白鳥 事件
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1952 | |
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概要
しかし、
事件 の経緯
1952
その
しかし、
白鳥 警部
当時 の札幌 の情勢
裁判
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1963( | |
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なし | |
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村上 の懲役 確定 まで
1955
この
再審 請求
しかし、1953
白鳥 決定
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1975 | |
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後年 の推移
亡命 者
事件 に関与 して中華人民共和国 (中国 )に逃亡 した党員 たちの多 くは、文化 大 革命 を経 て日 中 国交 正常 化 後 に帰国 したが、不 起訴 にされている。一方 、日本 共産党 は『赤旗 』でこの者 たちを「反 党 盲従 分子 」と攻撃 し、村上 と接触 させなかった[22][76]。- 1955
年 (昭和 30年 )頃 、実行 犯 として指名 手配 された3人 は中国 へ不法 出国 により亡命 した[77]。彼 らは北京 機関 解体 後 に四川 省 に追 いやられ[注釈 27][79]、射殺 の実行 者 とされた『ひろ』を含 むこのうちの2人 が1988年 (昭和 63年 )に癌 で病死 し、革命 烈士 として八宝山革命公墓に埋葬 された[注釈 28][22][80]。最後 の生 き残 りとなった鶴田 倫 也[注釈 29]は北京 外国 語 大学 で「唐沢 明 [注釈 30]」という通称 で日本語 教師 をしており、鶴田 が編纂 した教科書 は多 くの大学 で使 われた[78][81][83]。- 1996
年 1月 9日 に関係 者 の訪問 を受 けた鶴田 は泥酔 し「俺 らのやったことはオウム真理教 と同 じだという奴 がいる。俺 はな、単 なるやくざ者 で白鳥 をやったのとは違 う。あんなごろつきやって何 が悪 いんだ」「おれはここにいてプロレタリア国際 主義 の立場 から日本 革命 を考 えている」とくだを巻 いたという[80]。 鶴田 は訪中 した日本人 から身 を隠 すようにして定年 後 は大学 構内 の教職員 宿舎 に居住 していた[注釈 31]。1997年 (平成 9年 )6月 、時事通信 の記者 が北京 市 内 で鶴田 との接触 に成功 したが、鶴田 は事件 の真相 を語 らなかった。このとき、一向 に事件 について語 ろうとせず「ここ(中国 )にいられないようにしてやる」とすごむ鶴田 に対 し記者 が「わかりました。この件 については自分 の判断 でやります」と言 うと、鶴田 は「俺 は昔 から新聞 記者 は嫌 いだったんだ!」と捨 て台詞 を吐 いた。このころ渡部 富 哉らによる鶴田 帰国 支援 運動 が別途 行 われていたところであるが、時事通信 の取材 後 に鶴田 は消息 不明 となり、ICPOを通 じて照会 を求 めた日本 の警察庁 に対 して中国 側 は「鶴田 なる人物 は中国 にはいない」と回答 した。鶴田 は心臓 疾患 を患 い2012年 (平成 24年 )1月 頃 から体調 を崩 し、3月14日 に北京 で死亡 したことが報道 されている[22][78][83][85][86]。鶴田 は「唐沢 明 として革命 公 墓 に入 ると骨 を調 べられる。DNA鑑定 もできないように海 に流 せ」と遺言 を残 し、遺言 どおりに天津 沖 で散骨 されたという[22][80]。白鳥 の妻 は上述 の時事通信 記者 から鶴田 生存 の報 を聞 くと「生 きてらっしゃるのですか」と驚 いたが、「いまさら憎 んでもしょうがないでしょう。亡 くなった人間 が帰 ってくるわけでもないし。月日 もたって思 い出 したくありません。そっとしておいてください」と答 えた[83]。
国外 逃亡 を続 けて中国 で客死 した、上述 の3人 の公訴 時効 は停止 している。中国 公安 当局 による死亡 確認 を得 られていないことを理由 に両 名 の逮捕 状 は半年 間隔 で更新 され続 けており、効力 を有 する日本 の逮捕 状 としては最古 のものとなっている(逮捕 状 の有効 期限 は原則 7日 )[2][55][87][88]。2022年 4月 の時点 で鶴田 容疑 者 は161回 、佐藤 博 容疑 者 は180回 更新 された。
川口 の告白
- 1998
