ノルトライン=ヴェストファーレン
州 しゅう 内 ない の
位置 いち
コルヴァイ (ドイツ語 ご : Corvey (Corvei, Korvei, Korvey ) , ラテン語 らてんご : Corbeia nova , 中期 ちゅうき 低地 ていち ドイツ語 ご Corveyge ) は、ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく ノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう のオストヴェストファーレン地方 ちほう の都市 とし ヘクスター 市 し に存在 そんざい する旧 きゅう 修道院 しゅうどういん である。1792年 ねん まで帝国 ていこく 直轄 ちょっかつ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) のベネディクト会 かい 修道院 しゅうどういん であった。
コルヴァイは、カロリング朝 あさ で最 もっと も重要 じゅうよう な修道院 しゅうどういん の一 ひと つであり、当時 とうじ としてはこの国 くに で最 もっと も価値 かち の高 たか い図書館 としょかん の一 ひと つを有 ゆう していた。この修道院 しゅうどういん は数 すう 多 おお くの司教 しきょう を輩出 はいしゅつ している。この修道院 しゅうどういん は 9世紀 せいき から 10世紀 せいき にザクセン地方 ちほう の文化 ぶんか 的 てき 、宗教 しゅうきょう 的 てき 、経済 けいざい 的中 てきちゅう 心地 ごこち に発展 はってん した。危機 きき の段階 だんかい を経 へ て、コルヴァイは11世紀 せいき に改革 かいかく 修道院 しゅうどういん となった。その後 ご 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の聖 ひじり 界 かい 領 りょう 邦 くに としてのコルヴァイ修道院 しゅうどういん 領 りょう が成立 せいりつ したが、中世 ちゅうせい 後期 こうき にその重要 じゅうよう 性 せい は失 うしな われた。コルヴァイ修道院 しゅうどういん は、近世 きんせい 初期 しょき にはニーダーライン=ヴェストファーレン帝国 ていこく クライス に属 ぞく した。この修道院 しゅうどういん は帝国 ていこく 諸侯 しょこう 会議 かいぎ で単独 たんどく 投票 とうひょう 権 けん を有 ゆう していた。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の結果 けっか は、この修道院 しゅうどういん に存続 そんぞく の危機 きき をもたらした。しかし17世紀 せいき 後半 こうはん から教会 きょうかい や修道院 しゅうどういん の建物 たてもの がバロック様式 ようしき で再建 さいけん されている。その後 ご 、修道院 しゅうどういん は再 ふたた び重要 じゅうよう 性 せい と求心力 きゅうしんりょく を失 うしな っていった。1792年 ねん にこの修道院 しゅうどういん を司教 しきょう 領主 りょうしゅ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) にする努力 どりょく がなされた。1803年 ねん 、帝国 ていこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ 主要 しゅよう 決議 けつぎ により修道院 しゅうどういん 領 りょう の独立 どくりつ は失 うしな われた。ただし司教 しきょう は、1825年 ねん まで存続 そんぞく した。コルヴァイは、1820年 ねん にヘッセン=ローテンブルク方 かた 伯 はく ヴィクトル・アマデウス の所有 しょゆう となった。彼 かれ の死後 しご は、甥 おい にあたるヴィクトル・エルププリンツ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト が相続 そうぞく した。彼 かれ はラティボル公 こう とコルヴァイ侯 こう の2つの肩書 かたが きを手 て に入 い れた。その家族 かぞく はこれ以後 いご 、コルヴァイに対 たい する責任 せきにん を負 お っている。
9世紀 せいき のフレスコ を有 ゆう するカロリング朝 あさ のヴェストヴェルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は建築 けんちく 史上 しじょう 、飛 と び抜 ぬ けて重要 じゅうよう である。旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい は、バロック造形 ぞうけい 芸術 げいじゅつ の記念 きねん 碑 ひ 的 てき 存在 そんざい である。教会 きょうかい 近 ちか くの墓地 ぼち には、ドイツ国歌 こっか の作詞 さくし 者 しゃ ホフマン・フォン・ファラースレーベン の墓 はか がある。城 しろ 館内 かんない には、カイザーザール、公爵 こうしゃく のサロン、約 やく 74,000巻 かん の書物 しょもつ を収 おさ める領主 りょうしゅ の図書館 としょかん がある。
UNESCO は、2014年 ねん 6月 がつ にコルヴァイを世界 せかい 文化 ぶんか 遺産 いさん に指定 してい した[1] 。現在 げんざい 公爵 こうしゃく は市 し や郡 ぐん と共同 きょうどう で、コンサートや展示 てんじ 会 かい といった文化 ぶんか イベントを開催 かいさい する博物館 はくぶつかん を城 しろ 館内 かんない で運営 うんえい している。
コルヴァイ周辺 しゅうへん 地図 ちず 。コルヴァイはヘクスターの東 ひがし 、ヴェーザー川 がわ が蛇行 だこう し屈曲 くっきょく する地点 ちてん に位置 いち している。この地図 ちず にはトム・ローデン、ニーエンケルケン、コルヴァイ廃 はい 村 むら も書 か き込 こ まれている。
コルヴァイは、ヴェーザーベルクラントの地形 ちけい に囲 かこ まれたヴェーザー川 がわ 西岸 せいがん に面 めん している。ヴェーザー川 がわ は西 にし に位置 いち するヘクスターから流 なが れてきて、修道院 しゅうどういん のすぐ南 みなみ に位置 いち する入植 にゅうしょく 地 ち の中心 ちゅうしん 地 ち で廃 はい 村 むら となったコルヴァイ村 むら で流 なが れを北 きた 向 む きに変 か える。コルヴァイは1716年 ねん に直線 ちょくせん の並木道 なみきみち 、コルヴァイヤー・アレーでヘクスター と結 むす ばれ、その市域 しいき に含 ふく まれた。修道院 しゅうどういん はヴェーザー川 がわ 東岸 とうがん のノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう の州 しゅう 境 さかい にまで至 いた る。ここでニーダーザクセン州 しゅう に属 ぞく すゾリング (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に接 せっ している。最寄 もよ りの大都市 だいとし は、パーダーボルン 、ビーレフェルト 、ハノーファー 、ゲッティンゲン 、カッセル である。
カール大帝 たいてい は、ザクセン人 じん を征服 せいふく した後 のち 、新 あら たな支配 しはい 地域 ちいき に帝国 ていこく 修道院 しゅうどういん を設 もう けてキリスト教 きりすときょう 化 か を強化 きょうか ・奨励 しょうれい した。カールの死 し により、この計画 けいかく の実行 じっこう は遅 おく れた[2] 。カール大帝 たいてい のいとこに当 あ たる、コルビ修道院 しゅうどういん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 院長 いんちょう のアーダルハルト (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) とヴァーラ の異母 いぼ 兄弟 きょうだい が、ルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう の許可 きょか を得 え て、815年 ねん あるいは816年 ねん にザクセン人 じん の土地 とち で初 はじ めての修道院 しゅうどういん 、ノヴァ・コルビ(新 しん コルビ)をヘーティスに設置 せっち した。当初 とうしょ はコルビ修道 しゅうどう 院長 いんちょう 代理 だいり が管轄 かんかつ する修道院 しゅうどういん であった。最初 さいしょ の修道 しゅうどう 士 し はコルビ修道院 しゅうどういん から移 うつ った。この修道院 しゅうどういん は、822年 ねん に現在 げんざい のコルヴァイ城 じょう の場所 ばしょ にその所在地 しょざいち を獲得 かくとく した。この修道院 しゅうどういん はヘルヴェークという街道 かいどう がヴェーザー川 かわ を渡 わた る西岸 せいがん 側 がわ に建設 けんせつ され、王 おう の宮廷 きゅうてい Huxori(後 ご のヘクスター)のやや東 ひがし に位置 いち した。移転 いてん に伴 ともな い、フルダ修道院 しゅうどういん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) からの修道 しゅうどう 士 し が移住 いじゅう し、この修道院 しゅうどういん は 1.5倍 ばい に拡大 かくだい した。しかしこの修道院 しゅうどういん は826年 ねん まで母 はは 修道院 しゅうどういん と人的 じんてき 連合 れんごう の関係 かんけい にあった。
823年 ねん 、皇帝 こうてい はコルヴァイ修道院 しゅうどういん に王 おう 領 りょう および聖 せい ステファヌス の聖 せい 遺物 いぶつ を寄贈 きぞう した。同時 どうじ にコルヴァイ修道院 しゅうどういん は、それまでコルビ修道院 しゅうどういん がザクセンに所有 しょゆう していた財産 ざいさん をすべて所有 しょゆう することとなった。この修道院 しゅうどういん には治外法権 ちがいほうけん と修道院 しゅうどういん 長 ちょう の選挙 せんきょ 権 けん が与 あた えられた。修道院 しゅうどういん と皇帝 こうてい との緊密 きんみつ な関係 かんけい は、不興 ふきょう を買 か ったサン=ドニ のヒルドゥイン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の幽閉 ゆうへい 地 ち となった事 こと にも示 しめ されている。このことから、836年 ねん にパリ 近郊 きんこう のサン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう から聖 せい ヴィトゥス の聖 せい 遺骸 いがい の移送 いそう が行 おこな われた。これにより聖 せい ヴィトゥスはザクセン人 じん の守護 しゅご 聖人 せいじん となった。その後 ご 、プラハ司教 しきょう 座 ざ 教会 きょうかい の聖 せい ファイトの守護 しゅご 権 けん もコルヴァイ修道院 しゅうどういん に返還 へんかん された。重要 じゅうよう な聖人 せいじん である聖 せい ステファヌスと聖 きよし ヴィトゥスに献 けんじ げられたコルヴァイは、数 すう 多 おお くの巡礼 じゅんれい 者 しゃ の目的 もくてき 地 ち となった。コルヴァイの初期 しょき の歴史 れきし を記 しる した重要 じゅうよう な書物 しょもつ の一 ひと つである Translatio sancti Viti
(仮 かり 訳 やく 『聖 せい ヴィトゥス奉遷 ほうせん 記 き 』) が写本 しゃほん を繰 く り返 かえ して遺 のこ されている。隣接 りんせつ するヘルフォルト修道院 しゅうどういん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) と並 なら んでコルヴァイ修道院 しゅうどういん は、初期 しょき のスカンジナヴィア 布教 ふきょう の中心 ちゅうしん 地 ち となった。823年 ねん にアンスガー (英語 えいご 版 ばん ) (後 ご のハンブルク=ブレーメン大司教 だいしきょう )が教師 きょうし 兼 けん 説教 せっきょう 師 し として母 はは 修道院 しゅうどういん であるコルビからコルヴァイに移 うつ った。アンスガーを介 かい してコルヴァイは、スカンジナヴィアにおける最初 さいしょ の布教 ふきょう に関 かか わった[3] 。彼 かれ は「ヴァイキング による破壊 はかい にも挫折 ざせつ せず、その任務 にんむ を完遂 かんすい した」(今野 こんの 国男 くにお )[4] 。
コルヴァイ修道院 しゅうどういん は、下層 かそう 社会 しゃかい 階級 かいきゅう から修道 しゅうどう 士 し になった者 もの がいないという点 てん で聖 せい ベネディクトゥス戒律 かいりつ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) から外 はず れている。修道 しゅうどう 士 し は、例外 れいがい なく、フランケンやザクセンの高位 こうい 貴族 きぞく から受 う け容 い れられた[2] 。
コルヴァイの古典 こてん 荘園 しょうえん と所領 しょりょう
1250年 ねん 頃 ごろ のコルヴァイ修道院 しゅうどういん とコルヴァイ入植 にゅうしょく 地 ち 、ヘクスター
王 おう からの所領 しょりょう 譲渡 じょうと やザクセン貴族 きぞく からの寄進 きしん によってコルヴァイ修道院 しゅうどういん はドイツで最 もっと も裕福 ゆうふく な修道院 しゅうどういん の一 ひと つとなった[2] 。獲得 かくとく したものはコルヴァイの伝統 でんとう として固定 こてい されていった。ルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう (778年 ねん - 840年 ねん )によりヘクスター、エーレスブルク城 じょう 、メッペン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) がコルヴァイの所領 しょりょう となった。ルートヴィヒ・ドイツ人 じん 王 おう (806年 ねん 頃 ごろ - 876年 ねん )は、ヘーメルン(現在 げんざい はハン・ミュンデン 市内 しない )、ヘンメンドルフ(現在 げんざい はザルツヘンメンドルフ 市内 しない )、ヴィスベーク修道院 しゅうどういん 、オスナブリュック司 し 教区 きょうく の十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい 教会 きょうかい 、モーゼル 河畔 かはん リツィッヒのブドウ 山 やま を寄進 きしん した。ロタール1世 せい (795年 ねん - 855年 ねん )は、リューゲン修道院 しゅうどういん とその周辺 しゅうへん 地域 ちいき を寄進 きしん した。コルヴァイはその一部 いちぶ を近世 きんせい になるまで保持 ほじ しており、偽書 ぎしょ によって獲得 かくとく したものだという主張 しゅちょう にも決 けっ して屈 くっ しなかった[5] 。帝 みかど 妃 ひ ユーディト (795年 ねん - 843年 ねん )は、修道院 しゅうどういん の伝承 でんしょう によれば、高価 こうか な十字架 じゅうじか を寄贈 きぞう した。これを記念 きねん して、修道院 しゅうどういん が廃止 はいし されるまでは、毎年 まいとし 貧 まず しい人々 ひとびと にユーディトのパンが配 くば られていた[6] 。
所有 しょゆう する土地 とち は主 おも に、コルヴァイ自身 じしん 周辺 しゅうへん のヴェーザー川上 かわかみ 流 りゅう 地域 ちいき であった。さらに「コルヴァイ北 きた 地方 ちほう 」と呼 よ ばれるエムス 下流 かりゅう 地方 ちほう 、ディーメル (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 河畔 かはん のマールスベルク地域 ちいき 、ライネ川 がわ 中流 ちゅうりゅう やグレーニンゲン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 周辺 しゅうへん の旧東 きゅうとう ザクセン地方 ちほう の土地 とち がある。数 かず 多 おお くの農場 のうじょう から古典 こてん 荘園 しょうえん (ドイツ語 ご 版 ばん ) が形成 けいせい された。コルヴァイは、17世紀 せいき になるまで形式 けいしき 上 じょう はシュヴァーレンベルク伯 はく に対 たい するレーエン 封 ふう 主 おも であった。
14世紀 せいき にはこの修道院 しゅうどういん は 60以上 いじょう の教会 きょうかい を配下 はいか に置 お いていた。これらの教会 きょうかい はグレーニンゲン修道院 しゅうどういん やオーバーマールスベルク修道院 しゅうどういん 、かつてのメッペン伝道 でんどう 教会 きょうかい とコルヴァイ修道院 しゅうどういん 自体 じたい の周 まわ りに集 あつ まっていた。コルヴァイ修道院 しゅうどういん のすぐ近 ちか くに 2つの小 ちい さな律 りつ 修司 しゅうじ 祭 さい 教会 きょうかい あるいは修道院 しゅうどういん 、ニーエンケルケンとトム・ローデンがあった(後 のち に廃止 はいし または移転 いてん した)。さらにコルヴァイによって創設 そうせつ されたシャーケン修道院 しゅうどういん や、下位 かい 組織 そしき のヴェルベ修道院 しゅうどういん やケムナーデ修道院 しゅうどういん もあった。
