秋山あきやま恒太郎つねたろう

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秋山あきやま 恒太郎つねたろう
誕生たんじょう 1844ねんひろし元年がんねん6がつ)?
越後えちごこく古志こしぐん長岡ながおかげん新潟にいがたけん長岡ながおか
別名べつめい 不羈ふきときごう
死没しぼつ 1911ねん6月7にち享年きょうねん68?)
東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごうげん東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう
職業しょくぎょう 教育きょういくしゃ官吏かんり
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
代表だいひょうさく百科全書ひゃっかぜんしょ 人種じんしゅへん』(1874ねん
百科全書ひゃっかぜんしょ せっ物論ぶつろん』(1880ねん
配偶はいぐうしゃ フキ(藤野ふじの小五郎こごろうむすめ
子供こども えい麿まろ於菟おと麿まろよん麿まろ
親族しんぞく 景山かげやま祖父そふ)、四郎しろう左衛門さえもん祖父そふ)、ひだりない養父ようふ)、藤野ふじの善蔵ぜんぞう義兄ぎけい
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秋山あきやま 恒太郎つねたろう(あきやま つねたろう[1] / こうたろう[2]1844ねんひろし元年がんねん6がつ[3][4]? - 1911ねん明治めいじ44ねん6月7にち)は明治めいじ時代じだい日本にっぽん教育きょういくしゃ文部もんぶ官僚かんりょうごう不羈ふきとき[5]

官立かんりつ長崎ながさき師範しはん学校がっこう官立かんりつ東京とうきょう師範しはん学校がっこう筑波大学つくばだいがく前身ぜんしんの1つ)をはじめ、各地かくち県立けんりつ師範しはん学校がっこう中学校ちゅうがっこう校長こうちょう歴任れきにんした。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

越後えちごこく長岡ながおかまれる[6]長岡ながおか藩校はんこうたかしとくかん初代しょだいこう秋山あきやま景山かげやま嗣子しし四郎しろう左衛門さえもんまごにあたり、四郎しろう左衛門さえもん婿養子むこようし左内さない養子ようしとなって秋山あきやまいだ[7]安政あんせい初年しょねん1855ねんころ)、幕府ばくふ老中ろうじゅうつとめていた藩主はんしゅ牧野まきのただしみやびいのちにより小林こばやしよし藤野ふじの善蔵ぜんぞうたけけんときの3めい江戸えど遊学ゆうがく[8]儒学じゅがくしゃ安井やすい息軒そくけんもんまなんだ[9]。また慶応けいおう2ねん1866ねんごろ帰郷ききょうしていた長岡ながおかはん出身しゅっしん幕臣ばくしん鵜殿うどのだん次郎じろう春風しゅんぷう)としたしく交際こうさい蘭学らんがく英学えいがくおさ測量そくりょうじゅつ航海こうかいじゅつ兵学へいがくつうじていたこの先輩せんぱいから門弟もんてい同然どうぜんおしえをけた[10]鵜殿うどの目付めつけしょくいていた慶応けいおう4ねん1868ねん)には秋山あきやま出府しゅっぷしており、江戸えど開城かいじょう北越ほくえつ戦争せんそう開戦かいせん同年どうねん初秋しょしゅうまくしょくした鵜殿うどのとともに江戸えど出発しゅっぱつ長岡ながおかしろ落城らくじょうののちようやくはんしたが、鵜殿うどのはほどなくやまいにより38さいわかさでこのった[11]

