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汉灵帝 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

汉灵みかど

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かんれいみかど
连环さんこくえんじ义》(1957年版ねんばんちゅうてき汉灵みかど画像がぞう
かんちょうだい27(东汉だい12皇帝こうてい
統治とうち168ねん2がつ17にち-189ねん5がつ13にち(21ねん88てん
前任ぜんにんかん桓帝刘志
つぎにん东汉きさきしょうみかどりゅうべん
出生しゅっしょうかん桓帝永壽ながとしねん
156ねん[1]一說いっせつ157ねん[2]
冀州河間こうまこく
逝世中平なかひらろくねん
189ねん5がつ13にち(189さい—05—13)(32—33さい
洛陽らくよう南宮なんぐう嘉德よしのり殿どの
やすそう
おうきさき
おう美人びじんれいふところ皇后こうごう

ひろのうふところおうりゅうべんしょうみかど
かんけんじみかどりゅうきょう

おんな
まんねん公主こうしゅ
年號ねんごう
たてやすし(168ねん-172ねんがつ
熹平(172ねんがつ-178ねんさんがつ
光和こうわ(178ねんさんがつ-184ねん
中平なかひら(184ねん十二月じゅうにがつ-189ねんさんがつ
谥号
こうれい皇帝こうてい
父親ちちおやりゅう
母親ははおや孝仁たかひと皇后こうごう
汉灵みかど
かんちょうひがしかんだい12だい皇帝こうてい
統治とうち168ねん-189ねん
前任ぜんにんかん桓帝
つぎにんりゅうべんしょうみかど

汉灵みかど刘宏(156ねん—189ねん5がつ13にち),东汉だいじゅう皇帝こうてい(168ねん2がつ17にち-189ねん5がつ13にち在位ざいい),在位ざいい22ねんそう漢文かんぶんりょう,其正しき諡號しごうためこうれい皇帝こうてい」,後世こうせい省略しょうりゃくこうしょうかん灵帝」。灵帝东汉さいきさき一个握有实权的皇帝。

生平おいだいら

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即位そくい

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刘宏ほんふうかい渎亭こう,为承袭其ちち刘苌てき爵位しゃくいははただし夫人ふじんかんあきらみかどてき玄孫げんそんかん桓帝まとどう侄。

えいやすし元年がんねん桓帝くずれゆかり於桓みかど城門じょうもんこうじょう竇武主持しゅうもちしょう討立嗣問題もんだい,召さむらいりゅうおとずれ查宗しつ中有ちゅうう賢明けんめいこれにん,而劉儵推薦すいせんりょうりゅうひろし。於是竇太きさき便びんざい皇宮こうぐうちゅう決定けっていよしりゅうひろし嗣位,使つかい刘儵以ひかりろく大夫たいふ份与ちゅうつねさむらい曹节带领ちゅうとら羽林はばやしいちせんじんぜんかわ迎接げいせつ刘宏。けん宁元ねん正月しょうがつじゅうにち,刘宏らいいたなつ门亭,窦武亲自节用あお盖车むかえにゅう殿内とのうちだいてんのぼりはじめしょうみかど改元かいげん为“けん”。

かん羌戰そう

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たてやすし元年がんねんまもる羌校じょうだんりつりょういちまん餘人よにんしたがえ彭陽いま甘肅かんせいしょうけい鎮源けんひがしちょくゆび高平たかひらいまやすしなつかた原市はらいちはらしゅう),ざい逢義やまいまやすしなつかた原市はらいち西北せいほく大破たいはさきれい諸種しょしゅ[3]さいだしはし門谷もんやいま陝西せんせいしょうのべやすちょう東北とうほく),なみざいおご延澤のぶさわいま內蒙自治じち鄂托かつぜんはた東南とうなん)、落川おちかわいまらくかわうえゆう)、れい鮮水せっれんげきはい羌族ざんぐん最後さいございれい武谷たけやいまやすしなつ銀川ぎんかわあららぎけん西北せいほく蘭山あららぎやま東麓ひがしふもと))きゅう羌族致命ちめい打擊だげきなながつだん熲追げきいたり涇陽こん甘肅かんせいしょうたいらすずか西北せいほく),羌族ざんぐんただあまよんせんあまりちょうつぶせ逃至かんぐんぐんやまなか[4]

たてやすしねんだん熲在凡亭やまいまやすしなつかた原市はらいち彭陽けん西南せいなん大破たいは羌族ざんぐんなみざい虎谷とらやこん甘肅かんせいしょう天水てんすい西にしぜん殲羌ぞく[5],於是平定へいていりょう東方とうほう羌亂。

とう錮之

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たてやすし元年がんねんきゅうがつ洛陽らくよう發生はっせい政變せいへんちんしげる、竇武密謀みつぼう誅殺ちゅうさつ宦官かんがんおうはじめ、曹節とう反擊はんげきちんしげる、竇武、尚書しょうしょれいいんいさおさむらいちゅうりゅうたむろこうじょう馮述とら賁中ろうしょうりゅうよしぜん尚書しょうしょろうろうともえひとしえびすさんぞく。竇太きさき也被うつりきょ南宮なんぐう[6]

たてやすしねん,一條青蛇在皇帝御座上出現,だいつかさみのりちょう[7]ろうちゅうしゃ上書うわがき[8]ひらたはんちんしげる、竇武,宦官かんがんだいため反感はんかん,於是ちょう奐自しゅう廷尉數日すうじつ,而謝弼被趕出朝廷ちょうてい後來こうらい曹節侄兒ひがしぐん太守たいしゅ曹紹以其罪名ざいめい逮捕たいほしょ

じゅうがつだいとう錮之爆發ばくはつ[9]大長おおちょうあき曹節しめせゆうせき部門ぶもんてきじん上奏じょうそう要求ようきゅうかんれいみかど批准ひじゅん各州かくしゅうぐん逮捕たいほ審問しんもんおそれ及李膺、もりみつしゅ㝢、荀翌、翟超、りゅう儒、范滂とうかぎとうかんれいみかどとい曹節:「什麼いんもかぎとう?」曹節こたえ:「かぎとう就是らんとう。」かんれいみかどさいとい:「らんとうゆうなんざい一定いっていようころせ嗎?」曹節こたえ:「們互しょう勾結,準備じゅんびゆう不軌ふき行為こうい。」かんれいみかどさいとい:「什麼いんも不軌ふき行為こうい?」曹節こたえ:「陰謀いんぼう推翻政府せいふ。」かんれいみかど這才批准ひじゅんりょう上奏じょうそう[10]膺、范滂とう最終さいしゅう下獄げごく

熹平元年がんねん,竇太きさきびょう逝,ゆかり於竇ふとしきさき參與さんよ誅滅ちゅうめつ宦官かんがん宦官かんがんふかため痛恨つうこんためし使其無ほうはいきょう桓帝。かんれいみかど召集しょうしゅう文武ぶんぶ百官ひゃっかん討論とうろんざいふとしじょう廷尉ひねだま堅持けんじかんれいみかどはた竇太きさきやすそうせんりょう[11]

有人ゆうじんざい朱雀すざくもんじょううつしじょう詬罵宦官かんがんてきはなしれいみかどいのちつかさ隸校じょうりゅうたけし調しらべ查,りゅうたけし肯加きょう行動こうどう,一個多月都沒有調查到任何結果,引起りょう宦官かんがん不滿ふまんりゅうたけし貶為諫議大夫たいふゆかりだん熲接にん隸校じょうだん熲一上任便雷厲風行,逮捕たいほりょうふとし學生がくせいいちせん餘人よにん[12]

熹平ねん永昌えいしょう太守たいしゅ曹鸞上書うわがき請求せいきゅう結束けっそくとうきんかんれいみかどいたそうしょうだいいかわかきょう,曹鸞下獄げごくかんれいみかどさら擴大かくだいたい黨人とうじんてき打擊だげき[13]

ちょくいた中平なかひら元年がんねんさんがついんためはばみだれ爆發ばくはつてき緣故えんことうきんざい解除かいじょ[14]

對外たいがい戰爭せんそう

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たてやすしさんねんりょうしゅう刺史ししはじめいのち從事じゅうじにんわたる會同かいどうつちのえおのれこうじょう曹寬西域せいいきちょうちょうえん動員どういん焉耆かめくるま前後ぜんご國共こっきょうさんまん餘人よにん討伐とうばつ疏勒おさむ楨中じょうよんじゅうにちかつ而退,此東かん無力むりょく干涉かんしょう疏勒。[15]

熹平ろくねん(177ねん),鑒於鮮卑つぎおかせ擾漢あさ邊境へんきょうなついく建議けんぎ討伐とうばつ鮮卑,在朝ざいちょう廷多しょう討后,なついく高柳たかやなぎいま山西さんせいしょうだい同市どうしだかけん)、くもちゅうこん內蒙いにしえよび和浩かずひろとくたくかつたくけん)、臧旻りつみなみ匈奴きょうど大軍たいぐんかりもん今山いまやま西にししょうついたちしゅう東南とうなんさん大軍たいぐん討伐とうばつ鮮卑。結果けっかまゆみせきえんじゅ大敗たいはい而歸,なついく晏、臧旻はいため庶人[16]

宦官かんがんせい

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熹平元年がんねんじゅうがつおうはじめ誣殺渤海おうりゅう[17]

光和こうわ元年がんねんなながつ,一道虹蜺出現在玉堂,れいみかどふかため討厭,召集しょうしゅう群臣ぐんしん討論とうろん楊賜蔡邕上書うわがき抨擊とうけん官員かんいんそうあきら曹節偷看得知とくち,於是とうけん官員かんいんたい楊賜、蔡邕ひらきけい報復ほうふく,楊賜以帝免罪めんざい,蔡邕そく放逐ほうちくいたついたちかたぐん[18]同年どうねんおうはじめ誣陷そう皇后こうごうそう皇后こうごう一家いっかころせ[19]

光和こうわねんおうはじめ養子ようしそうおうよしいたにんねん誅殺ちゅうさついちまん餘人よにんつかさ隸校じょうだまにゅうみや謝恩しゃおん上奏じょうそうれい帝王ていおうはじめ諸人もろびと罪惡ざいあく,於是おうはじめおうよしおうもえ父子ふしだん熲、袁赦とうひとみな下獄げごく[20]

後來こうらいだまあずかひねだまとうはかりごと誅宦かん,曹節發現はつげんなみ反擊はんげきだまひねだまりゅうりゅうおさむとう下獄げごく[21]

かんれいみかど晚年ばんねんちょうこうじゅうつねさむらい」,かんれいみかど甚至せんしょう:「ちょうゆずるわが爹,ちょうただしわがむすめ。」ゆう一次漢靈帝想上永安宮候台,宦官かんがん們深怕漢れいみかどいた們的豪華ごうかたく,於是ゆずるちゅう大人おとななおただし進言しんげん:「天子てんしおう該登だか登高とうこうそく百姓ひゃくしょうぼし。」かんれいみかど聽了後便こうびんさいうえ較高てきちんだい樓閣ろうかくりょう[22]

內亂しき

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熹平元年がんねんかいへんみんもとせいざいあきらいま浙江せっこうしょうやすしなみ姚市東南とうなんおこりへい自稱じしょう陽明ようめい皇帝こうてい眾多たちすうまん朝廷ちょうてい派遣はけんあげしゅう刺史しし臧旻丹陽たんよう太守たいしゅちんぜん討伐とうばつ[23]ちょくいた熹平さんねんじゅういちがつ,臧旻とうざいざいかい稽斬もとせい平定へいてい其亂ごと[24]

光和こうわ元年がんねん正月しょうがつ合浦がつぽ交趾烏滸おこ蠻叛へんきゅうしん日南にちなんとうぐんへんみん結合けつごう,一連攻陷數郡。[25]いた光和こうわよんねん,交趾じんりょうりゅうさい聯合れんごうへんみん叛亂はんらんかんれいみかど任命にんめいらんりょうれいしゅため交州刺史しししゅ儁斬りょうりゅう平定へいていりょう交州てきらんごと[26]

中平なかひら元年がんねんはばみだれ爆發ばくはつかんれいみかど北中きたじゅうろうしょうしょくひだりちゅうろうしょうすめらぎはじめかさみぎちゅうろうしょうしゅ儁等討伐とうばつ首腦しゅのうちょうかく同年どうねん病死びょうしだい部分ぶぶんてきみぞそち也被政府せいふぐん平定へいていただとめ一些殘部持續作亂。

