コルヴァイ

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世界遺産 コルヴァイのカロリングあさヴェストヴェルクとキヴィタス
ドイツ
英名えいめい Carolingian Westwork and Civitas Corvey
ふつめい Westwerk caroligien et civitas de Corvey
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (2), (3), (4)
登録とうろくねん 2014ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ
コルヴァイはノルトライン=ヴェストファーレン州にある。
コルヴァイはノルトライン=ヴェストファーレン州にある。
コルヴァイ
ノルトライン=ヴェストファーレンしゅうない位置いち

コルヴァイ (ドイツ: Corvey (Corvei, Korvei, Korvey), ラテン語らてんご: Corbeia nova, 中期ちゅうき低地ていちドイツ Corveyge) は、ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくノルトライン=ヴェストファーレンしゅうのオストヴェストファーレン地方ちほう都市としヘクスター存在そんざいするきゅう修道院しゅうどういんである。1792ねんまで帝国ていこく直轄ちょっかつドイツばん英語えいごばんベネディクトかい修道院しゅうどういんであった。

コルヴァイは、カロリングあさもっと重要じゅうよう修道院しゅうどういんひとつであり、当時とうじとしてはこのくにもっと価値かちたか図書館としょかんひとつをゆうしていた。この修道院しゅうどういんすうおおくの司教しきょう輩出はいしゅつしている。この修道院しゅうどういんは 9世紀せいきから 10世紀せいきザクセン地方ちほう文化ぶんかてき宗教しゅうきょうてき経済けいざい的中てきちゅう心地ごこち発展はってんした。危機きき段階だんかいて、コルヴァイは11世紀せいき改革かいかく修道院しゅうどういんとなった。そのかみきよしマ帝国まていこくひじりかいりょうくにとしてのコルヴァイ修道院しゅうどういんりょう成立せいりつしたが、中世ちゅうせい後期こうきにその重要じゅうようせいうしなわれた。コルヴァイ修道院しゅうどういんは、近世きんせい初期しょきにはニーダーライン=ヴェストファーレン帝国ていこくクライスぞくした。この修道院しゅうどういん帝国ていこく諸侯しょこう会議かいぎ単独たんどく投票とうひょうけんゆうしていた。

さんじゅうねん戦争せんそう結果けっかは、この修道院しゅうどういん存続そんぞく危機ききをもたらした。しかし17世紀せいき後半こうはんから教会きょうかい修道院しゅうどういん建物たてものバロック様式ようしき再建さいけんされている。その修道院しゅうどういんふたた重要じゅうようせい求心力きゅうしんりょくうしなっていった。1792ねんにこの修道院しゅうどういん司教しきょう領主りょうしゅドイツばん英語えいごばんにする努力どりょくがなされた。1803ねん帝国ていこく代表だいひょうしゃ会議かいぎ主要しゅよう決議けつぎにより修道院しゅうどういんりょう独立どくりつうしなわれた。ただし司教しきょうは、1825ねんまで存続そんぞくした。コルヴァイは、1820ねんにヘッセン=ローテンブルクかたはくヴィクトル・アマデウス所有しょゆうとなった。かれ死後しごは、おいにあたるヴィクトル・エルププリンツ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト相続そうぞくした。かれラティボルこうとコルヴァイこうの2つの肩書かたがきをれた。その家族かぞくはこれ以後いご、コルヴァイにたいする責任せきにんっている。

9世紀せいきフレスコゆうするカロリングあさヴェストヴェルクドイツばん英語えいごばん建築けんちく史上しじょうけて重要じゅうようである。きゅう修道院しゅうどういん教会きょうかいは、バロック造形ぞうけい芸術げいじゅつ記念きねんてき存在そんざいである。教会きょうかいちかくの墓地ぼちには、ドイツ国歌こっか作詞さくししゃホフマン・フォン・ファラースレーベンはかがある。しろ館内かんないには、カイザーザール、公爵こうしゃくのサロン、やく74,000かん書物しょもつおさめる領主りょうしゅ図書館としょかんがある。

UNESCO は、2014ねん6がつにコルヴァイを世界せかい文化ぶんか遺産いさん指定していした[1]現在げんざい公爵こうしゃくぐん共同きょうどうで、コンサートや展示てんじかいといった文化ぶんかイベントを開催かいさいする博物館はくぶつかんしろ館内かんない運営うんえいしている。

場所ばしょ[編集へんしゅう]

コルヴァイ周辺しゅうへん地図ちず。コルヴァイはヘクスターのひがし、ヴェーザーがわ蛇行だこう屈曲くっきょくする地点ちてん位置いちしている。この地図ちずにはトム・ローデン、ニーエンケルケン、コルヴァイはいむらまれている。

コルヴァイは、ヴェーザーベルクラントの地形ちけいかこまれたヴェーザーがわ西岸せいがんめんしている。ヴェーザーがわ西にし位置いちするヘクスターからながれてきて、修道院しゅうどういんのすぐみなみ位置いちする入植にゅうしょく中心ちゅうしんはいむらとなったコルヴァイむらながれをきたきにえる。コルヴァイは1716ねん直線ちょくせん並木道なみきみち、コルヴァイヤー・アレーでヘクスターむすばれ、その市域しいきふくまれた。修道院しゅうどういんはヴェーザーがわ東岸とうがんノルトライン=ヴェストファーレンしゅうしゅうさかいにまでいたる。ここでニーダーザクセンしゅうぞくゾリングドイツばん英語えいごばんせっしている。最寄もよりの大都市だいとしは、パーダーボルンビーレフェルトハノーファーゲッティンゲンカッセルである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創建そうけん[編集へんしゅう]

カール大帝たいていは、ザクセンじん征服せいふくしたのちあらたな支配しはい地域ちいき帝国ていこく修道院しゅうどういんもうけてキリスト教きりすときょう強化きょうか奨励しょうれいした。カールのにより、この計画けいかく実行じっこうおくれた[2]。カール大帝たいていのいとこにたる、コルビ修道院しゅうどういんドイツばん英語えいごばんフランス語ふらんすごばん院長いんちょうアーダルハルトドイツばん英語えいごばんヴァーラ異母いぼ兄弟きょうだいが、ルートヴィヒ敬虔けいけんおう許可きょかて、815ねんあるいは816ねんにザクセンじん土地とちはじめての修道院しゅうどういん、ノヴァ・コルビ(しんコルビ)をヘーティスに設置せっちした。当初とうしょはコルビ修道しゅうどう院長いんちょう代理だいり管轄かんかつする修道院しゅうどういんであった。最初さいしょ修道しゅうどうはコルビ修道院しゅうどういんからうつった。この修道院しゅうどういんは、822ねん現在げんざいのコルヴァイじょう場所ばしょにその所在地しょざいち獲得かくとくした。この修道院しゅうどういんはヘルヴェークという街道かいどうがヴェーザーかわわた西岸せいがんがわ建設けんせつされ、おう宮廷きゅうてい Huxori(のヘクスター)のややひがし位置いちした。移転いてんともない、フルダ修道院しゅうどういんドイツばん英語えいごばんからの修道しゅうどう移住いじゅうし、この修道院しゅうどういんは 1.5ばい拡大かくだいした。しかしこの修道院しゅうどういん826ねんまではは修道院しゅうどういん人的じんてき連合れんごう関係かんけいにあった。

823ねん皇帝こうていはコルヴァイ修道院しゅうどういんおうりょうおよびせいステファヌスせい遺物いぶつ寄贈きぞうした。同時どうじにコルヴァイ修道院しゅうどういんは、それまでコルビ修道院しゅうどういんがザクセンに所有しょゆうしていた財産ざいさんをすべて所有しょゆうすることとなった。この修道院しゅうどういんには治外法権ちがいほうけん修道院しゅうどういんちょう選挙せんきょけんあたえられた。修道院しゅうどういん皇帝こうていとの緊密きんみつ関係かんけいは、不興ふきょうったサン=ドニヒルドゥインドイツばん英語えいごばん幽閉ゆうへいとなったことにもしめされている。このことから、836ねんパリ近郊きんこうサン=ドニだい聖堂せいどうからせいヴィトゥスせい遺骸いがい移送いそうおこなわれた。これによりせいヴィトゥスはザクセンじん守護しゅご聖人せいじんとなった。そのプラハ司教しきょう教会きょうかいせいファイトの守護しゅごけんもコルヴァイ修道院しゅうどういん返還へんかんされた。重要じゅうよう聖人せいじんであるせいステファヌスときよしヴィトゥスにけんじげられたコルヴァイは、すうおおくの巡礼じゅんれいしゃ目的もくてきとなった。コルヴァイの初期しょき歴史れきししるした重要じゅうよう書物しょもつひとつである Translatio sancti Vitiかりやくせいヴィトゥス奉遷ほうせん』) が写本しゃほんかえしてのこされている。隣接りんせつするヘルフォルト修道院しゅうどういんドイツばん英語えいごばんならんでコルヴァイ修道院しゅうどういんは、初期しょきスカンジナヴィア布教ふきょう中心ちゅうしんとなった。823ねんアンスガー英語えいごばんのハンブルク=ブレーメン大司教だいしきょう)が教師きょうしけん説教せっきょうとしてはは修道院しゅうどういんであるコルビからコルヴァイにうつった。アンスガーをかいしてコルヴァイは、スカンジナヴィアにおける最初さいしょ布教ふきょうかかわった[3]かれは「ヴァイキングによる破壊はかいにも挫折ざせつせず、その任務にんむ完遂かんすいした」(今野こんの国男くにお[4]

コルヴァイ修道院しゅうどういんは、下層かそう社会しゃかい階級かいきゅうから修道しゅうどうになったものがいないというてんせいベネディクトゥス戒律かいりつドイツばん英語えいごばんからはずれている。修道しゅうどうは、例外れいがいなく、フランケンやザクセンの高位こうい貴族きぞくかられられた[2]

財政ざいせい基盤きばん[編集へんしゅう]

コルヴァイの古典こてん荘園しょうえん所領しょりょう
1250ねんごろのコルヴァイ修道院しゅうどういんとコルヴァイ入植にゅうしょく、ヘクスター

おうからの所領しょりょう譲渡じょうとやザクセン貴族きぞくからの寄進きしんによってコルヴァイ修道院しゅうどういんはドイツでもっと裕福ゆうふく修道院しゅうどういんひとつとなった[2]獲得かくとくしたものはコルヴァイの伝統でんとうとして固定こていされていった。ルートヴィヒ敬虔けいけんおう(778ねん - 840ねん)によりヘクスター、エーレスブルクじょうメッペンドイツばん英語えいごばんがコルヴァイの所領しょりょうとなった。ルートヴィヒ・ドイツじんおう(806ねんごろ - 876ねん)は、ヘーメルン(現在げんざいハン・ミュンデン市内しない)、ヘンメンドルフ(現在げんざいザルツヘンメンドルフ市内しない)、ヴィスベーク修道院しゅうどういん、オスナブリュック教区きょうくじゅうぶんいちぜい教会きょうかいモーゼル河畔かはんリツィッヒのブドウやま寄進きしんした。ロタール1せい(795ねん - 855ねん)は、リューゲン修道院しゅうどういんとその周辺しゅうへん地域ちいき寄進きしんした。コルヴァイはその一部いちぶ近世きんせいになるまで保持ほじしており、偽書ぎしょによって獲得かくとくしたものだという主張しゅちょうにもけっしてくっしなかった[5]みかどユーディト(795ねん - 843ねん)は、修道院しゅうどういん伝承でんしょうによれば、高価こうか十字架じゅうじか寄贈きぞうした。これを記念きねんして、修道院しゅうどういん廃止はいしされるまでは、毎年まいとしまずしい人々ひとびとにユーディトのパンがくばられていた[6]

所有しょゆうする土地とちおもに、コルヴァイ自身じしん周辺しゅうへんのヴェーザー川上かわかみりゅう地域ちいきであった。さらに「コルヴァイきた地方ちほう」とばれるエムス下流かりゅう地方ちほうディーメルドイツばん英語えいごばん河畔かはんのマールスベルク地域ちいきライネがわ中流ちゅうりゅうグレーニンゲンドイツばん英語えいごばん周辺しゅうへん旧東きゅうとうザクセン地方ちほう土地とちがある。かずおおくの農場のうじょうから古典こてん荘園しょうえんドイツばん形成けいせいされた。コルヴァイは、17世紀せいきになるまで形式けいしきじょうはシュヴァーレンベルクはくたいするレーエンふうおもであった。

14世紀せいきにはこの修道院しゅうどういんは 60以上いじょう教会きょうかい配下はいかいていた。これらの教会きょうかいはグレーニンゲン修道院しゅうどういんやオーバーマールスベルク修道院しゅうどういん、かつてのメッペン伝道でんどう教会きょうかいとコルヴァイ修道院しゅうどういん自体じたいまわりにあつまっていた。コルヴァイ修道院しゅうどういんのすぐちかくに 2つのちいさなりつ修司しゅうじさい教会きょうかいあるいは修道院しゅうどういん、ニーエンケルケンとトム・ローデンがあった(のち廃止はいしまたは移転いてんした)。さらにコルヴァイによって創設そうせつされたシャーケン修道院しゅうどういんや、下位かい組織そしきのヴェルベ修道院しゅうどういんやケムナーデ修道院しゅうどういんもあった。

この修道院しゅうどういんは、833ねんにはすでにコルヴァイ入植にゅうしょく市場いちばのための貨幣かへい鋳造ちゅうぞうけんゆうしていた。この特権とっけんは、このたねのものとしてはあずまフランク王国おうこくはじめてのれいであった。最初さいしょ硬貨こうか王国おうこく鋳型いがたしており、固有こゆう鋳造ちゅうぞうしょてられていなかった。11世紀せいきになるにつれコルヴァイ固有こゆう硬貨こうか鋳型いがた開発かいはつされた。最初さいしょ修道しゅうどう院長いんちょうザラコー・フォン・ロスドルフがデザインされた。コルヴァイ自体じたいだけでなくほか集落しゅうらく修道院しゅうどういん硬貨こうか鋳造ちゅうぞうけんあたえられた。900ねんにマールスベルクに貨幣かへい鋳造ちゅうぞうけんあたえられ、945ねんにメッペンがつづいた。13世紀せいきにはフォルクマールゼンやヘクスターにも貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしょもうけられた。13世紀せいきケルン大司教だいしきょうはヴェストファーレンこうとして、すくなくとも時々ときどきは、コルヴァイ、マールスベルク、フォルクマールゼンの貨幣かへい鋳造ちゅうぞうけん所有しょゆうについてコルヴァイとあらそった。14世紀せいきにはここでの鋳造ちゅうぞう完全かんぜん停止ていしした。ヘクスターでは、なん中断ちゅうだんされながらも、ほぼ修道院しゅうどういん終焉しゅうえんまで鋳造ちゅうぞうつづけられた。銀貨ぎんかほか銅貨どうか金貨きんか鋳造ちゅうぞうされた。最後さいご鋳造ちゅうぞうされたのは、2プフェニヒおよび 4プフェニヒの銅貨どうかで、1787ねんのものであった[7]