その秋山あきやま新都しんと東京とうきょうもどり、山東さんとうじゅく教師きょうして、明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ同郷どうきょう稲垣いながきぎん藤野ふじの善蔵ぜんぞうらにつづ福澤ふくさわ諭吉ゆきち主宰しゅさいする慶應義塾けいおうぎじゅく入社にゅうしゃ[12]。8月には藤野ふじの稲垣いながきとともに汐留しおどめ中津なかつ藩邸はんていうちもうけられたよしじゅく出張所しゅっちょうしょ教師きょうしとなり、文典ぶんてん素読そどく担当たんとうした[13]明治めいじ3ねん1870ねん)8がつ稲垣いながき伊予いよ松山まつやまはん藩校はんこうあかりきょうかん新設しんせつされたようてん教師きょうしとしてまねかれると、秋山あきやま稲葉いなばさいろう中村なかむら田吉たよしとともによしじゅくから派遣はけんされ、廃藩置県はいはんちけんにともないあかりきょうかん閉鎖へいさされる明治めいじ5ねんごろまで英語えいご数学すうがく教授きょうじゅ中島なかじままさる杉山すぎやま重義しげよし山路やまじいちゆうらがおしえをけた[14]

松山まつやまから帰京ききょう谷中たになか下宿げしゅく翻訳ほんやく従事じゅうじしていたが、明治めいじ6ねん1873ねん)10がつ出版しゅっぱん免許めんきょ事務じむ担当たんとうする文部省もんぶしょうじゅんこくやといとなり、明治めいじ7ねん1874ねん)2がつ文部省もんぶしょうななとう出仕しゅっし翌年よくねん5がつ文部省もんぶしょうろくとう出仕しゅっしすすんだ。ななとう出仕しゅっしすすんでからは、すでにじゅんこく課長かちょうつとめていた慶應義塾けいおうぎじゅく先輩せんぱい肥田ひだ昭作しょうさくならんで課長かちょう就任しゅうにん同年どうねん9がつ肥田ひだ学校がっこうちょう転出てんしゅつすると単独たんどく課長かちょうとなったほか[3][15]、12月には文部もんぶ大輔だいすけ田中たなか不二麿ふじまろ学務がくむ課長かちょう九鬼くき隆一りゅういち医務いむ局長きょくちょう長与ながよ専斎せんさいとともに、前年ぜんねん福澤ふくさわらが設立せつりつした学術がくじゅつ団体だんたいあかりろくしゃ加入かにゅうしている[16]。しかし明治めいじ8ねん1875ねん)7がつ自身じしん反対はんたいしていたじゅんこく事務じむ内務省ないむしょう移管いかんならびに新聞紙しんぶんし条例じょうれい制定せいてい実施じっしされたことにより、内務省ないむしょううつらずしょくした[3][17]

文部もんぶ本省ほんしょうった秋山あきやま以後いご各地かくち師範しはん学校がっこう中学校ちゅうがっこう校長こうちょう歴任れきにん明治めいじ9ねん1876ねん)3がつから11がつまで、学校がっこう騒動そうどう発生はっせい前任ぜんにん校長こうちょう更迭こうてつされた官立かんりつ長崎ながさき師範しはん学校がっこう校長こうちょうつとめ、臨時りんじ卒業そつぎょう試験しけん実施じっしにより学業がくぎょう専心せんしん奨励しょうれいした。いで明治めいじ10ねん1877ねん)2がつから翌年よくねん10がつまで官立かんりつ東京とうきょう師範しはん学校がっこうに、明治めいじ12ねん1879ねん)11月から明治めいじ14ねん1881ねん)5がつまで静岡しずおかけん浜松はままつ中学校ちゅうがっこう勤務きんむ[3][18]明治めいじ15ねん1882ねん)1がつには、学校がっこう騒動そうどうにより校長こうちょう以下いか職員しょくいん辞職じしょく、ほぼすべての生徒せいと退学たいがく休校きゅうこう状態じょうたいにあった宮城みやぎ中学校ちゅうがっこう校長こうちょうにんじられ、学校がっこうなおしに尽力じんりょくした。また明治めいじ17ねん1884ねん)7がつから宮城みやぎ師範しはん学校がっこう明治めいじ19ねん11月に宮城みやぎけん尋常じんじょう師範しはん学校がっこう改称かいしょう校長こうちょう兼任けんにんし、明治めいじ19ねん1886ねん)7がつ師範しはん学校がっこう専任せんにんとなったのち明治めいじ21ねん1888ねん)5がつまで在職ざいしょく。このあいだ明治めいじ15ねん4がつから翌年よくねん3がつまでけん学務がくむ課長かちょう心得こころえを、明治めいじ19ねん11月からけん学務がくむ課長かちょうを、明治めいじ18ねん1885ねん)2がつから宮城みやぎけん書籍しょせきかんちょう兼務けんむしている[3][19]。