オリエント急行 きゅうこう のポスター。
オリエント急行 きゅうこう (オリエントきゅうこう、Orient Express、初期 しょき には Express d'Orient [1] )は、ヨーロッパ を走行 そうこう する長距離 ちょうきょり 夜行 やこう 列車 れっしゃ 、およびこれにちなんで名付 なづ けられた列車 れっしゃ である。
オリエント急行 きゅうこう の起源 きげん は、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ (日本 にっぽん での通称 つうしょう 「ワゴン・リ」社 しゃ )により1883年 ねん に運行 うんこう が開始 かいし されたパリ - コンスタンティノープル (イスタンブール )間 あいだ の列車 れっしゃ (当時 とうじ は一部 いちぶ 船舶 せんぱく 連絡 れんらく )である。その後 ご 、西 にし ヨーロッパ とバルカン半島 ばるかんはんとう を結 むす ぶ国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の列車 れっしゃ 群 ぐん が「オリエント急行 きゅうこう 」を名乗 なの るようになった。西 にし ヨーロッパ側 がわ の起点 きてん はパリのほかフランス のカレー やベルギー のオーステンデ などがあり、バルカン半島 ばるかんはんとう 側 がわ の終点 しゅうてん はイスタンブールのほかギリシア のアテネ やルーマニア のコンスタンツァ 、ブカレスト などがあった。これらの列車 れっしゃ は出発 しゅっぱつ 地 ち や途中 とちゅう の経路 けいろ により以下 いか のように名付 なづ けられていた。
オリエント急行 きゅうこう (Orient Express):1883年 ねん - 2009年 ねん
オーステンデ・ウィーン・オリエント急行 きゅうこう (Oostende Wien Orient Express):1900年 ねん - 1939年 ねん
シンプロン・オリエント急行 きゅうこう (Simplon Orient Express):1919年 ねん - 1962年 ねん
アールベルク・オリエント急行 きゅうこう (Arlberg Orient Express):1931年 ねん - 1962年 ねん
バルト・オリエント急行 きゅうこう (Balt Orient Express):1948年 ねん - 1995年 ねん
ダイレクト・オリエント急行 きゅうこう (Direct Orient Express):1962年 ねん - 1977年 ねん
パリ - イスタンブール、アテネ(経路 けいろ はシンプロン・オリエント急行 きゅうこう と同 おな じ)
タウエルン・オリエント急行 きゅうこう (Tauern Orient Express):1966年 ねん - 1979年 ねん
ミュンヘン -(タウエルントンネル)- リュブリャナ(以下 いか 、ダイレクト・オリエント急行 きゅうこう と同 おな じ)
いずれも時期 じき によって区間 くかん や経由 けいゆ 地 ち は少 すこ しずつ異 こと なり、またこのほかにも途中 とちゅう 駅 えき での客車 きゃくしゃ の併結、分割 ぶんかつ は多数 たすう 行 おこな われていた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう は区間 くかん 短縮 たんしゅく や廃止 はいし が相次 あいつ いでおり、2009年 ねん 時点 じてん で残 のこ ったのはストラスブール - ウィーン間 あいだ のオリエント急行 きゅうこう のみであった。これは国際 こくさい 夜行 やこう 列車 れっしゃ ユーロナイト の一 いち 列車 れっしゃ となっていたが、2009年 ねん 12月14日 にち に廃止 はいし された[2] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ まで、これらの列車 れっしゃ は原則 げんそく として国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の客車 きゃくしゃ のみで編成 へんせい されており、西 にし ヨーロッパと東 ひがし ヨーロッパ・アジア を結 むす ぶ列車 れっしゃ として、王侯 おうこう 貴族 きぞく や外交 がいこう 官 かん 、裕福 ゆうふく な商人 しょうにん や旅行 りょこう 者 しゃ などに愛用 あいよう された。車両 しゃりょう の豪華 ごうか さに限 かぎ れば、青 あお 列車 れっしゃ (ル・トラン・ブルー)などの西 にし ヨーロッパ圏内 けんない の豪華 ごうか 列車 れっしゃ に比 くら べ一 いち 段 だん 劣 おと っていたものの、西 にし ヨーロッパ人 じん にとっては異 い 文化 ぶんか 圏 けん である「オリエント 」へ向 む かう列車 れっしゃ として、また東 ひがし ヨーロッパやアジアの上流 じょうりゅう 階層 かいそう の人々 ひとびと にとっては彼 かれ らと西 にし ヨーロッパを結 むす びつけるものとして名声 めいせい を得 え た。
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 後 ご は航空機 こうくうき の普及 ふきゅう や東西 とうざい 冷戦 れいせん のためこうした性格 せいかく は失 うしな われ、列車 れっしゃ は通常 つうじょう の二 に 等 とう 車 しゃ や三 さん 等 とう 車 しゃ 主体 しゅたい の編成 へんせい に国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の寝台 しんだい 車 しゃ が併結されるにすぎないものとなった。1971年 ねん には国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ が寝台 しんだい 車 しゃ 事業 じぎょう から撤退 てったい し、寝台 しんだい 車 しゃ は各国 かっこく の鉄道 てつどう 事業 じぎょう 者 しゃ が保有 ほゆう するものとなった。
なお、上記 じょうき 以外 いがい の正式 せいしき 名称 めいしょう に「オリエント」のつかない列車 れっしゃ でも、東西 とうざい ヨーロッパを結 むす ぶ列車 れっしゃ のことをマスメディア などが「オリエント急行 きゅうこう 」と呼 よ ぶことがある[3] 。
一方 いっぽう で、1920年代 ねんだい から30年代 ねんだい の国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の車両 しゃりょう を復元 ふくげん した観光 かんこう 列車 れっしゃ が1970年代 ねんだい 以降 いこう 登場 とうじょう しており、これらも「オリエント急行 きゅうこう 」を名乗 なの っている。おもなものには以下 いか がある(#オリエント急行 きゅうこう を復元 ふくげん した観光 かんこう 列車 れっしゃ で後述 こうじゅつ )。
ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス (ベニス・シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ(現 げん ・ベルモンド )が1982年 ねん に運行 うんこう を開始 かいし した、ロンドン とイタリア を結 むす ぶ観光 かんこう 列車 れっしゃ 。
ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名 きゅうめい ノスタルジー・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Orient Express、NOE) - スイス の旅行 りょこう 会社 かいしゃ インターフルーク社 しゃ が1977年 ねん から運行 うんこう を始 はじ めた観光 かんこう 列車 れっしゃ 。
プルマン・オリエント急行 きゅうこう (Pullman Orient Express、POE) - フランスのアコーホテルズ の傘下 さんか に入 はい った国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ が所有 しょゆう する列車 れっしゃ 。寝台 しんだい 車 しゃ はなく食堂 しょくどう 車 しゃ とラウンジカーによって編成 へんせい された昼 ひる 行 ぎょう 専用 せんよう である。
さらにヨーロッパの列車 れっしゃ とは特 とく に関係 かんけい のない観光 かんこう 列車 れっしゃ の名称 めいしょう としても用 もち いられている。これにはベルモンド社 しゃ がバンコク とシンガポール の間 あいだ で運行 うんこう を行 おこな っている「イースタン・オリエント急行 きゅうこう 」(E&O) 、アメリカン・オリエントエクスプレス社 しゃ が所有 しょゆう する「アメリカン・オリエント急行 きゅうこう 」 、メキシコ を走行 そうこう する「サウス・オリエント急行 きゅうこう 」 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を走行 そうこう する「チャイナ・オリエント急行 きゅうこう 」 、インド を走行 そうこう する「ロイヤル・オリエント急行 きゅうこう 」 が存在 そんざい する(#アジアとアメリカの観光 かんこう 列車 れっしゃ で後述 こうじゅつ )。
国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ のエンブレム
1872年 ねん 、ベルギー の銀行 ぎんこう 家 か の息子 むすこ であるジョルジュ・ナゲルマケールス は国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ を設立 せつりつ した。彼 かれ は1868年 ねん にアメリカを旅行 りょこう し、アメリカのプルマン社 しゃ の寝台 しんだい 車 しゃ に感銘 かんめい を受 う け、ヨーロッパでの寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の設立 せつりつ を思 おも い立 た った。アメリカ人 じん の大 だい 富豪 ふごう 、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社 かいしゃ の設立 せつりつ を支援 しえん し、当時 とうじ 大陸 たいりく ヨーロッパ に進出 しんしゅつ しようとしていたプルマン社 しゃ との参入 さんにゅう 競争 きょうそう を繰 く り広 ひろ げていた。
