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はた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本にっぽん国旗こっき
ネパールの国旗こっき

はた(はた)は、ぬのかみなどのうす素材そざい竿ざおなどの先端せんたんけて空中くうちゅうかかげたものである。まん国旗こっきのようにつなける場合ばあいもある。

概要がいよう

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はたは、なんらかの目印めじるしシンボルとして掲示けいじされるもので、視認しにんせい識別しきべつされるために意匠いしょうらされたぬのである。風雨ふううによってほつれたりちぎれたりしないよう、おおくは補強ほきょうほどこされており、とくつな竿ざおむすける部分ぶぶん念入ねんいりに補強ほきょうされている。はたはもっぱらたかいところに掲揚けいようされる。

その用途ようとによって様々さまざま機能きのう付与ふよされたはたおおい。国家こっかコミュニティなどグループの象徴しょうちょう(シンボル)としてのはた国旗こっき校旗こうきなど)や、装飾そうしょくようはたうつくしい色合いろあいを使つかい、図案ずあんいろ意味いみをもたせるなどの意匠いしょうほどこされている。通信つうしんよう識別しきべつようはたは、との識別しきべつせい重視じゅうしして、ふう多少たしょういがんでいても、間違まちがえないような共通きょうつうされたデザインがほどこされている。

シンボルとしての意味いみはたは、様々さまざま儀式ぎしき様々さまざまあつかかたがなされる。たとえば優勝旗ゆうしょうき団体だんたい競技きょうぎ大会たいかい優勝ゆうしょうしたチームにおくられることがありいちしゅ記念きねんひんとしてあつかわれる。また、おなでもあつかかたによってめられた意味いみちがう。たとえば半旗はんき弔意ちょういという意思いし表明ひょうめいする意味いみち、国家こっか象徴しょうちょうである国旗こっき同列どうれつつなげたまん国旗こっきは、世界せかい平和へいわ国際こくさい協力きょうりょくねが意味いみつ。

歴史れきし

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国旗こっき年表ねんぴょう」も参照さんしょう

はたにはぬのもちいられることがおおいが、ふるくはわらくさ繊維せんいあるいは動物どうぶつかわもちいられていた[1]イラン神話しんわはた起源きげんやりさきかわけた「カーヴェのはた」とする[1]

中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいにおいて、「はた(き)」のは、「ぐんしょうてるはた」をし(後述こうじゅつしょ)、現代げんだい日本にっぽんもちいるような総称そうしょう意味いみではない。紀元前きげんぜん中国ちゅうごく軍制ぐんせいにおける旌旗せいき(せいき)では、使者ししゃひとしたまわはたを「ふし旄(せつぼう、ぬのではなく複数ふくすうはねらしたもの)」、ぐん士気しき鼓舞こぶするためのはたを「旌(せい、これもぬのではなくはねらしたもの)」、ぐんしょうはたとしての「はた(き)」、司令しれいかんはたを「旄旗(ぼうき)」、天子てんしはたを「ふとしつね(たいじょう)」とし、それぞれ竿ざおいただきにはりゅうあたまをあしらった[2]

三国志さんごくししょこころざし倭人わじんでん)には、邪馬台国やまたいこく使者ししゃであり大夫たいふなんますまいたいし、せいはじめ6ねん245ねん)、の3だい皇帝こうていひとしおう曹芳幢(黄色おうしょく軍旗ぐんき)を下賜かしするようにおびかたぐんめいじているが実行じっこうされなかった(「こころざし倭人わじんでん参照さんしょう)。その2ねんであるせいはじめ8ねん247ねん)には、邪馬台国やまたいこくいぬやつこく仲介ちゅうかいやくとしてからちょうまさし派遣はけんされ、このとき幢をなんますまいたいしてわたしている。また研究けんきゅうしゃによっては、東夷あずまえびすでんうまかんじょうにある「祭祀さいしさいし、大木たいぼくてる」という記述きじゅつから、神木しんぼく信仰しんこう同時どうじに、朝鮮半島ちょうせんはんとうでは集落しゅうらく祭祀さいしにおいておおくのはたてる風習ふうしゅうがあり(現在げんざいでも農村のうそんでは、のうらくにおいて、神木しんぼく見立みたてたのうかみろす)、そこにかみろすとしんじられているため、「はたかみ宿やどる」とする信仰しんこうは「神木しんぼく見立みたて」で、これが日本にっぽん伝播でんぱしたものとする[3]