さらに明治めいじ23ねん1890ねん)3がつ学校がっこう騒動そうどうによりほとんどの職員しょくいん退職たいしょく休校きゅうこうとなっていた富山とやまけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうまねかれ、ここでも学校がっこう再建さいけん主導しゅどう明治めいじ30ねん1897ねん)1がつ綱紀こうきみだれがいちじるしかった青森あおもりけんだいいち尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう明治めいじ32ねん青森あおもりけんだいいち中学校ちゅうがっこう明治めいじ34ねん青森あおもり県立けんりつだいいち中学校ちゅうがっこう改称かいしょう)にてんじ、時間じかん厳守げんしゅ励行れいこう喫煙きつえん禁止きんし落第らくだい厳格げんかくなどにより校風こうふう刷新さっしんはかった。明治めいじ35ねん1902ねん)1がつには福井ふくい県立けんりつ福井ふくい中学校ちゅうがっこう異動いどうとなり、前任ぜんにん校長こうちょうんだ粗野そや軽佻けいちょう校風こうふう刷新さっしんをさらに強化きょうか全校ぜんこうの3ぶんの1にのぼる生徒せいと落第らくだい断行だんこうするなど学力がくりょく向上こうじょうつとめた。明治めいじ38ねん1905ねん)11月にしょくしたのちも、青森あおもり時代じだい県庁けんちょう幹部かんぶであった神山かみやまうるう群馬ぐんま県知事けんちじわれて明治めいじ42ねん1909ねん)2がつから群馬ぐんま県立けんりつ前橋まえばし中学校ちゅうがっこうちょうつとめたが、在職ざいしょくちゅう明治めいじ44ねん1911ねん6月7にちやまいにより東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく附属ふぞく医院いいん死去しきょした[3][20]

秋山あきやま蔵書ぞうしょであり、「不羈ふきとき書記しょき」の蔵書ぞうしょしるしもちいたことがられている[5]明治めいじ10ねんごろ東京とうきょう師範しはん学校がっこうが2まんえん支出ししゅつして珍籍ちんせきふく参考さんこうよう図書としょ蒐集しゅうしゅうしたさいには小沢おざわけい次郎じろうらとともに尽力じんりょく。これにより同校どうこう附属ふぞく図書館としょかん基礎きそきずかれたという[21]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

訳書やくしょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ うえ新聞しんぶんだい7359ごう、『仙台せんだい人名じんめいだい辞書じしょ』、『越佐こつさ人物じんぶつ 補遺ほいへん』、『新潟にいがたけんだい百科ひゃっか事典じてん 上巻じょうかん』、『福沢ふくさわ諭吉ゆきち門下もんか』。
  2. ^ 今泉いまいずみ鐸次ろうちょ鵜殿うどの春風はるか今泉いまいずみ鐸次ろう、1912ねん9がつ、18ぺーじほか、『ふるさと 長岡ながおかのひとびと』、『長岡ながおか歴史れきし事典じてん』、「維新いしん北越ほくえつ長岡ながおか福沢ふくさわ諭吉ゆきち」(小林こばやしひろしちょ日本にっぽんにおける 立法りっぽうほう解釈かいしゃく史的してき研究けんきゅう だいさんかん 近代きんだい汲古書院しょいん、2009ねん11月、ISBN 9784762942044)306ぺーじ
  3. ^ a b c d e f 叙位じょい裁可さいかしょ明治めいじさんじゅういちねん叙位じょいまき」。
  4. ^ 生年せいねんには諸説しょせつあり、『現代げんだい人名じんめい辞典じてん』、『国際こくさいじん事典じてん』は天保てんぽう3ねん1832ねん)、『慶応義塾けいおうぎじゅく出身しゅっしん名流めいりゅう列伝れつでん』は天保てんぽう4ねん1833ねん)、『新潟にいがたけんだい百科ひゃっか事典じてん 上巻じょうかん』は天保てんぽう10ねん1839ねん)、『福沢ふくさわ諭吉ゆきち門下もんか』は天保てんぽう13ねん1842ねん)、『うえ新聞しんぶんだい7359ごう天保てんぽう14ねん1843ねん)、『ふるさと 長岡ながおかのひとびと』、『長岡ながおか歴史れきし事典じてん』は1844ねん天保てんぽう15ねんひろし元年がんねん)とする。
