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兴宣大院君たいいんくん

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きょうせん大院君たいいんくん
きょうせん大院君たいいんくんぞう(1883ねんちょく隷省定府じょうふ
朝鮮ちょうせんこく攝政せっしょうこう
國家こっか朝鮮ちょうせん王朝おうちょう
せい
昰應
どきはく
ごういし
ふう大院君たいいんくん
尊號そんごうきょうせん大院君たいいんくん
其他名號みょうごううみひがし居士こじ
出生しゅっしょう(1821-01-24)1821ねん1がつ24にち
 朝鮮ちょうせんこくかん城府じょうふ
逝世1898ねん2がつ22にち(1898さい—02—22)(77さい
 大韓たいかん帝國ていこく京畿けいきどうこうぐん
谥号きょうせんけんじ懿大いんおう
墳墓ふんぼ京畿けいきどう坡州くも川面かわもきょうえん
兴宣大院君たいいんくん
諺文おんもん흥선대원군
汉字きょうせん大院君たいいんくん
ぶん观部しきHeungseon Daewongun
马-赖式Hŭngsŏn Taewŏngun
ごう
諺文おんもん석파
汉字いし
ぶん观部しきSeokpa
马-赖式Sŏkp'a
本名ほんみょう
諺文おんもん이하응
汉字昰應
ぶん观部しきI Haeung
马-赖式I Haŭng
おもて
諺文おんもん시백
汉字どきはく
ぶん观部しきSibaek
马-赖式Sibaek
谥号
諺文おんもん헌의
汉字けんじ
ぶん观部しきHeonui
马-赖式Hŏnŭi
雅號がごう
諺文おんもん해동거사
汉字うみひがし居士こじ
ぶん观部しきHaedong Geosa
马-赖式Haedong Kŏsa

きょうせん大院君たいいんくん(1821ねん1がつ24にち—1898ねん2がつ22にちこれ朝鮮ちょうせん王朝おうちょうてき宗室そうしつ成員せいいんあずか政治せいじため朝鮮ちょうせん王朝おうちょうだい26だい君主くんしゅこうはじめまとせいちちほんぬきぜんしゅういみなxìa[2]おうどきはくごういしうみひがし居士こじおくりなけんじ

早年そうねん

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昰應於よしみじゅうねんかのえたつじゅうがつじゅういちにち(1821ねん1がつ24にち出生しゅっしょう汉城みなみのべくん忠正ただまさおおやけだまだいよんはは骊兴闵氏みなみのべくんじんだいさん麟坪大君おおきみてきろくせい孙,过继给そうけんじ世子せいしだいよんおんしんくん禛为きさきざい宗法しゅうほう制度せいどゆかり於恩しんくんかむつぎきゅう朝鮮ちょうせんえいこれおとうとのべよわいくんみなみのべくんあずか其後裔被ため朝鮮ちょうせん肅宗後代こうだい繼承けいしょう順位じゅんいざいえい後裔こうえいこれいん此這ためだかむねつぎためおう建立こんりゅうりょう條件じょうけん

1834ねんふうきょうせんふくせいしん大夫たいふ。1835ねんます保信やすのぶ大夫たいふ。1841ねんますあきら大夫たいふふうきょうせんただし。1843ねん作為さくいこうあらわおうきさきもりりょうかんすすむふうきょうせんくんいたり1846ねんますいたりあらわ祿ろく大夫たいふ。1847ねん曾被任命にんめいため冬至とうじ使使清朝せいちょうただし成行しげゆきこう歷任れきにんひさげ調ちょうくりやいんてんかんつかさ圃署、てんしつらえそうちかし有司ゆうし堂上どうじょう、五衛都摠府都摠管等職[3]

