フォード・モデルT

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フォード・モデルT
フォード・モデルTラナバウト(1911ねん以前いぜん最初さいしょがた
フォード・モデルT(1915ねんがたもとはラナバウトとおもわれる)
フォード・モデルTツーリング(1927ねんがた
概要がいよう
販売はんばい期間きかん 1908ねん - 1927ねん
ボディ
乗車じょうしゃ定員ていいん 2/4にん
ボディタイプ 4ツーリング
2ドアカブリオレ/セダン
4ドアカブリオレ/セダン
(ほかバリエーション多数たすう
駆動くどう方式ほうしき FR
パワートレイン
エンジン 水冷すいれい直列ちょくれつ4気筒きとう3ベアリングしき、サイドバルブ(Lヘッド)
変速へんそく あしどうマニュアル2そく[注釈ちゅうしゃく 1]
系譜けいふ
先代せんだい フォード・モデルN/S/R
後継こうけい フォード・モデルA(2代目だいめ
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フォード・モデルT(Ford Model T)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフォード・モーターしゃ開発かいはつ製造せいぞうした自動車じどうしゃである。

アメリカ本国ほんごくではティン・リジー[注釈ちゅうしゃく 2]などの通称つうしょうがあるが、日本にっぽんではTがたフォード通称つうしょうひろられている。

1908ねん発売はつばいされ、以後いご1927ねんまで基本きほんてきモデルチェンジのないまま、1,500まん7,033だい生産せいさんされた[注釈ちゅうしゃく 3]。4りん自動車じどうしゃでこれをしのいだのは、唯一ゆいいつ2,100まんだい以上いじょう生産せいさんされたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)が存在そんざいするのみである。その廉価れんかさから、アメリカをはじめとする世界せかい各国かっこくひろ普及ふきゅうした。

基本きほん構造こうぞう自体じたい大衆たいしゅうしゃとして十分じゅうぶん実用じつようせいそなえた完成かんせいたか自動車じどうしゃであり、さらにはベルトコンベアによるなが作業さぎょう方式ほうしきをはじめ、近代きんだいされたマス・プロダクション手法しゅほう生産せいさん全面ぜんめん適用てきようして製造せいぞうされた史上しじょう最初さいしょ自動車じどうしゃというてんでも重要じゅうようである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

モデルTの出現しゅつげんまで[編集へんしゅう]

モデルT以前いぜん[編集へんしゅう]

1896ねんに、自力じりき最初さいしょのガソリン自動車じどうしゃ開発かいはつしたヘンリー・フォードは、1899ねんあらたに設立せつりつされたデトロイト・オートモビルしゃ主任しゅにん設計せっけいしゃ就任しゅうにんするも、出資しゅっししゃである重役じゅうやくじんとの対立たいりつ1902ねん退社たいしゃした。その後任こうにんには精密せいみつ加工かこう権威けんいであるヘンリー・M・リーランド就任しゅうにんし、社名しゃめいキャディラック変更へんこうしている。

ヘンリー・フォードは1903ねんみずか社長しゃちょうつとめるしん自動車じどうしゃ会社かいしゃフォード・モーターしゃ設立せつりつデトロイト最初さいしょ工場こうじょうであるピケット工場こうじょう開設かいせつした。

その初期しょきには、車体しゃたい中央ちゅうおう床下ゆかしたに2気筒きとうエンジンを搭載とうさいしてチェーンでのち駆動くどうする「バギー」とばれる種類しゅるい小型車こがたしゃ生産せいさんしていた。当時とうじのアメリカの道路どうろあくおおく、ヨーロッパくるまくらべて洗練せんれんされていない形態けいたいの「バギー」かたしゃほうが、かえって実情じつじょうそくしていたからである。1903ねんの「モデルA」、1904ねんの「モデルC」、1905ねんの「モデルF」が「バギー」にあたる。

しかし、ほどなく本格ほんかくてき自動車じどうしゃもとめられるようになったことから、1905ねんの「モデルB」では、フォードの量産りょうさんしゃとしてははじめて直列ちょくれつ4気筒きとうエンジンをフロントに搭載とうさいし、プロペラシャフトでのち駆動くどうするという常道じょうどうてきなレイアウトに移行いこうした。1906ねんには出資しゅっししゃであるアレグザンダー・マルコムソンらの意向いこうで、大型おおがたの6気筒きとう40HP高級こうきゅうしゃ「モデルK」も開発かいはつしたものの、生産せいさん主流しゅりゅうとはならなかった。フォードしゃは、当時とうじからあくまで小型こがた大衆たいしゅうしゃ生産せいさん重点じゅうてんいて活動かつどうしていた[1]

モデルNの成功せいこう[編集へんしゅう]

1906ねんすえには「バギー」モデルFにわる本格ほんかくてきな4気筒きとう小型車こがたしゃ「モデルN」を発売はつばいした。2気筒きとう12HPのモデルFが1,000ドルであったのにたいし、4気筒きとう17HPのモデルNは、量産りょうさん段階だんかいにおけるコストダウンがはかられ、半値はんねの500ドルで販売はんばいされた。まもなく派生はせいがたとして「モデルR」「モデルS」も開発かいはつされている。

モデルNはごく廉価れんか性能せいのうかったためきがく、その成功せいこう予想よそう以上いじょうであった。このため部分ぶぶんてきなが作業さぎょう方式ほうしき導入どうにゅうはかられ、工場こうじょう拡張かくちょうすすめられたが、それでも生産せいさん需要じゅよういつかなかった。

当初とうしょから量産りょうさん考慮こうりょして開発かいはつされたモデルNシリーズであったが、さらなる需要じゅようおうじるには既存きそん体制たいせいでは限界げんかいがあり、フォードは生産せいさんせい根本こんぽんてき向上こうじょうはかることをせまられた。そこで、モデルNの設計せっけいからおおくを参考さんこうにしつつも、全体ぜんたい一新いっしんして性能せいのう向上こうじょうさせ、なおかつより大量たいりょう生産せいさん適合てきごうした新型しんがたしゃ開発かいはつ1907ねんはじめから開始かいしした。これがのちのモデルTである。

モデルTの開発かいはつ[編集へんしゅう]

当時とうじのフォードにおける先進せんしんせいとして、部品ぶひん互換ごかん達成たっせいげられる。1900年代ねんだい自動車じどうしゃおおくが、個別こべつ部品ぶひん均一きんいつ加工かこう精度せいど確保かくほなんがあり、最終さいしゅう組立くみたて段階だんかいでの仕上しあげによる調整ちょうせいいられていたなか、フォードしゃはこの時点じてんで、すで先行せんこうするキャディラックのヘンリー・リーランドの流儀りゅうぎならい、マイクロゲージ基準きじゅんとした規格きかくによって部品ぶひん互換ごかんせい確保かくほしていた。ここではミシンメーカーであるシンガーしゃ出身しゅっしんで、フォードのプロダクションマネージャーに短期間たんきかんながら就任しゅうにんしていたウォルター・フランダース (Walter.E.Flanders) が重要じゅうようはたらきをおこなっている。部品ぶひん互換ごかん実現じつげん大量たいりょう生産せいさん大前提だいぜんていであり、フォードはこのてん大衆たいしゅうしゃ業界ぎょうかいでの競合きょうごう他社たしゃいちさきんじていた[注釈ちゅうしゃく 4]

一方いっぽうこれとおなじころ、冶金やきんがく研究けんきゅうすすんでいたイギリスにおいて、新種しんしゅ高速度こうそくどこうバナジウムこう」が開発かいはつされた。従来じゅうらい鋼材こうざいばいする張力ちょうりょくそなえながら、かるくてしかも高速こうそく切削せっさく加工かこう可能かのうという、自動車じどうしゃよう素材そざいとして理想りそうてき材質ざいしつである。ヘンリー・フォードはこれをり、新型しんがたしゃにバナジウムこう多用たようして生産せいさんせい向上こうじょう軽量けいりょうはかることにした[2]

モデルTの開発かいはつ作業さぎょうは、1907ねんはじめから開始かいしされた。ヘンリー・フォード自身じしんをチーフとし、C.ハロルド・ウィリス (Childe Harold Wills)、チャールズ・ソレンセン (Charls Sorensen) など、社内しゃないでもかぎられたスタッフのみによって、極秘ごくひ進行しんこうされることになった。

作業さぎょうにはピケット工場こうじょうない個室こしつとくて、ヘンリーの指示しじもとづいてハンガリー出身しゅっしんのジョセフ・ガラム (Joseph Galamb) が作図さくずおこない、別室べっしつでは19さい機械きかいこうチャールズ.J.スミス (Charles.J.Smith) が実際じっさい部品ぶひん製作せいさくたった。ヘンリーはしばしばなが時間じかん椅子いすにもたれつつ、部下ぶか指示しじおこなったという。実験じっけん段階だんかいにおける初期しょき試験しけんだいには、実績じっせきのあるモデルNシャシーが利用りようされた[1]

モデルTの成功せいこう[編集へんしゅう]

発売はつばい[編集へんしゅう]

1910ねんしきモデルT・ツーリング。初期しょき典型てんけいてきなモデルTである

モデルTは1907ねん10がつ最初さいしょプロトタイプ2だい完成かんせいよく1908ねん3がつ発表はっぴょうされたが、市販しはん開始かいし同年どうねん10がつからとなった。デトロイトのピケット工場こうじょう最初さいしょ市販しはんモデルTの1だいがラインオフしたのは、1908ねん9がつ27にちのことである。

モデルTは、当時とうじのアメリカにおいて小型車こがたしゃカテゴリーにたるクラスで、最初さいしょ600ドルの格安かくやす価格かかくでの販売はんばい計画けいかくされていた。だが実際じっさいにはコストダウンがいつかず、モデルNよりやや上級じょうきゅうのクラスとして850ドル以上いじょう価格かかく発売はつばいされた。それでもどうクラスの自動車じどうしゃが1,000ドルだい価格かかくたいであっただけに非常ひじょう好評こうひょうで、よく1909ねん4がつまでには3かげつぶんのバックオーダーをかかえることになり、7がつまでの受注じゅちゅう停止ていしいられた。1909ねんの1年間ねんかんだけでも1まんだいえるモデルTが生産せいさんされ、当時とうじとしては桁外けたはずれのベストセラーとなった。

このだいヒットに直面ちょくめんしたヘンリー・フォードは、並行へいこう生産せいさんしていた小型車こがたしゃモデルN、R、Sや高級こうきゅうしゃモデルKの生産せいさん停止ていしし、モデルTただ1しゅしぼんだ大量たいりょう生産せいさん決断けつだんした。

以後いごのモデルTの歴史れきしは、モデルTという単体たんたい自動車じどうしゃ自体じたい発展はってん以上いじょうに、大量たいりょう生産せいさん技術ぎじゅつ発展はってん歴史れきしであった。ヘンリー・フォードとかれのブレーンたちは、モデルTという元々もともと完成かんせいたか実用じつよう大衆たいしゅうしゃを、はや大量たいりょう効率こうりつよく、そしてより廉価れんか供給きょうきゅうすることを目的もくてき活動かつどうした。

フォードしゃ販売はんばいのサービス体制たいせいにも配慮はいりょおこたらなかった。アメリカ全土ぜんど広域こういきわたるサービスもう整備せいびし、補修ほしゅうパーツがストックされるデポを各地かくち設置せっちした。モデルTは元々もともとタフで故障こしょうすくなく、つくりがシンプルで素人しろうとにも整備せいびしやすかったが、アフターサービスの充実じゅうじつは、ユーザーからの信頼しんらいをよりたかめる結果けっかになった。初期しょきモデルTの「Ford, the universal car(万能ばんのうしゃフォード)」「Watch the Fords go by(フォードのやりかたよ)」といった宣伝せんでんフレーズ[3] からも、ヘンリー・フォードがモデルTにいていたおおきな自負じふをうかがえる[1]

1910ねん、ピケット工場こうじょうわる主力しゅりょく生産せいさん拠点きょてんとして、当時とうじ世界せかい最大さいだいきゅう自動車じどうしゃ工場こうじょうであるハイランドパーク工場こうじょうが、デトロイト郊外こうがい完成かんせいした。60エーカー(=24ヘクタール)の面積めんせきったあかるい工場こうじょうは、だい出力しゅつりょくガスエンジンと電気でんきモーターを動力どうりょくげんもちいた近代きんだいてき生産せいさん設備せつびそなえていた。このころフォードでは、部品ぶひんだい規模きぼうちせいはじめた。外注がいちゅう部品ぶひん供給きょうきゅうじょうきょうによって生産せいさん効率こうりつ左右さゆうされ、ひいてはコストが上昇じょうしょうすることを、ヘンリー・フォードがきらったためである。

モデルTは1912ねんがたから生産せいさんせいたかめるため、従来じゅうらい3種類しゅるいから選択せんたくできたボディぬりしょくを、くろエナメルり1しょくのみにしぼんだ。くろりをえらんだのは、くろ塗装とそう一番いちばんかわきがはやく、作業さぎょう効率こうりつかったからである。

このころのフォードしゃ=すなわちモデルTの販売はんばい台数だいすうびはすでにいちじるしいものがあった。増産ぞうさん体制たいせい強化きょうかされ、1912ねんには月産げっさん1まんだいえたつきは4がつと12がつだけだったが、1913ねんはいると1がつ以降いこう生産せいさん台数だいすう毎月まいつき1まんだいえ、4がつから6がつにかけては月産げっさん2まんだいえた[4]

なが作業さぎょう方式ほうしき[編集へんしゅう]

フォードのピケット工場こうじょうにおける初期しょき自動車じどうしゃ生産せいさんは、基本きほんてきには1かしょえられた自動車じどうしゃシャシーに、かく工程こうてい担当たんとうする作業さぎょういんわりわり部品ぶひんけていく形態けいたいであった。当時とうじはどの自動車じどうしゃメーカーもたりったりの製造せいぞう方式ほうしきっていた。生産せいさん台数だいすうがごくすくないうちはこれでもんでいたが、フォードのようにだい規模きぼ量産りょうさん場合ばあい組立くみたてでは効率こうりつわるすぎた。

フォードではすでに1908ねん時点じてんから、工場こうじょうない部品ぶひん供給きょうきゅう移動いどう合理ごうりによって生産せいさん効率こうりつたかめる工夫くふうはじめられていたが、最後さいご生産せいさん効率こうりつ改善かいぜんのネックになってきたのは、がっていく製品せいひん移動いどうさせることだった。チャールズ・ソレンセンらフォードのエンジニアたちは、シャシーをソリにせて移動いどう効率こうりつ改善かいぜんはかってみるなど試行錯誤しこうさくごかさねた。一方いっぽう複数ふくすう工程こうていをシンクロナイズして同時どうじ進行しんこうさせ組立くみたて効率こうりつたかめる「ライン同期どうき」へのこころみもおこなわれている。