同年どうねん,交趾へんみん俘虜ふりょ刺史しし合浦がつぽ太守たいしゅたち首領しゅりょう自稱じしょうはしらてん將軍しょうぐん」,かんれいみかどいのち賈琮とう交趾刺史しし,賈琮到にんやすなで民心みんしんげきみぞそち平定へいていりょうらんごと[27]同年どうねんなながつともえぐん妖巫ちょうおさむおこりへい叛變,政府せいふしょうためべいぞく」。

同年どうねん北地きたじさきれい羌及ならかわせきへんみん造反ぞうはん擁立ようりつ北宮きたみやはくだまぶんこうとう將軍しょうぐんへんみんまた脅迫きょうはくざい西にししゅうゆうじゅうめいてきあたりあきらかんとげにん叛軍はんぐん領袖りょうしゅうよんしょ攻擊こうげきぐんけんげきまもる羌校じょう泠徵金城きんじょう太守たいしゅちん[28]なみ包圍ほういりょうしゅう刺史ししひだりあきら冀城こん甘肅かんせいしょう天水てんすいあまたにけん),なみざいきつねこん甘肅かんせいしょう天水てんすいあまたにけんみなみ大敗たいはいぶたくんところりつりょうてき政府せいふぐん[29]中平なかひらねんちょうあつしざい美陽みよこれせんげきはいりょう叛軍はんぐんただしざい包圍ほうい榆中じょうこん甘肅かんせいしょうあららぎしゅうひがし叛軍はんぐん切斷せつだん糧道りょうどうただとく草草そうそう撤退てったい[30]中平なかひらよんねんへんみん包圍ほうい隴西こん甘肅かんせいしょうてい西市さいち臨洮けん),太守たいしゅさん司馬しばうまあが投降とうこうりょうしゅう刺史しし耿鄙かん太守たいしゅでんころせへんみんさら擁立ようりつ王國おうこくため統帥とうすい開始かいし劫掠ごうりゃくさん地區ちく[31]中平なかひらねん王國おうこく包圍ほういちんくらこん陝西せんせいしょうたから雞市ちんくら),かんれいみかどいのちひだり將軍しょうぐんすめらぎはじめかさりつぜん將軍しょうぐんただしたくぜん往迎げき王國おうこくとう包圍ほういひねくらはちじゅうにち無法むほうおさむやぶしろ中平なかひらろくねんがつ王國おうこくかいかこえ撤退てったいすめらぎはじめかされい追擊ついげき大破たいは王國おうこく王國おうこくいん此戰へんみんやめ黜,另推舉閻忠ため首領しゅりょうひさ閻忠逝世,へんみんとう便びん互相おさむ開始かいし內鬥,勢力せいりょく也逐ややきえ退ずさ[32]

中平なかひらねんしたがえはばみだれこれ各地かくち大小だいしょうみんへん不斷ふだん最大さいだいてきいちささえこれ黑山くろやまぐんゆかりちょうつばめりつりょう後來こうらいちょうつばめ使節しせついた洛陽らくよう請求せいきゅう政府せいふ招安,而漢れいみかど允許いんきょ任命にんめいちょうつばめためたいらなんちゅうろうしょう[33]

中平なかひらさんねんがつ江夏えなつ民兵みんぺいちょう造反ぞうはんげき南陽なんよう太守たいしゅはた[34]同年どうねんろくがつ荊州刺史ししおうさとし平定へいてい[35]

中平なかひらよんねんまえ中山なかやまそうちょうじゅんいん不滿ふまんぼつゆう推薦すいせんため將領しょうりょうおびただしどうまえ泰山たいざん太守たいしゅちょう及烏桓酋長丘ながおかつとむおこりへい叛變,劫掠ごうりゃくあざみちゅう根據地こんきょちしつらえざいこえこん河北かほくしょう唐山からやま遷安東北とうほく)。ちょう自稱じしょう皇帝こうていちょうじゅん自稱じしょうわたるてん將軍しょうぐん安定あんていおうせんたたえちょう舉將だいかん而起,いのちかんれいみかど下台しもだい,百官前來迎接張舉前往洛陽。[36]中平なかひらねんかんれいみかどいのちじょう公孫こうそんぜん討伐とうばつ公孫こうそん瓉在石門せきもんいま遼寧りょうねいしょう朝陽あさひ西南せいなん大敗たいはいちょうじゅんじょうかち追擊ついげき,卻在かんじょうはんおかりょくきょ包圍ほういぜんぐん崩潰ほうかい[37]ちょくいた中平なかひらろくねんかそけしゅうまぎりゅうおそれいたしょく人出ひとで使鮮卑部落ぶらくとう,於是ちょうじゅんちょう逃亡とうぼう塞外さいがいおかつとむきょそくくだあさにわらんごととげたいら[38]じゅうがつちょうすなへんみんぼし自稱じしょう將軍しょうぐん,聚眾まんあまりかんれいみかどいのちろうまごけんためちょうすな太守たいしゅぜん往平みだれ,而孫けんじゅんげきはいほし[39]

中平なかひらねんはば殘黨ざんとうかくやすし於白谷起やぎへいせいたたえ白波しらなみぞく」。三月さんがつみなみ匈奴きょうどほふかく叛軍はんぐんげき并州刺史ししちょうえきしゅうへんみんうましょうちょうざい緜竹いま四川しせんしょう德陽とくようきたおこりへいげき刺史しし郤儉連破れんぱともえぐん犍為ぐんようゆう眾數まん,於是自稱じしょう皇帝こうていひさえきしゅう從事じゅうじ賈龍りつ官民かんみん反擊はんげき,逐走相等そうとう迎接げいせつ新任しんにんしゅうまきりゅううえつとむ冀州刺史ししおう密謀みつぼう趁漢れいみかどきたかえし河間こうまたくこうかんれいみかどなみ誅殺ちゅうさつ宦官かんがんこれはいかんれいみかど而立じりつごうこえこうこうかんれいみかどしょうきたかえし念頭ねんとうしるし召王芬,おう逃亡とうぼう自殺じさつ[40]

熹平石經いしきょう

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熹平よんねん(175ねん),议郎蔡邕认为儒家じゅか经典りゅう传过ほど中出なかいで现许错误,于是联合ちゅうつねさむらいじゅん五官ごかんちゅうろうしょうどう谿典ひかりろく大夫たいふ楊賜、谏议大夫たいふ马日磾、议郎张驯韩说ふとしれい单飏とうひと共同きょうどうじょう要求ようきゅう校勘こうかん儒家じゅか经典。于是汉灵みかど设立熹平せき经,はた校勘こうかんきさきてき儒家じゅか经典ぶん别刻ざいよんじゅうろく块石うえ,并安置あんちざいふとしがく门外,さく为经てん标准,供人ともびとがく[41]

おおとりもんがく

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かんれいみかどゆう赋、書法しょほう音樂おんがく爱好[42][43][44][45][46]光和こうわ元年がんねんれいみかど建立こんりゅうおおとりもんがく最初さいしょごうしょう研究けんきゅう儒术经义为名,きさき招集しょうしゅう众多文士ぶんし从事赋及书法とうぶん艺创さくかつ动。よしおおとりもんがく重文じゅうぶん艺而轻儒經典きょうてん,引起しょう大臣だいじん反對はんたい[47]

うれかん鬻爵

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かんれいみかどかえ侯爵こうしゃく生活せいかつ貧苦ひんくとういたとうりょう皇帝こうていこれ常常つねづねそしわらい桓帝經營けいえい家產かさん,於是だい肆賣かん鬻爵,はた所得しょとく做為わたしぼうぜに使用しよう[48]光和こうわ元年がんねんかんれいみかどざい西園にしぞのしつらえ官邸かんてい開始かいしうれかん鬻爵[49]

光和こうわさんねんかんれいみかどきょうけん畢圭えんれいこんえん

光和こうわよんねん(181ねん),れいみかどざいすめらぎ宫之ちゅう扩建西にし园,おさむけんあつまりきょう自己じことおる乐。れいみかど和宮かずのみやおんな仿民间市しゅうさとてき商人しょうにん、窃贼、痞,并驾しろ驴在西にし园中らいかい穿ほじ梭。[50][51]また曾于西園にしぞのろういぬあずかひとしし[52]拾遺しゅうい記載きさいかんれいみかどおこりはだかゆうかんせんあいだ,灵帝とく别喜欢娇嫩纯洁的幼女ようじょせんじゅう四歲以上十八歲以下的宮女于池中裸游,なみ命令めいれいみやおんなただのう穿ほじひらき檔褲,方便ほうべん自己じこ臨幸りんこうみやおんな[53]

中平なかひらねん洛陽らくよう南宮なんぐうくもだいらくなりもん火災かさいちゅうつねさむらいちょうゆずるちょうただしせつふくかんれいみかどはたぜいごとうね增收ぞうしゅうじゅうせん作為さくいおさむみや捐」,ざい修築しゅうちく宮殿きゅうでんてき材料ざいりょうじょうまただいため苛刻,なみ且藉あつ各州かくしゅうぐん財物ざいぶついた後來こうらい刺史しし太守たいしゅかくきゅう官吏かんりてき變動へんどうとくささえづけすけぐん捐」あるおさむみや捐」。ちょくいた鉅鹿太守たいしゅ司馬しばただし上奏じょうそうゆびひかえ政府せいふ服毒ふくどく自殺じさつかんれいみかどざい停止ていし徵收ちょうしゅうおさむみや捐」。[54]同年どうねんちぇれつづけりょうひゃくまんぜに擔任たんにんりょうかんれいみかどたい左右さゆうおやしんせつ:「當時とうじおう堅持けんじ,這個かん以賣せんまんぜに啊。」ほど夫人ふじんざいつくりせつ:「ちぇれつ冀州名士めいし,怎麼肯買かんざいてき份上ざいりょうひゃくまんせん,你還不滿ふまん啊。」[55]

中平なかひらさんねんかんれいみかどいのちかぎたてれいそうのりおさむけん南宮なんぐう玉堂きょくどう殿どのまたいのちわきにわれい畢嵐よん佛像ぶつぞうさいよん大鐘おおがねまたざいひら門外もんがいどくかくじゅうえびぶとじょうてき噴水ふんすい人工じんこう灑水しゃとう[56]

はいたてまき

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中平なかひらねんかんれいみかど聽從ちょうじゅうりょうふとしつねりゅう焉的建議けんぎはた刺史ししあらためなりりょう權力けんりょくさら龐大てきしゅうまぎ造成ぞうせいりょう群雄割據ぐんゆうかっきょてき基礎きそ[57]

西園にしぞのぐん

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中平なかひらねんはちがつかんれいみかどしたがえはばみだれ開始かいし留意りゅうい軍事ぐんじしょう黃門こうもんあしなえせき體格たいかくけんたけしふかどおり兵法ひょうほう武略ぶりゃく,於是かんれいみかど設立せつりつ西園にしぞのはちこうじょう,以蹇せきためうえぐんこうじょう管轄かんかつ西園にしぞのぐん西園にしぞのぐんてき勢力せいりょく龐大,れん大將軍だいしょうぐんとく接受せつじゅ管轄かんかつ[58]

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中平なかひらろくねんかんれいみかどざいみなみみや嘉德よしのり殿どのかんれいみかどゆう兩個りゃんこりゅうべん及劉きょうかんれいみかどみとめためりゅうべん輕佻けいちょうつぎそうりつりゅうきょうため太子たいしただしいちちょく十分じゅうぶん猶豫ゆうよ後來こうらいかんれいみかどびょうじゅう便びんりゅうきょうたくづけきゅうあしなえせきかんれいみかど後引あとひきはつりょうひがしかん最後さいごいちてき戚宦しょうそう間接かんせつしるべ致了ひがしかんてき滅亡めつぼう[59]

總體そうたい而言,かんれいみかど統治とうち時期じき朝政ちょうせいはい壞,うれかん鬻爵風氣かざけ盛行せいこうみん聊生げきおこり大量たいりょうみんへんしたがえ而成ためひがしかん滅亡めつぼうてき導火どうかせん

