クリミアの歴史れきし

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クリミア半島くりみあはんとうは、紀元前きげんぜん5世紀せいきごろギリシアじん入植にゅうしょくから有史ゆうし時代じだいはいり、古代こだいには「タウリカ」または「ケルソネソス・タウリカ」(Χερσόνησος Ταυρική 「タウリカ半島はんとう」の)とばれていた。これ以来いらいスキタイじん(スキタイ=キンメリアじんタウロイじん)、ギリシアじんローマじんゴートじんフンじんブルガールじんハザールじんキプチャクじんなど様々さまざま民族みんぞくによってクリミアは征服せいふく支配しはいけてきた。

中世ちゅうせいには、一部いちぶキエフ・ルーシに、べつ一部いちぶひがしマ帝国まていこく支配しはいされたこともあったが、モンゴルの征服せいふくけてモンゴル帝国ていこくぶんえだであるジョチ・ウルス支配しはいはいった。また、この時代じだいには沿岸えんがん一部いちぶヴェネツィアジェノヴァ統治とうちかれた。これらのしょ勢力せいりょくは15世紀せいきクリミア・ハンこくオスマン帝国ていこく支配しはいとなり、18世紀せいきまでつづいた。

クリミアの近代きんだいは、1783ねんロシア帝国ていこくによるクリミア・ハンこく併合へいごうはじまる。1921ねんにはソビエト連邦れんぽうしたクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく設置せっちされたが1945ねん廃止はいしされ、わってかれたクリミアしゅうは1954ねんロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくからウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく移管いかんされた。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいともない1991ねんウクライナ独立どくりつするとふたた自治じち共和きょうわこく地位ちいたが、2014ねんクリミア危機ききでウクライナ国内こくないほう無視むしするかたち一方いっぽうてき独立どくりつ宣言せんげんつづいてロシアによるクリミアの併合へいごう宣言せんげんされ両国りょうこくによる領有りょうゆうけんをめぐる対立たいりつつづいている。

ロシア連邦れんぽうはクリミアでの軍備ぐんび拡張かくちょうとの要塞ようさいクリミア・タタールじん弾圧だんあつなどをすすめ、2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこうではウクライナにたいする攻撃こうげき策源地さくげんちとして利用りようした[1]

先史せんし時代じだい[編集へんしゅう]

クリミアに人類じんるい居住きょじゅうはじめた最初さいしょ考古学こうこがくてき痕跡こんせき旧石器時代きゅうせっきじだい中期ちゅうきさかのぼる。キイク・コバ洞窟どうくつネアンデルタールじんはおよそ8まんねんまえのものである[2]。よりのネアンデルタールじんはスタロセレ(4まん6000ねんまえ)とブルハン・カヤ3ごう(3まんねんまえ)でも発見はっけんされている[3]

初期しょき現生げんなま人類じんるいクリミア山脈さんみゃくのブルハン・カヤ洞窟どうくつシンフェロポリひがし)で発見はっけんされた。この化石かせきはおよそ3まん2000ねんまえのもので、遺物いぶつグラヴェット文化ぶんかぞくする[4][5]最終さいしゅうごおりさい寒冷かんれいにおいて、黒海こっかい北岸ほくがん一帯いったいこおり終焉しゅうえんとともになかきたヨーロッパさい拡散かくさんすることになる人口じんこう避難ひなんとして重要じゅうよう地域ちいきひとつであった。この時代じだいには、なんかのあいだごおりはさんで気温きおん緩和かんわし、さい寒冷かんれい開始かいしにははっきりと上昇じょうしょうしつつあったものの、しゅう氷河ひょうが地形ちけい低地ていちステップひがしヨーロッパ平原へいげんひろがった。人類じんるい居住きょじゅう地帯ちたい密度みつどはクリミア地域ちいきにほとんど集中しゅうちゅうしており、やく1まん6000ねんまえまで増加ぞうかつづけていた[6]黒海こっかい洪水こうずいせつ支持しじしゃによると、クリミアは紀元前きげんぜん6せんねん黒海こっかい水位すいい上昇じょうしょうすることによってはじめて半島はんとうとして形成けいせいされた。

クリミアにおけるしん石器せっき時代じだいはじまりは農業のうぎょうともなわず、わって陶器とうき製造せいぞう開始かいし石器せっき製造せいぞう技術ぎじゅつ変化へんか、およびぶた家畜かちく関連かんれんづけられている。クリミア半島くりみあはんとうにおけるむぎ生産せいさん最古さいこ証拠しょうこ銅器どうき時代じだいのアルドゥチ・ブルン遺跡いせきから発見はっけんされており、紀元前きげんぜん4千年紀せんねんき中頃なかごろである[7]

紀元前きげんぜん3千年紀せんねんきにはクリミアにヤムナ文化ぶんか到達とうたつした。クルガン仮説かせつでいうはらインド・ヨーロッパ文化ぶんか後期こうき相当そうとうすると推定すいていされる。青銅器せいどうき時代じだい初期しょきには、ひがしイランぐん話者わしゃであるスキタイがクリミアに定着ていちゃくした。クリミア半島くりみあはんとう南部なんぶにはスキタイじんによって駆逐くちくされたキンメリアじん一派いっぱである可能かのうせいのあるタウロイ居住きょじゅうしていた。紀元前きげんぜん6世紀せいきか7世紀せいきには、ミレトスひとによって最初さいしょギリシア文明ぶんめい植民しょくみん都市とし建設けんせつされた。

古代こだい[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん5世紀せいき黒海こっかい北岸ほくがん建設けんせつされたギリシアじん植民しょくみん都市とし

ギリシア時代じだい[編集へんしゅう]

タウリカギリシア: Ταυρίς, Ταυρίδα)は、古典こてん古代こだいにおけるクリミア半島くりみあはんとう呼称こしょうである。古代こだいギリシアじんはタウロイじんからタウリカの地名ちめいづけた。タウロイはクリミア半島くりみあはんとう南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたいにのみ居住きょじゅうしており、タウリカの当初とうしょ半島はんとう南部なんぶのみに使つかわれたが、のちに半島はんとう全体ぜんたい名称めいしょう拡大かくだいした。

