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かず皇后こうごう

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重定しげさだこう鄧太きさき
鄧綏
ひがしかん皇后こうごう
前任ぜんにんかずみかどかげ皇后こうごう
つぎにん
しんだい画家がかこげ秉贞绘和熹皇太后こうたいごう
國家こっか汉朝
時代じだい东汉
せい
出生しゅっしょうかんあきらみかどたてはつろくねん/西元にしもと81ねん
婚姻こんいんめい繼室けいしつ
逝世かんやすみかどえいやすしねん(121ねん)4がつ5にち[1]/4がつ17にち[2]
谥号かず皇后こうごう
はかそう汉慎りょう
おやぞく
父親ちちおや鄧訓
おっと孝和こうわ皇帝こうていりゅうはじめ
おっとちち孝章たかあき皇帝こうていりゅう
おっとははきょうふところ皇后こうごう
おっともとはい孝和こうわかげ皇后こうごう
兄弟きょうだいうえ蔡侯鄧騭あに
鄧悝(あに
鄧弘(あに
鄧閶(おとうと
繼子けいし平原ひらはらふところおうりゅうまさる
かん殤帝りゅうたかし
つぎおんなおさむたけちょう公主こうしゅ
きょう邑公ぬし
臨穎公主こうしゅ
聞喜公主こうしゅ
其他おやぞく祖父そふ高密こうみつこう鄧禹

かず皇后こうごう(81ねん—121ねん4がつ5にち[1]/4がつ17にち[2]),めいsuíためひがし漢和かんわみかどだい皇后こうごうひがしかんおんな政治せいじ南陽なんようしん野人やじんいま河南かなんしょう新野しんの)。

幼年ようねん時期じき

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鄧綏かん光武みつたけみかどときふとしでん鄧禹てきまごおんな,鄧禹ため南陽なんよう豪族ごうぞくずい光武みつたけみかどおこりごとためひがしかん初年しょねんてき功臣こうしん;其父鄧訓,曾為まもる羌校じょうなで有功ゆうこう。其母かげかげ麗華れいかどうおとうとてき女兒じょじ[3]。鄧綏ためくん次女じじょゆうちょう姊鄧つばめ、娣鄧よう

鄧綏きょとしさい,鄧綏てき奶奶おやため其剪かみ。鄧綏てき奶奶ねんごとやめだか眼睛がんせいふとしこう小心しょうしんろうきずりょう鄧綏てきがくあたま,鄧綏にんつう不言ふげん後來こうらいたい身邊しんぺんてきじん表示ひょうじ所以ゆえんにんじゅういんため擔心こう出來でき後會こうかいゆずる老人ろうじんなん[4]きょとしろくさい,鄧綏てきあに長喜ながき歡摸鄧綏てき頭髮とうはつ,鄧綏表示ひょうじ,「身體髮膚しんたいはっぷ,受之父母ちちはは毀傷きしょう孝之たかゆきはじめ也,你們ため什麼いんもようろうてき頭髮とうはつ?」[5]同年どうねん鄧綏開始かいし閱讀《ふみ籀篇[6]ななさい學習がくしゅう論語ろんご》,じゅうさいどおり》、《論語ろんご》,常和ときわ諸兄しょけい互相討論とうろん。鄧綏學習がくしゅうつとむ,其母屢屢反對はんたいみとめため女子じょし學習がくしゅう女工じょこうみさお持家もちいえつとむただし鄧綏還違背いはいりょう母親ははおやてきねがいじょりょうざいしろてんがく女工じょこうそとばんじょう仍讀經書けいしょ;鄧父そくたい讀書どくしょ較為支持しじ常常つねづねあずか她談ろん政事せいじ[7]同時どうじあねあね鄧燕よし於去はやただとめつよしつよし出生しゅっしょうてき女兒じょじじゅう二歲的鄧綏親自養育[8]

