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四條畷の戦い - Wikipedia コンテンツにスキップ

四條畷しじょうなわてたたか

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四条畷しじょうなわてたたか
四條畷神社
四條畷しじょうなわて神社じんじゃ
楠木くすのき正行まさゆき主祭しゅさいしんとする神社じんじゃ戦場せんじょうではない)
戦争せんそう南朝なんちょう室町むろまち幕府ばくふ北朝ほくちょう)のたたか
年月日ねんがっぴ正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん1がつ5にち1348ねん2がつ4にち
場所ばしょ河内かわうちこくたたえぐん野崎のさき大阪おおさか大東だいとう野崎のさき)からきたよんじょう同市どうし北条ほうじょう
結果けっか室町むろまち幕府ばくふ決定的けっていてき勝利しょうり南朝なんちょう没落ぼつらく
交戦こうせん勢力せいりょく
南朝なんちょう
楠木くすのきとう
北朝ほくちょう
室町むろまち幕府ばくふ
指導しどうしゃ指揮しきかん
楠木くすのき正行まさゆき 

楠木くすのき正時まさとき 
和田わだけんかい 
和田わだ行忠ゆきただ 
大塚おおつかおもんみただし戦傷せんしょう?)
和田わだすけ
野田のだ四郎しろう 
ひらきじゅうりょうえん 
ひらきじゅうりょうえん息子むすこ 
青屋あおや刑部おさかべ 


太平たいへい
四条しじょうたかし
楠木くすのきただし
さんりん西にしおもね

高師直こうのもろなお

佐々木ささきしるべほまれ
細川ほそかわよりゆきぎょう 
細川ほそかわ義春よしはる 
佐野さの氏綱うじつな
上山うえやまだかもと 
諏訪部すわべ扶直


太平たいへい
細川ほそかわよりゆきはる
細川ほそかわきよし
今川いまがわはんこく

戦力せんりょく
不明ふめい[注釈ちゅうしゃく 1] やく10,000[注釈ちゅうしゃく 1]
損害そんがい
戦死せんししゃすうひゃくにん(うち将校しょうこう27にん
りになったもの
不明ふめい将校しょうこうすうにん戦死せんし
南北なんぼくあさ内乱ないらん

四條畷しじょうなわてたたか(しじょうなわてのたたかい)は、南北なんぼくあさ時代じだい正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん1がつ5にち1348ねん2がつ4にち)、河内かわうちこくたたえぐん野崎のさき大阪おおさか大東だいとう野崎のさき)からきたよんじょう同市どうし北条ほうじょう)にかけておこなわれた、南朝なんちょう河内かわうちまもる楠木くすのき棟梁とうりょう楠木くすのき正行まさゆき実弟じってい正時まさときと、北朝ほくちょう室町むろまち幕府ばくふ執事しつじ高師直こうのもろなお引付ひきつけかたあたまじん佐々木ささきしるべほまれとのあいだたたか[1]

圧倒的あっとうてき兵力へいりょくまさじきぐんたいし、正行まさゆきから攻撃こうげき仕掛しか熾烈しれつたたかいとなった。じき野営やえいきずいていた野崎のさき周辺しゅうへんは、当時とうじひがし飯盛山いいもりさんなどの生駒山地いこまさんちに、西にし深野ふかのいけかこまれたせまであり、かつ湿地しっちたいでもあった。そのため、大軍たいぐん騎馬きばへい運用うんようには不利ふりであり、正行まさゆきはそこをいたというせつがある。史料しりょうとぼしく戦闘せんとう経過けいかには諸説しょせつあるが、いずれにせよ、すくなくとも正行まさゆきじき本陣ほんじんである野崎のさきから後退こうたいさせ、きたよんじょうもしくはそれ以北いほくまでにんだことは確実かくじつである。しかし、正行まさゆき北四条きたしじょうでついに力尽ちからつき、結果けっかとしては南朝なんちょうがわ正行まさゆきふくめ27にんもの武将ぶしょう死亡しぼう死者ししゃ計数けいすうひゃくにんおよ大敗たいはいとなった。