年 (平成 10年 )、事件 当時 の北海道 地方 委員 会 軍事 部門 幹部 であった川口 孝夫 [注釈 32]が、軍事 活動 を知 りすぎて党 に日本 を追放 された旨 を主張 する『流 されて蜀 の国 へ』という回顧 録 を自費 出版 した。川口 はその際 の北海道新聞 のインタビューで、「謀略 ではなかったと言 ってよい」と松本 清張 などが提唱 した米 軍 謀 略説 を否定 し、党員 の犯行 であったことを認 めている。川口 は「事件 に関与 していないが、事件 後 に報告 を受 けました」として中核 自衛隊 の元 隊員 Tの証言 が自分 が受 けた報告 と合致 することを認 め、さらに党 の真相 調査 に対 して「事実 」を報告 していたことも明 かされた。なお、村上 が裁判 闘争 を続 けたことについては「彼 は、私 の入党 責任 者 [注釈 33]。『左 』の路線 の時 も、すごい活動 家 だった。間違 いを犯 したのは共産党 の方針 が間違 っていたためで。彼 個人 の責任 とは考 えません。彼 も晩年 は気 の毒 な人 でした」とした[92][93][94][95][96]。共産党 は同紙 の取材 に対 しては「党 が分裂 していた当時 の一方 の側 の問題 で、党 としてコメントする立場 ではない[93]」と言及 を避 けた一方 で「歴史 の暗部 の断層 にうごめいて生 き血 を吸 い、腐肉 を喰 らう男 」と川口 を激 しく誹謗 した。事件 に関連 して中国 に逃亡 した者 からも「軍事 方針 の直接 の実行 部隊 幹部 であったことを自認 し、非合法 の軍事 方針 を実践 していたことを確認 しておりながら、彼 は下部 組織 の犯行 であって自分 は関与 していないと白 を切 っている」と川口 に対 し批判 の声 が上 がった。中国 への逃亡 の後 に帰国 した人物 は、「当時 の共産党 は組織 原則 が厳 しく、党員 は絶対 服従 することが義務付 けられていた」「白鳥 事件 についても村上 国治 が上部 組織 の許可 なしに計画 実行 することなどあり得 ない」「川口 がこの事件 の直接 の策謀 者 だと信 じている」と見解 を述 べている[97]。- 『
流 されて蜀 の国 へ』に対 しては「事件 の真相 を曖昧 にしている」との批判 もあったが、川口 は「妻 は何 の理由 もなく異国 に送 られ、十 八 年 もの長 き年月 を強制 的 に中国 に滞在 させられ、悲 しくつらい思 いをし、苦 しめられた。その原因 である『白鳥 事件 』の真相 の公表 を、妻 は人生 の最後 まで望 んでいた。私 は六 〇年間 の長 い年月 の苦労 の旅 をともにしてきた(妻 の名前 )の最後 の願 いを実現 させる事 こそ、私 に残 された最後 の仕事 と考 えている[90]」として事件 に関 する自 らの体験 を記 した『いまなぜ「白鳥 事件 」の真相 を公表 するか』と題 した遺稿 を2002年 に書 き上 げ、2004年 に他界 している[80]。この中 で川口 は、中核 自衛隊 の射撃 訓練 に参加 したことや村上 の強 い要請 で『ひろ』の逃亡 に加担 したことを明 かしている[注釈 34][90]。
Tによる謝罪
- 2012
年 (平成 24年 )2月 24日 、裁判 で用 いられた自供 を行 い、自身 も暗殺 計画 に参加 したとして殺人 幇助 などの罪 で執行 猶予 判決 を受 けたTは、「中核 自衛隊 が計画 を進 めていたのは事実 」と中核 自衛隊 の犯行 であったことを改 めて認 め、説明 責任 を果 たすため手記 を公表 予定 と読売新聞 の取材 で述 べていた[注釈 35][100]。 - Tはその
後 、「裏切 り者 とかユダと悪罵 を投 げかけられながらも60年間 ジッと耐 えて我慢 してきたTに一 回 喋 ってもらい、記録 に残 したい」として有志 が同年 10月 に小樽商科大学 のサテライト教室 で開催 した、『白鳥 事件 を考 える集 い』に参加 し[79]、「若 く幼稚 な正義 感 から白鳥 警部 殺害 に関与 してしまった。当時 は白鳥 氏 には妻子 がいることに思 いが及 ばず、白鳥 警部 のご家族 に多大 のご迷惑 をかけたことを、今 となっては遅 きに失 するが心 よりお詫 びしたい。また、この事件 で多 くの札幌 市民 を不安 に陥 れたことを深 く反省 している[101]」と謝罪 の言葉 を述 べ、「共産党 は55年 の6全 協 で極左 冒険 主義 を清算 したといいます。だが、その具体 的 内容 には触 れておらず、白鳥 事件 のことなど一切 出 てきません。それどころか、事件 は一部 の分派 の飛 び跳 ねた部分 がやったということで、ぼくらや仲間 のやったことを切 り捨 て、現在 の党 には関係 ないといいます。果 たしてこんなことで、一般 の国民 を納得 させられるでしょうか[66]」と疑問 を投 げかけた[79]。またTは、出所 後 の村上 と面会 し、互 いに事件 のことには触 れずに2時 間 ほど回顧 談 をしたことを明 かしている[102][103]。
その他
- 2002
