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フォード・モデルT (Ford Model T)は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のフォード・モーター 社 しゃ が開発 かいはつ ・製造 せいぞう した自動車 じどうしゃ である。
アメリカ本国 ほんごく ではティン・リジー [注釈 ちゅうしゃく 2] などの通称 つうしょう があるが、日本 にっぽん ではT型 がた フォード の通称 つうしょう で広 ひろ く知 し られている。
1908年 ねん に発売 はつばい され、以後 いご 1927年 ねん まで基本 きほん 的 てき なモデルチェンジ のないまま、1,500万 まん 7,033台 だい が生産 せいさん された[注釈 ちゅうしゃく 3] 。4輪 りん 自動車 じどうしゃ でこれを凌 しの いだのは、唯一 ゆいいつ 2,100万 まん 台 だい 以上 いじょう が生産 せいさん されたフォルクスワーゲン・タイプ1 (ビートル)が存在 そんざい するのみである。その廉価 れんか さから、アメリカをはじめとする世界 せかい 各国 かっこく に広 ひろ く普及 ふきゅう した。
基本 きほん 構造 こうぞう 自体 じたい 、大衆 たいしゅう 車 しゃ として十分 じゅうぶん な実用 じつよう 性 せい を備 そな えた完成 かんせい 度 ど の高 たか い自動車 じどうしゃ であり、更 さら にはベルトコンベア による流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき をはじめ、近代 きんだい 化 か されたマス・プロダクション 手法 しゅほう を生産 せいさん の全面 ぜんめん に適用 てきよう して製造 せいぞう された史上 しじょう 最初 さいしょ の自動車 じどうしゃ という点 てん でも重要 じゅうよう である。
モデルTの出現 しゅつげん まで [ 編集 へんしゅう ]
1896年 ねん に、自力 じりき で最初 さいしょ のガソリン自動車 じどうしゃ を開発 かいはつ したヘンリー・フォード は、1899年 ねん に新 あら たに設立 せつりつ されたデトロイト・オートモビル社 しゃ の主任 しゅにん 設計 せっけい 者 しゃ に就任 しゅうにん するも、出資 しゅっし 者 しゃ である重役 じゅうやく 陣 じん との対立 たいりつ で1902年 ねん に退社 たいしゃ した。その後任 こうにん には精密 せいみつ 加工 かこう の権威 けんい であるヘンリー・M・リーランド が就任 しゅうにん し、社名 しゃめい をキャディラック と変更 へんこう している。
ヘンリー・フォードは1903年 ねん に自 みずか ら社長 しゃちょう を務 つと める新 しん 自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ フォード・モーター 社 しゃ を設立 せつりつ 、デトロイト に最初 さいしょ の工場 こうじょう であるピケット工場 こうじょう を開設 かいせつ した。
その初期 しょき には、車体 しゃたい 中央 ちゅうおう 部 ぶ 床下 ゆかした に2気筒 きとう エンジンを搭載 とうさい してチェーンで後 のち 輪 わ を駆動 くどう する「バギー 」と呼 よ ばれる種類 しゅるい の小型車 こがたしゃ を生産 せいさん していた。当時 とうじ のアメリカの道路 どうろ は悪 あく 路 ろ が多 おお く、ヨーロッパ 車 くるま に比 くら べて洗練 せんれん されていない形態 けいたい の「バギー」型 かた 車 しゃ の方 ほう が、かえって実情 じつじょう に即 そく していたからである。1903年 ねん の「モデルA 」、1904年 ねん の「モデルC」、1905年 ねん の「モデルF」が「バギー」にあたる。
しかし、程 ほど なく本格 ほんかく 的 てき な自動車 じどうしゃ が求 もと められるようになったことから、1905年 ねん の「モデルB」では、フォードの量産 りょうさん 車 しゃ としては初 はじ めて直列 ちょくれつ 4気筒 きとう エンジンをフロントに搭載 とうさい し、プロペラシャフトで後 のち 輪 わ を駆動 くどう するという常道 じょうどう 的 てき なレイアウトに移行 いこう した。1906年 ねん には出資 しゅっし 者 しゃ であるアレグザンダー・マルコムソンらの意向 いこう で、大型 おおがた の6気筒 きとう 40HP高級 こうきゅう 車 しゃ 「モデルK」も開発 かいはつ したものの、生産 せいさん の主流 しゅりゅう とはならなかった。フォード社 しゃ は、当時 とうじ からあくまで小型 こがた 大衆 たいしゅう 車 しゃ 生産 せいさん に重点 じゅうてん を置 お いて活動 かつどう していた[1] 。
1906年 ねん 末 すえ には「バギー」モデルFに代 か わる本格 ほんかく 的 てき な4気筒 きとう の小型車 こがたしゃ 「モデルN」を発売 はつばい した。2気筒 きとう 12HPのモデルFが1,000ドルであったのに対 たい し、4気筒 きとう 17HPのモデルNは、量産 りょうさん 段階 だんかい におけるコストダウンが図 はか られ、半値 はんね の500ドルで販売 はんばい された。まもなく派生 はせい 型 がた として「モデルR」「モデルS」も開発 かいはつ されている。
モデルNはごく廉価 れんか で性能 せいのう が良 よ かったため売 う れ行 ゆ きが良 よ く、その成功 せいこう は予想 よそう 以上 いじょう であった。このため部分 ぶぶん 的 てき な流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき の導入 どうにゅう が図 はか られ、工場 こうじょう の拡張 かくちょう も進 すす められたが、それでも生産 せいさん が需要 じゅよう に追 お いつかなかった。
当初 とうしょ から量産 りょうさん を考慮 こうりょ して開発 かいはつ されたモデルNシリーズであったが、更 さら なる需要 じゅよう に応 おう じるには既存 きそん の体制 たいせい では限界 げんかい があり、フォードは生産 せいさん 性 せい の根本 こんぽん 的 てき な向上 こうじょう を図 はか ることを迫 せま られた。そこで、モデルNの設計 せっけい から多 おお くを参考 さんこう にしつつも、全体 ぜんたい を一新 いっしん して性能 せいのう を向上 こうじょう させ、なおかつより大量 たいりょう 生産 せいさん に適合 てきごう した新型 しんがた 車 しゃ の開発 かいはつ を1907年 ねん 初 はじ めから開始 かいし した。これがのちのモデルTである。
当時 とうじ のフォードにおける先進 せんしん 性 せい として、部品 ぶひん 互換 ごかん の達成 たっせい が挙 あ げられる。1900年代 ねんだい の自動車 じどうしゃ の多 おお くが、個別 こべつ 部品 ぶひん の均一 きんいつ な加工 かこう 精度 せいど 確保 かくほ に難 なん があり、最終 さいしゅう 組立 くみたて 段階 だんかい での手 て 仕上 しあ げによる調整 ちょうせい を強 し いられていた中 なか 、フォード社 しゃ はこの時点 じてん で、既 すで に先行 せんこう するキャディラックのヘンリー・リーランドの流儀 りゅうぎ に倣 なら い、マイクロゲージ を基準 きじゅん とした規格 きかく 化 か によって部品 ぶひん 互換 ごかん 性 せい を確保 かくほ していた。ここではミシン メーカーであるシンガー社 しゃ 出身 しゅっしん で、フォードのプロダクションマネージャーに短期間 たんきかん ながら就任 しゅうにん していたウォルター・フランダース (Walter.E.Flanders) が重要 じゅうよう な働 はたら きを行 おこな っている。部品 ぶひん 互換 ごかん の実現 じつげん は大量 たいりょう 生産 せいさん の大前提 だいぜんてい であり、フォードはこの点 てん で大衆 たいしゅう 車 しゃ 業界 ぎょうかい での競合 きょうごう 他社 たしゃ に一 いち 歩 ほ 先 さき んじていた[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
一方 いっぽう これと同 おな じころ、冶金 やきん 学 がく の研究 けんきゅう が進 すす んでいたイギリス において、新種 しんしゅ の高速度 こうそくど 鋼 こう 「バナジウム鋼 こう 」が開発 かいはつ された。従来 じゅうらい の鋼材 こうざい に倍 ばい する張力 ちょうりょく を備 そな えながら、軽 かる くてしかも高速 こうそく 切削 せっさく 加工 かこう が可能 かのう という、自動車 じどうしゃ 用 よう の素材 そざい として理想 りそう 的 てき な材質 ざいしつ である。ヘンリー・フォードはこれを知 し り、新型 しんがた 車 しゃ にバナジウム鋼 こう を多用 たよう して生産 せいさん 性 せい 向上 こうじょう と軽量 けいりょう 化 か を図 はか ることにした[2] 。
モデルTの開発 かいはつ 作業 さぎょう は、1907年 ねん 初 はじ めから開始 かいし された。ヘンリー・フォード自身 じしん をチーフとし、C.ハロルド・ウィリス (Childe Harold Wills)、チャールズ・ソレンセン (Charls Sorensen) など、社内 しゃない でも限 かぎ られたスタッフのみによって、極秘 ごくひ に進行 しんこう されることになった。
作業 さぎょう にはピケット工場 こうじょう 内 ない の個室 こしつ を特 とく に充 あ て、ヘンリーの指示 しじ に基 もと づいてハンガリー 出身 しゅっしん のジョセフ・ガラム (Joseph Galamb) が作図 さくず を行 おこな い、別室 べっしつ では19歳 さい の機械 きかい 工 こう チャールズ.J.スミス (Charles.J.Smith) が実際 じっさい の部品 ぶひん 製作 せいさく に当 あ たった。ヘンリーはしばしば長 なが い時間 じかん 揺 ゆ り椅子 いす にもたれつつ、部下 ぶか に指示 しじ を行 おこな ったという。実験 じっけん 段階 だんかい における初期 しょき の試験 しけん 台 だい には、実績 じっせき のあるモデルNシャシーが利用 りよう された[1] 。
1910年 ねん 式 しき モデルT・ツーリング。初期 しょき の典型 てんけい 的 てき なモデルTである
モデルTは1907年 ねん 10月 がつ に最初 さいしょ のプロトタイプ 2台 だい が完成 かんせい 、翌 よく 1908年 ねん 3月 がつ に発表 はっぴょう されたが、市販 しはん 開始 かいし は同年 どうねん 10月 がつ からとなった。デトロイトのピケット工場 こうじょう で最初 さいしょ の市販 しはん モデルTの1台 だい がラインオフしたのは、1908年 ねん 9月 がつ 27日 にち のことである。
モデルTは、当時 とうじ のアメリカにおいて小型車 こがたしゃ カテゴリーに当 あ たるクラスで、最初 さいしょ 600ドルの格安 かくやす 価格 かかく での販売 はんばい を計画 けいかく されていた。だが実際 じっさい にはコストダウンが追 お いつかず、モデルNよりやや上級 じょうきゅう のクラスとして850ドル以上 いじょう の価格 かかく で発売 はつばい された。それでも同 どう クラスの自動車 じどうしゃ が1,000ドル台 だい の価格 かかく 帯 たい であっただけに非常 ひじょう な好評 こうひょう で、翌 よく 1909年 ねん 4月 がつ までには3か月 げつ 分 ぶん のバックオーダーを抱 かか えることになり、7月 がつ までの受注 じゅちゅう 停止 ていし を強 し いられた。1909年 ねん の1年間 ねんかん だけでも1万 まん 台 だい を越 こ えるモデルTが生産 せいさん され、当時 とうじ としては桁外 けたはず れのベストセラーとなった。
この大 だい ヒットに直面 ちょくめん したヘンリー・フォードは、並行 へいこう 生産 せいさん していた小型車 こがたしゃ モデルN、R、Sや高級 こうきゅう 車 しゃ モデルKの生産 せいさん を停止 ていし し、モデルTただ1種 しゅ に絞 しぼ り込 こ んだ大量 たいりょう 生産 せいさん を決断 けつだん した。
以後 いご のモデルTの歴史 れきし は、モデルTという単体 たんたい の自動車 じどうしゃ 自体 じたい の発展 はってん 以上 いじょう に、大量 たいりょう 生産 せいさん 技術 ぎじゅつ の発展 はってん の歴史 れきし であった。ヘンリー・フォードと彼 かれ のブレーンたちは、モデルTという元々 もともと 完成 かんせい 度 ど の高 たか い実用 じつよう 大衆 たいしゅう 車 しゃ を、速 はや く大量 たいりょう に効率 こうりつ よく、そしてより廉価 れんか に供給 きょうきゅう することを目的 もくてき に活動 かつどう した。
フォード社 しゃ は販売 はんばい 後 ご のサービス体制 たいせい にも配慮 はいりょ を怠 おこた らなかった。アメリカ全土 ぜんど で広域 こういき に渡 わた るサービス網 もう を整備 せいび し、補修 ほしゅう パーツがストックされるデポを各地 かくち に設置 せっち した。モデルTは元々 もともと タフで故障 こしょう も少 すく なく、造 つく りがシンプルで素人 しろうと にも整備 せいび しやすかったが、アフターサービスの充実 じゅうじつ は、ユーザーからの信頼 しんらい をより高 たか める結果 けっか になった。初期 しょき モデルTの「Ford, the universal car(万能 ばんのう 車 しゃ フォード)」「Watch the Fords go by(フォードのやり方 かた を見 み よ)」といった宣伝 せんでん フレーズ[3] からも、ヘンリー・フォードがモデルTに抱 だ いていた大 おお きな自負 じふ をうかがえる[1] 。
1910年 ねん 、ピケット工場 こうじょう に代 か わる主力 しゅりょく 生産 せいさん 拠点 きょてん として、当時 とうじ 世界 せかい 最大 さいだい 級 きゅう の自動車 じどうしゃ 工場 こうじょう であるハイランドパーク工場 こうじょう が、デトロイト郊外 こうがい に完成 かんせい した。60エーカー (=24ヘクタール )の面積 めんせき を取 と った明 あか るい工場 こうじょう は、大 だい 出力 しゅつりょく ガスエンジンと電気 でんき モーターを動力 どうりょく 源 げん に用 もち いた近代 きんだい 的 てき 生産 せいさん 設備 せつび を備 そな えていた。このころフォードでは、部品 ぶひん の大 だい 規模 きぼ な内 うち 製 せい 化 か を始 はじ めた。外注 がいちゅう 部品 ぶひん の供給 きょうきゅう 状 じょう 況 きょう によって生産 せいさん 効率 こうりつ が左右 さゆう され、ひいてはコストが上昇 じょうしょう することを、ヘンリー・フォードが嫌 きら ったためである。
モデルTは1912年 ねん 型 がた から生産 せいさん 性 せい を高 たか めるため、従来 じゅうらい 3種類 しゅるい から選択 せんたく できたボディ塗 ぬり 色 しょく を、黒 くろ のエナメル 塗 ぬ り1色 しょく のみに絞 しぼ り込 こ んだ。黒 くろ 塗 ぬ りを選 えら んだのは、黒 くろ 塗装 とそう が一番 いちばん 乾 かわ きが早 はや く、作業 さぎょう 効率 こうりつ が良 よ かったからである。
このころのフォード車 しゃ =すなわちモデルTの販売 はんばい 台数 だいすう の伸 の びはすでに著 いちじる しいものがあった。増産 ぞうさん 体制 たいせい が強化 きょうか され、1912年 ねん には月産 げっさん 1万 まん 台 だい を超 こ えた月 つき は4月 がつ と12月 がつ だけだったが、1913年 ねん に入 はい ると1月 がつ 以降 いこう 生産 せいさん 台数 だいすう は毎月 まいつき 1万 まん 台 だい を超 こ え、4月 がつ から6月 がつ にかけては月産 げっさん 2万 まん 台 だい を超 こ えた[4] 。
流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき へ[ 編集 へんしゅう ]
フォードのピケット工場 こうじょう における初期 しょき の自動車 じどうしゃ 生産 せいさん は、基本 きほん 的 てき には1か所 しょ に据 す えられた自動車 じどうしゃ シャシーに、各 かく 工程 こうてい を担当 たんとう する作業 さぎょう 員 いん が入 い れ替 か わり立 た ち替 か わり部品 ぶひん を取 と り付 つ けていく形態 けいたい であった。当時 とうじ はどの自動車 じどうしゃ メーカーも似 に たり寄 よ ったりの製造 せいぞう 方式 ほうしき を採 と っていた。生産 せいさん 台数 だいすう がごく少 すく ないうちはこれでも済 す んでいたが、フォードのように大 だい 規模 きぼ な量産 りょうさん に取 と り組 く む場合 ばあい 、据 す え置 お き組立 くみたて では効率 こうりつ が悪 わる すぎた。
フォードでは既 すで に1908年 ねん の時点 じてん から、工場 こうじょう 内 ない の部品 ぶひん 供給 きょうきゅう ・移動 いどう の合理 ごうり 化 か によって生産 せいさん 効率 こうりつ を高 たか める工夫 くふう が始 はじ められていたが、最後 さいご に生産 せいさん 効率 こうりつ 改善 かいぜん のネックになってきたのは、組 く み上 あ がっていく製品 せいひん を移動 いどう させることだった。チャールズ・ソレンセンらフォードのエンジニアたちは、シャシーをソリに乗 の せて移動 いどう 効率 こうりつ 改善 かいぜん を図 はか ってみるなど試行錯誤 しこうさくご を重 かさ ねた。一方 いっぽう 、複数 ふくすう 工程 こうてい をシンクロナイズして同時 どうじ 進行 しんこう させ組立 くみたて 効率 こうりつ を高 たか める「ライン同期 どうき 化 か 」への試 こころ みも行 おこな われている。