文献ぶんけん資料しりょうではなく、古墳こふん時代じだい出土しゅつど遺物いぶつ考古こうこ資料しりょう)から確認かくにんされるれいとしては、うまかたち埴輪はにわからくら後部こうぶ旗竿はたざおむソケットが表現ひょうげんされているものがあり、いちれいとして、埼玉さいたまけん行田ぎょうだ酒巻さかまき古墳こふんぐん・14ごうふんから6世紀せいき後半こうはんのものが出土しゅつどしている(行田ぎょうだホームページ「指定してい文化財ぶんかざいとう」の一覧いちらんかく認可にんか)。この時期じきには東国とうごくでも旗指物はたさしものうまとも伝播でんぱしていることがわかる[4]せんこく壁画へきがれいとしては、大阪おおさか柏原かしわばら高井田たかいだ横穴よこあなはかぐん(6世紀せいき前半ぜんはんから7世紀せいき)の2-23ごう壁画へきがおよび2-28ごう壁画へきがにおいて、馬上もうえはた確認かくにんできる(柏原かしわばらホームページにてかく認可にんか)。

日本書紀にほんしょき』や『常陸ひたちこく風土記ふどき』には白旗しらはた記述きじゅつがあり(「白旗はっき#戦意せんい白旗はっき」を参照さんしょう)、また『ぞく日本にっぽん』には、大宝たいほう元年がんねん701ねんじょう元日がんじつ朝賀ちょうが儀礼ぎれいにおいて、カラスつきよんかみの7つはたてた記録きろくのこる。和歌集わかしゅうである『万葉集まんようしゅう』には、はた見立みたてた表現ひょうげんられ、まき1・15ばんには「ゆたか旗雲はたぐも」、まき2・148ばんには「あお」があり、いずれもはたから連想れんそうされた表現ひょうげんとなっている。

歴史れきし資料しりょうとしてすこ時代じだいがる9世紀せいき成立せいりつの『日本にっぽん霊異れいい』には、雄略天皇ゆうりゃくてんのう時代じだい人物じんぶつである少子しょうし蜾蠃少子しょうし自体じたいは『』にも記録きろくのこる)の逸話いつわ天皇てんのうがおびぞとさけんで雷神らいじん捕獲ほかく)に、「うまり、あかいカズラをがくにつけ、ほこ赤旗あかはたをつけた」記述きじゅつのこり、『』のみずのえさるらん7世紀せいきすえ内乱ないらん)の記録きろくにおいても、大海人皇子おおあまのおうじぐん味方みかた識別しきべつのために、あかぬのにつけ、あかのぼりをはためかせたと記録きろくのこることから、赤旗あかはた皇軍こうぐん象徴しょうちょうとして表現ひょうげんされていることがわかる。のちのうけたまわ寿ことぶきひさしらん12世紀せいきすえ)において、安徳天皇あんとくてんのう擁立ようりつした平家ひらかぐん赤旗あかはた使用しようし、13世紀せいきはじめの承久じょうきゅうらん以降いこう使用しようされるにしきはた官軍かんぐん赤旗あかはたである(「にしきはた」の画像がぞう参照さんしょう)。

日本にっぽんでは大嘗祭だいじょうさいはらいのはたはた)について『延喜えんぎしき』(10世紀せいき成立せいりつ)がとうせいにならって「とらぞうの纛(とう)のはた1旒(りゅう)」や「たかぞうたいはた4旒」のようにこまかく指定していしているが、これはしょうはたトーテム動物どうぶつはたいちくみとなっていることに意義いぎがあるとされる[1]

上泉かみいずみ信綱のぶつなでんの『くん閲集』(大江おおえ兵法ひょうほうしょ戦国せんごくふうあらためた兵書へいしょまき6「かん軍役ぐんえきないの「じんげん」の説明せつめいでは、「せいえびす将軍しょうぐん白旗はっき鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん赤旗あかはたえらるなり」と記述きじゅつされ、まき8「甲冑かっちゅうぐんないの「旛旗の」の説明せつめいでは、「みなもとしろ平家ひらかべにしろふじ水色みずいろこげしょくたちばな水色みずいろ」と記述きじゅつされる。またまき2「そなあずかないの「はたてるほう」の説明せつめいでは、鉄砲てっぽうゆみうま武者むしゃ長柄ながらはたじゅんまもるようにしるし、てきおおはたせようとするときよこて、すくなくせようとするときたててるもの、はたてる間隔かんかくは2あいだなど、こまかく戦場せんじょうにおけるはたかんする作法さほう記述きじゅつされる[5]

