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ジャコバン

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ジャコバンとうから転送てんそう
ジャコバン協会きょうかい自由じゆう平等びょうどうとも
憲法けんぽうともかい
ジャコバン
Société des Jacobins, Amis de la Liberté et de l’Égalité
Société des Amis de la Constitution
Club des Jacobins
ジャコバンのシール
前身ぜんしん ブルトン・クラブ[1][2]
後継こうけい フイヤン(1791ねん7がつ[2]
ジロンド(1792ねんあき[1]
パンテオン・クラブ(1795ねん[3]
自由じゆう平等びょうどうともかい(1799ねん[2][3]
設立せつりつ 1789ねん11月[2]
設立せつりつ フランス王国おうこく パリ サントノレどお ジャコバン修道院しゅうどういんフランス語ふらんすごばん[2][4]
解散かいさん 1794ねん11月11にち[2]
種類しゅるい 政治せいじ結社けっしゃ[1][2][5]
院外いんがいクラブ[2]
政治せいじ党派とうは[6]
本部ほんぶ ジャコバン修道院しゅうどういんフランス語ふらんすごばん[1][5][6]
貢献こうけん地域ちいき フランス王国おうこく
フランス立憲りっけん王国おうこく
フランスだいいち共和きょうわせい
組織そしきてき方法ほうほう 議事ぎじ事前じぜん討議とうぎ最初さいしょ[7]
恐怖きょうふ政治せいじによる独裁どくさい山岳さんがく[1]
民衆みんしゅう運動うんどう[4]
急進きゅうしんてき改革かいかく[5]
会員かいいんすう
500,000めいほど(1793ねん名目めいもくじょう[3][8]
公用こうよう フランス語ふらんすご
指導しどうしゃ マクシミリアン・ロベスピエール[6]
ジョルジュ・ダントン[6]
ジャン=ポール・マラー[6]
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ジャコバン(ジャコバンは、フランス語ふらんすご: Jacobins[1][6], IPA: [ʒakɔbɛ̃][9]; Club des Jacobins[3][4][7][9]英語えいご: Jacobins, Jacobin Club[3])とは、フランス革命かくめい政治せいじ結社けっしゃである[2]通称つうしょう由来ゆらいパリサントノレどおジャコバン修道院しゅうどういんフランス語ふらんすごばん[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]本部ほんぶとしたことによるが[1]正式せいしき名称めいしょうは「憲法けんぽうともかい[1]Société des Amis de la Constitution[3][注釈ちゅうしゃく 3]、「ジャコバン協会きょうかい自由じゆう平等びょうどうとも[注釈ちゅうしゃく 4][4][7]Société des Jacobins, Amis de la Liberté et de l’Égalité[3][注釈ちゅうしゃく 5]である。

後述こうじゅつのように内容ないよう時期じきによってことなるが、マクシミリアン・ロベスピエール中心ちゅうしんとなって急進きゅうしんてき革命かくめい推進すいしんおこなった時期じき有名ゆうめい。フランス革命かくめい主導しゅどうした主流しゅりゅうで、恐怖きょうふ政治せいじ活躍かつやくし、テルミドールのクーデター以降いこう一転いってん没落ぼつらくみちをたどる。国民こくみん公会こうかいひだりせきすわったことから左翼さよく語源ごげんとなり、恐怖きょうふ政治せいじふつ: La Terreurえい: Reign of Terror)は、テロ、テロリズム語源ごげんとなった。

定義ていぎ[編集へんしゅう]

ジャコバン本拠地ほんきょちとしたジャコバン修道院しゅうどういん

元々もともとは、ジャコバン・クラブというさまざまな思想しそう人々ひとびとあつまる政治せいじクラブであった。この政治せいじクラブはフランス全国ぜんこく支部しぶをもち、組織そしきてき革命かくめい推進すいしんした。しかし、革命かくめいるにつれて信念しんねん政策せいさくによって分裂ぶんれつし、まず立憲りっけん君主くんしゅであるフイヤンが、ついで穏健おんけん共和きょうわであるジロンドがこのクラブから脱退だったいし、最終さいしゅうてき山岳さんがくMontagnardsモンタニャールモンターニュとも)とばれる急進きゅうしん共和きょうわ集団しゅうだんがジャコバン・クラブにのこり、主導しゅどうけんにぎる(みぎ参照さんしょうのこと)。

