ナバラ州 しゅう (ナバラしゅう、スペイン語 ご : Navarra )またはナファロア州 しゅう (ナファロアしゅう、バスク語 ご : Nafarroa )は、スペイン の自治 じち 州 しゅう である。一 いち 県 けん 一州 いっしゅう の自治 じち 州 しゅう であり、ナバラ県 けん 単独 たんどく で構成 こうせい される。州都 しゅうと はパンプローナ 。スペイン語 ご では第 だい 2音節 おんせつ にアクセントがあるため、ナバーラ州 しゅう とも表記 ひょうき される。
中世 ちゅうせい のこの地域 ちいき にはナバラ王国 おうこく が存在 そんざい し、スペイン帝国 ていこく に併合 へいごう された後 のち も副 ふく 王 おう 領 りょう として一定 いってい の自治 じち 権 けん を得 え ていた。歴史 れきし 的 てき にはバスク地方 ちほう の一部 いちぶ ではあるものの、フランコ体制 たいせい 後 ご の民政 みんせい 移管 いかん 期 き (英語 えいご 版 ばん ) (1975-1982)にはバスク州 しゅう への合流 ごうりゅう を望 のぞ まず、1982年 ねん にナバラ県 けん 単独 たんどく でナバラ州 しゅう が発足 ほっそく した。歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい が考慮 こうりょ されて大 おお きな自治 じち 権 けん を得 え ており、スペインの全 ぜん 17自治 じち 州 しゅう のうち課税 かぜい 自主権 じしゅけん が認 みと められているのはナバラ州 しゅう とバスク州 しゅう のみである。国家 こっか 公用 こうよう 語 ご であるスペイン語 ご に加 くわ えて、一部 いちぶ 地域 ちいき では地域 ちいき 言語 げんご のバスク語 ご も公用 こうよう 語 ご に指定 してい されている。
正式 せいしき 名称 めいしょう (スペイン語 ご : Comunidad Foral de Navarra , [komuniˈðað foˈɾal de naˈβ べーた ara] : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ, バスク語 ご : Nafarroako Foru Komunitatea , [nafaroako foɾu komunitatea] : ナファロアコ・フォル・コムニタテア)は「ナバラ特権 とっけん 州 しゅう 」の意味 いみ を持 も ち、特権 とっけん (フエロ )とはかつてカスティーリャ王国 おうこく が各 かく 地域 ちいき に認 みと めていた地域 ちいき 特別 とくべつ 法 ほう のことである。英語 えいご やフランス語 ふらんすご ではNavarre(、ナヴァール)。ナバラとはバスク語 ご で「森 もり 」または「オーク の林 はやし 」[1] 、「山々 やまやま に囲 かこ まれた平原 へいげん 」という意味 いみ である。
ナバラ州 しゅう の地勢 ちせい
北西 ほくせい はバスク州 しゅう のアラバ県 けん とギプスコア県 けん 、南 みなみ はラ・リオハ州 しゅう 、東 ひがし はアラゴン州 しゅう に接 せっ し、北東 ほくとう は163kmに渡 わた ってフランス と国境 こっきょう を接 せっ している[3] 。北 きた のピレネー山脈 さんみゃく から南 みなみ のエブロ川 がわ 流域 りゅういき の平原 へいげん まで、ナバラ州 しゅう の地理 ちり は変化 へんか に富 と んでおり[4] 、地理 ちり 学者 がくしゃ のアルフレド・フロリスタはナバラの景観 けいかん を「ミニチュア大陸 たいりく 」と表現 ひょうげん した。地形 ちけい ・生物 せいぶつ 気候 きこう 学 がく の観点 かんてん から、ナバラ州 しゅう は山岳 さんがく 部 ぶ 、中央 ちゅうおう 部 ぶ 、河岸 かわぎし 部 ぶ の3地域 ちいき に分 わ けることができる[3] 。
山岳 さんがく 部 ぶ はナバラ州 しゅう 北部 ほくぶ を占 し め、サブリージョンとして湿潤 しつじゅん 地帯 ちたい 、ピレネー渓谷 けいこく 、ピレネー前 ぜん 縁 えん 盆地 ぼんち に分 わ けられる。州 しゅう 北西 ほくせい 部 ぶ の湿潤 しつじゅん 地帯 ちたい は平均 へいきん 気温 きおん が摂氏 せっし 15度 ど 、年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう が約 やく 1,400mmであり、広葉樹 こうようじゅ 、牧草 ぼくそう 、シダ類 るい などの植生 しょくせい がみられる。州 しゅう 北東 ほくとう 部 ぶ のピレネー渓谷 けいこく は、激 はげ しい降雪 こうせつ と気温 きおん の変化 へんか が特徴 とくちょう のピレネー山脈 さんみゃく 山麓 さんろく から、西 にし に向 む かうにつれて温暖 おんだん な気候 きこう が特徴 とくちょう の亜 あ 海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう に変化 へんか している。ピレネー渓谷 けいこく 北部 ほくぶ ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる。ピレネー前 ぜん 縁 えん 盆地 ぼんち の植生 しょくせい はカシ類 るい やカシワ類 るい などの地中海 ちちゅうかい 広葉樹 こうようじゅ が目立 めだ つ。ナバラ州 しゅう の最高峰 さいこうほう は標高 ひょうこう 2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェス であり、トレス・レジェスの周囲 しゅうい には標高 ひょうこう 2,507mのアニ峰 ほう (山頂 さんちょう はフランス領 りょう )や2,366mのペトレチェマなどがある[6] 。
アララール山地 さんち
山岳 さんがく 部 ぶ と河岸 かわぎし 部 ぶ の中間 ちゅうかん には中央 ちゅうおう 部 ぶ があり、山地 さんち や丘陵 きゅうりょう などがみられる北部 ほくぶ から広大 こうだい な平野 へいや が広 ひろ がる南部 なんぶ までが緩 ゆる やかに推移 すいい している。中央 ちゅうおう 部 ぶ の中 なか でも気候 きこう は大 おお きく変化 へんか し、東側 ひがしがわ は大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう であり、北側 きたがわ は西岸 せいがん 海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう 、南側 みなみがわ は大陸 たいりく 地中海 ちちゅうかい 性 せい 気候 きこう である。中央 ちゅうおう 部 ぶ にはパンプローナ やパンプローナ都市 とし 圏 けん がある。河岸 かわぎし 部 ぶ はエブロ川 がわ の本流 ほんりゅう や支流 しりゅう の流域 りゅういき であり、エステーリャ とトゥデラ というふたつの主要 しゅよう 都市 とし がある。エステーリャ河岸 かわぎし にはなだらかな尾根 おね や向 こう 斜面 しゃめん 谷 だに が見 み られ、トゥデラ河岸 かわぎし には構造 こうぞう 平原 へいげん や沖積 ちゅうせき 低地 ていち が広 ひろ がっている。トゥデラの北方 ほっぽう には半 はん 砂漠 さばく 地帯 ちたい のバルデナス・レアレス が広 ひろ がり、ユネスコの生物 せいぶつ 圏 けん 保護 ほご 区 く に指定 してい されている[7] 。河岸 かわぎし 部 ぶ の年 とし 降水 こうすい 量 りょう は400mm足 た らずであり、山岳 さんがく 部 ぶ に比 くら べて日照 ひでり 時間 じかん が長 なが いほか、夏季 かき と冬季 とうき の気温 きおん 差 さ が激 はげ しい。
ナバラ州 しゅう の主要 しゅよう な河川 かせん には、エステーリャを流 なが れるエガ川 がわ (スペイン語 ご 版 ばん ) 、パンプローナを流 なが れるアルガ川 がわ 、サングエサを流 なが れるアラゴン川 がわ などがある。これらの河川 かせん はいずれもエブロ川 がわ の支流 しりゅう であり、北 きた から南 みなみ に流 なが れてエブロ川 がわ に注 そそ いだ後 のち は、南東 なんとう に流 なが れてやがて地中海 ちちゅうかい に注 そそ ぐ。スペイン語 ご とバスク語 ご の言語 げんご 境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん に分水嶺 ぶんすいれい があり、州 しゅう 北西 ほくせい 部 ぶ の一部 いちぶ の地域 ちいき からは、ウルメア川 がわ やビダソア川 がわ やレイツァラン川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) が、南 みなみ から北 きた に流 なが れて大西 おおにし 洋 ひろし に注 そそ いでいる。
ビスケー湾 わん の影響 えいきょう が強 つよ い北西 ほくせい 部 ぶ は西岸 せいがん 海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう であり、バスタン 谷 たに やビダソア谷 だに は一年中 いちねんじゅう 緑 みどり に覆 おお われる[8] 。冬季 とうき の平均 へいきん 気温 きおん は摂氏 せっし 12度 ど と穏 おだ やかであり、夏季 かき の平均 へいきん 気温 きおん も摂氏 せっし 22度 ど と過 す ごしやすい[8] 。ピレネー山脈 さんみゃく に近 ちか い北東 ほくとう 部 ぶ は山岳 さんがく 気候 きこう であり、ナバラ州 しゅう でもっとも涼 すず しい気候 きこう である[8] 。冬季 とうき には気温 きおん が氷点下 ひょうてんか に落 お ち込 こ み、標高 ひょうこう の高 たか い斜面 しゃめん は積雪 せきせつ を伴 ともな う[8] 。パンプローナを含 ふく む中央 ちゅうおう 部 ぶ は変移 へんい 地帯 ちたい であり、冬季 とうき と夏季 かき の気温 きおん 差 さ が激 はげ しい[8] 。冬季 とうき は晴天 せいてん 日 び が多 おお いが一定 いってい の降水 こうすい もあり、夏季 かき は暑 あつ く乾燥 かんそう する日 ひ 中 ちゅう と涼 すず しい夜間 やかん が特徴 とくちょう である[8] 。南部 なんぶ は地中海 ちちゅうかい 性 せい 気候 きこう であり、冬季 とうき にはシエルソ (スペイン語 ご 版 ばん ) と呼 よ ばれる北風 きたかぜ が吹 ふ く。夏季 かき は暑 あつ く乾燥 かんそう し、気温 きおん はしばしば摂氏 せっし 40度 ど に達 たっ する[8] 。
パンプローナの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
19.5 (67.1)
23.6 (74.5)
30 (86)
29.6 (85.3)
33.5 (92.3)
38.5 (101.3)
40.2 (104.4)
40.6 (105.1)
38.8 (101.8)
30 (86)
27 (81)
20 (68)