楠木くすのき兄弟きょうだい戦死せんしによって、南朝なんちょうがわ同月どうげつまつ臨時りんじ首都しゅと吉野よしの行宮あんぐう喪失そうしつし、賀名かなせいのがれた。一方いっぽう、このたたかいの勝利しょうり吉野よしの行宮あんぐう攻略こうりゃくによって執事しつじじき名声めいせいたかまったことで、幕府ばくふ事実じじつじょう最高さいこう権力けんりょくしゃである足利あしかが直義ただよし将軍しょうぐん尊氏たかうじおとうと)との政治せいじ権力けんりょく均衡きんこうくずれ、幕府ばくふ最大さいだい内部ないぶこうそうひとつであるかんおう擾乱じょうらん1350ねん - 1352ねん)が発生はっせいすることになった。

なお、史実しじつでの戦闘せんとう発生はっせいもとづけば「野崎のさき北四条きたしじょうたたかい」とでもなるはずだが、軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』により「四條しじょう縄手なわてたたかい」(『太平たいへい流布るふほんによる表記ひょうき)あるいは「四條畷しじょうなわてたたかい」(現在げんざい四條畷しじょうなわてという自治体じちたいめいもとづく表記ひょうき)の呼称こしょう著名ちょめいである。

背景はいけい

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水野みずの年方としかた教導きょうどう立志りっしもと』より『くすのき正行まさゆき』。出征しゅっせい直前ちょくぜん楠木くすのき正行まさゆき

のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん5月25にち1336ねん7がつ4にち)、楠木くすのき棟梁とうりょう楠木くすのき正成まさしげ湊川みなとがわたたかはいしたため、しばらく楠木くすのき宗家そうけではなく同族どうぞく大塚おおつか和泉いずみ守護しゅごだい大塚おおつかおもんみただし楠木くすのきおもんみただし)らが指揮しきをとってみなみ朝方あさがたとしてたたかっていた。

やがて、正成まさしげ楠木くすのき正行まさゆき成長せいちょうしてのべもと5ねん/こよみおう3ねん(1340ねん)ごろから棟梁とうりょうとしての活動かつどうはじめ、本拠地ほんきょちである河内かわちこく南部なんぶ次第しだいちからたくわえた。河内かわうちまもるとなって7年間ねんかん一切いっさいたたかいをしなかった正行まさゆきだが、正平しょうへい2ねん/貞和さだかず3ねん8がつ10日とおか1347ねん9月15にち)に挙兵きょへいし、紀伊きいこくめた。その経緯けいい考察こうさつについては、楠木くすのき正行まさゆき#挙兵きょへい準備じゅんび目的もくてき参照さんしょう

そのかわいずみまで進出しんしゅつし、足利あしかがかたおびやかすようになった。同年どうねん9がつ楠木くすのきぐん藤井寺ふじいでら近辺きんぺん細川ほそかわあらわやぶり、11月には住吉すみよし付近ふきん山名やまなやぶった。

戦闘せんとう準備じゅんび

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騎馬きば武者むしゃぞう高師直こうのもろなおかその親族しんぞくせつがある。

正行まさゆき怒涛どとう攻勢こうせいに、室町むろまち幕府ばくふ本格ほんかくてき南朝なんちょう攻撃こうげき決意けついし、執事しつじ高師直こうのもろなおそう大将たいしょう、そのおとうと高師泰こうのもろやすだいぐん大将たいしょうとする大軍たいぐん編成へんせいして河内こうち派遣はけんすることを決定けっていした。

正平しょうへい2ねん/貞和さだかず3ねん1347ねん)12月14にち、まずはだいぐん高師泰こうのもろやす執事しつじ高師直こうのもろなおおとうと)がさき出陣しゅつじんし(『もり』『田代たしろ文書ぶんしょ[2])、和泉いずみこくさかいうら現在げんざい大阪おおさかさかい)にかい、同地どうち待機たいき(『淡輪たんのわ文書ぶんしょ[3])。11月からまくしょう淡輪たんのわじょじゅう南朝なんちょうからの攻撃こうげきたい和泉いずみ井山いやまじょう現在げんざい大阪おおさか阪南はんなん箱作はこつくり所在しょざい)にてこもっていたが、たい出陣しゅつじんって合流ごうりゅうした(『淡輪たんのわ文書ぶんしょ[2])。

