シャルル6せい (フランスおう)

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シャルル6せい
Charles VI
フランス国王こくおう
在位ざいい 1380ねん9月16にち - 1422ねん10月21にち
戴冠たいかんしき 1380ねん11月4にち

出生しゅっしょう 1368ねん12月3にち
フランス王国おうこくパリ
死去しきょ 1422ねん10がつ21にち
フランス王国おうこくパリ
埋葬まいそう フランス王国おうこくサン=ドニだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ イザボー・ド・バヴィエール
子女しじょ イザベル
ジャンヌ
ミシェル
ルイ
ジャン
カトリーヌ
シャルル7せい
家名かめい ヴァロワ
王朝おうちょう ヴァロワあさ
父親ちちおや シャルル5せい
母親ははおや ジャンヌ・ド・ブルボン
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シャルル6せい(Charles VI, 1368ねん12月3にち - 1422ねん10月21にち)は、フランスヴァロワあさだい4だい国王こくおう在位ざいい1380ねん - 1422ねん)。だい3だい国王こくおうシャルル5せい王妃おうひジャンヌ・ド・ブルボン長男ちょうなん親愛しんあいおう(le Bienaimé)、狂気きょうきおう(le Fol、あるいはle Fou)とばれた。1385ねんイザボー・ド・バヴィエール王妃おうひむかえている。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくい[編集へんしゅう]

シャルル6せい戴冠たいかんしき

1368ねん12月3にち、パリの王宮おうきゅうにあるサン・ポールかん英語えいごばんでシャルル6せいまれた。 ちちヴァロワシャルル5せいははジャンヌ・ド・ブルボンだった。シャルル6せいまれた時点じてんかれあにみな死亡しぼうしていたため、シャルルはドーファンとしてフランス王位おうい継承けいしょうする権利けんりった。

ちちシャルル5せい1380ねん9月16にち崩御ほうぎょすると、シャルルは王位おうい継承けいしょうし、11月4にちランス・ノートルダムだい聖堂せいどう戴冠たいかんしきおこなわれた[1]

摂政せっしょうによる後見こうけん[編集へんしゅう]

シャルル6せいは11さいでフランス王位おうい継承けいしょうし、21さいとき摂政せっしょうによる後見こうけんわらせて親政しんせい開始かいししたが、それまでのあいだはシャルルのおじたちがおう摂政せっしょうとして実権じっけんにぎつづけた。当時とうじ王族おうぞくは14さい成人せいじんするとされていたが、シャルル6せいがその年齢ねんれいむかえたのち摂政せっしょうによる統治とうちおこなわれ、1388ねんになるまでおうによる親政しんせい開始かいしされることはなかった[2]

シャルルの未成年みせいねんおう摂政せっしょうとしてフランスを支配しはいしたのは、ちちシャルル5せいおとうとであるブルゴーニュこうフィリップアンジューこうルイベリーこうジャンの3にんと、ははジャンヌ・ド・ブルボンあにであるブルボンこうルイだった。

アンジューこうルイは1382ねんよりナポリ王国おうこく王位おういをめぐるたたかいに参加さんかし、1384ねん死没しぼつした。ベリーこうジャンはラングドック支配しはい注力ちゅうりょくしており[3]政治せいじにはおおきな関心かんしんしめさなかった。ブルボンこうルイは精神せいしんてき不安定ふあんていであり、またフランス国王こくおうでもないため重要じゅうようされなかった。結果けっかとして、ブルゴーニュこうフィリップが摂政せっしょうなかでも圧倒的あっとうてきちからつこととなった。

シャルル6せいは1388ねん親政しんせい開始かいしし、摂政せっしょうによる支配しはいわらせた。シャルルは統治とうちおこなうにあたってちち(シャルル5せい)の有能ゆうのう顧問こもんだんであった「マルムゼ英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 1]復権ふっけんさせた[4]。こうして叔父おじたちとおざけられ、親政しんせい宣言せんげんおうとマルムゼの共謀きょうぼうとする見方みかたもある[5]

マルムゼによる補佐ほさした、シャルル6せい統治とうち国民こくみんからの尊敬そんけいあつめ、シャルルはひろく「親愛しんあいおう」のばれるようになった。

精神せいしん疾患しっかん発病はつびょう[編集へんしゅう]

