全日本 ぜんにほん ツーリングカー選手権 せんしゅけん (ぜんにほんツーリングカーせんしゅけん、Japan Touring Car Championship 、JTCC )は、1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )から1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )の4年間 ねんかん 日本 にっぽん で開催 かいさい されていた自動車 じどうしゃ レースの1カテゴリー。
1997年 ねん シリーズ チャンピオンマシン Castrol無限 むげん ACCORD (3X)
国際 こくさい 自動車 じどうしゃ 連盟 れんめい (FIA)による競技 きょうぎ 車両 しゃりょう 規定 きてい の変更 へんこう (FIA・ツーリングカークラスII規定 きてい の新設 しんせつ )に伴 ともな い、1985年 ねん よりグループA 規定 きてい の車両 しゃりょう で争 あらそ われた『全日本 ぜんにほん ツーリングカー選手権 せんしゅけん (JTC)』は、1994年 ねん からの開催 かいさい に新 あら たな展開 てんかい を迎 むか えた。
既 すで にヨーロッパ圏内 けんない ではイギリスツーリングカー選手権 せんしゅけん (BTCC)に追従 ついしょう する形 かたち でクラスII規定 きてい を導入 どうにゅう し人気 にんき を博 はく していた事 こと から、FIAはローカル・カテゴリーであったBTCCのレギュレーションを1993年 ねん に正式 せいしき に国際 こくさい レギュレーションとして導入 どうにゅう する。さらに北米 ほくべい 、南米 なんべい 、オーストラリア といった国々 くにぐに でもこの規定 きてい でレースが開催 かいさい されていったことから、クラスIIへの移行 いこう は国際 こくさい 的 てき な流 なが れであったといえる。
1994年 ねん から始 はじ まった新 しん シリーズの発表 はっぴょう 会 かい において、英国 えいこく に習 なら った新 あら たな競技 きょうぎ 略称 りゃくしょう としてJTCC (J apan T ouring C ar C hampionship)の名 な が発表 はっぴょう され、それまでに行 おこな われていたグループA規定 きてい のJTC ( J apan T ouringcar C hampionship)と区別 くべつ して表記 ひょうき されることとなった。また、初年度 しょねんど は競技 きょうぎ 名 めい を「ニューツーリングカー」と呼 よ んでいたが、1995年 ねん からはGr.ST「スーパーツーリングカー」に改称 かいしょう している。
グループA時代 じだい のようなエンジン排気 はいき 量 りょう によるクラス区分 くぶん がなくなり、単 たん 一 いち クラスのレースとなる。ベース車両 しゃりょう が4輪 りん 、4座 ざ 4ドア以上 いじょう の量産 りょうさん 車 しゃ で、2L以下 いか の自然 しぜん 吸気 きゅうき エンジン(同 どう 一 いち メーカーなら別 べつ の車両 しゃりょう のエンジンに載 の せ換 か えが可能 かのう )を車体 しゃたい 前方 ぜんぽう に搭載 とうさい した車両 しゃりょう で行 おこな う。駆動 くどう 方式 ほうしき により最低 さいてい 重量 じゅうりょう が決 き められ(初年度 しょねんど シーズンではFF車 しゃ が950kg、FR車 しゃ 及 およ びAWD車 しゃ は1,050kgだったが、FF車 しゃ の性能 せいのう 向上 こうじょう は目覚 めざま しくハンディ差 さ は年 とし 毎 ごと に縮 ちぢ まっていった)、レブリミッターの装着 そうちゃく によりエンジンの最高 さいこう 回転 かいてん 数 すう を8,500rpmに制限 せいげん する等 ひとし 、イコールコンディション化 か を図 はか った。これによりサイドバイサイドのレースが展開 てんかい され、この規定 きてい 下 か による最大 さいだい の見 み せ場 ば となった。後 のち にウエイトハンデ制 せい なども取 と り入 い れるなどして同 どう 一 いち 車両 しゃりょう ・チームの独走 どくそう をなくし、選手権 せんしゅけん 獲得 かくとく の行方 ゆくえ を面白 おもしろ くする工夫 くふう も見 み られた。一方 いっぽう でグループAが500~600馬力 ばりき であったのに対 たい しノンターボのJTCCは300~350馬力 ばりき 程度 ていど しかなく、台数 だいすう もクラス分 わ けが無 な い分 ぶん 少 すく なかったため、迫力 はくりょく 不足 ふそく であったことが指摘 してき されている[1] 。