西 にし ヨーロッパとオリエント を結 むす ぶオリエント急行 きゅうこう は同社 どうしゃ の看板 かんばん 列車 れっしゃ として計画 けいかく されており、1880年代 ねんだい 初 はじ めにはパリ・ウィーン間 あいだ で食堂 しょくどう 車 しゃ や豪華 ごうか 寝台 しんだい 車 しゃ の運行 うんこう が始 はじ まっていた[1] 。
開通 かいつう 記念 きねん 列車 れっしゃ [ 編集 へんしゅう ]
オリエント急行 きゅうこう の開通 かいつう 記念 きねん 列車 れっしゃ は1883年 ねん 10月4日 にち 夜 よる にパリ・ストラスブール駅 えき (現 げん ・パリ東駅 ひがしえき )を発車 はっしゃ し、6日 にち かけてコンスタンティノープル(イスタンブール )に到着 とうちゃく した。なおオスマン帝国 ていこく では首都 しゅと の市 し 名 めい を「イスタンブール」と称 しょう していたが、西 にし ヨーロッパ では旧名 きゅうめい の「コンスタンティノープル」が使 つか われており、「オリエント急行 きゅうこう 」の行 い き先 さき も旧名 きゅうめい で表記 ひょうき されていた[4] 。
経路 けいろ はパリ(フランス ) - シュトラスブルク(ドイツ帝国 ていこく 、現 げん ・ストラスブール ) - ミュンヘン - ウィーン (オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく ) - ブダペスト - オルソヴァ (ルーマニア王国 おうこく ) - ブカレスト - ジュルジュ - ルセ (ブルガリア公国 こうこく ) - ヴァルナ - コンスタンティノープル(オスマン帝国 ていこく )である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路 せんろ は全通 ぜんつう しておらず、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の車両 しゃりょう で運行 うんこう されたのはジュルジュまでで、ドナウ川 がわ を船 ふね で渡 わた り、ルセ - ヴァルナ間 あいだ はイギリス 資本 しほん のブルガリアの鉄道 てつどう の通常 つうじょう の客車 きゃくしゃ を利用 りよう 、ヴァルナ - コンスタンティノープル間 あいだ は汽船 きせん で黒海 こっかい を渡 わた った[4] 。
記念 きねん 列車 れっしゃ は寝台 しんだい 車 しゃ 2両 りょう 、食堂 しょくどう 車 しゃ 1両 りょう 、荷物 にもつ 車 しゃ (兼 けん 車掌 しゃしょう 車 しゃ )2両 りょう の編成 へんせい であった。寝台 しんだい 車 しゃ と食堂 しょくどう 車 しゃ はボギー台車 だいしゃ を使用 しよう しており、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ 創業 そうぎょう 時 じ の二 に 軸 じく 車 しゃ や三 さん 軸 じく 車 しゃ からは大幅 おおはば に乗 の り心地 ごこち が向上 こうじょう していた[5] 。
記念 きねん 列車 れっしゃ には沿線 えんせん 各国 かっこく の高官 こうかん や鉄道 てつどう 関係 かんけい 者 しゃ 、ジャーナリストなどが招待 しょうたい されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の幹部 かんぶ も乗車 じょうしゃ した。途中 とちゅう ルーマニアでは国王 こくおう カロル1世 せい 自 みずか ら離宮 りきゅう に招待 しょうたい するなど、沿線 えんせん 各国 かっこく で歓迎 かんげい を受 う けた。招待客 しょうたいきゃく の中 なか にはアルザス 出身 しゅっしん でパリ 在住 ざいじゅう の作家 さっか エドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About )と、ロンドン・タイムズ 紙 かみ のパリ支局 しきょく 長 ちょう アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz )[6] が含 ふく まれており、新 しん 列車 れっしゃ は彼 かれ らの筆 ふで により西 にし ヨーロッパに紹介 しょうかい された。ドブラヴィッツはさらに到着 とうちゃく 地 ち のイスタンブールでスルタン アブデュルハミト2世 せい と西 にし ヨーロッパのジャーナリストとしては初 はつ の単独 たんどく 会見 かいけん に成功 せいこう している[7] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ [ 編集 へんしゅう ]
オリエント急行 きゅうこう (青 あお )と関連 かんれん 列車 れっしゃ (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ )
定期 ていき 列車 れっしゃ としてのオリエント急行 きゅうこう は、1883年 ねん 10月 がつ 25日 にち からパリ - ジュルジュ間 あいだ で営業 えいぎょう を開始 かいし した[注 ちゅう 1] 。連絡 れんらく する船舶 せんぱく などと合 あ わせたパリからコンスタンティノープルまでの所要 しょよう 時間 じかん は81時 じ 間 あいだ 41分 ふん である[9] 。当初 とうしょ は週 しゅう 1便 びん の運行 うんこう であったが、1885年 ねん には途中 とちゅう のウィーンまで毎日 まいにち 運行 うんこう となった。また1885年 ねん からは当初 とうしょ のルートのほかブダペストからベオグラード 、ソフィア を経由 けいゆ する列車 れっしゃ (一部 いちぶ 馬車 ばしゃ 連絡 れんらく )も運転 うんてん された。1889年 ねん 6月 がつ には念願 ねんがん のコンスタンティノープルまでの列車 れっしゃ の直通 ちょくつう 運転 うんてん がベオグラード・ソフィア経由 けいゆ で実現 じつげん した。これによりパリからコンスタンティノープルへの所要 しょよう 時間 じかん は67時 じ 間 あいだ 46分 ふん にまで短縮 たんしゅく された[9] 。
1891年 ねん には列車 れっしゃ 名 めい の表記 ひょうき をフランス語 ふらんすご のExpress d'Orientから英語 えいご 式 しき 語順 ごじゅん のOrient Expressに改 あらた めた。また1896年 ねん にはルーマニア国内 こくない でドナウ川 がわ の鉄橋 てっきょう が開通 かいつう し、ルーマニア方面 ほうめん へのオリエント急行 きゅうこう はブカレスト 経由 けいゆ コンスタンツァ 行 くだり となった。
直通 ちょくつう 運転 うんてん が実現 じつげん したとはいえ、オリエント急行 きゅうこう の走 はし る東 ひがし ヨーロッパの政情 せいじょう は不安定 ふあんてい であり、インフラストラクチャー の整備 せいび も西 にし ヨーロッパと比 くら べ遅 おく れていた。このため列車 れっしゃ の運行 うんこう にはさまざまな困難 こんなん が伴 ともな った。1891年 ねん には盗賊 とうぞく 団 だん が列車 れっしゃ を襲 おそ い、乗客 じょうきゃく を誘拐 ゆうかい して身代金 みのしろきん を要求 ようきゅう する事件 じけん が起 お こった[4] 。また1892年 ねん にはバルカン半島 ばるかんはんとう でのコレラ の流行 りゅうこう のため列車 れっしゃ が10日 とおか 間 あいだ 隔離 かくり された[10] 。
1900年 ねん には、ベルギー のオーステンデ からウィーン に至 いた るオーステンデ・ウィーン急行 きゅうこう の客車 きゃくしゃ の一部 いちぶ がオリエント急行 きゅうこう に併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通 ちょくつう するようになり、オーステンデ・ウィーン・オリエント急行 きゅうこう と名付 なづ けられた。オーステンデではイギリス からの連絡 れんらく 船 せん に接続 せつぞく しており、これによってイギリスからバルカン半島 ばるかんはんとう 方面 ほうめん への所要 しょよう 時間 じかん が短縮 たんしゅく された[10] 。同年 どうねん にはベルリン からの客車 きゃくしゃ をブダペストでオリエント急行 きゅうこう に併結させるベルリン・ブダペスト・オリエント急行 きゅうこう が運行 うんこう を開始 かいし したが、こちらは利用 りよう 者 しゃ が少 すく なく翌年 よくねん には直通 ちょくつう を中止 ちゅうし している[4] 。
このころオリエント急行 きゅうこう を利用 りよう できたのは、王侯 おうこう 貴族 きぞく や高級 こうきゅう 官吏 かんり 、富豪 ふごう などのごく限 かぎ られた人々 ひとびと だった。パリ・コンスタンティノープル間 あいだ の一等 いっとう 運賃 うんちん と寝台 しんだい 料金 りょうきん の合計 ごうけい は当時 とうじ の召使 めしつかい の給料 きゅうりょう 1年 ねん 分 ぶん に相当 そうとう したという[10] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ するとオリエント急行 きゅうこう は運休 うんきゅう を余儀 よぎ なくされた。1915年 ねん 末 すえ のセルビア の敗北 はいぼく により、ドイツ帝国 ていこく からイスタンブールまでが中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく の線路 せんろ でつながると、ドイツは翌 よく 1916年 ねん 1月 がつ 15日 にち からベルリン およびシュトラスブルク - イスタンブール 間 あいだ で「バルカン列車 れっしゃ (Balkanzug)」の運転 うんてん を始 はじ めた[11] 。ドイツはかねてから国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の路線 ろせん 網 もう がパリを中心 ちゅうしん に構成 こうせい されており、オリエント急行 きゅうこう もドイツ南部 なんぶ を通 とお りすぎるのみで首都 しゅと ベルリンを軽視 けいし していることに不満 ふまん を抱 だ いており、バルカン列車 れっしゃ はオリエント急行 きゅうこう に取 と って代 か わろうとしたものであった[4] 。しかし1918年 ねん 10月には同盟 どうめい 国 こく のブルガリア での敗退 はいたい により運行 うんこう を終 お えた[11] 。