ギリシア神話しんわにおいて、タウリカはミケーネ王女おうじょイピゲネイア物語ものがたり舞台ぶたいとして登場とうじょうする。ちちおうアガメムノンによって女神めがみアルテミス生贄いけにえにされた王女おうじょは、これをあわれんだ女神めがみによってすくされ、タウリカにおくまれる[8]:19。イピゲネイアはアルテミス神殿しんでん神官しんかんとなり、冷酷れいこくなタウリカのトアスおうによって、らえられた外国がいこくじん生贄いけにえささげるようめいじられることになる。またべつ歴史れきし記述きじゅつでは、タウリカのみんタウロイは野蛮やばん儀式ぎしき海賊かいぞく行為こういられ、この半島はんとうのもっともふる居住きょじゅうしゃである。タウロイのとギリシア人殺ひとごろしにかんするせつは、ヘロドトスの『歴史れきし(ヒストリアイ)』にもしるされている。

紀元前きげんぜん5世紀せいきに、ギリシアじん黒海こっかい沿岸えんがん植民しょくみんひろはじめた。そのなかからヘラクレアドーリアじん今日きょうセヴァストポリ港湾こうわん都市としケルソネソスを、ミレトスイオニアじんはテオドシア(現在げんざいフェオドシヤ)とパンティカパイオン現在げんざいケルチ)を建設けんせつした。

紀元前きげんぜん438ねんに、パンティカパイオンのアルコン執政しっせいかん)に就任しゅうにんしたしん植民しょくみんしゃスポルトコスキンメリオス・ボスポロス(キンメリア海峡かいきょう現在げんざいケルチ海峡かいきょう)のおうしょうし、この王国おうこくアテネ緊密きんみつ関係かんけいむすんでむぎ蜂蜜はちみつその商品しょうひん供給きょうきゅうした。スポルトコス王朝おうちょう最後さいごおうパイリサデス5せいは、遊牧民ゆうぼくみんスキタイ圧力あつりょくけ、紀元前きげんぜん114ねんポントスおうミトリダテス6せい庇護ひごもとめた。ミトリダテスの王子おうじファルナケス2せいは、ローマ共和きょうわこくちちおうとのたたかいでローマがわについたことにより、紀元前きげんぜん63ねんにローマのポンペイウスによってボスポロスおうとして承認しょうにんされた。紀元前きげんぜん15ねんにボスポロスはふたたびポントス王国おうこく支配しはいもどされたが、もはやローマのぞくしゅう同然どうぜんであった。

ローマ時代じだい[編集へんしゅう]

一部いちぶボスポロス王国おうこく形成けいせいしていたタウリカは、紀元前きげんぜん1世紀せいきマ帝国まていこく併合へいごうされた。

紀元きげん1世紀せいきから3世紀せいきにかけて、タウリカの都市としカラクス英語えいごばんローマ軍団ぐんだん駐留ちゅうりゅうし、ローマじん植民しょくみん都市としとなった。ローマ都市としカラクスは、遊牧民ゆうぼくみんスキタイからケルソネソスやその交易こうえき防衛ぼうえいするためにウェスパシアヌスみかどによって建設けんせつされた。都市とし防衛ぼうえいだい1軍団ぐんだんイタリカ支隊したいたり、2世紀せいきまつにはだい11軍団ぐんだんクラウディア英語えいごばんくわわった。事実じじつじょうぞくしゅうであったこの地域ちいきは、カラクス駐留ちゅうりゅう部隊ぶたい司令しれいかん一人ひとり統治とうちしていた。

3世紀せいき中頃なかごろから、ゲルマンじん一派いっぱゴートぞくがクリミアにあらわれ、ローマじんとボスポロス王国おうこく攻撃こうげきした。これ以降いこうクリミア半島くりみあはんとう流入りゅうにゅうしたクリミアゴートぞくは16世紀せいきごろまで独自どくじ文化ぶんか社会しゃかいたもった。

ローマぐん駐屯ちゅうとんは3世紀せいきまつ放棄ほうきされた。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

ケルソネソス(現在げんざいのセヴァストポリ)の遺跡いせきひじりウラジーミルだい聖堂せいどう

遊牧民ゆうぼくみん流入りゅうにゅう[編集へんしゅう]

ローマじん撤退てったい、クリミアはフンじん(376ねん)、ブルガールじん(4-8世紀せいき)、ハザールじん(8世紀せいき)、キプチャク(10世紀せいき以降いこう)とつづいて遊牧ゆうぼく民族みんぞく征服せいふく支配しはいけた。クリミア半島くりみあはんとう北部ほくぶのステップはスキタイ以来いらい遊牧民ゆうぼくみん支配しはいしたみなみロシア草原そうげん一連いちれんなりであり、インド・ヨーロッパ語族ごぞくイラン諸語しょごわってこの地域ちいき遊牧民ゆうぼくみん言語げんごとなったテュルク諸語しょごはなされるようになった。

ルーシとひがしローマによる支配しはい[編集へんしゅう]

1025ねんひがしマ帝国まていこく

10世紀せいき中頃なかごろクリミア半島くりみあはんとう東部とうぶはハザールをほろぼしたキエフ大公たいこうこくスヴャトスラフ1せいによって征服せいふくされ、チェルニヒウ地方ちほうルーシトムタラカニ公国こうこく(トムトロカン公国こうこく)の一部いちぶとなった。988ねんには、ウラジーミル1せいひがしマ帝国まていこく都市としケルソネソス現在げんざいのセヴァストポリ)を占領せんりょうし、ここでキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした。ケルソネソスの遺跡いせきにはこの出来事できごと記念きねんしてロシア正教会せいきょうかいケルソネソス聖堂せいどう英語えいごばんひじりウラジーミルだい聖堂せいどう)がてられている。

これとおなごろ、9世紀せいきから11世紀せいきにかけて、半島はんとう南端なんたんはビザンチン帝国ていこくひがしマ帝国まていこく)の支配しはいかれていた。ひがしマ帝国まていこくはここにぐん管区かんくテマ・ケルソンいた。

モンゴルの征服せいふく中世ちゅうせい後期こうきのクリミア[編集へんしゅう]

