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八郎潟はちろうがた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
八郎潟はちろうがた八郎潟調整池はちろうがたちょうせいち


男鹿おが半島はんとう八郎潟はちろうがた写真しゃしんみぎ

八郎潟の位置(日本内)
八郎潟
八郎潟はちろうがた
八郎潟の位置(秋田県内)
八郎潟
八郎潟はちろうがた
八郎潟はちろうがた位置いち
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん 秋田あきたけん
位置いち 北緯ほくい3955ふん00びょう 東経とうけい14001ふん00びょう / 北緯ほくい39.91667 東経とうけい140.01667 / 39.91667; 140.01667座標ざひょう: 北緯ほくい3955ふん00びょう 東経とうけい14001ふん00びょう / 北緯ほくい39.91667 東経とうけい140.01667 / 39.91667; 140.01667
面積めんせき 27.75[1] km2
周囲しゅういちょう 35 km
最大さいだい水深すいしん 12.0 m
平均へいきん水深すいしん - m
貯水ちょすいりょうkm3
水面すいめん標高ひょうこう -4 m
成因せいいん うみあと
淡水たんすい・汽水 淡水たんすい
湖沼こしょうがた とみ栄養えいようみずうみ
透明とうめい 1.3 m
プロジェクト 地形ちけい
テンプレートを表示ひょうじ
八郎潟調整池はちろうがたちょうせいち(寒風山かんぷうざん展望てんぼうだい付近ふきんより撮影さつえい)
八郎潟はちろうがた防潮ぼうちょう水門すいもん
経緯けいい交会てん
八郎潟はちろうがた夕景ゆうけい

八郎潟はちろうがた(はちろうがた)は、秋田あきたけんにあるみずうみきゅう河川かせん馬場目川ばばめかわ水系すいけいぞくする[2]。かつては面積めんせき220km2と、日本にっぽん湖沼こしょう面積めんせきでは琵琶湖びわこだい2であったが、だい部分ぶぶん水域すいいき干拓かんたくによって陸地りくちされ、陸地りくち部分ぶぶん大潟おおがたむらになった。現在げんざいでは日本にっぽん湖沼こしょうにおいて18面積めんせきである[3]八郎はちろう[4]八郎潟はちろうがた残存ざんそんといった別名べつめいでもばれる。

狭義きょうぎには、南東なんとう八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちのことをし、現在げんざい八郎潟はちろうがた」としてしめされるデータのおおくは、ここで以下いかかかげたひょうふくめて「八郎潟調整池はちろうがたちょうせいち」のものである。

広義こうぎには、干拓かんたくまえ八郎潟はちろうがた範囲はんい反映はんえいした八郎潟調整池はちろうがたちょうせいち東部とうぶうけたまわ水路すいろ西部承水路せいぶしょうすいろ総称そうしょうである。2007ねん12月、この範囲はんいが「八郎はちろう」として湖沼こしょう水質すいしつ保全ほぜん特別とくべつ措置そちほう指定してい湖沼こしょうとなった。

地理ちり[編集へんしゅう]

秋田あきたけん西部せいぶ男鹿半島おがはんとう位置いち干拓かんたく中央ちゅうおう付近ふきん北緯ほくい40せん東経とうけい140せんの交会てんがある。10単位たんいでの交会てん陸地りくちにあるのはここが日本にっぽん唯一ゆいいつ地点ちてんである(領海りょうかいでは鹿児島かごしまけん口之島くちのしま沿岸えんがん付近ふきん存在そんざいする)。

狭義きょうぎ八郎潟はちろうがたである八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちは、男鹿おが潟上かたがみ南秋田みなみあきたぐん井川いかわまち五城目ごじょうめまち大潟おおがたむらにまたがっている[5]

東部とうぶうけたまわ水路すいろ西部承水路せいぶしょうすいろは、干拓かんたくまえみずうみ北側きたがわ外周がいしゅうにあたる部分ぶぶん大潟おおがたむらかこむようにして存在そんざいしており、北側きたがわ対岸たいがん三種さんしゅまちである。八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちとあわせた広義こうぎ八郎潟はちろうがたたたえ水面すいめんせきは48.3km2たっする。