そう大将たいしょう高師直こうのもろなお出発しゅっぱつはじめ18にちよるうわさされていたが(『えんたいれき[4])、なぜかそれよりおくれ、25にち(『東金とうがねどう細々こまごまよう』『たてたけしさんねん以来いらい[4])もしくは26にち(『もり[4])にきょうち、八幡やはた到着とうちゃく諸国しょこくへい到着とうちゃくった。

このつき南朝なんちょう北朝ほくちょう幕府ばくふさん勢力せいりょくとも国家こっか存亡そんぼうめる決戦けっせん気配けはいかんじたのか、さかんに戦勝せんしょう祈願きがんおこなった。れいげれば、17にち南朝なんちょう後村上天皇ごむらかみてんのうは、東寺とうじたいし、こう宇多天皇うだてんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう遺志いしいで「天下てんか一統いっとう」を達成たっせいできたあかつきには、このてらてると約束やくそくして、戦勝せんしょう祈願きがんをさせた(『東寺とうじ文書ぶんしょ[5])。24にち北朝ほくちょうひかりげん上皇じょうこう院宣いんぜんはっして、醍醐寺だいごじ天下てんか静謐せいひついのらせた(『醍醐だいご地蔵じぞういん日記にっき[6])。26にち幕府ばくふ将軍しょうぐんおとうと足利あしかが直義ただよしは、天下てんか静謐せいひつのため、東寺とうじ神護かんごてらだい般若はんにゃけいを37日間にちかん転読てんどくするように要請ようせいした(『東寺とうじ文書ぶんしょ』『神護かんごてら文書ぶんしょ[7])。

尾形おがた月耕げっこうくすのき正行まさゆき 四條畷しじょうなわてちゅうせん
四條畷しじょうなわてたたか戦闘せんとう経過けいか一案いちあん

としけて正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん1がつ1にち諏訪部すわべ扶直ら幕府ばくふしょしょう八幡はちまん到着とうちゃく(『三刀屋みとや文書ぶんしょ[8])。有力ゆうりょく武将ぶしょうとしては、引付ひきつけかたあたまじんバサラ大名だいみょうとして著名ちょめい佐々木ささきしるべほまれや(『三刀屋みとや文書ぶんしょ[8])、足利あしかが支流しりゅう佐野さの武将ぶしょう佐野さの氏綱うじつながいた(『古今ここん消息しょうそくしゅう[8])。

経過けいか

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山城やましろこく京都きょうと)から河内かわうちこく大阪おおさか東部とうぶ)へはい手前てまえとしした幕府ばくふぐんは、正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん1348ねん1がつ2にち、ついにそう大将たいしょうじきだい一軍いちぐん国境こっきょうえて河内かわうち守正もりまさぎょう領国りょうごくである河内かわちこくはいり、同国どうこくたたえぐん野崎のさき大阪おおさか大東だいとう野崎のさき)のあたりに逗留とうりゅうした(『醍醐だいご地蔵じぞういん日記にっき同日どうじつじょう[8][9]

それから3にち正平しょうへい3ねん/貞和さだかず4ねん1がつ5にち1348ねん2がつ4にち)、さんりょうぐん北四条きたしじょう大阪おおさか大東だいとう北条ほうじょう)で正行まさゆきじき激突げきとつした(『えんたいれき同日どうじつじょう[1]

しかし、このたたかいにかんする史料しりょうきわめてとぼしい[10]戦闘せんとう経過けいかについて確実かくじつにわかっていることは、以下いか程度ていどである[11]

  • じきたたえぐん野崎のさき大阪おおさか大東だいとう野崎のさき)にじんいていたこと(『醍醐だいご地蔵じぞういん日記にっき』)[8]
  • 正行まさゆきひきいる南朝なんちょうぐんほうから攻撃こうげき仕掛しかけたこと(『えんたいれき』)[1]
  • 主戦しゅせんじょうおよび正行まさゆきられた場所ばしょさんりょうぐん北四条きたしじょう大阪おおさか大東だいとう北条ほうじょう)であったこと(『薩藩旧記きゅうき』「足利あしかが直義ただよし書状しょじょうとう[12]。なお、ここで注意ちゅういすべきは、主戦しゅせんじょうとなったきたよんじょうは、じきじんがある野崎のさきの「きたとなりの」地域ちいきである、いいかえればみなみせいこころみるじき進行しんこう方向ほうこうとは、ぎゃく方向ほうこうなことである[11]
  • 熾烈しれつたたかいになったこと(『えんたいれき』「合戦かっせん頗火ほどことなり」)[1]

