我国わがくに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかにすべきや

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国会こっかい議事堂ぎじどう

我国わがくに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかにすべきや[注釈ちゅうしゃく 1](わがくにしょうらいのけんちくようしきをいかにすべきや)は、1910ねん明治めいじ43ねん)、日本にっぽんの「建築けんちく学会がっかい」(げん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい)が2にわたり主催しゅさいした討論とうろんかいである。その議題ぎだいから「様式ようしき論争ろんそう」ともばれる[1]

建築けんちく学会がっかい発足ほっそくして以来いらいはじめての討論とうろんかいであるこの論争ろんそう[2]帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう建設けんせつのためのコンペティション実現じつげんさせるためのロビー活動かつどう一環いっかんとしておこなわれたものである。議院ぎいん建築けんちく様式ようしきにふさわしい「国民こくみんてき様式ようしき」とはいかなるものかという問題もんだいをひとつのくちとしつつ、よりひろく日本にっぽん建築けんちく将来しょうらいについてろんじることがその目的もくてきであった。2かい討論とうろんかいにはいずれも100にんえる人員じんいんあつまり[3]喧々囂々けんけんごうごう議論ぎろんがおこなわれた。しかし、結果けっかてき議論ぎろんは「意見いけん発表はっぴょうかい」のいきないものとなり、学会がっかいとしてのまとまった結論けつろん見出みいだすことはできなかった。また、のちに建造けんぞうされることとなる議事堂ぎじどう建築けんちくに、こうした議論ぎろんかされることもなく、どう討論とうろんかい当初とうしょ目的もくてきたすという意味いみにおいてはまったく失敗しっぱいしたものであった。

一方いっぽうで、様式ようしき論争ろんそうでかわされた議論ぎろんは、当時とうじ建築けんちくかい思想しそう思潮しちょうをつよく反映はんえいするものであり、日本にっぽん建築けんちくにおいては「ただ西洋せいよう模倣もほうするのみにとどまっていた日本にっぽん建築けんちくが『建築けんちくろん』を志向しこうしはじめた時代じだい象徴しょうちょうてき出来事できごと」として評価ひょうかされている。

背景はいけい[編集へんしゅう]

五十嵐いがらし太郎たろうはこの論争ろんそうについて「現在げんざいからると、『国家こっか』と『様式ようしき』がダイレクトに連結れんけつしてかたられていることがおどろきだろう。また意匠いしょう歴史れきしが、問題もんだい構成こうせいとして連続れんぞくしていることも注目ちゅうもくすべきだ」とろんじる。こうした議題ぎだい成立せいりつした時代じだい背景はいけいを、五十嵐いがらし日本にっぽん国家こっか意識いしき芽生めばえた19世紀せいき後半こうはんが、建築けんちくてきには歴史れきし主義しゅぎ建築けんちく様式ようしき建築けんちく)の時代じだいかさなっていたことにもとめる[4]。このふしでは、討論とうろんかいがおこなわれるにいたるまでの日本にっぽん近代きんだい建築けんちくについて、論争ろんそう直接的ちょくせつてき契機けいきである帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう建設けんせつかんする事項じこう中心ちゅうしん概説がいせつする。

かり議事堂ぎじどう建設けんせつほん議事堂ぎじどう設立せつりつ建議けんぎ[編集へんしゅう]

エンデ&ベックマンによる国会こっかい議事堂ぎじどう計画けいかく
1あん
2あん

1881ねん明治めいじ14ねん)、明治天皇めいじてんのう国会こっかい開設かいせつみことのりさとしし、1890ねん明治めいじ23ねん)に帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつされることが決定けっていした[5][6]井上いのうえかおる1886ねん明治めいじ19ねん)、首都しゅと改造かいぞう計画けいかくである官庁かんちょう集中しゅうちゅう計画けいかく主導しゅどうし、その一環いっかんとしてヘルマン・エンデヴィルヘルム・ベックマン国会こっかい議事堂ぎじどう設計せっけいさせた[6][注釈ちゅうしゃく 2]かれらはネオバロック様式ようしき英語えいごばんの1あん提出ていしゅつするも、当初とうしょ想定そうていされていた外壁がいへき切石きりいし調達ちょうたつ疑問ぎもんされたこと、日本にっぽん在住ざいじゅう西洋せいようじん和風わふう建築けんちくとの調和ちょうわうったえたこと[7]、また、エンデとベックマン自身じしん来日らいにちして日光にっこう奈良なら京都きょうとめぐったことで、1あん骨格こっかくえずに表面ひょうめん意匠いしょう和風わふうにする2あんさい提出ていしゅつされた[7][8]。しかし、1887ねん明治めいじ20ねん)に発案はつあんしゃである井上いのうえ失脚しっきゃくしたため官庁かんちょう集中しゅうちゅう計画けいかくえとなり[9]、この国会こっかい議事堂ぎじどうあん実現じつげんすることはなかった[6]

かり議事堂ぎじどう
初代しょだい(1890ねん - 1891ねん
2だい(1891ねん - 1925ねん

議会ぎかい開設かいせつ期日きじつわせるため建設けんせつされたかり議事堂ぎじどうは、アドルフ・シュテークミュラー(Adolph Stegmüller)と吉井よしい茂則しげのりにより設計せっけいされた。これはエンデ&ベックマン事務所じむしょ計画けいかくしたかり議事堂ぎじどうあん原型げんけいとするもので、1890ねん明治めいじ23ねん)11月24にち竣工しゅんこうした[7]だい1かい帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう完成かんせい直後ちょくごである同年どうねん11がつ29にち開会かいかいすることとなる。しかし、完成かんせいからわずか2かげつの1891ねん明治めいじ24ねん)1がつ20にち未明みめい漏電ろうでんにより初代しょだいかり議事堂ぎじどう全焼ぜんしょうし、初代しょだい焼失しょうしつの9ヶ月かげつにあたる、1891ねん明治めいじ24ねん)10がつに2だいかり議事堂ぎじどう再建さいけんされる。この建物たてもの設計せっけいには吉井よしいとドイツじん技師ぎしのオスカール・チーツェ(Oscar Tietze)がたずさわり、初代しょだいには存在そんざいしなかった貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいん直通ちょくつう玄関げんかんつくられた[6]

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう起草きそうしゃのひとりであり、1889ねん明治めいじ22ねん)7がつから翌年よくねん6がつまで西洋せいよう諸国しょこく各国かっこく議会ぎかい視察しさつした金子かねこ堅太郎けんたろうは、1891ねん明治めいじ24ねん)、『議院ぎいん建築けんちく意見いけん』を発表はっぴょうする。さらに、1895ねん明治めいじ28ねん)のにちしん戦争せんそう勝利しょうりは、ほん議事堂ぎじどう建築けんちくする気運きうんがらせた[10]政府せいふ1897ねん明治めいじ30ねん)、内務省ないむしょう議院ぎいん建築けんちく計画けいかく調査ちょうさ委員いいんかいもうける[11]。また、1899ねん明治めいじ32ねん)2がつには衆議院しゅうぎいんより議院ぎいん建築けんちく調査ちょうさかい開設かいせつ建議けんぎ通過つうか[12]内務省ないむしょういち機関きかんではない本格ほんかくてき組織そしきとしての議院ぎいん建築けんちく調査ちょうさかい発足ほっそくする[11]。この調査ちょうさかいには吉井よしいくわえ、辰野たつの金吾きんご妻木つまきよりゆき参加さんかした。しかし、にちしん戦争せんそう戦後せんご経営けいえい多額たがく国費こくひがかさんだため、建設けんせつ費用ひよう議会ぎかいとおらず、この計画けいかく頓挫とんざした[10][11]

