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肱川ひじかわ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
肱川ひじかわ
肱川 2006年12月撮影
大洲おおす市街しがいながれる肱川ひじかわ大洲おおすじょうのぞむ。
水系すいけい 一級いっきゅう水系すいけい 肱川ひじかわ
種別しゅべつ 一級いっきゅう河川かせん
延長えんちょう 103 km
平均へいきん流量りゅうりょう 38.62 m³/s
大洲おおすだいいち観測かんそくしょ35ヶ年かねん平均へいきん
流域りゅういき面積めんせき 1210 km²
水源すいげん 鳥坂とりさかとうげ愛媛えひめけん西にし宇和うわまち久保くぼ
水源すいげん標高ひょうこう 460 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 伊予灘いよなだ愛媛えひめけん
流域りゅういき 日本の旗 日本にっぽん 愛媛えひめけん

地図

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肱川ひじかわ(ひじかわ)は、四国しこくみなみ地方ちほうながれる肱川ひじかわ水系すいけい本流ほんりゅうで、一級いっきゅう河川かせんである。りゅう全域ぜんいき愛媛えひめ県内けんないながれている。

概要がいよう

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肱川ひじかわ愛媛えひめけん大洲おおす
臥龍がりょうふち。ここには臥龍がりょう山荘さんそう不老ふろうあんつ。

肱川ひじかわなが支流しりゅうは474ほんおおうえに、ちゅう流域りゅういき大洲おおす盆地ぼんちがある一方いっぽうで、しも流域りゅういき狭窄きょうさくしている。大洲おおす盆地ぼんち北端ほくたんである五郎ごろう地名ちめい)から河口かこう長浜ながはままでの区間くかんは、高低こうていきわめてちいさく、りょうきしやまあしせま渓谷けいこくてき地形ちけいである。くわえて大洲おおす盆地ぼんち北東ほくとう東大洲ひがしおおず地区ちく矢落川やおちがわへの合流ごうりゅうてんがある。

肱川ひじかわ中上なかがみ流域りゅういきではかわ沿いに点在てんざいする盆地ぼんち市街地しがいち形成けいせいされていることから貯留ちょりゅうがた氾濫はんらんこりやすい[1]。また、しも流域りゅういきでは大洲おおす盆地ぼんち流入りゅうにゅうする肱川ひじかわささえかわおお一方いっぽうで、河川かせん勾配こうばいゆるやかで水位すいいがりにくい地形ちけいになっていることから貯留ちょりゅうがた拡散かくさんがた氾濫はんらんこりやすくなっている[1]災害さいがい後述こうじゅつ)。

肱川ひじかわみず流域りゅういきだけでなく、場所ばしょへも導水どうすいされている。野村のむらダムによってめられたみずは、みなみ用水ようすいつうじてきた佐田岬半島さだみさきはんとうからみなみ宇和島うわじままでのみなみ地方ちほう一帯いったいうるおしている。とく柑橘類かんきつるい果樹かじゅえんにとってはかせないみずとして利用りようされている。一方いっぽうで、流域りゅういきでは豪雨ごううときおこなわれたダムの緊急きんきゅう放流ほうりゅうによって死者ししゃたこともある。また、ダムの影響えいきょうで、しも流域りゅういき流量りゅうりょう人為じんいてき変動へんどうられるようになった。

地理ちり

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肱川ひじかわ西にし宇和うわまち久保くぼ鳥坂とりさかとうげ(とさかとうげ)付近ふきん源流げんりゅうはっし、そこからみなみながして、西にし南部なんぶひがしきをえ、西にし野村のむらまち坂石さかいし黒瀬川くろせがわ船戸ふなとがわ合流ごうりゅうきたへときをえる。その河辺川かわべがわ小田川おだがわとう支流しりゅうあつめ、蛇行だこうしつつ四国しこく山地さんち横断おうだんする。ちゅう流域りゅういきには大洲おおす盆地ぼんち存在そんざいする。ここで一気いっきけ、ながれはゆるやかになり、大洲おおす市街しがい貫流かんりゅうして矢落川やおちがわなどと合流ごうりゅうする。した流域りゅういきは、大洲おおす北部ほくぶにて、りょうきしやませま渓谷けいこくじょう地形ちけいから一気いっき瀬戸内海せとないかい伊予灘いよなだ)へとながんでおり、河口かこうには水面すいめんじょう三角州さんかくす形成けいせいされていない。ただし、海中かいちゅうには膨大ぼうだい川砂せんさながんでいる。ここまでのりゅう延長えんちょうは103キロメートルと、四国しこくなかでは比較的ひかくてき長大ちょうだい河川かせんであるにもかかわらず、源流げんりゅう河口かこうとの直線ちょくせん距離きょりやく6ぶんの1の18キロメートルと、その屈曲くっきょくりがうかがえる。

