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ジャコバン派 は (ジャコバンは、フランス語 ふらんすご : Jacobins [1] [6] , IPA : [ʒakɔbɛ̃][9] ; Club des Jacobins [3] [4] [7] [9] 、英語 えいご : Jacobins , Jacobin Club [3] )とは、フランス革命 かくめい 期 き の政治 せいじ 結社 けっしゃ である[2] 。通称 つうしょう の由来 ゆらい はパリ ・サントノレ通 どお り のジャコバン修道院 しゅうどういん (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 1] [注釈 ちゅうしゃく 2] を本部 ほんぶ としたことによるが[1] 、正式 せいしき 名称 めいしょう は「憲法 けんぽう の友 とも の会 かい 」[1] (Société des Amis de la Constitution [3] )[注釈 ちゅうしゃく 3] 、「ジャコバン協会 きょうかい 、自由 じゆう と平等 びょうどう の友 とも [注釈 ちゅうしゃく 4] 」[4] [7] (Société des Jacobins, Amis de la Liberté et de l’Égalité [3] )[注釈 ちゅうしゃく 5] である。
後述 こうじゅつ のように内容 ないよう は時期 じき によって異 こと なるが、マクシミリアン・ロベスピエール が中心 ちゅうしん となって急進 きゅうしん 的 てき な革命 かくめい の推進 すいしん を行 おこな った時期 じき が有名 ゆうめい 。フランス革命 かくめい を主導 しゅどう した主流 しゅりゅう で、恐怖 きょうふ 政治 せいじ で活躍 かつやく し、テルミドールのクーデター 以降 いこう 、一転 いってん 、没落 ぼつらく の道 みち をたどる。国民 こくみん 公会 こうかい で左 ひだり の席 せき に座 すわ ったことから左翼 さよく の語源 ごげん となり、恐怖 きょうふ 政治 せいじ (仏 ふつ : La Terreur 、英 えい : Reign of Terror )は、テロ、テロリズム の語源 ごげん となった。
ジャコバン派 は が本拠地 ほんきょち としたジャコバン修道院 しゅうどういん
元々 もともと は、ジャコバン・クラブ というさまざまな思想 しそう を持 も つ人々 ひとびと が集 あつ まる政治 せいじ クラブであった。この政治 せいじ クラブはフランス全国 ぜんこく に支部 しぶ をもち、組織 そしき 的 てき に革命 かくめい を推進 すいしん した。しかし、革命 かくめい を経 へ るにつれて信念 しんねん や政策 せいさく によって分裂 ぶんれつ し、まず立憲 りっけん 君主 くんしゅ 派 は であるフイヤン派 は が、ついで穏健 おんけん 共和 きょうわ 派 は であるジロンド派 は がこのクラブから脱退 だったい し、最終 さいしゅう 的 てき に山岳 さんがく 派 は (Montagnards 、モンタニャール 、モンターニュ派 は とも)と呼 よ ばれる急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は の集団 しゅうだん がジャコバン・クラブに残 のこ り、主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ る(右 みぎ 図 ず も参照 さんしょう のこと)。
そのため、まれに広義 こうぎ の意味 いみ としてジャコバン・クラブに属 ぞく していた市民 しみん 、または単 たん に革命 かくめい を支持 しじ する革命 かくめい 派 は を指 さ してジャコバン派 は ということもあるが、一般 いっぱん 的 てき には後者 こうしゃ の急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は (山岳 さんがく 派 は )を指 さ して用 もち いられる。実際 じっさい 、ラファイエット やブリッソー などのフイヤン派 は ・ジロンド派 は の代表 だいひょう 格 かく も一時期 いちじき ジャコバン・クラブに属 ぞく していたが、彼 かれ らを指 さ して「ジャコバン派 は である」と言 い うことは(紛 まぎ らわしいため)まずない。ただしジロンド派 は がジャコバンの一部 いちぶ であるという考 かんが え自体 じたい は間違 まちが いではない。