そのため、まれに広義こうぎ意味いみとしてジャコバン・クラブにぞくしていた市民しみん、またはたん革命かくめい支持しじする革命かくめいしてジャコバンということもあるが、一般いっぱんてきには後者こうしゃ急進きゅうしん共和きょうわ山岳さんがく)をしてもちいられる。実際じっさいラファイエットブリッソーなどのフイヤン・ジロンド代表だいひょうかく一時期いちじきジャコバン・クラブにぞくしていたが、かれらをして「ジャコバンである」とうことは(まぎらわしいため)まずない。ただしジロンドがジャコバンの一部いちぶであるというかんが自体じたい間違まちがいではない。

一方いっぽうで、急進きゅうしん共和きょうわクラブであるコルドリエ・クラブけい急進きゅうしん共和きょうわ主義しゅぎしゃたち(コルドリエ)にたいしてもちいる場合ばあいもある。この場合ばあいはクラブのちがいを意識いしきして区別くべつされるだけであり、両者りょうしゃ立場たちばてきちがいがはっきりあるわけではない。

経緯けいい[編集へんしゅう]

設立せつりつ[編集へんしゅう]

ジャコバン・クラブの変遷へんせん

さん部会ぶかいだいさん身分みぶん議員ぎいんのうち、ブルターニュ出身しゅっしん議員ぎいん構成こうせいされたブルトン・クラブ原型げんけいである。ヴェルサイユ行進こうしんののち、ジャコバン修道院しゅうどういん集会しゅうかいおこなわれるようになり、ジャコバン・クラブとばれるようになる。

ジャコバン成立せいりつまで[編集へんしゅう]

立憲りっけん君主くんしゅ(フイヤン)の脱退だったい[編集へんしゅう]

1790ねんの3〜6がつにかけて、ラファイエットやバイイら立憲りっけん君主くんしゅはジャコバン・クラブから脱退だったいし、89ねんクラブを創設そうせつした。一方いっぽう、ジャコバン・クラブないでは1791ねん6月の、ルイ16せい一家いっか国外こくがい逃亡とうぼう未遂みすいヴァレンヌ事件じけん)や7がつシャン・ド・マルスの虐殺ぎゃくさつに、国王こくおう責任せきにん追及ついきゅうする左派さはと、議会ぎかい国王こくおう共存きょうぞんさせようとする右派うは対立たいりつした。

この時期じき、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟きょうだいなどの右派うは(つまりさんとう)がジャコバン・クラブから相次あいついで脱退だったい。これにさきの89ねんクラブが合流ごうりゅうし、フイヤン・クラブ(フイヤン)が創設そうせつされた。この時点じてんでジャコバン・クラブからは立憲りっけん君主くんしゅえ、のこったのは、穏健おんけんおよ急進きゅうしんてき共和きょうわとなった。

穏健おんけん共和きょうわ(ジロンド)の脱退だったい[編集へんしゅう]

8がつ10日とおか事件じけん

1792ねんヨーロッパ諸国しょこくとの戦争せんそう気運きうんたかまる。それにたいし、ジャコバン・クラブないでは、主戦しゅせん反戦はんせんとの対立たいりつはじまる。この対立たいりつは、主戦しゅせん穏健おんけん共和きょうわ(ジロンド)、反戦はんせん急進きゅうしん共和きょうわ(ジャコバン)という構図こうずであったが、議会ぎかいでは主戦しゅせんのジロンド実権じっけんにぎり、4がつ20日はつかオーストリアたいし、宣戦せんせん布告ふこくした。しかし、破産はさん状態じょうたいのフランスは戦備せんびととのっておらず、兵士へいし訓練くんれんで、革命かくめい余波よは軍隊ぐんたいおよんで指揮しき系統けいとう機能きのうしないフランスぐん敗戦はいせんかさねる(またこのとき、王妃おうひマリー・アントワネットがフランスぐん作戦さくせんてきぐん提供ていきょうしていたとわれている。)

プロシアぐん参戦さんせんするなどの情勢じょうせい変化へんか度重たびかさなる敗戦はいせんなか拒否きょひけん発動はつどうするルイ16せいによって国政こくせい停滞ていたいしたため、反戦はんせん中心ちゅうしんであったロベスピエールやダントンマラー主導しゅどうし、8がつ10日とおか事件じけん王権おうけん廃止はいし要求ようきゅう実現じつげんさせる。