この修道院 しゅうどういん は、833年 ねん にはすでにコルヴァイ入植 にゅうしょく 地 ち の市場 いちば のための貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう 権 けん を有 ゆう していた。この特権 とっけん は、この種 たね のものとしては東 あずま フランク王国 おうこく で初 はじ めての例 れい であった。最初 さいしょ 、硬貨 こうか は王国 おうこく の鋳型 いがた を押 お しており、固有 こゆう の鋳造 ちゅうぞう 所 しょ は割 わ り当 あ てられていなかった。11世紀 せいき になるにつれコルヴァイ固有 こゆう の硬貨 こうか の鋳型 いがた が開発 かいはつ された。最初 さいしょ に修道 しゅうどう 院長 いんちょう ザラコー・フォン・ロスドルフがデザインされた。コルヴァイ自体 じたい だけでなく他 ほか の集落 しゅうらく の修道院 しゅうどういん も硬貨 こうか 鋳造 ちゅうぞう 権 けん が与 あた えられた。900年 ねん にマールスベルクに貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう 権 けん が与 あた えられ、945年 ねん にメッペンが続 つづ いた。13世紀 せいき にはフォルクマールゼンやヘクスターにも貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう 所 しょ が設 もう けられた。13世紀 せいき にケルン大司教 だいしきょう はヴェストファーレン公 こう として、少 すく なくとも時々 ときどき は、コルヴァイ、マールスベルク、フォルクマールゼンの貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう 権 けん の所有 しょゆう についてコルヴァイと争 あらそ った。14世紀 せいき にはここでの鋳造 ちゅうぞう は完全 かんぜん に停止 ていし した。ヘクスターでは、何 なん 度 ど も中断 ちゅうだん されながらも、ほぼ修道院 しゅうどういん の終焉 しゅうえん まで鋳造 ちゅうぞう が続 つづ けられた。銀貨 ぎんか の他 ほか に銅貨 どうか や金貨 きんか も鋳造 ちゅうぞう された。最後 さいご に鋳造 ちゅうぞう されたのは、2プフェニヒおよび 4プフェニヒの銅貨 どうか で、1787年 ねん のものであった[7]
コルヴァイ入植 にゅうしょく 地 ち は都市 とし に発展 はってん していった。この街 まち はヘクスターの競合 きょうごう 相手 あいて となった。1265年 ねん 、ヘクスター住民 じゅうみん はパーダーボルン司教 しきょう とともにコルヴァイ市 し を破壊 はかい した。この街 まち は再建 さいけん されたが、14世紀 せいき にはすでに弱小 じゃくしょう 都市 とし に衰退 すいたい しており、その後 ご 「村 むら 」となり、15世紀 せいき にこの集落 しゅうらく は廃 はい 村 むら となった。
修道院 しゅうどういん の維持 いじ 費 ひ や修道院 しゅうどういん 長 ちょう の必需 ひつじゅ 品 ひん のための費用 ひよう の 2つの予算 よさん は、会計 かいけい から切 き り離 はな されていた。ここには、威厳 いげん の発揚 はつよう 、王 おう の業務 ぎょうむ 、王宮 おうきゅう 滞在 たいざい 費 ひ 、教会 きょうかい やその他 た の建物 たてもの 建設 けんせつ 費 ひ など、かなりの額 がく が含 ふく まれていた[8] 。
文化 ぶんか 的 てき 興隆 こうりゅう [ 編集 へんしゅう ]
850年 ねん 頃 ごろ にコルヴァイで作成 さくせい されたヘーリアントの手 て 稿 こう の複製 ふくせい
コルヴァイは、9世紀 せいき から 10世紀 せいき に北西 ほくせい ヨーロッパにおける最 もっと も重要 じゅうよう なキリスト教 きりすときょう 文化 ぶんか の中心 ちゅうしん 地 ち の一 ひと つであった。修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん の萌芽 ほうが は、ルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう の時代 じだい にすでにあった。この図書館 としょかん の蔵書 ぞうしょ は世俗 せぞく 化 か の際 さい に散逸 さんいつ してしまった。しかし現存 げんそん している中 なか には、カール大帝 たいてい のザクセン法 ほう 、ローマ時代 じだい の歴史 れきし 家 か タキトゥス の年代 ねんだい 記 き (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の最初 さいしょ の5冊 さつ 、ローマ時代 じだい の文筆 ぶんぴつ 家 か で哲学 てつがく 者 しゃ キケロ の著述 ちょじゅつ がある。この修道院 しゅうどういん は、ザクセンのヴェストファーレン文化 ぶんか の最 もっと も重要 じゅうよう な証拠 しょうこ の一 ひと つである。この時代 じだい のハイライトは879年 ねん から916年 ねん 、修道院 しゅうどういん 長 ちょう ボーヴォ1世 せい およびボーヴォ2世 せい の時代 じだい である。修道院 しゅうどういん 長 ちょう の他 ほか に、歴史 れきし 書 しょ Poeta Saxo の作者 さくしゃ でコルヴァイで活動 かつどう した詩人 しじん のアギウスの名 な が挙 あ げられる。この他 た 修道院 しゅうどういん ではすでに、聖 せい ヴィートゥスの伝記 でんき や Annales Corbeiiens(コルヴァイの年代 ねんだい 記 き )の翻訳 ほんやく 報告 ほうこく がなされていた。ボーヴォ2世 せい はボエティウス に対 たい する評論 ひょうろん を起草 きそう した。現在 げんざい ミュンヘン にあるヘーリアント の手 て 稿 こう は 2人 ふたり のコルヴァイ修 おさむ 道士 どうし が書 か いたものである[9] 。コルヴァイで用 もち いられた修道院 しゅうどういん 時 どき 課 か の典礼 てんれい 様式 ようしき が各地 かくち に伝播 でんぱ された[6] 。司教 しきょう アンスガーの他 ほか に、その後継 こうけい 者 しゃ となったハンブルク=ブレーメン司教 しきょう のうち 4人 にん がコルヴァイ出身 しゅっしん であることも、この時代 じだい におけるこの修道院 しゅうどういん の重要 じゅうよう 性 せい を物語 ものがた るものである。この修道院 しゅうどういん は、設立 せつりつ から最初 さいしょ の4世紀 せいき の内 うち に合 あ わせて 23人 にん の司教 しきょう が輩出 はいしゅつ した。教皇 きょうこう グレゴリウス5世 せい がコルヴァイ出身 しゅっしん であることは、伝説 でんせつ の領分 りょうぶん に属 ぞく すものである。
三 さん 廊 ろう 式 しき のバシリカ教会 きょうかい である聖 せい ステファヌスおよび聖 せい ヴィートゥス教会 きょうかい は、830年 ねん に建設 けんせつ が始 はじ まり、844年 ねん に献 けんじ 堂 どう された。873年 ねん から885年 ねん にアーヘン の宮中 きゅうちゅう 礼拝 れいはい 堂 どう をモデルとしたヴェストヴェルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が設 もう けられた。これは現在 げんざい 、ヴェストファーレン最古 さいこ の建築 けんちく 文化財 ぶんかざい で、畏敬 いけい の念 ねん に打 う たれるヴェストファーレンの聖域 せいいき であるのみならず、現存 げんそん する最 もっと も古 ふる いヴェストヴェルクである。当時 とうじ の北 きた ドイツ地域 ちいき で最大 さいだい の建築 けんちく 物 ぶつ の一 ひと つであった。ここに遺 のこ されている9世紀 せいき に描 えが かれたフレスコ は、オデュッセイア の古典 こてん 的 てき なモチーフが描 えが かれている。
アルヌルフ は、889年 ねん に新 あたら しい教会 きょうかい を訪 おとず れ、修道院 しゅうどういん 長 ちょう ボーヴォ1世 せい はこの修道院 しゅうどういん をカロリング朝 あさ 王家 おうけ の追悼 ついとう 修道院 しゅうどういん であると紹介 しょうかい した。ルートヴィヒ幼童 ようどう 王 おう の死後 しご 、カロリング朝 あさ が断絶 だんぜつ した911年 ねん まで、コルヴァイはザクセン地域 ちいき で最 もっと も重要 じゅうよう な修道院 しゅうどういん の一 ひと つであり続 つづ けた。913年 ねん のコンラート1世 せい の最初 さいしょ の行幸 ぎょうこう 以後 いご コルヴァイは、修道院 しゅうどういん 王宮 おうきゅう として何 なん 度 ど も利用 りよう された。1203年 ねん までに 23回 かい の王 おう の行幸 ぎょうこう が証明 しょうめい されている。実際 じっさい の訪問 ほうもん 回数 かいすう はこれよりも多 おお いと推測 すいそく される。王 おう の訪問 ほうもん は確 たし かに修道院 しゅうどういん の威信 いしん を高 たか めたが、修道院 しゅうどういん の経済 けいざい にとっては大 おお きな負荷 ふか となった[2] 。
10世紀 せいき に西 にし フランク王国 おうこく との文化 ぶんか 交流 こうりゅう が潰 つい えた。これにかわり、ザクセン地域 ちいき での宗教 しゅうきょう 的 てき 交流 こうりゅう が緊密 きんみつ になった。ボーヴォ3世 せい は、オットー朝 あさ ルネサンス の主要 しゅよう 人物 じんぶつ である。この他 ほか に年代 ねんだい 記 き 作者 さくしゃ のヴィドゥキント・フォン・コルヴァイ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は942年 ねん から973年 ねん まで活動 かつどう し、「ザクセン史 し 」を執筆 しっぴつ した。
改革 かいかく 修道院 しゅうどういん [ 編集 へんしゅう ]
時代 じだい とともに修道院 しゅうどういん の秩序 ちつじょ は低下 ていか していった。皇帝 こうてい ハインリヒ2世 せい は改革 かいかく 修道院 しゅうどういん の時代 じだい を開 ひら いた。彼 かれ は1015年 ねん にパーダーボルン司教 しきょう マインヴェルク (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の影響 えいきょう の下 した 、修道院 しゅうどういん 長 ちょう ヴァロを解任 かいにん し、ドルトマールをその地位 ちい に就 つ けた。こうした動 うご きは、ロルシュ修道院 しゅうどういん から生 う まれ、ゴルズ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の改革 かいかく 運動 うんどう につながってゆく。頑強 がんきょう な抵抗 ていこう に合 あ いながらもこの改革 かいかく は遂行 すいこう された。修道 しゅうどう 士 し の大 だい 部分 ぶぶん はこの修道院 しゅうどういん を去 さ った。修道院 しゅうどういん 長 ちょう の下 した には、わずか 9人 にん の修道 しゅうどう 士 し が残 のこ っただけだった。ロルシュやエヒテルナハ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の修道院 しゅうどういん 長 ちょう についても同 おな じ事 ごと が起 お こった。マルクヴァルト修道 しゅうどう 院長 いんちょう の時代 じだい 、コルヴァイはヒルザウ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の改革 かいかく に部分 ぶぶん 的 てき に参加 さんか した。しかしそこには本質 ほんしつ 的 てき な相違 そうい があった。ヒルザウの改革 かいかく に加 くわ わった修道院 しゅうどういん ではそれぞれの集落 しゅうらく の司教 しきょう が新 あら たに選 えら ばれた修道院 しゅうどういん 長 ちょう に司教 しきょう 杖 つえ を手渡 てわた したのだが、コルヴァイでは修道院 しゅうどういん 長 ちょう 自身 じしん が祭壇 さいだん からこれを手 て に取 と ったのである。コルヴァイはヒルザウの下位 かい に置 お かれたわけではなかった。両 りょう 修道院 しゅうどういん は兄弟 きょうだい 協定 きょうてい を結 むす んだ。これに加 くわ えて、ケルン大司教 だいしきょう アンノ2世 せい によるグラーフシャフト修道院 しゅうどういん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の創設 そうせつ という衝撃 しょうげき がもたらされ、コルヴァイはヴェストファーレン地方 ちほう における修道院 しゅうどういん 改革 かいかく の中心 ちゅうしん となった。その後 ご 、兄弟 きょうだい 協定 きょうてい は、それ自体 じたい が改革 かいかく の推進 すいしん 力 りょく となり、修道 しゅうどう 士 し や修道院 しゅうどういん 長 ちょう はザクセンに 6つの修道院 しゅうどういん を開設 かいせつ した。コルヴァイの修道 しゅうどう 士 し は別 べつ の場所 ばしょ で設立 せつりつ 集会 しゅうかい を開 ひら いた。この時代 じだい のコルヴァイは、様々 さまざま な女子 じょし 修道院 しゅうどういん の新設 しんせつ にも関与 かんよ した。マルクヴァルトの時代 じだい 、86人 にん の修道 しゅうどう 士 し が新 あら たにこの修道院 しゅうどういん に入 はい った。これに対 たい して、それ以前 いぜん の25年間 ねんかん に入 はい った新 あたら しい修道 しゅうどう 士 し はわずか 22人 にん だけであった[10] 。
教会 きょうかい 改革 かいかく 運動 うんどう の時代 じだい で特筆 とくひつ すべき新設 しんせつ は、俗人 ぞくじん 兄弟 きょうだい 団 だん の形成 けいせい である。このヴィートゥスおよびステファヌス兄弟 きょうだい 団 だん は、マルクヴァルトの時代 じだい にコルヴァイで結成 けっせい され、コルヴァイ修道院 しゅうどういん の所領 しょりょう がある村 むら や、修道院 しゅうどういん が何 なん らかの権利 けんり を有 ゆう している集落 しゅうらく に伝播 でんぱ していった。ゴスラーのヴィートゥス教会 きょうかい が最初 さいしょ だった。1081年 ねん から1138までの間 あいだ だけで 1,350人 にん の加盟 かめい 者 しゃ の名前 なまえ が分 わ かっている。兄弟 きょうだい 団 だん には規約 きやく があり、食事 しょくじ 、困窮 こんきゅう 者 しゃ 援助 えんじょ 、死者 ししゃ の追悼 ついとう のために集 あつ まった。入館 にゅうかん 料 りょう は修道院 しゅうどういん で活用 かつよう された。修道 しゅうどう 士 し は礼拝 れいはい 時 じ に兄弟 きょうだい 団 だん 員 いん の死 し を悼 いた んだ。世俗 せぞく の観点 かんてん からは、特 とく に叙任 じょにん 権 けん 闘争 とうそう の危険 きけん な時代 じだい には、兄弟 きょうだい 団 だん は修道院 しゅうどういん の重要 じゅうよう な支持 しじ 者 しゃ となったのである[11] 。
皇帝 こうてい と教皇 きょうこう の間 あいだ で[ 編集 へんしゅう ]
改革 かいかく 運動 うんどう に伴 ともな って、次第 しだい にザリエリ王家 おうけ からの離反 りはん が起 お こり、教皇 きょうこう グレゴリウス7世 せい 陣営 じんえい を向 む くようになった。修道院 しゅうどういん 長 ちょう ヴァーリン2世 せい の時代 じだい 、修道院 しゅうどういん は皇帝 こうてい ハインリヒ4世 せい 支持 しじ 者 しゃ とその敵対 てきたい 者 しゃ であるザクセンとの間 あいだ の紛争 ふんそう の的 まと となったが、すぐにグレゴリオ支持 しじ 者 しゃ の中心 ちゅうしん 地 ち となった。1065年 ねん に皇帝 こうてい によってコルヴァイが一時 いちじ 的 てき にアーダルベルト・フォン・ブレーメン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に委託 いたく されたことも叙任 じょにん 権 けん 闘争 とうそう に関連 かんれん している。オスナブリュック司 し 教区 きょうく の十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい 小 しょう 教区 きょうく はこの頃 ころ 廃止 はいし された。コルヴァイの封 ふう 臣 しん や皇帝 こうてい 軍 ぐん の支援 しえん を受 う け、ハインリヒ4世 せい を信奉 しんぽう する修道院 しゅうどういん 長 ちょう ギュンター・フォン・ヘルスフェルトによって、修道院 しゅうどういん 長 ちょう マルクヴァルトは1102年 ねん に強制 きょうせい 的 てき に辞任 じにん させられ、修道 しゅうどう 士 し たちのコミュニティは破壊 はかい された。しかし、そのわずか 1年 ねん 後 ご にギュンターが死亡 しぼう したため、神 かみ の祟 たた りであると見 み なされた。マルクヴァルトは、元 もと の地位 ちい を回復 かいふく した。修道院 しゅうどういん 長 ちょう の自由 じゆう 選挙 せんきょ 権 けん を無視 むし したハインリヒ5世 せい はエルケンベルトを修道 しゅうどう 院長 いんちょう に任命 にんめい した[2] 。これによりコルヴァイは、一時 いちじ 的 てき に王家 おうけ に歩 あゆ み寄 よ りエルケンベルトは、1108年 ねん にハンガリー へ、1110年 ねん から1111年 ねん にローマ へと皇帝 こうてい に随従 ずいじゅう した。この頃 ころ すでに修道院 しゅうどういん の物質 ぶっしつ 的 てき 基盤 きばん の入手 にゅうしゅ が憂慮 ゆうりょ され始 はじ めた。このためエルケンベルトは所蔵 しょぞう 品 ひん 一覧 いちらん を作成 さくせい させた。同 おな じ頃 ごろ 家人 かじん と修道院 しゅうどういん 執事 しつじ との紛争 ふんそう が始 はじ まった。副 ふく 執事 しつじ であったシュヴァーレンベルク伯 はく は、ハインリヒ獅子 しし 公 こう 失脚 しっきゃく 後 ご の一時期 いちじき 、修道院 しゅうどういん 執事 しつじ となった[12] 。
1118年 ねん にこの修道院 しゅうどういん はテオガー・フォン・ザクント・ゲオルゲンを受 う け容 い れた。その後 ご 教会 きょうかい 改革 かいかく 派 は によってメッツ司教 しきょう に選 えら ばれたため、彼 かれ はコルヴァイで数 すう 多 おお くのグレゴリウス派 は 指導 しどう 者 しゃ が出席 しゅっせき する中 なか で見 み せつけるかのように教皇 きょうこう 特使 とくし クーノ・フォン・プラエネステ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) によって司教 しきょう となる祝福 しゅくふく を受 う けた。この新 あたら しい司教 しきょう は、直 ただ ちにその教会 きょうかい 上 じょう の職務 しょくむ を執行 しっこう した。コルヴァイのゲオルク教会 きょうかい 、アンドレアス祭壇 さいだん 、修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の地下 ちか 聖堂 せいどう を聖 ひじり 別 べつ したのである[13] 。