  5. ^ a b ぞうてい 新編しんぺん蔵書ぞうしょ印譜いんぷ じょう』。
  6. ^ 慶応義塾けいおうぎじゅく出身しゅっしん名流めいりゅう列伝れつでん』、『現代げんだい人名じんめい辞典じてん』、『新潟にいがたけんだい百科ひゃっか事典じてん 上巻じょうかん』、『福沢ふくさわ諭吉ゆきち門下もんか』、『長岡ながおか歴史れきし事典じてん』。
  7. ^ 文武ぶんぶ藩儒はんじゅしゃ 秋山あきやま景山かげやま』 211ぺーじ
  8. ^ 今泉いまいずみ鐸次ろうちょ河井かわい継之助つぐのすけでん増補ぞうほ改版かいはん目黒めぐろ書店しょてん、1931ねん8がつ、194ぺーじ
  9. ^ うえ新聞しんぶんだい7359ごう、『ふるさと 長岡ながおかのひとびと』、『長岡ながおか歴史れきし事典じてん』。
  10. ^ 前掲ぜんけい鵜殿うどの春風はるか』 22-23ぺーじ40ぺーじ30ぺーじ前掲ぜんけい維新いしん北越ほくえつ長岡ながおか福沢ふくさわ諭吉ゆきち」 308-309ぺーじ蒲原かんばらひろし新潟にいがたけんにおける洋学ようがく系譜けいふ」(田崎たさき哲郎てつろうへんざいむら蘭学らんがく展開てんかい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1992ねん3がつISBN 4784207015)234ぺーじ
  11. ^ 前掲ぜんけい鵜殿うどの春風はるか』 24-26ぺーじ28-30ぺーじ36ぺーじ49-51ぺーじ
  12. ^ 前掲ぜんけい維新いしん北越ほくえつ長岡ながおか福沢ふくさわ諭吉ゆきち」 306-307ぺーじ丸山まるやましん草創そうそう慶応義塾けいおうぎじゅく長岡ながおか藩士はんし」(『福沢ふくさわ手帖てちょうだい22ごう福沢ふくさわ諭吉ゆきち協会きょうかい、1979ねん9がつ)22ぺーじ。『慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう 1』。
  13. ^ 慶応義塾けいおうぎじゅくへん慶応義塾けいおうぎじゅくひゃくねん 上巻じょうかん慶応義塾けいおうぎじゅく、1958ねん11月、263ぺーじ307-310ぺーじ私立しりつ慶応義塾けいおうぎじゅく編纂へんさん慶応義塾けいおうぎじゅくじゅうねん私立しりつ慶応義塾けいおうぎじゅく、1907ねん4がつ、62-63ぺーじ。『慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう 2』。
  14. ^ まきざい學舎がくしゃ」(東京とうきょう都立とりつ教育きょういく研究所けんきゅうじょへん東京とうきょう教育きょういく資料しりょう大系たいけい だいさんかん東京とうきょう都立とりつ教育きょういく研究所けんきゅうじょ、1972ねん1がつ)。「おもかたる」(大野おおのしず武内たけうちこうしょうへんてんしゅう : 山路やまじいちゆう先生せんせい遺稿いこう青葉あおば図書としょ、1976ねん11月)79-82ぺーじ内藤ないとう鳴雪めいせつ明治めいじ初年しょねん松山まつやま洋学ようがく」(『伊予いよ史談しだんだい189〜191合併がっぺいごう伊予いよ史談しだんかい、1968ねん6がつ)37-38ぺーじ教育きょういく編集へんしゅうしつへん愛媛えひめけん教育きょういく だいいちかん愛媛えひめけん教育きょういくセンター、1971ねん3がつ、284-286ぺーじ
