(Translated by https://www.hiragana.jp/)
七博士意見書 - Wikipedia コンテンツにスキップ

なな博士はかせ意見いけんしょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

なな博士はかせ意見いけんしょ(しちはくしいけんしょ)とは、にち戦争せんそう開戦かいせん直前ちょくぜん1903ねん明治めいじ36ねん6がつ10日とおかづけ当時とうじ内閣ないかく総理そうり大臣だいじんかつら太郎たろう外務がいむ大臣だいじん小村こむら壽太郎じゅたろうらに提出ていしゅつされた意見いけんしょ

経緯けいい[編集へんしゅう]

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ戸水とみず寛人ひろと富井とみい政章まさあき小野塚おのづか喜平きへい高橋たかはし作衛さくえ金井かないのべ寺尾てらおとおる学習がくしゅういん教授きょうじゅ中村なかむらすすむうまの7にん[注釈ちゅうしゃく 1]によってかれた。6月11にち東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん一部いちぶ掲載けいさいされ、6月24にちには東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん4めん全文ぜんぶん掲載けいさいされた。内容ないようかつら内閣ないかく外交がいこう軟弱なんじゃくであると糾弾きゅうだんして「満州まんしゅう朝鮮ちょうせんうしなえば日本にっぽん防御ぼうぎょあやうくなる」とし、ロシアの満州まんしゅうからの完全かんぜん撤退てったいとなえ、たい武力ぶりょく強硬きょうこう路線ろせん選択せんたくせまったものであった。

この意見いけんしょ主戦しゅせんろん主流しゅりゅう世論せろん沿ったもので、反響はんきょうおおきかったが、伊藤いとう博文ひろぶみは「我々われわれしょ先生せんせい卓見たっけんではなく、大砲たいほうかず相談そうだんしているのだ」と冷淡れいたんだったという。

なお、戸水とみずにち戦争せんそう末期まっき賠償金ばいしょうきん30おくえん樺太からふと沿海州えんかいしゅうカムチャッカ半島はんとう割譲かつじょう講和こうわ条件じょうけんとするように主張しゅちょうしたため、文部もんぶ大臣だいじん久保田くぼたゆずる1905ねん明治めいじ38ねん)8がつ文官ぶんかん分限ぶげんれい適用てきようして休職きゅうしょく処分しょぶんとした。ところが、戸水とみず金井かない寺尾てらお連名れんめいポーツマス条約じょうやく反対はんたいする上奏じょうそうぶんみや内省ないせいたいして提出ていしゅつしたため、久保田くぼた東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく総長そうちょう山川やまかわ健次郎けんじろう依願いがん免職めんしょくかたち事実じじつじょう更迭こうてつした。これをけて、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく京都きょうと帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ大学だいがく自治じち学問がくもん自由じゆうへの侵害しんがいとしてそう辞職じしょく宣言せんげんした。このため、翌年よくねん1がつ戸水とみず復帰ふっきみとめられた(「戸水とみず事件じけん」)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 東大とうだいなな博士はかせ」とわれるが中村なかむら学習がくしゅういん教授きょうじゅであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 宮武みやたけみのる知子ともこ「「みかどだいなな博士はかせ事件じけん」をめぐる輿論よろん世論せろん: メディアと学者がくしゃあい共生きょうせい事例じれいとして」マス・コミュニケーション研究けんきゅう70、2007ねん1がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]