にち直彦なおひこは、日本にっぽんにおける初期しょき西洋せいよう建築けんちく導入どうにゅうが、「不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい文脈ぶんみゃくじょうで、日本にっぽん欧米おうべい同等どうとう文明ぶんめいこくであることをしめし、対等たいとう外交がいこう関係かんけいむすぶべきくにであると認識にんしきさせる手段しゅだんとして」、あるしゅオリエンタリズム内面ないめんしたかたちでおこなわれたものであることを指摘してきする[13]議事堂ぎじどうをふくむ官庁かんちょう建築けんちくのためベックマンとエンデが招聘しょうへいされたことからもわかるように、明治めいじ初期しょき日本にっぽんにおいてこうした建築けんちく設計せっけいやと外国がいこくじんにまかせられた[14]。しかし、ほん議事堂ぎじどう建設けんせつおくれるなか[14]日本にっぽんでも1879ねん明治めいじ12ねん卒業そつぎょうこうだい学校がっこうだい1期生きせいである辰野たつのらを筆頭ひっとうに、日本人にっぽんじん建築けんちく育成いくせいすすみ、こうしたおやと外国がいこくじん日本人にっぽんじん技師ぎしえられていった[15]日本人にっぽんじんによる様式ようしき建築けんちく急速きゅうそく進歩しんぽし、1909ねん明治めいじ42ねん)には辰野たつのらが「議院ぎいん建築けんちく方法ほうほうに就て」(後述こうじゅつ)において「奐のを竭せるだい建築けんちく」と称賛しょうさんしたかた山東さんとうぐま赤坂あかさか離宮りきゅう完成かんせいする[16]。このようにして、明治めいじ後期こうきまでに日本にっぽん様式ようしき建築けんちく一定いってい水準すいじゅんたっし、こうだい学校がっこうから最初さいしょ卒業生そつぎょうせい輩出はいしゅつされてから30ねんほどで、日本にっぽん国内こくないにはモニュメンタルな建築けんちく次々つぎつぎ建造けんぞうされた[17]

こうした時代じだいながれのなか、日本にっぽん建築けんちくかいにおいては西洋せいよう建築けんちく日本にっぽん現実げんじつにいかにすりわせるかがあらたな問題もんだいとして提起ていきされるようになった[18]。その嚆矢こうしとなったのは伊東いとう忠太ちゅうた1893ねん明治めいじ26ねん)に発表はっぴょうした『法隆寺ほうりゅうじ建築けんちくろん』である[注釈ちゅうしゃく 3]どう稿こうにおいて、伊東いとう法隆寺ほうりゅうじ世界せかい最古さいこ木造もくぞう建築けんちくであり、そのプロポーションや、中門ちゅうもんエンタシスようはしらギリシア建築けんちく由来ゆらいするものであるとろんじた[19]伊東いとう研究けんきゅうは、日本にっぽん伝統でんとう建築けんちく西洋せいよう古典こてん建築けんちく文脈ぶんみゃく関連かんれんさせながら位置いちづけることに成功せいこうし、このことは様式ようしき建築けんちく規範きはん沿いながら「日本にっぽんてき」な建築けんちくきずくことを可能かのうにした[20]。この時代じだい空気くうきかんのなかで、長野ながの宇平はハーフティンバー様式ようしき原型げんけいとする和洋折衷わようせっちゅう建築けんちくである奈良なら県庁けんちょう(1895ねん明治めいじ28ねん)を建設けんせつした[21]

五十嵐いがらしは、1895ねんにちしん戦争せんそう、1905ねん明治めいじ38ねん)のにち戦争せんそう勝利しょうりとおして、日本にっぽん西洋せいよう列強れっきょうなら地位ちいるにいたり、もはや外来がいらい意匠いしょう追従ついしょうする必要ひつようはないというかんがえが浸透しんとうしたことが、様式ようしき論争ろんそういた思想しそう潮流ちょうりゅう影響えいきょうしているとろんじた[22]にち埜は、こうした状況じょうきょう西洋せいよう建築けんちく必要ひつようせいそれ自体じたいわれるなかで、近代きんだい日本にっぽんにふさわしい建築けんちく見出みいだそうとする当時とうじ思想しそうのことを「ナショナル・ロマンティシズム」と呼称こしょうした[23]

コンペティションにけての活動かつどう[編集へんしゅう]

にち戦争せんそうの1908ねん明治めいじ41ねん)、議会ぎかい議院ぎいん建築けんちく予算よさん可決かけつされ、大蔵省おおくらしょう臨時りんじ建築けんちく設置せっちされる。また、1910ねん明治めいじ43ねん)にはこの組織そしきした議院ぎいん建築けんちく準備じゅんび委員いいんかいがつくられる[10]臨時りんじ建築けんちく部長ぶちょうにんじられた妻木つまきは、「すぐれたあんるにはすぐれた建築けんちく応募おうぼ必要ひつようであるが、もっともすぐれた建築けんちく審査しんさいんとならねばならない」という理由りゆうから、議事堂ぎじどう意匠いしょう設計せっけいはコンペティションではなく、権威けんいしゃ合議ごうぎによってめるべきであると主張しゅちょうしたが、これはつよ反発はんぱつまねいた。1908ねん辰野たつの金吾きんご塚本つかもとやすし伊東いとう忠太ちゅうたは「議院ぎいん建築けんちく方法ほうほうに就て」を発表はっぴょうし、コンペティションの実施じっしもとめた[24]稲垣いながき栄三えいざは、この文面ぶんめんに、過去かこ2かい国会こっかい議事堂ぎじどう造営ぞうえいのときにはなかった自信じしんることができるとろんじている[14]

世界せかい文明ぶんめいこくにおいて、国会こっかい議事堂ぎじどうほど重要じゅうよう建築けんちく存在そんざいしない。くに欧米おうべい諸国しょこくのような、立派りっぱ議事堂ぎじどうをつくるじゅくしている。その形式けいしき手法しゅほう構造こうぞう装飾そうしょくは、国民こくみん知識ちしき技術ぎじゅつ最高さいこう成果せいかあつめ、世界せかい我々われわれ威光いこうしめすにふさわしいものでなければならない。このような性質せいしつ建造けんぞうぶつを、ひとりの建築けんちくまかせるべきか、おおくの建築けんちくから考案こうあんつのるべきか、ここに議論ぎろん余地よちはないだろう。