1864年初ねんしょあきらむねやす东金ゆたか壤趙围绕继承问题产生对立。此時,昰应てき三位兄長中有兩位已經過世,,就是ただゆうどく,按照朝鮮ちょうせん王室おうしつてき既成きせい慣例かんれい們的後代こうだい不能ふのうにゅうつぎ王位おうい昰应そくゆうりょう嫡子ちゃくし载晃よし此李昰应买通宫女ともえかみ贞王きさき赵大はん对安东金せつふくだいおさむやしなえ且立てき次子じしあきらためしんおうなみ让大たれ帘听せい。丰壤赵氏积极支持しじ,领府ごときむひだり、领敦宁金兴根及哲宗之むねゆききんあきら仁王におうきさきはん对,がい怕威胁他们的利益りえき。而宪宗之むねゆきひろしこうじょうおうきさき)、いんしょう郑元ようやす东金きん炳学支持しじ昰应,赵大さく为最だか长辈倾向昰应。最後さいごやす东金认为昰应无能やから也没繼續けいぞく堅持けんじはん对。[4]昰應嫡第载晃选入宫中继承王位おうい为高むねこうむね即位そくい时年仅じゅう岁,不能ふのう亲理せい务,ゆかり昰應赞襄せい务,ふうごう兴宣大院君たいいんくん人稱にんしょうだいいんだい监(だいかんたいせい一品いっぴんせいひん官員かんいんてき通稱つうしょう)。きょうせん大院君たいいんくんあさ鲜王あさ唯一ゆいいつ一个在世时就被尊为大院君的人。よし此在こんてんあさ鲜半岛所说的大院君たいいんくん一般就是興宣大院君。其住宅じゅうたく授予“宫”てき称号しょうごうしょううん岘宫”。こうはじめのぼりはじめ时金ひだりとうじん以“ことくん”为由,はん对大いんくん摄政,しゅ张虚みこと其位,ただし遭到赵大一党的赵斗淳等人的驳斥而作罢。[5]1866ねん赵大结束たれ帘听せい

せい

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大院君たいいんくんちょうふくぞう

きょうせん大院君たいいんくんてのひらけん便びん施行しこう新政しんせい以强专制中央ちゅうおうしゅう权。大院君たいいんくんれいざい汉城四大门征收通行税,ざい农村せいおさむすいぜいざい全国ぜんこく境内けいだい发行「とうひゃく钱」,引进清朝せいちょう钱币,导致あさつう货膨胀きさきてきせい敌斥责为劳民伤财、损耗国力こくりょく。为了じゅう塑王しつてき严,1865ねんかたぶけ全國ぜんこくちからじゅうけんみずのえたつやまとらんどき遭焚燬之けいぶくけいぶく宫作为君主くんしゅ专制权的ぞうせい大院君たいいんくんきょう中央ちゅうおうしゅう权的重要じゅうよう标志。きさきいん财政济,こう百姓ひゃくしょうせいおさむねがいおさめぜに」。大院君たいいんくんかえ改革かいかく还穀制度せいどしたれい在國ざいこくちゅう五道实行社仓制,こう仿宋あさ朱子しゅししゃ仓,废止ただゆう平民へいみん纳税てき军布せい改行かいぎょう户布せい,无论貴族きぞく平民へいみんみな必须缴税,くに库“此时富力ふりょくそくささえじゅうねんこれよう”,大院君たいいんくんたけしもちだいだいひさげだか[6]大院君たいいんくん发布“变服れい”,大幅おおはば简化衣冠いかんふく饰,はた长袖あらため为窄そで,以便对内ひさげだか行政ぎょうせい效率こうりつ,对外便びん于上战场仗。

大院君たいいんくん强化きょうかおう权,强化きょうか个人独裁どくさい用人ようにんただざいじゅう视吏たい於親じん,其兄长さい、儿子载冕つましゅうと闵升镐とうひとぼつよじじょう高官こうかん。为了きょう中央ちゅうおうしゅう权,大力だいりきはいやす东金ゆたか壤趙ひとし門閥もんばつ。缩小各地かくち备边,从议政府せいふ中分なかぶん离出さん军府,はた行政ぎょうせい权与军事权相ぶん离;したれい刊行かんこう大典たいてんかいどおり》、《两铨便びんこう》、《ろくてん条例じょうれいとう书籍,あきら国家こっかてき典章てんしょう制度せいど法律ほうりつ规范;宣布せんぷよんしょく平等びょうどう”(よんしょくあさ鲜朝廷中てきよん个派别:ろうろんしょうろんみなみじんとうきたじんとう)、“以才择官”,压制やす东金、丰壤赵氏てきろう论、しょう论派,拔高みなみじんきた人的じんてき地位ちい王族おうぞくぜんしゅうてきむべつばさけいなつくにげんとうひと获得重用じゅうよう打破だは两班贵族垄断做官,つつみちゅうじん甚至庶民しょみんなかてきゆうざい