コルヴァイ入植にゅうしょく都市とし発展はってんしていった。このまちはヘクスターの競合きょうごう相手あいてとなった。1265ねん、ヘクスター住民じゅうみんはパーダーボルン司教しきょうとともにコルヴァイ破壊はかいした。このまち再建さいけんされたが、14世紀せいきにはすでに弱小じゃくしょう都市とし衰退すいたいしており、そのむら」となり、15世紀せいきにこの集落しゅうらくはいむらとなった。

修道院しゅうどういん維持いじ修道院しゅうどういんちょう必需ひつじゅひんのための費用ひようの 2つの予算よさんは、会計かいけいからはなされていた。ここには、威厳いげん発揚はつようおう業務ぎょうむ王宮おうきゅう滞在たいざい教会きょうかいやその建物たてもの建設けんせつなど、かなりのがくふくまれていた[8]

文化ぶんかてき興隆こうりゅう[編集へんしゅう]

850ねんごろにコルヴァイで作成さくせいされたヘーリアントの稿こう複製ふくせい

コルヴァイは、9世紀せいきから 10世紀せいき北西ほくせいヨーロッパにおけるもっと重要じゅうようキリスト教きりすときょう文化ぶんか中心ちゅうしんひとつであった。修道院しゅうどういん図書館としょかん萌芽ほうがは、ルートヴィヒ敬虔けいけんおう時代じだいにすでにあった。この図書館としょかん蔵書ぞうしょ世俗せぞくさい散逸さんいつしてしまった。しかし現存げんそんしているなかには、カール大帝たいていのザクセンほうローマ時代じだい歴史れきしタキトゥス年代ねんだいドイツばん英語えいごばん最初さいしょの5さつ、ローマ時代じだい文筆ぶんぴつ哲学てつがくしゃキケロ著述ちょじゅつがある。この修道院しゅうどういんは、ザクセンのヴェストファーレン文化ぶんかもっと重要じゅうよう証拠しょうこひとつである。この時代じだいのハイライトは879ねんから916ねん修道院しゅうどういんちょうボーヴォ1せいおよびボーヴォ2せい時代じだいである。修道院しゅうどういんちょうほかに、歴史れきししょ Poeta Saxo の作者さくしゃでコルヴァイで活動かつどうした詩人しじんのアギウスのげられる。この修道院しゅうどういんではすでに、せいヴィートゥスの伝記でんきや Annales Corbeiiens(コルヴァイの年代ねんだい)の翻訳ほんやく報告ほうこくがなされていた。ボーヴォ2せいボエティウスたいする評論ひょうろん起草きそうした。現在げんざいミュンヘンにあるヘーリアント稿こう2人ふたりのコルヴァイおさむ道士どうしいたものである[9]。コルヴァイでもちいられた修道院しゅうどういんどき典礼てんれい様式ようしき各地かくち伝播でんぱされた[6]司教しきょうアンスガーのほかに、その後継こうけいしゃとなったハンブルク=ブレーメン司教しきょうのうち 4にんがコルヴァイ出身しゅっしんであることも、この時代じだいにおけるこの修道院しゅうどういん重要じゅうようせい物語ものがたるものである。この修道院しゅうどういんは、設立せつりつから最初さいしょの4世紀せいきうちわせて 23にん司教しきょう輩出はいしゅつした。教皇きょうこうグレゴリウス5せいがコルヴァイ出身しゅっしんであることは、伝説でんせつ領分りょうぶんぞくすものである。

さんろうしきバシリカ教会きょうかいであるせいステファヌスおよびせいヴィートゥス教会きょうかいは、830ねん建設けんせつはじまり、844ねんけんじどうされた。873ねんから885ねんアーヘン宮中きゅうちゅう礼拝れいはいどうをモデルとしたヴェストヴェルクドイツばん英語えいごばんもうけられた。これは現在げんざい、ヴェストファーレン最古さいこ建築けんちく文化財ぶんかざいで、畏敬いけいねんたれるヴェストファーレンの聖域せいいきであるのみならず、現存げんそんするもっとふるいヴェストヴェルクである。当時とうじきたドイツ地域ちいき最大さいだい建築けんちくぶつひとつであった。ここにのこされている9世紀せいきえがかれたフレスコは、オデュッセイア古典こてんてきなモチーフがえがかれている。

アルヌルフは、889ねんあたらしい教会きょうかいおとずれ、修道院しゅうどういんちょうボーヴォ1せいはこの修道院しゅうどういんをカロリングあさ王家おうけ追悼ついとう修道院しゅうどういんであると紹介しょうかいした。ルートヴィヒ幼童ようどうおう死後しご、カロリングあさ断絶だんぜつした911ねんまで、コルヴァイはザクセン地域ちいきもっと重要じゅうよう修道院しゅうどういんひとつでありつづけた。913ねんコンラート1せい最初さいしょ行幸ぎょうこう以後いごコルヴァイは、修道院しゅうどういん王宮おうきゅうとしてなん利用りようされた。1203ねんまでに 23かいおう行幸ぎょうこう証明しょうめいされている。実際じっさい訪問ほうもん回数かいすうはこれよりもおおいと推測すいそくされる。おう訪問ほうもんたしかに修道院しゅうどういん威信いしんたかめたが、修道院しゅうどういん経済けいざいにとってはおおきな負荷ふかとなった[2]

10世紀せいき西にしフランク王国おうこくとの文化ぶんか交流こうりゅうついえた。これにかわり、ザクセン地域ちいきでの宗教しゅうきょうてき交流こうりゅう緊密きんみつになった。ボーヴォ3せいは、オットーあさルネサンス主要しゅよう人物じんぶつである。このほか年代ねんだい作者さくしゃヴィドゥキント・フォン・コルヴァイドイツばん英語えいごばん942ねんから973ねんまで活動かつどうし、「ザクセン」を執筆しっぴつした。

改革かいかく修道院しゅうどういん[編集へんしゅう]

時代じだいとともに修道院しゅうどういん秩序ちつじょ低下ていかしていった。皇帝こうていハインリヒ2せい改革かいかく修道院しゅうどういん時代じだいひらいた。かれ1015ねんにパーダーボルン司教しきょうマインヴェルクドイツばん英語えいごばん影響えいきょうした修道院しゅうどういんちょうヴァロを解任かいにんし、ドルトマールをその地位ちいけた。こうしたうごきは、ロルシュ修道院しゅうどういんからまれ、ゴルズドイツばん英語えいごばん改革かいかく運動うんどうにつながってゆく。頑強がんきょう抵抗ていこういながらもこの改革かいかく遂行すいこうされた。修道しゅうどうだい部分ぶぶんはこの修道院しゅうどういんった。修道院しゅうどういんちょうしたには、わずか 9にん修道しゅうどうのこっただけだった。ロルシュやエヒテルナハドイツばん英語えいごばん修道院しゅうどういんちょうについてもおなごとこった。マルクヴァルト修道しゅうどう院長いんちょう時代じだい、コルヴァイはヒルザウドイツばん英語えいごばん改革かいかく部分ぶぶんてき参加さんかした。しかしそこには本質ほんしつてき相違そういがあった。ヒルザウの改革かいかくくわわった修道院しゅうどういんではそれぞれの集落しゅうらく司教しきょうあらたにえらばれた修道院しゅうどういんちょう司教しきょうつえ手渡てわたしたのだが、コルヴァイでは修道院しゅうどういんちょう自身じしん祭壇さいだんからこれをったのである。コルヴァイはヒルザウの下位かいかれたわけではなかった。りょう修道院しゅうどういん兄弟きょうだい協定きょうていむすんだ。これにくわえて、ケルン大司教だいしきょうアンノ2せいによるグラーフシャフト修道院しゅうどういんドイツばん英語えいごばん創設そうせつという衝撃しょうげきがもたらされ、コルヴァイはヴェストファーレン地方ちほうにおける修道院しゅうどういん改革かいかく中心ちゅうしんとなった。その兄弟きょうだい協定きょうていは、それ自体じたい改革かいかく推進すいしんりょくとなり、修道しゅうどう修道院しゅうどういんちょうはザクセンに 6つの修道院しゅうどういん開設かいせつした。コルヴァイの修道しゅうどうべつ場所ばしょ設立せつりつ集会しゅうかいひらいた。この時代じだいのコルヴァイは、様々さまざま女子じょし修道院しゅうどういん新設しんせつにも関与かんよした。マルクヴァルトの時代じだい、86にん修道しゅうどうあらたにこの修道院しゅうどういんはいった。これにたいして、それ以前いぜんの25年間ねんかんはいったあたらしい修道しゅうどうはわずか 22にんだけであった[10]

教会きょうかい改革かいかく運動うんどう時代じだい特筆とくひつすべき新設しんせつは、俗人ぞくじん兄弟きょうだいだん形成けいせいである。このヴィートゥスおよびステファヌス兄弟きょうだいだんは、マルクヴァルトの時代じだいにコルヴァイで結成けっせいされ、コルヴァイ修道院しゅうどういん所領しょりょうがあるむらや、修道院しゅうどういんなんらかの権利けんりゆうしている集落しゅうらく伝播でんぱしていった。ゴスラーのヴィートゥス教会きょうかい最初さいしょだった。1081ねんから1138までのあいだだけで 1,350にん加盟かめいしゃ名前なまえかっている。兄弟きょうだいだんには規約きやくがあり、食事しょくじ困窮こんきゅうしゃ援助えんじょ死者ししゃ追悼ついとうのためにあつまった。入館にゅうかんりょう修道院しゅうどういん活用かつようされた。修道しゅうどう礼拝れいはい兄弟きょうだいだんいんいたんだ。世俗せぞく観点かんてんからは、とく叙任じょにんけん闘争とうそう危険きけん時代じだいには、兄弟きょうだいだん修道院しゅうどういん重要じゅうよう支持しじしゃとなったのである[11]

皇帝こうてい教皇きょうこうあいだ[編集へんしゅう]

改革かいかく運動うんどうともなって、次第しだいザリエリ王家おうけからの離反りはんこり、教皇きょうこうグレゴリウス7せい陣営じんえいくようになった。修道院しゅうどういんちょうヴァーリン2せい時代じだい修道院しゅうどういん皇帝こうていハインリヒ4せい支持しじしゃとその敵対てきたいしゃであるザクセンとのあいだ紛争ふんそうまととなったが、すぐにグレゴリオ支持しじしゃ中心ちゅうしんとなった。1065ねん皇帝こうていによってコルヴァイが一時いちじてきアーダルベルト・フォン・ブレーメンドイツばん英語えいごばん委託いたくされたことも叙任じょにんけん闘争とうそう関連かんれんしている。オスナブリュック教区きょうくじゅうぶんいちぜいしょう教区きょうくはこのころ廃止はいしされた。コルヴァイのふうしん皇帝こうていぐん支援しえんけ、ハインリヒ4せい信奉しんぽうする修道院しゅうどういんちょうギュンター・フォン・ヘルスフェルトによって、修道院しゅうどういんちょうマルクヴァルトは1102ねん強制きょうせいてき辞任じにんさせられ、修道しゅうどうたちのコミュニティは破壊はかいされた。しかし、そのわずか 1ねんにギュンターが死亡しぼうしたため、かみたたりであるとなされた。マルクヴァルトは、もと地位ちい回復かいふくした。修道院しゅうどういんちょう自由じゆう選挙せんきょけん無視むししたハインリヒ5せいはエルケンベルトを修道しゅうどう院長いんちょう任命にんめいした[2]。これによりコルヴァイは、一時いちじてき王家おうけあゆりエルケンベルトは、1108ねんハンガリーへ、1110ねんから1111ねんローマへと皇帝こうてい随従ずいじゅうした。このころすでに修道院しゅうどういん物質ぶっしつてき基盤きばん入手にゅうしゅ憂慮ゆうりょされはじめた。このためエルケンベルトは所蔵しょぞうひん一覧いちらん作成さくせいさせた。おなごろ家人かじん修道院しゅうどういん執事しつじとの紛争ふんそうはじまった。ふく執事しつじであったシュヴァーレンベルクはくは、ハインリヒ獅子ししこう失脚しっきゃく一時期いちじき修道院しゅうどういん執事しつじとなった[12]

1118ねんにこの修道院しゅうどういんはテオガー・フォン・ザクント・ゲオルゲンをれた。その教会きょうかい改革かいかくによってメッツ司教しきょうえらばれたため、かれはコルヴァイですうおおくのグレゴリウス指導しどうしゃ出席しゅっせきするなかせつけるかのように教皇きょうこう特使とくしクーノ・フォン・プラエネステドイツばん英語えいごばんによって司教しきょうとなる祝福しゅくふくけた。このあたらしい司教しきょうは、ただちにその教会きょうかいじょう職務しょくむ執行しっこうした。コルヴァイのゲオルク教会きょうかい、アンドレアス祭壇さいだん修道院しゅうどういん教会きょうかい地下ちか聖堂せいどうひじりべつしたのである[13]