オリエント急行 きゅうこう (青 あお )とシンプロン・オリエント急行 きゅうこう (紫 むらさき )
オーステンデ・ウィーン・オリエント急行 きゅうこう とアールベルク・オリエント急行 きゅうこう
休戦 きゅうせん 後 ご 、オリエント急行 きゅうこう は1919年 ねん 1月 がつ 18日 にち からパリ - ウィーン - ブカレスト・ワルシャワ 間 あいだ で「軍用 ぐんよう 豪華 ごうか 列車 れっしゃ 」として運行 うんこう を再開 さいかい したが、利用 りよう できるのは連合 れんごう 国 こく の軍人 ぐんじん か軍 ぐん の許可 きょか を得 え た者 もの のみだった[12] 。またパリ - ウィーン間 あいだ の経路 けいろ はドイツ 領 りょう を避 さ け、スイス のバーゼル 、チューリッヒ を経由 けいゆ してオーストリア に入 はい り、アールベルクトンネル を通 とお ってリンツ 、ウィーン に至 いた るというものだった[1] 。
同年 どうねん 4月 がつ からは、パリ - ヴェネツィア間 あいだ のシンプロン急行 きゅうこう (Simplon Express)を延長 えんちょう する形 かたち で、パリ - ベオグラード間 あいだ にシンプロン・オリエント急行 きゅうこう (Simplon Orient-Express)がシンプロントンネル 経由 けいゆ で運行 うんこう を開始 かいし した。オリエント急行 きゅうこう をシンプロントンネル経由 けいゆ で運転 うんてん することは1905年 ねん のトンネル開通 かいつう 時 じ から計画 けいかく されていたが、この経路 けいろ ではドイツ帝国 ていこく 領 りょう をまったく経由 けいゆ せず、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく も南部 なんぶ を通 とお りすぎるのみだったため、両 りょう 大国 たいこく の反発 はんぱつ を招 まね き実現 じつげん していなかった。大戦 たいせん 後 ご は両 りょう 敗戦 はいせん 国 こく の国際 こくさい 列車 れっしゃ に関 かん する発言 はつげん 力 りょく は低下 ていか し、そもそも領内 りょうない 通過 つうか 自体 じたい が困難 こんなん な状況 じょうきょう であったため、シンプロントンネル経由 けいゆ が採用 さいよう された。シンプロン・オリエント急行 きゅうこう は翌 よく 1920年 ねん にはイスタンブールまで直通 ちょくつう するようになった[10] 。
1919年 ねん 6月 がつ 28日 にち に調印 ちょういん されたヴェルサイユ条約 じょうやく には鉄道 てつどう に関 かん する条項 じょうこう もあり、ドイツは連合 れんごう 国 こく から直通 ちょくつう する国際 こくさい 列車 れっしゃ を国内 こくない の最速 さいそく 列車 れっしゃ と同様 どうよう の待遇 たいぐう で通過 つうか させることが義務 ぎむ づけられた。ほかの同盟 どうめい 国 こく と連合 れんごう 国 こく との講和 こうわ 条約 じょうやく にも同様 どうよう の条項 じょうこう があった。とはいえドイツ国内 こくない の線路 せんろ の荒廃 こうはい や石炭 せきたん の不足 ふそく 、さらにフランスとドイツの間 あいだ で勃発 ぼっぱつ したルール問題 もんだい のためオリエント急行 きゅうこう のドイツ領 りょう 通過 つうか はまだ困難 こんなん だった[1] [10] 。
ストラスブール、ミュンヘン経由 けいゆ のオリエント急行 きゅうこう は1921年 ねん 5月にブカレスト まで再開 さいかい されたものの、運行 うんこう は不安定 ふあんてい であり、1923年 ねん からはドイツ領 りょう を迂回 うかい しアールベルクトンネル経由 けいゆ となった。ミュンヘン経由 けいゆ のオリエント急行 きゅうこう が復活 ふっかつ したのは1924年 ねん 11月のことである。またアールベルクトンネル経由 けいゆ の経路 けいろ は1931年 ねん 5月からアールベルク・オリエント急行 きゅうこう (Arlberg Orient-Express)と名付 なづ けられた[13] 。
1930年代 ねんだい はオリエント急行 きゅうこう の最盛 さいせい 期 き であり、シンプロン・オリエント急行 きゅうこう がカレー およびパリからイスタンブール およびアテネ まで毎日 まいにち 運行 うんこう 、オリエント急行 きゅうこう (ストラスブール経由 けいゆ )が週 しゅう 3便 びん カレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行 きゅうこう と併結)・ブカレストへ、アールベルク・オリエント急行 きゅうこう が週 しゅう 3便 びん (オリエント急行 きゅうこう とは別 べつ の日 ひ )にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行 うんこう された。このほかボルドー 、オーステンデ、ベルリン、プラハ などからの客車 きゃくしゃ が途中 とちゅう 駅 えき から併結されることもあった[1] 。
またこの時期 じき 、イスタンブールでの終着駅 しゅうちゃくえき であるシルケジ駅 えき の対岸 たいがん のアジア 側 がわ にあるハイダルパシャ駅 えき からは、オリエント急行 きゅうこう に接続 せつぞく してタウルス急行 きゅうこう がトリポリ やバグダード まで(バグダード鉄道 てつどう の全通 ぜんつう までは一部 いちぶ 自動車 じどうしゃ 連絡 れんらく )運行 うんこう されており、さらに列車 れっしゃ や自動車 じどうしゃ を乗 の り継 つ いでカイロ やテヘラン まで連絡 れんらく していた[14] 。当時 とうじ のトーマス・クック 時刻 じこく 表 ひょう ではロンドン からテヘラン、バスラ までの時刻 じこく が1枚 まい の表 ひょう に収 おさ められていた[10] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ により、これらの列車 れっしゃ はまず枢軸 すうじく 国 こく と中立 ちゅうりつ 国 こく の領域 りょういき 内 ない のみに短縮 たんしゅく され、さらに全 ぜん 列車 れっしゃ が運休 うんきゅう となった[13] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のオリエント急行 きゅうこう
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終戦 しゅうせん 後 ご 、まず1945年 ねん 11月にシンプロン・オリエント急行 きゅうこう がソフィアまで運行 うんこう を再開 さいかい し、1947年 ねん にはイスタンブールまでの直通 ちょくつう が復活 ふっかつ した。また1946年 ねん にはオリエント急行 きゅうこう がパリ - ウィーン間 あいだ で、アールベルク・オリエント急行 きゅうこう がパリ - イスタンブール・ブカレスト間 あいだ で運行 うんこう を再開 さいかい した。アテネへの直通 ちょくつう は1950年 ねん に再開 さいかい している。ただし、これらの列車 れっしゃ は座席 ざせき 車 しゃ や簡易 かんい 寝台 しんだい 車 しゃ を含 ふく む編成 へんせい となっており、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の個室 こしつ 寝台 しんだい 車 しゃ のみで構成 こうせい された最盛 さいせい 期 き の姿 すがた は蘇 よみがえ らなかった。モータリゼーション 時代 じだい の到来 とうらい や航空機 こうくうき の性能 せいのう 向上 こうじょう により、オリエント急行 きゅうこう を利用 りよう する長距離 ちょうきょり 旅客 りょかく は減少 げんしょう していた。また東西 とうざい 冷戦 れいせん の影響 えいきょう もあり、国境 こっきょう 駅 えき での厳格 げんかく な手荷物 てにもつ 検査 けんさ などが運行 うんこう の障害 しょうがい となり、所要 しょよう 時間 じかん は戦前 せんぜん より大 おお きく延 の びていた[10] 。
この時期 じき 「オリエント急行 きゅうこう 」を名乗 なの った列車 れっしゃ には、バルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん から共産 きょうさん 圏 けん のみを通 とお ってバルカン半島 ばるかんはんとう に向 む かう「バルト・オリエント急行 きゅうこう 」や、西 にし ドイツ からオーストリア のタウエルントンネル (Tauerntunnel )を通 とお ってバルカンに向 む かう「タウエルン・オリエント急行 きゅうこう 」があった[10] 。
