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オリエント急行きゅうこう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリエント急行きゅうこうのポスター。

オリエント急行きゅうこう(オリエントきゅうこう、Orient Express、初期しょきには Express d'Orient[1])は、ヨーロッパ走行そうこうする長距離ちょうきょり夜行やこう列車れっしゃ、およびこれにちなんで名付なづけられた列車れっしゃである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

オリエント急行きゅうこう起源きげんは、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ日本にっぽんでの通称つうしょう「ワゴン・リ」しゃ)により1883ねん運行うんこう開始かいしされたパリ - コンスタンティノープルイスタンブールあいだ列車れっしゃ当時とうじ一部いちぶ船舶せんぱく連絡れんらく)である。その西にしヨーロッパバルカン半島ばるかんはんとうむす国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ列車れっしゃぐんが「オリエント急行きゅうこう」を名乗なのるようになった。西にしヨーロッパがわ起点きてんはパリのほかフランスカレーベルギーオーステンデなどがあり、バルカン半島ばるかんはんとうがわ終点しゅうてんはイスタンブールのほかギリシアアテネルーマニアコンスタンツァブカレストなどがあった。これらの列車れっしゃ出発しゅっぱつ途中とちゅう経路けいろにより以下いかのように名付なづけられていた。

いずれも時期じきによって区間くかん経由けいゆすこしずつことなり、またこのほかにも途中とちゅうえきでの客車きゃくしゃの併結、分割ぶんかつ多数たすうおこなわれていた。だい世界せかい大戦たいせんこう区間くかん短縮たんしゅく廃止はいし相次あいついでおり、2009ねん時点じてんのこったのはストラスブール - ウィーンあいだのオリエント急行きゅうこうのみであった。これは国際こくさい夜行やこう列車れっしゃユーロナイトいち列車れっしゃとなっていたが、2009ねん12月14にち廃止はいしされた[2]

だい世界せかい大戦たいせんまえまで、これらの列車れっしゃ原則げんそくとして国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ客車きゃくしゃのみで編成へんせいされており、西にしヨーロッパとひがしヨーロッパ・アジアむす列車れっしゃとして、王侯おうこう貴族きぞく外交がいこうかん裕福ゆうふく商人しょうにん旅行りょこうしゃなどに愛用あいようされた。車両しゃりょう豪華ごうかさにかぎれば、あお列車れっしゃ(ル・トラン・ブルー)などの西にしヨーロッパ圏内けんない豪華ごうか列車れっしゃくらいちだんおとっていたものの、西にしヨーロッパじんにとっては文化ぶんかけんである「オリエント」へかう列車れっしゃとして、またひがしヨーロッパやアジアの上流じょうりゅう階層かいそう人々ひとびとにとってはかれらと西にしヨーロッパをむすびつけるものとして名声めいせいた。

だい大戦たいせん航空機こうくうき普及ふきゅう東西とうざい冷戦れいせんのためこうした性格せいかくうしなわれ、列車れっしゃ通常つうじょうとうしゃさんとうしゃ主体しゅたい編成へんせい国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃが併結されるにすぎないものとなった。1971ねんには国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃ事業じぎょうから撤退てったいし、寝台しんだいしゃ各国かっこく鉄道てつどう事業じぎょうしゃ保有ほゆうするものとなった。

なお、上記じょうき以外いがい正式せいしき名称めいしょうに「オリエント」のつかない列車れっしゃでも、東西とうざいヨーロッパをむす列車れっしゃのことをマスメディアなどが「オリエント急行きゅうこう」とぶことがある[3]

一方いっぽうで、1920年代ねんだいから30年代ねんだい国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ車両しゃりょう復元ふくげんした観光かんこう列車れっしゃ1970年代ねんだい以降いこう登場とうじょうしており、これらも「オリエント急行きゅうこう」を名乗なのっている。おもなものには以下いかがある(#オリエント急行きゅうこう復元ふくげんした観光かんこう列車れっしゃ後述こうじゅつ)。

  • ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスベニス・シンプロン・オリエント急行きゅうこう、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ(げんベルモンド)が1982ねん運行うんこう開始かいしした、ロンドンイタリアむす観光かんこう列車れっしゃ
  • ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名きゅうめいノスタルジー・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Orient Express、NOE) - スイス旅行りょこう会社かいしゃインターフルークしゃが1977ねんから運行うんこうはじめた観光かんこう列車れっしゃ
  • プルマン・オリエント急行きゅうこう(Pullman Orient Express、POE) - フランスのアコーホテルズ傘下さんかはいった国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ所有しょゆうする列車れっしゃ寝台しんだいしゃはなく食堂しょくどうしゃとラウンジカーによって編成へんせいされたひるぎょう専用せんようである。

さらにヨーロッパの列車れっしゃとはとく関係かんけいのない観光かんこう列車れっしゃ名称めいしょうとしてももちいられている。これにはベルモンドしゃバンコクシンガポールあいだ運行うんこうおこなっている「イースタン・オリエント急行きゅうこう」(E&O)、アメリカン・オリエントエクスプレスしゃ所有しょゆうする「アメリカン・オリエント急行きゅうこうメキシコ走行そうこうする「サウス・オリエント急行きゅうこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく走行そうこうする「チャイナ・オリエント急行きゅうこうインド走行そうこうする「ロイヤル・オリエント急行きゅうこう存在そんざいする(#アジアとアメリカの観光かんこう列車れっしゃ後述こうじゅつ)。

歴史れきし[編集へんしゅう]

国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃのエンブレム

登場とうじょうまで[編集へんしゅう]

1872ねんベルギー銀行ぎんこう息子むすこであるジョルジュ・ナゲルマケールス国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ設立せつりつした。かれ1868ねんにアメリカを旅行りょこうし、アメリカのプルマンしゃ寝台しんだいしゃ感銘かんめいけ、ヨーロッパでの寝台しんだいしゃ会社かいしゃ設立せつりつおもった。アメリカじんだい富豪ふごう、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社かいしゃ設立せつりつ支援しえんし、当時とうじ大陸たいりくヨーロッパ進出しんしゅつしようとしていたプルマンしゃとの参入さんにゅう競争きょうそうひろげていた。

西にしヨーロッパとオリエントむすぶオリエント急行きゅうこう同社どうしゃ看板かんばん列車れっしゃとして計画けいかくされており、1880年代ねんだいはじめにはパリ・ウィーンあいだ食堂しょくどうしゃ豪華ごうか寝台しんだいしゃ運行うんこうはじまっていた[1]

開通かいつう記念きねん列車れっしゃ[編集へんしゅう]

オリエント急行きゅうこう開通かいつう記念きねん列車れっしゃ1883ねん10月4にちよるにパリ・ストラスブールえきげんパリ東駅ひがしえき)を発車はっしゃし、6にちかけてコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着とうちゃくした。なおオスマン帝国ていこくでは首都しゅとめいを「イスタンブール」としょうしていたが、西にしヨーロッパでは旧名きゅうめいの「コンスタンティノープル」が使つかわれており、「オリエント急行きゅうこう」のさき旧名きゅうめい表記ひょうきされていた[4]