生駒いこまたかししんによれば、じき勝因しょういんへいすうだけではなく、戦術せんじゅつでも正行まさゆきくらいちまいまい上手じょうずであったためという[9]。まず野崎のさき本陣ほんじんいたじきは、その東部とうぶから北東ほくとうにある飯盛山いいもりさん占拠せんきょした[9]。それにたい正行まさゆき行動こうどういちおくれたため、ひがし飯盛山いいもりさんに、西にし深野ふかのいけ(ふこうのいけ)にはさまれた東高野ひがしごうや街道かいどう一直線いっちょくせんすすまざるをず、正面しょうめんちょくほんぐん右手みぎて飯盛山いいもりさんささえぐん同時どうじ相手あいてにすることになってしまった[9]必然ひつぜんてきに、正行まさゆき正面しょうめんちょく本陣ほんじんむしかなかったのである[9]。その一方いっぽう藤田ふじた精一せいいちは、正行まさゆきがあえてここで開戦かいせんったのは、当時とうじ野崎のさきからきたよんじょう北条ほうじょう)は西方せいほう深野ふかのながれる湿地しっちたいであったため、大軍たいぐん運用うんようあまてきしておらず、少数しょうすう手勢てぜい奇襲きしゅうすればじきれるとかんがえたのではないかと指摘してきする[13]。また、『太平たいへい』では、南朝なんちょうぐん最初さいしょ騎兵きへいだったのが途中とちゅうからうまりて歩兵ほへいになったとえがかれているが、藤田ふじた正行まさゆき最初さいしょから歩兵ほへい運用うんようしていたものとして説明せつめいし、また『太平たいへい』の正行まさゆき南朝なんちょうぐんさん部隊ぶたいけたとする描写びょうしゃとはちがい、実際じっさいぜんぐんこうぐん部隊ぶたいけたのだろうとしている[11]

藤田ふじた生駒いこまともに、圧倒的あっとうてき兵力へいりょくでもなお一時いちじてきには正行まさゆき優勢ゆうせいであったとする[9][11]。しかし、藤田ふじたによれば、ひがし飯盛山いいもりさんからりてきたじきぐん支隊したい挟撃きょうげきされる格好かっこうとなってしまい、南朝なんちょうぐんのちぐんがそれによって機能きのうしなくなってしまったという[11]。それでもなお、正行まさゆきひきいるまえぐん正面しょうめん攻撃こうげきつづけた[11]藤田ふじたによれば、四條畷しじょうなわてたたかいの主戦しゅせんじょうきたよんじょうとなっており、じき本陣ほんじんである野崎のさきからきたにずれているのは、正行まさゆき猛攻もうこうによってじき撤退てったいしたからだという[11]湿地しっちたいであるため、騎兵きへいであるじき後退こうたい速度そくどおそいのも正行まさゆき作戦さくせん範疇はんちゅうであり、南朝なんちょうぐん追撃ついげきつづけた[11]。しかし、ついに決定けっていあたえることが出来できないまま、幕府ばくふぐん大将たいしょうじき戦域せんいきからの離脱りだつ完了かんりょうしたうえに、南朝なんちょうぐん戦線せんせんびきってしまい、時刻じこく夕方ゆうがたむかえて、正行まさゆきらは力尽ちからつきてしまった[11]

