クリミア半島 くりみあはんとう は、紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 頃 ごろ のギリシア人 じん の入植 にゅうしょく から有史 ゆうし 時代 じだい に入 はい り、古代 こだい には「タウリカ 」または「ケルソネソス・タウリカ」(Χερσόνησος Ταυρική 「タウリカ半島 はんとう 」の意 い )と呼 よ ばれていた。これ以来 いらい 、スキタイ人 じん (スキタイ=キンメリア人 じん 、タウロイ人 じん )、ギリシア人 じん 、ローマ人 じん 、ゴート人 じん 、フン人 じん 、ブルガール人 じん 、ハザール人 じん 、キプチャク人 じん など様々 さまざま な民族 みんぞく によってクリミアは征服 せいふく と支配 しはい を受 う けてきた。
中世 ちゅうせい には、一部 いちぶ がキエフ・ルーシ に、別 べつ の一部 いちぶ が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に支配 しはい されたこともあったが、モンゴルの征服 せいふく を受 う けてモンゴル帝国 ていこく の分 ぶん 枝 えだ であるジョチ・ウルス の支配 しはい 下 か に入 はい った。また、この時代 じだい には沿岸 えんがん の一部 いちぶ がヴェネツィア とジェノヴァ の統治 とうち 下 か に置 お かれた。これらの諸 しょ 勢力 せいりょく は15世紀 せいき にクリミア・ハン国 こく とオスマン帝国 ていこく の支配 しはい 下 か となり、18世紀 せいき まで続 つづ いた。
クリミアの近代 きんだい は、1783年 ねん のロシア帝国 ていこく によるクリミア・ハン国 こく 併合 へいごう に始 はじ まる。1921年 ねん にはソビエト連邦 れんぽう の下 した にクリミア自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく が設置 せっち されたが1945年 ねん に廃止 はいし され、代 か わって置 お かれたクリミア州 しゅう は1954年 ねん にロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく からウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく に移管 いかん された。ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい に伴 ともな い1991年 ねん にウクライナ が独立 どくりつ すると再 ふたた び自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の地位 ちい を得 え たが、2014年 ねん クリミア危機 きき でウクライナ国内 こくない 法 ほう を無視 むし する形 かたち で一方 いっぽう 的 てき に独立 どくりつ を宣言 せんげん 。続 つづ いてロシアによるクリミアの併合 へいごう が宣言 せんげん され両国 りょうこく による領有 りょうゆう 権 けん をめぐる対立 たいりつ が続 つづ いている。
ロシア連邦 れんぽう はクリミアでの軍備 ぐんび 拡張 かくちょう との要塞 ようさい 化 か 、クリミア・タタール人 じん の弾圧 だんあつ などを進 すす め、2022年 ねん ロシアのウクライナ侵攻 しんこう ではウクライナに対 たい する攻撃 こうげき の策源地 さくげんち として利用 りよう した[1] 。
クリミアに人類 じんるい が居住 きょじゅう し始 はじ めた最初 さいしょ の考古学 こうこがく 的 てき 痕跡 こんせき は旧石器時代 きゅうせっきじだい 中期 ちゅうき に遡 さかのぼ る。キイク・コバ洞窟 どうくつ のネアンデルタール人 じん はおよそ8万 まん 年 ねん 前 まえ のものである[2] 。より後 ご のネアンデルタール人 じん はスタロセレ(4万 まん 6000年 ねん 前 まえ )とブルハン・カヤ3号 ごう (3万 まん 年 ねん 前 まえ )でも発見 はっけん されている[3] 。
初期 しょき の現生 げんなま 人類 じんるい はクリミア山脈 さんみゃく のブルハン・カヤ洞窟 どうくつ (シンフェロポリ の東 ひがし )で発見 はっけん された。この化石 かせき はおよそ3万 まん 2000年 ねん 前 まえ のもので、遺物 いぶつ はグラヴェット文化 ぶんか に属 ぞく する[4] [5] 。最終 さいしゅう 氷 ごおり 期 き の再 さい 寒冷 かんれい 期 き において、黒海 こっかい 北岸 ほくがん の一帯 いったい は後 ご の氷 こおり 期 き の終焉 しゅうえん とともに中 なか ・北 きた ヨーロッパ に再 さい 拡散 かくさん することになる人口 じんこう の避難 ひなん 地 ち として重要 じゅうよう な地域 ちいき の一 ひと つであった。この時代 じだい には、何 なん 度 ど かの亜 あ 間 あいだ 氷 ごおり 期 き を挟 はさ んで気温 きおん は緩和 かんわ し、再 さい 寒冷 かんれい 期 き の開始 かいし 後 ご にははっきりと上昇 じょうしょう しつつあったものの、周 しゅう 氷河 ひょうが 地形 ちけい の低地 ていち ステップ が東 ひがし ヨーロッパ平原 へいげん に広 ひろ がった。人類 じんるい の居住 きょじゅう 地帯 ちたい の密度 みつど はクリミア地域 ちいき にほとんど集中 しゅうちゅう しており、約 やく 1万 まん 6000年 ねん 前 まえ まで増加 ぞうか を続 つづ けていた[6] 。黒海 こっかい 洪水 こうずい 説 せつ の支持 しじ 者 しゃ によると、クリミアは紀元前 きげんぜん 6千 せん 年 ねん 期 き に黒海 こっかい の水位 すいい が上昇 じょうしょう することによって初 はじ めて半島 はんとう として形成 けいせい された。
クリミアにおける新 しん 石器 せっき 時代 じだい の始 はじ まりは農業 のうぎょう を伴 ともな わず、代 か わって陶器 とうき 製造 せいぞう の開始 かいし 、石器 せっき 製造 せいぞう 技術 ぎじゅつ の変化 へんか 、および豚 ぶた の家畜 かちく 化 か に関連 かんれん づけられている。クリミア半島 くりみあはんとう における麦 むぎ 生産 せいさん の最古 さいこ の証拠 しょうこ は銅器 どうき 時代 じだい のアルドゥチ・ブルン遺跡 いせき から発見 はっけん されており、紀元前 きげんぜん 4千年紀 せんねんき の中頃 なかごろ である[7] 。
紀元前 きげんぜん 3千年紀 せんねんき にはクリミアにヤムナ文化 ぶんか が到達 とうたつ した。クルガン仮説 かせつ でいう原 はら インド・ヨーロッパ文化 ぶんか の後期 こうき に相当 そうとう すると推定 すいてい される。青銅器 せいどうき 時代 じだい 初期 しょき には、東 ひがし イラン語 ご 群 ぐん の話者 わしゃ であるスキタイ がクリミアに定着 ていちゃく した。クリミア半島 くりみあはんとう 南部 なんぶ にはスキタイ人 じん によって駆逐 くちく されたキンメリア人 じん の一派 いっぱ である可能 かのう 性 せい のあるタウロイ が居住 きょじゅう していた。紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき か7世紀 せいき には、ミレトス 人 ひと によって最初 さいしょ のギリシア文明 ぶんめい の植民 しょくみん 都市 とし が建設 けんせつ された。
紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき に黒海 こっかい 北岸 ほくがん に建設 けんせつ されたギリシア人 じん の植民 しょくみん 都市 とし
タウリカ (ギリシア語 ご : Ταυρίς, Ταυρίδα )は、古典 こてん 古代 こだい におけるクリミア半島 くりみあはんとう の呼称 こしょう である。古代 こだい ギリシア人 じん はタウロイ人 じん からタウリカの地名 ちめい を名 な づけた。タウロイはクリミア半島 くりみあはんとう 南部 なんぶ の山岳 さんがく 地帯 ちたい にのみ居住 きょじゅう しており、タウリカの名 な も当初 とうしょ は半島 はんとう 南部 なんぶ のみに使 つか われたが、のちに半島 はんとう 全体 ぜんたい の名称 めいしょう に拡大 かくだい した。
ギリシア神話 しんわ において、タウリカはミケーネ の王女 おうじょ イピゲネイア の物語 ものがたり の舞台 ぶたい として登場 とうじょう する。父 ちち 王 おう アガメムノン によって女神 めがみ アルテミス の生贄 いけにえ にされた王女 おうじょ は、これを憐 あわ れんだ女神 めがみ によって救 すく い出 だ され、タウリカに送 おく り込 こ まれる[8] :19 。イピゲネイアはアルテミス神殿 しんでん の神官 しんかん となり、冷酷 れいこく なタウリカのトアス王 おう によって、捕 と らえられた外国 がいこく 人 じん を生贄 いけにえ に捧 ささ げるよう命 めい じられることになる。また別 べつ の歴史 れきし 家 か の記述 きじゅつ では、タウリカの民 みん タウロイは野蛮 やばん な儀式 ぎしき と海賊 かいぞく 行為 こうい で知 し られ、この半島 はんとう のもっとも古 ふる い居住 きょじゅう 者 しゃ である。タウロイの地 ち とギリシア人殺 ひとごろ しに関 かん する説 せつ は、ヘロドトス の『歴史 れきし (ヒストリアイ)』にも記 しる されている。
紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき に、ギリシア人 じん は黒海 こっかい 沿岸 えんがん に植民 しょくみん を広 ひろ げ始 はじ めた。その中 なか からヘラクレア のドーリア人 じん は今日 きょう のセヴァストポリ 市 し に港湾 こうわん 都市 とし ケルソネソス を、ミレトス のイオニア人 じん はテオドシア(現在 げんざい のフェオドシヤ )とパンティカパイオン (現在 げんざい のケルチ )を建設 けんせつ した。
紀元前 きげんぜん 438年 ねん に、パンティカパイオンのアルコン (執政 しっせい 官 かん )に就任 しゅうにん した新 しん 植民 しょくみん 者 しゃ のスポルトコス がキンメリオス・ボスポロス (キンメリア海峡 かいきょう 、現在 げんざい のケルチ海峡 かいきょう )の王 おう を称 しょう し、この王国 おうこく はアテネ と緊密 きんみつ な関係 かんけい を結 むす んで麦 むぎ 、蜂蜜 はちみつ その他 た の商品 しょうひん を供給 きょうきゅう した。スポルトコス王朝 おうちょう 最後 さいご の王 おう パイリサデス5世 せい は、遊牧民 ゆうぼくみん スキタイ の圧力 あつりょく を受 う け、紀元前 きげんぜん 114年 ねん にポントス の王 おう ミトリダテス6世 せい の庇護 ひご を求 もと めた。ミトリダテスの王子 おうじ ファルナケス2世 せい は、ローマ共和 きょうわ 国 こく と父 ちち 王 おう との戦 たたか いでローマ側 がわ についたことにより、紀元前 きげんぜん 63年 ねん にローマのポンペイウス によってボスポロス王 おう として承認 しょうにん された。紀元前 きげんぜん 15年 ねん にボスポロスは再 ふたた びポントス王国 おうこく の支配 しはい 下 か に戻 もど されたが、もはやローマの属 ぞく 州 しゅう 同然 どうぜん であった。
一部 いちぶ がボスポロス王国 おうこく を形成 けいせい していたタウリカは、紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき にロ ろ ーマ帝国 まていこく に併合 へいごう された。
紀元 きげん 1世紀 せいき から3世紀 せいき にかけて、タウリカの都市 とし カラクス (英語 えいご 版 ばん ) にローマ軍団 ぐんだん が駐留 ちゅうりゅう し、ローマ人 じん の植民 しょくみん 都市 とし となった。ローマ都市 とし カラクスは、遊牧民 ゆうぼくみん スキタイからケルソネソス やその他 た の交易 こうえき 地 ち を防衛 ぼうえい するためにウェスパシアヌス 帝 みかど によって建設 けんせつ された。都市 とし の防衛 ぼうえい は第 だい 1軍団 ぐんだん イタリカ の支隊 したい が当 あ たり、2世紀 せいき 末 まつ には第 だい 11軍団 ぐんだん クラウディア(英語 えいご 版 ばん ) が加 くわ わった。事実 じじつ 上 じょう の属 ぞく 州 しゅう であったこの地域 ちいき は、カラクス駐留 ちゅうりゅう の部隊 ぶたい の司令 しれい 官 かん の一人 ひとり が統治 とうち していた。
3世紀 せいき の中頃 なかごろ から、ゲルマン人 じん の一派 いっぱ ゴート族 ぞく がクリミアに現 あらわ れ、ローマ人 じん とボスポロス王国 おうこく を攻撃 こうげき した。これ以降 いこう 、クリミア半島 くりみあはんとう に流入 りゅうにゅう したクリミアゴート族 ぞく は16世紀 せいき 頃 ごろ まで独自 どくじ の文化 ぶんか と社会 しゃかい を保 たも った。
ローマ軍 ぐん の駐屯 ちゅうとん 地 ち は3世紀 せいき 末 まつ に放棄 ほうき された。
ケルソネソス(現在 げんざい のセヴァストポリ)の遺跡 いせき に建 た つ聖 ひじり ウラジーミル大 だい 聖堂 せいどう
遊牧民 ゆうぼくみん の流入 りゅうにゅう [ 編集 へんしゅう ]
ローマ人 じん の撤退 てったい 後 ご 、クリミアはフン人 じん (376年 ねん )、ブルガール人 じん (4-8世紀 せいき )、ハザール人 じん (8世紀 せいき )、キプチャク (10世紀 せいき 以降 いこう )と立 た て続 つづ いて遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく の征服 せいふく と支配 しはい を受 う けた。クリミア半島 くりみあはんとう 北部 ほくぶ のステップはスキタイ以来 いらい 、遊牧民 ゆうぼくみん が支配 しはい した南 みなみ ロシア草原 そうげん と一連 いちれん なりであり、インド・ヨーロッパ語族 ごぞく のイラン諸語 しょご に代 か わってこの地域 ちいき の遊牧民 ゆうぼくみん の言語 げんご となったテュルク諸語 しょご が話 はな されるようになった。
ルーシと東 ひがし ローマによる支配 しはい [ 編集 へんしゅう ]
1025年 ねん の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく
10世紀 せいき 中頃 なかごろ 、クリミア半島 くりみあはんとう の東部 とうぶ はハザールを滅 ほろ ぼしたキエフ大公 たいこう 国 こく のスヴャトスラフ1世 せい によって征服 せいふく され、チェルニヒウ地方 ちほう のルーシ のトムタラカニ公国 こうこく (トムトロカン公国 こうこく )の一部 いちぶ となった。988年 ねん には、ウラジーミル1世 せい が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の都市 とし ケルソネソス (現在 げんざい のセヴァストポリ)を占領 せんりょう し、ここでキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう した。ケルソネソスの遺跡 いせき にはこの出来事 できごと を記念 きねん してロシア正教会 せいきょうかい のケルソネソス聖堂 せいどう (英語 えいご 版 ばん ) (聖 ひじり ウラジーミル大 だい 聖堂 せいどう )が立 た てられている。
これと同 おな じ頃 ごろ 、9世紀 せいき から11世紀 せいき にかけて、半島 はんとう の南端 なんたん 部 ぶ はビザンチン帝国 ていこく (東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )の支配 しはい 下 か に置 お かれていた。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はここに軍 ぐん 管区 かんく のテマ・ケルソン を置 お いた。
モンゴルの征服 せいふく と中世 ちゅうせい 後期 こうき のクリミア [ 編集 へんしゅう ]
キエフ大公 たいこう 国 こく と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は、13世紀 せいき 前半 ぜんはん のモンゴルのルーシ侵攻 しんこう によってクリミア半島 くりみあはんとう における支配 しはい 権 けん を失 うしな った。1238年 ねん 夏 なつ 、チンギス・カン の孫 まご バトゥ 率 ひき いるモンゴル軍 ぐん はクリミアを荒 あ らし、1240年 ねん にはキエフを破壊 はかい した。
同 おな じ13世紀 せいき には、イタリア半島 はんとう を本拠地 ほんきょち とするジェノヴァ共和 きょうわ 国 こく が、ライバルのヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく がクリミア南端 なんたん の黒海 こっかい 沿岸 えんがん に整備 せいび した港 みなと を奪 うば い取 と り、チェンバロ(現在 げんざい のバラクラヴァ )、ソルダイア(スダク )、チェルコ(ケルチ )、カッファ(フェオドシヤ )などを自 みずか ら建設 けんせつ した。
1239年 ねん から、クリミアはモンゴル帝国 ていこく の分 ぶん 枝 えだ であるジョチ・ウルス のテュルク =モンゴル系 けい 諸 しょ 部族 ぶぞく (タタール )の支配 しはい 下 か に置 お かれた。
今日 きょう この半島 はんとう の名称 めいしょう として用 もち いられるクリミア (英語 えいご : Crimea , フランス語 ふらんすご : Crimée )、クリム (ドイツ語 ご : Krim )、クルィム (ロシア語 ご : Крым , ウクライナ語 ご : Крим )は、テュルク系 けい 言語 げんご の「クルム 」(クリミア・タタール語 ご : Qırım , トルコ語 ご : Kırım )に由来 ゆらい し、ジョチ・ウルス時代 じだい にクリミアの中心 ちゅうしん 都市 とし となった内陸 ないりく の町 まち ソルハット(現在 げんざい のスタールイ・クルイム )の別名 べつめい から半島 はんとう 全体 ぜんたい の呼称 こしょう になった。
1346年 ねん 、モンゴル軍 ぐん がジェノヴァ支配 しはい 下 か のカッファ(フェオドシヤ )包囲 ほうい 中 ちゅう に、疫病 えきびょう で死 し んだ兵士 へいし の死体 したい を城壁 じょうへき 内 ない に投 な げ込 こ んだことが、14世紀 せいき ヨーロッパを席巻 せっけん したペスト 大 だい 流行 りゅうこう の原因 げんいん とする説 せつ がある[9] 。
14世紀 せいき ごろ、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 系 けい の国家 こっか であるテオドロ公国 こうこく が、クリミア半島 くりみあはんとう の南西 なんせい 部 ぶ で独立 どくりつ した。首都 しゅと はマングプ 。後 のち にオスマン帝国 ていこく に滅 ほろ ぼされるまで、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の命脈 めいみゃく を保 たも った。
15
世紀 せいき 中頃 なかごろ のクリミア。
内陸 ないりく 部 ぶ はクリミア・ハン
国領 こくりょう になったが、
南岸 なんがん のジェノヴァ
領 りょう の
諸 しょ 港 みなと は
健在 けんざい で、
山間 さんかん 部 ぶ には
クリミアゴート族 ぞく 勢力 せいりょく が
残存 ざんそん していた。
1600年 ねん 頃 ごろ のクリミア・ハン国 こく 。クリミア半島 くりみあはんとう の外側 そとがわ にも支配 しはい を広 ひろ げていたが、半島 はんとう 南端 なんたん の旧 きゅう ジェノヴァ領 りょう はオスマン帝国 ていこく の直轄 ちょっかつ 領 りょう になっていた。
クリミア・ハン国 こく (1441年 ねん –1783年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
1395年 ねん にトクタミシュ・ハン がティムール に敗 やぶ れて没落 ぼつらく し、ジョチ・ウルスの分裂 ぶんれつ が進 すす むと、クリミアにいたタタールの諸 しょ 部族 ぶぞく は、1441年 ねん にチンギス・カンの末裔 まつえい (バトゥの弟 おとうと トカ・テムル の子孫 しそん )であるハジ・ギレイ をハン としてクリミア・ハン国 こく を形成 けいせい した。都 と は当初 とうしょ クルク・イェル (英語 えいご 版 ばん ) に置 お かれ、16世紀 せいき 初 はじ めにバフチサライ へ移 うつ った[10] 。
クリミア・ハン国 こく の支配 しはい 圏 けん は黒海 こっかい 北岸 ほくがん のステップ一帯 いったい に広 ひろ がり、東 ひがし はクバン から西 にし はドニエストル川 がわ まで及 およ んだ。しかし、彼 かれ らは半島 はんとう 南岸 なんがん のジェノヴァの交易 こうえき 都市 とし を支配 しはい 下 か に置 お くことはできなかった。のちにハン国 こく では内紛 ないふん が起 お こり、クリミアの諸 しょ 部族 ぶぞく はオスマン帝国 ていこく のメフメト2世 せい に援軍 えんぐん を要請 ようせい したため、1475年 ねん に大 だい 宰相 さいしょう ゲディク・アフメト・パシャ が率 ひき いるオスマン軍 ぐん がクリミア南部 なんぶ のジェノヴァ領 りょう 諸 しょ 都市 とし を攻 せ め落 お として支配 しはい 下 か に置 お いた[11] :78 。