1962年 ねん には国際 こくさい 列車 れっしゃ の再編 さいへん が行 おこな われ、シンプロン・オリエント急行 きゅうこう とアールベルク・オリエント急行 きゅうこう はイスタンブール・アテネへの直通 ちょくつう を中止 ちゅうし し、列車 れっしゃ 名 めい から「オリエント」の字 じ を外 はず した。これに代 か わり、パリからバルカン半島 ばるかんはんとう 方面 ほうめん への座席 ざせき 急行 きゅうこう 列車 れっしゃ に直通 ちょくつう の寝台 しんだい 車 しゃ を連結 れんけつ する形 かたち でダイレクト・オリエント急行 きゅうこう (Direct Orient Express、直通 ちょくつう オリエント急行 きゅうこう )がイスタンブールおよびアテネへ各週 かくしゅう 2便 びん 運行 うんこう されるようになった[10] 。ただしダイレクト・オリエント急行 きゅうこう の実態 じったい は各国 かっこく のローカル列車 れっしゃ に老朽 ろうきゅう 化 か した寝台 しんだい 車 しゃ がわずかに連結 れんけつ されているのみであり、停車駅 ていしゃえき が多 おお く時間 じかん 調整 ちょうせい のための長時間 ちょうじかん 停車 ていしゃ もあった。食堂 しょくどう 車 しゃ は一部 いちぶ 区間 くかん でしか連結 れんけつ されず、当時 とうじ の旅行 りょこう 記 き では食事 しょくじ の確保 かくほ にすら苦労 くろう した様子 ようす が描 えが かれている。無論 むろん 、全線 ぜんせん を乗 の り通 とお す乗客 じょうきゃく は少 すく なかった[4] [7] [15] 。
1971年 ねん は国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ が寝台 しんだい 車 しゃ の営業 えいぎょう から撤退 てったい し、その車両 しゃりょう はヨーロッパ寝台 しんだい 車 しゃ プール(TEN)に引 ひ き継 つ がれた[10] 。
1977年 ねん にはダイレクト・オリエント急行 きゅうこう が廃止 はいし され、パリ発 はつ 5月 がつ 19日 にち 、イスタンブール発 はつ 5月 がつ 22日 にち の列車 れっしゃ が最終 さいしゅう 列車 れっしゃ となった。これによりパリ - イスタンブール間 あいだ の直通 ちょくつう 列車 れっしゃ は消滅 しょうめつ した[10] 。
イスタンブール直通 ちょくつう 廃止 はいし 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
ストラスブール・ウィーン経由 けいゆ のオリエント急行 きゅうこう は、1950年代 ねんだい からパリからブダペストまたはブカレストへの国際 こくさい 夜行 やこう 列車 れっしゃ となっていた。ダイレクト・オリエント急行 きゅうこう の廃止 はいし 後 ご もブカレストへのオリエント急行 きゅうこう は運行 うんこう されていたが、2001年 ねん 6月のダイヤ改正 かいせい で運行 うんこう 区間 くかん をパリ - ウィーン(ウィーン西 にし 駅 えき )間 あいだ に短縮 たんしゅく し、ユーロナイト 262・263列車 れっしゃ となった[16] 。これによりスピードアップが図 はか られたが、食堂 しょくどう 車 しゃ の連結 れんけつ は取 と りやめられた。
2002年 ねん 11月6日 にち 、パリ発 はつ ウィーン行 い きの列車 れっしゃ がフランス国内 こくない のナンシー駅 えき 発車 はっしゃ 後 ご 、寝台 しんだい 車 しゃ で火災 かさい が発生 はっせい し12名 めい が死亡 しぼう する事故 じこ が起 お きた[17] 。
2004年 ねん 3月 がつ 時点 じてん でのパリ - ウィーン間 あいだ 直通 ちょくつう の編成 へんせい は次 つぎ のようなものであった。
寝台 しんだい 車 しゃ 1両 りょう - クシェット(簡易 かんい 寝台 しんだい 車 しゃ )2両 りょう - 2等 とう 座席 ざせき 車 しゃ 3両 りょう
その他 た に、パリ - ストラスブール間 あいだ とザルツブルク - ウィーン間 あいだ で1等 とう 座席 ざせき 車 しゃ および2等 とう 座席 ざせき 車 しゃ が増結 ぞうけつ されていた。
2007年 ねん 6月 がつ 10日 とおか にTGV東 ひがし ヨーロッパ線 せん が開業 かいぎょう したことにともない、運転 うんてん 区間 くかん が現行 げんこう のストラスブール - ウィーン間 あいだ に短縮 たんしゅく され、ストラスブールでTGV列車 れっしゃ に接続 せつぞく するダイヤに改 あらた められたほか、停車駅 ていしゃえき の大幅 おおはば な削減 さくげん が実施 じっし された。
2008年 ねん 12月のダイヤ改正 かいせい でオリエント急行 きゅうこう の列車 れっしゃ 番号 ばんごう は468・469と改 あらた められた。
しかしコスト高 だか や高速 こうそく 鉄道 てつどう 網 あみ の発展 はってん により、この列車 れっしゃ も2009年 ねん 12月12日 にち 8時 じ 59分 ふん ストラスブール着 ぎ の列車 れっしゃ を最後 さいご に廃止 はいし された[2] [注 ちゅう 2] 。
その後 ご 2021年 ねん 12月13日 にち から、「オリエント急行 きゅうこう 」と銘打 めいう ってはいないもののナイトジェット の新 しん 路線 ろせん NJ468/469として、14年 ねん ぶりにパリ直通 ちょくつう 便 びん として復活 ふっかつ した。
停車駅 ていしゃえき は以下 いか の通 とお り。
車両 しゃりょう ・編成 へんせい [ 編集 へんしゅう ]
登場 とうじょう 時 じ のオリエント急行 きゅうこう は寝台 しんだい 車 しゃ 2両 りょう 、食堂 しょくどう 車 しゃ 1両 りょう 、荷物 にもつ 車 しゃ (兼 けん 乗務 じょうむ 員 いん 車 しゃ )2両 りょう の編成 へんせい で、寝台 しんだい 車 しゃ には4人 にん 用 よう 個室 こしつ 3室 しつ と2人 ふたり 用 よう 個室 こしつ 4室 しつ があった。寝台 しんだい 車 しゃ と食堂 しょくどう 車 しゃ はボギ ぼぎ ー車 しゃ で、荷物 にもつ 車 しゃ は三 さん 軸 じく 車 しゃ であった。ボギ ぼぎ ー車 しゃ は1880年代 ねんだい までのヨーロッパではあまり普及 ふきゅう しておらず、本格 ほんかく 的 てき に採用 さいよう したのはオリエント急行 きゅうこう が初 はじ めてであった[19] 。車体 しゃたい はいずれも木製 もくせい であるが、チーク 材 ざい を使用 しよう し当時 とうじ の一般 いっぱん 的 てき な車両 しゃりょう よりも頑丈 がんじょう な構造 こうぞう であった。また車 くるま 齢 よわい 4年 ねん 以上 いじょう の客車 きゃくしゃ は使用 しよう しないと宣伝 せんでん していた[10] 。20世紀 せいき 初頭 しょとう まで国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ の客車 きゃくしゃ には特 とく に決 き まった形式 けいしき というものはなく、車両 しゃりょう ごとに仕様 しよう は少 すこ しずつ異 こと なっていた。1898年 ねん ごろに投入 とうにゅう された新型 しんがた 寝台 しんだい 車 しゃ では4人 にん 個室 こしつ 1室 しつ 、2人 ふたり 個室 こしつ 7室 しつ の構成 こうせい であった[19] 。
1907年 ねん から国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ は同社 どうしゃ 初 はつ の標準 ひょうじゅん 型 がた 寝台 しんだい 車 しゃ であるR型 がた の製造 せいぞう を始 はじ め、オリエント急行 きゅうこう にも使用 しよう した。R型 がた は2人 ふたり 用 よう 個室 こしつ 9室 しつ からなり、ほかに洗面 せんめん 室 しつ 3室 しつ を備 そな えていた[19] 。1909年 ねん にはR型 がた の増 ぞう 備 つぶさ にともない、オリエント急行 きゅうこう の寝台 しんだい 車 しゃ は3両 りょう に増 ふ えた。また荷物 にもつ 車 しゃ もこのころまでに大型 おおがた のボギ ぼぎ ー車 しゃ になった[10] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ は1922年 ねん から鋼 はがね 製 せい のS型 がた 寝台 しんだい 車 しゃ の製造 せいぞう を始 はじ めたが、これはまず青 あお 列車 れっしゃ など西 にし ヨーロッパの列車 れっしゃ に用 もち いられ、オリエント急行 きゅうこう で使 つか われたのは1926年 ねん からである[10] 。これ以降 いこう Z型 がた 、Y型 がた 、LX型 がた などの新型 しんがた 車両 しゃりょう が登場 とうじょう し、これらもオリエント急行 きゅうこう に用 もち いられた。ただしY型 がた の使用 しよう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご であり、LX型 がた はシンプロン・オリエント急行 きゅうこう のフランスからスイス、イタリアにかけての一部 いちぶ 区間 くかん で連結 れんけつ されたにとどまる[19] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のオリエント急行 きゅうこう は沿線 えんせん 各国 かっこく の鉄道 てつどう の保有 ほゆう する二 に 等 とう 車 しゃ 、三 さん 等 とう 車 しゃ などを主体 しゅたい とした編成 へんせい に、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の寝台 しんだい 車 しゃ が数 すう 両 りょう 連結 れんけつ される編成 へんせい となった[19] 。ヨーロッパではじめて簡易 かんい 寝台 しんだい 車 しゃ (クシェット)を連結 れんけつ したのはオリエント急行 きゅうこう である[4] 。
オリエント急行 きゅうこう を復元 ふくげん した観光 かんこう 列車 れっしゃ [ 編集 へんしゅう ]