れいみかどあさ公卿くぎょう

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ふとしでん

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大將軍だいしょうぐん

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ふとしじょう

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つかさ

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  • えびすこう(-168ねん)
  • りゅうちょう(168ねん-169ねん)
  • もとくん(169ねん-171ねん)
  • はしげん(171ねん)
  • もと(171ねん-172ねん)
  • 袁隗(172ねん-176ねん)
  • 楊賜(176ねん-177ねん)
  • 袁滂(178ねん-179ねん)
  • りゅう郃(179ねん)
  • 楊賜(179ねん-181ねん)
  • ひねふけ(181ねん-182ねん)
  • 袁隗(182ねん-185ねん)
  • ちぇれつ(185ねん-187ねん)
  • もとしょう(187ねん-188ねん)
  • ちょうみや(188ねん-)

つかさそら

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  • せん(-168ねん)
  • おうとおる(168ねん)
  • りゅうちょう(168ねん)
  • もと栩(168ねん-169ねん)
  • りゅう(169ねん-170ねん)
  • はしげん(170ねん-171ねん)
  • らい(171ねん)
  • そう(171ねん-173ねん)
  • 楊賜(173ねん)
  • からちん(173ねん-174ねん)
  • もとくん(174ねん-176ねん)
  • りゅういつ(176ねん-177ねん)
  • ひねだま(177ねん)
  • ひねふけ(177ねん-178ねん)
  • らい豔(178ねん)
  • 袁逢(178ねん-179ねん)
  • ちょうわたる(179ねん-184ねん)
  • ちょうあつし(184ねん-185ねん)
  • 楊賜(185ねん)
  • もとしょう(185ねん-187ねん)
  • ちょうみや(187ねん-188ねん)
  • りゅうひろし(188ねん-)

评价

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  • 范晔きさき汉书·こう灵帝纪》:“《はたほん纪》说赵高せいゆび鹿しか为马,而赵ちゅう、张让また绐灵みかどとく登高とうこう临观,故知こちほろび敝者どう其致矣。しか则灵みかど为灵也优哉!”、“灵帝负乘,からだ宦孽。せいほろび备兆,《しょうみやびつきかけおうしか鹿しかしもとげ栖宫卫。”
  • ただしたく:“天下てんかおもむべとく贤明,まいねん灵帝,れいじん愤毒!”《きさき汉书·まきななじゅうよんじょう·袁绍刘表れつ传第ろくじゅうよんじょう
  • 盖勋:“われ仍见じょううえ甚聪あきらただし拥蔽于左右さゆうみみ。”《きさき汉书·おそれでん盖臧れつ传第よんじゅうはち
  • 张超れいみかど河閒こうまきゅういおり》:赫赫かくかくざいうえとうからうけたまわつぎとくよんそうただし憑.上納じょうのう鑒乎羲農.ちゅうゆい軌乎なつしょう元首げんしゅすんであかり股肱ここうおもんみ.乃因きゅう宇.福德ふくとくしょもと修飾しゅうしょくけい構.のうすきどく中天ちゅうてんそう闕.たかし冠山かんざんはなどうつうろう閑道.かいむらさきぼうきむまどうつりつたま璧內璫.あおかばたかし庖.しゅくさ栖箱.かわぎょおどりおどくもとりまいしょう煌煌こうこうだいかん.含德いぬいつなからだこう日月じつげつけん陰陽いんようかく上下じょうげふるえとおるはちあら三光さんこうせん曜.よんれいこうさちてん其嘉とおる豐年ほうねんみのるみのる.騶虞奏樂そうがく鹿しかこも觴.しゅく致告.ぶく祿ろくらいはたえいたもつ萬國ばんこく南山なんざん無量むりょう.(《艺文类聚 まきろくじゅうよん》)
  • 汉灵みかどあずか前任ぜんにん皇帝こうてい汉桓みかどてき统治时期东汉さいくろくらてき时期,诸葛あきらてき师表ちゅう就有しょく开国皇帝こうてい刘备每次まいじ“叹息つう恨于桓灵”てき陈述:“亲贤しん,远小じん,此先汉所以兴隆也たかや;亲小じん,远贤しん,此后汉所以倾颓也。先帝せんていざい时,まいあずかしん论此ごと尝不叹息痛恨つうこん于桓、灵也。”
  • 薛莹:“汉氏ちゅう兴,いたり于延ひら而世业损矣。冲质たん祚,こう桓无嗣,母后ぼこうしょうせい奸臣かんしん执政。こう灵以ささえ庶而とう至尊しそんゆかりしげるこう而绍すめらぎ统,恤宗绪,祗天いのちじょう亏三こうあきらしも伤亿ちょうこれもち。于时爵服よこりゅうかん以贿なり自公じこうこうきょうくだ于皂隶,迁官袭级无不以货,けい戮无辜,摧扑忠良ただよし;佞谀ざい侧,直言ちょくげん闻。以贤さとし退すさ而穷处,忠良ただよし摈于下位かいとげいたり奸雄かんゆう蜂起ほうきとうぼう隳坏,夷狄いてき并侵,とう贼糜にえ小者こもの带城邑,だいしゃ连州ぐん。编户骚动,人人ひとびと思乱おもいみだれとう此之时,やめ天子てんし矣。かい灵帝そくとう贼相寻,其後宫室。焚灭,郊社无主,危自上起かみおこし,覃及华夏。使つかいきょうしつ为墟,海内かいだい萧条,岂不つう哉!”(《ちょんすすむぶん·まきはちじゅういち》)
  • おうよしみひろえ遗记》:“やす、灵みかどどう为败とくおっとえつかいしん,罕不沦乎情欲じょうよく远鉴兴亡,孰能うつりへだたしもぞく。佣才缘心,缅乎嗜欲,ふさが谏任よこしまぼつじょう淫靡いんびいたり如列だいほろびぬし,莫不もたれたけしもう以丧こく,肆奢丽以覆むねまつ。询考さき坟,往往おうおう而载,佥求历古,しょ记非いち。贩爵鬻官,乖分职之ほん宿やど郊居,违省かた义。”
  • おそれみなみ:“灵帝うけたまわつかれみんきさきえき善政ぜんせいはじむ庶倾みみ。咸冀ちゅう兴,而帝袭彼くつがえ车,どく逾前辈,倾覆むねしゃ,职帝よしてんねん厌世,为幸矣。”(《からぶんじつ遗·まきじゅうさん》)
  • もりまき:“桓、灵四じゅうねん间杀せんひゃくどくりゅう社稷しゃしょく以血しょく乎?以坛?单父てんはい郊乎?”(《樊川文集ぶんしゅう》)
  • しゅう:“榜悬きん价鬻かん荣,せんまん为公ひゃくきょうおおやけ孔明こうめい穷退しゃあんともだか卧遇ゆうえい。”(《ぜんから诗·まきななひゃくじゅうきゅう》)
  • えびすさんしょう:“观灵みかど以尚ただしこれげん敢复ますだい榭,诚恐百姓虚散也,谓无爱民こころ乎!使つかい其以しんひさしただししゃしん诸君げん,则汉为汉,知也ともや。”(《资治どおり鉴·まきだいじゅうはち·汉纪じゅう》)
  • 蔡东はんきさき汉演义》:“汉季ちゅうつねさむらい,谁不曰可杀?おもんみいさおしゅ如桓灵,ほうしん而用。”「国家こっか赏罚有明ありあけ经,よいしょう谗言怎可听?功罪こうざいぶん昏愦甚,从知灵帝ほん无灵!」“わかひら乐观ちゅう讲武,设坛张盖,夸示威じい风,灵帝以为耀武,而盖勋乃以黩たけ为对,犹非ほん谈。黩武おもんみ汉武あし以当,灵帝岂足语此?かれこれしょ信任しんにんしゃ,妇寺而已,如皇はじめかさしゅ儁诸ざいみな不知ふち重用じゅうよう;甚至いちびょうおこり,犹视赛硕为忠贞,たくよせいのち,《范史》谓灵みかど负扆,からだ宦孽,せいほろび备兆,しょうみやびつきかけ,其亦しょ月旦げったんてい评也乎?”

家庭かてい

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汉灵みかど家族かぞく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふ肃宗孝章たかあき皇帝こうてい刘炟
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふついみことこうきよしすめらぎ刘开
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼ贵人さる
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふついみことこうもとすめらぎりゅうよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼついみことこうきよし皇后こうごう赵氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちちついみこと孝仁たかひとすめらぎ刘苌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼついみことこうもと皇后こうごうなつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう皇帝こうてい刘宏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はは孝仁たかひと皇后こうごうただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

嗣父

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后妃こうひ

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子女しじょ

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藝術げいじゅつ形象けいしょう

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かげ形象けいしょう

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登場とうじょう作品さくひん

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延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:こう漢書かんしょ/まき8》,出自しゅつじ范晔こう漢書かんしょ
维基文库中的相关文本:ひがしかんかん
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参考さんこう资料