1130年代 ねんだい 以降 いこう 修道院 しゅうどういん 秩序 ちつじょ は新 あら たな低下 ていか し始 はじ めた[2] 。ヴィバルト・フォン・シュタブロ (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の下 した でコルヴァイは最後 さいご の隆盛 りゅうせい を享受 きょうじゅ した(1146年 ねん – 1158年 ねん )。この時代 じだい にヴェストヴェルクは、隣接 りんせつ するヘクスターの聖 せい キリアニ教会 きょうかい を模倣 もほう し、それを凌駕 りょうが する 2本 ほん の塔 とう を持 も つ現在 げんざい の形 かたち に改築 かいちく された。剥奪 はくだつ されていた占有 せんゆう 権 けん が、この頃 ころ に再 ふたた び有効 ゆうこう となった。これは、暴力 ぼうりょく 的 てき な伯 はく やミニステリアーレ の干渉 かんしょう に対抗 たいこう するための手段 しゅだん であった。修道院 しゅうどういん 規則 きそく も新 あら たに制定 せいてい された。修道院 しゅうどういん は、Liber vitaeを含 ふく む一連 いちれん の贅沢 ぜいたく な手 て 稿 こう を発注 はっちゅう できるほどに裕福 ゆうふく であった。
この芸術 げいじゅつ 的 てき な Liber vitae は、おそらくヘルマースハウゼン修道院 しゅうどういん で作成 さくせい された。この作品 さくひん が着手 ちゃくしゅ されてから完成 かんせい するまでのすべてのコルヴァイ修 おさむ 道士 どうし および修道院 しゅうどういん 長 ちょう の名前 なまえ がこの中 なか に含 ふく まれている。さらにコルヴァイと祈祷 きとう 兄弟 きょうだい 会 かい を結 むす んだ 76 の宗教 しゅうきょう 団体 だんたい の名称 めいしょう リストがある。この本 ほん はミュンスター国立 こくりつ 文書 ぶんしょ 館 かん の最 もっと も貴重 きちょう な手 て 稿 こう の一 ひと つに数 かぞ えられる。その内容 ないよう は、コルヴァイが様々 さまざま な規律 きりつ の団体 だんたい と関係 かんけい を持 も っていたことを示 しめ している。コルヴァイ首席 しゅせき 司祭 しさい 区 く とならんでシュタブロ修道院 しゅうどういん と母 はは 修道院 しゅうどういん であるコルビ修道院 しゅうどういん がその筆頭 ひっとう であった[13] 。
恐 おそ らくヴィバルトのリードにより、12世紀 せいき にコルヴァイでキケロ の「法廷 ほうてい 弁論 べんろん 、哲学 てつがく 的 てき 著作 ちょさく 、堂々 どうどう たる一連 いちれん の演説 えんぜつ 、『縁者 えんじゃ ・友人 ゆうじん 宛 あて 書簡 しょかん 集 しゅう 』(Epistula ad familiares )の一部 いちぶ をふくむ」写本 しゃほん が書 か かれている。この「キケロの諸 しょ 作品 さくひん の非常 ひじょう に包括 ほうかつ 的 てき な写本 しゃほん 」は、「テクスト研究 けんきゅう の重要 じゅうよう な資料 しりょう であり、12世紀 せいき の人文 じんぶん 主義 しゅぎ を証左 しょうさ してわれわれに感銘 かんめい を与 あた えるものである」(レイノルズ/ウィルスン)[14] 。
中世 ちゅうせい 後期 こうき の衰退 すいたい と領域 りょういき の領 りょう 邦 くに 化 か [ 編集 へんしゅう ]
ヴィバルトの死後 しご 、コルヴァイは急速 きゅうそく にその重要 じゅうよう 性 せい を失 うしな い、帝国 ていこく やローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう における役割 やくわり を喪失 そうしつ した。修道院 しゅうどういん 長 ちょう ヴィドゥキントの時代 じだい (1189年 ねん – 1203年 ねん )、この修道院 しゅうどういん は確 たし かに重要 じゅうよう 性 せい を保持 ほじ していた。しかし、その後 ご の修道 しゅうどう 院長 いんちょう や1242年 ねん の修道院 しゅうどういん の火災 かさい が、負債 ふさい や経済 けいざい 的 てき 凋落 ちょうらく の原因 げんいん となった。ローマとの関係 かんけい は、反 はん ローマ主義 しゅぎ の修道院 しゅうどういん 長 ちょう ディートマール2世 せい フォン・シュトックハウゼン(1206年 ねん – 1216年 ねん )やヘルマン1世 せい フォン・ホルテ(1223年 ねん – 1254年 ねん )によって持続 じぞく 的 てき に妨害 ぼうがい され続 つづ けた。13世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう 、ホーエンシュタウフェン朝 あさ の終焉 しゅうえん に伴 ともな い、コルヴァイは、ヴェストファーレン公 こう としてこの地域 ちいき に現実 げんじつ 的 てき な関心 かんしん を示 しめ すケルン大司教 だいしきょう やパーダーボルン司教 しきょう 、ミュンスター司教 しきょう らに対抗 たいこう する独自 どくじ の役割 やくわり を持 も つことができなかった。
シュタウフェン朝 あさ によって王権 おうけん が南 みなみ ドイツに移動 いどう したことや王位 おうい が脆弱 ぜいじゃく 化 か したことなどによって、コルヴァイは王 おう の保護 ほご を失 うしな った。これを承 う けて修道院 しゅうどういん 長 ちょう はできるだけ閉鎖 へいさ 的 てき な領 りょう 邦 くに を形成 けいせい しようとした。このため、周辺 しゅうへん のライバルたちと必然 ひつぜん 的 てき に衝突 しょうとつ を起 お こした。パーダーボルン司教 しきょう や様々 さまざま な伯 はく 、特 とく にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 こう 、ヘッセン方 かた 伯 はく 、ケルン大司教 だいしきょう などである。このため、1189年 ねん の修道院 しゅうどういん 長 ちょう の年代 ねんだい 記 き ですでに嘆 なげ かれているとおり、修道院 しゅうどういん 長 ちょう は宗教 しゅうきょう 上 じょう の職務 しょくむ をないがしろにして、城 しろ の建設 けんせつ を好 この んだ。こうした防衛 ぼうえい 施設 しせつ として、ブルンスブルク、ラントエッゲ、クーゲルスブルクあるいはリヒテンフェルス城 じょう がある。
コルヴァイは1220年 ねん から「領 りょう 邦 くに 化 か された」帝国 ていこく 修道院 しゅうどういん となった。
これに対 たい して、甚大 じんだい な損害 そんがい も被 こうむ った。いわゆる「オスナブリュックの十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい 紛争 ふんそう 」に伴 ともな って疎外 そがい されたことにより、修道院 しゅうどういん 長 ちょう は十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい やオスナブリュック司教 しきょう 区内 くない の収入 しゅうにゅう の大 だい 部分 ぶぶん を失 うしな ったのである。ヴァルデック伯 はく の領域 りょういき では、13世紀 せいき に伯 はく やケルン大司教 だいしきょう に有利 ゆうり になるよう財産 ざいさん を失 うしな っている。1198年 ねん に獲得 かくとく したゾリングも失 うしな われた。
かつて広 ひろ い範囲 はんい に点在 てんざい していた土地 とち の内 うち 、最終 さいしゅう 的 てき にはコルヴァイ周辺 しゅうへん の地域 ちいき だけが残 のこ された。修道院 しゅうどういん の所領 しょりょう は約 やく 275 km2 (おおむね現在 げんざい のヘクスターとその12の市区 しく にあたる)であった。この領域 りょういき は、東 ひがし はヴェーザー川 がわ を境 さかい とし、西 にし と南 みなみ は直接 ちょくせつ 隣 となり の領 りょう 邦 くに であるパーダーボルン司教 しきょう 領 りょう と接 せっ していた。この領域 りょういき には主 しゅ 邑であるヘクスターの他 ほか に16の村落 そんらく が含 ふく まれた。
中世 ちゅうせい 後期 こうき を通 とお して、経済 けいざい 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 、宗教 しゅうきょう 文化 ぶんか 的 てき に脆弱 ぜいじゃく な期間 きかん が続 つづ いた。14世紀 せいき から15世紀 せいき の修道院 しゅうどういん 長 ちょう は、まったく重要 じゅうよう でなく、時 とき に品位 ひんい を汚 けが すような者 もの もいた。これに対 たい して修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい が影響 えいきょう 力 りょく を獲得 かくとく していった。15世紀 せいき にこの修道院 しゅうどういん は、それまでの発展 はってん の最 さい 底辺 ていへん にあった[2] 。
コルヴァイ修道院 しゅうどういん 領 りょう の地図 ちず
帝国 ていこく 改造 かいぞう (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に伴 ともな って、コルヴァイは1500年 ねん にニーダーライン=ヴェストファーレン帝国 ていこく クライス に加 くわ わり、これによりその領域 りょういき は神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の一部 いちぶ であることが確認 かくにん された。帝国 ていこく 議会 ぎかい の帝国 ていこく 領 りょう 邦 くに 会議 かいぎ では、他 た の帝国 ていこく 直轄 ちょっかつ 修道院 しゅうどういん の修道院 しゅうどういん 長 ちょう のような共同 きょうどう での投票 とうひょう 権 けん ではなく、コルヴァイ修道 しゅうどう 院長 いんちょう は個人 こじん として議席 ぎせき を占 し め、単独 たんどく 票 ひょう を有 ゆう していた。帝国 ていこく 台帳 だいちょう には、1522年 ねん 頃 ごろ コルヴァイは 2人 ふたり の騎士 きし 、9人 にん の歩兵 ほへい 、120グルデンの戦費 せんぴ を帝国 ていこく 軍 ぐん のために提供 ていきょう すると記載 きさい されている。コルヴァイの領 りょう 邦 くに 内 ない ではドイツ語 ご 、低地 ていち ドイツ語 ご 、ラテン語 らてんご が話 はな されていた。1800年 ねん 頃 ごろ には面積 めんせき 275 km2 に約 やく 1万 まん 人 にん が住 す んでいた[15] 。コルヴァイはナッサウ=オラニエ公国 こうこく (1803年 ねん )、ヴェストファーレン王国 おうこく (1807年 ねん )、プロイセン王国 おうこく (1815年 ねん )、コルヴァイ陪臣 ばいしん 領 りょう 邦 くに (1820年 ねん )に属 ぞく した。
やはり1500年 ねん 頃 ごろ 、修道院 しゅうどういん 長 ちょう フランツ・フォン・ケッテラーの下 した でブルスフェルデ会議 かいぎ を承 う けて内部 ないぶ の改革 かいかく が始 はじ まった。また、財政 ざいせい 基盤 きばん の保全 ほぜん も始 はじ まった。こうした改革 かいかく の努力 どりょく は、1533年 ねん 以降 いこう コルヴァイ領 りょう 内 ない に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が入 はい り込 こ んだ時期 じき と重 かさ なっている。これによりコルヴァイ修道院 しゅうどういん 領 りょう では、ヘクスター、アーメルンクセン、ブルーフハウゼンでの宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を拒 こば み、これに対抗 たいこう することに成功 せいこう した。しかしこれは修道院 しゅうどういん 長 ちょう の立場 たちば を著 いちじる しく減 げん 弱化 じゃっか した。1590年 ねん 頃 ころ に修道 しゅうどう 院長 いんちょう ディートリヒ・フォン・ベリングハウゼンによってカトリック改革 かいかく の最初 さいしょ の試 こころ みが開始 かいし されたが、この対抗 たいこう 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の萌芽 ほうが はほとんど成功 せいこう しなかった。逆 ぎゃく にこの修道院 しゅうどういん 自体 じたい が宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の脅威 きょうい にさらされた。ブルスフェルデ会議 かいぎ の介入 かいにゅう は潰 つい えた。1585年 ねん から1616年 ねん までの間 あいだ にヴェストヴェルクの塔 とう の屋根 やね が造 つく り替 か えられ[16] 、ヴェストヴェルクの上層 じょうそう に祭壇 さいだん が設 もう けられた。対抗 たいこう 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく は、この修道院 しゅうどういん の領域 りょういき では1624年 ねん までにヘクスターを除 のぞ きほぼ完了 かんりょう した。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう でこの修道院 しゅうどういん は手 て ひどく破壊 はかい された。「修道院 しゅうどういん の大火 たいか 」(1635年 ねん の「ヘクスターの血 ち 浴 よく 」)で修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん の大 だい 部分 ぶぶん が消失 しょうしつ した。この戦争 せんそう の間 あいだ 、修道 しゅうどう 士 し たちは場合 ばあい によりヘクスターに避難 ひなん した。さらに軍事 ぐんじ 占領 せんりょう と高額 こうがく の戦費 せんぴ の支払 しはら いが課 か された[2] 。
クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレン
ミュンスター司教 しきょう クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が1665年 ねん に管理 かんり 官 かん となった時 とき 、修道 しゅうどう 士 し たちは一連 いちれん の候補者 こうほしゃ の中 なか から修道院 しゅうどういん 長 ちょう を選出 せんしゅつ することを放棄 ほうき しており、コルヴァイは消滅 しょうめつ 寸前 すんぜん の状態 じょうたい にあった。彼 かれ はバロック様式 ようしき の修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい を建設 けんせつ し、貴族 きぞく の修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい を復活 ふっかつ させることで修道院 しゅうどういん を活気 かっき づけた。ヘクスターに対 たい する領主 りょうしゅ の威信 いしん も改 あらた められた。こうして修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ がかなり安定 あんてい した後 のち 、修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい から修道院 しゅうどういん 長 ちょう を選出 せんしゅつ することに成功 せいこう した。ヴィルヘルム・ラーベ はガーレン時代 じだい を「ヘクスターとコルヴァイ」の著述 ちょじゅつ に費 つい やした[17] 。老朽 ろうきゅう 化 か していた修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい は、ヴェストヴェルクを除 のぞ いて、1667年 ねん からバロック様式 ようしき の調度 ちょうど 品 ひん と、ゴシック様式 ようしき の内装 ないそう に改築 かいちく された。1699年 ねん から1756年 ねん までの間 あいだ 、特 とく に修道院 しゅうどういん 長 ちょう フローレンツ・フォン・デム・フェルデ(1696年 ねん – 1714年 ねん )によって修道院 しゅうどういん 施設 しせつ をバロック様式 ようしき にする大 だい 規模 きぼ な改修 かいしゅう 工事 こうじ が行 おこな われた。コルヴァイ城 しろ 館 かん は、このときに改修 かいしゅう された状態 じょうたい をほとんど変 か えることなく、今日 きょう まで保存 ほぞん している。修道院 しゅうどういん の中央 ちゅうおう 車寄 くるまよ せに直接 ちょくせつ 彫 ほ られたカール大帝 たいてい やルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう の栄誉 えいよ をたたえる銘 めい は、コルヴァイが対抗 たいこう 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の中心 ちゅうしん 地 ち であることを宣言 せんげん するものとして重要 じゅうよう である。修道院 しゅうどういん 長 ちょう は、領主 りょうしゅ の権利 けんり を豪華 ごうか なカイザーザール(皇帝 こうてい ホール)で表現 ひょうげん している。修道院 しゅうどういん 長 ちょう マクシミリアン・フォン・ホルリヒ(1714年 ねん – 1721年 ねん )は、新 あたら しい建物 たてもの を図書館 としょかん として利用 りよう することとした[18] 。
17世紀 せいき から18世紀 せいき に修道院 しゅうどういん の歴史 れきし に力 ちから が注 そそ がれた。当時 とうじ の歴史 れきし 記者 きしゃ は、一部 いちぶ の原典 げんてん を贋作 がんさく し、後 のち に「コルヴァイの偽造 ぎぞう 歴史 れきし 家 か 」と呼 よ ばれた。この偽造 ぎぞう された歴史 れきし 書 しょ は、19世紀 せいき の文書 ぶんしょ 管理 かんり 者 しゃ で歴史 れきし 家 か のパウル・ヴィーガントが様々 さまざま な誤 あやま りを残 のこ す原因 げんいん ともなった。