40.6 (105.1)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
9.1 (48.4)
10.9 (51.6)
14.6 (58.3)
16.4 (61.5)
20.2 (68.4)
25.2 (77.4)
28.2 (82.8)
28.3 (82.9)
24.5 (76.1)
19.3 (66.7)
13.1 (55.6)
9.7 (49.5)
18.4 (65.1)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
5.2 (41.4)
6.3 (43.3)
9.1 (48.4)
10.9 (51.6)
14.7 (58.5)
18.6 (65.5)
21.2 (70.2)
21.4 (70.5)
18.2 (64.8)
14.1 (57.4)
9.0 (48.2)
6.0 (42.8)
12.9 (55.2)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
1.4 (34.5)
1.6 (34.9)
3.7 (38.7)
5.3 (41.5)
8.6 (47.5)
11.9 (53.4)
14.2 (57.6)
14.5 (58.1)
12.0 (53.6)
8.9 (48)
4.8 (40.6)
2.2 (36)
7.4 (45.3)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−12.4 (9.7)
−15.2 (4.6)
−9 (16)
−2.2 (28)
−0.2 (31.6)
3.8 (38.8)
7 (45)
4.8 (40.6)
3.4 (38.1)
−1 (30)
−6.6 (20.1)
−14.2 (6.4)
−15.2 (4.6)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
57 (2.24)
50 (1.97)
54 (2.13)
74 (2.91)
60 (2.36)
46 (1.81)
33 (1.3)
38 (1.5)
44 (1.73)
68 (2.68)
75 (2.95)
72 (2.83)
674 (26.54)
% 湿度 しつど
78
72
66
65
63
59
57
58
62
69
76
78
67
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
93
125
177
185
228
268
310
282
219
164
108
88
2,240
出典 しゅってん 1:スペイン国立 こくりつ 気象庁 きしょうちょう (Aemet)[9]
出典 しゅってん 2:スペイン国立 こくりつ 気象庁 きしょうちょう (Aemet)[10]
自治体 じちたい 別 べつ の人口 じんこう 密度 みつど 高密度 こうみつど 低 てい 密度 みつど
ナバラ州 しゅう は272のムニシピオ (基礎 きそ 自治体 じちたい )からなる[11] 。人口 じんこう の約 やく 1/3が州都 しゅうと パンプローナ (195,769人 にん )に住 す んでおり、人口 じんこう の約 やく 半分 はんぶん がパンプローナ都市 とし 圏 けん (315,988人 にん )に住 す んでいる。人口 じんこう 20,000人 にん 以上 いじょう の自治体 じちたい はパンプローナ、河岸 かわぎし 部 ぶ のトゥデラ 、パンプローナ都市 とし 圏 けん のバラニャイン の3自治体 じちたい であり、2013年 ねん 時点 じてん では州 しゅう 全体 ぜんたい の42.3%がこの3自治体 じちたい に居住 きょじゅう している[13] 。人口 じんこう 2,000人 にん から20,000人 にん の自治体 じちたい には州 しゅう 全体 ぜんたい の39.2%が、人口 じんこう 2,000人 にん 以下 いか の自治体 じちたい に州 しゅう 全体 ぜんたい の18.5%が居住 きょじゅう している[13] 。
1900年 ねん 時点 じてん のナバラ地方 ちほう の人口 じんこう はスペイン全体 ぜんたい の1.7%だったが、20世紀 せいき を通 つう じて緩 ゆる やかに比率 ひりつ を低下 ていか させた結果 けっか 、1991年 ねん 時点 じてん では1.3%となった[14] 。ナバラ州 しゅう より人口 じんこう が少 すく ない自治 じち 州 しゅう はラ・リオハ州 しゅう とカンタブリア州 しゅう だけであり、ナバラ州 しゅう の人口 じんこう はスペインの全 ぜん 17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 15位 い である。1900年 ねん の人口 じんこう は307,669人 にん だったが、2014年 ねん には約 やく 2倍 ばい の640,356人 にん となった[13] 。人口 じんこう 密度 みつど は1900年 ねん の29人 にん /km2 から2014年 ねん には61.4人 にん /km2 に増加 ぞうか したが、スペイン平均 へいきん の人口 じんこう 密度 みつど 92人 にん /km2 を下回 したまわ っている[13] 。ピレネー渓谷 けいこく や南西 なんせい 部 ぶ のエステーリャ地域 ちいき では20世紀 せいき 初頭 しょとう から人口 じんこう が減少 げんしょう しつづけているが、パンプローナ盆地 ぼんち や河岸 かわぎし 地域 ちいき では人口 じんこう が増加 ぞうか している。2000年代 ねんだい にはラテンアメリカ、東欧 とうおう 、北 きた アフリカなどからの移民 いみん が増加 ぞうか しており、他国 たこく 出身 しゅっしん 人口 じんこう は約 やく 70,000人 にん [13] 、比率 ひりつ では約 やく 11%と推定 すいてい されている。
先史 せんし 時代 じだい ・古代 こだい [ 編集 へんしゅう ]
古代 こだい ローマの影響 えいきょう を示 しめ す硬貨 こうか
ナバラに残 のこ る最古 さいこ の考古学 こうこがく 遺跡 いせき は、後期 こうき 旧石器時代 きゅうせっきじだい のマドレーヌ文化 ぶんか 期 き (18,000年 ねん 前 まえ - 11,000年 ねん 前 まえ )のものである。北西 ほくせい 部 ぶ のアララール山地 さんち には金属 きんぞく 器 き 時代 じだい 初期 しょき の巨石 きょせき 記念 きねん 物 ぶつ (ドルメン 、メンヒル 、ストーンサークル )が見 み られ、南部 なんぶ からは鉄器 てっき 時代 じだい の集落 しゅうらく が発見 はっけん されている。
その後 ご やってきたケルト人 じん はバスク地方 ちほう に金属 きんぞく 加工 かこう 術 じゅつ や火葬 かそう の習慣 しゅうかん をもたらし、紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき にはカルタゴ 人 ひと がピレネー山麓 さんろく に達 たっ した。紀元前 きげんぜん 133年 ねん のヌマンティア (英語 えいご 版 ばん ) の攻囲 こうい 戦 せん で古代 こだい ローマ人 じん がケルト人 じん を破 やぶ ると、紀元前 きげんぜん 75年 ねん にはグナエウス・ポンペイウス が自身 じしん の名 な に因 ちな んだ都市 とし ポンパエロ(現 げん ・パンプローナ )を建設 けんせつ した。ポンパエロには神殿 しんでん 、公衆 こうしゅう 浴場 よくじょう 、邸宅 ていたく などが築 きず かれてローマ的 てき な都市 とし となり[23] 、ブドウ、オリーブ、小麦 こむぎ などのローマ作物 さくもつ の大 だい 規模 きぼ 農場 のうじょう が作 つく られた。東部 とうぶ のサングエサ やルンビエル (スペイン語 ご 版 ばん ) など、アラゴン川 がわ やアルガ川 がわ 河畔 かはん の町 まち はローマ化 か が著 いちじる しく、逆 ぎゃく に山間 さんかん 部 ぶ の谷 たに はほとんどローマの影響 えいきょう を受 う けなかった。ローマ時代 じだい にキリスト教 きりすときょう がバスク地方 ちほう に定着 ていちゃく していたとする有力 ゆうりょく な証拠 しょうこ はないが、伝承 でんしょう によれば、レイレ修道院 しゅうどういん の建設 けんせつ は435年 ねん 、イラチェ修道院 しゅうどういん の建設 けんせつ は西 にし ゴート時代 じだい 、ロンセスバーリェス 修道院 しゅうどういん の建設 けんせつ は638年 ねん とされている。
ナバラ王国 おうこく の最大 さいだい 版図 はんと (1030年 ねん )
主要 しゅよう なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼 じゅんれい 路 ろ である「フランスの道 みち 」は2つの峠 とうげ によってピレネー山脈 さんみゃく を超 こ え、ナバラ地方 ちほう のプエンテ・ラ・レイナ で合流 ごうりゅう する[25] 。サンティアゴの巡礼 じゅんれい 路 ろ は850年 ねん 以後 いご に人気 にんき を得 え て、巡礼 じゅんれい 者 しゃ の往来 おうらい は11世紀 せいき にピークに達 たっ した。ナバラは巡礼 じゅんれい 者 しゃ と接 せっ する中 なか でキリスト教 きりすときょう を受 う け入 い れていった。
西 にし ゴート族 ぞく もフランク族 ぞく も、この地域 ちいき を完全 かんぜん に征服 せいふく するには至 いた らなかった。778年 ねん 、カール大帝 たいてい 率 ひき いるフランク族 ぞく の軍隊 ぐんたい はパンプローナの城壁 じょうへき を破壊 はかい したが、これに憤慨 ふんがい したバスク人 じん との戦 たたか い(ロンセスバーリェスの戦 たたか い )には大敗 たいはい し、この戦 たたか いは叙事詩 じょじし ローランの歌 うた のモデルとなった。824年 ねん にはバスク人 じん の族長 ぞくちょう イニゴ・アリスタ がイスラーム勢力 せいりょく と手 て を組 く んでフランク族 ぞく に勝利 しょうり し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国 おうこく (後 ご のナバラ王国 おうこく )を興 おこ した。
「ナバラ王国 おうこく の心臓 しんぞう 」と称 とな えられたレイレ修道院 しゅうどういん