1130年代ねんだい以降いこう修道院しゅうどういん秩序ちつじょあらたな低下ていかはじめた[2]ヴィバルト・フォン・シュタブロドイツばん英語えいごばんしたでコルヴァイは最後さいご隆盛りゅうせい享受きょうじゅした(1146ねん – 1158ねん)。この時代じだいにヴェストヴェルクは、隣接りんせつするヘクスターのせいキリアニ教会きょうかい模倣もほうし、それを凌駕りょうがする 2ほんとう現在げんざいかたち改築かいちくされた。剥奪はくだつされていた占有せんゆうけんが、このころふたた有効ゆうこうとなった。これは、暴力ぼうりょくてきはくミニステリアーレ干渉かんしょう対抗たいこうするための手段しゅだんであった。修道院しゅうどういん規則きそくあらたに制定せいていされた。修道院しゅうどういんは、Liber vitaeをふく一連いちれん贅沢ぜいたく稿こう発注はっちゅうできるほどに裕福ゆうふくであった。

この芸術げいじゅつてきな Liber vitae は、おそらくヘルマースハウゼン修道院しゅうどういん作成さくせいされた。この作品さくひん着手ちゃくしゅされてから完成かんせいするまでのすべてのコルヴァイおさむ道士どうしおよび修道院しゅうどういんちょう名前なまえがこのなかふくまれている。さらにコルヴァイと祈祷きとう兄弟きょうだいかいむすんだ 76 の宗教しゅうきょう団体だんたい名称めいしょうリストがある。このほんはミュンスター国立こくりつ文書ぶんしょかんもっと貴重きちょう稿こうひとつにかぞえられる。その内容ないようは、コルヴァイが様々さまざま規律きりつ団体だんたい関係かんけいっていたことをしめしている。コルヴァイ首席しゅせき司祭しさいとならんでシュタブロ修道院しゅうどういんはは修道院しゅうどういんであるコルビ修道院しゅうどういんがその筆頭ひっとうであった[13]

おそらくヴィバルトのリードにより、12世紀せいきにコルヴァイでキケロの「法廷ほうてい弁論べんろん哲学てつがくてき著作ちょさく堂々どうどうたる一連いちれん演説えんぜつ、『縁者えんじゃ友人ゆうじんあて書簡しょかんしゅう』(Epistula ad familiares)の一部いちぶをふくむ」写本しゃほんかれている。この「キケロのしょ作品さくひん非常ひじょう包括ほうかつてき写本しゃほん」は、「テクスト研究けんきゅう重要じゅうよう資料しりょうであり、12世紀せいき人文じんぶん主義しゅぎ証左しょうさしてわれわれに感銘かんめいあたえるものである」(レイノルズ/ウィルスン)[14]

中世ちゅうせい後期こうき衰退すいたい領域りょういきりょうくに[編集へんしゅう]

ヴィバルトの死後しご、コルヴァイは急速きゅうそくにその重要じゅうようせいうしない、帝国ていこくローマ教皇きょうこうちょうにおける役割やくわり喪失そうしつした。修道院しゅうどういんちょうヴィドゥキントの時代じだい(1189ねん – 1203ねん)、この修道院しゅうどういんたしかに重要じゅうようせい保持ほじしていた。しかし、その修道しゅうどう院長いんちょう1242ねん修道院しゅうどういん火災かさいが、負債ふさい経済けいざいてき凋落ちょうらく原因げんいんとなった。ローマとの関係かんけいは、はんローマ主義しゅぎ修道院しゅうどういんちょうディートマール2せいフォン・シュトックハウゼン(1206ねん – 1216ねん)やヘルマン1せいフォン・ホルテ(1223ねん – 1254ねん)によって持続じぞくてき妨害ぼうがいされつづけた。13世紀せいきなか以降いこうホーエンシュタウフェンあさ終焉しゅうえんともない、コルヴァイは、ヴェストファーレンこうとしてこの地域ちいき現実げんじつてき関心かんしんしめすケルン大司教だいしきょうやパーダーボルン司教しきょう、ミュンスター司教しきょうらに対抗たいこうする独自どくじ役割やくわりつことができなかった。

シュタウフェンあさによって王権おうけんみなみドイツに移動いどうしたことや王位おうい脆弱ぜいじゃくしたことなどによって、コルヴァイはおう保護ほごうしなった。これをけて修道院しゅうどういんちょうはできるだけ閉鎖へいさてきりょうくに形成けいせいしようとした。このため、周辺しゅうへんのライバルたちと必然ひつぜんてき衝突しょうとつこした。パーダーボルン司教しきょう様々さまざまはくとくブラウンシュヴァイク=リューネブルクこうヘッセンかたはく、ケルン大司教だいしきょうなどである。このため、1189ねん修道院しゅうどういんちょう年代ねんだいですでになげかれているとおり、修道院しゅうどういんちょう宗教しゅうきょうじょう職務しょくむをないがしろにして、しろ建設けんせつこのんだ。こうした防衛ぼうえい施設しせつとして、ブルンスブルク、ラントエッゲ、クーゲルスブルクあるいはリヒテンフェルスじょうがある。

コルヴァイは1220ねんから「りょうくにされた」帝国ていこく修道院しゅうどういんとなった。

これにたいして、甚大じんだい損害そんがいこうむった。いわゆる「オスナブリュックのじゅうぶんいちぜい紛争ふんそう」にともなって疎外そがいされたことにより、修道院しゅうどういんちょうじゅうぶんいちぜいやオスナブリュック司教しきょう区内くない収入しゅうにゅうだい部分ぶぶんうしなったのである。ヴァルデックはく領域りょういきでは、13世紀せいきはくやケルン大司教だいしきょう有利ゆうりになるよう財産ざいさんうしなっている。1198ねん獲得かくとくしたゾリングもうしなわれた。

かつてひろ範囲はんい点在てんざいしていた土地とちうち最終さいしゅうてきにはコルヴァイ周辺しゅうへん地域ちいきだけがのこされた。修道院しゅうどういん所領しょりょうやく 275 km2(おおむね現在げんざいのヘクスターとその12の市区しくにあたる)であった。この領域りょういきは、ひがしはヴェーザーがわさかいとし、西にしみなみ直接ちょくせつとなりりょうくにであるパーダーボルン司教しきょうりょうせっしていた。この領域りょういきにはしゅ邑であるヘクスターのほかに16の村落そんらくふくまれた。

中世ちゅうせい後期こうきとおして、経済けいざいてき政治せいじてき宗教しゅうきょう文化ぶんかてき脆弱ぜいじゃく期間きかんつづいた。14世紀せいきから15世紀せいき修道院しゅうどういんちょうは、まったく重要じゅうようでなく、とき品位ひんいけがすようなものもいた。これにたいして修道しゅうどう集会しゅうかい影響えいきょうりょく獲得かくとくしていった。15世紀せいきにこの修道院しゅうどういんは、それまでの発展はってんさい底辺ていへんにあった[2]

近世きんせい[編集へんしゅう]

コルヴァイ修道院しゅうどういんりょう地図ちず

帝国ていこく改造かいぞうドイツばん英語えいごばんともなって、コルヴァイは1500ねんにニーダーライン=ヴェストファーレン帝国ていこくクライスくわわり、これによりその領域りょういき神聖しんせいマ帝国まていこく一部いちぶであることが確認かくにんされた。帝国ていこく議会ぎかい帝国ていこくりょうくに会議かいぎでは、帝国ていこく直轄ちょっかつ修道院しゅうどういん修道院しゅうどういんちょうのような共同きょうどうでの投票とうひょうけんではなく、コルヴァイ修道しゅうどう院長いんちょう個人こじんとして議席ぎせきめ、単独たんどくひょうゆうしていた。帝国ていこく台帳だいちょうには、1522ねんごろコルヴァイは 2人ふたり騎士きし、9にん歩兵ほへい、120グルデンの戦費せんぴ帝国ていこくぐんのために提供ていきょうすると記載きさいされている。コルヴァイのりょうくにないではドイツ低地ていちドイツラテン語らてんごはなされていた。1800ねんごろには面積めんせき 275 km2やく1まんにんんでいた[15]。コルヴァイはナッサウ=オラニエ公国こうこく1803ねん)、ヴェストファーレン王国おうこく1807ねん)、プロイセン王国おうこく1815ねん)、コルヴァイ陪臣ばいしんりょうくに1820ねん)にぞくした。

やはり1500ねんごろ修道院しゅうどういんちょうフランツ・フォン・ケッテラーのしたでブルスフェルデ会議かいぎけて内部ないぶ改革かいかくはじまった。また、財政ざいせい基盤きばん保全ほぜんはじまった。こうした改革かいかく努力どりょくは、1533ねん以降いこうコルヴァイりょうない宗教しゅうきょう改革かいかくはいんだ時期じきかさなっている。これによりコルヴァイ修道院しゅうどういんりょうでは、ヘクスター、アーメルンクセン、ブルーフハウゼンでの宗教しゅうきょう改革かいかくこばみ、これに対抗たいこうすることに成功せいこうした。しかしこれは修道院しゅうどういんちょう立場たちばいちじるしくげん弱化じゃっかした。1590ねんころ修道しゅうどう院長いんちょうディートリヒ・フォン・ベリングハウゼンによってカトリック改革かいかく最初さいしょこころみが開始かいしされたが、この対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく萌芽ほうがはほとんど成功せいこうしなかった。ぎゃくにこの修道院しゅうどういん自体じたい宗教しゅうきょう改革かいかく脅威きょういにさらされた。ブルスフェルデ会議かいぎ介入かいにゅうついえた。1585ねんから1616ねんまでのあいだにヴェストヴェルクのとう屋根やねつくえられ[16]、ヴェストヴェルクの上層じょうそう祭壇さいだんもうけられた。対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかくは、この修道院しゅうどういん領域りょういきでは1624ねんまでにヘクスターをのぞきほぼ完了かんりょうした。

さんじゅうねん戦争せんそうでこの修道院しゅうどういんひどく破壊はかいされた。「修道院しゅうどういん大火たいか」(1635ねんの「ヘクスターのよく」)で修道院しゅうどういん図書館としょかんだい部分ぶぶん消失しょうしつした。この戦争せんそうあいだ修道しゅうどうたちは場合ばあいによりヘクスターに避難ひなんした。さらに軍事ぐんじ占領せんりょう高額こうがく戦費せんぴ支払しはらいがされた[2]

クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレン

ミュンスター司教しきょうクリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレンドイツばん英語えいごばん1665ねん管理かんりかんとなったとき修道しゅうどうたちは一連いちれん候補者こうほしゃなかから修道院しゅうどういんちょう選出せんしゅつすることを放棄ほうきしており、コルヴァイは消滅しょうめつ寸前すんぜん状態じょうたいにあった。かれはバロック様式ようしき修道院しゅうどういん教会きょうかい建設けんせつし、貴族きぞく修道しゅうどう集会しゅうかい復活ふっかつさせることで修道院しゅうどういん活気かっきづけた。ヘクスターにたいする領主りょうしゅ威信いしんあらためられた。こうして修道院しゅうどういん生活せいかつがかなり安定あんていしたのち修道しゅうどう集会しゅうかいから修道院しゅうどういんちょう選出せんしゅつすることに成功せいこうした。ヴィルヘルム・ラーベはガーレン時代じだいを「ヘクスターとコルヴァイ」の著述ちょじゅつついやした[17]老朽ろうきゅうしていた修道院しゅうどういん教会きょうかいは、ヴェストヴェルクをのぞいて、1667ねんからバロック様式ようしき調度ちょうどひんと、ゴシック様式ようしき内装ないそう改築かいちくされた。1699ねんから1756ねんまでのあいだとく修道院しゅうどういんちょうフローレンツ・フォン・デム・フェルデ(1696ねん – 1714ねん)によって修道院しゅうどういん施設しせつをバロック様式ようしきにするだい規模きぼ改修かいしゅう工事こうじおこなわれた。コルヴァイしろかんは、このときに改修かいしゅうされた状態じょうたいをほとんどえることなく、今日きょうまで保存ほぞんしている。修道院しゅうどういん中央ちゅうおう車寄くるまよせに直接ちょくせつられたカール大帝たいていやルートヴィヒ敬虔けいけんおう栄誉えいよをたたえるめいは、コルヴァイが対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく中心ちゅうしんであることを宣言せんげんするものとして重要じゅうようである。修道院しゅうどういんちょうは、領主りょうしゅ権利けんり豪華ごうかなカイザーザール(皇帝こうていホール)で表現ひょうげんしている。修道院しゅうどういんちょうマクシミリアン・フォン・ホルリヒ(1714ねん – 1721ねん)は、あたらしい建物たてもの図書館としょかんとして利用りようすることとした[18]

17世紀せいきから18世紀せいき修道院しゅうどういん歴史れきしちからそそがれた。当時とうじ歴史れきし記者きしゃは、一部いちぶ原典げんてん贋作がんさくし、のちに「コルヴァイの偽造ぎぞう歴史れきし」とばれた。この偽造ぎぞうされた歴史れきししょは、19世紀せいき文書ぶんしょ管理かんりしゃ歴史れきしのパウル・ヴィーガントが様々さまざまあやまりをのこ原因げんいんともなった。

コルヴァイ領主りょうしゅ司教しきょう世俗せぞく[編集へんしゅう]

年間ねんかんやく10まんターラー以上いじょう収入しゅうにゅうがあり、12,000にんようする帝国ていこく修道院しゅうどういんりょうは、パーダーボルン司教しきょうくびきからのがれようとつねつとめていた。18世紀せいきまつ修道しゅうどう集会しゅうかい暴力ぼうりょくてき方法ほうほう廃止はいしされたことがつよ動機どうきけとなった。しかし、1786ねんには修道しゅうどう集会しゅうかいにはわずか 13にんのメンバーがいただけだった。コルヴァイは貴族きぞく志願しがんしゃだけれることをみとめており、衰退すいたいにより志願しがんしゃはほとんどいなかったため、司教しきょうへの昇格しょうかくによって凋落ちょうらくめようと努力どりょくした。

1779ねん最初さいしょのステップとしてコルヴァイヤー・テリトリウムとばれるりょうくに修道院しゅうどういん身分みぶんへの昇格しょうかくがなされた。修道院しゅうどういんちょうはその領主りょうしゅとして世俗せぞく案件あんけんおよびひじりかい案件あんけんについてもパーダーボルン司教しきょうから奪取だっしゅし、修道院しゅうどういんちょうのものとした。司教しきょう布教ふきょうけんはパーダーボルン司教しきょうのこされた。修道しゅうどう集会しゅうかいつねにベネディクトかい特色とくしょく保持ほじし、きびしい修道しゅうどう生活せいかつ日課にっかおくることを、修道院しゅうどういんちょう臨席りんせきした決議けつぎした。ほとんどの修道しゅうどう高齢こうれいしていたため、いのり禱時には、1786ねん開校かいこうした神学校しんがっこう生徒せいと動員どういんされた。また、12にん将来しょうらい聖堂せいどう参事さんじ会員かいいんと 500ターラーの俸給ほうきゅう確保かくほした。Vita communis地域ちいき生活せいかつ)もおおきく改善かいぜんされ、きんいきせい廃止はいしされた。