近世きんせいでは、加藤かとう嘉明よしあき賤ヶだけななほんやり1人ひとり)がのこした『加藤かとうひだり殿どのひゃく物語ものがたり』の記述きじゅつとして、しろ便所べんじょ天井てんじょうたかくする理由りゆうを、籠城ろうじょうせんになったさい背中せなか旗指物はたさしものをつけたままはいりこむため(「城中じょうちゅう雪隠せっちん指物さしものはいってもかまわぬほどに、うえたかくするものなり」)とする[6][7]

やりさきぬのむすけて旗印はたじるしとすることはぜん世界せかいひろくみられる風習ふうしゅうである[1]前述ぜんじゅつのように戦国せんごく時代じだい中国ちゅうごくでは軍旗ぐんき竿ざおいただきは「竜頭りゅうず」であり、19世紀せいき初頭しょとうだいいち帝政ていせいのフランスではナポレオン・ボナパルトがシンボルを「つばさひろげたわし」とさだめたため、軍旗ぐんきいただきにもブロンズせいわしはたかざり)をつけ、軍人ぐんじんたいし、忠誠ちゅうせいちかわせる儀式ぎしきおこなった[8]

キリスト教きりすときょうけんでは、けんはたしゅくべつ典礼てんれいてき定式ていしきおこなわれたが、騎士きしどうイデオロギー11世紀せいきすえ時点じてんでは形成けいせいされておらず(後述こうじゅつしょ p.13)、これらの儀礼ぎれい騎士きし全体ぜんたい対象たいしょうとせず、一部いちぶ特別とくべつ教会きょうかい守護しゅごしゃ相手あいてとしていた[9]

だい航海こうかい時代じだい15世紀せいきなかば - 17世紀せいきなかば)にはいり、ヨーロッパじん未踏みとう上陸じょうりくして開拓かいたく国旗こっきてるようになり、植民しょくみん拡大かくだいにともないアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではそのしゅうはたとなる(英語えいごばんの「国旗こっき歴史れきし」も参照さんしょう独立どくりつこく増加ぞうかにともない国旗こっきえた)。18世紀せいき後半こうはん以降いこう近代きんだいでは登山とざんによる未踏みとうほうへの挑戦ちょうせん活発かっぱつとなり(「登山とざん」の歴史れきし参照さんしょう)、「到達とうたつ」がてられるようになる[10]1911ねんにはノルウェー探検たんけんたい南極なんきょくてん到達とうたつし、はたてる(「アムンセンの南極なんきょくてん遠征えんせい」のぺーじ写真しゃしん参照さんしょう)。21世紀せいきはいり、到達とうたつ海底かいていてられるれいており、2007ねん8がつ2にちにはロシアきた極点きょくてん真下ました海底かいてい国旗こっきてた(フランス通信つうしんしゃが8がつ3にちほうじる)。2010ねん7がつには東シナ海ひがししなかいにおいて中国ちゅうごく潜水せんすいてい蛟竜こうりょうもちいて海底かいてい国旗こっきてている。

1969ねん7がつ24にち米国べいこくアポロ11ごう有人ゆうじん月面げつめん着陸ちゃくりく達成たっせいし、同国どうこく国旗こっきて、「地球ちきゅうがい衛星えいせいてたはた」としては世界せかいはつとなる(詳細しょうさいは「アポロ11ごう」の「月面げつめんでの活動かつどう」を参照さんしょう)。

はた機能きのう

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国際こくさい連合れんごうつど加盟かめいこく国旗こっき
チベット仏教ぶっきょう使つかわれるタルチョーはた一種いっしゅである。
日本にっぽん神社じんじゃなどの宗教しゅうきょう施設しせつでよくられるのぼり
大漁たいりょうはた
早稲田大学わせだだいがく応援おうえん

はた機能きのうとして、以下いかのものがあげられる。

  • 遠距離えんきょりからでも視認しにんできるようにするため
  • 情報じょうほう伝達でんたつ手段しゅだん
  • 実績じっせき表彰ひょうしょうする、あるいは順位じゅんいあらわす(優勝旗ゆうしょうきじゅん優勝ゆうしょうとうはた等級とうきゅう
  • 所有しょゆうしゃ所属しょぞくする集団しゅうだん識別しきべつ
  • 集団しゅうだんアイデンティティりどころ(部隊ぶたいなど)
  • 慶弔けいちょう表明ひょうめい
  • 目印めじるし
  • 装飾そうしょく