経路けいろはパリ(フランス) - シュトラスブルク(ドイツ帝国ていこくげんストラスブール) - ミュンヘン - ウィーンオーストリア=ハンガリー帝国ていこく) - ブダペスト - オルソヴァルーマニア王国おうこく) - ブカレスト - ジュルジュ - ルセブルガリア公国こうこく) - ヴァルナ - コンスタンティノープル(オスマン帝国ていこく)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路せんろ全通ぜんつうしておらず、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ車両しゃりょう運行うんこうされたのはジュルジュまでで、ドナウがわふねわたり、ルセ - ヴァルナあいだイギリス資本しほんのブルガリアの鉄道てつどう通常つうじょう客車きゃくしゃ利用りよう、ヴァルナ - コンスタンティノープルあいだ汽船きせん黒海こっかいわたった[4]

記念きねん列車れっしゃ寝台しんだいしゃ2りょう食堂しょくどうしゃ1りょう荷物にもつしゃけん車掌しゃしょうしゃ)2りょう編成へんせいであった。寝台しんだいしゃ食堂しょくどうしゃボギー台車だいしゃ使用しようしており、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ創業そうぎょうじくしゃさんじくしゃからは大幅おおはば心地ごこち向上こうじょうしていた[5]

記念きねん列車れっしゃには沿線えんせん各国かっこく高官こうかん鉄道てつどう関係かんけいしゃ、ジャーナリストなどが招待しょうたいされたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ幹部かんぶ乗車じょうしゃした。途中とちゅうルーマニアでは国王こくおうカロル1せいみずか離宮りきゅう招待しょうたいするなど、沿線えんせん各国かっこく歓迎かんげいけた。招待客しょうたいきゃくなかにはアルザス出身しゅっしんパリ在住ざいじゅう作家さっかエドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About)と、ロンドン・タイムズかみのパリ支局しきょくちょうアンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz[6]ふくまれており、しん列車れっしゃかれらのふでにより西にしヨーロッパに紹介しょうかいされた。ドブラヴィッツはさらに到着とうちゃくのイスタンブールでスルタンアブデュルハミト2せい西にしヨーロッパのジャーナリストとしてははつ単独たんどく会見かいけん成功せいこうしている[7]

だいいち世界せかい大戦たいせんまえ[編集へんしゅう]

オリエント急行きゅうこうあお)と関連かんれん列車れっしゃだいいち世界せかい大戦たいせんまえ

定期ていき列車れっしゃとしてのオリエント急行きゅうこうは、1883ねん10がつ25にちからパリ - ジュルジュあいだ営業えいぎょう開始かいしした[ちゅう 1]連絡れんらくする船舶せんぱくなどとわせたパリからコンスタンティノープルまでの所要しょよう時間じかんは81あいだ41ふんである[9]当初とうしょしゅう1便びん運行うんこうであったが、1885ねんには途中とちゅうのウィーンまで毎日まいにち運行うんこうとなった。また1885ねんからは当初とうしょのルートのほかブダペストからベオグラードソフィア経由けいゆする列車れっしゃ一部いちぶ馬車ばしゃ連絡れんらく)も運転うんてんされた。1889ねん6がつには念願ねんがんのコンスタンティノープルまでの列車れっしゃ直通ちょくつう運転うんてんがベオグラード・ソフィア経由けいゆ実現じつげんした。これによりパリからコンスタンティノープルへの所要しょよう時間じかんは67あいだ46ふんにまで短縮たんしゅくされた[9]

1891ねんには列車れっしゃめい表記ひょうきフランス語ふらんすごのExpress d'Orientから英語えいごしき語順ごじゅんのOrient Expressにあらためた。また1896ねんにはルーマニア国内こくないドナウがわ鉄橋てっきょう開通かいつうし、ルーマニア方面ほうめんへのオリエント急行きゅうこうブカレスト経由けいゆコンスタンツァくだりとなった。

直通ちょくつう運転うんてん実現じつげんしたとはいえ、オリエント急行きゅうこうはしひがしヨーロッパの政情せいじょう不安定ふあんていであり、インフラストラクチャー整備せいび西にしヨーロッパとくらおくれていた。このため列車れっしゃ運行うんこうにはさまざまな困難こんなんともなった。1891ねんには盗賊とうぞくだん列車れっしゃおそい、乗客じょうきゃく誘拐ゆうかいして身代金みのしろきん要求ようきゅうする事件じけんこった[4]。また1892ねんにはバルカン半島ばるかんはんとうでのコレラ流行りゅうこうのため列車れっしゃ10日とおかあいだ隔離かくりされた[10]

1900ねんには、ベルギーオーステンデからウィーンいたオーステンデ・ウィーン急行きゅうこう客車きゃくしゃ一部いちぶがオリエント急行きゅうこうに併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通ちょくつうするようになり、オーステンデ・ウィーン・オリエント急行きゅうこう名付なづけられた。オーステンデではイギリスからの連絡れんらくせん接続せつぞくしており、これによってイギリスからバルカン半島ばるかんはんとう方面ほうめんへの所要しょよう時間じかん短縮たんしゅくされた[10]同年どうねんにはベルリンからの客車きゃくしゃをブダペストでオリエント急行きゅうこうに併結させるベルリン・ブダペスト・オリエント急行きゅうこう運行うんこう開始かいししたが、こちらは利用りようしゃすくなく翌年よくねんには直通ちょくつう中止ちゅうししている[4]

このころオリエント急行きゅうこう利用りようできたのは、王侯おうこう貴族きぞく高級こうきゅう官吏かんり富豪ふごうなどのごくかぎられた人々ひとびとだった。パリ・コンスタンティノープルあいだ一等いっとう運賃うんちん寝台しんだい料金りょうきん合計ごうけい当時とうじ召使めしつかい給料きゅうりょう1ねんぶん相当そうとうしたという[10]

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつするとオリエント急行きゅうこう運休うんきゅう余儀よぎなくされた。1915ねんすえセルビア敗北はいぼくにより、ドイツ帝国ていこくからイスタンブールまでが中央ちゅうおう同盟どうめいこく線路せんろでつながると、ドイツはよく1916ねん1がつ15にちからベルリンおよびシュトラスブルク - イスタンブールあいだで「バルカン列車れっしゃ(Balkanzug)」の運転うんてんはじめた[11]。ドイツはかねてから国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ路線ろせんもうがパリを中心ちゅうしん構成こうせいされており、オリエント急行きゅうこうもドイツ南部なんぶとおりすぎるのみで首都しゅとベルリンを軽視けいししていることに不満ふまんいており、バルカン列車れっしゃはオリエント急行きゅうこうってわろうとしたものであった[4]。しかし1918ねん10月には同盟どうめいこくブルガリアでの敗退はいたいにより運行うんこうえた[11]

せんあいだ[編集へんしゅう]

オリエント急行きゅうこうあお)とシンプロン・オリエント急行きゅうこうむらさき
オーステンデ・ウィーン・オリエント急行きゅうこうとアールベルク・オリエント急行きゅうこう

休戦きゅうせん、オリエント急行きゅうこう1919ねん1がつ18にちからパリ - ウィーン - ブカレスト・ワルシャワあいだで「軍用ぐんよう豪華ごうか列車れっしゃ」として運行うんこう再開さいかいしたが、利用りようできるのは連合れんごうこく軍人ぐんじんぐん許可きょかもののみだった[12]。またパリ - ウィーンあいだ経路けいろドイツりょうけ、スイスバーゼルチューリッヒ経由けいゆしてオーストリアはいり、アールベルクトンネルとおってリンツウィーンいたるというものだった[1]

