シャルル6世 せい (Charles VI, 1368年 ねん 12月3日 にち - 1422年 ねん 10月21日 にち )は、フランス ・ヴァロワ朝 あさ の第 だい 4代 だい 国王 こくおう (在位 ざいい :1380年 ねん - 1422年 ねん )。第 だい 3代 だい 国王 こくおう シャルル5世 せい と王妃 おうひ ジャンヌ・ド・ブルボン の長男 ちょうなん 。親愛 しんあい 王 おう (le Bienaimé)、狂気 きょうき 王 おう (le Fol、あるいはle Fou)と呼 よ ばれた。1385年 ねん にイザボー・ド・バヴィエール を王妃 おうひ に迎 むか えている。
シャルル6世 せい の戴冠 たいかん 式 しき
1368年 ねん 12月3日 にち 、パリの王宮 おうきゅう にあるサン・ポール館 かん (英語 えいご 版 ばん ) でシャルル6世 せい は生 う まれた。 父 ちち はヴァロワ家 か のシャルル5世 せい 、母 はは はジャンヌ・ド・ブルボン だった。シャルル6世 せい が生 う まれた時点 じてん で彼 かれ の兄 あに は皆 みな 死亡 しぼう していたため、シャルルはドーファン としてフランス王位 おうい を継承 けいしょう する権利 けんり を持 も った。
父 ちち シャルル5世 せい が1380年 ねん 9月16日 にち に崩御 ほうぎょ すると、シャルルは王位 おうい を継承 けいしょう し、11月4日 にち にランス・ノートルダム大 だい 聖堂 せいどう で戴冠 たいかん 式 しき が行 おこな われた[1] 。
摂政 せっしょう による後見 こうけん [ 編集 へんしゅう ]
シャルル6世 せい は11歳 さい でフランス王位 おうい を継承 けいしょう し、21歳 さい の時 とき に摂政 せっしょう による後見 こうけん を終 お わらせて親政 しんせい を開始 かいし したが、それまでの間 あいだ はシャルルのおじ たちが王 おう の摂政 せっしょう として実権 じっけん を握 にぎ り続 つづ けた。当時 とうじ 、王族 おうぞく は14歳 さい で成人 せいじん するとされていたが、シャルル6世 せい がその年齢 ねんれい を迎 むか えた後 のち も摂政 せっしょう による統治 とうち が行 おこな われ、1388年 ねん になるまで王 おう による親政 しんせい が開始 かいし されることはなかった[2] 。
シャルルの未成年 みせいねん 期 き に王 おう の摂政 せっしょう としてフランスを支配 しはい したのは、父 ちち シャルル5世 せい の弟 おとうと であるブルゴーニュ公 こう フィリップ 、アンジュー公 こう ルイ 、ベリー公 こう ジャン の3人 にん と、母 はは ジャンヌ・ド・ブルボン の兄 あに であるブルボン公 こう ルイ だった。
アンジュー公 こう ルイは1382年 ねん よりナポリ王国 おうこく 王位 おうい をめぐる戦 たたか いに参加 さんか し、1384年 ねん に死没 しぼつ した。ベリー公 こう ジャンはラングドック の支配 しはい に注力 ちゅうりょく しており[3] 、政治 せいじ には大 おお きな関心 かんしん を示 しめ さなかった。ブルボン公 こう ルイは精神 せいしん 的 てき に不安定 ふあんてい であり、またフランス国王 こくおう の子 こ でもないため重要 じゅうよう 視 し されなかった。結果 けっか として、ブルゴーニュ公 こう フィリップが摂政 せっしょう の中 なか でも圧倒的 あっとうてき な力 ちから を持 も つこととなった。
シャルル6世 せい は1388年 ねん に親政 しんせい を開始 かいし し、摂政 せっしょう による支配 しはい を終 お わらせた。シャルルは統治 とうち を行 おこな うにあたって父 ちち (シャルル5世 せい )の有能 ゆうのう な顧問 こもん 団 だん であった「マルムゼ (英語 えいご 版 ばん ) 」[注釈 ちゅうしゃく 1] を復権 ふっけん させた[4] 。こうして叔父 おじ 達 たち は遠 とお ざけられ、親政 しんせい 宣言 せんげん を王 おう とマルムゼの共謀 きょうぼう とする見方 みかた もある。
マルムゼによる補佐 ほさ の下 した 、シャルル6世 せい の統治 とうち は国民 こくみん からの尊敬 そんけい を集 あつ め、シャルルは広 ひろ く「親愛 しんあい 王 おう 」の名 な で呼 よ ばれるようになった。
精神 せいしん 疾患 しっかん の発病 はつびょう [ 編集 へんしゅう ]
シャルル6世 せい による味方 みかた の襲撃 しゅうげき (15世紀 せいき 画 が )