旧 きゅう 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の客車 きゃくしゃ (食堂 しょくどう 車 しゃ )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のオリエント急行 きゅうこう は戦前 せんぜん のような豪華 ごうか 列車 れっしゃ ではなくなった。特 とく に東欧 とうおう 圏 けん の駅 えき 停車 ていしゃ 時 じ には検問 けんもん が行 おこな われ、客 きゃく 離 ばな れが進 すす み、出稼 でかせ ぎの労働 ろうどう 者 しゃ が多 おお く利用 りよう するようになった。一方 いっぽう 、1970年代 ねんだい 以降 いこう 、旧 きゅう 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の客車 きゃくしゃ などを使用 しよう し戦前 せんぜん のオリエント急行 きゅうこう を復元 ふくげん した観光 かんこう 列車 れっしゃ が運行 うんこう されている。
古 ふる くは1967年 ねん に国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ 自身 じしん が「まだひとつのヨーロッパがあったとき」と題 だい して豪華 ごうか 列車 れっしゃ によるツアーを募集 ぼしゅう した例 れい があるが、このときは料金 りょうきん が高 たか すぎたために客 きゃく が集 あつ まらず実現 じつげん に至 いた らなかった[20] 。
1976年 ねん 3月 がつ にはスイス連邦 れんぽう 鉄道 てつどう のWalter Finkbohnerの企画 きかく により、「特別 とくべつ シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 」と名付 なづ けられた列車 れっしゃ がミラノ - イスタンブール 間 あいだ を走 はし った。同年 どうねん 10月 がつ にはFinkbohnerの友人 ゆうじん のスイス人 じん 実業 じつぎょう 家 か アルバート・グラッツがチューリッヒ - イスタンブール間 あいだ で「特別 とくべつ アールベルク・オリエント急行 きゅうこう 」と名付 なづ けた列車 れっしゃ を走 はし らせた。これはのちのノスタルジー・オリエント急行 きゅうこう の基 もと になっている[21] 。
20世紀 せいき 末 すえ から21世紀 せいき 初頭 しょとう の時点 じてん においてヨーロッパで運行 うんこう されている「オリエント急行 きゅうこう 」を名乗 なの る観光 かんこう 列車 れっしゃ には以下 いか の3 みっ つがある。
ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名 きゅうめい ノスタルジー・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Orient Express、NOE) - スイスの旅行 りょこう 会社 かいしゃ インターフルーク社 しゃ が1977年 ねん から運行 うんこう を始 はじ めた列車 れっしゃ 。
ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(ベニス・シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社 しゃ (現 げん ・ベルモンド )が1982年 ねん に運行 うんこう を始 はじ めた列車 れっしゃ 。
プルマン・オリエント急行 きゅうこう (Pullman Orient Express、POE) - フランスのアコーホテルズ の傘下 さんか に入 はい ったワゴン・リ社 しゃ が所有 しょゆう する列車 れっしゃ 。寝台 しんだい 車 しゃ はなく昼 ひる 行 ぎょう 専用 せんよう である。
なお、これらの観光 かんこう 列車 れっしゃ で用 もち いられている車両 しゃりょう は1930年 ねん 前後 ぜんこう に製造 せいぞう されたものであり、スペースや室内 しつない 設備 せつび の機能 きのう 性 せい などの面 めん では、2000年代 ねんだい の新型 しんがた 列車 れっしゃ の個室 こしつ 寝台 しんだい に見劣 みおと りするところもある。しかしながら調度 ちょうど 品 ひん の質 しち や人的 じんてき なサービスの充実 じゅうじつ 、車内 しゃない でのイベント出席 しゅっせき の際 さい のドレスコードが設 もう けられているなど、演出 えんしゅつ としての豪華 ごうか さのみならず、列車 れっしゃ の格調 かくちょう や風格 ふうかく 、ステイタス性 せい に関 かん してはほかのいかなる観光 かんこう 列車 れっしゃ と比 くら べても際立 きわだ っている。
また、NIOE、VSOEとも寝台 しんだい 車 しゃ はLx型 がた を使用 しよう しているが、Lx型 がた は本来 ほんらい 青 あお 列車 れっしゃ など西 にし ヨーロッパ圏内 けんない の列車 れっしゃ で用 もち いられていた車両 しゃりょう であり、国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ のオリエント急行 きゅうこう では一部 いちぶ 区間 くかん でのみ連結 れんけつ されていた[19] 。プルマン・カー(サロン・カー)も同様 どうよう である[19] 。
ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 きゅうこう [ 編集 へんしゅう ]
スイスのチューリッヒ に本社 ほんしゃ を置 お いていたインターフルーク社 しゃ (REISEBURO INTRAFRUG.A.G-イントラフルーク、イントラフラッグと呼 よ ぶ記述 きじゅつ も存在 そんざい した)は、かつての国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の寝台 しんだい 車 しゃ を購入 こうにゅう ・復元 ふくげん し、1976年 ねん から観光 かんこう 列車 れっしゃ として運転 うんてん していた。1977年 ねん にはこの列車 れっしゃ に「ノスタルジー・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Orient Express、NOE)」 と名付 なづ けた。「ノスタルジー」を冠 かん したのは定期 ていき 列車 れっしゃ のオリエント急行 きゅうこう と区別 くべつ するためである。ノスタルジー・オリエント急行 きゅうこう としての初 はつ の走行 そうこう は、1977年 ねん 3月 がつ から4月 がつ にかけてのチューリッヒ - イスタンブール間 あいだ であった。その後 ご は主 しゅ としてチューリッヒを起点 きてん にツアー列車 れっしゃ としてヨーロッパ各地 かくち を走行 そうこう した。1983年 ねん にはベニス・シンプロン・オリエント急行 きゅうこう との区別 くべつ のため名 な を「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 きゅうこう (Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)」 と改 あらた めた[22] 。
NIOEの車両 しゃりょう を使用 しよう して運行 うんこう された特別 とくべつ 列車 れっしゃ のうち、著名 ちょめい なものには以下 いか がある[22] 。
1983年 ねん 10月 がつ - オリエント急行 きゅうこう 100周年 しゅうねん 記念 きねん 列車 れっしゃ 「Le Centenaire」としてパリ - イスタンブール間 あいだ を走行 そうこう 。
1988年 ねん 9月 がつ - パリからシベリア鉄道 てつどう 経由 けいゆ 香港 ほんこん まで、および日本 にっぽん 国内 こくない を走行 そうこう 。詳細 しょうさい はオリエント・エクスプレス '88 を参照 さんしょう 。
1992年 ねん - マイケル・ジャクソン のヨーロッパツアーに際 さい し、その専用 せんよう 列車 れっしゃ となる。
1993年 ねん 、インターフルーク社 しゃ は経営 けいえい 難 なん のためにNIOEを手放 てばな した。客車 きゃくしゃ は同 おな じスイスの旅行 りょこう 会社 かいしゃ 「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」社 しゃ に引 ひ き取 と られたほか、一部 いちぶ はロシア 企業 きぎょう などに渡 わた った。2002年 ねん 、ライズビューロー・ミッテルスルガウ社 しゃ は経営 けいえい 統合 とうごう にともなってNIOEを手放 てばな し、スイスの鉄道 てつどう 旅行 りょこう 会社 かいしゃ 「Trans Europ Eisenbahn AG(TEAG)」に買 か い取 と られ、オーストリア で設立 せつりつ されたOrient Express Train de Luxe AGが窓口 まどぐち となって主 おも に団体 だんたい 向 む けのチャーター列車 れっしゃ として運用 うんよう された。この時期 じき のNIOEは旧 きゅう 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の客車 きゃくしゃ のほか、「ラインゴルト 」用 よう の客車 きゃくしゃ などより新 あたら しい客車 きゃくしゃ も混 ま ざった編成 へんせい で運行 うんこう されていた[22] 。
しかし、商標 しょうひょう 登録 とうろく されていた「オリエントエクスプレス」という名称 めいしょう の使用 しよう 権 けん に纏 まつ わる権利 けんり 問題 もんだい が生 しょう じ、オリエントエクスプレス・ホテルズ社 しゃ とフランス国鉄 こくてつ から訴訟 そしょう を起 お こされることとなったため、2007年 ねん 以降 いこう はNIOEという名称 めいしょう での運行 うんこう はしておらず、Orient Express Train de Luxe AGのウェブページも閉鎖 へいさ されている[22] 。
ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス [ 編集 へんしゅう ]
