ナバラしゅう

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ナバラしゅう

Comunidad Foral de Navarra
Nafarroako Foru Komunitatea
ナバラの旗
はた
ナバラの紋章
紋章もんしょう
北緯ほくい4249ふん 西経せいけい139ふん / 北緯ほくい42.817 西経せいけい1.650 / 42.817; -1.650座標ざひょう: 北緯ほくい4249ふん 西経せいけい139ふん / 北緯ほくい42.817 西経せいけい1.650 / 42.817; -1.650
国名こくめい スペイン
州都しゅうと パンプローナ
けん ナバラけん
政府せいふ
 • 種別しゅべつ 自治じちけん委譲いじょう立憲りっけん君主くんしゅせい憲政けんせい
 • 議会ぎかい ナバラしゅう政府せいふ
 • 首相しゅしょう マリア・チビテ (PSN)
面積めんせき
 • 合計ごうけい 10,391 km2
面積めんせき順位じゅんい 11 (スペインちゅう2.2%)
人口じんこう
(2018ねん
 • 合計ごうけい 647,554にん
 • 密度みつど 62にん/km2
 • 順位じゅんい
15にん
  15はスペインちゅう1.3%
ナバラじん呼称こしょう
 • スペイン navarro(男性だんせいがた)、navarra(女性じょせいがた
 • バスク nafar, napartar
 • 英語えいご Navarrese
ISO 3166コード NA
自治じち州法しゅうほう 1982ねん8がつ16にち
公用こうよう バスクけん : スペイン
混合こんごうけん : スペインバスク
バスクけん : スペインとバスク
スペイン下院かいん 5にん(350にんちゅう
スペイン上院じょういん 5にん(264にんちゅう
ウェブサイト ナバラしゅう政府せいふ(バスク

ナバラしゅう(ナバラしゅう、スペイン: Navarra)またはナファロアしゅう(ナファロアしゅう、バスク: Nafarroa)は、スペイン自治じちしゅうである。いちけん一州いっしゅう自治じちしゅうであり、ナバラけん単独たんどく構成こうせいされる。州都しゅうとパンプローナ。スペインではだい2音節おんせつにアクセントがあるため、ナバーラしゅうとも表記ひょうきされる。

中世ちゅうせいのこの地域ちいきにはナバラ王国おうこく存在そんざいし、スペイン帝国ていこく併合へいごうされたのちふくおうりょうとして一定いってい自治じちけんていた。歴史れきしてきにはバスク地方ちほう一部いちぶではあるものの、フランコ体制たいせい民政みんせい移管いかん英語えいごばん(1975-1982)にはバスクしゅうへの合流ごうりゅうのぞまず、1982ねんにナバラけん単独たんどくでナバラしゅう発足ほっそくした。歴史れきしてき背景はいけい考慮こうりょされておおきな自治じちけんており、スペインのぜん17自治じちしゅうのうち課税かぜい自主権じしゅけんみとめられているのはナバラしゅうとバスクしゅうのみである。国家こっか公用こうようであるスペインくわえて、一部いちぶ地域ちいきでは地域ちいき言語げんごバスク公用こうよう指定していされている。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

正式せいしき名称めいしょうスペイン: Comunidad Foral de Navarra, [komuniˈðað foˈɾal de naˈβべーたara] : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ, バスク: Nafarroako Foru Komunitatea, [nafaroako foɾu komunitatea] : ナファロアコ・フォル・コムニタテア)は「ナバラ特権とっけんしゅう」の意味いみち、特権とっけんフエロ)とはかつてカスティーリャ王国おうこくかく地域ちいきみとめていた地域ちいき特別とくべつほうのことである。英語えいごフランス語ふらんすごではNavarre(英語えいご: [nəˈvɑːr]、ナヴァール)。ナバラとはバスクで「もり」または「オークはやし[1]、「山々やまやまかこまれた平原へいげん」という意味いみである[2]

地理ちり[編集へんしゅう]

地勢ちせい[編集へんしゅう]

ナバラしゅう地勢ちせい

北西ほくせいバスクしゅうアラバけんギプスコアけんみなみラ・リオハしゅうひがしアラゴンしゅうせっし、北東ほくとうは163kmにわたってフランス国境こっきょうせっしている[3]きたピレネー山脈さんみゃくからみなみエブロがわ流域りゅういき平原へいげんまで、ナバラしゅう地理ちり変化へんかんでおり[4]地理ちり学者がくしゃのアルフレド・フロリスタはナバラの景観けいかんを「ミニチュア大陸たいりく」と表現ひょうげんした[5]地形ちけい生物せいぶつ気候きこうがく観点かんてんから、ナバラしゅう山岳さんがく中央ちゅうおう河岸かわぎしの3地域ちいきけることができる[5][3]

山岳さんがくはナバラしゅう北部ほくぶめ、サブリージョンとして湿潤しつじゅん地帯ちたい、ピレネー渓谷けいこく、ピレネーぜんえん盆地ぼんちけられる[5]しゅう北西ほくせい湿潤しつじゅん地帯ちたい平均へいきん気温きおん摂氏せっし15年間ねんかん降水こうすいりょうやく1,400mmであり、広葉樹こうようじゅ牧草ぼくそう、シダるいなどの植生しょくせいがみられる[5]しゅう北東ほくとうのピレネー渓谷けいこくは、はげしい降雪こうせつ気温きおん変化へんか特徴とくちょうのピレネー山脈さんみゃく山麓さんろくから、西にしかうにつれて温暖おんだん気候きこう特徴とくちょう海洋かいようせい気候きこう変化へんかしている[5]。ピレネー渓谷けいこく北部ほくぶではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる[5]。ピレネーぜんえん盆地ぼんち植生しょくせいはカシるいやカシワるいなどの地中海ちちゅうかい広葉樹こうようじゅ目立めだ[5]。ナバラしゅう最高峰さいこうほう標高ひょうこう2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、トレス・レジェスの周囲しゅういには標高ひょうこう2,507mのアニほう山頂さんちょうはフランスりょう)や2,366mのペトレチェマなどがある[6]

アララール山地さんち

山岳さんがく河岸かわぎし中間ちゅうかんには中央ちゅうおうがあり、山地さんち丘陵きゅうりょうなどがみられる北部ほくぶから広大こうだい平野へいやひろがる南部なんぶまでがゆるやかに推移すいいしている[5]中央ちゅうおうなかでも気候きこうおおきく変化へんかし、東側ひがしがわ大陸たいりくせい気候きこうであり、北側きたがわ西岸せいがん海洋かいようせい気候きこう南側みなみがわ大陸たいりく地中海ちちゅうかいせい気候きこうである[5]中央ちゅうおうにはパンプローナやパンプローナ都市としけんがある。河岸かわぎしエブロがわ本流ほんりゅう支流しりゅう流域りゅういきであり、エステーリャトゥデラというふたつの主要しゅよう都市としがある。エステーリャ河岸かわぎしにはなだらかな尾根おねこう斜面しゃめんだにられ、トゥデラ河岸かわぎしには構造こうぞう平原へいげん沖積ちゅうせき低地ていちひろがっている[5]。トゥデラの北方ほっぽうにははん砂漠さばく地帯ちたいバルデナス・レアレスひろがり、ユネスコの生物せいぶつけん保護ほご指定していされている[7]河岸かわぎしとし降水こうすいりょうは400mmらずであり、山岳さんがくくらべて日照ひでり時間じかんながいほか、夏季かき冬季とうき気温きおんはげしい[5]

ナバラしゅう主要しゅよう河川かせんには、エステーリャをながれるエガがわスペインばん、パンプローナをながれるアルガがわ、サングエサをながれるアラゴンがわなどがある[5]。これらの河川かせんはいずれもエブロがわ支流しりゅうであり、きたからみなみながれてエブロがわそそいだのちは、南東なんとうながれてやがて地中海ちちゅうかいそそ[5]。スペインとバスク言語げんご境界きょうかいせん付近ふきん分水嶺ぶんすいれいがあり、しゅう北西ほくせい一部いちぶ地域ちいきからは、ウルメアがわビダソアがわレイツァランがわ英語えいごばんが、みなみからきたながれて大西おおにしひろしそそいでいる[5]

気候きこう[編集へんしゅう]

ビスケーわん影響えいきょうつよ北西ほくせい西岸せいがん海洋かいようせい気候きこうであり、バスタンたにやビダソアだに一年中いちねんじゅうみどりおおわれる[8]冬季とうき平均へいきん気温きおん摂氏せっし12おだやかであり、夏季かき平均へいきん気温きおん摂氏せっし22ごしやすい[8]。ピレネー山脈さんみゃくちか北東ほくとう山岳さんがく気候きこうであり、ナバラしゅうでもっともすずしい気候きこうである[8]冬季とうきには気温きおん氷点下ひょうてんかみ、標高ひょうこうたか斜面しゃめん積雪せきせつともな[8]。パンプローナをふく中央ちゅうおう変移へんい地帯ちたいであり、冬季とうき夏季かき気温きおんはげしい[8]冬季とうき晴天せいてんおおいが一定いってい降水こうすいもあり、夏季かきあつ乾燥かんそうするちゅうすずしい夜間やかん特徴とくちょうである[8]南部なんぶ地中海ちちゅうかいせい気候きこうであり、冬季とうきにはシエルソスペインばんばれる北風きたかぜく。夏季かきあつ乾燥かんそうし、気温きおんはしばしば摂氏せっし40たっする[8]

