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新居しんきょ関所せきしょ

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こんきり関所せきしょから転送てんそう
歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん荒井あらい新居しんきょ)」
新居関所の位置(日本内)
新居関所
新居しんきょ関所せきしょ

新居しんきょ関所せきしょ(あらいせきしょ)は、江戸えど時代じだい東海道とうかいどう関所せきしょのひとつ。現在げんざい静岡しずおかけん湖西こせい新居町あらいまち新居しんきょ相当そうとうする。正式せいしき名称めいしょうこんきり関所せきしょ(いまぎれせきしょ)である。

概要がいよう

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街道かいどうのなかでももっと往来おうらいおおかった東海道とうかいどうもうけられ、舞坂まいさか宿やど静岡しずおかけん浜松はままつ中央ちゅうおう)と新居しんきょ宿やど静岡しずおかけん湖西こせい)のあいだにある。浜名湖はまなこ西岸せいがんこん切口きりくちめんした標高ひょうこうやく2mの低地ていち立地りっち[注釈ちゅうしゃく 1]新居しんきょ宿やど隣接りんせつし、浜名湖はまなここうめんしていた。現在げんざい静岡しずおかけん湖西こせい新居にのいまち新居しんきょ相当そうとうする。

1869ねん明治めいじ2ねん)の関所せきしょ廃止はいし小学校しょうがっこう校舎こうしゃきゅう新居町あらいまち役場やくばとして利用りようされめん番所ばんしょなどの建物たてもののこされた[1]主要しゅよう街道かいどう関所せきしょ建物たてものとしては、唯一ゆいいつ現存げんそんする建物たてものである[注釈ちゅうしゃく 2]

現在げんざい浜名湖はまなこうめてのため、新居しんきょ関所せきしょおよこん切口きりくち周辺しゅうへん地形ちけい当時とうじとはおおきく変化へんかしている[注釈ちゅうしゃく 3]新居しんきょ関所せきしょは、「新居しんきょせきあと(あらいのせきあと)」として、1921ねん大正たいしょう10ねん)に史跡しせき指定してい1955ねん昭和しょうわ30ねん)にくに特別とくべつ史跡しせき指定していされた。隣接りんせつ新居しんきょ関所せきしょ史料しりょうかんがある。

背景はいけい地名ちめい

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あかりおう地震じしんにより消滅しょうめつした浜名湖はまなこ陸地りくち[注釈ちゅうしゃく 4]

新居しんきょ地名ちめい由来ゆらいは、「あきらおう7ねん8がつ地震じしん津波つなみ以前いぜんみずうみこう」の絵図えずによると、阿礼あれいさき(あれのみさき)に荒井あらい集落しゅうらくがあり、舞坂まいさか当時とうじ前沢まえさわばれていた[2]

浜名はまながわ浜名はまなきょう橋本はしもとがあり、東海道とうかいどう交差こうさした港湾こうわん都市としであった。鎌倉かまくら時代じだいには東海道とうかいどう要衝ようしょうとして宿やどかれ、おうひさし9ねん(1402ねん)には足利あしかが義満よしみつにより橋本はしもと天龍てんりゅう大井おおい富士ふじかわ木瀬きせかわは、今川いまがわ泰範やすのりを「奉行ぶぎょうしょく」として管理かんりされていた[3]

あかりおう7ねん(1498ねん)8がつ25にち[注釈ちゅうしゃく 5]に、あかりおう地震じしんこり、遠州灘えんしゅうなだ沿岸えんがん津波つなみおそわれた。津波つなみにより浜名湖はまなこ開口かいこう沈下ちんかし、こん切口きりくち決壊けっかいして、みずうみ海水かいすい流入りゅうにゅうし、浜名湖はまなこ塩水えんすいとなった[4]。また、あきらおう地震じしんにより橋本はしもと壊滅かいめつし、住民じゅうみんこんきり新居にい地区ちく荒井あらい)に移転いてんした[5]