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  1. ^ どおりかん》〈かん〉:こう皇帝こうていえいやすし元年がんねん(167ねん)...たけ乃入白太しらたきさきじょうさく禁中きんちゅう,以鯈もりこう祿ろく大夫たいふあずかちゅうつね侍曹じそうぶしなみぶしはたちゅう黃門こうもんとら賁、羽林はばやしせんにん奉迎ほうげいひろしねんじゅう。(註)傳統でんとう史書ししょ記載きさいねんとし以虛とし推知すいちかんれいみかどせい於156ねん
  2. ^ こう漢書かんしょ》〈こうれい皇帝こうてい〉:たてやすし元年がんねん(168ねんはる正月しょうがつみずのえうま城門じょうもんこうじょう竇武ため大將軍だいしょうぐんおのれみかどいたなつもんてい使つかい竇武ぶし,以王あおぶたしゃむかえにゅう殿中でんちゅうかのえそく皇帝こうていねんじゅう
  3. ^ どおりかん》〈かん〉:熲於將兵しょうへいまん餘人よにんつぎじゅうにちかてしたがえ彭陽ちょくゆびだかひらめあずかせんれい諸種しょしゅせん於逢やまとりこへいもり,熲眾みなこわ。熲乃れいぐんちゅうちょう鏃利ちょうほこさんじゅうはさみ強弩きょうどれつけいため左右さゆうつばさいい將士しょうし曰:「いま家數やかず千里せんりしんのりごとなりはし必盡努力どりょくども功名こうみょう!」いん大呼たいこ,眾皆おうごえあが赴,はせ於傍,突而げきとりこ眾大つぶせ斬首ざんしゅはちせんあまりきゅうふとしきさきたまもの詔書しょうしょ褒美ほうび曰:「須東羌盡じょうとうなみろくこうつとむこん且賜熲錢じゅうまん,以家いち人為じんいろうちゅう。」敕中くら調ちょう金錢きんせんいろどりぶつぞうじょ軍費ぐんぴはい熲破羌將ぐん
  4. ^ どおりかん》〈かん〉:だん熲將けいへいつい羌,橋門はしかど,晨夜兼行けんこうあずかせん於奢延澤のぶさわ落川おちかわれい鮮水じょう連破れんぱまたたたかえ於靈武谷たけや,羌遂大敗たいはいあきなながつ,熲至涇陽,あまり寇四せん落,悉散いれかん山谷さんやあいだ
  5. ^ どおりかん》〈かん〉:熲於すすむ營,羌所たむろ凡亭やまよんじゅう馬田まだ晏、かり司馬しばなついくしょうせんにん先進せんしん擊破げきは。羌眾つぶせひがし奔,ふく聚射虎谷とらだにふんへい守谷もりや上下じょうげもん,熲規いち舉滅よくふくれいはしあきなながつ,熲遣千人於西縣結木為柵,こうじゅうちょうよんじゅうさえぎこれ分遣ぶんけん晏、そだてとうはたななせんにん銜枚よる上西山かみにしやまゆい營穿塹,とりこいちさともとまた司馬しばちょうとうしょうさんせんにん上東山かみひがしやまとりこ乃覺。熲因あずか愷等夾東、西山にしやまたてへい奮擊,やぶこれついいたりたに上下じょうげもんきゅうさん深谷ふかやこれちゅう處處ところどころやぶこれ其渠そち以下いかまんきゅうせんきゅう馮禪ひとしところ招降よんせんにんふんおけ安定あんていかん隴西さんぐん。於是ひがし羌悉たいら。熲凡ひゃくはちじゅうせんさんまんはちせんきゅうざつ畜四じゅうまんななせんとう費用ひようよんじゅうよんおくぐん死者ししゃよんひゃく餘人よにんさらふう新豐しんゆたかけんこう,邑まん
  6. ^ どおりかん》〈かん〉:はつ,竇太きさきたて也,ちんしげる有力ゆうりょく焉。及臨あさせい大小だいしょうみな於蕃。しげるあずか竇武同心どうしん戮力,以獎王室おうしつちょう天下でんかめいけん膺、もりみついんいさおりゅう瑜等,みなれつ朝廷ちょうていあずかきょう參政さんせいごと。於是天下でんか,莫不のべ想望そうぼう太平たいへい。而帝乳母うばちょう及諸おんな尚書しょうしょ旦夕たんせきざいふとしきさきがわちゅうつね侍曹じそうぶしおうはじめとうどもしょうともゆい,諂事ふとしきさきふとしきさき信之のぶゆきかずみことのりいのちゆうしょふうはいしげるやましこれ,嘗共かいあさどうしげるわたしいいたけ曰:「曹節、おうはじめとう先帝せんていみさおろう國權こっけんにごらんうみ內,こん誅之,必難。」たけふかししかこれしげる大喜だいぎ,以手しいせき而起。たけ於是引同志どうし尚書しょうしょれいいん勳等くんとうどもていけいさくかいゆう日食にっしょくへんしげるいいたけ曰:「むかししょうもちこまいちいしあらわきょういませきあらわすうじゅうやから乎!しげる以八じゅうこれねんほしため將軍しょうぐんじょがいこんいん日食にっしょく斥罷宦官かんがん,以塞天變てんぺん。」たけ乃白のしらたいきさき曰:「故事こじ黃門こうもんつねさむらいただしとうきゅうごとしょう內典門戶もんこしゅこんしょ財物ざいぶつみみこん乃使あずか政事せいじにんじゅうけん子弟していぬのれつせんためむさぼ暴。天下てんか匈匈,せい以此むべ悉誅はい以清朝廷ちょうてい。」ふとしきさき曰:「かんもと以來いらい故事こじせいゆう宦官かんがんただしとう誅其有罪ゆうざいしゃあにつきはいよこしま!」ちゅうつねさむらいかん,頗有才略さいりゃく專制せんせいしょう內,たけさきはくおさむ霸及ちゅうつねさむらいやすしひとしみなすわたけふくすうしろ誅曹ぶしとうふとしきさき猶豫ゆうよにん故事こじひさ不發ふはつしげるじょう疏曰:「こん京師けいし囂囂ごうごう道路どうろ喧嘩げんかげんこうらん、曹節、おおやけじょうおうはじめていひとしあずかちょう夫人ふじんしょ尚書しょうしょなみらん天下でんか從者じゅうしゃますすすむ,忤逆しゃ中傷ちゅうしょう,一朝群臣如河中木耳,泛泛東西とうざいふけ祿ろくかしこがい陛下へいかこん不急ふきゅう誅此曹,必生變亂へんらんかたぶけ社稷しゃしょく,其難りょう願出ねがいでしんあきらせんしめせ左右さゆうなみれい天下でんかしょ奸知しんやましこれ。」ふとしきさき不納ふのうこれがつ太白たいはくはんぼううえすすむにゅうふとしほろさむらいちゅうりゅう瑜素ぜんてんかんあく上書うわがき皇太后こうたいごう曰:「あんうらないしょ》:宮門きゅうもんとう閉,しょうしょう不利ふり,奸人ざいしゅはたねがいきゅうぼう。」またあずかたけしげるしょ,以星辰せいしん錯繆,不利ふり大臣だいじんむべ速斷そくだん大計たいけい。於是たけしげる以朱ぐうため隸校じょうりゅうゆうため河南かなんいんおそれため雒陽れいたけそうめん黃門こうもんれいあや,以所おやしょう黃門こうもんやまだい使つかい冰奏おさむ長樂ながら尚書しょうしょてい颯,おく北寺きたてらごくしげるいいたけ曰:「此曹便びんとうおさむころせなにふくこうため!」たけしたがえれい冰與いんいさおさむらいしゅく雜考ざっこう颯,れん及曹ぶしおうはじめくん、冰即そうおさむふしとう使つかいりゅう瑜內そう九月くがつからしたけいずる宿やどてん中書ちゅうしょしゃさき以告長樂ながら五官ごかんしゅ,瑀盜はつたけそうののし曰:「ちゅうかん放縱ほうしょうしゃ誅耳,わが曹何ざい,而當つきぞくめつ!」いん大呼たいこ曰:「ちんしげる、竇武そう白太しらたきさき廢帝はいていため大逆だいぎゃく!」乃夜召素しょおや壯健そうけんしゃ長樂ながらしたがえかんきょうひろしちょうあきらとうじゅうななにん,歃血どもめいはかりごと誅武とう。曹節しろみかど曰:「外間ほかま切切せつせつ,請出德陽とくようぜん殿しんがり。」れいみかど拔劍ばっけん踴躍,使つかい乳母うばちょう嬈等ようまもる左右さゆう棨信,閉諸禁門きんもん,召尚しょかんぞくおびえ以白使つかいさくみことのりばんはいおうはじめため黃門こうもんれいぶしいたり北寺きたてらごくおさむいんいさおやま冰。冰疑,受詔,はじめかくころせこれなみころせくんてい颯,かえへいこうふとしきさきだつ璽綬。れいちゅう謁者もり南宮なんぐう閉門へいもんぜっふくどう使つかいてい颯等ぶし及侍謁者おさむたけひとしたけ受詔,はせにゅう兵營へいえいあずか兄子せこ步兵ほへいこうじょうきょう射殺しゃさつ使者ししゃ。召會きたぐん五校士數千人屯都亭,したれいぐん曰:「黃門こうもんつねさむらいはん盡力じんりょくしゃふうこうじゅうしょう。」ちんしげる聞難ききにく將官しょうかんぞくしょせいはちじゅう餘人よにんなみ拔刃突入とつにゅううけたまわあかりもんいた尚書しょうしょもん,攘臂よび曰:「大將軍だいしょうぐんちゅう以衛こく黃門こうもん反逆はんぎゃくなにうん竇氏みちよこしま!」おうはじめあずかしげるしょうぐうてき聞其ごと,而讓しげる曰:「先帝せんていしん棄天山陵さんりょう未成みせいたけゆうなにこう兄弟きょうだい父子ふしなみふうさんこうまた設樂したらいんえんわき廷宮じん旬日じゅんじつあいだ,貲財きょまん大臣だいじんわか此,ためどうよこしまおおやけためおさむ輔,苟相おもねとうふくなにもとめぞく!」使つかい劍士けんしおさむしげるしげる拔劍ばっけんしかはじめ辭色じしょく逾厲。とげしげるおく北寺きたてらごく黃門こうもんしたがえかん騶蹋踧蕃曰:「ろうふくのうそんわが曹員すうだつわが曹稟かり!」即日そくじつころせこれときまもる匈奴きょうどちゅうろうはたちょう奐徵かえ京師けいし,曹節とう以奐しんいたり不知ふちほんはかりごと,矯制以しょうしゅうやすしくだりしゃ將軍しょうぐんぶしあずか奐率營士討武。よるつきおうはじめはたとら賁、羽林はばやしとうごうせん餘人よにんたむろ朱雀すざくわきもんあずか奐等あいやめ而悉ぐん闕下,あずかたけたいひねはじめへいややもり使つかい其士大呼たいこぐん曰:「竇武はんなんじみなきんへいとう宿衛しゅくえいみやしょう何故なぜずいはんしゃ乎!さきくだゆうしょう!」營府へいもと畏服いふくちゅうかん,於是たけぐんややややかえりはじめだんいたりしょくへいくだほぼつきたけ、紹走,しょぐんついかこえこれみな自殺じさつ梟首きょうしゅ雒陽ちんおさむそうちかし賓客ひんきゃく姻屬,悉誅,及侍ちゅうりゅう瑜、たむろこうじょう馮述,みなえびす其族。宦官かんがんまた譖虎賁中ろうはた河間こうまりゅうよし尚書しょうしょかい稽魏ろううんあずかたけひとし通謀つうぼうみな自殺じさつ。遷皇太后こうたいごう於南みや,徙武ぞく日南にちなん自公じこうきょう以下いか嘗為しげるたけしょ舉者及門せい吏,みな免官めんかん禁錮きんころう勃海ともえ肅,はじめあずかたけひとしどうはかりごと,曹節とう不知ふちただしすわ禁錮きんこ乃知而收。肅自まいけん縣令けんれい肅,入閣にゅうかくかい印綬いんじゅほしあずか俱去。肅曰:「ため人臣じんしんしゃゆうはかりごと敢隱,有罪ゆうざい逃刑,すんでかくれ其謀矣,また敢逃其刑乎!」とげ誅。曹節遷長樂ながらまもるじょうふうそだてこうおうはじめ遷中つねさむらい黃門こうもんれい如故。しゅ瑀、きょうひろしちょうあきらとうろくにんみなため列侯れっこうじゅういち人為じんいせき內侯。於是ぐんしょうとくこころざし大夫たいふみなしげる友人ゆうじんひねとめしゅしんおさむそうしげるかばね,匿其いっことさとし,繫獄,ごうもん桎梏しっこくふるえ受拷かすめちかい不言ふげんいっよしとくめんたけじょうかつらようえびすあが殯斂たけかばねぎょうすわ禁錮きんこたけまごねんさいあがいつわり以為おのれあずかれい南陽なんようちょうたかしきょう匿之於れいりょうさかいちゅうまたとくめんちょう奐遷だいつかさみのり,以功ふうこう。奐深びょうため曹節とうしょうり固辭こじ受。
