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えびすあいごく

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あいだまごくから転送てんそう

えびすあいごく(こらん の ごく)は、中国ちゅうごく明代あきよ初期しょきひろしたけ13ねん1380ねん)に宰相さいしょうえびすおもんみいさお造反ぞうはん計画けいかくをきっかけにきた粛清しゅくせい事件じけんえびすおもんみいさおごく」と、ひろし26ねん1393ねん)にきた将軍しょうぐんあいたまかんする同様どうよう粛清しゅくせい事件じけんあいだまごく」をあわせた総称そうしょうである[1][2]ひろし23ねん1390ねん)にきたよしちょうごくえびすおもんみいさおごく延長えんちょうなして、これをふくめる場合ばあいもある[3]ひろしたけみかど治世ちせい後期こうき徹底てっていした恐怖きょうふ政治せいじ象徴しょうちょうする事件じけんぐんであり、いずれもいちまんにん以上いじょう犠牲ぎせいしゃしたといわれるだい粛清しゅくせいである。あかり国内こくないにとどまらず、日本にっぽんとの外交がいこうにも影響えいきょうおよぼすだい事件じけんとなった。このほかにもひろしたけみかど治世ちせいきた同様どうよう粛清しゅくせい事件じけんおおく、ひろし9ねん1376ねん)の「そらしるしあん」、ひろし18ねん1385ねん)の「かくあん」をあわせて「あきらはつ四大しだいあん」「ひろしたけ四大しだいあん」などとばれることもある。ほんこうでは、上記じょうきの4事件じけんのほかひろしたけみかどおこなわれた粛清しゅくせい事件じけんである「はやしけん事件じけん」「よしちょうごく」などもふくめ、ひろしたけみかど治世ちせい粛清しゅくせい事件じけん全般ぜんぱん概説がいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

明太めんたいひろしたけみかどしゅもとあきら)の肖像しょうぞう
みにくえがかれたかおひだり)と威厳いげんがあるようえがかせたかおみぎ

ほんこうでは、ひろしたけみかどふとししゅもとあきら)の治世ちせい1368ねん - 1398ねん)にきた以下いか粛清しゅくせい事件じけん

  • そらしるしあん(1376ねん
  • えびすおもんみいさおごく(1380ねん
  • かく桓のあん(1385ねん
  • はやしけん事件じけん(1386ねん
  • よしちょうごく(1390ねん
  • あいだまごく(1393ねん

げる。以上いじょう一連いちれん事件じけん犠牲ぎせいしゃは、わせてじゅうすうまんにんおよんだともわれ、凄惨せいさんだい粛清しゅくせいとなった。上記じょうきのうち、はやしけん事件じけんよしちょうごくは、えびすおもんみいさお与党よとう追及ついきゅうするためにおこなわれたもので、いわばえびすおもんみいさおごくかえして、こされた事件じけんであり、ひろ意味いみではえびすおもんみいさおごくふくまれる。

えびすおもんみいさおあいたまは、それぞれ謀叛ぼうほん計画けいかくしていたとされ、そらしるしあんかく桓のあん役人やくにん不正ふせい追及ついきゅうするためという名目めいもくがあった。しかし、いずれのけんもほとんど調しらべがおこなわれないまま、関係かんけいしゃ即時そくじ処断しょだんされている。かく事件じけん疑惑ぎわく根拠こんきょとなった造反ぞうはん計画けいかく不正ふせいについては、朝廷ちょうていによる調しらべの結果けっか詳細しょうさい公的こうてき記録きろくのこされている。しかしこれらはひろしたけみかどがわによる捏造ねつぞう可能かのうせいたかく、本当ほんとう反逆はんぎゃく計画けいかく不正ふせいがあったかはかなりうたがわしい。一連いちれん事件じけん背景はいけいには、皇帝こうてい独裁どくさい体制たいせい推進すいしんするひろしたけみかど思惑おもわくがあったとされる。

ひろしたけみかど建国けんこくまえきむりょう(のちおうてん改名かいめい)を拠点きょてんとしてもとすえ群雄割拠ぐんゆうかっきょあらそいをせいしたこともあり、江南こうなん地区ちく地主じぬし知識ちしきじんそう支持しじ基盤きばんとしており、あたらしい明朝みんちょう政権せいけんにはみなみじん地主じぬし出身しゅっしん官僚かんりょうおお参画さんかくしていた。しん王朝おうちょう皇帝こうてい権力けんりょく強化きょうかしようとするひろしたけみかどは、既得きとく権益けんえき固守こしゅする江南こうなん地主じぬし勢力せいりょく抑制よくせいしようと様々さまざま施策しさくおこなうが、はかばかしい効果こうかられなかった。またそのあいだひろしたけみかどおな安徽あんき出身しゅっしん側近そっきん勢力せいりょくも「建国けんこく功臣こうしん」としておもんじられるうち、地位ちい名声めいせい利用りようして私腹しふくやしたり、制度せいどてき軍事ぐんじてき皇帝こうてい権力けんりょくおびやかすものかねない状態じょうたいにあった。ひろしたけみかどはこれら江南こうなん地主じぬし功臣こうしん勢力せいりょく一掃いっそうし、権力けんりょく自分じぶん集中しゅうちゅうさせるため、粛清しゅくせいという手段しゅだんうったえたのである。またえびすおもんみいさおはやしけん利用りようして、当時とうじひろしたけみかどいていたやまと黒幕くろまくていた日本にっぽん断交だんこうするための手段しゅだんとするなど、外交がいこうめんでもこれらの事件じけん利用りようした。

えびすあいごくは、えびすおもんみいさおあいだま造反ぞうはん計画けいかくへの処罰しょばつというより、ひろしたけみかど仕掛しかけた粛清しゅくせい事件じけんであるというのは、現在げんざいでは定説ていせつとなっている[4][3][5][2]あかり建国けんこく貢献こうけんした支持しじそう功臣こうしん非情ひじょうにも大量たいりょう処刑しょけいしたひろしたけみかどたいし、『廿にじゅう箚記』をあらわしたきよしだい考証こうしょうがくものちょうつばさは「その残忍ざんにんじつ千古せんこにいまだあらざるところ」とひょうしている[2]

事件じけん背景はいけい[編集へんしゅう]

元朝がんちょう末期まっきモンゴル帝国ていこくによる支配しはいにかげりがはじめると、白蓮びゃくれん教徒きょうと反乱はんらんであるべにはばらんをきっかけに、華南かなん各地かくちちんともりょうちょうまことかんりんかたこくめずらしらの軍閥ぐんばつ割拠かっきょした。そんななか頭角とうかくあらわしたのがしゅもとあきらひろしたけみかど)である。しゅもとあきら逐次ちくじ軍閥ぐんばつ制圧せいあつし、もと北方ほっぽう放逐ほうちくすることにより、ひろしたけ元年がんねん(1368ねん)に明王みょうおうあさ建国けんこくした。

あかり国内こくない事情じじょう[編集へんしゅう]

ひろしたけみかどは、元々もともと安徽あんきしょう出身しゅっしんであるが、いたりただし16ねん1356ねん)の南京なんきん占領せんりょう以来いらい江南こうなん地区ちく基盤きばんとしてもとまつ群雄割拠ぐんゆうかっきょそよいた。もと時代じだいにはみなみじんばれ、色目いろめじん漢人かんど華北かほく地域ちいきかねあさのこみん)のしたかれて抑圧よくあつされていた江南こうなん大夫たいふ地主じぬしにして知識ちしきじん)たちにとって、しゅもとあきらささえた理由りゆうは、支配しはいりょくよわまった元朝がんちょう見限みかぎり、みずからの既得きとく権益けんえきまも保護ほごしゃ必要ひつようとしたためであった。が、元朝がんちょう北方ほっぽう統一とういつ政権せいけん成立せいりつした段階だんかいとなると、皇帝こうてい権力けんりょく強化きょうかしようとするひろしたけみかどと、しん王朝おうちょう多数たすう官僚かんりょう輩出はいしゅつした江南こうなん地主じぬし勢力せいりょくあいだ様々さまざま矛盾むじゅんしょうじるようになっていた[6]

江南こうなん政権せいけんから全国ぜんこく政権せいけん移行いこうするため、ひろしたけみかど次々つぎつぎ江南こうなん勢力せいりょく抑制よくせいする政策せいさく採用さいようする。ひろし4ねん1371ねん)の「南北なんぼくさら調ちょうせい」で、官僚かんりょう出身しゅっしんへの赴任ふにんができないものとして、江南こうなん官僚かんりょうあらたに地盤じばん強化きょうかしようとするうごきをおさ[7]ひろし6ねん1373ねん)2がつには科挙かきょ廃止はいしして、みなみじん官僚かんりょう新規しんき輩出はいしゅつ停止ていしさせるなどの措置そちがとられた[8]廃止はいしまえひろし4ねんかいためし合格ごうかくしゃ128めいのうち88めいみなみじん出身しゅっしんしゃであった)[9]科挙かきょは、ひろし18ねん1385ねん)に再開さいかいされるまで、12年間ねんかん中断ちゅうだんすることになる。ただし従前じゅうぜんから地方ちほう既得きとく権益けんえきゆうしていた官僚かんりょうそう排除はいじょするまでにはいたっておらず、皇帝こうてい権力けんりょく強化きょうかすすめたいひろしたけみかどにとって、みなみじん官僚かんりょう排除はいじょ喫緊きっきん課題かだいとなっていた。

また、明朝みんちょう建国けんこく功績こうせきのあった重臣じゅうしんたちの勢力せいりょく拡大かくだいも、ひろしたけみかどにとって障害しょうがいとなりつつあった。かれらは「建国けんこく功臣こうしん」としょうされ、地位ちい名声めいせい利用りようして私腹しふくやすものもあり、また徒党ととうみ、職権しょっけん利用りようして人事じんじけん軍事ぐんじりょく掌握しょうあくし、皇帝こうてい権力けんりょく凌駕りょうがしようとする功臣こうしんあらわれはじめていたからである。ひろし9ねん10がつ群臣ぐんしんまえにした上諭じょうゆで、ひろしたけみかど君臣くんしんぶん天地てんちのごとくえられないものである、ときびしくたしなめ[10]ひろし12ねん1379ねん)には創業そうぎょう以来いらい功臣こうしん辞職じしょく勧告かんこくする上諭じょうゆまでされたが[11]功臣こうしん同士どうし権力けんりょくあらそいや皇帝こうてい軽視けいし姿勢しせいわらなかった。このころには、江南こうなん地主じぬし勢力せいりょく功臣こうしん勢力せいりょく排除はいじょすることがひろしたけみかどにとっての目下もっか課題かだいとなったのである。