大院君たいいんくんざい全国ぜんこくさい思想しそう专制文化ぶんかだか政策せいさく,致使现了“うん岘当こく甲子きのえね(1864)いたりみずのととり(1873)じゅうねん间,くにないふるえこわしょうみん咋舌しょう戒,敢谈朝廷ちょうていごとつね如鬼扑临门”てきじょう况。[7]另外压儒りん士人しじんした“书院撤废れい”。全国ぜんこくじょ47しょ“赐额书院”(ゆかり国王こくおうてき书院)以外いがい,其他书院一律いちりつさい撤。儒生じゅせい祭祀さいし明神みょうじんむねてきまん东庙ためりょうかんねんみずのえたつやまとらんとき明朝みょうちょう派兵はへい救援きゅうえん朝鮮ちょうせん)也被关闭。命令めいれいけいなつ动用武力ぶりょくさい撤书いん认为书院胁他てき独裁どくさい

大院君たいいんくん严厉镇压外國がいこくじんあずか外國がいこく宗教しゅうきょう势力,どうねん(1866ねん正月しょうがつしたれいざい全国ぜんこく境内けいだい天主教てんしゅきょう逮捕たいほ12まんにん包括ほうかつ12めいほうこく传教。处决じょう万名天主教徒及家属,包括ほうかつ9めいほうこく传教しょうへいとらよこしま狱”(现称“へいとら迫害はくがい”)。导致へいとらよう外交がいこう方面ほうめん大院君たいいんくん厉行闭关锁国政策せいさくめんしゃ门将军号事件じけんへいとらよう扰、からしよう,一律采取强硬政策,ざい全国ぜんこく竖立书的“斥和”,うえ书:“ようえびす侵犯しんぱん战则しゅ卖国,戒我まん年子としご孙”。

あずか閔妃びんび明成めいせい皇后こうごうてきおん

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こうそう成年しげとし大院君たいいんくんようため物色ぶっしょく王妃おうひ人選じんせんてき妻子さいし驪興だい夫人ふじん推薦すいせんりょう自己じこ16さいてきとおぼうどういもうと閔茲暎。當時とうじだい夫人ふじんてきおとうとおとうと閔升鎬やめけいつぎなりためぞくじん閔致祿ろくてき養子ようし使つかいとく閔升鎬和閔茲暎成ためやしなえ兄妹きょうだいだい夫人ふじんこう大王だいおうだいちょう推薦すいせん她,也努力說りきせつふく自己じこ丈夫じょうぶ大院君たいいんくんおこりはつ願意がんいみとめため閔升鎬已てき近親きんしんつましゅうとさい另選同樣どうようてきせい閔氏てきいれみや,如今わかさいゆずる閔茲䁐入みやのり閔升鎬將どうため父子ふしてきつましゅうとちょうまさる同意どうい大夫だいぶ人的じんてき提議ていぎ反覆はんぷくすすむせつさいおわり於說ふく大院君たいいんくん[8]。閔茲暎於选入宫中,なり为高むねてき王妃おうひせいたたえ閔妃びんび

過當かとうだかむねちょうしんじなお宫李じゅん),于1868ねん诞下いちそくかんかずくん墡,历史はは以子贵,ふう为淑ひめ。闵妃ざいひや落下らっか读诗书史せき,获得りょう宫中てき同情どうじょう,也最终得いたこうむねてきたれあお。闵妃虽多怀孕,ただし流產りゅうざん就是夭亡,一次还被认为是大院君送来的やま引起てき。而大いんくん为了巩固おう权,要求ようきゅう早早そうそう确立世子せいししゅ张立しょう宫之墡为世子せいしあずか闵妃产生很大矛盾むじゅん。闵妃暗中あんちゅうつちかえうえ自己じこ家族かぞく外戚がいせき,还联ごうやす东金丰壤赵氏,甚至笼络大院君たいいんくんあにさい应(兴寅くん)、大院君たいいんくん长子とうひと形成けいせいいちまた强大きょうだいてき政治せいじ力量りきりょう

