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利用者:Manono - Wikipedia

利用りようしゃめい:Manono 新規しんき追加ついか記述きじゅつ自粛じしゅくちゅう過去かこ記述きじゅつたいする権利けんり保持ほじのためアカウント。

記述きじゅつさいしての考慮こうりょ: おな文書ぶんしょのなかの矛盾むじゅん非合理ひごうり

勝手かって合意ごういしょうして、けられるがウザい。

--Manono会話かいわ) 2014ねん4がつ29にち (火) 00:10 (UTC)


ことわり:【捏造ねつぞう】ファンタジー【創作そうさく

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        さんさん)/)
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/  ../)  こうだったハズ ♪    /  ../)
さんさん)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   さんさん)/)
さんさん)/   ( `∀´)  (`∀´ ;)   さんさん)/ かんしゃくこる!
   ∧_,,∧ と  φふぁい)  (つ φふぁい)  ∧_,,∧     __
  ( #i!`Д) /⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<´#)  /  ../)
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  __`ー‐'    `ー‐' こうだったにちがいない!
/  ../)       __    歴史れきしはつくれる!
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さんさん)/)     さんさん)/)     ⊂⌒ ( `∀´)
さんさん)/      さんさん)/       `ヽ_っ⌒/⌒c

現在げんざい南部なんぶはん 2014ねん3がつ9にち(日)にち13:10時点じてん以降いこう加筆かひつ追記ついきについて、wikipedia 以外いがい記載きさいできるサービスを検討けんとうちゅう

匿名とくめい記述きじゅつしていたころの IPアドレスについては、海江田かいえだ民主党みんしゅとう研究けんきゅうまとめ @ ウィキ AAに、どういちアドレスあり。

--Manono会話かいわ) 2014ねん6がつ24にち (火) 13:59 (UTC)

記述きじゅつ再開さいかいしたら早速さっそくきました、「出典しゅってん列挙れっきょするだけでなく、脚注きゃくちゅうなどをもちいてどの記述きじゅつ情報じょうほうげんであるかを明示めいじしてください。記事きじ信頼しんらいせい向上こうじょうにご協力きょうりょくをおねがいいたします。」

かれてても、資料しりょうめいはあくまでも参考さんこうとしていただけで、根拠こんきょのない参考さんこう文献ぶんけんいていませんので、参照さんしょう方法ほうほうというひもけは必要ひつようほうにおまかせします。 記述きじゅつ精度せいどあげてもあれではw

脚注きゃくちゅう出典しゅってん明示めいじするのは、他人たにん記述きじゅつ修正しゅうせいするときぐらい。

--Manono会話かいわ) 2014ねん9がつ9にち (火) 12:28 (UTC)


Manono による 2014ねん3がつ9にち (日)にち 13:10 てんはん

南部なんぶはん(なんぶはん)は、中世ちゅうせい以来いらいきゅうぞくきょづけ大名だいみょう近世きんせい初頭しょとう陸奥みちのくこく岩手いわてぐん盛岡もりおかしろかまえ、陸奧みちのくこく北部ほくぶしょぐん岩手いわてけん北上ほくじょうから青森あおもりけん下北半島しもきたはんとう)を領有りょうゆうした外様とざまはん

一般いっぱんに「南部なんぶ」とは、じゅん国持くにもち大名だいみょう南部なんぶ領有りょうゆうしていた「南部なんぶりょう」のことである。文化ぶんか年間ねんかん180418ねん)に、南部なんぶはん盛岡もりおかはん改称かいしょう南部なんぶ領分りょうぶん呼称こしょうえ)された。また、領有りょうゆうしていた地域ちいきにおいて複数ふくすう南部なんぶはんがあるため、盛岡もりおか南部なんぶ支配しはいしたところを南部なんぶはんまたは盛岡もりおかはん八戸はちのへ南部なんぶ分立ぶんりつ支配しはいしたところを八戸はちのへはんなな南部なんぶぶん支配しはいしたところをななはんぶ。

鎌倉かまくら御家人ごけにん系譜けいふをひくさん南部なんぶは、中世ちゅうせい以降いこうぬかぐん中心ちゅうしん所領しょりょう拡大かくだいし、戦国せんごくには津軽つがる地方ちほういちえんみなみ閉伊へいぐんから岩手いわてぐん支配しはいしていた。

りゃく

編集へんしゅう

奥州おうしゅう南部なんぶ始祖しそ南部なんぶ三郎さぶろう光行みつゆきは、清和せいわ源氏げんじ義光よしみつりゅう甲斐かいはじめ系譜けいふつらなる、加賀かがよし二郎じろうどおひかり三男さんなんとされ、甲斐かい巨摩こまぐん富士川ふじかわ西岸せいがん南部なんぶきょうりょう南部なんぶ三郎さぶろう名乗なのったが、ちち官途かんと信濃しなのもりから信濃しなの三郎さぶろうともしょうされた[1]

光行みつゆき子息しそくは、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば、太郎たろう朝光ともみつ二郎じろうじつひかり三郎さぶろうゆきあさ小四郎こしろうちょうよんにんで、「秋山あきやま系図けいず」(『つづけぐんしょ類従るいじゅう』)は、くだりあさ太郎たろうちょうを「南部なんぶやぶきり六郎ろくろう」とし、五郎ごろうゆきれんくわえる。そのうち、光行みつゆき嫡子ちゃくしじつひかりとそのはしばしば『吾妻あづまきょう』にあらわれ、将軍しょうぐん供奉ぐぶつとめる御家人ごけにんで、かつ北条ほうじょうよりゆき側近そっきんとして登場とうじょうしている。[1]

文治ぶんじ 5ねん1189ねんあき奥州おうしゅう平泉ひらいずみ攻撃こうげきに、加賀かがよしどおひかり父子ふしよんにん頼朝よりとも本陣ほんじん従軍じゅうぐん藤原ふじわらやすしぐんとの合戦かっせんこうて、そのこうによって南部なんぶ光行みつゆき奥州おうしゅうぬかぐん土地とちきゅうされ、たてひさ 2ねん1191ねん)のすえ 家臣かしんすうじゅうにんとともに入国にゅうこくしたと、家伝かでんではつたえられているが拝領はいりょうささえしょうするものはない[2]

近世きんせい盛岡もりおかはん公認こうにん系譜けいふ

南部なんぶ光行みつゆき くだりあさ    いち
じつひかり さん南部なんぶ
ちょう 根城ねじろ南部なんぶ
あさきよし なな久慈くじ
むねあさ 四戸しのへ
くだりれん 九戸くのへ

南部なんぶ宗家そうけ始祖しそは、南部なんぶ光行みつゆき嫡子ちゃくしじつひかり系譜けいふこうさん南部なんぶとなり、庶家にはじつひかりおとうとで、八戸はちのへ南部なんぶとなる波木井はきいちょうがいるとわれているが、波木井はきい初代しょだいちょうだいじつつぎさんだいちょうつぎのあと、嫡家さんだい政行まさゆき次男じなんぎょうちょうつぎむすめ婿むことなって波木井はきいいだとするが、じつつぎちょうつぎ波木井はきい南部なんぶ一族いちぞくしるしたどう時代じだい史料しりょうにはえず、八戸はちのへ遠野とおの南部なんぶ文書ぶんしょには鎌倉かまくら時代ときよ波木井はきいりょうかんする文書ぶんしょ存在そんざいせず、八戸はちのへ南部なんぶ波木井はきい子孫しそんとする「八戸はちのへ家系かけい」は、とおる4ねん1719ねんしんゆう時代じだいにおいて八戸はちのへ身延山久遠寺みのぶさんくおんじとの交渉こうしょうつう遠野とおの南部なんぶ文書ぶんしょなかはいった[1]

奥州おうしゅう南部なんぶ一族いちぞくなか史料しりょうから南部なんぶ光行みつゆき子孫しそんであることが確認かくにん出来できるのは、さん八戸はちのへななさんいえのみでなな八戸はちのへ南部なんぶ信光のぶみつおとうと政光まさみつ子孫しそんである[1]

鎌倉かまくら南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう

編集へんしゅう

南部なんぶ北奥きたおく本格ほんかくてき活動かつどう開始かいしするのは、南北なんぼくあさ争乱そうらんころからである。
元弘もとひろ 3ねん1333ねん)5がつ鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうして、後醍醐天皇ごだいごてんのうによるたてたけし新政しんせいはじまり、鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんにんじられた足利尊氏あしかがたかうじには北条ほうじょうやすしのこりょうであるそとはまぬかぐんあたえたが、たかし離反りはんすると、鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん北畠きたばたけ顕家あきいえうつり、陸奧むつまもるとして義良親王のりながしんのうほうじて多賀城たがじょう国府こくふ赴任ふにんし、随行ずいこうした根城ねじろ南部なんぶ3だい南部なんぶぎょう北奥きたおくかくぐんけんだん奉行ぶぎょうとしてにんじられた。