シャルル6せいによる味方みかた襲撃しゅうげき(15世紀せいき

マルムゼのたすけをたシャルル6せい初期しょき名声めいせいは、おうが20だいなかばに精神病せいしんびょうガラス妄想もうそう)を発症はっしょうしたことですぐにうしなわれた。シャルルの精神病せいしんびょうははジャンヌ・ド・ブルボン血筋ちすじつうじて遺伝いでんした可能かのうせいがある[6]精神せいしん異常いじょうをきたして以降いこうのシャルルは、「親愛しんあいおう」にくわえて「狂気きょうきおう」のでもばれるようになった。

はじめてシャルル6せい狂気きょうき兆候ちょうこうあらわれたのは1392ねんだった。このとし友人ゆうじんであり助言じょげんしゃでもあったオリヴィエ・ド・クリッソン暗殺あんさつされかけたのをったシャルルは、実行じっこうはんのピエール・ド・クランをばっすることに執念しゅうねんやした。ド・クランがブルターニュ公国こうこくみ、ブルターニュこうジャン4せい身柄みがらわたしの要求ようきゅう拒否きょひすると、シャルルはブルターニュとの戦争せんそう準備じゅんびかった。

当時とうじ記録きろくによれば、シャルル6せいはブルターニュとの戦争せんそう計画けいかくするにあたって「病的びょうてき興奮こうふん」をしめしており、また支離滅裂しりめつれつ言葉ことばはっしていた。1392ねん7がつ1にち、シャルルは軍勢ぐんぜいれてブルターニュへと出発しゅっぱつした。行軍こうぐん速度そくどおそく、シャルルを苛立いらだたせた。

8がつのあるあつあさ行軍こうぐんちゅうのシャルル6せい護衛ごえい騎士きしたちはル・マン近郊きんこうもりとおりかかった。そのとき、ぼろをまつわった1人ひとり狂人きょうじんあらわれ、裸足はだしおううまって手綱たづなつかむと、「高貴こうきなるおうよ、これ以上いじょうすすんではならない……もどりなさい、あなたは裏切うらぎりにあっている」などとわめいた。護衛ごえいたちはこのおとこはらったが、逮捕たいほすることはなかった。おとこはその30ふんにわたっていちぎょうきまとい、かえしわめきつづけた[7]

正午しょうごいちぎょうもりけたのち小姓こしょう1人ひとりあやまってっていたおうやりとし、それがべつ小姓こしょうはこんでいたはがねのヘルメットにたっておおきなおとをたてた。そのおといたシャルルは身震みぶるいするとけんき、「裏切うらぎもの突撃とつげきせよ、やつらはわたしてきわたすつもりだ」などとさけぶと、うま拍車はくしゃをかけて自軍じぐん騎士きしおそいかかった。襲撃しゅうげきは、侍従じじゅう1人ひとり兵士へいしすうにんがシャルルをうまからきずりろし、地面じめんさえるまでのあいだつづいた。屈服くっぷくさせられたシャルルは微動びどうだにせず、なん反応はんのうせないまま昏睡こんすい状態じょうたいおちいった。おうによる襲撃しゅうげき結果けっか、「バスタール・ド・ポリニャック」としてられる騎士きしふくすうめい殺害さつがいされた[8]

この事件じけんのち、シャルル6せいはその生涯しょうがいにわたって精神せいしん異常いじょう発作ほっさかえすこととなった。1393ねんきた発作ほっさでは、シャルルは自分じぶん名前なまえおもせなくなり、自分じぶん国王こくおうであることも認識にんしきできなくなった。王妃おうひイザボー・ド・バヴィエール自分じぶん部屋へやおとずれたさいには、彼女かのじょ何者なにものであるかを召使めしつかいにたずねたうえ、「このもの」をはやかせるために必要ひつよう対処たいしょをするようめいじた[9]。1395ねん–1396ねんごろ発作ほっさでは、みずからがせいゲオルギオスであると主張しゅちょうしたほか、自分じぶんいえ紋章もんしょうけんからだつらぬかれたライオンであるなどとべた[10]。このとき、シャルルは宮廷きゅうてい官吏かんり全員ぜんいん認識にんしきすることができた一方いっぽうで、自分じぶんつま子供こどものことはおぼえていなかった。またあるときは、パリの王宮おうきゅう(サン・ポールかん)の廊下ろうか狂乱きょうらん状態じょうたいはしまわったため、おうさないようかん出入でいぐちかべふさがれた。1405ねんには、入浴にゅうよく着替きがえを5かげつにわたって拒否きょひつづけた[11]。シャルル6せい治世ちせいまれたピウス2せいのこした記述きじゅつによれば、シャルルはとき自分じぶんからだがガラスでできているとおもむことがあり、こわれやすいからだ保護ほごするため様々さまざま方法ほうほうためしていた。れいとして、ひととぶつかったさいからだ粉々こなごなにならないようてつぼうふくけていたという[12]。この症状しょうじょうはのちにガラス妄想もうそうとしてられるようになった。