入選にゅうせんわきにわ

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鄧綏だかななしゃくすんやく1.66まい[9]えいもとよんねん(92ねん),鄧綏本來ほんらいよういれみや,恰逢鄧訓,鄧綏ため守孝もりたかにゅうみやごとむべ推遲[10]じゅうさい(95ねんいん容貌ようぼう嬌豔,せんいれわきにわ宮中きゅうちゅうねんそくますため貴人きじん。她入みやこれたいまち皇后こうごうかげ甚謙謹,如在ざい宴會えんかいとき,嬪妃們多ふん豔麗,ただゆう她素ふく裝飾そうしょくおこりらいきようらら脫俗だつぞく,而且平時へいじ衣服いふく敢與阴后同色どうしょく。 此外,她晉すめらぎじょう敢與かげきさきなみすわたて走路そうろ表現ひょうげんけん卑的姿態したい說話せつわ也不敢先於陰きさきかげきさき疏遠とき,就常たくびょう受皇じょう召見。ただし也因她如此地けいまききょう謹,さら受到皇帝こうていてきあいかげ皇后こうごうざい矮小わいしょうゆう舉止みやびつね遭到身邊しんぺんじん嘲笑ちょうしょう,鄧綏卻從ひさげ[11]。她雖ため貴人きじん且深受寵愛ちょうあいただしため皇帝こうていわらわしつ,仍然謹守其位ぶんみことたてまつかげ皇后こうごう而不敢逾こし

しか而陰皇后こうごういんしつちょう而嫉恨鄧綏,開始かいしためし加害かがい她。いち皇帝こうてい重病じゅうびょうかげ皇后こうごうくらさとたい近侍きんじせつ:“ひとしわがてのひらけんりょう,一定不讓鄧家有一個人存活。”鄧綏風聞ふうぶんそうよういんやく自盡じじん以保ぜん家族かぞく,內侍ちょうたまとうじん堅持けんじすすむ阻,最後さいごかた皇帝こうていびょういよいよ使つかい通報つうほう,於是鄧綏ざい放棄ほうき自盡じじんだい二天和帝竟然真的病瘉了,鄧氏ざい逃過いちこう

すすむ皇后こうごう

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えいはじめじゅうよんねん(102ねんかげきさきいんため被告ひこくぎょうみここれごとため皇帝こうていしょはい;鄧綏還ためしおもえかたしつらえほうじゅうかげきさききさき[12]。此時みかどたい鄧綏じゅうふんちょうこう希望きぼうりつ她為きさき。鄧綏知道ともみち堅持けんじしょうびょうなみ深居ふかい簡出。みかどいよいよはつみとめため她有德行とっこうたて她為皇后こうごう[13]。鄧綏なりため皇后こうごうこれかずみかど曾想ようふう鄧氏一族いちぞくしか而被鄧綏堅持けんじ推辭りょうおわりみかど一朝いっちょう,鄧綏けいちょう鄧騭僅僅きんきんかんきょとら贲中ろうしょう同時どうじ鄧綏還要求ようきゅう地方ちほう不要ふようこう皇后こうごう進貢しんこうおごはなものただ進貢しんこうすみ就行[14]みかどためりょうゆずる鄧綏のう夠充ぶん學習がくしゅう智識ちしきとくはんかたあずかはんちょうこれいもうとはんあきらため皇后こうごう教導きょうどう鄧綏。鄧綏也博覽はくらんぐんしょただし法家ほうかてきさるがいかんうつしてきしょ[15]