905年 ねん にサンチョ1世 せい によってヒメネス王朝 おうちょう が始 はじ まると、イスラーム教徒 きょうと との間 あいだ で領土 りょうど の奪 うば い合 あ いが繰 く り返 かえ された。耕地 こうち が少 すく ないナバラ地方 ちほう は人口 じんこう 過剰 かじょう の問題 もんだい に悩 なや まされていたが、サンチョ1世 せい は8世紀 せいき 初頭 しょとう からイスラーム教徒 きょうと の手 て にあったリオハ地方 ちほう を併合 へいごう して社会 しゃかい ・経済 けいざい 基盤 きばん を拡充 かくじゅう した。10世紀 せいき 半 なか ばにはレオン王国 おうこく 、アラバ領主 りょうしゅ 、カスティーリャ王国 おうこく などと婚姻 こんいん 関係 かんけい を結 むす んでいる。10世紀 せいき 末 まつ にはサンチョ2世 せい (在位 ざいい 970年 ねん -994年 ねん )が娘 むすめ のウラカ・サンチェスを後 こう ウマイヤ朝 あさ の宰相 さいしょう アル・マンスール・ビッ・ラーヒ (英語 えいご 版 ばん ) に与 あた えて平和 へいわ を確保 かくほ しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間 あいだ には後 こう ウマイヤ朝 あさ 最後 さいご のアミール であるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ (英語 えいご 版 ばん ) が生 う まれている。パンプローナ王国 おうこく は首都 しゅと を持 も ち司教 しきょう 区 く を為 な す主権 しゅけん 王国 おうこく となり、1000年 ねん までにはナバラ王国 おうこく として知 し られるようになった。
1004年 ねん に即位 そくい したサンチョ3世 せい (大王 だいおう )は、キリスト教 きょう 諸国 しょこく との政略 せいりゃく 結婚 けっこん を繰 く り返 かえ して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸 しょ 地域 ちいき と次々 つぎつぎ と同盟 どうめい 関係 かんけい を結 むす んで王国 おうこく の地位 ちい を強固 きょうこ なものとした。ピレネー山脈 さんみゃく 以南 いなん (イベリア半島 はんとう )のキリスト教 きりすときょう 圏 けん の大 だい 部分 ぶぶん を支配 しはい した、イベリア半島 はんとう におけるキリスト教 きりすときょう 勢力 せいりょく の「覇権 はけん 国家 こっか 」となった。サンチョ3世 せい は西 にし ヨーロッパとの経済 けいざい ・文化 ぶんか 的 てき 交流 こうりゅう を活発 かっぱつ 化 か させ、サンティアゴの巡礼 じゅんれい 路 ろ の整備 せいび と管理 かんり に力 ちから を注 そそ いだ。レコンキスタの過程 かてい でキリスト教 きりすときょう 勢力 せいりょく の軍事 ぐんじ 力 りょく がイスラーム教 きょう 勢力 せいりょく を上回 うわまわ ったのはこの時期 じき である。
1035年 ねん にサンチョ3世 せい が亡 な くなると王国 おうこく は息子 むすこ たちに分割 ぶんかつ され、その政治 せいじ 力 りょく はサンチョ3世 せい 時代 じだい まで回復 かいふく することはなかった。サンチョ3世 せい の長子 ちょうし であるガルシア3世 せい はカスティーリャ王 おう フェルナンド1世 せい に敗 やぶ れ、西部 せいぶ の国境 こっきょう 地域 ちいき を失 うしな っている。1076年 ねん にはアラゴン王 おう サンチョ1世 せい がナバラ王国 おうこく を併合 へいごう し、ナバラ王国 おうこく はアラゴン王国 おうこく と同君 どうくん 連合 れんごう を結 むす ぶと、サンティアゴ巡礼 じゅんれい の活況 かっきょう に合 あ わせてパンプローナ、ハカ 、エステーリャ などの町 まち が成長 せいちょう した。ガルシア6世 せい (復興 ふっこう 王 おう )が王位 おうい に就 つ いた1134年 ねん にはアラゴン王国 おうこく から独立 どくりつ して再 ふたた び主権 しゅけん を建 た てたが、カスティーリャ=レオン王国 おうこく への臣従 しんじゅう とリオハ地方 ちほう の割譲 かつじょう を余儀 よぎ なくされている。イベリア半島 はんとう における政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく を低下 ていか させた一方 いっぽう で、巡礼 じゅんれい 路 ろ を通 つう じて貿易 ぼうえき 商 しょう や巡礼 じゅんれい 者 しゃ が流入 りゅうにゅう したため、ナバラ王国 おうこく の商業 しょうぎょう 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい は増 ま した。ナバラ王国 おうこく 時代 じだい にはイスラーム美術 びじゅつ が持 も ち込 こ まれ、トゥデラ のモスクの廃墟 はいきょ 、レイレ修道院 しゅうどういん やフィテロ(英語 えいご 版 ばん ) 修道院 しゅうどういん の象牙 ぞうげ 細工 ざいく の小 しょう 箱 はこ などが残 のこ っている。
ナバラ博物館 はくぶつかん に所蔵 しょぞう されているイスラーム時代 じだい の象牙 ぞうげ 箱 ばこ
12世紀 せいき 末 まつ にはカスティーリャ王 おう アルフォンソ8世 せい とアラゴン王 おう アルフォンソ2世 せい が結託 けったく してナバラ王国 おうこく に攻 せ め込 こ み、1200年 ねん にはビスケー湾岸 わんがん のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域 ちいき を奪 うば われた。ナバラ王国 おうこく は海岸 かいがん 部 ぶ を失 うしな って内陸 ないりく 国 こく となり、ピレネー山麓 さんろく の小国 しょうこく へ地位 ちい を落 お とした。1212年 ねん にカトリック諸国 しょこく 連合 れんごう 軍 ぐん がムワッヒド朝 あさ に挑 いど んだナバス・デ・トロサの戦 たたか い では、サンチョ7世 せい (不屈 ふくつ 王 おう )が率 ひき いる重 じゅう 装 そう 騎士 きし 団 だん がカトリック勢力 せいりょく の勝利 しょうり に貢献 こうけん した。この戦 たたか いはレコンキスタ (再 さい 征服 せいふく 運動 うんどう )における転換 てんかん 点 てん であり、ムワッヒド朝 あさ の衰退 すいたい の決定的 けっていてき な要因 よういん となっている。
1234年 ねん に死去 しきょ したサンチョ7世 せい には嗣子 しし がおらず、シャンパーニュ家 か のテオバルド1世 せい が即位 そくい してフランス王朝 おうちょう が始 はじ まった。国王 こくおう は概 がい してフランスに住 す み、実質 じっしつ 的 てき にはナバラ総督 そうとく がナバラ王国 おうこく を統治 とうち した。テオバルド1世 せい はフランス貴族 きぞく を要職 ようしょく に付 つ け、ナバラ貴族 きぞく の特権 とっけん を侵害 しんがい したため、歴代 れきだい の総督 そうとく はナバラ人 じん に快 こころよ く思 おも われなかった。そのためフランスから召喚 しょうかん を受 う けた際 さい には代表 だいひょう 者 しゃ を送 おく ることを拒 こば んだり、王権 おうけん を主張 しゅちょう する国王 こくおう 候補 こうほ をコルテス (身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい )が拒 こば んだこともあった。ナバラ王国 おうこく のフエロは女性 じょせい の王位 おうい 継承 けいしょう に寛容 かんよう だったが、女子 じょし 継承 けいしょう に否定 ひてい 的 てき なフランスの伝統 でんとう 法 ほう はナバラ王国 おうこく にも適用 てきよう された。ナバラ地方 ちほう のトゥデラにはレコンキスタ後 ご もムデハル (再 さい 征服 せいふく 地域 ちいき のイスラーム教徒 きょうと )やユダヤ人 じん が残 のこ り、トゥデラ出身 しゅっしん のベンヤミン は初 はじ めて東方 とうほう を旅行 りょこう したヨーロッパ人 じん として『オリエント旅行 りょこう 記 き 』を書 か き残 のこ している。
現在 げんざい のオリテ市街地 しがいち と王宮 おうきゅう (奥 おく )
1305年 ねん にはフランス王 おう がナバラ王 らおう を兼 か ねたカペー朝 あさ が始 はじ まったが、やはりフランス貴族 きぞく が要職 ようしょく を独占 どくせん したため、1328年 ねん にナバラのコルテス(身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい )はフアナ2世 せい をナバラ王 らおう に選出 せんしゅつ した。フアナ2世 せい の治世 ちせい の1328年 ねん には、王国 おうこく 内 ない でも生産 せいさん 的 てき で開明 かいめい 的 てき だったユダヤ人 じん を迫害 はくがい し、6,000人 にん を死 し に追 お いやった。1348年 ねん から1349年 ねん には黒死病 こくしびょう がナバラ王国 おうこく にも蔓延 まんえん し、人口 じんこう の60%を失 うしな った。これらのことが重 かさ なり、14世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう のナバラ王国 おうこく は国力 こくりょく が弱体 じゃくたい 化 か し、独立 どくりつ の喪失 そうしつ に向 む かい始 はじ めた。フアナ2世 せい を継 つ いだカルロス2世 せい の治世 ちせい にはカスティーリャ軍 ぐん やフランス軍 ぐん のナバラ王国 おうこく への侵攻 しんこう を受 う けた。1379年 ねん にはトゥデラ城 じょう やエステーリャ城 じょう を含 ふく む20の砦 とりで をカスティーリャ王国 おうこく に占領 せんりょう され、カルロス2世 せい はフランスにあるほぼすべての領地 りょうち を喪失 そうしつ した。
1418年 ねん にはカルロス3世 せい がオリテ にオリテ王宮 おうきゅう (スペイン語 ご 版 ばん ) を完成 かんせい させたが、彼 かれ が1425年 ねん に亡 な くなった後 のち の王国 おうこく はもっとも混乱 こんらん した時代 じだい を迎 むか えた。1441年 ねん に女王 じょおう のブランカ1世 せい が死去 しきょ すると、共同 きょうどう 君主 くんしゅ だった夫 おっと のフアン2世 せい は長男 ちょうなん カルロス に王位 おうい を譲 ゆず らず、1451年 ねん にはナバラ王国 おうこく の貴族 きぞく 間 あいだ でナバラ内戦 ないせん が発生 はっせい した。1479年 ねん に、近隣 きんりん のアラゴン王国 おうこく とカスティーリャ王国 おうこく が統合 とうごう されてスペイン王国 おうこく になると、イスラーム勢力 せいりょく 下 か にある地域 ちいき とナバラ王国 おうこく を除 のぞ きイベリア半島 はんとう をほぼ領有 りょうゆう していたので、1492年 ねん にグラナダを攻略 こうりゃく した後 のち には、ナバラ王国 おうこく の獲得 かくとく に関心 かんしん を集中 しゅうちゅう させた。
スペイン王国 おうこく の中 なか の王国 おうこく [ 編集 へんしゅう ]
フランシスコ・ザビエル が育 そだ ったハビエル城 じょう