えるひと舞踏ぶとうかい[編集へんしゅう]

えるひと舞踏ぶとうかいミニアチュール

1393ねん1がつ29にち、ある女官にょかん結婚けっこんいわうため、王妃おうひイザボーはサン・ポールかん仮装かそう舞踏ぶとうかい開催かいさいした。ユゲ・ド・ギゼという貴族きぞく提案ていあんにより、この舞踏ぶとうかいでシャルル6せいの4にん貴族きぞくたち[13]ともに「もり野蛮やばんじん」に仮装かそうしてダンスを披露ひろうすることとなった。野蛮やばんじんのコスチュームは松脂まつやにませたリネンにあさけたもので、シャルルたちおどしゅ全身ぜんしんがけむくじゃらにえるようにしたものだった[14]

おどしゅ1人ひとりであるイヴァン・ド・フォワのすすめにより、おう松明たいまつったものたいして「野蛮やばんじんのダンス」には近寄ちかよらず部屋へやはしつことを事前じぜんめいじていたが、会場かいじょうおくれておうおとうとオルレアンこうルイがそれにはんして松明たいまつおどしゅ1人ひとりちかづけたため、あやまってそのコスチュームにをつけてしまった。またたひろがり、会場かいじょうはパニックにおちいったが、ベリーおおやけジャンヌ2せいはとっさにみずからのガウンのトレーンをシャルルにかぶせ、からおうまもった[15]すうにん騎士きしほのおそうとしておも火傷かしょうった。野蛮やばんじん仮装かそうしたもののうち、ヴァレンティノワはく息子むすこエメリー・ド・ポワティエ、ユゲ・ド・ギゼ、イヴァン・ド・フォワ、ジョワニーはくの4にん火傷かしょうによって死亡しぼうした。ナンテュイエはく息子むすこジャンはあらすいはいったおけむことで一命いちめいをとりとめた[16]

ブルゴーニュとアルマニャック対立たいりつ[編集へんしゅう]

シャルル6せいは、精神せいしん疾患しっかんのため1400ねんごろまでに統治とうち不可能ふかのう状態じょうたいとなった[17]。その結果けっか王妃おうひイザボーにちか豪胆ごうたんこう息子むすこジャン1せいこわおおやけ)を中心ちゅうしんとするブルゴーニュと、おうおとうとオルレアンこう息子むすこシャルル・ド・ヴァロワ中心ちゅうしんとしシャルル6せい支持しじするアルマニャック宮廷きゅうてい内部ないぶ分裂ぶんれつし、主導しゅどうけんめぐってあらそうことになった。

ブルゴーニュアルマニャック系図けいず


ジャン2せい善良ぜんりょうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5せい賢明けんめいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
ベリーこう
ジャン1せい
 
 
 
 
 
ブルゴーニュこう
フィリップ2せい豪胆ごうたんこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6せい狂気きょうきおう
 
イザボー
 
オルレアンこう
ルイ
ボンヌ
 
(アルマニャックはく
ベルナール7せい
 
ジャン1せいこわおおやけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7せい勝利しょうりおう
 
 
 
シャルル
 
 
ボンヌ
 
 
 
フィリップ3せい善良ぜんりょうこう
 
 

1407ねん11月23にち、ブルゴーニュオルレアンこうルイ1せい暗殺あんさつ英語えいごばん実行じっこうする。しかし翌年よくねん3がつ宣伝せんでん工作こうさくけたジャンこわおおやけたいし、シャルル6せい赦免しゃめんあたえた[18]

アジャンクールのたたか(1422ねんごろ

このようなフランスの状勢じょうせいて、イングランドおうヘンリー5せいは、アルマニャック支援しえんしながらそのうらでブルゴーニュ提携ていけいするなど、両派りょうはあらそいにたくみに介入かいにゅうした。そして1415ねん、ヘンリー5せいはシャルル6せいたいし、支援しえん見返みかえりとしてフランス王位おうい継承けいしょうけん譲渡じょうととフランス領土りょうど割譲かつじょう、さらに多額たがく賠償金ばいしょうきん要求ようきゅうした。あまりのことにアルマニャックがこれを拒絶きょぜつすると、ヘンリー5せいはすかさずイングランドぐんひきいてフランス北部ほくぶ侵攻しんこうする。ヘンリー5せいいきおいはすさまじくフランスぐん各地かくち連戦れんせん連敗れんぱい10月25にちアジャンクールのたたか大敗たいはいしたアルマニャックはオルレアンおおやけらが捕虜ほりょとなるだい打撃だげきけた。