同年どうねん4がつからは、パリ - ヴェネツィアあいだのシンプロン急行きゅうこう(Simplon Express)を延長えんちょうするかたちで、パリ - ベオグラードあいだシンプロン・オリエント急行きゅうこう(Simplon Orient-Express)がシンプロントンネル経由けいゆ運行うんこう開始かいしした。オリエント急行きゅうこうをシンプロントンネル経由けいゆ運転うんてんすることは1905ねんのトンネル開通かいつうから計画けいかくされていたが、この経路けいろではドイツ帝国ていこくりょうをまったく経由けいゆせず、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく南部なんぶとおりすぎるのみだったため、りょう大国たいこく反発はんぱつまね実現じつげんしていなかった。大戦たいせんりょう敗戦はいせんこく国際こくさい列車れっしゃかんする発言はつげんりょく低下ていかし、そもそも領内りょうない通過つうか自体じたい困難こんなん状況じょうきょうであったため、シンプロントンネル経由けいゆ採用さいようされた。シンプロン・オリエント急行きゅうこうよく1920ねんにはイスタンブールまで直通ちょくつうするようになった[10]

1919ねん6がつ28にち調印ちょういんされたヴェルサイユ条約じょうやくには鉄道てつどうかんする条項じょうこうもあり、ドイツは連合れんごうこくから直通ちょくつうする国際こくさい列車れっしゃ国内こくない最速さいそく列車れっしゃ同様どうよう待遇たいぐう通過つうかさせることが義務ぎむづけられた。ほかの同盟どうめいこく連合れんごうこくとの講和こうわ条約じょうやくにも同様どうよう条項じょうこうがあった。とはいえドイツ国内こくない線路せんろ荒廃こうはい石炭せきたん不足ふそく、さらにフランスとドイツのあいだ勃発ぼっぱつしたルール問題もんだいのためオリエント急行きゅうこうのドイツりょう通過つうかはまだ困難こんなんだった[1][10]

ストラスブール、ミュンヘン経由けいゆのオリエント急行きゅうこう1921ねん5月にブカレストまで再開さいかいされたものの、運行うんこう不安定ふあんていであり、1923ねんからはドイツりょう迂回うかいしアールベルクトンネル経由けいゆとなった。ミュンヘン経由けいゆのオリエント急行きゅうこう復活ふっかつしたのは1924ねん11月のことである。またアールベルクトンネル経由けいゆ経路けいろ1931ねん5月からアールベルク・オリエント急行きゅうこう(Arlberg Orient-Express)と名付なづけられた[13]

1930年代ねんだいはオリエント急行きゅうこう最盛さいせいであり、シンプロン・オリエント急行きゅうこうカレーおよびパリからイスタンブールおよびアテネまで毎日まいにち運行うんこう、オリエント急行きゅうこう(ストラスブール経由けいゆ)がしゅう3便びんカレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行きゅうこうと併結)・ブカレストへ、アールベルク・オリエント急行きゅうこうしゅう3便びん(オリエント急行きゅうこうとはべつ)にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行うんこうされた。このほかボルドー、オーステンデ、ベルリン、プラハなどからの客車きゃくしゃ途中とちゅうえきから併結されることもあった[1]

またこの時期じき、イスタンブールでの終着駅しゅうちゃくえきであるシルケジえき対岸たいがんアジアがわにあるハイダルパシャえきからは、オリエント急行きゅうこう接続せつぞくしてタウルス急行きゅうこうトリポリバグダードまで(バグダード鉄道てつどう全通ぜんつうまでは一部いちぶ自動車じどうしゃ連絡れんらく運行うんこうされており、さらに列車れっしゃ自動車じどうしゃいでカイロテヘランまで連絡れんらくしていた[14]当時とうじトーマス・クック時刻じこくひょうではロンドンからテヘラン、バスラまでの時刻じこくが1まいひょうおさめられていた[10]

だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより、これらの列車れっしゃはまず枢軸すうじくこく中立ちゅうりつこく領域りょういきないのみに短縮たんしゅくされ、さらにぜん列車れっしゃ運休うんきゅうとなった[13]

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんのオリエント急行きゅうこう

だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん、まず1945ねん11月にシンプロン・オリエント急行きゅうこうがソフィアまで運行うんこう再開さいかいし、1947ねんにはイスタンブールまでの直通ちょくつう復活ふっかつした。また1946ねんにはオリエント急行きゅうこうがパリ - ウィーンあいだで、アールベルク・オリエント急行きゅうこうがパリ - イスタンブール・ブカレストあいだ運行うんこう再開さいかいした。アテネへの直通ちょくつうは1950ねん再開さいかいしている。ただし、これらの列車れっしゃ座席ざせきしゃ簡易かんい寝台しんだいしゃふく編成へんせいとなっており、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ個室こしつ寝台しんだいしゃのみで構成こうせいされた最盛さいせい姿すがたよみがえらなかった。モータリゼーション時代じだい到来とうらい航空機こうくうき性能せいのう向上こうじょうにより、オリエント急行きゅうこう利用りようする長距離ちょうきょり旅客りょかく減少げんしょうしていた。また東西とうざい冷戦れいせん影響えいきょうもあり、国境こっきょうえきでの厳格げんかく手荷物てにもつ検査けんさなどが運行うんこう障害しょうがいとなり、所要しょよう時間じかん戦前せんぜんよりおおきくびていた[10]

この時期じき「オリエント急行きゅうこう」を名乗なのった列車れっしゃには、バルト海ばるとかい沿岸えんがんから共産きょうさんけんのみをとおってバルカン半島ばるかんはんとうかう「バルト・オリエント急行きゅうこう」や、西にしドイツからオーストリアタウエルントンネルTauerntunnel)をとおってバルカンにかう「タウエルン・オリエント急行きゅうこう」があった[10]

1962ねんには国際こくさい列車れっしゃ再編さいへんおこなわれ、シンプロン・オリエント急行きゅうこうとアールベルク・オリエント急行きゅうこうはイスタンブール・アテネへの直通ちょくつう中止ちゅうしし、列車れっしゃめいから「オリエント」のはずした。これにわり、パリからバルカン半島ばるかんはんとう方面ほうめんへの座席ざせき急行きゅうこう列車れっしゃ直通ちょくつう寝台しんだいしゃ連結れんけつするかたちダイレクト・オリエント急行きゅうこう(Direct Orient Express、直通ちょくつうオリエント急行きゅうこう)がイスタンブールおよびアテネへ各週かくしゅう2便びん運行うんこうされるようになった[10]。ただしダイレクト・オリエント急行きゅうこう実態じったい各国かっこくのローカル列車れっしゃ老朽ろうきゅうした寝台しんだいしゃがわずかに連結れんけつされているのみであり、停車駅ていしゃえきおお時間じかん調整ちょうせいのための長時間ちょうじかん停車ていしゃもあった。食堂しょくどうしゃ一部いちぶ区間くかんでしか連結れんけつされず、当時とうじ旅行りょこうでは食事しょくじ確保かくほにすら苦労くろうした様子ようすえがかれている。無論むろん全線ぜんせんとお乗客じょうきゃくすくなかった[4][7][15]

1971ねん国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃ営業えいぎょうから撤退てったいし、その車両しゃりょうはヨーロッパ寝台しんだいしゃプール(TEN)にがれた[10]

1977ねんにはダイレクト・オリエント急行きゅうこう廃止はいしされ、パリはつ5がつ19にち、イスタンブールはつ5がつ22にち列車れっしゃ最終さいしゅう列車れっしゃとなった。これによりパリ - イスタンブールあいだ直通ちょくつう列車れっしゃ消滅しょうめつした[10]

イスタンブール直通ちょくつう廃止はいし[編集へんしゅう]