  15. ^ 慶応義塾けいおうぎじゅく出身しゅっしん名流めいりゅう列伝れつでん』。東京大学とうきょうだいがく文書ぶんしょかん所蔵しょぞう 文部省もんぶしょう往復おうふく同省どうしょう直轄ちょっかつ学校がっこう往復おうふく 明治めいじろくねんぶんよんさつうちひのとごう」 224ちょうひょう229ちょううらどう 文部省もんぶしょう往復おうふく 明治めいじななねんぶんさんさつうちかぶとごう」 184ちょうひょう慶應義塾けいおうぎじゅくへん福澤ふくさわ諭吉ゆきち書簡しょかんしゅう だいいちかん岩波書店いわなみしょてん、2001ねん1がつISBN 4000924214、293ぺーじ。「文部省もんぶしょう事務じむ分課ぶんか」(東京とうきょう都立とりつ教育きょういく研究所けんきゅうじょへん東京とうきょう教育きょういく資料しりょう体系たいけい だいかん東京とうきょう都立とりつ教育きょういく研究所けんきゅうじょ、1971ねん11月)。
  16. ^ 戸沢とざわ行夫ゆきおちょあかりろくしゃひとびと』 築地つきじしょかん、1991ねん4がつISBN 4806756903、53ぺーじ、75-77ぺーじ
  17. ^ 国際こくさいじん事典じてん』。石河いしかわみきあきらちょ福沢ふくさわ諭吉ゆきちでん だいかん岩波書店いわなみしょてん、1932ねん3がつ、339-341ぺーじ勝田かつた政治せいじちょ内務省ないむしょう明治めいじ国家こっか形成けいせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん2がつISBN 464203739X、178-179ぺーじ
  18. ^ 平田ひらたはじめ官立かんりつ長崎ながさき師範しはん学校がっこう」(『福岡教育大学ふくおかきょういくだいがく紀要きようだい4さつだい32ごう、1983ねん2がつNAID 120006379558)。「うまれてななじゅうねん」(菅原すがわら道明みちあき編纂へんさん古稀こきらいあおさとえん、1926ねん7がつ)93-95ぺーじ創立そうりつろくじゅうねん東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく、1931ねん10がつ、17-21ぺーじ静岡しずおかけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいはち年報ねんぽう附録ふろく』)194-195ぺーじ静岡しずおかけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいきゅう年報ねんぽう附録ふろく』)276ぺーじ静岡しずおか県立けんりつ浜松はままつきた高等こうとう学校がっこうひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかいへん浜松はままつきただかひゃくねん静岡しずおか県立けんりつ浜松はままつきた高等こうとう学校がっこう、1994ねん10がつ、39-41ぺーじ
  19. ^ 宇野うのりょうかいちょ明治めいじ初年しょねん宮城みやぎ教育きょういくたからぶんどう、1973ねん2がつ、182-183ぺーじ宮城みやぎけん教育きょういく委員いいんかいへん宮城みやぎけん教育きょういくひゃくねん だいよんかん 資料しりょうへんぎょうせい、1979ねん3がつ、368-369ぺーじどう宮城みやぎけん教育きょういくひゃくねん だいいちかん 明治めいじへん』 ぎょうせい、1976ねん3がつ、246-259ぺーじ、627-629ぺーじ宮城みやぎけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいじゅう年報ねんぽう附録ふろく』)428-429ぺーじ宮城みやぎけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいじゅういち年報ねんぽう附録ふろく』)382ぺーじ宮城みやぎけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいじゅう年報ねんぽう附録ふろく』)212-214ぺーじ宮城みやぎけん年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいじゅうさん年報ねんぽう附録ふろく』)42ぺーじ