現在げんざい欧米おうべいにおいては、とく重要じゅうよう建築けんちく懸賞けんしょう方法ほうほうかんがえをつのることが一般いっぱんてきである。我々われわれ当局とうきょくくに議院ぎいん建築けんちくにおいても、そうした方式ほうしきることをしんじているが、それには若干じゃっかんうたがいもある。大蔵省おおくらしょう議院ぎいん建築けんちく調査ちょうさのための予算よさん提出ていしゅつし、事務じむかん技術ぎじゅつかん欧米おうべい派遣はけんするという。しかし、先年せんねん議院ぎいん建築けんちく調査ちょうさかい調査ちょうさえたものをさらに調査ちょうさすることになにの意味いみがあるというのだろうか。帝国ていこく議会ぎかい議院ぎいん帝国ていこく議院ぎいんである。くに将来しょうらいこりうる、建築けんちくひらけするしょ問題もんだい国内こくない研究けんきゅうすることを放棄ほうきし、海外かいがい視察しさつとはどういうかんがえなのだろうか。このように本末ほんまつ転倒てんとうし、緩急かんきゅうあやま措置そちをとるならば、議院ぎいん建築けんちく設計せっけい方針ほうしんあやまったものにならないことはむずかしい。したがって、前述ぜんじゅつ意見いけんなんかえし、当局とうきょくしゃ熟考じゅっこううなが必要ひつようがある。

当局とうきょくしゃはまだ建築けんちくがく進歩しんぽじょうきょうくわしく把握はあくしておらず、この重大じゅうだい建築けんちく意匠いしょうあん提供ていきょうするような建築けんちくがいないとかんがえているかもしれない。これはおおきな誤解ごかいである。日本にっぽんにはいまおおくのすぐれた建築けんちく存在そんざいし、その技量ぎりょう西洋せいようにもおとらない。赤坂あかさか離宮りきゅうればわかるよう、我々われわれ日本にっぽん建築けんちくは、どのようなだい工事こうじでもなんなく計画けいかくし、達成たっせいする実力じつりょくっている。このような知識ちしき経験けいけんゆうする我々われわれ建築けんちくから設計せっけいあん募集ぼしゅうし、そのなかからすぐれたものをえらし、適切てきせつ採用さいようすれば、その成果せいか間違まちがいなく完璧かんぺきちかいものとなるだろう。これはひとりの建築けんちくまかせたときの成果せいかとはくらべるべくもないもので、当局とうきょくしゃ我々われわれ権利けんり義務ぎむ蹂躙じゅうりんしたとなれば、この時節じせつにおいて大変たいへんこのましくないことである。ここに、議院ぎいん建築けんちく設計せっけい一個人いっこじん委任いにんすべきではなく、懸賞けんしょう募集ぼしゅうもっと適切てきせつである理由りゆうべ、世間せけん賛成さんせいいたい。
辰野たつの金吾きんご塚本つかもとやすし伊東いとう忠太ちゅうた議院ぎいん建築けんちく方法ほうほうに就て (要約ようやく)

この議論ぎろんがうまれた背景はいけいには、辰野たつのらイギリス留学りゅうがくしゃと、妻木さいきらドイツ留学りゅうがくしゃ対立たいりつがある。官庁かんちょう集中しゅうちゅう計画けいかくさいしてドイツに留学りゅうがくした妻木つまきらは、計画けいかく中止ちゅうし時点じてんですでに起工きこうみであった裁判所さいばんしょ司法省しほうしょう造営ぞうえいするため中央ちゅうおう官庁かんちょうにとどまり、ここを拠点きょてん海軍かいぐんしょう大蔵省おおくらしょうといった官庁かんちょう建築けんちく次々つぎつぎ建築けんちくしている。妻木つまき1899ねん明治めいじ32ねん)、明治めいじ政府せいふ中枢ちゅうすうというべき内務省ないむしょう大蔵省おおくらしょう技師ぎし[注釈ちゅうしゃく 4]にんじられ、官庁かんちょう建築けんちく権利けんり掌握しょうあくする[26]。こうした状況じょうきょうたいし、建築けんちく自律じりつせいおもんじる辰野たつのらイギリスつよ反発はんぱつした[27]辰野たつのは、みずからが会長かいちょうつとめる建築けんちく学会がっかい拠点きょてんとし、ジャーナリストにはたらきかけ、妻木つまき国会こっかい議事堂ぎじどう計画けいかくをほしいままにすることを阻止そししようとした[26]

こうしたコンペティション実現じつげんけた活動かつどう一環いっかんとして、「我国わがくに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかにすべきや」は開催かいさいされることとなった[22]議院ぎいん建築けんちく様式ようしきをどうすべきかという問題もんだいをひとつのくちとしつつ、よりひろく日本にっぽん建築けんちく将来しょうらいについてろんじることがその目的もくてきであった[28]

だい1かい討論とうろんかい[編集へんしゅう]

東京とうきょう地学ちがく協会きょうかい会館かいかん討論とうろんかい開催かいさい場所ばしょとなった。

だい1かい討論とうろんかいは、1910ねん明治めいじ43ねん5月30にち午後ごご6から10まで、東京とうきょう地学ちがく協会きょうかい開催かいさいされた[29]司会しかい建築けんちく学会がっかい会長かいちょう辰野たつの金吾きんごがつとめ、4にんしゅ論者ろんしゃ三橋みつはし四郎しろう関野せきのさだ長野ながの宇平伊東いとう忠太ちゅうた)が自説じせつべ、それにたいする賛否さんぴ意見いけん参加さんかしゃけるという形式けいしきでおこなわれた[2]しゅ論者ろんしゃ4にん正会員せいかいいん25にんのほか、討論とうろんかいには170にん参加さんかした。開会かいかい会場かいじょうはすぐに満員まんいんとなり、やむなく多数たすう出席しゅっせきしゃ入場にゅうじょう謝絶しゃぜつされることとなった[29]

おもろん[編集へんしゅう]

三橋みつはし四郎しろう[編集へんしゅう]

日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこうさんきょうは、どう建築けんちくを「日本にっぽん趣味しゅみろくふんで、西洋せいよう趣味しゅみよんふんである」とひょうする。

三橋みつはし四郎しろうは1867ねん慶応けいおう3ねんまれ、1893ねん明治めいじ26ねん)に帝国ていこく大学だいがくみやつこ学科がっか卒業そつぎょうし、逓信ていしんしょう技師ぎしなどをながら[30]討論とうろんかい開催かいさい当時とうじ建築けんちくとして活動かつどうしていた[2]

さんきょう日本にっぽんにふさわしい建築けんちくとして和洋折衷わようせっちゅう様式ようしきとなえた。さんきょう西洋せいようにおいて近年きんねん流行はやっているアール・ヌーヴォー建築けんちくセセッションには日本にっぽん建築けんちく影響えいきょうがあるのではないかとろんじ、日本にっぽん趣味しゅみてるべからざるものであるとべる。ここで、さんきょうは「じゅん日本にっぽんしきでもなく、じゅん西洋せいようしきでもなく、みことのりはゆる日本にっぽん長所ちょうしょ西洋せいよう長所ちょうしょさぐったところひとつの折衷せっちゅうしき」こそが将来しょうらい様式ようしきとしてふさわしいと主張しゅちょうし、現在げんざい日本にっぽんにおいても「その意味いみいくふんかなったもの」があるとして、いくつかの建造けんぞうぶつ紹介しょうかいした[2][31]

