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こごめだいひとし

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こごめだいひとし
屈大均

晚年ばんねんこごめだいひとしぞう,《しんだい學者がくしゃぞうでんだいいちしゅう

あまね廣西ひろせ按察ふくつかさ
せきぬき 廣東かんとんばん禺縣すなていむらいま廣州こうしゅうばん禺區
ぞく かんぞく
ごう おぎなさん、泠君、かいいちれいごういちれい道人どうじんはなおっと浮山じん浮布ころもさい圃、萊圃、こごめ沱、いけ、騷余、騷餘、南海なんかいのこみん
しつめい あん香園こうぞの、騷聖どうちゅうやしなえどうみち援堂、草堂そうどうよんひゃくさんじゅうみね草堂そうどう
出生しゅっしょう あきらたかしただしさんねん(1630ねん
廣東かんとん南海なんかいけん西にし[1]廣州こうしゅう荔灣
逝世 きよしかんさんじゅうねん(1696ねん
廣東かんとんばん禺縣すなていむらいま廣州こうしゅうばん禺區おもえかしこむら
はかそう こごめだいひとしはか
配偶はいぐう おうはなきょうちん崋姜
おやぞく こごめおこりおおとり(曾叔)
こごめよろしぐう(ちち)
おうたけし猷(岳父がくふ)
こごめあきらひろし()
こごめ睽(まご)
出身しゅっしん
  • 順治じゅんじねん南海なんかいけんがくしょせい
著作ちょさく
  • おぎなさんがい
  • おう山文やまぶんがい
  • おぎなさんえきがい
  • 廣東かんとん新語しんご
  • よんあさ成仁しげひとろく

こごめだいひとし(1630ねん—1696ねん),かいごうおうやま萊圃廣東かんとんばんひとせき荊湖きた秭歸いま湖北こほく[2]あきら末清すえきよ初學しょがくしゃ詩人しじん,「みねみなみさん大家たいかいちゆう廣東かんとんじょかすみきゃくてき美稱びしょう

生平おいだいら

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なま南海なんかい西にし塲(いま廣州こうしゅう荔灣),ちちこごめよろしぐうにゅうぜい邵家。はつ邵龍また邵隆騷余ごういけ。十歲時隨父親回歸番禺老家,恢復かいふくこごめせいさらめいだいひとし

早年そうねん受業じゅぎょうちんくに門下もんか南海なんかいなまいん順治じゅんじさんねん(1646ねんしんぐんおさむおちい廣州こうしゅうよんねん(1647ねんこごめだいひとし參加さんかちんくにひねたけしちょうだまとうおこりへい抵抗ていこう同年どうねん失敗しっぱいちんくに彥被はりつけ以死,だいひとしおさむひねとうじんほねむくろこう受父いのちいたりはじめけいむかいえいれきみかどてい中興ちゅうこうろく大典たいてんしょ》,授以ちゅう秘書ひしょいんちち歿急順治じゅんじななねん(1650ねんしんへいさいかこえ廣州こうしゅうため躲避おいこごめだいひとしざいばん禺圓崗鄉きん甌山(まためいかみなり峰山みねやま海雲寺かいうんじこんやめはい剃髮ていはつ出家しゅっけ法名ほうみょうこんたねいちれいあんごうあん,以示ちかい臣服しんぷく清朝せいちょう

