安達あだち

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安達あだちやすしむねから転送てんそう

安達あだち(あだちし、あだちうじ)は、日本にっぽん氏族しぞくのひとつ、藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅう藤原ふじわらきた山蔭やまかげりゅう坂上さかがみざか上流じょうりゅう高句麗こうくりこく王族おうぞく末裔まつえいとうしょうする。

武蔵むさしこく安達あだち[編集へんしゅう]

安達あだち
家紋
六連むつれぜにろくれんせん
本姓ほんせい しょう藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅう
いえ 安達あだち盛長もりなが
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 不明ふめい
おも根拠地こんきょち 上野うえのこく
武蔵むさしこく
出羽でわこく
著名ちょめい人物じんぶつ 安達あだち泰盛やすもり
さとしやまあま
支流しりゅう分家ぶんけ だい曾禰武家ぶけ
関戸せきと武家ぶけ
大室おおむろ武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

藤原ふじわらきたぎょ名流めいりゅうしょうする。武蔵むさしこく本拠ほんきょとして鎌倉かまくら幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにん輩出はいしゅつした氏族しぞく鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん家紋かもんれんぜに

平安へいあん時代じだい末期まっき[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん安達あだちふじ九郎くろう盛長もりながは、平治へいじ元年がんねん1160ねん)の平治へいじらんやぶ伊豆いずこく流罪るざいとなったみなもと頼朝よりとも従者じゅうしゃとしてつかえ、頼朝よりとも挙兵きょへいともな各地かくち坂東ばんどう武士ぶしだん招集しょうしゅうにあたり、鎌倉かまくら幕府ばくふ樹立じゅりつ尽力じんりょくした。盛長もりながちちは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくさかなめい公孫こうそんによれば小野田おのだ三郎さぶろう兼広かねひろであるが、しんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい底本ていほんである前田まえだ所蔵しょぞうりん訂正ていせい折本おりほんによれば、小野田おのだ三郎さぶろうけんもりとある。盛長もりながは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくさかなめい公孫こうそんによれば、足立あだち六郎ろくろう小野おの田藤たふじ九郎くろうしょうしている。盛長もりなが以前いぜん家系かけい系図けいずによってことなり、はっきりしないが、あに藤原ふじわらとおけんあに足立あだちとおもとである。盛長もりなが藤原ふじわらくにどおり平家ひらか筑前ちくぜんぼう良心りょうしんなど京都きょうと人物じんぶつふかつながりをゆうしており、藤原ふじわら末流ばつりゅうしょうしていた。『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』には藤原ふじわらいん末裔まつえいとする記述きじゅつがある。

鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんき[編集へんしゅう]

盛長もりなが晩年ばんねんころから安達あだち名字みょうじ名乗なのる。由来ゆらいは『吉見よしみ系図けいず』によれば比企ひき所縁しょえん武蔵むさしこく足立あだちぐん由来ゆらいするとう。また奥州おうしゅう合戦かっせん以降いこう陸奥みちのくこく福島ふくしまけん安達あだちぐんりょうしてほんぬきとしたことによるともかんがえられており、はっきりしていない。鎌倉かまくらなかあまなわ屋地やちあたえられてやしきかまえ、安達あだちてい将軍家しょうぐんけがたびたび渡御とぎょするかり御所ごしょとなった。盛長もりなが景盛かげもりは3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともとそのはは北条ほうじょう政子まさこ信頼しんらいあつ側近そっきんとしてつかえた。景盛かげもりむすめ松下まつした禅尼ぜんには3だい執権しっけん北条ほうじょうやすしとき嫡子ちゃくし北条ほうじょうとつぎ、4だい執権しっけん北条ほうじょう経時きょうじ、5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆきむ。たからおさむ元年がんねん1247ねん)のたからおさむ合戦かっせん有力ゆうりょく御家人ごけにん三浦みうら排斥はいせきし、執権しっけん北条ほうじょう外戚がいせきとして安達あだち地位ちいかためた。景盛かげもり以降いこう秋田あきたじょうかいかん世襲せしゅうした[1]初代しょだい盛長もりなが通称つうしょうであった「九郎くろう」は安達あだち嫡子ちゃくし呼称こしょうとなり、家職かしょくとなった秋田あきたじょうかいの「しろ」をかんして「じょう九郎くろう」ともばれた。