結果けっか

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南朝なんちょうでは楠木くすのき正行まさゆきとそのおとうと楠木くすのき正時まさとき)、そして和田わだしんはつ(わだしんぼち。和田わだけんかいとも。正行まさゆき従兄弟いとこ)が自害じがい(『えんたいれき[1])。その和田わだしんはつおとうとしん兵衛ひょうえじょう和田わだ行忠ゆきただ)(『薩摩さつま旧記きゅうき[1])、ひらきじゅうりょうえん(『阿蘇あそ文書ぶんしょ』『東金とうがねどう細々こまごまよう[1])、りょうえん息子むすこ(『東金とうがねどう細々こまごまよう[1])、吉野よしの衆徒しゅとである青屋あおや刑部おさかべ(『阿蘇あそ文書ぶんしょ[1])らも討死うちじに正行まさゆきふくめて27にんもの武将ぶしょう死亡しぼうした(『阿蘇あそ文書ぶんしょ[1])。楠木くすのき宗家そうけ重鎮じゅうちん武将ぶしょう大塚おおつかおもんみただし楠木くすのきおもんみただし)は、南朝なんちょうない文書ぶんしょである『阿蘇あそ文書ぶんしょ』に戦死せんし報告ほうこくがされていないため[1]、おそらくんではいないとかんがえられるが、これ以降いこう史料しりょうから姿すがたすため、再起さいき不能ふのうなほどの重症じゅうしょうったともかんがえられる。楠木くすのきとうがわのこってこののち歴史れきし登場とうじょうする武将ぶしょうは、のち和泉いずみ和田わだ棟梁とうりょうとなる和田わだすけ(みきたすけうじ、和田わだけんかい兄弟きょうだいとはべつぞく)がいるが(『和田わだ文書ぶんしょ[1])、ぎゃくえばにはられないほどの惨状さんじょうだった。戦死せんししゃすうひゃくにんかぞえた(『薩摩さつま旧記きゅうき』『東金とうがねどう細々こまごまよう[1])。『えんたいれき』によれば、くびられたものだけではなく、りになったものもおおかった[14][1]

一方いっぽう幕府ばくふがわ損害そんがいもゼロではなく、上山うえやま修理しゅうりあきらだかもと(『常楽じょうらく[1])、細川ほそかわよりゆきしゅ細川ほそかわどおしゅう)の長子ちょうし細川ほそかわよりゆきぎょうよりゆきしゅ従兄弟いとこ細川ほそかわ義春よしはる(『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく所収しょしゅう細川ほそかわ系図けいず[15][注釈ちゅうしゃく 2]すうにん武将ぶしょう討死うちじにした。とはいえ、南朝なんちょうけた損害そんがいくらべれば圧勝あっしょうだった。

その

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月岡つきおか芳年よしとし演劇えんげき改良かいりょう』より『吉野よしの拾遺しゅういよんじょう縄手なわて くすのき正行まさゆき討死うちじに くすのき帯刀たてわき正行まさゆき 市川いちかわだん十郎じゅうろう』。「げききよしきゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろうえんじる正行まさゆきえがいたもの。

よく6にち楠木くすのき正行まさゆきらの首級しゅきゅう京都きょうとろくじょう河原かわはらさらされた(『たてたけしさんねん以来いらい[1])。どう6にち北朝ほくちょう左大臣さだいじんほらいんおおやけけんは、新年しんねん早々はやばやめでたいことだと喝采かっさいした(『えんたいれき[1])。生駒いこまによれば、これはてきたいするめた評価ひょうかのようにもえるが、どちらかといえばむしろ、きょう刻々こくこくせま強大きょうだいてきしょう楠木くすのき正行まさゆきたいする恐怖きょうふしんから開放かいほうされた安堵あんどかんれたものではないかという[17]どう6にち南朝なんちょうみや将軍しょうぐんきょうりょう親王しんのうりくりょう親王しんのう?)とじゅん大臣だいじん北畠きたばたけ親房ちかふさは、和田わだすけのこりの武将ぶしょうあつめ、北朝ほくちょう寝返ねがえらず南朝なんちょうのこれば多大ただい恩賞おんしょうがあると激励げきれいした(『和田わだ文書ぶんしょ[18])。