このような場所ばしょながれる肱川ひじかわは、流域りゅういき面積めんせきやく9わり山地さんちめられ、さらに、下流かりゅうだい規模きぼ平野へいやられず、流域りゅういきにおいて目立めだ平野へいやちゅう流域りゅういきよりも上流じょうりゅうがわ存在そんざいする盆地ぼんちかぎられるという特異とくい流域りゅういきぞう[2]。また、肱川ひじかわ河口かこう比較的ひかくてき水深すいしんふかうえに、河川かせん勾配こうばいゆるいため、比較的ひかくてき河川かせん流量りゅうりょうすくない時期じきには河口かこうからやく12 kmの地点ちてんまで海水かいすい流入りゅうにゅうこり、この付近ふきんではうみ棲の魚類ぎょるいなども観察かんさつされる[2]一方いっぽうで、肱川ひじかわ下流かりゅうは、流域りゅういき建設けんせつされたダムが放流ほうりゅうおこなさい流量りゅうりょう急増きゅうぞうし、ダムが貯水ちょすいしているさいには流量りゅうりょう急減きゅうげんなど、人為じんいてき流量りゅうりょう変動へんどう目立めだ場所ばしょでもある[2]

なお、肱川ひじかわ河口かこう長浜ながはまには、冬期とうき肱川ひじかわ上流じょうりゅう大洲おおす盆地ぼんちからろしてくる、肱川ひじかわあらしばれる局地きょくちふう[2]。しばしば大洲おおす盆地ぼんちでは朝霧あさぎり発生はっせいし、このきりふうとも長浜ながはまへとるという現象げんしょうこる。このきりうご様子ようすえる、肱川ひじかわ河口かこう東側ひがしがわ小高こだか場所ばしょに「肱川ひじかわあらし展望てんぼう公園こうえん」も整備せいびされた。

名称めいしょう由来ゆらい

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肱川ひじかわばれるようになった理由りゆうについては諸説しょせつがあり、さだかではない[3]

  • ながれひじのように屈曲くっきょくしているからという。
  • 泥土でいどやぬかるみを「ひじ」とび、「比治ひじ」などのてていた。「土方どかた」(ひじかた)などもこれに由来ゆらいするといわれる。こうした「ひじ」のおおかわで「ひじかわ」ともいわれる。肱川ひじかわふるくは、「比志ひしがわ」あるいは「比治ひじがわ」とも表記ひょうきされていたこともこれを裏付うらづける(堀内ほりうちみつるよし愛媛えひめ地名ちめい』(2000ねん)から)。
  • 伝説でんせつとしては、1331ねん守護しゅごしょくとなった宇都宮うつのみや比志ひしじょう大洲おおすじょう)をきずいたさいに、下手へた石垣いしがきなんかいくずれて、石垣いしがききずけなかったので、「おひじ」という乙女おとめ人柱ひとばしらにしたところ、それ以後いご石垣いしがきくずれなくなったので、乙女おとめれいなぐさめるために、しろしたながれるかわを「比地ひじがわ」(ひじかわ)と名付なづけたとのことである。この伝説でんせつもとづき、宇和島うわじま自動車じどうしゃバスガイドにより「むかし大水おおみずしずめるためおひじさんというむすめ人柱ひとばしらになったことをとむらうため」という観光かんこう説明せつめいがなされている。

おも支流しりゅう

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  • 舟戸川ふなとがわ - 西にし
  • 河辺川かわべがわ - 大洲おおす
  • 小田川おだがわ - 喜多きたぐん内子うちこまちから大洲おおす
    • 田渡たわたりがわ - 喜多きたぐん内子うちこまちから小田川おだがわ合流ごうりゅう
    • 中山川なかやまがわ - 伊予いよから喜多きたぐん内子うちこまちをへて小田川おだがわ合流ごうりゅう
  • 久米川くめかわ - 大洲おおす
  • 矢落川やおちがわ - 伊予いよから大洲おおす
  • 大和やまとがわ - 大洲おおす

おも橋梁きょうりょう

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  • しん冨士ふじきょう(273m)[4]

大洲おおすには肱川ひじかわにかかる唯一ゆいいつ沈下ちんかきょう冨士ふじきょうながやく48m)があったが、洪水こうずい水位すいい上昇じょうしょう原因げんいんになることから2023ねん11月から撤去てっきょ工事こうじおこなわれることになった[4]