初期 しょき のモデルTの生産 せいさん も、基本 きほん 的 てき にはモデルNと同様 どうよう な手法 しゅほう が採 と られていた。ハイランドパーク工場 こうじょう 稼働 かどう 開始 かいし 時点 じてん でも、フォードの生産 せいさん 方式 ほうしき はまだ従来 じゅうらい の域 いき を脱 だっ していなかったが、当時 とうじ のアメリカは労働 ろうどう 力不足 ちからぶそく の状態 じょうたい で、限 かぎ られた人的 じんてき 資源 しげん の枠 わく 内 ない で抜本 ばっぽん 的 てき な変革 へんかく を行 おこな い、生産 せいさん 効率 こうりつ を高 たか めることが早急 そうきゅう に求 もと められていた。広大 こうだい なハイランドパーク工場 こうじょう であっても、シャシー据 す え置 お き組立 くみたて のままで月産 げっさん 2万 まん 台 だい からさらに増産 ぞうさん を図 はか るには床 ゆか 面積 めんせき が不足 ふそく しており、1913年 ねん には6階 かい 建 だ ての新 しん 工場 こうじょう 棟 とう 、W棟 とう ・X棟 とう (1棟 むね のワンフロアあたり34万 まん 8,800平方 へいほう フィート≒32,404.6平方 へいほう メートル)の増築 ぞうちく が行 おこな われた[4] が、工場 こうじょう を単純 たんじゅん に増築 ぞうちく するだけで生産 せいさん 性 せい が高 たか まるわけではなかった。
フォードが本格 ほんかく 的 てき な流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき を導入 どうにゅう したきっかけについては、「シカゴ の食肉 しょくにく 処理 しょり 工場 こうじょう (缶詰 かんづめ 工場 こうじょう という異説 いせつ もあり)での実例 じつれい を見 み たヘンリー・フォードの発案 はつあん 」という俗説 ぞくせつ があるが、実際 じっさい にはそのように単純 たんじゅん なものではなく、フランダースやソレンセンらによる数 すう 年間 ねんかん に渡 わた っての試行錯誤 しこうさくご の結果 けっか 、ハイランドパークへの生産 せいさん 移行 いこう 後 ご に満 まん を持 もた して徐々 じょじょ に導入 どうにゅう を始 はじ めたのが実情 じつじょう のようである[1] 。流 なが れ作業 さぎょう という生産 せいさん 手法 しゅほう 自体 じたい はフォード以前 いぜん から存在 そんざい していたのであるが、俯瞰 ふかん 的 てき な視点 してん から大 だい 規模 きぼ な流 なが れ作業 さぎょう システムを構築 こうちく し、それら複数 ふくすう を連動 れんどう して機能 きのう させるようにしたことが、フォード社 しゃ の画期的 かっきてき な功績 こうせき であった。
本格 ほんかく 的 てき な流 なが れ作業 さぎょう 導入 どうにゅう の最初 さいしょ はエンジン のフライホイールだった。1913年 ねん 4月 がつ 時点 じてん で、モデルTのマグネトー 組 くみ 込 こみ 式 しき フライホイール生産 せいさん は、一人 ひとり の作業 さぎょう 員 いん が全 ぜん 行程 こうてい を専属 せんぞく で行 おこな った場合 ばあい 、1個 いっこ あたりの完成 かんせい まで20分 ふん を要 よう した。ベルトコンベア の流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき による分業 ぶんぎょう 体制 たいせい を用 もち い、各 かく 工程 こうてい で作業 さぎょう 員 いん の動 うご きに無駄 むだ の生 しょう じないポジションを取 と らせるなどの対策 たいさく を採 と ると、フライホイール1個 いっこ の完成 かんせい 所要 しょよう 時間 じかん は13分 ふん に減少 げんしょう し、更 さら なる改良 かいりょう で1914年 ねん には、フライホイール1個 いっこ を5分 ふん で組 く み立 た てられるようになった。前年 ぜんねん の4倍 ばい の効率 こうりつ である[1] 。
この手法 しゅほう で、他 た の工程 こうてい についても同様 どうよう な分業 ぶんぎょう による流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき を導入 どうにゅう していった。1913年 ねん 8月 がつ からシャシー組立 くみたて のベルトコンベア方式 ほうしき 切 き り替 か えを開始 かいし 、同年 どうねん 11月 がつ からはエンジンについても同様 どうよう にライン生産 せいさん 化 か に取 と り組 く み始 はじ めた。
1913年 ねん -1914年 ねん 頃 ごろ のハイランドパーク工場 こうじょう におけるモデルTのボディとシャシーの架 か 装 そう ライン光景 こうけい 。立体 りったい 化 か まで駆使 くし した量産 りょうさん ラインの先駆 せんく 例 れい として引用 いんよう される事 こと の多 おお い映像 えいぞう である
個別 こべつ 作業 さぎょう ごとの標準 ひょうじゅん 作業 さぎょう 時間 じかん と手順 てじゅん が定 さだ められ、実験 じっけん 中 ちゅう にはヘンリー・フォード自 みずか らストップウォッチを手 て に作業 さぎょう 員 いん の動 うご きを注視 ちゅうし したという。結果 けっか として生産 せいさん 過程 かてい では、フレデリック・テイラー (Frederick Winslow Taylor 1856-1915) が提唱 ていしょう した科学 かがく 的 てき 生産 せいさん 管理 かんり 法 ほう 「テイラー・システム」がいち早 はや く実現 じつげん されることになった。しかし、フォード自身 じしん はのちに「我々 われわれ 自身 じしん の研究 けんきゅう の結果 けっか であって、テイラーの構築 こうちく した手法 しゅほう を意識 いしき して導入 どうにゅう した訳 わけ ではない」とコメントし、テイラーとの関係 かんけい を否定 ひてい している。
複雑 ふくざつ な作業 さぎょう 工程 こうてい も、要素 ようそ ごとに分解 ぶんかい すればほとんどが単純 たんじゅん 作業 さぎょう の集積 しゅうせき であり、個々 ここ の単純 たんじゅん 作業 さぎょう は非 ひ 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ を充 あ てても差 さ し支 つか えなかった。作業 さぎょう 工程 こうてい はベルトコンベアによって結合 けつごう され、熟練工 じゅくれんこう による組立 くみたて よりもはるかに速 はや く低 てい コストで、均質 きんしつ な大量 たいりょう 生産 せいさん が可能 かのう になった。
1914年 ねん には、ハイランドパークでのモデルT量産 りょうさん 手法 しゅほう はかなり高度 こうど な段階 だんかい に達 たっ していた。流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき による複数 ふくすう の製造 せいぞう ラインを完全 かんぜん にシンクロナイズし、最終 さいしゅう 組立 くみたて 段階 だんかい で合流 ごうりゅう させて計画 けいかく 通 どお りの完成 かんせい 品 ひん とする生産 せいさん システムが、完全 かんぜん に実現 じつげん した。「フォード・システム」と言 い われる能率 のうりつ 的 てき な大量 たいりょう 生産 せいさん システムの具現 ぐげん 化 か であった。
シャシー を1階 かい で、ボディを2階 かい でそれぞれ組立 くみた て、二 に 階 かい 建 だ てラインの末端 まったん でスロープ を使 つか ってボディを下 お ろし、シャシーに架 か 装 そう するというハイランドパーク工場 こうじょう の生産 せいさん 光景 こうけい は、写真 しゃしん 等 とう でよく知 し られるが、この2階 かい 建 だ てラインは1914年 ねん から見 み られるようになったものである。
1908年 ねん の製造 せいぞう 開始 かいし 当初 とうしょ 、1台 だい 当 あ たり14時 じ 間 あいだ を要 よう したモデルTシャシーの組立 くみたて 所要 しょよう 時間 じかん は、1913年 ねん からのベルトコンベア化 か とその後 ご の改良 かいりょう で、1914年 ねん 4月 がつ には1台 だい 当 あ たり1時 じ 間 あいだ 33分 ふん にまで短縮 たんしゅく されたと伝 つた えられる[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1917年 ねん には更 さら なる大 だい 工場 こうじょう 、リバー・ルージュ工場 こうじょう の建設 けんせつ が始 はじ まった。自前 じまえ の製鉄 せいてつ 所 しょ まで備 そな えた広大 こうだい な工場 こうじょう 敷地 しきち 内 ない では、鋼材 こうざい に至 いた るまでの一括 いっかつ 内 ない 製 せい が行 おこな われ、膨大 ぼうだい な台数 だいすう のモデルTを均質 きんしつ に量産 りょうさん できる体制 たいせい が整 ととの えられたが、この工場 こうじょう が本格 ほんかく 稼働 かどう するのは1920年代 ねんだい 以降 いこう である。
モデルTの最盛 さいせい 期 き [ 編集 へんしゅう ]
日給 にっきゅう 5ドル宣言 せんげん と労働 ろうどう 者 しゃ の実情 じつじょう [ 編集 へんしゅう ]
ヘンリー・フォードが"日給 にっきゅう 5ドル"宣言 せんげん を行 おこな ったのは1914年 ねん である。単純 たんじゅん 労働 ろうどう 者 しゃ でもある程度 ていど 継続 けいぞく して勤務 きんむ すれば、当時 とうじ の賃金 ちんぎん 相場 そうば (従来 じゅうらい のフォードでの最低 さいてい 日給 にっきゅう は2ドル台 だい )の2倍 ばい 程度 ていど に値 あたい する日給 にっきゅう 5ドルを支給 しきゅう するという、驚 おどろ くべき爆 ばく 弾 だん 宣言 せんげん であった。
当時 とうじ 、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の存在 そんざい 価値 かち が低下 ていか しつつあったフォード社 しゃ では、特 とく に熟練 じゅくれん 層 そう からの不満 ふまん が高 たか まり、離職 りしょく 率 りつ も高 たか くなっていた。そこでフォード社 しゃ の営業 えいぎょう 担当 たんとう 者 しゃ だったジェームズ・クーゼンスが、労働 ろうどう 者 しゃ の定着 ていちゃく 率 りつ 向上 こうじょう のために待遇 たいぐう 改善 かいぜん を提案 ていあん したところ、ヘンリー・フォードはワンマン経営 けいえい 者 しゃ らしく、さしたる数値 すうち の裏付 うらづ けもないまま大盤振 おおばんぶ る舞 ま いを決定 けってい した[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
日給 にっきゅう 5ドルは年収 ねんしゅう なら1,000ドル以上 いじょう になり、当時 とうじ 、モデルT1台 だい を購入 こうにゅう してもなお労働 ろうどう 者 しゃ の一家 いっか がつましい生活 せいかつ を送 おく りうる水準 すいじゅん である。当然 とうぜん ながらフォードの工場 こうじょう には就職 しゅうしょく を希望 きぼう する労働 ろうどう 者 しゃ が殺到 さっとう した。
だがその高給 こうきゅう は、生産 せいさん ラインでの単調 たんちょう な労働 ろうどう に耐 た えることの代償 だいしょう だった。生産 せいさん ラインを着実 ちゃくじつ に動 うご かすことが優先 ゆうせん され、工場 こうじょう の稼働 かどう 時間 じかん 中 ちゅう 、労働 ろうどう 者 しゃ は生産 せいさん ラインの進行 しんこう ペースに遅 おく れることなく、刺激 しげき を伴 ともな うことのない単調 たんちょう な作業 さぎょう を休 やす みなく続 つづ けなければならなかった。フォード工場 こうじょう の労働 ろうどう 者 しゃ はむしろ通常 つうじょう の工場 こうじょう 労働 ろうどう 以上 いじょう に、肉体 にくたい 面 めん ・精神 せいしん 面 めん での著 いちじる しい負担 ふたん を強 し いられることになった。
このため実際 じっさい には5ドル支給 しきゅう 時期 じき に達 たっ する以前 いぜん に職 しょく を辞 じ する未 み 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ も多 おお かったが、退職 たいしょく 者 しゃ が生 しょう じても「日給 にっきゅう 5ドル」に惹 ひ かれる新 あら たな就職 しゅうしょく 希望 きぼう 者 しゃ は後 ご を絶 た たなかったため、既 すで に単純 たんじゅん 労働 ろうどう の膨大 ぼうだい な集合 しゅうごう 体 たい と化 か していたフォードの生産 せいさん 体制 たいせい に支障 ししょう は生 しょう じなかった。
モデルTの大量 たいりょう 生産 せいさん の裏面 りめん には、このように過酷 かこく な現実 げんじつ があった。流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき は、のちにはチャールズ・チャップリン の映画 えいが 『モダン・タイムス 』(1936)などで諷刺 ふうし され、人間 にんげん を生産 せいさん システムの一部 いちぶ として機械 きかい 同然 どうぜん に扱 あつか う非人 ひにん 間 あいだ 性 せい の象徴 しょうちょう ともされるようになる。そしてフォード社 しゃ は、労働 ろうどう 者 しゃ らによる労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう に対 たい しては、デトロイトの自動車 じどうしゃ メーカー各社 かくしゃ の中 なか でも、とりわけ冷淡 れいたん かつ暴力 ぼうりょく 的 てき な手段 しゅだん で厳 きび しく対処 たいしょ したのである。
『モダン・タイムス 』
その一方 いっぽう 、流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき に代表 だいひょう される大量 たいりょう 生産 せいさん システムの発展 はってん によって生産 せいさん 効率 こうりつ が著 いちじる しく高 たか まったことで収益 しゅうえき が増大 ぞうだい し、非 ひ 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ にも給与 きゅうよ の上昇 じょうしょう という形 かたち で還元 かんげん されるようにもなった。可 か 処分 しょぶん 所得 しょとく の大 おお きくなった少 すく なからぬ労働 ろうどう 者 しゃ がフォード・モデルTを所有 しょゆう するに至 いた った。それは労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう を含 ふく む巨大 きょだい な大衆 たいしゅう 層 そう を担 にな い手 て とした大量 たいりょう 生産 せいさん ・大量 たいりょう 消費 しょうひ 時代 じだい の先触 さきぶ れであった。
未曾有 みぞう の量産 りょうさん 記録 きろく と低 てい 価格 かかく 化 か [ 編集 へんしゅう ]
1924年 ねん 、フォード車 しゃ 生産 せいさん 累計 るいけい 1000万 まん 台 だい 達成 たっせい 時 じ の記念 きねん 写真 しゃしん 。ヘンリー・フォードの両側 りょうがわ に、1896年 ねん の最初 さいしょ のガソリンエンジン試作 しさく 車 しゃ と、1000万 まん 台 だい 記念 きねん のモデルTが並 なら ぶ。このときモデルTの生産 せいさん ペースは絶頂 ぜっちょう 期 き にあった
モデルTの年間 ねんかん 生産 せいさん 台数 だいすう は、1910年 ねん の1万 まん 8,600台 だい 強 きょう から、1年 ねん で50%から100%の割合 わりあい で爆発 ばくはつ 的 てき に激増 げきぞう した[1] 。
イギリス での組立 くみたて が始 はじ まった1911年 ねん 、年間 ねんかん 生産 せいさん 台数 だいすう は3万 まん 4,500台 だい 以上 いじょう であった。ハイランドパーク工場 こうじょう で流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき が開始 かいし された1913年 ねん には年間 ねんかん 生産 せいさん 台数 だいすう は16万 まん 8,000台 だい 以上 いじょう となる。1916年 ねん には53万 まん 4,000台 だい 弱 じゃく に伸 の び、1919年 ねん のみ第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 後 ご の終戦 しゅうせん 不 ふ 況 きょう の影響 えいきょう で生産 せいさん 量 りょう が減 へ ったほかは、年々 ねんねん 増加 ぞうか した。
1921年 ねん には年間 ねんかん 生産 せいさん 台数 だいすう は99万 まん 台 だい 弱 じゃく を生産 せいさん し、翌 よく 1922年 ねん には121万 まん 台 だい を超 こ えて100万 まん 台 だい オーバーの大台 おおだい に達 たっ した。そして1923年 ねん には、1年間 ねんかん で205万 まん 5,300台 だい 以上 いじょう を生産 せいさん してピークに達 たっ する。その後 ご 、減少 げんしょう 傾向 けいこう を辿 たど るものの、生産 せいさん 中止 ちゅうし 前年 ぜんねん の1926年 ねん 時点 じてん においても1年間 ねんかん で163万 まん 台 だい 弱 じゃく のモデルTが生産 せいさん されていたのであるから、いかに圧倒的 あっとうてき な生産 せいさん 体制 たいせい であったかが推 お し量 はか れる。一時 いちじ 、アメリカで生産 せいさん される自動車 じどうしゃ 台数 だいすう の半分 はんぶん 以上 いじょう がフォード・モデルTだった。
この膨大 ぼうだい な規模 きぼ の大量 たいりょう 生産 せいさん 体制 たいせい によって、モデルTの価格 かかく はひたすら下 さ がり続 つづ けた。
(例 れい )標準 ひょうじゅん 的 てき な幌 ほろ 付 つ きのツーリングモデル
1910年 ねん にいったん950ドルに値上 ねあ げされた[注釈 ちゅうしゃく 7] が、翌 よく 1911年 ねん には780ドルへ下 さ がり、その後 ご は年 とし に50ドルから100ドルの割合 わりあい で値下 ねさ げが繰 く り返 かえ された。1913年 ねん には600ドル、1915年 ねん は490ドル、1917年 ねん には360ドルまで価格 かかく が下 さ がった。さらに翌 よく 1918年 ねん にはアメリカの第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん への参戦 さんせん の影響 えいきょう を受 う けて物価 ぶっか は上 あ がり、モデルTも物価 ぶっか 上昇 じょうしょう に併 あわ せて525ドルに値上 ねあ げしたが、以後 いご は再 ふたた び値下 ねさ げが進 すす み、1922年 ねん には355ドル。そして1925年 ねん にはついに290ドルという法外 ほうがい なまでの廉価 れんか になった[1] 。これは、インフレーション を考慮 こうりょ して換算 かんさん した場合 ばあい 、2005年 ねん 時点 じてん における3,300ドル相当 そうとう である。