南西なんせい船越ふなこし水道すいどう馬場目川ばばめかわ)が唯一ゆいいつ流出りゅうしゅつ河川かせんである。うみとの高低こうてい最大さいだいでも1.26mときわめてちいさいことから[6]海水かいすい逆流ぎゃくりゅうしてくるため、もともとは汽水みずうみであった。しかし大潟おおがたむら農業のうぎょう用水ようすいとして利用りようするには淡水たんすい必要ひつようがあったため[6]1961ねん昭和しょうわ36ねん)に完成かんせいした八郎潟はちろうがた防潮ぼうちょう水門すいもんによって船越ふなこし水道すいどうられ、ぶしごとに湖面こめん水位すいい一定いっていたもちながら流出りゅうしゅつさせるのみとなり、以降いこう淡水たんすいみずうみになっている[2]

また防潮ぼうちょう水門すいもん完成かんせいしたのち1962ねん昭和しょうわ37ねん)10がつから1964ねん昭和しょうわ39ねん)3がつにかけて、船越ふなこし水道すいどう排水はいすい能力のうりょくすため直線ちょくせん工事こうじおこなわれた[6]。かつての船越ふなこし水道すいどう天王てんのう砂丘さきゅう沿ってひがし蛇行だこうしており、現在げんざいかわあと存在そんざいして江川えがわ漁港ぎょこうとして利用りようされている。潟上かたがみ男鹿おがさかい現在げんざい船越ふなこし水道すいどうではなく、かわあと沿っている。

流入りゅうにゅう河川かせん[編集へんしゅう]

おも流入りゅうにゅう河川かせん以下いかとおり。

  • 西部承水路せいぶしょうすいろへの流入りゅうにゅう
    • 地図ちず名称めいしょう記載きさいされた河川かせんい)
  • 東部とうぶうけたまわ水路すいろへの流入りゅうにゅう
    • 浅内あさないがわ
    • 三種川みたねがわ
    • 牡丹ぼたんがわ
    • 新屋敷あらやしきがわ
    • いと流川ながれかわ
    • 鹿渡しかわたしがわ
    • 山谷川やまやがわ
    • 鯉川こいかわ
    • 天瀬川あませがわ
    • 夜叉袋やしゃふくろがわ
    • 馬場目川ばばめかわ本流ほんりゅう
  • 八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちへの流入りゅうにゅう左岸さがんがわ
    • 井川いかわ
    • 飯塚いいづかがわ
    • 妹川いもがわ
    • 豊川とよかわ
    • うま踏川
  • 八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちへの流入りゅうにゅう右岸うがんがわ
    • 船越ふなこしがわ
    • 小深おぶか見川みがわ
    • だいしょう深見ふかみがわ

橋梁きょうりょう[編集へんしゅう]

このほか北端ほくたん西部承水路せいぶしょうすいろ東部とうぶうけたまわ水路すいろさかいになっている築堤ちくていと、南西なんせい西部承水路せいぶしょうすいろ中央ちゅうおう幹線かんせん排水はいすい八郎潟調整池はちろうがたちょうせいち合流ごうりゅうする付近ふきん築堤ちくていに、大潟おおがたむら対岸たいがん市町しちょうむすみちかよっている(前者ぜんしゃ秋田あきたけんどう42ごう男鹿おが八竜はちりゅうせん)。

また参考さんこうまでに、船越ふなこし水道すいどうかるはしげる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

天保てんぽうこく絵図えず』より「出羽いずはこく秋田あきたりょう」(1838ねん)。
川瀬かわせともみすい秋田あきた八郎潟はちろうがた』(1927ねん昭和しょうわ2ねん
1948ねん八郎潟はちろうがた全景ぜんけい
帰属きぞく国土こくど交通こうつうしょう国土こくど画像がぞう情報じょうほう(カラー空中くうちゅう写真しゃしん)」
配布はいふもと国土こくど地理ちりいん地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス

北側きたがわ米代川よねしろがわ南側みなみがわ雄物川おものがわからそれぞれ土砂どしゃ堆積たいせきにより砂州さすび、離島りとうであった寒風山かんぷうざんたっして複式ふくしきりくつなぎとう男鹿半島おがはんとう形成けいせいされた。りょう砂州さすあいだのこったうみあと八郎潟はちろうがたである。面積めんせき琵琶湖びわこいで日本にっぽんで2番目ばんめひろさだった。