正行まさゆき正時まさとき幼少ようしょうおとうと楠木くすのき正儀まさよし南朝なんちょう大将たいしょう楠木くすのき棟梁とうりょう地位ちいいでたたかった(楠木くすのき正儀まさよし#初陣ういじん)。1月8にちさかいから無傷むきずのまま進撃しんげきしただいぐん高師泰こうのもろやすぐん正儀まさきめているあいだに、じきによって1がつ24にちから28にち攻撃こうげき南朝なんちょう首都しゅと吉野よしの行宮あんぐう陥落かんらくするが、正儀まさよしは2がつ8にちたたかいで幕府ばくふ一矢いっしむくい、2がつ12にちこう兄弟きょうだい撤退てったいさせることにかろうじて成功せいこうした(楠木くすのき正儀まさよし#吉野よしの行宮あんぐう陥落かんらく)。それからも幕府ばくふ直義ただよし養子ようし将軍しょうぐん尊氏たかうじ嫡出ちゃくしゅつ)であるわか勇将ゆうしょう足利あしかが直冬ただふゆ起用きようだい攻勢こうせい仕掛しかけるなど、南朝なんちょうには綱渡つなわたりの状態じょうたいつづいた。

ところが、皮肉ひにくにも、正行まさゆき吉野よしの攻略こうりゃくしたじき英名えいめい絶頂ぜっちょうたっしたことで、直義ただよしじきあいだ政治せいじりょく均衡きんこうくずり、足利あしかが内紛ないふんかんおう擾乱じょうらん1350ねん - 1352ねん)とばれる南北なんぼくあさ時代じだい最大さいだい政治せいじ闘争とうそうひとつに発展はってんすることになった。この擾乱じょうらん利用りようして南朝なんちょうがわ再起さいきはかろうとするが、その混沌こんとんつづいていった。

考察こうさつ

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へいすう

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じきぐんへいすうについては、『醍醐だいご地蔵じぞういん日記にっき』(『ぼうげん法印ほういん同年どうねん1がつ1にちじょう)によれば、だい一軍いちぐんじきぐんだけでおよそいちまんへいすうがあったという[19]

なお、高師泰こうのもろやすだいぐん編成へんせいされていたが、『太平たいへい』ではひたとはべつ行動こうどうって1がつ2にちさかい駐留ちゅうりゅうしており、四條畷しじょうなわてたたかいには参加さんかしていない[20]史料しりょうではたいさかい駐留ちゅうりゅうしていたことの直接的ちょくせつてき証拠しょうこはない。ただし、すくなくとも史料しりょうでは四條畷しじょうなわてたたか直後ちょくごの1がつ8にちひたべつ行動こうどうって古市ふるいち羽曳野はびきの所在しょざい)に駐屯ちゅうとんし、そこから正行まさゆきかんはらうなどしている[21]

楠木くすのきぐんへいすうについては、『太平たいへい流布るふほんでは幕府ばくふぐん楠木くすのきぐん兵力へいりょくは20:1のため[20]、これをそのままてはめると楠木くすのきぐん戦力せんりょくは500にんとなる。新井あらい孝重たかしげによれば、鎌倉かまくら時代ときよさい末期まっき元弘もとひろらんころ御家人ごけにんは、平均へいきん20にん程度ていど戦闘せんとういんと、馬丁ばてい物持ものもとう2–3にん戦闘せんとういんれていたという(ただし大雑把おおざっぱ平均へいきんであって、御家人ごけにんによってすうにんから100にん以上いじょうはばおおきい)[22]せい行軍こうぐんには最低さいてい29にん軍事ぐんじ指揮しきかん死亡しぼう27にん大塚おおつかおもんみただし和田わだすけ)がいたから、指揮しきかん自身じしんふくめると最低さいていへいすうは29 * (1 + 20 + 2.5)=やく682にんで、500にんとはそれほどはずれていない。無論むろん、これはほとんど死亡しぼうした指揮しきかんもとづく最低さいていへいすう概算がいさんであるため、のこりもふくめた場合ばあいへいすう不明ふめい