スイス連邦 れんぽう 鉄道 てつどう のAe 6/6 機関 きかん 車 しゃ に牽引 けんいん されるVSOE
VSOEのブリティッシュ・プルマン編成 へんせい
海運 かいうん 会社 かいしゃ であるシーコンテナ社 しゃ 社長 しゃちょう のジェームズ・シャーウッドは1977年 ねん にオークション で国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の寝台 しんだい 車 しゃ を落札 らくさつ し、その後 ご も車両 しゃりょう を買 か い増 ま して、オリエント・エクスプレス・ホテルズ 社 しゃ という子会社 こがいしゃ を設立 せつりつ し1982年 ねん から「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)」 として運行 うんこう を始 はじ めた[23] 。
VSOEはツアー列車 れっしゃ としてイギリス のロンドン・ヴィクトリア駅 えき とイタリア のヴェネツィア (ベニス)サンタ・ルチーア駅 えき の間 あいだ を結 むす んでいる。ロンドン - フォークストーン (Folkestone )間 あいだ は元 もと プルマン社 しゃ のイギリス法人 ほうじん が保有 ほゆう していた座席 ざせき 車 しゃ (ブリティッシュ・プルマン)を使用 しよう する。ドーヴァー海峡 かいきょう はかつては船 ふね で渡 わた っていたが、2009年 ねん 時点 じてん では専用 せんよう バスに乗 の り換 か えてユーロトンネルシャトル によりカレー に至 いた る[24] 。カレー[注 ちゅう 3] からは元 もと 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の車両 しゃりょう による編成 へんせい となり、パリ を経由 けいゆ しヴェネツィア に至 いた る。なお、運行 うんこう 開始 かいし 時 じ にはパリ - ヴェネツィア間 あいだ はかつてのシンプロン・オリエント急行 きゅうこう の経路 けいろ をたどりローザンヌ 、ミラノ を経由 けいゆ していたが、のちにアールベルク・オリエント急行 きゅうこう の経路 けいろ の一部 いちぶ をたどってブックス (Buchs )、インスブルック に至 いた り、そこからブレンナー峠 とうげ 経由 けいゆ でイタリアに向 む かう経路 けいろ に変更 へんこう された。これはこの経路 けいろ の方 ほう が遠回 とおまわ りではあるものの、沿線 えんせん の景色 けしき がよいためである[25] 。このほかローマ まで運行 うんこう されることもあり、またプラハ やブカレスト 、イスタンブール などへ特別 とくべつ 運行 うんこう されることもある[23] [26] 。ブリティッシュ・プルマン編成 へんせい はVSOEのほかイギリス国内 こくない のツアー列車 れっしゃ にも用 もち いられる[25] 。
2003年 ねん から2006年 ねん にかけて旧 きゅう 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の車輌 しゃりょう の更新 こうしん 改造 かいぞう が施 ほどこ され、時速 じそく 160キロ走行 そうこう に対応 たいおう した新 あたら しい台車 だいしゃ に交換 こうかん されている[23] 。
大陸 たいりく 側 がわ では1泊 はく 2日 にち の旅 たび だが、ディナーのドレスコード はフォーマル 指定 してい 、乗客 じょうきゃく の要望 ようぼう に対応 たいおう するキャビンアテンダント が同乗 どうじょう するうえ、記念 きねん として列車 れっしゃ 内 ない にあるポスト から手紙 てがみ を出 だ すことが可能 かのう である[注 ちゅう 4] 。
2020年 ねん に実施 じっし されたイギリスの欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)離脱 りだつ (通称 つうしょう ・ブレグジット )により、イギリスとフランス間 あいだ の国境 こっきょう 通過 つうか に時間 じかん を要 よう していることから、2024年 ねん 3月 がつ にロンドン - パリ間 あいだ の運行 うんこう を一旦 いったん 廃止 はいし することを2023年 ねん 4月 がつ に発表 はっぴょう した。該当 がいとう 区間 くかん はユーロスター で代替 だいたい 輸送 ゆそう する予定 よてい としている[27] 。
プルマン・オリエント急行 きゅうこう [ 編集 へんしゅう ]
「プルマン・オリエント急行 きゅうこう (Pullman Orient Express)」はフランスのアコー グループ傘下 さんか となったワゴン・リ社 しゃ が保有 ほゆう する編成 へんせい である。編成 へんせい は食堂 しょくどう 車 しゃ とサロンカーが主体 しゅたい であり、寝台 しんだい 車 しゃ はない。おもにフランス国内 こくない で日帰 ひがえ りのツアー列車 れっしゃ として運行 うんこう されている[28] 。
オリエント・エクスプレス '88 [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん を走行 そうこう した「ORIENT EXPRESS'88」
オリエント・エクスプレス '88 は1988年 ねん に、フジテレビジョン 開局 かいきょく 30周年 しゅうねん 、JRグループ 発足 ほっそく 一 いち 周年 しゅうねん 記念 きねん 事業 じぎょう として、フジテレビ・東日本旅客鉄道 ひがしにほんりょかくてつどう (JR東日本 ひがしにっぽん )主導 しゅどう のもと、各国 かっこく 政府 せいふ ・鉄道 てつどう 各 かく 者 しゃ の協力 きょうりょく により、NIOEの車両 しゃりょう を利用 りよう してパリ - 東京 とうきょう 間 あいだ でORIENT EXPRESS'88 が運行 うんこう された(プロジェクトの正式 せいしき 名称 めいしょう は"HITACHI カルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88" )。
アジアとアメリカの観光 かんこう 列車 れっしゃ [ 編集 へんしゅう ]
イースタン&オリエンタル・エクスプレス [ 編集 へんしゅう ]
マレーシアを走行 そうこう 中 ちゅう のE&O
「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」で成功 せいこう を収 おさ めたオリエント・エクスプレス・ホテルズ社 しゃ は、東 ひがし アジア からの顧客 こきゃく 誘致 ゆうち を積極 せっきょく 的 てき に進 すす めるため、アジアのオリエント急行 きゅうこう と題 だい してシンガポールからマレ まれ ー半島 はんとう を巡 めぐ りシンガポール に帰着 きちゃく する、「イースタン&オリエンタル・エクスプレス(E&O)」 の運行 うんこう を1993年 ねん に開始 かいし した。2023年 ねん 現在 げんざい シンガポールから3泊 はく 4日 にち でマレーシアを周遊 しゅうゆう するコースが通年 つうねん で運行 うんこう されている。いずれもヨーロッパの「オリエント急行 きゅうこう 」と同 どう 系列 けいれつ で雰囲気 ふんいき やサービス、食事 しょくじ も豪華 ごうか そのものである。なお使用 しよう される車両 しゃりょう はニュージーランド鉄道 てつどう 省 しょう で使 つか われていた日本 にっぽん 製 せい の寝台 しんだい 客車 きゃくしゃ 「シルバースター 」を改装 かいそう したものである[29] 。
シンガポールに停車 ていしゃ 中 ちゅう のイースタン&オリエンタル・エクスプレス
シルバースター用 よう 客車 きゃくしゃ の大半 たいはん がタイへ輸出 ゆしゅつ され、うち24両 りょう がアスベスト除去 じょきょ 、塗装 とそう 変更 へんこう 、軌間 きかん 変更 へんこう 、内装 ないそう など大 だい 規模 きぼ な改造 かいぞう を受 う けて1993年 ねん 9月 から営業 えいぎょう 運転 うんてん を開始 かいし した[30] 。
2019年 ねん 現在 げんざい 、展望 てんぼう 車 しゃ や食堂 しょくどう 車 しゃ 、電源 でんげん 車 しゃ を含 ふく めた17両 りょう 編成 へんせい が毎年 まいとし 9月 から翌年 よくねん 4月 がつ まで定期 ていき 運転 うんてん に就 つ いている[31] [32] 。
チャイナ・オリエント急行 きゅうこう [ 編集 へんしゅう ]
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の鉄道 てつどう では、シルクロード 沿 ぞ いで「チャイナ・オリエント急行 きゅうこう 」 が運行 うんこう されている。これは、カナダ の旅行 りょこう 会社 かいしゃ が中国 ちゅうごく 国鉄 こくてつ の元 もと 貴賓 きひん 車 しゃ を観光 かんこう 用 よう に貸 か し切 き り、北京 ぺきん とウルムチ との間 あいだ で運行 うんこう を行 おこな うツアーの名称 めいしょう で、1990年 ねん から行 おこな われている。
ロイヤル・オリエント・トレイン [ 編集 へんしゅう ]
また、インドの鉄道 てつどう では豪族 ごうぞく マハーラージャの専用 せんよう 列車 れっしゃ を復元 ふくげん した宮殿 きゅうでん 列車 れっしゃ が1995年 ねん から「ロイヤル・オリエント・トレイン 」 の名前 なまえ で運行 うんこう されている。これは、デリー からアラビア海 かい に面 めん したマハーラージャゆかりの各地 かくち までの約 やく 1,400キロを7泊 はく 8日 にち かけて往復 おうふく する観光 かんこう 列車 れっしゃ で、途中 とちゅう 各地 かくち で下車 げしゃ しての観光 かんこう が組 く まれている。
北 きた アメリカの観光 かんこう 列車 れっしゃ [ 編集 へんしゅう ]
