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かん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
かん
𗴂

紀元前きげんぜん206ねん〜8ねん

23ねん〜220ねん


 

 

かん位置いち
首都しゅと 長安ながやす
(紀元前きげんぜん206ねん– 9ねん、190ねん–195ねん)

洛陽らくよう
(25ねん–190ねん、196ねん)

もとあきら
(196ねん–220ねん)
言語げんご 上古じょうこ漢語かんご
宗教しゅうきょう 儒教じゅきょう
政府せいふ 君主くんしゅせい
皇帝こうてい
 •  紀元前きげんぜん202ねん紀元前きげんぜん195ねん ふとし
 •  紀元前きげんぜん11ねん-5ねん ひらみかど
 •  25ねん–57ねん
 •  189ねん–220ねん けんじみかど
宰相さいしょう
 •  紀元前きげんぜん206ねん紀元前きげんぜん193ねん しょうなに
 •  紀元前きげんぜん193ねん紀元前きげんぜん190ねん 曹参
 •  189ねん–192ねん ただしたく
 •  208ねん–220ねん 曹操そうそう
 •  220ねん 曹丕
歴史れきし
 •  建国けんこく 紀元前きげんぜん206ねん
 •  垓下のたたかによってかん王朝おうちょう中国ちゅうごく支配しはいがはじまる ぜん202ねん
 •  すわえななこくらん平定へいていにより中央ちゅうおう集権しゅうけん統一とういつ政府せいふさい成立せいりつ ぜん154ねん
 •  たけみかどによるたい匈奴きょうど遠征えんせい ぜん133ねんまえ71ねん
 •  しんによる簒奪さんだつかん王朝おうちょう中断ちゅうだん 9ねん–23ねん
 •  たかしによる簒奪さんだつ 220ねん
面積めんせき
 •  紀元前きげんぜん50ねん[1] 6,000,000 km² (2,316,613 sq mi)
人口じんこう
 •  2[2]とし推定すいてい 57,671,400にん
通貨つうか 半両銭はんりょうぜに銖銭など
現在げんざい 中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく
大韓民国の旗 韓国かんこく
ベトナムの旗 ベトナム
モンゴル国の旗 モンゴル
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこくれんけんきむもんけん
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

かん(かん、拼音: Hàn)は、中国ちゅうごく王朝おうちょうである。通例つうれい前漢ぜんかん紀元前きげんぜん206ねん - 8ねん)とこうかん25ねん - 220ねん)のふたつの王朝おうちょうりょうかん)を総称そうしょうして「かん王朝おうちょう」とばれる。また、ここからてんじて中国ちゅうごく全土ぜんど中国ちゅうごく主要しゅよう民族みんぞく名称めいしょうともなった。以下いか記事きじでは王朝おうちょうについて記述きじゅつする。

中国ちゅうごくはつ統一とういつ王朝おうちょうだったはた王朝おうちょう紀元前きげんぜん206ねん滅亡めつぼうすると、中国ちゅうごくはたったかくぐん将帥しょうすいによる群雄割拠ぐんゆうかっきょ状態じょうたいもどっていた。こうしたなかかんちゅうおよともえしょくふうじられていた劉邦りゅうほう紀元前きげんぜん202ねん垓下のたたか項羽こううって中国ちゅうごくさい統一とういつした。中国ちゅうごく統一とういつした劉邦りゅうほうは、皇帝こうていとして即位そくいするにあたって旧来きゅうらい国号こくごうであったかんをそのまま統一とういつ王朝おうちょう国号こくごうとしてもちいた。

この劉邦りゅうほうひらいたかんと、いったん滅亡めつぼうしたのちりゅうしげるによって再興さいこうされたのちかんかん王朝おうちょうは、あわせて400ねんちょうきにわたった。中国ちゅうごくはつ統一とういつ王朝おうちょうはた王朝おうちょうだったが短命たんめいほろびたこともあり、中国ちゅうごく統一とういつ状態じょうたい実質じっしつてき確定かくていした王朝おうちょう直後ちょくごかん王朝おうちょうとみなされることとなった。これから中国ちゅうごく全土ぜんど中国ちゅうごく主要しゅよう民族みんぞく名称めいしょうとして「かん」がもちいられるようになった[注釈ちゅうしゃく 1]