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきから末期まっき[編集へんしゅう]

4だい泰盛やすもりは、ときよりゆき嫡子ちゃくし北条ほうじょう時宗じしゅうとしはなれた実妹じつまいさとしやまあま)を養女ようじょ猶子ゆうし)としてとつがせた。さとしやまあまは9だい執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき[1]泰盛やすもり時宗じしゅうしゅうと貞時さだとき外祖父がいそふとして北条ほうじょう以外いがいではさい有力ゆうりょく御家人ごけにん一人ひとりとなる。もとさいして越訴えっそ奉行ぶぎょう恩賞おんしょう奉行ぶぎょうつとめた。『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば』で、肥後ひごこく御家人ごけにん竹崎たけざきちょう恩賞おんしょうもとめるうったえを場面ばめんは、鎌倉かまくらあまなわ安達あだちていえがいたものである。時宗じしゅう死後しご弘安ひろやす徳政とくせいとよばれる幕政ばくせい改革かいかくかれ主導しゅどうしたといわれる。北条ほうじょうとくむねいえつかえる御内おんうちじん代表だいひょうであるうち管領かんりょう平頼綱たいらのよりつな対立たいりつし、弘安ひろやす8ねん1285ねん)、頼綱よりつな讒言ざんげんにより、執権しっけんとなった貞時さだときいのち泰盛やすもりたれ、その一族いちぞく500めいあまりも男女だんじょ老若ろうにゃくわず虐殺ぎゃくさつされた(霜月しもづき騒動そうどう)。

平頼綱たいらのよりつなひら禅門ぜんもんらん貞時さだときほろぼされたのち泰盛やすもりおとうとあらわもりまごにあたる安達あだちあらわ秋田あきたじょうかい補任ほにんされ、安達あだちやすしむねむすめさとしうみえんなり)が貞時さだときとついで14だい執権しっけん北条ほうじょうだかみ、ふたた北条ほうじょうとくむねいえ外戚がいせきとして長崎ながさきえんらととも幕政ばくせい関与かんよした。幕府ばくふ滅亡めつぼうにあたりときあらわ北条ほうじょう一門いちもんともひがししょうてら自害じがいした。ときあらわこうけい北方ほっぽうのがれて北条ほうじょう残党ざんとうとも反乱はんらんこしている。

こよみおう3ねん1340ねん)に熱田あつた神宮じんぐう社領しゃりょう尾張おわりこく小舟こぶね津里つのさとを「じょう九郎くろう直盛なおもり」が押領している記録きろくがあり、じょう九郎くろう直盛なおもり足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし天龍寺てんりゅうじ供養くよう同席どうせきしている。通称つうしょうから安達あだちのこりとられる。

こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば』にえがかれた鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき安達あだちあまなわてい

系譜けいふ[編集へんしゅう]

太字ふとじ当主とうしゅ実線じっせん実子じっし
小田野おだの兼広かねひろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原ふじわらとおけん安達あだち盛長もりなが1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足立あだちとおもと景盛かげもり2時長ときなが
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松下まつした禅尼ぜんに義景よしかげ3だい曾禰ちょうやすし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よりゆきけいけいむら泰盛やすもり4どきもりあらわもりちょうけいさとしやまあま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武藤むとうけいやすし大室おおむろやすしむね宗景むねかげ5もりはじめ千代野ちよのそうあらわ
 
 
 
 
 
 
 
さとしうみえんなりさだやすしときあらわ6
 
 
 
こうけい7

越後えちごこく安達あだち[編集へんしゅう]

安達あだちあんたて
ふりちがたか
本姓ほんせい 不明ふめい
いえ もとなり
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 不明ふめい
おも根拠地こんきょち 越後えちごこく三島みしまぐん
著名ちょめい人物じんぶつ 安達あだちしげるなな
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

越後えちごこく安達あだちのいいつたえでは、越後えちご安達あだちであるもとなりは、平家ひらか使つかえ、讃岐さぬきこく屋島やしまきた屋島やしませんいでの敗北はいぼく落人おちうどとして越後えちごこくうつり、江戸えど帰農きのうしたという[2]

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょき[編集へんしゅう]