利水りすい施設しせつ

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おもなダム

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ダムの放流ほうりゅう

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流域りゅういきのダムが間欠かんけつてき放流ほうりゅうおこなうため、肱川ひじかわしも流域りゅういき人為じんいてき流量りゅうりょうおおきく変動へんどうする[2]。また2018ねん7がつ豪雨ごううさいには、野村のむらダム・鹿野かのがわダムは満水まんすいちかづき、7がつ7にち午前ごぜん620ふん異常いじょう洪水こうずい防災ぼうさい操作そうさおこなった。これはダムへの河川かせんすい流入りゅうにゅうりょうをそのまま放流ほうりゅうする操作そうさで、いわゆる「緊急きんきゅう放流ほうりゅう」ともばれる。放流ほうりゅう直前ちょくぜん西にし大洲おおす両市りょうし避難ひなん指示しじし、サイレンとうによる警告けいこくおこなわれたものの、西にし市野いちのむら地区ちくやく650浸水しんすいし、5にん死亡しぼうした。このけんについて、国土こくど交通省こうつうしょう情報じょうほう伝達でんたつ課題かだいがあったことをみとめ、改善かいぜんする方針ほうしんしめした[5][6]

肱川ひじかわ流域りゅういき産業さんぎょう

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流域りゅういきさかんだった養蚕ようさんされたまゆ保管ほかんするために、大洲おおす市街しがい大洲おおす商業しょうぎょう銀行ぎんこうまゆ保管ほかんするためにてたレンガづくりの建物たてもの観光かんこう施設しせつおおずあか煉瓦れんがかん」として活用かつようされている。

肱川ひじかわ流域りゅういきられる平地ひらち氾濫はんらんばらであったため砂地すなじおおく、水稲すいとう栽培さいばいよりも野菜やさい栽培さいばいてきしており、はたけつくられてきた。このはたけでは、大洲おおす名物めいぶつであるいもたき材料ざいりょうサトイモなども栽培さいばいされてきたほか、保存ほぞんしょくとして漬物つけものつくられてきた。ただ、肱川ひじかわ氾濫はんらんのたびにはたけ境界きょうかい不明ふめいになることをけるために、東大洲ひがしおおず地区ちくなどでは、はたけ畦道あぜみち沿うように、はたけ境界きょうかいしめ樹木じゅもくえられてきた[2]

肱川ひじかわ氾濫はんらんによる洪水こうずい被害ひがいすくなくするため、肱川ひじかわ流域りゅういき位置いちしていた大洲おおすはんは、河畔かはんたけなどをえることを推奨すいしょうした。水防すいぼうりんとしてえられたしゅとしては、たけのほかに、ムクノキやエノキがげられる[7]。このなかたけを、建築けんちく資材しざいとして利用りようするほかに、たけ工芸こうげいひんつくられ、熊手くまでかごたけすだれ竹刀しない物差ものさなどが製造せいぞうされ、この付近ふきん伝統でんとうてき産業さんぎょうの1つになった。かつては、団扇うちわほね丸亀まるがめ方面ほうめん出荷しゅっか)、かずかさほね和歌山わかやま出荷しゅっか)も製造せいぞうしていた。ほかにくわ洪水こうずいつよいとされ、推奨すいしょうされた。この関係かんけい養蚕ようさんおこなわれ、大洲おおすまゆ集散しゅうさんであった。

また、肱川ひじかわなかした流域りゅういき水量すいりょうもあり、それほど急流きゅうりゅうでなかったため、かつては河川かせん舟運しゅううん発達はったつし、河口かこう長浜ながはま木材もくざいなどの集散しゅうさんとしてさかえた。このふね通行つうこうさまたげないように、河口かこう長浜ながはま大橋おおはし可動かどうきょうとして建造けんぞうされた[7]

このほか、肱川ひじかわでは漁業ぎょぎょういとなまれ、アユりょうおこなわれてきた[8]

また、大洲おおす鵜飼うか日本にっぽんさんだい鵜飼うかいの1つにかぞえられ、鵜飼うかいは観光かんこう資源しげんとしてのこっている。「肱川ひじかわ鵜飼うかい」は、昭和しょうわ62年度ねんどづくり郷土きょうどしょう水辺みずべ風物詩ふうぶつし受賞じゅしょう

平成へいせい16年度ねんどには愛媛えひめ県立けんりつ大洲農業高等学校おおずのうぎょうこうとうがっこうみ「やすらきの水辺みずべづくり」が、づくり郷土きょうどしょう地域ちいき活動かつどう部門ぶもん受賞じゅしょう

災害さいがい

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水害すいがい

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大洲おおす盆地ぼんち肱川ひじかわによる水害すいがいつねかさね地域ちいきとしてられてきた[9]大洲おおす藩主はんしゅ加藤かとう年譜ねんぷによると1688ねんから1860ねんまでの173年間ねんかんのうち3ぶんの1にあたる62のとし出水しゅっすい記録きろくのこっている[9]