モデルTTの開発 かいはつ と商用 しょうよう ・農業 のうぎょう 分野 ぶんや への事業 じぎょう 拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
モデルTのシャーシ後部 こうぶ を、オープンタイプの荷台 にだい 、またはクローズドタイプの荷 に 室 しつ とした小型 こがた トラック的 てき モデルは、モデルTの普及 ふきゅう 途上 とじょう で、早 はや い時期 じき から市場 いちば での改造 かいぞう で出現 しゅつげん していたが、元来 がんらい 小型 こがた 軽量 けいりょう であったモデルTではヘビーデューティな用途 ようと に適 てき さないきらいもあった。
これに対 たい しフォード社 しゃ はより本格 ほんかく 的 てき な商用 しょうよう モデルを公式 こうしき に供給 きょうきゅう するため、1917年 ねん 、モデルTを元 もと に、シャーシとスプリングを強化 きょうか してロングホイールベースとし、ウォームギア駆動 くどう の低速 ていそく ファイナルギアを備 そな えたコマーシャルシャーシ版 ばん の派生 はせい 型 がた 「モデルTT 」を開発 かいはつ 、市場 いちば 投入 とうにゅう した。TTにはモデルT同様 どうよう の大量 たいりょう 生産 せいさん 手法 しゅほう が活用 かつよう され、また特 とく にコストのかかるエンジンと変速 へんそく 機 き についてモデルTと互換 ごかん 仕様 しよう とし、量産 りょうさん 効果 こうか を高 たか めたことで、先行 せんこう 各社 かくしゃ の同級 どうきゅう のコマーシャルシャーシに対 たい して競争 きょうそう 力 りょく のある価格 かかく が打 う ち出 だ せた。
1トントラックシャーシとして設計 せっけい されたTTは速度 そくど こそ遅 おそ かったが、モデルT同様 どうよう の頑丈 がんじょう さと扱 あつか いやすさを兼 か ね備 そな え、フォードは商用 しょうよう 車 しゃ 部門 ぶもん でもシェアを一挙 いっきょ に獲得 かくとく した。市場 いちば のボディメーカーの手 て で様々 さまざま な用途 ようと の貨物 かもつ 用 よう ボディを架 か 装 そう され、貨物 かもつ 用 よう に留 と まらず小型 こがた バス等 とう のベースとしても汎用 はんよう に利用 りよう されて、1927年 ねん にモデルTと共 とも に製造 せいぞう が終了 しゅうりょう するまでに、のべ150万 まん 台 だい が生産 せいさん される成功 せいこう を収 おさ めている。なおモデルTの生産 せいさん 台数 だいすう 1,500万 まん 台 だい には、一般 いっぱん にこのTT系 けい の生産 せいさん 台数 だいすう も算入 さんにゅう されている。
並行 へいこう して、ヘンリー・フォードは宿願 しゅくがん である農業 のうぎょう 機械 きかい 化 か のためにトラクター 量産 りょうさん 化 か にも乗 の り出 だ していた。フォード・モーターからは別 べつ 会社 かいしゃ として設立 せつりつ されたヘンリー・フォード&ソン(Henry Ford & Son Inc 1920年 ねん にフォード・モーターに合併 がっぺい )では、1916年 ねん に20HP級 きゅう の「フォードソン・トラクター・モデルF(Fordson Tractor model F) 」を開発 かいはつ した。ガソリン・ケロシン両用 りょうよう の直列 ちょくれつ 4気筒 きとう エンジンブロックと後部 こうぶ ギアボックスユニットを結合 けつごう し、フレームレス一 いち 体 たい シャーシとして機能 きのう させるその画期的 かっきてき レイアウトは、その後 ご 世界 せかい 各国 かっこく の内燃 ないねん 機関 きかん トラクターの範 はん となった。モデルFは1917年 ねん からやはり大量 たいりょう 生産 せいさん 方式 ほうしき による低 てい 価格 かかく で市販 しはん され、内燃 ないねん 機関 きかん トラクターとして史上 しじょう 初 はつ の商業 しょうぎょう 的 てき ベストセラーとなった。
このように1910年代 ねんだい のヘンリー・フォードは大量 たいりょう 生産 せいさん 技術 ぎじゅつ を駆使 くし し、大衆 たいしゅう 車 しゃ ・商用 しょうよう 車 しゃ ・農業 のうぎょう トラクターという、それぞれに未開 みかい の巨大 きょだい 需要 じゅよう を擁 よう していた市場 いちば の開拓 かいたく ・制覇 せいは に成功 せいこう し、一代 いちだい で企業 きぎょう 帝国 ていこく をき上 ずきあ げた「自動車 じどうしゃ 王 おう 」として世界 せかい 的 てき な著名 ちょめい 人 じん となった。その莫大 ばくだい な資金 しきん 力 りょく によって、1922年 ねん には経営 けいえい 難 なん に陥 おちい った高級 こうきゅう 車 しゃ メーカー・リンカーン・モーター・カンパニー を救済 きゅうさい 買収 ばいしゅう 、自社 じしゃ 傘下 さんか に収 おさ めている。
ヘンリー・フォードは1920年代 ねんだい に入 はい っても、自 みずか らの製品 せいひん をより廉価 れんか に、より大量 たいりょう 供給 きょうきゅう する生産 せいさん システムの革新 かくしん にひたすら邁進 まいしん したが、いったん完成 かんせい した製品 せいひん そのものの革新 かくしん には無 む 関心 かんしん であった。ヘンリーは「モデルTは既 すで に完成 かんせい した『完璧 かんぺき な製品 せいひん 』であり、代替 だいたい モデルを開発 かいはつ する必要 ひつよう はない」と頑 かたく なに信 しん じ込 こ んでいた。そのため、モデルTは小 しょう 改良 かいりょう を加 くわ えられるだけで長 なが く抜本 ばっぽん 的 てき なモデルチェンジを施 ほどこ されなかった。
ヘンリーの息子 むすこ エドセル・フォード は、1919年 ねん にフォード社 しゃ 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん したが、叩 たた き上 あ げの父 ちち ヘンリーと違 ちが って高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けたインテリで、幼少 ようしょう 期 き から自動車 じどうしゃ に親 した しみ、自動車 じどうしゃ 技術 ぎじゅつ の改良 かいりょう 発展 はってん やカーデザインのあり方 かた に対 たい して優 すぐ れた見識 けんしき を身 み に付 つ けていた。エドセルはフォード社 しゃ の経営 けいえい を広 ひろ い視野 しや から判断 はんだん し、1920年代 ねんだい 早々 そうそう の時点 じてん で「モデルTには抜本 ばっぽん 的 てき 改革 かいかく ―モデルチェンジが必要 ひつよう だ」と考 かんが えていた。またフォード社 しゃ の中 なか でも将来 しょうらい を見 み る眼 め のあった幹部 かんぶ たちや、他社 たしゃ との販売 はんばい 競争 きょうそう にさらされている少 すく なからざる傘下 さんか ディーラーも、同様 どうよう な考 かんが えを抱 だ いていた。
エドセルは単 たん なる御曹司 おんぞうし ではなかった。社長 しゃちょう 就任 しゅうにん から程 ほど なくフォード社 しゃ が買収 ばいしゅう したリンカーン[注釈 ちゅうしゃく 8] を立 た て直 なお すため、名門 めいもん コーチビルダー架 か 装 そう のボディを載 の せて高級 こうきゅう 車 しゃ 市場 いちば にアピールする策 さく で商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう を収 おさ めている。さらに後年 こうねん 、リンカーン・ブランドでは流線型 りゅうせんけい の量産 りょうさん 型 がた 高級 こうきゅう 車 しゃ 「ゼファー 」を1935年 ねん に、さらにそれをベースとして史上 しじょう 屈指 くっし の美 うつく しい自動車 じどうしゃ と言 い われる高級 こうきゅう パーソナルカー・初代 しょだい リンカーン・コンチネンタル を1939年 ねん に生 う み出 だ し、並行 へいこう して1938年 ねん には新 あら たな中級 ちゅうきゅう 車 しゃ ブランド「マーキュリー 」を立 た ち上 あ げてフォード社 しゃ で長年 ながねん 手薄 てうす だった中級 ちゅうきゅう 車 しゃ 部門 ぶもん 拡充 かくじゅう を成功 せいこう させるなど、エドセルには先 さき を見据 みす える着実 ちゃくじつ な手腕 しゅわん があった。ヘンリー・フォードも高級 こうきゅう 車 しゃ 部門 ぶもん の運営 うんえい は早 はや くからエドセルに委 ゆだ ねるようになっていった。
だがエドセルをフォード社 しゃ 社長 しゃちょう 職 しょく に据 す えたのも名目 めいもく のみで、なお会社 かいしゃ 経営 けいえい の実権 じっけん を握 にぎ り続 つづ けるヘンリーは、フォード・ブランドの大衆 たいしゅう 車 しゃ 生産 せいさん では周囲 しゅうい の忠告 ちゅうこく や意見 いけん にも一切 いっさい 耳 みみ を貸 か さず、モデルTの継続 けいぞく 生産 せいさん にこだわり続 つづ けた。その実 み 、モデルTの問題 もんだい 点 てん は時代 じだい の変化 へんか に伴 ともな って顕在 けんざい 化 か しつつあった。
モデルT自体 じたい のもたらした自動車 じどうしゃ の大量 たいりょう 普及 ふきゅう によって、アメリカでは道路 どうろ 整備 せいび が進展 しんてん し、舗装 ほそう 道路 どうろ も年々 ねんねん 増加 ぞうか していた。それはとりもなおさず自動車 じどうしゃ の高速 こうそく 化 か と、エンジンの高 こう 馬力 ばりき 化 か を招 まね いた。しかし道路 どうろ のほとんどが未 み 舗装 ほそう であった時代 じだい に基本 きほん 設計 せっけい されたモデルTは、ロードクリアランスが高 たか くとられて腰高 こしだか であり、またそのシャシーも、軽量 けいりょう 車体 しゃたい を未 み 舗装 ほそう 路 ろ で低速 ていそく 走行 そうこう させるには適当 てきとう であったが、重量 じゅうりょう のある車体 しゃたい を高速 こうそく 走行 そうこう させるには不適合 ふてきごう であった。
1920年代 ねんだい 、高性能 こうせいのう 車 しゃ は6気筒 きとう から8気筒 きとう 、12気筒 きとう といった多 た 気筒 きとう エンジンを搭載 とうさい するようになり、最高 さいこう 速度 そくど は70 - 80マイル/h に達 たっ するようになった。4気筒 きとう 大衆 たいしゅう 車 しゃ でも性能 せいのう 向上 こうじょう で55 - 60マイル/hに達 たっ するものは珍 めずら しくなくなっていた。これに対 たい し、モデルTの速力 そくりょく は40 - 45マイル/hがせいぜいであった。
加 くわ えて装備 そうび 品 ひん の充実 じゅうじつ に伴 ともな い、車 くるま 重 じゅう が増加 ぞうか しはじめた。基本 きほん モデルのツーリング型 がた で1908年 ねん 当初 とうしょ 1250ポンド (545kg[5] )であった車 くるま 重 じゅう は、電装 でんそう 部品 ぶひん の追加 ついか 装備 そうび や内 うち 外装 がいそう のグレードアップで年々 ねんねん 増加 ぞうか し、1916年 ねん 型 がた で1400ポンド、1918年 ねん 型 がた で1500ポンド、1923年 ねん 型 がた で1650ポンド、1926年 ねん 型 がた では1728ポンドにも達 たっ した。
さらに第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には、屋根 やね 付 つ きのクローズド・ボディが市場 いちば の主流 しゅりゅう となっていく。モデルTのクローズド・ボディモデルは、オープンボディのツーリング型 がた に比 くら べ重量 じゅうりょう が200 - 300ポンドも増加 ぞうか したが、エンジンは一貫 いっかん して20HP 、変速 へんそく 機 き も2段式 だんしき のままであり、ドライブトレーンの性能 せいのう が車 くるま 重 おも に釣 つ り合 あ わなくなっていった。
1920年代 ねんだい 、「ティン・リジー(モデルT)は絶対 ぜったい に追 お い越 こ せない。なぜなら何 なん 台 だい 追 お い抜 ぬ いても、先 さき に別 べつ のT型 がた が走 はし っているからだ」と言 い うジョークが生 う まれたが、台数 だいすう の多 おお さと同時 どうじ に、極 きわ め付 つ きの鈍 どん 足 あし であったことをも物語 ものがた っている。
経営 けいえい ・販売 はんばい 戦略 せんりゃく の立 た ち後 おく れ[ 編集 へんしゅう ]
シボレー シリーズ490(1918年 ねん )。車 くるま 名 めい は当時 とうじ の販売 はんばい 価格 かかく が490ドルであったことから。モデルTの遊星 ゆうせい ギアに対 たい して3段 だん ギアボックス、更 さら にOHV エンジンを搭載 とうさい
また、モデルTはボディ形態 けいたい のバリエーションは非常 ひじょう に多 おお かったものの、どれも実用 じつよう を第 だい 一 いち としたエナメル の黒 くろ 塗 ぬ り一色 いっしょく であり、後期 こうき にはデザイン 面 めん での魅力 みりょく を欠 か くようになった。ボディデザインもそれなりのアップデートは図 はか られたが、時代遅 じだいおく れの腰高 こしだか なシャシーでは、時流 じりゅう に即 そく したデザインのボディを架 か 装 そう することも、デザイン上 じょう のバランスと技術 ぎじゅつ の両面 りょうめん から容易 ようい に叶 かな わなかった。
競合 きょうごう 他社 たしゃ は、性能 せいのう 面 めん もさることながら、自動車 じどうしゃ の「ファッション」としての面 めん をも重視 じゅうし した。競合 きょうごう メーカーであるゼネラルモーターズ (GM)は、自社 じしゃ の大衆 たいしゅう 車 しゃ 「シボレー 」に多彩 たさい な塗装 とそう [注釈 ちゅうしゃく 9] を用意 ようい するなどの戦略 せんりゃく で、ユーザーにアピールしていた。また、スタイリングにも配慮 はいりょ がなされ、モデルTよりも低 てい 重心 じゅうしん で、高級 こうきゅう 車 しゃ [注釈 ちゅうしゃく 10] を思 おも わせるデザインが取 と り入 い れられて、商品 しょうひん 性 せい を高 たか めた。
1923年 ねん にGM社長 しゃちょう に就任 しゅうにん した辣腕 らつわん 経営 けいえい 者 しゃ アルフレッド・スローン は、大衆 たいしゅう がより上級 じょうきゅう の商品 しょうひん 、より新味 しんみ のある商品 しょうひん に惹 ひ かれることを理解 りかい していた。たとえ廉価 れんか な大衆 たいしゅう 車 しゃ であっても、高級 こうきゅう 車 しゃ を思 おも わせる形態 けいたい やメカニズムを備 そな えることで商品 しょうひん 力 りょく は高 たか まり、単 たん なる実用 じつよう 車 しゃ に飽 あ き足 た りない消費 しょうひ 者 しゃ の関心 かんしん を惹 ひ き付 つ けることができた。
元来 がんらい 、経営 けいえい 危機 きき に陥 おちい ったGM再建 さいけん に外部 がいぶ から招聘 しょうへい されてGM入 い りしたスローンは、技術 ぎじゅつ 者 しゃ としての素養 そよう は持 も っていたが基本 きほん 的 てき には企業 きぎょう 経営 けいえい 管理 かんり に精通 せいつう したビジネスマンであり、自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ 経営 けいえい の最終 さいしゅう 目的 もくてき は「自動車 じどうしゃ を作 つく ること」ではなく「自動車 じどうしゃ を売 う って収益 しゅうえき を上 あ げること」であると冷徹 れいてつ に見切 みき っていた。スローンは巨大 きょだい な企業 きぎょう 組織 そしき をシステマティックに統括 とうかつ する近代 きんだい 的 てき 企業 きぎょう 経営 けいえい 手法 しゅほう を構築 こうちく し、綿密 めんみつ な市場 いちば 調査 ちょうさ と生産 せいさん 量 りょう のコントロールとを伴 ともな った高度 こうど な販売 はんばい 戦略 せんりゃく を進 すす めることで、GMの着実 ちゃくじつ な利益 りえき 確保 かくほ を図 はか ろうとした。この企図 きと は1920年代 ねんだい を通 つう じて着々 ちゃくちゃく と成果 せいか を挙 あ げていた。
対 たい してヘンリー・フォードは、GM等 とう の手法 しゅほう を批判 ひはん 的 てき に見 み ていた。ヘンリーはフォード社 しゃ の専制 せんせい 君主 くんしゅ として君臨 くんりん し、モデルTを安 やす く大量 たいりょう に生産 せいさん ・販売 はんばい することのみに邁進 まいしん していた。より安 やす ければ当然 とうぜん よく売 う れ、またその普及 ふきゅう が社会 しゃかい への還元 かんげん にもなる、という、古 ふる い時代 じだい の単純 たんじゅん 素朴 そぼく な奉仕 ほうし 思想 しそう が背景 はいけい にあった。
また競合 きょうごう 他社 たしゃ は割賦 かっぷ 販売 はんばい (分割払 ぶんかつばら い、ローン販売 はんばい 方式 ほうしき )を導入 どうにゅう して、収入 しゅうにゅう の限 かぎ られた人々 ひとびと でも上級 じょうきゅう モデルを購入 こうにゅう しやすくし、販売 はんばい 促進 そくしん を図 はか った[注釈 ちゅうしゃく 11] のに対 たい し、フォードは割賦 かっぷ 販売 はんばい の導入 どうにゅう でも出遅 でおく れた。農民 のうみん の家庭 かてい に生 う まれ育 そだ ち、家父 かふ 長 ちょう 主義 しゅぎ に代表 だいひょう される保守 ほしゅ 的 てき 倫理 りんり 観 かん を持 も っていたヘンリー・フォードが、借金 しゃっきん としての一 いち 面 めん を持 も つ割賦 かっぷ 販売 はんばい という手法 しゅほう を、道徳 どうとく 面 めん から好 この まなかったためである。