キエフ大公たいこうこくひがしマ帝国まていこくは、13世紀せいき前半ぜんはんモンゴルのルーシ侵攻しんこうによってクリミア半島くりみあはんとうにおける支配しはいけんうしなった。1238ねんなつチンギス・カンまごバトゥひきいるモンゴルぐんはクリミアをらし、1240ねんにはキエフを破壊はかいした。

おなじ13世紀せいきには、イタリア半島はんとう本拠地ほんきょちとするジェノヴァ共和きょうわこくが、ライバルのヴェネツィア共和きょうわこくがクリミア南端なんたん黒海こっかい沿岸えんがん整備せいびしたみなとうばり、チェンバロ(現在げんざいバラクラヴァ)、ソルダイア(スダク)、チェルコ(ケルチ)、カッファ(フェオドシヤ)などをみずか建設けんせつした。

1239ねんから、クリミアはモンゴル帝国ていこくぶんえだであるジョチ・ウルステュルクモンゴルけいしょ部族ぶぞくタタール)の支配しはいかれた。

今日きょうこの半島はんとう名称めいしょうとしてもちいられるクリミア英語えいご: Crimea, フランス語ふらんすご: Crimée)、クリムドイツ: Krim)、クルィムロシア: Крым, ウクライナ: Крим)は、テュルクけい言語げんごの「クルム」(クリミア・タタール: Qırım, トルコ: Kırım)に由来ゆらいし、ジョチ・ウルス時代じだいにクリミアの中心ちゅうしん都市としとなった内陸ないりくまちソルハット(現在げんざいスタールイ・クルイム)の別名べつめいから半島はんとう全体ぜんたい呼称こしょうになった。

1346ねん、モンゴルぐんがジェノヴァ支配しはいのカッファ(フェオドシヤ包囲ほういちゅうに、疫病えきびょうんだ兵士へいし死体したい城壁じょうへきないんだことが、14世紀せいきヨーロッパを席巻せっけんしたペストだい流行りゅうこう原因げんいんとするせつがある[9]

14世紀せいきごろ、ひがしマ帝国まていこくけい国家こっかであるテオドロ公国こうこくが、クリミア半島くりみあはんとう南西なんせい独立どくりつした。首都しゅとマングプのちオスマン帝国ていこくほろぼされるまで、ひがしマ帝国まていこく命脈めいみゃくたもった。

近世きんせい[編集へんしゅう]

15世紀せいき中頃なかごろのクリミア。内陸ないりくはクリミア・ハン国領こくりょうになったが、南岸なんがんのジェノヴァりょうしょみなと健在けんざいで、山間さんかんにはクリミアゴートぞく勢力せいりょく残存ざんそんしていた。
1600ねんごろのクリミア・ハンこくクリミア半島くりみあはんとう外側そとがわにも支配しはいひろげていたが、半島はんとう南端なんたんきゅうジェノヴァりょうはオスマン帝国ていこく直轄ちょっかつりょうになっていた。

クリミア・ハンこく(1441ねん–1783ねん[編集へんしゅう]

1395ねんトクタミシュ・ハンティムールやぶれて没落ぼつらくし、ジョチ・ウルスの分裂ぶんれつすすむと、クリミアにいたタタールのしょ部族ぶぞくは、1441ねんにチンギス・カンの末裔まつえい(バトゥのおとうとトカ・テムル子孫しそん)であるハジ・ギレイハンとしてクリミア・ハンこく形成けいせいした。当初とうしょクルク・イェル英語えいごばんかれ、16世紀せいきはじめにバフチサライうつった[10]

クリミア・ハンこく支配しはいけん黒海こっかい北岸ほくがんのステップ一帯いったいひろがり、ひがしクバンから西にしドニエストルがわまでおよんだ。しかし、かれらは半島はんとう南岸なんがんのジェノヴァの交易こうえき都市とし支配しはいくことはできなかった。のちにハンこくでは内紛ないふんこり、クリミアのしょ部族ぶぞくはオスマン帝国ていこくメフメト2せい援軍えんぐん要請ようせいしたため、1475ねんだい宰相さいしょうゲディク・アフメト・パシャひきいるオスマンぐんがクリミア南部なんぶのジェノヴァりょうしょ都市としとして支配しはいいた[11]:78

内紛ないふんやぶれてカッファ(現在げんざいフェオドシヤ)にみジェノヴァじん捕虜ほりょになっていたハジ・ギレイのメングリ・ギレイは、イスタンブールられて捕虜ほりょとなったが[12]、のちにオスマン帝国ていこくへの忠誠ちゅうせいちかって解放かいほうされて復位ふくいし、クリミア・ハンこくはオスマン帝国ていこく属国ぞっこくとなった[11]:78[13]。それでもクリミア・ハンこくはオスマン帝国ていこくから高度こうど自治じちけんみとめられており、自主じしゅてき統治とうちおこなった。ハンこく支配しはい部族ぶぞくみんからなる騎兵きへいウクライナへの襲撃しゅうげき英語えいごばんかえし、捕虜ほりょ奴隷どれいとしてオスマン帝国ていこく市場いちば供給きょうきゅうした[11]:78。1450ねんから1586ねんにかけては86かい、1600ねんから1647ねんにかけては70かい襲撃しゅうげき記録きろくされている[11]:106。1570年代ねんだいには、年間ねんかんに2まんにんちか奴隷どれいがカッファで取引とりひきされていた[14]

クリミア・ハンこく統治とうちしょ民族みんぞく[編集へんしゅう]

クリミア・タタールじんは、15世紀せいきから18世紀せいきまでつづいたクリミア・ハンこく統治とうちにあった人々ひとびとにより民族みんぞく形成けいせいした。かれらは直接ちょくせつには8世紀せいき以来いらいクリミア半島くりみあはんとう流入りゅうにゅうしたテュルクけい民族みんぞく末裔まつえいであるが、クリミア・ゴートじんジェノヴァじんをはじめ、クリミアから姿すがたしたしょ民族みんぞく混成こんせいされたとかんがえられる。クリミア・ハンこく人々ひとびとは、クリミア半島くりみあはんとう中央ちゅうおう中心ちゅうしんとするタタール黒海こっかい北岸ほくがんにかけてひろがるノガイだいグループにかれていたが、タタールはこの時代じだいにはおも農民のうみんであり、遊牧民ゆうぼくみんはノガイのみであった[8]:78言語げんごがくてき見地けんちからは、クリミア・タタールは8世紀せいき中頃なかごろにクリミアを征服せいふくしたハザールながれをみ、テュルク諸語しょごキプチャクぐん北西ほくせいぐん)にぞくするが、オスマン帝国ていこくクリミア半島くりみあはんとう支配しはいした歴史れきしてき経緯けいいからオスマントルコ)のぞくするオグズぐん南西なんせいぐん)のつよ影響えいきょうられる。