国際こくさいてき事情じじょう[編集へんしゅう]

あかりは、元朝がんちょう北方ほっぽう放逐ほうちくすることで建国けんこくした王朝おうちょうであるが、元朝がんちょう崩壊ほうかいしたわけではなく、モンゴル高原こうげんにおいて北元きたもととして継続けいぞくしており、依然いぜんとしてあかりとのこうそうつづいていた。これをあかりがわからて「きたとりこ」とぶ。一方いっぽう華南かなん東シナ海ひがししなかい沿岸えんがんとくやすしなみ周辺しゅうへん海域かいいきは、やまと海賊かいぞくらによって襲撃しゅうげきされたり住民じゅうみん拉致らちされるなど疲弊ひへいしており、こちらは「みなみやまと」とばれた。あかりいた南京なんきんうみからちかく、やまと寇の危機きき現実げんじつのものであり、「きたとりこみなみやまと」はともにあかり建国けんこく当初とうしょから、ひろしたけみかど頭痛ずつうたねとなっていた。

やすしふるくはあきらしゅうといい、そうもとだいにはけいもとしょうした国際こくさいみなとである。そうだい舶司かれて以降いこう、さらに発展はってん繁栄はんえいし、こううらら日本にっぽん東南とうなんアジアなどからおおくの商人しょうにん来航らいこうした。泉州せんしゅう広州こうしゅうとならぶ華南かなんじゅう要港ようこうとなっていた。もとまつ混乱こんらん時代じだいには、貿易ぼうえき商人しょうにん出身しゅっしんかたこくめずらし根拠地こんきょちとし、配下はいか海賊かいぞく使つか交易こうえき財源ざいげんに、最後さいごまでしゅもとあきら政権せいけん抵抗ていこうしていたが、いたりせい27ねん1367ねん)にしゅもとあきらぐんによって平定へいていされ、降伏ごうぶくする。翌月よくげつ即位そくい明王みょうおうあさ建国けんこくしたしゅもとあきらは、おうかつきょうしゅもとあきら長兄ちょうけいしゅ興隆こうりゅうむすめ福成ふくなり公主こうしゅおっと)をやすしまもる指揮しき使めいずる。これがやすしまもるはつれいで、翌年よくねんにはりくよわいにんぜられて戦後せんご混乱こんらん収束しゅうそくし、泉州せんしゅう広州こうしゅうとならんで舶司が設置せっちされ、本格ほんかくてき海上かいじょう交易こうえき再開さいかいした。このやすしまもる指揮しき使にんぜられたはやしけんひろし9ねん以前いぜん就任しゅうにん)がのちえびすおもんみいさおごく連座れんざすることになる[12]

やまと寇の活動かつどう地域ちいき

やまと寇」とは朝鮮ちょうせんじんもとあきらにん日本人にっぽんじん主体しゅたいとする海賊かいぞくにつけた呼称こしょうである。あかり建国けんこくされた14世紀せいきなかばは、前期ぜんきやまと寇の活動かつどうにあたり、対馬つしま壱岐いき松浦まつうら五島列島ごとうれっとうなどの住民じゅうみん中心ちゅうしんであったと推測すいそくされる(詳細しょうさいやまと寇#前期ぜんきやまと参照さんしょう)。おなごろ中国ちゅうごく沿岸えんがんでも海賊かいぞくうみ寇とばれるアウトロー集団しゅうだん活動かつどう顕著けんちょとなっており、やまと寇や海賊かいぞく海上かいじょう航行こうこうする商船しょうせんなどを襲撃しゅうげきしたり、沿岸えんがん村落そんらく襲撃しゅうげきして住人じゅうにん物資ぶっし略奪りゃくだつしていた[13]かたこくちんもその代表だいひょうてき存在そんざいであり、による平定へいていも、沿岸えんがんではやまと寇や海賊かいぞく襲撃しゅうげきつづき、混乱こんらん収束しゅうそくしなかった。

事態じたい憂慮ゆうりょしたひろしたけみかどは、即位そくい同時どうじしん王朝おうちょう樹立じゅりつらせる使者ししゃ周辺しゅうへん諸国しょこくの「よんえびすきみちょう」に派遣はけんし、君臣くんしん関係かんけいむすぶことで、あらたなひがしアジア秩序ちつじょさつふう体制たいせい」の確立かくりつ模索もさくする。しかしこれにすぐおうじてあかり入貢にゅうこうしたのはこううららやすみなみうらないじょう(チャンパ)などにかぎられ、ひろしたけみかどやまと寇の黒幕くろまくしんじてうたがわなかった日本にっぽんは、南北なんぼくあさ混乱こんらんにあたることもあり、反応はんのうにぶかった[14]

日本にっぽんへの最初さいしょ使者ししゃ五島列島ごとうれっとうやまと寇に殺害さつがいされてしまい、ひろしたけみかど国書こくしょはそもそも日本にっぽん権力けんりょくしゃへはとどかなかった。翌年よくねんひろしたけみかど楊載ふたた日本にっぽん派遣はけんし、あかりへの入貢にゅうこうつようながす。楊載は旧例きゅうれいとお博多はかた大宰府だざいふおとずれたが、当時とうじ九州きゅうしゅうは、せい西にし将軍しょうぐんなつけ親王しんのう南朝なんちょう後村上天皇ごむらかみてんのうすめらぎおとうと)が北朝ほくちょうかた守護しゅご大名だいみょうあらそいをひろげている最中さいちゅうにあった。楊載らは大宰府だざいふ支配しはいするふところりょう親王しんのう国書こくしょをもたらしたが、あかりがわこうあつてきやまと寇鎮あつ要求ようきゅう激怒げきどした親王しんのうは、使者ししゃ7めいのうち5めいり、正使せいし楊載とぶんはなを3カ月かげつあいだ拘留こうりゅうしたのち強制きょうせい帰国きこくさせた[15]

こうしたなつけ親王しんのう非礼ひれいにもかかわらず、ひろしたけみかど翌年よくねん3度目どめ使者ししゃちょう派遣はけんした。ひろしたけみかどやまと寇を日本にっぽん尖兵せんぺいかんがえており、やまと寇のがいをなくすには、日本にっぽんさつふうして朝貢ちょうこうこくれるほかないとかんがえたためである。なつけ親王しんのうはこの時期じき劣勢れっせいとなっており、九州きゅうしゅうでの地盤じばんがためにあかり権威けんい利用りようしようとしたためか、あるいは朝貢ちょうこう貿易ぼうえき利益りえきるためか、最終さいしゅうてきれてらいなるそう国書こくしょをもたせて入貢にゅうこうさせた。ひろしたけみかどよろこんでなつけ親王しんのうあかりがわではあやまってふところつたえられた)を日本にっぽん国王こくおうとして認定にんていし、ようやく日明ひあがり国交こっこうったかにえた。しかしひろし5ねん1372ねん)5がつまつ正式せいしき日本国にっぽんこくおうりょうふところさつふうするためにあかり使なか猷祖闡いっかつつとむらが派遣はけんされるも、8がつ博多はかたきた朝方あさがた室町むろまち幕府ばくふ九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ了俊りょうしゅん奪還だっかんされ、せい西府にしふ崩壊ほうかい寸前すんぜん状況じょうきょうにあった。了俊りょうしゅん拘禁こうきんされたあきら使つかいらは、このときはじめて日本にっぽん南朝なんちょうりょうふところ)と北朝ほくちょうもちあきら)とにかれてあらそっていることをり、交渉こうしょう相手あいてきた朝方あさがた室町むろまち幕府ばくふ転換てんかんする[16]。しかし、将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつはまだわかく、この時期じき幕府ばくふ内部ないぶでもあかりとの交渉こうしょう消極しょうきょくてき細川ほそかわよりゆきこれ今川いまがわ了俊りょうしゅんらが主流しゅりゅうであった[17]積極せっきょく斯波しばよししょうはるみょうらがひそかにいっちょう秩と交渉こうしょうし、帰国きこくさいやまと寇の捕虜ほりょとなっていたあきら高麗こうらいみん150めい返還へんかんされたものの、あかりがわは「国王こくおう」でない陪臣ばいしん義満よしみつからの書状しょじょう受理じゅりせず、国交こっこうらなかった[18]。なおこののちも「日本国にっぽんこくおうりょうふところ」からの使者ししゃがしばしばあかり渡来とらいしたが、これはなつけ親王しんのう以外いがいだれか(島津しまつなど九州きゅうしゅう守護しゅご大名だいみょうおもわれる)が派遣はけんしたにせ使つかいである。

はかばかしい進展しんてんられず、(あかりがわからて)誠意せいいかんじられない日本にっぽん苛立いらだったひろしたけみかどは、日本にっぽんとの交渉こうしょう断念だんねんかんがはじめていた。ひろし7ねん1374ねん)9がつには、貿易ぼうえき管理かんり機関きかんである舶司が廃止はいしされ、民間みんかん商人しょうにんによる貿易ぼうえき全面ぜんめんてき禁止きんしされた。う「うみきん政策せいさく開始かいしである。こののち他国たこくとの貿易ぼうえきさつふうこくからあかりへの朝貢ちょうこうあかりからさつふうこくへのかいたまものという、朝貢ちょうこう貿易ぼうえき限定げんていされたのである[19]

粛清しゅくせい事件じけん経緯けいい[編集へんしゅう]

王朝おうちょう設立せつりつ直後ちょくご混乱こんらん収束しゅうそくし、もととのたたかいに一段落いちだんらくしたひろし8ねん・9ねん1375ねん1376ねんごろになると、ひろしたけみかど本格ほんかくてき内政ないせい整備せいびちからそそぐようになる。ひろし8ねん(1375ねん)8がつカラコルム拠点きょてんあかりぐんくるしめていた北元きたもと将軍しょうぐんココ・テムル病死びょうしし、モンゴル勢力せいりょくきた後退こうたい。それまでひろしたけみかど華北かほく軍政ぐんせいいていたが、でんともとくのみをのこして武将ぶしょうげさせ、外政がいせいめんではいくらかの余裕よゆうしょうじるようになった[20]