1873ねん大院君たいいんくんみこと为“大老たいろう”,而在这年じゅうがつちぇえき恢复かん职后就马じょうていぶん弹劾大院君たいいんくんてき改革かいかく政策せいさくちぇえき铉的じょう疏按惯例さきていうん岘宫。大院君たいいんくん认为国王こくおう肯定こうていかい驳回じょう疏并严惩ちぇえき铉,就转てい给国おうただしだかむねいたうわ疏后给崔えき铉升りょうかん[9]在高ありだかそうかず闵妃动下,ちぇえき铉再じょう疏弹劾大いんくんしょうにんごとしんそく大院君たいいんくん)壅蔽聪明,みさお纵威ぶく,纲目俱弛,而致ゆう今日きょうしこりへい也”,あきら要求ようきゅうわか其不ざい其位,而惟ざい亲亲れつしゃただとうみこと其位、あつ其禄,勿使国政こくせい”。[10]此举极大震たいしん动了朝野ちょうやひろしあつしきよし组织大院君たいいんくん麾下きかこつ见高むね请旨杀崔えき铉。こうはじめおちいにゅうりょう两难てき境地きょうち

1873ねん閔妃びんび联合やす东金、丰壤赵氏以“国王こくおう亲政”为由,排斥はいせき大院君たいいんくん势力,11月5にちこうはじめ宣布せんぷ“亲政”,じゅん大院君たいいんくんにゅう宫干预政事せいじ大院君たいいんくん让洪じゅんきよしとうじんしゅうからだ职,架空かくう朝廷ちょうてい。闵妃却指其党てのひらひかえ朝廷ちょうていかく要害ようがい门,大院君たいいんくん彻底しつ势,ゆかり于高そう熙生せい懦弱だじゃくせい权实际掌握しょうあくざい闵妃外戚がいせきしゅう团手ちゅう大院君たいいんくん离开きょうじょう,蛰居于三溪さんけいほら别庄、杨州ちょく谷山たにやま庄和しょうわいさお山城やましろ疏等。闵妃ざいせい变不ひさきさきせい儿子出生しゅっしょう1ねんきさきさつふう为王世子せいしきさきらいてき纯宗),统治地位ちいいん而完ぜん巩固。

大院君たいいんくん仍试图干涉かんしょう朝政ちょうせい。其下だいひさきさきけいぶく宫就发生りょうばく事件じけん,四百多间殿阁被烧毁;1874ねんじゅういちがつ,闵妃あに闵升镐まとあずか闵妃生母せいぼ韩昌夫人ふじんてき孫子まごこ在家ざいけちゅうかむ炸弹炸死;ただしてき夫人ふじんつよしこうざい廚房茶菓ちゃか僥倖ぎょうこう逃過一死いっしひかり元年がんねん(1875ねんじゅういちがつ,领议せい兴寅くんさい应的たくてい遭纵。这さんてき贼”认为大院君たいいんくんとうぜん庆尚どうへい使さるあきらひとし。虽然ざい审理さるあきらひとしてき过程ちゅう并没ゆう牵扯到大院君たいいんくんただし闵妃いん此仇恨大いんくん儒生じゅせい们则认为だかむね对大いんくん不孝ふこう,从1874ねん十月起不断上疏要求高宗敦请大院君回京。こうはじめざい闵妃てきゆび使はた汇林とうじょう疏者ながれあら岛,并宣しょう:“此是间人骨肉こつにくしゃあふ内外ないがい眩惑げんわく人心じんしんしゃ也。自今じこん以后,わかゆうさら为伏闕者,とう极律すり炼”。[11]1875ねん六月仍有儒生赵忠植等4にんおかせじょう疏,こうはじめれいはた4にん处斩,遭众しんりょく谏反对,大院君たいいんくん同年どうねんろくがつじゅうにち入京にゅうきょう,对高むね说:“儒生じゅせいとう为我父子ふしじょう疏,よく杀此辈,さき杀我!”[12]こうそうかず闵妃妥协,はたよんめい儒生じゅせいあらためながれ,并同意どうい大院君たいいんくんかいいたきょうじょううん岘宫居住きょじゅう