パンプローナの気候きこう
つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 とし
最高さいこう気温きおん記録きろく °C°F 19.5
(67.1)
23.6
(74.5)
30
(86)
29.6
(85.3)
33.5
(92.3)
38.5
(101.3)
40.2
(104.4)
40.6
(105.1)
38.8
(101.8)
30
(86)
27
(81)
20
(68)
40.6
(105.1)
平均へいきん最高さいこう気温きおん °C°F 9.1
(48.4)
10.9
(51.6)
14.6
(58.3)
16.4
(61.5)
20.2
(68.4)
25.2
(77.4)
28.2
(82.8)
28.3
(82.9)
24.5
(76.1)
19.3
(66.7)
13.1
(55.6)
9.7
(49.5)
18.4
(65.1)
にち平均へいきん気温きおん °C°F 5.2
(41.4)
6.3
(43.3)
9.1
(48.4)
10.9
(51.6)
14.7
(58.5)
18.6
(65.5)
21.2
(70.2)
21.4
(70.5)
18.2
(64.8)
14.1
(57.4)
9.0
(48.2)
6.0
(42.8)
12.9
(55.2)
平均へいきん最低さいてい気温きおん °C°F 1.4
(34.5)
1.6
(34.9)
3.7
(38.7)
5.3
(41.5)
8.6
(47.5)
11.9
(53.4)
14.2
(57.6)
14.5
(58.1)
12.0
(53.6)
8.9
(48)
4.8
(40.6)
2.2
(36)
7.4
(45.3)
最低さいてい気温きおん記録きろく °C°F −12.4
(9.7)
−15.2
(4.6)
−9
(16)
−2.2
(28)
−0.2
(31.6)
3.8
(38.8)
7
(45)
4.8
(40.6)
3.4
(38.1)
−1
(30)
−6.6
(20.1)
−14.2
(6.4)
−15.2
(4.6)
降水こうすいりょう mm (inch) 57
(2.24)
50
(1.97)
54
(2.13)
74
(2.91)
60
(2.36)
46
(1.81)
33
(1.3)
38
(1.5)
44
(1.73)
68
(2.68)
75
(2.95)
72
(2.83)
674
(26.54)
湿度しつど 78 72 66 65 63 59 57 58 62 69 76 78 67
平均へいきん月間げっかん日照ひでり時間じかん 93 125 177 185 228 268 310 282 219 164 108 88 2,240
出典しゅってん1:スペイン国立こくりつ気象庁きしょうちょう(Aemet)[9]
出典しゅってん2:スペイン国立こくりつ気象庁きしょうちょう(Aemet)[10]

人口じんこう[編集へんしゅう]

自治体じちたいべつ人口じんこう密度みつど
    高密度こうみつど     てい密度みつど

ナバラしゅうは272のムニシピオ基礎きそ自治体じちたい)からなる[11]人口じんこうやく1/3が州都しゅうとパンプローナ(195,769にん)にんでおり、人口じんこうやく半分はんぶんがパンプローナ都市としけん(315,988にん)にんでいる[12]人口じんこう20,000にん以上いじょう自治体じちたいはパンプローナ、河岸かわぎしトゥデラ、パンプローナ都市としけんバラニャインの3自治体じちたいであり、2013ねん時点じてんではしゅう全体ぜんたいの42.3%がこの3自治体じちたい居住きょじゅうしている[13]人口じんこう2,000にんから20,000にん自治体じちたいにはしゅう全体ぜんたいの39.2%が、人口じんこう2,000にん以下いか自治体じちたいしゅう全体ぜんたいの18.5%が居住きょじゅうしている[13]

ナバラしゅう自治体じちたい人口じんこう順位じゅんい(2013ねん[13]
# 人口じんこう 自治体じちたい 地域ちいき
1 196,955 パンプローナ 中部ちゅうぶ
2 35,369 トゥデラ 南部なんぶ河岸かわぎし
3 21,120 バラニャイン 中部ちゅうぶ(パンプローナ都市としけん
4 18,414 バリェ・デ・エグエス/エグエシバル 中部ちゅうぶ(パンプローナ都市としけん
5 18,248 ブルラーダ/ブルラタ 中部ちゅうぶ(パンプローナ都市としけん
6 14,120 シスール・マジョール/シスル・ナグシア 中部ちゅうぶ(パンプローナ都市としけん
7 13,947 エステーリャ 南部なんぶ河岸かわぎし
8 11,201 タファリャ 南部なんぶ河岸かわぎし

1900ねん時点じてんのナバラ地方ちほう人口じんこうはスペイン全体ぜんたいの1.7%だったが、20世紀せいきつうじてゆるやかに比率ひりつ低下ていかさせた結果けっか、1991ねん時点じてんでは1.3%となった[14]。ナバラしゅうより人口じんこうすくない自治じちしゅうラ・リオハしゅうカンタブリアしゅうだけであり、ナバラしゅう人口じんこうはスペインのぜん17自治じちしゅうちゅう15である。1900ねん人口じんこうは307,669にんだったが、2014ねんにはやく2ばいの640,356にんとなった[13]人口じんこう密度みつどは1900ねんの29にん/km2から2014ねんには61.4にん/km2増加ぞうかしたが、スペイン平均へいきん人口じんこう密度みつど92にん/km2下回したまわっている[13]。ピレネー渓谷けいこく南西なんせいのエステーリャ地域ちいきでは20世紀せいき初頭しょとうから人口じんこう減少げんしょうしつづけているが、パンプローナ盆地ぼんち河岸かわぎし地域ちいきでは人口じんこう増加ぞうかしている[12]。2000年代ねんだいにはラテンアメリカ、東欧とうおうきたアフリカなどからの移民いみん増加ぞうかしており[12]他国たこく出身しゅっしん人口じんこうやく70,000にん[13]比率ひりつではやく11%と推定すいていされている[15]


ナバラしゅう人口じんこう推移すいい 1900-2001
出典しゅってん:INE(スペイン国立こくりつ統計とうけいきょく)1900ねん - 1991ねん[16]、1996ねん - [17]

歴史れきし[編集へんしゅう]

先史せんし時代じだい古代こだい[編集へんしゅう]

古代こだいローマの影響えいきょうしめ硬貨こうか

ナバラにのこ最古さいこ考古学こうこがく遺跡いせきは、後期こうき旧石器時代きゅうせっきじだいマドレーヌ文化ぶんか(18,000ねんまえ - 11,000ねんまえ)のものである[18]北西ほくせいアララール山地さんちには金属きんぞく時代じだい初期しょき巨石きょせき記念きねんぶつドルメンメンヒルストーンサークル)がられ、南部なんぶからは鉄器てっき時代じだい集落しゅうらく発見はっけんされている[19]

そのやってきたケルトじんはバスク地方ちほう金属きんぞく加工かこうじゅつ火葬かそう習慣しゅうかんをもたらし、紀元前きげんぜん3世紀せいきにはカルタゴひとがピレネー山麓さんろくたっした[20]紀元前きげんぜん133ねんヌマンティア英語えいごばん攻囲こういせん古代こだいローマじんがケルトじんやぶると、紀元前きげんぜん75ねんにはグナエウス・ポンペイウス自身じしんちなんだ都市としポンパエロ(げんパンプローナ)を建設けんせつした[21]。ポンパエロには神殿しんでん公衆こうしゅう浴場よくじょう邸宅ていたくなどがきずかれてローマてき都市としとなり[22][23]、ブドウ、オリーブ、小麦こむぎなどのローマ作物さくもつだい規模きぼ農場のうじょうつくられた。東部とうぶサングエサルンビエルスペインばんなど、アラゴンがわアルガがわ河畔かはんまちはローマいちじるしく、ぎゃく山間さんかんたにはほとんどローマの影響えいきょうけなかった[22]。ローマ時代じだいキリスト教きりすときょうがバスク地方ちほう定着ていちゃくしていたとする有力ゆうりょく証拠しょうこはないが、伝承でんしょうによれば、レイレ修道院しゅうどういん建設けんせつは435ねん、イラチェ修道院しゅうどういん建設けんせつ西にしゴート時代じだいロンセスバーリェス修道院しゅうどういん建設けんせつは638ねんとされている[24]

ナバラ王国おうこく[編集へんしゅう]

ナバラ王国おうこく最大さいだい版図はんと(1030ねん

主要しゅようサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼じゅんれいである「フランスのみち」は2つのとうげによってピレネー山脈さんみゃくえ、ナバラ地方ちほうプエンテ・ラ・レイナ合流ごうりゅうする[25]。サンティアゴの巡礼じゅんれいは850ねん以後いご人気にんきて、巡礼じゅんれいしゃ往来おうらいは11世紀せいきにピークにたっした。ナバラは巡礼じゅんれいしゃせっするなかキリスト教きりすときょうれていった。