そらしるしあん[編集へんしゅう]

そこで内政ないせい整備せいびし、皇帝こうてい専制せんせい目指めざひろしたけみかど仕掛しかけた最初さいしょ粛清しゅくせい事件じけんが、ひろし9ねん(1376ねん)の「そらしるしあん」(そらしるし事件じけん)である。当時とうじ明朝みょうちょう地方ちほうかんは、毎年まいとし決算けっさん報告ほうこく朝廷ちょうてい戸部とべ提出ていしゅつすることになっていたが、間違まちがいやもどしがあった場合ばあいさい提出ていしゅつそなえ、長官ちょうかんしるしがあらかじめしてある空欄くうらん書類しょるい用意よういするのが公然こうぜん秘密ひみつとして慣習かんしゅうされていた[8]ひろしたけみかど突如とつじょ、この慣習かんしゅう不正ふせい温床おんしょうとして摘発てきはつし、大量たいりょう地方ちほうかん処罰しょばつ死刑しけい左遷させん辺境へんきょうおくり)などのけいしょしたのである。そらしるし文書ぶんしょ携帯けいたいすることはかなり以前いぜんからの慣例かんれいであり、それまでとがめられたこともなかった。しかし突如とつじょとして「弊害へいがいしょうじるため」との理由りゆうで、いち警告けいこくもなくばっせられたため、官僚かんりょうたちはだい混乱こんらんおちいる。

おぼえのないつみせられた地方ちほう官僚かんりょうからは、冤罪えんざいうったえる主張しゅちょう頻出ひんしゅつしたが、ひろしたけみかどだい監察かんさつかん)の告発こくはつさえあれば即刻そっこく処罰しょばつするといった、きわめて手荒てあら方法ほうほうったため[21]ぜん地方ちほうがパニックにおちい事態じたいとなった。混乱こんらん様子ようすは、同年どうねんうるう9がつほし異変いへん不吉ふきつきざし)により官僚かんりょうから直言ちょくげん募集ぼしゅうしたさいそらしるしあん有罪ゆうざい無実むじつわず、おおくの官吏かんり処罰しょばつしていることにたいして、地方ちほう官僚かんりょうらが不満ふまん爆発ばくはつさせていることからもうかがえる[22]

じつはこのへんは、突如とつじょ発生はっせいしたものではなく、事前じぜんられたひろしたけみかど計画けいかくによるものであった。それは、この粛清しゅくせいとあわせて地方ちほう行政ぎょうせい大改革だいかいかくおこなわれていることからあきらかである[23]。そのねらいは、みなみじん出身しゅっしん地方ちほうかんそうえと、元朝がんちょうからつづ設置せっちされていた地方ちほう統治とうち機関きかんであるくだり中書ちゅうしょしょうくだりしょう)の解体かいたいにあった。おおくの官僚かんりょう誅殺ちゅうさつされたり流罪るざいとなった一方いっぽう、それにかわって、朝廷ちょうていひゃくにん単位たんい地方ちほうかんそうえをおこなった。また、あるき中書ちゅうしょしょうがこの事件じけん直後ちょくご分割ぶんかつされ、各省かくしょううけたまわ宣布せんぷせい使民政みんせい)・指揮しき使軍事ぐんじ)・ひさげけい按察使監察かんさつ)の3つの役所やくしょ設置せっちされた。12月にはさらに地方ちほうかん刷新さっしん有効ゆうこうにするため、官吏かんり考課こうか制度せいど確立かくりつしている。ぜん王朝おうちょう遺制いせいほうむるとともに、その構成こうせいいんえることにより、ひろしたけみかどあらたな独自どくじ権力けんりょく構築こうちく模索もさくしたのである[24][25]

すなわちそらしるしあんひろしたけみかどがわによる意図いとてき事件じけんであり、そらしるし文書ぶんしょ表向おもてむきの理由りゆうぎず、江南こうなんみなみじん官僚かんりょう対象たいしょうった、一大いちだい刷新さっしんであった。きゅう官僚かんりょう即座そくざ可能かのう人材じんざいがすでに確保かくほされていたことも、朝廷ちょうていがわによる事前じぜん計画けいかく存在そんざいしたことを物語ものがたる。かずひゃくにん人材じんざい用意よういできたのは、王朝おうちょう基盤きばん確定かくていしたことをしめしており、このひろし9ねんという、内外ないがいともに安定あんていした時期じき見計みはからって計画けいかくてきこされたものであろう[22]

またこのそらしるしあんひろしたけみかどり、地方ちほう官僚かんりょう摘発てきはつもっと熱心ねっしんにあたったのは、宰相さいしょうみぎ丞相じょうしょう)のえびすおもんみいさおと、かれによって抜擢ばってきされた大夫たいふちんやすしであった。ちんやすし湖南こなん出身しゅっしん酷吏こくりで、蘇州そしゅうだったとき納税のうぜいおくれた農民のうみんにみせしめとして焼印やきいんし、「ひね烙印らくいん」とばれておそれられた冷酷れいこく無比むひおとこである。そらしるし案件あんけんでも残酷ざんこく調しらべをおこない、さすがのひろしたけみかどもたびたびたしなめたが、そのあらためるどころか、心配しんぱいして諫めた息子むすこちんはじめむちはたころすという非情ひじょうさで、人々ひとびとおそれおののいたという[26]

えびすおもんみいさおごく[編集へんしゅう]

あかり建国けんこく当初とうしょもと制度せいど踏襲とうしゅうして、中央ちゅうおう統治とうち機関きかんである中書ちゅうしょしょう設置せっちし、ひだりみぎ丞相じょうしょう百官ひゃっかん統率とうそつさせていた。このひだりみぎ丞相じょうしょうは「宰相さいしょう」とばれる地位ちいで、権限けんげん強大きょうだいであり、皇帝こうてい権力けんりょく対立たいりつする危険きけんせいふくんでいた。ただし建国けんこく当初とうしょひだり丞相じょうしょうつつしふか性格せいかくよしちょうみぎ丞相じょうしょうはもっぱら軍事ぐんじめん活躍かつやくしたじょいたるで、ともにひろしたけみかど衝突しょうとつすることはなかった[27]わってひろし6ねん1373ねん)にみぎ丞相じょうしょうとなったのが、えびすおもんみいさおである。ひろし10ねん(1377ねん)にはひろしこうようひだり丞相じょうしょうとなったが、ひろしたけみかどさからったため、ひろし12ねん(1379ねん)にこうみなみ左遷させんされてたまわり、わってえびすおもんみいさおひだり丞相じょうしょうとなる。えびすおもんみいさおひろしたけみかどおな安徽あんきしょう出身しゅっしんで、よしちょう推薦すいせんによりひろしたけみかどはやくからつかえていた重臣じゅうしんであった。ひろしたけみかどからの信任しんにんあつかったが専横せんおういがおおく、てきおおかったため、よしちょう姻戚いんせき関係かんけいむすんで淮西派閥はばつ支持しじて、自己じこ地位ちい保全ほぜんした。じょいたるりゅうはじめなどの重鎮じゅうちんは、えびすおもんみいさお宰相さいしょう任命にんめいすることに反対はんたいしたが、ひろしたけみかどはききいれず、かえってかれらをとおざけたひろし8ねん(1375ねん)のりゅうはじめ死亡しぼうを『あきら実録じつろく』『あかり』は、えびすおもんみいさおによる毒殺どくさつとしている)。

宰相さいしょうとなってからのえびすおもんみいさお絶大ぜつだい権限けんげんにぎり、次第しだい独断どくだんせんけんいが目立めだつようになる。官僚かんりょう任免にんめんけんいちにぎり、重職じゅうしょくみずからの側近そっきんかためた。このため仕官しかん希望きぼうしゃ失職しっしょくちゅうものあらそって贈賄ぞうわいし、知遇ちぐうようとえびすおもんみいさお門前もんぜん参集さんしゅうしたという。内外ないがいから皇帝こうていへの上奏じょうそうぶんもまずとおし、自分じぶん不都合ふつごうなことがあれば報告ほうこくしないなど、次第しだいひろしたけみかどをもないがしろにする言動げんどう目立めだった[28]そらしるしあんではちんやすしともに、ひろしたけみかどびて率先そっせんして処罰しょばつおこなったことで、さらに諸人もろびとうらみをう。ひろし12ねん(1379ねん)には、ベトナム南部なんぶうらないじょう(チャンパ)からの朝貢ちょうこう使節しせつ到着とうちゃくしたにもかかわらず、えびすおもんみいさお掌握しょうあくする中書ちゅうしょしょうはこれをひろしたけみかど報告ほうこくしなかったため、ひろしたけみかど中書ちゅうしょしょう不満ふまんった[29]。しかし中書ちゅうしょしょうだい側近そっきんかためたえびすおもんみいさお死角しかくはないようにえた。

ところがひろし13ねん正月しょうがつ2にちユリウスれき:1380ねん2がつ8にち)、えびすおもんみいさおちんやすし突如とつじょ逮捕たいほされてしまう。罪名ざいめい謀叛むほんであった。『くに榷』や『あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ』では、計画けいかく暴露ばくろすることをおそれたえびすおもんみいさおが、ひろしたけみかど自邸じていまねいて暗殺あんさつしようとしたが、陰謀いんぼうづいた西にしはな門内かどうち使くもが、ひろしたけみかどきゅうほうじ、みかど急遽きゅうきょ宮城みやぎもどって高楼こうろうからながめたところ、えびすおもんみいさおてい多数たすう武装ぶそう兵士へいしかくれていた、とする[30]一方いっぽう、『あきら実録じつろく』『あかり』では、かれらの徒党ととうであったというちゅうすすむ涂節密告みっこくによって発覚はっかくしたとする。ひろしたけみかどみずからの尋問じんもんけたえびすおもんみいさおは、のがれることはできないとさとり、すべてを「自白じはく」し、わずか4にちちんやすしらとともに処刑しょけいされた[31]密告みっこくしゃの涂節も処刑しょけいされている[2]。これが、以後いご10ねんおよだい粛清しゅくせい事件じけんとなったえびすおもんみいさおごく開始かいしである。