  7. ^ どおりかん》〈かん〉:「むかししゅう公葬こうそう如禮,てん乃動こん竇武、ちんしげるちゅうさだあかりなだめ,妖眚みなため此也。むべきゅうため改葬かいそう,徙還ぞく,其從すわ禁錮きんこ一切いっさい蠲除。また皇太后こうたいごう雖居南宮なんぐう,而恩れいせっ朝臣あそん莫言,遠近えんきん失望しつぼうむべおもえ大義たいぎ顧復むくい。」
  8. ^ どおりかん》〈かん〉:「しん聞『おもんみ虺惟へび女子じょしさち』。ふくおもんみ皇太后こうたいごうじょうさくみや闥,援立ひじりあきら,《しょ》曰:『父子ふし兄弟きょうだいつみあい及』,竇氏誅,あにむべとがめのべふとしきさきかそけへだたむなしみや,愁感天心てんしん,如有きりやまし陛下へいかとうなん面目めんぼく以見天下でんか孝和こうわ皇帝こうていぜっ竇氏おん前世ぜんせい以為美談びだんれい,『ため人後じんごしゃため之子ゆきこ』,こん以桓みかどためちちあに以太きさきためはは哉!ねがい陛下へいかおおせ慕有おそれふけふけこれ,俯思《凱風》慰母ねんしんまた聞『開國かいこくうけたまわいえ小人こども勿用』。こん功臣こうしんひさがいこうむ爵秩,おもねははちょうわたし,乃享だいふうじ大風おおかぜ雹,またよし於茲。またふとしでんちんしげるつとむ王室おうしつ,而見おちいぐんよこしま一旦いったん誅滅ちゅうめつ,其為こく濫,駭動天下でんか;而門せい吏,なみはなれ徙錮。しげるやめ往,にんひゃくなん贖!むべかえ其家ぞく解除かいじょきんもうおっとだいおさむ重器じゅうきくにいのちしょ繫,いまよんおおやけただそらりゅうちょうだんだんもりぜんあまりみなもと餐致寇之じん,必有おりあしくつがえ餗之きょういんわざわいことなみやめ黜,せいつかさそらおうとおる長樂ながらしょう膺並きょ政事せいじ,庶災へんきえくに祚惟なが。」
  9. ^ どおりかん》〈かん〉:はつ膺等雖廢錮,天下てんか大夫たいふみな高尚こうしょう其道而污けがれ朝廷ちょうていまれこれしゃただおそれ及,さらどもしょう標榜ひょうぼう為之ためゆき稱號しょうごう:以竇たけちんしげるりゅうよし為三ためぞうくんくんしゃげん一世之所宗也;膺、荀翌もりみつおうとおるりゅうゆうろうちょうのりしゅためはちしゅんしゅんしゃげんじん英也ひでやかくやすし、范滂、いんいさおともえ肅及南陽なんようそうちんとめなつなんじみなみ蔡衍泰山たいざんひつじのぼるためはち顧,顧者,げんのう以德ぎょう引人しゃ也;ちょう翟超岑晊えんやすし山陽さんようりゅうひょうなんじみなみちんしょう、魯國あな山陽さんようだんじきためはち及,及者,げん其能しるべじんついむねしゃ也;なお及東ひらたちょうおうたかしひがしぐんりゅう泰山たいざんえびすはははんちんとめはたあまね、魯國しげるむかいひがしおうあきらためはち廚,廚者,げんのう以財すくいじんしゃ也。及陳、竇用事ようじふく舉拔膺等;ひね、竇誅,膺等ふくはい宦官かんがんやましあく膺等,まいした詔書しょうしょ,輒申黨人とうじんきんほうらん怨張儉尤甚,らんきょうじんしゅなみもと佞邪,ため儉所棄,うけたまわらんゆび上書うわがきつげ儉與同鄉どうきょうじゅうよんにんべつしょうしょごうきょうためとう社稷しゃしょく,而儉為之ためゆきさきがけみことのりかんあきら儉等。ふゆじゅうがつ大長おおちょうあき曹節いん此諷有司ゆうしそうしょかぎとうしゃつかさそらおそれ及李膺、もりみつしゅ㝢、荀翌、翟超、りゅう儒、范滂とう,請下しゅうぐんこう。」うえねんじゅうよんもんぶしとう曰:「なに以為かぎとう?」たい曰:「かぎとうしゃそく黨人とうじん也。」じょう曰:「黨人とうじんなんようためあく而欲誅之よこしま?」たい曰:「みなしょう舉群やからほしため不軌ふき。」じょう曰:「不軌ふきよく如何いか?」たい曰:「よく社稷しゃしょく。」上乃うえの其奏。あるいい膺曰:「矣!」たい曰:「ことなんつみ逃刑,しん節也せつやわれねんやめろくじゅう死生しせいゆういのちはた安之やすゆき!」乃詣みことのりごくこう門生もんせい吏並禁錮きんこさむらいしょくぐんけいあつしため門徒もんとゆうろく牒,及於譴,あつし慨然がいぜん曰:「ほんいい膺賢,あに以漏だつ名籍めいせき,苟安而已!」とげひょうめんなんじみなみとくしるべ受詔范滂,いたりせい羌,だき詔書しょうしょ閉傳捨,ふくゆか而泣,いちけん不知ふち所為しょい。滂聞曰:「必為わが也。」そくまいごく縣令けんれいかく揖大おどろきかい印綬いんじゅ,引與俱亡,曰:「天下てんかだい矣,なんためざい此!」滂曰:「滂死そくふさがなに敢以ざいるいくんまたれい老母ろうぼ流離りゅうり乎!」其母就與訣,滂白はは曰:「なか博孝ひろたかけいあし供養くよう。滂從りゅう舒君黃泉よみ存亡そんぼうかくとく其所。おもんみ大人おとなわり不可ふかにんおん,勿增かん戚!」なかひろししゃ,滂弟也。りゅう舒君しゃ,滂父りゅう舒侯しょうあらわ也。はは曰:「なんじいまあずかもりひとしめいまたなに恨!すんでゆう令名れいめいふくもとめことぶきかんがえけんとく乎!」滂跪受教,再拜さいはい而辭。顧其曰:「われほっ使なんじためあくあく不可ふかため使なんじためぜんのりわが不為ふためあく。」行路こうろ聞之,莫不流涕りゅうてい。凡黨じん死者ししゃひゃく餘人よにん妻子さいしみな徙邊,天下てんかごう桀及儒學じゅがくゆう行義ゆきよししゃ宦官かんがん一切いっさいゆびため黨人とうじんゆう怨隙しゃいんしょうおちいがい,睚眥忿,濫入黨にゅうとうちゅうしゅうぐんうけたまわむねある有未ゆみ嘗交せきまたはなれどく,其死、徙、はいきんしゃまたろくななひゃくにん
  10. ^ どおりかん》〈かん〉:うえねんじゅうよんもんぶしとう曰:「なに以為かぎとう?」たい曰:「かぎとうしゃそく黨人とうじん也。」じょう曰:「黨人とうじんなんようためあく而欲誅之よこしま?」たい曰:「みなしょう舉群やからほしため不軌ふき。」じょう曰:「不軌ふきよく如何いか?」たい曰:「よく社稷しゃしょく。」上乃うえの其奏。
  11. ^ どおりかん》〈かん〉:竇太きさきははそつけいふとしきさきおもえかんやまし癸巳きしくずし於雲だい。宦者積怨せきえん竇氏,以衣車載しゃさいふときさきかばねおけ城南しろみなみ捨,數日すうじつ,曹節、おうはじめよくよう貴人きじんれい殯。みかど曰:「ふとしきさきおやりつちん躬,すべうけたまわ大業おおわざあにむべ以貴じんおわり乎!」於是はつなりれいふしとうよくべつそうふとしきさき,而以馮貴じんはい祔。みことのり公卿くぎょう大會たいかいあさどうれいちゅうつねさむらいちょうただしかんふとしじょう咸時びょう,扶輿而起,搗椒したがえいい妻子さいし曰:「わか皇太后こうたいごうとくはいしょく桓帝,われ生還せいかん矣!」すんですわしゃすうひゃくにんかく瞻望良久よしひさ,莫肯さきげんちょうただし曰:「當時とうじじょう!」廷尉ひねだま曰:「皇太后こうたいごう盛德せいとく良家りょうけはは臨天むべはい先帝せんていしょうたぐ。」ちゅうわらい而言曰:「ひね廷尉よろし便びんみさおひつ。」たまそく曰:「皇太后こうたいごう自在じざいはじかみぼうゆう聰明そうめいははとく;遭時みやつこ,援立ひじりあきら承繼しょうけい宗廟そうびょうこうれついたりじゅう先帝せんてい晏駕,いんぐう大獄たいごく,遷居そらみや不幸ふこう早世そうせいいえ雖獲ざいことふとしきさきこんわかべつそうまことしつ天下でんかもち。且馮貴人きじんづか嘗被發掘はっくつ骸骨がいこつ暴露ばくろあずかぞくなみかばねたましいれい污染,且無こう於國,なにむべうえはい至尊しそん!」ちゅうしょうだまさくしょく俯仰ふぎょう,蚩球曰:「ひね廷尉けん此議甚健!」たま曰:「ひね、竇既冤,皇太后こうたいごう幽閉ゆうへいしんつね痛心つうしん天下てんかいきどお歎!今日きょうげん退すさ而受ざい宿やどむかしねがい也!」咸曰:「しんほんいいよろししかまことあずかあい。」於是公卿くぎょう以下いかみなしたがえだま。曹節、おうはじめなおそう,以為:「りょうきさきいえはん惡逆あくぎゃくべつそう懿陵,たけみかど黜廢まもるきさき,而以夫人ふじんはいしょくこん竇氏罪深つみぶかあにとくごうそう先帝せんてい!」咸復じょう疏曰:「しんふくおもんみあきらとく竇后しいたげがいきょうふところやすおもえ閻后いえはん惡逆あくぎゃく,而かずみかどことそうじゅんあさ貶降ぶんいたり於衛きさきこうたけ皇帝こうていしょ廢棄はいき不可ふか以為こん長樂ながらたいきさき尊號そんごうざいおや嘗稱せい,且援りつひじりあきら光隆みつたか皇祚こうそふとしきさき以陛ため陛下へいかあに以太きさきためはは黜母,しん貶君,むべごうそうせんりょう一如いちにょ舊制きゅうせい。」みかどしょうかなでしたがえこれ
  12. ^ どおりかん》〈かん〉:有人ゆうじんしょ朱雀すざく闕,げん:「天下てんか大亂たいらん,曹節、おうはじめかそけころせぶときさき公卿くぎょうみなしかばね祿ろく忠言ちゅうげんしゃ。」みことのり隸校じょうりゅうたけし逐捕,十日とおかいちかいもう以誹しょげんじき肯急月餘げつよおもめいたてもうすわひだりてん諫議大夫たいふ,以御ちゅうすすむだん熲代。熲乃よん逐捕,及太がくゆうせいけいしゃせん餘人よにんふしとうまた使つかい熲以它事そうもうろん輸左こう
  13. ^ どおりかん》〈かん〉:閏月じゅんげつ永昌えいしょう太守たいしゅ曹鸞上書うわがき曰:「おっと黨人とうじんしゃある耆年ふちとくある衣冠いかんえいけんみなむべ股肱ここう王室おうしつ左右さゆうだい猷者也;而久禁錮きんこはずかしめざいぬりどろ謀反むほん大逆だいぎゃくなおこうむ赦宥,黨人とうじんなんざいどくひらけじょ乎!所以ゆえんわざわい屢見,みずひでり荐臻,みなよし於斯。むべ沛然はいぜん,以副天心てんしん。」みかどしょうかなでだいいかそくみことのり隸、えきしゅうおりしゃおさむ鸞,おくえんじゅうらごくかすめころせこれ。於是みことのりしゅうぐんさらこう黨人とうじん門生もんせい吏、父子ふし兄弟きょうだい在位ざいいしゃ,悉免官めんかん禁錮きんこ,爰及ぞく
  14. ^ どおりかん》〈かん〉:みかど群臣ぐんしん會議かいぎ北地きたじ太守たいしゅすめらぎはじめかさ以為むべ解黨かいとうきんえきちゅうぞうぜに西園にしぞの廄馬以班ぐんかさぶんまわしこれ兄子せこ也。うえといけい於中つねさむらいりょきょうたい曰:「とう錮久せき人情にんじょう怨憤,わか赦宥,けいあずかちょうかくあいはかりごとためへんしげるだい,悔之すくいこん請先誅左右さゆうむさぼにごしゃ大赦たいしゃ黨人とうじん料簡りょうけん刺史ししせんせき能否のうひのりぬすめ不平ふへい矣。」みかど懼而したがえこれみずのえ,赦天黨人とうじんかえしょ徙者;ただちょうすみ赦。