そのあいだおう太子たいしルイ1415ねんに、ルイにわるおう太子たいしジャン1417ねんに、と2人ふたり嗣子しし相次あいついでぼっするなどの不幸ふこうもあった。さらに1418ねん5月、ブルゴーニュがパリにいり暴動ぼうどうこし[19]、アルマニャック領袖りょうしゅうであるアルマニャックはくベルナール7せい殺害さつがいされる。ブルゴーニュ王妃おうひイザボートロワようし、王妃おうひ公然こうぜん協力きょうりょくした[20]一方いっぽうのアルマニャックしんおう太子たいしシャルル(シャルル7せい)をようした。

両派りょうは対立たいりつにより、たいイングランドせん戦況せんきょう不利ふりとなったため、たいえい共闘きょうとうのため和睦わぼく模索もさくされるようになった。1419ねんモントローフランス語ふらんすごばん交渉こうしょうおこなわれたが、同年どうねん9がつ10日とおか、シャルルおう太子たいし側近そっきんが12ねんまえのオルレアンおおやけ暗殺あんさつ報復ほうふくとしてブルゴーニュこうジャン1せい暗殺あんさつ英語えいごばん実行じっこうした[21]

この事件じけんにより両派りょうは対立たいりつ決定的けっていてきとなり、次代じだいのブルゴーニュこうフィリップ3せい善良ぜんりょうこう)はイングランドと同盟どうめいしておう太子たいしシャルルと全面ぜんめんてき対立たいりつし、1420ねん4がつトロワ条約わじょうやくむすんでヘンリー5せいのフランス王位おうい継承けいしょう支持しじした。

これにより、ヘンリー5せいとシャルル6せいむすめカトリーヌ(キャサリン)との結婚けっこん[注釈ちゅうしゃく 2]と、シャルル6せい死後しごおう太子たいしシャルルではなくヘンリー5せいがフランス王位おうい継承けいしょうすることなどがさだめられた。ヘンリー5せい現実げんじつ王位おうい継承けいしょうすることなく1422ねん8がつぼっしたが、シャルル6せい同年どうねん10がつ21にち、ヘンリー5せいのちうように病死びょうしした。

シャルル6せい治世ちせいは42ねんちょうきにわたったが、精神せいしん疾患しっかんによってその治世ちせいのほとんどは家臣かしんだんやイングランドに左右さゆうされる時代じだいとなった。

子女しじょ[編集へんしゅう]

つまイザボーとのあいだに12にん子女しじょをもうけた。

また、庶出しょしゅつむすめ1人ひとりられている。

  • マルグリット(1407ねん - 1458ねんオデット・ド・シャンディベール所生しょせい) - 1428ねん、ベルヴィル領主りょうしゅジャン3せい・ド・アルプダンヌと結婚けっこん

系譜けいふ[編集へんしゅう]

シャルル6せい ちち:
シャルル5せい (フランスおう)
祖父そふ:
ジャン2せい (フランスおう)
祖父そふ:
フィリップ6せい (フランスおう)[1]
祖母そぼ:
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
祖母そぼ:
ボンヌ
祖父そふ:
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
祖母そぼ:
ボヘミア王女おうじょエリシュカ
はは:
ジャンヌ・ド・ブルボン
祖父そふ:
ピエール1せい (ブルボンおおやけ)
祖父そふ:
ルイ1せい (ブルボンおおやけ)
祖母そぼ:
マリー・ダヴェーヌ
祖母そぼ:
イザベル
祖父そふ:
シャルル (ヴァロワはく)[2]
祖母そぼ:
マオー・ド・シャティヨン
  1. [2]とマルグリット・ダンジュー長男ちょうなん
  2. フランスおうフィリップ3せい最初さいしょイザベル・ダラゴン息子むすこフィリップ4せいおとうと。ヴァロワであり、[1]のちち

系図けいず[編集へんしゅう]




フィリップ6せい幸運こううんおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン2せい善良ぜんりょうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5せい賢明けんめいおう
 
 
 
ブルゴーニュこう
フィリップ2せい豪胆ごうたんこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6せい狂気きょうきおうオルレアンこう
ルイ
ヴァロワ=ブルゴーニュ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7せい勝利しょうりおうシャルルアングレームはく
ジャン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ11せい慎重しんちょうおうルイ12せいシャルル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル8せい温厚おんこうおう
 
 
 
フランソワ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マルグリット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンリ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランソワ2せいシャルル9せいアンリ3せいマルグリット
 