初期しょきのモデルTの生産せいさんも、基本きほんてきにはモデルNと同様どうよう手法しゅほうられていた。ハイランドパーク工場こうじょう稼働かどう開始かいし時点じてんでも、フォードの生産せいさん方式ほうしきはまだ従来じゅうらいいきだっしていなかったが、当時とうじのアメリカは労働ろうどう力不足ちからぶそく状態じょうたいで、かぎられた人的じんてき資源しげんわくない抜本ばっぽんてき変革へんかくおこない、生産せいさん効率こうりつたかめることが早急そうきゅうもとめられていた。広大こうだいなハイランドパーク工場こうじょうであっても、シャシー組立くみたてのままで月産げっさん2まんだいからさらに増産ぞうさんはかるにはゆか面積めんせき不足ふそくしており、1913ねんには6かいてのしん工場こうじょうとう、Wとう・Xとう(1むねのワンフロアあたり34まん8,800平方へいほうフィート≒32,404.6平方へいほうメートル)の増築ぞうちくおこなわれた[4]が、工場こうじょう単純たんじゅん増築ぞうちくするだけで生産せいさんせいたかまるわけではなかった。

フォードが本格ほんかくてきなが作業さぎょう方式ほうしき導入どうにゅうしたきっかけについては、「シカゴ食肉しょくにく処理しょり工場こうじょう缶詰かんづめ工場こうじょうという異説いせつもあり)での実例じつれいたヘンリー・フォードの発案はつあん」という俗説ぞくせつがあるが、実際じっさいにはそのように単純たんじゅんなものではなく、フランダースやソレンセンらによるすう年間ねんかんわたっての試行錯誤しこうさくご結果けっか、ハイランドパークへの生産せいさん移行いこうまんもたして徐々じょじょ導入どうにゅうはじめたのが実情じつじょうのようである[1]なが作業さぎょうという生産せいさん手法しゅほう自体じたいはフォード以前いぜんから存在そんざいしていたのであるが、俯瞰ふかんてき視点してんからだい規模きぼなが作業さぎょうシステムを構築こうちくし、それら複数ふくすう連動れんどうして機能きのうさせるようにしたことが、フォードしゃ画期的かっきてき功績こうせきであった。

本格ほんかくてきなが作業さぎょう導入どうにゅう最初さいしょエンジンのフライホイールだった。1913ねん4がつ時点じてんで、モデルTのマグネトーくみこみしきフライホイール生産せいさんは、一人ひとり作業さぎょういんぜん行程こうてい専属せんぞくおこなった場合ばあい1個いっこあたりの完成かんせいまで20ふんようした。ベルトコンベアなが作業さぎょう方式ほうしきによる分業ぶんぎょう体制たいせいもちい、かく工程こうてい作業さぎょういんうごきに無駄むだしょうじないポジションをらせるなどの対策たいさくると、フライホイール1個いっこ完成かんせい所要しょよう時間じかんは13ふん減少げんしょうし、さらなる改良かいりょう1914ねんには、フライホイール1個いっこを5ふんてられるようになった。前年ぜんねんの4ばい効率こうりつである[1]

この手法しゅほうで、工程こうていについても同様どうよう分業ぶんぎょうによるなが作業さぎょう方式ほうしき導入どうにゅうしていった。1913ねん8がつからシャシー組立くみたてのベルトコンベア方式ほうしきえを開始かいし同年どうねん11がつからはエンジンについても同様どうようにライン生産せいさんはじめた。

フォード・システム[編集へんしゅう]

1913ねん-1914ねんごろのハイランドパーク工場こうじょうにおけるモデルTのボディとシャシーのそうライン光景こうけい立体りったいまで駆使くしした量産りょうさんラインの先駆せんくれいとして引用いんようされることおお映像えいぞうである

個別こべつ作業さぎょうごとの標準ひょうじゅん作業さぎょう時間じかん手順てじゅんさだめられ、実験じっけんちゅうにはヘンリー・フォードみずからストップウォッチを作業さぎょういんうごきを注視ちゅうししたという。結果けっかとして生産せいさん過程かていでは、フレデリック・テイラー (Frederick Winslow Taylor 1856-1915) が提唱ていしょうした科学かがくてき生産せいさん管理かんりほう「テイラー・システム」がいちはや実現じつげんされることになった。しかし、フォード自身じしんはのちに「我々われわれ自身じしん研究けんきゅう結果けっかであって、テイラーの構築こうちくした手法しゅほう意識いしきして導入どうにゅうしたわけではない」とコメントし、テイラーとの関係かんけい否定ひていしている。

複雑ふくざつ作業さぎょう工程こうていも、要素ようそごとに分解ぶんかいすればほとんどが単純たんじゅん作業さぎょう集積しゅうせきであり、個々ここ単純たんじゅん作業さぎょう熟練じゅくれん労働ろうどうしゃててもつかえなかった。作業さぎょう工程こうていはベルトコンベアによって結合けつごうされ、熟練工じゅくれんこうによる組立くみたてよりもはるかにはやていコストで、均質きんしつ大量たいりょう生産せいさん可能かのうになった。

1914ねんには、ハイランドパークでのモデルT量産りょうさん手法しゅほうはかなり高度こうど段階だんかいたっしていた。なが作業さぎょう方式ほうしきによる複数ふくすう製造せいぞうラインを完全かんぜんにシンクロナイズし、最終さいしゅう組立くみたて段階だんかい合流ごうりゅうさせて計画けいかくどおりの完成かんせいひんとする生産せいさんシステムが、完全かんぜん実現じつげんした。「フォード・システム」とわれる能率のうりつてき大量たいりょう生産せいさんシステムの具現ぐげんであった。

シャシーを1かいで、ボディを2かいでそれぞれ組立くみたて、かいてラインの末端まったんスロープ使つかってボディをろし、シャシーにそうするというハイランドパーク工場こうじょう生産せいさん光景こうけいは、写真しゃしんとうでよくられるが、この2かいてラインは1914ねんからられるようになったものである。

1908ねん製造せいぞう開始かいし当初とうしょ、1だいたり14あいだようしたモデルTシャシーの組立くみたて所要しょよう時間じかんは、1913ねんからのベルトコンベアとその改良かいりょうで、1914ねん4がつには1だいたり1あいだ33ふんにまで短縮たんしゅくされたとつたえられる[注釈ちゅうしゃく 5]

1917ねんにはさらなるだい工場こうじょう、リバー・ルージュ工場こうじょう建設けんせつはじまった。自前じまえ製鉄せいてつしょまでそなえた広大こうだい工場こうじょう敷地しきちないでは、鋼材こうざいいたるまでの一括いっかつないせいおこなわれ、膨大ぼうだい台数だいすうのモデルTを均質きんしつ量産りょうさんできる体制たいせいととのえられたが、この工場こうじょう本格ほんかく稼働かどうするのは1920年代ねんだい以降いこうである。

モデルTの最盛さいせい[編集へんしゅう]

日給にっきゅう5ドル宣言せんげん労働ろうどうしゃ実情じつじょう[編集へんしゅう]

ヘンリー・フォードが"日給にっきゅう5ドル"宣言せんげんおこなったのは1914ねんである。単純たんじゅん労働ろうどうしゃでもある程度ていど継続けいぞくして勤務きんむすれば、当時とうじ賃金ちんぎん相場そうば従来じゅうらいのフォードでの最低さいてい日給にっきゅうは2ドルだい)の2ばい程度ていどあたいする日給にっきゅう5ドルを支給しきゅうするという、おどろくべきばくだん宣言せんげんであった。

当時とうじ熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ存在そんざい価値かち低下ていかしつつあったフォードしゃでは、とく熟練じゅくれんそうからの不満ふまんたかまり、離職りしょくりつたかくなっていた。そこでフォードしゃ営業えいぎょう担当たんとうしゃだったジェームズ・クーゼンスが、労働ろうどうしゃ定着ていちゃくりつ向上こうじょうのために待遇たいぐう改善かいぜん提案ていあんしたところ、ヘンリー・フォードはワンマン経営けいえいしゃらしく、さしたる数値すうち裏付うらづけもないまま大盤振おおばんぶいを決定けっていした[注釈ちゅうしゃく 6]

日給にっきゅう5ドルは年収ねんしゅうなら1,000ドル以上いじょうになり、当時とうじ、モデルT1だい購入こうにゅうしてもなお労働ろうどうしゃ一家いっかがつましい生活せいかつおくりうる水準すいじゅんである。当然とうぜんながらフォードの工場こうじょうには就職しゅうしょく希望きぼうする労働ろうどうしゃ殺到さっとうした。

だがその高給こうきゅうは、生産せいさんラインでの単調たんちょう労働ろうどうえることの代償だいしょうだった。生産せいさんラインを着実ちゃくじつうごかすことが優先ゆうせんされ、工場こうじょう稼働かどう時間じかんちゅう労働ろうどうしゃ生産せいさんラインの進行しんこうペースにおくれることなく、刺激しげきともなうことのない単調たんちょう作業さぎょうやすみなくつづけなければならなかった。フォード工場こうじょう労働ろうどうしゃはむしろ通常つうじょう工場こうじょう労働ろうどう以上いじょうに、肉体にくたいめん精神せいしんめんでのいちじるしい負担ふたんいられることになった。

このため実際じっさいには5ドル支給しきゅう時期じきたっする以前いぜんしょくする熟練じゅくれん労働ろうどうしゃおおかったが、退職たいしょくしゃしょうじても「日給にっきゅう5ドル」にかれるあらたな就職しゅうしょく希望きぼうしゃたなかったため、すで単純たんじゅん労働ろうどう膨大ぼうだい集合しゅうごうたいしていたフォードの生産せいさん体制たいせい支障ししょうしょうじなかった。

モデルTの大量たいりょう生産せいさん裏面りめんには、このように過酷かこく現実げんじつがあった。なが作業さぎょう方式ほうしきは、のちにはチャールズ・チャップリン映画えいがモダン・タイムス』(1936)などで諷刺ふうしされ、人間にんげん生産せいさんシステムの一部いちぶとして機械きかい同然どうぜんあつか非人ひにんあいだせい象徴しょうちょうともされるようになる。そしてフォードしゃは、労働ろうどうしゃらによる労働ろうどう組合くみあい運動うんどうたいしては、デトロイトの自動車じどうしゃメーカー各社かくしゃなかでも、とりわけ冷淡れいたんかつ暴力ぼうりょくてき手段しゅだんきびしく対処たいしょしたのである。

モダン・タイムス

その一方いっぽうなが作業さぎょう方式ほうしき代表だいひょうされる大量たいりょう生産せいさんシステムの発展はってんによって生産せいさん効率こうりついちじるしくたかまったことで収益しゅうえき増大ぞうだいし、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃにも給与きゅうよ上昇じょうしょうというかたち還元かんげんされるようにもなった。処分しょぶん所得しょとくおおきくなったすくなからぬ労働ろうどうしゃがフォード・モデルTを所有しょゆうするにいたった。それは労働ろうどうしゃ階級かいきゅうふく巨大きょだい大衆たいしゅうそうになとした大量たいりょう生産せいさん大量たいりょう消費しょうひ時代じだい先触さきぶれであった。

未曾有みぞう量産りょうさん記録きろくてい価格かかく[編集へんしゅう]

1924ねん、フォードしゃ生産せいさん累計るいけい1000まんだい達成たっせい記念きねん写真しゃしん。ヘンリー・フォードの両側りょうがわに、1896ねん最初さいしょのガソリンエンジン試作しさくしゃと、1000まんだい記念きねんのモデルTがならぶ。このときモデルTの生産せいさんペースは絶頂ぜっちょうにあった

モデルTの年間ねんかん生産せいさん台数だいすうは、1910ねんの1まん8,600だいきょうから、1ねんで50%から100%の割合わりあい爆発ばくはつてき激増げきぞうした[1]

イギリスでの組立くみたてはじまった1911ねん年間ねんかん生産せいさん台数だいすうは3まん4,500だい以上いじょうであった。ハイランドパーク工場こうじょうなが作業さぎょう方式ほうしき開始かいしされた1913ねんには年間ねんかん生産せいさん台数だいすうは16まん8,000だい以上いじょうとなる。1916ねんには53まん4,000だいじゃくび、1919ねんのみだいいち大戦たいせん終戦しゅうせんきょう影響えいきょう生産せいさんりょうったほかは、年々ねんねん増加ぞうかした。

1921ねんには年間ねんかん生産せいさん台数だいすうは99まんだいじゃく生産せいさんし、よく1922ねんには121まんだいえて100まんだいオーバーの大台おおだいたっした。そして1923ねんには、1年間ねんかんで205まん5,300だい以上いじょう生産せいさんしてピークにたっする。その減少げんしょう傾向けいこう辿たどるものの、生産せいさん中止ちゅうし前年ぜんねんの1926ねん時点じてんにおいても1年間ねんかんで163まんだいじゃくのモデルTが生産せいさんされていたのであるから、いかに圧倒的あっとうてき生産せいさん体制たいせいであったかがはかれる。一時いちじ、アメリカで生産せいさんされる自動車じどうしゃ台数だいすう半分はんぶん以上いじょうがフォード・モデルTだった。

この膨大ぼうだい規模きぼ大量たいりょう生産せいさん体制たいせいによって、モデルTの価格かかくはひたすらがりつづけた。

れい標準ひょうじゅんてきほろきのツーリングモデル
1910ねんにいったん950ドルに値上ねあげされた[注釈ちゅうしゃく 7]が、よく1911ねんには780ドルへがり、そのとしに50ドルから100ドルの割合わりあい値下ねさげがかえされた。1913ねんには600ドル、1915ねんは490ドル、1917ねんには360ドルまで価格かかくがった。さらによく1918ねんにはアメリカのだいいち世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせん影響えいきょうけて物価ぶっかがり、モデルTも物価ぶっか上昇じょうしょうあわせて525ドルに値上ねあげしたが、以後いごふたた値下ねさげがすすみ、1922ねんには355ドル。そして1925ねんにはついに290ドルという法外ほうがいなまでの廉価れんかになった[1]。これは、インフレーション考慮こうりょして換算かんさんした場合ばあい、2005ねん時点じてんにおける3,300ドル相当そうとうである。

モデルTTの開発かいはつ商用しょうよう農業のうぎょう分野ぶんやへの事業じぎょう拡大かくだい[編集へんしゅう]

モデルTのシャーシ後部こうぶを、オープンタイプの荷台にだい、またはクローズドタイプのしつとした小型こがたトラックてきモデルは、モデルTの普及ふきゅう途上とじょうで、はや時期じきから市場いちばでの改造かいぞう出現しゅつげんしていたが、元来がんらい小型こがた軽量けいりょうであったモデルTではヘビーデューティな用途ようとてきさないきらいもあった。