一方 いっぽう で、急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は クラブであるコルドリエ・クラブ 系 けい の急進 きゅうしん 共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ たち(コルドリエ派 は )に対 たい して用 もち いる場合 ばあい もある。この場合 ばあい はクラブの違 ちが いを意識 いしき して区別 くべつ されるだけであり、両者 りょうしゃ に立場 たちば 的 てき 違 ちが いがはっきりあるわけではない。
ジャコバン・クラブの変遷 へんせん
三 さん 部会 ぶかい の第 だい 三 さん 身分 みぶん の議員 ぎいん のうち、ブルターニュ 出身 しゅっしん 議員 ぎいん で構成 こうせい されたブルトン・クラブ が原型 げんけい である。ヴェルサイユ行進 こうしん ののち、ジャコバン修道院 しゅうどういん で集会 しゅうかい が行 おこな われるようになり、ジャコバン・クラブと呼 よ ばれるようになる。
ジャコバン派 は 成立 せいりつ まで [ 編集 へんしゅう ]
立憲 りっけん 君主 くんしゅ 派 は (フイヤン派 は )の脱退 だったい [ 編集 へんしゅう ]
1790年 ねん の3〜6月 がつ にかけて、ラファイエットやバイイら立憲 りっけん 君主 くんしゅ 派 は はジャコバン・クラブから脱退 だったい し、89年 ねん クラブを創設 そうせつ した。一方 いっぽう 、ジャコバン・クラブ内 ない では1791年 ねん 6月の、ルイ16世 せい 一家 いっか の国外 こくがい 逃亡 とうぼう 未遂 みすい (ヴァレンヌ事件 じけん )や7月 がつ のシャン・ド・マルスの虐殺 ぎゃくさつ を期 き に、国王 こくおう の責任 せきにん を追及 ついきゅう する左派 さは と、議会 ぎかい と国王 こくおう を共存 きょうぞん させようとする右派 うは が対立 たいりつ した。
この時期 じき 、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟 きょうだい などの右派 うは (つまり三 さん 頭 とう 派 は )がジャコバン・クラブから相次 あいつ いで脱退 だったい 。これに先 さき の89年 ねん クラブが合流 ごうりゅう し、フイヤン・クラブ(フイヤン派 は )が創設 そうせつ された。この時点 じてん でジャコバン・クラブからは立憲 りっけん 君主 くんしゅ 派 は が消 き え、残 のこ ったのは、穏健 おんけん ・及 およ び急進 きゅうしん 的 てき 共和 きょうわ 派 は となった。
穏健 おんけん 共和 きょうわ 派 は (ジロンド派 は )の脱退 だったい [ 編集 へんしゅう ]
8月 がつ 10日 とおか 事件 じけん
1792年 ねん 、他 た のヨーロッパ 諸国 しょこく との戦争 せんそう の気運 きうん が高 たか まる。それに対 たい し、ジャコバン・クラブ内 ない では、主戦 しゅせん 派 は と反戦 はんせん 派 は との対立 たいりつ が始 はじ まる。この対立 たいりつ は、主戦 しゅせん 派 は =穏健 おんけん 共和 きょうわ 派 は (ジロンド派 は )、反戦 はんせん 派 は =急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は (ジャコバン派 は )という構図 こうず であったが、議会 ぎかい では主戦 しゅせん 派 は のジロンド派 は が実権 じっけん を握 にぎ り、4月 がつ 20日 はつか 、オーストリア に対 たい し、宣戦 せんせん を布告 ふこく した。しかし、破産 はさん 状態 じょうたい のフランスは戦備 せんび が整 ととの っておらず、兵士 へいし も未 み 訓練 くんれん で、革命 かくめい の余波 よは が軍隊 ぐんたい に及 およ んで指揮 しき 系統 けいとう が機能 きのう しないフランス軍 ぐん は敗戦 はいせん を重 かさ ねる(またこのとき、王妃 おうひ マリー・アントワネット がフランス軍 ぐん の作戦 さくせん を敵 てき 軍 ぐん へ提供 ていきょう していたと言 い われている。)
プロシア 軍 ぐん が参戦 さんせん するなどの情勢 じょうせい の変化 へんか や度重 たびかさ なる敗戦 はいせん の中 なか 、拒否 きょひ 権 けん を発動 はつどう するルイ16世 せい によって国政 こくせい も停滞 ていたい したため、反戦 はんせん 派 は の中心 ちゅうしん であったロベスピエールやダントン 、マラー が主導 しゅどう し、8月 がつ 10日 とおか 事件 じけん を機 き に王権 おうけん の廃止 はいし を要求 ようきゅう 、実現 じつげん させる。
