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うまおうやま遺跡いせき

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座標ざひょう: 北緯ほくい3547ふん46びょう 東経とうけい13937ふん35びょう / 北緯ほくい35.79611 東経とうけい139.62639 / 35.79611; 139.62639

午王山遺跡の位置(埼玉県内)
午王山遺跡
うまおうやま遺跡いせき
うまおうやま遺跡いせき位置いち

うまおうやま遺跡いせき(ごぼうやまいせき)は、埼玉さいたまけん和光わこう新倉にいくらにある弥生やよい時代じだいかんほり集落しゅうらく中心ちゅうしんとするふくあい遺跡いせき2020ねんれい2ねん)3がつ10日とおかくに史跡しせき指定していされた。

位置いち概要がいよう

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荒川あらかわ右岸うがん武蔵野台むさしのだいきたえん丘陵きゅうりょうじょう位置いちする、弥生やよい時代じだいかんほり集落しゅうらくあとである。遺跡いせき所在地しょざいち南側みなみがわ侵食しんしょく地形ちけいのため、独立どくりつ丘陵きゅうりょうとなっており、標高ひょうこうは24メートル。遺跡いせき範囲はんい東西とうざい250メートル、南北なんぼく遺跡いせき東部とうぶで200メートル、西部せいぶで150メートルの規模きぼである。旧石器時代きゅうせっきじだいから近世きんせいまでの遺構いこうがあり、中世ちゅうせい火葬かそう板碑いたび出土しゅつどしているが、主要しゅよう遺構いこう弥生やよい時代じだい中期ちゅうき後半こうはんから後期こうき後半こうはんのものである[1]

ほん遺跡いせきは、かつてしん王子おうじ下向げこうんだ場所ばしょだとの伝承でんしょうがあり、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』には「しんおうきょあと」として紹介しょうかいされている[2]遺跡いせきめいの「ゴボウヤマ」は、本来ほんらいぼうさん」とくべきものが「うまぼうさん」になり、いつしか「うまおうやま」とかれるようになった。このがなんらかの遺跡いせきであることはふるくから認識にんしきされており、地元じもと住民じゅうみんによって土器どき銅鏡どうきょう採取さいしゅされるなどしていたが、学術がくじゅつ調査ちょうさおこなわれるのは1979ねん昭和しょうわ54ねん)からで[注釈ちゅうしゃく 1]同年どうねんから2011ねん平成へいせい23ねん)まで、けい15にわたる調査ちょうさ実施じっしされた。その結果けっか竪穴たてあな建物たてものあと150けん以上いじょうほり3じょう方形ほうけいしゅうみぞ5などが確認かくにんされている[3]

遺構いこう遺物いぶつ

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竪穴たてあな建物たてものあと

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だい1からだい14までの調査ちょうさで、149けん竪穴たてあな建物たてものあと発掘はっくつされている。最終さいしゅうだい15調査ちょうさ確認かくにん調査ちょうさのみで、発掘はっくつおこなわれなかったが、このときにもあらたに3けん竪穴たてあな建物たてものあと検出けんしゅつされ、けい152けんとなっている。これらの建物たてものあとには、その形態けいたい出土しゅつどした土器どきから年代ねんだい推定すいていできるものがある一方いっぽうで、建物たてものあと重複じゅうふくしていたり、出土しゅつど遺物いぶつとぼしいなどの理由りゆう年代ねんだい不明ふめいのものもある。年代ねんだい推定すいていできる建物たてものあとかず下記かきのとおりで、弥生やよい後期こうき中葉ちゅうよう前半ぜんはんからどう後半こうはんのものがおお[4]

  • 弥生やよい中期ちゅうき後半こうはん 3けん[5]
  • 弥生やよい後期こうき前半ぜんはん 13けん[6]
  • 弥生やよい後期こうき中葉ちゅうよう前半ぜんはん 27けん[7] 
  • 弥生やよい後期こうき中葉ちゅうよう後半こうはん 23けん[8] 
  • 弥生やよい後期こうき後半こうはん 9けん[9] 