マルムゼの助 たす けを得 え たシャルル6世 せい の初期 しょき の名声 めいせい は、王 おう が20代 だい 半 なか ばに精神病 せいしんびょう (ガラス妄想 もうそう )を発症 はっしょう したことですぐに失 うしな われた。シャルルの精神病 せいしんびょう は母 はは ジャンヌ・ド・ブルボン の血筋 ちすじ を通 つう じて遺伝 いでん した可能 かのう 性 せい がある[6] 。精神 せいしん に異常 いじょう をきたして以降 いこう のシャルルは、「親愛 しんあい 王 おう 」に加 くわ えて「狂気 きょうき 王 おう 」の名 な でも呼 よ ばれるようになった。
初 はじ めてシャルル6世 せい に狂気 きょうき の兆候 ちょうこう が現 あらわ れたのは1392年 ねん だった。この年 とし 、友人 ゆうじん であり助言 じょげん 者 しゃ でもあったオリヴィエ・ド・クリッソン が暗殺 あんさつ されかけたのを知 し ったシャルルは、実行 じっこう 犯 はん のピエール・ド・クランを罰 ばっ することに執念 しゅうねん を燃 も やした。ド・クランがブルターニュ公国 こうこく に逃 に げ込 こ み、ブルターニュ公 こう ジャン4世 せい が身柄 みがら 引 ひ き渡 わた しの要求 ようきゅう を拒否 きょひ すると、シャルルはブルターニュとの戦争 せんそう の準備 じゅんび に取 と り掛 か かった。
当時 とうじ の記録 きろく によれば、シャルル6世 せい はブルターニュとの戦争 せんそう を計画 けいかく するにあたって「病的 びょうてき な興奮 こうふん 」を示 しめ しており、また支離滅裂 しりめつれつ な言葉 ことば を発 はっ していた。1392年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、シャルルは軍勢 ぐんぜい を引 ひ き連 つ れてブルターニュへと出発 しゅっぱつ した。行軍 こうぐん の速度 そくど は遅 おそ く、シャルルを苛立 いらだ たせた。
8月 がつ のある暑 あつ い日 ひ の朝 あさ 、行軍 こうぐん 中 ちゅう のシャルル6世 せい と護衛 ごえい の騎士 きし たちはル・マン 近郊 きんこう の森 もり を通 とお りかかった。その時 とき 、ぼろを纏 まつわ った1人 ひとり の狂人 きょうじん が現 あらわ れ、裸足 はだし で王 おう の馬 うま に駆 か け寄 よ って手綱 たづな を掴 つか むと、「高貴 こうき なる王 おう よ、これ以上 いじょう 進 すす んではならない……戻 もど りなさい、あなたは裏切 うらぎ りにあっている」などとわめいた。護衛 ごえい たちはこの男 おとこ を追 お い払 はら ったが、逮捕 たいほ することはなかった。男 おとこ はその後 ご 30分 ふん にわたって一 いち 行 ぎょう に付 つ きまとい、繰 く り返 かえ しわめき続 つづ けた[7] 。
正午 しょうご に一 いち 行 ぎょう が森 もり を抜 ぬ けた後 のち 、小姓 こしょう の1人 ひとり が誤 あやま って手 て に持 も っていた王 おう の槍 やり を落 お とし、それが別 べつ の小姓 こしょう が運 はこ んでいた鋼 はがね のヘルメットに当 あ たって大 おお きな音 おと をたてた。その音 おと を聞 き いたシャルルは身震 みぶる いすると剣 けん を抜 ぬ き、「裏切 うらぎ り者 もの に突撃 とつげき せよ、奴 やつ らは私 わたし を敵 てき に引 ひ き渡 わた すつもりだ」などと叫 さけ ぶと、馬 うま に拍車 はくしゃ をかけて自軍 じぐん の騎士 きし に襲 おそ いかかった。襲撃 しゅうげき は、侍従 じじゅう の1人 ひとり と兵士 へいし 数 すう 人 にん がシャルルを馬 うま から引 ひ きずり下 お ろし、地面 じめん に取 と り押 お さえるまでの間 あいだ 続 つづ いた。屈服 くっぷく させられたシャルルは微動 びどう だにせず、何 なん の反応 はんのう も見 み せないまま昏睡 こんすい 状態 じょうたい に陥 おちい った。王 おう による襲撃 しゅうげき の結果 けっか 、「バスタール・ド・ポリニャック」として知 し られる騎士 きし を含 ふく む数 すう 名 めい が殺害 さつがい された[8] 。