1512年 ねん にはカスティーリャ摂政 せっしょう フェルナンド5世 せい がナバラ王国 おうこく に侵攻 しんこう して併合 へいごう し、ナバラ王国 おうこく はカスティーリャ王国 おうこく の副 ふく 王 おう 領 りょう となったが、立法 りっぽう ・行政 ぎょうせい ・司法 しほう の各 かく 機構 きこう はナバラ王国 おうこく に残 のこ された[54] 。ナバラ人 じん はフランス王朝 おうちょう の終焉 しゅうえん をそれほど残念 ざんねん には思 おも わず、カスティーリャ王国 おうこく 内 ない での自治 じち 権 けん の保持 ほじ に力 ちから を注 そそ いだ。1530年 ねん 時点 じてん で、現在 げんざい のナバラ州 しゅう に相当 そうとう する地域 ちいき はスペイン全体 ぜんたい の2.5%の人口 じんこう を有 ゆう していたが、スペイン王国 おうこく に統合 とうごう された影響 えいきょう もあり、1591年 ねん には1.9%にまで減少 げんしょう している[14] 。
ナバラ王位 おうい にあったカタリナ とフアン3世 せい はピレネー山脈 さんみゃく 北部 ほくぶ に逃 のが れ、1555年 ねん までに、アルブレ家 か の女王 じょおう ジャンヌ・ダルブレ が率 ひき いるナヴァール王国 おうこく (ナヴァール=ベアルン王国 おうこく )が確立 かくりつ された。ピレネー山脈 さんみゃく の南側 みなみがわ では、1610年 ねん にアンリ4世 せい がスペイン側 がわ のナバラ王国 おうこく に進軍 しんぐん の準備 じゅんび を行 おこな うまで、副 ふく 王 おう 領 りょう としての王国 おうこく は不安定 ふあんてい なバランスの上 うえ にあった。ナヴァール王 おう エンリケ3世 せい が1589年 ねん にフランス王 おう アンリ4世 せい として即位 そくい すると、歴代 れきだい のフランス王 おう はナヴァール王 おう を兼 か ねた。フランス側 がわ のナヴァール王国 おうこく は1620年 ねん にフランス王国 おうこく の一部 いちぶ となったが、1789年 ねん まで独自 どくじ の制度 せいど と権限 けんげん を有 ゆう していた[56] 。
17世紀 せいき のナバラでは農業 のうぎょう がほぼ唯一 ゆいいつ の経済 けいざい であり、穀物 こくもつ やブドウの生産 せいさん 、家畜 かちく の飼育 しいく などが行 おこな われ、小麦 こむぎ ・羊毛 ようもう ・ワインなど小規模 しょうきぼ の輸出 ゆしゅつ 貿易 ぼうえき をおこなった。スペイン海軍 かいぐん の船 ふね にはナバラ産 さん の材木 ざいもく が使用 しよう され、隣接 りんせつ するギプスコアに鉄鉱 てっこう 石 せき を運 はこ んだ。17世紀 せいき におけるナバラとバスク全体 ぜんたい の人口 じんこう は約 やく 35万 まん 人 にん だった。この世紀 せいき には黒死病 こくしびょう の再 さい 流行 りゅうこう によってスペイン全体 ぜんたい の人口 じんこう が850万 まん 人 にん から700万 まん 人 にん に減少 げんしょう しており、ナバラやバスクは黒死病 こくしびょう による死者 ししゃ は少 すく なかったが、社会 しゃかい 的 てき 流出 りゅうしゅつ が多 おお かったために人口 じんこう は増加 ぞうか しなかった。
1659年 ねん にはピレネー条約 じょうやく でスペイン・フランスの国境 こっきょう が確定 かくてい し、北 きた ナバラと南 みなみ ナバラの分断 ぶんだん によって長年 ながねん 燻 いぶ っていたナバラ問題 もんだい は立 た ち消 ぎ えた。スペイン内 ない でフエロを持 も つ他 た 地域 ちいき 、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比 くら べても、ナバラは高 たか い水準 すいじゅん の自治 じち 権 けん を有 ゆう しており、ナバラのみは例外 れいがい 的 てき に司法 しほう 権 けん の維持 いじ を許 ゆる された。
第 だい 一 いち 次 じ カルリスタ戦争 せんそう 中 ちゅう のメンディゴリアの戦 たたか い
18世紀 せいき 初頭 しょとう でもナバラは、なお「王国 おうこく 」と呼 よ ばれていた。1722年 ねん にスペイン・フランス間 あいだ の税関 ぜいかん がエブロ川 かわ に移 うつ されたおかげでフランスとの貿易 ぼうえき が盛 さか んとなり、18世紀 せいき のナバラでは商業 しょうぎょう が発達 はったつ した。農民 のうみん はスペインの他 た 地方 ちほう よりも豊 ゆた かな暮 く らしをし、人口 じんこう の5-10%を占 し める貴族 きぞく の割合 わりあい はスペインでもっとも高 たか かった。18世紀 せいき 半 なか ばには道路 どうろ 網 もう の整備 せいび が着手 ちゃくしゅ され、現在 げんざい のパンプローナ市庁舎 しちょうしゃ を含 ふく む壮大 そうだい なバロック様式 ようしき の建物 たてもの が至 いた るところに建 た てられた。18世紀 せいき 末 まつ 時点 じてん で、スペイン王国 おうこく 内 ない で独自 どくじ の司法 しほう 機関 きかん 、副 ふく 王 おう 、議員 ぎいん 団 だん 、会計 かいけい 院 いん を持 も っていた地域 ちいき はナバラのみだった。
フランスとスペインを含 ふく む連合 れんごう 軍 ぐん の間 あいだ でスペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう が起 お こった19世紀 せいき 初頭 しょとう 、フランスの憲法 けんぽう 起草 きそう 者 しゃ [誰 だれ ? ] はナバラ、スペイン・バスク 、フランス領 りょう バスク を統合 とうごう して新 しん フェニキアという名称 めいしょう のバスク統一 とういつ 国 こく を作 つく ることを計画 けいかく した。ナポレオン自身 じしん は、エブロ川 がわ 以北 いほく をスペインと分断 ぶんだん させてフランスに編入 へんにゅう させることを計画 けいかく した。1813年 ねん のスペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう 後 ご のスペインでは自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な思想 しそう が目立 めだ つようになり、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい の支持 しじ 者 しゃ が増加 ぞうか した。19世紀 せいき のスペインでは王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん をめぐる内乱 ないらん (カルリスタ戦争 せんそう )が三 さん 度 ど に渡 わた って起 お こっており、この内乱 ないらん はブルジョアなどの自由 じゆう 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく と教会 きょうかい や貴族 きぞく などの絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく (カルリスタ)間 あいだ の代理 だいり 戦争 せんそう の意味合 いみあ いを呈 てい していた。マドリードの中央 ちゅうおう 政府 せいふ は自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく を打 う ち出 だ していたため、伝統 でんとう 的 てき な諸 しょ 特権 とっけん を享受 きょうじゅ したいバスク地方 ちほう やナバラ地方 ちほう にはドン・カルロス の支持 しじ 者 しゃ (カルリスタ)が多 おお かったが[67] 、第 だい 一 いち 次 じ カルリスタ戦争 せんそう (1833-1839)はベルガラ協定 きょうてい (英語 えいご 版 ばん ) でカルリスタ側 がわ の敗北 はいぼく が決定 けってい した。この敗北 はいぼく でカルリスタは強大 きょうだい な軍事 ぐんじ 力 りょく は失 うしな ったものの政治 せいじ 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい は保 たも ち、後 ご のバスク地方 ちほう やカタルーニャ地方 ちほう で起 お こる民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう につなげた[67] 。同 どう 時期 じき にスペイン政府 せいふ は行政 ぎょうせい 改革 かいかく の一環 いっかん として県 けん の設置 せっち を進 すす めており、ナバラ王国 おうこく に相当 そうとう する領域 りょういき にはナバラ県 けん が設置 せっち されている。
ナバラ王国 おうこく の廃止 はいし [ 編集 へんしゅう ]
ガマサダ後 ご にパンプローナ に建 た てられたフエロの記念 きねん 碑 ひ
1833年 ねん スペイン地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん 再編 さいへん ではスペイン全土 ぜんど に49県 けん が設置 せっち され、ナバラ地域 ちいき にはナバラ県 けん のみが設置 せっち された。1841年 ねん にはナバラ特権 とっけん 政府 せいふ の代表 だいひょう が妥協 だきょう 法 ほう に署名 しょめい し、旧来 きゅうらい のフエロが廃止 はいし されてスペイン憲法 けんぽう の枠組 わくぐ みによるフエロの再編 さいへん が行 おこな われた。関税 かんぜい 境界 きょうかい がバスクとスペインの境界 きょうかい (エブロ川 がわ )からスペイン・フランス国境 こっきょう (ピレネー山脈 さんみゃく )に移動 いどう すると、ピレネー山脈 さんみゃく を挟 はさ んだナバラの貿易 ぼうえき の慣習 かんしゅう が崩壊 ほうかい し、税関 ぜいかん を経由 けいゆ しない密輸 みつゆ が勃興 ぼっこう した。ビスカヤ県 けん やギプスコア県 けん とは異 こと なり、ナバラ県 けん ではこの時期 じき に製造 せいぞう 業 ぎょう が発展 はってん せず、基本 きほん 的 てき には農村 のうそん 経済 けいざい が残 のこ っていた。1872年 ねん から1876年 ねん の第 だい 三 さん 次 じ カルリスタ戦争 せんそう 中 なか では再 ふたた びカルリスタ勢力 せいりょく が敗北 はいぼく 。1876年 ねん 7月 がつ 21日 にち 法 ほう はスペイン国家 こっか に対 たい する兵役 へいえき や納税 のうぜい などを規定 きてい しており、事実 じじつ 上 じょう フエロが撤廃 てっぱい された法律 ほうりつ と解釈 かいしゃく されている。1877年 ねん には一般 いっぱん 評議 ひょうぎ 会 かい と特権 とっけん 議会 ぎかい が廃止 はいし され、バスク地方 ちほう 全域 ぜんいき のスペインへの統合 とうごう が完了 かんりょう した。
1893年 ねん から1894年 ねん にはパンプローナ中心 ちゅうしん 部 ぶ でガマサダ (スペイン語 ご 版 ばん ) と呼 よ ばれる民衆 みんしゅう 蜂起 ほうき が起 お こり、1841年 ねん の特権 とっけん 規定 きてい や1876年 ねん の財政 ざいせい 保証 ほしょう 廃止 はいし などのマドリード政府 せいふ の決定 けってい に抵抗 ていこう した。アルフォンシノスと呼 よ ばれる小規模 しょうきぼ な派閥 はばつ を除 のぞ き、ナバラのすべての政党 せいとう は、ラウラク・バット (英語 えいご 版 ばん ) (4つは1つ、スペイン・バスク の4県 けん の統合 とうごう を目指 めざ す考 かんが え方 かた )を合言葉 あいことば とする地方 ちほう 自治 じち に基 もと づいた新 あら たな政治 せいじ 的 てき 枠組 わくぐ みの必要 ひつよう 性 せい について合意 ごうい した。
絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく がカルリスタ戦争 せんそう に敗北 はいぼく すると、バスク地方 ちほう の他 た 地域 ちいき ではバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ が台頭 たいとう したが、ナバラでは状況 じょうきょう が異 こと なった。ナバラでは敗戦 はいせん 後 ご もカルリスタの影響 えいきょう 力 りょく が大 おお きく、フエロの存続 そんぞく を大義 たいぎ として保 たも ち、1936年 ねん までは一定 いってい の政治 せいじ 力 りょく を発揮 はっき している。
第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい 下 した (1931年 ねん -1936年 ねん )の1931年 ねん には地域 ちいき 自治 じち を認 みと める共和 きょうわ 政 せい 憲法 けんぽう が議会 ぎかい で承認 しょうにん されたため、バスク地方 ちほう では1932年 ねん にはバスク自治 じち 憲章 けんしょう 案 あん が各 かく 自治体 じちたい 代表 だいひょう 者 しゃ の投票 とうひょう にかけられたが、ナバラでの支持 しじ 率 りつ はスペイン・バスク4地域 ちいき でもっとも低 ひく く50%以下 いか であり、1933年 ねん にはナバラを分離 ぶんり した自治 じち 憲章 けんしょう 草案 そうあん が共和 きょうわ 国 こく 議会 ぎかい にかけられた。1933年 ねん 10月 がつ には数 すう 千 せん 人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ が裕福 ゆうふく な地主 じぬし の土地 とち を占領 せんりょう し、地主 じぬし は労働 ろうどう 者 しゃ に怨恨 えんこん の念 ねん を抱 だ いた。
1936年 ねん 7月 がつ にスペイン内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ すると、北部 ほくぶ 方面 ほうめん 司令 しれい 官 かん だったエミリオ・モラ (スペイン語 ご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん の下 もと でナバラ県 けん は即座 そくざ に反乱 はんらん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の支配 しはい 下 か に置 お かれた。その初期 しょき にはナショナリスト派 は の強硬 きょうこう 派 は によってテロ活動 かつどう が相次 あいつ ぎ、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ などがテロの対象 たいしょう となった。第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい 期 き には反 はん 教権 きょうけん 主義 しゅぎ が広 ひろ まったが、フランコは共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ とは対照 たいしょう 的 てき にカトリック教会 きょうかい を擁護 ようご したため、カトリック教会 きょうかい はフランコ率 ひき いるナショナリスト派 は を「十字軍 じゅうじぐん 」とさえ呼 よ んだ。特 とく にナバラ南部 なんぶ のエブロ河岸 かわぎし に沿 そ った地域 ちいき で大 だい 規模 きぼ な粛清 しゅくせい が行 おこな われ、聖職 せいしょく 者 しゃ らは自発 じはつ 的 てき に謀略 ぼうりゃく に加担 かたん した。少 すく なくとも2,857人 にん が殺害 さつがい され、さらに305人 にん が虐待 ぎゃくたい や栄養失調 えいようしっちょう などの理由 りゆう により刑務所 けいむしょ で死亡 しぼう した。死者 ししゃ は集団 しゅうだん 墓地 ぼち に埋 う められるか、ウルバサ山 さん などの中央 ちゅうおう 丘陵 きゅうりょう 地 ち にある峡谷 きょうこく に廃棄 はいき された。バスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ はより劣 おと った地 ち に追 お い払 はら われ、エステーリャ市長 しちょう でありCAオサスナ の共同 きょうどう 創設 そうせつ 者 しゃ だったフォルトゥナト・アギーレは1936年 ねん 9月 がつ に死刑 しけい に処 しょ された。パンプローナは1937年 ねん 4月 がつ 以降 いこう の北方 ほっぽう 作戦 さくせん 時 じ に、反乱 はんらん 軍 ぐん の作戦 さくせん 開始 かいし 地点 ちてん となった。
オプス・デイ が設立 せつりつ した私立 しりつ のナバラ大学 だいがく
スペイン内戦 ないせん 後 ご の1939年 ねん にはフランコ独裁 どくさい 政権 せいけん が成立 せいりつ し、アラバやナバラは内戦 ないせん 時 じ の支援 しえん の報酬 ほうしゅう として、フエロを想起 そうき させる特権 とっけん の数々 かずかず の維持 いじ が認 みと められた[81] 。内戦 ないせん 後 ご には物資 ぶっし の欠乏 けつぼう 、飢饉 ききん 、密輸 みつゆ などが深刻 しんこく 化 か し、経済 けいざい は小麦 こむぎ 、ブドウ、オリーブ、大麦 おおむぎ などの農業 のうぎょう に依存 いぞん し、人的 じんてき 移動 いどう は負 まけ の方向 ほうこう に傾 かたむ いた。戦争 せんそう の勝利 しょうり 者 しゃ はカルリスタとファランヒスタ (ファランヘ党 とう 支持 しじ 者 しゃ )というふたつの主要 しゅよう な派閥 はばつ に集 あつ まった[81] 。カトリック教会 きょうかい に関連 かんれん する組織 そしき であるオプス・デイ は、1952年 ねん にパンプローナにナバラ大学 だいがく を設立 せつりつ した。今日 きょう のナバラ大学 だいがく はもはやオプス・デイの所有 しょゆう 物 ぶつ ではないが、世界 せかい 規模 きぼ で活動 かつどう するオプス・デイにとって最大 さいだい の「お抱 かか え」大学 だいがく である。
1950年 ねん 頃 ごろ にはギプスコア県 けん やビスカヤ県 けん のように工業 こうぎょう 誘致 ゆうち を行 おこな い、化学 かがく 工業 こうぎょう 、製紙 せいし 業 ぎょう 、製鉄 せいてつ 業 ぎょう 、鉄鋼 てっこう 業 ぎょう などの企業 きぎょう がナバラ県 けん に進出 しんしゅつ した。ナバラ県 けん 第 だい 一 いち の産業 さんぎょう は農業 のうぎょう から工業 こうぎょう に入 い れ替 か わり、1950年 ねん からの20年間 ねんかん で、農業 のうぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ 割合 わりあい は55%から26%に低下 ていか した。特 とく にパンプローナの人口 じんこう ・企業 きぎょう 増加 ぞうか が大 おお きく、1978年 ねん にはナバラ県 けん 全体 ぜんたい の45%の人口 じんこう と60%の企業 きぎょう を集 あつ めていた。フランコ政権 せいけん 末期 まっき の民主 みんしゅ 化 か 準備 じゅんび 段階 だんかい において、ナバラ県 けん ではバスク祖国 そこく と自由 じゆう (ETA)、警察 けいさつ 、県 けん が後援 こうえん する民兵 みんぺい 組織 そしき による暴力 ぼうりょく 活動 かつどう が行 おこな われ、その風潮 ふうちょう は1980年代 ねんだい 以降 いこう まで続 つづ いた。
1975年 ねん にはフランシスコ・フランコ が死去 しきょ し、カルロス・アリアス・ナバーロ 政権 せいけん がスペインの民主 みんしゅ 化 か を推 お し進 すす めた。ビスカヤ県 けん 、ギプスコア県 けん 、アラバ県 けん のバスク3県 けん は1979年 ねん にバスク自治 じち 憲章 けんしょう を成立 せいりつ させてバスク自治 じち 州 しゅう を発足 ほっそく させたが、ナバラ県 けん では民主 みんしゅ 中道 ちゅうどう 連合 れんごう (UCD)とナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう (UPN)がナバラ県 けん のバスク州 しゅう への統合 とうごう に反対 はんたい した。1982年 ねん にはナバラ県 けん 単独 たんどく でナバラ州 しゅう に昇格 しょうかく し、ナバラ州 しゅう とバスク州 しゅう の分断 ぶんだん が決定的 けっていてき となった。1987年 ねん には公共 こうきょう 高等 こうとう 教育 きょういく の機会 きかい を与 あた えることを目的 もくてき としてナバラ州立 しゅうりつ 大学 だいがく が創設 そうせつ された[86] 。
ナバラ州 しゅう 議会 ぎかい の議席 ぎせき 分布 ぶんぷ (2015-2019) GBai 中心 ちゅうしん の与党 よとう UPN 中心 ちゅうしん の野党 やとう
いずれもバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ を志向 しこう するナバラ州 しゅう のバルコス 首相 しゅしょう (右 みぎ )とバスク州 しゅう のウルクリュ 首相 しゅしょう (左 ひだり )
フランコ独裁 どくさい 政権 せいけん の終焉 しゅうえん 後 ご 、1982年 ねん にナバラ県 けん が一 いち 県 けん でナバラ州 しゅう に昇格 しょうかく した。17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 16自治 じち 州 しゅう はスペイン1978年 ねん 憲法 けんぽう 第 だい 143条 じょう または第 だい 151条 じょう を根拠 こんきょ として自治 じち 州 しゅう を設置 せっち しているが、ナバラ州 しゅう のみは付則 ふそく 1を根拠 こんきょ としており、「ナバラのフエロス体制 たいせい の回復 かいふく と調整 ちょうせい に関 かん する法 ほう 」によって自治 じち 州 しゅう に昇格 しょうかく した。他 た の16自治 じち 州 しゅう のように自治 じち 憲章 けんしょう を制定 せいてい したわけではなく、中世 ちゅうせい からのフエロを復活 ふっかつ させるという形式 けいしき を取 と っている。17自治 じち 州 しゅう のうち15自治 じち 州 しゅう では中央 ちゅうおう 政府 せいふ が徴税 ちょうぜい した税金 ぜいきん の一部 いちぶ を各 かく 自治 じち 州 しゅう に分配 ぶんぱい しているが、ナバラ州 しゅう とバスク州 しゅう は各 かく 県 けん に徴税 ちょうぜい 権 けん があり、その一部 いちぶ が国庫 こっこ に納 おさ められるという、強力 きょうりょく な財政 ざいせい 上 じょう の自治 じち 権 けん を有 ゆう している。