また、よくあかりおう8ねん(1499ねん)6がつ10日とおか暴風雨ぼうふううだい洪水こうずいによってみずうみこう破壊はかい度合どあいをした。『遠江とおのえこく風土記ふどきでん』など、浜名湖はまなこ周辺しゅうへんにおける津波つなみしるした史料しりょうは、いずれも津波つなみ日付ひづけを「あきらおうはちねんろくがつじゅうにち」としている[6]。さらに『たけみなみ』など、えいただし7ねん(1510ねん)8がつ27にち遠江とおのえこく海嘯つなみおそい、こんきりはこのときしょうじたとする史料しりょう存在そんざいする[7]

そのため、浜名湖はまなここん切口きりくち通過つうかするための舞坂まいさか新居しんきょあいだむす渡船とせんこんきりわたしがかれた[8]

沿革えんかく

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関所せきしょ設置せっち管理かんり

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新居しんきょ関所せきしょ創設そうせつは、慶長けいちょう5ねん1600ねん)とつたえられる[注釈ちゅうしゃく 6]新居しんきょ関所せきしょ江戸えど幕府ばくふ設置せっちから慶長けいちょう6ねん1601ねん以前いぜん設置せっちした[9]新居しんきょ付近ふきんまくりょうとなり、新居にいこんきり関所せきしょは、幕府ばくふから派遣はけんされた新居しんきょ奉行ぶぎょう管理かんりした[10]元禄げんろく15ねん1702ねん)、三河みかわ吉田よしだはん愛知あいちけん豊橋とよはし)の藩主はんしゅ久世くぜ重之しげゆきあずかまんせきうちせんせきまくりょうであった新居しんきょ付近ふきん交換こうかん関所せきしょ管理かんりめいぜられ、以後いごいまきり関所せきしょ幕府ばくふ直轄ちょっかつから吉田よしだしろおもうつった[10]

高潮こうちょう地震じしん被害ひがい関所せきしょ移転いてん

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新居しんきょ関所せきしょは、現在げんざいよりもひがし向島むこうじまてられたが、元禄げんろく12ねん(1699ねん)に高潮こうちょう被害ひがいのため西にし移転いてんした[11][注釈ちゅうしゃく 7]。そのため、浜名湖はまなこ通過つうかするための舞坂まいさか新居しんきょあいだむすこんきり渡船とせんは、やく4㎞ちかなが航路こうろとなっていた[11]

宝永ほうえい4ねん1707ねん)には宝永ほうえい地震じしんがあり、静岡しずおかけん西部せいぶ被害ひがいおおきく新居しんきょ関所せきしょ白須賀しらすか宿やど袋井ふくろい宿やど掛川かけがわ宿やど島田しまだ宿やど浜松はままつ宿やどなどで倒壊とうかい津波つなみ被害ひがいをうけた[注釈ちゅうしゃく 8]新居しんきょでは、宝永ほうえい地震じしん被害ひがい戸数こすう665けんの、120けん流失りゅうしつし、1たけほど(3m)の津波つなみが3かいあり、「関所せきしょあとかたなし」との記事きじのこっている[12]

新居しんきょ関所せきしょ津波つなみによる被害ひがいは『関守せきもり富永とみながぼう手記しゅき』によると、「関所せきしょつぶ津浪つなみることたけはかり」との記録きろくのこされている。地震じしん津波つなみのため新居しんきょ関所せきしょ建物たてもの全壊ぜんかいながされたため、よく宝永ほうえい5ねん1708ねん)にさら西にし現在地げんざいち移転いてんした[10]新居しんきょ関所せきしょさらなる移転いてんによりこんきりわたしの航路こうろがさらにながくなり不便ふべんになった[11]新居しんきょ関所せきしょ移転いてん浜名湖はまなこみずうみこうめんし、船着場ふなつきば併設へいせつされていた。

宝永ほうえい地震じしん宝永ほうえい4ねん(1707ねん))による新居しんきょ被害ひがい
地名ちめい 死者ししゃ 家屋かおく倒壊とうかいすう 土蔵どぞう 推定すいてい震度しんど 津波つなみ波高はこう その
静岡しずおかけん[注釈ちゅうしゃく 9] 死亡しぼうしゃ121、負傷ふしょう18 全壊ぜんかい106、半壊はんかい破損はそん208、流出りゅうしゅつ116 やぶつつみ73,264あいだ田畑たはた25,348せきはし64、船舶せんぱく382
新居しんきょ 溺死できししゃ24にん[13] 850のうち半壊はんかい502、流出りゅうしゅつ241[13][注釈ちゅうしゃく 10] 6-7[14] 3~5m[15] 船舶せんぱく90流出りゅうしゅつふね199破損はそん[13]
こんきりみなと関所せきしょつぶれ、3津波つなみのため4-5にち渡航とこうができなかった[13]