やがて、国民 こくみん 公会 こうかい と名 な のついた議会 ぎかい が召集 しょうしゅう される。この時点 じてん でジャコバン・クラブにはジロンド派 は ・ジャコバン派 は 両 りょう 派閥 はばつ の議員 ぎいん が混 ま じって在籍 ざいせき していたが、ボルドークラブの人脈 じんみゃく とブルジョワ を支持 しじ 基盤 きばん とするジロンド派 は と、民衆 みんしゅう を支持 しじ 基盤 きばん とする山岳 さんがく 派 は との対立 たいりつ が深刻 しんこく になっており、ブリッソーを指導 しどう 者 しゃ とするジロンド派 は は、10月 がつ 以降 いこう 次々 つぎつぎ とジャコバン・クラブから脱退 だったい する。
こうしてジャコバン・クラブに残 のこ ったのは急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派 は と呼 よ べる状況 じょうきょう となる。また、急進 きゅうしん 共和 きょうわ 派 は 議員 ぎいん の多 おお くは議会 ぎかい で議場 ぎじょう 後方 こうほう の高 たか い位置 いち に陣取 じんど ったため、山岳 さんがく 派 は とも呼 よ ばれた。
山岳 さんがく 派 は 独裁 どくさい [ 編集 へんしゅう ]
ジロンド派 は の追放 ついほう [ 編集 へんしゅう ]
国王 こくおう 裁判 さいばん でも対立 たいりつ したジロンド・ジャコバン両派 りょうは であったが、国民 こくみん 投票 とうひょう や執行 しっこう 猶予 ゆうよ などにこだわったジロンド派 は に対 たい して、ロベスピエール や、サン=ジュスト といった山岳 さんがく 派 は の明確 めいかく な主張 しゅちょう が勝 まさ り、1793年 ねん 1月 がつ 21日 にち 、国王 こくおう の処刑 しょけい に至 いた る。国外 こくがい では全 ぜん ヨーロッパを敵 てき にし、国内 こくない では大衆 たいしゅう の人気 にんき を失 うしな い、山岳 さんがく 派 は に圧倒 あっとう され始 はじ めたジロンド派 は は、山岳 さんがく 派 は の主要 しゅよう 人物 じんぶつ の拘束 こうそく を図 はか るが、マラーやエベールに対 たい して行 おこな われた裁判 さいばん はいずれも無罪 むざい となり、法廷 ほうてい 闘争 とうそう でも敗北 はいぼく した。
エベール派 は やアンラジェを中心 ちゅうしん にしてコミューンが暴動 ぼうどう (いわゆる五月 ごがつ 蜂起 ほうき )を煽 あお るようになると、ジロンド派 は は攻撃 こうげき の的 まと を山岳 さんがく 派 は に絞 しぼ るが5月26日 にち にロベスピエールがジャコバン・クラブで行 おこな った演説 えんぜつ によって失脚 しっきゃく 。5月31日 にち ~6月 がつ 2日 にち にかけて、機能 きのう 不全 ふぜん となった政府 せいふ に怒 いか りを募 つの らせた民衆 みんしゅう の武装 ぶそう 蜂起 ほうき が起 お こり、ジロンド派 は は国民 こくみん 公会 こうかい より武力 ぶりょく で追放 ついほう され、さらに逮捕 たいほ ・処刑 しょけい された。ここに、ジャコバン派 は が主導 しゅどう する体制 たいせい が確立 かくりつ する。
ジャコバン派 は 内部 ないぶ での派閥 はばつ 闘争 とうそう [ 編集 へんしゅう ]
やがて憲法 けんぽう は停止 ていし され、ロベスピエールも属 ぞく した大 だい 公安 こうあん 委員 いいん 会 かい が革命 かくめい の遂行 すいこう のため、あらゆる権限 けんげん を有 ゆう するようになる。次第 しだい に彼 かれ らによる委員 いいん 会 かい 独裁 どくさい が始 はじ まり、内戦 ないせん の激化 げきか によって反 はん 革命 かくめい 派 は の粛清 しゅくせい といった必要 ひつよう から、非常 ひじょう 手段 しゅだん としての恐怖 きょうふ 政治 せいじ を求 もと める声 こえ がパリでは強 つよ くなっていく。しかし次第 しだい にそれが急進 きゅうしん 過激 かげき 化 か すると多 おお くの無関係 むかんけい の市民 しみん も処刑 しょけい されるようにと変貌 へんぼう していった。
