美うつくしいアナベル・リイ

『美うつくしいアナベル・リイ』（うつくしいアナベル・リイ）は、2007年ねん（平成へいせい19年ねん）に新潮社しんちょうしゃから出版しゅっぱんされた大江おおえ健三郎けんざぶろうの長編ちょうへん小説しょうせつである。単行本たんこうぼんは『﨟たしアナベル・リイ 総毛立そうけだちつ身みまかりつ』のタイトルで出版しゅっぱんされたが、2010年ねん（平成へいせい22年ねん）の新潮しんちょう文庫ぶんこ版はんにおいて改題かいだいされた。

概要がいよう

「作家さっか生活せいかつ50周年しゅうねん記念きねん小説しょうせつ」として『新潮しんちょう』に2007年ねん6月がつ号ごうから10月がつ号ごうまで5回かい短期たんき集中しゅうちゅう連載れんさいされたのち、2007年ねん11月に新潮社しんちょうしゃから単行本たんこうぼんが出版しゅっぱんされた。表紙ひょうしは、薄うす桃色ももいろの背景はいけいに、山本やまもとじんによるエロティックな装画そうがが描えがかれている。

アナベル・リイとはエドガー・アラン・ポーの詩しにうたわれる少女しょうじょである。この詩しを元もとにしたアナベルという少女しょうじょがウラジミール・ナボコフの『ロリータ』で描えがかれる。この二ふたつの文芸ぶんげい作品さくひんが本書ほんしょで参照さんしょうされる。本ほん作さくの中なかでアナベル・リイの詩しは幾いく度どか引用いんようされるが、日夏ひなつ耿之介こうのすけの訳わけが使つかわれている。

作中さくちゅうで「私わたし」が『ロリータ』の新訳しんやくの解説かいせつを書かいたというエピソードがでてくるが、2006年ねんに新潮しんちょう文庫ぶんこから出版しゅっぱんされた若島わかしま正ただし訳わけの解説かいせつ「野心やしん的てきで勤勉きんべんな小説しょうせつ家か志望しぼうの若者わかものに」を実際じっさいに大江おおえは執筆しっぴつしている。

あらすじ

老ろう作家さっかである「私わたし」を、大学だいがくの教養きょうよう課程かていのころの友人ゆうじんで国際こくさい的てきな映画えいがプロデューサーである木守こもりが訪たずねてくる。木守こもりは30年ねん前まえに2人ふたりが取とり組くんで、結局けっきょく頓挫とんざした映画えいがの企画きかくを再度さいど立たち上あげようと提案ていあんする。「私わたし」は30年ねん前まえを回想かいそうする。

「私わたし」が1970年代ねんだいなかば、金芝河きむじはの釈放しゃくほうを求もとめて集団しゅうだんでハンストをおこなっているところに、木守こもりは女優じょゆうサクラ・オギ・マガーシャックを連つれて尋たずねてきた。サクラを主人公しゅじんこうにしてクライストの『ミヒャエル・コールハースの運命うんめい』の映画えいがを撮とる国際こくさい的てきなプロジェクトがあり、そのシナリオを「私わたし」に依頼いらいするためである。

サクラは戦災せんさい孤児こじで、占領せんりょう軍ぐんの語学ごがく将校しょうこうマガーシャックの養女ようじょとなって、戦後せんご、松山まつやまに暮くらしていたことがある。そこで語学ごがく将校しょうこうはサクラをアナベル・リイに見立みたてて、8mmフィルムを撮とっていた。高校こうこう時代じだい松山まつやまで暮くらしていた「私わたし」は、そのフィルムをアメリカ文化ぶんかセンターで見みた記憶きおくがあり、フィルムの最後さいごにチャイルド・ポルノのシーンがあったことを覚おぼえていた。一方いっぽう、サクラ自身じしんはフィルムの内容ないようを気きにかけているものの、確たしかな記憶きおくを持もっていない。

コールハースの映画えいがの企画きかくは進すすみ、原作げんさくを翻案ほんあんして、「私わたし」の故郷こきょうである愛媛えひめの山奥やまおくの村むらの一揆いっきの指導しどう者しゃで、最後さいごは無残むざんに陵辱りょうじょくされたメイスケ母ははの物語ものがたりに重かさね合あわせることになる。サクラは大おおいに乗のり気きになり、「私わたし」の妹いもうとで村むらに住すむアサとコンタクトを取とり、伝承でんしょうを取材しゅざいして役やく作づくりを進すすめていく。