明朝みょうちょう公式こうしき記録きろくである『あきら実録じつろく』(「実録じつろく」は次代じだい王朝おうちょう正史せいし編纂へんさんするさい素材そざいとなる記録きろく)の記載きさいによれば、調しらべの結果けっか判明はんめいしたえびすおもんみいさおらの反乱はんらん計画けいかくとは以下いかのようなものである[31]

朝廷ちょうてい専権せんけんきわめ、ひろしたけみかどすらも凌駕りょうがする権力けんりょくしゃしたえびすおもんみいさおは、故郷こきょうていどおけんからがった「れていた井戸いどみずまった」「先祖せんぞはか毎晩まいばんひかった」など数々かずかず奇瑞きずいおも皇帝こうてい聖徳せいとくたたえるために作為さくいされる)の報告ほうこくもとに、帝位ていいまでうかがうようになった。そこでちんやすしや涂節と謀議ぼうぎし、みやこただしもうや、よしちょうおとうとそん仲間なかまれた。またひろしたけみかどからうとまれていた功臣こうしんりくなかとおる吉安きちやすこう)やたいらすずかこう)も味方みかたにつけ軍馬ぐんばあつめさせ、武臣ぶしんからもひそかに同調どうちょうしゃつのった。一方いっぽうで、あきらしゅうやすしなみまもるはやしけん日本にっぽんに、元朝がんちょう臣下しんかであったふうをモンゴルにつかわして、外国がいこく支援しえんけ、反乱はんらん準備じゅんびととのえた。

しかしこれはあくまで明朝みんちょうがわによる公的こうてき発表はっぴょうであり、真相しんそうでない可能かのうせいたかい。後述こうじゅつするようにはやしけんらのけん発覚はっかくしたのは6ねんのことであり、りくなかとおる聚の加担かたん判明はんめいしたのも事件じけんから10ねんであった。これらの顛末てんまつは「きたとりこみなみやまと」を利用りようしたひろしたけみかどがわによる捏造ねつぞうであり、そらしるしあん同様どうよう事件じけんそのものが計画けいかくてきこされた可能かのうせいきわめてたか[32]

というのも、そらしるしあん発生はっせい直後ちょくごくだり中書ちゅうしょしょう解体かいたいされたのと同様どうようえびすおもんみいさおらが処刑しょけいされた翌日よくじつ宰相さいしょうにんしょである中書ちゅうしょしょう廃止はいしされたからである。これにより歴代れきだい王朝おうちょう皇帝こうてい補佐ほさし、強大きょうだい権限けんげんった宰相さいしょうというしょくそのものがくなった。それまで中書ちゅうしょしょう所属しょぞくしていたろくはすべて皇帝こうてい直属ちょくぞくとされ、長官ちょうかんである尚書しょうしょ皇帝こうてい任免にんめんけんにぎった。軍事ぐんじ統括とうかつしていただいとくも、ちゅうぐんぜんぐんこうぐんひだりぐんみぎぐんぐんとく改組かいそされ、かくぐんごとにとくいて軍事ぐんじけん分割ぶんかつはかられた。尚書しょうしょとくともに複数ふくすう設置せっちすることで、一人ひとり権力けんりょく集中しゅうちゅうしないようにするとともに、皇帝こうてい権力けんりょく格段かくだん強化きょうかされたのである。

そのえびすおもんみいさお事件じけんは、さらなるひろがりをせた。「えびすとうえびすおもんみいさおいちとう)」という名目めいもくで、次々つぎつぎ江南こうなん地方ちほう地主じぬしたちが摘発てきはつされだしたのである。疑心暗鬼ぎしんあんきにかられた地主じぬしたちは、さかんに密告みっこくおこなって仇敵きゅうてきおとしいれようとするうごきがられた。『あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ』によれば、当時とうじたがいに怨恨えんこんをもつもの同士どうしが、相手あいておとしいれるために真偽しんぎにかかわらず「えびすとう」と密告みっこくしあったという[30]。しかしひろしたけみかどは、実際じっさいに「えびすとう」であるかどうかに関係かんけいなく、かたぱしから地主じぬしらを弾圧だんあつした。そのおおくは十分じゅうぶん調しらべもけないまま処刑しょけいされ、犠牲ぎせいしゃそらしるしあんはるかにえ、じつに15,000にん以上いじょうにものぼった[33]一時いちじは、ふとしよしちょうにまでるいおよいきおいで、りくなかとおる聚らも処刑しょけいされそうになったが、なにとかことなきをた(ただし10ねん関係かんけい追及ついきゅうされて処刑しょけいされている)。すでに致仕ちししていたそうも、まごそうまことえびすとう連座れんざして処刑しょけいされたため、南京なんきんおくられたが、うま皇后こうごうしょくってひろしたけみかどを諫めたために死罪しざいまぬかれ、しげしゅう配流はいるされた[2]。そのも10ねん以上いじょうにわたって「えびすとう」として処刑しょけいされるもの相次あいつぐことになる。

えびすおもんみいさおごく」とはひろしたけみかどが、えびすおもんみいさお増長ぞうちょうきたとりこみなみやまとへの脅威きょうい利用りようして、皇帝こうてい権力けんりょくおどかしたえびすおもんみ庸一よういちとう排除はいじょし、江南こうなん地主じぬしそう弾圧だんあつし、中書ちゅうしょしょう廃止はいしして皇帝こうていせんせいつよめるために捏造ねつぞうした一大いちだい疑獄ぎごく事件じけんであった[34]。諫臣のりゅうはじめはすでにほろびく、しばしば臣下しんか処刑しょけいめたうま皇后こうごうひろし15ねん(1382ねん)に崩御ほうぎょすると、ひろしたけみかど暴走ぼうそうめられるものはいなくなった。皇帝こうてい専制せんせいけて、ひろしたけみかどはさらなる官僚かんりょう地主じぬしへの弾圧だんあつ仕掛しかけていく[35]

かく桓のあん[編集へんしゅう]

えびすおもんみいさおごくから5ねんふたた全国ぜんこくるがすだい粛清しゅくせい事件じけん発生はっせいする。ひろし18ねん1385ねん)3がつ戸部とべ尚書しょうしょかく桓が北平きたひらぬの政司せいじ官吏かんり結託けったくして、朝廷ちょうてい食糧しょくりょう着服ちゃくふくしたとして逮捕たいほされ、即刻そっこく処刑しょけいされた。これをきっかけに、またもすうまんにんをまきこむだい規模きぼ疑獄ぎごく事件じけん発生はっせい。これらを「かく桓のあん」とぶ。

この事件じけんでは中書ちゅうしょしょう廃止はいし以降いこう官僚かんりょう機構きこう頂点ちょうてんろく腐敗ふはい蔓延まんえんしていたとして、ろく長官ちょうかんがすべて誅殺ちゅうさつされたばかりでなく、処刑しょけいしゃ地方ちほうかん一般いっぱん民衆みんしゅうにまでおよび、そのかずすうまんにんえたという[35][36]えびすおもんみいさお事件じけん改組かいそした中央ちゅうおう統治とうち機関きかん=ろくによる醜聞しゅうぶんは、ひろしたけみかどにとってゆるがた不正ふせいであった。

綱紀こうき粛正しゅくせい名目めいもく正当せいとうするため、ひろしたけみかど同年どうねん9がつ、「しょつかさおさめまかないきん戒するみことのり」をはっして、官僚かんりょう収賄しゅうわい厳禁げんきんした。また10がつには『御製ぎょせいだい誥』、さらに翌年よくねんにかけて『御製ぎょせいだい誥続へん』『御製ぎょせいだいさんへん』という訓戒くんかいしょつづけに刊行かんこうされる。これらは具体ぐたいてき不正ふせい事例じれいと、それらにたいする懲罰ちょうばつ様子ようすかれた勧善懲悪かんぜんちょうあくしょであり、国子くにこかんをはじめ全国ぜんこくしゅうけん教育きょういく機関きかん配布はいふされ、学生がくせい暗唱あんしょう義務ぎむづけられた[37]

はやしけん事件じけん[編集へんしゅう]

かく桓のあん翌年よくねんすなわちひろし19ねん1386ねん)、ひろしたけみかどは6ねんまえきたえびすとう問題もんだいふたたかえした。かつてえびすおもんみいさお謀叛ぼうほん計画けいかくしたさいに、きたとりこみなみやまと、すなわち北元きたもと日本にっぽん協力きょうりょくようとして、秘密裏ひみつり使者ししゃ派遣はけんしていたというのである。その理由りゆうをもってこのとし10がつやすしなみまもる指揮しき使はやしけん南京なんきん突如とつじょ処刑しょけいされた(同様どうように、モンゴルへ派遣はけんされたという元朝がんちょう旧臣きゅうしんふう績はひろし23ねん1390ねん)に処刑しょけいされた)[38]えびすおもんみいさおごく同様どうよう本人ほんにんだけでなく一族いちぞく全員ぜんいん処刑しょけいされ、妻妾さいしょう奴婢ぬひとされて功臣こうしんらにあたえられたという。