他 た の自治 じち 州 しゅう 同様 どうよう に、ナバラ州 しゅう 議会 ぎかい は4年 ねん ごとに州 しゅう 議員 ぎいん 選挙 せんきょ を行 おこな っており、議会 ぎかい の多数 たすう 派 は がナバラ州 しゅう 政府 せいふ を担当 たんとう する州 しゅう 首相 しゅしょう を決定 けってい する。1979年 ねん には、国民 こくみん 同盟 どうめい (AP、国民党 こくみんとう の前身 ぜんしん )と提携 ていけい する地方 ちほう 政党 せいとう であるナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう (UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初 はつ の首相 しゅしょう に選出 せんしゅつ されたが、70議席 ぎせき 中 ちゅう 9議席 ぎせき を獲得 かくとく したバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 左派 さは 政党 せいとう も一定 いってい の強 つよ さを示 しめ した。1980年 ねん には民主 みんしゅ 中道 ちゅうどう 連合 れんごう (UCD、後 のち に解散 かいさん )から、1984年 ねん にはスペイン社会労働党 しゃかいろうどうとう (PSOE)のナバラ支部 しぶ であるナバラ社会党 しゃかいとう (スペイン語 ご 版 ばん ) (PSN)から州 しゅう 首相 しゅしょう が選出 せんしゅつ された。ナバラ社会党 しゃかいとう は7年間 ねんかん にわたって州 しゅう 首相 しゅしょう の座 ざ を維持 いじ し、1991年 ねん からの4年間 ねんかん はナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう が、1995年 ねん からの2年間 ねんかん はナバラ社会党 しゃかいとう が州 しゅう 首相 しゅしょう の座 ざ を担 にな ったが、1996年 ねん にはナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう が州 しゅう 首相 しゅしょう の座 ざ を奪 うば い返 かえ し、ミゲル・サンス が15年間 ねんかん に渡 わた って州 しゅう 首相 しゅしょう を務 つと めた[90] 。2011年 ねん にはサンスに代 か わってナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう のジョランダ・バルシーナ が女性 じょせい として初 はじ めて州 しゅう 首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した[90] 。
右派 うは のナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう と左派 さは のナバラ社会党 しゃかいとう に加 くわ え、バスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ を標榜 ひょうぼう する政党 せいとう も一定 いってい の支持 しじ 基盤 きばん を持 も つ。これらの政党 せいとう はナバラ州 しゅう とバスク州 しゅう の合併 がっぺい を指針 ししん に挙 あ げているが、ナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう はこの動 うご きに強固 きょうこ に反対 はんたい している。2002年 ねん 以後 いご にはバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 急進 きゅうしん 左派 さは が非合法 ひごうほう 化 か されたため、バスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう はいったん議席 ぎせき 数 すう を減 へ らしたものの、超党派 ちょうとうは のナファロア・バイ によって2007年 ねん 選挙 せんきょ で第 だい 2勢力 せいりょく となり、2011年 ねん 選挙 せんきょ ではバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく が過去 かこ 最大 さいだい の得票 とくひょう 率 りつ 29%と15議席 ぎせき を得 え た。2015年 ねん にはバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ 党 とう を中心 ちゅうしん とするゲロア・バイ のウシュエ・バルコス が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん し、1979年 ねん 以降 いこう で初 はじ めてバスク民族 みんぞく 主義 しゅぎ を掲 かか げる政権 せいけん が誕生 たんじょう した[94] 。ナバラ住民 じゅうみん 連合 れんごう は4議席 ぎせき 減 げん の15議席 ぎせき に終 お わり、ナバラ国民党 こくみんとう も議席 ぎせき 数 すう を半減 はんげん させた[94] 。2019年 ねん にはナバラ社会党 しゃかいとう のマリア・チビテ が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん し、3代 だい 連続 れんぞく で女性 じょせい が首相 しゅしょう を務 つと めることとなった。
レイツァ近郊 きんこう にあるレイツァ=ベルエテ風力 ふうりょく 発電 はつでん 所 しょ
1960年代 ねんだい までナバラ県 けん の経済 けいざい は第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう が中心 ちゅうしん だった。山岳 さんがく 部 ぶ では牧畜 ぼくちく が行 おこな われてトウモロコシやテンサイなどが栽培 さいばい され、中央 ちゅうおう 部 ぶ の盆地 ぼんち にはヒマワリやアブラナなどの加工 かこう 用 よう プランテーション が広 ひろ がり、エブロ川 がわ 流域 りゅういき にはオリーブやブドウの畑 はたけ が広 ひろ がっている。1960年代 ねんだい には工業 こうぎょう 化 か が始 はじ まり、当初 とうしょ は繊維 せんい 業 ぎょう や皮革 ひかく 業 ぎょう などが中心 ちゅうしん だったが、1973年 ねん には金属 きんぞく 工業 こうぎょう が第 だい 二 に 次 じ 産業 さんぎょう 分野 ぶんや の首位 しゅい となった。金属 きんぞく 工業 こうぎょう からはフォルクスワーゲン の工場 こうじょう と部品 ぶひん 工場 こうじょう を中心 ちゅうしん とする自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう が派生 はせい し、1980年代 ねんだい 後半 こうはん には自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう が優勢 ゆうせい となった。1994年 ねん の失業 しつぎょう 率 りつ は10.0%(スペイン平均 へいきん は20.8%)であり、17自治 じち 州 しゅう でもっとも低 ひく かった。
2000年代 ねんだい には第 だい 二 に 次 じ 産業 さんぎょう の中 なか で自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう と機械 きかい 鉱業 こうぎょう が抜 ぬ きんでており、主要 しゅよう 都市 とし の工業 こうぎょう 団地 だんち にその他 た の産業 さんぎょう の工場 こうじょう が存在 そんざい する。ペラルタ/アスコイエン(英語 えいご 版 ばん ) は金属 きんぞく 工業 こうぎょう 、エステーリャ はグラフィックアート、アリョ(英語 えいご 版 ばん ) やレイツァ(英語 えいご 版 ばん ) やサングエサ は製紙 せいし 業 ぎょう 、レサカ やベラデビダソア(英語 えいご 版 ばん ) は冶金 やきん 工業 こうぎょう 、オラスティ/オラサグティア(英語 えいご 版 ばん ) はセメント、カスカンテ(英語 えいご 版 ばん ) は繊維 せんい 業 ぎょう といった具合 ぐあい に、第 だい 二 に 次 じ 産業 さんぎょう は州 しゅう 各地 かくち に散 ち らばっている。また、2000年代 ねんだい には風力 ふうりょく 発電 はつでん 、光電池 こうでんち 、太陽光 たいようこう 発電 はつでん などのエネルギー産業 さんぎょう が著 いちじる しく発展 はってん し、再生 さいせい 可能 かのう エネルギー は州 しゅう 内 ない の電気 でんき エネルギー消費 しょうひ の60%を賄 まかな っている。スペイン銀行 ぎんこう によれば2012年 ねん 第 だい 一 いち 四半期 しはんき の失業 しつぎょう 率 りつ は16.3%であり、スペインの17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 16位 い の低 ひく さだった(スペイン平均 へいきん は24.4%)[97] 。
ナバラ銀行 ぎんこう
ナバラ貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう とパンプローナ貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう が合併 がっぺい して誕生 たんじょう したナバラ銀行 ぎんこう (スペイン語 ご 版 ばん ) はスペイン有数 ゆうすう の金融 きんゆう 機関 きかん だったが、2012年 ねん にはナバラ州 しゅう 政府 せいふ の高官 こうかん に対 たい して不自然 ふしぜん な支出 ししゅつ を行 おこな っていたこと(英語 えいご 版 ばん ) が明 あか るみとなり、貯蓄 ちょちく 銀行 ぎんこう (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) としての営業 えいぎょう は2013年 ねん に停止 ていし した[98] 。
域内 いきない 総 そう 生産 せいさん [ 編集 へんしゅう ]