年 (平成 14年 )に長野 県 松本 市 の旧 司法 博物館 にあった白鳥 事件 の裁判 資料 を有志 が整理 して公開 されたが、博物館 が同市 に移管 されてからは、多 くの個人 情報 が含 まれることなどから公文書 管理 法 第 16条 第 2項 の「不 開示 情報 」として閲覧 禁止 となっている[1]。市立 博物館 側 は「デリケートな情報 が多 く自治体 として公開 に至 る判断 はできなかった」としていたが、2021年 12月8日 の松本 市議会 で同市 教育 部長 が研究 機関 への寄贈 を打診 していることを明 らかにした[104]。 - 2011
年 (平成 23年 )3月 27日 、HBC北海道放送 が事件 関係 者 へのインタビューなどを通 じて白鳥 事件 の真相 を追 ったラジオドキュメンタリー『インターが聴 こえない~白鳥 事件 60年 目 の真実 ~』(HBCラジオ開局 60周年 記念 ドキュメンタリー)を放送 し、同年 5月 に第 37回 放送 文化 基金 賞 ラジオ部門 優秀 賞 [105]を、同 6月 に第 48回 ギャラクシー賞 ラジオ部門 大賞 [106]を受賞 している。番組 の終盤 には、鶴田 との接触 を持 ち、中国共産党 とのパイプを持 つ人物 へのインタビューの録音 が流 されるが、その人物 は関係 者 が全員 死 なないと話 せないと証言 を拒 んでいる。
エピソード
北海道大学 教授 の布施 鉄治 はイールズ闘争 世代 であり反骨 の学者 と知 られていたが、「白鳥 運動 」に取 り組 もうとしていた者 に対 して、「白鳥 にかかわったとされる多 くの党員 学友 が行方 不明 になっている。自分 の親友 もいた。おそらくは中国 へ脱出 したのだ。冤罪 と思 っている人 は北大 にはいない。白鳥 事件 を三鷹 事件 や松川 事件 と同列 に論 ずるわけにはいかない。これが現地 北海道 の常識 だから深入 りしないように」と釘 を刺 していた。松川 ・青梅 ・芦別 事件 などでは無罪 判決 が出 され、そのほとんどが冤罪 事件 とされる戦後 の公安 事件 の中 にあって、白鳥 事件 は「検察 最後 の砦 」であり、近年 に至 るまで北海道 でのタブーとされていた[92][22]。共産党 議員 であった志賀 義雄 も、『ドキュメント志賀 義雄 』を編纂 していた横堀 洋一 に事件 の真相 について意見 を求 められ、次 のように述 べて口 を閉 ざしている[107]。
もちろん、国会 で追求 するつもりだった。ところが、種々 調 べてみると下手 な発言 ができないことが次第 にわかってきた。そこで、手 づるを求 めて当時 、自民党 の大物 議員 だった賀 屋 興 宣 に面会 して、意見 を聞 いてみた。すると賀 屋 興 宣 は「志賀 君 、君 のために忠告 しておくが、それだけはやめておいたほうがいい。村上 国治 は獄中 から弁護士 の面会 の際 に、関係 者 を国外 に逃 がせ、というレポを渡 し、それが当局 の手 に渡 っているんだよ」と言 うんだ。
自由 法曹 団 の団長 を務 め上告 審 から本 事件 に関与 した上田 誠 吉 は、1977年 のインタビュー[108]で、戦後 の公安 事件 の多 くで無罪 判決 が出 された中 において白鳥 事件 は有罪 となっている点 について問 われ、「当時 、ある種 の極左 冒険 主義 があったことは間違 いないんで、これが巧 みに(治安 当局 に)利用 されているんです。一部 の人 たちが武器 を作 り、集 めていたということはあるようで、(中略 )あの状況 の中 で白鳥 警部 が射殺 される、共産党 の周囲 の近 しい人 、あるいは内部 の人 自体 が、〝ははあ、これはうちの関係 者 がやったのではないか〟と疑 うこと、これがこわいですね」と答 えた。また『ひろ』ら中国 への逃亡 組 について触 れられると、「何人 か帰国 した人 たちがいるようですが、この人 たちも強 く無罪 を主張 しているようですね。くわしいことはわかりませんが」と述 べた[109]。札幌 地検 の次席 検事 として村上 国治 の取 り調 べをした高木 一 (帝銀 事件 で平沢 貞通 の取 り調 べを行 った検事 )は、ヤメ検 になったあとの1980年 に行 われたインタビューで[110]、「私 は、個人 的 には、村上 は正直 ないい男 だと思 いますよ」「結局 、村上 は党 の方針 にあおられていたのだと思 います。しかし、党内 では、農民 的 一揆 主義 の突出 行為 だという批判 を受 けています。それはそうだと思 いますが、あおった党 の軍事 方針 に非常 に大 きな危険 をはらんでいたと思 いますね」と述 べ、後年 、別 の公安 事件 (芦別 事件 )の法廷 で白髪 頭 になった村上 に傍聴 席 からヤジを飛 ばされ、なつかしい気持 ちで「おお」と声 をかけると「おおでないよ」と言 われたエピソードを紹介 している。帝銀 事件 にくらべ「白鳥 事件 はその百 倍 も苦労 しました。相手 もそうだし、味方 もコントロールしなければなりません。臆病 になってもいけないし、逃 げ回 ってもいけない。まして行 きすぎても行 けない。戦争 だからやっつけましょう、という意見 もあるんです。そうしたのを押 さえながら捜査 を進 めるんですからたいへんでした」と当時 の苦労 を明 かした。なお、高木 は帰国 した中国 逃亡 組 が起訴 猶予 になったのは「大 いに賛成 」と述 べている[111]。