はやしけんへの調しらべで判明はんめいした"真相しんそう"は『御製ぎょせいだいさんへん』「指揮しきはやしけんえびすとうだいきゅう」にしるされている。それによれば、

ひろし9ねん(1376ねん)4がつ日本国にっぽんこくおうりょうふところ使者ししゃかえり廷用やすし来貢らいこうしたさいに、南京なんきんひろしたけみかど拝謁はいえつするため、やすしまもる指揮しき使はやしけん使節しせつ護衛ごえいして往復おうふくした。しかしそのあいだはやしけん南京なんきんえびすおもんみいさおつうじていた。えびすおもんみいさお叛乱はんらんこすために日本にっぽん協力きょうりょく必要ひつようとしており、はやしけんひそかに日本にっぽん派遣はけんする策略さくりゃくる。えびすおもんみいさお密命みつめいけたはやしけんは、かえり廷用が日本にっぽん帰国きこくするさいに、やまと寇といつわってそのふね襲撃しゅうげきし、中央ちゅうおう報告ほうこくした。えびすおもんみいさおはこれをはやしけん過失かしつとして上奏じょうそうしたため、事情じじょうらないひろしたけみかど激怒げきどして、はやしけん日本にっぽんへ3年間ねんかん流罪るざいしょした。日本にっぽんながされたはやしけんは、国王こくおう根回ねまわしをおこなってえびすおもんみいさおへの協力きょうりょくける。えびすおもんみいさお秘密裏ひみつり使者ししゃ日本にっぽん派遣はけんし、はやしけんもどすとともに日本にっぽん国王こくおう援軍えんぐん要請ようせい日本にっぽん国王こくおう快諾かいだくし、朝貢ちょうこう使節しせついつわってひろし14ねん(1381ねん)7がつそう如瑶正使せいしとした精兵せいびょう400余人よにんやすしおくんだ。しかし援軍えんぐん到着とうちゃくしたころには、すでにとうえびすおもんみいさお処刑しょけいされており、計画けいかく失敗しっぱいわっていた。をなくした日本にっぽんぐん雲南うんなんながされ、その守備しゅびたらされたという。しかし帰国きこくしたはやしけん逮捕たいほまぬかれ、その素知そしらぬふりでやすしまもる指揮しき使にんにあたり、ようやく6ねん発覚はっかくしたというものである[39]。しかしこの"真相しんそう"は、あまりにも不自然ふしぜんで、つじつまのわないこともおおく、また当時とうじ日本にっぽん情勢じょうせいともまったわないため、真実しんじつとはかんがえがたい。はやしけんつみ日本にっぽん流謫るたくされたとするが、当時とうじ史料しりょうには、罪人ざいにん外国がいこく流謫るたくされたなどという事例じれい一切いっさいつかっていない。しかもやまと寇の根拠地こんきょちられていた日本にっぽん流謫るたくするなど、奇妙きみょうてんおおすぎる。また罪人ざいにん帰国きこくふたたもと指揮しき使復帰ふっきしているというのも、当時とうじ慣習かんしゅうからしてありない[40]。もちろん日本にっぽんがわにも、上記じょうき事件じけんかんする史料しりょうまった存在そんざいしない。日本にっぽんがわえびすおもんみいさおらん加担かたんするメリットも皆無かいむであり、そもそも南北なんぼくあさ動乱どうらんちゅう日本にっぽんにおいて外国がいこく兵力へいりょく派遣はけんできる余裕よゆうのある勢力せいりょく存在そんざいしていなかった。日本国にっぽんこくおうりょうふところ正体しょうたいであるなつけ親王しんのうは、すでにひろし5ねん(1372ねん)には太宰府だざいふ失陥しっかんしており、えびすおもんみいさお事件じけんきたひろし13ねん(1380ねん前後ぜんこうには、九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ了俊りょうしゅんにより九州きゅうしゅう南朝なんちょう勢力せいりょくはほぼ崩壊ほうかいしていた。つまりやすし兵力へいりょく派遣はけんできた主体しゅたい存在そんざいしていないのである。さらにリスクをおかしてわたりあきらした日本にっぽんへいが、その雲南うんなん守備しゅびにあたっているなど説明せつめいのつかないことがおおすぎる。ようするに、このはやしけん事件じけんの"真相しんそう"はひろしたけみかどがわによる捏造ねつぞうであったとるのが自然しぜんである[41]

ひろしたけみかどはやしけんつみ捏造ねつぞうした理由りゆうは、日本にっぽん断交だんこうするためであった。上述じょうじゅつのごとく、ひろしたけみかど即位そくい直後ちょくごからつづけられた交渉こうしょうにおいて、やまとまり要求ようきゅうはほぼ無視むしされ、日本にっぽんがわ反応はんのうあかり期待きたいはずれだった。ぎょうやしたひろしたけみかどは、日本にっぽん征伐せいばつするという恫喝どうかつふくんだ国書こくしょおくったこともあったが、やまと寇の被害ひがいむどころか、むしろ増加ぞうか一途いっとをたどる。しかも日本国にっぽんこくおうりょうふところの(かたってたびたび入貢にゅうこうする)使者ししゃらもきわめて傲慢ごうまん態度たいどで、うえていするおもてぶん無礼ぶれい不遜ふそん文言もんごんばかりであった。ひろし13ねん1380ねん)のりょうふところからの使者ししゃがもたらした国書こくしょ朝貢ちょうこうあかりがわ期待きたいおよばなかったため、即座そくざかえされた。よくひろし14ねん7がつりょうふところからの使者ししゃ如瑶がやすし入港にゅうこうしたが、君臣くんしんわきまえず「むさぼ」のみを目的もくてきとする横柄おうへい使者ししゃとして、あかりがわから露骨ろこつけむたがられ、ついには如瑶を誅殺ちゅうさつしようとの意見いけんたほどであった(如瑶がはやしけん事件じけん共謀きょうぼうしゃとされたのは、このけん理由りゆうかんがえられる)。こうした日本にっぽんがわ不誠実ふせいじつ態度たいどに、ひろしたけみかどはこれ以上いじょう日本にっぽん交渉こうしょうするメリットをみとめず、断交だんこうかんがえがかたむくようになる。如瑶の帰国きこくあたり、ひろしたけみかどれいからりょうふところ譴責けんせきするしょおくらせ、「日本にっぽん島国しまぐに有利ゆうり地形ちけいを恃んでやまと寇を放置ほうちし、隣国りんごく侵略しんりゃくしている」とつよ叱責しっせき。さらに室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつにも、如瑶の非礼ひれい詰問きつもんし、ふたた日本にっぽん征伐せいばつをちらつかせる恫喝どうかつ書状しょじょうおくった。ひろしたけみかどこうあつてき国書こくしょったふところりょう親王しんのうは、「蘭山あららぎやままえ博打ばくちおこない、勝負しょうぶけっしよう」と尊大そんだい言辞げんじひろしたけみかど挑発ちょうはつする内容ないよう返信へんしんおくることで応酬おうしゅうした[42]。如瑶は日本にっぽん国内こくない義満よしみつ対立たいりつしているはずのなつけ親王しんのう使者ししゃとしてたものであるから、義満よしみつへの難詰なんきつ無意味むいみであるが、ひろしたけみかど日本にっぽんへのいかりは沸点ふってんたっしていたのである。

もはや従来じゅうらいうみきん政策せいさくだけではなまぬるいとして、やまと寇の活動かつどう活発かっぱつしたひろし17ねん(1384ねん)には功臣こうしん特命とくめいびて浙江せっこう派遣はけんされる。うみせん建造けんぞうして海上かいじょう警備けいび強化きょうかさせる一方いっぽう漁民ぎょみん出漁しゅつぎょすら禁止きんしし、浙江せっこう沿岸えんがん福建ふっけん広東かんとん島嶼とうしょ舟山ふなやま群島ぐんとう澎湖諸島しょとうみなみ澳島など)の住民じゅうみんをことごとく内陸ないりく移民いみんさせるなどの強硬きょうこうさく施行しこうした。これは住民じゅうみん安全あんぜんはかるというより、やまと寇と結託けったくおそれたための措置そちである。はやしけん逮捕たいほされたのは、このによる強攻きょうこうさく展開てんかいちゅう出来事できごとであった。ひろしたけみかどまらぬやまと寇にいかり、やすし責任せきにんしゃであったはやしけんえびすとうなしてえびすおもんみいさおごくむすびつけ、日本にっぽんとの断交だんこう利用りようしたのであった[43][44]はやしけん事件じけんからわずか半月はんつき、またもりょうふところからの使者ししゃとしてそう嗣亮やすし入港にゅうこうする。すでになつけ親王しんのうは3ねんまえ薨去こうきょしており、おくした主体しゅたい別人べつじんで、あきらかに貿易ぼうえきのみをねらった使者ししゃであった。しかしむね嗣亮が持参じさんしたおもてぶん受理じゅりされず、国交こっこう断絶だんぜつ通告つうこくされおくかえされる。以後いごひろしたけ年間ねんかん日本にっぽんからの入貢にゅうこうまった途絶とぜつし、20ねんおよ国交こっこう断絶だんぜつ状態じょうたいつづ[45]

よしちょうごく[編集へんしゅう]

じょいたる

えびすおもんみいさおごく処刑しょけいまぬかれた高官こうかん健在けんざいしており、政治せいじてきにも隠然いんぜんたる勢力せいりょく保持ほじしていたため、ひろしたけみかどふたたびの粛清しゅくせい必要ひつよう判断はんだんするにいた[46]ひろし18ねん(1385ねん)には、軍功ぐんこうだいいちしょうされたじょいたる腫物しゅもつ悪化あっか歩行ほこう困難こんなんとなり、ひろしたけみかどからは見舞みまいのしなとして、したガチョウおくられた。しかし当時とうじ、ガチョウのにく腫物しゅもつにとってはどくかんがえられており、ひろしたけみかどさとったじょいたるは、使者ししゃまえなみだながらにガチョウをくちにし、数日すうじつ容態ようだい急変きゅうへんして死去しきょしたという。すでにひろし8ねん(1375ねん)には廖永ただしひろし13ねん(1380ねん)にはしゅあきらひろし17ねん(1384ねん)にはえびす処刑しょけいされており、ひろしたけみかどおいであるしゅ文正ふみまさ文忠ふみただらも些細ささいつみほうむられている[47]のこ功臣こうしんらは、ひろしたけみかどつぎ仕掛しかけるであろうだい粛清しゅくせいおびえていた。そのターゲットとなりそうなのは、初代しょだいひだり丞相じょうしょうで、かつてえびすおもんみいさお姻戚いんせきであり、開国かいこく功臣こうしんだいしょうされるよしちょうであった。ただしひろしたけみかどむすめの臨安公主こうしゅが、よしちょうとついでいることが歯止はどめとなっていた。