関野せきのさだ[編集へんしゅう]

関野せきのさだは1868ねん慶応けいおう3ねん12がつまれ、1895ねん明治めいじ28ねん)に帝国ていこく大学だいがくづくり学科がっか卒業そつぎょうした。奈良ならけん技師ぎして、1901ねん明治めいじ34ねん)より母校ぼこう教鞭きょうべんをとった[32]。1908ねん明治めいじ41ねん)に『平城京へいじょうきょう大内裏だいだいりこう』で工学こうがく博士はかせごう取得しゅとくする[32]

議論ぎろん前提ぜんていとして、関野せきのは「将来しょうらい」を「明治めいじ時代じだい代表だいひょうすべき立派りっぱな『スタイル』が出来できるとき」と定義ていぎし、その対象たいしょう公共こうきょう建築けんちくのみにしぼったのち、構造こうぞうとしてはいし煉瓦れんがづくりこのましいとろんじた。また、関野せきのは、しん様式ようしきさだまる条件じょうけんとして、地勢ちせい気候きこう建築けんちく材料ざいりょう慣習かんしゅう従来じゅうらい様式ようしき外国がいこく様式ようしき影響えいきょう、そして時代じだい思潮しちょう国民こくみん時代じだい思潮しちょうなどが重要じゅうよう要素ようそとなるとべた。関野せきのは、国民こくみん趣味しゅみ近年きんねんいちじるしく変動へんどうしていることから、和風わふう建築けんちく国民こくみんてき様式ようしきとしてふさわしくないが、一方いっぽうで、日本人にっぽんじん精神せいしん完全かんぜん西洋せいようしたわけではない以上いじょう西洋せいよう様式ようしきをそのままってきても発達はったつ見込みこみはないだろうとした[2][33]

関野せきのしん様式ようしき創立そうりつ手段しゅだんとして、「①日本にっぽん様式ようしき本位ほんいとしつつ、西洋せいよう建築けんちく手法しゅほうませるアプローチ」「②西洋せいよう建築けんちく本位ほんいとしつつ、日本にっぽん建築けんちく手法しゅほうませるアプローチ」「③日本にっぽんでもなく西洋せいようでもない、まったくあたらしい様式ようしき考案こうあんするアプローチ」の3つが存在そんざいするとろんじ、「これまでの日本にっぽん建築けんちくにあらわれた趣味しゅみ精神せいしんをどこまでも土台どだいにして」「これまで人間にんげんこしらえてきたものを土台どだいにして、そのうえいちすすんだしん様式ようしき建設けんせつする」ことこそがもっとも魅力みりょくてき手段しゅだんであるという自説じせつべた[2][33]

長野ながの宇平[編集へんしゅう]

砲術ほうじゅつ稽古けいこぎょう見分けんぶん』(天保てんぽう12ねん)。長野ながのは、西洋せいよう建築けんちく日本にっぽん建築けんちく混交こんこうしようとするかんがえを、かさをかぶり鉄砲てっぽうつかつての日本にっぽんへいたとえた。

長野ながの宇平は1867ねん慶応けいおう3ねんまれ、1893ねん明治めいじ26ねん)に帝国ていこく大学だいがくづくり学科がっか卒業そつぎょう奈良ならけん技師ぎして1900ねん明治めいじ33ねん)より日本銀行にっぽんぎんこう技師ぎしちょうつとめる[34]

長野ながのは、各国かっこく様式ようしきがさまざまであったのは西洋せいようかく地域ちいき交流こうりゅう不十分ふじゅうぶんであったためとろんじ、「世界せかい一周いっしゅうするのにもわずかの月数げっすう一周いっしゅうができる、また世界せかいもの世界せかいものせることでもなんでもないことになってくる」現在げんざいにおいて、西洋せいよう建築けんちく様式ようしき画一かくいつしており、日本にっぽんもそのながれにるべきであると主張しゅちょうする。

また、明治維新めいじいしん急速きゅうそくにさまざまな西洋せいよう文化ぶんかれた日本にっぽん独立どくりつせいうしなっているかといえばそうではないとべ、中途半端ちゅうとはんぱ西洋せいよう建築けんちく日本にっぽん建築けんちく折衷せっちゅうさせようとするかんがえを「もうすでに時代じだいおくれているかんがえ」であるとして否定ひていし、これを「帽子ぼうしかわりに韮山にらやまかさつて、つつッポに段袋だんぶくろ穿いて、それから大刀たちかたからつるしつて、さうして鉄砲てっぽうつてる」かつての日本にっぽんへいにたとえる。長野ながの西洋せいよう様式ようしきちょくうつしこそが日本にっぽん建築けんちくすすみちであるとし、日本人にっぽんじんはそれを十分じゅうぶんにおこなうことができる力量りきりょうっていると主張しゅちょうする[2][35]

伊東いとう忠太ちゅうた[編集へんしゅう]

伊東いとう忠太ちゅうたは1867ねん慶応けいおう3ねんまれ、1892ねん明治めいじ25ねん)に帝国ていこく大学だいがくづくり学科がっか卒業そつぎょうし、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう講師こうして1905ねん明治めいじ38ねん)より母校ぼこう教授きょうじゅをつとめた[36]

伊東いとうは、様式ようしきとは「国民こくみん趣味しゅみ反映はんえい」であるとし、これをはずれたしん様式ようしきけっして永続えいぞくするものではなく、無意味むいみであるとろんじる。かれによれば「将来しょうらい建築けんちく様式ようしきをどうするか」という問題もんだい将来しょうらい国民こくみん趣味しゅみ予測よそくすることにひとしく、「これは非常ひじょうなるだい天才てんさいにしてはじめてこたべきこと」である。伊東いとうは、将来しょうらい建築けんちく様式ようしきをしてさい適当てきとうにするためには古今ここん東西とうざい建築けんちく十分じゅうぶん研究けんきゅうしておくこと、国民こくみん建築けんちくたいするリテラシーを十分じゅうぶん発達はったつさせることが重要じゅうようであるとした。伊東いとうみずからのかんがえを「進化しんか主義しゅぎ」であるとし、和洋折衷わようせっちゅう主義しゅぎおうしきちょくうつし主義しゅぎ新式しんしき創造そうぞう主義しゅぎ日本にっぽん国民こくみん趣味しゅみ代表だいひょうすべきいち様式ようしき大成たいせいするにあたり、えら経路けいろでしかないとろんじた[2][37]

議論ぎろん[編集へんしゅう]

かくあるじろんしゃ主張しゅちょうたいし、岡本おかもと銺太ろう佐野さの利器りき中村なかむら達太郎たつたろう松井まついきよしあし大江おおえ新太郎しんたろう岡田おかだ信一郎しんいちろう酒井さかい祐之ひろゆきすけ古宇田こうだみのるの8にん意見いけんべた[1]

岡本おかもと銺太ろう[編集へんしゅう]