だがそのような旧式 きゅうしき な方針 ほうしん では、低 てい 価格 かかく 化 か や収益 しゅうえき 確保 かくほ 、販売 はんばい 促進 そくしん の面 めん で、いずれ限界 げんかい を迎 むか えることは避 さ けられなかった。自動車 じどうしゃ 自体 じたい の商品 しょうひん 性 せい 以外 いがい に、経営 けいえい 手法 しゅほう の面 めん でもフォードは時代遅 じだいおく れになりつつあった。自動車 じどうしゃ 市場 いちば と経済 けいざい システムの双方 そうほう が成熟 せいじゅく するにつれ、フォードの姿勢 しせい は時代 じだい にそぐわなくなっていったのである。
シボレー スペリア シリーズK(1925年 ねん )。1927年 ねん には生産 せいさん 台数 だいすう でT型 がた フォードを抜 ぬ き、世界 せかい のベストセラーカーとしての地位 ちい を確立 かくりつ
1920年代 ねんだい 中期 ちゅうき のGMのマーケティング 戦略 せんりゃく はさらに尖鋭 せんえい 化 か し、シャシーは前年 ぜんねん 型 がた と共通 きょうつう でも、ボディデザインに年度 ねんど ごとの新味 しんみ を与 あた える「モデルチェンジ政策 せいさく 」を用 もち いて、在来 ざいらい 型 がた を意図 いと 的 てき に陳腐 ちんぷ 化 か させることが行 おこな われるようになった。GMが打 う ち出 だ したこの商品 しょうひん 戦略 せんりゃく は、競合 きょうごう 他社 たしゃ も否応 いやおう なしに取 と り入 い れざるを得 え なくなり、1970年代 ねんだい までアメリカの自動車 じどうしゃ は、1年 ねん ごとにボディデザインを変化 へんか させることが当然 とうぜん となった。
シボレーが年々 ねんねん スタイリングを変化 へんか させ、時代 じだい の先端 せんたん を行 い くデザインで大衆 たいしゅう にアピールする一方 いっぽう で、根本 こんぽん 的 てき に古 ふる すぎ、普及 ふきゅう しすぎたフォード・モデルTは、著 いちじる しく陳腐 ちんぷ 化 か した「安物 やすもの 」的 てき 存在 そんざい に堕 だ していった。
モデルTの大量 たいりょう 生産 せいさん によって、1920年代 ねんだい に入 はい るとさほど富裕 ふゆう でない大衆 たいしゅう 層 そう にまで自動車 じどうしゃ が普及 ふきゅう し、アメリカの大衆 たいしゅう 車 しゃ 市場 いちば はすでに飽和 ほうわ 状態 じょうたい になっていた。このため新規 しんき 需要 じゅよう に代 か わって、買 か い換 か え需要 じゅよう が自動車 じどうしゃ 需要 じゅよう の大方 おおかた を占 し めるようになった。
いざ買 か い換 か えの段 だん になると、最新 さいしん 型 がた でも旧型 きゅうがた とさしたる変化 へんか のないモデルTを、好 す きこのんで乗 の り換 か えの対象 たいしょう とするユーザーは多 おお くなかった。初 はじ めての自動車 じどうしゃ がモデルTだったユーザーも、GMなど競合 きょうごう 他社 たしゃ の斬新 ざんしん なニューモデルに惹 ひ かれ、古 ふる いモデルTを下取 したど りに出 だ して他社 たしゃ の新車 しんしゃ を購入 こうにゅう するようになった。商品 しょうひん 性 せい に歴然 れきぜん とした差 さ があったため、ユーザーは100ドル、200ドル程度 ていど の価格 かかく 差 さ はさほど意 い に介 かい さなかったし、セルフスターターや屋根 やね 付 つ きボディなどのオプションが付 つ けば価格 かかく 差 さ がより縮 ちぢ まるため、モデルTの競争 きょうそう 力 りょく は削 そ がれた。
モデルTも、1925年 ねん からはオプションで競合 きょうごう 他社 たしゃ 並 な みのバルーン・タイヤ[注釈 ちゅうしゃく 12] が設定 せってい され、1926年 ねん には黒 くろ 以外 いがい のボディカラー3色 しょく をオプション設定 せってい するなど、遅 おく ればせながら対抗 たいこう 策 さく を打 う ち出 だ したが、より強力 きょうりょく なエンジンと、比較的 ひかくてき 扱 あつか いやすいコンスタントメッシュ(常時 じょうじ 噛 か み合 あ い式 しき )の3段 だん 変速 へんそく 機 き 、安全 あんぜん 性 せい 確保 かくほ に効果 こうか のある4輪 りん ブレーキを備 そな えたスマートな競合 きょうごう 車 しゃ が多 おお く出現 しゅつげん する中 なか で、非力 ひりき なエンジンと2段 だん 変速 へんそく 機 き 装備 そうび で後 のち 輪 わ ブレーキのみの鈍重 どんじゅう なモデルTは、商品 しょうひん 寿命 じゅみょう が尽 つ きていることは明白 めいはく であった。
モデルTの終焉 しゅうえん と以後 いご の展開 てんかい [ 編集 へんしゅう ]
フォード モデルA(1928年 ねん ) 横 よこ 置 お きリーフスプリング式 しき のサスペンションはT型 がた 同様 どうよう だったが、大幅 おおはば に近代 きんだい 化 か され、リンカーン風 ふう のスタイルを備 そな えた
シボレー・モデルACインターナショナル(1929年 ねん )フォードのモデルAを迎撃 げいげき するように同級 どうきゅう の価格 かかく と排気 はいき 量 りょう で1クラス上 じょう の6気筒 きとう 46HPエンジンを搭載 とうさい 、商品 しょうひん 力 りょく で差 さ をつけた
ここに至 いた ってワンマンのヘンリー・フォードも、ついにモデルTの撤収 てっしゅう を決断 けつだん せざるを得 え なかった。1927年 ねん 5月 がつ 26日 にち 、ハイランドパーク工場 こうじょう で1,500万 まん 台 だい 目 め のモデルT(ツーリング)が完成 かんせい した――その日 ひ 、モデルTの生産 せいさん は終了 しゅうりょう したのである。ただし自動車 じどうしゃ 用 よう 以外 いがい の用途 ようと を想定 そうてい したモデルTエンジンの生産 せいさん は同年 どうねん 8月 がつ まで続行 ぞっこう され、T型 がた 部品 ぶひん の生産 せいさん も続 つづ けられた[6] 。
アメリカ本国 ほんごく 及 およ び諸 しょ 外国 がいこく で19年間 ねんかん に生産 せいさん されたモデルTおよびモデルTTの累計 るいけい 生産 せいさん 台数 だいすう は1,500万 まん 7,033台 だい であり、1972年 ねん 2月 がつ 17日 にち にフォルクスワーゲン・ビートル が累計 るいけい 生産 せいさん 1,500万 まん 7,034台 だい を達成 たっせい するまで、約 やく 44年 ねん 9か月 げつ に渡 わた ってモデルチェンジなしの史上 しじょう 最多 さいた 量産 りょうさん 車 しゃ の記録 きろく を保持 ほじ した。モデルT4気筒 きとう エンジン単体 たんたい の製品 せいひん 寿命 じゅみょう は驚 おどろ くほど長 なが く、ハイランドパークほかの主力 しゅりょく 工場 こうじょう が新型 しんがた 車 しゃ 生産 せいさん 体制 たいせい に移行 いこう した後 のち も、実 じつ に1941年 ねん 8月 がつ まで産業 さんぎょう 用 よう エンジンとして生産 せいさん が続 つづ いた。
ヘンリー・フォードはモデルTの製造 せいぞう 終了 しゅうりょう 時点 じてん まで、後継 こうけい モデルのことを全 まった く考 かんが えていなかった節 ふし がある[7] 。経営 けいえい 面 めん への影響 えいきょう を考慮 こうりょ すれば異例 いれい を通 とお り越 こ して奇 き 怪 かい なまでの無神経 むしんけい ぶりであるが、その結果 けっか 、同年 どうねん 末 まつ 近 ちか くまで約 やく 半年 はんとし 以上 いじょう 、フォードの大衆 たいしゅう 車 しゃ の生産 せいさん 自体 じたい が途絶 とぜつ することになった。巨大 きょだい なリバー・ルージュ工場 こうじょう は機能 きのう 停止 ていし し、2億 おく ドル以上 いじょう とも言 い われる操業 そうぎょう 停止 ていし コストが発生 はっせい した。販売 はんばい 店 てん への新車 しんしゃ 供給 きょうきゅう は9か月 げつ も途絶 とぜつ し、一方 いっぽう 的 てき に供給 きょうきゅう を断 た たれて経営 けいえい に窮 きゅう したフォード系列 けいれつ のディーラーには、フォードとの契約 けいやく を解除 かいじょ して他 た メーカーの代理 だいり 店 てん になる事例 じれい が続出 ぞくしゅつ したという。
フォードの凋落 ちょうらく とGMの首位 しゅい 獲得 かくとく [ 編集 へんしゅう ]
フォード社 しゃ でヘンリー・フォード自 みずか らの陣頭 じんとう 指揮 しき により、急 きゅう ピッチで新車 しんしゃ 開発 かいはつ が進 すす められたが、新型 しんがた 試作 しさく 車 しゃ 1号車 ごうしゃ がようやく完成 かんせい したのは1927年 ねん 10月 がつ 21日 にち (エンジンの完成 かんせい はその前日 ぜんじつ )で、その時点 じてん でモデルTの生産 せいさん 中止 ちゅうし から約 やく 5か月 げつ が過 す ぎていた。その後 ご 1か月 げつ で130台 だい 以上 いじょう の増加 ぞうか 試作 しさく 車 しゃ を製作 せいさく しテストするという強行 きょうこう 軍 ぐん の末 すえ 、1927年 ねん 12月2日 にち 、全米 ぜんべい の注目 ちゅうもく のもとにモデルTの後継 こうけい 車 しゃ 「フォード・モデルA 」が発表 はっぴょう された。それはモデルTに倍 ばい する40HP4気筒 きとう エンジンと標準 ひょうじゅん 装備 そうび のセルフスターター、一般 いっぱん 的 てき な手動 しゅどう 3段 だん 変速 へんそく 機 き 、機械 きかい 式 しき 4輪 りん ブレーキを備 そな えた、モデルT類似 るいじ だが大幅 おおはば に強化 きょうか されたシャシーと、専業 せんぎょう ボディメーカーのブリッグスおよびマーレイの架 か 装 そう によるリンカーンの影響 えいきょう が強 つよ いボディ(むろん、複数 ふくすう の塗 ぬり 色 しょく を選択 せんたく 可能 かのう )を持 も つ、当時 とうじ の大衆 たいしゅう 車 しゃ として一 いち 級 きゅう の水準 すいじゅん に達 たっ した新型 しんがた 車 しゃ であった。追 お ってTTに代 か わる商用 しょうよう シャーシについても、より商用 しょうよう 向 む けに大型 おおがた 化 か ・重 じゅう 積載 せきさい 特 とく 化 か した4段 だん 変速 へんそく の「モデルAA」が新 あら たに開発 かいはつ され、商用 しょうよう 車 しゃ 市場 いちば の維持 いじ と、エンジン共用 きょうよう による量産 りょうさん 効果 こうか 確保 かくほ が図 はか られた。
だが、肝心 かんじん の生産 せいさん 設備 せつび が新型 しんがた 車 しゃ 用 よう に切 き り替 か えられ、モデルAの本格 ほんかく 的 てき な量産 りょうさん が始 はじ まったのは翌 よく 1928年 ねん に入 はい ってからであった。フォード工場 こうじょう のあらゆる生産 せいさん 設備 せつび は、それ以前 いぜん に生産 せいさん されていたモデルT/TTのために、徹底 てってい して最適 さいてき 化 か されており、大 だい 改装 かいそう を要 よう したからである。GMはこのフォードのモデルチェンジに要 よう した長 なが すぎる間隙 かんげき を見過 みす ごさず、シボレー車 しゃ の販売 はんばい 攻勢 こうせい をかけた。それは他社 たしゃ も同様 どうよう で、ハドソン の大衆 たいしゅう 車 しゃ エセックス、新興 しんこう のクライスラー が送 おく り出 だ した新 しん ブランドの大衆 たいしゅう 車 しゃ プリムス もこの時期 じき 大 おお いに伸長 しんちょう した。アルフレッド・スローンは、この長期 ちょうき 操業 そうぎょう 停止 ていし がフォード社 しゃ の「異様 いよう な凋落 ちょうらく 」を招 まね いたと評 ひょう している。「モデルTを葬 ほうむ った」1927年 ねん -28年 ねん にフォード社 しゃ が陥 おちい った危機 きき は、一般 いっぱん の企業 きぎょう であれば倒産 とうさん していたような事態 じたい であった。
発表 はっぴょう されたフォード・モデルAそれ自体 じたい は、堅牢 けんろう で実用 じつよう 的 てき 、かつ市場 いちば 競争 きょうそう 力 りょく のある大衆 たいしゅう 車 しゃ で、後世 こうせい からも当時 とうじ における名作 めいさく と評価 ひょうか される。GMのスローンも当時 とうじ 「流行 りゅうこう に左右 さゆう されない実用 じつよう 車 しゃ 、というヘンリー・フォードのポリシーを具現 ぐげん 化 か した立派 りっぱ な小型車 こがたしゃ だと思 おも った」むね後年 こうねん 回想 かいそう しているが、それはGMの更 さら なる反撃 はんげき に繋 つな がった。1928年 ねん に発表 はっぴょう されたシボレー1929年 ねん 型 がた は中級 ちゅうきゅう 車 しゃ 同様 どうよう な直列 ちょくれつ 6気筒 きとう エンジンを搭載 とうさい した画期的 かっきてき モデルで、4気筒 きとう 3.3L・40HPのフォード・モデルAをしのぐ性能 せいのう (3.2L・46HP)を達成 たっせい しながら前年 ぜんねん の4気筒 きとう 型 がた と同等 どうとう 価格 かかく 帯 たい で販売 はんばい され、GMは大衆 たいしゅう 車 しゃ 市場 いちば の主導 しゅどう 権 けん を引 ひ き続 つづ き握 にぎ った。そして1929年 ねん 以降 いこう の大 だい 恐慌 きょうこう 時代 じだい においては、GMが時宜 じぎ を得 え た生産 せいさん 調整 ちょうせい に早期 そうき に踏 ふ み切 き ったことで不 ふ 況 きょう に対処 たいしょ できたのに対 たい し、フォードは生産 せいさん 調整 ちょうせい 等 とう に類 るい する適切 てきせつ な利益 りえき 管理 かんり 手法 しゅほう を怠 おこた ったことによって、大 おお きな損失 そんしつ を生 しょう じさせる結果 けっか となった。
ヘンリー・フォードのポリシーを、現実 げんじつ と妥協 だきょう しつつもできる限 かぎ り維持 いじ しようとしたモデルAは、実際 じっさい にはGMが導入 どうにゅう していた年次 ねんじ 変更 へんこう の圧力 あつりょく に競争 きょうそう 上 じょう 否応 いやおう なく同調 どうちょう せざるを得 え ず、1930年 ねん 型 がた のビッグマイナーチェンジを経 へ ても、1932年 ねん にV型 がた 8気筒 きとう エンジンを導入 どうにゅう した後継 こうけい 車 しゃ 「モデルB」系 けい へ移行 いこう するまでの4年間 ねんかん しか生産 せいさん できなかった。モデルT最盛 さいせい 期 き のように「良 よ い車 くるま をひたすら大量 たいりょう に、廉価 れんか に供給 きょうきゅう する」だけでは、自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ (特 とく に大衆 たいしゅう 車 しゃ を量産 りょうさん する自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ )の経営 けいえい は成 な りたなくなった現実 げんじつ が、冷徹 れいてつ に示 しめ されたのであった。
1920年代 ねんだい -30年代 ねんだい 、このような推移 すいい を経 へ て、アメリカの(ということは、当時 とうじ においては同時 どうじ に「世界 せかい の」)自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう 界 かい におけるトップの座 ざ は、フォードからGMへ移行 いこう し、それは自動車 じどうしゃ 業界 ぎょうかい の固定 こてい したパワーバランスとして長 なが く恒常 こうじょう 化 か した。フォード社 しゃ はモデルTと共 とも に大 おお きく発展 はってん したが、最後 さいご にはそのモデルTによってつまずくことになったのである。マスプロダクションの極致 きょくち を実現 じつげん したフォードは、やがて大量 たいりょう 生産 せいさん の限界 げんかい に行 い き着 つ き、自 みずか ら招 まね いた時代 じだい の変化 へんか に乗 じょう じたGMに、企業 きぎょう としての首位 しゅい を譲 ゆず らざるを得 え なかった。その過程 かてい は、モデルTの20年 ねん に渡 わた る長 なが い生産 せいさん 史 し から、如実 にょじつ にうかがい知 し ることができる。
モデルTのカットシャシー(制作 せいさく 時 じ は「切開 せっかい 自動車 じどうしゃ 」と称 しょう していた)。1917年 ねん 式 しき 右 みぎ ハンドル仕様 しよう 。旧 きゅう 交通 こうつう 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう 。1920年代 ねんだい -1930年代 ねんだい に東京 とうきょう ・田無 たなし 町 まち (現 げん 西東京 にしとうきょう 市 し )にあった東京 とうきょう 自動車 じどうしゃ 学校 がっこう で教材 きょうざい として用 もち いられ、1991年 ねん に関係 かんけい 者 しゃ から博物館 はくぶつかん に寄贈 きぞう された。現在 げんざい はトヨタ博物館 はくぶつかん に貸与 たいよ され一般 いっぱん 公開 こうかい されている
モデルTの前 ぜん 車軸 しゃじく 回 まわ り。固定 こてい 軸 じく を横 よこ 置 お きリーフスプリングで支持 しじ 。前輪 ぜんりん ブレーキはない
モデルTの後 のち 車軸 しゃじく 回 まわ り。固定 こてい 軸 じく の横 よこ 置 お き板 いた バネ支持 しじ は前 ぜん 軸 じく 同様 どうよう 。差 さ 動 どう ギアは傘 かさ 歯車 はぐるま を使用 しよう
モデルTTの差 さ 動 どう ギアケース部分 ぶぶん 。ウォームギア駆動 くどう になっている
モデルTのステアリング。中央 ちゅうおう 部 ぶ が盛 も り上 あ がり、ステアリング下 か にはスロットルレバーと点火 てんか 時期 じき レバーが付 つ く
モデルTは、1908年 ねん 当時 とうじ において必要 ひつよう とされる性能 せいのう 水準 すいじゅん を十分 じゅうぶん に満 み たした自動車 じどうしゃ であり、大量 たいりょう 生産 せいさん と大衆 たいしゅう ユーザーによる実用 じつよう とを念頭 ねんとう に置 お いた、独創 どくそう 的 てき で非常 ひじょう に完成 かんせい 度 ど の高 たか いメカニズムを備 そな えていた。ただ、余 あま りに長 なが く生産 せいさん されたことが、末期 まっき における前 ぜん 時代 じだい 化 か とそれに伴 ともな う衰退 すいたい を招 まね いたに過 す ぎない。