西にしゴートぞくフランクぞくも、この地域ちいき完全かんぜん征服せいふくするにはいたらなかった。778ねんカール大帝たいていひきいるフランクぞく軍隊ぐんたいはパンプローナの城壁じょうへき破壊はかいしたが、これに憤慨ふんがいしたバスクじんとのたたかい(ロンセスバーリェスのたたか)には大敗たいはいし、このたたかいは叙事詩じょじしローランのうたのモデルとなった。824ねんにはバスクじん族長ぞくちょうイニゴ・アリスタがイスラーム勢力せいりょくんでフランクぞく勝利しょうりし、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国おうこくナバラ王国おうこく)をおこした[26][27]

「ナバラ王国おうこく心臓しんぞう」ととなえられたレイレ修道院しゅうどういん

905ねんサンチョ1せいによってヒメネス王朝おうちょうはじまると、イスラーム教徒きょうととのあいだ領土りょうどうばいがかえされた[28]耕地こうちすくないナバラ地方ちほう人口じんこう過剰かじょう問題もんだいなやまされていたが、サンチョ1せいは8世紀せいき初頭しょとうからイスラーム教徒きょうとにあったリオハ地方ちほう併合へいごうして社会しゃかい経済けいざい基盤きばん拡充かくじゅうした[2]。10世紀せいきなかばにはレオン王国おうこく、アラバ領主りょうしゅカスティーリャ王国おうこくなどと婚姻こんいん関係かんけいむすんでいる[29]。10世紀せいきまつにはサンチョ2せい在位ざいい970ねん-994ねん)がむすめのウラカ・サンチェスをこうウマイヤあさ宰相さいしょうアル・マンスール・ビッ・ラーヒ英語えいごばんあたえて平和へいわ確保かくほしており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスのあいだにはこうウマイヤあさ最後さいごアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ英語えいごばんまれている[30]。パンプローナ王国おうこく首都しゅと司教しきょう主権しゅけん王国おうこくとなり、1000ねんまでにはナバラ王国おうこくとしてられるようになった[31]

1004ねん即位そくいしたサンチョ3せい大王だいおう)は、キリストきょう諸国しょこくとの政略せいりゃく結婚けっこんかえして、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクのしょ地域ちいき次々つぎつぎ同盟どうめい関係かんけいむすんで王国おうこく地位ちい強固きょうこなものとした[32][26][33]ピレネー山脈さんみゃく以南いなんイベリア半島はんとう)のキリスト教きりすときょうけんだい部分ぶぶん支配しはいした[34]、イベリア半島はんとうにおけるキリスト教きりすときょう勢力せいりょくの「覇権はけん国家こっか」となった[2]。サンチョ3せい西にしヨーロッパとの経済けいざい文化ぶんかてき交流こうりゅう活発かっぱつさせ、サンティアゴの巡礼じゅんれい整備せいび管理かんりちからそそいだ[33][2]。レコンキスタの過程かていキリスト教きりすときょう勢力せいりょく軍事ぐんじりょくがイスラームきょう勢力せいりょく上回うわまわったのはこの時期じきである[33]

1035ねんにサンチョ3せいくなると王国おうこく息子むすこたちに分割ぶんかつされ、その政治せいじりょくはサンチョ3せい時代じだいまで回復かいふくすることはなかった[35]。サンチョ3せい長子ちょうしであるガルシア3せいはカスティーリャおうフェルナンド1せいやぶれ、西部せいぶ国境こっきょう地域ちいきうしなっている[36]。1076ねんにはアラゴンおうサンチョ1せいがナバラ王国おうこく併合へいごうし、ナバラ王国おうこくアラゴン王国おうこく同君どうくん連合れんごうむすぶと、サンティアゴ巡礼じゅんれい活況かっきょうわせてパンプローナ、ハカエステーリャなどのまち成長せいちょうした[36]ガルシア6せい復興ふっこうおう)が王位おういいた1134ねんにはアラゴン王国おうこくから独立どくりつしてふたた主権しゅけんてたが[37]、カスティーリャ=レオン王国おうこくへの臣従しんじゅうとリオハ地方ちほう割譲かつじょう余儀よぎなくされている[36]。イベリア半島はんとうにおける政治せいじてき影響えいきょうりょく低下ていかさせた一方いっぽうで、巡礼じゅんれいつうじて貿易ぼうえきしょう巡礼じゅんれいしゃ流入りゅうにゅうしたため、ナバラ王国おうこく商業しょうぎょうてき重要じゅうようせいした[35]。ナバラ王国おうこく時代じだいにはイスラーム美術びじゅつまれ、トゥデラのモスクの廃墟はいきょレイレ修道院しゅうどういんやフィテロ(英語えいごばん)修道院しゅうどういん象牙ぞうげ細工ざいくしょうはこなどがのこっている[19]

ナバラ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされているイスラーム時代じだい象牙ぞうげばこ

12世紀せいきまつにはカスティーリャおうアルフォンソ8せいとアラゴンおうアルフォンソ2せい結託けったくしてナバラ王国おうこくみ、1200ねんにはビスケー湾岸わんがんのアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域ちいきうばわれた[38]。ナバラ王国おうこく海岸かいがんうしなって内陸ないりくこくとなり[39]、ピレネー山麓さんろく小国しょうこく地位ちいとした[38]。1212ねんにカトリック諸国しょこく連合れんごうぐんムワッヒドあさいどんだナバス・デ・トロサのたたかでは、サンチョ7せい不屈ふくつおう)がひきいるじゅうそう騎士きしだんがカトリック勢力せいりょく勝利しょうり貢献こうけんした[40][41]。このたたかいはレコンキスタさい征服せいふく運動うんどう)における転換てんかんてんであり、ムワッヒドあさ衰退すいたい決定的けっていてき要因よういんとなっている[42]

1234ねん死去しきょしたサンチョ7せいには嗣子ししがおらず、シャンパーニュテオバルド1せい即位そくいしてフランス王朝おうちょうはじまった[43][44]国王こくおうがいしてフランスにみ、実質じっしつてきにはナバラ総督そうとくがナバラ王国おうこく統治とうちした[45]。テオバルド1せいはフランス貴族きぞく要職ようしょくけ、ナバラ貴族きぞく特権とっけん侵害しんがいした[38]ため、歴代れきだい総督そうとくはナバラじんこころよおもわれなかった。そのためフランスから召喚しょうかんけたさいには代表だいひょうしゃおくることをこばんだり、王権おうけん主張しゅちょうする国王こくおう候補こうほコルテス(身分みぶんせい議会ぎかい)がこばんだこともあった[45]。ナバラ王国おうこくのフエロは女性じょせい王位おうい継承けいしょう寛容かんようだったが、女子じょし継承けいしょう否定ひていてきなフランスの伝統でんとうほうはナバラ王国おうこくにも適用てきようされた[45]。ナバラ地方ちほうのトゥデラにはレコンキスタムデハルさい征服せいふく地域ちいきのイスラーム教徒きょうと)やユダヤじんのこり、トゥデラ出身しゅっしんベンヤミンはじめて東方とうほう旅行りょこうしたヨーロッパじんとして『オリエント旅行りょこう』をのこしている[38]

現在げんざいのオリテ市街地しがいち王宮おうきゅうおく

1305ねんにはフランスおうがナバラ王らおうねたカペーあさはじまったが[38]、やはりフランス貴族きぞく要職ようしょく独占どくせんしたため、1328ねんにナバラのコルテス(身分みぶんせい議会ぎかい)はフアナ2せいをナバラ王らおう選出せんしゅつした[38]。フアナ2せい治世ちせいの1328ねんには、王国おうこくないでも生産せいさんてき開明かいめいてきだったユダヤじん迫害はくがいし、6,000にんいやった[46]。1348ねんから1349ねんには黒死病こくしびょうがナバラ王国おうこくにも蔓延まんえんし、人口じんこうの60%をうしなった[46]。これらのことがかさなり、14世紀せいきなか以降いこうのナバラ王国おうこく国力こくりょく弱体じゃくたいし、独立どくりつ喪失そうしつかいはじめた[46]。フアナ2せいいだカルロス2せい治世ちせいにはカスティーリャぐんやフランスぐんのナバラ王国おうこくへの侵攻しんこうけた[47]。1379ねんにはトゥデラじょうやエステーリャじょうふくむ20のとりでをカスティーリャ王国おうこく占領せんりょうされ[46]、カルロス2せいはフランスにあるほぼすべての領地りょうち喪失そうしつした[47]

1418ねんにはカルロス3せいオリテオリテ王宮おうきゅうスペインばん完成かんせいさせたが、かれが1425ねんくなったのち王国おうこくはもっとも混乱こんらんした時代じだいむかえた[48]。1441ねん女王じょおうブランカ1せい死去しきょすると、共同きょうどう君主くんしゅだったおっとフアン2せい長男ちょうなんカルロス王位おういゆずらず、1451ねんにはナバラ王国おうこく貴族きぞくあいだナバラ内戦ないせん発生はっせいした[49][50]。1479ねんに、近隣きんりんのアラゴン王国おうこくとカスティーリャ王国おうこく統合とうごうされてスペイン王国おうこくになると、イスラーム勢力せいりょくにある地域ちいきとナバラ王国おうこくのぞきイベリア半島はんとうをほぼ領有りょうゆうしていたので、1492ねんにグラナダを攻略こうりゃくしたのちには、ナバラ王国おうこく獲得かくとく関心かんしん集中しゅうちゅうさせた[51]