越後えちごこく安達あだちであるもとなりは、平家へいけ平清盛たいらのきよもりおとうとけん大納言だいなごんどきただし奉公ほうこうするも、能登のと配流はいるけん大納言だいなごん文治ぶんじ5ねん1189ねん)により、一子かずこもとつま実家じっかである越後えちごこく多岐たき神社じんじゃ社司しゃし高階たかしなていはんたよって越後えちごこく三嶋みしまぐんまでたがそこで病死びょうしした。[2]

桃山ももやま時代じだい末期まっきから江戸えど時代じだい初期しょき[編集へんしゅう]

慶長けいちょうさんねん(1598ねん)「片貝かたかいむら検地けんちとばり[3]居屋敷いやしきこうすけみぎ衛門えもんじょう記載きさいがある。

慶長けいちょうじゅうきゅうねん(1614ねん高田たかだはんおも松平まつだいらただしてるより池津いけつ郷士ごうしあたま石黒いしぐろ左近さこんちゅうあての「さとへいとばりうつし」[4]には、「組頭くみがしらへんかい 安達あだち助右衛門すけえもん」の記載きさいがある。

著名ちょめい人物じんぶつ[編集へんしゅう]

安達あだちしげるなな(1841ねん-1887ねん越後えちごこく三島みしまぐん片貝かたかいむら出身しゅっしん幕末ばくまつ下野げやこく日光にっこうにてすぎ線香せんこう日本にっぽん量産りょうさん成功せいこうした。家紋かもんふりちがたか[5]

石黒いしぐろひさ賀子かこ(1846ねん-1925ねん) 本姓ほんせい安達あだち安達あだち助右衛門すけえもんはじめ次女じじょ越後えちごこく片貝かたかいむら同郷どうきょう石黒いしぐろ忠悳ただのりとついでいる。[6] 赤十字せきじゅうじしゃ特別とくべつ社員しゃいん

陸奥みちのくこく安達あだち[編集へんしゅう]

安達あだち
家紋
ひだりどもえ
本姓ほんせい 坂上さかがみりゅう
いえ 安達あだち五郎ごろう坂上さかがみ滋野しげの
種別しゅべつ 地方ちほう豪族ごうぞく
おも根拠地こんきょち 陸奥みちのくこく安達あだちぐん
著名ちょめい人物じんぶつ

坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ

安達あだち五郎ごろう
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

陸奥みちのくこく二本松にほんまつ信夫しのぶのこ安達あだち太良たら伝説でんせつ山岳さんがく信仰しんこう万葉集まんようしゅう(629ねん‐759ねん)のうたにある現在げんざい福島ふくしまけるあんふとし多良たらまたはアタタ、アタチの地名ちめい[7]との関係かんけい氏族しぞく現存げんそんする史料しりょうによると安達あだち名称めいしょうとしてはもっとふる氏族しぞく

坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ源流げんりゅうとする坂上さかがみりゅう安達あだち[編集へんしゅう]

奥州おうしゅう安達あだちぐんよりおこいえ安達あだち五郎ごろう氏族しぞくである。安達あだち五郎ごろう本姓ほんせい坂上さかがみ滋野しげのとし、征夷大将軍せいいたいしょうぐん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろなんである。

坂上さかがみ系図けいずに「田村たむら麻呂まろ滋野しげの安達あだち五郎ごろうはじめて陸奥みちのくこく安達あだちぐんむ。子孫しそん奥州おうしゅう繁栄はんえいぐんきょう豪傑ごうけつとなり坂上さかがみごうす」[8]とある。また京都きょうと清水寺きよみずでら蔵本ぞうほんに「滋野しげの大納言だいなごん五男いつお・宇安達あだち五郎ごろう」の記載きさいがある。

岩手大学いわてだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ板橋いたばしはじめによると、同氏どうしぞく来歴らいれき安達あだちぐん成立せいりつねん延喜えんぎねん(906ねん)以後いごとされている。[9]


陸奥みちのくこくこまづくり安達あだちれん(あだちのむらじ)[編集へんしゅう]