操縦 そうじゅう が容易 ようい で、悪 あく 路 ろ で必要 ひつよう とされる耐久 たいきゅう 性 せい 、踏破 とうは 性 せい を満 み たし、また基本 きほん 的 てき な工具 こうぐ とマニュアル だけを頼 たよ りに、素人 しろうと でも相当 そうとう 部分 ぶぶん を修繕 しゅうぜん できるように配慮 はいりょ されていた。モデルTは、電気 でんき や電話 でんわ が届 とど かない辺地 へんち に住 す まう人々 ひとびと にも提供 ていきょう される乗 の り物 もの であり[注釈 ちゅうしゃく 13] 、トラブルが起 お きても極力 きょくりょく ユーザー自身 じしん の手 て で修繕 しゅうぜん できることが必要 ひつよう であったからである。
1900年代 ねんだい 後半 こうはん には既 すで に一般 いっぱん 化 か していた、鋼材 こうざい による梯子 はしご 形 がた フレームをベースとするレイアウト。直列 ちょくれつ 4気筒 きとう エンジンを縦 たて 置 お きにして、トルクチューブに収 おさ めたプロペラシャフト を介 かい し後 ご 輪 わ を駆動 くどう する。前後 ぜんご とも横 よこ 置 お きリーフスプリングで固定 こてい 車軸 しゃじく を支持 しじ するという構造 こうぞう 共々 ともども 、強度 きょうど を考慮 こうりょ したもので、初期 しょき の自動車 じどうしゃ として手堅 てがた い設計 せっけい である。トルクチューブ・ドライブの採用 さいよう は軽量 けいりょう 化 か 策 さく とは相反 あいはん するものの、駆動 くどう 系 けい の可動 かどう 部品 ぶひん 全体 ぜんたい を保護 ほご し、常時 じょうじ 潤滑 じゅんかつ を行 い き届 とど けさせることで、耐久 たいきゅう 性 せい を高 たか めるメリットがあった。
フレーム自体 じたい は設計 せっけい された時代 じだい を反映 はんえい し、低 てい 床 ゆか 化 か を考慮 こうりょ しないストレートなもので、かなり腰高 こしだか ・高 こう 重心 じゅうしん である。とはいえ、当時 とうじ の悪 あく 路 ろ に対 たい するロード・クリアランス確保 かくほ の面 めん からは理 り に適 かな っていた。
この構成 こうせい 自体 じたい は、在来 ざいらい モデルであるN型 がた を踏襲 とうしゅう したものであったが、バナジウム 鋼 はがね など新 あたら しい材料 ざいりょう を採用 さいよう し、また圧延 あつえん 部材 ぶざい を駆使 くし するなどして、全体 ぜんたい に軽量 けいりょう 化 か ・強化 きょうか されている。後年 こうねん の自動車 じどうしゃ に比 くら べれば相当 そうとう に細身 ほそみ の鋼材 こうざい を用 もち いたシャシーであるが、その当初 とうしょ には軽量 けいりょう なオープンボディの架 か 装 そう を前提 ぜんてい としており、定員 ていいん 最大 さいだい 5名 めい 程度 ていど の荷重 におも なら問題 もんだい なかった。一方 いっぽう 、1トン積 づ みトラックとしての荷重 かじゅう を想定 そうてい したモデルTTシャシーではスプリング共々 ともども 相応 そうおう に強化 きょうか されている。
積載 せきさい 荷重 かじゅう の構造 こうぞう 的 てき 限界 げんかい を超 こ えると、シャシーやスプリングより先 さき に後 こう 車軸 しゃじく が破損 はそん するような強度 きょうど 設計 せっけい になっていた。車軸 しゃじく 破壊 はかい なら、シャシー・スプリングの破損 はそん と異 こと なって、再起 さいき 不能 ふのう な致命 ちめい 的 てき 破損 はそん ではなく、後部 こうぶ を吊 つ り上 あ げてレッカー牽引 けんいん 回送 かいそう もでき、後 こう 車軸 しゃじく 交換 こうかん のみの迅速 じんそく な修理 しゅうり が可能 かのう で、巧 たく みな配慮 はいりょ である。この設計 せっけい は計算 けいさん でなく、強度 きょうど の異 こと なる車軸 しゃじく を何 なん 種類 しゅるい も試作 しさく して様々 さまざま な負荷 ふか を掛 か けることで破損 はそん 結果 けっか を得 え て導 みちび き出 だ されたものであった。
レイアウトでは、従来 じゅうらい のフォード車 しゃ は右 みぎ ハンドル仕様 しよう であったのを、モデルTから左 ひだり ハンドル標準 ひょうじゅん 仕様 しよう としたことが大 おお きな変更 へんこう 点 てん である。初期 しょき の自動車 じどうしゃ 業界 ぎょうかい ではステアリング位置 いち に定見 ていけん が無 な く、実際 じっさい の道路 どうろ 交通 こうつう に関係 かんけい なく車体 しゃたい 外側 そとがわ のレバーを操作 そうさ するのに都合 つごう がよい右 みぎ ハンドルが多 おお かったが、ヘンリー・フォードは右側 みぎがわ 通行 つうこう のアメリカでは左 ひだり ハンドルの方 ほう が操縦 そうじゅう 上 じょう の見通 みとお しから都合 つごう がよいと判断 はんだん してこの変更 へんこう を行 おこな った。フォードの量産 りょうさん による普及 ふきゅう も手伝 てつだ って、以後 いご 自動車 じどうしゃ の左 ひだり ハンドルはアメリカで一般 いっぱん 化 か していくことになる。なお、モデルTはイギリスに代表 だいひょう される右 みぎ ハンドル標準 ひょうじゅん の国々 くにぐに に輸出 ゆしゅつ することを配慮 はいりょ して、右 みぎ ハンドル仕様 しよう への設計 せっけい 変更 へんこう も可能 かのう な構造 こうぞう であり、実際 じっさい にイギリス工場 こうじょう 生産 せいさん 車 しゃ や日本 にっぽん 工場 こうじょう 組 く み立 た て車 しゃ などは右 みぎ ハンドル仕様 しよう で製作 せいさく されている。
サスペンションの変更 へんこう 点 てん として、N型 がた では後 こう 軸 じく が縦 たて 置 お きリーフスプリングであったのに対 たい し、前後 ぜんご ともスプリング点数 てんすう を減 へ らして簡略 かんりゃく な横 よこ 置 お きリーフスプリングに変更 へんこう されたことが挙 あ げられる。
フォード社 しゃ は以後 いご 、横 よこ 置 お きリーフスプリングの固定 こてい 軸 じく (フォード社 しゃ では「トランスバース・ダブル・カンチレバー・スプリング」と称 しょう した)を用 もち いることに長 なが く固執 こしつ した。縦 たて 置 お きリーフスプリングを用 もち いていた競合 きょうごう メーカー各社 かくしゃ が、やがて前輪 ぜんりん の独立 どくりつ 懸架 けんか をも続々 ぞくぞく と標準 ひょうじゅん 化 か し始 はじ めた1930年代 ねんだい を過 す ぎても、フォード社 しゃ では量産 りょうさん 高級 こうきゅう 車 しゃ である「リンカーン ・ゼファー」や中級 ちゅうきゅう 車 しゃ 「マーキュリー 」を含 ふく む主力 しゅりょく 乗用 じょうよう モデルのほとんどが前後 ぜんご 輪 わ とも横 よこ 置 お きリーフスプリング固定 こてい 軸 じく のままであった。頑丈 がんじょう だが旧弊 きゅうへい なこのサスペンションは、リンカーン系 けい の一部 いちぶ 最 さい 高級 こうきゅう モデルを例外 れいがい としてフォード車 しゃ の基本 きほん 仕様 しよう であり続 つづ け、これが廃 はい されて前輪 ぜんりん 独立 どくりつ 懸架 けんか が導入 どうにゅう されたのは実 じつ に1948年 ねん であった[1] 。
差 さ 動 どう 装置 そうち (ディファレンシャル・ギア)の駆動 くどう は、乗用車 じょうようしゃ 用 よう モデルTシャシーでは通常 つうじょう の傘 かさ 歯車 はぐるま を使用 しよう した。ノーマルなモデルTの最終 さいしゅう 減速 げんそく 比 ひ は3.63:1だが、山地 さんち 向 む けに若干 じゃっかん 低速 ていそく 設定 せってい とした減速 げんそく 比 ひ 4.0:1のバージョンも用意 ようい された。一方 いっぽう 、エンジンやトランスミッションを共用 きょうよう するトラック用 よう TTシャシーは、最終 さいしゅう 減速 げんそく を大 おお きくすることで牽引 けんいん 力 りょく を確保 かくほ せねばならないため、減速 げんそく 比 ひ を大 おお きく取 と りやすいウォームギヤ を使 つか った。最終 さいしゅう 減速 げんそく 比 ひ 7.25:1を標準 ひょうじゅん としたが、やや高速 こうそく ・軽量 けいりょう 向 む けな減速 げんそく 比 ひ 5.17:1のバージョンも用意 ようい された。
ホイールベースは通常 つうじょう 型 がた のモデルTシャシーが約 やく 99インチ(2515mm)、モデルTTシャシーは積載 せきさい 性 せい を考慮 こうりょ して約 やく 2フィート長 なが い124インチ(3150mm)であった。タイヤは末期 まっき 型 がた の1925年 ねん からオプションのバルーンタイヤを除 のぞ き、直径 ちょっけい 30インチ(762mm)の高 こう 圧 あつ 空気 くうき タイヤが標準 ひょうじゅん で用 もち いられた。モデルTシャシーは互換 ごかん 性 せい を考慮 こうりょ し、前後 ぜんご とも同一 どういつ サイズタイヤとしているが、モデルTTシャシーは後 こう 輪 わ 荷重 におも に考慮 こうりょ し、後 こう 輪 わ には太 ふと いタイヤを履 は く仕様 しよう となっていた。
トレッドは、標準 ひょうじゅん では56インチ(1420mm)で、全米 ぜんべい の広域 こういき で使 つか われていた馬車 ばしゃ のトレッドに合 あ わせることで未 み 舗装 ほそう 路 ろ の轍 わだち にうまく乗 の れる配慮 はいりょ が為 な されていた。ただし、南部 なんぶ の一部 いちぶ 地域 ちいき では馬車 ばしゃ により広 ひろ いトレッドが使 つか われていたため轍 わだち の幅 はば も広 ひろ かったことから、そのような地域 ちいき に向 む けた幅広 はばひろ の60インチ(1520mm)仕様 しよう も用意 ようい された。
全長 ぜんちょう はボディ仕様 しよう により、ホイールベース+車輪 しゃりん 径 みち +α あるふぁ で、おおむね3.3m-3.6m程度 ていど (モデルTTでは5m弱 じゃく まで)とまちまちであった。フロントバンパーのない1900年代 ねんだい の自動車 じどうしゃ の多 おお くに共通 きょうつう するディメンションで、フロントは前 ぜん 車軸 しゃじく から前輪 ぜんりん の半径 はんけい 分 ぶん 前方 ぜんぽう がそのまま先端 せんたん であったが、後部 こうぶ はボディ構造 こうぞう 次第 しだい で相当 そうとう にオーバーハングを延長 えんちょう でき、バリエーションが多彩 たさい だったからである。
モデルTのステアリングおよびハンドスロットル周 まわ りの図解 ずかい 。フォード社 しゃ による1919年 ねん 発行 はっこう のマニュアルより
ステアリング は、シャシーから斜 なな めに立 た ち上 あ げられた太 ふと い鋼管 こうかん のステアリングコラムのみで支持 しじ される。
特徴 とくちょう としては、普通 ふつう の自動車 じどうしゃ なら前 ぜん 車軸 しゃじく 間近 まぢか にステアリングの減速 げんそく ギアを配置 はいち するのに対 たい し、モデルTではステアリングコラムの最 さい 上部 じょうぶ 、ステアリングホイール直下 ちょっか に遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 式 しき の減速 げんそく 機構 きこう を備 そな えていた点 てん である。このため、普通 ふつう の自動車 じどうしゃ であればステアリングスポークはホイールに対 たい して平面 へいめん か、基部 きぶ が奥 おく まっているところ、モデルTでは逆 ぎゃく に基部 きぶ がドライバー側 がわ にわずかに飛 と び出 だ し、4本 ほん のステアリングスポークは若干 じゃっかん 垂 た れ下 さ がっていた。かねてから遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま を好 この んでいたヘンリー・フォードらしい変 か わった手法 しゅほう で、他 た にはあまり例 れい のない形態 けいたい である[5] 。
装備 そうび されたブレーキ は後 こう 輪 わ のドラムブレーキと、変速 へんそく 機 き に一体化 いったいか されたドラム締 し め付 つ け式 しき のセンター・ブレーキである。メインはセンターブレーキの方 ほう で、プロペラシャフト、後 こう 車軸 しゃじく を介 かい して後 こう 輪 わ への制動 せいどう 力 りょく として作用 さよう した。後 こう 輪 わ のドラムブレーキは、専 もっぱ らパーキングブレーキである。何 いず れも最後 さいご まで、ワイヤーやロッドを介 かい して作動 さどう する単純 たんじゅん な機械 きかい 式 しき であった[1] 。
制動 せいどう 能力 のうりょく は当時 とうじ としてもさほど優 すぐ れていたわけではなかったが、モデルTの現役 げんえき 時代 じだい は現代 げんだい より交通 こうつう 量 りょう が遙 はる かに少 すく なく、最高 さいこう 速度 そくど も40マイル/h程度 ていど でもあったため十 じゅう 分 ふん 用 よう は足 た りた。
自動車 じどうしゃ の前輪 ぜんりん ブレーキが一般 いっぱん 化 か したのは1920年代 ねんだい 以降 いこう 、安定 あんてい して機能 きのう する油圧 ゆあつ ブレーキが広 ひろ まったのは1920年代 ねんだい 後期 こうき 以降 いこう であり、エンジンの吸気 きゅうき 負 ふ 圧 あつ を利用 りよう したブレーキサーボ(増力 ぞうりょく 機構 きこう )が大衆 たいしゅう 車 しゃ に広 ひろ まり始 はじ めたのは1930年代 ねんだい 以降 いこう のことである。モデルTはその生産 せいさん 期間 きかん を通 つう じて、前輪 ぜんりん ブレーキや油圧 ゆあつ ブレーキなどの近代 きんだい 的 てき 装備 そうび を持 も たなかった。
エンジンと周辺 しゅうへん 機器 きき [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ のフォード社 しゃ では、車両 しゃりょう に搭載 とうさい するエンジンについて「エンジン」と呼 よ ばず「パワープラント」と称 しょう していた。モデルTのエンジンはそのキャラクターの素朴 そぼく さからすれば「動力 どうりょく 発生 はっせい 装置 そうち 」という呼称 こしょう も適切 てきせつ であったが、設計 せっけい 自体 じたい は1908年 ねん 時点 じてん においては進 すす んでいた。そのまま19年間 ねんかん にわたり、ほとんど細部 さいぶ の改良 かいりょう と若干 じゃっかん の仕様 しよう 変更 へんこう のみで、大幅 おおはば なパワーアップもなく生産 せいさん 続行 ぞっこう された。
モデルTの4気筒 きとう エンジン及 およ び遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 変速 へんそく 機 き ユニットの断面 だんめん 図 ず 。フォード社 しゃ による1919年 ねん 発行 はっこう のマニュアルより
モデルTのサイドバルブ4気筒 きとう エンジンを車両 しゃりょう 右側 みぎがわ 面 めん の吸排気 はいき 弁 べん 側 がわ から。低 ひく い位置 いち にアップドラフト型 がた のシングルキャブレターを配置 はいち 、電装 でんそう 系 けい は写真 しゃしん 左手 ひだりて のダッシュボード内 ない に配線 はいせん 、エンジン前方 ぜんぽう となる右手 みぎて 下部 かぶ には1917年 ねん からオプションとなった電動 でんどう セルフスターターも見 み える
モデルTのエンジン回 まわ りのカットモデルを車両 しゃりょう 左側 ひだりがわ から。ダッシュボード後方 こうほう には電装 でんそう 機器 きき を収 おさ めたボックスがある
水冷 すいれい 直列 ちょくれつ 4気筒 きとう 3ベアリング式 しき 、サイドバルブ (Lヘッド)、ボア×ストロークが3.75×4インチ(95×101mm[5] )のロングストロークで排気 はいき 量 りょう 2896cc、公称 こうしょう 出力 しゅつりょく 20-24HP/1,400-1800rpm という性能 せいのう であった[5] 。最大 さいだい トルク は11.3kg-m/1,000rpmとして低速 ていそく 域 いき での扱 あつか いやすさを重視 じゅうし し、長時間 ちょうじかん の運転 うんてん にも耐 た える実用 じつよう 型 がた エンジンである。その基本 きほん 設計 せっけい は、モデルNのストローク延長 えんちょう 型 がた とも言 い うべきものであったが、実際 じっさい には完全 かんぜん に一新 いっしん されていた。
当時 とうじ の多 おお くの自動車 じどうしゃ メーカーでは、4気筒 きとう ・6気筒 きとう エンジンは(フォードのモデルNも含 ふく め)鋳造 ちゅうぞう 技術 ぎじゅつ の未熟 みじゅく のため2気筒 きとう 単位 たんい でブロックを構成 こうせい しており、ヘッド部 ぶ がブロックと一体 いったい の「ノンデタッチャブルヘッド」だった。これに対 たい しモデルTのエンジンは、いち早 はや く4気筒 きとう 一体 いったい のブロックを実現 じつげん し、ヘッドも脱着 だっちゃく 可能 かのう な「デタッチャブルヘッド」として、生産 せいさん 性 せい ・強度 きょうど ・整備 せいび 性 せい の面 めん で有利 ゆうり な構造 こうぞう とした。まさに当時 とうじ 最先端 さいせんたん の設計 せっけい である。このために、フォードは4気筒 きとう を同時 どうじ にボーリング するための専用 せんよう 工作 こうさく 機械 きかい を開発 かいはつ している[5] 。一方 いっぽう エンジンブロックとクランクケース、変速 へんそく 機 き 部分 ぶぶん のケース下 か 半分 はんぶん を一体化 いったいか し、エンジンと変速 へんそく 機 き でオイル回 まわ りを共用 きょうよう として、頑丈 がんじょう かつコンパクトに仕上 しあ げた。圧縮 あっしゅく 比 ひ は3.98とこの時代 じだい の技術 ぎじゅつ 水準 すいじゅん に応 おう じて低 ひく かったが、当時 とうじ の低 てい オクタン価 おくたんか なガソリンに適合 てきごう し、手動 しゅどう クランクによるエンジン始動 しどう も容易 ようい になっていた。また本来 ほんらい はガソリン燃料 ねんりょう を前提 ぜんてい としていたが、ベンジン、アルコール、ケロシンを使用 しよう することもそのまままたは簡易 かんい な改造 かいぞう で可能 かのう であった。