攝政せっしょうふとしきさき

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漢和かんわみかどざいもときょう元年がんねん(105ねん使つかい皇后こうごうさらとく進入しんにゅう政治せいじ權力けんりょくてき中心ちゅうしん。她早ざいため貴人きじんときいんみかど夭死ようしそくつねためせんすすむ才人さいじん希望きぼうのうこう後嗣こうしみかどこう所生しょせいすうそくやしなえ於民あいだ,這雖ためりゅうてき繼嗣けいしちょおもえただし也為鄧氏提供ていきょうりょうこう擁立ようりつ新帝しんていなみてのひらけんてき機會きかいみかど,邓后雖無ただしむかえかいりょうやしなえ於民あいだはじめせいひゃくにちてきみかど幼子おさなご殤帝即位そくい,鄧后とうとため皇太后こうたいごういん殤帝ねんよう臨朝聽政。 她屢皇太后こうたいごうてき名義めいぎ詔書しょうしょなみ自稱じしょうためちんいん此雖しか她在詔書しょうしょちゅう自稱じしょうけん佐助さすけ聽政」,ただし事實じじつじょう她已なりため國家こっか實質じっしつじょうてき領袖りょうしゅう

此時宮中きゅうちゅう丟失りょういち篋大たま,鄧綏ほんそうじんしん訊,ただし擔心かい有無うむざいひとせり認罪にんざい,於是おやたい宮人みやびと察言かんしょくとう竊者受不りょう心理しんり壓力あつりょくひろししろ認罪にんざい。此時漢和かんわみかど曾經てき宮人みやびと吉成よしなりてきさむらい怨恨えんこん吉成よしなり便びん誣陷吉成よしなりたいたいきさきみこ吉成よしなりしん訊時せり認罪にんざい。鄧綏みとめため吉成よしなり曾經漢和かんわみかどてき身邊しんぺんじん自己じこたい吉成よしなり很好,吉成よしなり平時へいじ也沒ゆうたい自己じここうあくげん現在げんざい這種情況じょうきょうごう人情にんじょう,於是おや召見吉成よしなりかく實情じつじょうきょう發現はつげん果然かぜん吉成よしなりただし誣陷[16][17]

鄧綏ざい此期あいだかえ下達かたつりょういち些詔れいれい如鄧綏認ため鬼神きじんかいおうけん祭祀さいし它們かい有效ゆうこう要求ようきゅうゆうせき部門ぶもんてきひとさい撤不符合ふごうてんほうれい仪的祠官しかん;鄧綏還みことのり赦免しゃめんうま家族かぞく竇憲家族かぞく禁錮きんこてき人士じんし同時どうじ鄧綏要求ようきゅうみや減少げんしょう製作せいさくおご靡之ぶつ,伙食したがえ簡,せつしょうひらけささえ地方ちほうてきみつぎひん減少げんしょう一半いっぱん規模きぼまた釋放しゃくほうすう百名宮人回到民間[18]

いちねん,殤帝また,鄧太きさきあずかあにちょうしゃ將軍しょうぐん鄧騭以和みかど長子ちょうし平原へいげんおうりゅうまさるゆう箇疾ためゆかりさき以年じゅう三歲的章帝之孫劉祜為和帝之後嗣,さいだてためみかどためやすみかど。 這種りつめい立子たつこてきやすはい,引起りょういち大臣だいじんてき不滿ふまん,如司そら周章しゅうしょうはかりごとりつ平原へいげんおうりゅうまさるただしことはい自殺じさつやすみかど即位そくい,鄧太きさき繼續けいぞく臨朝,一直到她死為止,きょう攝政せっしょうたちじゅうろくねんひさ

やすみかど即位そくい初期しょき,鄧太きさき要求ようきゅう隸校じょう河南かなんいん南陽なんよう太守たいしゅ,如果鄧家おやぞくある賓客ひんきゃく犯罪はんざい不要ふようつつみひさし。此時鄧太きさきかえ赦免しゃめん漢和かんわみかどはいきさきかげまとぞくじんなみ歸還きかん財產ざいさん[19]

えいはつねん(108ねん),きょうじょう洛陽らくよういぬいひでり,鄧太きさきらいいた洛陽らくようてら了解りょうかいゆうせき冤獄てき情況じょうきょうゆう一名未犯法但被刑訊逼供被迫自證有罪囚犯被太后審問時,がい監獄かんごくうらめんてき官吏かんりかい懲罰ちょうばつ敢申訴,とういた犯人はんにんはなれひらき,該犯じん抬頭乎想ようさる訴。鄧太きさき發現はつげんたい勁,たてこく該名しゅうはん喊來詢問具體ぐたい情況じょうきょう認定にんていため辜受冤枉えんおうこれにん並立へいりつそくれいおさむ押洛れい。鄧太きさき一行人在回到宮中途中,てんくだだいあめ[20]