この事件 じけん の後 のち 、シャルル6世 せい はその生涯 しょうがい にわたって精神 せいしん 異常 いじょう の発作 ほっさ を繰 く り返 かえ すこととなった。1393年 ねん に起 お きた発作 ほっさ では、シャルルは自分 じぶん の名前 なまえ を思 おも い出 だ せなくなり、自分 じぶん が国王 こくおう であることも認識 にんしき できなくなった。王妃 おうひ イザボー・ド・バヴィエール が自分 じぶん の部屋 へや に訪 おとず れた際 さい には、彼女 かのじょ が何者 なにもの であるかを召使 めしつか いに尋 たず ねた上 うえ 、「この者 もの 」を早 はや く出 で て行 い かせるために必要 ひつよう な対処 たいしょ をするよう命 めい じた[9] 。1395年 ねん –1396年 ねん 頃 ごろ の発作 ほっさ では、自 みずか らが聖 せい ゲオルギオス であると主張 しゅちょう したほか、自分 じぶん の家 いえ の紋章 もんしょう は剣 けん に体 からだ を貫 つらぬ かれたライオンであるなどと述 の べた[10] 。この時 とき 、シャルルは宮廷 きゅうてい の官吏 かんり 全員 ぜんいん を認識 にんしき することができた一方 いっぽう で、自分 じぶん の妻 つま と子供 こども のことは憶 おぼ えていなかった。またある時 とき は、パリの王宮 おうきゅう (サン・ポール館 かん )の廊下 ろうか を狂乱 きょうらん 状態 じょうたい で走 はし り回 まわ ったため、王 おう が逃 に げ出 だ さないよう館 かん の出入 でい り口 ぐち が壁 かべ で塞 ふさ がれた。1405年 ねん には、入浴 にゅうよく と着替 きが えを5か月 げつ にわたって拒否 きょひ し続 つづ けた[11] 。シャルル6世 せい の治世 ちせい に生 う まれたピウス2世 せい が残 のこ した記述 きじゅつ によれば、シャルルは時 とき に自分 じぶん の体 からだ がガラスでできていると思 おも い込 こ むことがあり、壊 こわ れやすい体 からだ を保護 ほご するため様々 さまざま な方法 ほうほう を試 ため していた。例 れい として、他 た の人 ひと とぶつかった際 さい に体 からだ が粉々 こなごな にならないよう鉄 てつ の棒 ぼう を服 ふく に縫 ぬ い付 つ けていたという[12] 。この症状 しょうじょう はのちにガラス妄想 もうそう として知 し られるようになった。
燃 も える人 ひと の舞踏 ぶとう 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
燃 も える人 ひと の舞踏 ぶとう 会 かい のミニアチュール
1393年 ねん 1月 がつ 29日 にち 、ある女官 にょかん の結婚 けっこん を祝 いわ うため、王妃 おうひ イザボーはサン・ポール館 かん で仮装 かそう 舞踏 ぶとう 会 かい を開催 かいさい した。ユゲ・ド・ギゼという貴族 きぞく の提案 ていあん により、この舞踏 ぶとう 会 かい でシャルル6世 せい は他 た の4人 にん の貴族 きぞく たち[13] と共 とも に「森 もり の野蛮 やばん 人 じん 」に仮装 かそう してダンスを披露 ひろう することとなった。野蛮 やばん 人 じん のコスチュームは松脂 まつやに を染 し み込 こ ませたリネンに麻 あさ を張 は り付 つ けたもので、シャルルたち踊 おど り手 しゅ の全身 ぜんしん がけむくじゃらに見 み えるようにしたものだった[14] 。
踊 おど り手 しゅ の1人 ひとり であるイヴァン・ド・フォワの勧 すす めにより、王 おう は松明 たいまつ を持 も った者 もの に対 たい して「野蛮 やばん 人 じん のダンス」には近寄 ちかよ らず部屋 へや の端 はし に立 た つことを事前 じぜん に命 めい じていたが、会場 かいじょう に遅 おく れて来 き た王 おう 弟 おとうと オルレアン公 こう ルイ がそれに反 はん して松明 たいまつ を踊 おど り手 しゅ の1人 ひとり に近 ちか づけたため、誤 あやま ってそのコスチュームに火 ひ をつけてしまった。火 ひ は瞬 またた く間 ま に燃 も え広 ひろ がり、会場 かいじょう はパニックに陥 おちい ったが、ベリー公 おおやけ 妃 ひ ジャンヌ2世 せい はとっさに自 みずか らのガウンのトレーンをシャルルにかぶせ、火 ひ の粉 こ から王 おう を守 まも った[15] 。数 すう 人 にん の騎士 きし は炎 ほのお を消 け そうとして重 おも い火傷 かしょう を負 お った。野蛮 やばん 人 じん に仮装 かそう した者 もの のうち、ヴァレンティノワ伯 はく の息子 むすこ エメリー・ド・ポワティエ、ユゲ・ド・ギゼ、イヴァン・ド・フォワ、ジョワニー 伯 はく の4人 にん が火傷 かしょう によって死亡 しぼう した。ナンテュイエ伯 はく の息子 むすこ ジャンは洗 あら い水 すい の入 はい った桶 おけ に飛 と び込 こ むことで一命 いちめい をとりとめた[16] 。
ブルゴーニュ派 は とアルマニャック派 は の対立 たいりつ [ 編集 へんしゅう ]