ひろし23ねん1390ねん)、よしちょうおとうとそんがかつてえびすおもんみいさお加担かたんしていたとして逮捕たいほされた。調しらべがおこなわれると、よしちょう陰謀いんぼうりながら黙認もくにんしていたことが判明はんめいひろしたけみかどむすめ婿むこちち逆賊ぎゃくぞく通謀つうぼうしていたことに激怒げきどし、ただちによしちょう自殺じさつめいじ、さらによしちょう一族いちぞく70余人よにん誅殺ちゅうさつされた。つづき、えびすとう捜索そうさくおこなわれ、りくなかとおる聚・からかつはじめちょういさおていぐうはるあきらりくもうはくのぼる鄧鎮ら、じつに19にん功臣こうしん一切いっさい弁明べんめいゆるされず、ただちに処刑しょけいされた。また顧時楊璟ただし薛顕かくきょうちんいさおおうこころざしきむ朝興ともおき兪通げんうめおもえしゅあきらはな雲龍うんりゅうらは、本人ほんにん死亡しぼうしているにもかかわらず、ついしてじょ爵された。その連座れんざ処刑しょけいされたものは15,000にんあまりにのぼる[2]。この一連いちれん事件じけんを「よしちょうごく」とぶ。規模きぼえびすおもんみいさおごく同様どうようであり、ほとんどがえびすとう係累けいるいとして処刑しょけいされたことから、よしちょうごくは「だいえびすおもんみいさおごく」というべき性格せいかく事件じけんであったとえる。ひろしたけみかど事件じけんかれらのつみならげた『あきらしめせかんとうろく』を刊行かんこうして天下てんか告示こくじし、みずからの正統せいとうせいうったえることもわすれなかった(同書どうしょ現在げんざい散佚さんいつしている)[48]。だがえびすおもんみいさおごく発生はっせい、10ねんってからこれほど多数たすう共謀きょうぼうしゃあらわれたというのはあまりに唐突とうとつであり、ちょうつばさうようにえびすとうりた功臣こうしんだい粛清しゅくせいだったことはほぼ間違まちがいない[2]

さらに2ねんのぼるやすしやすしこう)が最後さいごの「えびすとう」として処断しょだんされ、12ねんにわたる「えびすおもんみいさおごく」はようやく終結しゅうけつむかえることになる。

あいだまごく[編集へんしゅう]

しかし、えびすおもんみいさおごくひろしたけみかど功臣こうしん粛清しゅくせいがすべてわったわけではなかった。よしちょうごくからわずか3ねんひろし26ねん(1393ねん)、大将軍だいしょうぐんりょうこくこうにあったあいたま突然とつぜん逮捕たいほされた。ひろしたけ年間ねんかん最後さいごだい粛清しゅくせいとなるあいだまごく開幕かいまくである。

あいたまは、よしちょうえびすおもんみいさお同郷どうきょうていどおけん出身しゅっしんで、建国けんこく初期しょき重臣じゅうしんつねぐうはるつまおとうとにあたる。つねぐうはる配下はいかにあって四川しせん征伐せいばつ雲南うんなん攻略こうりゃく戦功せんこうにより昇進しょうしんし、じょいたるあと北方ほっぽうたいモンゴル)防衛ぼうえいにあたり、トグス・テムルブイル・ノールたたかいでやぶった、華々はなばなしい軍功ぐんこうほこ名将めいしょうである[49]。しかし無学むがく狡猾こうかつ性格せいかくであり、皇帝こうてい軍令ぐんれいそむいて出動しゅつどうしたり、勝手かって部下ぶか任免にんめんするなど不法ふほういもおおかった。みずからの地位ちい馮勝そうこくおおやけ)やでんともとく(潁国こう)のもとであることが不満ふまんひろしたけみかどなんったが、相手あいてにされなかったため、自分じぶんうたがわれているとおもみ、謀叛ぼうほん計画けいかくしたという。ひそかに私邸してい部下ぶかあつめ、謀議ぼうぎおこなっていたところ、にしきころもまもる皇帝こうてい直属ちょくぞくのスパイ機関きかん指揮しき蔣瓛探索たんさくによって発覚はっかくした[50]

ひろしたけみかどれいごと激怒げきどし、首謀しゅぼうしゃあいだまのほか、曹震けいかわこう)・ちょうつばさつるけいこう)・ちんひろしじょうこう)らも「あいとう」として逮捕たいほされ、ほとんど調しらべされることなく自白じはく強要きょうようされ、即刻そっこく処刑しょけいされた。共謀きょうぼうしゃとしてほかしゅ寿ひさしなにさかえ詹徽でんともぶん曹興いずみうましゅんおうまこと聶緯おうめいもとあきらしゃぐまひろししんしょうようちょうあつし察罕楊春ちょうまさしほうりあきらとうあや茆鼎功臣こうしんがことごとく殺害さつがいされ、すでに故人こじんとなっていたくわすぐるまごきょうなにしんかんまさし濮英曹良しんらがついしてじょ爵されたのもよしちょうごく同様どうようである。連座れんざして処刑しょけいされたものは15,000にんとも、2まんにん(『あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ』)ともわれ、正確せいかく数字すうじ不明ふめいである。ひろしたけみかど調しら結果けっかである『逆臣ぎゃくしんろく』を刊行かんこうして罪状ざいじょう公表こうひょうしたのも、よしちょうごくまったおな過程かていである[51][2]。すなわち「あいだまごく」も、えびすとうあみからのがれた功臣こうしん宿将しゅくしょう一掃いっそうするためにった意図いとてき事件じけんであったといえる。たしかにあいだまは、以前いぜんから武功ぶこうほこって専横せんおういがおおかったが、造反ぞうはん陰謀いんぼうくわだてたというのはかなりうたがわしい。

あいだまごくは、えびすおもんみいさおごくちがって政治せいじてき意味いみちいさく、それを契機けいきとして統治とうち機構きこう改変かいへんおこなわれるようなことはなかった。むしろ前年ぜんねんまで執拗しつようおこなわれた徹底的てっていてきえびすとう探索たんさくをものがれた有力ゆうりょく功臣こうしん一掃いっそうするためにこされた事件じけんであったといえる[52]あいだまごく前年ぜんねんひろしたけみかど最愛さいあい皇太子こうたいししゅしるべやまいうしなっており、後継こうけいしゃにはしゅしるべだいであるしゅまことけんぶんみかど)がえらばれた。当時とうじ16さいとまだおさなすめらぎふとしまご即位そくいしたさい建国けんこく功臣こうしん江南こうなん官僚かんりょうそうたちはしん皇帝こうていにとって障害しょうがいとなりかねない。ちょうつばさが『廿にじゅう箚記』で「ひろしたけみかどはこのときすでに60さいえ、皇太子こうたいしやわじんで、その死後しご皇太子こうたいしとなったまごはさらに幼弱ようじゃくであり、自分じぶん死後しご配慮はいりょをせざるをず、2かい大獄たいごくえびすおもんみいさおあいたま)をこしたのであろう」とべているように[53]ひろしたけみかど将来しょうらい危険きけんつま目的もくてきで、あえてだい規模きぼ粛清しゅくせいおこなったものとおもわれる。

とはいえそらしるしあんにはじまり、えびすおもんみいさおごくて、あいとう粛清しゅくせいいたあしかけ18年間ねんかんわたった「えびすあいごく」は、合計ごうけいじゅうまんにんともわれる犠牲ぎせいしゃして終了しゅうりょうした。わずかにのこった功臣こうしんがことごとく処分しょぶんされたあいだまごくをもって、ようやくだい粛清しゅくせいあらし終止符しゅうしふたれることになる。同年どうねん9がつひろしたけみかどえびすとうおよびあいとうへの追及ついきゅう禁止きんしし、粛清しゅくせい終了しゅうりょう宣言せんげんした。ただし個別こべつ功臣こうしんへの処罰しょばつはこののちつづき、ひろし27ねん(1394ねん)にはでんともとくひろし28ねん(1395ねん)には馮勝がそれぞれざいたまわっている。結局けっきょくひろしまつとしまでいのちながらえた功臣こうしんは、わずかに耿炳ぶんかくすぐるのみであり、かれらもひろしたけみかど機嫌きげんそこねぬように、ぬまで謹慎きんしん同様どうよう生活せいかつおくり、にしきころもまもる特務とくむ機関きかん)におびえる余生よせいごしたのである[54]

りゃく年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

ひろしたけみかど粛清しゅくせい事件じけん関連かんれん年表ねんぴょう
ひろしたけはじめ 1368 明朝みょうちょう成立せいりつよんえびすきみちょうさつふう勧告かんこくする使者ししゃ派遣はけん
ひろし2 1369 日本にっぽんへの使者ししゃ殺害さつがいされたためふたたび楊載・ぶんはな派遣はけんなつけ親王しんのう国交こっこう拒否きょひ
ひろし3 1370 日本にっぽんへの3度目どめ使者ししゃちょう秩を派遣はけんふところりょうがわ了承りょうしょうし、日本国にっぽんこくおうりょうふところさつふうする
ひろし4 1371 南北なんぼくさら調ちょうせい発令はつれい
ひろし5 1372 なつけ親王しんのう太宰府だざいふ失陥しっかんあかりからの使者ししゃなか猷・いっ室町むろまち幕府ばくふ交渉こうしょうするも不調ふちょう
ひろし6 1373 科挙かきょ廃止はいし
ひろし7 1374 舶司を廃止はいし。「うみきん政策せいさく開始かいし
ひろし9 1376 そらしるしあん発生はっせいくだり中書ちゅうしょしょう解体かいたいし、うけたまわ宣布せんぷせい使指揮しき使つつみけい按察使設置せっち
ひろし12 1379 ひろしたけみかど功臣こうしん辞職じしょく勧告かんこくする上諭じょうゆはっする
ひろし13 1380 えびすおもんみいさおごく発生はっせい中書ちゅうしょしょう廃止はいしし、六部ろくぶ皇帝こうてい直属ちょくぞくとする。ぐんとく設置せっち
日本国にっぽんこくおうりょうふところにせ使つかい)が国書こくしょひろしたけみかど挑発ちょうはつ
ひろし14 1381 日本国にっぽんこくおうりょうふところ使者ししゃとして如瑶がやすし入港にゅうこうれいりょうふところ叱責しっせき
ひろし15 1382 だい廃止はいしして察院をもうけ、おやぐんじょう改組かいそしてにしきころもまもる設置せっちするなど官僚かんりょうへの監察かんさつ強化きょうか
ひろし17 1384 浙江せっこうにおいてうみきん強化きょうか沿岸えんがん住民じゅうみん強制きょうせい移住いじゅう
ひろし18 1385 かく桓のあん発生はっせい。『御製ぎょせいだい誥』発刊はっかん科挙かきょ復活ふっかつ
ひろし19 1386 はやしけん事件じけん日本国にっぽんこくおうりょうふところとの関係かんけい断交だんこう。『御製ぎょせいだい誥続へん』『御製ぎょせいだいさんへん発刊はっかん
ひろし23 1390 よしちょうごく発生はっせい。『あきらしめせかんとうろく』を刊行かんこうえびすおもんみいさおがモンゴルに派遣はけんしたというふう績を処刑しょけい
ひろし25 1392 のぼり処刑しょけいされ、えびすとう捜索そうさく終了しゅうりょう皇太子こうたいししゅしるべし、しゅまこと炆がすめらぎふとしまごとなる
ひろし26 1393 あいだまごく発生はっせい。『逆臣ぎゃくしんろく』を刊行かんこう
ひろし31 1398 ひろしたけみかど崩御ほうぎょしゅまこと炆が即位そくいしてけんぶんみかどとなる
けんぶん2 1399 やすしなんへんつばめおうしゅ棣が挙兵きょへい。1402ねん永楽えいらくみかどとして即位そくい