順治じゅんじきゅうねん(1652ねん以後いごこごめだいひとしえんためめい開始かいしくもゆう四海しかい奔走ほんそうえつかそけつばめひとし荊楚大地だいちきたゆうせきなか山西さんせいいれかいいたり南京なんきんあかりこうりょうまたうえ北京ぺきんとう景山かげやまひろとくたかしただし死所しにどころ哭拜,あずか顧炎たけしいんあつしゅつねみこととう交往。また東出ひがしで山海さんかいせき留意りゅうい山川やまかわ險阻けんそくら復業ふくぎょうざい遼東りゃおとん憑弔袁崇煥とくるいうつしふさが》及《ふさがうえきょくとうきょくかえしかいせき內後,積極せっきょくゆうはしひとしあずかえつこれあいだざいかい稽與こう祁班まごとう秘密ひみつ聯絡れんらくてい成功せいこうのちちょう煌言あずかてい成功せいこうあいへいりつぐん沿長江ちょうこう而上,おさむかぶらみずうみ徽州やすし國府こくふおさむさんじゅうしゅうけん順治じゅんじじゅうろくねん(1659ねんじゅうがつごとはいてい成功せいこうかえいたり廈門ちょう煌言敗走はいそう浙東天台てんだい順治じゅんじじゅうななねん(1660ねんあきこごめだいひとしおとずれ南京なんきんあずかしゅつねみことどうゆう山陰さんいん參加さんか祁氏兄弟きょうだいてきこうきよし活動かつどうかん熙元ねん(1662ねん阱、ぜに瞻百ぜに纘曾はん廷聰とうころせ杭州こうしゅう,祁班まごいぬやすしとうだいひとし避居きりいおりかんよんねんはるてんこごめだいひとししたがえみねみなみ北上ほくじょうきんりょうあきたかしざい南京なんきんゆうもんゆいもりつねねんふゆてん,二人相攜前往陝西, さいまついたり潼關。[3]かんねんさんがつあずかおうひろしせんあい邀登華山げさん[4]下山げざんおうひろしせんあにちょうおうひろしよしみおくこごめだいひとし書法しょほう丈夫じょうふほら草堂そうどうろく[5]かんねん(1666ねんいんあつゆい交,どうゆう西安しーあん,六月自富平至代州(今山いまやま西代にしだいけん),寄居よりいきよしかりひら兵備へいびどう副將ふくしょうちんうえねん家中いえじゅう後來こうらいざいだいしゅうみるりょう顧炎たけしなみいたふとげんおとずれでんあおぬしざいいんあつひとし人的じんてきつまみあいしたこれねんあきたかしこごめだいひとしざい山西さんせいぞくめと明朝みょうちょう將領しょうりょうおうたけしこれ女王じょおうはなきょうかんねんあきたかしこごめだいひとしいたりだいしゅう西にし八里柏林寺瞻拜唐晉王祠,すすむおうそくかつようそんつとむ父子ふしかんろくねんはちがつこごめだいひとしだいしゅう東門ひがしもんけいえきしゅう、涿州いれ北京ぺきん[6]かんななねんはちがつ,攜家だいしゅう出發しゅっぱつねん八月抵達番禺故里。かんきゅうねんうつりひがしふといねん正月しょうがつおうはなきょうびょう逝。[7]

かんじゅうねん(1673ねん),ひら西にしおうさんかつらざいこんあきらおこりへいこごめだいひとし赴廣西にしこうくれさんかつら上書うわがき談論だんろん兵事へいじ委任いにん廣西ひろせ按察副使ふくし監督かんとくまごのべよわいぐんひさくれただそう劃江しょうおうとげたくびょう辭去じきょかんじゅうねん(1683ねんていかつくだきよしこごめだいひとしゆかり南京なんきん攜家ばん禺,おわりふく著述ちょじゅつこうがくうつりこころざし於對廣東かんとん文獻ぶんけんかたぶつてのひらてき收集しゅうしゅう編纂へんさんかんさんじゅうねん(1696ねんびょう逝,ねんろくじゅうななあずかちんきょういんりょう佩蘭たたえみねみなみさん大家たいか」,ゆう李白りはくこごめばらてき遺風いふうこごめだいひとしてき著作ちょさくきよし廷列ため禁書きんしょ毀於雍正いぬいたかし兩朝りょうちょういぬいたかし上諭じょうゆいいこごめ著作ちょさくへんへんみな詆毀きよしちょう」,ためたがえ礙」「もとぎゃく文字もじいむむねさくもとめ查禁,こごめ子孫しそんとげだきばん自首じしゅ),後人こうじん輯有《おぎなさんがい》、《おう山文やまぶんがい》、《おぎなさんえきがい》、《廣東かんとん新語しんご》及《よんあさ成仁しげひとろく》,ごうたたえこごめ沱五しょ」,其餘著作ちょさく可知かちしょうゆうさんじゅうしゅちょういさおひょう:「こごめおう山詞やまことばゆうきゅううた》、《きゅうべんのこむね以騷くずめいへん。」[8]

はかそう

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こごめだいひとし,其家じん懼怕遭清政府せいふ查緝,敢為かんいたて墓碑ぼひ長時間ちょうじかんこう外人がいじんとおる其墓雍正ななねん(1730ねん),こごめだいひとし之子ゆきここごめあきらひろし自首じしゅ廣東かんとんじゅんなででんやすしつい查屈だいひとし著作ちょさく發現はつげんゆうもとぎゃくこれ」於是じょうむくい刑部おさかべ刑部おさかべなずらえこごめだいひとしはか戮屍梟首きょうしゅ雍正みかどひらけさとし免除めんじょ戮屍。1928ねん鄉里きょうりみん找到こごめだいひとし墓地ぼち,捐資じゅうたてりょう墓穴ぼけつ