スペイン王国おうこくなか王国おうこく[編集へんしゅう]

フランシスコ・ザビエルそだったハビエルじょう

1512ねんにはカスティーリャ摂政せっしょうフェルナンド5せいがナバラ王国おうこく侵攻しんこうして併合へいごう[52][53]、ナバラ王国おうこくカスティーリャ王国おうこくふくおうりょうとなったが、立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほうかく機構きこうはナバラ王国おうこくのこされた[54]。ナバラじんはフランス王朝おうちょう終焉しゅうえんをそれほど残念ざんねんにはおもわず、カスティーリャ王国おうこくないでの自治じちけん保持ほじちからそそいだ[55]。1530ねん時点じてんで、現在げんざいのナバラしゅう相当そうとうする地域ちいきはスペイン全体ぜんたいの2.5%の人口じんこうゆうしていたが、スペイン王国おうこく統合とうごうされた影響えいきょうもあり、1591ねんには1.9%にまで減少げんしょうしている[14]

ナバラ王位おういにあったカタリナフアン3せいピレネー山脈さんみゃく北部ほくぶのがれ、1555ねんまでに、アルブレ女王じょおうジャンヌ・ダルブレひきいるナヴァール王国おうこく(ナヴァール=ベアルン王国おうこく)が確立かくりつされた。ピレネー山脈さんみゃく南側みなみがわでは、1610ねんにアンリ4せいがスペインがわのナバラ王国おうこく進軍しんぐん準備じゅんびおこなうまで、ふくおうりょうとしての王国おうこく不安定ふあんていなバランスのうえにあった。ナヴァールおうエンリケ3せいが1589ねんにフランスおうアンリ4せいとして即位そくいすると、歴代れきだいのフランスおうはナヴァールおうねた。フランスがわのナヴァール王国おうこくは1620ねんにフランス王国おうこく一部いちぶとなったが、1789ねんまで独自どくじ制度せいど権限けんげんゆうしていた[56]

17世紀せいきのナバラでは農業のうぎょうがほぼ唯一ゆいいつ経済けいざいであり、穀物こくもつやブドウの生産せいさん家畜かちく飼育しいくなどがおこなわれ、小麦こむぎ羊毛ようもう・ワインなど小規模しょうきぼ輸出ゆしゅつ貿易ぼうえきをおこなった[57]。スペイン海軍かいぐんふねにはナバラさん材木ざいもく使用しようされ、隣接りんせつするギプスコアに鉄鉱てっこうせきはこんだ[57]。17世紀せいきにおけるナバラとバスク全体ぜんたい人口じんこうやく35まんにんだった。この世紀せいきには黒死病こくしびょうさい流行りゅうこうによってスペイン全体ぜんたい人口じんこうが850まんにんから700まんにん減少げんしょうしており、ナバラやバスクは黒死病こくしびょうによる死者ししゃすくなかったが、社会しゃかいてき流出りゅうしゅつおおかったために人口じんこう増加ぞうかしなかった[57]

1659ねんにはピレネー条約じょうやくでスペイン・フランスの国境こっきょう確定かくていし、きたナバラとみなみナバラの分断ぶんだんによって長年ながねんいぶっていたナバラ問題もんだいえた[58]。スペインないでフエロを地域ちいき、アラゴン、カタルーニャ、バスクとくらべても、ナバラはたか水準すいじゅん自治じちけんゆうしており[59]、ナバラのみは例外れいがいてき司法しほうけん維持いじゆるされた[60]

だいいちカルリスタ戦争せんそうちゅうのメンディゴリアのたたか

18世紀せいき初頭しょとうでもナバラは、なお「王国おうこく」とばれていた[61]。1722ねんにスペイン・フランスあいだ税関ぜいかんがエブロかわうつされたおかげでフランスとの貿易ぼうえきさかんとなり、18世紀せいきのナバラでは商業しょうぎょう発達はったつした[62]農民のうみんはスペインの地方ちほうよりもゆたかならしをし、人口じんこうの5-10%をめる貴族きぞく割合わりあいはスペインでもっともたかかった[62]。18世紀せいきなかばには道路どうろもう整備せいび着手ちゃくしゅされ、現在げんざいのパンプローナ市庁舎しちょうしゃふく壮大そうだいバロック様式ようしき建物たてものいたるところにてられた[62]。18世紀せいきまつ時点じてんで、スペイン王国おうこくない独自どくじ司法しほう機関きかんふくおう議員ぎいんだん会計かいけいいんっていた地域ちいきはナバラのみだった[63]

フランスとスペインをふく連合れんごうぐんあいだスペイン独立どくりつ戦争せんそうこった19世紀せいき初頭しょとう、フランスの憲法けんぽう起草きそうしゃ[だれ?]はナバラ、スペイン・バスクフランスりょうバスク統合とうごうしてしんフェニキアという名称めいしょうのバスク統一とういつこくつくることを計画けいかくした[64]。ナポレオン自身じしんは、エブロがわ以北いほくをスペインと分断ぶんだんさせてフランスに編入へんにゅうさせることを計画けいかくした[64]。1813ねんのスペイン独立どくりつ戦争せんそうのスペインでは自由じゆう主義しゅぎてき思想しそう目立めだつようになり、中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい支持しじしゃ増加ぞうかした[65]。19世紀せいきのスペインでは王位おうい継承けいしょうけんをめぐる内乱ないらんカルリスタ戦争せんそう)がさんわたってこっており、この内乱ないらんはブルジョアなどの自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょく教会きょうかい貴族きぞくなどの絶対ぜったい主義しゅぎ勢力せいりょく(カルリスタ)あいだ代理だいり戦争せんそう意味合いみあいをていしていた。マドリードの中央ちゅうおう政府せいふ自由じゆう主義しゅぎてき政策せいさくしていたため、伝統でんとうてきしょ特権とっけん享受きょうじゅしたいバスク地方ちほうやナバラ地方ちほうにはドン・カルロス支持しじしゃ(カルリスタ)がおおかったが[66][67]だいいちカルリスタ戦争せんそう(1833-1839)はベルガラ協定きょうてい英語えいごばんでカルリスタがわ敗北はいぼく決定けっていした。この敗北はいぼくでカルリスタは強大きょうだい軍事ぐんじりょくうしなったものの政治せいじてき重要じゅうようせいたもち、のバスク地方ちほうやカタルーニャ地方ちほうこる民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどうにつなげた[67]どう時期じきにスペイン政府せいふ行政ぎょうせい改革かいかく一環いっかんとしてけん設置せっちすすめており、ナバラ王国おうこく相当そうとうする領域りょういきにはナバラけん設置せっちされている。

ナバラ王国おうこく廃止はいし[編集へんしゅう]

ガマサダパンプローナてられたフエロの記念きねん

1833ねんスペイン地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん再編さいへんではスペイン全土ぜんどに49けん設置せっちされ、ナバラ地域ちいきにはナバラけんのみが設置せっちされた。1841ねんにはナバラ特権とっけん政府せいふ代表だいひょう妥協だきょうほう署名しょめい[68]旧来きゅうらいのフエロが廃止はいしされてスペイン憲法けんぽう枠組わくぐみによるフエロの再編さいへんおこなわれた[69][70]関税かんぜい境界きょうかいがバスクとスペインの境界きょうかい(エブロがわ)からスペイン・フランス国境こっきょう(ピレネー山脈さんみゃく)に移動いどうすると、ピレネー山脈さんみゃくはさんだナバラの貿易ぼうえき慣習かんしゅう崩壊ほうかいし、税関ぜいかん経由けいゆしない密輸みつゆ勃興ぼっこうした。ビスカヤけんやギプスコアけんとはことなり、ナバラけんではこの時期じき製造せいぞうぎょう発展はってんせず、基本きほんてきには農村のうそん経済けいざいのこっていた。1872ねんから1876ねんだいさんカルリスタ戦争せんそうなかではふたたびカルリスタ勢力せいりょく敗北はいぼく[70]。1876ねん7がつ21にちほうはスペイン国家こっかたいする兵役へいえき納税のうぜいなどを規定きていしており、事実じじつじょうフエロが撤廃てっぱいされた法律ほうりつ解釈かいしゃくされている[70]。1877ねんには一般いっぱん評議ひょうぎかい特権とっけん議会ぎかい廃止はいしされ、バスク地方ちほう全域ぜんいきのスペインへの統合とうごう完了かんりょうした[70]

1893ねんから1894ねんにはパンプローナ中心ちゅうしんガマサダスペインばんばれる民衆みんしゅう蜂起ほうきこり、1841ねん特権とっけん規定きていや1876ねん財政ざいせい保証ほしょう廃止はいしなどのマドリード政府せいふ決定けってい抵抗ていこうした。アルフォンシノスとばれる小規模しょうきぼ派閥はばつのぞき、ナバラのすべての政党せいとうは、ラウラク・バット英語えいごばん(4つは1つ、スペイン・バスクの4けん統合とうごう目指めざかんがかた)を合言葉あいことばとする地方ちほう自治じちもとづいたあらたな政治せいじてき枠組わくぐみの必要ひつようせいについて合意ごういした。