年譜
- 1951
年 - 4
月 -村上 国治 (当時 :留萌 委員 長 )が『平和 のこえ』紙 頒布 のかど(占領 目的 阻害 行為 処罰 令 違反 )で逮捕 される[112]。 - 7
月 -村上 が旭川 刑務所 から釈放 [112]。 - 10月 -
広島 県 オルグであった追 平 雍嘉が札幌 委員 会 常任 に就任 [112]。 - 10月16・17
日 -日本 共産党 第 5回 全国 協議 会 (五 全 協 )が開催 され、51年 綱領 ・武装 軍事 方針 を採択 。川口 孝夫 が道 委員 会 軍事 部 に転出 [112]。 - 10
月 20日 -村上 が留萌 地区 委員 長 から札幌 委員 長 に就任 [112]。 - 10
月 下旬 -追 平 がビューロー員 となる[112]。 - 10月23
日 -日 共 北海道 地方 委員 会 が下部 組織 に対 し"帝国 主義 者 の走狗 "に対 する攻撃 集中 を指示 。白鳥 警部 については「特高 あがりで、共産党 に対 して最 も悪辣 である」と付記 され、「北海道 に於 いては悪辣 な村 巡査 に至 るまで村八分 を実施 し、主婦 や子供 を徹底的 に仲間外 れにするまでビラ、伝単 で攻撃 をくわえられたい」と指示 [112]。 - 11月
中旬 - 11月
末 -日本電気 産業 労働 者 組合 (電 産 )社宅 にある党員 U宅 で新 綱領 ・軍事 方針 についての講習 会 を実施 。この席 で村上 が「白鳥 はもう殺 してもいい奴 だな」と発言 [59][112]。 - 12月10
日 -幌見峠 で拳銃 射撃 訓練 [112]。 - 12月23・24
日 -村上 がSに対 し、「全党 に模範 を示 すんだろう。警察官 の1人 や2人 殺 ったって浮 かないさ」「どうだ、白鳥 を堂々 と襲撃 しようかい」「日本 共産党 を名乗 って白鳥 課長 の家 を襲 ってやっつけるんだ」などと発言 。これに対 しSは「やるなら暗殺 を狙 うべきだ」と意見 を述 べる[59][112]。 - 12月27
日 -餅 代 よこせ事件 。札幌 市 自由 労働 組合 (自 労 )20数 人 が市役所 内 で座 り込 みを行 う。要請 を受 けた白鳥 警部 らが出動 し、有力 党員 11人 を検挙 。同日 、東京 都 練馬 区 で練馬 事件 が発生 。村上 が追 平 に「東京 に先 にやられた」と語 る[14][112]。 - 12月29
日 -白鳥 射殺 の実行 を決定 [112]。 - 12月30
日 -白鳥 警部 宅 に脅迫 ビラ十 数 枚 が貼 られる[112]。
- 4
- 1952
年 - 1
月 3日 - S宅 で開 かれた新年 宴会 を兼 ねた新 綱領 の学習 会 の席上 で、『ひろ』が「白鳥 課長 らは労働 者 を弾圧 しているひどい人間 だから、ああいう人間 を生 かしておく必要 はない」などと発言 [112]。 - 1
月 4日 -村上 が中核 自衛隊 員 に対 し白鳥 殺害 は拳銃 をもってやることを告 げる[112]。 - 1
月 5~6日 -手榴弾 の実験 を兼 ねた幌見峠 射撃 訓練 [112]。 - 1
月 10日 -川口 が『ひろ』に「白鳥 を殺 ったら浮 くか浮 かないか」と問 われる。これを受 けて川口 は北海道 地方 委員 会 議長 に宛 てて計画 中止 を求 める緊急 レポを出 すが、回答 はなかった[12][112]。 - 1
月 中旬 - Tが『ひろ』の部屋 でブローニング拳銃 を見 る[112]。 - 1
月 15日 -白鳥 警部 と路上 で遭遇 した『ひろ』が射殺 を試 みるが、弾 が出 ずに失敗 [112]。Tらが拳銃 のオーバーホールを行 う[12]。 - 1
月 21日 - 19時 40分 頃 、白鳥 警部 射殺 [112]。現場 で薬莢 1個 が押収 される[113]。 - 1
月 22日 -北大 にて司法 解剖 。体内 から弾丸 1発 (206号 弾丸 [25])が摘出 される[113]。 - 1
月 23日 -北大 正門 前 ・札幌 鉄道 局 苗穂 工場 や大通東 2丁目 札幌 職安 労働 者 集合 所 などで「天誅 ビラ」が撒 かれる[12][112]。札幌 市警 本部 長 が「一応 日 教 関係 の犯行 とみなし、威信 にかけても犯人 は検挙 してみせる」と発表 [113]。 - 1
月 26日 -苗穂 町 駐在 所 に抗議 に押 しかけた共産 党員 らが、苗穂 工場 前 で「白鳥 事件 を口実 として民主 団体 を弾圧 するとは何事 だ。直 ちに手 を引 かないと第 二 の白鳥 がでるゾ」と書 かれたアジビラを配布 する[112]。 - 1
月 27日 または28日 -村上 がSに実行 犯 が『ひろ』であると打 ち明 ける[112]。 - 4
月 12日 -道庁 細胞 長 Nが逮捕 される[112]。 - 6月2
日 -菅生 事件 。 - 8