安達あだちれん(あだちのむらじ)
家紋
高句麗こうくりこくさんそくがらす
本姓ほんせい こままたはこう
いえ こまづくり麻呂まろ
種別しゅべつ きゅう外国がいこく王族おうぞく豪族ごうぞく
出身しゅっしん 岩代いわしろ国安くにやすつもるぐん安達あだちぐん
著名ちょめい人物じんぶつ 高句麗こうくり国王こくおうぞくおっとれんおう
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

高句麗こうくりこくおっとれんおう福貴ふきくん)の末裔まつえいしょうし、こまこまづくり[10]一派いっぱ山城やましろこく相楽さがらぐんから陸奥みちのくいた百姓ひゃくしょうとなり、うけたまわ10ねん(843ねん)に陸奥みちのく安達あだちれん(みちのくのあだちのむらじ)を朝廷ちょうていよりあたえられたことこる氏族しぞくいえこまづくり麻呂まろ[11]

ぞく日本にっぽん/まきだいじゅうさんうけたまわいちねん(843ねんいちいちがついちろくにち安積あさかぐん百姓外少初位下狛造子押麻呂戸一烟」[12]陸奥むつ安達あだちれんあたえている。と記載きさいがある。安達あだち地名ちめい安達あだちぐんから。

れん(むらじ)とは古代こだい日本にっぽんせい制度せいどいて大和やまと朝廷ちょうてい従属じゅうぞくする日本にっぽん有力ゆうりょく地方ちほう豪族ごうぞく天皇てんのう(朝廷ちょうてい)があたえたせいひとつである。843ねんいてれんはちしょくせい(やさくのかばね)のうちだいななとされていた。






その全国ぜんこく安達あだち[13][編集へんしゅう]

讃岐さぬき安達あだち[編集へんしゅう]

讃岐さぬきこく山田西やまだにし分村ぶんそんの七郎岡城城主安達七郎常清之又、三日みっかじょうつねきよししばじょうとある。

げい安達あだち[編集へんしゅう]

げいはんどおりこころざしに「花原はなはらじょう安達あだち輿こしさん左衛門さえもんところ」とある。

丹波たんば安達あだち[編集へんしゅう]

丹波たんばこころざしに「安達あだち古城こじょう遠坂とおさかしろあり、」どうぐん足立あだち同族どうぞくか、とう城主じょうしゅきょうすけゆみまもる達人たつじん也という。また玄蕃げんば和泉いずみもりとある。

三河みかわ安達あだち[編集へんしゅう]

三河みかわこくいわさわぐん渡刈とがりじょう城主じょうしゅ安達あだちみぎすけ三河そうごこく守護しゅご安達あだち末裔まつえい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 安達あだち. コトバンクより2022ねん12月29にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 栃木とちぎ新聞しんぶん安達あだち古里ふるさと福島ふくしまけん)』栃木とちぎ新聞しんぶん、1988ねん12月12にち 
  3. ^ 居屋敷いやしきこう」『片貝かたかいむら検地けんちちょう秀治しゅうじ、1598ねん7がつ 
  4. ^ 高田たかだ藩主はんしゅ松平まつだいらただしてるより池津いけつ郷士ごうしあたま石黒いしぐろ左近さこんちゅうあての「さとへいちょううつし」、高田たかだはん、1614ねん
  5. ^ コラムその意気いきや、たけし”. www.tkc.co.jp. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  6. ^ 懐舊かいきゅうきゅうじゅうねん博文ひろぶみかん、2がつ 1936、59.60ぺーじ 
  7. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  8. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  9. ^ 板橋いたばし みなもと岩手大学いわてだいがく学芸がくげい学部がくぶ研究けんきゅう年報ねんぽう箪10かん(1956)だい1 坂上さかがみだい宿禰すくね田村たむら麻呂まろこう岩手大学いわてだいがく学芸がくげい学部がくぶ、1956、49-50ぺーじ 
  10. ^ JAPAN, 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ公文書こうぶんしょかん | NATIONAL ARCHIVES OF. “新撰しんせん姓氏せいしろく”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん デジタルアーカイブ. 2023ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  11. ^ 陸奥むつ南部なんぶにおけるわたし手工業しゅこうぎょう生産せいさん”. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん福島ふくしまけん文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  12. ^ ぞく日本にっぽん/まきだいじゅうさん - 维基ぶん库,自由じゆうてき图书馆” (中国ちゅうごく). zh.wikisource.org. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  13. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん2がつ25にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]