JTCが走行 そうこう 距離 きょり 300〜800kmの耐久 たいきゅう レースであったのに対 たい し、走行 そうこう 距離 きょり およそ100kmの2ヒート制 せい スプリントレースで行 おこな われた。2ヒートのレース間 あいだ にはインターバルが設 もう けられ、短時間 たんじかん の中 なか で行 おこな われるメカニックたちの車両 しゃりょう 整備 せいび も見所 みどころ の一 ひと つであった。スプリントレースゆえの激 はげ しくぶつかり合 あ いながらのサイドバイサイドや追 お い抜 ぬ きが横行 おうこう したため、スピンやコースアウトによる順位 じゅんい 変動 へんどう やアクシデントが日常 にちじょう 茶飯事 さはんじ で、ドライバー同士 どうし のいいや喧嘩 けんか が散見 さんけん された。
シリーズ開幕 かいまく 前 まえ にドライバーの中谷 なかたに 明彦 あきひこ は、1人 ひとり 1台 だい のスプリント戦 せん ではグループAと同 おな じ台数 だいすう がいてもドライバーの数 かず が半分 はんぶん になることや、高橋 たかはし 国光 くにみつ /土屋 つちや 圭 けい 市 し のようなコンビで人気 にんき のあるドライバーたちが片手落 かたてお ちになってしまうことを危惧 きぐ していた[2] 。また観戦 かんせん したジャーナリストの御 ご 堀 ほり 直 ただし 嗣 は、トップドライバー達 たち による白熱 はくねつ のバトルに夢中 むちゅう になりつつも、短期 たんき 戦 せん 故 ゆえ のぶつけ合 あ いによるクラッシュで早々 そうそう にスター選手 せんしゅ たちが姿 すがた を消 け してしまうということの寂 さび しさや、ドライバーたちが勝 か ちを焦 こげ るばかりでバトルを楽 たの しむ余裕 よゆう が無 な いことが観戦 かんせん 者 しゃ 目線 めせん でも伝 つた わってきたことを指摘 してき している[3] 。
JTCCはJTCと同 おな じくワンメイクレース状態 じょうたい で終焉 しゅうえん を迎 むか えることになるが、JTCの最終 さいしゅう 戦 せん インターTEC が94,600人 にん 動員 どういん の大盛 おおもり 況 きょう で終 お わったのに対 たい し、JTCCはスーパー耐久 たいきゅう との併催 へいさい で37,000人 にん [4] という少々 しょうしょう 寂 さび しい幕 まく 引 び きとなった。
結果 けっか 的 てき に市販 しはん 車 しゃ 然 しか とした大衆 たいしゅう 向 む けセダンのスプリントレースが受 う ける欧州 おうしゅう [注釈 ちゅうしゃく 1] [5] とは違 ちが い、レーシングカー然 しか とした派手 はで なスポーツクーペのレースの方 ほう が人気 にんき の日本 にっぽん では、コアなレースファンはともかく全体 ぜんたい 的 てき な集客 しゅうきゃく は今 いま ひとつであった。本 ほん レースの消滅 しょうめつ 後 ご 、現在 げんざい まで同 おな じようなコンセプトのプロフェッショナルレースが日本 にっぽん で根付 ねつ いていないのも、そうしたレース文化 ぶんか の違 ちが いを表 あらわ しているといえる。
1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
開催 かいさい 初年度 しょねんど の参戦 さんせん メーカーはトヨタ 、日産 にっさん 、ホンダ 、マツダ 、BMW 、ボクスホール (シーズン途中 とちゅう でオペル に名称 めいしょう 変更 へんこう )等 ひとし 多数 たすう であった。