内紛 ないふん に敗 やぶ れてカッファ(現在 げんざい のフェオドシヤ )に逃 に げ込 こ みジェノヴァ人 じん の捕虜 ほりょ になっていたハジ・ギレイの子 こ メングリ・ギレイ は、イスタンブール に連 つ れ去 さ られて捕虜 ほりょ となったが[12] 、のちにオスマン帝国 ていこく への忠誠 ちゅうせい を誓 ちか って解放 かいほう されて復位 ふくい し、クリミア・ハン国 こく はオスマン帝国 ていこく の属国 ぞっこく となった[11] :78 [13] 。それでもクリミア・ハン国 こく はオスマン帝国 ていこく から高度 こうど な自治 じち 権 けん を認 みと められており、自主 じしゅ 的 てき な統治 とうち を行 おこな った。ハン国 こく 支配 しはい 下 か の部族 ぶぞく 民 みん からなる騎兵 きへい はウクライナへの襲撃 しゅうげき (英語 えいご 版 ばん ) を繰 く り返 かえ し、捕虜 ほりょ を奴隷 どれい としてオスマン帝国 ていこく の市場 いちば に供給 きょうきゅう した[11] :78 。1450年 ねん から1586年 ねん にかけては86回 かい 、1600年 ねん から1647年 ねん にかけては70回 かい の襲撃 しゅうげき が記録 きろく されている[11] :106 。1570年代 ねんだい には、年間 ねんかん に2万 まん 人 にん 近 ちか い奴隷 どれい がカッファで取引 とりひき されていた[14] 。
クリミア・ハン国 こく 統治 とうち 下 か の諸 しょ 民族 みんぞく [ 編集 へんしゅう ]
クリミア・タタール人 じん は、15世紀 せいき から18世紀 せいき まで続 つづ いたクリミア・ハン国 こく の統治 とうち 下 か にあった人々 ひとびと により民族 みんぞく を形成 けいせい した。彼 かれ らは直接 ちょくせつ には8世紀 せいき 以来 いらい 、クリミア半島 くりみあはんとう に流入 りゅうにゅう したテュルク系 けい 民族 みんぞく の末裔 まつえい であるが、クリミア・ゴート人 じん やジェノヴァ人 じん をはじめ、クリミアから姿 すがた を消 け した諸 しょ 民族 みんぞく も混成 こんせい されたと考 かんが えられる。クリミア・ハン国 こく の人々 ひとびと は、クリミア半島 くりみあはんとう 中央 ちゅうおう 部 ぶ を中心 ちゅうしん とするタタール と黒海 こっかい 北岸 ほくがん にかけて広 ひろ がるノガイ の二 に 大 だい グループに分 わ かれていたが、タタールはこの時代 じだい には主 おも に農民 のうみん であり、遊牧民 ゆうぼくみん はノガイのみであった[8] :78 。言語 げんご 学 がく 的 てき 見地 けんち からは、クリミア・タタール語 ご は8世紀 せいき 中頃 なかごろ にクリミアを征服 せいふく したハザール の流 なが れを汲 く み、テュルク諸語 しょご のキプチャク語 ご 群 ぐん (北西 ほくせい 語 ご 群 ぐん )に属 ぞく するが、オスマン帝国 ていこく がクリミア半島 くりみあはんとう を支配 しはい した歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい からオスマン語 ご (トルコ語 ご )の属 ぞく するオグズ語 ご 群 ぐん (南西 なんせい 語 ご 群 ぐん )の強 つよ い影響 えいきょう も見 み られる。
また、イスラム教 いすらむきょう スンナ派 は を信仰 しんこう するクリミア・タタール人 じん に混 ま じって、ユダヤ教 きょう カライ派 は を信仰 しんこう し、テュルク系 けい 言語 げんご のカライム語 ご を用 もち いるクリミア・カライム人 じん も13世紀 せいき から確認 かくにん される。彼 かれ らは主 おも にチュフトカレ (英語 えいご 版 ばん ) の山岳 さんがく 地帯 ちたい に居住 きょじゅう していた。
このほかにも、ラビ派 は ユダヤ教徒 きょうと でテュルク系 けい 言語 げんご のクリムチャク語 ご を話 はな すクリムチャク人 じん 、ビザンティン以来 いらい のキリスト教 きりすときょう 正 せい 教徒 きょうと であるがクリミア・タタール語 ご を話 はな すウルム人 じん 、同 おな じく正 せい 教徒 きょうと でギリシア語 ご を保 たも っていたギリシア人 じん 、アルメニア教会 きょうかい に属 ぞく するアルメニア人 じん などがクリミア半島 くりみあはんとう で暮 く らしていた。
ウクライナ・コサックとの関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
クリミア・ハン国 こく が形成 けいせい されたのと同 おな じ15世紀 せいき 頃 ごろ 、モスクワ大公 たいこう 国 こく 、リトアニア大公 たいこう 国 こく とハン国 こく との間 あいだ の緩衝 かんしょう 地帯 ちたい となったステップ(現在 げんざい のウクライナとロシアの南部 なんぶ )に住 す み着 つ いた正 せい 教徒 きょうと の人々 ひとびと が、コサック (コザーク、カザーク)と呼 よ ばれる武装 ぶそう 集団 しゅうだん を形成 けいせい した[8] :85-87 [15] :157 。1550年代 ねんだい 、ウクライナ・コサック のヘトマン 、ドミトロ・ヴィシネヴェツキー (英語 えいご 版 ばん ) は、コサックを軍事 ぐんじ 組織 そしき 化 か し、ドニエプル川 がわ の中洲 なかす にタタールの侵入 しんにゅう に対抗 たいこう するための要塞 ようさい を建設 けんせつ した。これにより形成 けいせい されたザポロージャ・シーチ (英語 えいご 版 ばん ) のコサックは、クリミア半島 くりみあはんとう やオスマン帝国 ていこく への襲撃 しゅうげき を行 おこな うようになった[11] :109 。
コサックがポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく からの自立 じりつ を目指 めざ したフメリニツキーの乱 らん (1648年 ねん -1657年 ねん )では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキー はクリミア・ハン国 こく と同盟 どうめい して挙兵 きょへい したが、度々 たびたび タタール軍 ぐん に裏切 うらぎ られたことから、ペレヤスラフ協定 きょうてい (1654年 ねん )でロシア と同盟 どうめい を結 むす び、後 ご のヘーチマン国家 こっか の保護 ほご 国 こく 化 か のきっかけを招 まね いた[8] :106-108 [15] :168-170 。
ロシアによる併合 へいごう (1783年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
1682年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ ウィーン包囲 ほうい により大 だい トルコ戦争 せんそう が開始 かいし されると、ロシアも参戦 さんせん して露 ろ 土 ど 戦争 せんそう (1686年 ねん -1700年 ねん ) を有利 ゆうり に進 すす め、1700年 ねん にコンスタンティノープル条約 じょうやく が締結 ていけつ された。ロシアとオスマン帝国 ていこく の間 あいだ で直接 ちょくせつ 結 むす ばれたこの条約 じょうやく で、クリミア・ハン国 こく は13世紀 せいき 以来 いらい の伝統 でんとう として要求 ようきゅう してきたロシアからの貢 みつぎ 納 おさめ の取 と り立 た てを禁 きん じられた。