絶対ぜったい主義しゅぎ勢力せいりょくがカルリスタ戦争せんそう敗北はいぼくすると、バスク地方ちほう地域ちいきではバスク民族みんぞく主義しゅぎ台頭たいとうしたが、ナバラでは状況じょうきょうことなった[71]。ナバラでは敗戦はいせんもカルリスタの影響えいきょうりょくおおきく、フエロの存続そんぞく大義たいぎとしてたもち、1936ねんまでは一定いってい政治せいじりょく発揮はっきしている[72]

だい共和きょうわせいした(1931ねん-1936ねん)の1931ねんには地域ちいき自治じちみとめる共和きょうわせい憲法けんぽう議会ぎかい承認しょうにんされたため[73]、バスク地方ちほうでは1932ねんにはバスク自治じち憲章けんしょうあんかく自治体じちたい代表だいひょうしゃ投票とうひょうにかけられたが、ナバラでの支持しじりつはスペイン・バスク4地域ちいきでもっともひくく50%以下いかであり、1933ねんにはナバラを分離ぶんりした自治じち憲章けんしょう草案そうあん共和きょうわこく議会ぎかいにかけられた[74]。1933ねん10がつにはすうせんにん労働ろうどうしゃ裕福ゆうふく地主じぬし土地とち占領せんりょうし、地主じぬし労働ろうどうしゃ怨恨えんこんねんいた[75]

1936ねん7がつスペイン内戦ないせん勃発ぼっぱつすると、北部ほくぶ方面ほうめん司令しれいかんだったエミリオ・モラスペインばん将軍しょうぐんもとでナバラけん即座そくざ反乱はんらんぐん英語えいごばん支配しはいかれた[76]。その初期しょきにはナショナリスト強硬きょうこうによってテロ活動かつどう相次あいつぎ、共産きょうさん主義しゅぎしゃなどがテロの対象たいしょうとなった[77]だい共和きょうわせいにははん教権きょうけん主義しゅぎひろまったが、フランコは共和きょうわこく政府せいふとは対照たいしょうてきにカトリック教会きょうかい擁護ようごしたため、カトリック教会きょうかいはフランコひきいるナショナリストを「十字軍じゅうじぐん」とさえんだ[78]とくにナバラ南部なんぶのエブロ河岸かわぎし沿った地域ちいきだい規模きぼ粛清しゅくせいおこなわれ、聖職せいしょくしゃらは自発じはつてき謀略ぼうりゃく加担かたんした[79]すくなくとも2,857にん殺害さつがいされ、さらに305にん虐待ぎゃくたい栄養失調えいようしっちょうなどの理由りゆうにより刑務所けいむしょ死亡しぼうした[80]死者ししゃ集団しゅうだん墓地ぼちめられるか、ウルバサさんなどの中央ちゅうおう丘陵きゅうりょうにある峡谷きょうこく廃棄はいきされた。バスク民族みんぞく主義しゅぎしゃはよりおとったはらわれ、エステーリャ市長しちょうでありCAオサスナ共同きょうどう創設そうせつしゃだったフォルトゥナト・アギーレは1936ねん9がつ死刑しけいしょされた。パンプローナは1937ねん4がつ以降いこう北方ほっぽう作戦さくせんに、反乱はんらんぐん作戦さくせん開始かいし地点ちてんとなった。

現代げんだい[編集へんしゅう]

オプス・デイ設立せつりつした私立しりつのナバラ大学だいがく

スペイン内戦ないせんの1939ねんにはフランコ独裁どくさい政権せいけん成立せいりつし、アラバやナバラは内戦ないせん支援しえん報酬ほうしゅうとして、フエロを想起そうきさせる特権とっけん数々かずかず維持いじみとめられた[81]内戦ないせんには物資ぶっし欠乏けつぼう飢饉ききん密輸みつゆなどが深刻しんこくし、経済けいざい小麦こむぎ、ブドウ、オリーブ、大麦おおむぎなどの農業のうぎょう依存いぞんし、人的じんてき移動いどうまけ方向ほうこうかたむいた。戦争せんそう勝利しょうりしゃはカルリスタとファランヒスタ(ファランヘとう支持しじしゃ)というふたつの主要しゅよう派閥はばつあつまった[81]。カトリック教会きょうかい関連かんれんする組織そしきであるオプス・デイは、1952ねんにパンプローナにナバラ大学だいがく設立せつりつした[82]今日きょうのナバラ大学だいがくはもはやオプス・デイの所有しょゆうぶつではないが、世界せかい規模きぼ活動かつどうするオプス・デイにとって最大さいだいの「おかかえ」大学だいがくである[82]

1950ねんごろにはギプスコアけんやビスカヤけんのように工業こうぎょう誘致ゆうちおこない、化学かがく工業こうぎょう製紙せいしぎょう製鉄せいてつぎょう鉄鋼てっこうぎょうなどの企業きぎょうがナバラけん進出しんしゅつした[83]。ナバラけんだいいち産業さんぎょう農業のうぎょうから工業こうぎょうわり、1950ねんからの20年間ねんかんで、農業のうぎょう従事じゅうじしゃ割合わりあいは55%から26%に低下ていかした[83]とくにパンプローナの人口じんこう企業きぎょう増加ぞうかおおきく、1978ねんにはナバラけん全体ぜんたいの45%の人口じんこうと60%の企業きぎょうあつめていた[83]。フランコ政権せいけん末期まっき民主みんしゅ準備じゅんび段階だんかいにおいて、ナバラけんではバスク祖国そこく自由じゆう(ETA)、警察けいさつけん後援こうえんする民兵みんぺい組織そしきによる暴力ぼうりょく活動かつどうおこなわれ、その風潮ふうちょうは1980年代ねんだい以降いこうまでつづいた。

1975ねんにはフランシスコ・フランコ死去しきょし、カルロス・アリアス・ナバーロ政権せいけんがスペインの民主みんしゅすすめた[84]。ビスカヤけん、ギプスコアけん、アラバけんのバスク3けんは1979ねんにバスク自治じち憲章けんしょう成立せいりつさせてバスク自治じちしゅう発足ほっそくさせたが、ナバラけんでは民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう(UCD)とナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN)がナバラけんのバスクしゅうへの統合とうごう反対はんたいした[85]。1982ねんにはナバラけん単独たんどくでナバラしゅう昇格しょうかくし、ナバラしゅうとバスクしゅう分断ぶんだん決定的けっていてきとなった[85]。1987ねんには公共こうきょう高等こうとう教育きょういく機会きかいあたえることを目的もくてきとしてナバラ州立しゅうりつ大学だいがく創設そうせつされた[86]

政治せいじ[編集へんしゅう]

ナバラしゅう議会ぎかい議席ぎせき分布ぶんぷ(2015-2019)
                GBai中心ちゅうしん与党よとう
       UPN中心ちゅうしん野党やとう
いずれもバスク民族みんぞく主義しゅぎ志向しこうするナバラしゅうバルコス首相しゅしょうみぎ)とバスクしゅうウルクリュ首相しゅしょうひだり

フランコ独裁どくさい政権せいけん終焉しゅうえん、1982ねんにナバラけんいちけんでナバラしゅう昇格しょうかくした[85]。17自治じちしゅうちゅう16自治じちしゅうスペイン1978ねん憲法けんぽうだい143じょうまたはだい151じょう根拠こんきょとして自治じちしゅう設置せっちしているが、ナバラしゅうのみは付則ふそく1を根拠こんきょとしており[87]、「ナバラのフエロス体制たいせい回復かいふく調整ちょうせいかんするほう」によって自治じちしゅう昇格しょうかくした[88]の16自治じちしゅうのように自治じち憲章けんしょう制定せいていしたわけではなく、中世ちゅうせいからのフエロを復活ふっかつさせるという形式けいしきっている[88]。17自治じちしゅうのうち15自治じちしゅうでは中央ちゅうおう政府せいふ徴税ちょうぜいした税金ぜいきん一部いちぶかく自治じちしゅう分配ぶんぱいしているが、ナバラしゅうバスクしゅうかくけん徴税ちょうぜいけんがあり、その一部いちぶ国庫こっこおさめられるという、強力きょうりょく財政ざいせいじょう自治じちけんゆうしている[89]

自治じちしゅう同様どうように、ナバラしゅう議会ぎかいは4ねんごとにしゅう議員ぎいん選挙せんきょおこなっており、議会ぎかい多数たすうがナバラしゅう政府せいふ担当たんとうするしゅう首相しゅしょう決定けっていする。1979ねんには、国民こくみん同盟どうめい(AP、国民党こくみんとう前身ぜんしん)と提携ていけいする地方ちほう政党せいとうであるナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴがはつ首相しゅしょう選出せんしゅつされたが、70議席ぎせきちゅう9議席ぎせき獲得かくとくしたバスク民族みんぞく主義しゅぎ左派さは政党せいとう一定いっていつよさをしめした[83]。1980ねんには民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう(UCD、のち解散かいさん)から、1984ねんにはスペイン社会労働党しゃかいろうどうとう(PSOE)のナバラ支部しぶであるナバラ社会党しゃかいとうスペインばん(PSN)からしゅう首相しゅしょう選出せんしゅつされた。ナバラ社会党しゃかいとうは7年間ねんかんにわたってしゅう首相しゅしょう維持いじし、1991ねんからの4年間ねんかんはナバラ住民じゅうみん連合れんごうが、1995ねんからの2年間ねんかんはナバラ社会党しゃかいとうしゅう首相しゅしょうになったが、1996ねんにはナバラ住民じゅうみん連合れんごうしゅう首相しゅしょううばかえし、ミゲル・サンスが15年間ねんかんわたってしゅう首相しゅしょうつとめた[90]。2011ねんにはサンスにわってナバラ住民じゅうみん連合れんごうジョランダ・バルシーナ女性じょせいとしてはじめてしゅう首相しゅしょう就任しゅうにんした[90]