最終 さいしゅう 戦 せん の富士 ふじ スピードウェイインターTEC では、ランキングトップのトム・クリステンセン (コロナ )、2番手 ばんて のスティーブ・ソパー (BMW318i )、そして3番手 ばんて の関谷 せきや 正徳 まさのり (コロナ)の順 じゅん でレースが始 はじ まったが、第 だい 1レース(第 だい 17戦 せん )でクリステンセンが入賞 にゅうしょう 圏外 けんがい に後退 こうたい すると、ソパーもリタイヤを喫 きっ した。続 つづ く第 だい 2レース(第 だい 18戦 せん )では追 お いすがるソパーに対 たい し、チームメイトの鈴木 すずき 亜 あ 久里 くさと の掩護 えんご もあって、関谷 せきや が逆転 ぎゃくてん シリーズチャンピオンを獲得 かくとく した。
チームタイトルは、名門 めいもん ・トヨタチームトムスとBTCCなどでも経験 けいけん が豊富 ほうふ なBMWチームシュニッツァー の一騎討 いっきうち ちとなったが、トムスが同士討 どうしう ちやマシントラブルに見舞 みま われるのに対 たい して、シュニッツァーはソパーをエースに、ヨアヒム・ヴィンケルホック 、レオポルド・プリンツ・フォン・バイエルン をサポート役 やく に回 まわ す徹底 てってい したチームプレイが功 こう を奏 そう し、チームタイトルを獲得 かくとく した。
1995年 ねん (平成 へいせい 7年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
ホンダ・カストロール・無限 むげん ・シビック(中子 なかご 修 おさむ )
車両 しゃりょう カテゴリーの名称 めいしょう が「ニューツーリング」から、国際 こくさい 的 てき な名称 めいしょう の「スーパーツーリング(Gr.ST)」に変更 へんこう され、トヨタは、主力 しゅりょく マシンをコロナからコロナエクシヴに変更 へんこう した。
95年 ねん のレギュレーション改正 かいせい ではフロントスポイラー、リアウィングといったエアロパーツ に関 かん して、元 もと から付 つ いている物 もの 以外 いがい に一 いち 種類 しゅるい に限 かぎ り装着 そうちゃく が可能 かのう となり、車体 しゃたい の空 そら 力 りょく 性能 せいのう が向上 こうじょう した。また、この年 とし からレースをより接戦 せっせん にするため、ウエイトハンディキャップ制 せい が導入 どうにゅう され、第 だい 1レースの1位 い に20kg、2位 い に10kgのウエイトが積 つ まれるようになる。
最終 さいしゅう 戦 せん の富士 ふじ インターTECでは、ランキングトップに前年 ぜんねん チャンピオンの関谷 せきや 正徳 まさのり (エクシヴ)、2番手 ばんて がスティーブ・ソパー(BMW318i)で、しかも18ポイントもの差 さ があり関谷 せきや には充分 じゅうぶん 余裕 よゆう がある状態 じょうたい で始 はじ まった。しかし第 だい 1レース(第 だい 15戦 せん )では、関谷 せきや 、トム・クリステンセン(エクシヴ)、そしてソパーのチームメイト、ヨアヒム・ヴィンケルホック(BMW318i)の3台 だい がともに接触 せっしょく してリタイヤを喫 きっ したうえ、ソパーの優勝 ゆうしょう でポイント差 さ はなくなった。仕切 しき り直 なお しの第 だい 2レース(第 だい 16戦 せん )でも関谷 せきや が6位 い でレースを終 お えたのに対 たい してソパーは2位 い でゴールし、逆転 ぎゃくてん シリーズチャンピオンを獲得 かくとく 、前年 ぜんねん の雪辱 せつじょく を果 は たした。チームタイトルもBMWチームシュニッツァーが2年 ねん 連続 れんぞく で獲得 かくとく して、ダブルタイトルを得 え ることとなったが、3年 ねん 以内 いない にチャンピオンを獲 え ることを目標 もくひょう としていたBMWチームシュニッツァーは、この年 とし 限 かぎ りで撤退 てったい した。チャンピオン争 あらそ いは2年 ねん 連続 れんぞく でトヨタとBMWの争 あらそ いとなったが、日産 にっさん とオペルも善戦 ぜんせん し、シリーズ3位 い はプリメーラ の星野 ほしの 一義 かずよし 、次 つ ぐシリーズ4位 い にはベクトラ をドライブするアンソニー・レイド が入 はい った。