大院君たいいんくん一直等待时机,东山再起さいき。闵妃しゅう团醉せい梦死,みん愤越积越ふか人民じんみん开始怀念大院君たいいんくん时代。1876ねん正月しょうがつ日本にっぽん使臣ししん黑田くろだ清隆きよたか井上いのうえかおるりつ7そう军舰到こう华岛,以うん扬号事件じけん为借こうさこちょう鲜与其签订条约,闵妃同意どういかたじょう款,弃锁こく线。大院君たいいんくんじょう书抨击,要求ようきゅうあずか日本一にっぽんいち战。[13]还派人前ひとまえ往江华岛,诘责さる櫶等谈判かん员,阻止そしあさ日建にっけん交。ただし闵妃しゅう团不理会りかい,于1876ねんがつにちかず日本にっぽん签订りょうこう华条约》。大院君たいいんくん对高そうかず闵妃さら失望しつぼうかたき视。

ひかりななねん(1881ねん),清朝せいちょう驻日まいり遵憲てきあさ鲜策りゃく在朝ざいちょう披露ひろう。书中ひさげ议朝鲜与中國ちゅうごく日本にっぽん美国びくに联手对付すなにわか,为闵しゅう团所赞同,却引おこりりょうちょう人民じんみんてきはん对,儒生じゅせい掀起“からし斥邪”。大院君たいいんくんとう羽安はやす骥泳とうじん利用りよう社会しゃかいじょうてき满情绪,图谋せい变,拥立大院君たいいんくん庶长载先きさきいんじんつげみつ而失败,やす骥泳とうじんしのげおそ载先ざいながれ济州岛过程ちゅうかむたまもの大院君たいいんくん本人ほんにんなみ牵连。

1882ねん6がつみずのえうまへい”,闵妃逃,其党ある杀,あまりとう大院君たいいんくんまたじょうつくえ掌握しょうあくせい权,ふうくにふとしおおやけなみ宣布せんぷ闵妃やめ,为其国葬こくそうこうはじめせりむね自今じこん大小だいしょうこう务,并禀决于大院君たいいんくんまえ”。[14]ひさきよし朝鮮ちょうせん事務じむ大臣だいじん長慶ちょうけいてき幕僚ばくりょう马建ただししつらえはかりごとした大院君たいいんくん長慶ちょうけい部將ぶしょう袁世凯かかわ押送おうそう天津てんしん,监禁于定府じょうふさんねん,1885ねん获释回国かいこく

1891ねん,袁世凯认为高むね昏庸无能,劝高むねぜん世子せいしゆかり大院君たいいんくん辅政,こうはじめ听说きさき非常ひじょうがい怕,きゅうせわしいのち世子せいしかんこく接受せつじゅ百官ひゃっかんあさ贺,こう仿肃むねえい、纯祖故事こじいのち储君代理だいり听政。[15]きさきらい经过ひろしもとちから劝而罢,ただしひろし元也もとなり遭到りゅうはい[16]またゆう一说是世子的庶弟义和くん远比世子せいし优秀,且大いんくんもち甚重,闵氏一族感到威胁,とげくわだて图以世子せいし代理だいり听政てき方式ほうしきらいきょう自身じしんてき权势。[17]

1894ねんはる朝鮮ちょうせんばくひがしがくとうみだれ朝鮮ちょうせん国王こくおう请清へいじょ剿。日本にっぽん也于该年6がつ8にち混成こんせいたび团入おかせ朝鮮ちょうせん,并向朝鮮ちょうせん政府せいふ提出ていしゅつ改革かいかく内政ないせい要求ようきゅうこばめきさき,於7がつ23にち派兵はへいおさむうらない朝鮮ちょうせんおう宫,刺殺しさつ閔妃びんびなみ监禁朝鮮ちょうせんだかむね。另派一支部队包围并占领大院君私宅くも峴宮利用りよう大院君たいいんくん成立せいりつ傀儡かいらい政權せいけん宣布せんぷ废止こう清朝せいちょう进贡れい仪,进行だつ离清あさ运动。

日本にっぽんひと虽然建立こんりゅうりょう以大いんくん为首てきせいただし对于大院君たいいんくん并不放心ほうしん。认为:“大院君たいいんくんななじゅう年来ねんらいただゆう中国ちゅうごく不知ふちゆう他国たこく顶至かかと完全かんぜん充滿じゅうまんちょ『顽固』てき老翁ろうおう”,表面ひょうめんじょう巧言令色こうげんれいしょくこうわが们求こび”,暗中あんちゅう却“たくざい平壤ぴょんやんこれ华将,はた心意しんいてんたちきよし廷”。