やがて、国民こくみん公会こうかいのついた議会ぎかい召集しょうしゅうされる。この時点じてんでジャコバン・クラブにはジロンド・ジャコバンりょう派閥はばつ議員ぎいんじって在籍ざいせきしていたが、ボルドークラブの人脈じんみゃくブルジョワ支持しじ基盤きばんとするジロンドと、民衆みんしゅう支持しじ基盤きばんとする山岳さんがくとの対立たいりつ深刻しんこくになっており、ブリッソーを指導しどうしゃとするジロンドは、10がつ以降いこう次々つぎつぎとジャコバン・クラブから脱退だったいする。

こうしてジャコバン・クラブにのこったのは急進きゅうしん共和きょうわだけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバンべる状況じょうきょうとなる。また、急進きゅうしん共和きょうわ議員ぎいんおおくは議会ぎかい議場ぎじょう後方こうほうたか位置いち陣取じんどったため、山岳さんがくともばれた。

山岳さんがく独裁どくさい[編集へんしゅう]

ジロンド追放ついほう[編集へんしゅう]

国王こくおう裁判さいばんでも対立たいりつしたジロンド・ジャコバン両派りょうはであったが、国民こくみん投票とうひょう執行しっこう猶予ゆうよなどにこだわったジロンドたいして、ロベスピエールや、サン=ジュストといった山岳さんがく明確めいかく主張しゅちょうまさり、1793ねん1がつ21にち国王こくおう処刑しょけいいたる。国外こくがいではぜんヨーロッパをてきにし、国内こくないでは大衆たいしゅう人気にんきうしない、山岳さんがく圧倒あっとうされはじめたジロンドは、山岳さんがく主要しゅよう人物じんぶつ拘束こうそくはかるが、マラーやエベールにたいしておこなわれた裁判さいばんはいずれも無罪むざいとなり、法廷ほうてい闘争とうそうでも敗北はいぼくした。

エベールやアンラジェを中心ちゅうしんにしてコミューンが暴動ぼうどう(いわゆる五月ごがつ蜂起ほうき)をあおるようになると、ジロンド攻撃こうげきまと山岳さんがくしぼるが5月26にちにロベスピエールがジャコバン・クラブでおこなった演説えんぜつによって失脚しっきゃく。5月31にち~6がつ2にちにかけて、機能きのう不全ふぜんとなった政府せいふいかりをつのらせた民衆みんしゅう武装ぶそう蜂起ほうきこり、ジロンド国民こくみん公会こうかいより武力ぶりょく追放ついほうされ、さらに逮捕たいほ処刑しょけいされた。ここに、ジャコバン主導しゅどうする体制たいせい確立かくりつする。

ジャコバン内部ないぶでの派閥はばつ闘争とうそう[編集へんしゅう]

やがて憲法けんぽう停止ていしされ、ロベスピエールもぞくしただい公安こうあん委員いいんかい革命かくめい遂行すいこうのため、あらゆる権限けんげんゆうするようになる。次第しだいかれらによる委員いいんかい独裁どくさいはじまり、内戦ないせん激化げきかによってはん革命かくめい粛清しゅくせいといった必要ひつようから、非常ひじょう手段しゅだんとしての恐怖きょうふ政治せいじもとめるこえがパリではつよくなっていく。しかし次第しだいにそれが急進きゅうしん過激かげきするとおおくの無関係むかんけい市民しみん処刑しょけいされるようにと変貌へんぼうしていった。

大胆だいたん政策せいさく実行じっこうや、はん革命かくめい粛清しゅくせいにより、一応いちおう安定あんていをみたフランス国内こくないであったが、ジャコバン内部ないぶ恐怖きょうふ政治せいじたいする見解けんかい相違そういから、恐怖きょうふ政治せいじ緩和かんわもとめる寛容かんよう(ダントン右派うは)と、恐怖きょうふ政治せいじをより強化きょうかするようにもとめる矯激きょうげき(エベール左派さは)が山岳さんがく分裂ぶんれつする。両派りょうはあいだ山岳さんがくない中道ちゅうどう左派さは(ロベスピエール)は、分裂ぶんれつした双方そうほう派閥はばつをそれぞれ粛清しゅくせいし、みずからの影響えいきょうりょく強化きょうかさせて、みずからの政策せいさくおも貧者ひんじゃ対策たいさくで、しょう土地とち所有しょゆう農民のうみん形成けいせいにあったとされる)を実現じつげんさせようと、恐怖きょうふ政治せいじ継続けいぞくさせた。