大胆 だいたん な政策 せいさく の実行 じっこう や、反 はん 革命 かくめい 派 は の粛清 しゅくせい により、一応 いちおう の安定 あんてい をみたフランス国内 こくない であったが、ジャコバン派 は 内部 ないぶ で恐怖 きょうふ 政治 せいじ に対 たい する見解 けんかい の相違 そうい から、恐怖 きょうふ 政治 せいじ の緩和 かんわ を求 もと める寛容 かんよう 派 は (ダントン派 は ・右派 うは )と、恐怖 きょうふ 政治 せいじ をより強化 きょうか するように求 もと める矯激 きょうげき 派 は (エベール派 は ・左派 さは )が山岳 さんがく 派 は と分裂 ぶんれつ する。両派 りょうは の間 あいだ に立 た つ山岳 さんがく 派 は 内 ない の中道 ちゅうどう 左派 さは (ロベスピエール派 は )は、分裂 ぶんれつ した双方 そうほう の派閥 はばつ をそれぞれ粛清 しゅくせい し、自 みずか らの影響 えいきょう 力 りょく を強化 きょうか させて、自 みずか らの政策 せいさく (主 おも に貧者 ひんじゃ 対策 たいさく で、小 しょう 土地 とち 所有 しょゆう 農民 のうみん の形成 けいせい にあったとされる)を実現 じつげん させようと、恐怖 きょうふ 政治 せいじ を継続 けいぞく させた。
テルミドールのクーデタ
ロベスピエール派 は は少数 しょうすう グループで、もともと支持 しじ 基盤 きばん が弱 よわ かったが、極端 きょくたん な権力 けんりょく の集中 しゅうちゅう と恐怖 きょうふ 政治 せいじ の実行 じっこう により、名目 めいもく 的 てき な主導 しゅどう 的 てき 地位 ちい にあったロベスピエール派 は に非難 ひなん の矛先 ほこさき が向 む くようになり、最高 さいこう 存在 そんざい の祭典 さいてん やカトリーヌ・テオの神 かみ の母 はは 事件 じけん などで、ロベスピエールが独裁 どくさい 者 しゃ となり、国王 こくおう を目指 めざ しているのではないかというあらぬ疑念 ぎねん が広 ひろ まって、次第 しだい に孤立 こりつ していった。やがてテルミドールのクーデター が起 お こり、ロベスピエールが失脚 しっきゃく すると、同年 どうねん 11月 がつ にジャコバン・クラブが閉鎖 へいさ される。政権 せいけん を手 て にしたテルミドール派 は は右派 うは に転向 てんこう して反動 はんどう 政治 せいじ を行 おこな ったため、総裁 そうさい 政府 せいふ 時代 じだい にも、ジャコバン派 は 残党 ざんとう ら左派 さは 勢力 せいりょく は徹底 てってい した粛清 しゅくせい を受 う けた。
1795年 ねん 、すべての政治 せいじ クラブの活動 かつどう が禁止 きんし されると、地方 ちほう に存在 そんざい していたジャコバン派 は の勢力 せいりょく も急速 きゅうそく に衰退 すいたい する。ただしナポレオンによるブリュメールのクーデター (1799年 ねん )時 じ にはフランス全土 ぜんど におよそ一 いち 万 まん 人 にん のジャコバン派 は とされる実 じつ 勢力 せいりょく はあった。しかしナポレオン体制 たいせい 下 か でも引 ひ き続 つづ き弾圧 だんあつ を受 う け、政治 せいじ 的 てき 勢力 せいりょく としての存在 そんざい は消滅 しょうめつ した。
ジャコバン派 は の思想 しそう そのものはバブーフ ら共産 きょうさん 主義 しゅぎ の先駆 せんく とされるネオ・ジャコバンや、フランス7月 がつ 革命 かくめい 、1848年 ねん 革命 かくめい などの19世紀 せいき の諸 しょ 革命 かくめい を通 とお して受 う け継 つ がれ、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 思想 しそう やロシア革命 かくめい に受 う け継 つ がれるのであった。
1793年 ねん 、通称 つうしょう ジャコバン憲法 けんぽう と呼 よ ばれる憲法 けんぽう が採択 さいたく される。これはジャコバン・山岳 さんがく 派 は の理想 りそう が反映 はんえい された初 はつ の普通 ふつう 選挙 せんきょ を基 もと にする憲法 けんぽう であったが、国内外 こくないがい の戦争 せんそう のために、結局 けっきょく 、選挙 せんきょ が行 おこな えず、施行 しこう されることもなかった。公安 こうあん 委員 いいん 会 かい を中心 ちゅうしん にして、一般 いっぱん 最高 さいこう 価格 かかく 法 ほう (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) や革命 かくめい 暦 れき の採用 さいよう などが行 おこな われていった。