岡本おかもと長野ながの意見いけん賛成さんせいした。岡本おかもといわく、日本にっぽん公共こうきょう建築けんちく不燃材ふねんざいてる必要ひつようがあり、このてんについて西洋せいよう建築けんちくは「からいかけてもわない」ほどに進歩しんぽしているという。岡本おかもとは、ゆえに日本にっぽん建築けんちく当分とうぶんあいだ西洋せいようちょくうつし志向しこうするべきであるが、「ちがった人間にんげんがやって、そうしてちがった気候きこう風土ふうど適当てきとうしたものをやるとすれば、やはり西洋せいようじんのやったことをじきうつしても、みずか日本にっぽんに『スタイル』ができていくだろう」とべている[38]

佐野さの利器りき[編集へんしゅう]

佐野さのは、関野せきの新式しんしき創造そうぞう主義しゅぎ賛同さんどうしつつ、現状げんじょう西洋せいようちょくうつししき建築けんちく大勢おおぜいめる現状げんじょうのままでは国民こくみん美的びてき欲求よっきゅう満足まんぞくさせることはむずかしいとべる。佐野さのは「建築けんちく本義ほんぎ重量じゅうりょう支持しじとの明確めいかく力学りきがくてき表現ひょうげんにすぎない」とし、構造こうぞうずにはしらけたのプロポーションだけをろんじる現代げんだい日本にっぽん建築けんちくは「ねむ」しており、しん意味いみでの建築けんちくいた建築けんちく日本にっぽん国民こくみん評価ひょうかしないのは当然とうぜんのことであると批判ひはんする[39][40]

佐野さのは、あたらしい建築けんちく様式ようしき必要ひつような「品位ひんい保持ほじするのに都合つごうがよい」様式ようしきには「シンプリシチィー」が必要ひつようであるとべ、それに付随ふずいすべき装飾そうしょく力学りきがくてき表現ひょうげん助長じょちょうせしむるもの、建物たてもの内容ないようをしめすもの、そうでないならば日本人にっぽんじんがよくるようなものがふさわしいとし、近代きんだい西洋せいよう建築けんちくしん様式ようしきであるところのセセッション建築けんちく評価ひょうかする[41]

中村なかむら達太郎たつたろう[編集へんしゅう]

中村なかむら長野ながの意見いけん反対はんたいし、たとえ交通こうつう便びんがよくなったとして各国かっこく建築けんちくまることはないとろんじた。また、中村なかむらは、日本にっぽん建築けんちくあたらしい建築けんちく様式ようしき考案こうあんできないというかんがえは「ちっとなさけない」ものであり、日本にっぽん建築けんちくは「碧眼へきがん」に真似まねされるようなあたらしい建築けんちくをつくりだせるようにしたいとべた。中村なかむらは、このために日本にっぽん建築けんちくができることとして、定期ていきてきなコンペティションの開催かいさいげた。かれは、1かげつちいさな建物たてものを1けんずつ、あるいは1ねんちゅう程度ていど建物たてものを1けんずつというように、しん様式ようしき考案こうあんのためのコンペティションをおこなうことで、関野せきののいうようなしん様式ようしき創立そうりつを、より実践じっせんちかいところですすめていけるのではないかとろんじた[39]

松井まついきよしあし[編集へんしゅう]

松井まつい長野ながの意見いけん賛成さんせいし、日本にっぽん建築けんちく西洋せいよう統合とうごうしつつある建築けんちく様式ようしき沿うべきであるとした。松井まついは、さんきょう写真しゃしんげたような「蟇股かえるまた肘木ひじき煉瓦れんがいしあいだはさんだいえ」は「形式けいしきうえからも構造こうぞううえからも無意味むいみのこと」とし、佐野さのうような日本人にっぽんじんにすでによくしられる意匠いしょう装飾そうしょく使つかうことについても批判ひはんした。

松井まついは、現在げんざい日本にっぽん趣味しゅみ」といわれる建築けんちく往々おうおうにして中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん建築けんちくじきうつしたものであるとし、「すでにわが国民こくみんは、そういうささえちょくうつしをして、そうして立派りっぱ今日きょうまでのこすような建築けんちくをしたではないか」とべる。松井まついは、西洋せいよう建築けんちくじきうつしたところで日本にっぽん趣味しゅみくなったり日本人にっぽんじん気風きふううしなわれるといったことはないとい、そうした様式ようしき時間じかんつにつれてまった日本にっぽん趣味しゅみになるだろう、「現代げんだいもっと発達はったつしたる世界せかいてき様式ようしきってこれ無形むけい建築けんちくじょう大和魂やまとだましいれればこれでごく完全かんぜん様式ようしきができる」だろうとべている[42]

大江おおえ新太郎しんたろう[編集へんしゅう]

大江おおえ長野ながの意見いけん反対はんたいし、「国民こくみんてき様式ようしきというものを、いかにこしらえようと齷齪あくせくしても、それは無益むえきなことである」とする意見いけんを「絶望ぜつぼうてきなさけない論点ろんてん」という。大江おおえは、交通こうつう発達はったつ世界せかいせまくしたことにより、日本にっぽん建築けんちくは「往古おうこ交通こうつう不便ふべん科学かがく知識ちしき未開みかいなる時代じだいついやされたがごとき長年ながねんがつついやすことく」西洋せいよう様式ようしきまなぶことが出来できたといい、すでに日本にっぽんにおいて「外国がいこくふるえをまなびつつあったその学修がくしゅう時代じだい」はすでに完了かんりょうしたという。

また、しん様式ようしき一朝一夕いっちょういっせきにつくられるものではないとする意見いけんたいして、大江おおえ古典こてん様式ようしきまなびルネッサンス様式ようしきをつくりあげたり、尾形おがた光琳こうりんまなびアール・ヌーヴォーをつくりあげた建築けんちくげんにそれをげているとべる。また、大江おおえ開明かいめい時代じだいまれた自分じぶんたちはたん西洋せいよう模倣もほうするのみならず、しん様式ようしきをつくりあげることが可能かのうであり、建築けんちく日本にっぽん古来こらい建築けんちく様式ようしきおもずいとしながら、あらたな「デテール」の開拓かいたく努力どりょくする義務ぎむがあるとろんじる[43]

岡田おかだ信一郎しんいちろう[編集へんしゅう]

岡田おかだは「我国わがくに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかにすべきや」という議題ぎだいに、「これは国民こくみんおおきな民衆みんしゅうというひとつの団体だんたい努力どりょく発現はつげんでありまして、建築けんちくがこうしろとったところでたしてそのとおりになるべきようなものではない」と疑問ぎもんていしながらも、建築けんちくはおのおの「将来しょうらい建築けんちくはこうなるべきである」という理想りそうちかづく行動こうどうをすべきであるとろんじる。

岡田おかだ関野せきの日本にっぽんにおいても和風わふう洋風ようふうらないしん様式ようしきがうまれるべきであるとするせつ佐野さの構造こうぞうてきゆうする簡明かんめい直截ちょくせつ建築けんちく推奨すいしょうするせつにおおむね同意どういしつつ、交通こうつう便びんにより世界せかいせまくなったことにより、欧米おうべいにおいても日本にっぽんにおいてもセセッションのような建築けんちく将来しょうらいてきれられるだろうとべる。しかし、日本にっぽん将来しょうらい建築けんちく欧米おうべいのそれとまったくおな方向ほうこう目指めざすべきであるとする長野ながのせつには否定ひていてきであり、このような討論とうろんかいひらかれたことからもあきらかなように西洋せいよう建築けんちく趣味しゅみ日本人にっぽんじんのそれと合致がっちするものではないとする。