1788ねん、この修道院しゅうどういんはついに世俗せぞく申請しんせい教皇きょうこう提出ていしゅつした。修道院しゅうどういん1792ねん廃止はいしされ、わずか10の教会きょうかいしかたないにもかかわらず、領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうテオドール・フォン・ブラベックは領主りょうしゅ司教しきょうに、修道院しゅうどういんりょう司教しきょうりょうりょうくに)になった。修道院しゅうどういんふく院長いんちょう聖堂せいどう首席しゅせき司祭しさいに、修道しゅうどう聖堂せいどう参事さんじ会員かいいんとなった。修道しゅうどう一人ひとりであるフェルディナント・フォン・リュニンクは、この変更へんこう作業さぎょうとく積極せっきょくてきんだ。さらに聖堂せいどう付属ふぞく学校がっこう生徒せいとは、いまや司教しきょう教会きょうかいとなった修道院しゅうどういん教会きょうかいの 6にん聖堂せいどうじょにん司祭しさいいた。服装ふくそう規律きりつは、ドイツのほか聖堂せいどう参事さんじかいならった。1794ねん皇帝こうてい文書ぶんしょ作成さくせいされ、きゅう修道院しゅうどういんりょうだけをふくあらたな司教しきょうりょう成立せいりつし、マインツ司教しきょう管区かんく下位かい組織そしきされた。1794ねんにフェルディナント・フォン・リュニンクがテオドール・フォン・ブラベックののちいで領主りょうしゅ司教しきょうとなり、プロイセン王国おうこくにおけるこの教区きょうく最後さいご地域ちいき司教しきょうとなった。

主権しゅけん終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

そのすぐ、1803ねん世俗せぞくりょうくにのコルヴァイ司教しきょうりょう帝国ていこく代表だいひょうしゃ会議かいぎ主要しゅよう決議けつぎによって廃止はいしされた。この領域りょういきは、ヴィルヘルム5せいフォン・オラニエンおさめるナッサウ=オラニエ=フルダこうりょう一部いちぶとなった。このほうりょう1806ねんからオラニエ=ナッサウ公子こうしヴィルヘルム・フリードリヒ領主りょうしゅとした。コルヴァイは1807ねんにナポレオン支配しはいヴェストファーレン王国おうこく一部いちぶとなり、最終さいしゅうてき1815ねんにプロイセン王国おうこく国有こくゆうとなった。しかし、きよしかいのコルヴァイつかさ教区きょうく1825ねんにフェルディナント・フォン・リュニンクがくなるまで存続そんぞくし、そのパーダーボルン教区きょうく編入へんにゅうされた。

ラティボルおおやけおよびコルヴァイこうヴィクトル1せい

ウィーン会議かいぎ結果けっか補償ほしょう権利けんりヘッセン=ローテンブルクかたはくヴィクトル・アマデウスは、1820ねんにプロイセンおうからコルヴァイ直轄ちょっかつこうりょう (Mediatfürstentum) およびラティボル直轄ちょっかつこうりょう補償ほしょうとしてあたえられた。かたはくは、1825ねん遺言ゆいごんでこの所領しょりょうおいエルププリンツ・ヴィクトル・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト遺贈いぞうした。かたはく1834ねんくなり、成人せいじんした1840ねんにエルププリンツ・ヴィクトルはシリングスフュルストの相続そうぞくけん放棄ほうきし、「ラティボルおおやけおよびコルヴァイこう」ヴィクトル1せい名乗なのった。

私有地しゆうちコルヴァイ[編集へんしゅう]

ヴィクトル1せいこうは1840ねん11月に、住民じゅうみんだい部分ぶぶん注目ちゅうもくするなかラティボル近郊きんこうのラウデンをおとずれた。かれはここを永住えいじゅうとし、コルヴァイにはほとんど滞在たいざいしなかった。かれ統治とうち最盛さいせい直前ちょくぜん1844ねんになってはじめてコルヴァイの西にしつばさほう住居じゅうきょとなるあらたな施設しせつもうけられた。1845ねん4がつ19にちにヴィクトルこうは、フュルステンベルクほうカール・エーゴン2せいほうおんなアメーリエと結婚けっこんした。

ラティボルこうヴィクトル1せいは、プロイセン王国おうこくない主導しゅどうてき政治せいじてき役割やくわりていた。かれ1877ねんプロイセン貴族きぞくいん議長ぎちょうとなった。その、プロイセン外務がいむ担当たんとう参事官さんじかん就任しゅうにんした。かれ文化ぶんかてき成果せいかは、とくにコルヴァイの領主りょうしゅ図書館としょかんや、ベルリンシュレージエン、ヴェストファーレンにおける様々さまざま活動かつどうあらわれている。かれは、晩年ばんねんをラウデンでごし、1893ねん1がつ30にちにそこでくなった[19]

1925ねんから1930ねんまでのあいだ撮影さつえいされたコルヴァイの写真しゃしん

父親ちちおや死後しご公子こうしヴィクトルは 2代目だいめのラティボルおおやけおよびコルヴァイこうとなった。ヴィクトル2せいおおやけ(1847ねん - 1923ねん)は、1877ねんにブロイナー=エンケヴォイルトおんなはくマリーと結婚けっこんした。彼女かのじょ1894ねんニーダーエスターライヒ地方ちほうのグラーフェンエッグ、ノイアイゲンおよびアスパルンの所領しょりょう相続そうぞくし、コルヴァイとともにこの一族いちぞく所有しょゆうとなった。ヴィクトル2せいこうは、プロイセン王国おうこくない父親ちちおや同様どうよう要職ようしょく歴任れきにんした。ヴィクトル3せいおおやけ(1870ねん - 1945ねん)は、1923ねんちちから公家くげ頭領とうりょういだ。この家族かぞく1945ねんにラティボル近郊きんこうのラウデンをはなれ、コルヴァイへのがれた。34,000 ha森林しんりんふくむシュレージエンの所領しょりょうポーランドりょうとなった[20]

だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん建物たてもの調度ちょうどだい規模きぼ修復しゅうふくおこなわれた。屋根やね、ファサード、まどもんえられ、近代きんだいされた。しろかん建築けんちく最良さいりょう部分ぶぶん一般いっぱん公開こうかいされた。1984ねんにラティボルおおやけおよびコルヴァイほうフランツ・アルブレヒトは調度ちょうどだい部分ぶぶん公益こうえき機関きかんであるヘクスター=コルヴァイ文化ぶんかクライス GmbH に移管いかんした。公家くげならんでヘクスターとヘクスターぐんがこの公益こうえき法人ほうじん運営うんえいしゃとなった。これ以後いごコルヴァイはヴェーザーベルクラントの文化ぶんかてき中心ちゅうしんへと発展はってんした[21]修道院しゅうどういん教会きょうかいは、ヴィクトル3せいこう次男じなんフランツ・アルブレヒト・メッテルニヒ=シャーンドルせいステファヌス・ヴィートゥス教会きょうかい寄進きしんしたことで管理かんりけん移管いかんされた。これにより教会きょうかいはこの貴族きぞく所有しょゆうではなくなっている[22]。フランツ・アルブレヒトこう死後しご、その息子むすこのラティボルおおやけおよびコルヴァイこうヴィクトル5せいがコルヴァイの管理かんり運営うんえいいだ。かれは、居城きょじょう完全かんぜんにコルヴァイにうつした最初さいしょのラティボルこうである。

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

コルヴァイは1999ねん以降いこう UNESCO 世界せかい遺産いさん暫定ざんていリスト掲載けいさいされ、2014ねん正式せいしき登録とうろくされた[23]提案ていあん資料しりょう作業さぎょうグループない推敲すいこうされた。ノルトライン=ヴェストファーレンしゅう、ラティボル公家くげせいステファヌス・ヴィートゥス教会きょうかいおよびぐん、ヴェストファーレン=リッペ地方ちほう連盟れんめい代理人だいりにんがこれにたずさわった。

提案ていあんのタイトルは、"Das karolingische Westwerk und die Civitas Corvey."(コルヴァイのカロリングあさヴェストヴェルクとキヴィタス)であった。提案ていあん資料しりょうは、提案ていあんぶん本体ほんたいとマネージメントプランをふくんでいた。このために、コルヴァイとパーダーボルンで 2国際こくさいシンポジウムの研究けんきゅう報告ほうこくもとづく集会しゅうかいひらき、啓発けいはつ資料しりょう作成さくせいした。この提案ていあんは2012ねん12月にウーテ・シェーファーによってノルトライン=ヴェストファーレンしゅう政府せいふ署名しょめいがなされた。

世界せかい遺産いさん登録とうろくのためのもっと重要じゅうよう選考せんこう基準きじゅんは、独創どくそうせい正統せいとうせい歴史れきしてき真正しんせいせい)、完全かんぜんせいである[24]。コルヴァイの特徴とくちょう以下いかのようにまとめられる: コルヴァイはもっとふるく、類例るいれいのない、ほぼ完全かんぜん保存ほぞんされたカロリング時代じだいのヴェストヴェルクをゆうしている。中央ちゅうおうさんぽうバルコニーかこまれた、うえかいにあるメインの空間くうかんは、そのかたち本来ほんらい芸術げいじゅつてき調度ちょうど古風こふうなモデルにさかのぼることができる。等身とうしんだい石膏せっこうぞうをもつ調度ちょうど建築けんちくてき構成こうせい彩色さいしきされた空間くうかん把握はあく装飾そうしょくてきフリーズ神話しんわ壁画へきが(これは、現在げんざいられているカロリング時代じだい唯一ゆいいつ壁画へきがである)といった、本質ほんしつてき部分ぶぶん保存ほぞんされている。このヴェストヴェルクは、「カロリングあさルネサンス」の卓越たくえつした作例さくれいである。

学校がっこう図書館としょかんつこの修道院しゅうどういんは、中世ちゅうせい初期しょきから盛期せいきのコルヴァイ成立せいりつうながした。これは、宗教しゅうきょう文化ぶんか中心ちゅうしんであると同時どうじ商業しょうぎょうでもあった。13世紀せいき荒廃こうはいしたこの都市としとかつての防備ぼうびかためた修道院しゅうどういん管区かんく考古学こうこがく文化財ぶんかざいとして保存ほぞんされている[25]。さらにフランク王国おうこくあたりえんにあったコルヴァイは政治せいじてき機能きのうゆうしており、布教ふきょう活動かつどう任務にんむのヨーロッパ世界せかい政治せいじてき宗教しゅうきょうてき影響えいきょうおよぼした。

世界せかい遺産いさん承認しょうにんには以下いか目標もくひょうされた: 現状げんじょう維持いじ管理かんり将来しょうらい建築けんちく保存ほぞん開発かいはつ計画けいかく学問がくもんてき裏付うらづけの保全ほぜんかんする将来しょうらい計画けいかく利害りがい衝突しょうとつによる紛争ふんそう予防よぼう管理かんり計画けいかく教会きょうかい本来ほんらい利用りようたいする保護ほご経済けいざいてき観光かんこうじょう圧力あつりょくたいする首尾しゅび一貫いっかんした持続じぞく可能かのうなコンセプト、国内こくない国際こくさいてき認知にんち定着ていちゃく[26]

2013ねん9がつICOMOS委員いいんがコルヴァイをおとずれ、情報じょうほう通知つうちした[23]

2014ねん6がつ21にち、「コルヴァイのカロリングあさのヴェストヴェルクとキヴィタス」の名称めいしょうした、かつてのコルヴァイ修道院しゅうどういん全体ぜんたいが、UNESCO により公式こうしき世界せかい遺産いさんとして登録とうろくされ、ドイツで39けん世界せかい遺産いさんとなった[27]

図書館としょかん[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい修道院しゅうどういん図書館としょかん[編集へんしゅう]

修道院しゅうどういん教会きょうかい最初さいしょ稿こうぐんは、はは修道院しゅうどういんであるコルビ修道院しゅうどういん由来ゆらいのものである。詳細しょうさい不明ふめい文書ぶんしょはあるが、その文書ぶんしょについてはそう結論けつろんづけている。自身じしんがコルヴァイ修道院しゅうどういん設立せつりつ関与かんよしたパスカシウス・ラドベルトゥス著述ちょじゅつもそのひとつである。かれは、コルヴァイ修道院しゅうどういん初代しょだい修道しゅうどう院長いんちょうアーダルハルトの死後しご素晴すばらしい挽歌ばんかんでいる。かれ修道院しゅうどういんちょうヴァーリンにも2へん作品さくひんけんじげている。これらも修道院しゅうどういん図書館としょかん所蔵しょぞうされている。修道院しゅうどういんちょうアーダルハルトと学識がくしきある文通ぶんつうおこなっていたコルビーのラトラムヌス著作ちょさくもコルヴァイに保存ほぞんされている。

9世紀せいきはじめに図書館としょかんは、ルートヴィヒ敬虔けいけんおう宮廷きゅうてい礼拝れいはいどう司祭しさいによっておおきく拡充かくじゅうされた。ルートヴィヒはこの修道院しゅうどういん自分じぶん所有しょゆうする書物しょもつ寄贈きぞうした。現在げんざいミュンヒェンにあるヒエロニムスのマタイ福音ふくいんしょ注釈ちゅうしゃくもそのひとつである。かなりの蔵書ぞうしょゆうしていた重要じゅうよう修道院しゅうどういん学校がっこう修道院しゅうどういん図書館としょかん拡充かくじゅうとく寄与きよした。司教しきょうアンスガーは布教ふきょうたびにコルヴァイの書物しょもつ携帯けいたいしたか、あるいは布教ふきょうのち書物しょもつをコルヴァイにおさめた。しかもハンブルク聖堂せいどう図書館としょかんは、デンマークじんによって破壊はかいされていたため、コルヴァイの援助えんじょによって再建さいけんされた。900ねんごろには著述ちょじゅつとして重要じゅうよう修道しゅうどうもコルヴァイで活動かつどうした。ザクセン記述きじゅつした修道しゅうどうヴィドゥキントもその一人ひとりかぞえられる。利用りようされた原典げんてん分析ぶんせきは、すうおおくの古典こてんキリスト教きりすときょう著者ちょしゃ作品さくひんがコルヴァイに収蔵しゅうぞうされていたことをしめしている。

