》シリーズの6さくのようになっていた[42][43]

死後しご、『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』が映画えいがされ、2005ねん公開こうかいされた。親交しんこうふかかったリチャード・ドーキンスは、2006ねん出版しゅっぱんした著書ちょしょかみ妄想もうそうである』を献呈けんていした。

また、アルテミス・ファウルシリーズ作者さくしゃオーエン・コルファー遺族いぞく公認こうにんの《銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド》シリーズ6さくとされる And Another Thing... を2009ねん10がつ12にち出版しゅっぱんした。

1998ねん発見はっけんされた小惑星しょうわくせいが『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』の主人公しゅじんこう名前なまえアーサー・デントから18610 Arthurdent命名めいめいされた。また、そのかり符号ふごうが「2001 DA42」(没年ぼつねん頭文字かしらもじと『銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド』のキーワード「42」と一致いっちする)である小惑星しょうわくせいが、2005ねんに「25924 Douglasadams」と命名めいめいされている。

伝記でんき

[編集へんしゅう]

死後しご、2003ねんにニック・ウェブにより公式こうしき伝記でんき『Wish You Were Here』が出版しゅっぱんされた。M. J.シンプソンによる伝記でんき『Hitchhiker : A Biography of Douglas Adams』も出版しゅっぱんされたが、両者りょうしゃわせによりウェブはアダムズの人生じんせいについて、シンプソンは作品さくひんについて焦点しょうてんしぼっている。ニール・ゲイマンによる『Don't Panic: Douglas Adams & the Hitchhiker's Guide to the Galaxy』は、1988ねんに「銀河ぎんがヒッチハイクガイド」の公式こうしきガイドとして『Don't Panic: The Official Hitchhikers Guide to the Galaxy Companion』のタイトルで出版しゅっぱんされ、1993ねんにデヴィッド・K・ディクソンにより加筆かひつされて現在げんざい名称めいしょう出版しゅっぱんされ、2003ねんには上記じょうき伝記でんき作者さくしゃであるM. J.シンプソンにより改訂かいてい出版しゅっぱんされた。 映像えいぞうでは『Life, The Universe and Douglas Adams』というドキュメンタリービデオが2002ねんにリリースされている。

BBCからは2004ねんに、アダムズのかかわった作品さくひんあつめた『Douglas Adams at the BBC』がCD3まいぐみされた。

作品さくひんリスト

[編集へんしゅう]

小説しょうせつ

[編集へんしゅう]

銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド》シリーズ

[編集へんしゅう]
  • 銀河ぎんがヒッチハイク・ガイド The HitchHiker's Guide to the Galaxy (1979)
  • 宇宙うちゅうてのレストラン The Restaurant At the End of the Universe (1980)
  • 宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう Life,The Universe and Everything (1982)
  • さようなら、いままでさかなをありがとう So Long, and Thanks for all the Fish (1984)
  • ほとんど無害むがい Mostly Harmless (1992)
  • わかきゼイフォードの安全あんぜんだいいち "Young Zaphod Plays It Safe" (1986) - 短編たんぺん河出かわで文庫ぶんこばん宇宙うちゅうクリケット大戦たいせんそう所収しょしゅう

《ダーク・ジェントリー》シリーズ

[編集へんしゅう]
  • ダーク・ジェントリー全体ぜんたいろんてき探偵たんてい事務所じむしょ Dirk Gently's Holistic Detective Agency (1987)
  • ながくらたましいのティータイム The Long Dark Tea-Time of the Soul (1988)

エッセイ

[編集へんしゅう]

脚本きゃくほん

[編集へんしゅう]

その

[編集へんしゅう]
  • The Meaning of Liff (1983) - John Lloydとの共著きょうちょ
  • The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book (1988) - アダムズとPeter Finchamの編集へんしゅうによるチャリティブック。短編たんぺん "Young Zaphod Plays it Safe"、"The Private Life of Genghis Khan"(1975)、"A Christmas Fairly Story"(1986, テリー・ジョーンズとのともさく)などを収録しゅうろく
  • The Deeper Meaning of Liff (1990) - 表現ひょうげんする言葉ことばがないが、そういう言葉ことばがあるべきだという事物じぶつについての辞書じしょ。John Lloydとの共著きょうちょ
  • The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time (2002) - 未完みかん小説しょうせつ草稿そうこう短編たんぺん小説しょうせつ、エッセイ、インタビューなどを収録しゅうろく