とく别是8がつ10日とおか,进驻平壤ぴょんやんてききよしひだりたからとうりつ军渡过大同だいどう南下なんかいた中和ちゅうわ附近ふきん时,すえ日方ひかた史料しりょう记载“大院君たいいんくん事大じだいこころ热中にえ腾,にん其爱孙为たけし卫营大将たいしょう掌握しょうあくへい权。阳对日本にっぽんだい公使こうし表示ひょうじ非常ひじょう诚恳,却阴あずか中国ちゅうごく结托,さく划奸黠隐谋,あずかざい平壤ぴょんやんしん军暗どおりおもてさとしょう援,くわだて图擒捉日本にっぽん公使こうし”。“并和东学とうしょうよび应,くわだて图驱逐我へいすえ清人きよひと姚锡こう《东方兵事へいじ纪略》记载,にち军占领汉じょうきさき:“朝鮮ちょうせんくん臣民しんみん庶制于倭じん兵力へいりょくもちわが军捷おとゆうわかもち岁,其王きょう自大じだいいんくん以下いか,时密输倭じん消息しょうそく于我,にち盼我军进趋汉城”。

おつことちゅう大院君たいいんくん日本人にっぽんじん利用りよう非常ひじょう难堪。こと变10てんきさきはさま于压りょく搬出はんしゅつ宫廷,かいいたうん岘宫また孙子埈镕おく日本にっぽん留学りゅうがく日本にっぽん也只暂时利用りよう大院君たいいんくん同年どうねんじゅうがつはたながれ。1896ねん2がつ11にちにわかかん播遷きさき大院君たいいんくん离开汉城,隐居郊外こうがいあなとくさと别庄,あさ政府せいふ2がつ13にち恢复ぜんいちねんよんがつ颁布てき大院君たいいんくんみことたてまつ仪节”,对他软禁。光武みつたけ元年がんねん(1897ねん中国ちゅうごく驻朝总领ごとから绍仪国内こくない报告:“おつはちがつ闵妃戮,おううたぐ其父くしどおりやまとしょ致,怨恨えんこんえきふかとげ标兵すう十名榜于其门前,凡遇ゆうあずか昰应府内ふない往返しゃひとし严加审讯,ぽう出入でいり本年ほんねん六月间又派巡查十名守垣内。昰应だいいかまいひとつえいちひゃくそく时入宫见其子,谓:‘おつ以前いぜん闵妃,尔之うたぐわがけい为妻蛊惑,いま派兵はへいぼうわが,设巡查于わが庭前ていぜんこと不可解ふかかい。尔无父母ちちはは耶?そもそもわが无妻しつ耶?倘尔うたぐわが为逆とうそく请杀なに致竟设巡查于内室ないしつ耶?ただし自今じこん以后,勿谓有本ありもとせい父母ちちははわがやめはちじゅう老人ろうじんはた黄泉よみまたあずか尔相见!’とう语。おう闻之觉泪,请息いか,及许严责总巡かん。昰应听,じょういか而归。嗣后该巡查经やめ撤去てっきょおもんみひさしゆうくら查密さがせ于其ひだり右近うこん。”[18]

此后大院君たいいんくん离开りょう朝鮮ちょうせんてき政治せいじ舞台ぶたい,1898ねん2がつ22にち于雲峴宮,とおることぶき77岁。临死ぜん对李载冕要求ようきゅうようだかむねめん说了さんへん無法むほう如願。いぬ时,大院君たいいんくん就斷りょうざい场的じんいた这一幕无不伤感呜咽。 5月25にちこうはじめ皇帝こうてい为他举办りょう盛大せいだいてき葬礼そうれいただしぼっゆう出席しゅっせき在高ありだかろうじょう见大いんくんてきおくそう行列ぎょうれつ逐渐远去,痛哭つうこくしつごえ,“こえ彻于がいにん以为犹有てん伦之かん”。あずか夫人ふじん纯穆だいいんごうそう京畿けいきどう坡州うん川面かわも大德だいとく园。1907ねん8がつ24にち,纯宗为大いんくんじょうみこと谥“兴宣けんじ懿大いんおう”。ざい坡州专门为他おさむけん一座いちざ园,しょう“兴园”,单独うつりそういたり此(1966ねん迁葬京畿けいきどうみなみ杨州)。