岡田おかだは、建築けんちく和洋わよう建築けんちく日本にっぽん趣味しゅみ研究けんきゅうをしながら「その客人きゃくじんくちい、また良好りょうこう料理りょうりほう」を研究けんきゅうすべきであるとろんじた[44]

酒井さかい祐之ひろゆきすけ[編集へんしゅう]

酒井さかいは、日本にっぽん建築けんちく状態じょうたいはアメリカにおける「コロニアル時代じだい」のそれに類似るいじしているとし、この時代じだいのアメリカがさまざまな様式ようしき引用いんようし、まとめたことにより現在げんざいの「アメリカ様式ようしき」がまれたとろんじた。酒井さかい過渡かとである日本にっぽん建築けんちくかいは、あたらしい様式ようしき見出みいだすため、現代げんだい日本にっぽん建築けんちく既存きそん様式ようしきにとらわれることなく、「どしどしどしどし行程こうていすすむる」のがよいとべた[45]

古宇田こうだみのる[編集へんしゅう]

古宇田こうだ関野せきの意見いけん賛成さんせいし、伊東いとう進化しんか主義しゅぎたいしては「わたしどもはもうすこはやくどうにかしたいとおもって煩悶はんもん結果けっかここにこういうだいえらんだのであります」と疑問ぎもんていする。古宇田こうだ兵役へいえきからもどって東京とうきょう風景ふうけいが「非常ひじょうにおかしくわって」おり、「洋風ようふうのまねそこない」の「怪物かいぶつ屋敷やしきしかたるもの」となっていたことにれ、長野ながののいうような西洋せいようちょくうつししき方針ほうしんでは「化物ばけもののようなへんてこな」建物たてもの乱立らんりつすることになるだろうとべる。古宇田こうだ西洋せいよう建築けんちく日本にっぽん風土ふうど相容あいいれず、材料ざいりょうこうじん腕前うでまえりないゆえに、「本来ほんらい日本にっぽん精神せいしんのこめてあるもの」を採用さいようするのがよいとう。

古宇田こうだはそのための実践じっせんとして、大江おおえのいうデテールの創出そうしゅつ中村なかむらのコンペティションあん賛成さんせいし、その形式けいしきとしては、西洋せいようのそれよりも比較的ひかくてき日本にっぽん風土ふうどう、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん・インドなどの様式ようしき参考さんこうとしつつ、東洋とうようふうしん様式ようしきをつくりあげるのがよいのではないかとべた[46]

だい2かい討論とうろんかい[編集へんしゅう]

だい2かい討論とうろんかい7がつ8にち開催かいさいされた。どうかいにおいては司会しかい辰野たつのだい1かい討論とうろん参加さんかした関野せきの酒井さかいにくわえ、禰達ぞう新家にいのみ孝正たかまさよこかわ民輔たみすけ議論ぎろん参加さんかした。

辰野たつの討論とうろんをはじめるにあたり、だい1かいにおける各人かくじんろん要約ようやくし、それらの議論ぎろん以下いかの2つに大別たいべつできるとした[47]

だいいち

現時げんじ建築けんちく様式ようしき我國わがくに趣味しゅみ適合てきごうしたるものにらず將來しょうらい東西とうざい様式ようしき調和ちょうわわが趣味しゅみ嗜好しこうてきしたるものが出来できなくてはならぬ如斯調和ちょうわして出現しゅつげんしたるものが我國わがくに建築けんちく様式ようしきである云々しかじか

さんきょう關野せきの伊東いとう佐野さの中村なかむら大江おおえ岡田おかだ古宇田こうだ諸氏しょしせつなり

だい

將來しょうらい建築けんちく様式ようしきろんする必要ひつようなし現今げんこん建築けんちく洋式ようしきすなわち、わが様式ようしきであるこれれか進歩しんぽ發達はったつ研究けんきゅうせは云々うんぬん

長野ながの岡本おかもと松井まつい酒井さかい諸氏しょしせつなり
辰野たつの金吾きんご

討論とうろん[編集へんしゅう]

関野せきのさだ[編集へんしゅう]

関野せきのは「一説いっせつには日本にっぽんしき土台どだいとしてほか様式ようしき加味かみし、もう一説いっせつには西洋せいようしきでも日本にっぽんしきでもない、国民こくみん時代じだい思潮しちょうてきするしん様式ようしき案出あんしゅつする[47]」という辰野たつの要約ようやくが、自説じせつとはややことなるとし、「これまでの日本にっぽん建築けんちくあらわれたところの趣味しゅみ土台どだいとし、人類じんるい建設けんせつしたところのすべての様式ようしき十分じゅうぶん参考さんこうにして、現代げんだい日本にっぽん国民こくみん精神せいしん十分じゅうぶんあらわしたところのしん様式ようしき建設けんせつする」というのがみずからの本意ほんいであるとべた[48]

酒井さかい祐之ひろゆきすけ[編集へんしゅう]

酒井さかいは、辰野たつの自説じせつたいする「松井まついせつ賛成さんせいのごとく了解りょうかいされるもその要領ようりょうるにくるしむ[47]」という見解けんかいについて、自分じぶんはどちらかといえば関野せきのせつ賛成さんせいする立場たちばであり、さまざまな教義きょうぎ宗教しゅうきょうがどれもその目的もくてきどういちてん帰着きちゃくさせるのと同様どうよう建築けんちく理想りそうてき様式ようしきというのもいちてんさだまるものであり、そのいちてん目指めざせばどのような立場たちばからであっても、おのずから理想りそう様式ようしき見出みいだすことが出来できるであろうという意見いけんであるとべた。また、そのための実践じっせんとしては、「アーキテクチャルコンポジション」を主眼しゅがんとしておのおのが研究けんきゅう努力どりょくし、ときおり学会がっかいにおいて図案ずあん展覧てんらんかい企画きかくし、国民こくみん意見いけんうのがよいと提案ていあんした[49]

禰達ぞう[編集へんしゅう]

禰は各人かくじんせつ要約ようやくしたのち、「かく諸君しょくんせつならべていって、それならば自分じぶんはどれに賛成さんせいするか、どれに反対はんたいであるかどうんふと、わたしはこうおもふのです。諸君しょくんせつはいずれも大層たいそういのである」とべた。ゆえに、禰は各々おのおのかんがえるベストをつくしさえすれば、20世紀せいきちゅうには日本にっぽん趣味しゅみ体現たいげんする建築けんちくがうまれるであろうとろんじた[50]

新家にいのみ孝正たかまさ[編集へんしゅう]