「オリエント急行 きゅうこう 」の名前 なまえ を冠 かん した観光 かんこう 列車 れっしゃ は北 きた アメリカにも存在 そんざい する。これらは東洋 とうよう には関係 かんけい がないが、かつての鉄道 てつどう 黄金 おうごん 時代 じだい の車両 しゃりょう を復元 ふくげん したという点 てん でヨーロッパの「オリエント急行 きゅうこう 」と似 に ている。
北 きた アメリカの「オリエント急行 きゅうこう 」は2列車 れっしゃ 存在 そんざい する。
アメリカン・オリエント急行 きゅうこう
ひとつは、オレゴン・レイルホールディングス社 しゃ が所有 しょゆう する「アメリカン・オリエント急行 きゅうこう 」 である。1950年 ねん 前後 ぜんご に運行 うんこう されていたアメリカの流 ながれ 線形 せんけい 客車 きゃくしゃ を改造 かいぞう し観光 かんこう 列車 れっしゃ に仕立 した てたもので、ニューヨーク・セントラル鉄道 てつどう の「20世紀 せいき 特急 とっきゅう 」で運用 うんよう されていた流 りゅう 線形 せんけい 展望 てんぼう 車 しゃ やミルウォーキー鉄道 てつどう で運用 うんよう されていたスーパードーム車 しゃ など、アメリカの鉄道 てつどう 黄金 おうごん 時代 じだい の各 かく 鉄道 てつどう の有名 ゆうめい な客車 きゃくしゃ が組 く み込 こ まれている。北 きた はカナダ、南 みなみ はメキシコまで足 あし を伸 の ばすが、走行 そうこう するルートはほぼ決 き まっており、季 き 節 ぶし に応 おう じたツアーが設定 せってい されている。しかし、2008年 ねん ごろに運営 うんえい していた企業 きぎょう が経営 けいえい 破綻 はたん し、運行 うんこう 休止 きゅうし を余儀 よぎ なくされた。
その後 ご 、アメリカン・オリエント急行 きゅうこう で使用 しよう されていた客車 きゃくしゃ は、新 あら たな運営 うんえい 企業 きぎょう の元 もと で「グランドルクス・エクスプレス (Grand Luxe Express)」として現在 げんざい も使用 しよう されている[33] 。現在 げんざい 、おもなコースとしてデンバー とサンフランシスコ を結 むす ぶルートで運行 うんこう されている。
サウス・オリエント急行 きゅうこう
もう一 ひと つは、「サウス・オリエント急行 きゅうこう 」 である。「シエラマドレ急行 きゅうこう 」 が正式 せいしき な名称 めいしょう 。「アメリカン・オリエント急行 きゅうこう 」ほどは知 し られていないが、やはりかつての流 りゅう 線形 せんけい 車両 しゃりょう を復元 ふくげん し、コッパー・キャニオン の息 いき をのむような景色 けしき を眺 なが めることを目当 めあ てとした観光 かんこう 列車 れっしゃ で、1980年代 ねんだい から2009年 ねん までメキシコ北部 ほくぶ で運行 うんこう を行 おこな った[34] 。
その他 た の「オリエント急行 きゅうこう 」 [ 編集 へんしゅう ]
オリエントを冠 かん した列車 れっしゃ としては、上記 じょうき の一連 いちれん の「オリエント急行 きゅうこう 」のほか、アメリカの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ のひとつであるグレート・ノーザン鉄道 てつどう (現 げん ・BNSF鉄道 てつどう )の「オリエンタル特急 とっきゅう (en:Oriental Limited )」 という列車 れっしゃ を挙 あ げることができる。この列車 れっしゃ は、1890年代 ねんだい から1930年代 ねんだい にかけてシカゴ - シアトル 間 あいだ で運行 うんこう されていたが、シアトルでは日本郵船 にっぽんゆうせん の太平洋 たいへいよう 航路 こうろ に連絡 れんらく しており、アメリカと東洋 とうよう を結 むす ぶ列車 れっしゃ として機能 きのう していた。
このほかにも施設 しせつ として利用 りよう されたものとして、かつて滋賀 しが 県 けん 大津 おおつ 市 し に存在 そんざい した紅葉 こうよう パラダイス に「オリエント急行 きゅうこう ホテル」が存在 そんざい した。旧 きゅう 西 にし ドイツの蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ と、ワゴン・リのLXタイプ寝台 しんだい 車 しゃ が数 すう 両 りょう 線路 せんろ の上 うえ に乗 の った状態 じょうたい で、ホテル敷地 しきち 内 ない の宿泊 しゅくはく 施設 しせつ として使用 しよう されていたが、のちに老朽 ろうきゅう 化 か のためすべて解体 かいたい 撤去 てっきょ されてしまった。ホテルもその後 ご に廃業 はいぎょう している。この施設 しせつ は妹尾 せのお 河童 かっぱ の書籍 しょせき にも紹介 しょうかい されたことがある。
1872年 ねん - 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ 設立 せつりつ 。
1883年 ねん
10月4日 にち - パリ 発 はつ コンスタンチノープル(現 げん ・イスタンブール )行 い き(一部 いちぶ 船舶 せんぱく 連絡 れんらく )「オリエント急行 きゅうこう 」開通 かいつう 記念 きねん 列車 れっしゃ 運転 うんてん 。
10月25日 にち - 定期 ていき 列車 れっしゃ として運行 うんこう 開始 かいし 。
1889年 ねん - コンスタンチノープルまでの直通 ちょくつう 運転 うんてん が実現 じつげん する。
1914年 ねん - 第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のため運行 うんこう 休止 きゅうし 。
1919年 ねん
1月 がつ 18日 にち - 「軍用 ぐんよう 豪華 ごうか 列車 れっしゃ 」として運行 うんこう 再開 さいかい 。
4月 がつ - 「シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 」、パリ - ベオグラード 間 あいだ で運行 うんこう 開始 かいし 。
1920年 ねん - 「シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 」、イスタンブールまでの直通 ちょくつう 運転 うんてん 開始 かいし 。
1924年 ねん - ミュンヘン 経由 けいゆ の「オリエント急行 きゅうこう 」運行 うんこう 再開 さいかい 。
1932年 ねん - 「アールベルク・オリエント急行 きゅうこう 」登場 とうじょう 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、運行 うんこう 休止 きゅうし 。
1945年 ねん 11月 - 「シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 」運行 うんこう 再開 さいかい 。
1946年 ねん - 「オリエント急行 きゅうこう 」、「アールベルク・オリエント急行 きゅうこう 」運行 うんこう 再開 さいかい 。
1962年 ねん 5月26日 にち - 「シンプロン・オリエント急行 きゅうこう 」、「アールベルク・オリエント急行 きゅうこう 」は区間 くかん 短縮 たんしゅく のうえ「シンプロン急行 きゅうこう 」、「アールベルク急行 きゅうこう 」と改名 かいめい 。パリ - イスタンブール、アテネ 間 あいだ で「ダイレクト・オリエント急行 きゅうこう 」運行 うんこう 開始 かいし 。
1971年 ねん - 国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ 、鉄道 てつどう 事業 じぎょう から撤退 てったい 。ヨーロッパ寝台 しんだい 車 しゃ プール発足 ほっそく 。
1977年 ねん - スイスのインターフルーク社 しゃ の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行 きゅうこう (NIOE)」運行 うんこう 開始 かいし 。
1977年 ねん 5月 - 「ダイレクト・オリエント急行 きゅうこう 」廃止 はいし 。パリ - イスタンブール間 あいだ の定期 ていき 列車 れっしゃ 全廃 ぜんぱい 。
1982年 ねん 5月25日 にち - オリエント・エクスプレス・ホテルズ社 しゃ の「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)が運行 うんこう 開始 かいし 。
1988年 ねん - ORIENT EXPRESS '88 運転 うんてん 。NIOEがパリ - 香港 ほんこん 間 あいだ および日本 にっぽん のJR線 せん を走行 そうこう 。
1993年 ねん 夏 なつ - 「イースタン・オリエンタル・エクスプレス(E&O)」運行 うんこう 開始 かいし 。
2001年 ねん 6月 がつ - 定期 ていき 列車 れっしゃ の「オリエント急行 きゅうこう 」、パリ - ウィーン 間 あいだ に短縮 たんしゅく 。
2007年 ねん 6月 がつ - 定期 ていき 列車 れっしゃ 、ストラスブール - ウィーン間 あいだ に短縮 たんしゅく 。
2009年 ねん 12月 - 定期 ていき 列車 れっしゃ 廃止 はいし 。
オリエント急行 きゅうこう を題材 だいざい にした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
イスタンブール直通 ちょくつう の「オリエント急行 きゅうこう 」は、上流 じょうりゅう 貴顕 きけん の乗車 じょうしゃ が多 おお く、東洋 とうよう に連 つら なる列車 れっしゃ であることから、エキゾチシズムを伴 ともな った豪奢 ごうしゃ な乗 の り物 もの というイメージが世界 せかい 的 てき に広 ひろ く敷衍 ふえん していた。また国際 こくさい 的 てき な紛争 ふんそう 多発 たはつ 地域 ちいき であるバルカン半島 ばるかんはんとう を経由 けいゆ ルートとしており、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の東西 とうざい 冷戦 れいせん 下 した にはイデオロギーの相違 そうい する多数 たすう の国々 くにぐに を貫通 かんつう して運行 うんこう された。