そのあらたな蔵書ぞうしょ比較的ひかくてきすくなくなった。蔵書ぞうしょふたた増加ぞうかするのは、1100ねんごろのマルクヴァルト修道しゅうどう院長いんちょうによる改革かいかくである。マリエンミュンスター修道院しゅうどういんはその創設そうせつにコルヴァイから書物しょもつた。エルケンベルク修道しゅうどう院長いんちょうしたでもコルヴァイは一連いちれん作品さくひんた。エッケハルト・フォン・アウラは編纂へんさんした世界せかい年代ねんだいをこれにけんじた。それにもかかわらず、図書館としょかん衰退すいたいつづけた。つぎ発展はってんしたのはヴィバルト・フォン・シュタブロが修道院しゅうどういんちょういた1146ねんになってからであった。キケロの入手にゅうしゅしやすい著述ちょじゅつ収集しゅうしゅうされ、現在げんざいベルリンにあるコデックスにまれた。おそらくヘルマールスハウゼンで作成さくせいされた liber vitae もこの時代じだい収集しゅうしゅうされた。

ヴィバルトが1158ねんくなったのち図書館としょかんはかつての重要じゅうようせい喪失そうしつした。たしかにあたらしい書物しょもつ追加ついかされていったが、他方たほうではすうおおくのふる書物しょもつうしなわれていった。とくザクセンシュピーゲル在庫ざいこやしていった。

タキトゥスの年代ねんだいからトイトブルクのもりたたか部分ぶぶん

16世紀せいきはじめに修道院しゅうどういん図書館としょかんからある名高なだか稿こうぬすまれ、教皇きょうこうレオ10せいわたった。この稿こうは、おそらくフルダ修道院しゅうどういんドイツばん英語えいごばん作成さくせいされた9世紀せいき写本しゃほんであり、タキトゥス年代ねんだい最初さいしょの6かんであったといいつたえられている。1515ねん教皇きょうこうレオ10せいはこのテキストを公刊こうかんするために印刷いんさつさせた。かれは、できあがった印刷物いんさつぶつ1を「補償ほしょう」としてコルヴァイにおくり、修道院しゅうどういんに「持続じぞくてきめんつぐなえ」を確約かくやくした[28]今日きょうまで所在しょざいからない稿こうさんじゅうねん戦争せんそう紛失ふんしつした稿こうがあるなかひろ普及ふきゅうすることができたことをかんがえれば、この盗難とうなん幸運こううんであったともえる[29]

これ以後いごの16世紀せいきちゅうにブルスフェルデ修道院しゅうどういん蔵書ぞうしょがコルヴァイにうつされた。このころには、学習がくしゅう目的もくてきとしておおくの学識がくしきしゃがこの図書館としょかんおとずれた。たとえばヘルマン・ハーメルマンは、ここをおとずれたという証拠しょうこはないが、もっともすばらしい図書館としょかんひとつにコルヴァイをげている。図書館としょかんは、さんじゅうねん戦争せんそうあいだおおきな損失そんしつこうむった。

マクシミリアン・フォン・ホルリヒ

さんじゅうねん戦争せんそうしん修道院しゅうどういん図書館としょかん[編集へんしゅう]

17世紀せいきわりころのクリシュトフ・ベルンハルト・フォン・ガーレンが修道院しゅうどういんちょうであった時代じだいに、あたらしくおおくの作品さくひん購入こうにゅうすることができた。バロック様式ようしきしん図書館としょかん創設そうせつした領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうマクシミリアン・フォン・ホルリヒが、この蔵書ぞうしょ拡充かくじゅうつかさどった。図書館としょかん書棚しょだなは2だん以上いじょう拡充かくじゅうされた。マクシミリアン・フォン・ホルリヒは修道院しゅうどういん貴族きぞく修道しゅうどう集会しゅうかい必要ひつようたす図書館としょかん開設かいせつした。書物しょもつ製本せいほん明色めいしょくかわ表紙ひょうし羊皮紙ようひしでなされた。そのには2ほんあおいストライプがあり、そのうえほん標題ひょうだいした図書館としょかんでのほんしょかれていた。製本せいほんされてまれたほん装丁そうていことなっていた[18]

1721ねんにブレーメンでひらかれたオークションで修道しゅうどう院長いんちょうマクシミリアン・フォン・ホルリヒは、手書てがきのメモをふくすうおおくのほん購入こうにゅうした。その作品さくひんのいくつかはプレモンストラートかいドイツばん英語えいごばんストラホフ修道院しゅうどういんプラハイエズスかい神学校しんがっこう作成さくせいされたものであった。記録きろくも、マクシミリアン修道しゅうどう院長いんちょうがコルヴァイ修道院しゅうどういん図書館としょかんのためにしばしば図書としょ購入こうにゅうしたことをしめしている。記録きろくは「ヘクスター購入こうにゅうした」ことや、「ホルツミンデンである人物じんぶつから購入こうにゅうした」ことを証明しょうめいしている[18]

後継こうけいしゃ修道院しゅうどういんちょうしたでもコルヴァイ修道院しゅうどういん図書館としょかん書籍しょせき購入こうにゅうおこなわれた。蔵書ぞうしょは、1793ねんまでに 6,000てんえた。1803ねんのコルヴァイ図書館としょかん目録もくろくうつしによって蔵書ぞうしょ概要がいようることができる[30]

1803ねん世俗せぞく図書館としょかん廃止はいしされた。その処遇しょぐうかんする交渉こうしょうは1812ねんまでつづけられた。しかし、一部いちぶはそれ以前いぜんにすでに秘密裏ひみつりになくなっていた。歴史れきしパウル・ヴィガントは、1811ねんには期待きたいしていた書物しょもつの 1/4 しかのこっていなかったとべている。かなりの部分ぶぶんマールブルクミュンスターボンはこされていた。のこったやく 2,500かんは、コルヴァイ主任しゅにん司祭しさい図書館としょかんとしてヘクスターの首席しゅせき司祭しさいかん図書館としょかんおさめられた。これらの書物しょもつ現在げんざい、パーダーボルンの大司教だいしきょうアカデミー図書館としょかん蔵書ぞうしょとなっている[31]

領主りょうしゅ図書館としょかん[編集へんしゅう]

領主りょうしゅ図書館としょかん

領主りょうしゅ図書館としょかんはコルヴァイのだい3の図書館としょかんであるが、ふる修道院しゅうどういん図書館としょかんとは関係かんけいがない。この図書館としょかんは、修道院しゅうどういんがいの、ヘッセン=ローテンブルクかたはく純粋じゅんすい世俗せぞく書籍しょせきコレクションである。このコレクションは1825ねんから1833ねんまでにローテンブルク・アン・デア・フルダからコルヴァイにまれたやく36,000かん書籍しょせきからなる。書籍しょせき内容ないようは、18世紀せいきから19世紀せいき小説しょうせつ紀行きこうぶん伝記でんき日記にっき戯曲ぎきょく叙情詩じょじょうしである[32]。この図書館としょかんには、15ほんはしら漆喰しっくい天井てんじょう様々さまざま種類しゅるい木材もくざい作製さくせいされた200さお書棚しょだな、フランスせいタペストリーからなる。

ヴィクトル・アマデウスこうは、1840ねん初代しょだいコルヴァイこうとしてしろかん図書館としょかんいだ。かれは、アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン司書ししょとして雇用こようした。かれは1860ねんにコルヴァイにはいり、研究けんきゅうしょ価値かちたか稀覯きこうほん豪華ごうか装丁そうていほん購入こうにゅうして、のこものコレクションという図書館としょかん悪評あくひょう改善かいぜんしようとこころみた。蔵書ぞうしょは 74,000かんえた。

コルヴァイにつアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンの記念きねん

ホフマン・フォン・ファラースレーベンは1874ねん1がつ19にちにコルヴァイでくなった。住民じゅうみんおおくが参加さんかするなかかれは、1860ねん10がつ27にち先立さきだったつまイーダがねむ修道院しゅうどういん教会きょうかいちかくのちいさなはか埋葬まいそうされた。墓石はかいし名前なまえきざまれた、装飾そうしょくされた簡素かんそ大理石だいりせきいたである。墓所はかしょ記念きねんたかいし台座だいざうえ青銅せいどうせいのこの詩人しじん胸像きょうぞうせられている。台座だいざには「Wie könnt’ ich Dein vergessen」(どうしておまえりにできようか)と、かれ一節いっせつきざまれている。この記念きねんは、1841ねんにファラースレーベンがヘルゴラントとうんだ「ドイツのうた」の70周年しゅうねん記念きねんして、1911ねん8がつ26にち除幕じょまくされた。この詩人しじん息子むすこ画家がかのフランツ・ホフマン=ファラースレーベン(1855ねん – 1927ねん)がこの記念きねんをデザインした[33]

1985ねんから1999ねんにかけてパーダーボルン大学だいがくドイツばん英語えいごばん作業さぎょうグループが重要じゅうよう書籍しょせきをデジタルした。これらはマイクロフィルムとデジタル・メディアに保存ほぞんされ、一般いっぱん閲覧えつらんすることができる。1999ねんからカタログがオンラインで利用りようできる。図書館としょかん管理かんりはパーダーボルン大学だいがくのコルヴァイ書籍しょせき図書館としょかん研究けんきゅうしょ GmbH によって運営うんえいされている[34][35]

2007ねん開始かいしされた修復しゅうふくプロジェクトによれば2012ねん6がつから最後さいご修復しゅうふくされた図書館としょかん部屋へや一般いっぱん公開こうかいされる。歴史れきしてきなタペストリーの状態じょうたいは、この部屋へや修復しゅうふく重要じゅうよう挑戦ちょうせん事項じこうである。

建築けんちく[編集へんしゅう]

建設けんせつ[編集へんしゅう]

コルヴァイ修道院しゅうどういん修道院しゅうどういん教会きょうかい建築けんちく II)の平面へいめん

修道院しゅうどういん教会きょうかい定礎ていそは822ねんおこなわれた。844ねん長堂ちょうどうドイツばん建築けんちく I)がけんじどうされた。つばさろう内陣ないじん建築けんちく II)のけんじどうは867ねんであった。ヴェストヴェルクの建設けんせつは873ねんはじまり、885ねんけんじどうされた。

1145ねんから1159ねんには、修道院しゅうどういんちょうヴィバルト・フォン・シュタブロのした、ヴェストヴェルクの改造かいぞうおこなわれた。中央ちゅうおうとう撤去てっきょと2つのファサードとう増築ぞうちくがこれにふくまれる。1585ねんから1616ねん修道しゅうどう院長いんちょうテオドール・フォン・ベーリングハウゼンのしたで2かいおおきな改築かいちくがなされた。とう破風はふ屋根やね建設けんせつ改築かいちくされた。

ふる教会きょうかい施設しせつかんしては、わずかな史料しりょうしかのこされていない。外郭がいかくせんは、のバロック様式ようしき修道院しゅうどういん施設しせつとおおむね一致いっちしていたとかんがえられる。創設そうせつの「Translatio sancti Viti」の記述きじゅつによれば、この施設しせつ計画けいかくてき建設けんせつされたと推測すいそくされる。修道院しゅうどういん建物たてものは、後世こうせい施設しせつ同様どうよう教会きょうかい北側きたがわにあった。ここには回廊かいろう遺構いこうられる。この回廊かいろう周辺しゅうへん修道院しゅうどういん付属ふぞくするのこりの建物たてものあつまっていた。事務じむとうは、こうした施設しせつ南側みなみがわにあった[36]

17世紀せいきから18世紀せいきしん建築けんちく以前いぜんには、このほか墓地ぼち果樹かじゅえん、および修道院しゅうどういんちょう居館きょかん来客らいきゃく病人びょうにんのための建物たてもの、オフィスとうなどの建物たてものがあった。どう時代じだい人物じんぶつは1590ねんごろにこういている:「修道院しゅうどういん建物たてものは、一部いちぶふるく、一部いちぶあたらしい。建物たてものはかなり数多かずおおく、そとからはまるで立派りっぱ都市としのようにえる。」[37]

さんじゅうねん戦争せんそうは、カロリングあさ修道院しゅうどういん教会きょうかい廃墟はいきょえた。ヴェストヴェルクをのぞき、教会きょうかいは1665ねんこわされた。あたらしい教会堂きょうかいどうは1667ねんから1671ねん建築けんちくニクラス・デンテルによって建設けんせつされた。その調度ちょうどは、オルガン(1681ねん建造けんぞう)をのぞいて1675ねんまでに完成かんせいした。この教会堂きょうかいどうは1681ねんけんじどうされた。

カロリングあさ修道院しゅうどういん建築けんちくさんじゅうねん戦争せんそうあいだおおきく損傷そんしょうした。あたらしい修道院しゅうどういん建設けんせつは、領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうフローレンツ・フォン・デム・フェルデのした、1699ねんはじまった。領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうマクシミリアン・フォン・ホルリヒの時代じだい、1715ねんひがしつばさ完成かんせいした。監視かんししょ住居じゅうきょとう倉庫そうこは、その修道院しゅうどういんちょう(ユストゥス・ヴェーマー、ヒルデスハイム)の時代じだいつくられた。修道院しゅうどういん教会きょうかい内陣ないじん最奥さいおうのベネディクトゥス礼拝れいはいどうは、1727ねんから造営ぞうえいされた。えんていは1741ねん建設けんせつされた(パーダーボルンのフランツ・クリストフ・ナーゲルによる)。教会きょうかい南側みなみがわのマリエン礼拝れいはいどうは、1790ねんまでさかのぼる。領主りょうしゅ司教しきょう時代じだい、1794ねん本来ほんらい修道院しゅうどういん施設しせつ外側そとがわにドライツェーンリンデンハウスがてられた。