これにたいしフォードしゃはより本格ほんかくてき商用しょうようモデルを公式こうしき供給きょうきゅうするため、1917ねん、モデルTをもとに、シャーシとスプリングを強化きょうかしてロングホイールベースとし、ウォームギア駆動くどう低速ていそくファイナルギアをそなえたコマーシャルシャーシばん派生はせいがたモデルTT」を開発かいはつ市場いちば投入とうにゅうした。TTにはモデルT同様どうよう大量たいりょう生産せいさん手法しゅほう活用かつようされ、またとくにコストのかかるエンジンと変速へんそくについてモデルTと互換ごかん仕様しようとし、量産りょうさん効果こうかたかめたことで、先行せんこう各社かくしゃ同級どうきゅうのコマーシャルシャーシにたいして競争きょうそうりょくのある価格かかくせた。

1トントラックシャーシとして設計せっけいされたTTは速度そくどこそおそかったが、モデルT同様どうよう頑丈がんじょうさとあつかいやすさをそなえ、フォードは商用しょうようしゃ部門ぶもんでもシェアを一挙いっきょ獲得かくとくした。市場いちばのボディメーカーの様々さまざま用途ようと貨物かもつようボディをそうされ、貨物かもつようまらず小型こがたバスとうのベースとしても汎用はんよう利用りようされて、1927ねんにモデルTととも製造せいぞう終了しゅうりょうするまでに、のべ150まんだい生産せいさんされる成功せいこうおさめている。なおモデルTの生産せいさん台数だいすう1,500まんだいには、一般いっぱんにこのTTけい生産せいさん台数だいすう算入さんにゅうされている。

並行へいこうして、ヘンリー・フォードは宿願しゅくがんである農業のうぎょう機械きかいのためにトラクター量産りょうさんにもしていた。フォード・モーターからはべつ会社かいしゃとして設立せつりつされたヘンリー・フォード&ソン(Henry Ford & Son Inc 1920ねんにフォード・モーターに合併がっぺい)では、1916ねんに20HPきゅうの「フォードソン・トラクター・モデルF(Fordson Tractor model F) 」を開発かいはつした。ガソリン・ケロシン両用りょうよう直列ちょくれつ4気筒きとうエンジンブロックと後部こうぶギアボックスユニットを結合けつごうし、フレームレスいちたいシャーシとして機能きのうさせるその画期的かっきてきレイアウトは、その世界せかい各国かっこく内燃ないねん機関きかんトラクターのはんとなった。モデルFは1917ねんからやはり大量たいりょう生産せいさん方式ほうしきによるてい価格かかく市販しはんされ、内燃ないねん機関きかんトラクターとして史上しじょうはつ商業しょうぎょうてきベストセラーとなった。

このように1910年代ねんだいのヘンリー・フォードは大量たいりょう生産せいさん技術ぎじゅつ駆使くしし、大衆たいしゅうしゃ商用しょうようしゃ農業のうぎょうトラクターという、それぞれに未開みかい巨大きょだい需要じゅようようしていた市場いちば開拓かいたく制覇せいは成功せいこうし、一代いちだい企業きぎょう帝国ていこくをきずきあげた「自動車じどうしゃおう」として世界せかいてき著名ちょめいじんとなった。その莫大ばくだい資金しきんりょくによって、1922ねんには経営けいえいなんおちいった高級こうきゅうしゃメーカー・リンカーン・モーター・カンパニー救済きゅうさい買収ばいしゅう自社じしゃ傘下さんかおさめている。

衰退すいたい[編集へんしゅう]

ぜん時代じだい[編集へんしゅう]

ヘンリー・フォードは1920年代ねんだいはいっても、みずからの製品せいひんをより廉価れんかに、より大量たいりょう供給きょうきゅうする生産せいさんシステムの革新かくしんにひたすら邁進まいしんしたが、いったん完成かんせいした製品せいひんそのものの革新かくしんには関心かんしんであった。ヘンリーは「モデルTはすで完成かんせいした『完璧かんぺき製品せいひん』であり、代替だいたいモデルを開発かいはつする必要ひつようはない」とかたくなにしんんでいた。そのため、モデルTはしょう改良かいりょうくわえられるだけでなが抜本ばっぽんてきなモデルチェンジをほどこされなかった。

ヘンリーの息子むすこエドセル・フォードは、1919ねんにフォードしゃ社長しゃちょう就任しゅうにんしたが、たたげのちちヘンリーとちがって高等こうとう教育きょういくけたインテリで、幼少ようしょうから自動車じどうしゃしたしみ、自動車じどうしゃ技術ぎじゅつ改良かいりょう発展はってんやカーデザインのありかたたいしてすぐれた見識けんしきけていた。エドセルはフォードしゃ経営けいえいひろ視野しやから判断はんだんし、1920年代ねんだい早々そうそう時点じてんで「モデルTには抜本ばっぽんてき改革かいかく―モデルチェンジが必要ひつようだ」とかんがえていた。またフォードしゃなかでも将来しょうらいのあった幹部かんぶたちや、他社たしゃとの販売はんばい競争きょうそうにさらされているすくなからざる傘下さんかディーラーも、同様どうようかんがえをいていた。

エドセルはたんなる御曹司おんぞうしではなかった。社長しゃちょう就任しゅうにんからほどなくフォードしゃ買収ばいしゅうしたリンカーン[注釈ちゅうしゃく 8]なおすため、名門めいもんコーチビルダーそうのボディをせて高級こうきゅうしゃ市場いちばにアピールするさく商業しょうぎょうてき成功せいこうおさめている。さらに後年こうねん、リンカーン・ブランドでは流線型りゅうせんけい量産りょうさんがた高級こうきゅうしゃゼファー」を1935ねんに、さらにそれをベースとして史上しじょう屈指くっしうつくしい自動車じどうしゃわれる高級こうきゅうパーソナルカー・初代しょだいリンカーン・コンチネンタルを1939ねんし、並行へいこうして1938ねんにはあらたな中級ちゅうきゅうしゃブランド「マーキュリー」をげてフォードしゃ長年ながねん手薄てうすだった中級ちゅうきゅうしゃ部門ぶもん拡充かくじゅう成功せいこうさせるなど、エドセルにはさき見据みすえる着実ちゃくじつ手腕しゅわんがあった。ヘンリー・フォードも高級こうきゅうしゃ部門ぶもん運営うんえいはやくからエドセルにゆだねるようになっていった。

だがエドセルをフォードしゃ社長しゃちょうしょくえたのも名目めいもくのみで、なお会社かいしゃ経営けいえい実権じっけんにぎつづけるヘンリーは、フォード・ブランドの大衆たいしゅうしゃ生産せいさんでは周囲しゅうい忠告ちゅうこく意見いけんにも一切いっさいみみさず、モデルTの継続けいぞく生産せいさんにこだわりつづけた。その、モデルTの問題もんだいてん時代じだい変化へんかともなって顕在けんざいしつつあった。

性能せいのう低下ていか[編集へんしゅう]

モデルT自体じたいのもたらした自動車じどうしゃ大量たいりょう普及ふきゅうによって、アメリカでは道路どうろ整備せいび進展しんてんし、舗装ほそう道路どうろ年々ねんねん増加ぞうかしていた。それはとりもなおさず自動車じどうしゃ高速こうそくと、エンジンのこう馬力ばりきまねいた。しかし道路どうろのほとんどが舗装ほそうであった時代じだい基本きほん設計せっけいされたモデルTは、ロードクリアランスがたかくとられて腰高こしだかであり、またそのシャシーも、軽量けいりょう車体しゃたい舗装ほそう低速ていそく走行そうこうさせるには適当てきとうであったが、重量じゅうりょうのある車体しゃたい高速こうそく走行そうこうさせるには不適合ふてきごうであった。

1920年代ねんだい高性能こうせいのうしゃは6気筒きとうから8気筒きとう、12気筒きとうといった気筒きとうエンジンを搭載とうさいするようになり、最高さいこう速度そくどは70 - 80マイル/hたっするようになった。4気筒きとう大衆たいしゅうしゃでも性能せいのう向上こうじょうで55 - 60マイル/hにたっするものはめずらしくなくなっていた。これにたいし、モデルTの速力そくりょくは40 - 45マイル/hがせいぜいであった。

くわえて装備そうびひん充実じゅうじつともない、くるまじゅう増加ぞうかしはじめた。基本きほんモデルのツーリングがたで1908ねん当初とうしょ1250ポンド(545kg[5])であったくるまじゅうは、電装でんそう部品ぶひん追加ついか装備そうびうち外装がいそうのグレードアップで年々ねんねん増加ぞうかし、1916ねんがたで1400ポンド、1918ねんがたで1500ポンド、1923ねんがたで1650ポンド、1926ねんがたでは1728ポンドにもたっした。

さらにだいいち世界せかい大戦たいせんには、屋根やねきのクローズド・ボディが市場いちば主流しゅりゅうとなっていく。モデルTのクローズド・ボディモデルは、オープンボディのツーリングがたくら重量じゅうりょうが200 - 300ポンドも増加ぞうかしたが、エンジンは一貫いっかんして20HP変速へんそくも2段式だんしきのままであり、ドライブトレーンの性能せいのうくるまおもわなくなっていった。

1920年代ねんだい、「ティン・リジー(モデルT)は絶対ぜったいせない。なぜならなんだいいても、さきべつのTがたはしっているからだ」とうジョークがまれたが、台数だいすうおおさと同時どうじに、きわきのどんあしであったことをも物語ものがたっている。

経営けいえい販売はんばい戦略せんりゃくおく[編集へんしゅう]

シボレー シリーズ490(1918ねん)。くるまめい当時とうじ販売はんばい価格かかくが490ドルであったことから。モデルTの遊星ゆうせいギアにたいして3だんギアボックス、さらOHVエンジンを搭載とうさい

また、モデルTはボディ形態けいたいのバリエーションは非常ひじょうおおかったものの、どれも実用じつようだいいちとしたエナメルくろ一色いっしょくであり、後期こうきにはデザインめんでの魅力みりょくくようになった。ボディデザインもそれなりのアップデートははかられたが、時代遅じだいおくれの腰高こしだかなシャシーでは、時流じりゅうそくしたデザインのボディをそうすることも、デザインじょうのバランスと技術ぎじゅつ両面りょうめんから容易よういかなわなかった。

競合きょうごう他社たしゃは、性能せいのうめんもさることながら、自動車じどうしゃの「ファッション」としてのめんをも重視じゅうしした。競合きょうごうメーカーであるゼネラルモーターズ(GM)は、自社じしゃ大衆たいしゅうしゃシボレー」に多彩たさい塗装とそう[注釈ちゅうしゃく 9]用意よういするなどの戦略せんりゃくで、ユーザーにアピールしていた。また、スタイリングにも配慮はいりょがなされ、モデルTよりもてい重心じゅうしんで、高級こうきゅうしゃ[注釈ちゅうしゃく 10]おもわせるデザインがれられて、商品しょうひんせいたかめた。

1923ねんにGM社長しゃちょう就任しゅうにんした辣腕らつわん経営けいえいしゃアルフレッド・スローンは、大衆たいしゅうがより上級じょうきゅう商品しょうひん、より新味しんみのある商品しょうひんかれることを理解りかいしていた。たとえ廉価れんか大衆たいしゅうしゃであっても、高級こうきゅうしゃおもわせる形態けいたいやメカニズムをそなえることで商品しょうひんりょくたかまり、たんなる実用じつようしゃりない消費しょうひしゃ関心かんしんけることができた。

元来がんらい経営けいえい危機ききおちいったGM再建さいけん外部がいぶから招聘しょうへいされてGMりしたスローンは、技術ぎじゅつしゃとしての素養そようっていたが基本きほんてきには企業きぎょう経営けいえい管理かんり精通せいつうしたビジネスマンであり、自動車じどうしゃ会社かいしゃ経営けいえい最終さいしゅう目的もくてきは「自動車じどうしゃつくること」ではなく「自動車じどうしゃって収益しゅうえきげること」であると冷徹れいてつ見切みきっていた。スローンは巨大きょだい企業きぎょう組織そしきをシステマティックに統括とうかつする近代きんだいてき企業きぎょう経営けいえい手法しゅほう構築こうちくし、綿密めんみつ市場いちば調査ちょうさ生産せいさんりょうのコントロールとをともなった高度こうど販売はんばい戦略せんりゃくすすめることで、GMの着実ちゃくじつ利益りえき確保かくほはかろうとした。この企図きとは1920年代ねんだいつうじて着々ちゃくちゃく成果せいかげていた。

たいしてヘンリー・フォードは、GMとう手法しゅほう批判ひはんてきていた。ヘンリーはフォードしゃ専制せんせい君主くんしゅとして君臨くんりんし、モデルTをやす大量たいりょう生産せいさん販売はんばいすることのみに邁進まいしんしていた。よりやすければ当然とうぜんよくれ、またその普及ふきゅう社会しゃかいへの還元かんげんにもなる、という、ふる時代じだい単純たんじゅん素朴そぼく奉仕ほうし思想しそう背景はいけいにあった。

また競合きょうごう他社たしゃ割賦かっぷ販売はんばい分割払ぶんかつばらい、ローン販売はんばい方式ほうしき)を導入どうにゅうして、収入しゅうにゅうかぎられた人々ひとびとでも上級じょうきゅうモデルを購入こうにゅうしやすくし、販売はんばい促進そくしんはかった[注釈ちゅうしゃく 11]のにたいし、フォードは割賦かっぷ販売はんばい導入どうにゅうでも出遅でおくれた。農民のうみん家庭かていまれそだち、家父かふちょう主義しゅぎ代表だいひょうされる保守ほしゅてき倫理りんりかんっていたヘンリー・フォードが、借金しゃっきんとしてのいちめん割賦かっぷ販売はんばいという手法しゅほうを、道徳どうとくめんからこのまなかったためである。

だがそのような旧式きゅうしき方針ほうしんでは、てい価格かかく収益しゅうえき確保かくほ販売はんばい促進そくしんめんで、いずれ限界げんかいむかえることはけられなかった。自動車じどうしゃ自体じたい商品しょうひんせい以外いがいに、経営けいえい手法しゅほうめんでもフォードは時代遅じだいおくれになりつつあった。自動車じどうしゃ市場いちば経済けいざいシステムの双方そうほう成熟せいじゅくするにつれ、フォードの姿勢しせい時代じだいにそぐわなくなっていったのである。

モデルTの退潮たいちょう[編集へんしゅう]

シボレー スペリア シリーズK(1925ねん)。1927ねんには生産せいさん台数だいすうでTがたフォードをき、世界せかいのベストセラーカーとしての地位ちい確立かくりつ