月 上旬 - Nが伊豆 伊東 で発見 され、札幌 に移送 される[112]。 - 8
月 28日 - Sが逮捕 される。以降 、共産党 札幌 委員 会 活動 家 の逮捕 が続 く[112]。 - 10月1
日 -村上 が街頭 での選挙 運動 中 に逮捕 される[113][112]。 - 12月23
日 - S信用組合 理事 長 が服毒 自殺 [112]。
- 1
- 1953
年 - 4
月 9日 -追 平 が八王子 駅 付近 街頭 で逮捕 される[112]。 - 6月23
日 -村上 、実行 犯 グループの潜伏 の徹底 ・国外 逃亡 を特別 弁護人 に指示 [38][112]。 - 7
月 8日 -上述 の村上 レポが警察 当局 に押収 される[112]。 - 7
月 11日 - Tが脱党 を声明 [112]。 - 7
月 13日 [注釈 36] -村上 、苫小牧 警察 署 からの逃亡 を企 て失敗 (1回 目 )[112]。 - 8
月 19日 -幌見峠 で発射 弾丸 1発 (207号 弾丸 [25])が「発見 」される[113]。 - 9月4
日 -上記 207号 弾丸 と白鳥 の体内 から摘出 された206号 弾丸 について、同一 の銃器 から発射 されたものと「直 ちには断定 することが出来 ないものと認 められる」との鑑定 書 (銃 鑑 第 七 五 九 号 )を国 警科学 捜査 研究所 が出 す[112][113][114]。 - 10月19
日 -公判廷 において村上 が裁判 長 に殴 りかかる[112]。
- 4
- 1954
年 - 1
月 16日 -村上 、苫小牧 警察 署 からの逃亡 を企 て失敗 (2回 目 )[38][112]。 - 2
月 15日 -村上 、苫小牧 警察 署 からの逃亡 を企 て失敗 (3回 目 )[38][112]。 - 4
月 30日 -幌見峠 試射 場 で2発 目 の弾丸 (208号 弾丸 [25])が「発見 」される[112][113]。 - 7
月 1日 -改正 警察 法 の施行 により、国家 地方 警察 と自治体 警察 が廃止 され、警察庁 と都道府県 警察 へ統合 。 - 7
月 30日 -幌見峠 で「発見 」された207号 弾丸 ・208号 弾丸 (「ニ個 の弾丸 」[25])と206号 弾丸 について、「同 一 銃器 によって発射 されたもの認定 するに足 る程度 の類似 発射 痕 特徴 を発見 し得 なかった」との鑑定 書 (銃 鑑 第 九 七 九 号 )を警察庁 科学 捜査 研究所 が出 す[112][113][115]。 - 10月18
日 - Sに懲役 3年 、執行 猶予 4年 の判決 [112]。
- 1
- 1955
年 - 7
月 -日本 共産党 第 6回 全国 協議 会 。極左 軍事 冒険 主義 を転換 [112]。 - 11月1
日 -札幌 地検 (高木 一 )の委嘱 を受 けた磯部 孝 東京大学 教授 が、「ニ個 の弾丸 」と206号 弾丸 について、「仮 に異 なれる銃器 によって発射 されたとするならば、現 弾丸 に見 られる如 き、線 状 痕 の一致 の生起 する確 率 は極 めて小 さく、大 きく見積 もっても〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一より小 さいことが認 められる」とする鑑定 書 (磯部 鑑定 書 )を出 す[113][116]。
- 7
- 1957
年 - 5月8
日 - Tに懲役 3年 、執行 猶予 3年 の判決 [112]。
- 5月8
- 1958
年 - 4
月 13日 -警視庁 が「人民 艦隊 」第 1勝 漁 丸 関係 者 らを逮捕 し、同船 が中共 に密 出国 させた乗客 は『ひろ』ら白鳥 事件 容疑 者 4人 と発表 [112]。
- 4
- 1963
年 - 1965
年 - 10月21
日 -再審 請求 書 が札幌 高裁 に提出 される[113]。
- 10月21
- 1967
年 - 1968
年 - 1969
年 - 1973
年 - 12月13
日 -川口 らが中国 から帰国 [112]。
- 12月13
- 1975
年 - 1988
年 - 『ひろ』ら2
人 が北京 で客死 [112]。
- 『ひろ』ら2
- 1994
年 - 1997
年 - 6月8
日 -時事通信社 が「鶴田 、北京 で確認 」と発信 [112]。
- 6月8
- 1998
年 - 10月29
日 -川口 が事件 直後 に報告 を聞 いたと暴露 し、Tの証言 を肯定 [112]。
- 10月29
- 2012
年
脚注
注釈
- ^
共産党 札幌 委員 会 の地下 組織 [1]。 - ^
当時 の党 主流 派 は所感 派 であったが、非 主流 派 の国際 派 も武装 闘争 の契機 となったコミンフォルム批判 を出 したソ連 に忠実 な立場 であった[6]。 - ^ NHKラジオの「
三 つの歌 」が流 れていたという証言 がある[13]。 - ^ この
自転車 は、警察 署 の駐輪場 に停 められていたものを持 ち出 したもので、事件 後 に元 の場所 に戻 されたとされる[12]。 - ^