1189ねん 文治ぶんじ 5ねん 奥州おうしゅう平泉ひらいずみ攻撃こうげき
1215ねん たてたもつ 3ねん 11月 21にち 南部なんぶ光行みつゆき鎌倉かまくら死去しきょ
1322ねん げんとおる 2ねん   安藤あんどうらん
1324ねん 4ねん   正中せいちゅうへん
1333ねん せいけい 3ねん 5月 南部なんぶ政長まさなが新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくらめにくわわり、そのこうにより、甲斐かいこく倉見くらみさん陸奥みちのくこくぬかぐんななきょうあたえられた。その陸奥みちのくこく下向げこうした。
  後醍醐天皇ごだいごてんのう北条ほうじょう滅亡めつぼうけて京都きょうとかえり、北畠きたばたけ顕家あきいえ陸奧みちのくもりにんじる。
1334ねん たてたけし元年がんねん   たてたけし新政しんせい
  南部なんぶぎょうぬかぐんぐん奉行ぶぎょうぐんけんだんねる国代くによとしてにんじられる。
  大光寺だいこうじ合戦かっせん
1335ねん 2ねん 3がつ 南部なんぶぎょう北条ほうじょうとくそうりょうそとはまうちきょうげん青森あおもり)のうち、泉田いずみだしおかた後潟うしろがた)、中沢なかざわあたえられる[3]
7がつ 北条ほうじょうぎょうへいげ、鎌倉かまくらはいる。(ちゅう先代せんだいらん
10月 足利尊氏あしかがたかうじ鎌倉かまくら反旗はんきをひるがえすと、曾我そが安藤あんどう以下いか安藤あんどう一族いちぞく呼応こおう[3]
1336ねん たてたけし 3ねん のべもと元年がんねん 足利尊氏あしかがたかうじ御教書みぎょうしょをうけた安藤あんどう合戦かっせん奉行ぶぎょうとなり、津軽つがる曾我そがなどがそれにしたがい、藤崎ふじさきしろ平内へいないじょう南朝なんちょう軍勢ぐんぜいたたか[3]
1338ねん こよみおう元年がんねん (   3ねん 5月 北畠きたばたけ顕家あきいえ南部なんぶぎょうら、和泉いずみこく石津いしづ討死うちじに。(石津いしづたたか
1339ねん 2ねん (   4ねん 8がつ 後醍醐天皇ごだいごてんのう吉野よしのにおいて崩御ほうぎょ義良親王のりながしんのう帝位ていいがれる。
1340ねん 3ねん 興国こうこく元年がんねん 12月 南部なんぶ政長まさなが根城ねじろ南部なんぶ5だいとなる[4]
1341ねん 4ねん (   2ねん はる 栗谷川くりやがわ合戦かっせん宮方みやかたぜい岩手いわて斯波しばりょうぐん制圧せいあつ
6がつ 津軽つがる曾我そがぬかぐん南部なんぶあいだ抗戦こうせんはじまる。
1343ねん かんひさし 2ねん (   4ねん 陸奧むつ国司くにじ北畠きたばたけ顕信あきのぶしずくせき雫石しずくいし)にげる。
1352ねん 文和ふみかず元年がんねん 正平しょうへい 7ねん 南部なんぶ信長のぶなが多賀たが府中ふちゅう合戦かっせん出陣しゅつじんちゅうきた朝方あさがたてんじる。
1373ねん おうやす 6ねん 文中ぶんちゅう 2ねん 南部なんぶもりぎょう一族いちぞくともなぬかしただる。(さん南部なんぶぬか定着ていちゃく
1386ねん 至徳しとく 3ねん (   3ねん 11月 北畠きたばたけ、「奥州おうしゅうしん国司こくし」を自称じしょうして浪岡なみおか入部にゅうぶ[5]
1392ねん 明徳めいとく 3ねん もとなか 9ねん うるう10がつ 南北なんぼくあさ合一ごういつ
1393ねん 4ねん   根城ねじろ南部なんぶ8だい南部なんぶ政光まさみつ甲斐かい本領ほんりょう室町むろまち幕府ばくふ返上へんじょう根城ねじろ移住いじゅうする。
1407ねん おうひさし14ねん 4がつ 根城ねじろ南部なんぶ10代の南部なんぶこうけい修理しゅうりあきら推挙すいきょ
18ねん 南部なんぶもりぎょう八戸はちのへ南部なんぶ共同きょうどう仙北せんぼく刈和野かりわの安東あんどう鹿しか合戦かっせん領地りょうち確保かくほ。(秋田あきた合戦かっせん
1417ねん 24ねん 北畠きたばたけ仲介ちゅうかいにより安東あんどうりょう南部なんぶりょうりょうさかいさだめる[6]
1418ねん 25ねん 8がつ 南部なんぶ上洛じょうらくうま100疋、かね1000りょう将軍しょうぐん献上けんじょう
1428ねん せいちょう元年がんねん じゅうさんみなと南部なんぶぜい掌握しょうあくされる[6]
1432ねん えいとおる 4ねん 10月 南部なんぶ義政よしまさ藤崎ふじさきしろめる。やぶれた安藤あんどうもりかん蝦夷えぞ敗走はいそう幕府ばくふ調停ちょうていする。
1435ねん 7ねん 和賀わが惣領そうりょうと須々まご内訌ないこう和賀わが稗貫ひえぬき動乱どうらん
1437ねん 9ねん 関東かんとう地方ちほう発生はっせいしたえいとおるらん影響えいきょうにより、奥州おうしゅういても葛西かさい大崎おおさき合戦かっせんはじめる(えいとおる嘉吉よしきちらん
1440ねん 12ねん 結城ゆうき合戦かっせん
1442ねん たからいさお 2ねん   安藤あんどうもりかん南部なんぶ義政よしまさのためじゅうさんみなとわれる。翌年よくねん12がつ小泊こどまりから蝦夷えぞ松前まさきのがれる。
1451ねん 嘉吉よしきち 3ねん 蠣崎かきざき蔵人くろうどしんじじゅんにしきたいじょうきず[6]
1452ねん とおるとく元年がんねん 武田たけだ信広のぶひろ田名部たなべ蠣崎かきざき知行ちぎょうゆるされ、蠣崎かきざき名乗なの[7]
1453ねん 2ねん 津軽つがる安東あんどうだい9だい(よしすえ)が、ふたた南部なんぶぐんたたか討死うちじに。その養子ようしだい10代せい南部なんぶ捕虜ほりょとなり、下北しもきた配流はいる。のちにふたた蝦夷えぞ逃避とうひ[6]
1455ねん 3ねん とおるとくらん
1456ねん 康正こうせい 2ねん 4がつ ぬか南部なんぶ義政よしまさ秋田あきた出陣しゅつじんみなと安東あんどう交戦こうせん南部なんぶかた敗退はいたい[4]。(秋田あきた高寺たかてら合戦かっせん
1457ねん 3ねん 2がつ 陸奧みちのく田名部たなべにおいて蠣崎かきざき蔵人くろうど兵乱へいらんおこ[4]
2がつ 根城ねじろ南部なんぶ南部なんぶ河内かわうちまもる政経せいけい兵船へいせんをもって田名部たなぶ進攻しんこう[4]
4がつ 田名部たなべ一帯いったい南部なんぶ政経せいけいにより制圧せいあつされ、蠣崎かきざき蔵人くろうど蝦夷えぞのがれる[4]
4がつ 南部なんぶ政経せいけい軍功ぐんこうにより田名部たなべ全土ぜんど所領しょりょうくわえられる[4]
1467ねん 応仁おうにん元年がんねん 1がつ 京都きょうと攪乱かくらんおこる。(応仁おうにんらん
2がつ さん南部なんぶまさしもり斯波しば政直まさなおぐんさわによって、葛西かさい秋田あきたとうともに、信夫しのぶぐんせいじょう伊達だてあしめいとう合戦かっせんしたが兵糧ひょうろうつづかずに帰陣きじん
1468ねん 2ねん   南部なんぶ家信いえのぶ仙北せんぼく支配しはい断念だんねんさん撤退てったい
1477ねん 文明ぶんめい 9ねん 11月 応仁おうにん以来いらい兵乱へいらんりゃくおさまる。
1483ねん 15ねん   南部なんぶ彦四郎ひこしろうらん(『南部なんぶよう』)
1485ねん 17ねん 8がつ 南部なんぶまさしもり葛西かさいりょう気仙けせんぐん有住ありずみさと侵入しんにゅうはい績した。
1491ねん 延徳えんとく 3ねん   久慈くじ南部なんぶ光信みつのぶ津軽つがる西浜にしのはま鼻和はなわぐん種里たねさとじょうにおく。
1498ねん あかりおう 7ねん   南部なんぶ弾正だんじょうかんとき津軽つがるそとはまつつみうら青森あおもり)に入部にゅうぶ[8]
1502ねん ぶんかめ 2ねん   久慈くじ光信みつのぶ種里たねさとから大浦おおうら進出しんしゅつし、大浦おおうら名乗なのる。
1521ねん だいひさし元年がんねん 6がつ 志和しわぐん郡山こおりやまにてさん南部なんぶ和賀わが合戦かっせん
1533ねん 天文てんもん 2ねん   南部なんぶ安信やすのぶおとうと高信たかのぶ津軽つがるきた反乱はんらん鎮圧ちんあつ津軽つがるぐんだい任命にんめい
1534ねん 3ねん 6がつ 大崎おおさきりょうない内乱ないらん惹起じゃっき大崎おおさき義直よしなおぞく新田にったよりゆきとお主家しゅかに叛く。(大崎おおさき内乱ないらん
  8がつ さん南部なんぶ北上ほくじょう地方ちほう南侵なんしんし、柏山かしやま合戦かっせん敗退はいたいする[2]
1536ねん 5ねん 6がつ 大崎おおさきさいらん陸奥みちのくこく守護しゅごしょく伊達だて稙宗江刺えさし左衛門さえもんとくたい大崎おおさきりょうぶくろちゅう出兵しゅっぺいするようもうおくる。
10月 伊達だて稙宗の小僧こぞうまる大崎おおさきだかけんむすめめとかたち養子ようしとしておくまれ、大崎おおさき伊達だて従属じゅうぞくしたく。
1539ねん 8ねん   6がつ 家臣かしん赤沼あかぬま備中びっちゅう放火ほうかにより、ほんさんじょう聖寿せいじゅ寺館てらだて焼失しょうしつ
  八戸はちのへ義継よしつぎ早世そうせいのためおとうと次郎じろう治義はるよし)がいえぐ。(八戸はちのへ内訌ないこう
  7がつ 南部なんぶはれまさし上洛じょうらく将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるよりへんいみな拝領はいりょう
1540ねん 9ねん   南部なんぶ雫石しずくいし戸沢とざわめて、岩手いわてぐんより出羽でわ仙北せんぼくぐん角館かくのだてはしらせる。
1541ねん 10ねん   南部なんぶはれまさしさん南部なんぶだい24だい当主とうしゅとなる。
1555ねん 弘治こうじ 元年がんねん 浪岡なみおか中将ちゅうじょうひさし死去しきょ
1562ねん えいろく 5ねん 4がつ 浪岡なみおかうん所領しょりょうをめぐり叔父おじ川原かわら御所ごしょしん対立たいりつから川原かわはら御所ごしょらん
1565ねん 8ねん 7がつ 鹿角かづのぐんおよ比内ひないぐんにおいてに、南部なんぶ秋田あきた安東あんどうとのあいだ衝突しょうとつ。(鹿角かつの合戦かっせん
1569ねん 10ねん 正月しょうがつ 新田にったひだりじょ行政ぎょうせい卒去そっきょし、八戸はちのへ政栄まさえ出向でむいて会葬かいそうしている留守るすねらい、櫛引くしびき八戸はちのへ根城ねじろじょう襲撃しゅうげき
1568ねん 11ねん 正月しょうがつ 安東あんどうあい鹿角かづのぐん侵攻しんこうちょううしかんめる。
3がつ 南部なんぶしんじき晴信はるのぶじんだいとして鹿角かつの出陣しゅつじん
1569ねん 12ねん 南部なんぶはれまさし鹿角かつの奪回だっかい
1571ねん もとかめ 2ねん 2がつ 大浦おおうら為信ためのぶ石川いしかわじょう攻略こうりゃく石川いしかわ高信たかのぶ自害じがい
8がつ 八戸はちのへ政栄まさえ櫛引くしびきりょう侵入しんにゅう櫛引くしひきかた大敗たいはい
1572ねん 3ねん 8がつ 田子たつこ城主じょうしゅ南部なんぶ左衛門尉さえもんのじょう高信たかのぶ津軽つがるさんぐん平定へいてい

安土あづち桃山ももやま時代じだい

編集へんしゅう

さん盛岡もりおか南部なんぶ文書ぶんしょには中世ちゅうせいさん南部なんぶ家伝かでん伝書でんしょつたえられておらず、しんじき以後いご文書ぶんしょがそのすべてである。本来ほんらい盛岡もりおか南部なんぶには膨大ぼうだい史料しりょうつたえられていたとかんがえられていたが、確認かくにんされているのは盛岡もりおか中央ちゅうおう図書館としょかん所蔵しょぞうされているもののみであり、1539ねん(天文てんもん 8ねんほんさんじょう炎上えんじょうのさいに、類焼るいしょうおおくをうしなったとされている[1]

1573ねん 天正てんしょう元年がんねん はる     さん南部なんぶ厨川くりやがわ平野へいやより南方なんぽう進出しんしゅつし、和賀わが交戦こうせん
1575ねん 3ねん 1がつ     大浦おおうら為信ためのぶ大光寺だいこうじじょうしろ攻略こうりゃく
1578ねん 6ねん 7がつ     大浦おおうら為信ためのぶ浪岡なみおかしろ攻略こうりゃく浪岡なみおか御所ごしょ北畠きたばたけあきらむら自害じがいして浪岡なみおか滅亡めつぼう
1581ねん 9ねん 6がつ     南部なんぶかた津軽つがるぐんだい石川いしかわ城主じょうしゅ南部なんぶ高信たかのぶ卒去そっきょ
    いち城主じょうしゅ一戸兵部大輔政連、子息しそくいち出羽でわともいち信州しんしゅう惨殺ざんさつされる。
1582ねん 10ねん 1がつ     南部なんぶはれまさしはれままし父子ふし相次あいついで死去しきょ田子たつこしんただしさん南部なんぶだい26だい当主とうしゅとなる。
6がつ 2にち     本能寺ほんのうじへん
7がつ     九戸くのへ政実まさみ和賀わがぐん侵攻しんこう
1583ねん 11ねん 3がつ     秋田あきたあい庄内平野しょうないへいや酒田さかた侵入しんにゅう比内ひない侵入しんにゅうして浅利あさりたおす。
    南部なんぶぜい志和しわぐん東武とうぶだい萱生かようじょうにて合戦かっせん
1585ねん 13ねん 3がつ     大浦おおうら為信ためのぶ外浜そとはま油川あぶらかわしろ攻略こうりゃく油川あぶらかわ城主じょうしゅ奥瀬おくせぜん九郎くろう田名部たなべのがれる。
5月     大浦おおうら為信ためのぶ田舎館いなかだてじょう攻略こうりゃく
1586ねん 14ねん はる     南部なんぶしんじき加賀かが前田まえだ利家としいえ使者ししゃつかわす。
    高水寺こうすいじ斯波しばむすめ婿むこ高田たかだ吉兵衛きちべえかんみのる斯波しば出奔しゅっぽん南部なんぶしんじか出仕しゅっしし、中野なかの修理しゅうりあきらかんみのる改称かいしょう
9月     南部なんぶしんじき雫石しずくいし斯波しば攻撃こうげき岩手いわてぐんれる。
1587ねん 15ねん 2がつ     南部なんぶしんじききた信愛しんあい加賀かが前田まえだ利家としいえ派遣はけん
1588ねん 16ねん 6がつ     大浦おおうら為信ためのぶ飯詰いいづめだかだてじょう攻略こうりゃく津軽つがる一帯いったいそとはまならびぬかぐん一部いちぶ手中しゅちゅうおさめる。
7がつ     南部なんぶしんじき志和しわぐん侵入しんにゅう高水寺こうすいじじょうとす。斯波しば滅亡めつぼう
1589ねん 17ねん     南部なんぶしんじき秋田あきた同族どうぞくあらそい(みなと騒動そうどう)にじょうじてきた信愛しんあいそう指揮しき比内ひない侵入しんにゅう占拠せんきょ
1590ねん 18ねん 3がつ     南部なんぶしんじき小田原おだわらさんじん豊臣とよとみ秀吉ひでよし謁見えっけん
7がつ 27にち     南部なんぶしんじき宇都宮うつのみや秀吉ひでよしより南部なんぶりょううち7ヶぐん安堵あんどされる。奥州おうしゅう仕置しおきにより、葛西かさい大崎おおさきりょう没収ぼっしゅう
10月     葛西かさい大崎おおさき一揆いっき和賀わが稗貫ひえぬき一揆いっきがおこる。
1591ねん 19ねん 3がつ 九戸くのへ政実まさみらんきゅう一揆いっき)。
9月     九戸くのへ政実まさみらん鎮圧ちんあつのため奥州おうしゅうさい仕置しおきぐん下向げこうきゅうじょう落城らくじょう九戸くのへ政実まさみ斬首ざんしゅ
1592ねん 20ねん     南部なんぶ領内りょうないしょしろやぶ。(12しろ存置そんち36しろやぶ却)
1597ねん 慶長けいちょう 2ねん 3がつ     かた(のち盛岡もりおか改称かいしょう)に築城ちくじょう開始かいし
1599ねん 4ねん 10月 5にち     南部なんぶしんじき二戸ふたどぐん福岡ふくおかじょう死去しきょ
12月     南部なんぶ利直としなおさん南部なんぶだい27だい当主とうしゅ盛岡もりおかはん初代しょだい藩主はんしゅとなる。