1960年代 ねんだい から1980年代 ねんだい のナバラ県 けん は1人 ひとり あたり域内 いきない 総 そう 生産 せいさん (GRP)で常 つね にスペイン平均 へいきん を上回 うわまわ っており、スペイン平均 へいきん を100とした場合 ばあい の1962年 ねん の指数 しすう は114.8(17地域 ちいき 中 ちゅう 5位 い )、1975年 ねん の指数 しすう は113.5(17地域 ちいき 中 ちゅう 5位 い )、1987年 ねん の指数 しすう は116.9(17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 4位 い )、1994年 ねん の指数 しすう は118(17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 4位 い )だった。1994年 ねん の域内 いきない 総 そう 生産 せいさん の内訳 うちわけ は農業 のうぎょう が5.6%、工業 こうぎょう が34.5%、建設 けんせつ 業 ぎょう が7.2%、サービス業 ぎょう が52.7%であり、工業 こうぎょう 比率 ひりつ は17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 1位 い 、サービス業 ぎょう 比率 ひりつ は17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 17位 い だった。1994年 ねん 時点 じてん でナバラ州 しゅう は豊 ゆた かな農業 のうぎょう と新興 しんこう 工業 こうぎょう を有 ゆう しており、EU平均 へいきん の国内 こくない 総 そう 生産 せいさん を100とすると96だった。
2010年 ねん のナバラ州 しゅう の域内 いきない 総 そう 生産 せいさん は246億 おく GKドルであり、スペインの全 ぜん 17自治 じち 州 しゅう 中 ちゅう 14位 い にすぎないが[101] [102] 、1人 ひとり あたり域内 いきない 総 そう 生産 せいさん は38,736GKドル/人 ひと であり、バスク州 しゅう に次 つ いでスペイン第 だい 2位 い である(スペイン平均 へいきん は29,810GKドル)[103] [104] 。2012年 ねん の1人 ひとり 当 あ たり域内 いきない 総 そう 生産 せいさん は29,071ユーロ/人 ひと であり、バスク州 しゅう とマドリード州 しゅう に次 つ いでスペイン第 だい 3位 い だった(スペイン平均 へいきん は22,772ユーロ)[105] 。2008年 ねん から2011年 ねん の域内 いきない 総 そう 生産 せいさん 成長 せいちょう 率 りつ はスペインの全 ぜん 17州 しゅう でマイナスを記録 きろく したが、ナバラ州 しゅう の成長 せいちょう 率 りつ はマイナス0.33%であり、カスティーリャ・イ・レオン州 しゅう に次 つ いで2位 い だった(スペイン平均 へいきん はマイナス1.05%)[106] 。2015年 ねん 時点 じてん のナバラ州 しゅう の1人 ひとり あたり地域 ちいき 総 そう 生産 せいさん はEU平均 へいきん より約 やく 5%高 たか い位置 いち にある[107] 。
2言語 げんご で州 しゅう 名 めい を記 しる した立 たて 看板 かんばん (上 うえ :スペイン語 ご 、下 した :バスク語 ご )
地域 ちいき 別 べつ のバスク語 ご 話者 わしゃ 比率 ひりつ 高密度 こうみつど 低 てい 密度 みつど
スペイン語 ご はナバラ州 しゅう を含 ふく むスペイン全土 ぜんど の公用 こうよう 語 ご であるが、ナバラ州 しゅう のバスク語 ご が話 はな される地域 ちいき ではバスク語 ご も公用 こうよう 語 ご の地位 ちい を得 え ている[108] 。1986年 ねん には、ナバラ州 しゅう を言語 げんご によって3領域 りょういき に分割 ぶんかつ する法律 ほうりつ が制定 せいてい された。バスク語 ご が普及 ふきゅう している「バスク語 ご 圏 けん 」では、スペイン語 ご に加 くわ えてバスク語 ご も公用 こうよう 語 ご とされている。「混合 こんごう 圏 けん 」と「非 ひ バスク語 ご 圏 けん 」(スペイン語 ご 圏 けん )では段階 だんかい 的 てき にバスク語 ご の公的 こうてき 認知 にんち が弱 よわ められており[108] 、「混合 こんごう 圏 けん 」でもバスク語 ご は公用 こうよう 語 ご の地位 ちい を得 え ているものの、「非 ひ バスク語 ご 圏 けん 」では公用 こうよう 語 ご とされていない。北部 ほくぶ の山岳 さんがく 地帯 ちたい はバスク語 ご 話者 わしゃ 率 りつ が高 たか く、南部 なんぶ の平地 ひらち は早 はや い時期 じき からの異 い 民族 みんぞく の侵入 しんにゅう によってバスク語 ご 話者 わしゃ 率 りつ が低 ひく い。ナバラ州 しゅう におけるバスク語 ご 話者 わしゃ 人口 じんこう の約 やく 半数 はんすう がパンプローナ に集中 しゅうちゅう しているが、これはパンプローナの絶対 ぜったい 的 てき な人口 じんこう の多 おお さによるものであり、パンプローナのバスク語 ご 話者 わしゃ 率 りつ は約 やく 20%にすぎない。
2006年 ねん の調査 ちょうさ では、州民 しゅうみん の11.1%がバスク語 ご 話者 わしゃ 、7.6%が能動 のうどう 的 てき でないバスク語 ご 話者 わしゃ 、81.3%がスペイン語 ご の単一 たんいつ 話者 わしゃ だった。バスク語 ご 話者 わしゃ が9.5%だった1991年 ねん の調査 ちょうさ に比 くら べて、バスク語 ご 話者 わしゃ の割合 わりあい は増加 ぞうか している。年齢 ねんれい 別 べつ のバスク語 ご 話者 わしゃ 割合 わりあい は均質 きんしつ ではなく、35歳 さい 以上 いじょう で低 ひく いのに対 たい して、16-24歳 さい では20%以上 いじょう を記録 きろく している[112] 。2011年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によれば、バスク語 ご 話者 わしゃ は11.7%(63,000人 にん )と微増 びぞう した[112] 。バスク地方 ちほう では民主 みんしゅ 化 か 以後 いご に自治体 じちたい の公式 こうしき 名 めい をスペイン語 ご 名 めい からバスク語 ご 名 めい に改名 かいめい する動 うご きがみられ、ナバラ州 しゅう では272自治体 じちたい 中 ちゅう 110自治体 じちたい が自治体 じちたい 名 めい の変更 へんこう を行 おこな っている。
1987年 ねん 創設 そうせつ のナバラ州立 しゅうりつ 大学 だいがく
1952年 ねん にはカトリック教会 きょうかい に属 ぞく するオプス・デイ が、パンプローナにナバラ大学 だいがく を創設 そうせつ した。ナバラ大学 だいがく はパンプローナとギプスコア県 けん サン・セバスティアンの2か所 しょ にキャンパスを有 ゆう しており、経済 けいざい 学 がく ・経営 けいえい 学部 がくぶ はエコノミスト 誌 し やフィナンシャル・タイムズ 紙 かみ によって世界 せかい トップクラスの評価 ひょうか を受 う けている[115] 。医学部 いがくぶ は前衛 ぜんえい 的 てき な研究 けんきゅう を行 おこな っており、2004年 ねん には腫瘍 しゅよう 学 がく ・病理 びょうり 生理学 せいりがく ・神経 しんけい 科学 かがく ・生物 せいぶつ 医学 いがく の4ジャンルを合 あ わせもつ応用 おうよう 医学 いがく 研究 けんきゅう センターが開設 かいせつ された。ナバラ大学 だいがく では人文 じんぶん 科学 かがく や社会 しゃかい 科学 かがく の研究 けんきゅう も盛 さか んである。
1987年 ねん にはナバラ州 しゅう 初 はつ の公立大 こうりつだい 学 がく として、既存 きそん の高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん を統合 とうごう してナバラ州立 しゅうりつ 大学 だいがく が創設 そうせつ された[117] 。ナバラ州立 しゅうりつ 大学 だいがく は革新 かくしん 的 てき な学科 がっか 構造 こうぞう を取 と り入 い れており、大学 だいがく 研究 けんきゅう を企業 きぎょう 発展 はってん につなげることを目標 もくひょう としている。パンプローナとトゥデラ にはスペイン国立 こくりつ 通信 つうしん 教育 きょういく 大学 だいがく (UNED)のセンターが存在 そんざい する。
ナバラ州 しゅう では16歳 さい 未満 みまん の全 ぜん 児童 じどう 生徒 せいと の就学 しゅうがく が実現 じつげん しており、教育 きょういく 施設 しせつ は公立 こうりつ 学校 がっこう か私立 しりつ 学校 がっこう を選択 せんたく できる。特 とく にバスク語 ご が公用 こうよう 語 ご である地域 ちいき ではバスク語 ご 教育 きょういく の導入 どうにゅう が進 すす められており、公立 こうりつ 学校 がっこう ・私立 しりつ 学校 がっこう のそれぞれでバスク語 ご を学 まな んだり研究 けんきゅう したりすることができる。高等 こうとう 音楽 おんがく 教育 きょういく を行 おこな う学校 がっこう としてパブロ・サラサーテ音楽 おんがく 学校 がっこう があり、7校 こう の市立 しりつ 音楽 おんがく 学校 がっこう とその他 た の私立 しりつ 音楽 おんがく 学校 がっこう の頂点 ちょうてん に位置 いち する。高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん の他 ほか には、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒 ぶどうしゅ 醸造 じょうぞう 学 がく 研究所 けんきゅうじょ 、穀物 こくもつ ・牛 うし 技術 ぎじゅつ 研究所 けんきゅうじょ などの研究 けんきゅう 機関 きかん が存在 そんざい する。
パンプローナ空港 くうこう
ナバラ州 しゅう 内 ない には2005年 ねん 時点 じてん で3,636kmの道路 どうろ があり、うち209kmが有料 ゆうりょう または無料 むりょう の高速 こうそく 道路 どうろ 、540kmが一般 いっぱん 道路 どうろ 、457kmが州 しゅう 道 どう 、2,427kmが地方 ちほう 道 どう である。パンプローナを中心 ちゅうしん として、主要 しゅよう な道路 どうろ はウエスカ 、サラゴサ 、ログローニョ 、ビトリア=ガステイス 、サン・セバスティアン 、イルン に通 つう じている。トゥデラ =パンプローナ=アルツァス/アルサスア を結 むす ぶ軸 じく 、トゥデラ=ログローニョを結 むす ぶ軸 じく 、パンプローナ=エステーリャ =ログローニョを結 むす ぶ軸 じく の3本 ほん の軸 じく が道路 どうろ 交通 こうつう の中心 ちゅうしん である。環状 かんじょう 道路 どうろ がパンプローナ都市 とし 圏 けん を取 と り巻 ま いており、都市 とし 圏 けん の交通 こうつう 渋滞 じゅうたい を緩和 かんわ している。