撮影さつえいの準備じゅんびが進すすみ始はじめた時とき、撮影さつえいスタッフが、子役こやくの幼女ようじょを盗ぬすめ撮うつしてチャイルド・ポルノにしていることが発覚はっかくし、警察けいさつ沙汰ざたになる。映画えいがの出資しゅっし者しゃが降おりて、映画えいがの企画きかくは潰ついえるが、サクラは映画えいがを諦あきらめる気きはない。木守こもりは、松山まつやまで昔むかし撮影さつえいされた8mmフィルムのサクラが陵辱りょうじょくされたシーンが映うつっている「無む削除さくじょ版ばん」をサクラに見みせる。サクラは精神せいしん的てきに深ふかいダメージを負おい、アメリカに戻もどり精神せいしん病院びょういんに入院にゅういんすることになる。サクラを降板こうばんさせるためにこうした手段しゅだんを取とった木守こもりを、「私わたし」は「陋劣ろうれつ」であると責せめて、「私わたし」と木守こもりの関係かんけいは途切とぎれる。そして30年ねん後ご。

「私わたし」はナボコフの『ロリータ』の新訳しんやくが文庫ぶんこで出版しゅっぱんされたときに、その解説かいせつを執筆しっぴつした。それを、あるきっかけから目めにとめたサクラが木守こもりに再度さいど、映画えいがを立たち上あげようと呼よびかけた。それを受うけて木守こもりは「私わたし」にコンタクトを取とりにきたのだった。サクラのメイスケ母ははへの思おもい入いれはそれほど強つよかった。木守こもりは「私わたし」に「小説しょうせつの玄人くろうととして、映画えいがの小説しょうせつを書かいてもらいたい 」という。

木守こもりがプロデューサーとして動うごき、映画えいがの実現じつげんの目処めどが立たつ。サクラは撮影さつえいのために愛媛えひめへ行いき、木守こもりは前立腺ぜんりつせん癌がんの再発さいはつの検査けんさで東京とうきょうの病院びょういんに入院にゅういんする。木守こもりを見舞みまった「私わたし」がその帰かえり道みちの電車でんしゃの中なかで、サクラがメイスケ母ははの嘆なげきと怒いかりの「口説くどき」を演えんじている美うつくしいシーンを想像そうぞうするところで物語ものがたりは終おわる。

批評ひひょう

沼野ぬまの充たかし義ぎによる批評ひひょう

ロシア文学ぶんがく者しゃ・東京とうきょう大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅの沼野ぬまの充たかし義よしは、本ほん作さくについて、まず（単行本たんこうぼん版ばんの）タイトルが、耳みみに抵抗ていこうのないつるつるした表題ひょうだいが氾濫はんらんする時代じだいに対たいする反逆はんぎゃく的てき姿勢しせいであるとする。またグロテスク・リアリズムと社会しゃかい的てきコミットメントと独自どくじの私小説ししょうせつの間あいだを行いき来きしながら実験じっけんをおこなってきた大江おおえと、ナボコフのような「審美しんび的てき」な作家さっかは無縁むえんであると思おもわれてきたところ、『憂うい顔かおの童子どうじ』（登場とうじょう人物じんぶつローズさんの元もと夫おっとが「『ロリータ』おたく」 という設定せっていであった）、『さようなら、私わたしの本ほんよ!』（ナボコフの『賜物たまもの』からタイトルが採とられている）、そして本ほん作さく、と大江おおえにとって、どんどんナボコフが近ちかしいものとなってきていることの意外いがい性せいに言及げんきゅうする。そしてそれが、大江おおえが本ほん作さくにおいて、これまで書かくことのできなかった「ロマンティックな小説しょうせつ」の試こころみをして、思おもいがけない若々わかわかしさを発揮はっきしていることと、本質ほんしつ的てきに関係かんけいするだろうとして、大江おおえは、本ほん作さくにおいて円熟えんじゅくとは異ことなる唐突とうとつで大胆だいたんな表現ひょうげんの自由じゆうを獲得かくとくしたと評ひょうした。