ブルボンあさ
アンリ4せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


シャルル6せいのタロット[編集へんしゅう]

1392ねん精神せいしん不安定ふあんていなシャルル6せいなぐさめるため、「シャルル6せいのタロット」とよばれるデッキが作成さくせいされた。「フランス国王こくおうシャルル6せい会計かいけいちょうにある「金色きんいろ様々さまざまいろえがかれた56まい遊技ゆうぎさつ」の記述きじゅつによれば、3デッキ作成さくせい代金だいきんとして、1392ねん画家がかジャクマン・グランゴヌール(Jacquemin Gringonneur)に、6まいのペルシャ硬貨こうか支払しはらったとある。パリ国立こくりつ図書館としょかん所蔵しょぞうされたタロットが、その「シャルル6せいのタロット」とばれ、現存げんそんする最古さいこのタロットカードであるとされていた。しかし現在げんざいでは、このタロットは、推定すいていで1469ねんから1471ねんごろエステのボルソ・デステ(Borso d'Este)公爵こうしゃくのために作成さくせいされたものだという学説がくせつ有力ゆうりょくとなっている[22]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ しょう怪物かいぶつ、グロテスクなかお小人こども意味いみする蔑称べっしょう
  2. ^ ヘンリー5せい侵攻しんこうからキャサリンとの結婚けっこんは、シェイクスピアの『ヘンリーせい』にもえがかれている。当該とうがい項目こうもく参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Jonathan Sumption, The Hundred Years War: Divided Houses, Vol. III, (University of Pennsylvania Press, 2009), 397.
  2. ^ Jonathan Sumption, The Hundred Years War: Divided Houses, Vol. III, 665-666.
  3. ^ Vaughan, 40-41
  4. ^ Vaughn, 42.
  5. ^ カルメット 2023, p. 121.
  6. ^ Alger, Sarah (2001). The Politics of Madness: Government in the Reigns of Charles VI and Henry V. pp. 24. http://eprints.utas.edu.au/11741/2/alger_whole_thesis.pdf 
  7. ^ W.H. Jervis, A History of France: from the Earliest Times to the Fall of the Second Empire in 1870, (London: John Murray, 1884), 228, §5; Jean Juvenal des Ursins, Histoire de Charles VI, Roy de France, (Paris: A. Desrez, 1841), 377; Michaud, J.F and L.G., Biographie universelle, ancienne et moderne, 85 vols., (Paris: L.G. Michaud, 1813), 8:114 sub Charles VI.
  8. ^ M. Guizot, The History of France from the Earliest Times to the Year 1789, Vol. 2, transl. Robert Black, (P.F. Collier & son, 1902), 189.
  9. ^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420, New York, 1986, p. 4, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 86–88.
  10. ^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420, New York, 1986, p. 5, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 404–05.
  11. ^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420, New York, 1986, p. 6, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, III, p. 348
  12. ^ Enea Silvio Piccolomini (Papa Pio II), I Commentarii, ed. L. Totaro, Milano, 1984, I, p. 1056.
  13. ^ Froissart's Chronicles, ed. T. Johnes, II (1855), p.550
  14. ^ Barbara Tuchman, A Distant Mirror, 1978, Alfred A Knopf Ltd. See the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 64–71, where the squire's name is given correctly as de Guisay.
  15. ^ Froissart's Chronicles, ed. T. Johnes, II (1855), pp.550-2
  16. ^ Froissart's Chronicles, ed. T. Johnes, II (1855), p.550. Note that Froissart and the Religieux de Saint-Denis differ as to when the four men died. Huguet de Guisay had held the office of cupbearer of the king.
  17. ^ 佐藤さとう 2003, pp. 124–125.
  18. ^ カルメット 2023, p. 181.
  19. ^ カルメット 2023, p. 241.
  20. ^ カルメット 2023, p. 239.
  21. ^ 佐藤さとう 2003, p. 131.
  22. ^ パリ国立こくりつ図書館としょかんHPより「シャルル6せいのタロット」一覧いちらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • カルメット, ジョゼフ ちょ田辺たなべたもつ わけ国書刊行会こくしょかんこうかい、2000ねん5がつ1にちISBN 978-4-3360-4239-2 
  • 佐藤さとう, 賢一けんいちえいふつひゃくねん戦争せんそう集英社しゅうえいしゃ集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ〉、2003ねん11月14にちISBN 978-4087202168 


先代せんだい
シャルル5せい
フランス国王こくおう
1380ねん - 1422ねん
次代じだい
シャルル7せい