右派うはのナバラ住民じゅうみん連合れんごう左派さはのナバラ社会党しゃかいとうくわえ、バスク民族みんぞく主義しゅぎ標榜ひょうぼうする政党せいとう一定いってい支持しじ基盤きばん[91]。これらの政党せいとうはナバラしゅうとバスクしゅう合併がっぺい指針ししんげているが、ナバラ住民じゅうみん連合れんごうはこのうごきに強固きょうこ反対はんたいしている[92]。2002ねん以後いごにはバスク民族みんぞく主義しゅぎ急進きゅうしん左派さは非合法ひごうほうされたため、バスク民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとうはいったん議席ぎせきすうらしたものの、超党派ちょうとうはナファロア・バイによって2007ねん選挙せんきょだい2勢力せいりょくとなり、2011ねん選挙せんきょではバスク民族みんぞく主義しゅぎ勢力せいりょく過去かこ最大さいだい得票とくひょうりつ29%と15議席ぎせき[93]。2015ねんにはバスク民族みんぞく主義しゅぎとう中心ちゅうしんとするゲロア・バイウシュエ・バルコス首相しゅしょう就任しゅうにんし、1979ねん以降いこうはじめてバスク民族みんぞく主義しゅぎかかげる政権せいけん誕生たんじょうした[94]。ナバラ住民じゅうみん連合れんごうは4議席ぎせきげんの15議席ぎせきわり、ナバラ国民党こくみんとう議席ぎせきすう半減はんげんさせた[94]。2019ねんにはナバラ社会党しゃかいとうマリア・チビテ首相しゅしょう就任しゅうにんし、3だい連続れんぞく女性じょせい首相しゅしょうつとめることとなった。

ナバラしゅう首相しゅしょう
# 期間きかん 名前なまえ 出身しゅっしん政党せいとう 備考びこう
だい1だい 1979-1980 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-AP) ナバラけん首相しゅしょう
だい2だい 1980-1984 フアン・マヌエル・アルサ・ムニュスリ 民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう(UCD) 任期にんきちゅうにナバラしゅう成立せいりつ
だい3だい 1984 ハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴ ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-AP)
だい4だい 1984-1991 ガブリエル・ウライブル ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE)
だい5だい 1991-1995 フアン・クルス・アリ ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-PP)
だい6だい 1995-1996 ハビエル・オターノ ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE)
だい7だい 1996 フアン・クルス・アリ ナバラ民主みんしゅ主義しゅぎしゃ統一とういつ(CDN)
だい8だい 1996-2011 ミゲル・サンス ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-PP)
だい9だい 2011-2015 ジョランダ・バルシーナ ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN) はつ女性じょせい首相しゅしょう
だい10代 2015-2019 ウシュエ・バルコス ゲロア・バイ(GBai) 女性じょせい首相しゅしょう
だい11だい 2019- マリア・チビテ ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE) 女性じょせい首相しゅしょう
ナバラしゅう議会ぎかい議長ぎちょう
# 期間きかん 名前なまえ 出身しゅっしん政党せいとう 備考びこう
1979-1983 ビクトル・マヌエル・アルベロア ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE) ナバラしゅう成立せいりつ以前いぜん
だい1だい 1983-1987 バルビーノ・バドス ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-AP)
だい2だい 1987-1991 イグナシオ・ハビエル・ゴマラ ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-PP)
だい3だい 1991-1995 ハビエル・オターノ ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE)
だい4だい 1995-1999 マリア・ドローレス・エグレン ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE) 女性じょせい議長ぎちょう
だい5だい 1999-2003 ホセ・ルイス・カステホン ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE)
だい6だい 2003-2007 ラファエル・グレア ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN-PP)
だい7だい 2007-2011 エレーナ・トーレス ナバラ社会党しゃかいとう(PSN-PSOE) 女性じょせい議長ぎちょう
だい8だい 2011-2015 アルベルト・カタラン ナバラ住民じゅうみん連合れんごう(UPN)
だい9だい 2015-2019 アイノア・アスナレス ポデーモス(P) 女性じょせい議長ぎちょう
だい10代 2019- ウナイ・ウアルデ ゲロア・バイ(GBai)

経済けいざい[編集へんしゅう]

レイツァ近郊きんこうにあるレイツァ=ベルエテ風力ふうりょく発電はつでんしょ

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

1960年代ねんだいまでナバラけん経済けいざいだいいち産業さんぎょう中心ちゅうしんだった[95]山岳さんがくでは牧畜ぼくちくおこなわれてトウモロコシやテンサイなどが栽培さいばいされ、中央ちゅうおう盆地ぼんちにはヒマワリやアブラナなどの加工かこうようプランテーションひろがり、エブロがわ流域りゅういきにはオリーブやブドウのはたけひろがっている[95]。1960年代ねんだいには工業こうぎょうはじまり、当初とうしょ繊維せんいぎょう皮革ひかくぎょうなどが中心ちゅうしんだったが、1973ねんには金属きんぞく工業こうぎょうだい産業さんぎょう分野ぶんや首位しゅいとなった[95]金属きんぞく工業こうぎょうからはフォルクスワーゲン工場こうじょう部品ぶひん工場こうじょう中心ちゅうしんとする自動車じどうしゃ産業さんぎょう派生はせいし、1980年代ねんだい後半こうはんには自動車じどうしゃ産業さんぎょう優勢ゆうせいとなった[95]。1994ねん失業しつぎょうりつは10.0%(スペイン平均へいきんは20.8%)であり、17自治じちしゅうでもっともひくかった[96]

2000年代ねんだいにはだい産業さんぎょうなか自動車じどうしゃ産業さんぎょう機械きかい鉱業こうぎょうきんでており、主要しゅよう都市とし工業こうぎょう団地だんちにその産業さんぎょう工場こうじょう存在そんざいする。ペラルタ/アスコイエン(英語えいごばん)金属きんぞく工業こうぎょうエステーリャはグラフィックアート、アリョ(英語えいごばん)やレイツァ(英語えいごばん)サングエサ製紙せいしぎょうレサカやベラデビダソア(英語えいごばん)冶金やきん工業こうぎょう、オラスティ/オラサグティア(英語えいごばん)はセメント、カスカンテ(英語えいごばん)繊維せんいぎょうといった具合ぐあいに、だい産業さんぎょうしゅう各地かくちらばっている[95]。また、2000年代ねんだいには風力ふうりょく発電はつでん光電池こうでんち太陽光たいようこう発電はつでんなどのエネルギー産業さんぎょういちじるしく発展はってんし、再生さいせい可能かのうエネルギーしゅうない電気でんきエネルギー消費しょうひの60%をまかなっている[95]。スペイン銀行ぎんこうによれば2012ねんだいいち四半期しはんき失業しつぎょうりつは16.3%であり、スペインの17自治じちしゅうちゅう16ひくさだった(スペイン平均へいきんは24.4%)[97]

ナバラ銀行ぎんこう

ナバラ貯蓄ちょちく銀行ぎんこうとパンプローナ貯蓄ちょちく銀行ぎんこう合併がっぺいして誕生たんじょうしたナバラ銀行ぎんこうスペインばんはスペイン有数ゆうすう金融きんゆう機関きかん[95]だったが、2012ねんにはナバラしゅう政府せいふ高官こうかんたいして不自然ふしぜん支出ししゅつおこなっていたこと(英語えいごばん)あかるみとなり、貯蓄ちょちく銀行ぎんこうスペインばん英語えいごばんとしての営業えいぎょうは2013ねん停止ていしした[98]

域内いきないそう生産せいさん[編集へんしゅう]

1960年代ねんだいから1980年代ねんだいのナバラけん1人ひとりあたり域内いきないそう生産せいさん(GRP)でつねにスペイン平均へいきん上回うわまわっており、スペイン平均へいきんを100とした場合ばあいの1962ねん指数しすうは114.8(17地域ちいきちゅう5[99]、1975ねん指数しすうは113.5(17地域ちいきちゅう5[99]、1987ねん指数しすうは116.9(17自治じちしゅうちゅう4[99]、1994ねん指数しすうは118(17自治じちしゅうちゅう4[96]だった。1994ねん域内いきないそう生産せいさん内訳うちわけ農業のうぎょうが5.6%、工業こうぎょうが34.5%、建設けんせつぎょうが7.2%、サービスぎょうが52.7%であり、工業こうぎょう比率ひりつは17自治じちしゅうちゅう1、サービスぎょう比率ひりつは17自治じちしゅうちゅう17だった[96]。1994ねん時点じてんでナバラしゅうゆたかな農業のうぎょう新興しんこう工業こうぎょうゆうしており、EU平均へいきん国内こくないそう生産せいさんを100とすると96だった[100]