榎本えのもと正樹まさきによる批評ひひょう

文芸ぶんげい評論ひょうろん家か・榎本えのもと正樹まさきは、本ほん作さくは、『政治せいじ的てき無意識むいしき』の著者ちょしゃで文芸ぶんげい理論りろん家かのフレドリック・ジェイムソンの『宙返ちゅうがえり』の書評しょひょうによって示唆しさされ、大江おおえ本人ほんにんに方法ほうほう論ろんとして意識いしき化かされた「おかしな二に人組にんぐみ（スウード・カップル）」の系譜けいふの承継しょうけいと新しん展開てんかいであるとする。本ほん作さくには語かたり手て「私わたし」と「肥満ひまんした中なか年男としおとこ」の息子むすこ・光ひかりの二に人組にんぐみ、「私わたし」と映画えいがプロデューサー・木守こもりの二に人組にんぐみ、サクラと少女しょうじょ時代じだいからの親友しんゆう・柳やなぎ夫人ふじんの二に人組にんぐみといろいろな二に人組にんぐみが登場とうじょうすること、後半こうはんに「私わたし」と木守こもりの二に人組にんぐみが後景こうけい化かして、サクラと「私わたし」の妹いもうと・アサが前景ぜんけい化かするのが物語ものがたり上じょうの構造こうぞうであることを摘示したうえで、女性じょせい二に人組にんぐみと男性だんせい二に人組にんぐみの複ふく合あい的てきな接合せつごうと交代こうたいは『おかしな二に人組にんぐみ三さん部ぶ作さく』以後いごとしての今後こんごの大江おおえ文学ぶんがくを特徴とくちょうづける重要じゅうような要素ようそとなっていくのではないか、と述のべる

玄げん月がつによる批評ひひょう

作家さっか・玄げん月がつは、作品さくひん内容ないように触ふれて、30年ねん前まえの映画えいが制作せいさくにおいて、サクラが木守こもりから性的せいてき虐待ぎゃくたいの事実じじつを明あかされて精神せいしん的てきに深ふかいダメージを負おう前半ぜんはん部ぶと、男おとこ二に人組にんぐみ（肥満ひまんした老人ろうじんになった「私わたし」、ガンが再発さいはつして死期しきが近ちかい木守こもり）が衰弱すいじゃくしたのに比ひして、サクラが生いき生いきとしてくる後半こうはん部ぶの対比たいひと、その力強ちからづよく再起さいきしたサクラへの男おとこ二に人組にんぐみのリスペクトこそが本ほん作さくの要ようであろうと論ろんじる。そして本書ほんしょの構成こうせいは高度こうどに巧緻こうちであるが、サクラを描えがき切きるためにあらゆるものを動員どういんした結果けっかこうなったのではないか、と述のべる。また、上映じょうえい中ちゅうの映画えいが館かんに途中とちゅうで入はいったかのように、大江おおえの中期ちゅうき作さく『「雨あめの木き」を聴きく女おんなたち』にいきなり触ふれた、自みずからの大江おおえ文学ぶんがくとに出会であいの思おもい出でを語かたったうえで、本ほん作さくは著者ちょしゃの過去かこの長編ちょうへんと比くらべると小振こぶりで読よみやすく、これから新あたらしく大江おおえ読者どくしゃとなる人ひとの初はじめの一いち冊さつとしても申もうし分ぶんないと述のべる。

刊行かんこう書誌しょし

• 大江おおえ健三郎けんざぶろう『﨟たしアナベル・リイ 総毛立そうけだちつ身みまかりつ』新潮社しんちょうしゃ、2007年ねん ISBN 978-4103036197
• 大江おおえ健三郎けんざぶろう『美うつくしいアナベル・リイ』新潮しんちょう文庫ぶんこ、2010年ねん ISBN 978-4101126227
• 大江おおえ健三郎けんざぶろう『大江おおえ健三郎けんざぶろう全ぜん小説しょうせつ 第だい9巻かん』講談社こうだんしゃ、2019年ねん ISBN 978-4-06-509010-7

  『「雨あめの木き」を聴きく女おんなたち』『人生じんせいの親戚しんせき』『静しずかな生活せいかつ』『美うつくしいアナベル・リイ』収録しゅうろく