また、イスラム教いすらむきょうスンナ信仰しんこうするクリミア・タタールじんじって、ユダヤきょうカライ信仰しんこうし、テュルクけい言語げんごカライムもちいるクリミア・カライムじんも13世紀せいきから確認かくにんされる。かれらはおもチュフトカレ英語えいごばん山岳さんがく地帯ちたい居住きょじゅうしていた。

このほかにも、ラビユダヤ教徒きょうとでテュルクけい言語げんごクリムチャクはなクリムチャクじん、ビザンティン以来いらいキリスト教きりすときょうせい教徒きょうとであるがクリミア・タタールはなウルムじんおなじくせい教徒きょうとギリシアたもっていたギリシアじんアルメニア教会きょうかいぞくするアルメニアじんなどがクリミア半島くりみあはんとうらしていた。

ウクライナ・コサックとの関係かんけい[編集へんしゅう]

クリミア・ハンこく形成けいせいされたのとおなじ15世紀せいきごろモスクワ大公たいこうこくリトアニア大公たいこうこくとハンこくとのあいだ緩衝かんしょう地帯ちたいとなったステップ(現在げんざいのウクライナとロシアの南部なんぶ)にいたせい教徒きょうと人々ひとびとが、コサック(コザーク、カザーク)とばれる武装ぶそう集団しゅうだん形成けいせいした[8]:85-87[15]:157。1550年代ねんだいウクライナ・コサックヘトマンドミトロ・ヴィシネヴェツキー英語えいごばんは、コサックを軍事ぐんじ組織そしきし、ドニエプルがわ中洲なかすにタタールの侵入しんにゅう対抗たいこうするための要塞ようさい建設けんせつした。これにより形成けいせいされたザポロージャ・シーチ英語えいごばんのコサックは、クリミア半島くりみあはんとうやオスマン帝国ていこくへの襲撃しゅうげきおこなうようになった[11]:109

コサックがポーランド・リトアニア共和きょうわこくからの自立じりつ目指めざしたフメリニツキーのらん(1648ねん-1657ねん)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハンこく同盟どうめいして挙兵きょへいしたが、度々たびたびタタールぐん裏切うらぎられたことから、ペレヤスラフ協定きょうてい(1654ねん)でロシア同盟どうめいむすび、ヘーチマン国家こっか保護ほごこくのきっかけをまねいた[8]:106-108[15]:168-170

ロシアによる併合へいごう(1783ねん[編集へんしゅう]

1682ねんだいウィーン包囲ほういによりだいトルコ戦争せんそう開始かいしされると、ロシアも参戦さんせんして戦争せんそう(1686ねん-1700ねん有利ゆうりすすめ、1700ねんコンスタンティノープル条約じょうやく締結ていけつされた。ロシアとオスマン帝国ていこくあいだ直接ちょくせつむすばれたこの条約じょうやくで、クリミア・ハンこくは13世紀せいき以来いらい伝統でんとうとして要求ようきゅうしてきたロシアからのみつぎおさめてをきんじられた。

1774ねん戦争せんそう(1768ねん-1774ねんやぶれたオスマン帝国ていこくは、キュチュク・カイナルジ条約じょうやくでクリミア・ハンこく宗主そうしゅけん放棄ほうきさせられ、名目めいもくじょう独立どくりつしたクリミア・ハンこくロシア帝国ていこく影響えいきょうはいった[11]:176。1778ねんにはロシアによってせい教徒きょうと住民じゅうみんがクリミアからアゾフうみ北岸ほくがんマリウポリ周辺しゅうへん強制きょうせい移住いじゅうさせられた[16]。そして1783ねん、ロシア帝国ていこくはキュチュク・カイナルジ条約じょうやく破棄はきしてクリミア・ハンこく併合へいごうした[11]:176

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

ロシア帝国ていこく(1783ねん–1917ねん[編集へんしゅう]

ロシア帝国ていこく統治とうちノヴォロシアとクリミア

ロシア皇帝こうていエカチェリーナ2せいは1784ねん2がつ2にちみことのりれいはっして、あらたに領土りょうどくわえたクリミア半島くりみあはんとうみなみウクライナをタヴリダしゅうとした。タヴリダの名前なまえはギリシア古名こみょうタウリカからられている。州都しゅうと当初とうしょカラスバザルかれ、のちシンフェロポリうつされた。

1802ねん皇帝こうていパーヴェル1せいきゅうクリミア・ハン国領こくりょう行政ぎょうせい区画くかく改定かいていし、あらたにシンフェロポリをけんとするタヴリダけん設置せっちされた。タヴリダけんクリミア半島くりみあはんとう全域ぜんいきの25,133 km2みなみウクライナの本土ほんど部分ぶぶん38,405 km2管轄かんかつした。

19世紀せいきには多数たすうロシアじんウクライナじん、そして少数しょうすうドイツじんクリミア・ドイツじん英語えいごばん)が流入りゅうにゅうしたが、クリミア・タタールじん人口じんこう依然いぜん多数たすうめており、このほかにユダヤじんクリムチャクじんクリミア・カライムじんふくむ)、ブルガリアじんベラルーシじんトルコじんアルメニアじんギリシアじんジプシー[よう曖昧あいまい回避かいひ]居住きょじゅうしていた。