1920年代ねんだい中期ちゅうきのGMのマーケティング戦略せんりゃくはさらに尖鋭せんえいし、シャシーは前年ぜんねんがた共通きょうつうでも、ボディデザインに年度ねんどごとの新味しんみあたえる「モデルチェンジ政策せいさく」をもちいて、在来ざいらいがた意図いとてき陳腐ちんぷさせることがおこなわれるようになった。GMがしたこの商品しょうひん戦略せんりゃくは、競合きょうごう他社たしゃ否応いやおうなしにれざるをなくなり、1970年代ねんだいまでアメリカの自動車じどうしゃは、1ねんごとにボディデザインを変化へんかさせることが当然とうぜんとなった。

シボレーが年々ねんねんスタイリングを変化へんかさせ、時代じだい先端せんたんくデザインで大衆たいしゅうにアピールする一方いっぽうで、根本こんぽんてきふるすぎ、普及ふきゅうしすぎたフォード・モデルTは、いちじるしく陳腐ちんぷした「安物やすものてき存在そんざいしていった。

モデルTの大量たいりょう生産せいさんによって、1920年代ねんだいはいるとさほど富裕ふゆうでない大衆たいしゅうそうにまで自動車じどうしゃ普及ふきゅうし、アメリカの大衆たいしゅうしゃ市場いちばはすでに飽和ほうわ状態じょうたいになっていた。このため新規しんき需要じゅようわって、需要じゅよう自動車じどうしゃ需要じゅよう大方おおかためるようになった。

いざえのだんになると、最新さいしんがたでも旧型きゅうがたとさしたる変化へんかのないモデルTを、きこのんでえの対象たいしょうとするユーザーはおおくなかった。はじめての自動車じどうしゃがモデルTだったユーザーも、GMなど競合きょうごう他社たしゃ斬新ざんしんなニューモデルにかれ、ふるいモデルTを下取したどりにして他社たしゃ新車しんしゃ購入こうにゅうするようになった。商品しょうひんせい歴然れきぜんとしたがあったため、ユーザーは100ドル、200ドル程度ていど価格かかくはさほどかいさなかったし、セルフスターターや屋根やねきボディなどのオプションがけば価格かかくがよりちぢまるため、モデルTの競争きょうそうりょくがれた。

モデルTも、1925ねんからはオプションで競合きょうごう他社たしゃみのバルーン・タイヤ[注釈ちゅうしゃく 12]設定せっていされ、1926ねんにはくろ以外いがいのボディカラー3しょくをオプション設定せっていするなど、おくればせながら対抗たいこうさくしたが、より強力きょうりょくなエンジンと、比較的ひかくてきあつかいやすいコンスタントメッシュ(常時じょうじしき)の3だん変速へんそく安全あんぜんせい確保かくほ効果こうかのある4りんブレーキをそなえたスマートな競合きょうごうしゃおお出現しゅつげんするなかで、非力ひりきなエンジンと2だん変速へんそく装備そうびのちブレーキのみの鈍重どんじゅうなモデルTは、商品しょうひん寿命じゅみょうきていることは明白めいはくであった。

モデルTの終焉しゅうえん以後いご展開てんかい[編集へんしゅう]

フォード モデルA(1928ねん) よこきリーフスプリングしきのサスペンションはTがた同様どうようだったが、大幅おおはば近代きんだいされ、リンカーンふうのスタイルをそなえた
シボレー・モデルACインターナショナル(1929ねん)フォードのモデルAを迎撃げいげきするように同級どうきゅう価格かかく排気はいきりょうで1クラスじょうの6気筒きとう46HPエンジンを搭載とうさい商品しょうひんりょくをつけた

ここにいたってワンマンのヘンリー・フォードも、ついにモデルTの撤収てっしゅう決断けつだんせざるをなかった。1927ねん5がつ26にち、ハイランドパーク工場こうじょうで1,500まんだいのモデルT(ツーリング)が完成かんせいした――その、モデルTの生産せいさん終了しゅうりょうしたのである。ただし自動車じどうしゃよう以外いがい用途ようと想定そうていしたモデルTエンジンの生産せいさん同年どうねん8がつまで続行ぞっこうされ、Tがた部品ぶひん生産せいさんつづけられた[6]

アメリカ本国ほんごくおよしょ外国がいこくで19年間ねんかん生産せいさんされたモデルTおよびモデルTTの累計るいけい生産せいさん台数だいすうは1,500まん7,033だいであり、1972ねん2がつ17にちフォルクスワーゲン・ビートル累計るいけい生産せいさん1,500まん7,034だい達成たっせいするまで、やく44ねん9かげつわたってモデルチェンジなしの史上しじょう最多さいた量産りょうさんしゃ記録きろく保持ほじした。モデルT4気筒きとうエンジン単体たんたい製品せいひん寿命じゅみょうおどろくほどながく、ハイランドパークほかの主力しゅりょく工場こうじょう新型しんがたしゃ生産せいさん体制たいせい移行いこうしたのちも、じつに1941ねん8がつまで産業さんぎょうようエンジンとして生産せいさんつづいた。

ヘンリー・フォードはモデルTの製造せいぞう終了しゅうりょう時点じてんまで、後継こうけいモデルのことをまったかんがえていなかったふしがある[7]経営けいえいめんへの影響えいきょう考慮こうりょすれば異例いれいとおしてかいなまでの無神経むしんけいぶりであるが、その結果けっか同年どうねんまつちかくまでやく半年はんとし以上いじょう、フォードの大衆たいしゅうしゃ生産せいさん自体じたい途絶とぜつすることになった。巨大きょだいなリバー・ルージュ工場こうじょう機能きのう停止ていしし、2おくドル以上いじょうともわれる操業そうぎょう停止ていしコストが発生はっせいした。販売はんばいてんへの新車しんしゃ供給きょうきゅうは9かげつ途絶とぜつし、一方いっぽうてき供給きょうきゅうたれて経営けいえいきゅうしたフォード系列けいれつのディーラーには、フォードとの契約けいやく解除かいじょしてメーカーの代理だいりてんになる事例じれい続出ぞくしゅつしたという。

フォードの凋落ちょうらくとGMの首位しゅい獲得かくとく[編集へんしゅう]

フォードしゃでヘンリー・フォードみずからの陣頭じんとう指揮しきにより、きゅうピッチで新車しんしゃ開発かいはつすすめられたが、新型しんがた試作しさくしゃ1号車ごうしゃがようやく完成かんせいしたのは1927ねん10がつ21にち(エンジンの完成かんせいはその前日ぜんじつ)で、その時点じてんでモデルTの生産せいさん中止ちゅうしからやく5かげつぎていた。その1かげつで130だい以上いじょう増加ぞうか試作しさくしゃ製作せいさくしテストするという強行きょうこうぐんすえ、1927ねん12月2にち全米ぜんべい注目ちゅうもくのもとにモデルTの後継こうけいしゃフォード・モデルA」が発表はっぴょうされた。それはモデルTにばいする40HP4気筒きとうエンジンと標準ひょうじゅん装備そうびのセルフスターター、一般いっぱんてき手動しゅどう3だん変速へんそく機械きかいしき4りんブレーキをそなえた、モデルT類似るいじだが大幅おおはば強化きょうかされたシャシーと、専業せんぎょうボディメーカーのブリッグスおよびマーレイのそうによるリンカーンの影響えいきょうつよいボディ(むろん、複数ふくすうぬりしょく選択せんたく可能かのう)をつ、当時とうじ大衆たいしゅうしゃとしていちきゅう水準すいじゅんたっした新型しんがたしゃであった。ってTTにわる商用しょうようシャーシについても、より商用しょうようけに大型おおがたじゅう積載せきさいとくした4だん変速へんそくの「モデルAA」があらたに開発かいはつされ、商用しょうようしゃ市場いちば維持いじと、エンジン共用きょうようによる量産りょうさん効果こうか確保かくほはかられた。

だが、肝心かんじん生産せいさん設備せつび新型しんがたしゃようえられ、モデルAの本格ほんかくてき量産りょうさんはじまったのはよく1928ねんはいってからであった。フォード工場こうじょうのあらゆる生産せいさん設備せつびは、それ以前いぜん生産せいさんされていたモデルT/TTのために、徹底てっていして最適さいてきされており、だい改装かいそうようしたからである。GMはこのフォードのモデルチェンジにようしたながすぎる間隙かんげき見過みすごさず、シボレーしゃ販売はんばい攻勢こうせいをかけた。それは他社たしゃ同様どうようで、ハドソン大衆たいしゅうしゃエセックス、新興しんこうクライスラーおくしたしんブランドの大衆たいしゅうしゃプリムスもこの時期じきおおいに伸長しんちょうした。アルフレッド・スローンは、この長期ちょうき操業そうぎょう停止ていしがフォードしゃの「異様いよう凋落ちょうらく」をまねいたとひょうしている。「モデルTをほうむった」1927ねん-28ねんにフォードしゃおちいった危機ききは、一般いっぱん企業きぎょうであれば倒産とうさんしていたような事態じたいであった。

発表はっぴょうされたフォード・モデルAそれ自体じたいは、堅牢けんろう実用じつようてき、かつ市場いちば競争きょうそうりょくのある大衆たいしゅうしゃで、後世こうせいからも当時とうじにおける名作めいさく評価ひょうかされる。GMのスローンも当時とうじ流行りゅうこう左右さゆうされない実用じつようしゃ、というヘンリー・フォードのポリシーを具現ぐげんした立派りっぱ小型車こがたしゃだとおもった」むね後年こうねん回想かいそうしているが、それはGMのさらなる反撃はんげきつながった。1928ねん発表はっぴょうされたシボレー1929ねんがた中級ちゅうきゅうしゃ同様どうよう直列ちょくれつ6気筒きとうエンジンを搭載とうさいした画期的かっきてきモデルで、4気筒きとう3.3L・40HPのフォード・モデルAをしのぐ性能せいのう(3.2L・46HP)を達成たっせいしながら前年ぜんねんの4気筒きとうがた同等どうとう価格かかくたい販売はんばいされ、GMは大衆たいしゅうしゃ市場いちば主導しゅどうけんつづにぎった。そして1929ねん以降いこうだい恐慌きょうこう時代じだいにおいては、GMが時宜じぎ生産せいさん調整ちょうせい早期そうきったことできょう対処たいしょできたのにたいし、フォードは生産せいさん調整ちょうせいとうるいする適切てきせつ利益りえき管理かんり手法しゅほうおこたったことによって、おおきな損失そんしつしょうじさせる結果けっかとなった。

ヘンリー・フォードのポリシーを、現実げんじつ妥協だきょうしつつもできるかぎ維持いじしようとしたモデルAは、実際じっさいにはGMが導入どうにゅうしていた年次ねんじ変更へんこう圧力あつりょく競争きょうそうじょう否応いやおうなく同調どうちょうせざるをず、1930ねんがたのビッグマイナーチェンジをても、1932ねんVがた8気筒きとうエンジンを導入どうにゅうした後継こうけいしゃ「モデルB」けい移行いこうするまでの4年間ねんかんしか生産せいさんできなかった。モデルT最盛さいせいのように「くるまをひたすら大量たいりょうに、廉価れんか供給きょうきゅうする」だけでは、自動車じどうしゃ会社かいしゃとく大衆たいしゅうしゃ量産りょうさんする自動車じどうしゃ会社かいしゃ)の経営けいえいりたなくなった現実げんじつが、冷徹れいてつしめされたのであった。

1920年代ねんだい-30年代ねんだい、このような推移すいいて、アメリカの(ということは、当時とうじにおいては同時どうじに「世界せかいの」)自動車じどうしゃ産業さんぎょうかいにおけるトップのは、フォードからGMへ移行いこうし、それは自動車じどうしゃ業界ぎょうかい固定こていしたパワーバランスとしてなが恒常こうじょうした。フォードしゃはモデルTとともおおきく発展はってんしたが、最後さいごにはそのモデルTによってつまずくことになったのである。マスプロダクションの極致きょくち実現じつげんしたフォードは、やがて大量たいりょう生産せいさん限界げんかいき、みずかまねいた時代じだい変化へんかじょうじたGMに、企業きぎょうとしての首位しゅいゆずらざるをなかった。その過程かていは、モデルTの20ねんわたなが生産せいさんから、如実にょじつにうかがいることができる。

メカニズム[編集へんしゅう]

モデルTのカットシャシー(制作せいさくは「切開せっかい自動車じどうしゃ」としょうしていた)。1917ねんしきみぎハンドル仕様しようきゅう 交通こうつう博物館はくぶつかんぞう。1920年代ねんだい-1930年代ねんだい東京とうきょう田無たなしまちげん 西東京にしとうきょう)にあった東京とうきょう自動車じどうしゃ学校がっこう教材きょうざいとしてもちいられ、1991ねん関係かんけいしゃから博物館はくぶつかん寄贈きぞうされた。現在げんざいトヨタ博物館はくぶつかん貸与たいよされ一般いっぱん公開こうかいされている
モデルTのぜん車軸しゃじくまわり。固定こていじくよこきリーフスプリングで支持しじ前輪ぜんりんブレーキはない
モデルTののち車軸しゃじくまわり。固定こていじくよこいたバネ支持しじぜんじく同様どうようどうギアはかさ歯車はぐるま使用しよう
モデルTTのどうギアケース部分ぶぶん。ウォームギア駆動くどうになっている
モデルTのステアリング。中央ちゅうおうがり、ステアリングにはスロットルレバーと点火てんか時期じきレバーが

モデルTは、1908ねん当時とうじにおいて必要ひつようとされる性能せいのう水準すいじゅん十分じゅうぶんたした自動車じどうしゃであり、大量たいりょう生産せいさん大衆たいしゅうユーザーによる実用じつようとを念頭ねんとういた、独創どくそうてき非常ひじょう完成かんせいたかいメカニズムをそなえていた。ただ、あまりになが生産せいさんされたことが、末期まっきにおけるぜん時代じだいとそれにともな衰退すいたいまねいたにぎない。

操縦そうじゅう容易よういで、あく必要ひつようとされる耐久たいきゅうせい踏破とうはせいたし、また基本きほんてき工具こうぐマニュアルだけをたよりに、素人しろうとでも相当そうとう部分ぶぶん修繕しゅうぜんできるように配慮はいりょされていた。モデルTは、電気でんき電話でんわとどかない辺地へんちまう人々ひとびとにも提供ていきょうされるものであり[注釈ちゅうしゃく 13]、トラブルがきても極力きょくりょくユーザー自身じしん修繕しゅうぜんできることが必要ひつようであったからである。

シャシー[編集へんしゅう]