こん切口きりくち被害ひがい本坂ほんざかどおりへの回避かいひ

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新居しんきょ関所せきしょ浜名湖はまなこ周辺しゅうへん東海道とうかいどう
じゅうさん名所めいしょ図会ずえ 丗二 荒井あらい』、わたりぶね着岸ちゃくがん 関所せきしょ

元禄げんろく12ねん(1699ねん)に高潮こうちょう被害ひがい宝永ほうえい4ねん(1707ねん宝永ほうえい地震じしん津波つなみによる静岡しずおかけん西部せいぶこんきり関所せきしょ白須賀しらすか宿やど袋井ふくろい宿やど掛川かけがわ宿やど島田しまだ宿やど浜松はままつ宿やどなどで被害ひがいおおきかった[16]こん切口きりくち復興ふっこうこんきり関所せきしょ流出りゅうしゅつ移転いてんによって、舞坂まいさか宿やど荒井あらい宿やどむす航路こうろであったこんきりわたし(静岡しずおかけん湖西こせい)が27ちょう(2.9㎞)から1やく4km)の延長えんちょうにより渡航とこう不便ふべんになったため、東海道とうかいどう利用りようほん坂道さかみち回避かいひした[17]。その様子ようすは『宝永ほうえいなな正徳しょうとく元年がんねん 地震じしんみなとこう修復しゅうふくかんする書類しょるい[18]にてうかがうことができる。

みぎみなとこう乱杭らんぐい普請ふしん亥年いどし地震じしん津浪つなみづけみなと口広くちひろやめなり往来おうらい渡船場とせんばなみきょうゆうづけ大名だいみょうさま其外往来おうらいほん坂越さこしいたし、浜松はままつ吉田よしだまで宿やど々致困窮こんきゅうみぎ宿やど者共ものども公儀こうぎ願出ねがいでこうづけみぎ普請ふしんおおせづけこう普請ふしん出来できふし乱杭らんぐいどおり新居しんきょ洲崎すざき百間ひゃっけんあまりしまいずる、其後毎々まいまいしまゆう当年とうねんまでニ而八拾間程之出洲ニやめなり、此分みなとこうふさかりこう渡海とかいじょうしずかやめなりこう、 とら正月しょうがつじゅうろくにち — 東京大学とうきょうだいがく地震じしん研究所けんきゅうじょ(1981)、46ぺーじより。、『宝永ほうえいなな正徳しょうとく元年がんねん 地震じしんみなとこう修復しゅうふくかんする書類しょるい

宝永ほうえい地震じしんから1ねん以上いじょう経過けいかしたのちも、東海道とうかいどう利用りようしゃはもどらず復興ふっこうもままならないことから、宝永ほうえい6ねん3がつ(1709ねん)に浜松はままつ宿やどはじめ、舞阪まいさか新居しんきょ白須賀しらすか二川ふたかわ吉田よしだの6宿しゅくは、公的こうてき旅行りょこうでは東海道とうかいどう利用りようするよう嘆願たんがんしょされた。10ねんとおる2ねん(1717ねん)11月になり、ほん坂道さかみち通行つうこうとめとなった[16]。その明和めいわ元年がんねん(1769ねん)に、幕府ばくふほん坂道さかみち道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつとし、東海道とうかいどう一定いっていだい通行つうこうえうる付属ふぞく街道かいどう位置いちづけた[19]

安政あんせい元年がんねん1854ねん)11月4にちには安政あんせい東海とうかい地震じしんがあり、新居しんきょ舞坂まいさか津波つなみによる被害ひがいをうけた。新居しんきょ関所せきしょ大破たいはし、付近ふきん家屋かおくは10けん全壊ぜんかいし、31けん半壊はんかい破損はそんし、溺死できししゃ14にんした[20]現存げんそん建物たてもの新居しんきょ関所せきしょよく安政あんせい5ねん(1858ねん)までに改築かいちくされた[1]