国家 地方 警察 本部 科学 捜査 研究所 の鑑定 では「1912年 型 ブローニング拳銃 」とされたが、実際 にそのような型式 は確認 できないため、世界 的 に流通 していた1910年 型 の誤 りでないかといわれる[15][16]。警察庁 は、白鳥 事件 の捜査 に関連 して北大 理学部 の地下 室 から武器 の製造 研究 に使 われた火薬 類 ・試験管 ・軍事 方針 のパンフレットが見 つかったことを明 らかにしている[17]。札幌 委員 会 軍事 部 は、上述 のブローニング拳銃 に加 えてイタリアのベルナルデリ社 製 護身 用 小型 拳銃 を保有 していたものと推察 される。この小型 拳銃 は、撃 針 が不調 で北大 工学部 の工作 室 で修理 が試 みられたが、スプリングを調達 できず、後日 提供 者 に返還 されている[18]。ベルナルデリ銃 の持 ち主 は札幌 市内 のカフェ経営 者 であったが、1952年 に変死 している[19]。 - ^ 1
月 4日 には、村上 ・鶴田 (後述 )らが集 まり宣言 文 「新年 に当 り警察官 諸君 に宣言 す」と題 する以下 の文書 を作成 し、警察 関係 者 や高田 富 與 札幌 市長 らに送 りつけている[20]。親愛 なる札幌 の警察官 諸君 、新 しい年 を迎 え、我々 は諸君 たちに重大 なる決意 を固 めていただかなければならなくなった事 を遺憾 とするものである。それは、(中略 )占領 政策 違反 の名目 で、労働 者 市民 を抑圧 しアメリカの手先 として日本人 を奴隷 にする道 と、今 一 つはかかる民族 の利益 を裏切 り、日本人 をアメリカに売 り渡 す売国奴 共 の命令 を拒否 し敢然 として、日本人 の利益 のために闘 う道 とである。(中略 )既 に我々 の兄弟 たちは各所 で実力 の闘 いを始 めた。東京 で諸君 たちの同僚 、もっとも悪 らつな国民 の敵 である巡査 が撲殺 されたのは周知 の事実 だ。(中略 )我々 の行 く手 を遮 るものは何人 といえども容赦 はしない。準備 はできた。売国奴 、国民 の敵 の功罪 表 は整備 された。(白鳥 ら警察官 の実名 )その他 弾圧 を積極 的 にやった外勤 の巡査 、及 び警備 課 の諸君 …警察官 諸君 、我々 はこれらの敵 、新 しい敵 を国民 の名 においてひとりひとり葬 り去 ることを宣言 する。(後略 ) - ^
天誅 ビラには「下 る」と書 かれたものと「降 る」と書 かれたものの2種類 があり、渡部 は「降 る」の版 は共産党 の犯行 を市民 に印象 付 けるためにスパイを通 じて原稿 を入手 した国 警が撒 いたものであると主張 し[26][27]、国 警が白鳥 暗殺 の事前 情報 を得 ておきながらあえてこれを泳 がせて犯行 後 にすかさずビラを増刷 して弾圧 のきっかけとしたとしている[28]。一方 、後述 のTは「国治 さんは古 いタイプの人間 だから『降 る』と『下 る』のどちらの文字 を使 ったと思 うかと聞 かれたら、『降 る』の方 じゃないかという気 がします」と述 べている[29]。 - ^
再審 請求 審 において、札幌 高裁 が「右 ビラの文体 は、簡潔 でしかもなかなかの名文 であつて、申立 人 (村上 )以外 に、このような文案 を起草 できる者 がいないことは、多 くの関係 者 の一致 して指摘 するところであるが(後略 )」と言及 している[25]。 - ^
後 の裁判 では、札幌 委員 会 の「極左 冒険 主義 」を批判 する党 北海道 委員 会 による声明 書 が証拠 として引用 されている[4]。 - ^
本 事件 後 の1952年 6月 に発生 。 - ^
元 共産 党員 で組合 員 総代 であった人物 による公開 質問 状 により流布 した。この人物 の名 をとって「原田 情報 」と呼 ばれる。理事 長 はその後 服毒 自殺 した[33][22][19]。 - ^ 「Sはスパイだ、
裏切 った」と書 かれた党 地下 組織 の文書 を警察 に見 せられてSは観念 したのだという[37]。 - ^ この
人物 は元 日本 海軍 第 6震 洋 隊 の下士官 で実戦 経験 があり、戦後 ポンプ職人 をしていた[39]。T(後述 )の証言 によれば、『ひろ』は事件 の一 週間 前 にも白鳥 の暗殺 を試 みたが、弾 が発射 されず未遂 に終 わっている[40]。 - ^
追 平 は「事件 の前 、『ひろ』の家 で実包 入 りのブローニング拳銃 をみた」「事件 後 、『ひろ』に会 ったら『オレがやった』といっていた。『手 ぬぐいに包 んで撃 ったので、二 発 目 の薬 きょうが引 っかかって残 ってしまい、あとが撃 てなかった』などとも語 っていた」と証言 している[9]。 - ^