通常 つうじょう 型 がた のモデルTはこのエンジンにシングルキャブレターを装備 そうび して平坦 へいたん 路 ろ の最 さい 高速度 こうそくど 40 - 45マイル/h(約 やく 64 - 72km/h )程度 ていど に達 たっ し、ガソリン1ガロン当 あ たり25 - 30マイル(リッター当 あ たり10 - 12km程度 ていど )の燃費 ねんぴ を達成 たっせい した。牽引 けんいん 力 りょく 重視 じゅうし で低速 ていそく ギア仕様 しよう のモデルTTは最高 さいこう 速度 そくど 25マイル/h(約 やく 40km/h)未満 みまん に留 とど まった。キャブレターのメーカーはホーリー をはじめ、ゼニスやキングストンなど当時 とうじ の主要 しゅよう メーカーが起用 きよう されている。
エンジン周辺 しゅうへん 機器 きき [ 編集 へんしゅう ]
点火 てんか 方式 ほうしき は永久 えいきゅう 磁石 じしゃく 利用 りよう のマグネトー 式 しき をメインとしている。始動 しどう 時 じ のみバッテリー 電源 でんげん でイグニッション・コイル経由 けいゆ で点火 てんか 、回転 かいてん しだしたらマグネトー作動 さどう に切 き り替 か えた(製造 せいぞう 開始 かいし 当初 とうしょ はマグネトーのみで作動 さどう 、1915年 ねん の電気 でんき 式 しき ヘッドライト電源 でんげん も当初 とうしょ はマグネトーのみで賄 まかな った)。マグネトー式 しき は当時 とうじ において作動 さどう の信頼 しんらい 性 せい が高 たか いというメリットがあり、トーマス・エジソン の元 もと で電気 でんき 技術 ぎじゅつ 者 しゃ として経験 けいけん を積 つ んだヘンリー・フォードらしく堅実 けんじつ な手法 しゅほう である。このマグネトー発電 はつでん 機 き は出力 しゅつりょく 側 がわ のフライホイールにコンパクトに一体化 いったいか されていた[1] 。
エンジン始動 しどう は、エンジン前 ぜん 端 はし に固定 こてい された手動 しゅどう クランクレバーを回 まわ して行 い った。チョークレバーもエンジン前方 ぜんぽう に設置 せっち されており、右手 みぎて でクランクレバー、左手 ひだりて でチョークを操作 そうさ しつつスタートできるように配慮 はいりょ されている。
のち1917年 ねん からは電動 でんどう 式 しき セルフスターターがオプションで装備 そうび され、女性 じょせい でも扱 あつか いは容易 ようい になった。セルフスターターがデルコ社 しゃ によって開発 かいはつ され、キャディラックに世界 せかい で初 はつ 搭載 とうさい されたのは1912年 ねん であり、フォードのセルフスターターは大衆 たいしゅう 車 しゃ の中 なか ではいち早 はや い採用 さいよう である。
エンジンの出力 しゅつりょく 、回転 かいてん 数 すう の調整 ちょうせい は、ペダルではなく、ステアリング直下 ちょっか のステアリングコラム右 みぎ 脇 わき に飛 と び出 で たスロットルレバーを手前 てまえ に下 さ げて行 い った。また当時 とうじ の自動車 じどうしゃ の例 れい に漏 も れず、点火 てんか タイミングの調整 ちょうせい [注釈 ちゅうしゃく 14] も可能 かのう で、スロットルと反対 はんたい の左側 ひだりがわ には点火 てんか 時期 じき 調整 ちょうせい レバーが付 つ いていた。これはスロットルと常 つね に同 おな じ角度 かくど に下 さ げればほぼ適切 てきせつ な点火 てんか タイミングになる設定 せってい で、基本 きほん 的 てき に小 しょう 難 むずか しい操作 そうさ は不要 ふよう だった。しかもこれら2本 ほん のレバーは、ステアリングを握 にぎ ったままで指先 ゆびさき を伸 の ばして操作 そうさ ができたのである。
燃料 ねんりょう はポンプなしの重力 じゅうりょく 供給 きょうきゅう 式 しき で、最 さい 末期 まっき を除 のぞ き、1930年代 ねんだい 以前 いぜん の自動車 じどうしゃ に多 おお かったボンネット内 ない タンク配置 はいち の重力 じゅうりょく 供給 きょうきゅう でなく、フロントシート下 か に横 よこ 置 お き配置 はいち されたドラム型 がた の燃料 ねんりょう タンクから供給 きょうきゅう された(エンジン横 よこ のアップドラフトキャブレターに比 ひ して客室 きゃくしつ 床 ゆか 面 めん 位置 いち が高 たか いので重力 じゅうりょく 供給 きょうきゅう 可能 かのう であった)。2座席 ざせき のクーペ等 とう ではタンクを座席 ざせき 後部 こうぶ に搭載 とうさい する方式 ほうしき も用 もち いられた。
この場合 ばあい 平常 へいじょう はともかく、急 きゅう な上 のぼ り坂 ざか ではエンジン位置 いち が燃料 ねんりょう タンクよりも上 うえ になるので燃料 ねんりょう が届 とど かなくなる。そのような急坂 きゅうざか 向 む けの対処 たいしょ 法 ほう として「坂道 さかみち で後部 こうぶ を上 うえ にすればタンク位置 いち が高 たか くなる、だからリバースギアで後進 こうしん すればよい」という、とんちのような手段 しゅだん が示唆 しさ されていた。モデルTのリバースギアが、前進 ぜんしん 用 よう のローギアよりも更 さら に低速 ていそく 寄 よ りな変速 へんそく 比 ひ 設定 せってい であることも、この奇策 きさく の一助 いちじょ であった[1] 。1926年 ねん モデルでより安定 あんてい して燃料 ねんりょう を重力 じゅうりょく 供給 きょうきゅう できるボンネット内 ない タンク配置 はいち に移行 いこう し、この構造 こうぞう はそのまま後継 こうけい のモデルAに引 ひ き継 つ がれている。
またラジエーター配管 はいかん は、1908年 ねん 発売 はつばい 当初 とうしょ の2,447台 だい が冷却 れいきゃく 効率 こうりつ を高 たか めるウォーターポンプ強制 きょうせい 循環 じゅんかん であったが、その後 ご はポンプがなく、エンジン内 ない での比熱 ひねつ 差 さ を利用 りよう して自然 しぜん 循環 じゅんかん させるサーモ・サイフォン式 しき に移行 いこう した。サーモ・サイフォンは1900年代 ねんだい 当時 とうじ はポンプの信頼 しんらい 性 せい に難 なん があったため、むしろ自動車 じどうしゃ 業界 ぎょうかい では一般 いっぱん 的 てき な手法 しゅほう であったが、ウォーターポンプ装備 そうび が広 ひろ まった1920年代 ねんだい になってもモデルTでは、コスト面 めん と、よほど過 か 負荷 ふか でない限 かぎ り自然 しぜん 循環 じゅんかん で冷却 れいきゃく が間 ま に合 あ ったことから、最後 さいご までサーモ・サイフォンを維持 いじ した。フォードでウォーターポンプが再度 さいど 導入 どうにゅう されたのは後継 こうけい のモデルAに移行 いこう してからであった。
モデルTの変速 へんそく 機 き 回 まわ りのカットモデル。全体 ぜんたい が一体 いったい のシステムになっている様子 ようす が理解 りかい できる
モデルTにおいてもっともユニークで独創 どくそう 的 てき な特徴 とくちょう が、ペダル操作 そうさ で変速 へんそく される遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 式 しき の前進 ぜんしん 2段 だん ・後進 こうしん 1段 だん 変速 へんそく 機 き である。この変速 へんそく 機 き は半 はん 自動 じどう 式 しき とも言 い うべきもので、操作 そうさ がごく簡単 かんたん であり、初 はじ めて自動車 じどうしゃ を運転 うんてん するような人々 ひとびと にも扱 あつか いやすく、それ故 ゆえ にモデルTの普及 ふきゅう を非常 ひじょう に助 たす けることになったとも言 い われている[5] 。
操作 そうさ が非常 ひじょう に簡易 かんい であったため、モデルTが生産 せいさん 中止 ちゅうし となった1927年 ねん には、他 た 車 しゃ で一般 いっぱん 的 てき な3段 だん ・4段 だん の手動 しゅどう 変速 へんそく 機 き ・足踏 あしぶ みクラッチ を操作 そうさ する自信 じしん のないユーザーが、慌 あわ てて在庫 ざいこ のモデルTを購入 こうにゅう した事例 じれい があったとも伝 つた えられる。
フォードの遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 変速 へんそく 機 き [ 編集 へんしゅう ]
1900年代 ねんだい 当時 とうじ の自動車 じどうしゃ では、手動 しゅどう 変速 へんそく 機 き による変速 へんそく という作業 さぎょう は一 いち 大事 だいじ であった。重 おも くつなぎ方 かた の難 むずか しいコーンクラッチ と、やはり操作 そうさ が重 おも いうえに同調 どうちょう 装置 そうち が皆無 かいむ の原始 げんし 的 てき な選択 せんたく 擦 こす 動 どう 式 しき ギアボックス との組 く み合 あ わせでは、変速 へんそく 操作 そうさ 一 ひと つにも難渋 なんじゅう を強 し いられた。シンクロメッシュ (同調 どうちょう 装置 そうち )付 つ き変速 へんそく 機 き の出現 しゅつげん は1930年代 ねんだい 、自動 じどう 変速 へんそく 機 き の一般 いっぱん 化 か は1950年代 ねんだい 以降 いこう であり、20世紀 せいき 初頭 しょとう にはダブルクラッチ を用 もち いての自動車 じどうしゃ 運転 うんてん は必須 ひっす であった。それは非常 ひじょう な熟練 じゅくれん を要 よう し、ひいては自動車 じどうしゃ を普及 ふきゅう させる妨 さまた げになった。
コーン・クラッチ(円錐 えんすい クラッチ )
クラッチ板 ばん の形状 けいじょう を薄 うす い円錐 えんすい 状 じょう とした方式 ほうしき 。同 どう 一 いち 直径 ちょっけい の円盤 えんばん 形 がた クラッチに比 ひ して摩擦 まさつ 面積 めんせき の拡大 かくだい を狙 ねら ったもの。クラッチ板材 いたざい 質 しつ が未熟 みじゅく な時代 じだい 、摩擦 まさつ 力 りょく の確保 かくほ を念頭 ねんとう に用 もち いられたが、唐突 とうとつ な繋 つな がりでいわゆる半 はん クラッチ操作 そうさ が難 むずか しく、通常 つうじょう の円盤 えんばん 形 がた クラッチ板 ばん の材質 ざいしつ 向上 こうじょう などによって取 と って代 か わられた。
初期 しょき のフォードは、変速 へんそく 機 き について独自 どくじ のポリシーを持 も っており、モデルT以前 いぜん の市販 しはん モデルは全 すべ て遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま による2段式 だんしき であった[注釈 ちゅうしゃく 15] 。これは遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま ユニット外側 そとがわ のドラムにブレーキを掛 か けるだけでギアの切 き り替 か えができ、操作 そうさ は容易 ようい だった。
モデルTの3ペダル変速 へんそく 機 き [ 編集 へんしゅう ]
モデルTでは、この遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 変速 へんそく 機 き を更 さら に改良 かいりょう して搭載 とうさい している。従来 じゅうらい のフォードでは、2つのペダルと2組 くみ の手動 しゅどう レバーで発進 はっしん ・変速 へんそく 操作 そうさ を行 おこな っており、モデルTも1909年 ねん 途中 とちゅう まで製造 せいぞう された初期 しょき の1,000台 だい はこの2ペダル式 しき だったが、すぐにレバー1組 くみ (ハイ・ギア操作 そうさ )をペダルに置 お き換 か えた3ペダル1レバーの組 く み合 あ わせとなり、以後 いご 最後 さいご までこれを踏襲 とうしゅう した。エンジンと変速 へんそく 機 き はペダルのセットまで含 ふく めた一体 いったい のユニットとして構成 こうせい され、生産 せいさん 性 せい の面 めん でも有利 ゆうり だった。
モデルTの変速 へんそく 機 き 周 まわ りの設計 せっけい は、後世 こうせい の視点 してん からも注目 ちゅうもく に値 あたい する、非常 ひじょう にスマートでコンパクトなものである。
エンジン出力 しゅつりょく 軸 じく 直後 ちょくご にマグネトー とフライホイールが収 おさ まり、更 さら にこのフライホイール内側 うちがわ にそのまま遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま のギアセット前半 ぜんはん 分 ぶん が収 おさ まっている。直後 ちょくご に遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま を制御 せいぎょ するためのリバースドラムとスロースピードドラム(ハイギアは直結 ちょっけつ なのでドラム不要 ふよう )が連 つら なり、更 さら にその直後 ちょくご に常用 じょうよう ブレーキ用 よう のブレーキドラムが連 つら なる。
スロースピードドラムとブレーキドラムの間 あいだ には、内側 うちがわ に内蔵 ないぞう される形 かたち で大小 だいしょう 25枚 まい のディスクで構成 こうせい される多 た 板 いた クラッチが収 おさ まっている。クラッチはブレーキドラム直後 ちょくご のスプリングから制御 せいぎょ される。つまりモデルTの場合 ばあい 、当時 とうじ 一般 いっぱん の自動車 じどうしゃ における「エンジン→クラッチ→選択 せんたく 摺 すり 動 どう 変速 へんそく 機 き 」というレイアウトではなく、「エンジン→遊星 ゆうせい 歯車 はぐるま 変速 へんそく 機 き →多 た 板 いた クラッチ」というレイアウトを用 もち いていたのであった。
ギアリングは、ローギア約 やく 3、ハイギア直結 ちょっけつ 、リバースギア約 やく 4であった[1] 。
1923年 ねん 型 がた モデルTの運転 うんてん 席 せき
モデルTの運転 うんてん 方法 ほうほう は、他 た の自動車 じどうしゃ とは相当 そうとう に異 こと なっていた。しかしその操作 そうさ は初心者 しょしんしゃ でも手順 てじゅん だけ覚 おぼ えれば容易 ようい なもので、同 どう 時期 じき の他 た 車 しゃ のように非常 ひじょう な熟練 じゅくれん を要 よう するということがなかった。ゆえに日本 にっぽん では大正 たいしょう 時代 じだい 、通常 つうじょう の自動車 じどうしゃ 用 よう 免許 めんきょ 「甲種 こうしゅ 運転 うんてん 免許 めんきょ 」と別 べつ に“オートバイ およびT型 がた フォード専用 せんよう 免許 めんきょ ”とでもいうべき簡略 かんりゃく な「乙種 おつしゅ 運転 うんてん 免許 めんきょ 」が設 もう けられていたほどで、現代 げんだい 日本 にっぽん におけるオートマチック車 しゃ 限定 げんてい 免許 めんきょ を思 おも わせ興味深 きょうみぶか いものがある。
左 ひだり ハンドル配置 はいち の運転 うんてん 席 せき に着座 ちゃくざ すると、スロットルレバーおよび点火 てんか 時期 じき 調整 ちょうせい レバーを備 そな えたステアリングが正面 しょうめん に、足下 あしもと にはペダルが3つ並 なら び(右 みぎ からブレーキペダル、リバースペダル、ハイ・スロースピード切 き り替 か えペダル)、足下 あしもと 左側 ひだりがわ 床 ゆか 面 めん からは手前 てまえ に引 ひ いて後 こう 輪 わ に作動 さどう させるハンド・ブレーキのレバーが立 た っている。走行 そうこう 中 ちゅう の常用 じょうよう ブレーキは右側 みぎがわ ペダルで作動 さどう するセンターブレーキである[5] 。スロットルがペダル式 しき でなく手動 しゅどう であることに留意 りゅうい する必要 ひつよう がある。
停車 ていしゃ 中 ちゅう 、ハンド・ブレーキを掛 か けておけばクラッチも連動 れんどう して切 き れた状態 じょうたい になる。従 したが ってこの状態 じょうたい からなら安全 あんぜん にエンジンを始動 しどう できる。
始動 しどう ・発進 はっしん ・加速 かそく ・減速 げんそく ・停止 ていし [ 編集 へんしゅう ]
エンジン始動 しどう スロットル と点火 てんか 時期 じき の両 りょう レバーを半分 はんぶん 程度 ていど ずつ下 さ げ、チョーク 操作 そうさ のうえ、手動 しゅどう クランク操作 そうさ またはセルフスターターでエンジンを始動 しどう させる。
発進 はっしん 左側 ひだりがわ ペダルを半分 はんぶん 踏 ふ み込 こ んで、クラッチを切断 せつだん した状態 じょうたい にする。そしてハンドブレーキを緩 ゆる め、スロットルと点火 てんか 時期 じき レバーを更 さら に下 さ げつつ、左側 ひだりがわ ペダルを一 いち 杯 はい に踏 ふ み込 こ むと、クラッチが繋 つな がってローギアに入 はい り、車 くるま は走 はし り出 だ す。
加速 かそく ・巡航 じゅんこう ある程度 ていど 加速 かそく したら、左側 ひだりがわ ペダルから足 あし を離 はな すことでペダルが戻 もど り、自動的 じどうてき にハイギアに切 き り替 か わる。以後 いご の速度 そくど 調節 ちょうせつ は、スロットルと点火 てんか 時期 じき の両 りょう レバーを同 おな じ角度 かくど に適宜 てきぎ 動 うご かすことで行 おこな える。エンジンは低速 ていそく 重視 じゅうし の設定 せってい であり、低速 ていそく 域 いき から負荷 ふか をかけても扱 あつか いやすかったという。
減速 げんそく 右側 みぎがわ ペダルでセンターブレーキが作動 さどう 、左側 ひだりがわ ペダルを踏 ふ み込 こ めばローギアに入 はい ってエンジンブレーキがきく。
停止 ていし 減速 げんそく 後 ご 、左側 ひだりがわ ペダルを半 はん 踏 ふ み位置 いち に戻 もど してクラッチを切 き る。ハンドブレーキの操作 そうさ で、クラッチを切 き った状態 じょうたい を維持 いじ しながら停止 ていし させることができる。
後退 こうたい 時 じ には、ハンドブレーキでの停止 ていし 中 ちゅう に、前進 ぜんしん と同 おな じ手順 てじゅん で中央 ちゅうおう ペダルとハンドブレーキを操作 そうさ すればよい[1] 。