  15. ^ どおりかん》〈かん〉:りょうしゅう刺史しし扶風はじめ佗遣從事じゅうじにんわたるはた敦煌とんこうへいひゃくにんあずかつちのえおのれ司馬しば曹寬、西域せいいきちょうはりえんはた焉耆、かめ茲、くるままえ後部こうぶごうさんまん餘人よにん討疏,おさむ楨中じょうよんじゅうにち不能ふのう引去ひきさ。其後疏勒おうれんしょう殺害さつがい朝廷ちょうていまた不能ふのうふく
  16. ^ どおりかん》〈かん〉:まもるがらす桓校じょうなついくじょうげん:「鮮卑寇邊,はる以來いらいさんじゅうはつ,請征かそけしゅうもろぐんへいふさがげきいちふゆはる,必能禽滅。」さきまもる羌校じょう晏坐ごとろんけいはらよくりついさおこう,乃請ちゅうつねさむらいおうはじめもとめためはたはじめいん此議へいあずかいくなみりょく討賊,みかど乃拜晏為やぶ鮮卑ちゅうろうしょう大臣だいじんゆう不同ふどう,乃召百官議於朝堂。蔡邕曰:「征討せいとうことるい所由しょゆうなお矣。しか而時ゆうどうこといきおいゆう可否かひはかりごとゆう得失とくしつことゆう成敗せいばい不可ふかひとし也。おっと以世そう神武じんむ將帥しょうすいりょうたけしざい充實じゅうじつしょくくこうとおすうじゅう年間ねんかん官民かんみん俱匱,なおゆう悔焉。きょういまじんざいなみとぼしことれつ昔時せきじ乎!匈奴きょうど遁逃,鮮卑きょうもりよりどころ其故しょうへいじゅうまん才力さいりょく勁健,さとし益生ますお以關ふさがげんきんもうせい金良かねらてつみなためぞくゆう漢人かんど逋逃為之ためゆきはかりごとぬしへいやまし於匈やつむかしだん熲良はた,習兵善戰ぜんせん有事ゆうじ西にし羌,なおじゅうねんいまそだて、晏才さく未必みひつ熲,鮮卑しゅ眾不じゃく曩時,而虛けいもとゆうなりわかわざわいゆいへいれんあにとく中休なかやすみとうふくせいはつ眾人,てんうんやめため耗竭しょなつなみりょく蠻夷ばんいおっとたれ患,手足てあしはたけ搔,中國ちゅうごくこまむね瘭疽,方今ほうこんぐんけん盜賊とうぞくひさし不能ふのうきんきょう此醜とりこ而可ふく乎!むかし高祖こうそにん平城ひらじろはじりょきさき棄慢しょ詬,ぽう於今,何者なにものため甚?てんしつらえ山河さんがはたきずけ長城ちょうじょうかんおこりふさがかき所以ゆえんべつ內外,ことぞく也。苟無蹙國內侮患則矣,あにあずかむしありとりここう往來おうらいすう哉!雖或やぶこれあに殄盡,而方れい本朝ほんちょう為之ためゆき旰食乎!むかし淮南ワイナンおうやす諫伐えつ曰:『如使越人えつじんこうむ以逆執事しつじ,廝輿これそつゆういち不備ふび而歸しゃ,雖得えつおうくびなおためだいかん羞之。』而欲以齊みんえきうしとりこすめらぎはずかしめがいえびす,就如其言,なおやめ危矣,きょう得失とくしつ不可ふかりょうよこしま!」みかどしたがえはちがつなついく高柳たかやなぎ晏出くもちゅう匈奴きょうどちゅうろうはた臧旻りつみなみたん于出かりもんかくしょうまん,三道出塞二千餘里。まゆみせきえんじゅいのち三部大人各帥眾逆戰,そだてとう大敗たいはい其節でん輜重しちょうかくしょうすうじゅう奔還,死者ししゃななはちさんしょうおりしゃせい下獄げごく,贖為庶人。
  17. ^ どおりかん》〈かん〉:渤海おう悝之貶癭すえ也,いんちゅうつねさむらいおうはじめもとめふくこくもとしゃぜにせんまんすんで而桓みかどのこみことのりふく悝國,悝知はじめこう肯還しゃぜにちゅうつねさむらいてい颯、なか黃門こうもんただしあがかずあずか交通こうつうはじめみつ察以つげだん熲。ふゆじゅうがつおさむ颯送北寺きたてらごく使つかい尚書しょうしょれいれんちゅう誣奏「颯等はかりごとむかえたて悝,大逆だいぎゃくみち」,とげみことのり冀州刺史ししおさむ悝考さこせめ悝,れい自殺じさつわらわじゅういちにん子女しじょななじゅうにん、伎女じゅうよんにんみな獄中ごくちゅうでんそう以下いか悉伏誅。はじめとうじゅうにんみな以功ふう列侯れっこう
  18. ^ どおりかん》〈かん〉:あきなながつみずのえあおにじ玉堂きょくどう殿どのにわちゅうみことのり召光祿ろく大夫たいふ楊賜とうまいきむしょうもんもん以災及消ふくじゅつたまものたい曰:「《春秋しゅんじゅうげん韱》曰:『てんとう蜺,天下てんか怨,うみ內亂。』よんひゃくこれまたふくたれ及。こんわらわ媵、閹尹どもせんこくあさ,欺罔日月じつげつまたおおとり門下もんか招會群小ぐんしょう造作ぞうさくせつちょう於時,さらしょうこもせつ旬月じゅんげつあいだなみかく拔擢ばってきらくまつしょつねはくにんしばきょ納言なごん,郤儉、りょうくぐいかく受豐爵不ちょう,而令搢紳ふく畎畝,口誦こうしょうしゅんこれげん蹈絕ぞくこれぎょう,棄捐みぞ壑,逮及。かんむりくつたおせえきりょうたにだいしょさいわいよりゆきすめらぎてんたれぞう譴告。《しゅうしょ》曰:『天子てんしかいそく修德しゅうとく諸侯しょこうかいそくおさむせいきょう大夫たいふかいそくおさむしょく人見ひとみかいそく修身しゅうしん。』ただ陛下へいか斥遠佞巧しんそくせい鶴鳴かくめいこれ斷絕だんぜつじゃくいち抑止よくし槃游,冀上天じょうてんかえ,眾變弭!」ろう蔡邕たい曰:「しんふくおもえしょことみな亡國ぼうこくかい也。てん於大おだいかんいんつとむやめ屢出祅變以當譴責けんせきよくれい人君じんくんかんさとるあらため危即やすこん蜺墮、雞化,みな婦人ふじん政之まさゆきしょ致也。前者ぜんしゃ乳母うばちょう嬈,貴重きちょう天下でんか,讒諛驕溢,ぞく以永らくもん霍玉阻城しゃまたため奸邪。こん道路どうろ紛紛ふんぷんふくくもゆうほど大人おとなしゃ,察其風聲ふうせいはた為國ためくに患;よろしこうため堤防ていぼうあきらしつらえ禁令きんれいふかおもんみちょう、霍,以為いたり戒。いまふとしじょうちょうためだましょすすむひかり祿ろくくんえらあきら有名ゆうめいむさぼにごまたちょうみずこうじょうちょうたむろこうじょうぶたますなみ叨時こう榮富えいとみゆうあしむべねん小人こども在位ざいいとがめ退すさおもえ引身避賢ぶく伏見ふしみ廷尉かくじゅんあつ老成ろうせいこう祿ろく大夫たいふきょうげんさとしたちかたちょくふとしじょうりゅうちょう忠實ちゅうじつ守正もりまさなみよろしためはかりごとぬしすう訪問ほうもんおっと宰相さいしょう大臣だいじんきみよんたい委任いにんせめなり優劣ゆうれつやめぶんよろし聽納ちょうのう小吏しょうり,雕琢大臣だいじん也,またひさしかたこうわざさくおおとりへんぶん且消いき,以示おもんみゆう宰府さいふこうれんこうせんこんしゃ以辟召不まききりせめ三公みつきみ,而今なみ以小ぶんちょうせん舉,ひらき請托せいたくもんたがえ明王みょうおう,眾心いや,莫之敢言。しんねがい陛下へいかにん而絕思惟しいまん,以答天望てんぼうせいあさすんでやく厲,左右さゆう近臣きんしんまたむべしたがえにんそもそもそこね,以塞とがめ戒,のり天道てんとう虧滿,鬼神きじんぶくけん矣。おっと君臣くんしんみつうえゆうげん戒,しもゆうしつわざわいねがいしんひょう使つかい盡忠じんちゅう吏受怨奸かたき。」あきらかなでみかどらん歎息たんそくよしおこり更衣ころもがえ,曹節於後竊視,悉宣左右さゆうこととげ。其為邕所さい黜者,側目そばめおもえほうはつ,邕與だいおおとりりゅう郃素あいひらめ叔父おじまもるじょうしつまたあずかはたつくだいたくみだまゆうすきたまそくちゅうつねさむらいほどおんなおっと也。璜遂使じんあきらげん「邕、しつすう私事しじ請托せいたく於郃,郃不聽。邕含かくれこころざしほっしょうちゅう。」於中みことのり尚書しょうしょ召邕つめじょう。邕上書うわがき曰:「しんじつ戇,顧後がい陛下へいか不念ぶねん忠臣ちゅうしん直言ちょくげんむべ掩蔽えんぺい誹謗ひぼうそついたり便びんよううたぐかいしんねんよんじゅうゆうろくとく一身いっしんとくたくめい忠臣ちゅうしん有餘ゆうよさかえおそれ陛下へいか於此ふく至言しげん矣!」於是邕、しつ於雒ごく,劾以「仇怨きゅうえん奉公ほうこうがい大臣だいじんだい不敬ふけい,棄市。」ことそうちゅうつねさむらい河南かなんりょきょう愍邕無罪むざいちからためしん請。みかどまたさらおもえ其章,ゆうみことのり:「げん一等いっとうあずかいえぞく髡金あま,徙朔鉗方,とく以赦れいじょ。」だま使きゃくおいとげ邕,きゃくかん其義,みな莫為ようたままたまいない其部ぬし使つかい毒害どくがいしょまいないしゃはん以其じょう戒邕,ゆかりとくめん
  19. ^ どおりかん》〈かん〉:そう皇后こうごうちょう後宮こうきゅうこうひめ眾共譖毀。渤海おう悝妃そうそくしゅうと也,ちゅうつねさむらいおうはじめおそれ怨之,いん譖後はさみひだりどうしゅくのろいみかど信之のぶゆきとげさくおさむ璽綬。こう致暴しつ,以憂ちち其鄉こう兄弟きょうだいなみ誅。
  20. ^ どおりかん》〈かん〉:おうはじめ、曹節とう奸虐ろうけん扇動せんどう內外,ふとしじょうだん熲阿ふしはじめ父兄ふけい子弟していためきょうこうまきもりれい長者ちょうじゃ佈滿天下でんか所在しょざいむさぼ暴。はじめ養子ようしきちため沛相,ゆう殘酷ざんこく,凡殺じんみなはりつけかばねしゃじょうずい其罪せんしめせぞくけん夏月かづき腐爛ふらんのり以繩れん其骨,しゅうあまねいちぐん乃止,しゃ駭懼。ごとねん,凡殺まん餘人よにん尚書しょうしょれいだまつね拊髀發憤はっぷん曰:「わかだまさく隸,此曹子安こやすとくよう乎!」そく而球はて遷司隸。 はじめ使門生もんせい於京兆界辜榷官財物七千餘萬,きょうちょういん楊彪はつ其奸,げんつかさ隸。あやたまもの之子ゆきこ也。ときはじめきゅう沐裡捨,熲方以日しょく劾。たままい謝恩しゃおんいんそうはじめ、熲及ちゅうつねさむらいじゅん于登、袁赦、ふうとう罪惡ざいあくからし,悉收はじめ、熲等おく洛陽らくようごく,及甫永樂えいらくしょうもえ、沛相きちたま臨考はじめとうどく備極;もえさき嘗為隸,乃謂だま曰:「父子ふしすんでとうふく誅,また以先よししょう以楚どく假借かしゃく老父ろうふ。」たま曰:「しか罪惡ざいあくじょう不滅ふめつせめ,乃欲ろん先後せんごもとめ假借かしゃくよこしま!」もえ乃罵曰:「しかまえたてまつことわれ父子ふし如奴,やつ敢反なんじぬし乎!今日きょう臨坑しょう擠,ぎょう及也!」たま使以土窒萌こう,箠撲交至,父子ふし悉死於杖;熲亦自殺じさつ。乃僵はりつけはじめかばね於夏城門じょうもんだいしょ榜曰:「賊臣ぞくしんおうはじめ。」つき沒入ぼつにゅう其財さん妻子さいしみな徙比けい
  21. ^ どおりかん》〈かん〉:はつつかさりゅう郃兄さむらいちゅう鯈與竇武どうはかりごと,俱死。永樂えいらくしょうひねだませつ郃曰:「おおやけ出自しゅつじ宗室そうしつ位登いとうだいかなえ天下てんか瞻望,社稷しゃしょく鎮衛,あにとく雷同らいどうようようたがえ而已。こん曹節とう放縱ほうしょうためがい,而久ざい左右さゆうまたおおやけけいさむらいちゅう受害ぶしとうこんひょう徙衛じょうだまため隸校じょう,以次おさむふしとう誅之,せいひじりぬし天下てんか太平たいへい翹足而待也!」郃曰:「きょう豎多耳目じもくこわことかいさき受其。」尚書しょうしょりゅうおさむ曰:「為國ためくにとう樑,かたぶけ危不,焉用のべかれしょうよこしま!」郃許諾きょだくまたあずかだまゆいはかりごとたま小妻こづまほど璜之おんなゆかりぶしとう頗得聞知ぶんち,乃重まいない璜,且脅。璜懼せり,以球はかりごとつげぶしせついんどもしろみかど曰:「郃與りゅうおさむひねだまだま交通こうつうしょ疏,謀議ぼうぎ不軌ふき。」みかどだいいかふゆじゅうがつきのえさるりゅう郃、ひねだまりゅうおさむだまみな下獄げごく