江戸えど時代じだい

編集へんしゅう
1600ねん 慶長けいちょう 5ねん 7がつ   徳川とくがわ家康いえやすいのちにより南部なんぶ利直としなお最上さいじょう出陣しゅつじん
9月   関ヶ原せきがはらたたか和賀わがただしおや利直としなお留守るすちゅう和賀わがぐん一揆いっきこす(岩崎いわさき一揆いっき)。
1601ねん 6ねん 4がつ   南部なんぶ利直としなお岩崎いわさき一揆いっき平定へいてい
1603ねん 8ねん 2がつ 12にち   徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ
1614ねん 19ねん 11月   大坂おおさかふゆじん
1615ねん 20ねん 4-5月   大坂おおさかなつじん
1617ねん 元和がんわ 3ねん 3がつ   南部なんぶ利直としなお八戸はちのへ根城ねじろ南部なんぶ)から下北しもきた支配しはいけん接収せっしゅう
1627ねん 寛永かんえい 4ねん 3がつ   八戸はちのへ直義ただよし直栄なおえい)を八戸はちのへ根城ねじろから遠野とおの横田よこたじょう陸奥むつ国代くによとしてうたてふうじさせて、遠野とおの南部なんぶとなる。根城ねじろはいじょうとなった。
    南部なんぶ利直としなお八戸はちのへじょう築城ちくじょう
1632ねん 9ねん     南部なんぶしげるただしだい2だい藩主はんしゅとなる。
1633ねん 10ねん     南部なんぶしげるじき盛岡もりおかじょう居城きょじょうさだめる。
1634ねん 11ねん 8がつ   ぬかぐんきたさんきゅうの4ヶぐん分割ぶんかつされて、徳川とくがわ家光いえみつにより、領内りょうない10ぐん10まんせきりょうばんぶつ拝領はいりょう
1643ねん 寛永かんえい20ねん 6がつ   閉伊へい郡山こおりやま田浦たのうらにオランダせん来航らいこう。(ブレスケンスごう事件じけん
1664ねん 寛文ひろふみ 4ねん 9月   南部なんぶしげるじきが、嗣子ししさだめず江戸えど死去しきょ
12月   幕府ばくふじゅうじきおとうと七戸しちのへ重信しげのぶ盛岡もりおか8まんせき(3だい藩主はんしゅ)、中里なかさと数馬かずま八戸はちのへ2まんせき分割ぶんかつ相続そうぞくさせ、八戸はちのへはん分立ぶんりつ
1668ねん 8ねん 8がつ 八戸はちのへりょう  南部なんぶ直政なおまさ八戸はちのへはんだい2だい藩主はんしゅとなる。
1669ねん 9ねん 9月 盛岡もりおかりょう  シャクシャインのらんたいし、野辺地のへじ田名部たなべ警備けいび
1683ねん 天和てんわ 3ねん 5月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ重信しげのぶ幕府ばくふとどこうなおしをねが、10まんせきふくした。
1692ねん 元禄げんろく 5ねん 6がつ 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ行信ゆきのぶ盛岡もりおかはんだい4だい藩主はんしゅとなる。
1694ねん 7ねん     南部なんぶ行信ゆきのぶおとうと政信まさのぶに(こうじまちこう)5,000せきおなじく勝信かつのぶに(三田みたこう)3,000せきぶんして、それぞれを旗本はたもととして出仕しゅっし
1699ねん 12ねん 5月 八戸はちのへりょう  南部なんぶ通信つうしん八戸はちのへはんだい3だい藩主はんしゅとなる。
1702ねん 15ねん   盛岡もりおかりょう  南部なんぶしんおん盛岡もりおかはんだい5だい藩主はんしゅとなる。
12月 24にち 元禄げんろく赤穂あこう事件じけん
1705ねん 宝永ほうえい 4ねん   盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしみき盛岡もりおかはんだい6だい藩主はんしゅとなる。
1716ねん とおる元年がんねん 10月 八戸はちのへりょう  南部なんぶ広信ひろのぶ八戸はちのへはんだい4だい藩主はんしゅとなる。
1725ねん 10ねん   盛岡もりおかりょう  南部なんぶとし盛岡もりおかはんだい7だい藩主はんしゅとなる。
1741ねん ひろし元年がんねん 12月   八戸はちのへりょう  南部なんぶしんきょう八戸はちのへはんだい5だい藩主はんしゅとなる。
1749ねん 寛延かんえい 2ねん   八戸はちのへりょう  いのしし鹿しか異常いじょう繁殖はんしょくによるいの飢饉ききん
1752ねん たかられき 2ねん   盛岡もりおかりょう  南部なんぶ利雄としお盛岡もりおかはんだい8だい藩主はんしゅとなる。
1755ねん たかられき 5ねん 12月   旗本はたもと 南部なんぶ利正としまさ盛岡もりおか藩主はんしゅ南部なんぶ利雄としお養子ようしとなり、それにともない三田みたこう3000せき廃家はいか
1765ねん 明和めいわ 2ねん 1がつ 盛岡もりおかりょう  尾去沢おさりざわ銅山どうざんはん営化。
5月   八戸はちのへりょう  南部なんぶしん八戸はちのへはんだい6だい藩主はんしゅとなる。
1774ねん 安永やすなが 3ねん     たかられきだい飢饉ききん
1780ねん 9ねん 2がつ 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ利正としまさ盛岡もりおかはんだい9だい藩主はんしゅとなる。
1781ねん 天明てんめい元年がんねん 2がつ 八戸はちのへりょう  南部なんぶ信房のぶふさ八戸はちのへはんだい7だい藩主はんしゅとなる。
1783ねん 3ねん     天明てんめいだい飢饉ききん
1784ねん 4ねん   盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしけい盛岡もりおかはんだい10代藩主はんしゅとなる。
1793ねん 寛政かんせい 5ねん 2がつ   ラクスマン来航らいこう事件じけんのロシア使節しせつとの幕吏ばくりせんろん使交渉こうしょう警護けいご幕命ばくめい盛岡もりおか弘前ひろさきりょうはんとも松前まさき警護けいご
1795ねん 7ねん 11月 盛岡もりおかりょう  和賀わが稗貫ひえぬき地方ちほうだい百姓ひゃくしょう一揆いっきおこる。
12月 八戸はちのへりょう  久慈くじ百姓ひゃくしょう一揆いっきおこる。
1796ねん 8ねん 八戸はちのへりょう  南部なんぶしんしん八戸はちのへはんだい8だい藩主はんしゅとなる。
1797ねん 9ねん 10月   盛岡もりおかはん松前まさき警備けいびいのちくだる。
1799ねん 11ねん 1がつ   ひがし蝦夷えぞおさむこう前期ぜんき蝦夷えぞまくりょう)にともない、幕府ばくふ盛岡もりおか弘前ひろさきりょうはんはこだて守備しゅびめいずる。
1807ねん 文化ぶんか 4ねん 4がつ   エトロフとうに20すうめいのロシアじん発砲はっぽうしながら上陸じょうりく応戦おうせんした盛岡もりおか藩士はんし大村おおむらおさむ五平ごへい は 、負傷ふしょうしてロシアじんとらえらる。(文化ぶんか寇)
1808ねん 5ねん 12月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしけい蝦夷えぞ警備けいびこうにより、幕府ばくふによって領地りょうち加増かぞうともなわない20まんせきへのこうなおしがおこなわれる。また、弘前ひろさきはんも7まんせきから10まんせき石高こくだかあらためる。
1812ねん 9ねん 盛岡もりおかりょう  武家ぶけ敷地しきちを「小路こうじ」、町人ちょうにんを「まち」と表記ひょうき
盛岡もりおかりょう  南部なんぶはん盛岡もりおかはん改称かいしょう
1817ねん 14ねん   ななはん  盛岡もりおかはんからのぶん旗本はたもとこうじまちこう当主とうしゅ南部なんぶしんあらたに6,000せき支給しきゅうし、ななはん盛岡もりおか新田にったはんたてはんする。
1820ねん 文政ぶんせい 3ねん 9月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ利用りよう盛岡もりおかはんだい11だい藩主はんしゅとなる。
12月 ななはん  南部なんぶしん盛岡もりおか新田にったはん初代しょだい藩主はんしゅとなる。
1821ねん 4ねん 4がつ 23にち   相馬そうま大作だいさく事件じけん
12月   幕府ばくふ蝦夷えぞ松前まさきはん返還へんかん盛岡もりおか弘前ひろさきはんとう蝦夷えぞ警備けいび廃止はいし
1822ねん 5ねん 1がつ ななはん  南部なんぶしんほまれななはんだい2だい藩主はんしゅとなる。
1825ねん 8ねん 9月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしずみ盛岡もりおかはんだい12だい藩主はんしゅとなる。
1829ねん 12ねん 10月 八戸はちのへりょう  藩校はんこう文武ぶんぶ講習こうしゅうしょ新築しんちく落成らくせい
1832ねん 天保てんぽう 3ねん 4がつ   天保てんぽう飢饉ききんはじまる。
1834ねん 5ねん 1がつ 八戸はちのへりょう  久慈くじそう百姓ひゃくしょう一揆いっきひえさんごう一揆いっき)。翌月よくげつ野村のむら武一たけいち失脚しっきゃく
1836ねん 7ねん 盛岡もりおかりょう  領内りょうない各地かくち百姓ひゃくしょう一揆いっきおこる。(盛岡もりおか南方なんぽう一揆いっき
1838ねん 9ねん 八戸はちのへりょう  南部なんぶしんしん城主じょうしゅかくとなる。
1842ねん 13ねん 八戸はちのへりょう  南部なんぶしんじゅん八戸はちのへはんだい9だい藩主はんしゅとなる。
1847ねん ひろし 4ねん 11月   盛岡もりおかりょう  さん閉伊へい一揆いっきおこる。
1848ねん よしみひさし元年がんねん 6がつ   盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしよし盛岡もりおかはんだい13だい藩主はんしゅとなる。
1849ねん 2ねん 9月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしよしちちずみ強訴ごうそにより隠居いんきょ
10月 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ利剛としひさ盛岡もりおかはんだい14だい藩主はんしゅとなる。
1853ねん よしみひさし 6ねん 6がつ 盛岡もりおかりょう  よしみながさん閉伊へい一揆いっきおこる。
1854ねん 安政あんせい元年がんねん 3がつ 3にち   日米にちべい和親わしん条約じょうやく調印ちょういん
6がつ   幕府ばくふ松前まさきはんよりはこだておよび周辺しゅうへん5-6さと四方しほううえとも後期こうき蝦夷えぞまくりょう)、はこかん奉行ぶぎょうをおき、盛岡もりおか弘前ひろさきりょうはんとう蝦夷えぞ警護けいごめいずる。
1855ねん 2ねん 盛岡もりおかりょう  はこかん開港かいこうによって幕府ばくふに、箱館山はこだてやまみさき恵山岬えさんみさきからほろべつ登別のぼりべつまでの沿岸えんがん警備けいびめいじられる。
8がつ 盛岡もりおかりょう  新渡戸にとべつたえ三本木新田さんぼんぎしんでん御用ごようかけとなる。
1856ねん 3ねん 盛岡もりおかりょう  蝦夷えぞ警護けいごのため、砂原すなはら陣屋じんや、モロラン出張しゅっちょう陣屋じんや構築こうちく
1858ねん 5ねん ななはん  南部なんぶしんほまれ城主じょうしゅかくとなる。
1859ねん 6ねん 6がつ   幕府ばくふ蝦夷えぞ東北とうほくしょはん分与ぶんよ警備けいび開拓かいたくおこなわせる。かくはん負担ふたん配慮はいりょして警備けいび一部いちぶ領有りょうゆうみとめる。
1860ねん 7ねん 3がつ 3にち 桜田さくらだ門外もんがいへん
1862ねん 文久ぶんきゅう 2ねん ななはん  南部なんぶしんみんななはんだい3だい藩主はんしゅとなる。
1867ねん 慶応けいおう 3ねん 10月 14にち   大政奉還たいせいほうかん
12月 9にち   王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい

明治めいじ以降いこう

編集へんしゅう
1868ねん 慶応けいおう 4ねん 1がつ   戊辰戦争ぼしんせんそう
5月   奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつ
7- 9月   秋田あきた戦争せんそう
8がつ   はこかん戦争せんそう
1868ねん 明治めいじ元年がんねん 9月 8にち   明治めいじ元年がんねん改元かいげん
1868ねん 9月 20日はつか 盛岡もりおかはん降伏ごうぶく
9月 23にち 野辺地のへじ戦争せんそう
10月   総督そうとく東北とうほく平定へいてい宣言せんげん
12月 7にち 盛岡もりおかりょう  南部なんぶ利剛としひさ隠居いんきょひかえめいじられ、盛岡もりおかはん20まんせき幕府ばくふ直轄ちょっかつとして没収ぼっしゅう
17にち 盛岡もりおかりょう  南部なんぶとしきょう家名かめい相続そうぞくゆるされる。
24にち 南部なんぶとしきょう白石しろいし13まんせき宮城みやぎけん)にてんふう白石しらいしはん発足ほっそく
盛岡もりおかりょう  弘前ひろさき藩主はんしゅ津軽つがるうけたまわあきらきゅう南部なんぶ領域りょういきのうち、北郡ほくそぎ三戸さんのへぐん二戸ふたどぐん取締とりしまりをめいじられる。
1869ねん 2ねん 1がつ ななはん  南部なんぶしんじかたななはんだい4だい藩主はんしゅとなる。
2がつ 9にち   きたぐん三戸さんのへぐん二戸ふたどぐん津軽つがる取締とりしまりにたい住民じゅうみんによる反対はんたい運動うんどうがおきたため、下野しもの黒羽くろははん栃木とちぎけん那須なす大関おおぜき美作みさくまもる支配しはいとした。
4がつ 26にち   黒羽くろははん三戸さんのへけん設置せっち
5月   五稜郭ごりょうかくきゅう幕府ばくふぐん降伏ごうぶくはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ
6がつ 17にち   南部なんぶとしきょう版籍はんせき奉還ほうかんゆるされ、白石しらいしはん知事ちじ任命にんめい
22にち   版籍はんせき奉還ほうかん南部なんぶしんじゅん八戸はちのへはん知事ちじ任命にんめい
23にち   楢山ならやま佐渡さど盛岡もりおか報恩寺ほうおんじにおいて刎首。
24にち   南部なんぶしんじかたななはん知事ちじ任命にんめい
8がつ 7にち   南部なんぶとしきょう旧領きゅうりょう盛岡もりおか復帰ふっき
10日とおか   南部なんぶとしきょう盛岡もりおかはん知事ちじ
11月   松平まつだいらひろしだい会津あいづはんおも)、陸奧みちのくこく3まんせききゅう南部なんぶりょうきたぐん三戸さんのへぐん二戸ふたどぐん金田一きんたいち以北いほく)にうつりふう三戸さんのへけん解体かいたいされ、みなみはん成立せいりつ
1870ねん 3ねん 5月 14にち 南部なんぶとしきょうけんせい施行しこう建白けんぱくし、盛岡もりおかはん知事ちじ辞任じにんう。
15にち   松平まつだいらひろしだいみなみはん知事ちじ任命にんめい
7がつ 盛岡もりおかはんはいし、盛岡もりおかけんく(廃藩置県はいはんちけん)。
1871ねん 4ねん 2がつ   みなみはんはんちょうから田名部たなべうつす。
7がつ 14にち   廃藩置県はいはんちけんにより一関いちのせきけん岩手いわてけん)、弘前ひろさき黒石くろいしみなみなな八戸はちのへたて北海道ほっかいどう一部いちぶけん青森あおもりけん成立せいりつ
9月 5にち   黒石くろいしみなみなな八戸はちのへかんの5けん弘前ひろさき合併がっぺい
23にち   弘前ひろさきけん青森あおもりけん改称かいしょうし、県庁けんちょう弘前ひろさきから青森あおもりうつす。
11月 2にち   盛岡もりおか一関いちのせき胆沢いさわ江刺えさしよんけんはいし、盛岡もりおかけん一関いちのせきけんく。
1872ねん 5ねん 1がつ 8にち   盛岡もりおかけん岩手いわてけん改称かいしょう

はんちょう機構きこう

編集へんしゅう

はん行政ぎょうせい組織そしきは10まんせき軍役ぐんえき組織そしきによるもので、中央ちゅうおう職制しょくせい幕府ばくふ模倣もほうし、藩主はんしゅした家老がろうのほかもろやくをおいた。

家老がろうばんやく

編集へんしゅう

はん行政ぎょうせい最高さいこう機関きかんであり、常時じょうじすうにん家老がろう合議ごうぎせいによって大綱たいこう決定けっていされた。日常にちじょう中丸なかまる登城とじょうして庶務しょむ決議けつぎし、連署れんしょおうずる。

せきつめ

編集へんしゅう

藩主はんしゅ常勤じょうきんする御用ごようあいだ出仕しゅっしする、家格かかくたかく、家老がろう経験けいけんんだ老練ろうれんひと選任せんにんされる。

大老たいろう

編集へんしゅう

北地きたじ御用ごようしょ

編集へんしゅう

北方ほっぽう警備けいび監督かんとく部署ぶしょ分轄ぶんかつされた蝦夷えぞ警備けいび下北しもきた半島はんとうから釜石かまいしうらいた海岸かいがん防備ぼうびについての費用ひよう調達ちょうたつ動員どういん計画けいかく陣屋じんやせつじょう配備はいび計画けいかくなどをおこなう。

用人ようにんしょ

編集へんしゅう

城内きうち中丸なかまる用人ようにんしょ常勤じょうきんし、その庶務しょむる。

目付めつけしょ

編集へんしゅう

目付めつけしょ司法しほう検察けんさつとうしゅとして治安ちあん方面ほうめん総轄そうかつし、その大目おおめづけ高知こうちかくについても検察けんさつけんがあり、常時じょうじにんとされた。勘定かんじょうしょ寺社じしゃまち奉行ぶぎょうとともに公示こうじさんやくしょうされて、広汎こうはんにわたっていた。

目付めつけしょ所管しょかんには、寺社じしゃまち奉行ぶぎょうおもて目付めつけ牛馬ぎゅうば目付めつけ武具ぶぐ奉行ぶぎょうさかい奉行ぶぎょうとうがあり、監査かんさ検察けんさつようするものは、目付めつけしょ管轄かんかつかれている。

勘定かんじょうしょ

編集へんしゅう

城内きうち設置せっちされてあった出納すいとう事務所じむしょで、目付めつけしょ寺社じしゃまち奉行ぶぎょうとともに公示こうじさんやくしょうされた職掌しょくしょうであった。ぐん支配しはいかた代官だいかんかた支配しはいかた山林さんりんかた土蔵どぞうかたななつの分掌ぶんしょうとなって、領内りょうない地方ちほう行政ぎょうせいかかわていた。

家臣かしんだん構成こうせい

編集へんしゅう

盛岡もりおか藩士はんし家系かけい調しらべるさい必須ひっすしょとされている『参考さんこう諸家しょか系図けいず』が岩手いわて県立けんりつ図書館としょかんとう架蔵かぞうされており、復刻ふっこくばん出版しゅっぱんされている。

かくしょく

編集へんしゅう
おも家格かかく
天保てんぽう15ねん1844ねん 明治めいじ元年がんねん1868ねん 明治めいじ2ねん
こう  家門かもん   3 いえ 家門かもん   2 いえ うえ 
こう   28 いえ 御三家ごさんけ   3 いえ
着座ちゃくざ高知こうち   7 いえ
こう   20 いえ
こう いえ  しんまる番頭ばんがしら  21 いえ  しんまる番頭ばんがしら  19 いえ なか 
ほん番組ばんぐみ たいら 100せき以上いじょう たいら 150せき以上いじょう
番組ばんぐみ たいら 50せき以上いじょう たいら 50せき以上いじょう した 
しん番組ばんぐみ たいら 50せき以下いか たいら 50せき以下いか
一生いっしょう御給ごきゅうじん 一生いっしょう御給ごきゅうじん
つとむちゅう御給ごきゅうじん つとむちゅう御給ごきゅうじん
医師いし茶道さどう 100せき以上いじょう医師いし 100せき以上いじょう医師いし なか 
100せき以下いか医師いし 100せき以下いか医師いし した 
茶道さどう 茶道さどう
ざい御給ごきゅうじん ざい御給ごきゅうじん ざい御給ごきゅうじん 平民へいみんのち士族しぞく
その 同朋どうほうから同心どうしん 同朋どうほうから同心どうしん そつ ぞく
ざい与力よりき同心どうしん ざい与力よりき同心どうしん

天保てんぽうじゅうねん御国みくに住居じゅうきょいとぐち」「明治めいじねんたいちょう

家臣かしん在郷ざいきょうせい

編集へんしゅう

通常つうじょう武士ぶし身分みぶん在郷ざいきょうしている給人きゅうにんせいがあり、また、陪臣ばいしん在郷ざいきょうのものがおおい。

ざい御給ごきゅうじん

編集へんしゅう

代官だいかんした下役したやく以下いか各種かくしゅ奉行ぶぎょうその役職やくしょくつとめさせるため「御給ごきゅうじん」をいた。藩士はんしとは区別くべつされ、城下じょうかはなれたざいまち土着どちゃくして、みずか農業のうぎょうもしくは商業しょうぎょういとなみつつ士分しぶんじゅんずる待遇たいぐうけているもののことである。形式けいしきてきには苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされ、知行ちぎょうあたえられるが、この知行ちぎょう自己じこ所有しょゆう石高こくだか全部ぜんぶまたは一部いちぶ知行ちぎょうとしてみとめられたものである[9]。 その居住きょじゅう支配しはいしている代官だいかんかれた地域ちいきめいかんして「なな御給ごきゅうじん」、「野辺地のへじ御給ごきゅうじん」などとしょうされた。

領内りょうない統治とうち

編集へんしゅう

しょしろやぶ却書じょう

編集へんしゅう

天正てんしょう18ねん(1590ねん)7がつ秀吉ひでよしより所領しょりょう安堵あんどカ条かじょうからなる朱印しゅいんじょう交付こうふされ、南部なんぶしんじき領内りょうないにある家中かちゅうしろかん破棄はきめいぜられ、また家中いえじゅうつまは、南部なんぶ居城きょじょう集合しゅうごう厳命げんめいされている。地方ちほうしょしろにいたものは従来じゅうらい在地ざいち地主じぬしから、そのしろかんやぶ却して大名だいみょう城下じょうか出仕しゅっしして、不在ふざい地主じぬしという性格せいかくわっていった。 どう20ねん6がつには、その処理しょり報告ほうこくしている。

盛岡もりおかはん

編集へんしゅう

代官だいかん

編集へんしゅう

大目おおめづけ司法しほう警察けいさつ軍事ぐんじ総轄そうかつし、勘定かんじょう奉行ぶぎょうした代官だいかん御山おんやま奉行ぶぎょうなどが配置はいちされ、代官だいかんは100せき以上いじょうほん番組ばんぐみかくつうごとに2人ふたりかれ当番とうばん非番ひばんせいにより、民政みんせい関係かんけい庶務しょむ従事じゅうじしていた。

つうせい

編集へんしゅう

盛岡もりおか八戸はちのへりょうはん独特どくとく行政ぎょうせい組織そしきとしての「つうせい」である。領内りょうないごうむら支配しはいのため、代官だいかん統治とうち地区ちくを「つう(とおり)」としょうしているが、藩政はんせい初期しょきたん方面ほうめんとか、その地方ちほう表現ひょうげんした言葉ことばであったが、天和てんわ年間ねんかん1681 - 83ねんには、代官だいかんしょ統治とうち区域くいきした。
つう」には原則げんそくとして代官だいかんき、盛岡もりおか藩士はんしなかから任命にんめいし、任期にんきを2ねんとして2人ふたり任用にんよう半年はんとし交替こうたい勤務きんむとした。そのした下役したやくものしょを2、3にん任用にんようした。 下役したやく代官だいかん地方ちほう給人きゅうにんから任用にんようし。代官だいかん地方ちほう行政ぎょうせい司法しほう警察けいさつ租税そぜい一切いっさい執行しっこうする権限けんげんをもち、その経費けいひむらだかおうじて地方ちほう付加ふかぜいとして徴収ちょうしゅうした。