1794年 ねん 2月 がつ 4日 にち にプリュヴィオーズ16日 にち 法 ほう を可決 かけつ し、全 ぜん フランス領 りょう での奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし を決議 けつぎ した[注釈 ちゅうしゃく 6] 。この決議 けつぎ を受 う けてサン=ドマング の実力 じつりょく 者 しゃ トゥーサン・ルーヴェルチュール [注釈 ちゅうしゃく 7] はフランスへの帰属 きぞく を決 き めた。
ジャコバン派 は 内部 ないぶ における党派 とうは [ 編集 へんしゅう ]
派 は 内 ない での対立 たいりつ が深刻 しんこく になる以前 いぜん は、マラー 、ダントン 、ロベスピエール の3人 にん を指 さ して「ジャコバン三 さん 巨頭 きょとう 」と呼 よ んだ。
エベール派 は (矯激 きょうげき 派 は ) [ 編集 へんしゅう ]
矯激 きょうげき 派 は の領袖 りょうしゅう 格 かく とされたエベール
急進 きゅうしん 左派 さは で、極左 きょくさ 勢力 せいりょく 。別名 べつめい 、矯激 きょうげき 派 は 。主要 しゅよう なメンバーの一人 ひとり であるジャック・ルネ・エベール の名 な を冠 かん するが、特 とく にリーダーは不在 ふざい 。政策 せいさく も曖昧 あいまい で、矯激 きょうげき 派 は や跳 は ね返 かえ り分子 ぶんし と言 い われたのは、アジテーションだけで内容 ないよう がなかったことに由来 ゆらい する。無 む 教養 きょうよう なサン・キュロット 、下層 かそう 貧民 ひんみん を支持 しじ 基盤 きばん としており、むしろ議会 ぎかい の外 そと 、パリ・コミューンに強 つよ い勢力 せいりょく を持 も っていた。しばしば革命 かくめい 政府 せいふ を「なまぬるい」として非難 ひなん し、さらなる革命 かくめい の推進 すいしん (つまり恐怖 きょうふ 政治 せいじ の強化 きょうか )を要求 ようきゅう 。エベールの発行 はっこう する新聞 しんぶん 『デュシェーヌ親父 おやじ 』を通 とお して人気 にんき を獲得 かくとく し、一方 いっぽう で新聞 しんぶん を軍 ぐん に専売 せんばい することでの不正 ふせい 蓄財 ちくざい もあり、議会 ぎかい 転覆 てんぷく を狙 ねら って民衆 みんしゅう の蜂起 ほうき (いわゆる三月 さんがつ 蜂起 ほうき )を促 うなが すなどしたため、ロベスピエール派 は のみならず他 ほか の全 すべ ての党派 とうは から危険 きけん 視 し され、粛清 しゅくせい された。また、汚 きたな い野次 やじ や根 ね も葉 は もない告発 こくはつ を行 おこな う議員 ぎいん も多 おお く、その点 てん もロベスピエール個人 こじん から嫌 きら われる原因 げんいん となった。
アナカルシス・クローツ (英語 えいご 版 ばん ) ら無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ が理論 りろん 的 てき 指導 しどう 者 しゃ のなかにおり、反 はん キリスト教 きりすときょう 政策 せいさく を掲 かか げて、「理性 りせい の崇拝 すうはい 」を進 すす めたのもこのグループ。またマリー・アントワネット の処刑 しょけい 、ジロンド派 は の追放 ついほう 、ヴァンデでの虐殺 ぎゃくさつ でも主導 しゅどう 的 てき 役割 やくわり を果 は たした。メンバーは名前 なまえ をギリシャ名 めい に変 か えたという特徴 とくちょう がある。ジャック・ルー ら「アンラジェ 」(過激 かげき 派 は /激昂 げっこう 派 は 、派 は 外 がい 勢力 せいりょく )とは考 かんが えは近 ちか いが、両派 りょうは は対立 たいりつ 関係 かんけい にあった。
ダントン派 は (寛容 かんよう 派 は ) [ 編集 へんしゅう ]
寛容 かんよう 派 は 領袖 りょうしゅう ダントン