家庭かてい

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大院君たいいんくん夫人ふじん骊兴闵氏为天主教てんしゅきょうどうみなみじんひろし凤周きたじんみなみ钟三ひとし著名ちょめい天主てんしゅ教徒きょうとゆう来往らいおうひろし凤周为高むね乳母うばほお召史これおっとこうむねじょうみこと谥纯きよしだいいん大院君たいいんくんせいゆうさんさんじょ。长子かん兴君,曾任兵曹へいそう、吏曹ばん书,宫内大臣だいじんすすむふう兴亲おうあさ鲜被日本にっぽんあい并后ふう为李熹公。次子じしつばさ成君なりぎみ载晃そく为高むねうけたまわつばさむね嗣。庶长载先ざい1881ねん5がつ图谋废黜だかむね、推翻闵氏しゅう团、自立じりつ为王てき一场未遂政变后获罪赐死。

评价

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大院君たいいんくん原意げんい藉新せい實現じつげん社會しゃかい正義まさよしなみ維護普羅ふらだい權益けんえきただし建立こんりゅうざい傳統でんとう社會しゃかい基礎きそじょうてき改革かいかく無法むほう拯救やめけいはしこう衰亡すいぼうてき朝鮮ちょうせん王國おうこく

ざいへいとらようかずからしようこれちゅう大院君たいいんくんりょうしるべ朝鮮ちょうせんぐん擊退げきたいほうぐんぐんただし西方せいほう強權きょうけん力量りきりょうやめぜい不可ふか擋。

大院君たいいんくんきょう專制せんせい中央ちゅうおう集權しゅうけんてき改革かいかく作為さくいさら使あさ鮮遠はなれ實現じつげん近代きんだいてき機會きかいさらため政治せいじ前途ぜんとうめ潛在せんざい危機きき

此外,耗資だいきょう土木どぼくきょう軍備ぐんび舉也促使咸镜どう稳城全羅道ぜんらどう光陽こうよう庆尚どうやすしうみ黄海こうかいどううみしゅう庆尚どう安東あんどうとう爆發ばくはつ農民のうみんおこりよし國境こっきょう北部ほくぶてき農民のうみんよし天災てんさいじんどうはちねん(1869ねんおこりそく不斷ふだん逃亡とうぼう中國ちゅうごく東北とうほく形成けいせい早期そうきてき中國ちゅうごくせきあさ鲜族[30]