コルヴァイ領主 りょうしゅ 司教 しきょう と世俗 せぞく 化 か [ 編集 へんしゅう ]
年間 ねんかん 約 やく 10万 まん ターラー以上 いじょう の収入 しゅうにゅう があり、12,000人 にん を擁 よう する帝国 ていこく 修道院 しゅうどういん 領 りょう は、パーダーボルン司教 しきょう の軛 くびき から逃 のが れようと常 つね に努 つと めていた。18世紀 せいき 末 まつ に修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい が暴力 ぼうりょく 的 てき な方法 ほうほう で廃止 はいし されたことが強 つよ い動機 どうき 付 づ けとなった。しかし、1786年 ねん には修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい にはわずか 13人 にん のメンバーがいただけだった。コルヴァイは貴族 きぞく の志願 しがん 者 しゃ だけ受 う け容 い れることを認 みと めており、衰退 すいたい により志願 しがん 者 しゃ はほとんどいなかったため、司教 しきょう への昇格 しょうかく によって凋落 ちょうらく を食 く い止 と めようと努力 どりょく した。
1779年 ねん に最初 さいしょ のステップとしてコルヴァイヤー・テリトリウムと呼 よ ばれる領 りょう 邦 くに 修道院 しゅうどういん の身分 みぶん への昇格 しょうかく がなされた。修道院 しゅうどういん 長 ちょう はその領主 りょうしゅ として世俗 せぞく 案件 あんけん および聖 ひじり 界 かい 案件 あんけん についてもパーダーボルン司教 しきょう から奪取 だっしゅ し、修道院 しゅうどういん 長 ちょう のものとした。司教 しきょう の布教 ふきょう 権 けん はパーダーボルン司教 しきょう に残 のこ された。修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい は常 つね にベネディクト会 かい の特色 とくしょく を保持 ほじ し、厳 きび しい修道 しゅうどう 生活 せいかつ の日課 にっか を送 おく ることを、修道院 しゅうどういん 長 ちょう 臨席 りんせき の下 した で決議 けつぎ した。ほとんどの修道 しゅうどう 士 し が高齢 こうれい 化 か していたため、祈 いのり 禱時には、1786年 ねん に開校 かいこう した神学校 しんがっこう の生徒 せいと が動員 どういん された。また、12人 にん の将来 しょうらい の聖堂 せいどう 参事 さんじ 会員 かいいん と 500ターラーの俸給 ほうきゅう を確保 かくほ した。Vita communis (地域 ちいき 生活 せいかつ )も大 おお きく改善 かいぜん され、禁 きん 域 いき 制 せい が廃止 はいし された。
1788年 ねん 、この修道院 しゅうどういん はついに世俗 せぞく 化 か 申請 しんせい を教皇 きょうこう に提出 ていしゅつ した。修道院 しゅうどういん は1792年 ねん に廃止 はいし され、わずか10の教会 きょうかい 区 く しか持 も たないにもかかわらず、領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう テオドール・フォン・ブラベックは領主 りょうしゅ 司教 しきょう に、修道院 しゅうどういん 領 りょう は司教 しきょう 領 りょう (領 りょう 邦 くに )になった。修道院 しゅうどういん 副 ふく 院長 いんちょう は聖堂 せいどう 首席 しゅせき 司祭 しさい に、修道 しゅうどう 士 し は聖堂 せいどう 参事 さんじ 会員 かいいん となった。修道 しゅうどう 士 し の一人 ひとり であるフェルディナント・フォン・リュニンクは、この変更 へんこう 作業 さぎょう に特 とく に積極 せっきょく 的 てき に取 と り組 く んだ。さらに他 た の聖堂 せいどう 付属 ふぞく 学校 がっこう の生徒 せいと は、いまや司教 しきょう 座 ざ 教会 きょうかい となった修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の 6人 にん の聖堂 せいどう 助 じょ 任 にん 司祭 しさい の座 ざ に就 つ いた。服装 ふくそう や規律 きりつ は、ドイツの他 ほか の聖堂 せいどう 参事 さんじ 会 かい に倣 なら った。1794年 ねん 、皇帝 こうてい の文書 ぶんしょ が作成 さくせい され、旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 領 りょう だけを含 ふく む新 あら たな司教 しきょう 領 りょう が成立 せいりつ し、マインツ司教 しきょう 管区 かんく の下位 かい に組織 そしき された。1794年 ねん にフェルディナント・フォン・リュニンクがテオドール・フォン・ブラベックの後 のち を継 つ いで領主 りょうしゅ 司教 しきょう となり、プロイセン王国 おうこく におけるこの市 し 教区 きょうく 最後 さいご の地域 ちいき 司教 しきょう となった。
主権 しゅけん の終焉 しゅうえん [ 編集 へんしゅう ]
その後 ご すぐ、1803年 ねん に世俗 せぞく 領 りょう 邦 くに のコルヴァイ司教 しきょう 領 りょう は帝国 ていこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ 主要 しゅよう 決議 けつぎ によって廃止 はいし された。この領域 りょういき は、ヴィルヘルム5世 せい フォン・オラニエン が治 おさ めるナッサウ=オラニエ=フルダ侯 こう 領 りょう の一部 いちぶ となった。この侯 ほう 領 りょう は1806年 ねん からオラニエ=ナッサウ 公子 こうし ヴィルヘルム・フリードリヒ を領主 りょうしゅ とした。コルヴァイは1807年 ねん にナポレオン支配 しはい 下 か のヴェストファーレン王国 おうこく の一部 いちぶ となり、最終 さいしゅう 的 てき に1815年 ねん にプロイセン王国 おうこく の国有 こくゆう 地 ち となった。しかし、聖 きよし 界 かい のコルヴァイ司 つかさ 教区 きょうく は1825年 ねん にフェルディナント・フォン・リュニンクが亡 な くなるまで存続 そんぞく し、その後 ご パーダーボルン司 し 教区 きょうく に編入 へんにゅう された。
ラティボル公 おおやけ およびコルヴァイ侯 こう ヴィクトル1世 せい
ウィーン会議 かいぎ の結果 けっか 、補償 ほしょう の権利 けんり を得 え たヘッセン=ローテンブルク方 かた 伯 はく ヴィクトル・アマデウス は、1820年 ねん にプロイセン王 おう からコルヴァイ非 ひ 直轄 ちょっかつ 侯 こう 領 りょう (Mediatfürstentum) およびラティボル非 ひ 直轄 ちょっかつ 侯 こう 領 りょう を補償 ほしょう として与 あた えられた。方 かた 伯 はく は、1825年 ねん の遺言 ゆいごん でこの所領 しょりょう を甥 おい のエルププリンツ・ヴィクトル・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト に遺贈 いぞう した。方 かた 伯 はく が1834年 ねん に亡 な くなり、成人 せいじん した1840年 ねん にエルププリンツ・ヴィクトルはシリングスフュルストの相続 そうぞく 権 けん を放棄 ほうき し、「ラティボル公 おおやけ およびコルヴァイ侯 こう 」ヴィクトル1世 せい を名乗 なの った。
ヴィクトル1世 せい 公 こう は1840年 ねん 11月に、住民 じゅうみん の大 だい 部分 ぶぶん が注目 ちゅうもく する中 なか 、ラティボル 近郊 きんこう のラウデンを訪 おとず れた。彼 かれ はここを永住 えいじゅう 地 ち とし、コルヴァイにはほとんど滞在 たいざい しなかった。彼 かれ の統治 とうち 最盛 さいせい 期 き 直前 ちょくぜん の1844年 ねん になって初 はじ めてコルヴァイの西 にし 翼 つばさ に侯 ほう の住居 じゅうきょ となる新 あら たな施設 しせつ が設 もう けられた。1845年 ねん 4月 がつ 19日 にち にヴィクトル公 こう は、フュルステンベルク侯 ほう カール・エーゴン2世 せい の侯 ほう 女 おんな アメーリエと結婚 けっこん した。
ラティボル公 こう ヴィクトル1世 せい は、プロイセン王国 おうこく 内 ない で主導 しゅどう 的 てき な政治 せいじ 的 てき 役割 やくわり を得 え ていた。彼 かれ は1877年 ねん にプロイセン貴族 きぞく 院 いん の議長 ぎちょう となった。その後 ご 、プロイセン外務 がいむ 担当 たんとう 参事官 さんじかん に就任 しゅうにん した。彼 かれ の文化 ぶんか 的 てき な成果 せいか は、特 とく にコルヴァイの領主 りょうしゅ の図書館 としょかん や、ベルリン 、シュレージエン 、ヴェストファーレンにおける様々 さまざま な活動 かつどう に現 あらわ れている。彼 かれ は、晩年 ばんねん をラウデンで過 す ごし、1893年 ねん 1月 がつ 30日 にち にそこで亡 な くなった[19] 。
1925年 ねん から1930年 ねん までの間 あいだ に撮影 さつえい されたコルヴァイの写真 しゃしん
父親 ちちおや の死後 しご 、公子 こうし ヴィクトルは 2代目 だいめ のラティボル公 おおやけ およびコルヴァイ侯 こう となった。ヴィクトル2世 せい 公 おおやけ (1847年 ねん - 1923年 ねん )は、1877年 ねん にブロイナー=エンケヴォイルト女 おんな 伯 はく マリーと結婚 けっこん した。彼女 かのじょ は1894年 ねん にニーダーエスターライヒ地方 ちほう のグラーフェンエッグ、ノイアイゲンおよびアスパルンの所領 しょりょう を相続 そうぞく し、コルヴァイとともにこの一族 いちぞく の所有 しょゆう となった。ヴィクトル2世 せい 公 こう は、プロイセン王国 おうこく 内 ない で父親 ちちおや と同様 どうよう に要職 ようしょく を歴任 れきにん した。ヴィクトル3世 せい 公 おおやけ (1870年 ねん - 1945年 ねん )は、1923年 ねん に父 ちち から公家 くげ の頭領 とうりょう を引 ひ き継 つ いだ。この家族 かぞく は1945年 ねん にラティボル近郊 きんこう のラウデンを離 はな れ、コルヴァイへ逃 のが れた。34,000 ha の森林 しんりん を含 ふく むシュレージエンの所領 しょりょう はポーランド 領 りょう となった[20] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終戦 しゅうせん 後 ご 、建物 たてもの や調度 ちょうど の大 だい 規模 きぼ な修復 しゅうふく が行 おこな われた。屋根 やね 、ファサード、窓 まど 、門 もん は取 と り替 か えられ、近代 きんだい 化 か された。城 しろ 館 かん 建築 けんちく の最良 さいりょう の部分 ぶぶん は一般 いっぱん 公開 こうかい された。1984年 ねん にラティボル公 おおやけ およびコルヴァイ侯 ほう フランツ・アルブレヒトは調度 ちょうど の大 だい 部分 ぶぶん を公益 こうえき 機関 きかん であるヘクスター=コルヴァイ文化 ぶんか クライス GmbH に移管 いかん した。公家 くげ と並 なら んでヘクスター市 し とヘクスター郡 ぐん がこの公益 こうえき 法人 ほうじん の運営 うんえい 者 しゃ となった。これ以後 いご コルヴァイはヴェーザーベルクラントの文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん へと発展 はってん した[21] 。修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい は、ヴィクトル3世 せい 公 こう の次男 じなん フランツ・アルブレヒト・メッテルニヒ=シャーンドル が聖 せい ステファヌス・ヴィートゥス教会 きょうかい に寄進 きしん したことで管理 かんり 権 けん が移管 いかん された。これにより教会 きょうかい はこの貴族 きぞく 家 か の所有 しょゆう ではなくなっている[22] 。フランツ・アルブレヒト公 こう の死後 しご 、その息子 むすこ のラティボル公 おおやけ およびコルヴァイ侯 こう ヴィクトル5世 せい がコルヴァイの管理 かんり 運営 うんえい を引 ひ き継 つ いだ。彼 かれ は、居城 きょじょう を完全 かんぜん にコルヴァイに移 うつ した最初 さいしょ のラティボル公 こう である。
コルヴァイは1999年 ねん 以降 いこう UNESCO 世界 せかい 遺産 いさん の暫定 ざんてい リスト に掲載 けいさい され、2014年 ねん に正式 せいしき 登録 とうろく された[23] 。提案 ていあん 資料 しりょう は作業 さぎょう グループ内 ない で推敲 すいこう された。ノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう 、ラティボル公家 くげ 、聖 せい ステファヌス・ヴィートゥス教会 きょうかい および市 し 、郡 ぐん 、ヴェストファーレン=リッペ地方 ちほう 連盟 れんめい の代理人 だいりにん がこれに携 たずさ わった。
提案 ていあん のタイトルは、"Das karolingische Westwerk und die Civitas Corvey." (コルヴァイのカロリング朝 あさ ヴェストヴェルクとキヴィタス)であった。提案 ていあん 資料 しりょう は、提案 ていあん 分 ぶん 本体 ほんたい とマネージメントプランを含 ふく んでいた。このために、コルヴァイとパーダーボルンで 2度 ど の国際 こくさい シンポジウムの研究 けんきゅう 報告 ほうこく に基 もと づく集会 しゅうかい を開 ひら き、啓発 けいはつ 資料 しりょう を作成 さくせい した。この提案 ていあん は2012年 ねん 12月にウーテ・シェーファーによってノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう 政府 せいふ の署名 しょめい がなされた。
世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく のための最 もっと も重要 じゅうよう な選考 せんこう 基準 きじゅん は、独創 どくそう 性 せい 、正統 せいとう 性 せい (歴史 れきし 的 てき 真正 しんせい 性 せい )、完全 かんぜん 性 せい である[24] 。コルヴァイの特徴 とくちょう は以下 いか のようにまとめられる: コルヴァイは最 もっと も古 ふる く、類例 るいれい のない、ほぼ完全 かんぜん に保存 ほぞん されたカロリング時代 じだい のヴェストヴェルクを有 ゆう している。中央 ちゅうおう の三 さん 方 ぽう をバルコニー に囲 かこ まれた、上 うえ 階 かい にあるメインの空間 くうかん は、その形 かたち や本来 ほんらい の芸術 げいじゅつ 的 てき 調度 ちょうど が古風 こふう なモデルに遡 さかのぼ ることができる。等身 とうしん 大 だい の石膏 せっこう 像 ぞう をもつ調度 ちょうど 、建築 けんちく 的 てき な構成 こうせい を持 も つ彩色 さいしき された空間 くうかん 把握 はあく 、装飾 そうしょく 的 てき なフリーズ 、神話 しんわ の壁画 へきが (これは、現在 げんざい 知 し られているカロリング時代 じだい 唯一 ゆいいつ の壁画 へきが である)といった、本質 ほんしつ 的 てき な部分 ぶぶん が保存 ほぞん されている。このヴェストヴェルクは、「カロリング朝 あさ ルネサンス 」の卓越 たくえつ した作例 さくれい である。
学校 がっこう と図書館 としょかん を持 も つこの修道院 しゅうどういん は、中世 ちゅうせい 初期 しょき から盛期 せいき のコルヴァイ市 し の成立 せいりつ を促 うなが した。これは、宗教 しゅうきょう ・文化 ぶんか の中心 ちゅうしん であると同時 どうじ に商業 しょうぎょう 地 ち でもあった。13世紀 せいき に荒廃 こうはい したこの都市 とし とかつての防備 ぼうび を固 かた めた修道院 しゅうどういん 管区 かんく は考古学 こうこがく 文化財 ぶんかざい として保存 ほぞん されている[25] 。さらにフランク王国 おうこく の辺 あたり 縁 えん 部 ぶ にあったコルヴァイは政治 せいじ 的 てき 機能 きのう も有 ゆう しており、布教 ふきょう 活動 かつどう の任務 にんむ は他 た のヨーロッパ世界 せかい に政治 せいじ 的 てき ・宗教 しゅうきょう 的 てき 影響 えいきょう を及 およ ぼした。
世界 せかい 遺産 いさん の承認 しょうにん には以下 いか の目標 もくひょう が課 か された: 現状 げんじょう の維持 いじ ・管理 かんり 、将来 しょうらい の建築 けんちく ・保存 ほぞん ・開発 かいはつ 計画 けいかく 、学問 がくもん 的 てき 裏付 うらづ けの保全 ほぜん に関 かん する将来 しょうらい 計画 けいかく 、利害 りがい の衝突 しょうとつ による紛争 ふんそう の予防 よぼう ・管理 かんり 計画 けいかく 、教会 きょうかい の本来 ほんらい の利用 りよう に対 たい する保護 ほご 、経済 けいざい 的 てき ・観光 かんこう 上 じょう の圧力 あつりょく に対 たい する首尾 しゅび 一貫 いっかん した持続 じぞく 可能 かのう なコンセプト、国内 こくない ・国際 こくさい 的 てき 認知 にんち の定着 ていちゃく [26] 。
2013年 ねん 9月 がつ 、ICOMOS の委員 いいん がコルヴァイを訪 おとず れ、情報 じょうほう を通知 つうち した[23] 。
2014年 ねん 6月 がつ 21日 にち 、「コルヴァイのカロリング朝 あさ のヴェストヴェルクとキヴィタス」の名称 めいしょう の下 した 、かつてのコルヴァイ修道院 しゅうどういん 全体 ぜんたい が、UNESCO により公式 こうしき に世界 せかい 遺産 いさん として登録 とうろく され、ドイツで39件 けん 目 め の世界 せかい 遺産 いさん となった[27] 。
中世 ちゅうせい の修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん [ 編集 へんしゅう ]