かん王朝おうちょう歴史れきし詳細しょうさいについては、前漢ぜんかんこうかんをそれぞれ参照さんしょう

歴史れきし

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かん前漢ぜんかん

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紀元前きげんぜん202ねん中国ちゅうごく統一とういつした初代しょだい皇帝こうていである劉邦りゅうほう高祖こうそ)が紀元前きげんぜん195ねんぼっしたのち、しばらく高祖こうそ皇后こうごうであったりょきさきとその一族いちぞく実権じっけんにぎったものの、紀元前きげんぜん180ねんりょきさきぼっするとその一族いちぞく粛清しゅくせいされ、その即位そくいした5だいぶんみかどおよび6だいけいみかどぶんけいばれるすぐれた統治とうちおこな民力みんりょく休養きゅうようつとめたため、かん国力こくりょく伸長しんちょうした。また、けいみかど時代じだい紀元前きげんぜん154ねんには各地かくちふうじられていた諸侯しょこうすわえななこくらんばれるだい反乱はんらんこしたが半年はんとし鎮定ちんていされ、これによって諸侯しょこう勢力せいりょくおおきくけずられて中央ちゅうおう政府せいふ権力けんりょく強大きょうだいした。その即位そくいした7だいたけみかどはこの充実じゅうじつした国力こくりょく背景はいけい隣接りんせつ地域ちいき積極せっきょくてき出兵しゅっぺいおこない、北方ほっぽう遊牧ゆうぼくだい勢力せいりょくであった匈奴きょうどやぶり、南越なんごし併合へいごう西域せいいき諸国しょこく服属ふくぞくさせてかん全盛期ぜんせいき現出げんしゅつした。しかしこうした軍事ぐんじ行動こうどうかん財政ざいせい圧迫あっぱくし、国力こくりょくはこのころからくだざかかった。10代せんみかど前漢ぜんかん中興ちゅうこうとたたえられる名君めいくんであり、この時期じき国力こくりょく一時いちじ回復かいふくしたものの、その衰退すいたいすすみ、外戚がいせきおうが8ねん簒奪さんだつおこなってしん王朝おうちょう建国けんこくし、かん王朝おうちょうはいったんほろびた。

こうかん

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かん王朝おうちょうほろびたものの、おう莽の政治せいじ時代じだい錯誤さくごてきなものがおおく、社会しゃかいにはなはだしい混乱こんらんまねいた。各地かくち群雄ぐんゆう割拠かっきょするなかしん王朝おうちょうかん王家おうけりゅう一族いちぞくである更始こうしみかどによって打倒だとうされた。その更始こうし帝政ていせいけん中国ちゅうごくをまとめることができず崩壊ほうかい混乱こんらんつづなか、やはりかん王朝おうちょう一族いちぞくである光武みつたけみかどりゅうしげる)が国内こくないさい統一とういつし、かん王朝おうちょう復興ふっこうした。この王朝おうちょうのことをこうかんぶ。こうかんは2だいあかりみかど、3だいあきらみかどといった名君めいくんつづいて国力こくりょく回復かいふくさせ、はんちょうはたらきによっていち撤退てったいしていた西域せいいきにもさい進出しんしゅつしたが、その皇帝こうてい夭逝ようせい無能むのう皇帝こうていつづくようになり、宦官かんがん外戚がいせき国政こくせい壟断ろうだんするようになって国力こくりょく低下ていかしていった。そして184ねんこったはばらんによってかん統治とうちりょくおおきく減退げんたいし、ただしたく暴政ぼうせいとそのただしたく192ねん暗殺あんさつされたことで、かん王朝おうちょう実権じっけんまったくなくなり、以後いご各地かくち群雄ぐんゆう割拠かっきょするなか曹操そうそう庇護ひごした細々こまごま名目めいもくのみ存続そんぞくする状態じょうたいとなった。やがて各地かくち群雄ぐんゆう華北かほく曹操そうそう江南こうなんまごけんしょくりゅうさん勢力せいりょく統合とうごうされ、さんこく鼎立ていりつ様相ようそうていするようになった。220ねん曹操そうそう死去しきょすると、後継こうけいしゃである曹丕こうかん最後さいご君主くんしゅであったけんじみかど皇位こうい禅譲ぜんじょうさせ、あらたにたかし王朝おうちょう建国けんこくして、ここにかん王朝おうちょう滅亡めつぼうした。