ジャコバンの右派 うは 勢力 せいりょく 。別名 べつめい 、寛容 かんよう 派 は 。ジョルジュ・ダントン を領袖 りょうしゅう に、カミーユ・デムーラン 、エドー・ド・セシェルなども有力 ゆうりょく なメンバー。酒 さけ や女 おんな 、ギャンブルなどで人生 じんせい を楽 たの しんでいた享楽 きょうらく 的 てき な人物 じんぶつ が多 おお いのが特徴 とくちょう 。ジャコバンを支持 しじ するブルジョワ層 そう とのつながりが深 ふか く、ジャコバン派 は (ないしコルドリエ派 は )の中 なか では最 もっと も穏健 おんけん なグループである。ジロンド派 は との抗 こう 争 そう の際 さい には、ジロンド派 は 内閣 ないかく では入閣 にゅうかく したこともあったため、彼 かれ らとの融和 ゆうわ に努 つと めたが、ダントンらの努力 どりょく はジロンド派 は の議員 ぎいん によって拒絶 きょぜつ されて無駄 むだ になった。ダントン派 は と激 はげ しく敵対 てきたい したエベール派 は の処刑 しょけい 後 ご 、先 さき んじてこれに寛容 かんよう な態度 たいど を要求 ようきゅう したことで知 し られ、恐怖 きょうふ 政治 せいじ の終了 しゅうりょう や、フランス革命 かくめい 戦争 せんそう の終結 しゅうけつ などを主張 しゅちょう した。しかし未 いま だ改革 かいかく 半 なか ばで、革命 かくめい の継続 けいぞく をはかるロベスピエール派 は (直接的 ちょくせつてき にはサン=ジュスト)は、主導 しゅどう 権 けん を奪 うば われることを恐 おそ れて、王 おう 党派 とうは との内通 ないつう 罪 ざい という事実無根 じじつむこん の罪 つみ をでっち上 あ げて、粛清 しゅくせい することにした。
リーダーであるダントンは個人 こじん 的 てき に人気 にんき があり、民衆 みんしゅう への影響 えいきょう 力 りょく も大 おお きかった。またダントンやデムーランは、個人 こじん 的 てき にはロベスピエールとは親友 しんゆう の関係 かんけい にあった。そのため彼 かれ らの粛清 しゅくせい を決 き めたロベスピエールは逮捕 たいほ に際 さい して顔面 がんめん 蒼白 そうはく になったと言 い われる。バラスとフレロンはダントン派 は の生 い き残 のこ りであり、テルミドールのクーデタでは彼 かれ らには個人 こじん 的 てき な復讐 ふくしゅう という動機 どうき もあった。
ロベスピエール派 は (中道 ちゅうどう 左派 さは ) [ 編集 へんしゅう ]
中道 ちゅうどう 左派 さは 領袖 りょうしゅう ロベスピエール
便宜 べんぎ 的 てき に中道 ちゅうどう 派 は と呼 よ ばれることがあるが、実際 じっさい の中道 ちゅうどう 派 は は平原 へいげん 派 は である[注釈 ちゅうしゃく 8] 。厳密 げんみつ にいうと中道 ちゅうどう 左派 さは ないし左派 さは 中道 ちゅうどう である。派 は 内 ない 闘争 とうそう に勝 か ち抜 ぬ き、最後 さいご まで革命 かくめい の中心 ちゅうしん たらんとしたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖 りょうしゅう とし、サン=ジュスト 、クートン との三 さん 頭 とう 政治 せいじ を行 おこな った(この場合 ばあい も、この3人 にん を「ジャコバン三 さん 頭 とう 」と呼 よ ぶことがある)。ルバも含 ふく めて、個人 こじん 的 てき な友情 ゆうじょう のつながりを重視 じゅうし するという特徴 とくちょう があり、少数 しょうすう の友愛 ゆうあい 同志 どうし だけで構成 こうせい される。
矯激 きょうげき 派 は のエベール一 いち 派 は 、寛容 かんよう 派 は のダントン一派 いっぱ を粛清 しゅくせい した後 のち 、ロベスピエール派 は は影響 えいきょう 力 りょく は強 つよ まったが、公安 こうあん 委員 いいん 会 かい 政府 せいふ の主導 しゅどう 的 てき 役割 やくわり を果 は たしていたものの、公安 こうあん 委員 いいん 会 かい の12人 にん (ダントン派 は 粛清 しゅくせい 後 ご は1名 めい 欠員 けついん )のうち同派 どうは はわずか3名 めい のみで、保安 ほあん 委員 いいん 会 かい には同派 どうは は1人 にん しかいなかった。議会 ぎかい でも少数 しょうすう 派 は であるがゆえに、ロベスピエールらが提案 ていあん した法案 ほうあん を議会 ぎかい に通 とお すには平原 へいげん 派 は や無党派 むとうは のジャコバン派 は 議員 ぎいん の協力 きょうりょく は不可欠 ふかけつ だったのであり、独裁 どくさい 的 てき に振舞 ふるま った事実 じじつ はない[注釈 ちゅうしゃく 9] 。このためサン=ジュストが提出 ていしゅつ した法案 ほうあん のいくつかは否決 ひけつ されている。ロベスピエールは政策 せいさく を推 お し進 すす めるには、議会 ぎかい やクラブで演説 えんぜつ して、聴衆 ちょうしゅう を説得 せっとく する必要 ひつよう があった[注釈 ちゅうしゃく 10] 。ロベスピエール派 は の支持 しじ 基盤 きばん は議会 ぎかい にはなく、パリのジャコバン派 は 民衆 みんしゅう であり、アンリオが指揮 しき する国民 こくみん 衛兵 えいへい 隊 たい および武装 ぶそう 民兵 みんぺい であった。