テルミドールのクーデタ

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

ロベスピエール少数しょうすうグループで、もともと支持しじ基盤きばんよわかったが、極端きょくたん権力けんりょく集中しゅうちゅう恐怖きょうふ政治せいじ実行じっこうにより、名目めいもくてき主導しゅどうてき地位ちいにあったロベスピエール非難ひなん矛先ほこさきくようになり、最高さいこう存在そんざい祭典さいてんやカトリーヌ・テオのかみはは事件じけんなどで、ロベスピエールが独裁どくさいしゃとなり、国王こくおう目指めざしているのではないかというあらぬ疑念ぎねんひろまって、次第しだい孤立こりつしていった。やがてテルミドールのクーデターこり、ロベスピエールが失脚しっきゃくすると、同年どうねん11がつにジャコバン・クラブが閉鎖へいさされる。政権せいけんにしたテルミドール右派うは転向てんこうして反動はんどう政治せいじおこなったため、総裁そうさい政府せいふ時代じだいにも、ジャコバン残党ざんとう左派さは勢力せいりょく徹底てっていした粛清しゅくせいけた。

1795ねん、すべての政治せいじクラブの活動かつどう禁止きんしされると、地方ちほう存在そんざいしていたジャコバン勢力せいりょく急速きゅうそく衰退すいたいする。ただしナポレオンによるブリュメールのクーデター1799ねんにはフランス全土ぜんどにおよそいちまんにんのジャコバンとされるじつ勢力せいりょくはあった。しかしナポレオン体制たいせいでもつづ弾圧だんあつけ、政治せいじてき勢力せいりょくとしての存在そんざい消滅しょうめつした。

ジャコバン思想しそうそのものはバブーフ共産きょうさん主義しゅぎ先駆せんくとされるネオ・ジャコバンや、フランス7がつ革命かくめい1848ねん革命かくめいなどの19世紀せいきしょ革命かくめいとおしてがれ、共産きょうさん主義しゅぎ思想しそうロシア革命かくめいがれるのであった。

政策せいさく[編集へんしゅう]

1793ねん通称つうしょうジャコバン憲法けんぽうばれる憲法けんぽう採択さいたくされる。これはジャコバン・山岳さんがく理想りそう反映はんえいされたはつ普通ふつう選挙せんきょもとにする憲法けんぽうであったが、国内外こくないがい戦争せんそうのために、結局けっきょく選挙せんきょおこなえず、施行しこうされることもなかった。公安こうあん委員いいんかい中心ちゅうしんにして、一般いっぱん最高さいこう価格かかくほうフランス語ふらんすごばん革命かくめいれき採用さいようなどがおこなわれていった。

1794ねん2がつ4にちにプリュヴィオーズ16にちほう可決かけつし、ぜんフランスりょうでの奴隷どれいせい廃止はいし決議けつぎした[注釈ちゅうしゃく 6]。この決議けつぎけてサン=ドマング実力じつりょくしゃトゥーサン・ルーヴェルチュール[注釈ちゅうしゃく 7]はフランスへの帰属きぞくめた。

ジャコバン内部ないぶにおける党派とうは[編集へんしゅう]

ないでの対立たいりつ深刻しんこくになる以前いぜんは、マラーダントンロベスピエールの3にんして「ジャコバンさん巨頭きょとう」とんだ。

エベール矯激きょうげき[編集へんしゅう]