大石 は、吉田 岩 窟 王 事件 の再審 を支援 し、三鷹 事件 や松山 事件 の冤罪 を語 った安倍 が誘導 じみたことをするはずがないとしている[41]。安倍 自身 も同僚 検事 の誘導 尋問 の手法 (「査問 」を逃 れて警察 に保護 を求 めた党員 (後述 )に対 して行 われた、泣 き落 とし。これによって自 ら白鳥 を射殺 したとの言質 を取 ったが、ベテラン捜査 官 たちによって否定 され、本人 の供述 も何 度 も覆 ったため、殺人 での起訴 はされなかった[42]。)を紹介 しながら、「それがしかし、捜査 本部 におけるそういう偽 り、でっち上 げ、間 もなくばれるんですね。同様 に共産 党内 ビューローにおけるいろんなでっち上 げも間 もなくばれることになると、こういうことなんです。やっぱり強 いのは真実 が強 い」「そういう(模擬 裁判 で警察 の捜査 本部 が出 してきた指紋 鑑定 について偽物 と発言 した札幌 の検事正 )下 に立 って私 どもは捜査 したんですからね。[…]私 が誘導 尋問 ででっち上 げの調書 を作 ったなんていうことは、もう根 も葉 もないということはすぐわかるんですよ。それを松本 清張 が『日本 の黒 い霧 』を書 いて、安倍 という男 はどうも怪 しいと言 い出 したんだから、これはもう松本 清張 の負 けですね」と述 べている[43]。 - ^ 1
月 4日 には村上 側 にアリバイがあることなどから、冤罪 説 を擁護 する者 たちはTの偽証 を主張 した。一方 、Tの供述 は事件 から2年 後 のことであり、T自身 も「(一般 的 には)謀議 というのはもっと緻密 にいろんな計画 を建 てるとか方針 はこうだと。(中略 )正式 にはそんなものだと思 うんだけども、そんなにきちっとしたあれした謀議 じゃないわけですよ。だからもうそんな日 にちなんて忘 れちまいますよ。(中略 )普通 の事件 であれば、その謀議 がいつ行 われたか、どこでやった、誰 がやったのかということがものすごく大事 なことになるんだけれども、我々 にとってはあまり大事 なことではないわけですよ」と述 べている[45]。 - ^
犯行 後 に複数 の党員 を経由 して近郊 の畑 に埋 められたと言 われる[12]。 - ^
東京 に潜伏 していたメンバーは組織 の公然 化 のためかばうことができないと党 中央 統制 委員 から告 げられ、乗船 訓練 を受 けて1955年 10月 頃 に焼津 港 などから上海 へ向 けて出港 している[38]。 - ^
一方 、松川 事件 においては活発 に冤罪 を主張 した、広津 和郎 らは静観 している[56]。 - ^
渡部 は松本 の冤罪 説 について「主観 的 で勝手 な推測 、ねじ曲 げが随所 に登場 する」としている[57]。例 えば、『ひろ』は射撃 演習 には参加 していないのだから、(演習 の遺留 品 である弾丸 と施 条 痕 が一致 するとされた)事件 に使 われたピストルを所持 しているはずがない旨 の記述 をしておきながら、4ページ後 には「何 回 も拳銃 の射撃 練習 に行 っている」と記述 している。松本 は『ひろ』を"シロウト"として扱 ったが実際 には元 軍人 であり、軍装 品 として用 いられていたブローニング拳銃 の心得 があったとしても不自然 ではない[39]。松本 が「暴露 」したのは実 のところ自 らが批判 する追 平 の『白鳥 事件 』の丸 写 しであったが[28]、追 平 と『ひろ』の会話 を書 き換 えて「Tは大丈夫 か」とあたかもTの裏切 りを心配 していたかのような文脈 に仕立 て上 げていることも確認 されており、渡部 は「松本 清張 が白 対 協 (日本 共産党 が組織 した白鳥 事件 対策 協議 会 のこと)の提出 する材料 を無 批判 に書 いたというものではない極 めて意識 的 な虚構 だ。当時 、Tは白 対 協 や弁護 団 から、S、追 平 雍嘉と並 ぶ裏切 り者 として糾弾 されていたからだ。これは単 なるミスでは済 まされない」と松本 がTにありもしない罪 をなすりつけたとして批判 している[58]。 - ^
当時 日本 には銃 鑑定 の専門 家 がいなかった[61]。 - ^
日本 共産党 は1955年 1月 1日 に『赤旗 』社説 で極左 冒険 主義 を自己 批判 し、公然 化 を宣言 した[38]。 - ^
当時 札 委 関係 。 - ^ この
指示 が上述 の人民 艦隊 による関係 者 の不法 出国 に関 わっているとされる[22]。 - ^
主文 の続 きでは、「この見地 に立 つて本件 をみると、原 決定 の説示 中 には措辞 妥当 を欠 く部分 もあるが、その真意 が申立 人 に無罪 の立証 責任 を負担 させる趣旨 のものでないことは、その説示 全体 に照 らし明 らかであつて、申立 人 提出 の所論 証拠 弾丸 に関 する証拠 が前述 の明 らかな証拠 にあたらないものとした原 決定 の判断 は、その結論 において正当 として首肯 することができる」とされ、「所論 は、事実 誤認 、単 なる法令 違反 の主張 であつて、刑訴法 四 三 三 条 所定 の適法 な抗告 理由 にあたらない」「要 するに、所論 の証拠 弾丸 に関 する新 証拠 は、原 判決 の認定 について合理 的 な疑 いをいだかせるに足 りないというべく、右 新 証拠 が刑訴法 四 三 五 条 六 号 所定 の証拠 の明白 性 の要件 を具備 しないとした原 決定 の判断 は、その結論 において正当 として是認 することができる」と結論 づけられている[5]。 - ^ この