コンピューター・ゲーム

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ FAQ posted to alt.fan.douglas-adams, Groups.google.com. Retrieved 11 August 2009.
  2. ^ Adams 1998; Dawkins 2003, p. 169
  3. ^ Dawkins 2001
  4. ^ Webb 2005a, p. 32
  5. ^ Simpson 2003, p. 9
  6. ^ Adams 2002, p. 7
  7. ^ Douglas Adams, BBC, 21 April 2005, accessed 1 June 2009; Adams 2002, p. xix
  8. ^ Simpson 2003, pp. 30–40
  9. ^ Webb 2005b
  10. ^ Webb 2005a, p. 93
  11. ^ 日本にっぽんでは推理すいり作家さっかとしてられる。
  12. ^ Adams, Douglas (2003). Geoffrey Perkins (ed.), Additional Material by M. J. Simpson. ed. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy: The Original Radio Scripts (25th Anniversary Edition ed.). Pan Books. p. 10. ISBN 0-330-41957-9  - bbc.co.uk のヒッチハイク・ガイドにかんするあるページには、「BBCはアダムズがこれをおもいついたのはスペインだったとしていたが、いまではインスブルックのつづりを我々われわれっている」とある。
  13. ^ Webb 2005a, p. 120
  14. ^ Felch 2004
  15. ^ Simpson 2003, p. 236
  16. ^ Adams, Douglas. (2005). Dirk Maggs, dramatisations and editor. ed. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Radio Scripts: The Tertiary, Quandary and Quintessential Phases. Pan Books. xiv. ISBN 0-330-43510-8 
  17. ^ Ibid. Page 356.
  18. ^ Gaiman, Neil (2003). Don't Panic: Douglas Adams & The Hitchhiker's Guide to the Galaxy (Second U.S. edition ed.). Titan Books. p. 169. ISBN 1-84023-742-2 
  19. ^ A 1990s Doctor Who FAQ.
  20. ^ Dawkins, Richard (17 September 2001). “Lament for Douglas”. Edge. Edge Foundation, Inc.. 2009ねん6がつ1にち閲覧えつらん
  21. ^ Adams 2002, p. xviii
  22. ^ Webb 2005a, p. 49
  23. ^ Adams, Douglas (8 February 1996). “Text of one of Douglas Adams's introductions of Procol Harum in concert”. 2006ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  24. ^ Internet Movie Database's page for Hyperland.
  25. ^ Silverman, David. Life, the Universe, and Everything: An Interview with Douglas Adams, The American Atheist Volume 37, No. 1, 1998–1999. Retrieved 16 August 2009.
  26. ^ Bunce, Kim (5 November 2006). “Observer, ''The God Delusion'', 5 November 2006”. London: Books.guardian.co.uk. http://books.guardian.co.uk/reviews/roundupstory/0,,1939704,00.html 1 June 2009閲覧えつらん 
  27. ^ Cavalieri, Paola and Peter Singer, editors (1994). The Great Ape Project: Equality Beyond Humanity (U.S. Paperback ed.). St. Martin's Griffin. pp. 19–23. ISBN 0-312-11818-X 
  28. ^ The Ninth Douglas Adams Memorial Lecture.
  29. ^ Simpson 2003, pp. 184–5
  30. ^ Adams, Douglas and Mark Carwardine (1991). Last Chance to See (First U.S. Hardcover ed.). Harmony Books. p. 59. ISBN 0-517-58215-5 
  31. ^ Adams 2002, pp. 90–91
  32. ^ Adams's final post on his forums at”. Douglasadams.com. 1 June 2009閲覧えつらん
  33. ^ alt.fan.douglas-adams access through Google's newsgroup reader.
  34. ^ Cassel, David (2001ねん5がつ15にち). “So long, Douglas Adams, and thanks for all the fun”. Salon.com. Salon Media Group. 2008ねん3がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  35. ^ Webb 2005a, Chapter 10
  36. ^ Los Angeles News – Lots of Screamingly Funny Sentences. No Fish. – page 1”. Laweekly.com (24 May 2001). 2009ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  37. ^ Simpson 2003, pp. 337–8
  38. ^ Parrots, the universe and everything recorded May 2001.
  39. ^ Transcript of "Parrots, the universe and everything"
  40. ^ Gaiman 2005, p. 204
  41. ^ Douglas Adams' Service of Celebration clips on the BBC website.
  42. ^ Murray, Charles Shaar (10 May 2002). “The Salmon of Doubt by Douglas Adams”. The Independent (London). http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-salmon-of-doubt-by-douglas-adams-650803.html 2009ねん8がつ2にち閲覧えつらん 
  43. ^ “Cover Stories: Douglas Adams, Narnia Chronicles, Something like a House”. The Independent (London). (5 January 2002). http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/features/cover-stories-douglas-adams-narnia-chronicles-something-like-a-house-672250.html 2009ねん8がつ2にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]