盛岡もりおかまち奉行ぶぎょう

編集へんしゅう

はんしょ機関きかん整備せいび寛永かんえい年間ねんかん基礎きそさだまり、地方ちほう統治とうち城代じょうだい統治とうちしろ廃絶はいぜつともなって、代官だいかん統治とうちへと移行いこうしていった。 大目おおめづけしょした盛岡もりおかまち奉行ぶぎょう天和てんわ元年がんねん1681ねん以降いこう寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼務けんむし、寺社じしゃ町奉行まちぶぎょうしょうした。)がかれ、市内しない取締とりしまりのためとく任命にんめいされ、創設そうせつ年代ねんだい盛岡もりおか城下じょうかひらきにともなって、慶長けいちょう年間ねんかんといわれている。

 (盛岡もりおか城下じょうかけん断頭だんとう(ろくけんだん) - まちけんだんやく書留かきとめやく宿老しゅくろうやく

盛岡もりおか城下じょうかろくけんだん苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされ[10] ており、通例つうれい中津なかつがわはさんで、むかまち河南かなん方向ほうこうに3にん川北かわきたに3にん常置じょうちされ、はんからの任命にんめい任期にんき終身しゅうしんであり、まち吏の最高さいこう機関きかんとして、直接ちょくせつ町奉行まちぶぎょう支配しはいぞくしていた。

ごうむらさんやく

編集へんしゅう

南部なんぶはん村政そんせい肝煎きもいり村長そんちょうかく)、ろうめい助役じょやくかく 2,3にん)、組頭くみがしら人組にんぐみ組頭くみがしら)をって構成こうせいされ、そのしたほん百姓ひゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょうがいた[11]

  • 肝煎きもいり宿老しゅくろう組頭くみがしら

まちむらとの区別くべつは、まち宿駅しゅくえき伝馬てんま市街地しがいちで、むらにはそのような設備せつびがないところである。

領内りょうないまちしょうされているところでは、まちけんだんとおして日常にちじょうまちせい運営うんえいされた。軽犯罪けいはんざい処罰しょばつけんをもっていたので、かくむら肝煎きもいりより以上いじょう権限けんげんがあった。土地とち売買ばいばいい、これに認印みとめいんするのもしごとのひとつであった。 むらきもいれやく同様どうように、おおくはそのまち名家めいかけんだん役宅やくたくはその自宅じたくがあてられていた。

まちけんだんむらきもいれ代官だいかんしょ配下はいかぞくし、任免にんめんもそのところ管区かんく代官だいかん権限けんげんないにあり、任期にんきさだまっていなく、事故じこがないかぎ終身しゅうしん勤務きんむしており、おおくは世襲せしゅうでそのむら生活せいかつ安定あんていしている旧家きゅうかなどがつとめていた。

ろうめい年寄としよりともいい、肝煎きもいりけんだん補助ほじょやくであり村政そんせい担当たんとうしゃのひとりとして処理しょりたった。

むらない20せき単位たんい検地けんちちょう登録とうろくされたほん百姓ひゃくしょう中心ちゅうしんに、人組にんぐみ組織そしきし、人組にんぐみちょう組頭くみがしらんだ。肝煎きもいりけんだんなどからの通知つうち通達つうたつし、相互そうご連帯れんたい相互そうご互助ごじょつとめ、売買ばいばい質入しちい手形てがたれんしるし犯罪はんざい防止ぼうしその義務ぎむった。なお、まくりょうのような村方むらかたさんやくのうち農民のうみん代表だいひょうである百姓ひゃくしょうだいはおかなかった。

むら肝煎きもいり職務しょくむ内容ないようについては『紫波しわぐん矢巾やはばまち教育きょういく委員いいんかい 矢巾やはばまち文化財ぶんかざい報告ほうこくだい31しゅう 「間野々あいののむら肝煎きもいりいとぐち帳面ちょうめんあらため引請目録もくろくのべとおる元年がんねん(1744ねん)』に記載きさいがある。


要害ようがい屋敷やしき

編集へんしゅう

はじめは、伊達だて佐竹さたけ津軽つがるはんたいする国境こっきょう警備けいびのためのしろかんであったが、文化ぶんか年間ねんかんになると地方ちほう統治とうちいち拠点きょてん変質へんしつし、役所やくしょ要害ようがい屋敷やしきにあり、年貢ねんぐきむこく現物げんぶつ)を収納しゅうのうするはん土蔵どぞう)があってその土地とち人々ひとびと年貢ねんぐ上納じょうのうする便宜べんぎじょう理由りゆうもあり、代官だいかんしょとはことなった。

八戸はちのへはん

編集へんしゅう

つうせい

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八戸はちのへはん領内りょうない行政ぎょうせい区分くぶん盛岡もりおかはん同様どうように「つうせい」をもちいた。

元禄げんろく元年がんねん(1688ねん)正月しょうがつ領内りょうないごうむら庄屋しょうや名主なぬし制度せいど[12]採用さいようし、元禄げんろく7ねん(1694ねん)10がつ実施じっしし、まちけんだん庄屋しょうやに、かんいれ名主なぬし改称かいしょうした。盛岡もりおかはんとはことなっている。

交通こうつう

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陸路りくろ主要しゅよう街道かいどう

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目的もくてき地名ちめいかんして街道かいどうめいぶため、街道かいどう沿いのべつ土地とちでは、べつ名称めいしょうばれているのが常態じょうたいであった。

南部なんぶはん

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街道かいどうめい おこり てん おわり てん 備 こう
だい みち すじ 奥州おうしゅう街道かいどう 仙台せんだいさかいおに やなぎ 津軽つがるさかいうま もん
小道こみち井山いやまどう 秋田あきた往来おうらい もり おか はし   
しょう みち 沢内さわうち街道かいどう しずく いし ふとし  出羽でわうとうむらいず道筋みちすじ
鹿角かつの街道かいどう もり おか はな  なら かしわ境目さかいめ
はな  まつ やま
よこ みち はな  しょう さか
   しょう みち さん鹿角かつの街道かいどう さん  だい 
さん街道かいどう さん  はち 
なな  たいら ぬま
のぼ街道かいどう ぶく おか はち 
やま みち さん  だい 
うみ どう はま街道かいどう 平田ひらたざか石塚いしづか境目さかいめ はち   
北浜きたはま街道かいどう はち  だい はたけ
きたどおり だい はたけ ちょう のち
にゅう うみ どう 田名部たなべ街道かいどう 野辺地のへじ 田名部たなべ  
西通にしどおり 田名部たなべ 脇ノ沢わきのさわ

盛岡もりおかはん

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八戸はちのへはん

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八戸はちのへ領内りょうないおも街道かいどう八戸はちのへ城下じょうか起点きてんとしていた。

明治めいじにおける国道こくどう県道けんどうさとどう区別くべつ岩手いわてけん

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国道こくどう県道けんどうさとどう分類ぶんるいは、修繕しゅうぜんについて、国道こくどう官費かんぴ支弁しべん県道けんどう地方ちほう支弁しべんとなったものとかんがえられ、それに重要じゅうよう路線ろせんさとどうむらどう)となっていた。
明治めいじ14ねんけん記録きろくに、一等いっとう国道こくどうとして1路線ろせんさんとう国道こくどうとして1路線ろせん県道けんどう名称めいしょうは17せんあり、うち一等いっとう県道けんどう1路線ろせんさんとう県道けんどう16路線ろせんをあげられている。

  • 一等いっとう国道こくどう
    • はこだて街道かいどう 管内かんない中央ちゅうおう南北なんぼく貫通かんつうする管内かんない陸上りくじょう交通こうつう幹線かんせん
  • さんとう国道こくどう      
    • はま街道かいどう  宮城みやぎけん気仙沼けせんぬま岩手いわてけんはいり、三陸海岸さんりくかいがん経過けいかして青森あおもりけんつうずる沿岸えんがん郡村こおりむら陸上りくじょう交通こうつうせん

        宮城みやぎけん気仙沼けせんぬま気仙けせん-氷上ひかみ-もり-吉浜よしはま-しょう白浜しらはま-釜石かまいし-大槌おおつち-船越ふなこし-山田やまだ-津軽石つがるいし-宮古みやこ-田老たろう-小木おぎ-はたけ-普代ふだい-宇部うべ-久慈くじ青森あおもりけん じゅうななえき設置せっち

  • 一等いっとう県道けんどう
    • 秋田あきた街道かいどう     盛岡もりおか雫石しずくいしきょうじょう秋田あきたけん生保内おぼない途中とちゅうえき
  • さんとう県道けんどう
    • 山形やまがた街道かいどう(其一) 盛岡もりおかつなぎ南畑みなみはた川舟かわぶね秋田あきたけん 途中とちゅうななえき
    • 山形やまがた街道かいどう其二そのじ) 黒沢尻くろさわじり川尻かわじりえつ中畑なかはた秋田あきたけん 途中とちゅうよんえき
    • 津軽つがる街道かいどう     盛岡もりおかいち寺田てらだ秋田あきたけん途中とちゅうえき
    •  どう新道しんどう     田頭たがしら松尾まつお兄川あにかわ秋田あきたけん途中とちゅうさんえき
    • 宮古みやこ街道かいどう     盛岡もりおかちくかわ川井かわい宮古みやこ途中とちゅうななえき
    • 釜石かまいし街道かいどう     盛岡もりおか大迫おおさこ遠野とおの釜石かまいし途中とちゅうななえき
    •  どう古道ふるみち     いたる曾部-遠野とおの
    • 小本こもと街道かいどう     盛岡もりおか藪川やぶかわ岩泉いわいずみ小本こもと途中とちゅうさんえき
    • 久慈くじ街道かいどう     沼宮内ぬまみやうち葛巻くずまき久慈くじ途中とちゅうえき
    • 八戸はちのへ街道かいどう     福岡ふくおか観音かんのんりんはち
    • 遠野とおの街道かいどう(其一) 花巻はなまき土沢つちざわ下宮守しもみやもり遠野とおの
    •  どう街道かいどう其二そのじ) 伊手いてじんくび鮎貝あゆかい遠野とおの
    • 気仙沼けせんぬま街道かいどう    磐井いわい薄衣うすぎぬしゅうまや気仙沼けせんぬま途中とちゅうさんえき
    • 石巻いしのまき街道かいどう     磐井いわい金沢かなざわ涌津わくつ宮城みやぎけん途中とちゅうえき
    • 気仙けせん街道かいどう(其一) 磐井いわいちょうざか大原おおはら気仙けせん途中とちゅうよんえき
    •  どう街道かいどう其二そのじ) 水沢すいざわえき岩谷堂いわやどうえんまいもり途中とちゅうよんえき

主要しゅようみなと

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当時とうじ海上かいじょう輸送ゆそうルートは、田名部たなべみなとむつ)や野辺地のへじみなと上北かみきたぐん野辺地のへじまち)を利用りようして日本海にほんかい経由けいゆして西国さいこくいた日本海にほんかい海運かいうん西にしまわ航路こうろと、宮古みやこみなと宮古みやふる)から三陸さんりくおき経由けいゆしたり、北上川きたかみがわ舟運しゅううんつうじた仙台せんだいりょう石巻いしのまきみなと宮城みやぎけん石巻いしのまき)を利用りようして銚子ちょうし陸揚りくあげする太平洋海運たいへいようかいうんがあった。

閉伊へいぐん  釜石かまいし両石りょういし大槌おおつち吉里吉里きりきり山田やまだ宮古みやこ
きた ぐん とまり野辺地のへじ横浜よこはま田名部たなべ七湊ななみなと川内かわうち安渡あんど大畑おおはただいあいだ奥戸おくど佐井さいうしたきごうむら古実ふるみ見聞けんぶん時代じだいにより変化へんかした
八戸はちのへりょう  久慈くじさめ

北上川きたかみがわ水運すいうん

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盛岡もりおかはんでは江戸えど藩邸はんていへの物資ぶっし廻送かいそうは、慶安けいあん以降いこう北上ほくじょう川舟かわぶねうん(しゅううん)[14][15]太平洋たいへいよう海運かいうん利用りようし、仙台せんだいりょう石巻いしのまき米倉よねくら設置せっちした。べい雑穀ざっこくるいのほかに、鹿角かつの地方ちほう産出さんしゅつされたどう新山にいやま河岸かわぎしからもされていた。

また、八戸はちのへはん飛地とびちである志和しわぐんよんヵ村かそんべい穀類こくるい郡山こおりやま河岸かわぎし利用りようして江戸えど廻米かいまいおこなっていた。

かわ きし もり おか にち つめ はな まき 黒沢尻くろさわじり はん さかい 仙台せんだいはんりょう
新山にいやま河岸かわぎし 郡山こおりやま河岸かわぎし 花巻はなまき河岸かわぎし 和賀川わがかわ舟場ふなば 石巻いしのまきみなと