こごめだいひとし墓地ぼちこんざいはなれ莘汀むら兩三りょうさん公里くりてき新造しんぞうおもえかしこむらせいこごめだいひとしはかなりいちとつ字形じけい正中せいちゅうやく一米高的青石碑上刻着「あきらこごめおぎなさん先生せんせい」,したしょみんこくじゅう八年己巳仲冬番禺縣長陳樾題」。墓表ぼひょう豎立ざいふん右側みぎがわ碑文ひぶんため書法しょほうくれどうせんしょ。其父こごめよろしぐう、其母ふとしくんざいこごめだいひとしはか左右さゆう上方かみがた,其子、媳之ざいひだり下方かほう。1985ねん廣州こうしゅう政府せいふばち款修葺墓はかみぎけんおもえけんてい一座いちざこごめだいひとしはかれつため廣東かんとんしょうしょうきゅう文物ぶんぶつ保護ほご單位たんいばん禺區愛國あいこく主義しゅぎ教育きょういく基地きち

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ きよし·こごめだいひとし,《廣東かんとん新語しんご》(まき2):「りく賈初いたり南越なんごし築城ちくじょう於番禺西滸以まち佗,めい曰陸賈城。其遺もとざい郊西じゅう地名ちめい西にし塲,一曰西候津亭。出城でしろ凡度石長いしながきょういちたんきょう乃至ないしなま實在じつざい其地。」
  2. ^ こごめだいひとしきょ:乡野しょう村里むらざと走出はしりで岭南名士めいし--24しょう时滚动新闻--人民じんみん. [2018-09-26]. (原始げんし內容そん於2020-04-18). 
  3. ^ こごめだいひとしそうしゅうゆう〉:「いたり潼關,せききた俯洪かわみなみ倚秦さんいち綫天けわしためぜん陝咽のど城有しろありろう,曰懷とお兵備へいび使者ししゃきょ藩屏はんぺいさんしょうせきとう河山かわやま要害ようがい千仞せんじんかか,賈生しょしょう『踐華ためじょういんかわためしゃ。」(《おう山文やまぶんがい》,かんいちぺーじ8)
  4. ^ そうしゅうゆう〉:「はつはちいたりやまどくづるていちんざい華北かほく與三よそうほうしょうむこうたけかげ滿まんまどかげみどりかんじん可愛かわい也。やまいのち其子はくしるべうえ太華たいか,而送いたりよい谿。」
  5. ^ そうしゅうゆう〉:「よんがつついたち下山げざんかえしやまとぎとき……たましつぜん大書たいしょ,以予愛華あいか中古ちゅうこ丈夫じょうぶほらいんしょ丈夫じょうふほら草堂そうどうろくおく……はくおくうん:……やまそくためじょおく。」
  6. ^ こごめだいひとし,〈だいひがし入京にゅうきょう〉,《おう山文やまぶんがい》,かんいちぺーじ 17。
  7. ^ はなきょうころも笄冢めい〉:「きょうゆうたましい……われきょう必將紫煙しえんじょう飆輪,而西とめ於太はな,以明ぼしたまおんなため,以金せん公主こうしゅもうおんなためとも……だいひとし謹開のこ篋,とくたま笄一,べに繡縠襦二,明鏡めいきょういち,鳯凰釵二,使つかい往華かげぞく友人ゆうじんおうはく為石ためしはこいち,瘞之於明ぼしたまおんなみね。」
  8. ^ ちょういさお瀛《ちょうまきろく

外部がいぶ連結れんけつ

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參考さんこう書目しょもく

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  • こごめだいひとし年譜ねんぷ廣東かんとんしょう立中たつなかさん圖書館としょかん へん,鄔慶 ちょ廣東かんとん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ2006ねん2がつ初版しょはんISBN 7218051715
  • 廣州こうしゅう歷史れきし·古代こだい部分ぶぶん》,廣州こうしゅう教育きょういくきょく教學きょうがく研究けんきゅうしつ へん廣東かんとん教育きょういく出版しゅっぱんしゃ1995ねん7がつだいよんはんISBN 7540606258
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