新家しんやみずからの洋行ようこう記録きろくについて概略がいりゃく紹介しょうかいしたのち、「わたしいま研究けんきゅう不行届ふゆきとどきでありますから、一概いちがいにことにあたって賛否さんぴもうすことはできせぬけれども、ようするに諸君しょくん将来しょうらい様式ようしきひらけして熱心ねっしん論議ろんぎせらるはまこと敬服けいふくのほかはありません」と、議題ぎだいそのものについては判断はんだん保留ほりゅうした。また、将来しょうらい建築けんちく様式ようしきについては、サラセニックしき英語えいごばん加味かみした東洋とうようしきこのましく、しん様式ようしき創出そうしゅつ今後こんご20ねん程度ていど成功せいこうさせたいとべた[51]

よこかわ民輔たみすけ[編集へんしゅう]

よこかわは、「様式ようしきというような種類しゅるいのものは是非ぜひどうなければならぬという理屈りくついものとわたししんじている」と、議題ぎだいそのものの撤回てっかい主張しゅちょうした。よこかわは、長野ながの意見いけん同調どうちょうしながら、日本にっぽん建築けんちく世界せかい潮流ちょうりゅうにそのまましたがうのがよいとべ、みだりにあたらしい建築けんちく様式ようしきかんがえることは現在げんざい建築けんちくかい混沌こんとんとした状況じょうきょうをさらに混沌こんとんとさせるものであり、かりにおこなうとしても十分じゅうぶん研究けんきゅう不可欠ふかけつなものであるとべた。

また、よこかわは「もっとはや世界せかいてきになった日本にっぽんはアジアのなかにおいてもっとつよくにになっている」「げんみなさんは純然じゅんぜんたる洋服ようふくている……けっしてくにいままでの服装ふくそう、それらの歴史れきしのあるものはすこしもつけていない、それでもみなさんは日本人にっぽんじんたることをうしなわない」と、日本にっぽん独自どくじ様式ようしきをつくりあげることにおおきな意味いみはないとろんじた[52]

辰野たつの金吾きんご[編集へんしゅう]

司会しかい辰野たつのは、よこかわ指摘してきみずからの本意ほんいたものではなく、「くに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかなるものか」というのがみずからの意図いとちかいとべた。辰野たつのは、「①建築けんちく様式ようしき自然しぜんにうまれるもので、人為じんいてきにつくりだせるものではない」「②くに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき様式ようしき和式わしき調和ちょうわしてまれるものであろう」「③様式ようしき自然しぜんにうまれるものであるとはいっても、建築けんちくみずからの計画けいかくをなるべくおお公表こうひょうし、様式ようしき成立せいりつをうながす義務ぎむがある」という3つの論点ろんてんから自説じせつろんじた[53]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

国会こっかい議事堂ぎじどう[編集へんしゅう]

渡邊わたなべ福三ふくぞうあん。コンペ優勝ゆうしょう作品さくひん

妻木つまき意向いこうもあり、議院ぎいん建築けんちく準備じゅんび委員いいんかいはコンペティションあん否決ひけつする。しかし、議事堂ぎじどう建設けんせつ推進すいしんやくであったかつら太郎たろう内閣ないかく退陣たいじん財政ざいせいじょう理由りゆうなどにより、しん議事堂ぎじどう造営ぞうえい計画けいかくそのものが頓挫とんざ[54]つぎ計画けいかくがるのは大正たいしょうのこととなる[55]建築けんちく学会がっかいつよこえされるかたちで、1917ねん (大正たいしょう6ねん)に発足ほっそくした大蔵省おおくらしょう議院ぎいん建築けんちく調査ちょうさかいは、意匠いしょう設計せっけいを、様式ようしき限定げんていせず、日本人にっぽんじんのみを対象たいしょうとするコンペティションによりさだめることを決定けっていする[55]要項ようこう1918ねん大正たいしょう7ねん)に発表はっぴょうされ、118のあんあつまり、20あんが1当選とうせん、4あんが2当選とうせんをはたした。しかし、大熊おおくまくにいわくそこに「既往きおう形式けいしきから超越ちょうえつしたようなものはほとんどない」有様ありさまであり、中村なかむらは「時代じだい錯誤さくご模倣もほうてきめい建築けんちくえらばれた」とコンペの結果けっか批判ひはんした[56]

1とうえらばれたのは宮内庁くないちょう技師ぎし渡邊わたなべ福三ふくぞうによるあんであったが、造営ぞうえいにあたりこの意匠いしょうにはおおきくくわえられた。ほん議事堂ぎじどう1920ねん大正たいしょう9ねん)に着工ちゃっこうするも、1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいとそれにともなう大蔵省おおくらしょう全焼ぜんしょう影響えいきょうし、竣工しゅんこうまでには1936ねん昭和しょうわ11ねん)と17ねん年月としつきようした[54]竣工しゅんこう当時とうじすでに国会こっかい議事堂ぎじどう時流じりゅうからおくれたデザインとなっており、コンペティションは国民こくみんしん様式ようしきもとめるためのものという意味いみではまったく失敗しっぱいした[57]

大阪おおさか公会堂こうかいどう[編集へんしゅう]

大阪おおさか公会堂こうかいどう

討論とうろんかいの2ねんにあたる1912ねん明治めいじ45ねん)に開催かいさいされた大阪おおさか公会堂こうかいどうのコンペティションでは、辰野たつの審査しんさ主導しゅどうし、討論とうろん参加さんかした伊東いとう大江おおえ岡田おかだ長野ながの古宇田こうだふくむ、17にん建築けんちく設計せっけい指名しめいされた[注釈ちゅうしゃく 5][58]。このコンペティションは議院ぎいん建築けんちくコンペティションの請願せいがん運動うんどうおよび、様式ようしき論争ろんそう影響えいきょうけて開催かいさいされたものであり[58]参加さんかしゃ図案ずあんには当時とうじかれらの意見いけんがある程度ていど反映はんえいされている[1][59]

西洋せいようちょくうつししきとなえた長野ながのあん古典こてん様式ようしきのっとった壮大そうだいなもので、辰野たつのは「東洋とうようてき島国根性しまぐにこんじょうもってしては、到底とうていのうはざる設計せっけいである」と評価ひょうかした。また、進化しんか主義しゅぎとなえた伊東いとうあんストゥーパねぎはなアーチ英語えいごばん蟇股かえるまたなど、東洋とうようてき意匠いしょうをあしらったものであったが、辰野たつのはこれに「とにかく不消化ふしょうか状態じょうたいで、こなれていないようにおもう」と否定ひていてき評価ひょうかくだした。しん様式ようしきあん賛同さんどうした大江おおえエジプトしき柱頭ちゅうとう組物くみものせ、ドームじょう相輪そうりん鴟尾しびをあしらう意匠いしょう設計せっけいをおこなうも、これについても辰野たつのは「日本にっぽんしき充分じゅうぶん消化しょうかたるよう感覚かんかくおこらない」とろんじた。おなじくしん様式ようしきあん賛同さんどうした古宇田こうだあんは、西洋せいようてき平面へいめん構造こうぞうをとりながら、細部さいぶ伝統でんとうてき木組きぐみの意匠いしょうくすもので、辰野たつのはこれを「日本にっぽんしき比較的ひかくてきよく消化しょうかし、よく応用おうようした」と評価ひょうかしつつも採光さいこう問題もんだい指摘してきした。おなじくしん様式ようしきあん賛同さんどうした岡田おかだあんは、中央ちゅうおうおおきなアーチをかまえるセセッションふう意匠いしょう設計せっけいし、辰野たつのはこれを公会堂こうかいどう採用さいようした[59][58]。しかし、実際じっさい設計せっけいではこのあん辰野たつのにより改造かいぞうされ、ネオ・ルネッサンスしき辰野たつのしきくわれられた[1]