矯激きょうげき領袖りょうしゅうかくとされたエベール

急進きゅうしん左派さはで、極左きょくさ勢力せいりょく別名べつめい矯激きょうげき主要しゅようなメンバーの一人ひとりであるジャック・ルネ・エベールかんするが、とくにリーダーは不在ふざい政策せいさく曖昧あいまいで、矯激きょうげきかえ分子ぶんしわれたのは、アジテーションだけで内容ないようがなかったことに由来ゆらいする。教養きょうようサン・キュロット下層かそう貧民ひんみん支持しじ基盤きばんとしており、むしろ議会ぎかいそと、パリ・コミューンにつよ勢力せいりょくっていた。しばしば革命かくめい政府せいふを「なまぬるい」として非難ひなんし、さらなる革命かくめい推進すいしん(つまり恐怖きょうふ政治せいじ強化きょうか)を要求ようきゅう。エベールの発行はっこうする新聞しんぶんデュシェーヌ親父おやじ』をとおして人気にんき獲得かくとくし、一方いっぽう新聞しんぶんぐん専売せんばいすることでの不正ふせい蓄財ちくざいもあり、議会ぎかい転覆てんぷくねらって民衆みんしゅう蜂起ほうき(いわゆる三月さんがつ蜂起ほうき)をうながすなどしたため、ロベスピエールのみならずほかすべての党派とうはから危険きけんされ、粛清しゅくせいされた。また、きたな野次やじもない告発こくはつおこな議員ぎいんおおく、そのてんもロベスピエール個人こじんからきらわれる原因げんいんとなった。

アナカルシス・クローツ英語えいごばんかみろんしゃ理論りろんてき指導しどうしゃのなかにおり、はんキリスト教きりすときょう政策せいさくかかげて、「理性りせい崇拝すうはい」をすすめたのもこのグループ。またマリー・アントワネット処刑しょけい、ジロンド追放ついほう、ヴァンデでの虐殺ぎゃくさつでも主導しゅどうてき役割やくわりたした。メンバーは名前なまえをギリシャめいえたという特徴とくちょうがある。ジャック・ルーら「アンラジェ」(過激かげき/激昂げっこうがい勢力せいりょく)とはかんがえはちかいが、両派りょうは対立たいりつ関係かんけいにあった。

ダントン寛容かんよう[編集へんしゅう]

寛容かんよう領袖りょうしゅうダントン

ジャコバンの右派うは勢力せいりょく別名べつめい寛容かんようジョルジュ・ダントン領袖りょうしゅうに、カミーユ・デムーラン、エドー・ド・セシェルなども有力ゆうりょくなメンバー。さけおんな、ギャンブルなどで人生じんせいたのしんでいた享楽きょうらくてき人物じんぶつおおいのが特徴とくちょう。ジャコバンを支持しじするブルジョワそうとのつながりがふかく、ジャコバン(ないしコルドリエ)のなかではもっと穏健おんけんなグループである。ジロンドとのこうそうさいには、ジロンド内閣ないかくでは入閣にゅうかくしたこともあったため、かれらとの融和ゆうわつとめたが、ダントンらの努力どりょくはジロンド議員ぎいんによって拒絶きょぜつされて無駄むだになった。ダントンはげしく敵対てきたいしたエベール処刑しょけいさきんじてこれに寛容かんよう態度たいど要求ようきゅうしたことでられ、恐怖きょうふ政治せいじ終了しゅうりょうや、フランス革命かくめい戦争せんそう終結しゅうけつなどを主張しゅちょうした。しかしいま改革かいかくなかばで、革命かくめい継続けいぞくをはかるロベスピエール直接的ちょくせつてきにはサン=ジュスト)は、主導しゅどうけんうばわれることをおそれて、おう党派とうはとの内通ないつうざいという事実無根じじつむこんつみをでっちげて、粛清しゅくせいすることにした。

リーダーであるダントンは個人こじんてき人気にんきがあり、民衆みんしゅうへの影響えいきょうりょくおおきかった。またダントンやデムーランは、個人こじんてきにはロベスピエールとは親友しんゆう関係かんけいにあった。そのためかれらの粛清しゅくせいめたロベスピエールは逮捕たいほさいして顔面がんめん蒼白そうはくになったとわれる。バラスとフレロンはダントンのこりであり、テルミドールのクーデタではかれらには個人こじんてき復讐ふくしゅうという動機どうきもあった。

ロベスピエール中道ちゅうどう左派さは[編集へんしゅう]

中道ちゅうどう左派さは領袖りょうしゅうロベスピエール

便宜べんぎてき中道ちゅうどうばれることがあるが、実際じっさい中道ちゅうどう平原へいげんである[注釈ちゅうしゃく 8]厳密げんみつにいうと中道ちゅうどう左派さはないし左派さは中道ちゅうどうである。ない闘争とうそうき、最後さいごまで革命かくめい中心ちゅうしんたらんとしたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖りょうしゅうとし、サン=ジュストクートンとのさんとう政治せいじおこなった(この場合ばあいも、この3にんを「ジャコバンさんとう」とぶことがある)。ルバもふくめて、個人こじんてき友情ゆうじょうのつながりを重視じゅうしするという特徴とくちょうがあり、少数しょうすう友愛ゆうあい同志どうしだけで構成こうせいされる。