1945ねんから1965ねんまでのあいだ教会きょうかいおよびしん修道院しゅうどういんだい規模きぼ改修かいしゅう工事こうじおこなわれた。これにともない、1951ねんから1953ねん教会きょうかい発掘はっくつおこなわれた。1945ねんから1961ねんまでのあいだにヴェストヴェルクの壁画へきが上塗うわぬりががされた[38]。1960ねんにカロリングあさ漆喰しっくいぞう痕跡こんせき発見はっけんされた。1974/75ねんにはウーヴェ・ロベダイによる教会きょうかいゆか部分ぶぶん発掘はっくつつづいた。1977/78ねんにはヴェストヴェルクの発掘はっくつおこなわれた。すうねんの、1992ねんに、ヴェストヴェルクから酸化さんかてつ赤色あかいろ使つかったカロリングあさかべ、いわゆる「スィノプじん」が発見はっけんされた[39]

建築けんちく[編集へんしゅう]

コルヴァイのレイアウト。1 しろかんきゅう修道院しゅうどういん)、2 カイザーホールをふく儀典ぎてんあいだ、3 領主りょうしゅ図書館としょかん、4 きんいきにわおよびヴィートゥス礼拝れいはいどうふく回廊かいろう、5 フォアブルク、6 倉庫そうこ、7 もん、8 きたとう、9 時計とけいとう、10 せいステファヌスおよびヴィートゥス修道院しゅうどういん教会きょうかい、11 マリエン礼拝れいはいどう、12 ベネディクトゥス礼拝れいはいどう、13 ヴェストヴェルク、14 ドライツェーンリンデンじゅう、15 茶亭ちゃてい、16 オフィスとう中庭なかにわ、17 ドライツェーンリンデンハウス

概要がいよう[編集へんしゅう]

現在げんざいのコルヴァイしろかんバロック様式ようしききゅうベネディクトかい修道院しゅうどういんで、1699ねんから1721ねん建設けんせつされた)は、8まん m2めている。バロック様式ようしききゅう修道院しゅうどういん建築けんちくほかに、ヴェストヴェルク、修道院しゅうどういん教会きょうかい、オフィスとうがある。外観がいかんは、かつてのバロック様式ようしき修道院しゅうどういん建築けんちくと、2ほんとうつヴェストヴェルクの中世ちゅうせいファサード併存へいそんしていることを特徴とくちょうとする。正方形せいほうけいとうは、施設しせつかく頂点ちょうてんきわだたせている。

コルヴァイのもん

修道院しゅうどういんへのみち石橋いしばしとおってもんいたる。門柱もんちゅう前面ぜんめんにはオリエンタルふう兵士へいしおもわせる 2たい衛兵えいへいぞうがあり、内側うちがわには 2たいのランツクネヒトぞうがある。もん北内ほくないがわはかつての馬車ばしゃ厩舎きゅうしゃ現在げんざいしろかんレストランになっている)とせっしている。もんみなみちかくには、廷臣ていしん宿舎しゅくしゃがあった。もんからびる小径しょうけい緑地りょくちなかとおっている。緑地りょくち南側みなみがわは、三方さんぽうを3かいてのオフィスとうかこまれた中庭なかにわせっしている。訪問ほうもんしゃは、きゅう修道院しゅうどういん建物たてもの西にし正面しょうめん(ヴェストフロント)をることになるが、その南端なんたん中世ちゅうせいのヴェストヴェルクとせっしている。全長ぜんちょう 112 m のヴェストフロントは、4かいてで、それぞれ32れつまどがある。この建物たてものは、2つのおおきな玄関げんかんと、3つのちいさな玄関げんかん区分くぶんされている。きゅう修道院しゅうどういんとう中庭なかにわへとつづみち両側りょうがわには寄進きしんしゃのカールとルートヴィヒのぞうがある。

きたつばさはバロック建築けんちく表側おもてがわであった。90 m のながさがある正面しょうめんは、2ほん正方形せいほうけいとうはさまれている。中央ちゅうおうにはリザリートエプロンドイツばん英語えいごばん建物たてもの正面しょうめん突出とっしゅつ部分ぶぶん)がある。これには巨大きょだいづけばしらがつけられ、三角さんかく破風はふいただいている。北側きたがわ正面しょうめんまえにはほりられていたが、1836ねんめられた。これとどう時期じき修道院しゅうどういん庭園ていえんつづいていた石橋いしばし破壊はかいされた。現在げんざいは、ほり一部いちぶだけがのこされている。

きたつばさつづひがしつばさは、やはり 112 m のながさがある。ここには2つの入口いりくちもうけられている。ひがしつばさ西にしつばさ接続せつぞくつばさむすばれており、これにより2つの中庭なかにわ形成けいせいされている。北側きたがわ中庭なかにわ両側りょうがわとお可能かのう入口いりくち開放かいほうされている。これにたいしてみなみ中庭なかにわはフリートガルテン(きんいきにわ)であり、そとからの入口いりくちはなく、このにわかこんでいる回廊かいろうからしか出入でいりできない。

この南側みなみがわは、教会きょうかいとヴェストヴェルクが長方形ちょうほうけいえがかたちでふさいでいる。教会きょうかいきたみなみには、19世紀せいきもうけられた墓地ぼちがある。

かつての修道院しゅうどういん敷地しきちないながれるシェルペかわは、しろかん西にしつばさしたながじょうかん裏手うらてヴェーザーがわ合流ごうりゅうする[40]

ヴェストヴェルク[編集へんしゅう]

コルヴァイのヴェストヴェルク
外部がいぶ構造こうぞう[編集へんしゅう]

現存げんそんするもっとふる箇所かしょがヴェストヴェルクである。これはきゅう修道院しゅうどういん教会きょうかい西側にしがわ部分ぶぶんっていた独自どくじ建築けんちく部分ぶぶんである。カロリングあさのヴェストヴェルクは、2つのファサードとう中央ちゅうおうかくとうの、3つのとうがある建物たてものとして 9世紀せいき建設けんせつされた。12世紀せいきに 2ほんとうのファサードへの改造かいぞうがなされた。ことなるかべからことなる建築けんちく時期じきわかる。たかくそびえるヴェストヴェルクは、2ほんがわとうと、中央ちゅうおうにリザリートふうしがある中央ちゅうおう構造こうぞうぶつからなる。ここには創建そうけん当時とうじ銘板めいばんけられている。この銘板めいばんには以下いかのようにしるされている: CIVITATEM ISTAM TV CIRCVMDA DNE ET ANGELI TVI CVSTODIANT MVROS EIVS(おもよ、このまちかこみたまえ、そして天使てんしをそのかべ守護しゅごとならしたまえ)。

ヴェストヴェルクの創建そうけん銘板めいばん

カロリングあさつくられたヴェストヴェルク下部かぶは、不規則ふきそくつくりの切石きりいしかべからなっている。このかべには、半円はんえんアーチのまど採光さいこうようのスリットが穿うがたれている。中央ちゅうおう構造こうぞううえつ3かいての鐘楼しゅろう建物たてもの全体ぜんたいから際立きわだっている。上部じょうぶいちれつならんだ 4つのアーチがた開口かいこうは 12世紀せいきつくられた。れんアーチのまどとう上層じょうそう部分ぶぶんもこのころ建設けんせつされた[41]中央ちゅうおう部分ぶぶんとう屋根やねは 16世紀せいきまつ建設けんせつされた。

ヴェストヴェルク西側にしがわ正面しょうめん入口いりくちであるはいろうは、もう現存げんそんしていない。修道院しゅうどういんちょうハインリヒ・フォン・アッシェブロック(1617ねん - 1624ねん)によってこわされた[42]。ヴェストヴェルクはきゅう修道院しゅうどういんとオフィスとうにはさまれている。

ヴェストヴェルクのはしら
内部ないぶ構造こうぞう[編集へんしゅう]

3ほんアーケードとおけると、カロリングあさくちホールにたっする。これは正方形せいほうけい平面へいめんつ5ろうしき空間くうかんである。この正方形せいほうけいかたちは、正方形せいほうけいされたはしら構成こうせいされている。この正方形せいほうけい内部ないぶに、4ほんはしらによって形成けいせいされるもうひとつの正方形せいほうけいがある。はしらは、たかく、コリント様式ようしき様式ようしきされた模様もよう柱頭ちゅうとうつ。

しゅ空間くうかんは、2つのがわろうかこまれている。くちホールの東側ひがしがわ部分ぶぶんはヴェストヴェルクと教会きょうかい接続せつぞくである。1600ねんごろにこの空間くうかんヴォールト増設ぞうせつされた。

くちホールの西にしかくにヴェストヴェルクの中心ちゅうしんとなる部屋へやがあるうえかいつづ階段かいだんがある。このヨハニスコール[43]正方形せいほうけい平面へいめん天井てんじょうたか空間くうかんで、16世紀せいき角材かくざいしにした天井てんじょうつ。ここは、いくつかのわき空間くうかん桟敷さじきかこまれている。さらに西側にしがわおおきなアーチじょう開口かいこう桟敷さじきゾーンがある。カロリング時代じだいには、中央ちゅうおう正方形せいほうけい部分ぶぶんうえだい3のとうがあった。

調度ちょうど[編集へんしゅう]
壁画へきが[編集へんしゅう]
オデュッセウスの壁画へきが
オデュッセウスの壁画へきが模写もしゃスケッチ
イルカに人物じんぶつ壁画へきが
イルカに人物じんぶつ壁画へきが模写もしゃスケッチ

すべてのかいに、装飾そうしょくたいアカンサスづる幾何きかがくてき意匠いしょうといった壁画へきがえがかれている。くちホールの描画びょうが痕跡こんせきは、うえかいくらべると全体ぜんたいてきにわずかである。みなみろう壁画へきがは1961ねん発見はっけんされた。ここには、ふるかべまえにゴシック様式ようしきのヴォールトがあり、一部いちぶみず漆喰しっくいで、一部いちぶ彩色さいしきされた壁画へきが保存ほぞんされていた。られたのはやはりアカンサスのフリーズであった。これは天井てんじょうのすぐかべ部屋へやかこんでえがかれていた。アカンサスのは、緑地りょくちななめに配置はいちされえがかれた[44]はしらはおそらくあか彩色さいしきされていた。その痕跡こんせきおおくのはしらることができる。柱頭ちゅうとうもやはり彩色さいしきされていた。はしらじくいろ痕跡こんせきられない。

もっとゆたかに壁画へきが装飾そうしょくされているのはうえかい正方形せいほうけいあいだである。直接ちょくせつ石材せきざいうええがかれた漆喰しっくいうええがかれたちがいがあることがわかる。ただし、漆喰しっくいおおきく損傷そんしょうしている。はしらあかられていた。基部きぶ柱頭ちゅうとうにその痕跡こんせきのこされている。これにより、バラ色ばらいろから黄色おうしょくあかみどりあおといった多彩たさいいろもちいられていたことがかる。アーケードのアーチにはあか黄色おうしょくのストライプでえんられていた。アーチの内側うちがわめんには植物しょくぶつ文様もんよう装飾そうしょくえがかれていた[45]

桟敷さじき部分ぶぶんは、なに世紀せいきにもわたってかべふうめられていたため、壁画へきがおおきな遺構いこう保存ほぞんされている。内側うちがわは、みず漆喰しっくいったうえ彩色さいしきされたはしらがある。アーチの内側うちがわめんはもっぱら幾何きかがく模様もよう装飾そうしょくされている。桟敷さじき開口かいこう下部かぶにはえんかざりをえがいたあとのこっている[46]

うえかい西にし部屋へやには、彩色さいしきあとがあるカロリングあさのヴォールトが保存ほぞんされている。この西にし部屋へや北側きたがわには、いくつかの断片だんぺんられる。そのギリシア神話しんわ場面ばめん題材だいざいとしている。うみ怪物かいぶつスキュラたたかオデュッセウスである。スキュラは人間にんげん上半身じょうはんしん海獣かいじゅうという姿すがたえがかれている。頭部とうぶのこっていない。しりのあたりに2とうのイヌのあたまえる。左腕さわん人間にんげん姿すがたえがかれており、あたま上半身じょうはんしん識別しきべつすることができる。オデュッセウスはへび尻尾しっぽよこからだかるくひねった姿勢しせいち、スキュラのほういている。オデュッセウスも上半身じょうはんしん頭部とうぶのこされていない。かれ腰布こしぬのいている。右手みぎてやりっており、それをイヌのくちしている。

この神話しんわ題材だいざいにした絵画かいがは、キリストきょう関連かんれんして解釈かいしゃくされなくてはならない[47]初期しょきキリスト教きりすときょう教父きょうふたちは、古典こてんてき神話しんわてき素材そざいぎ、キリストきょうてき世界せかいかんうつえた。オデュッセウスは、信仰しんこうとおして罪深つみぶか現世げんせい苦難くなん克服こくふくするちから有徳うとくキリスト教徒きりすときょうと具現ぐげんしている。スキュラとそのうみ怪物かいぶつよごれた世界せかい誘惑ゆうわくあらわしている。この古典こてんてき神話しんわキリスト教きりすときょうてき解釈かいしゃく転換てんかんは、現存げんそんするもっとふるれいである。オデュッセウスは、やり悪魔あくまりゅうにとどめをだい天使てんしミカエル類似るいじしている。

そのみぎ断片だんぺんには、ハープのような楽器がっきったかみながセイレーンえがかれている。そのうみ怪物かいぶつ想像そうぞうじょう動物どうぶつは、かろうじて判別はんべつできる程度ていどである。上述じょうじゅつ壁画へきがしたにはあかっぽいフリーズがえがかれている。西にし外壁がいへきには彫刻ちょうこくされたはしら戦士せんしとともに、かべにフリーズがほどこされている。

きたのアーケードの南脇みなみわきイルカった人物じんぶつがある[48]。この上向うわむきのアカンサスによるえんかざりのあいだのヴォールトめんえがかれている。あたまかたえている。びれのわりも判別はんべつできない。左手ひだりてをイルカのててからだささえている。右手みぎては、かるげて前方ぜんぽうしている。

漆喰しっくいぞう[編集へんしゅう]