白鳥 決定 については、傍 論 ないし傍 論 的 なものと見 做す見解 がある一方 で、一般 的 法 命題 も判例 に含 める前提 に立 つのであれば白鳥 決定 はこれに該当 するとした意見 もある[75]。 - ^ これらの
白鳥 事件 に関与 して四川 省 に滞在 していた者 たちは「四川 組 」と呼 ばれ、中国 名 を名乗 っていた[78]。 - ^
2人 共 白酒 を浴 びるように飲 んでいたという[22]。 - ^
鶴田 の事件 との関 わりは明 らかにされていないが[81]、事件 当日 に白鳥 警部 を発見 するまで『ひろ』と同行 し、犯行 に使 ったブローニング拳銃 の隠蔽 に関 わったとされる[12]。暗殺 の実行 者 だったとする主張 もある[82]。 - ^
教科書 では中国 語 で同 じ発音 (拼音: )となる「唐 則 銘 」という名義 を用 いた。「中国 の恩 を覚 えておく」という意味 が込 められているという[81]。 - ^
鶴田 の現地 での暮 らしぶりは安定 していたが、同居 する配偶 者 が中国 当局 の監視 役 であったことが示唆 されている[84]。 - ^
川口 は妻 とともに1956年 3月 に人民 艦隊 で中国 大陸 に渡 り[89]、滞在 中 の1967年 に起 きた北京 空港 事件 で砂 間 一良 を庇 い、その後 監禁 ・査問 を受 けた。田中 角栄 訪中 後 の1973年 12月に帰国 した川口 は、鶴田 の帰国 にも取 り組 み、帰国 後 は真相 を語 ること、弁護士 は国選 弁護人 にすることなどで1997年 4月 に鶴田 と合意 したという。しかし、上述 の時事通信 のスクープ報道 後 、鶴田 からの連絡 は途絶 えた[90][80]。 - ^
川口 は1947年 に村上 の勧誘 を受 け、日本 共産党 に入党 している[91]。 - ^
川口 が的屋 グループに属 する甥 に依頼 して『ひろ』を奈井江 白山 の鉱山 飯場 へ送 り込 んだことは、裁判 で用 いられた参考 人 調書 でも確認 される[98]。 - ^
川口 らとの共著 を五月 書房 から刊行 する動 きがあったが、2021年 現在 出版 は確認 されていない[99]。 - ^ 11
日 とも[38]。 - ^ これらの
鑑定 書 は法廷 に提出 されておらず、2度 にわたる弁護 団 からの札幌 高裁 への照会 要求 によって内容 が明 らかとなった[117]。 - ^
事件 の事情 を知 る、川口 の帰国 後 の動 きを悲観 しての焼身 自殺 であったとも言 われる[4]。
出典
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関連 書籍
村上 国治 著 、白鳥 事件 中央 対策 協議 会 編 『壁 あつくとも村上 国治 獄中 詩 ・書簡 集 』日本 青年 出版 社 、1969年 。宮川 弘 『白鳥 事件 の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ』東洋 書房 、1968年 。村上 国治 『網走 獄中 記 :白鳥 事件 -獄中 18年 たたかいの記録 』日本 国民 救援 会 中央 本部 、1974年 。山田 清三郎 『白鳥 事件 研究 昭和 史 の発掘 』白石 書店 、1977年 3月 。長岡 千代 『国治 よ母 と姉 の心 の叫 び謀略 白鳥 事件 とともに生 きて』光陽 出版 社 、1997年 11月。ISBN 978-4876622122。山田 清三郎 『白鳥 事件 』新風 舎 、2005年 10月 。ISBN 978-4797498516。柳原 滋雄 『実録 ・白鳥 事件 ー「五 一 年 綱領 」に殉 じた男 たち』論 創 社 、2023年 12月。
関連 項目
練馬 事件 追跡 (小説 ) -白鳥 事件 をモチーフにした小説 で、いわゆる「原田 情報 」一 点 に絞 り、この事件 を検証 している。日本 共産党 第 5回 全国 協議 会
外部 リンク
谷村 正太郎 . “事件 ファイル-8疑 わしきは被告人 に利益 に白鳥 事件 ”. www.jlaf.jp.自由 法曹 団 . 2021年 11月5日 閲覧 。- 「
白鳥 事件 は冤罪 ではなかった!」新 資料 ・新 証言 による60年 目 の真実 渡部 富 哉インタビュー(1)(2)(3)ちきゅう座 、2012年 3月 高橋 彦博. “白鳥 事件 の消去 と再生 『白鳥 事件 』(新風 文庫 )刊行 の機会 に”.共産党 問題 、社会 主義 問題 を考 える.宮地 健一 . 2022年 3月 13日 閲覧 。中野 徹三 . “1950年 前後 の北大 の学生 運動 -その位置 と意義 を再考 する”.共産党 問題 、社会 主義 問題 を考 える.宮地 健一 . 2022年 3月 13日 閲覧 。- “
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