ジャコバンでない山岳 さんがく 派 は と呼 よ ばれたカルノー
しかし、身 み にやましいことのある議員 ぎいん や、地方 ちほう で極端 きょくたん な虐殺 ぎゃくさつ ・汚職 おしょく を行 おこな った派遣 はけん 議員 ぎいん 達 いたる は、パリに召還 しょうかん されると、清廉 せいれん 潔白 けっぱく で潔癖 けっぺき 症 しょう とも言 い うべき独裁 どくさい 三 さん 頭 とう からの告発 こくはつ を恐 おそ れるようになる。猛威 もうい を振 ふ るい始 はじ めた革命 かくめい 裁判所 さいばんしょ での処刑 しょけい を恐 おそ れ、武装 ぶそう 民兵 みんぺい の脅迫 きょうはく をうけていた議員 ぎいん 達 たち は、ロベスピエールに反対 はんたい できなくなっていたが、ジョゼフ・フーシェ の陰謀 いんぼう により結束 けっそく した反 はん ロベスピエール派 は 議員 ぎいん たちがテルミドールのクーデタ を起 お こすと、いっせいに無党派 むとうは がこれを支持 しじ 。最後 さいご は武力 ぶりょく で打倒 だとう された。
無党派 むとうは の山岳 さんがく 派 は [ 編集 へんしゅう ]
ラザール・カルノー やサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・コート=ドールなどに代表 だいひょう される山岳 さんがく 派 は に属 ぞく する無党派 むとうは 議員 ぎいん 。一部 いちぶ は平原 へいげん 派 は と混同 こんどう されるが、ジロンド派 は 追放 ついほう 後 ご の議会 ぎかい では最大 さいだい 派閥 はばつ だった。フランス革命 かくめい 当時 とうじ は政党 せいとう が存在 そんざい しないため、議員 ぎいん は個々人 ここじん の信条 しんじょう で行動 こうどう して、実 み のところ党派 とうは はそれほど明確 めいかく ではなかった。党派 とうは は後世 こうせい の史家 しか が創 つく った便宜 べんぎ 的 てき な括 くく りという面 めん が少 すく なくない。彼 かれ らのような無党派 むとうは 議員 ぎいん は、特 とく に領袖 りょうしゅう となるリーダーを持 も たないかわりに、それぞれの法案 ほうあん で独自 どくじ の投票 とうひょう 行動 こうどう をしており、(カルノーなどの頑固 がんこ 者 しゃ は除 のぞ いて)そのつど主流 しゅりゅう となった政治 せいじ 家 か に追随 ついずい した。
ネオ・ジャコバンに属 ぞく したバフーフ
無党派 むとうは のなかにも、左派 さは と右派 うは 、中道 ちゅうどう がおり、コロー=デルボワ やビヨー=ヴァレンヌ はエベール派 は のシンパとされた極左 きょくさ である。テルミドール後 ご は、これら極左 きょくさ は追放 ついほう され、右派 うは と中道 ちゅうどう 、若干 じゃっかん の左派 さは 残党 ざんとう の日和見 ひよりみ 主義 しゅぎ 者 もの 達 たち は、一部 いちぶ はテルミドール派 は と合流 ごうりゅう 、一部 いちぶ はネオ・ジャコバンへ、残 のこ りは総裁 そうさい 政府 せいふ 議会 ぎかい の共和 きょうわ 派 は 諸派 しょは となった。
恐怖 きょうふ 政治 せいじ 的 てき な革命 かくめい 独裁 どくさい を信奉 しんぽう した一派 いっぱ で、ブランキ派 は や第 だい 一 いち インターナショナル の労働 ろうどう 者 しゃ らとともにパリ・コミューン の評議 ひょうぎ 会 かい を構成 こうせい した[10] 。