1774年 ねん 、露 ろ 土 ど 戦争 せんそう (1768年 ねん -1774年 ねん ) に敗 やぶ れたオスマン帝国 ていこく は、キュチュク・カイナルジ条約 じょうやく でクリミア・ハン国 こく の宗主 そうしゅ 権 けん を放棄 ほうき させられ、名目 めいもく 上 じょう 独立 どくりつ したクリミア・ハン国 こく はロシア帝国 ていこく の影響 えいきょう 下 か に入 はい った[11] :176 。1778年 ねん にはロシアによって正 せい 教徒 きょうと の住民 じゅうみん がクリミアからアゾフ海 うみ 北岸 ほくがん のマリウポリ 周辺 しゅうへん に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられた[16] 。そして1783年 ねん 、ロシア帝国 ていこく はキュチュク・カイナルジ条約 じょうやく を破棄 はき してクリミア・ハン国 こく を併合 へいごう した[11] :176 。
ロシア帝国 ていこく 期 き (1783年 ねん –1917年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
ロシア帝国 ていこく 統治 とうち 下 か のノヴォロシア とクリミア
ロシア皇帝 こうてい エカチェリーナ2世 せい は1784年 ねん 2月 がつ 2日 にち に勅 みことのり 令 れい を発 はっ して、新 あら たに領土 りょうど に加 くわ えたクリミア半島 くりみあはんとう と南 みなみ ウクライナをタヴリダ州 しゅう とした。タヴリダの名前 なまえ はギリシア語 ご の古名 こみょう タウリカから取 と られている。州都 しゅうと は当初 とうしょ カラスバザル に置 お かれ、後 のち にシンフェロポリ へ移 うつ された。
1802年 ねん 、皇帝 こうてい パーヴェル1世 せい は旧 きゅう クリミア・ハン国領 こくりょう の行政 ぎょうせい 区画 くかく を改定 かいてい し、新 あら たにシンフェロポリを県 けん 都 と とするタヴリダ県 けん が設置 せっち された。タヴリダ県 けん はクリミア半島 くりみあはんとう 全域 ぜんいき の25,133 km2 と南 みなみ ウクライナの本土 ほんど 部分 ぶぶん 38,405 km2 を管轄 かんかつ した。
19世紀 せいき には多数 たすう のロシア人 じん とウクライナ人 じん 、そして少数 しょうすう のドイツ人 じん (クリミア・ドイツ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) )が流入 りゅうにゅう したが、クリミア・タタール人 じん の人口 じんこう は依然 いぜん 多数 たすう を占 し めており、このほかにユダヤ人 じん (クリムチャク人 じん とクリミア・カライム人 じん を含 ふく む)、ブルガリア人 じん 、ベラルーシ人 じん 、トルコ人 じん 、アルメニア人 じん 、ギリシア人 じん とジプシー [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] が居住 きょじゅう していた。
クリミア・タタール人 じん は南部 なんぶ 山岳 さんがく 地帯 ちたい における多数 たすう 派 は かつ中央 ちゅうおう 部 ぶ ステップ地帯 ちたい のおよそ半数 はんすう を占 し め、ロシア人 じん はフェオドシヤ 地区 ちく に集 しゅう 住 じゅう していた。ドイツ人 じん とブルガリア人 じん は19世紀 せいき の前半 ぜんはん に移住 いじゅう し、豊富 ほうふ な資金 しきん と肥沃 ひよく な土地 とち を与 あた えられてのちに裕福 ゆうふく な植民 しょくみん 者 しゃ として北部 ほくぶ ペレコープ と西部 せいぶ エフパトリヤ を中心 ちゅうしん に土地 とち を取得 しゅとく し始 はじ めた。
フランツ・ルボー (英語 えいご 版 ばん ) 「セヴァストポリ攻囲 こうい 戦 せん 」(1904年 ねん )
1853-1856年 ねん 、オスマン帝国 ていこく の分割 ぶんかつ に伴 ともな う勢力 せいりょく 圏 けん をヨーロッパの列強 れっきょう が争 あらそ った一環 いっかん として、フランス 、イギリス 、オスマン帝国 ていこく 、サルデーニャ王国 おうこく およびナッサウ公国 こうこく の連合 れんごう 軍 ぐん とロシア帝国 ていこく が激突 げきとつ したクリミア戦争 せんそう が起 お こった。この戦争 せんそう では、クリミアが主戦 しゅせん 場 じょう となった。
戦闘 せんとう はオスマン帝国 ていこく の属国 ぞっこく ワラキア ・モルダヴィア と黒海 こっかい で始 はじ まり、1854年 ねん 9月 がつ に同盟 どうめい 軍 ぐん がクリミアに上陸 じょうりく し、黒海 こっかい 艦隊 かんたい の母港 ぼこう セヴァストポリ に進軍 しんぐん した。クリミアで繰 く り広 ひろ げられた戦 たたか いの後 のち 、セヴァストポリ攻囲 こうい 戦 せん は1855年 ねん 9月 がつ の陥落 かんらく で決着 けっちゃく した。
この戦争 せんそう はクリミアの社会 しゃかい ・経済 けいざい に多大 ただい な影響 えいきょう をもたらした。クリミア・タタール人 じん は戦火 せんか の中 なか で生 しょう じた迫害 はくがい や土地 とち の収奪 しゅうだつ から逃 のが れ、故郷 こきょう を離 はな れることを余儀 よぎ なくされた。逃避行 とうひこう 、飢餓 きが と病気 びょうき を生 い き延 の びた人々 ひとびと はドブロジャ 、アナトリア などのオスマン帝国 ていこく 領内 りょうない に移住 いじゅう した。
1905年 ねん にロシア第 だい 一 いち 革命 かくめい が起 お こると、黒海 こっかい 艦隊 かんたい の船員 せんいん とセヴァストポリ 駐屯 ちゅうとん 地 ち の兵士 へいし 、港 みなと の労働 ろうどう 者 しゃ らが武装 ぶそう 蜂起 ほうき する事案 じあん が発生 はっせい 。やがてロシア全土 ぜんど で政治 せいじ 的 てき ストライキ が広 ひろ がり、クリミアでは大 だい 騒動 そうどう が巻 ま き起 お こされた。
ツバメの巣 す (ヤルタ) (英語 えいご 版 ばん ) (ヤルタ )。クリミア半島 くりみあはんとう のシンボルとして知 し られるこの城 しろ は、帝政 ていせい 末期 まっき の1912年 ねん にバルト・ドイツ人 じん 貴族 きぞく によってネオ・ゴシック様式 ようしき で建設 けんせつ された。
ロシア内戦 ないせん 期 き (1917年 ねん -1921年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の1917年 ねん に起 お きたロシア革命 かくめい の後 のち 、ほかの旧 きゅう ロシア帝国 ていこく 領 りょう と同様 どうよう に、クリミアの軍事 ぐんじ ・政治 せいじ は極 きわ めて混沌 こんとん とした状況 じょうきょう に陥 おちい った。ロシア内戦 ないせん の間 あいだ 、クリミアでは何 なん 度 ど も統治 とうち 者 しゃ が交代 こうたい し、一時期 いちじき は白 しろ 軍 ぐん (反 はん 革命 かくめい 側 がわ )の最後 さいご の牙城 がじょう であった。この時期 じき にクリミアを統治 とうち した諸 しょ 政権 せいけん は以下 いか のように推移 すいい した。
クリミア地方 ちほう 政府 せいふ が発行 はっこう した25ルーブル紙幣 しへい