このような特徴 とくちょう は、古 ふる くから興味深 きょうみぶか い題材 だいざい として作家 さっか たちの関心 かんしん を集 あつ めることにもなり、しばしば小説 しょうせつ の「走 はし る舞台 ぶたい 」に取 と り上 あ げられた。モーリス・デコブラ の『寝台 しんだい 車 しゃ のマドンナ』(1925年 ねん )にはオリエント急行 きゅうこう をはじめとする寝台 しんだい 列車 れっしゃ が登場 とうじょう する[7] 。グレアム・グリーン による群像 ぐんぞう 劇的 げきてき な小説 しょうせつ 『スタンブール特急 とっきゅう 』(1932年 ねん )は、イスタンブール行 ゆき のオーステンデ・ウィーン・オリエント急行 きゅうこう が舞台 ぶたい である[7] 。またアガサ・クリスティ は、考古 こうこ 学者 がくしゃ である夫 おっと マックス・マローワン が中東 ちゅうとう 方面 ほうめん に赴 おもむ く際 さい に、たびたびシンプロン・オリエント急行 きゅうこう に同伴 どうはん して乗車 じょうしゃ したといい、同 どう 急行 きゅうこう を舞台 ぶたい とした『オリエント急行 きゅうこう の殺人 さつじん 』を1934年 ねん に発表 はっぴょう している。この作品 さくひん は1974年 ねん にシドニー・ルメット 監督 かんとく で映画 えいが 化 か されており、蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ はフランス国鉄 こくてつ が動態 どうたい 保存 ほぞん していた230G-353を利用 りよう した。この機関 きかん 車 しゃ は既 すんで 述 じゅつ の通 とお り、1988年 ねん に日本 にっぽん まで走 はし ったノスタルジー・イスタンブール・オリエントエクスプレスのパリ発車 はっしゃ 時 じ のスタートを飾 かざ る機関 きかん 車 しゃ として、その大役 たいやく を果 は たしている。
一方 いっぽう 、東 ひがし ヨーロッパ側 がわ からは、オリエント急行 きゅうこう を批判 ひはん 的 てき に描 えが いた作品 さくひん も存在 そんざい する。ブルガリアの作家 さっか アーレコ・イワニコフ・コンスタンティノフの小説 しょうせつ 『バイ・ガーニュ』(1895年 ねん )はオリエント急行 きゅうこう に乗 の った成金 なりきん 商人 しょうにん を風刺 ふうし 的 てき に描 えが いている[7] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には、イアン・フレミング がスパイ小説 しょうせつ 「007 シリーズ」のひとつとして『ロシアから愛 あい をこめて』(1957年 ねん )を書 か いている。作中 さくちゅう でジェームス・ボンド はイスタンブールからディジョン までシンプロン・オリエント急行 きゅうこう に乗車 じょうしゃ する。この小説 しょうせつ はのちに1963年 ねん にショーン・コネリー 主演 しゅえん で『007 ロシアより愛 あい をこめて 』として映画 えいが 化 か されており、「オリエント急行 きゅうこう 」でのシーンも見 み せ場 ば のひとつとして描 えが かれている。
また、この列車 れっしゃ を題材 だいざい とした音楽 おんがく としては、イギリスの作曲 さっきょく 家 か フィリップ・スパーク によるブラスバンド 編成 へんせい の作品 さくひん 『オリエント急行 きゅうこう (Orient Express)』(1986年 ねん )が広 ひろ く知 し られる。この曲 きょく はスパークの代表 だいひょう 曲 きょく のひとつとされ、欧州 おうしゅう 放送 ほうそう 連合 れんごう (EBU)のNew Music for Band Competitionで第 だい 1位 い を獲得 かくとく した。急行 きゅうこう 列車 れっしゃ の出発 しゅっぱつ から到着 とうちゃく までの様々 さまざま な場面 ばめん を音楽 おんがく によって描 えが いた、輝 かがや かしい曲想 きょくそう を特徴 とくちょう とする楽曲 がっきょく である。曲 きょく は、出発 しゅっぱつ 時 じ ・走行 そうこう 時 じ ・到着 とうちゃく 時 じ 等 とう における蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の走行 そうこう 音 おん 、汽笛 きてき の音 おと 、車掌 しゃしょう の笛 ふえ の音 おと などが描写 びょうしゃ され、旅情 りょじょう を伝 つた える一方 いっぽう 、中間 なかま 部 ぶ では、故郷 こきょう への郷愁 きょうしゅう を想起 そうき させるようなやや感傷 かんしょう 的 てき な旋律 せんりつ も登場 とうじょう する。10分 ふん 足 た らずの単一 たんいつ 楽章 がくしょう の楽曲 がっきょく で、オリエント急行 きゅうこう の旅 たび を描 えが くこの曲 きょく は、のちに作曲 さっきょく 者 しゃ スパーク自身 じしん の手 て によって吹奏楽 すいそうがく 編成 へんせい へも編曲 へんきょく されており、日本 にっぽん 国内 こくない においても各種 かくしゅ 学校 がっこう から市民 しみん バンドに至 いた るまで多 おお くの楽団 がくだん によってコンサートやコンクール などの場 ば にて頻繁 ひんぱん に演奏 えんそう され、人気 にんき がある。この他 ほか 、ジャズ /フュージョン の楽曲 がっきょく にもジョー・ザヴィヌル が「Orient Express」という楽曲 がっきょく を作曲 さっきょく している。
日本 にっぽん 国内 こくない で発行 はっこう された漫画 まんが 『月館 つきだて の殺人 さつじん 』(原作 げんさく ・綾 あや 辻 つじ 行人 こうじん 、作画 さくが ・佐々木 ささき 倫子 ともこ )では、物語 ものがたり の舞台 ぶたい となる夜行 やこう 列車 れっしゃ 「幻 まぼろし 夜 よる 号 ごう 」の車両 しゃりょう や接客 せっきゃく サービスの参考 さんこう にされている。また、オリエント急行 きゅうこう を舞台 ぶたい としたサスペンス仕立 した ての漫画 まんが 『マダム・プティ 』(高尾 たかお 滋 しげる )もある。ギャンブル漫画 まんが 『100万 まん $キッド 』(石垣 いしがき ゆうき 、原案 げんあん 協力 きょうりょく ・宮崎 みやざき まさる )の第 だい 65話 わ (熱闘 ねっとう !!オリエント急行 きゅうこう !!の巻 まき )から第 だい 71話 わ では、オリエント急行 きゅうこう 内 ない でのスタッド・ポーカー 対決 たいけつ が描 えが かれている。
^ 1883年 ねん 6月 がつ 5日 にち に国際 こくさい 寝台 しんだい 車 しゃ 会社 かいしゃ の旧式 きゅうしき 客車 きゃくしゃ で運転 うんてん された列車 れっしゃ を最初 さいしょ のオリエント急行 きゅうこう とする見方 みかた もある[8] 。
^ この報道 ほうどう を受 う け、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス (VSOE) が廃止 はいし されるとの誤解 ごかい が日本 にっぽん の一部 いちぶ で生 しょう じたが、VSOEを運行 うんこう するオリエント・エクスプレス・ホテルズ社 しゃ はこれを否定 ひてい し、VSOEは今後 こんご も運行 うんこう されるとしている[18] 。
^ 運行 うんこう 開始 かいし 時 じ はブローニュ=シュル=メール
^ 切手 きって 代 だい はVSOEが負担 ふたん する。
Koschinski, Konrad (2008). 125 Jahre Orient-Express . Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe. Verlangsgruppe Bahn GmbH. ISBN 978-3-89610-193-8
平井 ひらい 正 ただし 『オリエント急行 きゅうこう の時代 じだい 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 〈中公新書 ちゅうこうしんしょ 〉、2006年 ねん 。ISBN 978-4-12-101881-6 。
Malaspina, Jean-Pierre (2006). Trains d'Europe -Tome 2- . Paris: La Vie du Rail. ISBN 2-915034-49-4
Guizol, Alban (2005). La Compagnie International des Wagons-lits . Chanac: La Régordane. ISBN 2-906984-61-2
櫻井 さくらい 寛 ひろし 『オリエント急行 きゅうこう の旅 たび 』世界文化社 せかいぶんかしゃ 、1997年 ねん 。
教育 きょういく 社 しゃ 編 へん 『オリエント急行 きゅうこう 』教育 きょういく 社 しゃ 、東村山 ひがしむらやま 〈Comon sense books〉、1985年 ねん 8月 がつ 。
窪田 くぼた 太郎 たろう 他 た 『オリエント急行 きゅうこう 』新潮社 しんちょうしゃ 、東京 とうきょう 〈とんぼの本 ほん 〉、1984年 ねん 1月 がつ 。ISBN 978-4-106-01907-4 。
マイケル・バースレイ(Michael Barsley) 著 ちょ 、河合 かわい 伸 しん 訳 やく 『旅愁 りょしゅう オリエント急行 きゅうこう - 華麗 かれい な欧州 おうしゅう 鉄道 てつどう 風俗 ふうぞく 史 し (Orient Express: The Story of the World's Most Fabulous Train)』世紀 せいき 社 しゃ 、東京 とうきょう 、1978年 ねん 9月 がつ 1日 にち (原著 げんちょ 1966年 ねん 1月 がつ 1日 にち )。