新居しんきょ関所せきしょ検閲けんえつ

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近世きんせい関所せきしょには、「にゅう鉄砲てっぽうおんな」をあらためる意図いとのもとに設置せっちされた[21]

新居しんきょ関所せきしょ規定きてい検閲けんえつは、寛文ひろふみ7ねん1667ねん)、『こんきり関所せきしょあらため次第しだい』の「おんなどんぶり鉄砲てっぽうだいいちあらためさるこう」によると検閲けんえつを14じょう大綱たいこうにて、番人ばんにんつとむ仕法しほう夜間やかん通行つうこう廻船かいせん検閲けんえつなどがしめされ、東海道とうかいどう通行つうこうだけでなく、こんきりみなと検閲けんえつもした[10]長持ながもち近世きんせい収納箱しゅうのうばこばこ)も検閲けんえつ対象たいしょうとし、関東かんとう方面ほうめんへの通過つうか関西かんさい方面ほうめんへの通過つうかたい婦女子ふじょし手負ておいじん死骸しがいとう手形てがた調査ちょうさした[10]

にゅう鉄砲てっぽうおんな」では、近世きんせい関所せきしょ共通きょうつうとして女人にょにん通過つうか検閲けんえつ対象たいしょうであった。しかし武器ぶき武具ぶぐ搬送はんそう検閲けんえつについては、無条件むじょうけん通過つうか許可きょかされる関所せきしょもあったが、鉄砲てっぽう証文しょうもん高札こうさつかかげられていたのは新居しんきょ関所せきしょだけであった[22]

はい鉄炮てっぽう」の通関つうかん老中ろうじゅう証文しょうもん必要ひつようであった[21]東海道とうかいどう設置せっちされたこんきり関所せきしょでは、寛文ひろふみ7ねん5がつ関所せきしょ高札こうさつ正徳しょうとく元年がんねん5がつ高札こうさつ鉄炮てっぽう関所せきしょあらためる方針ほうしんしめされ、江戸えどはいくだりの鉄炮てっぽう老中ろうじゅう証文しょうもん必要ひつようとした。しかし、江戸えどから鉄炮てっぽうあらためなかった[23]

新居しんきょ関所せきしょ建物たてもの

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新居しんきょ関所せきしょ建物たてものは、宝永ほうえい4ねん(1707ねん)の宝永ほうえい地震じしん被害ひがいによる移転いてんされ、安政あんせい元年がんねん(1854ねん)の安政あんせい東海とうかい地震じしん被害ひがいにより、よく安政あんせい2ねん1855ねん)12月の改築かいちくになる関所せきしょ建物たてもの現存げんそんしている。母屋もやみなみ正面しょうめんいた平屋ひらやてで、構造こうぞう入母屋いりもやづくり屋根やねほん瓦葺かわらぶきである。形状けいじょう東西とうざいながく、前面ぜんめんが「上之うえのあいだ」「中之なかのあいだ」「つぎあいだ」にかれ、おくには「書院しょいんあいだ」「御用達ごようたしじょう」「上番じょうばん勝手かって台所だいどころ」があった。さらに、「下番かばん勝手かってどう休息きゅうそくしょ」として桟瓦葺かわらぶきの3むねいていた。

今日きょうでは「御用達ごようたしじょう」と「上番じょうばん勝手かって台所だいどころ」のむねうしなわれており、それ以外いがいにも部分ぶぶんてき改変かいへんあと確認かくにんされている。めん番所ばんしょ小学校しょうがっこうしゃきゅう新居町あらいまち役場やくばとして使用しようされた時代じだい間取まどりが変更へんこうされており(役場やくばとして使用しようされていたときは図書館としょかん建物たてもの併設へいせつされていた)、1971ねん解体かいたい修理しゅうり江戸えど時代じだい姿すがたもどすための工事こうじおこなわれた[1]