かんちょう歴代れきだい皇帝こうてい

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かんちょう皇帝こうてい系図けいず

代数だいすう前後ぜんごわす。また太字ふとじ以外いがい皇帝こうてい歴代れきだいふくめない場合ばあいもある。

だい 名前なまえ 在位ざいい
かん前漢ぜんかん)―
1 ふとしこうみかど 紀元前きげんぜん206ねん - 紀元前きげんぜん195ねん
2 めぐみみかど 紀元前きげんぜん195ねん - 紀元前きげんぜん188ねん
3 ぜんしょうみかど 紀元前きげんぜん188ねん - 紀元前きげんぜん184ねん
4 こうしょうみかど 紀元前きげんぜん184ねん - 紀元前きげんぜん180ねん
5 ふとしむねぶんみかど 紀元前きげんぜん180ねん - 紀元前きげんぜん157ねん
6 けいみかど 紀元前きげんぜん157ねん - 紀元前きげんぜん141ねん
7 むねたけみかど 紀元前きげんぜん141ねん - 紀元前きげんぜん87ねん
8 あきらみかど 紀元前きげんぜん87ねん - 紀元前きげんぜん74ねん
9 あきら邑王(うみ昏侯) 紀元前きげんぜん74ねん
10 ちゅうむねせんみかど 紀元前きげんぜん74ねん - 紀元前きげんぜん49ねん
11 こうはじめもとみかど 紀元前きげんぜん49ねん - 紀元前きげんぜん33ねん
12 すべむねなりみかど 紀元前きげんぜん33ねん - 紀元前きげんぜん7ねん
13 あいみかど 紀元前きげんぜん7ねん - 紀元前きげんぜん1ねん
14 元宗もとむねひらみかど 紀元前きげんぜん1ねん - 5ねん
しんすえかんはつ
15 たけじゅんおう更始こうしみかど 23ねん - 25ねん
こうかん
16 光武みつたけみかど 25ねん - 57ねん
17 顕宗けんそうあかりみかど 57ねん - 75ねん
18 粛宗あきらみかど 75ねん - 88ねん
19 きよしむねかずみかど 88ねん - 105ねん
20 殤帝 105ねん - 106ねん
21 きょうむねやすみかど 106ねん - 125ねん
22 しょうみかど 125ねん
23 けいむねじゅんみかど 125ねん - 144ねん
24 おきみかど 144ねん - 145ねん
25 しつみかど 145ねん - 146ねん
26 むね桓帝 146ねん - 167ねん
27 むねれいみかど 167ねん - 189ねん
28 しょうみかどべん 189ねん
29 けんじみかど 189ねん - 220ねん

かん国号こくごうとした諸国しょこく

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かん国号こくごう皇帝こうていであったりゅうせい密接みっせつむすびつき、前漢ぜんかんこうかんりょうかん王朝おうちょう以後いごりゅうせい王朝おうちょうによってたびたび使つかわれた。りゅうせい王朝おうちょうにおいて「かん」をごうしなかったものは、匈奴きょうどけいなつ南朝なんちょうそうのみであるが、ぎゃくりゅうせい以外いがい王朝おうちょうかんごうしたことはいくかある。

かんめい由来ゆらい

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かんちゅうぐんめい国名こくめい

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戦国せんごく時代じだい、この支配しはいしたはた漢江かんこううえ流域りゅういきかんちゅうぐんいた(「〜なか」は河川かせん流域りゅういき盆地ぼんちをいう命名めいめいほう)。はたほろぼされると、咸陽攻略こうりゃく功労こうろうしゃ劉邦りゅうほうかんちゅうともえしょくおうとしてふうぜられ、かんおう(「かんちゅうおう」の)を名乗なのった。