クリミア・タタールじん南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたいにおける多数たすうかつ中央ちゅうおうステップ地帯ちたいのおよそ半数はんすうめ、ロシアじんフェオドシヤ地区ちくしゅうじゅうしていた。ドイツじんとブルガリアじんは19世紀せいき前半ぜんはん移住いじゅうし、豊富ほうふ資金しきん肥沃ひよく土地とちあたえられてのちに裕福ゆうふく植民しょくみんしゃとして北部ほくぶペレコープ西部せいぶエフパトリヤ中心ちゅうしん土地とち取得しゅとくはじめた。

フランツ・ルボー英語えいごばん「セヴァストポリ攻囲こういせん」(1904ねん

クリミア戦争せんそう[編集へんしゅう]

1853-1856ねんオスマン帝国ていこく分割ぶんかつともな勢力せいりょくけんをヨーロッパの列強れっきょうあらそった一環いっかんとして、フランスイギリス、オスマン帝国ていこくサルデーニャ王国おうこくおよびナッサウ公国こうこく連合れんごうぐんとロシア帝国ていこく激突げきとつしたクリミア戦争せんそうこった。この戦争せんそうでは、クリミアが主戦しゅせんじょうとなった。

戦闘せんとうはオスマン帝国ていこく属国ぞっこくワラキアモルダヴィア黒海こっかいはじまり、1854ねん9がつ同盟どうめいぐんがクリミアに上陸じょうりくし、黒海こっかい艦隊かんたい母港ぼこうセヴァストポリ進軍しんぐんした。クリミアでひろげられたたたかいののちセヴァストポリ攻囲こういせんは1855ねん9がつ陥落かんらく決着けっちゃくした。

この戦争せんそうはクリミアの社会しゃかい経済けいざい多大ただい影響えいきょうをもたらした。クリミア・タタールじん戦火せんかなかしょうじた迫害はくがい土地とち収奪しゅうだつからのがれ、故郷こきょうはなれることを余儀よぎなくされた。逃避行とうひこう飢餓きが病気びょうきびた人々ひとびとドブロジャアナトリアなどのオスマン帝国ていこく領内りょうない移住いじゅうした。

1905ねんロシアだいいち革命かくめいこると、黒海こっかい艦隊かんたい船員せんいんセヴァストポリ駐屯ちゅうとん兵士へいしみなと労働ろうどうしゃらが武装ぶそう蜂起ほうきする事案じあん発生はっせい。やがてロシア全土ぜんど政治せいじてきストライキひろがり、クリミアではだい騒動そうどうこされた。

ツバメの (ヤルタ)英語えいごばんヤルタ)。クリミア半島くりみあはんとうのシンボルとしてられるこのしろは、帝政ていせい末期まっきの1912ねんバルト・ドイツじん貴族きぞくによってネオ・ゴシック様式ようしき建設けんせつされた。

ロシア内戦ないせん(1917ねん-1921ねん[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんの1917ねんきたロシア革命かくめいのち、ほかのきゅうロシア帝国ていこくりょう同様どうように、クリミアの軍事ぐんじ政治せいじきわめて混沌こんとんとした状況じょうきょうおちいった。ロシア内戦ないせんあいだ、クリミアではなん統治とうちしゃ交代こうたいし、一時期いちじきしろぐんはん革命かくめいがわ)の最後さいご牙城がじょうであった。この時期じきにクリミアを統治とうちしたしょ政権せいけん以下いかのように推移すいいした。

クリミア地方ちほう政府せいふ発行はっこうした25ルーブル紙幣しへい

ヴラーンゲリ将軍しょうぐんひきいるしろぐんにとって、ネストル・マフノのパルチザンとミハイル・フルンゼひきいる赤軍せきぐんたいする最終さいしゅう防衛ぼうえいとなったのがクリミアであった。しろぐん抵抗ていこうは1920ねんペレコープ=チョーンガル作戦さくせんにより撃滅げきめつされ、おおくのはん革命かくめい派兵はへいふねイスタンブールへと脱出だっしゅつした。

ソビエト連邦れんぽう(1922ねん-1991ねん[編集へんしゅう]

せんあいだ[編集へんしゅう]

1921ねん10がつ18にちロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく構成こうせいこくとしてクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく発足ほっそくし、クリミアは新生しんせいソビエト連邦れんぽう一部いちぶとなった[13]。しかしながら、自治じち共和きょうわこくは、当時とうじクリミアの人口じんこうのおよそ25%[17][18]:184にまで減少げんしょうしていたクリミア・タタールじんたちを、1930年代ねんだい以降いこうヨシフ・スターリンによる強権きょうけんせい支配しはいから保護ほごするための体制たいせいとしては機能きのうしなかった。よりかずすくないギリシアじん同様どうよう犠牲ぎせいとなった。かれらの耕地こうち農業のうぎょう集団しゅうだんコルホーズ)の過程かていげられ、金銭きんせんてき補償ほしょうあたえられなかった。とく自治じち共和きょうわこく主体しゅたい民族みんぞくではなかったギリシアじん資本しほん主義しゅぎ国家こっかであるギリシア関係かんけいふかい「はん革命かくめいてき民族みんぞくうたがわれ、ギリシア学校がっこう閉鎖へいさされて独自どくじ文化ぶんか抑圧よくあつされた[13]

この時期じき、クリミアは1921ねん、1932ねんホロドモール)と2深刻しんこく飢饉ききん見舞みまわれた[19]。1930年代ねんだいには、ソビエトの地域ちいき開発かいはつ計画けいかくもとづき、スラブけい人口じんこう大幅おおはば増加ぞうかがみられ、住民じゅうみん構成こうせい変化へんか地域ちいき民族みんぞくあいだバランスを根本こんぽんてき変容へんようさせた。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんにおいて、クリミアはどくせん激戦げきせんひとつとなった。ひがしヨーロッパのスラブじん駆逐くちくし、ドイツじん植民しょくみんするという東部とうぶ総合そうごう計画けいかくもとづき、ナチス・ドイツ東方とうほう生存せいぞんけん一部いちぶとしてクリミア半島くりみあはんとう征服せいふく植民しょくみんしようとしていた。1941ねんなつ、クリミア占領せんりょうめいじられたドイツだい11ぐんクリミア半島くりみあはんとうソ連それん本土ほんどむすペレコープ地峡ちきょうせまり、多大ただい犠牲ぎせいした。地峡ちきょう突破とっぱしたドイツぐん半島はんとうのほぼ全域ぜんいき制圧せいあつし(トラッペンヤクト作戦さくせん)、セヴァストポリをのこすのみとなった。赤軍せきぐん戦死せんしまたは捕虜ほりょとなった17まんにん兵員へいいんうしない、3軍団ぐんだんだい44、47、51ぐん)、21個いっこ師団しだん壊滅かいめつした[20]