修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の最初 さいしょ の手 て 稿 こう 群 ぐん は、母 はは 修道院 しゅうどういん であるコルビ修道院 しゅうどういん 由来 ゆらい のものである。詳細 しょうさい が不明 ふめい な文書 ぶんしょ はあるが、その他 た の文書 ぶんしょ についてはそう結論 けつろん づけている。自身 じしん がコルヴァイ修道院 しゅうどういん の設立 せつりつ に関与 かんよ したパスカシウス・ラドベルトゥス の著述 ちょじゅつ もその一 ひと つである。彼 かれ は、コルヴァイ修道院 しゅうどういん の初代 しょだい 修道 しゅうどう 院長 いんちょう アーダルハルトの死後 しご に素晴 すば らしい挽歌 ばんか を詠 よ んでいる。彼 かれ は修道院 しゅうどういん 長 ちょう ヴァーリンにも2編 へん の作品 さくひん を献 けんじ げている。これらも修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう されている。修道院 しゅうどういん 長 ちょう アーダルハルトと学識 がくしき ある文通 ぶんつう を行 おこな っていたコルビーのラトラムヌス の著作 ちょさく もコルヴァイに保存 ほぞん されている。
9世紀 せいき の初 はじ めに図書館 としょかん は、ルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう の宮廷 きゅうてい 礼拝 れいはい 堂 どう 付 つ き司祭 しさい によって大 おお きく拡充 かくじゅう された。ルートヴィヒはこの修道院 しゅうどういん に自分 じぶん が所有 しょゆう する書物 しょもつ を寄贈 きぞう した。現在 げんざい ミュンヒェンにあるヒエロニムス のマタイ福音 ふくいん 書 しょ 注釈 ちゅうしゃく もその一 ひと つである。かなりの蔵書 ぞうしょ を有 ゆう していた重要 じゅうよう な修道院 しゅうどういん 学校 がっこう が修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん の拡充 かくじゅう に特 とく に寄与 きよ した。司教 しきょう アンスガーは布教 ふきょう の旅 たび にコルヴァイの書物 しょもつ を携帯 けいたい したか、あるいは布教 ふきょう の後 のち に書物 しょもつ をコルヴァイに収 おさ めた。しかもハンブルク の聖堂 せいどう 図書館 としょかん は、デンマーク人 じん によって破壊 はかい されていたため、コルヴァイの援助 えんじょ によって再建 さいけん された。900年 ねん 頃 ごろ には著述 ちょじゅつ 家 か として重要 じゅうよう な修道 しゅうどう 士 し もコルヴァイで活動 かつどう した。ザクセン史 し を記述 きじゅつ した修道 しゅうどう 士 し ヴィドゥキントもその一人 ひとり に数 かぞ えられる。利用 りよう された原典 げんてん の分析 ぶんせき は、数 すう 多 おお くの古典 こてん 期 き やキリスト教 きりすときょう の著者 ちょしゃ の作品 さくひん がコルヴァイに収蔵 しゅうぞう されていたことを示 しめ している。
その後 ご 、新 あら たな蔵書 ぞうしょ は比較的 ひかくてき 少 すく なくなった。蔵書 ぞうしょ が再 ふたた び増加 ぞうか するのは、1100年 ねん 頃 ごろ のマルクヴァルト修道 しゅうどう 院長 いんちょう による改革 かいかく 期 き である。マリエンミュンスター修道院 しゅうどういん はその創設 そうせつ 期 き にコルヴァイから書物 しょもつ を得 え た。エルケンベルク修道 しゅうどう 院長 いんちょう の下 した でもコルヴァイは一連 いちれん の作品 さくひん を得 え た。エッケハルト・フォン・アウラは編纂 へんさん した世界 せかい 年代 ねんだい 記 き をこれに献 けん じた。それにもかかわらず、図書館 としょかん は衰退 すいたい を続 つづ けた。次 つぎ に発展 はってん したのはヴィバルト・フォン・シュタブロが修道院 しゅうどういん 長 ちょう に就 つ いた1146年 ねん になってからであった。キケロの入手 にゅうしゅ しやすい著述 ちょじゅつ が収集 しゅうしゅう され、現在 げんざい ベルリンにあるコデックスに組 く み込 こ まれた。おそらくヘルマールスハウゼンで作成 さくせい された liber vitae もこの時代 じだい に収集 しゅうしゅう された。
ヴィバルトが1158年 ねん に亡 な くなった後 のち 、図書館 としょかん はかつての重要 じゅうよう 性 せい を喪失 そうしつ した。確 たし かに新 あたら しい書物 しょもつ は追加 ついか されていったが、他方 たほう では数 すう 多 おお くの古 ふる い書物 しょもつ が失 うしな われていった。特 とく にザクセンシュピーゲル が在庫 ざいこ を増 ふ やしていった。
タキトゥスの年代 ねんだい 記 き からトイトブルクの森 もり の戦 たたか い の部分 ぶぶん
16世紀 せいき の初 はじ めに修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん からある名高 なだか い手 て 稿 こう が盗 ぬす まれ、教皇 きょうこう レオ10世 せい の手 て に渡 わた った。この手 て 稿 こう は、おそらくフルダ修道院 しゅうどういん (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で作成 さくせい された9世紀 せいき の写本 しゃほん であり、タキトゥス の年代 ねんだい 記 き の最初 さいしょ の6巻 かん であったとい伝 いつた えられている。1515年 ねん に教皇 きょうこう レオ10世 せい はこのテキストを公刊 こうかん するために印刷 いんさつ させた。彼 かれ は、できあがった印刷物 いんさつぶつ 1部 ぶ を「補償 ほしょう 」としてコルヴァイに送 おく り、修道院 しゅうどういん に「持続 じぞく 的 てき な免 めん 償 つぐなえ 」を確約 かくやく した[28] 。今日 きょう まで所在 しょざい が分 わ からない手 て 稿 こう や三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう で紛失 ふんしつ した手 て 稿 こう がある中 なか 、広 ひろ く普及 ふきゅう することができたことを考 かんが えれば、この盗難 とうなん は幸運 こううん であったとも言 い える[29] 。
これ以後 いご の16世紀 せいき 中 ちゅう にブルスフェルデ修道院 しゅうどういん の蔵書 ぞうしょ がコルヴァイに移 うつ された。この頃 ころ には、学習 がくしゅう を目的 もくてき として多 おお くの学識 がくしき 者 しゃ がこの図書館 としょかん を訪 おとず れた。たとえばヘルマン・ハーメルマンは、ここを訪 おとず れたという証拠 しょうこ はないが、最 もっと もすばらしい図書館 としょかん の一 ひと つにコルヴァイを挙 あ げている。図書館 としょかん は、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の間 あいだ に大 おお きな損失 そんしつ を被 こうむ った。
マクシミリアン・フォン・ホルリヒ
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 後 ご の新 しん 修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん [ 編集 へんしゅう ]
17世紀 せいき 終 お わり頃 ころ のクリシュトフ・ベルンハルト・フォン・ガーレンが修道院 しゅうどういん 長 ちょう であった時代 じだい に、新 あたら しく多 おお くの作品 さくひん を購入 こうにゅう することができた。バロック様式 ようしき の新 しん 図書館 としょかん を創設 そうせつ した領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう マクシミリアン・フォン・ホルリヒが、この蔵書 ぞうしょ 拡充 かくじゅう を司 つかさど った。図書館 としょかん の書棚 しょだな は2段 だん 以上 いじょう に拡充 かくじゅう された。マクシミリアン・フォン・ホルリヒは修道院 しゅうどういん や貴族 きぞく の修道 しゅうどう 士 し 集会 しゅうかい の必要 ひつよう を満 み たす図書館 としょかん を開設 かいせつ した。書物 しょもつ の製本 せいほん は明色 めいしょく の革 かわ 表紙 ひょうし と羊皮紙 ようひし でなされた。その背 せ には2本 ほん の青 あお いストライプがあり、その上 うえ に本 ほん の標題 ひょうだい 、下 した に図書館 としょかん での本 ほん の置 お き場 ば 所 しょ が書 か かれていた。製本 せいほん されて持 も ち込 こ まれた本 ほん は装丁 そうてい が異 こと なっていた[18] 。
1721年 ねん にブレーメンで開 ひら かれたオークションで修道 しゅうどう 院長 いんちょう マクシミリアン・フォン・ホルリヒは、手書 てが きのメモを含 ふく む数 すう 多 おお くの本 ほん を購入 こうにゅう した。その作品 さくひん のいくつかはプレモンストラート会 かい (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) ストラホフ修道院 しゅうどういん やプラハ のイエズス会 かい 神学校 しんがっこう で作成 さくせい されたものであった。他 た の記録 きろく も、マクシミリアン修道 しゅうどう 院長 いんちょう がコルヴァイ修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん のためにしばしば図書 としょ を購入 こうにゅう したことを示 しめ している。記録 きろく は「ヘクスター で購入 こうにゅう した」ことや、「ホルツミンデン である人物 じんぶつ から購入 こうにゅう した」ことを証明 しょうめい している[18] 。
後継 こうけい 者 しゃ の修道院 しゅうどういん 長 ちょう の下 した でもコルヴァイ修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん の書籍 しょせき 購入 こうにゅう は行 おこな われた。蔵書 ぞうしょ は、1793年 ねん までに 6,000点 てん を超 こ えた。1803年 ねん のコルヴァイ図書館 としょかん の目録 もくろく の写 うつ しによって蔵書 ぞうしょ の概要 がいよう を知 し ることができる[30] 。
1803年 ねん の世俗 せぞく 化 か 後 ご 、図書館 としょかん は廃止 はいし された。その処遇 しょぐう に関 かん する交渉 こうしょう は1812年 ねん まで続 つづ けられた。しかし、一部 いちぶ はそれ以前 いぜん にすでに秘密裏 ひみつり になくなっていた。歴史 れきし 家 か パウル・ヴィガントは、1811年 ねん には期待 きたい していた書物 しょもつ の 1/4 しか残 のこ っていなかったと述 の べている。かなりの部分 ぶぶん がマールブルク 、ミュンスター 、ボン へ運 はこ び出 だ されていた。残 のこ った約 やく 2,500巻 かん は、コルヴァイ主任 しゅにん 司祭 しさい 区 く 図書館 としょかん としてヘクスターの首席 しゅせき 司祭 しさい 館 かん の図書館 としょかん に収 おさ められた。これらの書物 しょもつ は現在 げんざい 、パーダーボルンの大司教 だいしきょう アカデミー図書館 としょかん の蔵書 ぞうしょ となっている[31] 。
領主 りょうしゅ の図書館 としょかん [ 編集 へんしゅう ]
領主 りょうしゅ の図書館 としょかん
領主 りょうしゅ の図書館 としょかん はコルヴァイの第 だい 3の図書館 としょかん であるが、古 ふる い修道院 しゅうどういん 図書館 としょかん とは関係 かんけい がない。この図書館 としょかん は、修道院 しゅうどういん 外 がい の、ヘッセン=ローテンブルク方 かた 伯 はく の純粋 じゅんすい な世俗 せぞく の書籍 しょせき コレクションである。このコレクションは1825年 ねん から1833年 ねん までにローテンブルク・アン・デア・フルダ からコルヴァイに持 も ち込 こ まれた約 やく 36,000巻 かん の書籍 しょせき からなる。書籍 しょせき の内容 ないよう は、18世紀 せいき から19世紀 せいき の小説 しょうせつ 、紀行 きこう 文 ぶん 、伝記 でんき 、日記 にっき 、戯曲 ぎきょく や叙情詩 じょじょうし である[32] 。この図書館 としょかん には、15本 ほん の柱 はしら 、漆喰 しっくい 天井 てんじょう 、様々 さまざま な種類 しゅるい の木材 もくざい で作製 さくせい された200棹 さお の書棚 しょだな 、フランス製 せい のタペストリー からなる。
ヴィクトル・アマデウス公 こう は、1840年 ねん に初代 しょだい コルヴァイ侯 こう として城 しろ 館 かん と図書館 としょかん を引 ひ き継 つ いだ。彼 かれ は、アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン を司書 ししょ として雇用 こよう した。彼 かれ は1860年 ねん にコルヴァイに入 はい り、研究 けんきゅう 書 しょ 、価値 かち の高 たか い稀覯 きこう 本 ほん 、豪華 ごうか 装丁 そうてい 本 ほん を購入 こうにゅう して、残 のこ り物 もの コレクションという図書館 としょかん の悪評 あくひょう を改善 かいぜん しようと試 こころ みた。蔵書 ぞうしょ は 74,000巻 かん に増 ふ えた。
コルヴァイに建 た つアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンの記念 きねん 碑 ひ
ホフマン・フォン・ファラースレーベンは1874年 ねん 1月 がつ 19日 にち にコルヴァイで亡 な くなった。住民 じゅうみん の多 おお くが参加 さんか する中 なか 、彼 かれ は、1860年 ねん 10月 がつ 27日 にち に先立 さきだ った妻 つま イーダが眠 ねむ る修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい 近 ちか くの小 ちい さな墓 はか に埋葬 まいそう された。墓石 はかいし は名前 なまえ が刻 きざ まれた、装飾 そうしょく された簡素 かんそ な大理石 だいりせき 板 いた である。墓所 はかしょ の記念 きねん 碑 ひ は高 たか い石 いし の台座 だいざ の上 うえ に青銅 せいどう 製 せい のこの詩人 しじん の胸像 きょうぞう が載 の せられている。台座 だいざ には「Wie könnt’ ich Dein vergessen」(どうしてお前 まえ を置 お き去 ざ りにできようか)と、彼 かれ の詩 し の一節 いっせつ が刻 きざ まれている。この記念 きねん 碑 ひ は、1841年 ねん にファラースレーベンがヘルゴラント島 とう で詠 よ んだ「ドイツの歌 うた 」の70周年 しゅうねん を記念 きねん して、1911年 ねん 8月 がつ 26日 にち に除幕 じょまく された。この詩人 しじん の息子 むすこ で画家 がか のフランツ・ホフマン=ファラースレーベン(1855年 ねん – 1927年 ねん )がこの記念 きねん 碑 ひ をデザインした[33] 。
1985年 ねん から1999年 ねん にかけてパーダーボルン大学 だいがく (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の作業 さぎょう グループが重要 じゅうよう な書籍 しょせき をデジタル化 か した。これらはマイクロフィルム とデジタル・メディアに保存 ほぞん され、一般 いっぱん に閲覧 えつらん することができる。1999年 ねん からカタログがオンラインで利用 りよう できる。図書館 としょかん の管理 かんり はパーダーボルン大学 だいがく のコルヴァイ書籍 しょせき ・図書館 としょかん 史 し 研究 けんきゅう 書 しょ GmbH によって運営 うんえい されている[34] [35] 。
2007年 ねん に開始 かいし された修復 しゅうふく プロジェクトによれば2012年 ねん 6月 がつ から最後 さいご に修復 しゅうふく された図書館 としょかん の部屋 へや も一般 いっぱん 公開 こうかい される。歴史 れきし 的 てき なタペストリーの状態 じょうたい は、この部屋 へや の修復 しゅうふく の重要 じゅうよう な挑戦 ちょうせん 事項 じこう である。
コルヴァイ修道院 しゅうどういん の修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい (建築 けんちく II)の平面 へいめん 図 ず
修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の定礎 ていそ は822年 ねん に行 おこな われた。844年 ねん に長堂 ちょうどう (ドイツ語 ご 版 ばん ) (建築 けんちく I)が献 けんじ 堂 どう された。翼 つばさ 廊 ろう と内陣 ないじん (建築 けんちく II)の献 けんじ 堂 どう は867年 ねん であった。ヴェストヴェルクの建設 けんせつ は873年 ねん に始 はじ まり、885年 ねん に献 けんじ 堂 どう された。
1145年 ねん から1159年 ねん には、修道院 しゅうどういん 長 ちょう ヴィバルト・フォン・シュタブロの下 した 、ヴェストヴェルクの改造 かいぞう が行 おこな われた。中央 ちゅうおう の塔 とう の撤去 てっきょ と2つのファサード塔 とう の増築 ぞうちく がこれに含 ふく まれる。1585年 ねん から1616年 ねん に修道 しゅうどう 院長 いんちょう テオドール・フォン・ベーリングハウゼンの下 した で2回 かい 目 め の大 おお きな改築 かいちく がなされた。塔 とう の破風 はふ と屋根 やね が建設 けんせつ 、改築 かいちく された。