1900年代ねんだい後半こうはんにはすで一般いっぱんしていた、鋼材こうざいによる梯子はしごがたフレームをベースとするレイアウト。直列ちょくれつ4気筒きとうエンジンをたてきにして、トルクチューブにおさめたプロペラシャフトかい駆動くどうする。前後ぜんごともよこきリーフスプリングで固定こてい車軸しゃじく支持しじするという構造こうぞう共々ともども強度きょうど考慮こうりょしたもので、初期しょき自動車じどうしゃとして手堅てがた設計せっけいである。トルクチューブ・ドライブの採用さいよう軽量けいりょうさくとは相反あいはんするものの、駆動くどうけい可動かどう部品ぶひん全体ぜんたい保護ほごし、常時じょうじ潤滑じゅんかつとどけさせることで、耐久たいきゅうせいたかめるメリットがあった。

フレーム自体じたい設計せっけいされた時代じだい反映はんえいし、ていゆか考慮こうりょしないストレートなもので、かなり腰高こしだかこう重心じゅうしんである。とはいえ、当時とうじあくたいするロード・クリアランス確保かくほめんからはかなっていた。

この構成こうせい自体じたいは、在来ざいらいモデルであるNがた踏襲とうしゅうしたものであったが、バナジウムはがねなどあたらしい材料ざいりょう採用さいようし、また圧延あつえん部材ぶざい駆使くしするなどして、全体ぜんたい軽量けいりょう強化きょうかされている。後年こうねん自動車じどうしゃくらべれば相当そうとう細身ほそみ鋼材こうざいもちいたシャシーであるが、その当初とうしょには軽量けいりょうなオープンボディのそう前提ぜんていとしており、定員ていいん最大さいだい5めい程度ていど荷重におもなら問題もんだいなかった。一方いっぽう、1トンみトラックとしての荷重かじゅう想定そうていしたモデルTTシャシーではスプリング共々ともども相応そうおう強化きょうかされている。

積載せきさい荷重かじゅう構造こうぞうてき限界げんかいえると、シャシーやスプリングよりさきこう車軸しゃじく破損はそんするような強度きょうど設計せっけいになっていた。車軸しゃじく破壊はかいなら、シャシー・スプリングの破損はそんことなって、再起さいき不能ふのう致命ちめいてき破損はそんではなく、後部こうぶげてレッカー牽引けんいん回送かいそうもでき、こう車軸しゃじく交換こうかんのみの迅速じんそく修理しゅうり可能かのうで、たくみな配慮はいりょである。この設計せっけい計算けいさんでなく、強度きょうどことなる車軸しゃじくなん種類しゅるい試作しさくして様々さまざま負荷ふかけることで破損はそん結果けっかみちびされたものであった。

レイアウトでは、従来じゅうらいのフォードしゃみぎハンドル仕様しようであったのを、モデルTからひだりハンドル標準ひょうじゅん仕様しようとしたことがおおきな変更へんこうてんである。初期しょき自動車じどうしゃ業界ぎょうかいではステアリング位置いち定見ていけんく、実際じっさい道路どうろ交通こうつう関係かんけいなく車体しゃたい外側そとがわのレバーを操作そうさするのに都合つごうがよいみぎハンドルがおおかったが、ヘンリー・フォードは右側みぎがわ通行つうこうのアメリカではひだりハンドルのほう操縦そうじゅうじょう見通みとおしから都合つごうがよいと判断はんだんしてこの変更へんこうおこなった。フォードの量産りょうさんによる普及ふきゅう手伝てつだって、以後いご自動車じどうしゃひだりハンドルはアメリカで一般いっぱんしていくことになる。なお、モデルTはイギリスに代表だいひょうされるみぎハンドル標準ひょうじゅん国々くにぐに輸出ゆしゅつすることを配慮はいりょして、みぎハンドル仕様しようへの設計せっけい変更へんこう可能かのう構造こうぞうであり、実際じっさいにイギリス工場こうじょう生産せいさんしゃ日本にっぽん工場こうじょうしゃなどはみぎハンドル仕様しよう製作せいさくされている。

サスペンションの変更へんこうてんとして、Nがたではこうじくたてきリーフスプリングであったのにたいし、前後ぜんごともスプリング点数てんすうらして簡略かんりゃくよこきリーフスプリングに変更へんこうされたことがげられる。

フォードしゃ以後いごよこきリーフスプリングの固定こていじく(フォードしゃでは「トランスバース・ダブル・カンチレバー・スプリング」としょうした)をもちいることになが固執こしつした。たてきリーフスプリングをもちいていた競合きょうごうメーカー各社かくしゃが、やがて前輪ぜんりん独立どくりつ懸架けんかをも続々ぞくぞく標準ひょうじゅんはじめた1930年代ねんだいぎても、フォードしゃでは量産りょうさん高級こうきゅうしゃである「リンカーン・ゼファー」や中級ちゅうきゅうしゃマーキュリー」をふく主力しゅりょく乗用じょうようモデルのほとんどが前後ぜんごともよこきリーフスプリング固定こていじくのままであった。頑丈がんじょうだが旧弊きゅうへいなこのサスペンションは、リンカーンけい一部いちぶさい高級こうきゅうモデルを例外れいがいとしてフォードしゃ基本きほん仕様しようでありつづけ、これがはいされて前輪ぜんりん独立どくりつ懸架けんか導入どうにゅうされたのはじつに1948ねんであった[1]

どう装置そうち(ディファレンシャル・ギア)の駆動くどうは、乗用車じょうようしゃようモデルTシャシーでは通常つうじょうかさ歯車はぐるま使用しようした。ノーマルなモデルTの最終さいしゅう減速げんそくは3.63:1だが、山地さんちけに若干じゃっかん低速ていそく設定せっていとした減速げんそく4.0:1のバージョンも用意よういされた。一方いっぽう、エンジンやトランスミッションを共用きょうようするトラックようTTシャシーは、最終さいしゅう減速げんそくおおきくすることで牽引けんいんりょく確保かくほせねばならないため、減速げんそくおおきくりやすいウォームギヤ使つかった。最終さいしゅう減速げんそく7.25:1を標準ひょうじゅんとしたが、やや高速こうそく軽量けいりょうけな減速げんそく5.17:1のバージョンも用意よういされた。

ホイールベースは通常つうじょうがたのモデルTシャシーがやく99インチ(2515mm)、モデルTTシャシーは積載せきさいせい考慮こうりょしてやく2フィートながい124インチ(3150mm)であった。タイヤは末期まっきがたの1925ねんからオプションのバルーンタイヤをのぞき、直径ちょっけい30インチ(762mm)のこうあつ空気くうきタイヤが標準ひょうじゅんもちいられた。モデルTシャシーは互換ごかんせい考慮こうりょし、前後ぜんごとも同一どういつサイズタイヤとしているが、モデルTTシャシーはこう荷重におも考慮こうりょし、こうにはふといタイヤを仕様しようとなっていた。

トレッドは、標準ひょうじゅんでは56インチ(1420mm)で、全米ぜんべい広域こういき使つかわれていた馬車ばしゃのトレッドにわせることで舗装ほそうわだちにうまくれる配慮はいりょされていた。ただし、南部なんぶ一部いちぶ地域ちいきでは馬車ばしゃによりひろいトレッドが使つかわれていたためわだちはばひろかったことから、そのような地域ちいきけた幅広はばひろの60インチ(1520mm)仕様しよう用意よういされた。

全長ぜんちょうはボディ仕様しようにより、ホイールベース+車輪しゃりんみち+αあるふぁで、おおむね3.3m-3.6m程度ていど(モデルTTでは5mじゃくまで)とまちまちであった。フロントバンパーのない1900年代ねんだい自動車じどうしゃおおくに共通きょうつうするディメンションで、フロントはぜん車軸しゃじくから前輪ぜんりん半径はんけいぶん前方ぜんぽうがそのまま先端せんたんであったが、後部こうぶはボディ構造こうぞう次第しだい相当そうとうにオーバーハングを延長えんちょうでき、バリエーションが多彩たさいだったからである。

ステアリング[編集へんしゅう]

モデルTのステアリングおよびハンドスロットルまわりの図解ずかい。フォードしゃによる1919ねん発行はっこうのマニュアルより

ステアリングは、シャシーからななめにげられたふと鋼管こうかんのステアリングコラムのみで支持しじされる。

特徴とくちょうとしては、普通ふつう自動車じどうしゃならぜん車軸しゃじく間近まぢかにステアリングの減速げんそくギアを配置はいちするのにたいし、モデルTではステアリングコラムのさい上部じょうぶ、ステアリングホイール直下ちょっか遊星ゆうせい歯車はぐるましき減速げんそく機構きこうそなえていたてんである。このため、普通ふつう自動車じどうしゃであればステアリングスポークはホイールにたいして平面へいめんか、基部きぶおくまっているところ、モデルTではぎゃく基部きぶがドライバーがわにわずかにし、4ほんのステアリングスポークは若干じゃっかんがっていた。かねてから遊星ゆうせい歯車はぐるまこのんでいたヘンリー・フォードらしいわった手法しゅほうで、にはあまりれいのない形態けいたいである[5]

ブレーキ[編集へんしゅう]

装備そうびされたブレーキこうのドラムブレーキと、変速へんそく一体化いったいかされたドラムしきのセンター・ブレーキである。メインはセンターブレーキのほうで、プロペラシャフト、こう車軸しゃじくかいしてこうへの制動せいどうりょくとして作用さようした。こうのドラムブレーキは、もっぱらパーキングブレーキである。いずれも最後さいごまで、ワイヤーやロッドをかいして作動さどうする単純たんじゅん機械きかいしきであった[1]

制動せいどう能力のうりょく当時とうじとしてもさほどすぐれていたわけではなかったが、モデルTの現役げんえき時代じだい現代げんだいより交通こうつうりょうはるかにすくなく、最高さいこう速度そくども40マイル/h程度ていどでもあったためじゅうふんようりた。

自動車じどうしゃ前輪ぜんりんブレーキが一般いっぱんしたのは1920年代ねんだい以降いこう安定あんていして機能きのうする油圧ゆあつブレーキがひろまったのは1920年代ねんだい後期こうき以降いこうであり、エンジンの吸気きゅうきあつ利用りようしたブレーキサーボ(増力ぞうりょく機構きこう)が大衆たいしゅうしゃひろまりはじめたのは1930年代ねんだい以降いこうのことである。モデルTはその生産せいさん期間きかんつうじて、前輪ぜんりんブレーキや油圧ゆあつブレーキなどの近代きんだいてき装備そうびたなかった。

エンジンと周辺しゅうへん機器きき[編集へんしゅう]

当時とうじのフォードしゃでは、車両しゃりょう搭載とうさいするエンジンについて「エンジン」とばず「パワープラント」としょうしていた。モデルTのエンジンはそのキャラクターの素朴そぼくさからすれば「動力どうりょく発生はっせい装置そうち」という呼称こしょう適切てきせつであったが、設計せっけい自体じたいは1908ねん時点じてんにおいてはすすんでいた。そのまま19年間ねんかんにわたり、ほとんど細部さいぶ改良かいりょう若干じゃっかん仕様しよう変更へんこうのみで、大幅おおはばなパワーアップもなく生産せいさん続行ぞっこうされた。

エンジンスペック[編集へんしゅう]

モデルTの4気筒きとうエンジンおよ遊星ゆうせい歯車はぐるま変速へんそくユニットの断面だんめん。フォードしゃによる1919ねん発行はっこうのマニュアルより
A Ford sidevalve engine in a Ford model T.
モデルTのサイドバルブ4気筒きとうエンジンを車両しゃりょう右側みぎがわめんの吸排気はいきべんがわから。ひく位置いちにアップドラフトがたのシングルキャブレターを配置はいち電装でんそうけい写真しゃしん左手ひだりてのダッシュボードない配線はいせん、エンジン前方ぜんぽうとなる右手みぎて下部かぶには1917ねんからオプションとなった電動でんどうセルフスターターもえる
モデルTのエンジンまわりのカットモデルを車両しゃりょう左側ひだりがわから。ダッシュボード後方こうほうには電装でんそう機器ききおさめたボックスがある

水冷すいれい直列ちょくれつ4気筒きとう3ベアリングしきサイドバルブ(Lヘッド)、ボア×ストロークが3.75×4インチ(95×101mm[5])のロングストロークで排気はいきりょう2896cc、公称こうしょう出力しゅつりょく20-24HP/1,400-1800rpmという性能せいのうであった[5]最大さいだいトルクは11.3kg-m/1,000rpmとして低速ていそくいきでのあつかいやすさを重視じゅうしし、長時間ちょうじかん運転うんてんにもえる実用じつようがたエンジンである。その基本きほん設計せっけいは、モデルNのストローク延長えんちょうがたともうべきものであったが、実際じっさいには完全かんぜん一新いっしんされていた。

当時とうじおおくの自動車じどうしゃメーカーでは、4気筒きとう・6気筒きとうエンジンは(フォードのモデルNもふくめ)鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつ未熟みじゅくのため2気筒きとう単位たんいでブロックを構成こうせいしており、ヘッドがブロックと一体いったいの「ノンデタッチャブルヘッド」だった。これにたいしモデルTのエンジンは、いちはやく4気筒きとう一体いったいのブロックを実現じつげんし、ヘッドも脱着だっちゃく可能かのうな「デタッチャブルヘッド」として、生産せいさんせい強度きょうど整備せいびせいめん有利ゆうり構造こうぞうとした。まさに当時とうじ最先端さいせんたん設計せっけいである。このために、フォードは4気筒きとう同時どうじボーリングするための専用せんよう工作こうさく機械きかい開発かいはつしている[5]一方いっぽうエンジンブロックとクランクケース、変速へんそく部分ぶぶんのケース半分はんぶん一体化いったいかし、エンジンと変速へんそくでオイルまわりを共用きょうようとして、頑丈がんじょうかつコンパクトに仕上しあげた。圧縮あっしゅくは3.98とこの時代じだい技術ぎじゅつ水準すいじゅんおうじてひくかったが、当時とうじていオクタン価おくたんかなガソリンに適合てきごうし、手動しゅどうクランクによるエンジン始動しどう容易よういになっていた。また本来ほんらいはガソリン燃料ねんりょう前提ぜんていとしていたが、ベンジン、アルコール、ケロシンを使用しようすることもそのまままたは簡易かんい改造かいぞう可能かのうであった。

通常つうじょうがたのモデルTはこのエンジンにシングルキャブレターを装備そうびして平坦へいたんさい高速度こうそくど40 - 45マイル/h(やく64 - 72km/h程度ていどたっし、ガソリン1ガロンたり25 - 30マイル(リッターたり10 - 12km程度ていど)の燃費ねんぴ達成たっせいした。牽引けんいんりょく重視じゅうし低速ていそくギア仕様しようのモデルTTは最高さいこう速度そくど25マイル/h(やく40km/h)未満みまんとどまった。キャブレターのメーカーはホーリーをはじめ、ゼニスやキングストンなど当時とうじ主要しゅようメーカーが起用きようされている。