合戦かっせん場所ばしょ

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軍記ぐんきぶつ(フィクション)である『太平たいへい』により「四條畷しじょうなわて四條しじょう縄手なわて)」の戦場せんじょうめい有名ゆうめいだが(「なわて」は農地のうち農地のうちつな間道かんどうのこと)、史実しじつ戦闘せんとうこった場所ばしょ河内かわうちこく佐良さら々(さらら、たたえぐん)の「北四条きたしじょう」という場所ばしょである(『薩摩さつま旧記きゅうき足利あしかが直義ただよし書状しょじょうおよび『古今ここん消息通しょうそくつう佐野さの氏綱うじつなぐんちゅうじょう[1])。 中世ちゅうせいでのきたよんじょうがどこだったか厳密げんみつには不明ふめいだが、すくなくとも江戸えど時代じだいにはさんりょうぐん北条ほうじょうむらに「きた」「四条しじょう」「つじ」の3つの集落しゅうらく存在そんざいし、実際じっさい、『河内かわうちこころざし』(とおる12ねん1727ねん開板かいはん所収しょしゅうさんりょうぐん古蹟こせきこころざし』でも「四条しじょうあぜ戦場せんじょうざい北四条きたしじょう邑、/邑属北条ほうじょう邑〉」と、北条ほうじょうむらなかでの「北四条きたしじょう」が四條畷しじょうなわてたたかいの古戦場こせんじょうだったことをしるしている[23]明治めいじ時代じだいになってから、北条ほうじょうむら四条しじょうむら現在げんざい大東だいとう東部とうぶ)と改称かいしょうされ、きたよんじょう大字だいじ北条ほうじょうになるという、地名ちめい逆転ぎゃくてん現象げんしょうきた[23]現在げんざい大阪おおさか大東だいとう北条ほうじょうたる。

かつては大阪おおさか東大阪ひがしおおさか四条しじょう縄手なわて)ではないかというせつもあったが、ここはきゅうぐんめいでいえば河内かわちぐん四条しじょうむらであって、さんりょうぐんでもきたよんじょうでもないから、あきらかにあやまりである[23]。ただ、長野ながのという人物じんぶつが、明治めいじ19ねん(1886ねん)に「くすのき井手いで」なる場所ばしょったら人馬じんば遺骨いこつ武具ぶぐてきたと主張しゅちょうしたが、長野ながの供養くようのためにそれらの遺骨いこつ遺品いひんをまたなおしたとべ、そのため証拠しょうこひん現存げんそんせず、事実じじつかどうか不明ふめいである[23]

現在げんざい大阪おおさか四條畷しじょうなわては、小楠公しょうなんこう墓所はかしょという伝説でんせつがある場所ばしょに、明治めいじ23ねん(1890ねん)、四條畷しじょうなわて神社じんじゃ建立こんりゅうされたことから発展はってんしてめいになったもので、史実しじつとして四條畷しじょうなわてたたかいと関係かんけいがあるかは不明ふめい。ただ、貝原かいばら益軒えきけん元禄げんろく2ねん(1689ねん)に旅行りょこうしたときは、すで正行まさゆき正時まさときはかしょうされるはかがあったという(『みなみゆう紀行きこう』)[24]

太平たいへい』での描写びょうしゃ

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太平たいへい』では、みなみ朝方あさがた四条しじょうたかし楠木くすのきただしさんりん西にしおもね幕府ばくふかた細川ほそかわよりゆきはる細川ほそかわきよし今川いまがわはんこくなども参戦さんせんしているが史実しじつかは不明ふめい[20]史実しじつでは討死うちじにしたか不明ふめい大塚おおつかおもんみただし楠木くすのきおもんみただし)も戦死せんししたことにされてしまっている。日付ひづけこまかい部分ぶぶんちがう(じき八幡やはたから出陣しゅつじんしたのが1がつ3にちになっているなど)。

また、楠木くすのき正行まさゆき本陣ほんじん往生おうじょういんだったとえがかれる。正行まさゆき玉砕ぎょくさいしんめ、決死けっし覚悟かくごうたにして、「かえらじと かねておもへば あづさゆみ なきかずにいる をぞとゞむる」の辞世じせいのこしたという逸話いつわ有名ゆうめいだが、四條畷しじょうなわてたたかいが玉砕ぎょくさい覚悟かくごたたかいだったというのは複数ふくすう研究けんきゅうしゃから否定ひていされている(楠木くすのき正行まさゆき#玉砕ぎょくさいせん)。