ヴラーンゲリ将軍 しょうぐん が率 ひき いる白 しろ 軍 ぐん にとって、ネストル・マフノ のパルチザンとミハイル・フルンゼ が率 ひき いる赤軍 せきぐん に対 たい する最終 さいしゅう 防衛 ぼうえい 地 ち となったのがクリミアであった。白 しろ 軍 ぐん の抵抗 ていこう は1920年 ねん のペレコープ=チョーンガル作戦 さくせん により撃滅 げきめつ され、多 おお くの反 はん 革命 かくめい 派兵 はへい 士 し が船 ふね でイスタンブール へと脱出 だっしゅつ した。
ソビエト連邦 れんぽう 期 き (1922年 ねん -1991年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
1921年 ねん 10月 がつ 18日 にち 、ロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の構成 こうせい 国 こく としてクリミア自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく が発足 ほっそく し、クリミアは新生 しんせい ソビエト連邦 れんぽう の一部 いちぶ となった[13] 。しかしながら、自治 じち 共和 きょうわ 国 こく は、当時 とうじ クリミアの人口 じんこう のおよそ25%[17] [18] :184 にまで減少 げんしょう していたクリミア・タタール人 じん たちを、1930年代 ねんだい 以降 いこう のヨシフ・スターリン による強権 きょうけん 政 せい 支配 しはい から保護 ほご するための体制 たいせい としては機能 きのう しなかった。より数 かず の少 すく ないギリシア人 じん も同様 どうよう に犠牲 ぎせい となった。彼 かれ らの耕地 こうち は農業 のうぎょう の集団 しゅうだん 化 か (コルホーズ )の過程 かてい で取 と り上 あ げられ、金銭 きんせん 的 てき 補償 ほしょう は与 あた えられなかった。特 とく に自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の主体 しゅたい 民族 みんぞく ではなかったギリシア人 じん は資本 しほん 主義 しゅぎ 国家 こっか であるギリシア と関係 かんけい が深 ふか い「反 はん 革命 かくめい 的 てき 」民族 みんぞく と疑 うたが われ、ギリシア語 ご 学校 がっこう は閉鎖 へいさ されて独自 どくじ 文化 ぶんか が抑圧 よくあつ された[13] 。
この時期 じき 、クリミアは1921年 ねん 、1932年 ねん (ホロドモール )と2度 ど の深刻 しんこく な飢饉 ききん に見舞 みま われた[19] 。1930年代 ねんだい には、ソビエトの地域 ちいき 開発 かいはつ 計画 けいかく に基 もと づき、スラブ系 けい 人口 じんこう の大幅 おおはば な増加 ぞうか がみられ、住民 じゅうみん 構成 こうせい の変化 へんか は地域 ちいき の民族 みんぞく 間 あいだ バランスを根本 こんぽん 的 てき に変容 へんよう させた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において、クリミアは独 どく ソ戦 せん の激戦 げきせん 地 ち の一 ひと つとなった。東 ひがし ヨーロッパのスラブ人 じん を駆逐 くちく し、ドイツ人 じん を植民 しょくみん するという東部 とうぶ 総合 そうごう 計画 けいかく に基 もと づき、ナチス・ドイツ は東方 とうほう 生存 せいぞん 圏 けん の一部 いちぶ としてクリミア半島 くりみあはんとう を征服 せいふく 、植民 しょくみん しようとしていた。1941年 ねん 夏 なつ 、クリミア占領 せんりょう を命 めい じられたドイツ第 だい 11軍 ぐん はクリミア半島 くりみあはんとう をソ連 それん 本土 ほんど と結 むす ぶペレコープ地峡 ちきょう に迫 せま り、多大 ただい な犠牲 ぎせい を出 だ した。地峡 ちきょう を突破 とっぱ したドイツ軍 ぐん は半島 はんとう のほぼ全域 ぜんいき を制圧 せいあつ し(トラッペンヤクト作戦 さくせん )、セヴァストポリを残 のこ すのみとなった。赤軍 せきぐん は戦死 せんし または捕虜 ほりょ となった17万 まん 人 にん の兵員 へいいん を失 うしな い、3個 こ 軍団 ぐんだん (第 だい 44、47、51軍 ぐん )、21個 いっこ 師団 しだん が壊滅 かいめつ した[20] 。
クリミアで行 おこな われたヤルタ会談 かいだん 。左 ひだり から、ウィンストン・チャーチル 、フランクリン・ルーズベルト 、ヨシフ・スターリン 。
セヴァストポリ包囲 ほうい 戦 せん は1941年 ねん 10月 がつ に始 はじ まり、1942年 ねん 7月 がつ 3日 にち に陥落 かんらく した。この激戦 げきせん により、セヴァストポリは戦後 せんご に英雄 えいゆう 都市 とし の称号 しょうごう を贈 おく られる。クリミア全域 ぜんいき を支配 しはい したドイツは1942年 ねん 9月 がつ 1日 にち にクリミア行政 ぎょうせい 地区 ちく を設置 せっち 、地区 ちく 行政 ぎょうせい 委員 いいん にアルフレート・エドゥアルト・フラウエンフェルト を任命 にんめい してウクライナの国家 こっか 弁務 べんむ 官 かん の下 した においた。クリミアにはアインザッツグルッペン が派兵 はへい され、多 おお くのユダヤ人 じん を虐殺 ぎゃくさつ した。特 とく にクリムチャク人 じん は人口 じんこう の75%が殺 ころ された。
ナチス・ドイツの強力 きょうりょく な戦略 せんりゃく とルーマニア 軍 ぐん 、イタリア 軍 ぐん による支援 しえん にもかかわらず、クリミアの山間 さんかん 部 ぶ には地元 じもと レジスタンス(パルチザン )が篭 こめ る要害 ようがい が、半島 はんとう が解放 かいほう されるまで未 み 占領 せんりょう のまま抵抗 ていこう を続 つづ けた。1944年 ねん 、赤軍 せきぐん はペレコープ地峡 ちきょう を封鎖 ふうさ 、クリミア攻略 こうりゃく を開始 かいし し、クリミアのドイツ軍 ぐん は敗北 はいぼく してセヴァストポリまでソ連 それん に奪還 だっかん された。かつて「ロシアの栄光 えいこう 」と呼 よ ばれ美観 びかん を誇 ほこ ったセヴァストポリは完全 かんぜん に破壊 はかい され、基礎 きそ から再建 さいけん されなければならなかった。
独 どく ソ戦 せん 末期 まっき の1945年 ねん 2月 がつ には、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦後 せんご 処理 しょり を決定 けってい したヤルタ会談 かいだん がクリミア半島 くりみあはんとう のヤルタ で開催 かいさい された。
クリミア・タタール人 じん の追放 ついほう [ 編集 へんしゅう ]