1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
ホンダ・ジャックス・アコード(服部 はっとり 尚貴 なおき )
日産 にっさん ・プリメーラ・ユニシアジェックス・カミノ(影山 かげやま 正彦 まさひこ )
それまで第 だい 1レースの結果 けっか が第 だい 2レースのスタートグリッドを決 き める方式 ほうしき だったが、この年 とし から土曜日 どようび の二 に 回 かい の予選 よせん がそれぞれ第 だい 1レース・第 だい 2レースのスタートグリッドを決 き める方式 ほうしき に変更 へんこう された。この年 とし ホンダは、シビックフェリオ から、より大 おお きい車体 しゃたい のアコード に変更 へんこう した。またニッサンもプリメーラをP10型 がた ベースからP11型 がた ベースへ変更 へんこう した。
96年 ねん のレギュレーション改正 かいせい ではウエイトハンディが1位 い に30kg、2位 い に20kg、3位 い に10kgに変更 へんこう された。
前年 ぜんねん チャンピオンのBMWチームシュニッツァーが不在 ふざい な中 なか 、低 ひく いCd値 ち でストレートの速 はや さが武器 ぶき のトヨタ・エクシヴに期待 きたい が集 あつ まっていたが、アコードも同様 どうよう に空 そら 力 りょく 特性 とくせい に優 すぐ れる上 じょう 、コーナリングスピードの速 はや さも備 そな えており、あらゆるコースで強 つよ さを発揮 はっき した。しかしシーズンを通 とお して、車両 しゃりょう レギュレーションの解釈 かいしゃく についての問題 もんだい が絶 た えず、アコードはサスペンション形状 けいじょう に違反 いはん があるとして第 だい 4大会 たいかい (美祢 みね )を欠場 けつじょう し車両 しゃりょう 改修 かいしゅう を行 おこ なった(実際 じっさい には翌年 よくねん 用 よう に開発 かいはつ を進 すす めていたものを急遽 きゅうきょ 前倒 まえだお しして対応 たいおう した)。チャンピオンの座 ざ はそのアコードを駆 か る服部 はっとり 尚貴 なおき と中子 なかご 修 おさむ との間 あいだ で争 あらそ われ、さらに、最終 さいしゅう 戦 せん でもホンダの連勝 れんしょう でレースを終 お えたにもかかわらず、他 た 陣営 じんえい からアンダーパネルの形状 けいじょう にクレームがつけられ服部 はっとり (ムーンクラフト )、中子 なかご (無限 むげん )ともに失格 しっかく の仮 かり 裁定 さいてい を受 う けた。両 りょう チームは裁定 さいてい を不服 ふふく としてJAF審査 しんさ 委員 いいん 会 かい 及 およ び中央 ちゅうおう 審査 しんさ 委員 いいん 会 かい へ提訴 ていそ を繰 く り返 かえ したものの翌年 よくねん 4月 がつ に最終 さいしゅう 結審 けっしん がい渡 いわた され判定 はんてい は覆 くつがえ らなかった。しかし、それまでの有効 ゆうこう ポイントの貯金 ちょきん から服部 はっとり がドライバーチャンピオンを獲得 かくとく 、チームタイトルはトヨタチームトムスが獲 え った。ちなみにシリーズ3位 い を獲得 かくとく したトムスのミハエル・クルム は第 だい 4戦 せん で優勝 ゆうしょう した他 ほか 、全 ぜん 大会 たいかい でポイントを獲得 かくとく する活躍 かつやく をみせた。マツダは同年 どうねん 限 かぎ りで撤退 てったい している。
1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
日産 にっさん ・プリメーラ・ザナヴィ・カミノ(本山 もとやま 哲 あきら )