シャルル6世 せい は、精神 せいしん 疾患 しっかん のため1400年 ねん 頃 ごろ までに統治 とうち が不可能 ふかのう な状態 じょうたい となった。その結果 けっか 、王妃 おうひ イザボーに近 ちか く豪胆 ごうたん 公 こう や息子 むすこ のジャン1世 せい (無 む 怖 こわ 公 おおやけ )を中心 ちゅうしん とするブルゴーニュ派 は と、王 おう 弟 おとうと オルレアン公 こう と息子 むすこ シャルル・ド・ヴァロワ を中心 ちゅうしん としシャルル6世 せい を支持 しじ するアルマニャック派 は に宮廷 きゅうてい 内部 ないぶ が分裂 ぶんれつ し、主導 しゅどう 権 けん を巡 めぐ って争 あらそ うことになった。
1407年 ねん 11月23日 にち 、ブルゴーニュ派 は がオルレアン公 こう ルイ1世 せい の暗殺 あんさつ (英語 えいご 版 ばん ) を実行 じっこう する。しかし翌年 よくねん 3月 がつ 、宣伝 せんでん 工作 こうさく に長 た けたジャン無 む 怖 こわ 公 おおやけ に対 たい し、シャルル6世 せい は赦免 しゃめん を与 あた えた
アジャンクールの戦 たたか い (1422年 ねん 頃 ごろ 画 が )
このようなフランスの状勢 じょうせい を見 み て、イングランド 王 おう ヘンリー5世 せい は、アルマニャック派 は を支援 しえん しながらその裏 うら でブルゴーニュ派 は と提携 ていけい するなど、両派 りょうは の争 あらそ いに巧 たく みに介入 かいにゅう した。そして1415年 ねん 、ヘンリー5世 せい はシャルル6世 せい に対 たい し、支援 しえん の見返 みかえ りとしてフランス王位 おうい の継承 けいしょう 権 けん 譲渡 じょうと とフランス領土 りょうど の割譲 かつじょう 、さらに多額 たがく の賠償金 ばいしょうきん を要求 ようきゅう した。あまりのことにアルマニャック派 は がこれを拒絶 きょぜつ すると、ヘンリー5世 せい はすかさずイングランド軍 ぐん を率 ひき いてフランス北部 ほくぶ に侵攻 しんこう する。ヘンリー5世 せい の勢 いきお いは凄 すさ まじくフランス軍 ぐん は各地 かくち で連戦 れんせん 連敗 れんぱい 、10月25日 にち のアジャンクールの戦 たたか い で大敗 たいはい したアルマニャック派 は はオルレアン公 おおやけ らが捕虜 ほりょ となる大 だい 打撃 だげき を受 う けた。
その間 あいだ 、王 おう 太子 たいし ルイ が1415年 ねん に、ルイに代 か わる王 おう 太子 たいし ジャン が1417年 ねん に、と2人 ふたり の嗣子 しし が相次 あいつ いで没 ぼっ するなどの不幸 ふこう もあった。さらに1418年 ねん 5月、ブルゴーニュ派 は がパリに入 いり 市 し し暴動 ぼうどう を起 お こし、アルマニャック派 は の領袖 りょうしゅう であるアルマニャック伯 はく ベルナール7世 せい が殺害 さつがい される。ブルゴーニュ派 は は王妃 おうひ イザボー をトロワ に擁 よう し、王妃 おうひ も公然 こうぜん と協力 きょうりょく した。一方 いっぽう のアルマニャック派 は は新 しん 王 おう 太子 たいし シャルル(後 ご のシャルル7世 せい )を擁 よう した。
両派 りょうは の対立 たいりつ により、対 たい イングランド戦 せん の戦況 せんきょう が不利 ふり となったため、対 たい 英 えい 共闘 きょうとう のため和睦 わぼく が模索 もさく されるようになった。1419年 ねん にモントロー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) で交渉 こうしょう が行 おこな われたが、同年 どうねん 9月 がつ 10日 とおか 、シャルル王 おう 太子 たいし の側近 そっきん が12年 ねん 前 まえ のオルレアン公 おおやけ 暗殺 あんさつ の報復 ほうふく としてブルゴーニュ公 こう ジャン1世 せい の暗殺 あんさつ (英語 えいご 版 ばん ) を実行 じっこう した。
この事件 じけん により両派 りょうは の対立 たいりつ は決定的 けっていてき となり、次代 じだい のブルゴーニュ公 こう フィリップ3世 せい (善良 ぜんりょう 公 こう )はイングランドと同盟 どうめい して王 おう 太子 たいし シャルルと全面 ぜんめん 的 てき に対立 たいりつ し、1420年 ねん 4月 がつ にトロワ条約 わじょうやく を結 むす んでヘンリー5世 せい のフランス王位 おうい 継承 けいしょう を支持 しじ した。