  20. ^ とみ中富なかとみだかひゃくねん富山とやま高等こうとう学校がっこう創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう後援こうえんかい、1985ねん10がつ、63-65ぺーじ、71-73ぺーじ、91-94ぺーじ記念きねん作成さくせい委員いいんかいへんかがみおかひゃくねんひろだか創立そうりつひゃくねん記念きねん事業じぎょう協賛きょうさんかい、1983ねん10がつ、33-36ぺーじ、76ぺーじ。『福井ふくいけん藤島ふじしま高等こうとう学校がっこうひゃくねん福井ふくいけん藤島ふじしま高等こうとう学校がっこう、1956ねん11月、57ぺーじ、180-182ぺーじ、241-242ぺーじ前橋まえばし高等こうとう学校がっこうこう編纂へんさん委員いいんかいへん前橋まえばし高校こうこうはちじゅうななねん 上巻じょうかん前橋まえばし高等こうとう学校がっこう、1964ねん3がつ、519-520ぺーじ、528-531ぺーじ。なお官報かんぽうだい8392ごう、1911ねん6がつ14にち、279ぺーじ、『時事新報じじしんぽうだい9959ごう、『福沢ふくさわ諭吉ゆきち門下もんか』は6がつ8にち死去しきょとする。
  21. ^ 明治めいじ初年しょねん師範しはん教育きょういく」(加藤かとう仁平にへいちょ日本にっぽん精神せいしん発展はってん教育きょういくどう文書ぶんしょいん、1934ねん4がつ)318ぺーじ小西こにししんはち友人ゆうじんとしての三宅みやけくん」(秋元あきもと正親まさちか編輯へんしゅう文学ぶんがく博士はかせ三宅みやけ米吉よねきちくん 東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう在職ざいしょくじゅうねん祝賀しゅくが 記念きねん茗渓かい、1913ねん12がつ)74ぺーじ。「小沢おざわけい次郎じろうよいえん)」(川瀬かわせ一馬かずまちょ日本にっぽんにおける 書籍しょせき蒐蔵の歴史れきしぺりかんしゃ、1999ねん2がつISBN 4831508632)。
  22. ^ 文武ぶんぶ藩儒はんじゅしゃ 秋山あきやま景山かげやま』 28ぺーじ、181ぺーじ、211ぺーじ
  23. ^ 文武ぶんぶ藩儒はんじゅしゃ 秋山あきやま景山かげやま』 28ぺーじ、211ぺーじ長岡ながおか市役所しやくしょ編纂へんさん長岡ながおか長岡ながおか市役所しやくしょ、1931ねん8がつ、546ぺーじ549ぺーじ600ぺーじ
  24. ^ 山下やました重一しげかず小林こばやしひろしへんじょういずみ太郎たろう著作ちょさくしゅう長岡ながおか、1998ねん3がつ、261ぺーじ、269-270ぺーじ
  25. ^ a b 時事新報じじしんぽうだい9959ごう
  26. ^ だい六高等学校教授秋山於菟麿位階追陞ノけん」(「叙位じょい裁可さいかしょ大正たいしょうじゅうねん叙位じょいまきさんじゅう」)。
  27. ^ 秋山あきやまよん麿まろ」(内尾うちお直二なおじ編輯へんしゅうだいじゅうよんはん 人事じんじ興信録こうしんろく じょう人事じんじ興信所こうしんじょ、1943ねん10がつ)。学校がっこう法人ほうじん日本にっぽん体育たいいくかいひゃくねん編纂へんさん委員いいんかい編纂へんさん学校がっこう法人ほうじん日本にっぽん体育たいいくかいひゃくねん学校がっこう法人ほうじん日本にっぽん体育たいいくかい、1991ねん10がつ、1912-1914ぺーじ。『茗渓かいななじゅうねん茗渓かい、1952ねん、140ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 青森あおもりけんだい一尋常中学校長秋山恒太郎外一名特旨ヲ以テ位記いきたまものフノけん」(国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう叙位じょい裁可さいかしょ明治めいじさんじゅういちねん叙位じょいまき」)
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(三田みた商業しょうぎょう研究けんきゅうかいへん慶応義塾けいおうぎじゅく出身しゅっしん名流めいりゅう列伝れつでん実業じつぎょう世界せかいしゃ、1909ねん6がつ