クリミアでおこなわれたヤルタ会談かいだんひだりから、ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズベルトヨシフ・スターリン

セヴァストポリ包囲ほういせんは1941ねん10がつはじまり、1942ねん7がつ3にち陥落かんらくした。この激戦げきせんにより、セヴァストポリは戦後せんご英雄えいゆう都市とし称号しょうごうおくられる。クリミア全域ぜんいき支配しはいしたドイツは1942ねん9がつ1にちにクリミア行政ぎょうせい地区ちく設置せっち地区ちく行政ぎょうせい委員いいんアルフレート・エドゥアルト・フラウエンフェルト任命にんめいしてウクライナの国家こっか弁務べんむかんしたにおいた。クリミアにはアインザッツグルッペン派兵はへいされ、おおくのユダヤじん虐殺ぎゃくさつした。とくクリムチャクじん人口じんこうの75%がころされた。

ナチス・ドイツの強力きょうりょく戦略せんりゃくルーマニアぐんイタリアぐんによる支援しえんにもかかわらず、クリミアの山間さんかんには地元じもとレジスタンス(パルチザン)がこめ要害ようがいが、半島はんとう解放かいほうされるまで占領せんりょうのまま抵抗ていこうつづけた。1944ねん赤軍せきぐんはペレコープ地峡ちきょう封鎖ふうさ、クリミア攻略こうりゃく開始かいしし、クリミアのドイツぐん敗北はいぼくしてセヴァストポリまでソ連それん奪還だっかんされた。かつて「ロシアの栄光えいこう」とばれ美観びかんほこったセヴァストポリは完全かんぜん破壊はかいされ、基礎きそから再建さいけんされなければならなかった。

どくせん末期まっきの1945ねん2がつには、だい世界せかい大戦たいせん戦後せんご処理しょり決定けっていしたヤルタ会談かいだんクリミア半島くりみあはんとうヤルタ開催かいさいされた。

クリミア・タタールじん追放ついほう[編集へんしゅう]

クリミア解放かいほう直後ちょくごの1944ねん5がつ18にち、スターリンのソ連それん政府せいふはクリミア・タタールじん全員ぜんいん中央ちゅうおうアジアへと強制きょうせい移住いじゅうした。追放ついほうは、ナチス・ドイツの占領せんりょうぐん協力きょうりょくしたものがいたことを理由りゆう民族みんぞくぐるみの制裁せいさいとしておこなわれ[11]:483移住いじゅう過程かていでタタールじんのおよそ半数はんすうたる10まんにんえと病気びょうきいのちとしたといわれる[18]:185。さらに同年どうねん6がつ26にちにはアルメニアじんブルガリアじんギリシアじん同様どうよう中央ちゅうおうアジアへ追放ついほうされた。どくせん初期しょきにすでに追放ついほうされていたクリミア・ドイツじん英語えいごばんふくめて、1944ねんなつまでにクリミアにおける民族みんぞく浄化じょうか完遂かんすいされた。スターリン死後しごかれらの帰還きかんみとめられず、1967ねん民族みんぞく権利けんり回復かいふくされ少数しょうすう家族かぞくがクリミアにもどることをゆるされたものの、本格ほんかくてき帰還きかんソ連それん末期まっきまで法的ほうてき禁止きんしされていた[18]:189。1945ねん6がつ30にち、クリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく廃止はいしされ、クリミアしゅうわりに設置せっちされた。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1954ねん2がつ19にちソビエト連邦れんぽう最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかいはクリミアしゅうをロシアからウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく移管いかんする決定けっていくだした(この決定けってい指導しどうしたのはウクライナ出身しゅっしんニキータ・フルシチョフである)。この決定けっていは「クリミア地域ちいきとウクライナが経済けいざい共通きょうつうせい近接きんせつせいおよび密接みっせつ経済けいざい文化ぶんかてき関係かんけい」をゆうすることが理由りゆうとされた[21]

戦後せんごのクリミアは、あらたに旅行りょこうしゃけのアトラクションや保養ほようしょ開発かいはつされ、観光かんこうとしてさかえた。旅行りょこうしゃソ連それん全域ぜんいき周辺しゅうへん諸国しょこく一部いちぶひがしドイツからもおとずれた[13]。またこの時代じだいには、クリミア半島くりみあはんとうはギリシャやトルコからのクルージング主要しゅよう目的もくてきにもなった。インフラと工場こうじょう開発かいはつされ、ケルチやセヴァストポリのみなと周囲しゅうい内陸ないりく州都しゅうとシンフェロポリとく発展はってんした。ロシアじんウクライナじんからなる人口じんこう倍増ばいぞうし、1989ねんには160まんにんのロシアじんと62まん6000にんのウクライナじん半島はんとう居住きょじゅうしていた[13]

ソ連それん崩壊ほうかいとウクライナの独立どくりつ(1991ねん[編集へんしゅう]

ペレストロイカ開始かいしながらく中央ちゅうおうアジアでつづいてきたクリミア・タタールじん帰還きかん運動うんどう問題もんだいとなった。ソ連それん中央ちゅうおう政府せいふはこの問題もんだい検討けんとうするために発足ほっそくさせた委員いいんかいにおいて、タタールじんのための自治じち共和きょうわこく再興さいこうする要求ようきゅうを1988ねん却下きゃっかしたが[18]:198、1991ねん1がつ20日はつかにクリミアしゅう住民じゅうみんによる住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしされ、2がつ12にちにウクライナ議会ぎかいによってクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく再建さいけんされた[22]