これにより、ヘンリー5世 せい とシャルル6世 せい の娘 むすめ カトリーヌ (キャサリン)との結婚 けっこん [注釈 ちゅうしゃく 2] と、シャルル6世 せい の死後 しご は王 おう 太子 たいし シャルルではなくヘンリー5世 せい がフランス王位 おうい を継承 けいしょう することなどが定 さだ められた。ヘンリー5世 せい は現実 げんじつ に王位 おうい を継承 けいしょう することなく1422年 ねん 8月 がつ に没 ぼっ したが、シャルル6世 せい も同年 どうねん 10月 がつ 21日 にち 、ヘンリー5世 せい の後 のち を追 お うように病死 びょうし した。
シャルル6世 せい の治世 ちせい は42年 ねん の長 ちょう きにわたったが、精神 せいしん 疾患 しっかん によってその治世 ちせい のほとんどは家臣 かしん 団 だん やイングランドに左右 さゆう される時代 じだい となった。
妻 つま イザボーとの間 あいだ に12人 にん の子女 しじょ をもうけた。
シャルル(1386年 ねん ) - 王 おう 太子 たいし
ジャンヌ(1388年 ねん - 1390年 ねん )
イザベル (1389年 ねん - 1409年 ねん ) - 1396年 ねん にイングランド王 おう リチャード2世 せい と結婚 けっこん 、1406年 ねん にオルレアン公 こう シャルル と再婚 さいこん
ジャンヌ (1391年 ねん - 1433年 ねん ) - 1396年 ねん にブルターニュ 公 おおやけ ジャン5世 せい と結婚 けっこん
シャルル(1392年 ねん - 1401年 ねん ) - 王 おう 太子 たいし
マリー(1393年 ねん - 1438年 ねん ) - ポワシー 女子 じょし 修道 しゅうどう 院長 いんちょう
ミシェル (1393年 ねん - 1422年 ねん ) - 1409年 ねん にブルゴーニュ公 こう フィリップ3世 せい と結婚 けっこん
ルイ (1397年 ねん - 1415年 ねん ) - ギュイエンヌ公 こう 、王 おう 太子 たいし
ジャン (1398年 ねん - 1417年 ねん ) - トゥーレーヌ公 こう 、王 おう 太子 たいし
カトリーヌ (1401年 ねん - 1437年 ねん ) - 1420年 ねん にイングランド王 おう ヘンリー5世 せい と結婚 けっこん 、死別 しべつ 後 ご オウエン・テューダー と事実 じじつ 婚 こん 。ヘンリー6世 せい の母 はは 、ヘンリー7世 せい の祖母 そぼ 。
シャルル7世 せい (1403年 ねん - 1461年 ねん ) - フランス王 おう
フィリップ(1407年 ねん )
また、庶出 しょしゅつ の娘 むすめ が1人 ひとり 知 し られている。
マルグリット(1407年 ねん - 1458年 ねん 、オデット・ド・シャンディベール 所生 しょせい ) - 1428年 ねん 、ベルヴィル領主 りょうしゅ ジャン3世 せい ・ド・アルプダンヌと結婚 けっこん
[2]とマルグリット・ダンジュー の長男 ちょうなん 。
フランス王 おう フィリップ3世 せい と最初 さいしょ の妃 ひ イザベル・ダラゴン の息子 むすこ でフィリップ4世 せい の弟 おとうと 。ヴァロワ家 か の祖 そ であり、[1]の父 ちち 。
シャルル6世 せい のタロット [ 編集 へんしゅう ]
1392年 ねん 、精神 せいしん が不安定 ふあんてい なシャルル6世 せい を慰 なぐさ めるため、「シャルル6世 せい のタロット」とよばれるデッキが作成 さくせい された。「フランス国王 こくおう シャルル6世 せい の会計 かいけい 帳 ちょう にある「金色 きんいろ や様々 さまざま な色 いろ で描 えが かれた56枚 まい の遊技 ゆうぎ 札 さつ 」の記述 きじゅつ によれば、3デッキ作成 さくせい の代金 だいきん として、1392年 ねん に画家 がか ジャクマン・グランゴヌール(Jacquemin Gringonneur)に、6枚 まい のペルシャ硬貨 こうか を支払 しはら ったとある。パリ国立 こくりつ 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう されたタロットが、その「シャルル6世 せい のタロット」と呼 よ ばれ、現存 げんそん する最古 さいこ のタロットカードであるとされていた。しかし現在 げんざい では、このタロットは、推定 すいてい で1469年 ねん から1471年 ねん 頃 ごろ 、エステ家 か のボルソ・デステ(Borso d'Este)公爵 こうしゃく のために作成 さくせい されたものだという学説 がくせつ が有力 ゆうりょく となっている[22] 。
^ 小 しょう 怪物 かいぶつ 、グロテスクな顔 かお の小人 こども を意味 いみ する蔑称 べっしょう 。
^ ヘンリー5世 せい の侵攻 しんこう からキャサリンとの結婚 けっこん は、シェイクスピアの『ヘンリー五 ご 世 せい 』にも描 えが かれている。当該 とうがい 項目 こうもく を参照 さんしょう 。