えいはつさんねんあき(109ねん),鄧太きさきせいびょうなみ決定けっていざいとしそこ款待かんたいそくはたかいかぶとてき皇宮こうぐう衛兵えいへいてき宴會えんかい取消とりけし演習えんしゅう彈奏だんそう音樂おんがく這一環節かんせつなみ減少げんしょう舉辦どき一半いっぱんてきおとこみこ人數にんずう[21]

鄧太きさきしろてん處理しょり政事せいじばんじょう閱讀經書けいしょそう擔心自己じこしょ讀的經書けいしょ內容ゆう錯漏,於是れいりゅうちんとうじゅう餘人よにんいたひがしかん校勘こうかん書籍しょせきまたしたれい宮中きゅうちゅう近臣きんしんらいひがしかん學習がくしゅう儒家じゅか經典きょうてんがくなり教授きょうじゅ宮人みやびと[22]

えいはつよんねん(110ねん),鄧太きさきてき母親ははおや新野しんのくん患上重病じゅうびょうふとしきさきおやふくさむらいちょくいたりじゅうがつ新野しんのくん當時とうじまたいぬいひでりやめひさしふとしきさきせっれん三天來到監獄考察冤獄情況[23]

もとはつろくねん(119ねん),鄧太きさき開設かいせつていだいみことのり漢和かんわみかどおとうとずみきた河閒こうまおうてき年齡ねんれいきょさい以上いじょう子女しじょども四十餘人以及鄧氏近親子孫三十餘人來到邸第學習經書,鄧太きさきおや督促とくそく[24]

やすみかどねんきのすすむちょうはややめ成年せいねん, 而鄧ふとしきさき遲遲ちち肯還せい皇帝こうてい,這不僅使とく一些大臣之中有人不滿,れん鄧太きさきてきどうけいえつこうじょう鄧康也畏懼不安ふあん,於是以自稱じしょうせいびょうためゆかりらいうえあさふとしきさきみや內鄧やすし曾經てき奴婢ぬひまえ慰問いもんゆかり當時とうじ宮人みやびと權力けんりょく很大,人稱にんしょうためちゅう大人おとな」,鄧康さきまえてき奴婢ぬひらい鄧康自稱じしょうちゅう大人おとな。鄧康だいいかせつ「你是したがえ我家わがや出來できてき,竟然也敢自稱じしょうちゅう大人おとな奴婢ぬひ也大いかかいいた宮中きゅうちゅうたい鄧太きさきせつ鄧康謊稱ゆうびょうかえごと不遜ふそん。鄧太きさき於是せっ解除かいじょ鄧康職務しょくむ[25]。此外當時とうじ諸多しょた天災てんさいしょうひとわざわいこと人事じんじみとめためふとしきさき攝政せっしょうしょ致;またもりなり翊世ひとし上書うわがき希望きぼうやめ年長ねんちょうてきやすみかど親政しんせいふとしきさき僅不聽,もり根因こんいん此被撲殺ぼくさつ於殿ちゅうさいわいすくい,而成翊世也因此而ざい

鄧太きさきざいえいやすしねん(121ねん)4がつ5にち[1]ある17にち[2],4がつ30にちごうそうかんまきりょうこれやすみかどおわり獲得かくとく親政しんせいよし於長やすみかど無法むほう執政しっせいたい鄧家非常ひじょう反感はんかんひさ鄧家そく誣告ぶこく鄧騭兄弟きょうだいとうじん自殺じさつ。而安みかど打倒だとう外戚がいせきこれ信用しんよう宦官かんがん乳母うばおうきよしとういちじんとうひがしかんてき政治せいじ開始かいしややおとろえはい