クリミア解放 かいほう 直後 ちょくご の1944年 ねん 5月 がつ 18日 にち 、スターリンのソ連 それん 政府 せいふ はクリミア・タタール人 じん の全員 ぜんいん を中央 ちゅうおう アジア へと強制 きょうせい 移住 いじゅう した。追放 ついほう は、ナチス・ドイツの占領 せんりょう 軍 ぐん に協力 きょうりょく した者 もの がいたことを理由 りゆう に民族 みんぞく ぐるみの制裁 せいさい として行 おこな われ[11] :483 、移住 いじゅう の過程 かてい でタタール人 じん のおよそ半数 はんすう に当 あ たる10万 まん 人 にん が飢 う えと病気 びょうき で命 いのち を落 お としたといわれる[18] :185 。さらに同年 どうねん 6月 がつ 26日 にち にはアルメニア人 じん 、ブルガリア人 じん とギリシア人 じん も同様 どうよう に中央 ちゅうおう アジアへ追放 ついほう された。独 どく ソ戦 せん 初期 しょき にすでに追放 ついほう されていたクリミア・ドイツ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) も含 ふく めて、1944年 ねん の夏 なつ までにクリミアにおける民族 みんぞく 浄化 じょうか が完遂 かんすい された。スターリン死後 しご も彼 かれ らの帰還 きかん は認 みと められず、1967年 ねん に民族 みんぞく の権利 けんり が回復 かいふく され少数 しょうすう の家族 かぞく がクリミアに戻 もど ることを許 ゆる されたものの、本格 ほんかく 的 てき な帰還 きかん はソ連 それん 末期 まっき まで法的 ほうてき に禁止 きんし されていた[18] :189 。1945年 ねん 6月 がつ 30日 にち 、クリミア自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく は廃止 はいし され、クリミア州 しゅう が代 か わりに設置 せっち された。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1954年 ねん 2月 がつ 19日 にち 、ソビエト連邦 れんぽう 最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい はクリミア州 しゅう をロシアからウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく に移管 いかん する決定 けってい を下 くだ した(この決定 けってい を指導 しどう したのはウクライナ出身 しゅっしん のニキータ・フルシチョフ である)。この決定 けってい は「クリミア地域 ちいき とウクライナが経済 けいざい の共通 きょうつう 性 せい 、近接 きんせつ 性 せい および密接 みっせつ な経済 けいざい ・文化 ぶんか 的 てき 関係 かんけい 」を有 ゆう することが理由 りゆう とされた[21] 。
戦後 せんご のクリミアは、新 あら たに旅行 りょこう 者 しゃ 向 む けのアトラクションや保養 ほよう 所 しょ が開発 かいはつ され、観光 かんこう 地 ち として栄 さか えた。旅行 りょこう 者 しゃ はソ連 それん の全域 ぜんいき と周辺 しゅうへん 諸国 しょこく 、一部 いちぶ は東 ひがし ドイツ からも訪 おとず れた[13] 。またこの時代 じだい には、クリミア半島 くりみあはんとう はギリシャやトルコからのクルージング の主要 しゅよう な目的 もくてき 地 ち にもなった。インフラと工場 こうじょう も開発 かいはつ され、ケルチ やセヴァストポリの港 みなと の周囲 しゅうい や内陸 ないりく の州都 しゅうと シンフェロポリ が特 とく に発展 はってん した。ロシア人 じん とウクライナ人 じん からなる人口 じんこう は倍増 ばいぞう し、1989年 ねん には160万 まん 人 にん のロシア人 じん と62万 まん 6000人 にん のウクライナ人 じん が半島 はんとう に居住 きょじゅう していた[13] 。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい とウクライナの独立 どくりつ (1991年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
ペレストロイカ の開始 かいし 後 ご 、長 なが らく中央 ちゅうおう アジアで続 つづ いてきたクリミア・タタール人 じん の帰還 きかん 運動 うんどう が問題 もんだい となった。ソ連 それん 中央 ちゅうおう 政府 せいふ はこの問題 もんだい を検討 けんとう するために発足 ほっそく させた委員 いいん 会 かい において、タタール人 じん のための自治 じち 共和 きょうわ 国 こく を再興 さいこう する要求 ようきゅう を1988年 ねん に却下 きゃっか したが[18] :198 、1991年 ねん 1月 がつ 20日 はつか にクリミア州 しゅう 住民 じゅうみん による住民 じゅうみん 投票 とうひょう が実施 じっし され、2月 がつ 12日 にち にウクライナ議会 ぎかい によってクリミア自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく が再建 さいけん された[22] 。
1991年 ねん 8月 がつ 19日 にち 、ソ連 それん 8月 がつ クーデター が発生 はっせい し、クリミア半島 くりみあはんとう のフォロス (英語 えいご 版 ばん ) の別荘 べっそう で休暇 きゅうか 中 ちゅう だったミハイル・ゴルバチョフ 大統領 だいとうりょう が軟禁 なんきん された。クーデターとその失敗 しっぱい によりソ連 それん の崩壊 ほうかい が早 はや まり、8月 がつ 24日 にち にウクライナ議会 ぎかい は独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく した。12月1日 にち 、ウクライナの完全 かんぜん 独立 どくりつ の是非 ぜひ を問 と う住民 じゅうみん 投票 とうひょう が行 おこな われ、ロシア系 けい 住民 じゅうみん が過半数 かはんすう を占 し めるクリミアでも有効 ゆうこう 投票 とうひょう の過半数 かはんすう となる54%が賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じた[8] :251 。12月25日 にち にゴルバチョフは大統領 だいとうりょう を辞任 じにん し、クリミアは完全 かんぜん 独立 どくりつ したウクライナ の一部 いちぶ となった。
クリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく (1992年 ねん -) [ 編集 へんしゅう ]
独立 どくりつ したウクライナはクリミアに自治 じち 共和 きょうわ 国 こく を復活 ふっかつ させ、クリミア・タタール人 じん の帰還 きかん が許可 きょか され、クリミアの全 ぜん 人口 じんこう の約 やく 1割 わり を占 し めるまでになった。帝政 ていせい 期 き 以来 いらい の多数 たすう 派 は であるロシア人 じん の中 なか にはクリミアがウクライナ領 りょう になったことに不満 ふまん を持 も ち、ロシア連邦 れんぽう へ帰属 きぞく することを求 もと める者 もの たちも出 で 始 はじ めた。