小規模しょうきぼ干拓かんたくは、江戸えど時代じだいからおこなわれていた[7]だい規模きぼ干拓かんたく計画けいかくは、明治めいじから昭和しょうわだい世界せかい大戦たいせんまえ)にかけてなんがったが、実現じつげんにはいたらなかった[7][8]可知かち貫一かんいちあんもと[9]戦後せんごになって立案りつあんされた本格ほんかくてき干拓かんたく計画けいかくは、食糧しょくりょう増産ぞうさんおよびはたらこうのない農家のうか次男じなん三男さんなん増加ぞうかしている問題もんだい解決かいけつ目的もくてきとして、干拓かんたく先進せんしんこくであるオランダから技術ぎじゅつ協力きょうりょくけて実施じっしされたもので、20ねん歳月さいげつやく852おくえん費用ひようとうじてやく17,000ha干拓かんたく造成ぞうせいされた[7]。この事業じぎょうは、サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくをオランダに批准ひじゅんさせるため、賠償金ばいしょうきんわりにオランダへ技術ぎじゅつ協力きょうりょく支払しはらだい規模きぼ事業じぎょうをアメリカからもとめられていた吉田よしだしげるたいし、建設省けんせつしょう住宅じゅうたくきょく職員しょくいん下河辺しもこうべあつし国土こくど事務次官じむじかん)が提案ていあんしたものだという[10]

工事こうじ1957ねん昭和しょうわ32ねん)に着工ちゃっこうして、1964ねん昭和しょうわ39ねん9月15にちに「干拓かんたくしき」とだいする式典しきてん開催かいさいした。干拓かんたくしきには吉武よしたけ恵市けいいち自治じち大臣だいじん赤城あかぎ宗徳むねのり農林のうりん大臣だいじん小畑おばた勇二郎ゆうじろう秋田あきた県知事けんちじらが参列さんれつした。同年どうねん10月1にち秋田あきたけんで73番目ばんめ当時とうじ)の自治体じちたいとして大潟おおがたむら発足ほっそくした。既存きそん自治体じちたい合併がっぺい分割ぶんかつともなわずにあらたな自治体じちたい発足ほっそくするのは、秋田あきたけんでは1889ねん明治めいじ22ねん)の市制しせい町村ちょうそんせい施行しこう以来いらいのことであり、日本にっぽん全体ぜんたいでも2019ねん時点じてん最後さいご事例じれいである。1965ねん5月27にち国営こくえい八郎潟はちろうがた干拓かんたくしん農村のうそん建設けんせつする八郎潟はちろうがたしん農村のうそん建設けんせつ事業じぎょうだんほう公布こうふされた。1967ねん昭和しょうわ42ねん)から入植にゅうしょく開始かいしし、全国ぜんこくから公募こうぼされた入植にゅうしょくしゃ移住いじゅうした。 1969ねん昭和しょうわ44ねん)には、昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごうおとずれ、排水はいすいじょう入植にゅうしょく指導しどう訓練くんれんじょうなどを視察しさつしている[11]全体ぜんたい事業じぎょう1977ねん昭和しょうわ52ねん)に竣工しゅんこうした。

しかし、事業じぎょう進行しんこうしているうちに日本にっぽん農業のうぎょう環境かんきょうおおきく変化へんかした[12]収穫しゅうかく品種ひんしゅ普及ふきゅう機械きかいなどによる平均へいきん収量しゅうりょう増加ぞうかべい増産ぞうさん重要じゅうよう課題かだいではなくなり、高度こうど経済けいざい成長せいちょうともな都市とし発展はってん労働ろうどうしゃ需要じゅよう増加ぞうかしたこと農家のうか次男じなん三男さんなん就労しゅうろう問題もんだい縮小しゅくしょうし、八郎潟はちろうがた干拓かんたく当初とうしょ目的もくてきからはなれて「日本にっぽん農業のうぎょうのモデル」実現じつげんへと転換てんかんした[12]。のみならず1970ねん昭和しょうわ45ねん)、政府せいふべい生産せいさん調整ちょうせい減反げんたん政策せいさく)を開始かいしし、大潟おおがたむらへの入植にゅうしょくしゃ公募こうぼ同年どうねん中止ちゅうし1973ねん昭和しょうわ48ねん)に再開さいかいされたがそれを最後さいごられた(例外れいがいてき1978ねん昭和しょうわ53ねん〕の玉川たまがわダム建設けんせつ保障ほしょうで9新規しんき入植にゅうしょく[12]。このため、最終さいしゅうてきべい増産ぞうさん目指めざしていた干拓かんたく事業じぎょうは、失敗しっぱいした計画けいかくとする見解けんかいもある(ただし大潟おおがたむら秋田あきた県内けんない一番いちばんこう収入しゅうにゅう地域ちいきとなっており農業のうぎょうにおけるたか生産せいさんせいについては実現じつげんしている)。環境かんきょうめんでも、魚介ぎょかいるい水生すいせい植物しょくぶつゆたかだったみずうみ面積めんせき大幅おおはばせばめ、沿岸えんがん湿地しっちうしなわれたことをなげきもある。