雑記ざっき[編集へんしゅう]

  • 官僚かんりょう粛清しゅくせいのために、ひろしたけみかど監察かんさつ機関きかん強化きょうかした。えびすとう掌握しょうあくされていただい廃止はいしされ、ひろし15ねん1382ねん)にあらたに「察院」をもうけ、官僚かんりょうたいする監視かんしつよめている[55][56]。はじめはせいななひん衙門にぎなかったが、翌年よくねんにはせいさんひん、さらに翌年よくねんにはせいひん衙門とろく尚書しょうしょ同格どうかくにまで陞格されており、ひろしたけみかどからいかに重視じゅうしされていたかがうかがえる[57]。この察院と、法務省ほうむしょうにあたる刑部おさかべろくひとつ)、最高裁判所さいこうさいばんしょにあたるだいてらは「さんほう」としょうされ、けいごく管理かんりした[58]
  • ひろし15ねん(1382ねん)4がつには、きんぐん近衛このえぐん)のひとつ「おやぐんじょう」が改組かいそされ、「さんほう」とはべつ官僚かんりょう監察かんさつ刑罰けいばつ皇帝こうてい直属ちょくぞく特務とくむ機関きかんにしきころもまもる」が設置せっちされた。従来じゅうらいからの皇帝こうてい護衛ごえい任務にんむくわえて「巡察じゅんさつ緝捕」というスパイ任務にんむあたえられ、やく500にんの緹騎が皇帝こうてい耳目じもくとして、日夜にちや官民かんみんたい監視かんしひからせる恐怖きょうふ政治せいじ現出げんしゅつしたのである。正規せいき朝廷ちょうてい機関きかんであるさんほうとはべつに、独自どくじ権限けんげんって捜査そうさ裁判さいばんおこなにしきころもまもるいちでも摘発てきはつされれば、それはそく処刑しょけいにつながるため、人々ひとびとは「にしきころもまもるごく」「みことのりごく」とび、かれらをおそれたという[59][60]
  • ひろしたけみかどによる恐怖きょうふ政治せいじ矛先ほこさきは、官僚かんりょうそうのみならず庶民しょみんへもけられた。そのいちれいが「文字もじごく」とばれる言論げんろん弾圧だんあつである。きよしあさ文字もじごくが、まんしゅうじん王朝おうちょうによるかんじんへの思想しそう統制とうせいてき意味合いみあいがつよいのにたいして、ひろしたけみかどによる文字もじごくは、ひろしたけみかど個人こじん恣意しいせいつよいものであった。ひろしたけみかど元々もともと貧乏びんぼう僧侶そうりょ出身しゅっしんであることにつよいコンプレックスがあり、僧侶そうりょ仏教ぶっきょうかんする文字もじ言葉ことば過敏かびん反応はんのうしたといわれる。とくに「ひかり」「禿かぶろ」といった坊主ぼうずあたま暗示あんじする文字もじはタブーとされ、ひろしたけみかど個人こじんそしるものとして禁止きんしされた。「そう」という文字もじはおろか、発音はつおんつうじる「せい」すら禁止きんし対象たいしょうとなっている[61]。またひろしたけみかどは、盗賊とうぞくのような身分みぶんから皇帝こうていになったということにもうしろめたさがっていたために「ぬすめ」と同音どうおんの「みち」や「ぞく」と同音どうおんの「のり」も同様どうようけられた。当時とうじ勃興ぼっこうしつつあった通俗つうぞく文学ぶんがく白話はくわ小説しょうせつ)の分野ぶんやでも、文字もじごく回避かいひするうごきがあり、とく仏教ぶっきょう説話せつわである『西遊せいゆう』では敏感びんかん反応はんのうし、当時とうじ人気にんきたかかった道化どうけやくしゅ八戒はっかい(ブタの妖怪ようかい)が、あきら帝室ていしつ同姓どうせいであることが弾圧だんあつ対象たいしょうとなる可能かのうせいがあることから、しゅ(zhū)と同音どうおんいのしし改姓かいせいされるなどの影響えいきょうおよぼしている(詳細しょうさい猪八戒ちょはっかい西遊せいゆう成立せいりつ参照さんしょう)。

事件じけん影響えいきょう[編集へんしゅう]

ひろしたけみかど治世ちせい一連いちれん粛清しゅくせい事件じけんは、江南こうなん官僚かんりょう功臣こうしん粛清しゅくせいおよび朝廷ちょうてい機構きこう変革へんかく、そして日本にっぽんとの交渉こうしょう中止ちゅうしという目的もくてきおこなわれた。これらの事件じけんはすべて個別こべつ単独たんどくきたものではない。たとえばそらしるしあん設置せっちされた地方ちほう長官ちょうかんぬのせい使せいひんと、当時とうじ中央ちゅうおう機関きかんであるろく尚書しょうしょせいさんひん)よりも高位こういかれたのちえびすおもんみいさおごく中書ちゅうしょしょう廃止はいしされたのちろく尚書しょうしょせいひんげられ、ぬのせい使せいさんひんとなりバランスがられている。これはいったん地方ちほう革新かくしんおこなわれたのちに、中央ちゅうおう整理せいり断行だんこうしたことをしめしており、一連いちれんうごきのなかとらえられる[62]そらしるしあんでは「くだり中書ちゅうしょしょう」、えびすおもんみいさおごくでは「中書ちゅうしょしょう」、かく桓のあんでは「ろく」、はやしけん事件じけんでは「日本にっぽんやまと)」、そしてよしちょうごくあいだまごくでは「功臣こうしん」がそれぞれねらちされ、ひろしたけみかど邪魔じゃまとなるものはひとひとつぶされて、皇帝こうてい専制せんせい準備じゅんびととのったのである。

国内こくないへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

一連いちれん粛清しゅくせい事件じけん利用りようしておこなわれた統治とうち機構きこう最大さいだい変革へんかくは、中書ちゅうしょしょう廃止はいしであった。強大きょうだい権限けんげんようしたえびすおもんみいさおのようなものあらわれないようにするためには、中書ちゅうしょしょう長官ちょうかんである丞相じょうしょう宰相さいしょう)という地位ちいはいする必要ひつようがあった。中書ちゅうしょしょう解体かいたいされ、隷属れいぞくしていたろく皇帝こうてい直属ちょくぞくとなったのは前述ぜんじゅつとおりである。これは皇帝こうていみずからが宰相さいしょう権限けんげんをもね、官僚かんりょう直接ちょくせつ掌握しょうあくするものであり、皇帝こうてい権力けんりょく絶対ぜったいし、皇帝こうていたいして官僚かんりょう忠誠ちゅうせいちかわせるためのものでもあった。

古来こらいから皇帝こうてい補佐ほさしてきた宰相さいしょう廃止はいしは、中国ちゅうごく官制かんせい史上しじょうだい変革へんかくといえる。しかし実際じっさいにはひろしたけみかどがみずからすべての政務せいむ親裁しんさいすることは不可能ふかのうであり、結局けっきょくひろし15ねん(1382ねん)に諮問しもん機関きかんとして殿しんがりかくだい学士がくしもうけられ、これが発展はってんしてのち内閣ないかく制度せいど成立せいりつする。またこのあいだひろしたけみかどはっした『御製ぎょせいだい誥』『御製ぎょせいだい誥続へん』『御製ぎょせいだいさんへん』およびひろし20ねん(1387ねん)の『だい武臣ぶしん』などのしょは、官僚かんりょう武将ぶしょう功臣こうしん)がいかなるつみによって処断しょだんされたかを詳細しょうさいべ、以後いご官民かんみん不正ふせいおかさぬようにとのひろしたけみかど訓戒くんかいべたものである。いかなる高位こうい高官こうかんでも処刑しょけいされるという前例ぜんれいしめし、官僚かんりょう功臣こうしん皇帝こうていへの絶対ぜったい服従ふくじゅういたものともえる[63]

ひろしたけみかど功臣こうしん官僚かんりょう勢力せいりょく削減さくげんして皇帝こうてい権力けんりょく集中しゅうちゅうさせる一方いっぽうで、血縁けつえんしゃ諸王しょおうとして封建ほうけんし、帝室ていしつ藩屏はんぺいとする方針ほうしんをとった。これには反対はんたい意見いけんおおく、諸王しょおう明朝みょうちょう皇帝こうていにとって将来しょうらいてき障害しょうがいになるとしてはくきょひろし9ねん(1376ねん)にこれを諫める上書うわがきおこなったが、この意見いけん激怒げきどしたひろしたけみかどは、かえってはくきょ処刑しょけい命令めいれいした。皮肉ひにくにもこのときえびすおもんみいさおがかばい、はくきょ死刑しけいから投獄とうごく変更へんこうしたが、まもなく獄中ごくちゅう餓死がししている[64]。しかしひろしたけみかど死後しごわずかすうねんに、つばめおうしゅ永楽えいらくみかど)による叛乱はんらんやすしなんへん)が発生はっせいし、諸王しょおう分封ぶんぽう弊害へいがい早速さっそく証明しょうめいされたのである。ひろしたけみかどのちいだけんぶんみかど朝廷ちょうていには、わか皇帝こうていささえるべき経験けいけんゆたかな功臣こうしんまったのこっておらず、あえなくしゅ棣にやぶった。また、ひろしたけみかど粛清しゅくせいまぬかれてのこった数少かずすくない功臣こうしんである耿炳ぶんも、けんぶんみかど味方みかたしたとしてしゅ棣(永楽えいらくみかど)によって粛清しゅくせいされることになる。