ストラスブール・ウィーン経由けいゆのオリエント急行きゅうこうは、1950年代ねんだいからパリからブダペストまたはブカレストへの国際こくさい夜行やこう列車れっしゃとなっていた。ダイレクト・オリエント急行きゅうこう廃止はいしもブカレストへのオリエント急行きゅうこう運行うんこうされていたが、2001ねん6月のダイヤ改正かいせい運行うんこう区間くかんをパリ - ウィーン(ウィーン西にしえきあいだ短縮たんしゅくし、ユーロナイト262・263列車れっしゃとなった[16]。これによりスピードアップがはかられたが、食堂しょくどうしゃ連結れんけつりやめられた。

2002ねん11月6にち、パリはつウィーンきの列車れっしゃがフランス国内こくないのナンシーえき発車はっしゃ寝台しんだいしゃ火災かさい発生はっせいし12めい死亡しぼうする事故じこきた[17]

2004ねん3がつ時点じてんでのパリ - ウィーンあいだ直通ちょくつう編成へんせいつぎのようなものであった。

寝台しんだいしゃ1りょう - クシェット(簡易かんい寝台しんだいしゃ)2りょう - 2とう座席ざせきしゃ3りょう

そのに、パリ - ストラスブールあいだザルツブルク - ウィーンあいだ1とう座席ざせきしゃおよび2とう座席ざせきしゃ増結ぞうけつされていた。

2007ねん6がつ10日とおかTGVひがしヨーロッパせん開業かいぎょうしたことにともない、運転うんてん区間くかん現行げんこうのストラスブール - ウィーンあいだ短縮たんしゅくされ、ストラスブールでTGV列車れっしゃ接続せつぞくするダイヤにあらためられたほか、停車駅ていしゃえき大幅おおはば削減さくげん実施じっしされた。

2008ねん12月のダイヤ改正かいせいでオリエント急行きゅうこう列車れっしゃ番号ばんごうは468・469とあらためられた。

しかしコストだか高速こうそく鉄道てつどうあみ発展はってんにより、この列車れっしゃ2009ねん12月12にち859ふんストラスブール列車れっしゃ最後さいご廃止はいしされた[2][ちゅう 2]

その2021ねん12月13にちから、「オリエント急行きゅうこう」と銘打めいうってはいないもののナイトジェットしん路線ろせんNJ468/469として、14ねんぶりにパリ直通ちょくつう便びんとして復活ふっかつした。

停車駅ていしゃえき以下いかとおり。

車両しゃりょう編成へんせい[編集へんしゅう]

登場とうじょうのオリエント急行きゅうこう寝台しんだいしゃ2りょう食堂しょくどうしゃ1りょう荷物にもつしゃけん乗務じょうむいんしゃ)2りょう編成へんせいで、寝台しんだいしゃには4にんよう個室こしつ3しつ2人ふたりよう個室こしつ4しつがあった。寝台しんだいしゃ食堂しょくどうしゃボギぼぎしゃで、荷物にもつしゃさんじくしゃであった。ボギぼぎしゃは1880年代ねんだいまでのヨーロッパではあまり普及ふきゅうしておらず、本格ほんかくてき採用さいようしたのはオリエント急行きゅうこうはじめてであった[19]車体しゃたいはいずれも木製もくせいであるが、チークざい使用しよう当時とうじ一般いっぱんてき車両しゃりょうよりも頑丈がんじょう構造こうぞうであった。またくるまよわい4ねん以上いじょう客車きゃくしゃ使用しようしないと宣伝せんでんしていた[10]20世紀せいき初頭しょとうまで国際こくさい寝台しんだいしゃ客車きゃくしゃにはとくまった形式けいしきというものはなく、車両しゃりょうごとに仕様しようすこしずつことなっていた。1898ねんごろに投入とうにゅうされた新型しんがた寝台しんだいしゃでは4にん個室こしつ1しつ2人ふたり個室こしつ7しつ構成こうせいであった[19]

1907ねんから国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ同社どうしゃはつ標準ひょうじゅんがた寝台しんだいしゃであるRがた製造せいぞうはじめ、オリエント急行きゅうこうにも使用しようした。Rがた2人ふたりよう個室こしつ9しつからなり、ほかに洗面せんめんしつ3しつそなえていた[19]1909ねんにはRがたぞうつぶさにともない、オリエント急行きゅうこう寝台しんだいしゃは3りょうえた。また荷物にもつしゃもこのころまでに大型おおがたボギぼぎしゃになった[10]

だいいち世界せかい大戦たいせん国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃは1922ねんからはがねせいのSがた寝台しんだいしゃ製造せいぞうはじめたが、これはまずあお列車れっしゃなど西にしヨーロッパの列車れっしゃもちいられ、オリエント急行きゅうこう使つかわれたのは1926ねんからである[10]。これ以降いこうZがた、Yがた、LXがたなどの新型しんがた車両しゃりょう登場とうじょうし、これらもオリエント急行きゅうこうもちいられた。ただしYがた使用しようだい世界せかい大戦たいせんであり、LXがたはシンプロン・オリエント急行きゅうこうのフランスからスイス、イタリアにかけての一部いちぶ区間くかん連結れんけつされたにとどまる[19]

だい世界せかい大戦たいせんのオリエント急行きゅうこう沿線えんせん各国かっこく鉄道てつどう保有ほゆうするとうしゃさんとうしゃなどを主体しゅたいとした編成へんせいに、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃすうりょう連結れんけつされる編成へんせいとなった[19]。ヨーロッパではじめて簡易かんい寝台しんだいしゃ(クシェット)を連結れんけつしたのはオリエント急行きゅうこうである[4]

オリエント急行きゅうこう復元ふくげんした観光かんこう列車れっしゃ[編集へんしゅう]

きゅう国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ客車きゃくしゃ食堂しょくどうしゃ

だい世界せかい大戦たいせんのオリエント急行きゅうこう戦前せんぜんのような豪華ごうか列車れっしゃではなくなった。とく東欧とうおうけんえき停車ていしゃには検問けんもんおこなわれ、きゃくばなれがすすみ、出稼でかせぎの労働ろうどうしゃおお利用りようするようになった。一方いっぽう1970年代ねんだい以降いこうきゅう国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ客車きゃくしゃなどを使用しよう戦前せんぜんのオリエント急行きゅうこう復元ふくげんした観光かんこう列車れっしゃ運行うんこうされている。

ふるくは1967ねん国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ自身じしんが「まだひとつのヨーロッパがあったとき」とだいして豪華ごうか列車れっしゃによるツアーを募集ぼしゅうしたれいがあるが、このときは料金りょうきんたかすぎたためにきゃくあつまらず実現じつげんいたらなかった[20]

1976ねん3がつにはスイス連邦れんぽう鉄道てつどうのWalter Finkbohnerの企画きかくにより、「特別とくべつシンプロン・オリエント急行きゅうこう」と名付なづけられた列車れっしゃミラノ - イスタンブールあいだはしった。同年どうねん10がつにはFinkbohnerの友人ゆうじんのスイスじん実業じつぎょうアルバート・グラッツがチューリッヒ - イスタンブールあいだで「特別とくべつアールベルク・オリエント急行きゅうこう」と名付なづけた列車れっしゃはしらせた。これはのちのノスタルジー・オリエント急行きゅうこうもとになっている[21]

20世紀せいきすえから21世紀せいき初頭しょとう時点じてんにおいてヨーロッパで運行うんこうされている「オリエント急行きゅうこう」を名乗なの観光かんこう列車れっしゃには以下いかみっつがある。

  • ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名きゅうめいノスタルジー・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Orient Express、NOE) - スイスの旅行りょこう会社かいしゃインターフルークしゃが1977ねんから運行うんこうはじめた列車れっしゃ
  • ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(ベニス・シンプロン・オリエント急行きゅうこう、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズしゃげんベルモンド)が1982ねん運行うんこうはじめた列車れっしゃ
  • プルマン・オリエント急行きゅうこう(Pullman Orient Express、POE) - フランスのアコーホテルズ傘下さんかはいったワゴン・リしゃ所有しょゆうする列車れっしゃ寝台しんだいしゃはなくひるぎょう専用せんようである。

なお、これらの観光かんこう列車れっしゃもちいられている車両しゃりょうは1930ねん前後ぜんこう製造せいぞうされたものであり、スペースや室内しつない設備せつび機能きのうせいなどのめんでは、2000年代ねんだい新型しんがた列車れっしゃ個室こしつ寝台しんだい見劣みおとりするところもある。しかしながら調度ちょうどひんしち人的じんてきなサービスの充実じゅうじつ車内しゃないでのイベント出席しゅっせきさいのドレスコードがもうけられているなど、演出えんしゅつとしての豪華ごうかさのみならず、列車れっしゃ格調かくちょう風格ふうかく、ステイタスせいかんしてはほかのいかなる観光かんこう列車れっしゃくらべても際立きわだっている。

また、NIOE、VSOEとも寝台しんだいしゃはLxがた使用しようしているが、Lxがた本来ほんらいあお列車れっしゃなど西にしヨーロッパ圏内けんない列車れっしゃもちいられていた車両しゃりょうであり、国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃのオリエント急行きゅうこうでは一部いちぶ区間くかんでのみ連結れんけつされていた[19]。プルマン・カー(サロン・カー)も同様どうようである[19]

ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行きゅうこう[編集へんしゅう]

スイスのチューリッヒ本社ほんしゃいていたインターフルークしゃ(REISEBURO INTRAFRUG.A.G-イントラフルーク、イントラフラッグと記述きじゅつ存在そんざいした)は、かつての国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃ購入こうにゅう復元ふくげんし、1976ねんから観光かんこう列車れっしゃとして運転うんてんしていた。1977ねんにはこの列車れっしゃ「ノスタルジー・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Orient Express、NOE)」名付なづけた。「ノスタルジー」をかんしたのは定期ていき列車れっしゃのオリエント急行きゅうこう区別くべつするためである。ノスタルジー・オリエント急行きゅうこうとしてのはつ走行そうこうは、1977ねん3がつから4がつにかけてのチューリッヒ - イスタンブールあいだであった。そのしゅとしてチューリッヒを起点きてんにツアー列車れっしゃとしてヨーロッパ各地かくち走行そうこうした。1983ねんにはベニス・シンプロン・オリエント急行きゅうこうとの区別くべつのため「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行きゅうこう(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)」あらためた[22]

NIOEの車両しゃりょう使用しようして運行うんこうされた特別とくべつ列車れっしゃのうち、著名ちょめいなものには以下いかがある[22]

1993ねん、インターフルークしゃ経営けいえいなんのためにNIOEを手放てばなした。客車きゃくしゃおなじスイスの旅行りょこう会社かいしゃ「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」しゃられたほか、一部いちぶロシア企業きぎょうなどにわたった。2002ねん、ライズビューロー・ミッテルスルガウしゃ経営けいえい統合とうごうにともなってNIOEを手放てばなし、スイスの鉄道てつどう旅行りょこう会社かいしゃ「Trans Europ Eisenbahn AG(TEAG)」にられ、オーストリア設立せつりつされたOrient Express Train de Luxe AGが窓口まどぐちとなっておも団体だんたいけのチャーター列車れっしゃとして運用うんようされた。この時期じきのNIOEはきゅう国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ客車きゃくしゃのほか、「ラインゴルトよう客車きゃくしゃなどよりあたらしい客車きゃくしゃざった編成へんせい運行うんこうされていた[22]

しかし、商標しょうひょう登録とうろくされていた「オリエントエクスプレス」という名称めいしょう使用しようけんまつわる権利けんり問題もんだいしょうじ、オリエントエクスプレス・ホテルズしゃとフランス国鉄こくてつから訴訟そしょうこされることとなったため、2007ねん以降いこうはNIOEという名称めいしょうでの運行うんこうはしておらず、Orient Express Train de Luxe AGのウェブページも閉鎖へいさされている[22]

ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス[編集へんしゅう]

スイス連邦れんぽう鉄道てつどうAe 6/6機関きかんしゃ牽引けんいんされるVSOE
VSOEのブリティッシュ・プルマン編成へんせい

海運かいうん会社かいしゃであるシーコンテナしゃ社長しゃちょうのジェームズ・シャーウッドは1977ねんオークション国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ寝台しんだいしゃ落札らくさつし、その車両しゃりょうして、オリエント・エクスプレス・ホテルズしゃという子会社こがいしゃ設立せつりつ1982ねんから「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)」として運行うんこうはじめた[23]

VSOEはツアー列車れっしゃとしてイギリスロンドン・ヴィクトリアえきイタリアヴェネツィア(ベニス)サンタ・ルチーアえきあいだむすんでいる。ロンドン - フォークストーンFolkestoneあいだもとプルマンしゃのイギリス法人ほうじん保有ほゆうしていた座席ざせきしゃ(ブリティッシュ・プルマン)を使用しようする。ドーヴァー海峡かいきょうはかつてはふねわたっていたが、2009ねん時点じてんでは専用せんようバスにえてユーロトンネルシャトルによりカレーいた[24]。カレー[ちゅう 3]からはもと国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ車両しゃりょうによる編成へんせいとなり、パリ経由けいゆヴェネツィアいたる。なお、運行うんこう開始かいしにはパリ - ヴェネツィアあいだはかつてのシンプロン・オリエント急行きゅうこう経路けいろをたどりローザンヌミラノ経由けいゆしていたが、のちにアールベルク・オリエント急行きゅうこう経路けいろ一部いちぶをたどってブックスBuchs)、インスブルックいたり、そこからブレンナーとうげ経由けいゆでイタリアにかう経路けいろ変更へんこうされた。これはこの経路けいろほう遠回とおまわりではあるものの、沿線えんせん景色けしきがよいためである[25]。このほかローマまで運行うんこうされることもあり、またプラハブカレストイスタンブールなどへ特別とくべつ運行うんこうされることもある[23][26]。ブリティッシュ・プルマン編成へんせいはVSOEのほかイギリス国内こくないのツアー列車れっしゃにももちいられる[25]

2003ねんから2006ねんにかけてきゅう国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ車輌しゃりょう更新こうしん改造かいぞうほどこされ、時速じそく160キロ走行そうこう対応たいおうしたあたらしい台車だいしゃ交換こうかんされている[23]

大陸たいりくがわでは1はく2にちたびだが、ディナーのドレスコードフォーマル指定してい乗客じょうきゃく要望ようぼう対応たいおうするキャビンアテンダント同乗どうじょうするうえ、記念きねんとして列車れっしゃないにあるポストから手紙てがみすことが可能かのうである[ちゅう 4]