象徴しょうちょう

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白川しらかわしずによると漢字かんじの「ぞく」ははた意味いみで、はたには祖先そせんれい宿やどるとされた[1]。また、白川しらかわによると、人々ひとびと守護しゅごれい宿やど軍旗ぐんきほうじて行動こうどうすることから旅団りょだんの「たび」のまれたという[1]

四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ巡礼じゅんれい先達せんだつのもつはたには弘法大師こうぼうだいし霊力れいりょく宿やどるとされ、病人びょうにん治癒ちゆさせる霊力れいりょくをもっているとされた[1]

記述きじゅつとして、軍記ぐんきぶつ小田原おだわら北条ほうじょうおさむまき3には、軍神ぐんしん軍旗ぐんきうえ宿やどるとする記述きじゅつられる。

通信つうしん

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彩色さいしきされたはた視認しにんせいすぐれており、単純たんじゅん注意ちゅうい喚起かんき警告けいこくのみならず、複雑ふくざつ通信つうしん可能かのうである。いったん掲揚けいようすれば継続けいぞくてき発信はっしんされつづけることも通信つうしん特徴とくちょうとなる[11]

日本にっぽんでは江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだいにかけてに大坂おおさか - 大津おおつあいだ積極せっきょくてきはた通信つうしんおこなわれた[12]中間なかま京都きょうとではだいさか大津おおつ米価べいか比較ひかくしたべいれがおこなわれ、やがて大津おおつでは大坂おおさか米価べいか情報じょうほうはやつかんだべいしょう利益りえきげるようになった[12]幕府ばくふなんはたのぼりによる通信つうしん禁令きんれいしたが、その理由りゆうには諸説しょせつあり、手品てじなまがいの手法しゅほうでの伝達でんたつ手段しゅだんまったものともいわれている[12]

遠距離えんきょり通信つうしんにもはた利用りようされていたが、やがて通信つうしん手段しゅだんにとってわられた。江戸えど時代じだい大坂おおさか - 大津おおつあいだおこなわれていたはた通信つうしんでもばと伝書鳩でんしょばと)がもちいられるようになったことがわかっている[12]

このほか、国際こくさい信号しんごうはたもちいたはた旒信ごう手旗てばたもちいた手旗てばた信号しんごうひとしがある。

はた形式けいしき

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  • 掲揚けいよう
    掲揚けいようだいやポールなどにけてもちいる大型おおがたはた
  • 卓上たくじょうはた
    机上きじょういてもちいる小型こがたはた
  • 手旗てばた
    ってもちいるはた
  • くるまはた
    自動車じどうしゃのボンネットなどにけるはた
  • バナー
  • ペナント
  • のぼり
  • 連続れんぞく
    まん国旗こっきのようにロープに多数たすうはた連続れんぞくしてむすけたもの。三角さんかく半円はんえん連続れんぞくもある。
  • ゲートフラッグ
    ぬのりょうはしにポールが設置せっちされた、両手りょうて頭上ずじょうかかげるかたちはた

はた掲揚けいよう

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大漁たいりょうはた白旗しらはたのようにかかげるはた図案ずあん意味いみがある場合ばあいと、半旗はんきのようにかかげるはた位置いち意味いみがある場合ばあいがある。

はたへの装着そうちゃくひん

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以下いかはたわせてもちいる装着そうちゃくひんについてべる。

  • 竿頭かんとう - おも消防しょうぼうなどの分野ぶんやでは消防しょうぼうたい消防しょうぼうだん部隊ぶたい功績こうせき実績じっせきげた場合ばあい上位じょうい組織そしきはその部隊ぶたいたいして竿頭かんとう綬を授与じゅよする。竿頭かんとう綬は部隊ぶたいはた上部じょうぶ竿頭かんとう)にけるもので、その部隊ぶたい実績じっせきあきらかにする。
  • ペナント - 竿頭かんとうける細長ほそながはた優勝旗ゆうしょうき歴代れきだい優勝ゆうしょうしゃ優勝ゆうしょう団体だんたい)のめいしるしたものが馴染なじふかい。
  • 喪章もしょう弔旗ちょうき) - 半旗はんき同様どうよう弔意ちょういあらわす。くろぬの竿頭かんとう普通ふつう慶事けいじさいげるので金色きんいろたまいていることがおおい)やはたそのものをおおうか、くろぬののリボン(ペナント)をはた上部じょうぶける。構造こうぞうじょう問題もんだい半旗はんき出来できないはたもちいられる。