みぞたまきほり

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集落しゅうらく周囲しゅういられたみぞたまきほり)は、Aみぞ・Bみぞ・Cみぞの3じょう確認かくにんされている。Aみぞ集落しゅうらく周囲しゅうい一周いっしゅうしているとみられ、最大さいだいはば3.2メートル、最大さいだいふかさ1.7メートル、たまきほりとしてみた場合ばあいちょうじくは153メートルである。BみぞはAみぞ外側そとがわにほぼ平行へいこうしてられているが、一周いっしゅうはしておらず、北側きたがわがけ部分ぶぶん途切とぎれている。最大さいだいはば1.8メートル、最大さいだいふかさ0.95メートル、前述ぜんじゅつのように北部ほくぶ途切とぎれているが、ちょうじくは172メートルで、はばふかさはAみぞよりちいさい。AみぞとBみぞ距離きょりは7から12メートルになる。AみぞとBみぞについては、どう時期じき掘削くっさくか、Bみぞのほうがからられたかという問題もんだいはあるが、すくなくとも一時期いちじき、AみぞとBみぞ並存へいそんし、じゅうたまきほりになっていた時期じきがあったとみられる。地形ちけい制約せいやくされない平坦へいたんにおいてもりょうみぞ平行へいこうしてられていることからも、両者りょうしゃ一体いったいてき計画けいかくのもとにられたことが首肯しゅこうされる。Cみぞ集落しゅうらく西側にしがわ、Bみぞよりもやく60メートル外側そとがわ位置いち検出けんしゅつされたが、ながさ7メートルほどが検出けんしゅつされたのみで、全体ぜんたい規模きぼ不明ふめいである。はばは1.8メートル、ふかさは1.2メートルである。A・Bみぞ集落しゅうらく成立せいりつ当初とうしょから存在そんざいしたものではない。出土しゅつど土器どきや、竪穴たてあな建物たてものあととの重複じゅうふく関係かんけいからみて、A・Bみぞ弥生やよい後期こうき中葉ちゅうよう前半ぜんはんひさばらしき段階だんかい)につくられ、後期こうき中葉ちゅうよう後半こうはんひさばらしきしん段階だんかい)には埋没まいぼつしたとみられる[10]

方形ほうけいしゅうみぞ

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集落しゅうらく南東なんとうがわ、A・Bみぞ外側そとがわ弥生やよい後期こうき方形ほうけいしゅうみぞ5確認かくにんされている。その位置いちからみて、居住きょじゅういき墓域ぼいき明確めいかく区分くぶんされていたことがわかる。耕作こうさくにより攪乱かくらんされているため、遺構いこう残存ざんそんじょうきょうはあまりよくなく、しゅうみぞ一周いっしゅうするタイプと四隅よすみ分断ぶんだんされるタイプのいずれであるかをふくめ、不明ふめいてんおお[11]

土器どき形式けいしき

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前述ぜんじゅつのとおり、ほん遺跡いせき竪穴たてあな建物たてものあとは、ばんいずるする土器どき形式けいしきから、弥生やよい中期ちゅうき後半こうはん後期こうき前半ぜんはん後期こうき中葉ちゅうよう前半ぜんはん後半こうはん弥生やよい後期こうき後半こうはんけられている。以上いじょうかく時期じきと、該当がいとうする土器どき形式けいしき整理せいりすると以下いかのとおりである。中期ちゅうき後半こうはん建物たてものからは南関東みなみかんとうけい宮ノ台みやのだいしき土器どき出土しゅつどするが、この時期じき建物たてもの推定すいていされるものは3けんのみで、ほん遺跡いせき主体しゅたいとなる時期じきではない。後期こうき前半ぜんはん土器どきは、北関東きたかんとうけい中部ちゅうぶ高地こうちがた)の岩鼻いわはなしき2・3と、南関東みなみかんとうけいひさばらIしき併存へいそんする。岩鼻いわはなしき中部ちゅうぶ高地こうちがたくし描簾じょうぶん特色とくしょくとする。ひさばらしき特色とくしょくはねじょう山形やまがたぶんである。この時期じき土器どきかんほりからは出土しゅつどせず、この時期じきにはかんほりがまだつくられていなかったとみられる。建物たてもの平面へいめんがたすみまる長方形ちょうほうけいで、複数ふくすうゆうするのが特色とくしょくである。なお、ほん遺跡いせき弥生やよい中期ちゅうき集落しゅうらく弥生やよい後期こうき集落しゅうらくは、直接ちょくせつ連続れんぞくせず、あいだ空白くうはく存在そんざいした可能かのうせいがある[12]