かげ作品さくひん

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かげ作品さくひん かざりえんじてきえんじいん
2007ねん汉太じょう杨震 邬倩倩
2014ねんはんよし傳奇でんき あきら

延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:こう漢書かんしょ/まき10じょう》,出自しゅつじ范晔こう漢書かんしょ
维基文库中的相关文本:ひがしかんかん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 こうかんまき17:さんがつからし皇太后こうたいごう鄧氏くずし
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 こう漢書かんしょまき5:さんがつ癸巳きし皇太后こうたいごう鄧氏くずし
  3. ^ こう漢書かんしょまき10:ははかげひかりれつ皇后こうごう從弟じゅうていおんな也。
  4. ^ こう漢書かんしょまき10:ふとしでん禹之まご也。ちちくんまもる羌校じょうははかげひかりれつ皇后こうごう從弟じゅうていおんな也。きさきねんさいふとしでん夫人ふじんあいため翦髮。夫人ふじんねんだかめいあやまきずきさきがくにんつう不言ふげん左右さゆうしゃかい而問きさき曰:「やめ也,太夫たゆうじん哀憐あいれんため斷髮だんぱつなんきず老人ろうじんにんみみ。」
  5. ^ 藝文げいぶん類聚るいじゅうまき17註引《ひがしかんかん》:かず皇后こうごうろくさい諸兄しょけいきさきかみきさき曰:「身體髮膚しんたいはっぷ,受之父母ちちはは毀傷きしょう孝之たかゆきはじめ也,奈何いかんろうじんかみ乎?」
  6. ^ こう漢書かんしょまき10註:史書ししょしゅうせんおうふとし籀所さく大篆だいてんじゅうへん也。前書ぜんしょ曰「きょう學童がくどうこれしょ」也。
  7. ^ こう漢書かんしょ·皇后こうごうまきじゅう)·熹鄧皇后こうごう》:“(きさきろく岁能《ふみ书》,じゅうつう《诗》、《论语》。 诸兄ごと读经传,辄下意かい难问。 こころざしざい典籍てんせき问居ことははつね,曰:『なんじ习女こう以供衣服いふく,乃更务学,宁当举博士はかせよこしま? 』きさきじゅう违母ごとひるおさむ妇业,くれ诵经てん家人かじんごう曰『诸生』。 ちち训异こと无大しょう,辄与详议。”
  8. ^ 太平たいへい御覽ごらんまき173註引《ぞく漢書かんしょ》:つばめのみそつゆう子女しじょ娥,はじめざい襁褓おしめとききさきねんじゅうきず娥早よう撫育ぶいく慈恩じおんふかいたり
  9. ^ こう漢書かんしょまき10:きさきちょうななしゃくすん姿すがたがお姝麗,ぜっ於眾,左右さゆうみなおどろき
  10. ^ こう漢書かんしょまき10:えいもとよんねんとう以選いれかいくんそつきさき晝夜ちゅうや號泣ごうきゅうおわりさんねん食鹽しょくえんさい憔悴しょうすい毀容,おやじん識之。
  11. ^ こうかんまき14:かげきさき短小たんしょう,舉止ゆうしつ左右さゆう掩口而笑,きさきどく愴然らくためかくれいみなわかおのれしつ
  12. ^ こうかんまき14:其後宮人みやびとつげかげきさきみこごと蠱,きさき涕泣ていきゅう救護きゅうごしょいたり
