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尖石・与助尾根遺跡 - Wikipedia コンテンツにスキップ

とんがいし与助よすけ尾根おね遺跡いせき

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とんがいし遺跡いせきから転送てんそう
とんがいし遺跡いせき現状げんじょう(2012ねん10がつ撮影さつえい

座標ざひょう: 北緯ほくい3600ふん46.1びょう 東経とうけい13813ふん55.4びょう / 北緯ほくい36.012806 東経とうけい138.232056 / 36.012806; 138.232056

尖石・与助 尾根遺跡の位置(長野県内)
尖石・与助 尾根遺跡
とんがいし与助よすけ
尾根おね遺跡いせき

とんがいし与助よすけ尾根おね遺跡いせき(とがりいし・よすけおねいせき)は、長野ながのけん茅野ちの豊平とよひらにある縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうき環状かんじょう集落しゅうらく遺跡いせき南側みなみがわとんがいし遺跡いせき戦前せんぜんから発掘はっくつされてきた縄文じょうもん時代じだい代表だいひょうする遺跡いせきの1つとしてられているが、現在げんざいではどう遺跡いせきあささわ1つへだてた北側きたがわ台地だいちじょうにある与助よすけ尾根おね遺跡いせき一括いっかつしてあつかわれることがおおい。「とんがいし」の名称めいしょう遺跡いせき南側みなみがわにあったさん角錐かくすいじょう巨石きょせき通称つうしょう由来ゆらいする。遺跡いせき周辺しゅうへん史跡しせき公園こうえんとなり、園内えんないには茅野ちのとんがいし縄文じょうもん考古こうこかんがある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

とんがいし遺跡いせきから出土しゅつどした蛇体じゃたい把手とってづけ土器どき
とんがいし遺跡いせき名前なまえ由来ゆらいとなったとんがいし(とがりいし)

八ヶ岳やつがだけ西側にしがわ山麓さんろく地帯ちたいだい扇状地せんじょうちじょうにある標高ひょうこう1050-70メートルの東西とうざいひろがるなが台地だいちうえにある。前述ぜんじゅつのように台地だいち中央ちゅうおうさわはしり、北側きたがわ与助よすけ尾根おね南側みなみがわとんがいしにあたる。とんがいし遺跡いせき最初さいしょ学界がっかい報告ほうこくしたのは1893ねん明治めいじ26ねん考古こうこ学者がくしゃ小平こだいら小平しょうへい湖東ことうむら出身しゅっしん)によってであるが、本格ほんかくてき発掘はっくつ調査ちょうさおこなったのは地元じもと考古こうこ学者がくしゃ宮坂みやさかえい(ふさかず)である[1]宮坂みやさかとう遺跡いせきとかかわったのは、1929ねん昭和しょうわ4ねん)、伏見ふしみ博英ひろひでおこなっていた発掘はっくつを、小平こだいら小平しょうへいおとうとで、俳句はいくである小平こだいら雪人せつじんとともに手伝てつだったのが最初さいしょである[2]。1930ねん昭和しょうわ5ねん)から独力どくりょく発掘はっくつ開始かいしし、同年どうねんにはあと発掘はっくつ。1940ねん昭和しょうわ15ねん)からは、縄文じょうもん集落しゅうらく確認かくにん目的もくてきとして本格ほんかくてき発掘はっくつ開始かいしし、途中とちゅう太平洋戦争たいへいようせんそうはさんで発掘はっくつ1952ねん昭和しょうわ27ねん)までつづけられた[3]。また、1946ねんには与助よすけ尾根おね発掘はっくつにもかった。与助よすけ尾根おね1935ねん昭和しょうわ10ねん)に現地げんち開墾かいこんちゅう発見はっけんされたものであったが、このときまでほとんど手付てつかずであった。

宮坂みやさか縄文じょうもん土器どきおよいしかこえ手掛てがかりに建物たてもの住居じゅうきょ)をさがすもので、とんがいしでは竪穴たてあな建物たてものあと33むねをはじめ、53あと列石れっせき竪穴たてあなぐん屋外おくがいうめなどが発掘はっくつされたが、土器どきくら石器せっき出土しゅつど極端きょくたんすくなく、とく石鏃せきぞく(41)がすくなく、せい石斧せきふ45、破片はへん8がつかっている。また、与助よすけ尾根おねでも28むね建物たてもの石鏃せきぞく10、せい石斧せきふ14、破片はへん4、すりせい石斧せきふいしさら、凹石など多数たすう発掘はっくつしている。宮坂みやさかは、ワナりょうとクリりん黒曜石こくようせき交易こうえきおこなわれていたとかんがえた。それにたいし、藤森ふじもり栄一えいいち狩猟しゅりょう採集さいしゅう以外いがいなにかの生業せいぎょうたとえば焼畑やきばた農業のうぎょう存在そんざいしたのではないかとかんがえた。

この集落しゅうらく遺跡いせきは、東西とうざい170メートル・南北なんぼく90メートルの範囲はんいをU字形じけいめぐ中央ちゅうおう広場ひろば存在そんざいしていたことが判明はんめいし、これによって日本にっぽん最初さいしょ縄文じょうもん時代じだい環状かんじょう集落しゅうらく存在そんざい確認かくにんされた遺跡いせきとなった。

とう遺跡いせきは、「とんがいし石器せっき時代じだい遺跡いせき」の名称めいしょうで1942ねん10がつ14にちくに史跡しせき指定していされた。宮坂みやさか尽力じんりょくによって、とう遺跡いせきは「縄文じょうもん集落しゅうらく研究けんきゅう原点げんてん」とされる重要じゅうよう遺跡いせき位置いちづけられ、1952ねん3がつ29にちには文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづき特別とくべつ史跡しせき指定してい。1993ねん4がつ6にちには与助よすけ尾根おね遺跡いせき区域くいき特別とくべつ史跡しせき追加ついか指定していされた。追加ついか指定していぶんふく特別とくべつ史跡しせき指定してい範囲はんい面積めんせきは66,933.405平方へいほうメートルである[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 茅野ちの、2016)、p.50
  2. ^ 宮坂みやさかえい弌の軌跡きせき(1) とんがいし遺跡いせきとの出会であとんがいし縄文じょうもん考古こうこかんサイト)
  3. ^ 茅野ちの、2016)、pp.31, 50 - 53
  4. ^ 茅野ちの、2016)、pp.31 - 32

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 宮坂みやさか光昭みつあきとんがいし遺跡いせき」(『日本にっぽん古代こだい遺跡いせき事典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねんISBN 978-4-642-07721-7
  • 鵜飼うかい幸雄ゆきおとんがいし与助よすけ尾根おね遺跡いせき」(『縄文じょうもん時代じだい研究けんきゅう事典じてん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1994ねんISBN 978-4-490-10377-9
  • 岡田おかだ茂弘しげひろとんがいし遺跡いせき」(『国史こくしだい辞典じてん 10』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねんISBN 978-4-642-00510-4
  • 戸沢とざわたかしのりとんがいし遺跡いせき」(『日本にっぽんだい事典じてん 5』(平凡社へいぼんしゃ、1993ねんISBN 978-4-582-13105-5
  • 藤森ふじもり栄一えいいちとんがいしおに」(『考古こうこがくとともに』講談社こうだんしゃ、1970ねん
  • 特別とくべつ史跡しせきとんがいし石器せっき時代じだい遺跡いせき」の保存ほぞん管理かんり計画けいかく』、茅野ちの教育きょういく委員いいんかい編集へんしゅう発行はっこう、2016(茅野ちのサイトからダウンロード。)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]