背 せ の高 たか いシャシー上 じょう に、フェンダー、ステップボードを独立 どくりつ して配置 はいち し、ボディ腰部 ようぶ が絞 しぼ り込 こ まれた、典型 てんけい 的 てき なクラシックスタイルである。前方 ぜんぽう に前輪 ぜんりん が突 つ き出 だ し、ラジエーター 直下 ちょっか に前 ぜん 車軸 しゃじく が位置 いち する古典 こてん 的 てき レイアウトであり、リアオーバーハングはほとんどなく、5座 ざ 型 がた の場合 ばあい の後部 こうぶ 座席 ざせき は後 こう 車軸 しゃじく 直上 ちょくじょう に位置 いち する。独立 どくりつ した後部 こうぶ トランクが乗用車 じょうようしゃ に設 もう けられるのは1930年代 ねんだい 以降 いこう で、一般 いっぱん 的 てき な5座 ざ のモデルTにトランクというものはない。
モデルTの写真 しゃしん としてよく取 と り上 あ げられるのは、真鍮 しんちゅう 製 せい の大袈裟 おおげさ なアセチレン 式 しき ヘッドライト と、光沢 こうたく があって角張 かくば ったアッパータンクを備 そな える真鍮 しんちゅう ラジエーターの正面 しょうめん に大 おお きく「Ford」のロゴを入 い れ、赤 あか などの派手 はで な色 いろ に塗 ぬ られた、いかにも1900年代 ねんだい のクラシックカーらしい容姿 ようし のツーリングやロードスターである。これは1908年 ねん から1911年 ねん 途中 とちゅう まで頃 ころ の初期 しょき モデルであり、実際 じっさい に流 なが れ作業 さぎょう で大量 たいりょう 生産 せいさん されるようになってからのモデルTは、電気 でんき 式 しき ヘッドライトに地味 じみ な総 そう 黒 くろ 塗 ぬ りという、若干 じゃっかん 近代 きんだい 化 か された外観 がいかん になっていた。その外観 がいかん の変化 へんか は著 いちじる しく、自動車 じどうしゃ に詳 くわ しくない人々 ひとびと がモデルTの初期 しょき 形 がた と最終 さいしゅう 型 がた を見比 みくら べても、基本 きほん 設計 せっけい を同 おな じくする自動車 じどうしゃ と気付 きづ くのはおそらく難 むずか しいと思 おも われる。
製造 せいぞう 期間 きかん が長期 ちょうき に渡 わた り、その用途 ようと も様々 さまざま であっただけに、多彩 たさい なボディスタイルが展開 てんかい された。
1921年 ねん 式 しき モデルTセンタードア・セダン。中央 ちゅうおう ドアで前後 ぜんご 席 せき 出入 でい りを共用 きょうよう し、コストダウンを図 はか ったクローズドボディ。ラジエータに至 いた るまでの総 そう 黒 くろ 塗 ぬ りは後期 こうき 型 がた モデルTの典型 てんけい 的 てき 容姿 ようし と言 い える
5座席 ざせき で側面 そくめん の窓 まど を備 そな えず、折 お り畳 たた み式 しき の幌 ほろ を備 そな えた「ツーリング 」型 がた のボディが、生産 せいさん 期間 きかん 全期 ぜんき を通 つう じてモデルTの主流 しゅりゅう ボディだった。1900年代 ねんだい の自動車 じどうしゃ はまだオープンボディが一般 いっぱん 的 てき で、モデルTもその例 れい に倣 なら ったに過 す ぎない。初期 しょき にはドアを装備 そうび したのは後 こう 席 せき のみで、前 ぜん 席 せき はドア無 な しだったが、1912年 ねん 頃 ごろ からは前 ぜん 席 せき もドア付 づけ となった。オープンタイプでは他 た に「クーペレット」「ラナバウト 」などの2座席 ざせき モデルがあった。「ラナバウト」は安価 あんか な2座席 ざせき オープンモデルで最 もっと もベーシックなグレードである。「クーペレット」はフォードT型 がた でのみ使 つか われた2座席 ざせき カブリオレ の名称 めいしょう である。
ツーリングのウインドシールド[注釈 ちゅうしゃく 16] の構造 こうぞう は上下 じょうげ 2分割 ぶんかつ 式 しき で、背 せ を低 ひく くする折 お り畳 たた み式 しき であったが、末期 まっき 型 がた は上 うえ 窓 まど を開閉 かいへい して通風 つうふう する構造 こうぞう となり、シールドの載 の るカウル部 ぶ を低 ひく くすると共 とも に、垂直 すいちょく に立 た っていたシールドを、競合 きょうごう 他 た 車 しゃ のように僅 わず かに後方 こうほう に傾 かたむ けてモダンにしている。
屋根 やね と側面 そくめん ガラスを備 そな えた「クローズド・ボディ」は、1910年代 ねんだい 中期 ちゅうき 以降 いこう ロードスターの発展 はってん 型 がた として2人 ふたり 乗 の りのクーペボディが載 の るようになり、相当 そうとう な台数 だいすう を売 う った。またフォード独特 どくとく の試 こころ みに、廉価 れんか なセダン ボディの供給 きょうきゅう を狙 ねら って、側面 そくめん 中央 ちゅうおう に前後 ぜんご 席 せき で共用 きょうよう する「センタードア」を配置 はいち した5座 ざ セダンがあった。若干 じゃっかん が製造 せいぞう されたユニークな例 れい では、リムジン 風 ふう に後 こう 席 せき のみ完全 かんぜん クローズドボディ、運転 うんてん 席 せき は側面 そくめん オープンとしたタクシー向 む けの「タウンカー」型 がた もあった。ウインドシールドは上下 じょうげ 2分割 ぶんかつ で、上段 じょうだん が前方 ぜんぽう に開 ひら いて換気 かんき できる。
1923年 ねん の最後 さいご のマイナーチェンジで、4ドアと2ドアの通常 つうじょう 型 がた セダンが追加 ついか された。前 ぜん ドアは前 ぜん ヒンジであるが、4ドア車 しゃ は後 こう ドアが後 うし ろヒンジになり、いわゆる「観音開 かんのんびら き 」配置 はいち である。後 こう ドア直後 ちょくご にも窓 まど を設 もう けた6ライト・セダンであった。重量 じゅうりょう がかさみ、走行 そうこう 性能 せいのう は損 そこ なわれた。
上記 じょうき 以外 いがい にもフォード社内 しゃない ・社外 しゃがい を問 と わず種種 しゅじゅ のニーズによって多彩 たさい なボディ装 そう 架 か が行 おこな われた。
日本 にっぽん では、1920年代 ねんだい のフォード日本 にっぽん 法人 ほうじん の進出 しんしゅつ 以前 いぜん から、特 とく にタクシー業界 ぎょうかい への大量 たいりょう 販売 はんばい が重視 じゅうし された。乗用車 じょうようしゃ については完成 かんせい 車 しゃ も供給 きょうきゅう されたが、日本 にっぽん の運輸 うんゆ 業界 ぎょうかい では安全 あんぜん 性 せい よりも輸送 ゆそう 力 りょく が重要 じゅうよう 視 し されたため、ボディなしの「シャシーモデル」として出荷 しゅっか され、箱 はこ 型 がた の車体 しゃたい が別途 べっと 、日本 にっぽん 国内 こくない の車体 しゃたい 業者 ぎょうしゃ により架 か 装 そう されることも多 おお かった。ことにバス仕様 しよう やトラック仕様 しよう とされたコマーシャルシャシーの場合 ばあい は、大量 たいりょう 人員 じんいん 輸送 ゆそう 車両 しゃりょう を安価 あんか に仕上 しあ げることが優先 ゆうせん され、運転 うんてん 席 せき 付近 ふきん から車両 しゃりょう 後部 こうぶ シャシー後方 こうほう をはるかに突 つ き抜 ぬ けるより長 なが い一 いち 面 めん 床 ゆか を不完全 ふかんぜん なアウトリガ状態 じょうたい で作 つく りつけて、その上 うえ に車体 しゃたい を載 の せる強引 ごういん な事例 じれい も見 み られた。これはフォードTTベースで製作 せいさく された円 まどか 太郎 たろう バス でも同様 どうよう であった。
ボンネット、フェンダー等 とう [ 編集 へんしゅう ]
ボンネット とボディの間 あいだ の整形 せいけい は、初期 しょき には行 おこな われなかった。角張 かくば ったボンネットがフラットなダッシュボードと直 じか に接 せっ した形態 けいたい で、フェンダーも前 まえ ・後 こう 輪 わ 上 じょう で水平 すいへい に途切 とぎ れており、全体 ぜんたい に武 たけ 骨 ほね な形態 けいたい だった。
その後 ご 、1914年 ねん 頃 ごろ からはボンネットとダッシュボードの間 あいだ は曲面 きょくめん のカウルで整形 せいけい され、フェンダー前後 ぜんこう 端 はし も若干 じゃっかん 伸 の び、より柔 やわ らかいカーブを持 も った形態 けいたい となった。
1917年 ねん 以降 いこう 、ラジエーターに合 あ わせたボンネット上部 じょうぶ の曲面 きょくめん 化 か とラジエーターの黒 くろ 塗 ぬ りで、外観 がいかん はややモダンだが地味 じみ な装 よそお いとなった。
1923年 ねん 以降 いこう の末期 まっき 型 がた は、ラジエーターが高 たか くなった分 ぶん ボンネットも高 たか くなり、カウル部分 ぶぶん の整形 せいけい もより洗練 せんれん された。カウル上面 うわつら にはベンチレーターも設 もう けられている。末期 まっき のツーリングモデルはカウル高 たか さを抑 おさ えてフロントウインドシールドを広 ひろ げたため、従来 じゅうらい モデルTで強 つよ かった腰高 こしだか な印象 いんしょう は相当 そうとう に和 やわ らげられ、同 どう 時代 じだい の他社 たしゃ 新型 しんがた 車 しゃ に近 ちか いスタイルとなっている。1926年 ねん 以降 いこう の最終 さいしゅう 期 き には、オプションでフロントバンパーも用意 ようい された。
生産 せいさん 期間 きかん 中 ちゅう に幾 いく 度 ど か変更 へんこう を受 う けた。前期 ぜんき 型 がた は古風 こふう なデザインで無 む 塗装 とそう の真鍮 しんちゅう 、後期 こうき 形 がた はややモダナイズされたデザインで(多 おお くは黒 くろ 塗 ぬ りされた)プレススチール製 せい であった。大 おお まかには次 つぎ の通 とお りの変化 へんか である[1] 。
1908年 ねん - 1912年 ねん 初期 しょき 形 がた ラジエーターは、モデルNの形態 けいたい を引 ひ き継 つ いだ、横長 よこなが の真鍮 しんちゅう 製 せい である。始動 しどう クランクより上 うえ に配置 はいち された。アッパータンク部 ぶ には「Ford」の飾 かざ り文字 もじ がプレスされ、また1911年 ねん 途中 とちゅう まではラジエーターコア中央 ちゅうおう にも「Ford」のロゴが貼 は られていた。角 かく には曲線 きょくせん が付 つ いている。
1912年 ねん - 1917年 ねん 従来 じゅうらい 型 がた と寸法 すんぽう はほぼ同 おな じである。材質 ざいしつ の真鍮 しんちゅう は踏襲 とうしゅう されたが、アッパータンク部 ぶ が分離 ぶんり 構造 こうぞう となり、「Ford」の文字 もじ も会社 かいしゃ の正式 せいしき ロゴと同 おな じ書体 しょたい に修正 しゅうせい されている。全体 ぜんたい に角張 かくば った。
1917年 ねん - 1923年 ねん 材質 ざいしつ をスチールに変更 へんこう 、プレス加工 かこう で生産 せいさん 性 せい を高 たか めると共 とも に、ラジエーターも黒 くろ 塗 ぬ りとしてコストダウンした(このタイプのラジエーターは、それ以前 いぜん から定置 ていち 動力 どうりょく ユニット向 む けには使 つか われていた)。若干 じゃっかん 丸 まる みを帯 お び、容量 ようりょう は従来 じゅうらい の2ガロン(約 やく 7.5リッター)から3ガロン(約 やく 11リッター強 きょう )に増大 ぞうだい した。
1923年 ねん - 1927年 ねん やや縦長 たてなが のモダンな形態 けいたい となり、下部 かぶ で2ピースに分割 ぶんかつ する形態 けいたい となった。下部 かぶ には始動 しどう クランク棒 ぼう を通 とお す穴 あな が開 あ けられた。やはり黒 くろ 塗 ぬ りが標準 ひょうじゅん だったが、末期 まっき には競合 きょうごう 車 しゃ 対策 たいさく のオプションでクロームメッキないし銀色 ぎんいろ 塗装 とそう を受 う けた例 れい もあった。
初期 しょき にはアセチレン または石油 せきゆ ランプが用 もち いられたが、1913年 ねん 頃 ごろ からオプションで電気 でんき 式 しき ヘッドライトが装備 そうび され、1915、6年 ねん 以降 いこう は電気 でんき ヘッドライトが標準 ひょうじゅん 化 か した。外見 がいけん 的 てき な区別 くべつ は容易 ようい である。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん 側 がわ に使用 しよう された1916年 ねん 式 しき モデルTTベースの野戦 やせん 救急 きゅうきゅう 車 しゃ 。右 みぎ ハンドル仕様 しよう からイギリス工場 こうじょう 生産 せいさん 車 しゃ 、さらに、後 こう 軸 じく 差 さ 動 どう 装置 そうち がウォームギアのためモデルTTシャシーと判断 はんだん できる。モデルTは欧州 おうしゅう 戦線 せんせん での軍用 ぐんよう 車両 しゃりょう としても広範 こうはん に利用 りよう された
モデルTの量産 りょうさん は、自動車 じどうしゃ のマスプロダクションの先駆 さきが けであり、アメリカ国内 こくない の競合 きょうごう 各社 かくしゃ や、シトロエン 、フィアット 、オペル などヨーロッパの多数 たすう のメーカーが、フォードの手法 しゅほう に倣 なら って大衆 たいしゅう 車 しゃ 量産 りょうさん に邁進 まいしん することになった。「流 なが れ作業 さぎょう 方式 ほうしき 」に代表 だいひょう されるシステマティックに構築 こうちく された量産 りょうさん 技術 ぎじゅつ は、自動車 じどうしゃ のみならず、あらゆる工業 こうぎょう 製品 せいひん の大量 たいりょう 生産 せいさん における規範 きはん 手法 しゅほう となり、かつて熟練工 じゅくれんこう の技術 ぎじゅつ が重 おも んじられていた労働 ろうどう 市場 いちば の形態 けいたい にも、計 はか り知 し れない影響 えいきょう を与 あた えた。
またアメリカ国内 こくない におけるモータリゼーションの起爆 きばく 剤 ざい となったことで、アメリカという国 くに の経済 けいざい ・社会 しゃかい システムに著 いちじる しい影響 えいきょう を及 およ ぼした。鉄道 てつどう 網 もう と馬車 ばしゃ によって形成 けいせい されていたアメリカの交通 こうつう に新 あたら しいベクトルを与 あた え、道路 どうろ 建設 けんせつ をはじめとするインフラ整備 せいび を促 うなが す役割 やくわり を果 は たし、自動車 じどうしゃ 修理 しゅうり 業 ぎょう やガソリンスタンド、ドライブ・イン、中古 ちゅうこ 車 しゃ 市場 いちば 、アフターパーツマーケットなどの新 あら たなビジネスをはぐくんだ。都会 とかい から未開 みかい 地 ち に至 いた るまで、ほとんどのアメリカ人 じん の日常 にちじょう 生活 せいかつ は自動車 じどうしゃ によって支 ささ えられることになった。
品質 ひんしつ の安定 あんてい した実用 じつよう 的 てき な自動車 じどうしゃ が低 てい 価格 かかく で供給 きょうきゅう されたことは、アメリカ以外 いがい の国々 くにぐに にも影響 えいきょう を及 およ ぼし、モデルTは世界 せかい 各国 かっこく で官民 かんみん を問 と わず広 ひろ く用 もち いられることになった。1910年代 ねんだい - 1920年代 ねんだい にかけ、自動車 じどうしゃ 市場 いちば のシェアをフォード・モデルTに席巻 せっけん された国 くに は少 すく なくない。
日本 にっぽん への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
モデルTTシャシーをベースに製作 せいさく された「円 まどか 太郎 たろう バス」。旧 きゅう ・交通 こうつう 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう
同車 どうしゃ の正面 しょうめん 。極 きわ めて車 くるま 幅 はば が狭 せま い
1909年 ねん に製薬 せいやく 会社 かいしゃ の三共 さんきょう 合資 ごうし 会社 かいしゃ がモデルTの正式 せいしき 輸入 ゆにゅう を開始 かいし したが、自動車 じどうしゃ に必要 ひつよう なアフターサービス体制 たいせい が整 ととの っておらずすぐ断念 だんねん 。1910年 ねん 12月から東京 とうきょう の「萬 まん 辯 べん 舎 しゃ 」が分割払 ぶんかつばら いでのT型 がた ロードスター予 よ 約 やく 販売 はんばい 受付 うけつけ を開始 かいし したが、これも上手 うま く行 い かなかった模様 もよう である。結局 けっきょく 、輸入 ゆにゅう 代理 だいり 店 てん 権限 けんげん は1911年 ねん に東京 とうきょう にあった外資 がいし 系 けい 商社 しょうしゃ のセール・フレーザー株式会社 かぶしきがいしゃ (「セール・フレーザー商会 しょうかい 」とも)に移 うつ り、第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 後 ご までは同社 どうしゃ がフォード(およびフォード社 しゃ の傍系 ぼうけい 製品 せいひん であるフォードソン・トラクター)の日本 にっぽん 総 そう 代理 だいり 店 てん となった[8] 。
日本 にっぽん 初 はつ のタクシーは1912年 ねん に東京 とうきょう で運行 うんこう されたモデルTであり、その運営 うんえい 会社 かいしゃ 「タクシー自働 じどう 車 しゃ 株式会社 かぶしきがいしゃ 」は発足 ほっそく 時 じ 、セール・フレーザーから55台 だい ものモデルTを購入 こうにゅう している。その後 ご も1920年代 ねんだい まで日本 にっぽん における自動車 じどうしゃ の主流 しゅりゅう であり続 つづ けた。「県内 けんない 初 はつ の自動車 じどうしゃ 」がモデルTであった地域 ちいき も見 み られる。道府県 どうふけん ごとに自動車 じどうしゃ 免許 めんきょ 制度 せいど がまちまちだった時代 じだい には、運転 うんてん の容易 たやす さから他 た 車 しゃ とは別 べつ に「フォード専用 せんよう 」の免許 めんきょ を設 もう けていたケースも見 み られたほどで、のちには「乙種 おつしゅ 免許 めんきょ 」として制定 せいてい された(1919年 ねん の内務省 ないむしょう 省令 しょうれい 「自動車 じどうしゃ 取締 とりしまり 令 れい 」で一般 いっぱん の自動車 じどうしゃ 用 よう の甲種 こうしゅ 免許 めんきょ とは別 べつ に、オートバイ やオート三 さん 輪 りん 、T型 がた フォード等 とう の運転 うんてん を認 みと める免許 めんきょ として制定 せいてい )。