  13. ^ こう漢書かんしょ·皇后こうごうまきじゅう)·熹鄧皇后こうごう》:“じゅうよんねんなつ,阴后以巫蛊事废,きさき请救不能ふのうみかど便びんぞく焉。 きさきいよいよたたえやまし笃,ふか闭绝。 かい有司ゆうしそうけん长秋宫,みかど曰:『皇后こうごうみことあずかちん同体どうたいうけたまわそう庙,はは天下でんか,岂易哉! ただ邓贵人德にんとくかんむりきさきにわ,乃可とうこれ。 』いたりふゆたて皇后こうごう让者さんしかきさき即位そくい书表谢,ふか陈德うす不足ふそく以充しょうくん选。”
  14. ^ こう漢書かんしょまき10:ぽうこく貢獻こうけんきおいもとめめずらしうららものきさき即位そくい,悉令禁絕きんぜつさいただしきょうすみ而已。
  15. ^ 太平たいへい御覽ごらんまき137註引《ぞく漢書かんしょ》:きさきいれみやとげ博覽はくらん五經ごきょう傳記でんき讖內ごと風雨ふうううらないこう老子ろうし孟子もうしれいがつれいほうごとかん浮華ふかさるかんこれしょ
  16. ^ こう漢書かんしょまき10: しん遭大ゆうほうきん未設みせつ宮中きゅうちゅうほろびだいたまいち篋,ふとしきさきねんよくこうとえ,必有辜。乃親閱宮じん觀察かんさつ顏色かおいろ即時そくじくびふくまたみかど幸人ゆきと吉成よしなり者共ものども吉成よしなり以巫蠱事,とげわきにわこう訊,證明しょうめいしろふとしきさき先帝せんてい左右さゆうまちゆうおん平日へいじつなおあくげんこんはんわか此,ごう人情にんじょうさらよびじつ覈,はて御者ぎょしゃ所為しょい。莫不歎服,以為ひじりあきら
  17. ^ こうかんまき15:はつかずみかど宫人吉成よしなりなり御者ぎょしゃこころざし恨成,乃为しょうじん,书太きさきせいうめこれことわきにわこう验,みな吉成よしなりしょ为。ふとしきさきどくねん吉成よしなりわがまちゆうおん,虽下贱犹じんたく赖上ざい时,尝闻ゆう恶言,いまわがぐう过於平常へいじょうなに缘生此,ごう人情にんじょう」。そくよび见,はん复实劾,はて其御しゃしょ为。
  18. ^ こう漢書かんしょまき10:つね以鬼かみなんちょういんまつぶく,乃詔有司ゆうしやめしょ祠官しかんごう典禮てんれいしゃまたみことのり赦除たてたけし以來いらいしょはん妖惡,及馬、竇家ぞくしょ禁錮きんこしゃみなふく為平ためひらじんげん大官たいかんしるべかんひさしかた、內者ふくちんぜん靡麗なん成之しげゆきぶつきょうりょうびょういねはりまいとくみちびけ朝夕ちょうせきいちにくめし而已。きゅう大官たいかんかんけいようとしまんまんふとしきさき敕止,にちころせしょうちんさいすうせんまん。及郡こくしょみつげみなげん過半かはん。悉斥賣上うりあげりんたかけん。其蜀、かんぼたんきゅうたい佩刀はかせなみ復調ふくちょうとめ畫工がこうさんじゅうきゅうしゅまたひさしかたむろにしき繡、冰紈、あやぎぬ縠、金銀きんぎん珠玉しゅぎょくさいぞう玳瑁たいまいちりばめ翫弄ものみなぜっ不作ふさく離宮りきゅう別館べっかんもうか峙米ほしい薪炭しんたん,悉令しょうまたみことのりしょえん貴人きじん,其宮じんゆう宗室そうしつ同族どうぞくわか羸老にん使者ししゃれいえんかんじつ覈上めい北宮きたみやぞうかん閱問ほしいまま其去とめ即日そくじつまぬかれしゃろくひゃくにん