エンジン周辺しゅうへん機器きき[編集へんしゅう]

点火てんか方式ほうしき永久えいきゅう磁石じしゃく利用りようマグネトーしきをメインとしている。始動しどうのみバッテリー電源でんげんでイグニッション・コイル経由けいゆ点火てんか回転かいてんしだしたらマグネトー作動さどうえた(製造せいぞう開始かいし当初とうしょはマグネトーのみで作動さどう、1915ねん電気でんきしきヘッドライト電源でんげん当初とうしょはマグネトーのみでまかなった)。マグネトーしき当時とうじにおいて作動さどう信頼しんらいせいたかいというメリットがあり、トーマス・エジソンもと電気でんき技術ぎじゅつしゃとして経験けいけんんだヘンリー・フォードらしく堅実けんじつ手法しゅほうである。このマグネトー発電はつでん出力しゅつりょくがわのフライホイールにコンパクトに一体化いったいかされていた[1]

エンジン始動しどうは、エンジンぜんはし固定こていされた手動しゅどうクランクレバーをまわしてった。チョークレバーもエンジン前方ぜんぽう設置せっちされており、右手みぎてでクランクレバー、左手ひだりてでチョークを操作そうさしつつスタートできるように配慮はいりょされている。

のち1917ねんからは電動でんどうしきセルフスターターがオプションで装備そうびされ、女性じょせいでもあつかいは容易よういになった。セルフスターターがデルコしゃによって開発かいはつされ、キャディラックに世界せかいはつ搭載とうさいされたのは1912ねんであり、フォードのセルフスターターは大衆たいしゅうしゃなかではいちはや採用さいようである。

エンジンの出力しゅつりょく回転かいてんすう調整ちょうせいは、ペダルではなく、ステアリング直下ちょっかのステアリングコラムみぎわきたスロットルレバーを手前てまえげてった。また当時とうじ自動車じどうしゃれいれず、点火てんかタイミングの調整ちょうせい[注釈ちゅうしゃく 14]可能かのうで、スロットルと反対はんたい左側ひだりがわには点火てんか時期じき調整ちょうせいレバーがいていた。これはスロットルとつねおな角度かくどげればほぼ適切てきせつ点火てんかタイミングになる設定せっていで、基本きほんてきしょうむずかしい操作そうさ不要ふようだった。しかもこれら2ほんのレバーは、ステアリングをにぎったままで指先ゆびさきばして操作そうさができたのである。

燃料ねんりょうはポンプなしの重力じゅうりょく供給きょうきゅうしきで、さい末期まっきのぞき、1930年代ねんだい以前いぜん自動車じどうしゃおおかったボンネットないタンク配置はいち重力じゅうりょく供給きょうきゅうでなく、フロントシートよこ配置はいちされたドラムがた燃料ねんりょうタンクから供給きょうきゅうされた(エンジンよこのアップドラフトキャブレターにして客室きゃくしつゆかめん位置いちたかいので重力じゅうりょく供給きょうきゅう可能かのうであった)。2座席ざせきのクーペとうではタンクを座席ざせき後部こうぶ搭載とうさいする方式ほうしきもちいられた。

この場合ばあい平常へいじょうはともかく、きゅうのぼざかではエンジン位置いち燃料ねんりょうタンクよりもうえになるので燃料ねんりょうとどかなくなる。そのような急坂きゅうざかけの対処たいしょほうとして「坂道さかみち後部こうぶうえにすればタンク位置いちたかくなる、だからリバースギアで後進こうしんすればよい」という、とんちのような手段しゅだん示唆しさされていた。モデルTのリバースギアが、前進ぜんしんようのローギアよりもさら低速ていそくりな変速へんそく設定せっていであることも、この奇策きさく一助いちじょであった[1]。1926ねんモデルでより安定あんていして燃料ねんりょう重力じゅうりょく供給きょうきゅうできるボンネットないタンク配置はいち移行いこうし、この構造こうぞうはそのまま後継こうけいのモデルAにがれている。

またラジエーター配管はいかんは、1908ねん発売はつばい当初とうしょの2,447だい冷却れいきゃく効率こうりつたかめるウォーターポンプ強制きょうせい循環じゅんかんであったが、そのはポンプがなく、エンジンないでの比熱ひねつ利用りようして自然しぜん循環じゅんかんさせるサーモ・サイフォンしき移行いこうした。サーモ・サイフォンは1900年代ねんだい当時とうじはポンプの信頼しんらいせいなんがあったため、むしろ自動車じどうしゃ業界ぎょうかいでは一般いっぱんてき手法しゅほうであったが、ウォーターポンプ装備そうびひろまった1920年代ねんだいになってもモデルTでは、コストめんと、よほど負荷ふかでないかぎ自然しぜん循環じゅんかん冷却れいきゃくったことから、最後さいごまでサーモ・サイフォンを維持いじした。フォードでウォーターポンプが再度さいど導入どうにゅうされたのは後継こうけいのモデルAに移行いこうしてからであった。

変速へんそく[編集へんしゅう]

モデルTの変速へんそくまわりのカットモデル。全体ぜんたい一体いったいのシステムになっている様子ようす理解りかいできる

モデルTにおいてもっともユニークで独創どくそうてき特徴とくちょうが、ペダル操作そうさ変速へんそくされる遊星ゆうせい歯車はぐるましき前進ぜんしん2だん後進こうしん1だん変速へんそくである。この変速へんそくはん自動じどうしきともうべきもので、操作そうさがごく簡単かんたんであり、はじめて自動車じどうしゃ運転うんてんするような人々ひとびとにもあつかいやすく、それゆえにモデルTの普及ふきゅう非常ひじょうたすけることになったともわれている[5]

操作そうさ非常ひじょう簡易かんいであったため、モデルTが生産せいさん中止ちゅうしとなった1927ねんには、しゃ一般いっぱんてきな3だん・4だん手動しゅどう変速へんそく足踏あしぶみクラッチ操作そうさする自信じしんのないユーザーが、あわてて在庫ざいこのモデルTを購入こうにゅうした事例じれいがあったともつたえられる。

フォードの遊星ゆうせい歯車はぐるま変速へんそく[編集へんしゅう]

1900年代ねんだい当時とうじ自動車じどうしゃでは、手動しゅどう変速へんそくによる変速へんそくという作業さぎょういち大事だいじであった。おもくつなぎかたむずかしいコーンクラッチと、やはり操作そうさおもいうえに同調どうちょう装置そうち皆無かいむ原始げんしてき選択せんたくこすどうしきギアボックスとのわせでは、変速へんそく操作そうさひとつにも難渋なんじゅういられた。シンクロメッシュ同調どうちょう装置そうち変速へんそく出現しゅつげんは1930年代ねんだい自動じどう変速へんそく一般いっぱんは1950年代ねんだい以降いこうであり、20世紀せいき初頭しょとうにはダブルクラッチもちいての自動車じどうしゃ運転うんてん必須ひっすであった。それは非常ひじょう熟練じゅくれんようし、ひいては自動車じどうしゃ普及ふきゅうさせるさまたげになった。

コーン・クラッチ(円錐えんすいクラッチ
クラッチばん形状けいじょううす円錐えんすいじょうとした方式ほうしきどういち直径ちょっけい円盤えんばんがたクラッチにして摩擦まさつ面積めんせき拡大かくだいねらったもの。クラッチ板材いたざいしつ未熟みじゅく時代じだい摩擦まさつりょく確保かくほ念頭ねんとうもちいられたが、唐突とうとつつながりでいわゆるはんクラッチ操作そうさむずかしく、通常つうじょう円盤えんばんがたクラッチばん材質ざいしつ向上こうじょうなどによってってわられた。

初期しょきのフォードは、変速へんそくについて独自どくじのポリシーをっており、モデルT以前いぜん市販しはんモデルはすべ遊星ゆうせい歯車はぐるまによる2段式だんしきであった[注釈ちゅうしゃく 15]。これは遊星ゆうせい歯車はぐるまユニット外側そとがわのドラムにブレーキをけるだけでギアのえができ、操作そうさ容易よういだった。

モデルTの3ペダル変速へんそく[編集へんしゅう]

モデルTでは、この遊星ゆうせい歯車はぐるま変速へんそくさら改良かいりょうして搭載とうさいしている。従来じゅうらいのフォードでは、2つのペダルと2くみ手動しゅどうレバーで発進はっしん変速へんそく操作そうさおこなっており、モデルTも1909ねん途中とちゅうまで製造せいぞうされた初期しょきの1,000だいはこの2ペダルしきだったが、すぐにレバー1くみ(ハイ・ギア操作そうさ)をペダルにえた3ペダル1レバーのわせとなり、以後いご最後さいごまでこれを踏襲とうしゅうした。エンジンと変速へんそくはペダルのセットまでふくめた一体いったいのユニットとして構成こうせいされ、生産せいさんせいめんでも有利ゆうりだった。

モデルTの変速へんそくまわりの設計せっけいは、後世こうせい視点してんからも注目ちゅうもくあたいする、非常ひじょうにスマートでコンパクトなものである。

エンジン出力しゅつりょくじく直後ちょくごマグネトーとフライホイールがおさまり、さらにこのフライホイール内側うちがわにそのまま遊星ゆうせい歯車はぐるまのギアセット前半ぜんはんぶんおさまっている。直後ちょくご遊星ゆうせい歯車はぐるま制御せいぎょするためのリバースドラムとスロースピードドラム(ハイギアは直結ちょっけつなのでドラム不要ふよう)がつらなり、さらにその直後ちょくご常用じょうようブレーキようのブレーキドラムがつらなる。

スロースピードドラムとブレーキドラムのあいだには、内側うちがわ内蔵ないぞうされるかたち大小だいしょう25まいのディスクで構成こうせいされるいたクラッチがおさまっている。クラッチはブレーキドラム直後ちょくごのスプリングから制御せいぎょされる。つまりモデルTの場合ばあい当時とうじ一般いっぱん自動車じどうしゃにおける「エンジン→クラッチ→選択せんたくすりどう変速へんそく」というレイアウトではなく、「エンジン→遊星ゆうせい歯車はぐるま変速へんそくいたクラッチ」というレイアウトをもちいていたのであった。

ギアリングは、ローギアやく3、ハイギア直結ちょっけつ、リバースギアやく4であった[1]

操作そうさほう[編集へんしゅう]

1923ねんがたモデルTの運転うんてんせき

モデルTの運転うんてん方法ほうほうは、自動車じどうしゃとは相当そうとうことなっていた。しかしその操作そうさ初心者しょしんしゃでも手順てじゅんだけおぼえれば容易よういなもので、どう時期じきしゃのように非常ひじょう熟練じゅくれんようするということがなかった。ゆえに日本にっぽんでは大正たいしょう時代じだい通常つうじょう自動車じどうしゃよう免許めんきょ甲種こうしゅ運転うんてん免許めんきょ」とべつに“オートバイおよびTがたフォード専用せんよう免許めんきょ”とでもいうべき簡略かんりゃくな「乙種おつしゅ運転うんてん免許めんきょ」がもうけられていたほどで、現代げんだい日本にっぽんにおけるオートマチックしゃ限定げんてい免許めんきょおもわせ興味深きょうみぶかいものがある。

ひだりハンドル配置はいち運転うんてんせき着座ちゃくざすると、スロットルレバーおよび点火てんか時期じき調整ちょうせいレバーをそなえたステアリングが正面しょうめんに、足下あしもとにはペダルが3つならび(みぎからブレーキペダル、リバースペダル、ハイ・スロースピードえペダル)、足下あしもと左側ひだりがわゆかめんからは手前てまえいてこう作動さどうさせるハンド・ブレーキのレバーがっている。走行そうこうちゅう常用じょうようブレーキは右側みぎがわペダルで作動さどうするセンターブレーキである[5]。スロットルがペダルしきでなく手動しゅどうであることに留意りゅういする必要ひつようがある。

停車ていしゃちゅう、ハンド・ブレーキをけておけばクラッチも連動れんどうしてれた状態じょうたいになる。したがってこの状態じょうたいからなら安全あんぜんにエンジンを始動しどうできる。

始動しどう発進はっしん加速かそく減速げんそく停止ていし[編集へんしゅう]

  1. エンジン始動しどう スロットル点火てんか時期じきりょうレバーを半分はんぶん程度ていどずつげ、チョーク操作そうさのうえ、手動しゅどうクランク操作そうさまたはセルフスターターでエンジンを始動しどうさせる。
  2. 発進はっしん 左側ひだりがわペダルを半分はんぶんんで、クラッチを切断せつだんした状態じょうたいにする。そしてハンドブレーキをゆるめ、スロットルと点火てんか時期じきレバーをさらげつつ、左側ひだりがわペダルをいちはいむと、クラッチがつながってローギアにはいり、くるまはしす。
  3. 加速かそく巡航じゅんこう ある程度ていど加速かそくしたら、左側ひだりがわペダルからあしはなすことでペダルがもどり、自動的じどうてきにハイギアにわる。以後いご速度そくど調節ちょうせつは、スロットルと点火てんか時期じきりょうレバーをおな角度かくど適宜てきぎうごかすことでおこなえる。エンジンは低速ていそく重視じゅうし設定せっていであり、低速ていそくいきから負荷ふかをかけてもあつかいやすかったという。
  4. 減速げんそく 右側みぎがわペダルでセンターブレーキが作動さどう左側ひだりがわペダルをめばローギアにはいってエンジンブレーキがきく。
  5. 停止ていし 減速げんそく左側ひだりがわペダルをはん位置いちもどしてクラッチをる。ハンドブレーキの操作そうさで、クラッチをった状態じょうたい維持いじしながら停止ていしさせることができる。
  • 後退こうたいには、ハンドブレーキでの停止ていしちゅうに、前進ぜんしんおな手順てじゅん中央ちゅうおうペダルとハンドブレーキを操作そうさすればよい[1]

外観がいかん[編集へんしゅう]

たかいシャシーじょうに、フェンダー、ステップボードを独立どくりつして配置はいちし、ボディ腰部ようぶしぼまれた、典型てんけいてきなクラシックスタイルである。前方ぜんぽう前輪ぜんりんし、ラジエーター直下ちょっかぜん車軸しゃじく位置いちする古典こてんてきレイアウトであり、リアオーバーハングはほとんどなく、5がた場合ばあい後部こうぶ座席ざせきこう車軸しゃじく直上ちょくじょう位置いちする。独立どくりつした後部こうぶトランクが乗用車じょうようしゃもうけられるのは1930年代ねんだい以降いこうで、一般いっぱんてきな5のモデルTにトランクというものはない。