古 ふる い教会 きょうかい 施設 しせつ に関 かん しては、わずかな史料 しりょう しか遺 のこ されていない。外郭 がいかく 線 せん は、後 ご のバロック様式 ようしき の修道院 しゅうどういん 施設 しせつ とおおむね一致 いっち していたと考 かんが えられる。創設 そうせつ 期 き の「Translatio sancti Viti」の記述 きじゅつ によれば、この施設 しせつ は計画 けいかく 的 てき に建設 けんせつ されたと推測 すいそく される。修道院 しゅうどういん の建物 たてもの は、後世 こうせい の施設 しせつ と同様 どうよう に教会 きょうかい の北側 きたがわ にあった。ここには回廊 かいろう の遺構 いこう が見 み られる。この回廊 かいろう 周辺 しゅうへん に修道院 しゅうどういん に付属 ふぞく する残 のこ りの建物 たてもの が集 あつ まっていた。事務 じむ 棟 とう は、こうした施設 しせつ の南側 みなみがわ にあった[36] 。
17世紀 せいき から18世紀 せいき の新 しん 建築 けんちく 以前 いぜん には、この他 ほか に墓地 ぼち 、果樹 かじゅ 園 えん 、および修道院 しゅうどういん 長 ちょう の居館 きょかん 、来客 らいきゃく や病人 びょうにん のための建物 たてもの 、オフィス棟 とう などの建物 たてもの があった。同 どう 時代 じだい の人物 じんぶつ は1590年 ねん 頃 ごろ にこう書 か いている:「修道院 しゅうどういん の建物 たてもの は、一部 いちぶ は古 ふる く、一部 いちぶ は新 あたら しい。建物 たてもの はかなり数多 かずおお く、外 そと からはまるで立派 りっぱ な都市 とし のように見 み える。」[37]
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう は、カロリング朝 あさ の修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい を廃墟 はいきょ に変 か えた。ヴェストヴェルクを除 のぞ き、教会 きょうかい は1665年 ねん に取 と り壊 こわ された。新 あたら しい教会堂 きょうかいどう は1667年 ねん から1671年 ねん に建築 けんちく 家 か ニクラス・デンテルによって建設 けんせつ された。その調度 ちょうど は、オルガン (1681年 ねん 建造 けんぞう )を除 のぞ いて1675年 ねん までに完成 かんせい した。この教会堂 きょうかいどう は1681年 ねん に献 けんじ 堂 どう された。
カロリング朝 あさ の修道院 しゅうどういん 建築 けんちく は三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の間 あいだ に大 おお きく損傷 そんしょう した。新 あたら しい修道院 しゅうどういん の建設 けんせつ は、領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう フローレンツ・フォン・デム・フェルデの下 した 、1699年 ねん に始 はじ まった。領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう マクシミリアン・フォン・ホルリヒの時代 じだい 、1715年 ねん に東 ひがし 翼 つばさ が完成 かんせい した。監視 かんし 所 しょ 、住居 じゅうきょ 棟 とう 、倉庫 そうこ は、その後 ご の修道院 しゅうどういん 長 ちょう (ユストゥス・ヴェーマー、ヒルデスハイム)の時代 じだい に造 つく られた。修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい 内陣 ないじん 最奥 さいおう 部 ぶ のベネディクトゥス礼拝 れいはい 堂 どう は、1727年 ねん から造営 ぞうえい された。園 えん 亭 てい は1741年 ねん に建設 けんせつ された(パーダーボルンのフランツ・クリストフ・ナーゲルによる)。教会 きょうかい 南側 みなみがわ のマリエン礼拝 れいはい 堂 どう は、1790年 ねん まで遡 さかのぼ る。領主 りょうしゅ 司教 しきょう の時代 じだい 、1794年 ねん に本来 ほんらい の修道院 しゅうどういん 施設 しせつ の外側 そとがわ にドライツェーンリンデンハウスが建 た てられた。
1945年 ねん から1965年 ねん までの間 あいだ 、教会 きょうかい および新 しん 修道院 しゅうどういん の大 だい 規模 きぼ な改修 かいしゅう 工事 こうじ が行 おこな われた。これに伴 ともな い、1951年 ねん から1953年 ねん に教会 きょうかい の発掘 はっくつ が行 おこな われた。1945年 ねん から1961年 ねん までの間 あいだ にヴェストヴェルクの壁画 へきが の上塗 うわぬ りが剥 は がされた[38] 。1960年 ねん にカロリング朝 あさ の漆喰 しっくい 像 ぞう の痕跡 こんせき が発見 はっけん された。1974/75年 ねん にはウーヴェ・ロベダイによる教会 きょうかい の床 ゆか 部分 ぶぶん の発掘 はっくつ が続 つづ いた。1977/78年 ねん にはヴェストヴェルクの発掘 はっくつ が行 おこな われた。数 すう 年 ねん 後 ご の、1992年 ねん に、ヴェストヴェルクから酸化 さんか 鉄 てつ の赤色 あかいろ を使 つか ったカロリング朝 あさ の壁 かべ 絵 え 、いわゆる「スィノプ人 じん 」が発見 はっけん された[39] 。
コルヴァイのレイアウト図 ず 。1 城 しろ 館 かん (旧 きゅう 修道院 しゅうどういん )、2 カイザーホールを含 ふく む儀典 ぎてん の間 あいだ 、3 領主 りょうしゅ の図書館 としょかん 、4 禁 きん 域 いき の庭 にわ およびヴィートゥス礼拝 れいはい 堂 どう を含 ふく む回廊 かいろう 、5 フォアブルク、6 倉庫 そうこ 、7 門 もん 、8 北 きた 塔 とう 、9 時計 とけい 塔 とう 、10 聖 せい ステファヌスおよびヴィートゥス修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい 、11 マリエン礼拝 れいはい 堂 どう 、12 ベネディクトゥス礼拝 れいはい 堂 どう 、13 ヴェストヴェルク、14 ドライツェーンリンデン十 じゅう 字 じ 、15 茶亭 ちゃてい 、16 オフィス棟 とう の中庭 なかにわ 、17 ドライツェーンリンデンハウス
現在 げんざい のコルヴァイ城 しろ 館 かん (バロック様式 ようしき の旧 きゅう ベネディクト会 かい 修道院 しゅうどういん で、1699年 ねん から1721年 ねん に建設 けんせつ された)は、8万 まん m2 を占 し めている。バロック様式 ようしき の旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 建築 けんちく の他 ほか に、ヴェストヴェルク、修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい 、オフィス棟 とう がある。外観 がいかん は、かつてのバロック様式 ようしき の修道院 しゅうどういん 建築 けんちく と、2本 ほん の塔 とう を持 も つヴェストヴェルクの中世 ちゅうせい のファサード が併存 へいそん していることを特徴 とくちょう とする。正方形 せいほうけい の塔 とう は、施設 しせつ の角 かく の頂点 ちょうてん を際 きわ だたせている。
コルヴァイの門 もん
修道院 しゅうどういん への道 みち は石橋 いしばし を通 とお って門 もん に至 いた る。門柱 もんちゅう の前面 ぜんめん にはオリエンタル風 ふう の兵士 へいし を思 おも わせる 2体 たい の衛兵 えいへい 像 ぞう があり、内側 うちがわ には 2体 たい のランツクネヒト像 ぞう がある。門 もん の北内 ほくない 側 がわ はかつての馬車 ばしゃ 庫 こ や厩舎 きゅうしゃ (現在 げんざい は城 しろ 館 かん レストランになっている)と接 せっ している。門 もん の南 みなみ 近 ちか くには、廷臣 ていしん の宿舎 しゅくしゃ があった。門 もん から延 の びる小径 しょうけい は緑地 りょくち の中 なか を通 とお っている。緑地 りょくち の南側 みなみがわ は、三方 さんぽう を3階 かい 建 だ てのオフィス棟 とう に囲 かこ まれた中庭 なかにわ に接 せっ している。訪問 ほうもん 者 しゃ は、旧 きゅう 修道院 しゅうどういん の建物 たてもの の西 にし 正面 しょうめん (ヴェストフロント)を見 み ることになるが、その南端 なんたん は中世 ちゅうせい のヴェストヴェルクと接 せっ している。全長 ぜんちょう 112 m のヴェストフロントは、4階 かい 建 だ てで、それぞれ32列 れつ の窓 まど がある。この建物 たてもの は、2つの大 おお きな玄関 げんかん と、3つの小 ちい さな玄関 げんかん で区分 くぶん されている。旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 棟 とう の中庭 なかにわ へと続 つづ く道 みち の両側 りょうがわ には寄進 きしん 者 しゃ のカールとルートヴィヒの像 ぞう がある。
北 きた 翼 つばさ はバロック建築 けんちく の表側 おもてがわ であった。90 m の長 なが さがある正面 しょうめん は、2本 ほん の正方形 せいほうけい の塔 とう で挟 はさ まれている。中央 ちゅうおう 部 ぶ にはリザリートエプロン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (建物 たてもの 正面 しょうめん の突出 とっしゅつ 部分 ぶぶん )がある。これには巨大 きょだい な付 づけ 柱 ばしら がつけられ、三角 さんかく 破風 はふ を戴 いただ いている。北側 きたがわ 正面 しょうめん 前 まえ には濠 ほり が掘 ほ られていたが、1836年 ねん に埋 う められた。これと同 どう 時期 じき に修道院 しゅうどういん 庭園 ていえん に続 つづ いていた石橋 いしばし も破壊 はかい された。現在 げんざい は、濠 ほり の一部 いちぶ だけが遺 のこ されている。
北 きた 翼 つばさ に続 つづ く東 ひがし 翼 つばさ は、やはり 112 m の長 なが さがある。ここには2つの入口 いりくち が設 もう けられている。東 ひがし 翼 つばさ と西 にし 翼 つばさ は接続 せつぞく 翼 つばさ で結 むす ばれており、これにより2つの中庭 なかにわ が形成 けいせい されている。北側 きたがわ の中庭 なかにわ は両側 りょうがわ の通 とお り抜 ぬ け可能 かのう な入口 いりくち で開放 かいほう されている。これに対 たい して南 みなみ の中庭 なかにわ はフリートガルテン(禁 きん 域 いき の庭 にわ )であり、外 そと からの入口 いりくち はなく、この庭 にわ を取 と り囲 かこ んでいる回廊 かいろう からしか出入 でい りできない。
この南側 みなみがわ は、教会 きょうかい とヴェストヴェルクが長方形 ちょうほうけい を描 えが く形 かたち でふさいでいる。教会 きょうかい の北 きた と南 みなみ には、19世紀 せいき に設 もう けられた墓地 ぼち がある。
かつての修道院 しゅうどういん の敷地 しきち 内 ない を流 なが れるシェルペ川 かわ は、城 しろ 館 かん の西 にし 翼 つばさ の下 した を流 なが れ城 じょう 館 かん の裏手 うらて でヴェーザー川 がわ に合流 ごうりゅう する[40] 。
旧 きゅう 修道院 しゅうどういん の中庭 なかにわ
旧 きゅう 修道院 しゅうどういん の回廊 かいろう
コルヴァイのヴェストヴェルク
現存 げんそん する最 もっと も古 ふる い箇所 かしょ がヴェストヴェルクである。これは旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の西側 にしがわ 部分 ぶぶん に建 た っていた独自 どくじ の建築 けんちく 部分 ぶぶん である。カロリング朝 あさ のヴェストヴェルクは、2つのファサード塔 とう と中央 ちゅうおう に角 かく 塔 とう の、3つの塔 とう がある建物 たてもの として 9世紀 せいき に建設 けんせつ された。12世紀 せいき に 2本 ほん の塔 とう のファサードへの改造 かいぞう がなされた。異 こと なる壁 かべ から異 こと なる建築 けんちく 時期 じき が判 わか る。高 たか くそびえるヴェストヴェルクは、2本 ほん の側 がわ 塔 とう と、中央 ちゅうおう にリザリート風 ふう の張 は り出 だ しがある中央 ちゅうおう 構造 こうぞう 物 ぶつ からなる。ここには創建 そうけん 当時 とうじ の銘板 めいばん が取 と り付 つ けられている。この銘板 めいばん には以下 いか のように記 しる されている: CIVITATEM ISTAM TV CIRCVMDA DNE ET ANGELI TVI CVSTODIANT MVROS EIVS(主 おも よ、この街 まち を囲 かこ みたまえ、そして天使 てんし をその壁 かべ の守護 しゅご とならしたまえ)。
ヴェストヴェルクの創建 そうけん 時 じ の銘板 めいばん
カロリング朝 あさ に造 つく られたヴェストヴェルク下部 かぶ は、不規則 ふきそく な造 つく りの切石 きりいし の壁 かべ からなっている。この壁 かべ には、半円 はんえん アーチの窓 まど と採光 さいこう 用 よう のスリットが穿 うが たれている。中央 ちゅうおう の構造 こうぞう 部 ぶ の上 うえ に建 た つ3階 かい 建 だ ての鐘楼 しゅろう は建物 たてもの 全体 ぜんたい から際立 きわだ っている。上部 じょうぶ に一 いち 列 れつ に並 なら んだ 4つのアーチ型 がた 開口 かいこう 部 ぶ は 12世紀 せいき に造 つく られた。二 に 連 れん アーチの窓 まど を持 も つ塔 とう の上層 じょうそう 部分 ぶぶん もこの頃 ころ に建設 けんせつ された[41] 。中央 ちゅうおう 部分 ぶぶん と塔 とう の屋根 やね は 16世紀 せいき 末 まつ に建設 けんせつ された。
ヴェストヴェルク西側 にしがわ の正面 しょうめん 入口 いりくち である拝 はい 廊 ろう は、もう現存 げんそん していない。修道院 しゅうどういん 長 ちょう ハインリヒ・フォン・アッシェブロック(1617年 ねん - 1624年 ねん )によって取 と り壊 こわ された[42] 。ヴェストヴェルクは旧 きゅう 修道院 しゅうどういん とオフィス棟 とう にはさまれている。
ヴェストヴェルクの柱 はしら
3本 ほん のアーケード を通 とお り抜 ぬ けると、カロリング朝 あさ の入 い り口 くち ホールに達 たっ する。これは正方形 せいほうけい の平面 へいめん を持 も つ5廊 ろう 式 しき の空間 くうかん である。この正方形 せいほうけい の形 かたち は、正方形 せいほうけい に切 き り出 だ された柱 はしら で構成 こうせい されている。この正方形 せいほうけい の内部 ないぶ に、4本 ほん の柱 はしら によって形成 けいせい されるもう一 ひと つの正方形 せいほうけい がある。柱 はしら は、高 たか く、コリント様式 ようしき に様式 ようしき 化 か された木 こ の葉 は 模様 もよう の柱頭 ちゅうとう を持 も つ。
主 しゅ 空間 くうかん は、2つの側 がわ 廊 ろう に囲 かこ まれている。入 い り口 くち ホールの東側 ひがしがわ 部分 ぶぶん はヴェストヴェルクと教会 きょうかい の接続 せつぞく 部 ぶ である。1600年 ねん 頃 ごろ にこの空間 くうかん にヴォールト が増設 ぞうせつ された。
入 い り口 くち ホールの西 にし の角 かく にヴェストヴェルクの中心 ちゅうしん となる部屋 へや がある上 うえ 階 かい へ続 つづ く階段 かいだん がある。このヨハニスコール[43] は正方形 せいほうけい の平面 へいめん を持 も つ天井 てんじょう の高 たか い空間 くうかん で、16世紀 せいき の角材 かくざい を剥 む き出 だ しにした天井 てんじょう を持 も つ。ここは、いくつかの脇 わき 空間 くうかん や桟敷 さじき に囲 かこ まれている。さらに西側 にしがわ に大 おお きなアーチ状 じょう の開口 かいこう 部 ぶ を持 も つ桟敷 さじき ゾーンがある。カロリング時代 じだい には、中央 ちゅうおう の正方形 せいほうけい 部分 ぶぶん の上 うえ に第 だい 3の塔 とう があった。
オデュッセウスの壁画 へきが
オデュッセウスの壁画 へきが の模写 もしゃ スケッチ
イルカに乗 の る人物 じんぶつ の壁画 へきが
イルカに乗 の る人物 じんぶつ の壁画 へきが の模写 もしゃ スケッチ
すべての階 かい に、装飾 そうしょく 帯 たい 、アカンサス の蔓 づる 、幾何 きか 学 がく 的 てき 意匠 いしょう といった壁画 へきが が描 えが かれている。入 い り口 くち ホールの描画 びょうが の痕跡 こんせき は、上 うえ 階 かい に比 くら べると全体 ぜんたい 的 てき にわずかである。南 みなみ 廊 ろう の壁画 へきが は1961年 ねん に発見 はっけん された。ここには、古 ふる い壁 かべ の前 まえ にゴシック様式 ようしき のヴォールトがあり、一部 いちぶ は水 みず 漆喰 しっくい で、一部 いちぶ は彩色 さいしき された壁画 へきが が保存 ほぞん されていた。見 み られたのはやはりアカンサスのフリーズ であった。これは天井 てんじょう のすぐ下 か に壁 かべ に部屋 へや を取 と り囲 かこ んで描 えが かれていた。アカンサスの葉 は は、緑地 りょくち に斜 なな めに配置 はいち され描 えが かれた[44] 。柱 はしら はおそらく赤 あか く彩色 さいしき されていた。その痕跡 こんせき は多 おお くの柱 はしら で見 み ることができる。柱頭 ちゅうとう もやはり彩色 さいしき されていた。柱 はしら の軸 じく 部 ぶ に色 いろ の痕跡 こんせき は見 み られない。
最 もっと も豊 ゆた かに壁画 へきが で装飾 そうしょく されているのは上 うえ 階 かい の正方形 せいほうけい の間 あいだ である。直接 ちょくせつ 石材 せきざい の上 うえ に描 えが かれた絵 え と漆喰 しっくい の上 うえ に描 えが かれた絵 え に違 ちが いがあることがわかる。ただし、漆喰 しっくい は大 おお きく損傷 そんしょう している。柱 はしら は赤 あか に塗 ぬ られていた。基部 きぶ や柱頭 ちゅうとう にその痕跡 こんせき が遺 のこ されている。これにより、バラ色 ばらいろ から黄色 おうしょく 、赤 あか 、緑 みどり 、青 あお といった多彩 たさい な色 いろ が用 もち いられていたことが分 わ かる。アーケードのアーチには赤 あか と黄色 おうしょく のストライプで縁 えん 取 と られていた。アーチの内側 うちがわ 面 めん には植物 しょくぶつ 文様 もんよう の装飾 そうしょく が描 えが かれていた[45] 。