1991ねん8がつ19にちソ連それん8がつクーデター発生はっせいし、クリミア半島くりみあはんとうフォロス英語えいごばん別荘べっそう休暇きゅうかちゅうだったミハイル・ゴルバチョフ大統領だいとうりょう軟禁なんきんされた。クーデターとその失敗しっぱいによりソ連それん崩壊ほうかいはやまり、8がつ24にちにウクライナ議会ぎかい独立どくりつ宣言せんげん採択さいたくした。12月1にち、ウクライナの完全かんぜん独立どくりつ是非ぜひ住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれ、ロシアけい住民じゅうみん過半数かはんすうめるクリミアでも有効ゆうこう投票とうひょう過半数かはんすうとなる54%が賛成さんせいひょうとうじた[8]:251。12月25にちにゴルバチョフは大統領だいとうりょう辞任じにんし、クリミアは完全かんぜん独立どくりつしたウクライナ一部いちぶとなった。

クリミア自治じち共和きょうわこく(1992ねん-)[編集へんしゅう]

独立どくりつしたウクライナはクリミアに自治じち共和きょうわこく復活ふっかつさせ、クリミア・タタールじん帰還きかん許可きょかされ、クリミアのぜん人口じんこうやく1わりめるまでになった。帝政ていせい以来いらい多数たすうであるロシアじんなかにはクリミアがウクライナりょうになったことに不満ふまんち、ロシア連邦れんぽう帰属きぞくすることをもとめるものたちもはじめた。

1992ねん5がつ5にち、クリミア議会ぎかいはウクライナからの独立どくりつ決議けつぎし、クリミア共和きょうわこく宣言せんげんした。ウクライナ議会ぎかいは5月15にち独立どくりつ無効むこう決議けつぎしたが、黒海こっかい艦隊かんたい基地きちとして戦略せんりゃくてき重要じゅうようなクリミアへの関心かんしんつロシアは独立どくりつうごきを支持しじし、5月21にちにクリミアのウクライナ移管いかんさだめた1954ねん決定けってい違法いほうとする議会ぎかい決議けつぎおこなった。しかし、ロシアで独立どくりつ宣言せんげんしていたチェチェン共和国ちぇちぇんきょうわこくたいし、1994ねんにロシアが武力ぶりょく鎮圧ちんあつ開始かいしすると、一方いっぽう自国じこくからのチェチェンの独立どくりつ禁圧きんあつしながらウクライナからのクリミアの独立どくりつ支持しじするのは自己じこ矛盾むじゅんであるとの国際こくさいてき批判ひはんたかまり、ロシアはクリミア独立どくりつ運動うんどうへの支援しえんりやめた[15]:415

その結果けっか、クリミアないでの独立どくりつ運動うんどううしたてうしなって急速きゅうそく沈静ちんせいし、またウクライナがわでもロシアに敵対てきたいてき民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとう活動かつどうやわらいだため、クリミア議会ぎかいもウクライナ共和きょうわ国内こくない自治じち共和きょうわこくであることをみとめるようになった。クリミアの自治じちけんは1996ねん制定せいていされたウクライナの現行げんこう憲法けんぽうさい確認かくにんされ、クリミア自治じち共和きょうわこく設置せっち規定きていされたが、同時どうじクリミア半島くりみあはんとうは「ウクライナの不可分ふかぶん構成こうせい部分ぶぶん」とされ、自治じち共和きょうわこく離脱りだつけん否定ひていされた[23]。1998ねんにウクライナ憲法けんぽうわくないクリミア自治じち共和きょうわこく憲法けんぽうロシアばん制定せいていされた。

ロシアによるクリミア併合へいごう宣言せんげん(2014ねん[編集へんしゅう]

2014ねんキエフにおける騒乱そうらんロシアのクリミア侵攻しんこうて、クリミアの帰属きぞく問題もんだい再燃さいねんした。

ロシアとおやロシア半島はんとう掌握しょうあくするなか、3月11にち、クリミア自治じち共和きょうわこく最高さいこう会議かいぎ議会ぎかい)とセヴァストポリ特別とくべつ評議ひょうぎかい市議会しぎかい)は、クリミアおよびセヴァストポリ独立どくりつ宣言せんげん採択さいたくし、ウクライナからの一方いっぽうてき独立どくりつもとめた[24][25]。16にちにロシアとおやロシア監視かんしのもと実施じっしされた住民じゅうみん投票とうひょうではロシア編入へんにゅう多数たすうとなり、よく17にちにクリミア自治じち共和きょうわこくがセヴァストポリを特別とくべつ地位ちいゆうする都市としとして包括ほうかつしたクリミア共和きょうわこくとして独立どくりつし、ロシアへの編入へんにゅうもとめる決議けつぎ議会ぎかいおこなった。よく3がつ18にちロシア連邦れんぽう大統領だいとうりょうウラジーミル・プーチン演説えんぜつクリミア併合へいごう宣言せんげん直後ちょくごにクリミア・セヴァストポリの代表だいひょうとの編入へんにゅう条約じょうやく[26]署名しょめいした。

ウクライナは、クリミア自治じち共和きょうわこくとセヴァストポリ特別とくべつはロシアの占領せんりょうにあるという立場たちばる。また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく欧州おうしゅう連合れんごう日本国にっぽんこく政府せいふをはじめ、国際こくさい社会しゃかい多数たすうが、住民じゅうみん投票とうひょうがウクライナの国内こくないほう違反いはん非合法ひごうほうなものであるとし[27][28][29]、ロシアとその友好国ゆうこうこくのぞき、クリミアの編入へんにゅう国際こくさい社会しゃかい承認しょうにんていない。

ロシア実効じっこう支配しはいのクリミア[編集へんしゅう]

ロシア連邦れんぽう政府せいふ実効じっこう支配しはいしたいたクリミアで軍事ぐんじ施設しせつ再開さいかい増設ぞうせつするとともに、クリミア・タタールじんらを弾圧だんあつした[1]

ロシア連邦れんぽう政府せいふはクリミアの東側ひがしがわにあるケルチ海峡かいきょうクリミア大橋おおはしをかけてロシアとのひと物資ぶっし往来おうらいをしやすくした。だがウクライナ本土ほんどたれたクリミアでの民生みんせいには支障ししょうており、きたクリミア運河うんが経由けいゆしてウクライナ本土ほんどから供給きょうきゅうされていたみず不足ふそくして[30]地下水ちかすい過剰かじょうげによる塩害えんがい発生はっせいしている[1]。また軍用ぐんよう道路どうろ住宅じゅうたく建設けんせつのため、かつての自然しぜん保護ほご区域くいき開発かいはつ対象たいしょうになっている[1]