モデルTの写真しゃしんとしてよくげられるのは、真鍮しんちゅうせい大袈裟おおげさアセチレンしきヘッドライトと、光沢こうたくがあって角張かくばったアッパータンクをそなえる真鍮しんちゅうラジエーターの正面しょうめんおおきく「Ford」のロゴをれ、あかなどの派手はでいろられた、いかにも1900年代ねんだいのクラシックカーらしい容姿ようしのツーリングやロードスターである。これは1908ねんから1911ねん途中とちゅうまでころ初期しょきモデルであり、実際じっさいなが作業さぎょう大量たいりょう生産せいさんされるようになってからのモデルTは、電気でんきしきヘッドライトに地味じみそうくろりという、若干じゃっかん近代きんだいされた外観がいかんになっていた。その外観がいかん変化へんかいちじるしく、自動車じどうしゃくわしくない人々ひとびとがモデルTの初期しょきがた最終さいしゅうがた見比みくらべても、基本きほん設計せっけいおなじくする自動車じどうしゃ気付きづくのはおそらくむずかしいとおもわれる。

製造せいぞう期間きかん長期ちょうきわたり、その用途ようと様々さまざまであっただけに、多彩たさいなボディスタイルが展開てんかいされた。

ボディ[編集へんしゅう]

1921ねんしきモデルTセンタードア・セダン。中央ちゅうおうドアで前後ぜんごせき出入でいりを共用きょうようし、コストダウンをはかったクローズドボディ。ラジエータにいたるまでのそうくろりは後期こうきがたモデルTの典型てんけいてき容姿ようしえる

5座席ざせき側面そくめんまどそなえず、たたしきほろそなえた「ツーリングがたのボディが、生産せいさん期間きかん全期ぜんきつうじてモデルTの主流しゅりゅうボディだった。1900年代ねんだい自動車じどうしゃはまだオープンボディが一般いっぱんてきで、モデルTもそのれいならったにぎない。初期しょきにはドアを装備そうびしたのはこうせきのみで、ぜんせきはドアしだったが、1912ねんごろからはぜんせきもドアづけとなった。オープンタイプではに「クーペレット」「ラナバウト」などの2座席ざせきモデルがあった。「ラナバウト」は安価あんかな2座席ざせきオープンモデルでもっともベーシックなグレードである。「クーペレット」はフォードTがたでのみ使つかわれた2座席ざせきカブリオレ名称めいしょうである。

ツーリングのウインドシールド[注釈ちゅうしゃく 16]構造こうぞう上下じょうげ2分割ぶんかつしきで、ひくくするたたしきであったが、末期まっきがたうえまど開閉かいへいして通風つうふうする構造こうぞうとなり、シールドのるカウルひくくするとともに、垂直すいちょくっていたシールドを、競合きょうごうしゃのようにわずかに後方こうほうかたむけてモダンにしている。

屋根やね側面そくめんガラスをそなえた「クローズド・ボディ」は、1910年代ねんだい中期ちゅうき以降いこうロードスターの発展はってんがたとして2人ふたりりのクーペボディがるようになり、相当そうとう台数だいすうった。またフォード独特どくとくこころみに、廉価れんかセダンボディの供給きょうきゅうねらって、側面そくめん中央ちゅうおう前後ぜんごせき共用きょうようする「センタードア」を配置はいちした5セダンがあった。若干じゃっかん製造せいぞうされたユニークなれいでは、リムジンふうこうせきのみ完全かんぜんクローズドボディ、運転うんてんせき側面そくめんオープンとしたタクシーけの「タウンカー」がたもあった。ウインドシールドは上下じょうげ2分割ぶんかつで、上段じょうだん前方ぜんぽうひらいて換気かんきできる。

1923ねん最後さいごのマイナーチェンジで、4ドアと2ドアの通常つうじょうがたセダンが追加ついかされた。ぜんドアはぜんヒンジであるが、4ドアしゃこうドアがうしろヒンジになり、いわゆる「観音開かんのんびら配置はいちである。こうドア直後ちょくごにもまどもうけた6ライト・セダンであった。重量じゅうりょうがかさみ、走行そうこう性能せいのうそこなわれた。

上記じょうき以外いがいにもフォード社内しゃない社外しゃがいわず種種しゅじゅのニーズによって多彩たさいなボディそうおこなわれた。

日本にっぽんでは、1920年代ねんだいのフォード日本にっぽん法人ほうじん進出しんしゅつ以前いぜんから、とくにタクシー業界ぎょうかいへの大量たいりょう販売はんばい重視じゅうしされた。乗用車じょうようしゃについては完成かんせいしゃ供給きょうきゅうされたが、日本にっぽん運輸うんゆ業界ぎょうかいでは安全あんぜんせいよりも輸送ゆそうりょく重要じゅうようされたため、ボディなしの「シャシーモデル」として出荷しゅっかされ、はこがた車体しゃたい別途べっと日本にっぽん国内こくない車体しゃたい業者ぎょうしゃによりそうされることもおおかった。ことにバス仕様しようやトラック仕様しようとされたコマーシャルシャシーの場合ばあいは、大量たいりょう人員じんいん輸送ゆそう車両しゃりょう安価あんか仕上しあげることが優先ゆうせんされ、運転うんてんせき付近ふきんから車両しゃりょう後部こうぶシャシー後方こうほうをはるかにけるよりながいちめんゆか不完全ふかんぜんなアウトリガ状態じょうたいつくりつけて、そのうえ車体しゃたいせる強引ごういん事例じれいられた。これはフォードTTベースで製作せいさくされたまどか太郎たろうバスでも同様どうようであった。

ボンネット、フェンダーとう[編集へんしゅう]

ボンネットとボディのあいだ整形せいけいは、初期しょきにはおこなわれなかった。角張かくばったボンネットがフラットなダッシュボードとじかせっした形態けいたいで、フェンダーもまえこうじょう水平すいへい途切とぎれており、全体ぜんたいたけほね形態けいたいだった。

その、1914ねんごろからはボンネットとダッシュボードのあいだ曲面きょくめんのカウルで整形せいけいされ、フェンダー前後ぜんこうはし若干じゃっかんび、よりやわらかいカーブをった形態けいたいとなった。

1917ねん以降いこう、ラジエーターにわせたボンネット上部じょうぶ曲面きょくめんとラジエーターのくろりで、外観がいかんはややモダンだが地味じみよそおいとなった。

1923ねん以降いこう末期まっきがたは、ラジエーターがたかくなったぶんボンネットもたかくなり、カウル部分ぶぶん整形せいけいもより洗練せんれんされた。カウル上面うわつらにはベンチレーターももうけられている。末期まっきのツーリングモデルはカウルたかさをおさえてフロントウインドシールドをひろげたため、従来じゅうらいモデルTでつよかった腰高こしだか印象いんしょう相当そうとうやわらげられ、どう時代じだい他社たしゃ新型しんがたしゃちかいスタイルとなっている。1926ねん以降いこう最終さいしゅうには、オプションでフロントバンパーも用意よういされた。

ラジエーター[編集へんしゅう]

生産せいさん期間きかんちゅういく変更へんこうけた。前期ぜんきがた古風こふうなデザインで塗装とそう真鍮しんちゅう後期こうきがたはややモダナイズされたデザインで(おおくはくろりされた)プレススチールせいであった。おおまかにはつぎとおりの変化へんかである[1]

  1. 1908ねん - 1912ねん 初期しょきがたラジエーターは、モデルNの形態けいたいいだ、横長よこなが真鍮しんちゅうせいである。始動しどうクランクよりうえ配置はいちされた。アッパータンクには「Ford」のかざ文字もじがプレスされ、また1911ねん途中とちゅうまではラジエーターコア中央ちゅうおうにも「Ford」のロゴがられていた。かくには曲線きょくせんいている。
  2. 1912ねん - 1917ねん 従来じゅうらいがた寸法すんぽうはほぼおなじである。材質ざいしつ真鍮しんちゅう踏襲とうしゅうされたが、アッパータンク分離ぶんり構造こうぞうとなり、「Ford」の文字もじ会社かいしゃ正式せいしきロゴとおな書体しょたい修正しゅうせいされている。全体ぜんたい角張かくばった。
  3. 1917ねん - 1923ねん 材質ざいしつをスチールに変更へんこう、プレス加工かこう生産せいさんせいたかめるとともに、ラジエーターもくろりとしてコストダウンした(このタイプのラジエーターは、それ以前いぜんから定置ていち動力どうりょくユニットけには使つかわれていた)。若干じゃっかんまるみをび、容量ようりょう従来じゅうらいの2ガロン(やく7.5リッター)から3ガロン(やく11リッターきょう)に増大ぞうだいした。
  4. 1923ねん - 1927ねん やや縦長たてながのモダンな形態けいたいとなり、下部かぶで2ピースに分割ぶんかつする形態けいたいとなった。下部かぶには始動しどうクランクぼうとおあなけられた。やはりくろりが標準ひょうじゅんだったが、末期まっきには競合きょうごうしゃ対策たいさくのオプションでクロームメッキないし銀色ぎんいろ塗装とそうけたれいもあった。

ヘッドライト[編集へんしゅう]

初期しょきにはアセチレンまたは石油せきゆランプがもちいられたが、1913ねんごろからオプションで電気でんきしきヘッドライトが装備そうびされ、1915、6ねん以降いこう電気でんきヘッドライトが標準ひょうじゅんした。外見がいけんてき区別くべつ容易よういである。

影響えいきょう[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんえいふつぐんがわ使用しようされた1916ねんしきモデルTTベースの野戦やせん救急きゅうきゅうしゃみぎハンドル仕様しようからイギリス工場こうじょう生産せいさんしゃ、さらに、こうじくどう装置そうちがウォームギアのためモデルTTシャシーと判断はんだんできる。モデルTは欧州おうしゅう戦線せんせんでの軍用ぐんよう車両しゃりょうとしても広範こうはん利用りようされた

モデルTの量産りょうさんは、自動車じどうしゃのマスプロダクションの先駆さきがけであり、アメリカ国内こくない競合きょうごう各社かくしゃや、シトロエンフィアットオペルなどヨーロッパの多数たすうのメーカーが、フォードの手法しゅほうならって大衆たいしゅうしゃ量産りょうさん邁進まいしんすることになった。「なが作業さぎょう方式ほうしき」に代表だいひょうされるシステマティックに構築こうちくされた量産りょうさん技術ぎじゅつは、自動車じどうしゃのみならず、あらゆる工業こうぎょう製品せいひん大量たいりょう生産せいさんにおける規範きはん手法しゅほうとなり、かつて熟練工じゅくれんこう技術ぎじゅつおもんじられていた労働ろうどう市場いちば形態けいたいにも、はかれない影響えいきょうあたえた。

またアメリカ国内こくないにおけるモータリゼーションの起爆きばくざいとなったことで、アメリカというくに経済けいざい社会しゃかいシステムにいちじるしい影響えいきょうおよぼした。鉄道てつどうもう馬車ばしゃによって形成けいせいされていたアメリカの交通こうつうあたらしいベクトルをあたえ、道路どうろ建設けんせつをはじめとするインフラ整備せいびうなが役割やくわりたし、自動車じどうしゃ修理しゅうりぎょうやガソリンスタンド、ドライブ・イン、中古ちゅうこしゃ市場いちば、アフターパーツマーケットなどのあらたなビジネスをはぐくんだ。都会とかいから未開みかいいたるまで、ほとんどのアメリカじん日常にちじょう生活せいかつ自動車じどうしゃによってささえられることになった。

品質ひんしつ安定あんていした実用じつようてき自動車じどうしゃてい価格かかく供給きょうきゅうされたことは、アメリカ以外いがい国々くにぐににも影響えいきょうおよぼし、モデルTは世界せかい各国かっこく官民かんみんわずひろもちいられることになった。1910年代ねんだい - 1920年代ねんだいにかけ、自動車じどうしゃ市場いちばのシェアをフォード・モデルTに席巻せっけんされたくにすくなくない。

日本にっぽんへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

モデルTTシャシーをベースに製作せいさくされた「まどか太郎たろうバス」。きゅう交通こうつう博物館はくぶつかんぞう
同車どうしゃ正面しょうめんきわめてくるまはばせま

1909ねん製薬せいやく会社かいしゃ三共さんきょう合資ごうし会社かいしゃがモデルTの正式せいしき輸入ゆにゅう開始かいししたが、自動車じどうしゃ必要ひつようなアフターサービス体制たいせいととのっておらずすぐ断念だんねん。1910ねん12月から東京とうきょうの「まんべんしゃ」が分割払ぶんかつばらいでのTがたロードスターやく販売はんばい受付うけつけ開始かいししたが、これも上手うまかなかった模様もようである。結局けっきょく輸入ゆにゅう代理だいりてん権限けんげんは1911ねん東京とうきょうにあった外資がいしけい商社しょうしゃのセール・フレーザー株式会社かぶしきがいしゃ(「セール・フレーザー商会しょうかい」とも)にうつり、だいいち大戦たいせんまでは同社どうしゃがフォード(およびフォードしゃ傍系ぼうけい製品せいひんであるフォードソン・トラクター)の日本にっぽんそう代理だいりてんとなった[8]

日本にっぽんはつのタクシーは1912ねん東京とうきょう運行うんこうされたモデルTであり、その運営うんえい会社かいしゃ「タクシー自働じどうしゃ株式会社かぶしきがいしゃ」は発足ほっそく、セール・フレーザーから55だいものモデルTを購入こうにゅうしている。そのも1920年代ねんだいまで日本にっぽんにおける自動車じどうしゃ主流しゅりゅうでありつづけた。「県内けんないはつ自動車じどうしゃ」がモデルTであった地域ちいきられる。道府県どうふけんごとに自動車じどうしゃ免許めんきょ制度せいどがまちまちだった時代じだいには、運転うんてん容易たやすさからしゃとはべつに「フォード専用せんよう」の免許めんきょもうけていたケースもられたほどで、のちには「乙種おつしゅ免許めんきょ」として制定せいていされた(1919ねん内務省ないむしょう省令しょうれい自動車じどうしゃ取締とりしまりれい」で一般いっぱん自動車じどうしゃよう甲種こうしゅ免許めんきょとはべつに、オートバイオートさんりん、Tがたフォードとう運転うんてんみとめる免許めんきょとして制定せいてい)。