この頃 ころ になると3メーカーの開発 かいはつ 競争 きょうそう が激化 げきか し、開発 かいはつ 資金 しきん が高騰 こうとう 。また、日本 にっぽん 限定 げんてい のレギュレーションを作 つく るなどしたため、海外 かいがい との交流 こうりゅう が難 むずか しくなった。トヨタは、エクシヴに加 くわ えてFR車 しゃ の可能 かのう 性 せい を探 さぐ るためチェイサー を投入 とうにゅう した。
1997年 ねん のレギュレーション改正 かいせい ではオーバーフェンダーの装着 そうちゃく (全幅 ぜんはば 1,800mm以下 いか )、リアウィングの大型 おおがた 化 か (ルーフ高 だか 未満 みまん )が認 みと められ、車両 しゃりょう の改造 かいぞう 自由 じゆう 度 ど が増 ま した。また、ウエイトハンディキャップ制 せい が次 つぎ の大会 たいかい 以降 いこう にも継続 けいぞく してウエイトを搭載 とうさい する累積 るいせき 方式 ほうしき に変更 へんこう された。ウエイトは最大 さいだい で70kgまでなので、3連続 れんぞく 優勝 ゆうしょう しても90kgになることはない。4位 い 以下 いか で次 つぎ のレースから10kg減 へ らされる。
前年 ぜんねん チャンピオンの服部 はっとり が渡米 とべい (最終 さいしゅう 戦 せん にのみスポット参戦 さんせん )したため、2年 ねん 連続 れんぞく してチャンピオン不在 ふざい のシーズンとなった。第 だい 1・2戦 せん の富士 ふじ スピードウェイは雨 あめ と霧 きり によりスタート前 まえ に中止 ちゅうし されたため、第 だい 3・4戦 せん のTIサーキット英田 あいだ が事実 じじつ 上 じょう の開幕 かいまく 戦 せん となった。
ホンダ勢 ぜい は中子 なかご 修 おさむ と黒澤 くろさわ 琢弥 たくや (アコード)、日産 にっさん は本山 もとやま 哲 あきら (プリメーラ)がタイトル争 あらそ いを展開 てんかい 。最終 さいしゅう 戦 せん 、富士 ふじ インターTECの第 だい 2レース(第 だい 16戦 せん )では、16周 しゅう 目 め のヘアピン進入 しんにゅう で本山 ほんざん のインを突 つ いた中子 なかご がブレーキをロックさせ本山 ほんざん に接触 せっしょく 、本山 ほんざん のマシンは損傷 そんしょう ・スピンして順位 じゅんい を落 お とした。この接触 せっしょく でタイトルの望 のぞ みが消 き えた本山 ほんざん は、中子 なかご に報復 ほうふく するため、1周 しゅう のスロー走行 そうこう の後 のち 、18周 しゅう 目 め の100Rでアウトから来 き た中子 なかご に接触 せっしょく し、中子 なかご はコースアウト・クラッシュした。その後 ご 、本山 ほんざん はピットに戻 もど りレースを終 お えた(この件 けん で中子 なかご と本山 ほんざん にはペナルティが科 か せられた。本山 ほんざん は、後 のち に行 おこな われたフォーミュラニッポン 最終 さいしゅう 戦 せん とJGTC オールスター戦 せん への出場 しゅつじょう を停止 ていし された)。しかし、唯一 ゆいいつ 残 のこ った黒澤 くろさわ は不調 ふちょう に終 お わったため、中子 なかご がシリーズチャンピオンとなる。チームタイトルもチーム無限 むげん に戴冠 たいかん 。
この年 とし で日産 にっさん 、ホンダが撤退 てったい 。プライベーターとして参戦 さんせん していたオペル、BMWも撤退 てったい した。
1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
トヨタ・アドバン・エクシヴ(土屋 つちや 武士 たけし )
トヨタ・アドバン・チェイサー(土屋 つちや 圭 けい 市 し )
シーズン前半 ぜんはん にプライベーターチームからインプレッサワゴン が出場 しゅつじょう してはいたが、実質 じっしつ トヨタ(チェイサーとエクシヴ)のワンメイクレースとなった。
