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鏡形かがみがた竪穴たてあな建物たてもの

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敷石しきいし住居じゅうきょから転送てんそう
神奈川かながわけん相模原さがみはらみなみかちざか遺跡いせきくに史跡しせきだい30ごう鏡形かがみがた敷石しきいし建物たてもの
群馬ぐんまけん利根とねぐんみなかみまちなし平敷へしきせき住居じゅうきょあと群馬ぐんまけん指定してい史跡しせき[1]

鏡形かがみがた竪穴たてあな建物たてもの(えかがみがたたてあなたてもの)は、縄文じょうもん時代じだい竪穴たてあな建物たてもの竪穴たてあな住居じゅうきょとも)の1しゅで、建物たてもの出入口でいりぐちられる箇所かしょち、平面へいめんがたきょうかたちていするものをす。扁平へんぺい川原かわらせきゆかめたれいおおく、その場合ばあい鏡形かがみがた敷石しきいし建物たてもの(えかがみがたしきいしたてもの)」や「鏡形かがみがた敷石しきいし住居じゅうきょ(えかがみがたしきいしじゅうきょ)」などともばれる[2]

概要がいよう

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とう遺構いこうたいする呼称こしょう様々さまざまで、従来じゅうらいは「竪穴たてあな住居じゅうきょ」などのように「鏡形かがみがた住居じゅうきょ(えかがみがたじゅうきょ)」とばれ、敷石しきいしともな場合ばあいは「敷石しきいし住居じゅうきょ(しきいしじゅうきょ)」や「敷石しきいし遺構いこう(しきいしいこう)」とばれていた[3]

しかし、居住きょじゅうよう施設しせつとは断定だんていできないうえ、一般いっぱんてきな「竪穴たてあな住居じゅうきょ」についても、工房こうぼうなど居住きょじゅう以外いがい用途ようと使つかわれる事例じれいがあり「住居じゅうきょ」のかたりかならずしも適切てきせつでないことが判明はんめいしてきたことから、文化庁ぶんかちょうは『発掘はっくつ調査ちょうさのてびき』(2013ねん発行はっこう)で「竪穴たてあな建物たてもの」と呼称こしょうしていく方針ほうしんしめしており、これにともなとう遺構いこうも「鏡形かがみがた竪穴たてあな建物たてもの鏡形かがみがた敷石しきいし建物たてもの」とあらためられた。1つの集落しゅうらくうちすうけんしかてられないため、通常つうじょう居住きょじゅう施設しせつではないとする意見いけんもある[2]

東北とうほく地方ちほう南部なんぶ福島ふくしまけん)から、関東かんとう中部ちゅうぶ地方ちほう東部とうぶにかけて分布ぶんぷし、縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきまつ出現しゅつげんし、後期こうき中頃なかごろまで存続そんぞくした[3][2]

最初さいしょ発見はっけんれいは、東京とうきょう町田まちだこうざか所在しょざいし、現在げんざいくに史跡しせき指定していされているこうざか石器せっき時代じだい遺跡いせき[注釈ちゅうしゃく 1]である[4]1924ねん大正たいしょう13ねん)に、地下ちか敷石しきいし影響えいきょうはたけゴボウがったことから発見はっけんされ[4]よく1925ねん大正たいしょう14ねん)に後藤ごとう守一しゅいちらの発掘はっくつ調査ちょうさ建物たてものあと判明はんめいした[2]後藤ごとうのち平面へいめんプランのちがいにより、とう遺構いこうを4タイプに分類ぶんるいしている[3]

構造こうぞう

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地面じめん円形えんけい楕円だえんがた、あるいは方形ほうけいくぼめてゆかめん構築こうちくし、掘立柱ほったてばしらてて屋根やねいた竪穴たてあな建物たてものだが、竪穴たてあな一角いっかくから外側そとがわ楕円だえんがたないし方形ほうけいくぼみが存在そんざいするのが特徴とくちょうで、出入口でいりぐち推定すいていされている。平面へいめんプランがかがみ把手とって)をけたきょう手鏡てかがみ)にことからこのがある。ふくめたゆかいちめん(あるいは部分ぶぶんてき)にみち30センチメートルほど扁平へんぺい川原かわらせき充填じゅうてんする事例じれい敷石しきいし建物たてもの)がおお[3]

ゆか中央ちゅうおうにはいしんで構築こうちくしたいしかこえ(いしがこいろ)をつが、けた充填じゅうてんされてよく使用しようされた形跡けいせきしめ場合ばあいもあれば、ほとんど使つかわれた形跡けいせきいものもある。ちかくやには土器どき埋設まいせつされることがある[3]屋根やねささえる掘立柱ほったてばしらかべ沿ってすうほんてられ、敷石しきいしともな場合ばあいはしらあないし合間あいまつくられる。

ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ろうじょう遺跡いせき稲荷山いなりやま遺跡いせき八幡平やわただいら遺跡いせきの3遺跡いせきからなる。

出典しゅってん

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  1. ^ 雪国ゆきぐに観光かんこうけん推進すいしん協議きょうぎかい. “なし平敷へしきせき住居じゅうきょあと”. 雪国ゆきぐに観光かんこうけん. 2022ねん11月2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい記念きねんぶつ 2013, p. 143.
  3. ^ a b c d e 江坂えさか, 芹沢せりざわ & さかつめ 2005, pp. 183–184.
  4. ^ a b 生涯しょうがい学習がくしゅう生涯しょうがい学習がくしゅう総務そうむ (2021ねん11月19にち). “日本にっぽんはじめて発見はっけんされた敷石しきいし住居じゅうきょあとられる!こうざか石器せっき時代じだい遺跡いせき”. 町田まちだ. 2022ねん11月2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 江坂えさか, てるわたる芹沢せりざわ, 長介ちょうすけさかつめ, 秀一ひでかず敷石しきいし遺構いこう」『しん日本にっぽん考古学こうこがくしょう辞典じてん』ニューサイエンスしゃ、2005ねん5がつ20日はつかISBN 9784821605118 
  • 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざい記念きねんぶつ遺構いこう発掘はっくつ」『発掘はっくつ調査ちょうさのてびき』どうなりしゃ集落しゅうらく遺跡いせき調査ちょうさへんだい2はん〉、2013ねん7がつ26にち、117-224ぺーじISBN 9784886215253NCID BB01778935 

関連かんれん項目こうもく

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