関所せきしょ廃止はいし以降いこう

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新居しんきょせきあと(2006ねん12月撮影さつえい

建物たてもの利用りよう

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新居しんきょ関所せきしょは、明治めいじ2ねん1がつ20日はつか1869ねん3月2にち)の関所せきしょ廃止はいしれい廃止はいしされたが、その中心ちゅうしんをなすめん番所ばんしょ建物たてものは、小学校しょうがっこう校舎こうしゃ(1873ねん - 1917ねん)、またきゅう新居町あらいまち役場やくば役場やくば庁舎ちょうしゃ(1917ねん - 1951ねん)として地域ちいき使用しようされつづけてきた[1][注釈ちゅうしゃく 11]箱根はこね関所せきしょしょうふつ関所せきしょなどでは建物たてものうしなわれており、主要しゅよう街道かいどう関所せきしょ建物たてものとしては、唯一ゆいいつのこそんれいとしてきわめて重要じゅうようである[注釈ちゅうしゃく 12]

史跡しせき指定してい保存ほぞん活動かつどう

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1921ねん大正たいしょう10ねん3月3にち江戸えど時代じだい交通こうつう政策せいさく考慮こうりょしていくうえでも重要じゅうよう遺跡いせきであるとして、「新居しんきょせきあと」(あらいのせきあと)の名称めいしょうくに史跡しせき指定してい1955ねん昭和しょうわ30ねん8がつ22にちには特別とくべつ史跡しせき指定していけた[1]

1971ねん昭和しょうわ46ねん)にはまるいちねんかけて建物たてもの解体かいたい修理しゅうりされ、はしら屋根やね修理しゅうりするとともに、小学校しょうがっこうしゃきゅう新居町あらいまち役場やくばとして使用しようされた時代じだい変更へんこうされた間取まどりを江戸えど時代じだい姿すがたもどすための工事こうじおこなわれた[1]以後いご新居しんきょ関所せきしょ当時とうじをしのぶ遺構いこうとして保存ほぞんされている。

1998ねん平成へいせい10ねん)12月、関所せきしょ建物たてもの西側にしがわにあった「ふね会所かいしょ」「おんなあらた長屋ながや」「大門おおもん」のあった箇所かしょ、および東側ひがしがわ船着場ふなつきば」の一帯いったい一括いっかつして追加ついか指定していけており、史跡しせきのトータルな保存ほぞん活用かつようがめざされている[注釈ちゅうしゃく 13]

2002ねん平成へいせい14ねん)、絵図えず発掘はっくつ調査ちょうさもとづき渡船場とせんば一部いちぶ復元ふくげん護岸ごがん整備せいびおこなわれた。

2014ねん平成へいせい26ねん10月6にち発掘はっくつ調査ちょうさによってだい御門みかどるい遺構いこう出土しゅつどした桝形ますがた広場ひろばが、特別とくべつ史跡しせき追加ついか指定していされた[24] [注釈ちゅうしゃく 14]

特別とくべつ史跡しせき新居しんきょせきあと」ギャラリー

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りゃく年表ねんぴょう

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となり宿やど

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東海道とうかいどう
舞阪まいさか宿やど - こんきり関所せきしょ新居しんきょ関所せきしょ - 新居しんきょ宿やど

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  2. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  3. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  4. ^ 矢田やた俊文としふみ(2005)の2をもと作成さくせい
  5. ^ 公家くげ飛鳥井あすかい雅康まさやす和歌集わかしゅうたい紀行きこうぶん富士ふじれきらん』はあかりおう8ねんとしている。おおくの史料しりょう検証けんしょうした結果けっかではあかりおう地震じしん発生はっせい日付ひづけは、あきらおう7ねん8がつ25にちとされている[4]
  6. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  7. ^ 渡辺わたなべによると、元禄げんろく14ねん1701ねん)に移転いてんしたとある[10]
  8. ^ 原文げんぶんでは横須賀よこすか宿やどとあったが、宝永ほうえい地震じしん被害ひがいけた静岡しずおかけん西部せいぶ宿場しゅくばまち白須賀しらすか宿やどであるため修正しゅうせい[11]
  9. ^ 静岡しずおかけんのデータは、内閣ないかく(2014)『1707 宝永ほうえい地震じしん 報告ほうこくしょひょう2-1にる。
  10. ^ 羽鳥はとり(2014)によると、戸数こすう665のうち流出りゅうしゅつ120という。[12]
  11. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  12. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース・・・国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ新居しんきょせきあと 詳細しょうさい解説かいせつ 文化庁ぶんかちょう 閲覧えつらん2016ねん11月11にち
  13. ^ 新居しんきょ関所せきしょ”. 湖西こせい観光かんこう振興しんこう協議きょうぎかい. 2016/11/1閲覧えつらん
  14. ^ 新居しんきょ関所せきしょ”. 湖西こせい観光かんこう振興しんこう協議きょうぎかい. 2016/11/1閲覧えつらん