2020ねん実施じっしされたイギリスの欧州おうしゅう連合れんごう(EU)離脱りだつ通称つうしょうブレグジット)により、イギリスとフランスあいだ国境こっきょう通過つうか時間じかんようしていることから、2024ねん3がつにロンドン - パリあいだ運行うんこう一旦いったん廃止はいしすることを2023ねん4がつ発表はっぴょうした。該当がいとう区間くかんユーロスター代替だいたい輸送ゆそうする予定よていとしている[27]

プルマン・オリエント急行きゅうこう[編集へんしゅう]

「プルマン・オリエント急行きゅうこう(Pullman Orient Express)」はフランスのアコーグループ傘下さんかとなったワゴン・リしゃ保有ほゆうする編成へんせいである。編成へんせい食堂しょくどうしゃとサロンカーが主体しゅたいであり、寝台しんだいしゃはない。おもにフランス国内こくない日帰ひがえりのツアー列車れっしゃとして運行うんこうされている[28]

オリエント・エクスプレス '88[編集へんしゅう]

日本にっぽん走行そうこうした「ORIENT EXPRESS'88」

オリエント・エクスプレス '881988ねんに、フジテレビジョン開局かいきょく30周年しゅうねんJRグループ発足ほっそくいち周年しゅうねん記念きねん事業じぎょうとして、フジテレビ・東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう(JR東日本ひがしにっぽん主導しゅどうのもと、各国かっこく政府せいふ鉄道てつどうかくしゃ協力きょうりょくにより、NIOEの車両しゃりょう利用りようしてパリ - 東京とうきょうあいだORIENT EXPRESS'88運行うんこうされた(プロジェクトの正式せいしき名称めいしょう"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88")。

アジアとアメリカの観光かんこう列車れっしゃ[編集へんしゅう]

イースタン&オリエンタル・エクスプレス[編集へんしゅう]

マレーシアを走行そうこうちゅうのE&O

「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」で成功せいこうおさめたオリエント・エクスプレス・ホテルズしゃは、ひがしアジアからの顧客こきゃく誘致ゆうち積極せっきょくてきすすめるため、アジアのオリエント急行きゅうこうだいしてシンガポールからマレまれ半島はんとうめぐシンガポール帰着きちゃくする、「イースタン&オリエンタル・エクスプレス(E&O)」運行うんこうを1993ねん開始かいしした。2023ねん現在げんざいシンガポールから3はく4にちでマレーシアを周遊しゅうゆうするコースが通年つうねん運行うんこうされている。いずれもヨーロッパの「オリエント急行きゅうこう」とどう系列けいれつ雰囲気ふんいきやサービス、食事しょくじ豪華ごうかそのものである。なお使用しようされる車両しゃりょうニュージーランド鉄道てつどうしょう使つかわれていた日本にっぽんせい寝台しんだい客車きゃくしゃシルバースター」を改装かいそうしたものである[29]

シンガポールに停車ていしゃちゅうのイースタン&オリエンタル・エクスプレス

シルバースターよう客車きゃくしゃ大半たいはんがタイへ輸出ゆしゅつされ、うち24りょうがアスベスト除去じょきょ塗装とそう変更へんこう軌間きかん変更へんこう内装ないそうなどだい規模きぼ改造かいぞうけて1993ねん9月から営業えいぎょう運転うんてん開始かいしした[30]

2019ねん現在げんざい展望てんぼうしゃ食堂しょくどうしゃ電源でんげんしゃふくめた17りょう編成へんせい毎年まいとし9月から翌年よくねん4がつまで定期ていき運転うんてんいている[31][32]

チャイナ・オリエント急行きゅうこう[編集へんしゅう]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく鉄道てつどうでは、シルクロード沿いで「チャイナ・オリエント急行きゅうこう運行うんこうされている。これは、カナダ旅行りょこう会社かいしゃ中国ちゅうごく国鉄こくてつもと貴賓きひんしゃ観光かんこうようり、北京ぺきんウルムチとのあいだ運行うんこうおこなうツアーの名称めいしょうで、1990ねんからおこなわれている。

ロイヤル・オリエント・トレイン[編集へんしゅう]

また、インドの鉄道てつどうでは豪族ごうぞくマハーラージャの専用せんよう列車れっしゃ復元ふくげんした宮殿きゅうでん列車れっしゃ1995ねんからロイヤル・オリエント・トレイン名前なまえ運行うんこうされている。これは、デリーからアラビアかいめんしたマハーラージャゆかりの各地かくちまでのやく1,400キロを7はく8にちかけて往復おうふくする観光かんこう列車れっしゃで、途中とちゅう各地かくち下車げしゃしての観光かんこうまれている。

きたアメリカの観光かんこう列車れっしゃ[編集へんしゅう]

「オリエント急行きゅうこう」の名前なまえかんした観光かんこう列車れっしゃきたアメリカにも存在そんざいする。これらは東洋とうようには関係かんけいがないが、かつての鉄道てつどう黄金おうごん時代じだい車両しゃりょう復元ふくげんしたというてんでヨーロッパの「オリエント急行きゅうこう」とている。

きたアメリカの「オリエント急行きゅうこう」は2列車れっしゃ存在そんざいする。

アメリカン・オリエント急行きゅうこう
ひとつは、オレゴン・レイルホールディングスしゃ所有しょゆうする「アメリカン・オリエント急行きゅうこうである。1950ねん前後ぜんご運行うんこうされていたアメリカのながれ線形せんけい客車きゃくしゃ改造かいぞう観光かんこう列車れっしゃ仕立したてたもので、ニューヨーク・セントラル鉄道てつどうの「20世紀せいき特急とっきゅう」で運用うんようされていたりゅう線形せんけい展望てんぼうしゃやミルウォーキー鉄道てつどう運用うんようされていたスーパードームしゃなど、アメリカの鉄道てつどう黄金おうごん時代じだいかく鉄道てつどう有名ゆうめい客車きゃくしゃまれている。きたはカナダ、みなみはメキシコまであしばすが、走行そうこうするルートはほぼまっており、ぶしおうじたツアーが設定せっていされている。しかし、2008ねんごろに運営うんえいしていた企業きぎょう経営けいえい破綻はたんし、運行うんこう休止きゅうし余儀よぎなくされた。
その、アメリカン・オリエント急行きゅうこう使用しようされていた客車きゃくしゃは、あらたな運営うんえい企業きぎょうもとで「グランドルクス・エクスプレス(Grand Luxe Express)」として現在げんざい使用しようされている[33]現在げんざい、おもなコースとしてデンバーサンフランシスコむすぶルートで運行うんこうされている。
サウス・オリエント急行きゅうこう
もうひとつは、「サウス・オリエント急行きゅうこうである。「シエラマドレ急行きゅうこう正式せいしき名称めいしょう。「アメリカン・オリエント急行きゅうこう」ほどはられていないが、やはりかつてのりゅう線形せんけい車両しゃりょう復元ふくげんし、コッパー・キャニオンいきをのむような景色けしきながめることを目当めあてとした観光かんこう列車れっしゃで、1980年代ねんだいから2009ねんまでメキシコ北部ほくぶ運行うんこうおこなった[34]

そのの「オリエント急行きゅうこう[編集へんしゅう]

オリエントをかんした列車れっしゃとしては、上記じょうき一連いちれんの「オリエント急行きゅうこう」のほか、アメリカの鉄道てつどう会社かいしゃのひとつであるグレート・ノーザン鉄道てつどうげんBNSF鉄道てつどう)の「オリエンタル特急とっきゅうen:Oriental Limited)」という列車れっしゃげることができる。この列車れっしゃは、1890年代ねんだいから1930年代ねんだいにかけてシカゴ - シアトルあいだ運行うんこうされていたが、シアトルでは日本郵船にっぽんゆうせん太平洋たいへいよう航路こうろ連絡れんらくしており、アメリカと東洋とうようむす列車れっしゃとして機能きのうしていた。