  22. ^ どおりかん》〈かん〉:ちゅうつねさむらいちょうただしちょうゆずるなつかくまさるだんそうのりとうみなふうこうちょううえつねげん:「ちょうつねさむらいわがおおやけちょうつねさむらいわがはは。」ゆかり宦官かんがんしょはばかかしこなみおこりだいたくなずらえそく宮室きゅうしつうえ嘗欲とう永安えいあんこうだい宦官かんがんおそれ望見ぼうけん其居しょ,乃使ちゅう大人おとなひさしただし諫曰:「天子てんし不當ふとう登高とうこう登高とうこうそく百姓ひゃくしょうむなし。」じょう敢復ますだい榭。
  23. ^ どおりかん》〈かん〉:十一月じゅういちがつかい稽妖ぞくもと生起せいきあきら自稱じしょう陽明ようめい皇帝こうてい,眾以まんすうあげしゅう刺史しし臧旻、太守たいしゅひね夤討
  24. ^ どおりかん》〈かん〉:ふゆ十一月じゅういちがつ,臧旻、ちん大破たいはせい於會稽,これ
  25. ^ どおりかん》〈かん〉:はる正月しょうがつ合浦がつぽ、交趾烏滸おこ蠻反,招引きゅうしん日南にちなんみんおさむぼつこおりけん
  26. ^ どおりかん》〈かん〉:交趾烏滸おこ蠻久ためみだれまきまもる不能ふのうきん。交趾じんりょうりゅうとうふくはんおさむやぶこおりけんみことのりはいらんりょうれいかい稽朱儁為交趾刺史ししげきりょうりゅうくだしゃすうまんにん旬月じゅんげつつきてい;以功ふうちんこうしるしため諫議大夫たいふ
  27. ^ どおりかん》〈かん〉:交趾珍貨ちんか前後ぜんご刺史しし清行きよゆきざいけいみつるきゅう,輒求遷代,吏民怨叛,刺史しし合浦がつぽ太守たいしゅらいたち自稱じしょうばしらてん將軍しょうぐん。三府選京令東郡賈琮為交趾刺史。琮到,訊其はんじょう,咸言「過重かじゅう百姓ひゃくしょう莫不そらたん京師けいし遙遠ようえんつげ冤無しょみん聊生,聚為盜賊とうぞく。」琮即うつりしょ告示こくじかく使つかいやす其資ぎょう,招撫あら,蠲復徭役,誅斬みぞそちためだいがいしゃ,簡選良吏りょうりためしもりしょけんさいあいだとろけじょう百姓ひゃくしょう以安。ちまた為之ためゆき曰:「賈父らいばん使つかい我先われさきはん今見いまみきよしひらめ,吏不敢飯!」
  28. ^ どおりかん》〈かん〉:北地きたじさきれい羌及なら罕、かわせき群盜ぐんとうはん共立きょうりつ湟中したがええびす北宮きたみやはくだまぶんこうため將軍しょうぐんころせまもる羌校じょう泠徵。金城きんじょうじんあたりあきらかんとげもとちょ名西めいせいしゅう群盜ぐんとうさそえ而劫使つかい專任せんにん軍政ぐんせいころせ金城きんじょう太守たいしゅひね懿,おさむしょうしゅうぐん
  29. ^ どおりかん》〈かん〉:こう刺史ししひだりあきらぬすめぐんこくすうまんくん諫之。あきらいか使つかいくんあずか從事じゅうじからしあなつねべつたむろおもね以拒ぞくよくいん軍事ぐんじざい;而勳すうゆう戰功せんこう。及北みやはくだまおさむ金城きんじょう也,くんすすむあきらすくいあきらしたがえひね懿既へんあきらとうしんかこえあきら於冀。あきら召勳とうすくえからし曾等うたぐ肯赴,くんいか曰:「むかしそう後期こうきみのる奮劍。いま從事じゅうじあにじゅう於古かんぐん乎!」曾等懼而したがえこれくんいたり冀,誚讓あきらとう背叛はいはんつみみな曰:「ひだり使くんわかはやしたがえきみげん,以兵臨我,庶可あらためいまざいやめじゅう也。」乃解かこえ。叛羌かこえこうじょうなついく於畜かんくんあずかしゅうぐんごうへいすくいそだていたりきつね槃,ため羌所はいくんあまり眾不及ひゃくにんさんそうけんすわ不動ふどうゆび木表きおもて曰:「しかばねわが於此!」就種羌滇われ以兵扞眾曰:「ぶたちょう賢人けんじんなんじ曹殺これしゃためてん。」くんおおせののし曰:「はんとりこなんじなん如,促來ころせわが!」眾相而驚。滇吾下馬げばあずかくんくん肯上,とげため羌所。羌服其義勇ぎゆう加害かがい送還そうかんかん
  30. ^ どおりかん》〈かん〉:ちょうあつしはたしょぐんへいじゅうあまりまんたむろ美陽みよへんあきらかんとげまたすすむへい美陽みよぬるあずかたたかえ,輒不利ふり十一月じゅういちがつただしたくあずかみぎ扶風あわびおおとりとうなみへいおさむあきらとげ大破たいはあきらとげはし榆中。ぬるしゅうまことはたさんまんにんおいまいり軍事ぐんじまごけんせつまき曰:「ぞく城中じょうちゅうこくとうそとてん糧食りょうしょくけんねがいとくまんにんだん其運どう將軍しょうぐん以大へいつぎぞく必困とぼし而不敢戰,走入はしり羌中,なみりょく討之,のりりょうしゅうてい也!」まきしたがえ,引軍かこえ榆中じょう,而章、とげぶんたむろあおいえんかいはんだんまきうんどうまき懼,棄車じゅう而退。」
  31. ^ どおりかん》〈かん〉:かんとげころせあきら及北みやはくだまぶんこうようへいじゅうあまりまんしんかこえ隴西,太守たいしゅしょう如叛,あずかとげれんりょうしゅう刺史しし耿鄙りつろくぐんへい討遂。ひなにんちゅうほどだまたまどおりかん士民しみん怨之。かん太守たいしゅでん燮謂ひな曰:「使つかいくんすべせい日淺ひあさみん未知みちきょうぞく聞大ぐんはたいたり,必まんにんいちしんへんへいいさむ,其鋒なんとう;而新あい眾,上下じょうげまんいち內變,雖悔及。わかいきぐんやしなえとくあかりしょう必罰,ぞくとくひろしてい,必謂わがおびえぐんあくそうぜい,其離必。しかこうりつやめ教之のりゆきみん,討成はなれぞく,其功すわ而待也。」ひなしたがえなつよんがつひなぎょういたり狄道,しゅうべつ反應はんのうぞくさきころせほどだまがいひなびぞくとげすすむかこえかん城中じょうちゅうへいしょうかてつき,燮猶固守こしゅどき北地きたじえびすすうせんずいぞくおさむぐんみな夙懷燮恩,きょう於城がい叩頭こうとうもとめおく燮歸鄉里きょうり。燮子みきねんじゅうさんこと於燮曰:「國家こっか昏亂,とげれい大人おとなよう於朝。今後こんご不足ふそく以自もりむべ聽羌、えびす請,かえ鄉里きょうりじょ俟有どう而輔。」げんおわり,燮慨然がいぜん歎曰:「なんじわれ必死ひっしよこしまひじりいたるぶしもりぶしいん暴虐ぼうぎゃくはくえびすしょくしゅうあわ而死。さい遭世みだれ不能ふのうやしなえ浩然こうぜんこころざししょく祿ろくまたよく避其なん乎!われぎょうなに必死ひっし於此!なんじゆう才智さいちつとむつとむこれおも簿楊會われほど嬰也。」狄道じん王國おうこく使ゆえさけいずみ太守たいしゅせつ燮曰:「天下てんかやめふくかんゆうくんやすし有意ゆういためわれぞくそち乎?」燮按けんしか衍曰:「わか剖符しんはんためぞくせつよこしま!」とげ麾左みぎしんへい,臨陳戰歿せんぼつ。耿鄙司馬しば扶風あがまたようへいはんあずかかんとげあいきょう推王こくためぬし,寇掠さん輔。
  32. ^ どおりかん》〈かん〉:はるがつくに眾疲敝,かいかこえすめらぎはじめかさみすすむへいげきただしたく曰:「不可ふか兵法ひょうほうきゅう寇勿せりかえり眾勿おい。」かさみ曰:「しかぜんわれげき,避其するど也;こん而擊まち其衰也;しょげきつかれ眾也;こく眾且はし,莫有鬥志,以整げきみだれきゅう寇也。」とげどく進擊しんげき使つかいたくためこばめ連戰れんせん大破たいは斬首ざんしゅまんあまりきゅうたくだい慚恨,ゆかりあずかかさみゆうすきかんとげとうどもはい王國おうこく,而劫しんれいかん閻忠使とくすべしょちゅう病死びょうしとげとうややそう權利けんりさらしょう殺害さつがいゆかりおとろえ
  33. ^ どおりかん》〈かん〉:はりかくみだれ所在しょざい盜賊とうぞくなみおこりはくりょうちょううしかく常山つねやま飛燕ひえんりゅうひだりこう于氐ちょうしろりゅうせきひだりひげたけはちたいらかん大計たいけいつかさえんじょう雷公らいこう浮雲うきぐもしろすずめ楊鳳于毒鹿しか大目おおめしろにょう眭固これ不可ふかかちすうだいしゃさんまん小者こものろくななせんにんちょううしかく、褚飛燕ひえんごうぐんおさむ癭陶,うしかくちゅう流矢ながれや且死,れい其眾奉飛燕ひえんためそち改姓かいせいはり飛燕ひえんめいつばめけいいさみはし趫捷,ぐんちゅうごう曰「飛燕ひえん」。山谷さんや寇賊眾寢こう,殆至ひゃくまんごうくろ山賊さんぞく」,河北かわきたしょぐんけんなみ其害,朝廷ちょうてい不能ふのう討。つばめ乃遣使いたり京師けいしそうしょ乞降;とげはいつばめたいらなんちゅうろうはた使つかいりょう河北かほくしょ山谷さんやごとさいとく舉孝れんけい吏。
  34. ^ どおりかん》〈かん〉:はるがつ江夏えなつへいちょう慈反,ころせ南陽なんよう太守たいしゅしん頡。
  35. ^ どおりかん》〈かん〉:六月ろくがつ,荊州刺史ししおうさとし討趙慈,これ
  36. ^ どおりかん》〈かん〉:はつちょうあつしはつかそけしゅうがらす桓突さんせん以討りょうしゅうちゅう山相さんそうりょうちょうじゅん請將ぬる聽,而使涿令りょう西にし公孫こうそん瓚將ぐんいたあざみちゅうがらす桓以ろう稟逋けん叛還本國ほんごくちょうじゅん忿不どくはた,乃與どうぐん泰山たいざん太守たいしゅちょう舉及がらす大人おとなおかりょくきょとう連盟れんめい劫略ごうりゃくあざみちゅうころせまもるがらす桓校じょうおおやけ綦稠みぎ北平きたひら太守たいしゅりゅうまさし遼東りゃおとん太守たいしゅおわりひとし,眾至じゅうあまりまんたむろこえ如。舉稱天子てんしじゅんしょうわたるてん將軍しょうぐん安定あんていおううつりおさむしゅうぐんうん舉當だいかん告天子ひばり避位,敕公卿くぎょう奉迎ほうげい
  37. ^ どおりかん》〈かん〉:ちょうじゅんあずかおかりょくきょ鈔略あおじょかそけ、冀よんしゅうみことのりじょう公孫こうそん瓚討。瓚與せん遼東りゃおとん屬國ぞっこく石門せきもんじゅんとう大敗たいはい,棄妻子さいし,逾塞はし;悉得しょりゃく男女だんじょ。瓚深入ふかいりつぎはんためおかりょくきょとうしょかこえりょう西にしかんじょうひゃくにちかてつき眾潰,士卒しそつ死者ししゃ什五ろく
  38. ^ どおりかん》〈かん〉:かそけしゅうまきりゅうおそれいた使つかいいたり鮮卑ちゅうつげ利害りがいせめ使送しそうちょう舉、ちょうじゅんくびあつ購嘗。おかりょくきょとう聞虞いたりかくやく。舉、じゅん走出はしりでふさがみなくだ
  39. ^ どおりかん》〈かん〉:ふゆじゅうがつちょうすなぞくほし自稱じしょう將軍しょうぐん,眾まん餘人よにんみことのり以議ろうまごけんためちょうすな太守たいしゅ,討擊平之ひらのふうけんがらすほどこう