当初 とうしょ は全 ぜん 9大会 たいかい で行 おこな われる予定 よてい だったが、十勝 とかち スピードウェイ 、仙台 せんだい ハイランド での開催 かいさい が中止 ちゅうし となり、レース距離 きょり も従来 じゅうらい の約 やく 100kmの2レース以外 いがい に、最長 さいちょう 200kmの1レースも行 おこな われた。また、第 だい 3戦 せん には新 あら たに開催 かいさい されたサーキット、ツインリンクもてぎ の西 にし コースを使 つか った変則 へんそく オーバルで100kmの1レースが行 おこな われたが、これ以来 いらい このコースで全日本 ぜんにほん の格式 かくしき レースは開催 かいさい されていない。ウェイトハンディは累積 るいせき 方式 ほうしき を取 と り止 と めて96年 ねん レギュレーションに戻 もど している。
トヨタのワンメイクながらも、ワークス勢 ぜい のチェイサー対 たい プライベーター勢 ぜい のエクシヴという図式 ずしき や、グリッド順 じゅん がレース結果 けっか で上位 じょうい 下位 かい が入 い れ替 か わるというリバースグリッド採用 さいよう などで見 み ようによっては面白 おもしろ いシーズンでもあった。チェイサーは前年 ぜんねん よりもさらなる軽量 けいりょう 化 か 、高 こう 剛性 ごうせい 化 か などの進化 しんか を続 つづ けて臨 のぞ み、ポイントリーダーの関谷 せきや 正徳 まさのり が快調 かいちょう に勝利 しょうり を積 つ み重 かさ ねてシリーズチャンピオンとなった。関谷 せきや は初年度 しょねんど に加 くわ えて最終 さいしゅう 年度 ねんど でもチャンピオンとなった事 こと でJTCCドライバーの代名詞 だいめいし ともなった。チームタイトルもトヨタチームトムスが獲得 かくとく した。
この年 とし を最後 さいご にJTCCは消滅 しょうめつ し、日本 にっぽん のツーリングカーレースの歴史 れきし も終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
そして、最終 さいしゅう 戦 せん の富士 ふじ ではJTCグループA時代 じだい から13年間 ねんかん 続 つづ いた「インターTEC」が同時 どうじ に終了 しゅうりょう した。それもスーパー耐久 たいきゅう との併催 へいさい レースとして100kmの1レースのみで行 おこな われ、出場 しゅつじょう 車 しゃ は9台 だい のみとJTCCおよびインターTECのラストレースとしてはこの上 うえ なく寂 さび しいものとなった。優勝 ゆうしょう 者 しゃ はプライベーターとして出場 しゅつじょう した金石 かねいし 勝智 かつとも (エクシヴ)。
1998年 ねん 限 かぎ りでJTCCが終了 しゅうりょう した後 のち の受 う け皿 ざら として、シリーズを運営 うんえい していた日本 にっぽん ツーリングカー選手権 せんしゅけん 協会 きょうかい (TCCA)は、1999年 ねん より独自 どくじ のパイプフレームシャシーを用 もち い、3Lの量産 りょうさん V6 エンジン にツインターボ を装着 そうちゃく するなどの改造 かいぞう をし搭載 とうさい した「スーパーシルエット 」によるシリーズの開催 かいさい を目指 めざ し、実際 じっさい に試作 しさく 車 しゃ により1998年 ねん の最終 さいしゅう 戦 せん 「インターTEC」においてデモンストレーション ランも行 おこな われた。
当時 とうじ 参加 さんか 者 しゃ の間 あいだ で問題 もんだい とされていた参戦 さんせん 費用 ひよう の高騰 こうとう に対 たい し全車 ぜんしゃ 共通 きょうつう のパイプフレームの使用 しよう や、エンジン改造 かいぞう 部品 ぶひん ,ギアボックスやブレーキ 等 とう に共通 きょうつう の公認 こうにん 部品 ぶひん を設定 せってい するなどの費用 ひよう 軽減 けいげん が計画 けいかく された。しかしすでに全日本 ぜんにほん GT選手権 せんしゅけん (JGTC、現 げん ・SUPER GT )という同等 どうとう の迫力 はくりょく のGTレースが存在 そんざい していたことや、自動車 じどうしゃ メーカーが直接 ちょくせつ 関与 かんよ することを規制 きせい したこと、低 てい コストなレースとしてもスーパー耐久 たいきゅう がすでに存在 そんざい したことなどの理由 りゆう から参加 さんか 者 しゃ が集 あつ まらず、シリーズ開催 かいさい は実現 じつげん しなかった。X100系 けい トヨタ・チェイサー の意匠 いしょう を取 と り入 い れた試作 しさく 車 しゃ が一 いち 台 だい のみ製作 せいさく されデモ走行 そうこう が何 なん 度 ど か行 おこな われたに留 とど まった。