1983ねん昭和しょうわ58ねん)5がつ26にち発生はっせいした日本海にほんかい中部ちゅうぶ地震じしんで、干拓かんたく堤防ていぼう防潮ぼうちょう水門すいもん破損はそんしょうじた。いずれもすぐに修復しゅうふくされたが、防潮ぼうちょう水門すいもん機能きのう低下ていかおおきな災害さいがいこすことが予想よそうされたため、きゅう水門すいもん破棄はきして新造しんぞうすることになった。2001ねん平成へいせい13年度ねんど)に着工ちゃっこうし、2007ねん平成へいせい19年度ねんど)に完成かんせいした。しん水門すいもんきゅう水門すいもんより20m上流じょうりゅう設置せっちされている。

生物せいぶつとその利用りよう[編集へんしゅう]

干拓かんたくまえ漁業ぎょぎょうさかんにおこなわれていた[7]当時とうじ汽水みずうみだったため、シジミおおれていたほか、シラウオカレイボラコイなどが水揚みずあげされていた。はるからあきにかけては巨大きょだいしろったながさ12m程度ていどの「かたせん」(かたぶね)による、ふゆこおりっての人力じんりきによるもうおもだった。かたせん霞ヶ浦かすみがうら茨城いばらきけん)からつたわった。また「モク」とばれる沈水植物しょくぶつ家屋かおく雪囲ゆきがこいや敷物しきもの肥料ひりょうなどに使つかわれていた[13]八郎潟はちろうがた漁業ぎょぎょうについての資料しりょう漁具ぎょぐは、潟上かたがみみちえきてんのう保存ほぞん展示てんじされている[14]

八郎潟はちろうがたではこおり漁労ぎょろうおこなわれた。1794ねん寛政かんせい6ねん久保田くぼた城下じょうかじょうさかなまち高桑たかくわ與四郎よしろうが、諏訪湖すわこおもむいてこおり漁労ぎょろうほう漁網ぎょもう制作せいさくほう伝授でんじゅされ、その方法ほうほう八郎潟はちろうがた漁民ぎょみん一般いっぱんつたおおいにぎょう盛大せいだいになった。1804ねん文化ぶんか元年がんねん高桑たかくわ與四郎よしろう上申じょうしんによって久保田くぼたはんさかなやくぎん上納じょうのう制度せいどさだめて、同人どうじん漁業ぎょぎょう取締とりしまりぎん取立とりたてやくめいじ、やくぎん半分はんぶん同人どうじん賞賜しょうし篤志とくし功労こうろうむくいた[15]

干拓かんたく漁業ぎょぎょう八郎潟調整池はちろうがたちょうせいちでの限定げんていてきなものとなり、淡水たんすいによってシジミの収量しゅうりょう減少げんしょうしている。冬期とうきあいだこおった湖面こめんじょうワカサギりがよくおこなわれているが、ブラックバスなどの外来がいらいぎょ流入りゅうにゅう在来ざいらいしゅ減少げんしょう確認かくにんされ、その対策たいさくおこなわれている。

名前なまえ由来ゆらい[編集へんしゅう]