このほかにも施設しせつとして利用りようされたものとして、かつて滋賀しがけん大津おおつ存在そんざいした紅葉こうようパラダイスに「オリエント急行きゅうこうホテル」が存在そんざいした。きゅう西にしドイツの蒸気じょうき機関きかんしゃと、ワゴン・リのLXタイプ寝台しんだいしゃすうりょう線路せんろうえった状態じょうたいで、ホテル敷地しきちない宿泊しゅくはく施設しせつとして使用しようされていたが、のちに老朽ろうきゅうのためすべて解体かいたい撤去てっきょされてしまった。ホテルもその廃業はいぎょうしている。この施設しせつ妹尾せのお河童かっぱ書籍しょせきにも紹介しょうかいされたことがある。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1872ねん - 国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ設立せつりつ
  • 1883ねん
    • 10月4にち - パリはつコンスタンチノープル(げんイスタンブールき(一部いちぶ船舶せんぱく連絡れんらく)「オリエント急行きゅうこう開通かいつう記念きねん列車れっしゃ運転うんてん
    • 10月25にち - 定期ていき列車れっしゃとして運行うんこう開始かいし
  • 1889ねん - コンスタンチノープルまでの直通ちょくつう運転うんてん実現じつげんする。
  • 1914ねん - だいいち世界せかい大戦たいせんのため運行うんこう休止きゅうし
  • 1919ねん
    • 1がつ18にち - 「軍用ぐんよう豪華ごうか列車れっしゃ」として運行うんこう再開さいかい
    • 4がつ - 「シンプロン・オリエント急行きゅうこう」、パリ - ベオグラードあいだ運行うんこう開始かいし
  • 1920ねん - 「シンプロン・オリエント急行きゅうこう」、イスタンブールまでの直通ちょくつう運転うんてん開始かいし
  • 1924ねん - ミュンヘン経由けいゆの「オリエント急行きゅうこう運行うんこう再開さいかい
  • 1932ねん - 「アールベルク・オリエント急行きゅうこう登場とうじょう
  • だい世界せかい大戦たいせんなか運行うんこう休止きゅうし
  • 1945ねん11月 - 「シンプロン・オリエント急行きゅうこう運行うんこう再開さいかい
  • 1946ねん - 「オリエント急行きゅうこう」、「アールベルク・オリエント急行きゅうこう運行うんこう再開さいかい
  • 1962ねん5月26にち - 「シンプロン・オリエント急行きゅうこう」、「アールベルク・オリエント急行きゅうこう」は区間くかん短縮たんしゅくのうえ「シンプロン急行きゅうこう」、「アールベルク急行きゅうこう」と改名かいめい。パリ - イスタンブール、アテネあいだで「ダイレクト・オリエント急行きゅうこう運行うんこう開始かいし
  • 1971ねん - 国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ鉄道てつどう事業じぎょうから撤退てったい。ヨーロッパ寝台しんだいしゃプール発足ほっそく
  • 1977ねん - スイスのインターフルークしゃの「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行きゅうこう(NIOE)」運行うんこう開始かいし
  • 1977ねん5月 - 「ダイレクト・オリエント急行きゅうこう廃止はいし。パリ - イスタンブールあいだ定期ていき列車れっしゃ全廃ぜんぱい
  • 1982ねん5月25にち - オリエント・エクスプレス・ホテルズしゃの「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス(VSOE)が運行うんこう開始かいし
  • 1988ねん - ORIENT EXPRESS '88 運転うんてん。NIOEがパリ - 香港ほんこんあいだおよび日本にっぽんのJRせん走行そうこう
  • 1993ねんなつ - 「イースタン・オリエンタル・エクスプレス(E&O)」運行うんこう開始かいし
  • 2001ねん6がつ - 定期ていき列車れっしゃの「オリエント急行きゅうこう」、パリ - ウィーンあいだ短縮たんしゅく
  • 2007ねん6がつ - 定期ていき列車れっしゃストラスブール - ウィーンあいだ短縮たんしゅく
  • 2009ねん12月 - 定期ていき列車れっしゃ廃止はいし

オリエント急行きゅうこう題材だいざいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

イスタンブール直通ちょくつうの「オリエント急行きゅうこう」は、上流じょうりゅう貴顕きけん乗車じょうしゃおおく、東洋とうようつらなる列車れっしゃであることから、エキゾチシズムをともなった豪奢ごうしゃものというイメージが世界せかいてきひろ敷衍ふえんしていた。また国際こくさいてき紛争ふんそう多発たはつ地域ちいきであるバルカン半島ばるかんはんとう経由けいゆルートとしており、だい世界せかい大戦たいせん東西とうざい冷戦れいせんしたにはイデオロギーの相違そういする多数たすう国々くにぐに貫通かんつうして運行うんこうされた。

このような特徴とくちょうは、ふるくから興味深きょうみぶか題材だいざいとして作家さっかたちの関心かんしんあつめることにもなり、しばしば小説しょうせつの「はし舞台ぶたい」にげられた。モーリス・デコブラの『寝台しんだいしゃのマドンナ』(1925ねん)にはオリエント急行きゅうこうをはじめとする寝台しんだい列車れっしゃ登場とうじょうする[7]グレアム・グリーンによる群像ぐんぞう劇的げきてき小説しょうせつ『スタンブール特急とっきゅう』(1932ねん)は、イスタンブールゆきのオーステンデ・ウィーン・オリエント急行きゅうこう舞台ぶたいである[7]。またアガサ・クリスティは、考古こうこ学者がくしゃであるおっとマックス・マローワン中東ちゅうとう方面ほうめんおもむさいに、たびたびシンプロン・オリエント急行きゅうこう同伴どうはんして乗車じょうしゃしたといい、どう急行きゅうこう舞台ぶたいとした『オリエント急行きゅうこう殺人さつじん』を1934ねん発表はっぴょうしている。この作品さくひん1974ねんシドニー・ルメット監督かんとく映画えいがされており、蒸気じょうき機関きかんしゃはフランス国鉄こくてつ動態どうたい保存ほぞんしていた230G-353を利用りようした。この機関きかんしゃすんでじゅつとおり、1988ねん日本にっぽんまではしったノスタルジー・イスタンブール・オリエントエクスプレスのパリ発車はっしゃのスタートをかざ機関きかんしゃとして、その大役たいやくたしている。

一方いっぽうひがしヨーロッパがわからは、オリエント急行きゅうこう批判ひはんてきえがいた作品さくひん存在そんざいする。ブルガリアの作家さっかアーレコ・イワニコフ・コンスタンティノフの小説しょうせつ『バイ・ガーニュ』(1895ねん)はオリエント急行きゅうこうった成金なりきん商人しょうにん風刺ふうしてきえがいている[7]

だい世界せかい大戦たいせんには、イアン・フレミングスパイ小説しょうせつ007シリーズ」のひとつとして『ロシアからあいをこめて』(1957ねん)をいている。作中さくちゅうジェームス・ボンドはイスタンブールからディジョンまでシンプロン・オリエント急行きゅうこう乗車じょうしゃする。この小説しょうせつはのちに1963ねんショーン・コネリー主演しゅえんで『007 ロシアよりあいをこめて』として映画えいがされており、「オリエント急行きゅうこう」でのシーンものひとつとしてえがかれている。