しかし2014年 ねん からSUPER GTのGT500クラスでは、クラス1 と呼 よ ばれるシルエットタイプカー を導入 どうにゅう していることから、時代 じだい の先 さき を行 い き過 す ぎていたとも言 い える。
2010年 ねん 8月 がつ 2日 にち に世界 せかい ツーリングカー選手権 せんしゅけん (WTCC)プロモーターは、コンコルドマネジメント社 しゃ と広告 こうこく 代理 だいり 店 てん のアサツーDK とのパートナーシップにより、2012年 ねん に新 しん JTCC の開催 かいさい をWTCCホームページにて発表 はっぴょう 。同年 どうねん 10月 がつ 26日 にち には発表 はっぴょう 会 かい が開催 かいさい され[6] 、翌 よく 2011年 ねん WTCC日本 にっぽん ラウンドにて正式 せいしき に宣言 せんげん された。WTCCなどと同 おな じスーパー2000 規定 きてい を用 もち いたもので、同 どう シリーズは中国 ちゅうごく ツーリングカー選手権 せんしゅけん (CTCC)とパートナーシップを結 むす び、日本 にっぽん 5戦 せん 、中国 ちゅうごく 1戦 せん の6戦 せん が開催 かいさい される計画 けいかく であった。さらに、将来 しょうらい 的 てき にはJTCCとCTCCとの共同 きょうどう でアジアンツーリングカー選手権 せんしゅけん の開催 かいさい も予定 よてい された。
しかし、その後 ご シリーズに関 かん するアナウンスも、シリーズカレンダーも発表 はっぴょう されなかったが、2011年 ねん 3月 がつ 11日 にち に発生 はっせい した東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい の影響 えいきょう で2012年 ねん の開催 かいさい を断念 だんねん し、1年 ねん 後 ご の2013年 ねん の開催 かいさい を目指 めざ すというコメントが、2011年 ねん 12月22日 にち にコンコルドマネジメント社 しゃ 代表 だいひょう の水野 みずの 雅雄 まさお によって発表 はっぴょう され、同時 どうじ に2012年 ねん はエキシビジョンレースの開催 かいさい も発表 はっぴょう された[7] 。しかし2014年 ねん 現在 げんざい 、実現 じつげん に至 いた っておらず公式 こうしき のアナウンスもされていない。
前身 ぜんしん のJTC時代 じだい からMOTER LAND2 (テレビ東京 てれびとうきょう 系 けい )では各 かく 戦後 せんご にダイジェストを放送 ほうそう 。また最終 さいしゅう 戦 せん インターTECもJTC時代 じだい からフジテレビ 系 けい で録画 ろくが 中継 ちゅうけい があった。
1995年 ねん から1997年 ねん まではNHK-BS1 にて各 かく レースのダイジェストを週末 しゅうまつ に主 おも に1時 じ 間 あいだ の枠 わく で放送 ほうそう していた。
^ 『Racing on(レーシングオン) No.283』P45-46 ニュ にゅ ーズ出版 ずしゅっぱん
^ 『Racing On No.156』P12-15 三栄書房 さんえいしょぼう 刊 かん
^ 『AUTO SPORT No.657 1994年 ねん 7月 がつ 1日 にち 』P8-9 三栄書房 さんえいしょぼう 刊 かん
^ 第 だい 14回 かい インターTEC JTCC第 だい 11戦 せん リザルト
^ 『AUTOSPORT No.799 2000年 ねん 6月 がつ 29日 にち 号 ごう 』P11-12 三栄書房 さんえいしょぼう
^ 新 しん シリーズJTCC、2012年 ねん からの開催 かいさい を正式 せいしき 発表 はっぴょう
^ JTCC、12年 ねん の開催 かいさい を断念 だんねん 。13年 ねん 開催 かいさい を目標 もくひょう に