後発 こうはつ の最 もっと も過激 かげき な平等 びょうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ のグループ。あまりに極端 きょくたん な主張 しゅちょう であるため、一部 いちぶ でしか支持 しじ を得 え られず、また弾圧 だんあつ の対象 たいしょう でもあった。私有 しゆう 財産 ざいさん の廃止 はいし を求 もと めるなど、分配 ぶんぱい 重視 じゅうし の初期 しょき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき な主張 しゅちょう をしていた。共産 きょうさん 主義 しゅぎ のルーツとして知 し られ、フランソワ・ノエル・バブーフ 、国際 こくさい 的 てき な職業 しょくぎょう 革命 かくめい 家 か のフィリッポ・ブオナロッティ などがそのメンバーとして挙 あ げられる。
革命 かくめい 中 ちゅう は勢力 せいりょく を誇 ほこ ることはなかったが、むしろ革命 かくめい 後 ご の19世紀 せいき の諸 しょ 革命 かくめい でその思想 しそう を浸透 しんとう させ、ジャコバン主義 しゅぎ を共産 きょうさん 主義 しゅぎ へとつないだ。
^ 「ジャコブ 」とは、ユダヤ人 じん の祖 そ である「ヤコブ(イスラエル) 」に由来 ゆらい する人名 じんめい 「ヤコブ 」のフランス語 ふらんすご 読 よ みである。つまり「ジャコバン派 は 」とは「ヤコブ派 は 」である。
^ パリには「ジャコバン修道院 しゅうどういん 」という名 な の修道院 しゅうどういん が歴史 れきし 上 じょう 2つあるため、区別 くべつ のために「サントノレ通 どお りのジャコバン修道院 しゅうどういん 」(Couvent des Jacobins de la rue Saint-Honoré)ともいう。
^ 1789年 ねん から1792年 ねん まで使 つか われた名称 めいしょう [3] 。
^ 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ では「自由 じゆう と平等 びょうどう の友 とも なるジャコバン・クラブ」と訳 やく している[1] 。
^ 1792年 ねん 9月 がつ 以降 いこう に使 つか われた名称 めいしょう [1] 。
^ ジャコバン派 は はサン=ドマング (ハイチ )での黒人 こくじん 奴隷 どれい の反乱 はんらん を受 う け、西欧 せいおう 世界 せかい 初 はつ の奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし を決議 けつぎ した。この決議 けつぎ はナポレオン・ボナパルト によって反故 ほご にされるまで効力 こうりょく を保 たも った。
^ トリニダード・トバゴ のC・L・R・ジェームズ は、1938年 ねん にルーヴェルチュールを「ブラック・ジャコバン」と評 ひょう した。
^ ロベスピエール派 は が中道 ちゅうどう 派 は と呼 よ ばれる場合 ばあい は、(左派 さは である)ジャコバン派 は の中 なか でのという意味 いみ であり、フランス革命 かくめい の全体 ぜんたい からみれば必然 ひつぜん 的 てき に中道 ちゅうどう 左派 さは になる。またロベスピエールやサン=ジュストの政策 せいさく はかなり社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき で、中道 ちゅうどう ということはできない
^ 恐怖 きょうふ 政治 せいじ の時代 じだい に、独裁 どくさい 的 てき な権限 けんげん を発揮 はっき したのは、地方 ちほう や軍 ぐん に派遣 はけん された派遣 はけん 議員 ぎいん たちである。彼 かれ らは無 む 制限 せいげん の権限 けんげん を認 みと められており、まさに地方 ちほう の独裁 どくさい 者 しゃ である。そして彼 かれ らを監査 かんさ する立場 たちば が公安 こうあん 委員 いいん 会 かい であった
^ テルミドール9日 にち の議会 ぎかい での出来事 できごと が起 お こった背景 はいけい にも、公安 こうあん 委員 いいん コロー・デルボワの説得 せっとく 失敗 しっぱい がある
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2016年 ねん 3月 がつ )
主要 しゅよう 事件 じけん
1788年 ねん 1789年 ねん 1790年 ねん 1791年 ねん 1792年 ねん 1793年 ねん 1794年 ねん 1795年 ねん 1797年 ねん 1799年 ねん
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フランス陸軍 りくぐん フランス海軍 かいぐん 対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい 軍 ぐん