1923年 ねん の関東大震災 かんとうだいしんさい によって東京 とうきょう 市内 しない の路面 ろめん 電車 でんしゃ 網 あみ が破壊 はかい された際 さい には、路面 ろめん 電車 でんしゃ を運行 うんこう していた東京 とうきょう 市 し 電気 でんき 局 きょく がフォードTTシャシーに簡易 かんい ボディを載 の せた通称 つうしょう 円 まどか 太郎 たろう バス を急造 きゅうぞう 、早 はや くも同年 どうねん 中 ちゅう に運行 うんこう 開始 かいし されて、市街地 しがいち の復興 ふっこう 輸送 ゆそう を担 にな った。1000台 だい の発注 はっちゅう に対 たい し、フォードが即応 そくおう できたのは800台 だい に留 とど まったが、それでも緊急 きんきゅう 輸送 ゆそう 手段 しゅだん として多大 ただい な功績 こうせき を残 のこ した。これほど膨大 ぼうだい な量 りょう のオーダーに即座 そくざ に応 おう じられる自動車 じどうしゃ メーカーは、当時 とうじ 世界 せかい でフォード1社 しゃ しかなく、大量 たいりょう 生産 せいさん の威力 いりょく がうかがわれる。
東京 とうきょう 市 し の発注 はっちゅう に商機 しょうき をみたフォードは、1925年 ねん 2月 がつ 、早 はや くも横浜 よこはま 市 し に日本 にっぽん 法人 ほうじん 「日本 にっぽん フォード自動車 じどうしゃ 株式会社 かぶしきがいしゃ 」を設立 せつりつ してセール・フレーザーとの日本 にっぽん 総 そう 代理 だいり 店 てん 契約 けいやく を解消 かいしょう 、以後 いご 戦前 せんぜん を通 とお して日本 にっぽん フォードが日本 にっぽん 国内 こくない 各地 かくち の代理 だいり 店 てん について契約 けいやく 管理 かんり ・統括 とうかつ していく。この時点 じてん で日本 にっぽん 全国 ぜんこく に2万 まん 6,000台 だい 余 あま りしかなかった4輪 りん 自動車 じどうしゃ のうちフォード車 しゃ のシェアは、乗用車 じょうようしゃ で2位 い のビュイック(1,938台 だい )の4倍 ばい 以上 いじょう となる8,141台 だい ・44%、貨物 かもつ 車 しゃ に至 いた っては2位 い のリパブリック(225台 だい )その他 た 諸々 もろもろ を遥 はる かに引 ひ き離 はな す4,750台 だい ・60%という、圧倒的 あっとうてき なものであった[9] 。製造 せいぞう 年代 ねんだい から、そのほとんどがモデルT・TTということになる。
同年 どうねん には横浜 よこはま に組立 くみたて 工場 こうじょう を設立 せつりつ し、アメリカで生産 せいさん された部品 ぶひん を輸入 ゆにゅう して組 く み立 た てるノックダウン生産 せいさん が開始 かいし され、モデルT・TTの完成 かんせい 車 しゃ 及 およ びシャシーが日本 にっぽん 市場 いちば に大量 たいりょう 供給 きょうきゅう された。2年 ねん 後 ご の1927年 ねん にはフォードを追 お って大阪 おおさか に組立 くみたて 工場 こうじょう を設立 せつりつ したGM がシボレーのノックダウン生産 せいさん を始 はじ めている。
モデルTとシボレーが廉価 れんか に供給 きょうきゅう されたことで、タクシーを主 おも とした当時 とうじ の日本 にっぽん の自動車 じどうしゃ 市場 いちば は、一時 いちじ ほとんどフォードとGMによって席巻 せっけん された。
モデルT自体 じたい の発展 はってん ・応用 おうよう [ 編集 へんしゅう ]
モデルTは廉価 れんか で取 と り扱 あつか い容易 ようい な特徴 とくちょう を買 か われ、後 こう 輪 わ 回 まわ りを改造 かいぞう 、起 おこり 耕 こう 用 よう の鋤 すき を取 と り付 つ けるするなどして農耕 のうこう 作業 さぎょう 用 よう に改造 かいぞう された事例 じれい が多数 たすう 存在 そんざい する。この種 たね の簡易 かんい トラクター用途 ようと は、1910年代 ねんだい 後期 こうき にフォードソン・トラクター及 およ び競合 きょうごう フォロワーの本格 ほんかく 的 てき な内燃 ないねん 機関 きかん トラクターが現 あらわ れたことから一 いち 時 じ 下火 したび になったが、その後 ご 1920年代 ねんだい 後期 こうき 以降 いこう の不 ふ 況 きょう 期 き にはアメリカの中古 ちゅうこ 車 しゃ 市場 いちば で中古 ちゅうこ モデルTが廉価 れんか に出回 でまわ ったことから再 ふたた び流行 りゅうこう し、しばらく盛 さか んに使 つか われた。
モデルTの中古 ちゅうこ パワーユニットは廉価 れんか であったことから、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以前 いぜん には、定置 ていち 動力 どうりょく 、消防 しょうぼう ポンプ用 よう 、小型 こがた 船舶 せんぱく 、小型 こがた 鉄道 てつどう 車両 しゃりょう に好 この んで転用 てんよう された歴史 れきし がある。1920年代 ねんだい には、中古 ちゅうこ のモデルTから取 と り外 はず したパワーユニットをオーバーホールして、アメリカから輸出 ゆしゅつ するビジネスすらあったという。構造 こうぞう が簡単 かんたん なうえ、補修 ほしゅう パーツも豊富 ほうふ であり、軽便 けいべん な用途 ようと には最適 さいてき のエンジンであった。
特異 とくい な事例 じれい としては、アマチュアの自作 じさく 飛行機 ひこうき の動力 どうりょく にモデルTエンジンを用 もち いたものがある。アメリカのアマチュア飛行機 ひこうき 製作 せいさく 者 しゃ バーナード・ピーテンポールが1933年 ねん に製作 せいさく した1人 ひとり 乗 の り単葉 たんよう 機 き ピーテンポール・スカイスカウトはその実例 じつれい の一 ひと つで、ピーテンポールの処女 しょじょ 作 さく となった1929年 ねん のエアキャンパーがフォード・モデルAエンジンを積 つ んでいたところ、当時 とうじ 市場 いちば に中古 ちゅうこ で多 おお く出回 でまわ っているモデルTエンジン向 む けの機体 きたい を作 つく るべきと技術 ぎじゅつ 雑誌 ざっし 編集 へんしゅう 者 しゃ から説 と かれたことによる開発 かいはつ という。スカイスカウトは地上 ちじょう を走 はし るモデルTより速 はや い55マイル/hで巡航 じゅんこう でき、複数 ふくすう が現存 げんそん する。
また1910年代 ねんだい 以降 いこう 、モデルT向 む けの4輪 りん 駆動 くどう キットやSOHC 、DOHC の交換 こうかん 用 よう ヘッドなどがアフターパーツとして作 つく られるようになり、特 とく に交換 こうかん 用 よう ヘッドはアマチュアレースでのチューニングに好 この んで使 つか われた。そして1930年代 ねんだい 以降 いこう に興隆 こうりゅう してきた、「ホットロッド 」と呼 よ ばれる過激 かげき な改造 かいぞう 車 しゃ 趣味 しゅみ においても、中古 ちゅうこ のモデルTが多 おお くベースに用 もち いられた(モデルTのシャシーに強力 きょうりょく なV8 エンジンを積 つ む などの無茶 むちゃ な改造 かいぞう が盛 さか んに行 おこな われた)。
ル・マン24時 じ 間 あいだ レース [ 編集 へんしゅう ]
ブガッティ2台 だい と並 なら ぶモンティエ=オーリオ組 ぐみ のモンティエ・スペシャル19号車 ごうしゃ (右側 みぎがわ )
ル・マン24時 じ 間 あいだ レース 1923年 ねん 第 だい 1回 かい に、フランスでフォード車 しゃ ディーラーを営 いとな んでいたシャルル・モンティエと義弟 ぎてい アルベール・オーリオがモデルTを改造 かいぞう したモンティエ・スペシャルで出場 しゅつじょう して完走 かんそう した。成績 せいせき は完走 かんそう 30台 だい 中 ちゅう 97周 しゅう で14位 い であった(平均 へいきん 69km/h以上 いじょう 。優勝 ゆうしょう したシュナール・エ・ワルケルのラップは128周 しゅう であった)。
登場 とうじょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
ロンドン指令 しれい X - 主人公 しゅじんこう スタンレー神父 しんぷ の愛車 あいしゃ 。ミニマイザーで1/3サイズになったり、夢 ゆめ の中 なか で空 そら を飛 と んだりした。1917年 ねん 製 せい 、車体 しゃたい 色 しょく は黄色 おうしょく 。
レッド・デッド・リデンプション - 一部 いちぶ ミッションで登場 とうじょう する。連邦 れんぽう 捜査 そうさ 官 かん が使用 しよう している。プレイヤーは運転 うんてん できない。
Mafia: The City of Lost Heaven - Ford Model Tをモデルとする車両 しゃりょう が登場 とうじょう する。厳密 げんみつ なシミュレーションではないが、実車 じっしゃ の特性 とくせい のいくつかを模 も しており、運転 うんてん 可能 かのう 。
緋 ひ 弾 だん のアリア - 人 ひと の心 しん と繋 つな がるという金属 きんぞく 「色 いろ 金 きん (イロカネ)」のうち、ネバダ砂漠 さばく のエリア51には瑠瑠色 しょく 金 きん (ルルイロカネ)がT型 がた フォードの形 かたち にされ秘匿 ひとく されている。
フラバー うっかり博士 はかせ の大 だい 発明 はつめい
- 主人公 しゅじんこう ブレイナード教授 きょうじゅ の所有 しょゆう 車 しゃ 。発明 はつめい 品 ひん フラバーを取 と り付 つ け空 そら を飛 と ぶ。未 み 確認 かくにん 飛行 ひこう 物体 ぶったい と誤認 ごにん され米 べい 空軍 くうぐん がスクランブル した。
グランツーリスモ4 - 非売品 ひばいひん 。スーパーライセンスのオールゴールドクリアでのみ獲得 かくとく できる。
Mafia Driver Omerta - Android Game.
母 かあ さんは28年 ねん 型 がた - 死 し んだ母親 ははおや がフォード・モデルT(劇 げき 中 ちゅう では架空 かくう ブランド名 めい )に憑依 ひょうい した設定 せってい の、アメリカのシチュエーション・コメディ ドラマ。
のりものまん -エリザベスが登場 とうじょう する。声 こえ は野沢 のざわ 雅子 まさこ 。車体 しゃたい 色 しょく は黒 くろ 。
ゴールデンカムイ - アメリカ人 じん 牧場 ぼくじょう 経営 けいえい 者 しゃ のエディー・ダンが所持 しょじ している。ダンが「友人 ゆうじん のフォード君 くん 」から貰 もら った試作 しさく 品 ひん という設定 せってい 。
^ 一部 いちぶ に3速 そく と記載 きさい している文献 ぶんけん が見 み られるが、フォード社 しゃ 自身 じしん がローギアよりも低速 ていそく ギア比 ひ のリバースギアを「非 ひ 常用 じょうよう ローギア」として算入 さんにゅう し、広告 こうこく などで3速 そく を称 しょう していたケースがあるためで、すべてのモデルT/TTは前進 ぜんしん 2速 そく 、後進 こうしん 1速 そく の変速 へんそく 機 き を備 そな える。
^ 「ブリキ のエリザベス ちゃん」の意 い 。
^ 乗用車 じょうようしゃ 仕様 しよう のモデルTとトラックシャシーのモデルTTの合計 ごうけい 。
^ 和田 わだ (2009)p21-23の考証 こうしょう によれば、1906年 ねん のピケット工場 こうじょう におけるN型 がた の製造 せいぞう 工程 こうてい 写真 しゃしん と、1911年 ねん 頃 ごろ のハイランドパーク工場 こうじょう におけるT型 がた の製造 せいぞう 工程 こうてい 写真 しゃしん には、いずれも窓際 まどぎわ の作業 さぎょう 机 つくえ に万力 まんりき が並 なら んでいた。従 したが って、マイクロゲージによる管理 かんり を行 おこな ってもなお現場 げんば では部品 ぶひん 加工 かこう 用 よう の万力 まんりき を常備 じょうび し、加工 かこう 精度 せいど の不十分 ふじゅうぶん な部品 ぶひん の手直 てなお しを強 し いられていたと推察 すいさつ されるという。一方 いっぽう 1913年 ねん のハイランドパーク工場 こうじょう 内 ない の写真 しゃしん からは、まだ流 なが れ作業 さぎょう 化 か 前 まえ だが万力 まんりき がなくなっており、和田 わだ はおそらくこの時期 じき に至 いた って部品 ぶひん の手 て 仕上 しあ げ調整 ちょうせい がほとんどなくなったのではないかと論 ろん じている。
^ この組立 くみたて 時間 じかん 短縮 たんしゅく の数値 すうち は多 おお くの文献 ぶんけん に流布 るふ されているが、厳密 げんみつ なものであるかは疑義 ぎぎ がある。和田 わだ (2009)p5-26における考証 こうしょう では、1914年 ねん 時点 じてん でのフォード工場 こうじょう 実地 じっち 研究 けんきゅう をもとに1919年 ねん に刊行 かんこう されたH.L.Arnold、F.L.Faurote編著 へんちょ 「Ford Methods and Ford Shops」を典拠 てんきょ とする可能 かのう 性 せい が高 たか いが、多 おお くの文献 ぶんけん で混乱 こんらん が見 み られるという。
^ 改善 かいぜん を提案 ていあん したクーゼンスもヘンリーの予想 よそう 外 がい な命令 めいれい には驚愕 きょうがく したという。
^ ヘンリー・フォード自身 じしん が自伝 じでん 「我 わ が人生 じんせい と事業 じぎょう 」で「当時 とうじ 建設 けんせつ 中 ちゅう だったハイランドパーク工場 こうじょう の土地 とち ・建物 たてもの 費用 ひよう 捻出 ねんしゅつ のため、一時 いちじ 値上 ねあ げをした」ことを記 しる している(和田 わだ :2009 p36)。
^ 1922年 ねん の買収 ばいしゅう 時点 じてん でその唯一 ゆいいつ の製品 せいひん 「モデルL 」は、品質 ひんしつ と走行 そうこう 性能 せいのう はキャデラックを凌駕 りょうが するほどに卓越 たくえつ していたが、架 か 装 そう されるボディデザインが武 たけ 骨 ほね で商品 しょうひん 性 せい を欠 か き、高級 こうきゅう 車 しゃ の購入 こうにゅう 層 そう に食 く い込 こ むことができなかった。
^ GMには化学 かがく メーカーのデュポン の資本 しほん が入 はい っており、新 あたら しいラッカー 系 けい 塗料 とりょう を用 もち いることができた。
^ GMの最 さい 高級 こうきゅう 車 しゃ であるキャディラック。
^ GMは1919年 ねん にオートローンを取 と り扱 あつか う金融 きんゆう 子会社 こがいしゃ のゼネラルモーターズ・アクセプタンス・コーポレーション(GMAC、2006年 ねん にGM系列 けいれつ を離 はな れて現 げん Ally)を設立 せつりつ し、見込 みこ み顧客 こきゃく である大衆 たいしゅう 層 そう の自動車 じどうしゃ 購入 こうにゅう を支援 しえん する販促 はんそく 策 さく を整 ととの えた。
^ 太 ふと い低圧 ていあつ タイヤ。それ以前 いぜん の主流 しゅりゅう であった細身 ほそみ の高 こう 圧 あつ タイヤに比 ひ して乗 の り心地 ごこち が改善 かいぜん される。
^ 広大 こうだい な北米 ほくべい 大陸 たいりく には、開拓 かいたく 時代 じだい が終焉 しゅうえん した20世紀 せいき 前半 ぜんはん に至 いた ってもそのような未開 みかい 地 ち が多 おお く存在 そんざい した。
^ 当時 とうじ の自動車 じどうしゃ では、ガソリンの品質 ひんしつ ばらつきやエンジンコンディションの不安定 ふあんてい から、手動 しゅどう のタイミング調整 ちょうせい 機能 きのう は必須 ひっす 装備 そうび であった。
^ この仕様 しよう は高級 こうきゅう 車 しゃ のモデルKでさえ例外 れいがい ではなかった。
^ 風防 ふうぼう :フロントウィンドウのこと。
^ a b c d e f g h i j k l m n 五十嵐 いがらし :1970
^ バナジウム鋼 こう とT型 がた フォード『20世紀 せいき の巨人 きょじん 産業 さんぎょう 家 か 』49-52ページ
^ 『世界 せかい の自動車 じどうしゃ フォード-1』二玄社 にげんしゃ 1970年 ねん P.29
^ a b 和田 わだ :2009
^ a b c d e f g 樋口 ひぐち :1996
^ T型 がた からA型 がた への変更 へんこう の断行 だんこう 『20世紀 せいき の巨人 きょじん 産業 さんぎょう 家 か 』273-285ページ
^ チャールズ・ソレンセンの回想 かいそう による。
^ 佐々木 ささき 烈 れつ 「日本 にっぽん 自動車 じどうしゃ 史 し 写真 しゃしん ・資料集 しりょうしゅう 」p151-152(2012年 ねん 三樹 みき 書房 しょぼう )
^ 佐々木 ささき 烈 れつ 「日本 にっぽん 自動車 じどうしゃ 史 し Ⅱ」p91-92(2005年 ねん 三樹 みき 書房 しょぼう )
ヘンリー・フォード著 ちょ 豊 ゆたか 土 ど 栄 さかえ 訳 やく 『20世紀 せいき の巨人 きょじん 産業 さんぎょう 家 か ヘンリー・フォードの軌跡 きせき 』創 そう 英 えい 社 しゃ ・三省堂 さんせいどう 書店 しょてん 2000年 ねん
ヘンリー・フォード著 ちょ 竹村 たけむら 健一 けんいち 翻訳 ほんやく 『ヘンリー・フォード自伝 じでん 藁 わら のハンドル 資本 しほん 主義 しゅぎ を最初 さいしょ に実現 じつげん した男 おとこ の魂 たましい 』祥伝社 しょうでんしゃ 1991年 ねん (原題 げんだい :"Today and Tomorrow")
五十嵐 いがらし 平 たいら 達 いたる 『世界 せかい の自動車 じどうしゃ (44) フォード 1』二玄社 にげんしゃ 、1970年 ねん 、8-55,74-75頁 ぺーじ 。
樋口 ひぐち 健治 けんじ 『自動車 じどうしゃ 技術 ぎじゅつ 史 し の事典 じてん 』朝倉書店 あさくらしょてん 、1996年 ねん 。ISBN 4-254-23085-0 。
和田 わだ 一夫 かずお 『ものづくりの寓話 ぐうわ 』名古屋大学出版会 なごやだいがくしゅっぱんかい 、2009年 ねん 。ISBN 978-4-8158-0621-7 。
日本 にっぽん フオード自動車 じどうしゃ 株式會社 かぶしきがいしゃ 『フオードの産業 さんぎょう 』米国 べいこく フオード自動車 じどうしゃ 會社 かいしゃ 、1927年 ねん 。