国外こくがいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

足利あしかが義満よしみつ道義どうぎ

ひろしたけみかどはやしけん事件じけんのち日本にっぽん断交だんこうしただけでなく、永遠えいえん日本にっぽん通交つうこうしないように、くんとして子孫しそん厳命げんめいした。『すめらぎあかりくん』のくびしょうには「日本にっぽんこくちょうするといえども、じついつわりなり。ひそかに奸臣かんしんえびすおもんみいさおつうじ、はかりて不軌ふきをなさんとす。ゆえにこれをつ」という訓示くんじのこされている[45]。しかしやまと寇の被害ひがいおさまることはなかった。

一方いっぽう日本にっぽん国内こくないでは将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつにより、ひろし25ねん日本にっぽん明徳めいとく3ねん/1392ねん)に南北なんぼくあさ統一とういつされて全国ぜんこくてき内戦ないせん終結しゅうけつする。義満よしみつえびすおもんみいさお事件じけんきたひろし13ねんかんれき2ねん/1380ねん)に「せいえびす将軍しょうぐんみなもと義満よしみつ名義めいぎ国書こくしょおくっていたが、あかりさつふうした日本にっぽん国王こくおう以外いがいとの朝貢ちょうこう関係かんけいみとめないさつふう体制たいせいでは相手あいてにされず、またとう日本国にっぽんこくおうりょうふところひろしたけみかどから断交だんこうされたため、ひろしたけみかど治世ちせいでは日明ひあがり交渉こうしょう余地よちはなかった。ひろし28ねんおうひさし2ねん/1395ねん)、義満よしみつ将軍しょうぐん太政大臣だじょうだいじんしょくして出家しゅっけ道義どうぎ名乗なのり、日本にっぽん官職かんしょく体系たいけいからだっする。そしてひろしたけみかどぼつたてあや3ねんおうなが8ねん/1401ねん)には「日本にっぽんじゅん三后さんこう道義どうぎ」の名義めいぎで、けんぶんみかどあてに20ねんぶりの使節しせつ派遣はけんする。

けんぶんみかどは、ひろしたけみかど遺訓いくんにもかかわらず、これを日本にっぽん正式せいしき使節しせつとしてみとめ、道義どうぎ日本にっぽん国王こくおうふうずるみことのりはっした。ここに日明ひあがりあいだ正式せいしき国交こっこうむすばれることとなった[65]けんぶんみかど前年ぜんねん朝鮮ちょうせん(1392ねん建国けんこく)の成桂せいけい朝鮮ちょうせん国王こくおうとしてさつふうするなど、積極せっきょくてき外交がいこう政策せいさくっていた[66]道義どうぎ国王こくおうさつふうわずか4かげつやすしなんへんけんぶんみかどわれるが、わって帝位ていいについた永楽えいらくみかど日本にっぽん外交がいこうぎ、勘合かんごう貿易ぼうえき開始かいしされ、やまと寇も沈静ちんせいしていく。ただし朝貢ちょうこう以外いがい貿易ぼうえききんじ、沿岸えんがん住民じゅうみん航行こうこう制限せいげんするうみきん政策せいさくは、その16世紀せいき緩和かんわされるまで継続けいぞくした。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 山根やまね1971、49ぺーじ。『あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつまき13、『廿にじゅう箚記』まき32。
  2. ^ a b c d e f g h 『アジア歴史れきし事典じてん』。
  3. ^ a b まゆみじょう1994、242ぺーじ
  4. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい』15ぺーじ
  5. ^ 岸本きしもと宮嶋みやじま1998、31-32ぺーじ
  6. ^ 『アジアの歴史れきし文化ぶんか4』20ぺーじ
  7. ^ そうだいにも官僚かんりょう出身しゅっしん赴任ふにんできないとする「まわり避のせい」は存在そんざいしたが、近隣きんりん許可きょかされていた。「南北なんぼくさら調ちょうせい」はみなみじんきたへ、きたじんみなみへというより徹底てっていしたものである。まゆみじょう1978、336ぺーじ
  8. ^ a b 『アジアの歴史れきし文化ぶんか4』21ぺーじ
  9. ^ まゆみじょう1994、197-198ぺーじ
  10. ^ 萩原はぎはら1967、69ぺーじ
  11. ^ 萩原はぎはら1967、70ぺーじ
  12. ^ まゆみじょう2005、285-286ぺーじ
  13. ^ まゆみじょう2005、287ぺーじ
  14. ^ まゆみじょう2005、288-289ぺーじ
  15. ^ まゆみじょう2005、289-290ぺーじ
  16. ^ まゆみじょう2005、290-291ぺーじ
  17. ^ 村井むらい2003、188ぺーじ
  18. ^ 村井むらい2003、188-189ぺーじ
  19. ^ まゆみじょう2005、288ぺーじ
  20. ^ まゆみじょう1994、207ぺーじ
  21. ^ まゆみじょう1994、208ぺーじ
  22. ^ a b まゆみじょう1978、339ぺーじ
  23. ^ まゆみじょう1994、209ぺーじ
  24. ^ まゆみじょう1994、209-210ぺーじ
  25. ^ 『アジアの歴史れきし文化ぶんか4』21-22ぺーじ
  26. ^ まゆみじょう1994、217ぺーじ
  27. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい』14ぺーじ
  28. ^ まゆみじょう1994、215-217ぺーじ
  29. ^ 上田うえだ2005、111ぺーじ
  30. ^ a b 山根やまね1971、50ぺーじ
  31. ^ a b まゆみじょう1994、218ぺーじ
  32. ^ まゆみじょう1994、219ぺーじ
  33. ^ まゆみじょう1994、222-223ぺーじ
  34. ^ まゆみじょう1978、341ぺーじ
  35. ^ a b まゆみじょう1994、235ぺーじ
  36. ^ 『アジアの歴史れきし文化ぶんか4』22-23ぺーじ
  37. ^ まゆみじょう1994、236-237ぺーじ
  38. ^ まゆみじょう2005、293ぺーじ
  39. ^ まゆみじょう2005、294-295ぺーじ
  40. ^ まゆみじょう2005、295-296ぺーじ
  41. ^ まゆみじょう2005、296ぺーじ
  42. ^ まゆみじょう2005、298-300ぺーじ
  43. ^ まゆみじょう2005、301-302ぺーじ
  44. ^ 上田うえだ2005、113-115ぺーじ
  45. ^ a b まゆみじょう2005、302ぺーじ
  46. ^ まゆみじょう1994、238-239ぺーじ
  47. ^ まゆみじょう1994、239ぺーじ
  48. ^ まゆみじょう1994、240ぺーじ
  49. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい』26ぺーじ
  50. ^ まゆみじょう1994、240-241ぺーじ
  51. ^ まゆみじょう1994、241ぺーじ
  52. ^ 山根やまね1971、52-53ぺーじ
  53. ^ 原文げんぶんは「懿文太子たいしまたやわらひとし、懿文まごさら孱弱、とげとく不為ふためおもんばか以両きょう大獄たいごく一網打尽いちもうだじん」。
  54. ^ まゆみじょう1994、242-243ぺーじ
  55. ^ まゆみじょう1994、220ぺーじ
  56. ^ 『アジアの歴史れきし文化ぶんか4』22ぺーじ
  57. ^ 山根やまね1971、53-54ぺーじ
  58. ^ まゆみじょう1994、243ぺーじ
  59. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい』17ぺーじ
  60. ^ まゆみじょう1994、243-244ぺーじ
  61. ^ まゆみじょう1994、250-251ぺーじ
  62. ^ まゆみじょう1978、340ぺーじ
  63. ^ 山根やまね1971、54ぺーじ
  64. ^ まゆみじょう1994、212-213ぺーじ
  65. ^ なお、このとし通交つうこうでは正規せいきさつふう手続てつづきはとられておらず、義満よしみつ正式せいしきさつふうされていない(事実じじつじょうさつふうぎない)とする見方みかたもある。だんうえひろし永楽えいらくみかど 中華ちゅうか世界せかいシステム」へのゆめ』(1997ねん講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、ISBN 978-4062581196)、橋本はしもとつよしたいあきらたい朝鮮ちょうせん貿易ぼうえき室町むろまち幕府ばくふ-守護しゅご体制たいせい」(『日本にっぽん対外たいがい関係かんけい4 やまと寇と「日本にっぽん国王こくおう」』(2010ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかんISBN 978-4642017046所収しょしゅう)など。
  66. ^ 村井むらい2003、216-218ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

だんうえひろしえびすおもんみいさおはやしけん-日明ひあがり関係かんけい途絶とぜつさせたおとこたち」
山根やまね幸夫ゆきお「「もとまつ反乱はんらん」と明朝みんちょう支配しはい確立かくりつ
山根やまね幸夫ゆきおだいいちしょう あきら: 1.かん民族みんぞく復興ふっこう

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ばんくらあつししゅうあきらはつ中書ちゅうしょしょう変遷へんせん」(1977ねん、『東洋とうよう研究けんきゅう』36かん1ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい
  • 佐久間さくま重男しげお日明ひあがり関係かんけい研究けんきゅう』(1992ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかんISBN 978-4642026406
  • 福本ふくもと雅一まさいちしゅもとあきら文人ぶんじんたち」『京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんがくくさむらだい27ごう京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん、2005ねん5がつ、19-44ぺーじISSN 03879895 
  • 日本にっぽん歴史れきし大系たいけい 2 中世ちゅうせい』(1985ねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃISBN 978-4634200203