りょうぐんへいすう幕府ばくふぐん60,000(さかい待機たいきするたいぐんわせると80,000)、南朝なんちょうぐん3,000と、『太平たいへい特有とくゆう大幅おおはば誇張こちょう表現ひょうげんがなされている。ただ、討死うちじにした武将ぶしょうかずについては、「和田わだくすのき兄弟きょうだい4にん一族いちぞく23にん[25]かれており、これは史実しじつ一致いっちするため(一族いちぞくっていいか不明ふめい武将ぶしょうふくまれるとはいえ)、著者ちょしゃらがそれなりに取材しゅざいおこなったうえで、はなし面白おもしろくするためにあえて雑兵ぞうひょうかず誇張こちょうした事情じじょううかがわれる。

関連かんれん画像がぞう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 太平たいへい』では、南朝なんちょうが3,000、幕府ばくふ/北朝ほくちょうが60,000。駐留ちゅうりゅうちゅうたいぐんは20,000。
  2. ^ 細川ほそかわ系図けいず』では細川ほそかわ直俊なおとし四條しじょう縄手なわて討死うちじにしたとするが[15]いち史料しりょうによれば実際じっさいはこの10ねんまえのべもと2ねん/たてたけし4ねん(1337ねん)3がつ10日とおか大塚おおつかおもんみただしらとのたたかいで死亡しぼうしている(『和田わだ文書ぶんしょ所収しょしゅうきし和田わだおさむぐんちゅうじょう[16])。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ297-330ぺーじ.
  2. ^ a b だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ37–40ぺーじ.
  3. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ340–342ぺーじ.
  4. ^ a b c だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ58–61ぺーじ.
  5. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ42ぺーじ.
  6. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ50–56ぺーじ.
  7. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ61–62ぺーじ.
  8. ^ a b c d e だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ291–293ぺーじ.
  9. ^ a b c d e f 生駒いこま 2019.
  10. ^ 生駒いこま 2017, pp. 82–84.
  11. ^ a b c d e f g h i 藤田ふじた 1938, pp. 331–334.
  12. ^ 藤田ふじた 1938, pp. 331–337.
  13. ^ 藤田ふじた 1938, p. 332.
  14. ^ 生駒いこま 2017, p. 83.
  15. ^ a b だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ323ぺーじ.
  16. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん4さつ106–108ぺーじ.
  17. ^ 生駒いこま 2017, pp. 83–84.
  18. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん11さつ331ぺーじ.
  19. ^ 大阪おおさか編纂へんさんしょ & 生駒いこま 2019, p. 119.
  20. ^ a b c 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょく 1913, pp. 746–760.
  21. ^ 生駒いこま 2017, p. 86.
  22. ^ 新井あらい 2011, pp. 123–124.
  23. ^ a b c d 藤田ふじた 1938, pp. 334–337.
  24. ^ 平凡社へいぼんしゃ日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい大阪おおさか四條畷しじょうなわて南野みなみのむら楠木くすのき正行まさゆきはか
  25. ^ 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょく 1913, p. 760.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 新井あらい孝重たかしげ楠木くすのき正成まさしげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねんISBN 9784642080668 
  • 生駒いこまたかししん楠木くすのき正成まさしげ正行まさゆきえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・実像じつぞうせまる 006〉、2017ねんISBN 978-4864032292 
  • 生駒いこま, こうしん (2019ねん3がつ14にち). “楠木くすのき一族いちぞく実像じつぞう南北なんぼく朝内あさうちらん”. 大阪おおさか狭山さやま熟年じゅくねん大学だいがく一般いっぱん教養きょうよう科目かもく). 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん
  • 大阪おおさか編纂へんさんしょ; 生駒いこまたかししん へん楠木くすのき正成まさしげ関係かんけい史料しりょうした)』大阪おおさか史料しりょう調査ちょうさかい大阪おおさか史料しりょうだいはちじゅうなな輯〉、2019ねん 
  • 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょく へん校訂こうてい 太平たいへい』(21はん博文ひろぶみかんぞく帝国ていこく文庫ぶんこ 11〉、1913ねんdoi:10.11501/1885211NDLJP:1885211https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211 
  • 藤田ふじた精一せいいちくすのき研究けんきゅう』(ぞうていよん積善せきぜんかん、1938ねんdoi:10.11501/1915593NDLJP:1915593https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593 

関連かんれん項目こうもく

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