  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん9月19にち - 集中しゅうちゅう豪雨ごううにより6.8m増水ぞうすい肱川ひじかわ堤防ていぼう決壊けっかいして大洲おおすまちぜんまち浸水しんすいする被害ひがい[10]死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃ45にん[9]
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ - 枕崎まくらざき台風たいふう死傷ししょうしゃ65にん[9]
  • 2018ねん7がつ7にち - 平成へいせい30ねん7がつ豪雨ごうう死者ししゃ4にん全壊ぜんかい392むねだい規模きぼ半壊はんかい525むね半壊はんかい1135むね[11]大成たいせいきょう流失りゅうしつ確認かくにん[11][12]大成たいせいきょう従来じゅうらいよりも下流かりゅうがわ再建さいけんされ2022ねん6がつ25にち開通かいつうした[12])。

渇水かっすい

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2009ねん4がつから6がつにかけて肱川ひじかわでは渇水かっすいとなった(平成へいせい21ねん渇水かっすい[9]記録きろくてき少雨しょううで4がつから5がつ鹿野かのがわダム地点ちてんそう雨量うりょうは81mmだった(ダム完成かんせい50年間ねんかん最少さいしょう[9]渇水かっすいは6がつ30にちからの梅雨つゆ前線ぜんせんによる降水こうすいでようやく解消かいしょうされた[9]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 日本にっぽんたい構造こうぞう区分くぶんの1つの黒瀬川くろせがわたい由来ゆらいである。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 肱川ひじかわ水系すいけい流域りゅういき治水ちすい対策たいさくプロジェクト【位置いち”. 国土こくど交通省こうつうしょう四国地方整備局大洲河川国道事務所. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 小倉おぐら 紀雄としお島谷しまたに 幸宏ゆきひろ谷田たにだ 一三かずみ 編集へんしゅう図説ずせつ 日本にっぽん河川かせん』 p.128 朝倉書店あさくらしょてん 2010ねん1がつ30にち発行はっこう ISBN 978-4-254-18033-6
  3. ^ 国土こくど交通省こうつうしょう四国しこく地方ちほう整備せいびきょく 大洲おおす河川かせん国道こくどう事務所じむしょ”. 国土こくど交通省こうつうしょう四国しこく地方ちほう整備せいびきょく. 2019ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  4. ^ a b さようなら冨士ふじきょう 大洲おおす撤去てっきょびかえイベント 肱川ひじかわ唯一ゆいいつかる沈下ちんかきょう”. 愛媛えひめ新聞しんぶん. 2023ねん8がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ ダム緊急きんきゅう放流ほうりゅう、5にん死亡しぼう 国交こっこうしょう情報じょうほう伝達でんたつ課題かだいみとめる 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL
  6. ^ にん死亡しぼうのダム放流ほうりゅう天災てんさいだが人災じんさい」 説明せつめいかい住民じゅうみんうった 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL
  7. ^ a b 小倉おぐら 紀雄としお島谷しまたに 幸宏ゆきひろ谷田たにだ 一三かずみ 編集へんしゅう図説ずせつ 日本にっぽん河川かせん』 p.129 朝倉書店あさくらしょてん 2010ねん1がつ30にち発行はっこう ISBN 978-4-254-18033-6
  8. ^ 小倉おぐら 紀雄としお島谷しまたに 幸宏ゆきひろ谷田たにだ 一三かずみ 編集へんしゅう図説ずせつ 日本にっぽん河川かせん』 p.128、p.129 朝倉書店あさくらしょてん 2010ねん1がつ30にち発行はっこう ISBN 978-4-254-18033-6
  9. ^ a b c d e f g 肱川ひじかわおも災害さいがい”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  10. ^ 昭和しょうわ18ねん9がつ21にち 毎日新聞まいにちしんぶん大阪おおさか夕刊ゆうかん))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p224 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  11. ^ a b 平成へいせい30ねん7がつ豪雨ごうう災害さいがい概要がいようおよ被害ひがい状況じょうきょう”. 大洲おおす. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  12. ^ a b 大成たいせいきょう」が開通かいつう 地元じもと住民じゅうみんわため 大洲おおす大川おおかわ地区ちく”. 愛媛えひめ新聞しんぶん. 2022ねん6がつ25にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小倉おぐら 紀雄としお島谷しまたに 幸宏ゆきひろ谷田たにだ 一三かずみ編集へんしゅう) 『図説ずせつ 日本にっぽん河川かせん朝倉書店あさくらしょてん 2010ねん1がつ30にち発行はっこう ISBN 978-4-254-18033-6
  • 横山よこやま昭市しょういち編著へんちょ)『肱川ひじかわ じんらし』(財団ざいだん法人ほうじん愛媛えひめけん文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん
  • 大洲おおす工事こうじじゅうねん

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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