コルヴァイの建築けんちく研究けんきゅうしゃは、1960ねんに、正方形せいほうけいあいだ床下ゆかしたのゴミを調査ちょうさするなかで、漆喰しっくい塑像そぞう断片だんぺん発見はっけんした。これらは、当初とうしょ整理せいりがなされなかった。南東なんとうなかあいだばしらうえにあるカロリングあさかべ発掘はっくつの1992ねんになってやっとオキシドロート(てつさびのようなオレンジがかったあか)の彩色さいしきひょうた。あかせん完全かんぜん露出ろしゅつするとチュニッククラミスドイツばん英語えいごばんをまとった等身とうしんだい人物じんぶつえがかれていた。このあか下絵したえは「ジノピー」と名付なづけられた。さらなる研究けんきゅうにより、なかあいだばしらうえにも下絵したええがかれていたことが判明はんめいした。

おな時期じきに、ジノピー付近ふきんオークざいくさびつかった。このくさびは、かべ隙間すきままれていた。さらに石膏せっこうふくんだ素材そざい痕跡こんせき発見はっけんされた。これにより、ジノピーは漆喰しっくいぞう下絵したえとしてもちいられていたことがしめされた。かべのオークざいのくさびはこの等身とうしんだい漆喰しっくいぞう固定こていするものであった。こうした仮説かせつ検証けんしょうするためにさき漆喰しっくい断片だんぺん役立やくだった。この断片だんぺんは、かべ隙間すきまあとや2つのくさびの位置いちからもと場所ばしょもどされた。漆喰しっくいはグループごとに配置はいちされた。断片だんぺんには7箇所かしょしょがあったことがわかっている[49]

このぞうは、おそらく、2人ふたり女性じょせいと 4にん男性だんせいであったと推測すいそくされる。女性じょせいながいチュニックとスカーフふう頭巾ずきんにつけている。アトリビュート銘文めいぶんうしなわれているため、このぞうなにあらわしているものか精確せいかくにはからない。

きゅう修道院しゅうどういん教会きょうかい[編集へんしゅう]

コルヴァイ修道院しゅうどういん内部ないぶ前方ぜんぽうひだり祭壇さいだんがマリア祭壇さいだんみぎ祭壇さいだんヨーゼフ祭壇さいだん

元々もともと修道院しゅうどういん教会きょうかいは、はばせまがわろうさんろうしき長堂ちょうどうであった。どう中央ちゅうおうにアーケードの開口かいこうがあったのだが、詳細しょうさいかっていない。長堂ちょうどうは、東側ひがしがわは、おおむね正方形せいほうけいクワイヤ接続せつぞくしていた。アプス工事こうじふくむわずかな改築かいちくがクワイヤのひがしおこなわれた。クワイヤのしたには地下ちか聖堂せいどうがあった。完成かんせい直後ちょくご、ヴェストヴェルクの建設けんせつまえに、この建築けんちく I は、いわゆる建築けんちく II に改築かいちくされた。東部とうぶにはめまれた長方形ちょうほうけいのクワイヤと半円はんえんがたのアプスはこの工事こうじによるものである。このころに、内陣ないじん周囲しゅういしゅう歩廊ほろう外部がいぶ地下ちか聖堂せいどうもうけられた。さらにひがしかってびる2ほん地下道ちかどうと、東側ひがしがわ十字じゅうじがた礼拝れいはいどうつくられた。内陣ないじんよこうで全体ぜんたいてき拡張かくちょうされた。

1667ねん以後いご建設けんせつされたせいステファヌスおよびヴィートゥス教会きょうかいは、ゴシック様式ようしきのホールしき教会きょうかいである。東側ひがしがわには、ちいさな増築ぞうちく部分ぶぶんのベネディクトゥス礼拝れいはいどうがある。教会きょうかいまどたかとんがあたまアーチまどである。この教会きょうかいはせりちのない交差こうさリブヴォールトで構成こうせいされている。

調度ちょうど[編集へんしゅう]
コルヴァイのきゅう修道院しゅうどういん教会きょうかいだい祭壇さいだん

バロック時代じだいゆたかなインテリアは、ゴシック様式ようしきされた簡素かんそ建築けんちく本体ほんたいこう対照たいしょうをなしている。しゅ祭壇さいだんたいする装飾そうしょくは、徐々じょじょにエスカレートしていったことがかる。祭壇さいだんしつ会衆かいしゅうしつは、聖体せいたい拝領はいりょうだいけられているだけである。ブラーケル出身しゅっしんのパーダーボルンの宮廷きゅうてい画家がかヨハン・ゲオルク・ルドルフィがこのインテリアをデザインした。内装ないそう工事こうじ彫刻ちょうこく制作せいさくアッテンドルン出身しゅっしんのヨハン・ザッセが、かね細工ざいく壁画へきがベックム出身しゅっしんのアントン・シュピルトホーフェンがおこなった。かべには、2人ふたり主要しゅよう守護しゅご聖人せいじんであるせいステファヌスときよしヴィートゥスのぞうまつ祭壇さいだんがある。この2たいぞうはそれぞれ植物しょくぶつづる表現ひょうげんする螺旋らせん装飾そうしょくはしらあいだにある。装飾そうしょくのないはしらは、おもエンタブラチュアささえており、その上部じょうぶには三位一体さんみいったい表現ひょうげんしたメダイヨンドイツばん英語えいごばんかかげられている。

創始そうししゃのカールとルートヴィヒのぞう完全かんぜんそとっている。だい祭壇さいだんには、教会きょうかいれき対応たいおうする「キリスト生誕せいたん」、「磔刑たっけい」「聖霊せいれい降臨こうりん奇蹟きせき」「マリアの昇天しょうてん」の4つのがある。えがいたのは、ヒエロニムス・ジースとブラウンシュヴァイク出身しゅっしんのトビーアス・クヴェールフルトであると証明しょうめいされている[50]

わき祭壇さいだんの2つのは、ヨハン・ゲオルク・ルドルフィによるものである。きたのマリア祭壇さいだんには受胎じゅたい告知こくちみなみのヨーゼフ祭壇さいだんには磔刑たっけいえがかれている。この2つの祭壇さいだんは、1676ねんにパーダーボルンの領主りょうしゅ司教しきょうフェルディナント・フォン・フュルステンベルク(1626ねん – 1683ねん)によって寄進きしんされた。きた祭壇さいだんせいアウグスティヌス(またはせいリボリウスドイツばん英語えいごばん)とせいステファヌスの木像もくぞうかこんでいる。みなみ祭壇さいだんは、完全かんぜん武装ぶそうしたメルクリウスかたわらにつ。めんには、自分じぶんあたまユスティノスつ。わき祭壇さいだんうらには、回転かいてん可能かのう聖書せいしょだいつ2れつ参事さんじ会員かいいんせきならぶ。参事さんじ会員かいいんせきうらかべには、コルヴァイの歴史れきし関連かんれんした木像もくぞうかざられている。

せいヴィートゥスのモニュメント

クワイヤの対称たいしょうてき配置はいちは、教会きょうかいない講壇こうだんせいヴィートゥスのモニュメントとの対比たいひでより強調きょうちょうされている。このモニュメントは、聖人せいじんあしをなめる獅子ししワシシュロえだほんといった典型てんけいてきなアトリビュート[51]そなえたせいヴィートゥスのぞうである。教会きょうかい空間くうかんは、ひろ祝祭しゅくさいホールとして認識にんしきされ、会衆かいしゅうは、聖職せいしょくしゃせき一般いっぱんせきとがはなされていない一体いったい空間くうかん体感たいかんする[52]

卓越たくえつした芸術げいじゅつてき品質ひんしつゆうするのが、内陣ないじんにある領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうクリストフ・フォン・ベリングハウゼン、フローレンツ・ゴン・デム・フェルデ、マクシミリアン・フォン・ホルリヒ、カール・フォン・ビッタースドルフの 4つのアラバスターせいエピタフである。最初さいしょの 3はギールスハーゲンの彫刻ちょうこくハインリヒ・パーペンの作品さくひんである。カール・フォン・ビッタースドルフのエピタフは彫刻ちょうこくヨハネス・ポルマンによって製作せいさくされた。やはりパーペンのによるものとしては、せいステファヌスときよしヴィートゥスのせい遺物いぶつばこがあり、おそらくは告解こっかいせきもそうである[53]

バロック・オルガン[編集へんしゅう]

修道院しゅうどういん教会きょうかいオルガンは、ヘクスターのアンドレアス・シュナイダーによって1681ねん建造けんぞうされた。1718ねんには、かつてアルプ・シュニットガー弟子でしであったヨハン・マティアス・ナウマンによってリュックポシティブ部分ぶぶん演奏えんそうだい背後はいご配置はいちされている部分ぶぶん)が拡充かくじゅうされた。コールオルガン(内陣ないじん使つかわれる小型こがたのオルガン)は、1822ねんあたらしいカトリック教会きょうかいしゅオルガンとしてアーメルンクセンで建造けんぞうされた。この楽器がっきは19世紀せいきなん改造かいぞうされた。ふうはこ機構きこうがシュプリングラデンから一部いちぶがシュライフラーデン (cf. Windlade) にえられ、グロッケンシュピールけられた。このオルガンは最終さいしゅうてきには1994ねんにオットーベルゲンのオルガン製造せいぞう業者ぎょうしゃザウアーによって良好りょうこう状態じょうたい整備せいびされた。あらたにだい規模きぼ修復しゅうふく計画けいかくされている[54]。この楽器がっきは、2だん鍵盤けんばんとペダルで 32のストップゆうしている[55]

かね[編集へんしゅう]

ヴェストヴェルクのなかあいだ部分ぶぶんには、4つの世紀せいき製造せいぞうされた 4つのかねげられている。もっとふるく、もっとおおきなかねが、1584ねんにヘルマン・ボックとハンス・フォーゲルマンによって鋳造ちゅうぞうされた「カンタボーナ」である。さんじゅうねん戦争せんそう終結しゅうけつ保存ほぞんされていた「カンタボーナ」をもとかねおとあらたにつくそうと、なに世紀せいきにもわたって再建さいけんおこなわれた。参事さんじかいは、「カンタボーナ」の歴史れきしてき重要じゅうようせいかんがみて、かつてロートリンゲン遍歴へんれきした鋳造ちゅうぞうシュタインハイムんでいたクラウディウス・ブリコンに 2番目ばんめおおきなかね製作せいさく依頼いらいした[56]

No. 名称めいしょう
鋳造ちゅうぞうねん 鋳造ちゅうぞうしゃ鋳造ちゅうぞう場所ばしょ 直径ちょっけい (mm) 重量じゅうりょう (kg、概算がいさん) 音階おんかい[ひょうちゅう 1]
1 カンタボーナ(せいヴィートゥス) 1584ねん ヘルマン・ボック、ハンス・フォーゲルマン 1266 1,500 f1 +5
2 ベネディクトゥス 1683ねん クラウディウス・ブリコン、シュタインハイム 995 600 fis1 ±0
3 マリア、アンスガー、レムベルトゥス、アーデルハルト 1782ねん グレーヴェ鋳造ちゅうぞうしょメシェデ 867 380 a1 +4.5
4 せいヨーゼフ 20世紀せいき前半ぜんはん フンペルトしゃ (?) 602 130 e2 ±0
  1. ^ おとめいのち数値すうちは、おとめいからのズレを半音はんおんを16等分とうぶんした数値すうちあらわしている。

きゅう修道院しゅうどういん内部ないぶ[編集へんしゅう]

修道院しゅうどういんちょうのギャラリー[編集へんしゅう]

修道院しゅうどういんちょうのギャラリーは、修道院しゅうどういんひがしつばさの 2かいにある。ここはかつて修道しゅうどう居住きょじゅう区域くいきであった。せま間隔かんかくならんだとびらから、現在げんざいもそのことがわかる。この名前なまえは、かべに 65まい修道院しゅうどういんちょう肖像しょうぞうかかげられていることに由来ゆらいする。最後さいごすうにん修道院しゅうどういんちょうだけが実在じつざい人物じんぶつ写生しゃせいで、画家がかによる想像そうぞうである。これらは、領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうフローレンツ・フォン・デム・フェルデの注文ちゅうもんによるもので、ブラウンシュヴァイクの画家がかトビーアス・クヴェールフルトが1714ねん完成かんせいさせた。最後さいごの 2まいのち追加ついかされたものである。

さんじゅうねん戦争せんそう終結しゅうけつ修道院しゅうどういん復興ふっこうは、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレンによってはじまった。フォン・ガーレンとその後継こうけいしゃであるクリストフ・フォン・ベリングハウゼンのした修道院しゅうどういん教会きょうかい再建さいけんされた。フローレンツ・フォン・フェルデは修道院しゅうどういん建物たてもの再建さいけん礎石そせきえ、その後継こうけいしゃマクシミリアン・フォン・ホルリヒがこれを完成かんせいさせた。最後さいご2人ふたり領主りょうしゅ司教しきょう肖像しょうぞうは、領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょうのテオドール・フォン・ブラーベックとフェルディナント・フォン・リュニンクである[57]

修道院しゅうどういんちょうのギャラリーにせっするスペースは、現在げんざい一部いちぶ展示てんじスペースとしてもちいられている。見所みどころは、展示てんじひんと、バロック時代じだい祭式さいしき装飾そうしょくドイツばん英語えいごばん一式いっしきである。さらにヴィートゥスのかん、パレードのさいはこばれるせいステファヌスとヴィートゥスの胸像きょうぞうがある。ひがしつばさほかのスペースには、ヘクスター=コルヴァイ文化ぶんかクライスのオフィスやラティボールの運営うんえい部門ぶもんがある。

バロックザールとギャラリーのあるかく廊下ろうか、オルガンの廊下ろうか[編集へんしゅう]
かく廊下ろうか

かく廊下ろうかは、ひがし修道しゅうどう居住きょじゅう区域くいき西にし修道院しゅうどういんちょう区画くかくとをむす連絡れんらく通路つうろである。この名称めいしょうは、かかげられたハンティング・トロフィー(狩猟しゅりょうたシカの頭部とうぶ)に由来ゆらいしており、19世紀せいき後半こうはん公家くげ家族かぞくによってもうけられた。かべは、ほうのサロンや図書館としょかんビーダーマイアー様式ようしきわせて大理石だいりせきふう彩色さいしきされ、歴史れきし主義しゅぎ様式ようしき燭台しょくだいかべけられている。