  • 死亡しぼう広告こうこく(『時事新報じじしんぽうだい9959ごう、1911ねん6がつ9にち、8めん
  • 秋山あきやま校長こうちょうく : 献身けんしんてきろう教育きょういく」(『うえ新聞しんぶんだい7359ごう、1911ねん6がつ10日とおか
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(古林ふるばやし亀治郎かめじろうへん現代げんだい人名じんめい辞典じてん中央ちゅうおう通信つうしんしゃ、1912ねん6がつ
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(菊田きくたじょうさとへん仙台せんだい人名じんめいだい辞書じしょ仙台せんだい人名じんめいだい辞書じしょ刊行かんこうかい、1933ねん2がつ歴史れきし図書としょしゃ、1974ねん6がつつづけ仙台せんだい人名じんめい辞書じしょ刊行かんこうかい、1981ねん3がつ仙台せんだい郷土きょうど研究けんきゅうかい、2000ねん5がつISBN 4832301055
  • 秋山あきやま覊齋」(丸山まるやまおっとほかへん蔵書ぞうしょめい印譜いんぷ だい輯』 白雲しらくもほら、1953ねん7がつ朝倉あさくら治彦はるひこへん蔵書ぞうしょめい印譜いんぷ臨川りんせん書店しょてん、1977ねん12月改訂かいてい新版しんぱん
    • 中野なかのさんさとしへん近代きんだい蔵書ぞうしょ印譜いんぷ へんあおどう書店しょてん日本にっぽん書誌しょしがく大系たいけい〉、1986ねん1がつ
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  • 秋山あきやま恆太郎つねたろう」(丸山まるやましん編著へんちょ福沢ふくさわ諭吉ゆきちとその門下もんか書誌しょし慶応けいおう通信つうしん、1970ねん5がつ
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(牧田まきた利平りへいへん越佐こつさ人物じんぶつ 補遺ほいへん野島のじま出版しゅっぱん、1974ねん6がつ
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  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(エス・ケイ・ケイへん国際こくさいじん事典じてん : 幕末ばくまつ明治めいじ毎日まいにちコミュニケーションズ、1991ねん6がつISBN 4895631605本編ほんぺん4-5ぺーじ資料しりょうへん8ぺーじ
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(長岡ながおかへん 『ふるさと 長岡ながおかひとびと』 長岡ながおか、1998ねん3がつ
  • 稲川いながわ明雄あきお秋山あきやま恒太郎つねたろう」(『長岡ながおか歴史れきし事典じてん長岡ながおか、2004ねん3がつ
  • 小川おがわ和也かずやちょ文武ぶんぶ藩儒はんじゅしゃ 秋山あきやま景山かげやま角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん角川かどかわ叢書そうしょ〉、2011ねん2がつISBN 9784047021518
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう編集へんしゅう委員いいんかいへん慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう 1 じゅくいん塾生じゅくせい資料しりょう集成しゅうせい慶應義塾けいおうぎじゅく、2012ねん10がつ
  • 秋山あきやま恒太郎つねたろう」(慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう編集へんしゅう委員いいんかいへん慶應義塾けいおうぎじゅく150ねん資料集しりょうしゅう 2 教職員きょうしょくいん教育きょういく体制たいせい資料しりょう集成しゅうせい 基礎きそ資料しりょうへん慶應義塾けいおうぎじゅく、2016ねん3がつ