1992年 ねん 5月 がつ 5日 にち 、クリミア議会 ぎかい はウクライナからの独立 どくりつ を決議 けつぎ し、クリミア共和 きょうわ 国 こく を宣言 せんげん した。ウクライナ議会 ぎかい は5月15日 にち に独立 どくりつ 無効 むこう を決議 けつぎ したが、黒海 こっかい 艦隊 かんたい の基地 きち として戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう なクリミアへの関心 かんしん を持 も つロシアは独立 どくりつ の動 うご きを支持 しじ し、5月21日 にち にクリミアのウクライナ移管 いかん を定 さだ めた1954年 ねん の決定 けってい は違法 いほう とする議会 ぎかい 決議 けつぎ を行 おこな った。しかし、ロシアで独立 どくりつ を宣言 せんげん していたチェチェン共和国 ちぇちぇんきょうわこく に対 たい し、1994年 ねん にロシアが武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ を開始 かいし すると、一方 いっぽう で自国 じこく からのチェチェンの独立 どくりつ を禁圧 きんあつ しながらウクライナからのクリミアの独立 どくりつ を支持 しじ するのは自己 じこ 矛盾 むじゅん であるとの国際 こくさい 的 てき 批判 ひはん が高 たか まり、ロシアはクリミア独立 どくりつ 運動 うんどう への支援 しえん を取 と りやめた[15] :415 。
その結果 けっか 、クリミア内 ない での独立 どくりつ 運動 うんどう も後 うし ろ盾 たて を失 うしな って急速 きゅうそく に沈静 ちんせい 化 か し、またウクライナ側 がわ でもロシアに敵対 てきたい 的 てき な民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう の活動 かつどう が和 やわ らいだため、クリミア議会 ぎかい もウクライナ共和 きょうわ 国内 こくない の自治 じち 共和 きょうわ 国 こく であることを認 みと めるようになった。クリミアの自治 じち 権 けん は1996年 ねん に制定 せいてい されたウクライナの現行 げんこう 憲法 けんぽう で再 さい 確認 かくにん され、クリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の設置 せっち が規定 きてい されたが、同時 どうじ にクリミア半島 くりみあはんとう は「ウクライナの不可分 ふかぶん な構成 こうせい 部分 ぶぶん 」とされ、自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の離脱 りだつ 権 けん は否定 ひてい された[23] 。1998年 ねん にウクライナ憲法 けんぽう の枠 わく 内 ない でクリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう (ロシア語 ご 版 ばん ) が制定 せいてい された。
ロシアによるクリミア併合 へいごう 宣言 せんげん (2014年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
2014年 ねん 、キエフにおける騒乱 そうらん 、ロシアのクリミア侵攻 しんこう を経 へ て、クリミアの帰属 きぞく 問題 もんだい が再燃 さいねん した。
ロシアと親 おや ロシア派 は が半島 はんとう を掌握 しょうあく する中 なか 、3月11日 にち 、クリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 最高 さいこう 会議 かいぎ (議会 ぎかい )とセヴァストポリ特別 とくべつ 市 し 評議 ひょうぎ 会 かい (市議会 しぎかい )は、クリミアおよびセヴァストポリ独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく し、ウクライナからの一方 いっぽう 的 てき な独立 どくりつ を求 もと めた[24] [25] 。16日 にち にロシアと親 おや ロシア派 は の監視 かんし 下 か のもと実施 じっし された住民 じゅうみん 投票 とうひょう ではロシア編入 へんにゅう が多数 たすう 派 は となり、翌 よく 17日 にち にクリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく がセヴァストポリを特別 とくべつ な地位 ちい を有 ゆう する都市 とし として包括 ほうかつ したクリミア共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ し、ロシアへの編入 へんにゅう を求 もと める決議 けつぎ を議会 ぎかい が行 おこな った。翌 よく 3月 がつ 18日 にち 、ロシア連邦 れんぽう 大統領 だいとうりょう ウラジーミル・プーチン は演説 えんぜつ でクリミア併合 へいごう を宣言 せんげん 、直後 ちょくご にクリミア・セヴァストポリの代表 だいひょう との編入 へんにゅう 条約 じょうやく [26] に署名 しょめい した。
ウクライナは、クリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく とセヴァストポリ特別 とくべつ 市 し はロシアの被 ひ 占領 せんりょう 下 か にあるという立場 たちば を取 と る。また、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、欧州 おうしゅう 連合 れんごう 、日本国 にっぽんこく 政府 せいふ をはじめ、国際 こくさい 社会 しゃかい の多数 たすう が、住民 じゅうみん 投票 とうひょう がウクライナの国内 こくない 法 ほう に違反 いはん し非合法 ひごうほう なものであるとし[27] [28] [29] 、ロシアとその友好国 ゆうこうこく を除 のぞ き、クリミアの編入 へんにゅう は国際 こくさい 社会 しゃかい の承認 しょうにん を得 え ていない。
ロシア実効 じっこう 支配 しはい 下 か のクリミア [ 編集 へんしゅう ]
ロシア連邦 れんぽう 政府 せいふ は実効 じっこう 支配 しはい 下 した に置 お いたクリミアで軍事 ぐんじ 施設 しせつ を再開 さいかい ・増設 ぞうせつ するとともに、クリミア・タタール人 じん らを弾圧 だんあつ した[1] 。
ロシア連邦 れんぽう 政府 せいふ はクリミアの東側 ひがしがわ にあるケルチ海峡 かいきょう にクリミア大橋 おおはし をかけてロシアとの人 ひと ・物資 ぶっし の往来 おうらい をしやすくした。だがウクライナ本土 ほんど と絶 た たれたクリミアでの民生 みんせい には支障 ししょう が出 で ており、北 きた クリミア運河 うんが を経由 けいゆ してウクライナ本土 ほんど から供給 きょうきゅう されていた水 みず が不足 ふそく して[30] 、地下水 ちかすい の過剰 かじょう 汲 く み上 あ げによる塩害 えんがい が発生 はっせい している[1] 。また軍用 ぐんよう 道路 どうろ や住宅 じゅうたく の建設 けんせつ のため、かつての自然 しぜん 保護 ほご 区域 くいき が開発 かいはつ 対象 たいしょう になっている[1] 。
ウクライナ侵攻 しんこう とクリミア [ 編集 へんしゅう ]
2022年 ねん ロシアによるウクライナ侵攻 しんこう で、ロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん がクリミアからウクライナ本土 ほんど 南部 なんぶ に攻撃 こうげき ・進軍 しんぐん している。その過程 かてい で、ウクライナ東部 とうぶ のロシア側 がわ 支配 しはい 地域 ちいき とクリミアをつなぐ、アゾフ海 うみ 北岸 ほくがん の回廊 かいろう を確保 かくほ したと主張 しゅちょう している[31] 。
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