かく廊下ろうかには、ギャラリー、しょう部屋へや、バロックザールがせっしている。ギャラリーには、再興さいこうあらたにさい構成こうせいされた図書館としょかんはいっている。図書館としょかんうえかいのギャラリーにもおよんでいる。どちらのかいにもバロック様式ようしき書棚しょだなしつらえられている。現在げんざいこのスペースは、展示てんじ展示てんじしつとして利用りようされている。

かく廊下ろうかから、元々もともと彩色さいしきされていたオルガンの廊下ろうか[58]。この廊下ろうかは、ヴェストヴェルクのうえかい領主りょうしゅのサロンにいたる。かべには、2007/08ねんにコルヴァイとその周辺しゅうへん撮影さつえいされたペーター・クナウプの写真しゃしんかかげられている。

領主りょうしゅのサロン[編集へんしゅう]
あおのサロン

領主りょうしゅのサロンは西にしつばさにある。最後さいごのコルヴァイ領主りょうしゅ司教しきょうフェルディナント・フォン・リュニンクは、くなるまで居住きょじゅうする権利けんりゆうしており、きたつばさんでいた。そこでヴィクトール・アマデウスかたはくは、西にしつばさの、かつての修道院しゅうどういんちょう絵画かいがギャラリーを居館きょかんしつらえた。家具かぐ後期こうき古典こてん主義しゅぎ様式ようしきおよびビーダーマイアー様式ようしきである。

あおのサロンだけは、現在げんざいもフランスの工場こうじょう製造せいぞうされたオリジナルの壁紙かべがみ使用しようしている。これは19世紀せいきはじめに製造せいぞうされたものである。豪華ごうか緞子どんすダマスク絹織物きぬおりものして、かざけをしてひだをつけたような模様もようは、壁紙かべがみ人気にんきのモチーフであった。あおのサロンの壁紙かべがみは、3つの部分ぶぶんからなる。したえんは、僧院そういんおんな召使めしつかいと果物くだものかご交互こうごえがかれたアンティークなモチーフである。中央ちゅうおう部分ぶぶんあおしろのストライプの絹織物きぬおりものしたイミテーションである。これがうえ縁取へりとりでかこまれている[59]

1950年代ねんだいまでこの区域くいきかたはく家族かぞく私邸していとして使用しようしていた。現在げんざいは、見学けんがくきゃくることができる。

カイザーザール[編集へんしゅう]
カイザーザール

おな西にしつばさにカイザーザール(皇帝こうていホール)がある。このホールはつばさろう全域ぜんいきおよぶ。このひろあかるい部屋へやは、修道院しゅうどういんちょう儀礼ぎれいあいだとして利用りようされた。ここでは、帝国ていこく諸侯しょこうとして高位こうい人物じんぶつ面会めんかいした。カイザーザールは 19世紀せいき改造かいぞうされ、現在げんざいのバロック様式ようしき調度ちょうどしつらえられた。名称めいしょうは、この調度ちょうど由来ゆらいする。かべには、皇帝こうてい女王じょおうの 20まい肖像しょうぞうかかげられている。りょう正面しょうめんはカール大帝たいていとルートヴィヒ敬虔けいけんおう全身ぜんしん肖像しょうぞうである。これを、コルヴァイにとくかかわりがあった皇帝こうてい女王じょおうのメダイヨンがかこんでいる。

天井てんじょうには、新約しんやく聖書せいしょカナのこんえんえがいたおおきなメダイヨンがられる。歓待かんたいというテーマは、旧約きゅうやく聖書せいしょの「ちち兄弟きょうだいをもてなすヨーゼフ」、「3にん天使てんしをもてなすアブラハム」、「ダビデアビガイル」、「いずみリベカ」といった場面ばめんえがいたちいさなメダイヨンにも共通きょうつうしている。これらの聖書せいしょ場面ばめんえがいた画家がかわかっていない。

かべ天井てんじょう化粧けしょう漆喰しっくい細工ざいくはおそらくイタリアの芸術げいじゅつジャコモ・ペリネッティによるものである。かれはそれ以前いぜんはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルこうアントン・ウルリヒつかえていた。アントン・ウルリヒは、修道院しゅうどういんちょうフローレンツ・フォン・デム・フェルデと親交しんこうがあり、この芸術げいじゅつ使つかえるようにはからった。ヴォルフェンビュッテルじょうやコルヴァイの化粧けしょう漆喰しっくい細工ざいく様式ようしきじょう類似るいじせいしめしている[60]

カイザーザールは現在げんざい、コンサートホールおよびその文化ぶんかイベントに利用りようされている。たとえば朗読ろうどくかい展示てんじかい講演こうえんかいなどである。

ゾンマーザール[編集へんしゅう]
ゾンマーザールの天井てんじょう

ゾンマーザール(なつのホール)はきたつばさにあり、やはり2つのかいにまたがっている。このホールはカイザーザールよりもちいさいが、やはり領主りょうしゅ修道しゅうどう院長いんちょう謁見えっけんあいだとしてもちいられた。ゾンマーザールのうらにはバロック様式ようしき階段かいだんしつがあり、訪問ほうもんしゃはこれをとおって修道院しゅうどういんはいることができた。ゾンマーザールは、かつての修道院しゅうどういんちょう居室きょしつ隣接りんせつしていた。現在げんざい、この居室きょしつ図書館としょかんとなっており、ゾンマーザールは展示てんじしつとして使つかわれている。図書館としょかん所蔵しょぞうひんから毎年まいとしえられる展示てんじひんはここに陳列ちんれつされる。

ゾンマーザールには、価値かちたか装飾そうしょく天井てんじょうがある。天井てんじょうには、皇帝こうていハインリヒ2せい皇后こうごうクニグンデ試練しれんえがかれている。不貞ふていうたがいをけられた皇后こうごうクニグンデは、裸足はだしけたすみうえあるいた。彼女かのじょ皇帝こうていまえでこの試練しれんおこなった。ハインリヒ2せいはコルヴァイと親密しんみつ関係かんけいにあった[36]かれはコルヴァイでなん諸侯しょこう会議かいぎおこなった。

天井てんじょうよこからみアーチがかべ移行いこうしてく。ルネットにはあお - しろグリザイユえがかれている。この絵画かいがは、コルヴァイの宮廷きゅうてい画家がかフェルディナント・ルートヴィヒ・バールチャーにより制作せいさくされた[61]

伝説でんせつ[編集へんしゅう]

グリム兄弟きょうだい『ドイツ伝説でんせつしゅうだい1かんだい264「コルヴァイ修道院しゅうどういんひゃくごう」(Die Lilie im Kloster zu Corvey)には以下いかはなしがある。修道しゅうどうだれかの死期しきが3にちせまると、聖堂せいどう内陣ないじんるしてある青銅せいどう花輪はなわ一本いっぽんのユリ(Eine Lilie an einem ehernen Kranze, der im Chor hing)が当該とうがい修道しゅうどう座席ざせきあらわれた。この奇蹟きせきすうひゃくねんつづいたが、あるときわか修道しゅうどうがそのような予告よこくけたさいに、若者わかものよりも老人ろうじんにふさわしいとかんがえ、ユリを年老としおいた聖職せいしょくしゃせきうつした。老人ろうじん病気びょうきにはなったが、ほどなくして回復かいふくした。若者わかものは3にちんだと[62]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Marianne Huisking: Beiträge zur Geschichte der Corveyer Wahlkapitulationen. In: Westfälische Zeitschrift. 98/99, 1949, pp. 9–66.
  • Handbuch der historischen Stätten Deutschlands. Nordrhein-Westfalen. Stuttgart 1970, pp. 146–149.
  • Klemens Honselmann (Hrsg.): Die alten Mönchslisten und die Traditionen von Corvey. Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Westfalen. Bd 10. Abhandlungen zur Corveyer Geschichtsschreibung. Bd. 6, T. 1. Paderborn 1982, ISBN 3-87088-326-X.
  • Leopold Schütte (Hrsg.): Die alten Mönchslisten und die Traditionen von Corvey. Indices und andere Hilfsmittel. Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Westfalen. Bd. 10. Abhandlungen zur Corveyer Geschichtsschreibung. Bd. 6, T. 2. Paderborn 1992, ISBN 3-87088-326-X.
  • Beate Johlen: Die Auswirkungen der Gegenreformation auf den Sakralbau des 17. Jahrhunderts. Reform und Tradition am Beispiel des Wiederaufbaues der ehemaligen Benediktinerabteikirche Corvey/Westfalen im Jahre 1667. Bonn 2000.
  • Joachim Poeschke (Hrsg.): Sinopien und Stuck im Westwerk der karolingischen Klosterkirche von Corvey. Rhema-Verlag, Münster 2002, ISBN 3-930454-34-3.
  • Hermann Busen: Kloster und Klosterkirche zu Corvey. In: Kunst und Kultur im Weserraum 800–1600 Band 1, Corvey 1966, S. 19–42
  • Wolfgang Leesch: Das Corveyer Pfarrsystem. In: Kunst und Kultur im Weserraum 800–1600 Band 1, Corvey 1966, S. 43–76
  • Günter Tiggesbäumker: Corvey – Welterbe an der Weser. Mit Fotografien von Peter Knaup. München 2015.
  • Elmar Arnold, Sándor Kotyrba: Corvey. Ehemalige Reichsabtei und Residenz. Koch-Druck, Halberstadt 2011.
  • Günter Tiggesbäumker: Das Herzogliche Haus Ratibor und Corvey. 7. Aufl. Deutsche Fürstenhäuser, Heft 5. Börde-Verlag, Werl 2012.
  • Die Klosterkirche Corvey. (= Denkmalpflege und Forschung in Westfalen Bd. 43). Zabern, Mainz/Darmstadt
    • Band 1: Sveva Gai, Karl Heinrich Krüger, Bernd Thier: Geschichte und Archäologie. 2012, ISBN 978-3-8053-4546-0
    • Band 2: Hilde Claussen, Anna Skriver: Wandmalerei und Stuck aus karolingischer Zeit. 2007, ISBN 978-3-8053-3843-1
  • Michael Koch: Bibliographie Höxter, Corvey und Corveyer Land. Münster, 2015 (PDFばん)

これらの文献ぶんけんは、翻訳ほんやくもとであるドイツばん参考さんこう文献ぶんけんとしてげられていたものであり、日本語にほんごばん作成さくせいさい直接ちょくせつ参照さんしょうしてはおりません。

引用いんよう[編集へんしゅう]

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  7. ^ Peter Berghaus: Die Münzprägung westfälischer Stifte und Klöster. In: Monastisches Westfalen. Klöster und Stifte 800–1800. Münster 1982, p. 455.
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  9. ^ Bernhard Bischoff: Die Schriftheimat der Münchner Heliand-Handschrift. In: Beiträge zur Geschichte der deutschen Sprache und Literatur, 101 (1979), pp. 161–170
  10. ^ Joachim Wollasch: Benediktinisches Mönchtum in Westfalen von den Anfängen bis ins 12. Jahrhundert. In: Monastisches Westfalen. Klöster und Stifte 800–1800. Münster 1982, pp. 25–27.
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  48. ^ Konrat Ziegler, Walther Sontheimer (Hrsg.): Darstellungsformen des Delphins in der Antike und ihre Bedeutung. In: Der kleine Pauly. Lexikon der Antike in fünf Bänden. Bd. 1, Deutscher Taschenbuch Verlag, München 1979, Spalte 1448–1449.
  49. ^ Hilde Claussen, Anna Skriver: Die Klosterkirche Corvey. Bd. 2 Wandmalerei und Stuck aus karolingischer Zeit. Philipp von Zabern, Mainz 2007, pp. 355–359.
  50. ^ Günter Tiggesbäumker: Corvey, Zeuge einer großen Vergangenheit. Deutscher Kunstverlag, München 2008, p. 38.
  51. ^ Hiltgart L. Keller: Reclams Lexikon der Heiligen und der biblischen Gestalten. Philipp Reclam, Stuttgart 1987, p. 569.
  52. ^ Matthias Wemhoff (Hrsg.): Die Kultur der Klöster in Westfalen. Katalog zur Sonderausstellung im LWL-Landesmuseum Bd. 1, Schnell & Steiner 2007, p. 268.
  53. ^ Werner Altmeier, Andreas Komodzinski: Die restauratorische Wiederherstellung des St. Stephanus-Reliquienschranks aus der Abteikirche Corvey. Huxaria Druckerei, Höxter 2002, p. 15
  54. ^ CHORUS - Rettet die Orgel !(2015ねん5がつ2にち 閲覧えつらん
  55. ^ Orgelatlas Ostwestfalen-Lippe - Corvey Klosterkirche St.Stephanus und Vitus, kath.(2015ねん5がつ2にち 閲覧えつらん
  56. ^ Claus Peter: Westfalen. In: Kurt Kramer (Hrsg.): Die deutschen Glockenlandschaften. Deutscher Kunstverlag, München 1989, pp. 19, 51, 52.
  57. ^ Günter Tiggesbäumker: Corvey, Zeuge einer großen Vergangenheit. Deutscher Kunstverlag, München 2008, pp. 41–42.
  58. ^ Günter Tiggesbäumker: Schloss Corvey in alten Ansichten. Postkarten aus der Sammlung Viktor Herzog von Ratibor. Huxaria Druckerei, Höxter 2010, p. 81.
  59. ^ Jutta Ströter-Bender: Corvey: Räume von Kunst und Wissen. Ehemalige Benediktiner-Abtei und barocke Schlossanlage. Wege und Projekte für die Kunst und Denkmalspädagogik sowie die Erwachsenenbildung. Tectum Verlag, Marburg 2010, p. 116.
  60. ^ Wilfried Henze (Hrsg.): Corvey, ein Wegweiser durch seine Geschichte und die heutige Anlage. Verlag Julius Henze, Höxter 1996, p. 18.
  61. ^ Günter Tiggesbäumker: Corvey, Zeuge einer großen Vergangenheit. Deutscher Kunstverlag, München 2008, p. 45.
  62. ^ Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 1. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0) , S. 228.

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