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 江村えむらせい秋山あきやま恒太郎つねたろうおう」(『教育きょういくかいだい5かんだい3ごう金港きんこうどう書籍しょせき、1906ねん1がつ
  • 柏木かしわぎ義円ぎえん先師せんしたいする懺悔ざんげ : 星野ほしのひさし先生せんせい秋山あきやま恒太郎つねたろう先生せんせい新島にいじまじょう先生せんせい」(『うえきょうかい月報げっぽうだい227ごううえきょうかい月報げっぽうしゃ、1917ねん10がつ
  • 福澤ふくさわ諭吉ゆきち文部省もんぶしょう秋山あきやま恆太郎つねたろう肥田ひだ昭作しょうさくそして北畠きたばたけおさむぼうけんちゅう判事はんじ」(大家だいけ重夫しげおちょ著作ちょさくけん確立かくりつした人々ひとびと成文せいぶんどう成文せいぶんどう選書せんしょ〉、2003ねん5がつISBN 4792331773だい2はん、2004ねん3がつISBN 4792331854

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 小杉こすぎ恒太郎つねたろう - 秋山あきやまおなじく、慶應義塾けいおうぎじゅく出身しゅっしん師範しはん学校がっこう中学校ちゅうがっこう校長こうちょう文部省もんぶしょう課長かちょうつとめた明治めいじ時代じだい教育きょういくしゃ官僚かんりょう(1850 - 1904)。和歌山わかやまはん出身しゅっしん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
平野ひらのぞういち
群馬ぐんま県立けんりつ前橋まえばし中学校ちゅうがっこうなが
1909ねん - 1911ねん
次代じだい
福井ふくい彦次郎ひこじろう
先代せんだい
尾原おはらあきら太郎たろう
福井ふくい県立けんりつ福井ふくい中学校ちゅうがっこうなが
1902ねん - 1905ねん
次代じだい
隈本くまもとしげるきち
先代せんだい
青森あおもりけんだいいち尋常じんじょう中学ちゅうがく校長こうちょう
増島ますしまぶん次郎じろう
青森あおもり県立けんりつだいいち中学校ちゅうがっこうなが
1901ねん - 1902ねん
青森あおもりけんだいいち中学ちゅうがく校長こうちょう
1899ねん - 1901ねん
青森あおもりけんだいいち尋常じんじょう中学ちゅうがく校長こうちょう
1897ねん - 1899ねん
次代じだい
横沢よこざわ文也ふみや
先代せんだい
大谷津おおやつちょく麿まろ
富山とやまけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうなが
1890ねん - 1897ねん
次代じだい
服部はっとりあやゆう
先代せんだい
宮城みやぎ師範しはんがく校長こうちょう
和久わぐ正辰まさとき
宮城みやぎけん尋常じんじょう師範しはんがく校長こうちょう
1886ねん - 1888ねん
宮城みやぎ師範しはんがく校長こうちょう
1884ねん - 1886ねん
次代じだい
渡辺わたなべまこと一郎いちろう
先代せんだい
館長かんちょう代理だいり
渡部わたなべ久馬きゅうまはち
宮城みやぎ書籍しょせきかんなが
1885ねん - 1888ねん
次代じだい
渡辺わたなべまこと一郎いちろう
先代せんだい
はやしわれ一郎いちろう
宮城みやぎ中学ちゅうがく校長こうちょう
1882ねん - 1886ねん
次代じだい
松本まつもと廉平れんぺい
先代せんだい
杉原すぎはらただし
浜松はままつ中学校ちゅうがっこうなが
1879ねん - 1881ねん
次代じだい
校長こうちょう心得こころえ
杉原すぎはらただし
先代せんだい
小川おがわこまたちばな
日本の旗 長崎ながさき師範しはん学校がっこうなが
1876ねん
次代じだい
佐原さはら純一じゅんいち