2010ねんのナバラしゅう域内いきないそう生産せいさんは246おくGKドルであり、スペインのぜん17自治じちしゅうちゅう14にすぎないが[101][102]1人ひとりあたり域内いきないそう生産せいさんは38,736GKドル/ひとであり、バスクしゅういでスペインだい2である(スペイン平均へいきんは29,810GKドル)[103][104]。2012ねん1人ひとりたり域内いきないそう生産せいさんは29,071ユーロ/ひとであり、バスクしゅうとマドリードしゅういでスペインだい3だった(スペイン平均へいきんは22,772ユーロ)[105]。2008ねんから2011ねん域内いきないそう生産せいさん成長せいちょうりつはスペインのぜん17しゅうでマイナスを記録きろくしたが、ナバラしゅう成長せいちょうりつはマイナス0.33%であり、カスティーリャ・イ・レオンしゅういで2だった(スペイン平均へいきんはマイナス1.05%)[106]。2015ねん時点じてんのナバラしゅう1人ひとりあたり地域ちいきそう生産せいさんはEU平均へいきんよりやく5%たか位置いちにある[107]

社会しゃかい[編集へんしゅう]

言語げんご[編集へんしゅう]

2言語げんごしゅうめいしるしたたて看板かんばんうえ:スペインした:バスク
地域ちいきべつのバスク話者わしゃ比率ひりつ
    高密度こうみつど     てい密度みつど

スペインはナバラしゅうふくむスペイン全土ぜんど公用こうようであるが、ナバラしゅうのバスクはなされる地域ちいきではバスク公用こうよう地位ちいている[108]。1986ねんには、ナバラしゅう言語げんごによって3領域りょういき分割ぶんかつする法律ほうりつ制定せいていされた[109]。バスク普及ふきゅうしている「バスクけん」では、スペインくわえてバスク公用こうようとされている。「混合こんごうけん」と「バスクけん」(スペインけん)では段階だんかいてきにバスク公的こうてき認知にんちよわめられており[108][109]、「混合こんごうけん」でもバスク公用こうよう地位ちいているものの、「バスクけん」では公用こうようとされていない。北部ほくぶ山岳さんがく地帯ちたいはバスク話者わしゃりつたかく、南部なんぶ平地ひらちはや時期じきからの民族みんぞく侵入しんにゅうによってバスク話者わしゃりつひく[110]。ナバラしゅうにおけるバスク話者わしゃ人口じんこうやく半数はんすうパンプローナ集中しゅうちゅうしているが、これはパンプローナの絶対ぜったいてき人口じんこうおおさによるものであり、パンプローナのバスク話者わしゃりつやく20%にすぎない[110]

2006ねん調査ちょうさでは、州民しゅうみんの11.1%がバスク話者わしゃ、7.6%が能動のうどうてきでないバスク話者わしゃ、81.3%がスペイン単一たんいつ話者わしゃだった。バスク話者わしゃが9.5%だった1991ねん調査ちょうさくらべて、バスク話者わしゃ割合わりあい増加ぞうかしている[111]年齢ねんれいべつのバスク話者わしゃ割合わりあい均質きんしつではなく、35さい以上いじょうひくいのにたいして、16-24さいでは20%以上いじょう記録きろくしている[112]。2011ねん国勢調査こくせいちょうさによれば、バスク話者わしゃは11.7%(63,000にん)と微増びぞうした[112]。バスク地方ちほうでは民主みんしゅ以後いご自治体じちたい公式こうしきめいをスペインめいからバスクめい改名かいめいするうごきがみられ[113]、ナバラしゅうでは272自治体じちたいちゅう110自治体じちたい自治体じちたいめい変更へんこうおこなっている[114]

教育きょういく[編集へんしゅう]

1987ねん創設そうせつのナバラ州立しゅうりつ大学だいがく

1952ねんにはカトリック教会きょうかいぞくするオプス・デイが、パンプローナにナバラ大学だいがく創設そうせつした[82]。ナバラ大学だいがくはパンプローナとギプスコアけんサン・セバスティアンの2かしょにキャンパスをゆうしており、経済けいざいがく経営けいえい学部がくぶエコノミストフィナンシャル・タイムズかみによって世界せかいトップクラスの評価ひょうかけている[115]医学部いがくぶ前衛ぜんえいてき研究けんきゅうおこなっており、2004ねんには腫瘍しゅようがく病理びょうり生理学せいりがく神経しんけい科学かがく生物せいぶつ医学いがくの4ジャンルをわせもつ応用おうよう医学いがく研究けんきゅうセンターが開設かいせつされた[116]。ナバラ大学だいがくでは人文じんぶん科学かがく社会しゃかい科学かがく研究けんきゅうさかんである[116]

1987ねんにはナバラしゅうはつ公立大こうりつだいがくとして、既存きそん高等こうとう教育きょういく機関きかん統合とうごうしてナバラ州立しゅうりつ大学だいがく創設そうせつされた[116][117]。ナバラ州立しゅうりつ大学だいがく革新かくしんてき学科がっか構造こうぞうれており、大学だいがく研究けんきゅう企業きぎょう発展はってんにつなげることを目標もくひょうとしている[116]。パンプローナとトゥデラにはスペイン国立こくりつ通信つうしん教育きょういく大学だいがく(UNED)のセンターが存在そんざいする[116]

ナバラしゅうでは16さい未満みまんぜん児童じどう生徒せいと就学しゅうがく実現じつげんしており、教育きょういく施設しせつ公立こうりつ学校がっこう私立しりつ学校がっこう選択せんたくできる[116]とくにバスク公用こうようである地域ちいきではバスク教育きょういく導入どうにゅうすすめられており、公立こうりつ学校がっこう私立しりつ学校がっこうのそれぞれでバスクまなんだり研究けんきゅうしたりすることができる[116]高等こうとう音楽おんがく教育きょういくおこな学校がっこうとしてパブロ・サラサーテ音楽おんがく学校がっこうがあり、7こう市立しりつ音楽おんがく学校がっこうとその私立しりつ音楽おんがく学校がっこう頂点ちょうてん位置いちする[118]高等こうとう教育きょういく機関きかんほかには、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒ぶどうしゅ醸造じょうぞうがく研究所けんきゅうじょ穀物こくもつうし技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょなどの研究けんきゅう機関きかん存在そんざいする[116]

交通こうつう[編集へんしゅう]

パンプローナ空港くうこう

ナバラしゅうないには2005ねん時点じてんで3,636kmの道路どうろがあり、うち209kmが有料ゆうりょうまたは無料むりょう高速こうそく道路どうろ、540kmが一般いっぱん道路どうろ、457kmがしゅうどう、2,427kmが地方ちほうどうである[119]。パンプローナを中心ちゅうしんとして、主要しゅよう道路どうろウエスカサラゴサログローニョビトリア=ガステイスサン・セバスティアンイルンつうじている[119]トゥデラ=パンプローナ=アルツァス/アルサスアむすじく、トゥデラ=ログローニョをむすじく、パンプローナ=エステーリャ=ログローニョをむすじくの3ほんじく道路どうろ交通こうつう中心ちゅうしんである[119]環状かんじょう道路どうろがパンプローナ都市としけんいており、都市としけん交通こうつう渋滞じゅうたい緩和かんわしている[119]

サラゴサとビトリア=ガステイスをむす路線ろせんしゅう唯一ゆいいつ鉄道てつどう路線ろせんである。南部なんぶのトゥデラからタファリャとおってパンプローナまできたかい、パンプローナで西にしきをえて西部せいぶのアルツァス/アルサスアにいた[119]主要しゅよう都市としなかではエステーリャをとお鉄道てつどう路線ろせん存在そんざいしない。トゥデラ近郊きんこうではサラゴサ方面かたもきとログローニョ方面かたもきの路線ろせんが、アルツァス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面かたもきとサン・セバスティアン方面かたもきの路線ろせん分岐ぶんきしている。パンプローナからみなみ6kmにはパンプローナ空港くうこうがあり、マドリード=バラハス空港くうこうバルセロナ=エル・プラット空港くうこうなどにけて定期ていき便びん運行うんこうされている[119]。2010ねんには滑走かっそう延長えんちょうされて2,405mとなり、またしんターミナルが建設けんせつされた。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

料理りょうり[編集へんしゅう]

ロンカル・チーズ

ナバラしゅう大西おおにしひろしにも地中海ちちゅうかいにもめんしていないが、ピレネー山麓さんろく河川かせんれたマスやサケなどのかわぎょ料理りょうりもちいられることがあり[120]、ナバラの伝統でんとう料理りょうりとして「マスのナバラふう[ちゅう 1]がある[120][121]にく料理りょうりにはカルデレーテ(ひつじにくまたはウサギにく野菜やさい煮込にこみ)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳さんがくではヤマウズラキジバト、ウサギなどのジビエ狩猟しゅりょう鳥獣ちょうじゅう)が食材しょくざいとしてもちいられる[120][121]