桟敷 さじき 部分 ぶぶん は、何 なに 世紀 せいき にもわたって塗 ぬ り壁 かべ で封 ふう じ込 こ められていたため、壁画 へきが の大 おお きな遺構 いこう が保存 ほぞん されている。内側 うちがわ は、水 みず 漆喰 しっくい を塗 ぬ った地 ち の上 うえ に彩色 さいしき された柱 はしら がある。アーチの内側 うちがわ 面 めん はもっぱら幾何 きか 学 がく 模様 もよう で装飾 そうしょく されている。桟敷 さじき の開口 かいこう 部 ぶ 下部 かぶ には縁 えん 飾 かざ りを描 えが いた跡 あと が遺 のこ っている[46] 。
上 うえ 階 かい 西 にし の部屋 へや には、彩色 さいしき の跡 あと があるカロリング朝 あさ のヴォールトが保存 ほぞん されている。この西 にし の部屋 へや の北側 きたがわ には、いくつかの絵 え の断片 だんぺん が見 み られる。その絵 え はギリシア神話 しんわ の場面 ばめん を題材 だいざい としている。海 うみ の怪物 かいぶつ スキュラ と戦 たたか うオデュッセウス である。スキュラは人間 にんげん の上半身 じょうはんしん に海獣 かいじゅう の尾 お 部 ぶ という姿 すがた で描 えが かれている。頭部 とうぶ は遺 のこ っていない。尻 しり のあたりに2頭 とう のイヌの頭 あたま が見 み える。左腕 さわん は人間 にんげん の姿 すがた で描 えが かれており、頭 あたま と上半身 じょうはんしん を識別 しきべつ することができる。オデュッセウスは蛇 へび の尻尾 しっぽ の横 よこ に体 からだ を軽 かる くひねった姿勢 しせい で立 た ち、スキュラの方 ほう を向 む いている。オデュッセウスも上半身 じょうはんしん と頭部 とうぶ は遺 のこ されていない。彼 かれ は腰布 こしぬの を巻 ま いている。右手 みぎて に槍 やり を持 も っており、それをイヌの口 くち に突 つ き刺 さ している。
この神話 しんわ を題材 だいざい にした絵画 かいが は、キリスト教 きょう と関連 かんれん して解釈 かいしゃく されなくてはならない[47] 。初期 しょき キリスト教 きりすときょう の教父 きょうふ たちは、古典 こてん 的 てき な神話 しんわ 的 てき 素材 そざい を受 う け継 つ ぎ、キリスト教 きょう 的 てき 世界 せかい 観 かん に移 うつ し換 か えた。オデュッセウスは、信仰 しんこう を通 とお して罪深 つみぶか い現世 げんせい の苦難 くなん を克服 こくふく する力 ちから を得 え た有徳 うとく のキリスト教徒 きりすときょうと を具現 ぐげん 化 か している。スキュラとその他 た の海 うみ の怪物 かいぶつ は汚 よご れた世界 せかい の誘惑 ゆうわく を表 あらわ している。この古典 こてん 的 てき な神話 しんわ のキリスト教 きりすときょう 的 てき 解釈 かいしゃく 転換 てんかん は、現存 げんそん する最 もっと も古 ふる い例 れい である。オデュッセウスは、槍 やり で悪魔 あくま の竜 りゅう にとどめを刺 さ す大 だい 天使 てんし ミカエル と類似 るいじ している。
その右 みぎ の断片 だんぺん には、ハープ のような楽器 がっき を持 も った髪 かみ の長 なが いセイレーン が描 えが かれている。その他 た の海 うみ の怪物 かいぶつ や想像 そうぞう 上 じょう の動物 どうぶつ は、かろうじて判別 はんべつ できる程度 ていど である。上述 じょうじゅつ の壁画 へきが の下 した には赤 あか っぽいフリーズが描 えが かれている。西 にし の外壁 がいへき には彫刻 ちょうこく された柱 はしら の戦士 せんし とともに、壁 かべ にフリーズが施 ほどこ されている。
北 きた のアーケードの南脇 みなみわき にイルカ に乗 の った人物 じんぶつ がある[48] 。この絵 え は上向 うわむ きのアカンサスによる縁 えん 飾 かざ りの間 あいだ のヴォールト面 めん に描 えが かれている。乗 の り手 て の頭 あたま や肩 かた は消 き えている。尾 お びれの終 お わりも判別 はんべつ できない。乗 の り手 て は左手 ひだりて をイルカの背 せ に当 あ てて体 からだ を支 ささ えている。右手 みぎて は、軽 かる く曲 ま げて前方 ぜんぽう に突 つ き出 だ している。
コルヴァイの建築 けんちく 研究 けんきゅう 者 しゃ は、1960年 ねん に、正方形 せいほうけい の間 あいだ の床下 ゆかした のゴミを調査 ちょうさ する中 なか で、漆喰 しっくい の塑像 そぞう 断片 だんぺん を発見 はっけん した。これらは、当初 とうしょ は整理 せいり がなされなかった。南東 なんとう の中 なか 間 あいだ 柱 ばしら の上 うえ にあるカロリング朝 あさ の壁 かべ の発掘 はっくつ 後 ご の1992年 ねん になってやっとオキシドロート(鉄 てつ 錆 さび のようなオレンジがかった赤 あか )の彩色 さいしき が表 ひょう に出 で た。赤 あか い線 せん が完全 かんぜん に露出 ろしゅつ するとチュニック とクラミス (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) をまとった等身 とうしん 大 だい の人物 じんぶつ が描 えが かれていた。この赤 あか い下絵 したえ は「ジノピー」と名付 なづ けられた。さらなる研究 けんきゅう により、他 た の中 なか 間 あいだ 柱 ばしら の上 うえ にも下絵 したえ が描 えが かれていたことが判明 はんめい した。
同 おな じ時期 じき に、ジノピー付近 ふきん にオーク材 ざい のくさび が見 み つかった。このくさびは、壁 かべ の隙間 すきま に打 う ち込 こ まれていた。さらに石膏 せっこう を含 ふく んだ素材 そざい の痕跡 こんせき も発見 はっけん された。これにより、ジノピーは漆喰 しっくい 像 ぞう の下絵 したえ として用 もち いられていたことが示 しめ された。壁 かべ のオーク材 ざい のくさびはこの等身 とうしん 大 だい の漆喰 しっくい 像 ぞう を固定 こてい するものであった。こうした仮説 かせつ を検証 けんしょう するために先 さき の漆喰 しっくい 断片 だんぺん が役立 やくだ った。この断片 だんぺん は、壁 かべ の隙間 すきま の跡 あと や2つのくさびの位置 いち から元 もと の場所 ばしょ に戻 もど された。漆喰 しっくい はグループごとに配置 はいち された。断片 だんぺん には7箇所 かしょ の置 お き場 ば 所 しょ があったことがわかっている[49] 。
この像 ぞう は、おそらく、2人 ふたり の女性 じょせい と 4人 にん の男性 だんせい であったと推測 すいそく される。女性 じょせい は長 なが いチュニックとスカーフ風 ふう の頭巾 ずきん を身 み につけている。アトリビュート や銘文 めいぶん が失 うしな われているため、この像 ぞう が何 なに を表 あらわ しているものか精確 せいかく には分 わ からない。
旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい [ 編集 へんしゅう ]
コルヴァイ修道院 しゅうどういん の内部 ないぶ 。前方 ぜんぽう 左 ひだり の祭壇 さいだん がマリア祭壇 さいだん 、右 みぎ の祭壇 さいだん 画 が ヨーゼフ祭壇 さいだん
元々 もともと の修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい は、幅 はば の狭 せま い側 がわ 廊 ろう を持 も つ三 さん 廊 ろう 式 しき の長堂 ちょうどう であった。堂 どう の中央 ちゅうおう 部 ぶ にアーケードの開口 かいこう 部 ぶ があったのだが、詳細 しょうさい は分 わ かっていない。長堂 ちょうどう は、東側 ひがしがわ は、おおむね正方形 せいほうけい のクワイヤ に接続 せつぞく していた。アプス の工事 こうじ を含 ふく むわずかな改築 かいちく がクワイヤの東 ひがし で行 おこな われた。クワイヤの下 した には地下 ちか 聖堂 せいどう があった。完成 かんせい 直後 ちょくご 、ヴェストヴェルクの建設 けんせつ 前 まえ に、この建築 けんちく I は、いわゆる建築 けんちく II に改築 かいちく された。東部 とうぶ にはめ込 こ まれた長方形 ちょうほうけい のクワイヤと半円 はんえん 形 がた のアプスはこの工事 こうじ によるものである。この頃 ころ に、内陣 ないじん 周囲 しゅうい の周 しゅう 歩廊 ほろう と外部 がいぶ 地下 ちか 聖堂 せいどう が設 もう けられた。さらに東 ひがし に向 む かって延 の びる2本 ほん の地下道 ちかどう と、東側 ひがしがわ の十字 じゅうじ 型 がた の礼拝 れいはい 堂 どう も造 つく られた。内陣 ないじん の横 よこ 腕 うで は全体 ぜんたい 的 てき に拡張 かくちょう された。
1667年 ねん 以後 いご に建設 けんせつ された聖 せい ステファヌスおよびヴィートゥス教会 きょうかい は、ゴシック様式 ようしき のホール式 しき 教会 きょうかい である。東側 ひがしがわ には、小 ちい さな増築 ぞうちく 部分 ぶぶん のベネディクトゥス礼拝 れいはい 堂 どう がある。教会 きょうかい の窓 まど は背 せ の高 たか い尖 とんが 頭 あたま アーチ窓 まど である。この教会 きょうかい はせり持 も ちのない交差 こうさ リブヴォールトで構成 こうせい されている。
コルヴァイの旧 きゅう 修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい の大 だい 祭壇 さいだん
バロック時代 じだい の豊 ゆた かなインテリアは、ゴシック様式 ようしき 化 か された簡素 かんそ な建築 けんちく 本体 ほんたい と好 こう 対照 たいしょう をなしている。主 しゅ 祭壇 さいだん に対 たい する装飾 そうしょく は、徐々 じょじょ にエスカレートしていったことが分 わ かる。祭壇 さいだん 室 しつ と会衆 かいしゅう 室 しつ は、聖体 せいたい 拝領 はいりょう 台 だい で分 わ けられているだけである。ブラーケル 出身 しゅっしん のパーダーボルンの宮廷 きゅうてい 画家 がか ヨハン・ゲオルク・ルドルフィがこのインテリアをデザインした。内装 ないそう 工事 こうじ や彫刻 ちょうこく 制作 せいさく はアッテンドルン 出身 しゅっしん のヨハン・ザッセが、金 かね 細工 ざいく や壁画 へきが はベックム 出身 しゅっしん のアントン・シュピルトホーフェンが行 おこな った。後 ご の壁 かべ には、2人 ふたり の主要 しゅよう な守護 しゅご 聖人 せいじん である聖 せい ステファヌスと聖 きよし ヴィートゥスの像 ぞう を祀 まつ る祭壇 さいだん がある。この2体 たい の像 ぞう はそれぞれ植物 しょくぶつ の蔓 づる を表現 ひょうげん する螺旋 らせん 装飾 そうしょく の柱 はしら の間 あいだ にある。装飾 そうしょく のない柱 はしら は、重 おも いエンタブラチュア を支 ささ えており、その上部 じょうぶ には三位一体 さんみいったい を表現 ひょうげん したメダイヨン (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が掲 かか げられている。
創始 そうし 者 しゃ のカールとルートヴィヒの像 ぞう は完全 かんぜん に外 そと に建 た っている。大 だい 祭壇 さいだん には、教会 きょうかい 暦 れき に対応 たいおう する「キリスト生誕 せいたん 」、「磔刑 たっけい 」「聖霊 せいれい 降臨 こうりん の奇蹟 きせき 」「マリアの被 ひ 昇天 しょうてん 」の4つの絵 え がある。描 えが いたのは、ヒエロニムス・ジースとブラウンシュヴァイク 出身 しゅっしん のトビーアス・クヴェールフルトであると証明 しょうめい されている[50] 。
脇 わき 祭壇 さいだん の2つの絵 え は、ヨハン・ゲオルク・ルドルフィによるものである。北 きた のマリア祭壇 さいだん には受胎 じゅたい 告知 こくち 、南 みなみ のヨーゼフ祭壇 さいだん には磔刑 たっけい が描 えが かれている。この2つの祭壇 さいだん は、1676年 ねん にパーダーボルンの領主 りょうしゅ 司教 しきょう フェルディナント・フォン・フュルステンベルク(1626年 ねん – 1683年 ねん )によって寄進 きしん された。北 きた の祭壇 さいだん を聖 せい アウグスティヌス (または聖 せい リボリウス(ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) )と聖 せい ステファヌスの木像 もくぞう が囲 かこ んでいる。南 みなみ の祭壇 さいだん は、完全 かんぜん 武装 ぶそう したメルクリウス が傍 かたわ らに立 た つ。他 た の面 めん には、自分 じぶん の頭 あたま を手 て に持 も つユスティノス が立 た つ。脇 わき 祭壇 さいだん の裏 うら には、回転 かいてん 可能 かのう な聖書 せいしょ 台 だい を持 も つ2列 れつ の参事 さんじ 会員 かいいん 席 せき が並 なら ぶ。参事 さんじ 会員 かいいん 席 せき の裏 うら の壁 かべ には、コルヴァイの歴史 れきし に関連 かんれん した木像 もくぞう が飾 かざ られている。
聖 せい ヴィートゥスのモニュメント
クワイヤの対称 たいしょう 的 てき な配置 はいち は、教会 きょうかい 内 ない の講壇 こうだん や聖 せい ヴィートゥスのモニュメントとの対比 たいひ でより強調 きょうちょう されている。このモニュメントは、聖人 せいじん の脚 あし をなめる獅子 しし 、ワシ 、シュロ の枝 えだ 、本 ほん といった典型 てんけい 的 てき なアトリビュート[51] を備 そな えた聖 せい ヴィートゥスの像 ぞう である。教会 きょうかい の空間 くうかん は、広 ひろ い祝祭 しゅくさい ホールとして認識 にんしき され、会衆 かいしゅう は、聖職 せいしょく 者 しゃ 席 せき と一般 いっぱん 席 せき とが切 き り離 はな されていない一体 いったい 空間 くうかん を体感 たいかん する[52] 。
卓越 たくえつ した芸術 げいじゅつ 的 てき 品質 ひんしつ を有 ゆう するのが、内陣 ないじん にある領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう クリストフ・フォン・ベリングハウゼン、フローレンツ・ゴン・デム・フェルデ、マクシミリアン・フォン・ホルリヒ、カール・フォン・ビッタースドルフの 4つのアラバスター 製 せい のエピタフ である。最初 さいしょ の 3基 き はギールスハーゲンの彫刻 ちょうこく 家 か ハインリヒ・パーペンの作品 さくひん である。カール・フォン・ビッタースドルフのエピタフは彫刻 ちょうこく 家 か ヨハネス・ポルマンによって製作 せいさく された。やはりパーペンの手 て によるものとしては、聖 せい ステファヌスと聖 きよし ヴィートゥスの聖 せい 遺物 いぶつ 箱 ばこ があり、おそらくは告解 こっかい 席 せき もそうである[53] 。
修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい のオルガン は、ヘクスターのアンドレアス・シュナイダーによって1681年 ねん に建造 けんぞう された。1718年 ねん には、かつてアルプ・シュニットガー の弟子 でし であったヨハン・マティアス・ナウマンによってリュックポシティブ部分 ぶぶん (演奏 えんそう 台 だい の背後 はいご に配置 はいち されている部分 ぶぶん )が拡充 かくじゅう された。コールオルガン(内陣 ないじん で使 つか われる小型 こがた のオルガン)は、1822年 ねん に新 あたら しいカトリック教会 きょうかい の主 しゅ オルガンとしてアーメルンクセンで建造 けんぞう された。この楽器 がっき は19世紀 せいき に何 なん 度 ど も改造 かいぞう された。風 ふう 函 はこ 機構 きこう がシュプリングラデンから一部 いちぶ がシュライフラーデン (cf. Windlade ) に置 お き換 か えられ、グロッケンシュピール が取 と り付 つ けられた。このオルガンは最終 さいしゅう 的 てき には1994年 ねん にオットーベルゲンのオルガン製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ ザウアーによって良好 りょうこう な状態 じょうたい に整備 せいび された。新 あら たに大 だい 規模 きぼ な修復 しゅうふく が計画 けいかく されている[54] 。この楽器 がっき は、2段 だん の鍵盤 けんばん とペダルで 32のストップ を有 ゆう している[55] 。
ヴェストヴェルクの中 なか 間 あいだ 部分 ぶぶん には、4つの世紀 せいき に製造 せいぞう された 4つの鐘 かね が吊 つ り下 さ げられている。最 もっと も古 ふる く、最 もっと も大 おお きな鐘 かね が、1584年 ねん にヘルマン・ボックとハンス・フォーゲルマンによって鋳造 ちゅうぞう された「カンタボーナ」である。三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の終結 しゅうけつ 後 ご 、保存 ほぞん されていた「カンタボーナ」を基 もと に鐘 かね の音 おと を新 あら たに創 つく り出 だ そうと、何 なに 世紀 せいき にもわたって再建 さいけん が行 おこな われた。参事 さんじ 会 かい は、「カンタボーナ」の歴史 れきし 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい を鑑 かんが みて、かつてロートリンゲン を遍歴 へんれき した鋳造 ちゅうぞう 家 か でシュタインハイム に住 す んでいたクラウディウス・ブリコンに 2番目 ばんめ に大 おお きな鐘 かね の製作 せいさく を依頼 いらい した[56] 。
No.