弥生やよい後期こうき中葉ちゅうようから後半こうはんにかけては、下戸塚しもとづかしき土器どきばんいずるする。建物たてもの平面へいめんがた楕円だえんがたないし小判こばんがたとなる。東京とうきょう新宿しんじゅく下戸塚しもとづか遺跡いせきしるべしき遺跡いせきとする下戸塚しもとづかしき土器どきは、ひがし遠江とおのえ菊川きくかわしき土器どき類似るいじしており、ハケとげ突文・ハケ沈線を特色とくしょくとする。後期こうき中葉ちゅうよう前半ぜんはん下戸塚しもとづかしきなか段階だんかいいにしえ相当そうとうし、ひさばらしき段階だんかい土器どき出土しゅつどする。ほん遺跡いせきかんほりはこの時期じきつくられたとみられる。後期こうき中葉ちゅうよう後半こうはん下戸塚しもとづかしきなか段階だんかいしん相当そうとうし、ひさばらしきしん段階だんかい土器どき出土しゅつどする。この時期じきにははやくもかんほり埋没まいぼつする。弥生やよい後期こうき後半こうはん下戸塚しもとづかしきしん段階だんかい相当そうとうし、この時期じき最後さいご集落しゅうらく廃絶はいぜつする[13]

ほん遺跡いせき特色とくしょく

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弥生やよい時代じだいかんほり集落しゅうらく各地かくちにみられるが、ほん遺跡いせき関東かんとう地方ちほうではめずらしい多重たじゅうたまきほり集落しゅうらくである。独立どくりつ丘陵きゅうりょうじょう位置いちするという地理ちりてき条件じょうけんから、遺跡いせき範囲はんい明確めいかくであり、たまきほり墓域ぼいきふく集落しゅうらく全体ぜんたいぞう把握はあくすることが可能かのうである。また、土器どき形式けいしきへんねんもとづき、弥生やよい中期ちゅうき後半こうはんから後期こうき後半こうはんいた集落しゅうらく変遷へんせんることができる[14]

出土しゅつど土器どきは、南関東みなみかんとうけいのもの以外いがいに、中部ちゅうぶ高地こうち東海とうかい地方ちほう系統けいとうくものがある。出土しゅつど遺物いぶつには、土器どきのほか、Aみぞから出土しゅつどした銅鐸どうたくがた製品せいひん(3てん)とどう釧がある。銅鐸どうたくがた製品せいひんが1遺跡いせきから3てん出土しゅつどするのはめずらしく、銅鐸どうたく文化ぶんか圏外けんがいほん遺跡いせきからこれらが出土しゅつどしたということは、東海とうかい地方ちほう菊川きくかわしき土器どき類似るいじした下戸塚しもとづかしき土器どきとともに、ほん遺跡いせき東海とうかい地方ちほうとの交流こうりゅうをうかがわせるものである。ほん遺跡いせきは、弥生やよい時代じだいにおける遠隔えんかくあいだ交流こうりゅう影響えいきょうのありかたることができるてんでも貴重きちょうである。以上いじょうのように、ほん遺跡いせきは、関東かんとう地方ちほう代表だいひょうする弥生やよい時代じだい集落しゅうらく遺跡いせきであり、関東かんとうにおける弥生やよい文化ぶんか理解りかいするうえで重要じゅうよう遺跡いせきである[15]

文化財ぶんかざい

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くに史跡しせき

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  • うまおうやま遺跡いせき:2020ねんれい2ねん)3がつ10日とおか指定してい[16]

埼玉さいたまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • うまおうやま遺跡いせき出土しゅつどひん考古こうこ資料しりょう):2018ねん平成へいせい30ねん)2がつ27にち指定してい[16]

和光わこう指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • うまおうやま遺跡いせきだい1調査ちょうさ出土しゅつど板碑いたびぐん考古こうこ資料しりょう):2007ねん平成へいせい19ねん)7がつ1にち指定してい[16]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ だい1調査ちょうさおこなわれたのは、年度ねんどでいえば1978ねん昭和しょうわ53ねんだが、調査ちょうさ年度ねんどまつの1979ねん昭和しょうわ54ねん)3がつ開始かいしされているので、ここでは「1979ねんから」とする。

出典しゅってん

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  1. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 8,10,219.
  2. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう じょう新倉あらくらむら.
  3. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 2,20,22,33.
  4. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 33,67.
  5. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 67.
  6. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 68.
  7. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 70.
  8. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 75.
  9. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 79.
  10. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 121,124,125,159,228.
  11. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 140,141,234.
  12. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 67,68,178,228,238.
  13. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 70,75,79,178,228,238.
  14. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 173,238.
  15. ^ 和光わこう教育きょういく委員いいんかい 2019, p. 224,236,238,242.
  16. ^ a b c 生涯しょうがい学習がくしゅう文化財ぶんかざい保護ほご担当たんとう. “和光わこう歴史れきし玉手箱たまてばこ和光わこうデジタルミュージアム”. 和光わこう. 2022ねん10がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 和光わこう教育きょういく委員いいんかい和光わこう埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい66しゅう うまおうやま遺跡いせき総括そうかつ報告ほうこくしょ和光わこう教育きょういく委員いいんかい、2019ねん 
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