また、この列車れっしゃ題材だいざいとした音楽おんがくとしては、イギリスの作曲さっきょく フィリップ・スパークによるブラスバンド編成へんせい作品さくひん『オリエント急行きゅうこう(Orient Express)』(1986ねん)がひろられる。このきょくはスパークの代表だいひょうきょくのひとつとされ、欧州おうしゅう放送ほうそう連合れんごう(EBU)のNew Music for Band Competitionでだい1獲得かくとくした。急行きゅうこう列車れっしゃ出発しゅっぱつから到着とうちゃくまでの様々さまざま場面ばめん音楽おんがくによってえがいた、かがやかしい曲想きょくそう特徴とくちょうとする楽曲がっきょくである。きょくは、出発しゅっぱつ走行そうこう到着とうちゃくとうにおける蒸気じょうき機関きかんしゃ走行そうこうおん汽笛きてきおと車掌しゃしょうふえおとなどが描写びょうしゃされ、旅情りょじょうつたえる一方いっぽう中間なかまでは、故郷こきょうへの郷愁きょうしゅう想起そうきさせるようなやや感傷かんしょうてき旋律せんりつ登場とうじょうする。10ふんらずの単一たんいつ楽章がくしょう楽曲がっきょくで、オリエント急行きゅうこうたびえがくこのきょくは、のちに作曲さっきょくしゃスパーク自身じしんによって吹奏楽すいそうがく編成へんせいへも編曲へんきょくされており、日本にっぽん国内こくないにおいても各種かくしゅ学校がっこうから市民しみんバンドにいたるまでおおくの楽団がくだんによってコンサートやコンクールなどのにて頻繁ひんぱん演奏えんそうされ、人気にんきがある。このほかジャズ/フュージョン楽曲がっきょくにもジョー・ザヴィヌルが「Orient Express」という楽曲がっきょく作曲さっきょくしている。

日本にっぽん国内こくない発行はっこうされた漫画まんが月館つきだて殺人さつじん』(原作げんさくあやつじ行人こうじん作画さくが佐々木ささき倫子ともこ)では、物語ものがたり舞台ぶたいとなる夜行やこう列車れっしゃまぼろしよるごう」の車両しゃりょう接客せっきゃくサービスの参考さんこうにされている。また、オリエント急行きゅうこう舞台ぶたいとしたサスペンス仕立したての漫画まんがマダム・プティ』(高尾たかおしげる)もある。ギャンブル漫画まんが100まん$キッド』(石垣いしがきゆうき原案げんあん協力きょうりょく宮崎みやざきまさる)のだい65熱闘ねっとう!!オリエント急行きゅうこう!!のまき)からだい71では、オリエント急行きゅうこうないでのスタッド・ポーカー対決たいけつえがかれている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1883ねん6がつ5にち国際こくさい寝台しんだいしゃ会社かいしゃ旧式きゅうしき客車きゃくしゃ運転うんてんされた列車れっしゃ最初さいしょのオリエント急行きゅうこうとする見方みかたもある[8]
  2. ^ この報道ほうどうけ、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス (VSOE) が廃止はいしされるとの誤解ごかい日本にっぽん一部いちぶしょうじたが、VSOEを運行うんこうするオリエント・エクスプレス・ホテルズしゃはこれを否定ひていし、VSOEは今後こんご運行うんこうされるとしている[18]
  3. ^ 運行うんこう開始かいしブローニュ=シュル=メール
  4. ^ 切手きってだいはVSOEが負担ふたんする。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e Guizol
  2. ^ a b Calder, Simon (Saturday, 22 August 2009). “Murder of the Orient Express” (英語えいご). The Independent. http://www.independent.co.uk/travel/news-and-advice/murder-of-the-orient-express-1775809.html 2009ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  3. ^ 平井ひらい pp. 269-271
  4. ^ a b c d e f g 平井ひらい
  5. ^ 小池こいけしげる 「オリエント急行きゅうこうひゃくねん歴史れきし教育きょういくしゃへん『オリエント急行きゅうこう
  6. ^ BLOWITZ, HENRI GEORGES STEPHAN ADOLPHE OPPER DE: JewishEncyclopedia.com, The unedited full-text of the 1906 Jewish Encyclopedia
  7. ^ a b c d e バースレイ
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  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 窪田くぼた太郎たろう 「オリエント急行きゅうこうひゃくねん」『オリエント急行きゅうこう新潮社しんちょうしゃ
  11. ^ a b Koschinski p.36
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  13. ^ a b Koshinski pp.88 - 89
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  15. ^ 妹尾せのお河童かっぱ「『ブルーのプリマドンナ』へあいをこめて」 『オリエント急行きゅうこう新潮社しんちょうしゃ
  16. ^ Malaspina p. 112
  17. ^ 12 killed in French train fire - イギリス・インディペンデント 電子でんしばん - 2002ねん11月6にち作成さくせい・2020ねん4がつ29にち閲覧えつらん
  18. ^ オリエント・エクスプレスにかんする一連いちれん誤認ごにん報道ほうどうについて”. 2009ねん9がつ8にち閲覧えつらん
  19. ^ a b c d e f g 山之内やまのうち秀一郎しゅういちろう車両しゃりょう歴史れきし変遷へんせん教育きょういくしゃへん『オリエント急行きゅうこう
  20. ^ 平井ひらい pp. 261-263
  21. ^ Malaspina p.96
  22. ^ a b c d Koschinski pp.76-77
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  24. ^ 乗車じょうしゃまえに - よくある質問しつもん”. 2010ねん11月15にち閲覧えつらん
  25. ^ a b 櫻井さくらい
  26. ^ 料金りょうきん&スケジュール”. 2010ねん11月15にち閲覧えつらん
  27. ^ Suzanne Rowan Kelleher (2023ねん4がつ26にち). “「そしてオリエント急行きゅうこうもなくなった」ブレグジットの余波よはえい鉄道てつどうたびにも”. Forbes JAPAN 公式こうしきサイト(フォーブス ジャパン). 2023ねん4がつ27にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 平井ひらいただし『オリエント急行きゅうこう時代じだい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2006ねんISBN 978-4-12-101881-6 
  • Malaspina, Jean-Pierre (2006). Trains d'Europe -Tome 2-. Paris: La Vie du Rail. ISBN 2-915034-49-4 
  • Guizol, Alban (2005). La Compagnie International des Wagons-lits. Chanac: La Régordane. ISBN 2-906984-61-2 
  • 櫻井さくらいひろし『オリエント急行きゅうこうたび世界文化社せかいぶんかしゃ、1997ねん 
  • 教育きょういくしゃ へん『オリエント急行きゅうこう教育きょういくしゃ東村山ひがしむらやま〈Comon sense books〉、1985ねん8がつ 
  • 窪田くぼた太郎たろう 『オリエント急行きゅうこう新潮社しんちょうしゃ東京とうきょう〈とんぼのほん〉、1984ねん1がつISBN 978-4-106-01907-4 
  • マイケル・バースレイ(Michael Barsley) ちょ河合かわいしん やく旅愁りょしゅうオリエント急行きゅうこう - 華麗かれい欧州おうしゅう鉄道てつどう風俗ふうぞく(Orient Express: The Story of the World's Most Fabulous Train)』世紀せいきしゃ東京とうきょう、1978ねん9がつ1にち原著げんちょ1966ねん1がつ1にち)。 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]