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城代しろだい

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定番ていばん (役職やくしょく)から転送てんそう

城代しろだい(じょうだい)とは、中世ちゅうせいから近世きんせい日本にっぽん大名だいみょうから城郭じょうかくおよ周辺しゅうへん領土りょうど守備しゅびまかされた家臣かしんをいう。城主じょうしゅ留守るすなか代理だいりとしてしろ管理かんりしたもの近世きんせいには留守居るすいあたま(るすいがしら)・だい留守居るすい(おおるすい)などの別称べっしょうでもばれる。

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいには守護しゅご守護しゅごだいなどから発展はってんしていちこく以上いじょう支配しはい領域りょういきをもつ地域ちいき権力けんりょくである戦国せんごく大名だいみょう出現しゅつげんし、戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく支配しはいにおいては直轄ちょっかつりょうのうち拠点きょてん城郭じょうかくであるささえじょう防備ぼうびささえじょう付属ふぞくするささえじょうりょう支配しはいについて、大名だいみょう当主とうしゅから公権力こうけんりょく一部いちぶ分与ぶんよされた家臣かしん城代じょうだいばれ、城代じょうだい支配しはいする領域りょういき城代しろだいりょうばれる。

また、東国とうごくにおいて戦国せんごく大名だいみょう支配しはい領域りょういきは「ぐん」を単位たんい区分くぶんされかくぐんごとに公事こうじしょやく賦課ふかおさむおこな郡代ぐんだい存在そんざいし、城代じょうだい郡代ぐんだいのもつ公事こうじかた賦課ふかおさむけんねた存在そんざいであったとかんがえられている[1]みなみ九州きゅうしゅうではささえじょう城代じょうだい地頭じとうんでいた地域ちいきがあった。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふいた城代じょうだい以下いかの5つだが、どう時期じきいた城代じょうだいかず最大さいだい3つで、江戸えど時代じだい前期ぜんきから幕末ばくまつまで200ねん以上いじょういた城代じょうだい大坂おおさか城代じょうだい駿府すんぷ城代じょうだいの2つだった。

伏見ふしみ城代じょうだい伏見ふしみじょうはいじょうともなって廃止はいしされ、廃止はいし伏見ふしみ城代じょうだいだった内藤ないとう信正のぶまさ初代しょだい大坂おおさか城代じょうだいとなった。大坂おおさか城代じょうだい将軍しょうぐん直属ちょくぞく役職やくしょく譜代ふだい大名だいみょう任命にんめいされ、駿府すんぷ城代じょうだい老中ろうじゅう支配しはい役職やくしょく大身たいしん旗本はたもと任命にんめいされた。幕府ばくふ役職やくしょくとしての駿府すんぷ城代じょうだいは1633ねん寛永かんえい10ねん)に着任ちゃくにんした大久保おおくぼただしなり初代しょだいとされる。1634ねん寛永かんえい11ねん)の徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらく以降いこう大番おおばん12くみのうち2くみじょうざいばんとして二条城にじょうじょうくこととなり、二条城にじょうじょうだい廃止はいし城代じょうだい職務しょくむ二条にじょうざいばん担当たんとうした。甲府こうふ城代じょうだい甲府こうふ勤番きんばん廃止はいしともなってかれた。

しょはん[編集へんしゅう]

また、しょはんにおいては、国持くにもち大名だいみょうまたは城主じょうしゅ大名だいみょう参勤交代さんきんこうたい不在ふざいおり国元くにもと居城きょじょう留守番るすばんつとめる家臣かしんのうち、家老がろうしょく筆頭ひっとうもの城代じょうだい兼帯けんたい城代しろだい家老がろうぶことがあった。もっとも時期じきはんにより、城代じょうだい筆頭ひっとう家老がろう別々べつべつ存在そんざいする場合ばあいもあった。武鑑ぶかんでは江戸えど時代じだい後期こうきから幕末ばくまつ城代じょうだい掲載けいさいされるはんもある。

薩摩さつまはん飫肥おびはんでは一国一城いっこくいちじょうれい以降いこうささえじょう城代じょうだいである地頭じとう職名しょくめいのこった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 丸島まるしま和洋わよう戦国せんごく大名だいみょう武田たけだ領域りょういき支配しはいと「郡司ぐんじ」-信濃しなのこく諏方すわぐん支配しはい事例じれいとして-」『史学しがく』75かん2・3合併がっぺいごう、2007ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]