盛岡もりおかりょう 番所ばんしょ所在地しょざいち

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境目さかいめ番所ばんしょ (りょうとの境界きょうかい警護けいご
和賀わがぐん 鬼柳おにやなぎ番所ばんしょ 立花たちばな番所ばんしょ 黒岩くろいわ番所ばんしょ 浮田うきた番所ばんしょ 田瀬たせ番所ばんしょ 倉沢くらさわ番所ばんしょ こし中畑なかはた番所ばんしょ 岩崎いわさき番所ばんしょ
閉伊へいぐん 鮎貝あゆかい番所ばんしょ 荒屋あばらや番所ばんしょ 赤羽根あかばね番所ばんしょ 平田ひらた番所ばんしょ
岩手いわてぐん 橋場はしば番所ばんしょ
鹿角かづのぐん 熊沢くまさわ番所ばんしょ 土深井どぶかい番所ばんしょ 松山まつやま番所ばんしょ 濁川にごりかわ番所ばんしょ
北郡ほくそぎ うま門番もんばんしょ
ものとめ番所ばんしょ (領内りょうない商品しょうひん流通りゅうつう統制とうせい
和賀わがぐん すすまご番所ばんしょ 沢内さわうち番所ばんしょ 下中島しもなかしま番所ばんしょ 黒沢尻くろさわじり番所ばんしょ
閉伊へいぐん 遊井ゆうい名田なだ番所ばんしょ
稗貫ひえぬきぐん 野沢のざわ番所ばんしょ
岩手いわてぐん 簗川やながわ番所ばんしょ にゅう番所ばんしょ
鹿角かづのぐん 湯瀬ゆぜ番所ばんしょ
二戸ふたどぐん 小繋こつなぎ番所ばんしょ
三戸さんのへぐん 夏坂なつさか番所ばんしょ
遠見とおみ番所ばんしょ (船舶せんぱく監視かんし
閉伊へいぐん 小谷おたにとり 重茂おもえ はこさき 下ノ崎しものさき 羅賀らがさき
九戸くのへぐん やまうえ
北郡ほくそぎ とまりさき 尻屋崎しりやざき 黒岩くろいわ うしたき

ごうむら古実ふるみ見聞けんぶん」(文化ぶんか元年がんねん1804ねんしょじょう

八戸はちのへりょう 番所ばんしょ所在地しょざいち

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城下じょうか 沢里さわさと惣門そうもん 売市うるいち惣門そうもん
久慈くじがい道筋みちすじ 田代たしろ番屋ばんや
のぼがい道筋みちすじ 天狗沢てんぐざわ番屋ばんや
市川いちかわ五戸ごのへがい道筋みちすじ 大橋おおはし番屋ばんや

このほかに、必要ひつようおうじてあらためしょ設置せっちされた。

産業さんぎょう構造こうぞう

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畜産ちくさん

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古代こだい中世ちゅうせいぬかばれた地域ちいき名馬めいば産地さんちとしてられ、ぬか駿馬しゅんめしょうされており、その中心ちゅうしん北奥きたおくさんぐんきたさんきゅう)であった。平安へいあん末期まっきには東西とうざい南北なんぼくの4つの「もん」(かど)と、9つの「」(へ)にけられ、きゅうよんもんせい(くかのぶ しかどのせい)成立せいりつうままき駿馬しゅんめ産地さんちとしてられていた。ぬか公田くでんせられた年貢ねんぐうまおさめられていた[16]

南部なんぶこま

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近世きんせいはいると、、南部なんぶはんうませいは、はん直営ちょくえい牧野ぼくやう「(おのま)」と、みんまきの「さと(さとうま)」とのほんけんになっている。南部なんぶはんないの(きゅうまきふくむ)すべての牛馬ぎゅうば総轄そうかつしたのが、「牛馬ぎゅうばかけ用人ようにん[17]であって、そのしたに「馬掛まがき」と「さと馬掛まがき」がおかれた。

また、民間みんかんうまであってもはん許可きょかなく移動いどうすることも売却ばいきゃくすることも禁止きんしされており、はんうまさんによる収益しゅうえき確保かくほしていた。 はんから貸与たいよされたたね牡馬ぼばによってうまれたわかこま牡馬ぼばを「こま」、牝馬ひんばは「」とばれた。)は、めすなら馬主ばしゅあたえたが、おすはすべてさいこまで「掫駒(せりごま)」にかけて廉価れんかほろおさむして種馬たねうまぐん軍用ぐんようにして、うま商人しょうにん取引とりひき区域くいきかぎられ、他国たこくじん取引とりひき制限せいげんされていた[18]

盛岡もりおか城下じょうか成立せいりつとともにさんの掫(せり)はじめられたといわれているが、詳細しょうさいあきらかではない。 田名部たなぶではぶしてきはや馬市うまいち毎年まいとしひらかれていた[18]

貞享ていきょう元年がんねん1684ねん)、掫駒奉行ぶぎょうが9くみ20にん任命にんめいされ、領内りょうない30カ所かしょちかくの馬市うまいち開催かいさいしている。

南部なんぶきゅうまき

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藩政はんせいつうじ、南部なんぶきゅうまき(なんぶくまき)[19]総称そうしょうされる「はん営牧じょう)」を整備せいびして、実務じつむさん役所やくしょもうけて、総括そうかつ責任せきにんしゃは「別当べっとう」とばれ、かくまきには「うませめ調教ちょうきょう)」「うま」が配置はいちされて補佐ほさする一方いっぽうはんまき存在そんざいするかく代官だいかんしょには牛馬ぎゅうばやくかれた。

  • 大間野おおまの青森あおもりけん下北しもきたぐん大間だいままち)(げん むつ
  • 奥戸おくど( 〃  〃  〃 )
  • ありわたり( 〃 上北かみきたぐん横浜よこはままちおよび野辺地のへじまち北部ほくぶ
  • 木崎野きざきの( 〃  〃 三沢みさわ
  • また重野しげの( 〃 三戸さんのへぐん新郷しんごうむら
  • じゅう谷野たにの( 〃  〃 三戸さんのへまち
  • あい内野ないや( 〃  〃 南部なんぶまち
  • 北野きたの (岩手いわてけん九戸くのへぐん侍浜さむらいはまむら)(げん 久慈くじ
  • さん崎野さきの( 〃 九戸くのへぐん宇部うべむら

田鎖たくさりみょう広野ひろの立崎たちざきがあって、おおやけまきけい13カ所かしょじゅう谷野たにの中世ちゅうせいからまき存在そんざいしたがまきおおくが寛永かんえいから正保まさやす整備せいびされている。このほか寛文ひろふみ4ねん1664ねん)の八戸はちのへはん分立ぶんりつによって盛岡もりおかはんみょう青森あおもりけん八戸はちのへ)と広野ひろの岩手いわてけん久慈くじ)のまき譲渡じょうとした。

実際じっさいはんまき経営けいえい地元じもと農民のうみん転嫁てんかされ、夫役ぶやくほろおさむしておこなわれていた。牧場ぼくじょう飼育しいくさえているうまは、冬期とうきには、積雪せきせつかんこおけて、周辺しゅうへん農家のうかやくとしてあづけて保護ほごしている。また、牧場ぼくじょうにより、積雪せきせつすくないところは、四季しきつうじて放牧ほうぼくのままであった。

明治維新めいじいしん盛岡もりおかはんげんてんふうともなえない、かくまき後継こうけいみなみはんななはんがれたが、廃藩置県はいはんちけん廃止はいしされた。 明治めいじ3ねん1870ねん)9がつ、、きゅう盛岡もりおかはんさん事業じぎょう直接ちょくせつ政府せいふ管轄かんかつすることとなり、盛岡もりおかみんしょうやしなえ馬掛まがき出張所しゅっちょうしょかれた。 明治めいじ5ねん(1872ねん)10がつ 岩手いわてけん九戸くのへぐん侍浜さむらいはまむら北野きたの宇部うべむらさん崎野さきのきゅう盛岡もりおかはん牧場ぼくじょう廃止はいしおこなった。

さと飼育しいくにあたって、むら単位たんいはるからあきまで共同きょうどう牧野ぼくやや、冬場ふゆばしゃ飼のための草刈くさかじょう共同きょうどう利用りよう入会にゅうかい秣場まぐさばであり、むらごとに「うまぐみ」が結成けっせいされて、「うまきもいれ」がそれを統括とうかつし、はんうし馬方うまかた役人やくにんにつながっていた[18]

はんゆうの「」ははん乗用じょうよう贈答ぞうとうようにあてられていたほかに、ごうむら無償むしょうちちとしてあづけて「さと」の改良かいりょう役立やくだ貸付かしつけ種馬たねうま育成いくせい目的もくてきとしており、はんの「牛馬ぎゅうばあらためやく」のほか、かく代官だいかんしょの「牛馬ぎゅうばやく」が巡回じゅんかいしてごうむら農家のうかの飼食する牡馬ぼば調査ちょうさおこなった。

宝永ほうえい3ねん1706ねん)、領内りょうないさとかんして、牝馬ひんばはは)を上中かみなかさん等級とうきゅう区分くぶんしてほんちょううませきちょう)に登録とうろくし、その区別くべつ何人なんにん判別はんべつするために、かみちちかみ一般いっぱん牡馬ぼば区別くべつ明確めいかくはかり、上駒かみこまちゅうこま一切いっさいりょうすことはきんじられていた。

御馬おんまかいしゅ

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毎年まいとしあき江戸えど幕府ばくふから「公儀こうぎ御馬おんまかいしゅ」、しょ大名だいみょうから「わきかい」とばれる軍馬ぐんばれの役人やくにん派遣はけんされており、江戸えど幕府ばくふ軍馬ぐんば購入こうにゅうのために、刈田かりたぐんみや宮城みやぎけん)から出羽いずはこくて、途中とちゅう横手よこて馬市うまいち仕入しいれたのち六郷ろくごう角館かくのだて生保内おぼない経由けいゆして国見峠くにみとうげえ、しゅ産地さんち盛岡もりおかりするのが通例つうれいだった。 公儀こうぎ御馬おんまかいしゅ寛永かんえい2ねん1625ねん)にはじめられ、元禄げんろく3ねん1690ねん)を最後さいご廃止はいしされたが、あるとし記録きろくによればいちぎょう人数にんずう御馬おんまかいしゅ2人ふたり従者じゅうしゃふくめると50にんにおよんだという。軍馬ぐんば購入こうにゅう例年れいねんひゃくとう前後ぜんこうで、11月には奥羽おうう街道かいどう江戸えどかえったという[20]元禄げんろく4ねん1691ねん)4がつ老中ろうじゅうより、盛岡もりおか仙台せんだいりょうはん留守居るすいやくたいして、御馬おんまかいしゅ派遣はけん中止ちゅうしするが、とし毛色けいろ性別せいべつ目録もくろくみとめて、幕府ばくふ提出ていしゅつするようもとめられ、目録もくろくをもとに注文ちゅうもんしてうま購入こうにゅうするようにした。この仕組しくみを「かい」とぶようになった。とおる4ねん1719ねん)までつづき、毎年まいとし7-8疋が購入こうにゅうされた。

うし飼育しいく

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南部なんぶりょううし飼育しいく産地さんちかたよっておらず、北上川きたかみがわ流域りゅういき以外いがいおこなわれ、閉伊へいぐん北方ほっぽう九戸くのへぐん北部ほくぶ方面ほうめん飼育しいくされ、峻嶮しゅんけん山谷さんや運搬うんぱんのためなど、民間みんかんよう利用りようされ、農耕のうこう使役しえきされた形跡けいせきがない。北上ほくじょうだに米穀べいこく地帯ちたいへのしおとその海産物かいさんぶつを、おおむね閉伊へいきゅう海岸かいがんちか山間さんかんから「野田のだベコ」とばれるうしかたによって搬入はんにゅうされてれいがあった。

はんにおけるうし飼育しいくは、うま比較ひかくするとおくれていたため、うまにおけるしょ制度せいどのような完備かんび見受みうけられなく統制とうせいゆるやかであった。官職かんしょくには目付めつけやく監督かんとくうまうしあらためやくがあり、かく代官だいかんしょごと牛馬ぎゅうばやくがあって、かくむらうまうし肝煎きもいり指揮しきしていた。


飢饉ききん一揆いっき

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東北とうほく地方ちほう太平洋たいへいようがわでは、初夏しょかになると、「やませ」とばれる冷涼れいりょう北東ほくとうふうき、なつでも気温きおんがらず、明治めいじ以降いこうにおいても、冷害れいがい凶作きょうさくをひきおこしたことがある。北奥きたおく位置いちする南部なんぶはん領域りょういき広大こうだいであっても、そのほとんどが山林さんりん原野げんやによってめられて耕地こうちすくなく、また水稲すいとう生産せいさん限界げんかいてき地域ちいきで、当時とうじまくはん社会しゃかい石高こくだかせいもとづいて、つねに財政ざいせいてき基盤きばん畑作はたさくより水稲すいとう生産せいさんりょくもとめていたが、天候てんこう不順ふじゅん起因きいんする冷害れいがいと、ひでりふなばた風水害ふうすいがい霜害そうがい病虫害びょうちゅうがいはらしゅうとする凶作きょうさく契機けいきにして、食糧しょくりょう欠乏けつぼう原因げんいん多数たすうかつえじん餓死がししゃしていた。