大阪おおさか公会堂こうかいどう計画けいかく図案ずあん
長野ながのあん
伊東いとうあん
大江おおえあん
古宇田こうだあん
岡田おかだあん

その国民こくみんてき様式ようしき模索もさく[編集へんしゅう]

様式ようしき論争ろんそうがそれぞれの立場たちば明確めいかくにしたことも影響えいきょうし、和洋折衷わようせっちゅう主義しゅぎてき建築けんちくは、そのつくつづけられた。たとえば大江おおえ明治めいじ神宮じんぐう宝物殿ほうもつでん1921ねん大正たいしょう10ねん)で校倉あぜくらづくりふう鉄筋てっきんコンクリートづくり建築けんちく造営ぞうえいしているほか、伊東いとう震災しんさい記念きねんどう1930ねん昭和しょうわ5ねん)で、ろうがわろうからなるキリスト教会きょうかいふう平面へいめん構造こうぞうゆうする寺院じいん建築けんちく建立こんりゅうしている。また、伊東いとう築地つきじ本願寺ほんがんじ(1934ねん昭和しょうわ9ねん)などで、インドふう意匠いしょうれている。ほかに、高橋たかはしさだ太郎たろうは、オーダーの柱頭ちゅうとうかざり組物くみものえた、日本橋にほんばし高島屋たかしまや1933ねん昭和しょうわ8ねん)を建設けんせつした[60]

国会こっかい議事堂ぎじどうコンペに参加さんかした下田しもだ菊太郎きくたろうは、洋風ようふう建築けんちくうえ和風わふう建築けんちくかさねる「みかどかんむり様式ようしき」を発案はつあんした。下田げでんいち審査しんさ落選らくせんしたのちも、2わた議院ぎいん建築けんちく設計せっけい変更へんこう請願せいがんしょみずからの建築けんちく設計せっけいあん提出ていしゅつするも、退しりぞけられた[54]。しかしこの建築けんちく一般いっぱん理解りかいしやすく、戦時せんじ雰囲気ふんいきにも適合てきごうしていたため、昭和しょうわ初期しょき公共こうきょう建築けんちくにおいて流行りゅうこうした。渡辺わたなべひとし愛知あいちけん庁舎ちょうしゃ1938ねん昭和しょうわ13ねん)などがそのいちれいである[61]

明治めいじ神宮じんぐう宝物殿ほうもつでん
震災しんさい記念きねんどう
築地つきじ本願寺ほんがんじ
日本橋にほんばし高島屋たかしまや
愛知あいちけん庁舎ちょうしゃ

評価ひょうか[編集へんしゅう]

我国わがくに将来しょうらい建築けんちく様式ようしき如何いかにすべきや」討論とうろんかい辰野たつのうよう「意見いけん発表はっぴょうかい」のいきず、建築けんちく学会がっかいとしての統一とういつ見解けんかいすことも出来できなかった[2]。しかし、どう討論とうろん日本にっぽんのコンペティションの歴史れきし密接みっせつむすびつくものであり、近代きんだい日本にっぽん建築けんちくにおいては、当時とうじ建築けんちく思潮しちょうじょう重要じゅうよう意義いぎがある出来事できごとであったとみなされている[1]

藤岡ふじおかひろしはこの論争ろんそうについて、「西洋せいよう建築けんちく様式ようしきいちとおりマスターできたという自負じふがある一方いっぽうで、西洋せいようには所詮しょせんいつけないのではないかというめた自覚じかくまれてきた」当時とうじ建築けんちくかいが、さき見通みとおせない焦燥しょうそうかんにかられておこなったものであると総括そうかつしている[2]。また、五十嵐いがらし太郎たろうも、様式ようしき建築けんちくがすでに時代遅じだいおくれな存在そんざいとなりつつあり、建築けんちくかいあたらしいモダニズムに移行いこうしつつあったこの時期じきにおいて、この議論ぎろんは「どのみちえらぼうとも、すぐに賞味しょうみ期限切きげんぎれとなる、正解せいかいのない討論とうろんかいだった」とろんじる[62]

一方いっぽうで、藤森ふじもりあきらしんは、ただ西洋せいよう模倣もほうするのみにとどまっていた日本にっぽん建築けんちくが『建築けんちくろん』を志向しこうしはじめた時代じだい象徴しょうちょうてき出来事できごととしてどう討論とうろんあつか[63]。また、にち直彦なおひこはこの討論とうろんかい歴史れきしてき意義いぎを、日本にっぽんにおける建築けんちくろん領域りょういきひら契機けいきとなったこと、「日本にっぽん様式ようしき」というテーマをひろ共有きょうゆうさせたことの2てんもとめている[64]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ きゅう字体じたい我國わがくに將來しょうらい建築けんちく樣式ようしき如何いかにすべきや
  2. ^ エンデとベックマンは構想こうそうてるのみで、実際じっさい設計せっけい担当たんとうしたのはエンデ&ベックマン事務所じむしょ所員しょいんのパウル・ケーラー(Paul Köhler)である[7]
  3. ^ 伊東いとうは『法隆寺ほうりゅうじ建築けんちくろん』をめいじする論考ろんこうを1893ねん明治めいじ26ねん)、1896ねん明治めいじ29ねん)、1898ねん明治めいじ31ねん)の3にわたり発表はっぴょうしている。これらの論考ろんこうはそれぞれ微妙びみょうことなり、おわり稿こうでは初稿しょこうにあった「建築けんちく美術びじゅつたる所以ゆえん」を立証りっしょうする記述きじゅつ削除さくじょされ、かわりに歴史れきし研究けんきゅうとしての強度きょうどたかめる実証じっしょうてき記述きじゅつえている[19]
  4. ^ 省内しょうない技術ぎじゅつしょく最高さいこう責任せきにんしゃ[25]
  5. ^ 内訳うちわけ伊東いとう忠太ちゅうた中條ちゅうじょう精一郎せいいちろう大澤おおさわ三之さんのすけ大江おおえ新太郎しんたろう岡田おかだ信一郎しんいちろう葛西かさいまんつかさ片岡かたおかやすし武田たけだいち田邊たなべあつしきちそう兵蔵ひょうぞう塚本つかもとやすし長野ながの宇平野口のぐち孫市まごいち矢橋やはし賢吉けんきち古宇田こうだみのる森山もりやま松之助まつのすけ鈴木すずきただし[58]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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いち資料しりょう[編集へんしゅう]

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  • 建築けんちく学会がっかいへん)『建築けんちく雑誌ざっしだい24かんだい284ごう建築けんちく学会がっかい、1910ねん8がつ