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f 新居しんきょ関所せきしょめん番所ばんしょ保存ほぞん整備せいび記録きろく 湖西こさい史料しりょうかん”. 中日ちゅうにち新聞しんぶん (2021ねん11月30にち). 2021ねん11月30にち閲覧えつらん
  2. ^ みやこつかさ(1979ねんa)18ぺーじ
  3. ^ 矢田やた(2005)、10ぺーじ
  4. ^ a b みやこつかさ(1979ねんa)19ぺーじ
  5. ^ 矢田やた(2005)、11ぺーじ
  6. ^ みやこつかさ(1979b),pp67-70.
  7. ^ みやこつかさ(1979b), pp73-82.
  8. ^ みやこつかさ(1979a)、15ぺーじ
  9. ^ 渡辺わたなべ(1971)、18ぺーじ
  10. ^ a b c d e f 渡辺わたなべ(1971)、22ぺーじ
  11. ^ a b c d 松浦まつうら(2014)、25ぺーじ
  12. ^ a b 羽鳥はとり(2014ねん)35ぺーじ
  13. ^ a b c d 飯田いいだ(1982)、152ぺーじ
  14. ^ 飯田いいだ(1982)、146ぺーじ
  15. ^ 飯田いいだ(1982)、152ぺーじ
  16. ^ a b 松浦まつうら(2014)、25ぺーじ
  17. ^ みやこつかさ(1979a)、16ぺーじ
  18. ^ 東京大学とうきょうだいがく地震じしん研究所けんきゅうじょ(1981)、46ぺーじ
  19. ^ 渡辺わたなべ(2012)、21ぺーじ
  20. ^ みやこつかさ(1979a)、15ぺーじ.
  21. ^ a b 金井かない(2000)、58ぺーじ
  22. ^ 渡辺わたなべ(1971)、23ぺーじ
  23. ^ 金井かない(2000)、59ぺーじ
  24. ^ 平成へいせい26ねん10がつ6にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい139ごう

参考さんこう文献ぶんけん

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和書わしょ

  • 飯田いいだ汲事「歴史れきし地震じしん研究けんきゅう (5) 宝永ほうえい 4 ねん 10 がつ 4 にち(1707 ねん 10 がつ 28 にち)の地震じしんおよ津波つなみ災害さいがいについて」『愛知工業大学あいちこうぎょうだいがく研究けんきゅう報告ほうこくだい17ごうB、愛知工業大学あいちこうぎょうだいがく、1982ねん、143-157ぺーじ
  • 金井かない達雄たつお鉄砲てっぽう証文しょうもん-老中ろうじゅううらしるし証文しょうもんおよ留守居るすいだんじょう存在そんざい役割やくわり: ぼう川渡かわど中田なかだ (栗橋くりはし) 関所せきしょ事例じれいとして」、『駒澤こまざわ史学しがくだい56かん駒澤大学こまざわだいがく、2000ねん、 58-87ぺーじ
  • 東京大学とうきょうだいがく地震じしん研究所けんきゅうじょあたらしおさむ 日本にっぽん地震じしん史料しりょうぞく補遺ほい別巻べっかん東京大学とうきょうだいがく地震じしん研究所けんきゅうじょ、1981ねん

ウェブ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3441ふん41びょう 東経とうけい13733ふん41びょう / 北緯ほくい34.694795 東経とうけい137.561366 / 34.694795; 137.561366