盛岡もりおか八戸はちのへりょうはん発生はっせいした百姓ひゃくしょう一揆いっきは132かいかぞ[21][22]徳川とくがわさい多発たはつ生地きじであった。そのなかでも「稗貫ひえぬき和賀わが」(花巻はなまき北上ほくじょう地方ちほうさい多発たはつ地域ちいきだった。

元禄げんろくたかられき天明てんめい天保てんぽう飢饉ききん被害ひがい甚大じんだい盛岡もりおかはんよんだい飢饉ききんといわれ、凶作きょうさく飢饉ききん続発ぞくはつはん財政ざいせい圧迫あっぱくし、重税じゅうぜいとそれに反対はんたいする一揆いっきかえされてきた。

元禄げんろく飢饉ききん

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元禄げんろく4ねん(1691ねん) - 8ねん(1695ねん))  元禄げんろく年間ねんかん16881704ねん)の盛岡もりおかはんは、元禄げんろく6(1693ねんねん・10ねん・11ねん・16ねんよんヵ年かねんのぞくと、あとは連年れんねん不作ふさく凶作きょうさくつづき、元禄げんろく8ねんと15ねんには飢饉ききんとなった。 元禄げんろく8ねん典型てんけいてきな霖雨・ひやによる冷害れいがいがもとで作柄さくがらわるく、年貢ねんぐ収納しゅうのう例年れいねんの28.6%しか見込みこめず、ついに飢饉ききんとなって米価べいか高騰こうとうした。 11月、はんでは幕府ばくふに「領内りょうない不作ふさく」について報告ほうこくした結果けっか来春らいしゅん参勤さんきん免除めんじょされ、その費用ひようをもって飢饉ききん対策たいさく充当じゅうとうした。 べい雑穀ざっこくとうりょう移出いしゅつ禁止きんし、貯穀奨励しょうれいりょうしゃ領内りょうない逗留とうりゅう禁止きんし酒造しゅぞう禁止きんし用心ようじんなどを命令めいれいするとともに、城下じょうか庶民しょみん救済きゅうさいのためはらいまいをし、紺屋こんやまち寺町てらまちでは盛岡もりおか御蔵おぐらまい小売こうりさせた。さらに城下じょうか寺院じいん富豪ふごう協力きょうりょくて、長町ながまち梨子なしごほんちょういずる口辺こうへんたばあらわてら門前もんぜんヵ所かしょすくい小屋こやもうけ、かつえじん救済きゅうさいにあたった。

寛延かんえい2ねん いのしし飢饉ききん(イノシシけがづ)

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当時とうじ関東かんとう周辺しゅうへんで、田畑たはた木綿もめん養蚕ようさんなどの収益しゅうえきがるさく転換てんかんしたため、大豆だいず不足ふそくし、盛岡もりおかはん八戸はちのへはん大豆だいず生産せいさんのため、ばたかえ放棄ほうきえさしげることでいのしし異常いじょう繁殖はんしょくして、寛延かんえい2ねん1749ねん)、凶作きょうさくさとりてきたはたけ作物さくもつらし、おおくの農民のうみん餓死がしいやった。

たかられき飢饉ききん

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たかられき3ねん1753ねん) - たかられき7ねん1757ねん))
たかられき4ねん1754ねん)がだい豊作ほうさくであったのでやく10まんせき江戸えど廻米かいまいおこなった結果けっかはんないべい払底ふっていし、たかられき5ねん1755ねん)のだい凶作きょうさく契機けいきだい飢饉ききん発展はってんした。はんでは城下じょうか富豪ふごうからの用金ようきん資金しきんとして、よくたかられき6ねん1756ねん正月しょうがつ城下じょうかえいさちいん円光寺えんこうじ茅葺かやぶきのすくい小屋こやて、かつえじん収容しゅうよう救済きゅうさいした。 たかられき6ねん代官だいかんしょ提出ていしゅつした報告ほうこくしょによると、餓死がししゃ 49,594にん空家あきや 7,043けんであり、なかでも三戸さんのへぐんどおりいで岩手いわてぐん雫石しずくいしとおる沼宮内ぬまみやうちどおり被害ひがい激甚げきじんきわめた。

天明てんめい飢饉ききん

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天明てんめい2ねん1782ねん) - 天明てんめい8ねん1788ねん))
天明てんめい3ねん土用どようになっても「やませ」よってなつでも気温きおんがらず、いね成長せいちょうまり、くわえて、大風おおかぜ霜害そうがいによって収穫しゅうかくゼロという未曾有みぞうだい凶作きょうさくとなり、そのとしあきから翌年よくねんにかけてだい飢饉ききんとなり、おおくの餓死がししゃしょうじた。また、気象きしょう不順ふじゅんという自然しぜん災害さいがいだけに原因げんいんがあるわけでなく、農村のうそんたいする年貢ねんぐおさむ限度げんどえ、農業のうぎょうにおけるさい生産せいさん不可能ふかのう状態じょうたいおちいった。

寛政かんせい 2ねん 長岡ながおかとおる久保くぼむら知行ちぎょう一揆いっき

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寛政かんせい 7 - 8ねん 盛岡もりおか南方なんぽう税制ぜいせい改革かいかく一揆いっき

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寛政かんせい11ねん - 文政ぶんせい 4ねん 蝦夷えぞまくりょうにともなう一揆いっき

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下北しもきた地区ちく一揆いっき13けんうち8けんまでは、寛政かんせい11ねん1799ねん)から文政ぶんせい4ねん1821ねん)までの蝦夷えぞまくりょうにともなう時期じき集中しゅうちゅうしている。

寛政かんせい11ねん1799ねん)2がつひがし蝦夷えぞまくりょうによって、とおる2ねん1802ねん)のひがし蝦夷えぞ永久えいきゅう直轄ちょっかつと、やく負担ふたん固定こていという危機ききかん増幅ぞうふくさせた。

文化ぶんか元年がんねん1804ねん)の佐井さいばこだてあいだ航路こうろにともなう夫役ぶやく伝馬てんまやくにかかわるやく負担ふたん増加ぞうかに、人馬じんば通行つうこうやく軽減けいげんもとめた愁訟がこり、文化ぶんか5ねん1808ねん)12月に、盛岡もりおかはん東西とうざい蝦夷えぞ永久えいきゅう警護けいごするため1,000にんはんへい蝦夷えぞへおくることになったが、わりに領地りょうち加増かぞうともなわない20まんせきへのこうなおしがおこなわれる。それにより増俸ぞうほうなしに軍役ぐんえき負担ふたんだけがばいになってはん財政ざいせい枯渇こかつ状態じょうたいであるという過重かじゅう結果けっかをまねいた。

文化ぶんか9ねん1812ねん農民のうみん従来じゅうらい負担ふたんしてきた賦役ふえき貨幣かへい賦課ふかした「じょうやくぜに」を農民のうみん転嫁てんかしたため、きたどおり関根せきねむら下風呂しもふろむら易国間いこくまむら蛇浦へびうらむら大間だいまむら奥戸おくどむらぎゅう滝村たきむら佐井さいむらかくきもいれ大畑おおはたむらけんだん連名れんめい田名部たなべ代官だいかんしょ愁訴しゅうそおよ免除めんじょされた(文化ぶんか9ねんじょうやくぜに一揆いっき)が、西通にしどおり東通ひがしどおりむら々は負担ふたんおもくなった。また、文化ぶんか12ねん1815ねん)にもしんやくぜにほろおさむ免除めんじょ愁訴しゅうそおこなわれた。

天保てんぽう飢饉ききん

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天保てんぽう3ねん1832ねん) - 天保てんぽう10ねん1839ねん)) 霖雨・ひや降霜こうそうなどの気象きしょう条件じょうけんおも原因げんいんとし、天保てんぽう3ねん1832ねん)からどう9ねん1838ねん)まで連続れんぞくてき凶作きょうさくつづき、これをななねん飢渇きかつ(けかつ)」とばれた[18]、またはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうによる重税じゅうぜい政策せいさくがそのたびたかめた。 天保てんぽう盛岡もりおかはんりょうでは凶作きょうさくがうちつづき、にもかかわらず、盛岡もりおかはんりょうからははん財政ざいせい補填ほてんのために米価べいかたか江戸えど目標もくひょうとしてのべい移出いしゅつ強行きょうこうされていた。それは百姓ひゃくしょうからの年貢ねんぐ通常つうじょうてでまかなうことはできず、来年らいねん耕作こうさくのための種籾たねもみや、食料しょくりょうとしてのたくわえにもおよぶものさえてて廻送かいそうしていった。

天保てんぽう一揆いっき騒動そうどう盛岡もりおか以南いなん穀倉こくそう地帯ちたいかいまい制度せいどとその停止ていし要求ようきゅうしておこなわれており、田名部たなべ野辺地のへじななかくつうかいまい対象たいしょうとなる穀倉こくそう地帯ちたいではなく、りょうからの移入いにゅうまいによって生活せいかつをまかなう地区ちくであったため、対立たいりつこさなかった。そして、寛永かんえい以降いこう蝦夷えぞまくりょうなかで「松前まさき稼」とばれた、蝦夷えぞへの労働ろうどうりょく移動いどう可能かのうであり、飢餓きが困窮こんきゅう一時いちじてき回避かいひすることができた。

天保てんぽう 5ねん 久慈くじ軽米かるまいとおる ひえさんごう一揆いっき

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天保てんぽう4ねん(1833ねん)の飢饉ききんさいして、八戸はちのへはん一切いっさい救済きゅうさいおこなうことなく、領民りょうみんいちにち食料しょくりょう精白せいはくしないひえさんごうさだめ、それ以外いがい穀物こくもつ市場いちば実勢じっせい無視むしし、強制きょうせいてきにすべて藩札はんさつやすげることを布告ふこくした。 天保てんぽう5ねん(1834ねん)12月にはいって是川これかわむら皮切かわきりに、久慈くじ軽米かるまい嶋守しまもりひろがり、最初さいしょ集結しゅうけつした2せんにん一揆いっきぜい久慈くじ街道かいどうを、法螺貝ほらがいおととどろかせながら八戸はちのへ城下じょうか鍛治かじまちおよび周辺しゅうへんむら々に結集けっしゅうしたときには人数にんずう8せんになっていたとわれる。一揆いっき訴願そがんしょには、70以上いじょう願書がんしょして、野村のむら軍記ぐんきわたしとひえさんごういちけん撤回てっかい要求ようきゅうした。 野村のむら軍記ぐんきこったそう百姓ひゃくしょう一揆いっき責任せきにんわされて入牢にゅうろうして八戸はちのへ獄死ごくしした。

天保てんぽう 7ねん 盛岡もりおか南方なんぽう一揆いっき 盛岡もりおか越訴えっそ

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天保てんぽう7ねん1836ねん)11月に新税しんぜい増税ぞうぜい反対はんたい一揆いっきとして、げん大迫おおさこまち花巻はなまき)の農民のうみんすうせんにん決起けっきして、盛岡もりおか城下じょうかしかけ(盛岡もりおか強訴ごうそ)の一揆いっきがわ要求ようきゅう一度いちど受入うけいれたが、解散かいさんをすると、前言ぜんげん取消とりけした。

天保てんぽう 8ねん 盛岡もりおか南方なんぽう一揆いっき 仙台せんだい越訴えっそ

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天保てんぽう8ねん1837ねん)には、昨年さくねん一揆いっきたい稗貫ひえぬき和賀わが農民のうみん2せんにん以上いじょうが 仙台せんだいりょう越訴えっそする事態じたい発展はってんし、南部なんぶはん非難ひなんした。南部なんぶはん一揆いっきしゅもどすため、首謀しゅぼうしゃ処罰しょばつしないことを約束やくそくし、仙台せんだいはん幕府ばくふ内密ないみつにすることを約束やくそくした。しかし南部なんぶはん一揆いっきしゅもどしたのち許可きょかしたものを破棄はきし、首謀しゅぼうしゃ処刑しょけいした。これで領民りょうみんからは軽蔑けいべつするようになった。その南部なんぶはん目安めやすばこ設置せっちした。

さん閉伊へい一揆いっき

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三陸さんりく東海岸ひがしかいがんでは水稲すいとう生産せいさんりょくにはめぐまれず、江戸えど市場いちば輸出ゆしゅつ長崎ながさきたわらぶつ輸出ゆしゅつさかなかす魚油ぎょゆ商品しょうひん生産せいさんによって、りょうからの移入いにゅうまいによって生活せいかつをまかなう地区ちくであった。

ひろし4ねん 遠野とおの強訴ごうそ

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盛岡もりおかはんは,、天保てんぽう10ねん1839ねん)、今後こんご用金ようきんなど一切いっさい租税そぜい廃止はいしするとして、ぜん領内りょうないいちけんあたり1かん800もんめ基準きじゅん全戸ぜんこてた軒別けんべつやくというあらたなぜいした。三陸さんりく沿岸えんがん大槌おおつち宮古みやふるどおりさん閉伊へい地域ちいきは、とく課税かぜいがくおおく、ぜんりょう合計ごうけいは2まん9180りょうおよんだ。