名称 めいしょう
鋳造 ちゅうぞう 年 ねん
鋳造 ちゅうぞう 者 しゃ 、鋳造 ちゅうぞう 場所 ばしょ
直径 ちょっけい (mm)
重量 じゅうりょう (kg、概算 がいさん )
音階 おんかい [表 ひょう 注 ちゅう 1]
1
カンタボーナ(聖 せい ヴィートゥス)
1584年 ねん
ヘルマン・ボック、ハンス・フォーゲルマン
1266
1,500
f1 +5
2
ベネディクトゥス
1683年 ねん
クラウディウス・ブリコン、シュタインハイム
995
600
fis1 ±0
3
マリア、アンスガー、レムベルトゥス、アーデルハルト
1782年 ねん
グレーヴェ鋳造 ちゅうぞう 所 しょ 、メシェデ
867
380
a1 +4.5
4
聖 せい ヨーゼフ
20世紀 せいき 前半 ぜんはん
フンペルト社 しゃ (?)
602
130
e2 ±0
^ 音 おと 名 めい の後 のち の数値 すうち は、音 おと 名 めい からのズレを半音 はんおん を16等分 とうぶん した数値 すうち で表 あらわ している。
旧 きゅう 修道院 しゅうどういん の内部 ないぶ [ 編集 へんしゅう ]
修道院 しゅうどういん 長 ちょう のギャラリー[ 編集 へんしゅう ]
修道院 しゅうどういん 長 ちょう のギャラリーは、修道院 しゅうどういん 東 ひがし 翼 つばさ の 2階 かい にある。ここはかつて修道 しゅうどう 士 し の居住 きょじゅう 区域 くいき であった。狭 せま い間隔 かんかく で並 なら んだ扉 とびら から、現在 げんざい もそのことが判 わか る。この名前 なまえ は、壁 かべ に 65枚 まい の修道院 しゅうどういん 長 ちょう の肖像 しょうぞう 画 が が掲 かか げられていることに由来 ゆらい する。最後 さいご の数 すう 人 にん の修道院 しゅうどういん 長 ちょう だけが実在 じつざい 人物 じんぶつ の写生 しゃせい で、他 た は画家 がか による想像 そうぞう 図 ず である。これらは、領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう フローレンツ・フォン・デム・フェルデの注文 ちゅうもん によるもので、ブラウンシュヴァイクの画家 がか トビーアス・クヴェールフルトが1714年 ねん に完成 かんせい させた。最後 さいご の 2枚 まい は後 のち に追加 ついか されたものである。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご の修道院 しゅうどういん の復興 ふっこう は、クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガーレンによって始 はじ まった。フォン・ガーレンとその後継 こうけい 者 しゃ であるクリストフ・フォン・ベリングハウゼンの下 した 、修道院 しゅうどういん 教会 きょうかい が再建 さいけん された。フローレンツ・フォン・フェルデは修道院 しゅうどういん の建物 たてもの 再建 さいけん の礎石 そせき を据 す え、その後継 こうけい 者 しゃ マクシミリアン・フォン・ホルリヒがこれを完成 かんせい させた。最後 さいご の 2人 ふたり の領主 りょうしゅ 司教 しきょう の肖像 しょうぞう は、領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう のテオドール・フォン・ブラーベックとフェルディナント・フォン・リュニンクである[57] 。
修道院 しゅうどういん 長 ちょう のギャラリーに接 せっ するスペースは、現在 げんざい 一部 いちぶ が展示 てんじ スペースとして用 もち いられている。見所 みどころ は、展示 てんじ 品 ひん と、バロック時代 じだい の祭式 さいしき 装飾 そうしょく (ドイツ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 一式 いっしき である。さらにヴィートゥスの棺 かん 、パレードの際 さい に運 はこ ばれる聖 せい ステファヌスとヴィートゥスの胸像 きょうぞう がある。東 ひがし 翼 つばさ の他 ほか のスペースには、ヘクスター=コルヴァイ文化 ぶんか クライスのオフィスやラティボールの運営 うんえい 部門 ぶもん がある。
バロックザールとギャラリーのある角 かく の廊下 ろうか 、オルガンの廊下 ろうか [ 編集 へんしゅう ]
角 かく の廊下 ろうか
角 かく の廊下 ろうか は、東 ひがし の修道 しゅうどう 士 し の居住 きょじゅう 区域 くいき と西 にし の修道院 しゅうどういん 長 ちょう の区画 くかく とを結 むす ぶ連絡 れんらく 通路 つうろ である。この名称 めいしょう は、掲 かか げられたハンティング・トロフィー(狩猟 しゅりょう で得 え たシカの頭部 とうぶ )に由来 ゆらい しており、19世紀 せいき 後半 こうはん に公家 くげ の家族 かぞく によって設 もう けられた。壁 かべ は、侯 ほう のサロンや図書館 としょかん のビーダーマイアー様式 ようしき に合 あ わせて大理石 だいりせき 風 ふう に彩色 さいしき され、歴史 れきし 主義 しゅぎ 様式 ようしき の燭台 しょくだい が壁 かべ に取 と り付 つ けられている。
角 かく の廊下 ろうか には、ギャラリー、小 しょう 部屋 へや 、バロックザールが接 せっ している。ギャラリーには、再興 さいこう 後 ご 新 あら たに再 さい 構成 こうせい された図書館 としょかん が入 はい っている。図書館 としょかん は上 うえ 階 かい のギャラリーにもおよんでいる。どちらの階 かい にもバロック様式 ようしき の書棚 しょだな が設 しつら えられている。現在 げんざい このスペースは、入 い れ替 か え展示 てんじ の展示 てんじ 室 しつ として利用 りよう されている。
角 かく の廊下 ろうか から、元々 もともと は彩色 さいしき されていたオルガンの廊下 ろうか に出 で る[58] 。この廊下 ろうか は、ヴェストヴェルクの上 うえ 階 かい や領主 りょうしゅ のサロンに至 いた る。壁 かべ には、2007/08年 ねん にコルヴァイとその周辺 しゅうへん で撮影 さつえい されたペーター・クナウプの写真 しゃしん が掲 かか げられている。
青 あお のサロン
領主 りょうしゅ のサロンは西 にし 翼 つばさ にある。最後 さいご のコルヴァイ領主 りょうしゅ 司教 しきょう フェルディナント・フォン・リュニンクは、亡 な くなるまで居住 きょじゅう する権利 けんり を有 ゆう しており、北 きた 翼 つばさ に住 す んでいた。そこでヴィクトール・アマデウス方 かた 伯 はく は、西 にし 翼 つばさ の、かつての修道院 しゅうどういん 長 ちょう の絵画 かいが ギャラリーを居館 きょかん に設 しつら えた。家具 かぐ は後期 こうき 古典 こてん 主義 しゅぎ 様式 ようしき およびビーダーマイアー様式 ようしき である。
青 あお のサロンだけは、現在 げんざい もフランスの工場 こうじょう で製造 せいぞう されたオリジナルの壁紙 かべがみ を使用 しよう している。これは19世紀 せいき の初 はじ めに製造 せいぞう されたものである。豪華 ごうか な緞子 どんす 、ダマスク織 お 、絹織物 きぬおりもの を模 も して、飾 かざ り付 づ けをして襞 ひだ をつけたような模様 もよう は、壁紙 かべがみ の人気 にんき のモチーフであった。青 あお のサロンの壁紙 かべがみ は、3つの部分 ぶぶん からなる。下 した の縁 えん は、僧院 そういん の女 おんな 召使 めしつか いと果物 くだもの 籠 かご が交互 こうご に描 えが かれたアンティークなモチーフである。中央 ちゅうおう 部分 ぶぶん は青 あお と白 しろ のストライプの絹織物 きぬおりもの を模 も したイミテーションである。これが上 うえ の縁取 へりと りで囲 かこ まれている[59] 。
1950年代 ねんだい までこの区域 くいき は方 かた 伯 はく の家族 かぞく が私邸 してい として使用 しよう していた。現在 げんざい は、見学 けんがく 客 きゃく が立 た ち入 い ることができる。
カイザーザール
同 おな じ西 にし 翼 つばさ にカイザーザール(皇帝 こうてい ホール)がある。このホールは翼 つばさ 廊 ろう 全域 ぜんいき に及 およ ぶ。この広 ひろ く明 あか るい部屋 へや は、修道院 しゅうどういん 長 ちょう の儀礼 ぎれい の間 あいだ として利用 りよう された。ここでは、帝国 ていこく 諸侯 しょこう として高位 こうい の人物 じんぶつ と面会 めんかい した。カイザーザールは 19世紀 せいき に改造 かいぞう され、現在 げんざい のバロック様式 ようしき の調度 ちょうど が設 しつら えられた。名称 めいしょう は、この調度 ちょうど に由来 ゆらい する。壁 かべ には、皇帝 こうてい や女王 じょおう の 20枚 まい の肖像 しょうぞう 画 が が掲 かか げられている。両 りょう 正面 しょうめん はカール大帝 たいてい とルートヴィヒ敬虔 けいけん 王 おう の全身 ぜんしん 肖像 しょうぞう 画 が である。これを、コルヴァイに特 とく に関 かか わりがあった皇帝 こうてい や女王 じょおう のメダイヨンが囲 かこ んでいる。
天井 てんじょう には、新約 しんやく 聖書 せいしょ のカナの婚 こん 宴 えん を描 えが いた大 おお きなメダイヨンが見 み られる。歓待 かんたい というテーマは、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の「父 ちち と兄弟 きょうだい をもてなすヨーゼフ 」、「3人 にん の天使 てんし をもてなすアブラハム 」、「ダビデ とアビガイル 」、「泉 いずみ のリベカ 」といった場面 ばめん を描 えが いた小 ちい さなメダイヨンにも共通 きょうつう している。これらの聖書 せいしょ の場面 ばめん を描 えが いた画家 がか は判 わか っていない。
壁 かべ や天井 てんじょう の化粧 けしょう 漆喰 しっくい 細工 ざいく はおそらくイタリアの芸術 げいじゅつ 家 か ジャコモ・ペリネッティによるものである。彼 かれ はそれ以前 いぜん はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公 こう アントン・ウルリヒ に仕 つか えていた。アントン・ウルリヒは、修道院 しゅうどういん 長 ちょう フローレンツ・フォン・デム・フェルデと親交 しんこう があり、この芸術 げいじゅつ 家 か を使 つか えるように計 はか らった。ヴォルフェンビュッテル城 じょう やコルヴァイの化粧 けしょう 漆喰 しっくい 細工 ざいく は様式 ようしき 上 じょう の類似 るいじ 性 せい を示 しめ している[60] 。
カイザーザールは現在 げんざい 、コンサートホールおよびその他 た の文化 ぶんか イベントに利用 りよう されている。たとえば朗読 ろうどく 会 かい 、展示 てんじ 会 かい や講演 こうえん 会 かい などである。
ゾンマーザールの天井 てんじょう 画 が
ゾンマーザール(夏 なつ のホール)は北 きた 翼 つばさ にあり、やはり2つの階 かい にまたがっている。このホールはカイザーザールよりも小 ちい さいが、やはり領主 りょうしゅ 修道 しゅうどう 院長 いんちょう の謁見 えっけん の間 あいだ として用 もち いられた。ゾンマーザールの裏 うら にはバロック様式 ようしき の階段 かいだん 室 しつ があり、訪問 ほうもん 者 しゃ はこれを通 とお って修道院 しゅうどういん に入 はい ることができた。ゾンマーザールは、かつての修道院 しゅうどういん 長 ちょう の居室 きょしつ に隣接 りんせつ していた。現在 げんざい 、この居室 きょしつ は図書館 としょかん となっており、ゾンマーザールは展示 てんじ 室 しつ として使 つか われている。図書館 としょかん の所蔵 しょぞう 品 ひん から毎年 まいとし 入 い れ替 か えられる展示 てんじ 品 ひん はここに陳列 ちんれつ される。
ゾンマーザールには、価値 かち の高 たか い装飾 そうしょく 天井 てんじょう がある。天井 てんじょう 画 が には、皇帝 こうてい ハインリヒ2世 せい の皇后 こうごう クニグンデ の火 ひ の試練 しれん が描 えが かれている。不貞 ふてい の疑 うたが いを掛 か けられた皇后 こうごう クニグンデは、裸足 はだし で焼 や けた炭 すみ の上 うえ を歩 ある いた。彼女 かのじょ は皇帝 こうてい の目 め の前 まえ でこの火 ひ の試練 しれん を行 おこな った。ハインリヒ2世 せい はコルヴァイと親密 しんみつ な関係 かんけい にあった[36] 。彼 かれ はコルヴァイで何 なん 度 ど も諸侯 しょこう 会議 かいぎ を行 おこな った。
天井 てんじょう の横 よこ から切 き り込 こ みアーチが壁 かべ に移行 いこう して行 い く。ルネット には青 あお - 白 しろ のグリザイユ が描 えが かれている。この絵画 かいが は、コルヴァイの宮廷 きゅうてい 画家 がか フェルディナント・ルートヴィヒ・バールチャーにより制作 せいさく された[61] 。
グリム兄弟 きょうだい 『ドイツ伝説 でんせつ 集 しゅう 』第 だい 1巻 かん 、第 だい 264話 わ 「コルヴァイ修道院 しゅうどういん の百 ひゃく 合 ごう 」(Die Lilie im Kloster zu Corvey)には以下 いか の話 はなし がある。修道 しゅうどう 士 し の誰 だれ かの死期 しき が3日 にち 後 ご に迫 せま ると、聖堂 せいどう 内陣 ないじん に吊 つ るしてある青銅 せいどう の花輪 はなわ の一本 いっぽん のユリ(Eine Lilie an einem ehernen Kranze, der im Chor hing)が当該 とうがい の修道 しゅうどう 士 し の座席 ざせき に現 あらわ れた。この奇蹟 きせき は数 すう 百 ひゃく 年 ねん 続 つづ いたが、あるとき若 わか い修道 しゅうどう 士 し がそのような予告 よこく を受 う けた際 さい に、死 し は若者 わかもの よりも老人 ろうじん にふさわしいと考 かんが え、ユリを年老 としお いた聖職 せいしょく 者 しゃ の席 せき に移 うつ した。老人 ろうじん は病気 びょうき にはなったが、程 ほど なくして回復 かいふく した。若者 わかもの は3日 にち 目 め に死 し んだと[62] 。
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これらの文献 ぶんけん は、翻訳 ほんやく 元 もと であるドイツ語 ご 版 ばん の参考 さんこう 文献 ぶんけん として挙 あ げられていたものであり、日本語 にほんご 版 ばん 作成 さくせい に際 さい し直接 ちょくせつ 参照 さんしょう してはおりません。
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