その付属ふぞくひん

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  • はたぼうポール) - はた掲揚けいようするためのぼう後述こうじゅつはたさく滑車かっしゃいているものがおおい。
  • 旗竿はたざお - はた掲揚けいようするためのぼうのなかでほそめのもの、またはひとってかかげるもの。はたぼうなかで、恒久こうきゅう設置せっちされないものがこのようにばれることがおおい。 はたぼうのようにはたさく滑車かっしゃたず、はたむすぶためのたまき)がついている。
  • 旗頭はたがしら竿頭かんとう) - はたぼう先端せんたんけるかざ部品ぶひん球状きゅうじょうけんじょうやりほこじょうのものがあり、けんじょうやりじょうのものは軍事ぐんじ組織そしきにおいてちょうやりはたけてかかげたことをしたものである。
  • はたさく - はたぼうはたかかげるさいもちいるロープ、もしくはワイヤはたぼうについている滑車かっしゃはたさくとおしてこれにはたむすび、さくげることによってむすんだはた掲揚けいようする。
  • 石突いしづき(いしづき) - 旗竿はたざお下端かたん後端こうたん)にけられている金具かなぐ装飾そうしょく用途ようとほかに、竿ざお地面じめんてたさい安定あんていさせ、竿ざお破損はそんふせぐ。
  • スタンド(三脚さんきゃくだいきゃくだい) - 旗竿はたざお地上ちじょう設置せっちしたさいもちいる。
  • 帯革おびかわバンド - はたっての行進こうしん応援おうえんだん応援おうえんするとき使つかう。これをもちいて旗手きしゅ旗竿はたざおむすぶことにより、おも旗竿はたざお安定あんていしてつことができる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g 井本いもと英一ひでかず三角さんかく表象ひょうしょうはなし」『オリエント』だい35かんだい1ごう日本にっぽんオリエント学会がっかい、1992ねん、83-96ぺーじdoi:10.5356/jorient.35.83ISSN 0030-5219NAID 1300008316292021ねん6がつ1にち閲覧えつらん 
  2. ^ しんてい総合そうごう国語こくご便覧びんらん』(第一学習社だいいちがくしゅうしゃ、27はん1998ねん)p.323.
  3. ^ せき雄二ゆうじ寺社じしゃかたはた正体しょうたい』(祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ、2018ねん)pp.125-126.
  4. ^ この時期じき日本にっぽんではちょくかたなりょう手打てうちからかた手打てうちのものに移行いこうし、騎兵きへいせん意識いしきされていたことがわかっている(詳細しょうさいは「じきがたな#ちょくかたな歴史れきし日本にっぽん)」のながさの変化へんか参照さんしょう)。
  5. ^ 上泉かみいずみ信綱のぶつなでんしんかげりゅう軍学ぐんがくくん閲集」』(スキージャーナル株式会社かぶしきがいしゃ、2008ねん)pp.102-103.
  6. ^ 磯田いそだみち日本にっぽん内幕うちまく 戦国せんごく女性じょせい素顔すがおから幕末ばくまつ近代きんだいなぞまで』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2017ねん)pp.20-21.
  7. ^ 磯田いそだみち日本にっぽん探偵たんてい手帳てちょう』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2019ねん)p.136.
  8. ^ だいナポレオンてん 文化ぶんか光彩こうさい精神せいしん遺産いさん』(2005ねん)p.92.
  9. ^ 池上いけがみ俊一しゅんいち図説ずせつ騎士きし世界せかい』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん)p.13.
  10. ^ この登山とざんによる到達とうたつにちなんだ文化ぶんかとして、子様こさまランチの「国旗こっき爪楊枝つまようじ」がげられる(「子様こさまランチ#料理りょうり内容ないよう」に写真しゃしんられる)。
  11. ^ 中本なかもとやすしにんふねはた : 象徴しょうちょうとしてのふね (2)」『海事かいじ資料しりょうかん年報ねんぽうだい17ごう神戸商船大学こうべしょうせんだいがく海事かいじ資料しりょうかん、1989ねん、1-11ぺーじdoi:10.24546/81005759ISSN 0289-8012NAID 1100003886102021ねん6がつ1にち閲覧えつらん 
  12. ^ a b c d こうけやき泰郎やすお近世きんせい日本にっぽんにおける相場そうば情報じょうほう伝達でんたつ : べい飛脚びきゃくはた通信つうしん」『郵政ゆうせい資料しりょうかん研究けんきゅう紀要きようだい2ごう日本にっぽん郵政ゆうせい郵政ゆうせい資料しりょうかん、2010ねん、91-108ぺーじISSN 1884-9199NAID 400190676302021ねん6がつ1にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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