ナバラ (DO)リオハ (DOC)などの保護ほご原産地げんさんち呼称こしょうワイン、VPプラド・デ・イラチェやVPアリンサノやVPパゴ・デ・オタスなどのはたけ限定げんてい原産地げんさんち呼称こしょうワイン、アスパラガス、ピキーリョあかピーマン)、ロンカル(チーズ)、イディアサバル(チーズ)、パチャラン果実かじつしゅ)にはDO原産地げんさんち呼称こしょう制度せいど)が導入どうにゅうされている[95]河岸かわぎし地方ちほう生産せいさんされるコゴーリョ(小型こがたレタス)、アーティチョーク、グリーンピース、ソラマメなどもナバラの代表だいひょうてき野菜やさいであり[120]、またトゥデラのモモ、エチャウリのサクランボなどの果物くだものなどもある[120]スピノサスモモをアニスしゅけたパチャランは家庭かていでもつくられており、モスカテル(甘口あまくちワイン)はデザートとしても選択せんたくされる[120]

祭礼さいれい[編集へんしゅう]

パンプローナのサン・フェルミンさい

ナバラしゅうのすべての自治体じちたいでは守護しゅご聖人せいじんたたえる祭礼さいれい開催かいさいされる[122]謝肉祭しゃにくさい(カーニバル)、クリスマスのオレンツェロ英語えいごばんだい酒飲さけのみの炭焼すみや職人しょくにん)、サンパンツァルなどもがれており、祭礼さいれいちゅうエンシエロ牛追うしおい)やきょ大人おとながたおおくのまち祭礼さいれいられる要素ようそである[122]山岳さんがくではチストゥ英語えいごばん(3ほんあなたてふえ)や小太鼓こだいこ中央ちゅうおう河岸かわぎしではバグパイプなどの楽器がっき祭礼さいれいげる[122]

個々ここ祭礼さいれいでは、7がつおこなわれるパンプローナのサン・フェルミンさい牛追うしおまつり)、ランツの謝肉祭しゃにくさい(ミエル・オチン)、レサカのオレンツェロなどが有名ゆうめいであり、サン・フェルミンさい世界中せかいじゅうから観光かんこうきゃくあつめる[122]。3月にはしゅう内外ないがいからフランシスコ・ザビエルまれそだったハビエルじょう巡礼じゅんれいしゃあつまり、せい週間しゅうかん(イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼さいれいおこなわれる[122]

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

ナバラの拠点きょてんとなる博物館はくぶつかんは1956ねん開館かいかんしたナバラ博物館はくぶつかんスペインばんであり、またパンプローナだい聖堂せいどう修道院しゅうどういん別館べっかんには司教しきょう博物館はくぶつかんがある[118]ロンセスバーリェス、コレーリャ、トゥレブラス、トゥデラハビエルじょう内部ないぶなどに宗教しゅうきょう芸術げいじゅつかんする博物館はくぶつかんがあり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗みんぞくがく博物館はくぶつかんが、イラチェにはフリオ・カロ・バローハ民俗みんぞく博物館はくぶつかんが、ロンカルにはフリアン・ガヤレてい博物館はくぶつかんが、エステーリャ王宮おうきゅうないにはグスターボ・デマエストゥ博物館はくぶつかんがある[118]美術館びじゅつかんには、アルスサにあるホルヘ・オテイサ美術館びじゅつかん、アリスクンのサンチョテナ美術館びじゅつかん、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館びじゅつかんなどがある[118]。スペインを代表だいひょうする彫刻ちょうこくのオテイサは、存命ぞんめいちゅうの1992ねん自身じしんぜん作品さくひんぐんをナバラしゅう政府せいふ寄贈きぞうした[123]。ナバラ総合そうごう図書館としょかんは50まんさつ以上いじょう蔵書ぞうしょっている[118]

だい規模きぼホールにはナバラ州立しゅうりつバルアルテ会議かいぎコンサートホール、パンプローナ市立しりつガヤレ劇場げきじょうなどがあり、コンサート、オペラ、演劇えんげきなどがおこなわれる[118]音楽おんがくコンクールには声楽せいがくのフリアン・ガヤレ国際こくさいコンクール、パブロ・サラサーテ国際こくさいヴァイオリン・コンクールなどがあり、音楽おんがく団体だんたいにはパブロ・サラサーテ交響こうきょう楽団がくだん、パンプローナ合唱がっしょうだん、パンプローナ室内しつない合唱がっしょうだん、パンプローナ交響こうきょう楽団がくだんなどがある[118]

19世紀せいきあらわれたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダスペインばんはロマン主義しゅぎ伝統でんとう主義しゅぎ著作ちょさくであり、20世紀せいき初頭しょとうには小説しょうせつフェリシュ・ウラバイェンスペインばん順応じゅんのう主義しゅぎあらわした[118]詩人しじんのアンヘル・ウルティア(Ángel Urrutia Iturbe)は雑誌ざっし「アルガがわ」を創刊そうかんし、カルロス・バオスなどの作品さくひん掲載けいさいされた[118]の20世紀せいき著作ちょさくにはアンヘル・マリア・パスクアル(Ángel María Pascual)、ホセ・マリア・イリバレンスペインばんラファエル・ガルシア・セラーノスペインばん、ホセ・マリア・サン・フアン(José María Sanjuán)などがいる[118]現代げんだい作家さっかにはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる[118]

エウスカルツァインディア(バスクアカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究けんきゅう協会きょうかい)がバスクにかんする調査ちょうさ研究けんきゅう文化ぶんか振興しんこうおこなっている[118]アンダルシアしゅうアストゥリアスしゅうカンタブリアしゅうカスティーリャ・イ・レオンしゅうカタルーニャしゅうエストレマドゥーラしゅうガリシアしゅうバレンシアしゅうには同郷どうきょうしゅうじんかいがある[118]

スポーツ[編集へんしゅう]

ペロタ競技きょうぎちゅうのティティン3せい

ナバラではサッカー、狩猟しゅりょう、ウィンタースポーツ、ペロタ・バスカなどのスポーツがおこなわれており、サッカーとペロタはるスポーツとしても人気にんきがある[124]。サッカーのCAオサスナ、ハンドボールのSDCサン・アントニオ(2013ねん解散かいさん)、ペロタなどのプロチームがあり、フットサルのショタFS全国ぜんこくリーグで実績じっせきのこしている[124]。ペロタの競技きょうぎじょう伝統でんとうてき教会きょうかい隣接りんせつしていることがおおく、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国ぜんこく選手権せんしゅけんシングルス優勝ゆうしょう5)、アイマル・オライソラ(全国ぜんこく優勝ゆうしょう4)、バリオラ(全国ぜんこく優勝ゆうしょう1)、エウギ(全国ぜんこく優勝ゆうしょう3)、ルベン・ベロキ(バルセロナ五輪ごりんきんメダル)などのめい選手せんしゅ輩出はいしゅつしている[124]。バスクの伝統でんとうてきスポーツであるアイスコラリ(丸太まるた競技きょうぎ)、アリハソツァイレ(いし競技きょうぎ)なども活気かっきがある[124]

出身しゅっしん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「マスのナバラふう」(トゥルチャ・ア・ラ・ナバラ, スペイン: Trucha a la Navarra)は背開せびらきにしたマスのなかなまハムをはさんでオーブンでいた、ナバラ地方ちほう独特どくとく料理りょうりである。出典しゅってんつじいさお専門せんもん料理りょうり全書ぜんしょ スペイン料理りょうりつじ学園がくえん調理ちょうり技術ぎじゅつ専門せんもん学校がっこう、1999ねん、pp.68-69「ますのナバラふう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • くすのき, 貞義さだよし、タマメス, ラモン、戸門とかど, 一衛かずえ深澤ふかさわ, あんひろし『スペイン現代げんだい 模索もさく挑戦ちょうせんの120ねん大修館書店たいしゅうかんしょてん、1999ねん 
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  • 立石たていし, はくだか概説がいせつ 近代きんだいスペイン文化ぶんかミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2015ねん 
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  • 萩尾はぎお, なま吉田よしだ, 浩美ひろみ現代げんだいバスクをるための50しょう明石書店あかししょてん〈エリア・スタディーズ〉、2012ねん 
  • バード, レイチェル『ナバラ王国おうこく歴史れきし狩野かの美智子みちこわけ)、いろどりりゅうしゃ、1995ねん 
英語えいごばん参考さんこう文献ぶんけん
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  • Arthur, James (2006). Faith and Secularisation in Religious Colleges and Universities. London, UK: Routledge. ISBN 9780415359405 
  • Johnson, Hugh (1989). Vintage: The Story of Wine. London, UK: Simon and Schuster. ISBN 0-671-68702-6 
  • Monreal, Gregorio; Jimeno, Roldan (2012). Conquista e Incorporación de Navarra a Castilla. Pamplona-Iruña, ESP: Pamiela. ISBN 978-84-7681-736-0 
  • Preston, Paul (2013). The Spanish Holocaust: Inquisition and Extermination in Twentieth-Century Spain. London, UK: HarperCollins. ISBN 978-0-00-638695-7 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • 公式こうしきウェブサイト (バスク(スペイン英語えいごフランス語ふらんすご
  • ナバラスペイン政府せいふ観光かんこうきょく 日本語にほんご
  • ナバラのすべてナバラしゅう政府せいふ、2005ねんだい6はん日本語にほんご