矯激きょうげきのエベールいち寛容かんようのダントン一派いっぱ粛清しゅくせいしたのち、ロベスピエール影響えいきょうりょくつよまったが、公安こうあん委員いいんかい政府せいふ主導しゅどうてき役割やくわりたしていたものの、公安こうあん委員いいんかいの12にん(ダントン粛清しゅくせいは1めい欠員けついん)のうち同派どうははわずか3めいのみで、保安ほあん委員いいんかいには同派どうはは1にんしかいなかった。議会ぎかいでも少数しょうすうであるがゆえに、ロベスピエールらが提案ていあんした法案ほうあん議会ぎかいとおすには平原へいげん無党派むとうはのジャコバン議員ぎいん協力きょうりょく不可欠ふかけつだったのであり、独裁どくさいてき振舞ふるまった事実じじつはない[注釈ちゅうしゃく 9]。このためサン=ジュストが提出ていしゅつした法案ほうあんのいくつかは否決ひけつされている。ロベスピエールは政策せいさくすすめるには、議会ぎかいやクラブで演説えんぜつして、聴衆ちょうしゅう説得せっとくする必要ひつようがあった[注釈ちゅうしゃく 10]。ロベスピエール支持しじ基盤きばん議会ぎかいにはなく、パリのジャコバン民衆みんしゅうであり、アンリオが指揮しきする国民こくみん衛兵えいへいたいおよび武装ぶそう民兵みんぺいであった。

ジャコバンでない山岳さんがくばれたカルノー

しかし、にやましいことのある議員ぎいんや、地方ちほう極端きょくたん虐殺ぎゃくさつ汚職おしょくおこなった派遣はけん議員ぎいんいたるは、パリに召還しょうかんされると、清廉せいれん潔白けっぱく潔癖けっぺきしょうともうべき独裁どくさいさんとうからの告発こくはつおそれるようになる。猛威もういるいはじめた革命かくめい裁判所さいばんしょでの処刑しょけいおそれ、武装ぶそう民兵みんぺい脅迫きょうはくをうけていた議員ぎいんたちは、ロベスピエールに反対はんたいできなくなっていたが、ジョゼフ・フーシェ陰謀いんぼうにより結束けっそくしたはんロベスピエール議員ぎいんたちがテルミドールのクーデタこすと、いっせいに無党派むとうはがこれを支持しじ最後さいご武力ぶりょく打倒だとうされた。

無党派むとうは山岳さんがく[編集へんしゅう]

ラザール・カルノーやサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・コート=ドールなどに代表だいひょうされる山岳さんがくぞくする無党派むとうは議員ぎいん一部いちぶ平原へいげん混同こんどうされるが、ジロンド追放ついほう議会ぎかいでは最大さいだい派閥はばつだった。フランス革命かくめい当時とうじ政党せいとう存在そんざいしないため、議員ぎいん個々人ここじん信条しんじょう行動こうどうして、のところ党派とうははそれほど明確めいかくではなかった。党派とうは後世こうせい史家しかつくった便宜べんぎてきくくりというめんすくなくない。かれらのような無党派むとうは議員ぎいんは、とく領袖りょうしゅうとなるリーダーをたないかわりに、それぞれの法案ほうあん独自どくじ投票とうひょう行動こうどうをしており、(カルノーなどの頑固がんこしゃのぞいて)そのつど主流しゅりゅうとなった政治せいじ追随ついずいした。

ネオ・ジャコバンにぞくしたバフーフ

無党派むとうはのなかにも、左派さは右派うは中道ちゅうどうがおり、コロー=デルボワビヨー=ヴァレンヌはエベールのシンパとされた極左きょくさである。テルミドールは、これら極左きょくさ追放ついほうされ、右派うは中道ちゅうどう若干じゃっかん左派さは残党ざんとう日和見ひよりみ主義しゅぎものたちは、一部いちぶテルミドール合流ごうりゅう一部いちぶはネオ・ジャコバンへ、のこりは総裁そうさい政府せいふ議会ぎかい共和きょうわ諸派しょはとなった。

ネオ・ジャコバン[編集へんしゅう]