かん王朝おうちょう由来ゆらいするしょ名称めいしょう

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中国ちゅうごく意味いみする「かん

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漢土かんど」のかたりは、写経しゃきょうほん僧侶そうりょ書簡しょかんなどにみえ、これよりかつての日本にっぽんでは中国ちゅうごく名詞めいしとしてもちいられていたとされる。同様どうよう言葉ことばに「はた」「とう(もろこし)」がある。(南北なんぼくあさからモンゴル時代じだいにかけて、華北かほく黄河こうが流域りゅういき)とはなちゅう長江ちょうこう流域りゅういき)を区別くべつし、前者ぜんしゃのみをさす用法ようほうもあった)

民族みんぞくめい文化ぶんかめいとしての「かん

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民族みんぞくとしての「かん民族みんぞく」、エスニックグループとしての「漢人かんど」「かんぞく」、そして漢字かんじ漢語かんごかんふうなどの特定とくてい文化ぶんかをさす「かん」はかん王朝おうちょう由来ゆらいしている。(かん王朝おうちょう時代じだい古代こだい中国ちゅうごく文化ぶんか完成かんせいしたため、崇拝すうはいをこめてかん王朝おうちょう回顧かいこされることが中国ちゅうごくでは一般いっぱんてきである)(南北なんぼくあさからモンゴル時代じだいにかけて、華北かほく黄河こうが流域りゅういき住民じゅうみん華中かちゅう長江ちょうこう流域りゅういき住民じゅうみん区別くべつし、前者ぜんしゃのみをさす用法ようほうもあった)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 西方せいほう世界せかいへは「はた」のつたわりもちいられた。

出典しゅってん

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  1. ^ Taagepera, Rein (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 115–138. doi:10.1017/S014555320002294X. JSTOR 1170959. 
  2. ^ Nishijima (1986), pp. 595–596.
  3. ^ 三崎みさき良章よしあきえびすじゅうろくこく 中国ちゅうごく史上しじょう民族みんぞくだい移動いどう東方とうほう書店しょてん、2002ねん6がつ、60ぺーじ 
  4. ^ 藤田ふじたゆたかはちみなみかんりゅう祖先そせんにつきて」『東洋とうようがくほう 6(2)』、東洋文庫とうようぶんこ、1916ねん5がつ、247-257ぺーじ 
  5. ^ ちんとらつとむ (1939ねん). りゅうふく遺文いぶんちゅう年月としつき及其まつ問題もんだい (PDF). 歷史れきしげん研究所けんきゅうじょしゅうかんだいはちほんだいいちふん (中央ちゅうおう研究けんきゅういん歴史れきしげん研究所けんきゅうじょ). オリジナルの2022ねん2がつ23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220223112641/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4878HxvVMRs.pdf. "近年きんねん桑原くわばら騭藏教授きょうじゅかばひさしかのえ事跡じせきこう》及藤田ふじたゆたかはち教授きょうじゅみなみかんりゅう祖先そせんこう》(東西とうざい交涉こうしょう研究けんきゅう南海なんかいへん》),みな引朱彧《萍州だん所載しょさいきたそうもとゆうあいだ廣州こうしゅうばんぼうりゅうせいじんめと宗室そうしつおんなごと,以證斯蘭教徒きょうとせいりゅうしゃ,其說まことただし藤田ふじた以劉ため斯蘭教徒きょうと習用名字みょうじ音譯おんやくかた不可ふかしんじ,而桑原くわばら以廣しゅう通商つうしょうかい教徒きょうとりゅうじつみなみかんたまものせいこんわか以復れいかん,其說また鄙見ひけんりゅうあずか俱漢から兩朝りょうちょうくにせい外國がいこくじんあらためはなせいしゃ往往おうおう採用さいようふく及其它伊斯蘭教徒きょうと以劉ためせいしゃ,殆以此故歟? せき於復氏族しぞくうたぐ出自しゅつじはななついち問題もんだいなおしたがえ文章ぶんしょう體制たいせい論說ろんせつ主張しゅちょうしょ方面ほうめん推測すいそくただし以此るいことしょう適切てきせつ悉不おけろん,謹就其以りゅう為氏ためうじ,而家きゅうひんかん四海しかい強大きょうだいおや父子ふし俱以儒學じゅがくしんつかまついたり中書ちゅうしょ舍人とねりれい尚書しょうしょ,而不祭祀さいし先祖せんぞ,及籍ぬきまがえ歧,而俱賈胡(註:通商つうしょうてきえびすじん)僑寄さんはし,推證如此。" 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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