ひろし4ねん(1847ねん)10がつに、あらたな課税かぜいはしないというさき約束やくそくやぶり、財政難ざいせいなんきゅうしたはんは、そとせん警備けいびのための特別とくべつ用金ようきん5まん2500りょうした。これが契機けいきとなって11月17にち野田通のだどおり安家あつかむら下閉伊しもへいぐん岩泉いわいずみまち)からきた一揆いっき周辺しゅうへんむら々をんで小本こもと田老たろう宮古みやこ山田やまだ大槌おおつち南下なんか各地かくち一揆いっき合流ごうりゅうして笛吹峠ふえふきとうげえて、遠野とおの強訴ごうそした。 上納じょうのうきん不払ふばらいを要求ようきゅうするものではなく、大挙たいきょして仙台せんだいりょう出稼でかせぎにでてその労賃ろうちんをもって支払しはらうという経緯けいいのため、南部なんぶはんはじ天下てんかにさらすこととなり、鎮圧ちんあつ一点いってんばりの鎮撫ちんぶおこなえなかった。

 12月4にち遠野とおの早瀬はやせ川原かわらにおいて、不信ふしんきわまるほんはん上席じょうせき家老がろう南部なんぶ土佐とさなにわれてもくちひらかず終始しゅうし無言むごん相手あいてとせず、遠野とおの南部なんぶ家老がろう新田にったしょう十郎じゅうろうに、一揆いっき代表だいひょう集会しゅうかいの25ヶ条かじょう要求ようきゅう願書がんしょ提出ていしゅつした。要求ようきゅうは、用金ようきん免除めんじょ大豆だいずしお免除めんじょ、いままでのじょうやく年貢ねんぐ以外いがい新税しんぜい免除めんじょなどであった。ついに、盛岡もりおかはんは、これらの要求ようきゅうの12じょうみとめて事態じたい収拾しゅうしゅうしようとしたざるをなかった。 遠野とおの南部なんぶでは一揆いっき農民のうみん帰路きろ食料しょくりょう支給しきゅうしたので、12月5にちからかくむら々にっていって、伊達だてりょうへのえつはんもかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫ちんぶするにいたった。 『うちりゃく』によれば、一揆いっき代表だいひょうわたる兵衛ひょうえ花巻はなまき逮捕たいほされ、盛岡もりおか牢死ろうししている。

 また、これに呼応こおうし、同年どうねん12がつ1にち鬼柳おにやなぎ黒沢尻くろさわじりどおりどう15にちには徳田とくた伝法寺でんぼうじどおり八幡やはた寺林てらばやしどおりでも一揆いっき発生はっせいしたが、当局とうきょくによって鎮圧ちんあつされた。

はん対応たいおう
よしみひさし元年がんねん1848ねん)6がつ責任せきにんかたち南部なんぶずみ病気びょうき在国ざいこくちゅうであったため病気びょうき隠退いんたいねがいで、南部なんぶとしだい13だい藩主はんしゅとなるが、ずみ家督かとくゆずったものの官位かんい返上へんじょうせず「だい太守たいしゅ」の院政いんせいおこなわれた。 よしみなが2ねん1849ねん)7がつずみ藩主はんしゅゆずっていた南部なんぶとし江戸えど滞在たいざいちゅう南部なんぶ土佐とさ派遣はけんして退位たいいするように圧力あつりょくをかけられて、11月に隠居いんきょした。この廃立はいりつ反対はんたいした東堂とうどう学派がくは一派いっぱよく1850ねん弾圧だんあつされ、南部なんぶ利剛としひさだい14だい藩主はんしゅ相続そうぞくさせて院政いんせい継続けいぞくした。

よしみなが6ねん 仙台せんだい強訴ごうそ

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よしみなが6ねん1853ねん)2がつはんきづまった財政ざいせいはいかんともしがたく、さとわり用金ようきん徴収ちょうしゅう強制きょうせいされたことを契機けいきにして、各種かくしゅ新税しんぜい反対はんたいする流通りゅうつう商人しょうにん中心ちゅうしんに、同年どうねん5がつ野田通のだどおり田野畑たのはたむらから一斉いっせい蜂起ほうきをはじめ、 はまどお南下なんかして田老たろう宮古みやこ山田やまだかくむらすにつれだい群衆ぐんしゅうとなっていった。 6月4にち大槌おおつちどおりせ、よく5にち釜石かまいし集合しゅうごうした一揆いっき人数にんずういちまんろくせん余人よにんにもたっし、仙台せんだいりょうへの越訴えっそ画策かくさくし、盛岡もりおかりょう平田ひらた番所ばんしょから仙台せんだいりょうどおりろうしたが、唐丹とうに番所ばんしょがわでは はんさかい警備けいび厳重げんじゅうまっていたため、間道かんどうすす気仙けせんぐん唐丹とうにむらはちせんにんあまり越訴えっそし、仙台せんだいはん役人やくにんうったるという、前代未聞ぜんだいみもん自体じたいになっていた。 これにたいして、盛岡もりおかはんさくるすべもなく混乱こんらんしているうちに、6月17にち一揆いっき代表だいひょう45にんのこして帰国きこくした。むら々は、この代表だいひょうなんらかの不幸ふこうきた場合ばあいには共同きょうどう子孫しそん養育よういくりょうをだすことなどの約束やくそくわしていたのである。

その訴状そじょうによれば、さん閉伊へいまくりょうか、仙台せんだいはんりょうねがたもので、仙台せんだいはんでは政治せいじてき要求ようきゅうであるから返答へんとう出来できないとし、具体ぐたいてき要求ようきゅうたずね、商品しょうひん経済けいざい発達はったつによって賦課ふかされた重税じゅうぜいたいする反対はんたい行動こうどうであったが、こたえた47箇条かじょう願文がんもんをつくりあげ、伊達だてはんした。伊達だてはん南部なんぶはんはないは5ヶ月かげつはなわれ、ようやくさん閉伊へいどおりののう漁民ぎょみんねがいがかなったのであった。6ヶ月かげつあいだにわたった一揆いっき成功せいこううちわる

はん対応たいおう
よしみなが7ねん1854ねん)、この一揆いっき幕府ばくふられ、藩主はんしゅ利剛としひさはおかまいなし、隠居いんきょずみには参府さんぷうえ永久えいきゅう閉居へいきょもうけられた。 領袖りょうしゅううしなったずみは、家老がろう 南部なんぶ土佐とさ横沢よこざわ兵庫ひょうごを、やく御免ごめんのうえ祿ろく半減はんげん永久えいきゅう閉居へいきょ参政さんせい石原いしはらなぎさ田鎖たくさりしげる左衛門さえもん川島かわしまもく左衛門さえもんらもいえ祿ろく屋敷やしき没収ぼっしゅうのうえ、しかかえをはなたれる。

南部なんぶとし隠居いんきょになっており、ちちずみ公儀こうぎから謹慎きんしんめいぜられたときも、遊興ゆうきょう遊猟ゆうりょうつづけていたため、譴責けんせきけ、江戸えど家老がろう毛馬けま内典ないてんぜんひがし中務なかつかさ責任せきにんって免職めんしょくされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 青森あおもりけん資料しりょうへん 中世ちゅうせい1
  2. ^ a b 岩手いわてけんだい2かん 中世ちゅうせいへん じょう
  3. ^ a b c 川内せんだいまち
  4. ^ a b c d e f (岩手いわてけん-12)年表ねんぴょう
  5. ^ 南朝なんちょうへん年紀としのりりゃく』(あきらこうかん文庫本ぶんこぼん
  6. ^ a b c d (むつ年表ねんぴょう
  7. ^ しん記録きろく
  8. ^ 前代ぜんだいれき
  9. ^ (むつ) 近世きんせいへん
  10. ^ 文化ぶんか7ねん11月15にちじょう はん日記にっき
  11. ^ (むつ近世きんせいへん
  12. ^ 近世きんせいこもんじょかん八戸はちのへはん村役人むらやくにん制度せいど名主なぬしだい下書したがき田屋たやについて
  13. ^ 青森あおもりけん資料しりょうへん 近世きんせいへん 4 南部なんぶ1盛岡もりおかはん
  14. ^ 岩手いわてけん博物館はくぶつかん北上川きたかみがわ舟運しゅううん
  15. ^ 日本にっぽん財団ざいだん郡山こおりやま河岸かわぎししょうみさおぶね
  16. ^ 吾妻あづまきょう文治ぶんじ5ねん9がつ17にちじょう
  17. ^ 岩手大学いわてだいがく研究けんきゅう年報ねんぽうだい61かんだい2ごう, 2001 公儀こうぎ御馬おんまかいしゅ盛岡もりおかはん
  18. ^ a b c d 大間だいままち
  19. ^ 岩手いわてけん図書館としょかん岩手いわて地図ちず 南部なんぶきゅう牧之ぼくし
  20. ^ あきた(秋田あきたけん広報こうほう通巻つうかん121ごう、1972ねん昭和しょうわ47ねん)6がつ1にち発行はっこう
  21. ^ もり嘉兵衛かへえ著作ちょさくしゅう なな 南部なんぶはん百姓ひゃくしょう一揆いっき研究けんきゅう昭和しょうわ10ねん(1935ねん))」 (法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく 1992出版しゅっぱん)
  22. ^ 岩手いわてけん博物館はくぶつかん百姓ひゃくしょう一揆いっききんじた制札せいさつ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 青森あおもりけんへんさん中世ちゅうせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 中世ちゅうせい 1 南部なんぶ関係かんけい資料しりょう青森あおもりけん、2004ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん中世ちゅうせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 中世ちゅうせい 2 安藤あんどう津軽つがる関係かんけい資料しりょう青森あおもりけん、2005ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん近世きんせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 近世きんせいへん 2 津軽つがる1 前期ぜんき津軽つがるりょう青森あおもりけん、2002ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん近世きんせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 近世きんせいへん 3 津軽つがる2 後期こうき津軽つがるりょう青森あおもりけん、2006ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん近世きんせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 近世きんせいへん 4 南部なんぶ1 盛岡もりおかはん青森あおもりけん、2003ねん3がつ3にち 
  • 青森あおもりけんへんさん近世きんせい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん 近世きんせいへん 5 南部なんぶ2 八戸はちのへはん青森あおもりけん、2011ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさんきん現代げんだい部会ぶかい青森あおもりけん 資料しりょうへん きん現代げんだい 2 近代きんだい成立せいりつ青森あおもりけん、2000ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん民俗みんぞく部会ぶかい青森あおもりけん 民俗みんぞくへん 資料しりょう 南部なんぶ青森あおもりけん、2001ねん3がつ31にち 
  • 青森あおもりけんへんさん民俗みんぞく部会ぶかい青森あおもりけん 民俗みんぞくへん 資料しりょう 下北しもきた青森あおもりけん、2007ねん3がつ31にち 
  • 岩手いわてけん だい2かん 中世ちゅうせいへん じょう岩手いわてけん、1961ねん3がつ25にち 
  • 岩手いわてけん だい3かん 中世ちゅうせいへん 岩手いわてけん、1961ねん10がつ20日はつか 
  • 岩手いわてけん だい5かん 近世きんせいへん 2』岩手いわてけん、1963ねん1がつ30にち 
  • 岩手いわてけん だい9かん 近代きんだいへん 4 岩手いわてけんへん(その2)』岩手いわてけん、1964ねん3がつ30にち 
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  • 川内せんだいまちへんさん委員いいんかい川内せんだいまち 原始げんし古代こだい 中世ちゅうせい 近世きんせい へん青森あおもりけん下北しもきたぐん川内せんだいまちげんむつ)、2005ねん3がつ13にち 
  • 五所川原ごしょがわら 通史つうしへんⅠ』青森あおもりけん五所川原ごしょがわら、1998ねん3がつ31にち 
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  • 瀧本たきもと壽史ひさし名須川なすかわ溢男『街道かいどう日本にっぽん 5 三陸さんりく海岸かいがんはま街道かいどう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2004ねん12月20にちISBN 4-642-06205-X 
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  • 西にしたに恭弘やすひろくにべつ 戦国せんごく大名だいみょう城郭じょうかく事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1999ねん12月5にちISBN 4-490-10533-9 
  • 地方ちほう研究けんきゅう協議きょうぎかい地方ちほう事典じてん弘文こうぶんかん、1997ねん4がつ30にちISBN 4-335-25056-8 
  • 大正たいしょうじゅうさんづくりかた -南部なんぶ藩主はんしゅ物語ものがたり-』岩手日報社いわてにっぽうしゃ、1987ねん4がつ10日とおかISBN 4-87201-015-9 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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自治体じちたい

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