恐怖きょうふ政治せいじてき革命かくめい独裁どくさい信奉しんぽうした一派いっぱで、ブランキだいいちインターナショナル労働ろうどうしゃらとともにパリ・コミューン評議ひょうぎかい構成こうせいした[10]

後発こうはつもっと過激かげき平等びょうどう主義しゅぎしゃのグループ。あまりに極端きょくたん主張しゅちょうであるため、一部いちぶでしか支持しじられず、また弾圧だんあつ対象たいしょうでもあった。私有しゆう財産ざいさん廃止はいしもとめるなど、分配ぶんぱい重視じゅうし初期しょき社会しゃかい主義しゅぎてき主張しゅちょうをしていた。共産きょうさん主義しゅぎのルーツとしてられ、フランソワ・ノエル・バブーフ国際こくさいてき職業しょくぎょう革命かくめいフィリッポ・ブオナロッティなどがそのメンバーとしてげられる。

革命かくめいちゅう勢力せいりょくほこることはなかったが、むしろ革命かくめいの19世紀せいきしょ革命かくめいでその思想しそう浸透しんとうさせ、ジャコバン主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎへとつないだ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ジャコブ」とは、ユダヤじんである「ヤコブ(イスラエル)」に由来ゆらいする人名じんめいヤコブ」のフランス語ふらんすごみである。つまり「ジャコバン」とは「ヤコブ」である。
  2. ^ パリには「ジャコバン修道院しゅうどういん」という修道院しゅうどういん歴史れきしじょう2つあるため、区別くべつのために「サントノレどおりのジャコバン修道院しゅうどういん」(Couvent des Jacobins de la rue Saint-Honoré)ともいう。
  3. ^ 1789ねんから1792ねんまで使つかわれた名称めいしょう[3]
  4. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょでは「自由じゆう平等びょうどうともなるジャコバン・クラブ」とやくしている[1]
  5. ^ 1792ねん9がつ以降いこう使つかわれた名称めいしょう[1]
  6. ^ ジャコバンサン=ドマングハイチ)での黒人こくじん奴隷どれい反乱はんらんけ、西欧せいおう世界せかいはつ奴隷どれいせい廃止はいし決議けつぎした。この決議けつぎナポレオン・ボナパルトによって反故ほごにされるまで効力こうりょくたもった。
  7. ^ トリニダード・トバゴC・L・R・ジェームズは、1938ねんにルーヴェルチュールを「ブラック・ジャコバン」とひょうした。
  8. ^ ロベスピエール中道ちゅうどうばれる場合ばあいは、(左派さはである)ジャコバンなかでのという意味いみであり、フランス革命かくめい全体ぜんたいからみれば必然ひつぜんてき中道ちゅうどう左派さはになる。またロベスピエールやサン=ジュストの政策せいさくはかなり社会しゃかい主義しゅぎてきで、中道ちゅうどうということはできない
  9. ^ 恐怖きょうふ政治せいじ時代じだいに、独裁どくさいてき権限けんげん発揮はっきしたのは、地方ちほうぐん派遣はけんされた派遣はけん議員ぎいんたちである。かれらは制限せいげん権限けんげんみとめられており、まさに地方ちほう独裁どくさいしゃである。そしてかれらを監査かんさする立場たちば公安こうあん委員いいんかいであった
  10. ^ テルミドール9にち議会ぎかいでの出来事できごとこった背景はいけいにも、公安こうあん委員いいんコロー・デルボワの説得せっとく失敗しっぱいがある

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j 樋口ひぐち謹一きんいち. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) コトバンク. 2018ねん11月13にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん コトバンク. 2018ねん11月13にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h Jacobin Club French political history Britannica.com. 2018ねん11月13にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d 百科ひゃっか事典じてんマイペディア コトバンク. 2018ねん11月13にち閲覧えつらん
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  9. ^ a b 大槻おおつき鉄男てつお佐々木ささき康之やすゆき多田ただ道太郎みちたろう西川にしかわ長夫ながお山田やまだみのる共編きょうへんDICTIONNAIRE FRANÇAIS-JAPONAIS CROWN クラウンふつ辞典じてん だいはん三省堂さんせいどう、1986ねんだい9さつ発行はっこう)、754ぺーじISBN 4-385-11925-2
  10. ^ かつらけいおとこ. “パリ・コミューン #コミューンのなま”. コトバンク. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). 2019ねん6がつ13にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]