八郎潟はちろうがた名称めいしょう由来ゆらいとしては、ひとからりゅうへと姿すがたえられた八郎はちろう太郎たろうというりゅうが、放浪ほうろうすえに棲家としてえらんだという伝説でんせつかたつたえられている。ただし伝説でんせつにおいても、八郎はちろう太郎たろうのち田沢湖たざわこうつみ、いま八郎潟はちろうがたには滅多めったもどらないとされている。

また、斎藤さいとう隆介りゅうすけ八郎潟はちろうがた由来ゆらいについて独自どくじ解釈かいしゃくにてえがいた児童じどう文学ぶんがく作品さくひん八郎はちろう』を執筆しっぴつし、小学校しょうがっこう国語こくご教科書きょうかしょ採用さいようされたことがある[16]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 国土こくど地理ちりいん (2015ねん3がつ6にち). “平成へいせい26ねん全国ぜんこく都道府県とどうふけん市区しく町村ちょうそんべつ面積めんせき調ちょう 湖沼こしょう面積めんせき” (PDF). 2015ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 秋田あきたけん (2007ねん4がつ). “二級河川馬場目川水系河川整備基本方針” (PDF). 2015ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ 国土こくど地理ちりいん (2015ねん3がつ6にち). “平成へいせい26ねん全国ぜんこく都道府県とどうふけん市区しく町村ちょうそんべつ面積めんせき調ちょう 湖沼こしょう面積めんせき20すぐる” (PDF). 2015ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ 秋田あきたけん地誌ちしりゃく』、1875ねん、16ぺーじ。PDFファイルの8まい
  5. ^ 水面すいめん一部いちぶ境界きょうかい未定みていであり、5.77km2大潟おおがたむらぞくするほかは、21.97km2部分ぶぶんについて男鹿おが潟上かたがみ五城目ごじょうめまち井川いかわまちにおける境界きょうかいさだまっていない。(どう面積めんせき調ちょう
  6. ^ a b c 大潟おおがたむら百科ひゃっか事典じてん 歴史れきし 八郎潟はちろうがた干拓かんたく工事こうじ
  7. ^ a b c d 小林こばやし智仁ともひと藤田ふじたりゅう知野ちの泰明やすあき八郎潟はちろうがた干拓かんたく事業じぎょう成立せいりつ過程かていかんするいち考察こうさつ」『土木どぼく研究けんきゅうだい21かん土木どぼく学会がっかい、2001ねん、193-198ぺーじdoi:10.2208/journalhs1990.21.193 
  8. ^ ニュース映像えいぞう だい52ごう|ニュース映像えいぞうNHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス(日本にっぽんニュース<週間しゅうかん話題わだい>1941ねん昭和しょうわ16ねん)6がつ3にち公開こうかい、1ふん
  9. ^ 可知かち貫一かんいち 保古ほごみずうみみのおや公民館こうみんかんほうひがしの24ごう、1985.9.20
  10. ^ 秋田あきたいさお新報しんぽう電子でんしばん 下河辺しもこうべ八郎潟はちろうがた干拓かんたく首相しゅしょう進言しんげん オランダ講和こうわ懐柔かいじゅうさく 2016ねん12月25にち閲覧えつらん
  11. ^ はら武史たけし昭和しょうわ天皇てんのう御召おめし列車れっしゃぜん記録きろく新潮社しんちょうしゃ、2016ねん9がつ30にち、134ぺーじISBN 978-4-10-320523-4 
  12. ^ a b c 新野しんの直吉なおきちほか『近代きんだい秋田あきた秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ、1991ねん11がつ20日はつか、301-306ぺーじISBN 4-87020-089-9 
  13. ^ 石川いしかわ久保ひさやす八郎潟はちろうがたよみがえるはら風景ふうけい干拓かんたくまえもう漁船ぎょせん復元ふくげん水辺みずべ活気かっきもどす◇」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2017ねん5がつ5にち文化ぶんかめん
  14. ^ かた民俗みんぞく展示てんじしつ紹介しょうかい”. みちえきてんのうスカイタワー(公式こうしきサイト). 2017ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  15. ^ 佐竹さたけ義和よしかずおおやけ頌徳しゅう あきら』、天樹院てんじゅいんこう頌徳しゅう編纂へんさんかい、1921ねん、p.60
  16. ^ 過去かこ教科書きょうかしょ - 教育きょういく出版しゅっぱん”. www.kyoiku-shuppan.co.jp. 2024ねん1がつ13にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]