^ Jonathan Sumption, The Hundred Years War: Divided Houses , Vol. III, (University of Pennsylvania Press, 2009), 397.
^ Jonathan Sumption, The Hundred Years War: Divided Houses , Vol. III, 665-666.
^ Vaughan, 40-41
^ Vaughn, 42.
^ Alger, Sarah (2001). The Politics of Madness: Government in the Reigns of Charles VI and Henry V . pp. 24. http://eprints.utas.edu.au/11741/2/alger_whole_thesis.pdf
^ W.H. Jervis, A History of France: from the Earliest Times to the Fall of the Second Empire in 1870 , (London: John Murray, 1884), 228, §5; Jean Juvenal des Ursins, Histoire de Charles VI, Roy de France , (Paris: A. Desrez, 1841), 377; Michaud, J.F and L.G., Biographie universelle, ancienne et moderne , 85 vols., (Paris: L.G. Michaud, 1813), 8:114 sub Charles VI.
^ M. Guizot, The History of France from the Earliest Times to the Year 1789 , Vol. 2, transl. Robert Black, (P.F. Collier & son, 1902), 189.
^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420 , New York, 1986, p. 4, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 86–88.
^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420 , New York, 1986, p. 5, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 404–05.
^ R.C. Famiglietti, Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420 , New York, 1986, p. 6, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, III, p. 348
^ Enea Silvio Piccolomini (Papa Pio II), I Commentarii , ed. L. Totaro, Milano, 1984, I, p. 1056.
^ Froissart's Chronicles , ed. T. Johnes, II (1855), p.550
^ Barbara Tuchman, A Distant Mirror, 1978, Alfred A Knopf Ltd. See the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 64–71, where the squire's name is given correctly as de Guisay.
^ Froissart's Chronicles , ed. T. Johnes, II (1855), pp.550-2
^ Froissart's Chronicles , ed. T. Johnes, II (1855), p.550. Note that Froissart and the Religieux de Saint-Denis differ as to when the four men died. Huguet de Guisay had held the office of cupbearer of the king.
^ パリ国立 こくりつ 図書館 としょかん HPより「シャルル6世 せい のタロット」一覧 いちらん
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