ウクライナ侵攻しんこうとクリミア[編集へんしゅう]

2022ねんロシアによるウクライナ侵攻しんこうで、ロシア連邦れんぽうぐんがクリミアからウクライナ本土ほんど南部なんぶ攻撃こうげき進軍しんぐんしている。その過程かていで、ウクライナ東部とうぶのロシアがわ支配しはい地域ちいきとクリミアをつなぐ、アゾフうみ北岸ほくがん回廊かいろう確保かくほしたと主張しゅちょうしている[31]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d しいたげられたクリミア/プーチン戦争せんそう志向しこう 先住民せんじゅうみんぞく指導しどうしゃ貴重きちょう自然しぜん破壊はかい毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん2022ねん4がつ5にち国際こくさいめん同日どうじつ閲覧えつらん
  2. ^ Trinkaus, Erik; Blaine Maley and Alexandra P. Buzhilova (2008). “Brief Communication: Paleopathology of the Kiik-Koba 1 Neandertal”. American Journal of Physical Anthropology 137: 106–112. doi:10.1002/ajpa.20833. 
  3. ^ Hardy, Bruce; Marvin Kay, Anthony E. Marks, and Katherine Monigal (2001). “Stone tool function at the paleolithic sites of Starosele and Buran Kaya III, Crimea: Behavioral implications”. PNAS 98 (19): 10972–10977. doi:10.1073/pnas.191384498. PMID 11535837. 
  4. ^ Prat, Sandrine; Péan, Stéphane C.; Crépin, Laurent; Drucker, Dorothée G.; Puaud, Simon J.; Valladas, Hélène; Lázničková-Galetová, Martina; van der Plicht, Johannes et al. (2011ねん6がつ17にち). “The Oldest Anatomically Modern Humans from Far Southeast Europe: Direct Dating, Culture and Behavior”. plosone. http://www.plosone.org/article/info:doi/10.1371/journal.pone.0020834 2011ねん6がつ21にち閲覧えつらん 
  5. ^ Carpenter, Jennifer (2011ねん6がつ20日はつか). “Early human fossils unearthed in Ukraine”. BBC. http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-13846262 2011ねん6がつ21にち閲覧えつらん 
  6. ^ Hoffecker, John F. (2002). Desolate Landscapes: Ice-Age Settlement in Eastern Europe. Rutgers University Press. ISBN 0813529921 
  7. ^ Motuzaite-Matuzeviciute, Giedre; Sergey Telizhenko and Martin K. Jones (2013). “The earliest evidence of domesticated wheat in the Crimea at Chalcolithic Ardych-Burun”. Journal of Field Archaeology 38 (2). doi:10.1179/0093469013Z.00000000042. 
  8. ^ a b c d e 黒川くろかわ祐次ゆうじ物語ものがたりウクライナの歴史れきし : ヨーロッパ最後さいご大国たいこく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2002ねんISBN 4-12-101655-6NCID BA58381220 
  9. ^ Wheelis M. (2002). “Biological warfare at the 1346 siege of Caffa.”. Emerg Infect Dis (Center for Disease Control). http://www.cdc.gov/ncidod/EID/vol8no9/01-0536.htm{{inconsistent citations}} 
  10. ^ The Tatar Khanate of Crimea
  11. ^ a b c d e f g h Subtelny, Orest (2000). Ukraine: A History. University of Toronto Press. ISBN 0-8020-8390-0 
  12. ^ Soldier Khan
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  15. ^ a b c 伊東いとう孝之たかゆき へん『ポーランド・ウクライナ・バルト井内いうち敏夫としお中井なかい和夫かずお へん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1998ねんISBN 978-4-634-41500-3NCID BA39089582 
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  18. ^ a b c d 山内やまうち昌之まさゆき瀕死ひんしのリヴァイアサン : ペレストロイカと民族みんぞく問題もんだい』TBSブリタニカ、1990ねんISBN 4-484-90202-8NCID BN04545756 
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  21. ^ The Transfer of Crimea to Ukraine”. International Committee for Crimea (2005ねん7がつ). 2007ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  22. ^ Первый советский плебисцит — всекрымский референдум 1991 года. Справка”. РИА Новости (2011ねん1がつ20日はつか). 2014ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  23. ^ Constitution of Ukraine, 1996”. 2014ねん3がつ12にち閲覧えつらん
  24. ^ Парламент Крыма принял Декларацию о независимости АРК и г. Севастополя”. Государственный Совет Республики Крым (2014ねん3がつ11にち). 2014ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  25. ^ 後日ごじつ、イーゴリ・ギルキン・ロシア連邦れんぽうぐん参謀さんぼう本部ほんぶ情報じょうほう総局そうきょく大佐たいさは、武力ぶりょくにより議員ぎいんてクリミアのウクライナからの分離ぶんり投票とうひょうさせたと発言はつげんしている。平成へいせい27ねん1がつ15にち
  26. ^ Договор между Российской Федерацией и Республикой Крым о принятии в Российскую Федерацию Республики Крым и образовании в составе Российской Федерации новых субъектов”. Президент России (2014ねん3がつ18にち). 2014ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  27. ^ BBC News - Crimea referendum: Voters 'back Russia union'
  28. ^ Crimeans vote over 90 percent to quit Ukraine for Russia | Reuters
  29. ^ Japan does not recognise Crimea vote - govt spokesman | Reuters
  30. ^ クリミア「みず危機ききつづ併合へいごうおも代償だいしょう 海底かいてい淡水たんすい探査たんさ着手ちゃくしゅ 産経新聞さんけいしんぶんニュース(2021ねん4がつ23にち配信はいしん)2022ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  31. ^ 「クリミアとウクライナ東部とうぶつなぐ陸路りくろ戦略せんりゃく回廊かいろう確保かくほ、ロシア主張しゅちょうCNN(2022ねん3がつ17にち配信はいしん)2022ねん4がつ5にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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史料しりょう