  19. ^ こう漢書かんしょまき10:みことのりつげ隸校じょう河南かなんいん南陽なんよう太守たいしゅ曰:「まいらん前代ぜんだい外戚がいせき賓客ひんきゃく假借かしゃくけん輕薄けいはく謥詷,いたりゆうにごらん奉公ほうこうためじん患苦。とがめざいほうだるたゆ輒行其罰也。こんくるま將軍しょうぐん騭等雖懷けいじゅんこころざし,而宗もん廣大こうだい姻戚いんせきしょう賓客ひんきゃくかん猾,きんけん。其明けん敕,勿相ようまもる。」おやぞく犯罪はんざいしょかりかしふとしきさき愍陰つみはい,赦其徙者歸鄉ききょう,敕還資財しざいひゃくあまりまん
  20. ^ こう漢書かんしょまき10:ねんなつ京師けいしひでりおやこう洛陽らくようてらろく冤獄。ゆうしゅうじつ殺人さつじん而被こう誣,羸困輿こしかしこ吏不敢言,はた,舉頭わかよく自訴じそふとしきさき視覺しかくそくよびかえといじょうとく枉實,即時そくじおさむ洛陽らくようれい下獄げごく抵罪。くだりかえみや,澍雨だいくだ
  21. ^ こう漢書かんしょまき10:さんねんあきふとしきさきたい不安ふあん左右さゆう惶,禱請祝辭しゅくじねがいとくだいいのちふとしきさき聞之,そく譴怒,きり敕掖にわれい以下いかただし使つかいしゃいのりぶくとく妄生不祥ふしょうげんきゅうことさいおわりとうきょう衛士えじだい儺逐疫。ふとしきさき以陰不和ふわ軍旅ぐんりょすうきょうみことのりきょうかい勿設戲作げさくらくげん逐疫侲子はん,悉罷ぞう橐駝ぞく豐年ほうねんふく
  22. ^ こう漢書かんしょまき10:ふとしきさきいれみやわきしたがえ曹大受經しょけん天文てんもん、筭數。ひるしょう王政おうせいよるのり誦讀,而患其謬誤,懼乖典章てんしょう,乃博せんしょ儒劉ちんとう博士はかせろうよんじょうじゅう餘人よにんまいひがしかん讎校傳記でんきこと畢奏たまもの葛布くずふかくゆうまたみことのりちゅうかん近臣きんしん於東おひがしかん受讀經傳けいでん,以教授きょうじゅ宮人みやびと左右さゆう習誦,朝夕ちょうせき濟濟せいせい
  23. ^ こう漢書かんしょまき10:及新野しんのくん薨,ふとしきさきさむらい疾病しっぺいいたり乎終つきゆうあい毀損きそんこと於常。おく以長公主こうしゅあか綬、東園ひがしぞのたまころも繡衾,〔またたまものぬのさんまんひきぜにさんせんまん。騭等とげかたゆずるぜにぬの受。使つかいそらぶしまもるごと東海とうかいきょうおう,謚曰たかしくんふとしきさき諒闇りょうあんすんでおわりひさひでりふとしきさきさんにちこう洛陽らくようろく囚徒しゅうと死罪しざいさんじゅうろくにんたいざいはちじゅうにん,其餘げんざいみぎ趾已いたり寇。
  24. ^ こう漢書かんしょまき10:ろくねんふとしきさきみことのりちょうみかどおとうとずみきた河閒こうま王子おうじ男女だんじょねんさい以上いじょうよんじゅう餘人よにんまた鄧氏近親きんしん子孫しそんさんじゅう餘人よにんなみためひらきていだい教學きょうがく經書けいしょ,躬自かんためし
  25. ^ こう漢書かんしょまき10:かん以太きさきひさ朝政ちょうせいこころふところかしこ懼,たくびょうあさふとしきさき使內人といときみや出入でいり多能たのうゆうしょ毀譽きよ,其耆宿やどしゃみなしょうちゅう大人おとなしょ使者ししゃ乃康さき婢,またつうちゅう大人おとなかん聞,詬之曰:「なんじわが家出いえでしか敢爾よこしま!」婢怒,かえせつやすしいつわりやまし而言不遜ふそんふとしきさきとげめんかんかん歸國きこくぜっぞくせき
前任ぜんにん
かずみかど皇后こうごうかげ
かんちょう皇后こうごう
102ねん—106ねん
つぎにん
やすみかど皇后こうごう閻姬