サラゴサとビトリア=ガステイスを結 むす ぶ路線 ろせん が州 しゅう 唯一 ゆいいつ の鉄道 てつどう 路線 ろせん である。南部 なんぶ のトゥデラからタファリャ を通 とお ってパンプローナまで北 きた に向 む かい、パンプローナで西 にし に向 む きを変 か えて西部 せいぶ のアルツァス/アルサスアに至 いた る。主要 しゅよう 都市 とし の中 なか ではエステーリャを通 とお る鉄道 てつどう 路線 ろせん は存在 そんざい しない。トゥデラ近郊 きんこう ではサラゴサ方面 かたも 行 い きとログローニョ方面 かたも 行 い きの路線 ろせん が、アルツァス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面 かたも 行 い きとサン・セバスティアン方面 かたも 行 い きの路線 ろせん が分岐 ぶんき している。パンプローナから南 みなみ 6kmにはパンプローナ空港 くうこう があり、マドリード=バラハス空港 くうこう やバルセロナ=エル・プラット空港 くうこう などに向 む けて定期 ていき 便 びん が運行 うんこう されている。2010年 ねん には滑走 かっそう 路 ろ が延長 えんちょう されて2,405mとなり、また新 しん ターミナルが建設 けんせつ された。
ロンカル・チーズ
ナバラ州 しゅう は大西 おおにし 洋 ひろし にも地中海 ちちゅうかい にも面 めん していないが、ピレネー山麓 さんろく の河川 かせん で獲 え れたマスやサケなどの川 かわ 魚 ぎょ が料理 りょうり に用 もち いられることがあり、ナバラの伝統 でんとう 料理 りょうり として「マスのナバラ風 ふう 」[注 ちゅう 1] がある[121] 。肉 にく 料理 りょうり にはカルデレーテ(羊 ひつじ 肉 にく またはウサギ肉 にく と野菜 やさい の煮込 にこ み)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳 さんがく 部 ぶ ではヤマウズラ 、キジバト 、ウサギなどのジビエ (狩猟 しゅりょう 鳥獣 ちょうじゅう )が食材 しょくざい として用 もち いられる[121] 。
ナバラ (DO) やリオハ (DOC) などの保護 ほご 原産地 げんさんち 呼称 こしょう ワイン 、VPプラド・デ・イラチェやVPアリンサノやVPパゴ・デ・オタスなどの畑 はたけ 限定 げんてい 原産地 げんさんち 呼称 こしょう ワイン、アスパラガス、ピキーリョ (赤 あか ピーマン)、ロンカル (チーズ)、イディアサバル (チーズ)、パチャラン (果実 かじつ 酒 しゅ )にはDO (原産地 げんさんち 呼称 こしょう 制度 せいど )が導入 どうにゅう されている。河岸 かわぎし 地方 ちほう で生産 せいさん されるコゴーリョ(小型 こがた レタス)、アーティチョーク 、グリーンピース、ソラマメなどもナバラの代表 だいひょう 的 てき な野菜 やさい であり、またトゥデラ のモモ、エチャウリのサクランボなどの果物 くだもの などもある。スピノサスモモ の実 み をアニス酒 しゅ に漬 つ けたパチャランは家庭 かてい でも作 つく られており、モスカテル(甘口 あまくち ワイン)はデザートとしても選択 せんたく される。
パンプローナのサン・フェルミン祭 さい
ナバラ州 しゅう のすべての自治体 じちたい では守護 しゅご 聖人 せいじん を称 たた える祭礼 さいれい が開催 かいさい される。謝肉祭 しゃにくさい (カーニバル)、クリスマスのオレンツェロ (英語 えいご 版 ばん ) (大 だい 酒飲 さけの みの炭焼 すみや き職人 しょくにん )、サンパンツァルなども受 う け継 つ がれており、祭礼 さいれい 中 ちゅう のエンシエロ (牛追 うしお い)や巨 きょ 大人 おとな 形 がた は多 おお くの町 まち の祭礼 さいれい に見 み られる要素 ようそ である。山岳 さんがく 部 ぶ ではチストゥ (英語 えいご 版 ばん ) (3本 ほん 穴 あな の縦 たて 笛 ふえ )や小太鼓 こだいこ 、中央 ちゅうおう 部 ぶ や河岸 かわぎし 部 ぶ ではバグパイプ などの楽器 がっき が祭礼 さいれい を盛 も り上 あ げる。
個々 ここ の祭礼 さいれい では、7月 がつ に行 おこな われるパンプローナのサン・フェルミン祭 さい (牛追 うしお い祭 まつ り)、ランツの謝肉祭 しゃにくさい (ミエル・オチン)、レサカのオレンツェロなどが有名 ゆうめい であり、サン・フェルミン祭 さい は世界中 せかいじゅう から観光 かんこう 客 きゃく を集 あつ める。3月には州 しゅう 内外 ないがい からフランシスコ・ザビエル が生 う まれ育 そだ ったハビエル城 じょう に巡礼 じゅんれい 者 しゃ が集 あつ まり、聖 せい 週間 しゅうかん (イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼 さいれい が行 おこな われる。
ナバラの拠点 きょてん となる博物館 はくぶつかん は1956年 ねん に開館 かいかん したナバラ博物館 はくぶつかん (スペイン語 ご 版 ばん ) であり、またパンプローナ大 だい 聖堂 せいどう の修道院 しゅうどういん 別館 べっかん には司教 しきょう 区 く 博物館 はくぶつかん がある。ロンセスバーリェス 、コレーリャ、トゥレブラス、トゥデラ 、ハビエル城 じょう 内部 ないぶ などに宗教 しゅうきょう 芸術 げいじゅつ に関 かん する博物館 はくぶつかん があり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗 みんぞく 学 がく 博物館 はくぶつかん が、イラチェにはフリオ・カロ・バローハ 民俗 みんぞく 博物館 はくぶつかん が、ロンカルにはフリアン・ガヤレ邸 てい 博物館 はくぶつかん が、エステーリャ王宮 おうきゅう 内 ない にはグスターボ・デマエストゥ博物館 はくぶつかん がある。美術館 びじゅつかん には、アルスサにあるホルヘ・オテイサ 美術館 びじゅつかん 、アリスクンのサンチョテナ美術館 びじゅつかん 、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館 びじゅつかん などがある。スペインを代表 だいひょう する彫刻 ちょうこく 家 か のオテイサは、存命 ぞんめい 中 ちゅう の1992年 ねん に自身 じしん の全 ぜん 作品 さくひん 群 ぐん をナバラ州 しゅう 政府 せいふ に寄贈 きぞう した。ナバラ総合 そうごう 図書館 としょかん は50万 まん 冊 さつ 以上 いじょう の蔵書 ぞうしょ を持 も っている。
大 だい 規模 きぼ ホールにはナバラ州立 しゅうりつ バルアルテ会議 かいぎ コンサートホール、パンプローナ市立 しりつ ガヤレ劇場 げきじょう などがあり、コンサート、オペラ、演劇 えんげき などが行 おこな われる。音楽 おんがく コンクールには声楽 せいがく のフリアン・ガヤレ国際 こくさい コンクール、パブロ・サラサーテ 国際 こくさい ヴァイオリン・コンクールなどがあり、音楽 おんがく 団体 だんたい にはパブロ・サラサーテ交響 こうきょう 楽団 がくだん 、パンプローナ合唱 がっしょう 団 だん 、パンプローナ室内 しつない 合唱 がっしょう 団 だん 、パンプローナ交響 こうきょう 楽団 がくだん などがある。
19世紀 せいき に現 あらわ れたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダ (スペイン語 ご 版 ばん ) はロマン主義 しゅぎ ・伝統 でんとう 主義 しゅぎ の著作 ちょさく 家 か であり、20世紀 せいき 初頭 しょとう には小説 しょうせつ 家 か のフェリシュ・ウラバイェン (スペイン語 ご 版 ばん ) が非 ひ 順応 じゅんのう 主義 しゅぎ を表 あらわ した。詩人 しじん のアンヘル・ウルティア(Ángel Urrutia Iturbe)は雑誌 ざっし 「アルガ川 がわ 」を創刊 そうかん し、カルロス・バオスなどの作品 さくひん が掲載 けいさい された。他 た の20世紀 せいき の著作 ちょさく 家 か にはアンヘル・マリア・パスクアル(Ángel María Pascual)、ホセ・マリア・イリバレン (スペイン語 ご 版 ばん ) 、ラファエル・ガルシア・セラーノ (スペイン語 ご 版 ばん ) 、ホセ・マリア・サン・フアン(José María Sanjuán)などがいる。現代 げんだい 作家 さっか にはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる。
エウスカルツァインディア (バスク語 ご アカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究 けんきゅう 協会 きょうかい )がバスクに関 かん する調査 ちょうさ 研究 けんきゅう や文化 ぶんか 振興 しんこう を行 おこな っている。アンダルシア州 しゅう 、アストゥリアス州 しゅう 、カンタブリア州 しゅう 、カスティーリャ・イ・レオン州 しゅう 、カタルーニャ州 しゅう 、エストレマドゥーラ州 しゅう 、ガリシア州 しゅう 、バレンシア州 しゅう には同郷 どうきょう 州 しゅう 人 じん 会 かい がある。
ペロタ 競技 きょうぎ 中 ちゅう のティティン3世 せい
ナバラではサッカー、狩猟 しゅりょう 、ウィンタースポーツ、ペロタ・バスカ などのスポーツが行 おこな われており、サッカーとペロタは観 み るスポーツとしても人気 にんき がある。サッカーのCAオサスナ 、ハンドボールのSDCサン・アントニオ (2013年 ねん 解散 かいさん )、ペロタなどのプロチームがあり、フットサルのショタFS も全国 ぜんこく リーグで実績 じっせき を残 のこ している。ペロタの競技 きょうぎ 場 じょう は伝統 でんとう 的 てき に教会 きょうかい に隣接 りんせつ していることが多 おお く、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国 ぜんこく 選手権 せんしゅけん シングルス優勝 ゆうしょう 5度 ど )、アイマル・オライソラ(全国 ぜんこく 優勝 ゆうしょう 4度 ど )、バリオラ(全国 ぜんこく 優勝 ゆうしょう 1度 ど )、エウギ(全国 ぜんこく 優勝 ゆうしょう 3度 ど )、ルベン・ベロキ(バルセロナ五輪 ごりん 金 きん メダル)などの名 めい 選手 せんしゅ を輩出 はいしゅつ している。バスクの伝統 でんとう 的 てき スポーツであるアイスコラリ(丸太 まるた 切 ぎ り競技 きょうぎ )、アリハソツァイレ(石 いし の持 も ち上 あ げ競技 きょうぎ )なども活気 かっき がある。
出身 しゅっしん 人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
^ 「マスのナバラ風 ふう 」(トゥルチャ・ア・ラ・ナバラ, スペイン語 ご : Trucha a la Navarra )は背開 せびら きにしたマスの中 なか に生 なま ハムを挟 はさ んでオーブンで焼 や いた、ナバラ地方 ちほう 独特 どくとく の料理 りょうり である。出典 しゅってん は辻 つじ 勲 いさお 『専門 せんもん 料理 りょうり 全書 ぜんしょ スペイン料理 りょうり 』辻 つじ 学園 がくえん 調理 ちょうり 技術 ぎじゅつ 専門 せんもん 学校 がっこう 、1999年 ねん 、pp.68-69「ますのナバラ風 ふう 」
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