1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいによって東京とうきょう市内しない路面ろめん電車でんしゃあみ破壊はかいされたさいには、路面ろめん電車でんしゃ運行うんこうしていた東京とうきょう電気でんききょくがフォードTTシャシーに簡易かんいボディをせた通称つうしょうまどか太郎たろうバス急造きゅうぞうはやくも同年どうねんちゅう運行うんこう開始かいしされて、市街地しがいち復興ふっこう輸送ゆそうになった。1000だい発注はっちゅうたいし、フォードが即応そくおうできたのは800だいとどまったが、それでも緊急きんきゅう輸送ゆそう手段しゅだんとして多大ただい功績こうせきのこした。これほど膨大ぼうだいりょうのオーダーに即座そくざおうじられる自動車じどうしゃメーカーは、当時とうじ世界せかいでフォード1しゃしかなく、大量たいりょう生産せいさん威力いりょくがうかがわれる。

東京とうきょう発注はっちゅう商機しょうきをみたフォードは、1925ねん2がつはやくも横浜よこはま日本にっぽん法人ほうじん日本にっぽんフォード自動車じどうしゃ株式会社かぶしきがいしゃ」を設立せつりつしてセール・フレーザーとの日本にっぽんそう代理だいりてん契約けいやく解消かいしょう以後いご戦前せんぜんとおして日本にっぽんフォードが日本にっぽん国内こくない各地かくち代理だいりてんについて契約けいやく管理かんり統括とうかつしていく。この時点じてん日本にっぽん全国ぜんこくに2まん6,000だいあまりしかなかった4りん自動車じどうしゃのうちフォードしゃのシェアは、乗用車じょうようしゃで2のビュイック(1,938だい)の4ばい以上いじょうとなる8,141だい・44%、貨物かもつしゃいたっては2のリパブリック(225だい)その諸々もろもろはるかにはなす4,750だい・60%という、圧倒的あっとうてきなものであった[9]製造せいぞう年代ねんだいから、そのほとんどがモデルT・TTということになる。

同年どうねんには横浜よこはま組立くみたて工場こうじょう設立せつりつし、アメリカで生産せいさんされた部品ぶひん輸入ゆにゅうしててるノックダウン生産せいさん開始かいしされ、モデルT・TTの完成かんせいしゃおよびシャシーが日本にっぽん市場いちば大量たいりょう供給きょうきゅうされた。2ねんの1927ねんにはフォードをって大阪おおさか組立くみたて工場こうじょう設立せつりつしたGMがシボレーのノックダウン生産せいさんはじめている。

モデルTとシボレーが廉価れんか供給きょうきゅうされたことで、タクシーをおもとした当時とうじ日本にっぽん自動車じどうしゃ市場いちばは、一時いちじほとんどフォードとGMによって席巻せっけんされた。

モデルT自体じたい発展はってん応用おうよう[編集へんしゅう]

モデルTは廉価れんかあつか容易ようい特徴とくちょうわれ、こうまわりを改造かいぞうおこりこうようすきけるするなどして農耕のうこう作業さぎょうよう改造かいぞうされた事例じれい多数たすう存在そんざいする。このたね簡易かんいトラクター用途ようとは、1910年代ねんだい後期こうきにフォードソン・トラクターおよ競合きょうごうフォロワーの本格ほんかくてき内燃ないねん機関きかんトラクターがあらわれたことからいち下火したびになったが、その1920年代ねんだい後期こうき以降いこうきょうにはアメリカの中古ちゅうこしゃ市場いちば中古ちゅうこモデルTが廉価れんか出回でまわったことからふたた流行りゅうこうし、しばらくさかんに使つかわれた。

モデルTの中古ちゅうこパワーユニットは廉価れんかであったことから、だい世界せかい大戦たいせん以前いぜんには、定置ていち動力どうりょく消防しょうぼうポンプよう小型こがた船舶せんぱく小型こがた鉄道てつどう車両しゃりょうこのんで転用てんようされた歴史れきしがある。1920年代ねんだいには、中古ちゅうこのモデルTからはずしたパワーユニットをオーバーホールして、アメリカから輸出ゆしゅつするビジネスすらあったという。構造こうぞう簡単かんたんなうえ、補修ほしゅうパーツも豊富ほうふであり、軽便けいべん用途ようとには最適さいてきのエンジンであった。

特異とくい事例じれいとしては、アマチュアの自作じさく飛行機ひこうき動力どうりょくにモデルTエンジンをもちいたものがある。アメリカのアマチュア飛行機ひこうき製作せいさくしゃバーナード・ピーテンポールが1933ねん製作せいさくした1人ひとり単葉たんようピーテンポール・スカイスカウトはその実例じつれいひとつで、ピーテンポールの処女しょじょさくとなった1929ねんのエアキャンパーがフォード・モデルAエンジンをんでいたところ、当時とうじ市場いちば中古ちゅうこおお出回でまわっているモデルTエンジンけの機体きたいつくるべきと技術ぎじゅつ雑誌ざっし編集へんしゅうしゃからかれたことによる開発かいはつという。スカイスカウトは地上ちじょうはしるモデルTよりはやい55マイル/hで巡航じゅんこうでき、複数ふくすう現存げんそんする。

また1910年代ねんだい以降いこう、モデルTけの4りん駆動くどうキットやSOHCDOHC交換こうかんようヘッドなどがアフターパーツとしてつくられるようになり、とく交換こうかんようヘッドはアマチュアレースでのチューニングにこのんで使つかわれた。そして1930年代ねんだい以降いこう興隆こうりゅうしてきた、「ホットロッド」とばれる過激かげき改造かいぞうしゃ趣味しゅみにおいても、中古ちゅうこのモデルTがおおくベースにもちいられた(モデルTのシャシーに強力きょうりょくV8エンジンをなどの無茶むちゃ改造かいぞうさかんにおこなわれた)。

ル・マン24あいだレース[編集へんしゅう]

ブガッティ2だいならぶモンティエ=オーリオぐみのモンティエ・スペシャル19号車ごうしゃ右側みぎがわ

ル・マン24あいだレース1923ねんだい1かいに、フランスでフォードしゃディーラーをいとなんでいたシャルル・モンティエと義弟ぎていアルベール・オーリオがモデルTを改造かいぞうしたモンティエ・スペシャルで出場しゅつじょうして完走かんそうした。成績せいせき完走かんそう30だいちゅう97しゅうで14であった(平均へいきん69km/h以上いじょう優勝ゆうしょうしたシュナール・エ・ワルケルのラップは128しゅうであった)。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

  • ロンドン指令しれいX - 主人公しゅじんこうスタンレー神父しんぷ愛車あいしゃ。ミニマイザーで1/3サイズになったり、ゆめなかそらんだりした。1917ねんせい車体しゃたいしょく黄色おうしょく
  • レッド・デッド・リデンプション - 一部いちぶミッションで登場とうじょうする。連邦れんぽう捜査そうさかん使用しようしている。プレイヤーは運転うんてんできない。
  • Mafia: The City of Lost Heaven - Ford Model Tをモデルとする車両しゃりょう登場とうじょうする。厳密げんみつなシミュレーションではないが、実車じっしゃ特性とくせいのいくつかをしており、運転うんてん可能かのう
  • だんのアリア - ひとしんつながるという金属きんぞくいろきん(イロカネ)」のうち、ネバダ砂漠さばくのエリア51には瑠瑠しょくきん(ルルイロカネ)がTがたフォードのかたちにされ秘匿ひとくされている。
  • フラバー うっかり博士はかせだい発明はつめい

- 主人公しゅじんこうブレイナード教授きょうじゅ所有しょゆうしゃ発明はつめいひんフラバーをそらぶ。確認かくにん飛行ひこう物体ぶったい誤認ごにんされべい空軍くうぐんスクランブルした。

  • グランツーリスモ4 - 非売品ひばいひん。スーパーライセンスのオールゴールドクリアでのみ獲得かくとくできる。
  • Mafia Driver Omerta - Android Game.
  • かあさんは28ねんがた - んだ母親ははおやがフォード・モデルT(げきちゅうでは架空かくうブランドめい)に憑依ひょういした設定せっていの、アメリカのシチュエーション・コメディドラマ。
  • のりものまん-エリザベスが登場とうじょうする。こえ野沢のざわ雅子まさこ車体しゃたいしょくくろ
  • ゴールデンカムイ - アメリカじん牧場ぼくじょう経営けいえいしゃのエディー・ダンが所持しょじしている。ダンが「友人ゆうじんのフォードくん」からもらった試作しさくひんという設定せってい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 一部いちぶに3そく記載きさいしている文献ぶんけんられるが、フォードしゃ自身じしんがローギアよりも低速ていそくギアのリバースギアを「常用じょうようローギア」として算入さんにゅうし、広告こうこくなどで3そくしょうしていたケースがあるためで、すべてのモデルT/TTは前進ぜんしん2そく後進こうしん1そく変速へんそくそなえる。
  2. ^ ブリキエリザベスちゃん」の
  3. ^ 乗用車じょうようしゃ仕様しようのモデルTとトラックシャシーのモデルTTの合計ごうけい
  4. ^ 和田わだ(2009)p21-23の考証こうしょうによれば、1906ねんのピケット工場こうじょうにおけるNがた製造せいぞう工程こうてい写真しゃしんと、1911ねんごろのハイランドパーク工場こうじょうにおけるTがた製造せいぞう工程こうてい写真しゃしんには、いずれも窓際まどぎわ作業さぎょうつくえ万力まんりきならんでいた。したがって、マイクロゲージによる管理かんりおこなってもなお現場げんばでは部品ぶひん加工かこうよう万力まんりき常備じょうびし、加工かこう精度せいど不十分ふじゅうぶん部品ぶひん手直てなおしをいられていたと推察すいさつされるという。一方いっぽう1913ねんのハイランドパーク工場こうじょうない写真しゃしんからは、まだなが作業さぎょうまえだが万力まんりきがなくなっており、和田わだはおそらくこの時期じきいたって部品ぶひん仕上しあ調整ちょうせいがほとんどなくなったのではないかとろんじている。
  5. ^ この組立くみたて時間じかん短縮たんしゅく数値すうちおおくの文献ぶんけん流布るふされているが、厳密げんみつなものであるかは疑義ぎぎがある。和田わだ(2009)p5-26における考証こうしょうでは、1914ねん時点じてんでのフォード工場こうじょう実地じっち研究けんきゅうをもとに1919ねん刊行かんこうされたH.L.Arnold、F.L.Faurote編著へんちょ「Ford Methods and Ford Shops」を典拠てんきょとする可能かのうせいたかいが、おおくの文献ぶんけん混乱こんらんられるという。
  6. ^ 改善かいぜん提案ていあんしたクーゼンスもヘンリーの予想よそうがい命令めいれいには驚愕きょうがくしたという。
  7. ^ ヘンリー・フォード自身じしん自伝じでん人生じんせい事業じぎょう」で「当時とうじ建設けんせつちゅうだったハイランドパーク工場こうじょう土地とち建物たてもの費用ひよう捻出ねんしゅつのため、一時いちじ値上ねあげをした」ことをしるしている(和田わだ:2009 p36)。
  8. ^ 1922ねん買収ばいしゅう時点じてんでその唯一ゆいいつ製品せいひんモデルL」は、品質ひんしつ走行そうこう性能せいのうはキャデラックを凌駕りょうがするほどに卓越たくえつしていたが、そうされるボディデザインがたけほね商品しょうひんせいき、高級こうきゅうしゃ購入こうにゅうそうむことができなかった。
  9. ^ GMには化学かがくメーカーのデュポン資本しほんはいっており、あたらしいラッカーけい塗料とりょうもちいることができた。
  10. ^ GMのさい高級こうきゅうしゃであるキャディラック。
  11. ^ GMは1919ねんにオートローンをあつか金融きんゆう子会社こがいしゃのゼネラルモーターズ・アクセプタンス・コーポレーション(GMAC、2006ねんにGM系列けいれつはなれてげんAlly)を設立せつりつし、見込みこ顧客こきゃくである大衆たいしゅうそう自動車じどうしゃ購入こうにゅう支援しえんする販促はんそくさくととのえた。
  12. ^ ふと低圧ていあつタイヤ。それ以前いぜん主流しゅりゅうであった細身ほそみこうあつタイヤにして心地ごこち改善かいぜんされる。
  13. ^ 広大こうだい北米ほくべい大陸たいりくには、開拓かいたく時代じだい終焉しゅうえんした20世紀せいき前半ぜんはんいたってもそのような未開みかいおお存在そんざいした。
  14. ^ 当時とうじ自動車じどうしゃでは、ガソリンの品質ひんしつばらつきやエンジンコンディションの不安定ふあんていから、手動しゅどうのタイミング調整ちょうせい機能きのう必須ひっす装備そうびであった。
  15. ^ この仕様しよう高級こうきゅうしゃのモデルKでさえ例外れいがいではなかった。
  16. ^ 風防ふうぼう:フロントウィンドウのこと。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 五十嵐いがらし:1970
  2. ^ バナジウムこうとTがたフォード『20世紀せいき巨人きょじん産業さんぎょう』49-52ページ
  3. ^ 世界せかい自動車じどうしゃ フォード-1』二玄社にげんしゃ 1970ねん P.29
  4. ^ a b 和田わだ:2009
  5. ^ a b c d e f g 樋口ひぐち:1996
  6. ^ TがたからAがたへの変更へんこう断行だんこう『20世紀せいき巨人きょじん産業さんぎょう』273-285ページ
  7. ^ チャールズ・ソレンセンの回想かいそうによる。
  8. ^ 佐々木ささきれつ日本にっぽん自動車じどうしゃ 写真しゃしん資料集しりょうしゅう」p151-152(2012ねん 三樹みき書房しょぼう
  9. ^ 佐々木ささきれつ日本にっぽん自動車じどうしゃⅡ」p91-92(2005ねん 三樹みき書房しょぼう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ヘンリー・フォードちょ ゆたかさかえやく『20世紀せいき巨人きょじん産業さんぎょう ヘンリー・フォードの軌跡きせきそうえいしゃ三省堂さんせいどう書店しょてん 2000ねん
  • ヘンリー・フォードちょ 竹村たけむら健一けんいち翻訳ほんやく『ヘンリー・フォード自伝じでん わらのハンドル 資本しほん主義しゅぎ最初さいしょ実現じつげんしたおとこたましい祥伝社しょうでんしゃ 1991ねん原題げんだい:"Today and Tomorrow")
  • 五十嵐いがらしたいらいたる世界せかい自動車じどうしゃ(44) フォード 1』二玄社にげんしゃ、1970ねん、8-55,74-75ぺーじ 
  • 樋口ひぐち健治けんじ自動車じどうしゃ技術ぎじゅつ事典じてん朝倉書店あさくらしょてん、1996ねんISBN 4-254-23085-0 
  • 和田わだ一夫かずお『ものづくりの寓話ぐうわ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2009ねんISBN 978-4-8158-0621-7 
  • 日本にっぽんフオード自動車じどうしゃ株式會社かぶしきがいしゃ『フオードの産業さんぎょう米国べいこくフオード自動車じどうしゃ會社かいしゃ、1927ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]