  40. ^ どおりかん》〈かん〉:ふとしでんちんしげるいっあずかじゅつじょうかい於冀しゅう刺史ししおう芬坐,楷曰:「天文てんもん不利ふり宦者,黃門こうもんつねさむらいしんぞくめつ矣。」いっ。芬曰:「わかしかしゃ,芬願驅除くじょ!」いんあずか豪傑ごうけつてんしょう招合,上書うわがきごとくろ山賊さんぞくおさむこうこおりけんよくいん以起へいかいみかどよくきたじゅん河間こうま舊宅きゅうたく,芬等はかりごと以兵徼劫,誅諸つねさむらい黃門こうもんいん廢帝はいてい立合たてあいこえこう,以其はかりごとつげろう曹操そうそうみさお曰:「おっと廢立はいりつこと天下てんかいたり不祥ふしょう也。古人こじん有權ゆうけん成敗せいばいけい輕重けいちょう而行これしゃ是也これや、霍皆ふところいたり忠之ただゆきまことよりどころおさむ輔之ぜいいん秉政おもどう眾人ほっのうけい從事じゅうじりつこん諸君しょくん曩者えき睹當いまこれなん,而造さく非常ひじょう慾望よくぼう必克,また危乎!」芬又よび平原へいげんはなとうおかひろしきょうじょうけいひろしよくこう,歆止曰:「おっと廢立はいりつ大事だいじ、霍之しょなん。芬性疏而,此必なり。」ひろし乃止。かい北方ほっぽう夜半やはんゆうあか東西とうざい竟天,ふとし史上しじょうごと:「北方きたがたゆう陰謀いんぼうむべきたぎょう。」みかど乃止。敕芬やめへいにわか而征。芬懼,かい印綬いんじゅほろびはしいたり平原ひらはら自殺じさつ
  41. ^ きさき汉书》まき60:邕以经籍圣久远,文字もじ谬,ぞく儒穿凿,うたぐ误后がく。熹平よんねん,乃与五官中郎将堂谿典、ひかりろく大夫たいふ杨赐、谏议大夫たいふ马日磾、议郎张驯、韩说、ふとしれい单飏とうそうもとめせいじょうろく经》文字もじ。灵帝许之...乃自书丹于碑,使つかいこう镌刻りつ于太がく门外。于是きさき儒晚がく,咸取せい焉。及碑はじめりつ,其观视及摹写しゃ,车乘せんあまり两,はまふさがまち陌。
  42. ^ 太平たいへい览▪まき92》引《てんりゃく》:熹平よんねんがつみかど(刘宏)みやつこすめらぎ义》じゅうしょう
  43. ^ 太平たいへい览▪まき92》引《てんりゃく》:光和こうわねん,(灵)みかどさいわいふとしがく就石さく赋。
  44. ^ 太平たいへい览▪まき137》引《续汉书》:いたり(刘协)さん岁,灵帝闵上しつ所生しょせいついおもえきさきれい,乃作《ついとく赋》、《れい仪颂》
  45. ^ 太平たいへい御覽ごらん·らくじゅうきゅう·しょう》引謝うけたまわこう漢書かんしょ》曰:れいみかどぜんきん、吹洞しょう
  46. ^ ちょうふところ瓘《しょだんまきちゅうれいみかどこのみしょちょう天下でんかこうしょ於鴻もんいたりすうひゃくにん
  47. ^ どおりかん》〈かん〉:おのれ地震じしんおけおおとりもんがく,其諸せいみな敕州ぐん三公みつきみ舉用辟召,あるため刺史しし太守たいしゅにゅうため尚書しょうしょさむらいちゅうゆうふうこうたまもの爵者;士君子しくんしみなはじあずかためれつ焉。
  48. ^ どおりかん》〈かん〉:はつみかどためこうつねひん,及即位そくいまい歎桓みかど不能ふのうさく家居かきょ,曾無わたしぜにうれかん聚錢以為私藏しぞう
  49. ^ どおりかん》〈かん〉:これさいはつ開西かいせいていうれかんにゅうぜにかくゆうせんせきせんまんよんひゃくせきよんひゃくまん;其以德次とくつぎおう選者せんじゃはんあるさんふんいち;於西えんりつ以貯あるまい上書うわがきうらないれいちょうずいけんこうみにくゆたかやくゆう賈。富者ふしゃそく先入せんにゅうぜに貧者ひんじゃいたかんしかこうばい輸。またわたしれい左右さゆううり公卿くぎょうおおやけせんまんきょうひゃくまんはつみかどためこうつねひん,及即位そくいまい歎桓みかど不能ふのうさく家居かきょ,曾無わたしぜにうれかん聚錢以為私藏しぞう
  50. ^ こう漢書かんしょまき8:岁,(れいみかどさくれつ肆于きさき宫,使つかい诸釆おんな贩卖,さらしょうぬすめ窃争みかど商估しょうこふく,饮宴为乐。
  51. ^ 《续汉书》〈ぎょうこころざし〉:灵帝于宫中西なかにし园驾よんしろ驴,躬自みさお辔,驱驰周旋しゅうせん,以为だい乐。
  52. ^ すすむ·袁山まつきさき汉书》:光和こうわよんねんまた于西园弄いぬ以配じん也。
  53. ^ すすむ·おうよしみじつ遗记》:灵帝はつたいらさんねんゆう於西园。おこりはだかゆう馆千间,さい绿苔而被阶,引渠すい以绕みぎりしゅうりゅうきよし澈。乘船じょうせん以游漾,使つかい宫人じょう,选玉しょく轻体しゃ,以执篙楫,摇漾於渠ちゅう其水きすい清澄きよすみ,以盛暑せいしょ时,使つかいぶね覆没ふくぼつ,视宫じんだましょくまたそう《招商》うた以来いらい凉气也。うた曰:“凉风おこり日照ひでりみぞあおひる偃叶よる舒,おもんみ不足ふそく乐有あまりきよし丝流かんうただま凫,せんねんまん岁喜难逾。”みぞちゅううえ莲,だい如盖,长一たけ南国なんごくしょけんじ。其叶よる舒昼まき,一茎有四莲丛生,めい曰“よる舒荷”。またうん月出つきで则舒也,曰“もち舒荷”。みかど盛夏せいか避暑ひしょ於裸ゆう馆,长夜饮宴。みかど嗟曰:“使つかいまん岁如此,则上せん也。”宫人ねんなな已上いじょうさんろく以下いかみな靓妆,かい其上ころもおもんみちょ内服ないふくあるきょうはだかよく西域せいいきしょけんじしとね墀香,以为汤,宫人以之よく浣毕,使つかい以余じる入渠にゅうきょめい曰“りゅうみぞ”。また使つかいない竖为驴鸣。於馆北又きたまたさく鸡鸣どう畜鸡,まいよい迷於てん晓,内侍ないし竞作鸡鸣,以乱しんごえ也。乃以炬烛とう於殿まえみかど乃惊さとる。及董たくやぶきょう师,其美じん,焚其宫馆。いたり咸熙ちゅうさきしょとう烛处,ゆうゆう有光ありみつ如星。きさきじん以为かみひかり,於此たて小屋こやめい曰“余光よこうほこら”,以祈ぶくいたりあかりまつやや扫除矣。
  54. ^ どおりかん》〈かん〉:ちゅうつねさむらいちょうゆずるちょうただしせつみかど斂天下田しもだうねじゅうせん,以修宮室きゅうしつどうじんらくやす太守たいしゅりくやすしうえ疏諫曰:「むかし魯宣ぜいうね而蝝わざわい自生じせいあいこうぞう孔子こうしこれあにゆう聚奪みんぶつ以營無用むようどうじん,捐捨せい戒,蹈亡おうほう哉!」內幸譖康援引えんいん亡國ぼうこく以譬ひじりあきらだい不敬ふけいおりしゃちょうまい廷尉。さむらいりゅうおもてひね解釋かいしゃくとくめんでんさとかんつづけこれまご也。またみことのりはつしゅうぐん材木ざいもくぶんせきおく京師けいし黃門こうもんつねさむらい輒令譴呵ちゅうしゃいんきょうおり賤買,僅得ほんじゅうふんいちいんふく貨之,宦官かんがんふく不為ふためそく受,材木ざいもくとげいたりくさせき宮室きゅうしつ連年れんねんなり刺史しし太守たいしゅふくぞうわたし調しらべ百姓ひゃくしょうよび嗟。またれい西園にしぞの騶分どうとくおもむきおそれどうしゅうぐん受賕まいない刺史ししせんせき及茂ざいこうれん遷除みないたり西園にしぞの諧價,しか,其守きよししゃ乞不かんみなせりこれとききょ鹿しか太守たいしゅかわ司馬しばただししんじょ,以有清ありきよめいげんせめさんひゃくまんちょくみことのり悵然ちょうぜん曰:「ためみん父母ちちはは而反わり百姓ひゃくしょう以稱もとめわれにん也。」やまし聽。くだりいたりはじめ上書うわがきごくひね當世とうせいしつそく吞藥自殺じさつしょそうみかどため暫絕おさむみやぜに
  55. ^ どおりかん》〈かん〉:れつよしでんははにゅうぜにひゃくまんとくため。及拜天子てんし臨軒,ひゃく僚畢かいみかど顧謂おやこうしゃ曰:「悔不しょう靳,いたりせんまん!」ほど夫人ふじん於傍おう曰:「ちぇこう,冀州名士めいしあに肯買かんたよわがとくはん不知ふち姝邪!」
  56. ^ どおりかん》〈かん〉:みかど使かぎたてれいそうのりつくろえおさむ南宮なんぐう玉堂きょくどうまた使つかいわきにわれい畢嵐よんどうじんまたよんかねみなせん斛。またてん祿ろくえびぶと吐水於平門外もんがいきょうひがしてんすいにゅうみやまたさくこぼししゃ、渴烏,ほどこせ於橋西にしよう灑南北郊ほっこう,以為しょう百姓灑道之費。
  57. ^ どおりかん》〈かん〉:ふとしつね江夏えなつりゅう焉見王室おうしつおおゆえ建議けんぎ以為:「四方しほうへい寇,ゆかり刺史ししけいすんで不能ふのうきん,且用其人,以致離叛りはんむべあらためおけまきはくせんきよしめい重臣じゅうしん以居其任。」焉內欲求よっきゅう交趾まきさむらい中廣なかひろかんただしわたしいい焉曰:「京師けいしはたみだれえきしゅう分野ぶんやゆう天子てんし。」焉乃さらもとめえきしゅうかいえきしゅう刺史しし郤儉斂煩擾,謠言ようげんどお聞,而耿ひなびちょう懿皆ためぬすめしょころせ朝廷ちょうていとげしたがえ焉議,せんれつきょう尚書しょうしょためしゅうまぎかく以本秩居にん。以焉ためえきしゅうまぎふとぼくためしゅうまぎそうただし東海とうかいりゅうおそれためかそけしゅうまきしゅうにんおも此而はじめ。焉,魯恭おうこれおそれ東海とうかいきょうおうこれせいまご也。
  58. ^ どおりかん》〈かん〉:はちがつはつおけ西園にしぞのはちこうじょう,以小黃門こうもんあしなえせきためうえぐんこうじょうとら賁中ろうしょう袁紹ためちゅうぐんこうじょうたむろこうじょうあわびおおとりためぐんこうじょうろう曹操そうそうためてんぐんこうじょうちょうとおるためすけぐんひだりこうじょう馮芳ためすけぐんみぎこうじょう,諫議大夫たいふなつためひだりこうじょうじゅん于瓊ためみぎこうじょうみなすべ於蹇せきみかどはばおこりとめこころえびすごとせき壯健そうけんゆう武略ぶりゃくみかど親任しんにん,雖大將軍しょうぐんまたりょうぞく焉。
  59. ^ どおりかん》〈かん〉:はつみかどすうしつ皇子おうじなに皇后こうごう生子おいごべんやしなえ於道じん史子ふみこすがめいえごう曰「こう」。おう美人びじん生子おいごきょうただしふとしきさきやしなえごう曰「ただしこう」。群臣ぐんしん立太子りったいしみかど以辯輕佻けいちょう威儀いぎよくりつきょう猶豫ゆうよ未決みけつかいやましあつぞくきょう於蹇せきへいたつみかどくずし嘉德よしのり殿どの
  60. ^ かんかんろくしゅ·かんいちかん》:こうれいみかどそう貴人きじんおくゆらあか紱葬(あん初學しょがく引作ひきつくりあかつづり」,そう),あお葢,ひつぎ下殿しもとのおんな侍史じしいちひゃくにんちょもところも挽歌ばんか......
汉灵みかど
出生しゅっしょう于:156ねん逝世於:189ねん
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
こう皇帝こうてい
りゅうこころざし
かんちょう皇帝こうてい
168ねん-189ねん
つぎにん
きさきしょうみかど
りゅうべん
中國ちゅうごく皇帝こうてい
168ねん-189ねん