年表ねんぴょう

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1870年代ねんだい兴宣大院君たいいんくん画像がぞう

画像がぞう

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いっ

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  • 兴宣大院君たいいんくんぜん兰花

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ じゅんきよしだいいんえん
  2. ^ 基本きほん解釋かいしゃく. ,“どうなつ」。《あつまりいん•禡韻》:「なつ古作こさく昰。」”汉典网。
  3. ^ きょうせん大院君たいいんくんこころざしめい》:きのえうまふうきょうせんふくせいかいしんじけんそう乙未おとみ陞保しんじからしうし陞彰しんふうきょうせんただしみずのとこうあらわおうきさきもりりょうかんふうくんかい昭義あきよしひろ陞中よしきのえたつ陞承,ひろ陞崇けんまた陞嘉とくおつ陞宜とくひろ陞興祿ろく丙午ひのえうま綏陵遷奉時差じさだい奠官、まもり 殯官,陞顯祿ろくきゅう也。丁未ていみたかし冬至とうじ使くだりひさげ調ちょうくりやいんてんつかさ圃、てんしつらえみやつこ也),そうちかし有司ゆうし堂上どうじょう再任さいにん,五衛都摠府都摠管屢歷焉,此其始終しじゅう踐履大略たいりゃく也。
  4. ^ ほお齐炯ちょつばさなり译《近代きんだいあさ鲜政鉴》じょうだい32页,转引自白じはく钟基ちょ《韩国近代きんだい研究けんきゅう》,しゅ尔博えいしゃ,1981年版ねんばんだい21页。
  5. ^ はやしやすし辅著,陈清いずみ译.《あさ鲜通》:上海しゃんはいしょう务印书馆,1934ねんだい242、243页
  6. ^ ぼくいんうえ《韩国つうだい编,だい5页。
  7. ^ 玹《うめ泉野いずみの录》:韩国国史こくし编纂员会 1955ねん だい2页
  8. ^ ぼくひとし炯; 那珂なか通世みちよ. 近世きんせい朝鮮ちょうせんせいかん. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん デジタルアーカイブ. 1887: 23–24 [2021-07-22]. (原始げんし内容ないようそん于2021-07-22). 
  9. ^ こうはじめ实录》まき10,じゅうねんじゅうがつじゅうにちじょう:“批曰:‘尔(ちぇえき铉)此疏,于衷きょく,且为戒予やめ,极为よしみなお。敢述れつ圣朝盛事せいじ,户曹さんばんじょ授。’”
  10. ^ こうはじめ实录》まき10,じゅうねんじゅういちがつはつさんにち
  11. ^ ぼくしゅうだい《罗岩ずい录》,だい151页。参照さんしょうこうはじめ实录》まき12,じゅうねんがつじゅうななにち
  12. ^ はやしやすし辅著,陈清いずみ译.《あさ鲜通》:上海しゃんはいしょう务印书馆,1934ねんだい259页
  13. ^ そうきん洙《龙湖闲录》まき4,だい352—353页
  14. ^ ぼくしゅうだい《罗岩ずい录》,だい286页,またそうきん洙《龙湖闲录》まき4,だい470页。
  15. ^ 玹《うめ泉野いずみの录》,だい113页:“袁世凯留镇且じゅうねん,谙东ごと甚悉,以上いじょう终无兴衰もち有意ゆうい劝内ぜん,辅以大院君たいいんくん,庶或维持ざんきょくきむまことうえ见窜隐忍迟回しゃまたすうねんいたり见时ごとまたみつゆう议。上大かみおお惧,とげいのち世子せいしせい南面なんめん,受百かんあさ贺,以示代理だいり渐……”。
  16. ^ こうはじめ实录》まき28,じゅうはちねんがつじゅうさんにち
  17. ^ JACAR(アジア歴史れきし资料センター)Ref.A04010006100、公文こうぶん雑纂ざっさん明治めいじじゅうねんだいかんそと务省いちそと务省いち(国立こくりつ公文こうぶん书馆)。
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  20. ^ 승정원일기 2745책 (탈초본 129책) 고종 6년 11월 18일 을유 9/18 기사. うけたまわせいいん日記にっき. [2021-02-19]. (原始げんし内容ないようそん于2021-02-21). 
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  25. ^ 안동김씨대동보 安東あんどうきむ大同だいどう, 권3-5. FamilySearch. まきだい87ぺーじ
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  28. ^ 우봉이씨세보 ぎゅうみね, 권1-10. FamilySearch. [2021-02-19]. だいよんかんだい87はん
  29. ^ こうはじめ實錄じつろくまきろくだかむね6ねん(1869ねん)4がつ14にちじょう. 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう實錄じつろく. [2021-02-19]. (原始げんし内容ないようそん于2021-02-21). 
  30. ^ あさ民主みんしゅぬし人民じんみん共和きょうわこく科学かがくいん历史研究所けんきゅうじょ编著てきあさ鲜通》(下卷げかん),だい9—28页;曹中へいあさ近代きんだい(1863—1919)》,だい7—25页。
  31. ^ こうはじめ实录 まき10,じゅうねんろくがつじゅうにちじょう
  32. ^ 玹.《うめ泉野いずみの录》:韩国国史こくし编纂员会,1955ねんだい116页\《公文こうぶん杂纂·明治めいじじゅうねんだいろくかんそと务省在京ざいきょうじょう帝国ていこく公使こうしつくえみつ报告だいろくごう,〈大院君たいいんくんていない火薬かやく爆発ばくはつけん〉。

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前任ぜんにん
きむひだり
朝鮮ちょうせんこく攝政せっしょうこう
1863ねん-1874ねん
1888ねん
職位しょくい廢止はいし
くも峴宮宗主そうしゅ
追認ついにん
つぎにん
長子ちょうしかんきょうくん