IBM 5550 (アイビーエムごうごうごうまる)は、1983年 ねん から1990年代 ねんだい まで日本 にっぽん IBM が開発 かいはつ ・販売 はんばい した、主 おも に企業 きぎょう 向 む けのパーソナルコンピューター のシリーズ。日本 にっぽん での正式 せいしき 名称 めいしょう は「IBM マルチステーション5550」。後継 こうけい はPS/55 シリーズ。
IBM が日本 にっぽん で最初 さいしょ に販売 はんばい したパーソナルコンピュータであり、漢字 かんじ などの2バイト文字 もじ を表示 ひょうじ できたため、韓国 かんこく 、台湾 たいわん 、中国 ちゅうごく などでも販売 はんばい された。
IBM は世界 せかい 的 てき には1981年 ねん にIntel 8088 を搭載 とうさい したIBM PC を発売 はつばい していたが、当時 とうじ の日本語 にほんご 処理 しょり には非力 ひりき であったため、日本 にっぽん ではIBM PCを発売 はつばい せず、代 か わりに日本 にっぽん のパソコン市場 いちば では広 ひろ く使 つか われたIntel 8086 を利用 りよう して日本 にっぽん 独自 どくじ 仕様 しよう の「マルチステーション5550」シリーズを発売 はつばい した。最初 さいしょ のモデル群 ぐん は1983年 ねん 3月 がつ 15日 にち 発表 はっぴょう 、6月出荷 しゅっか 。採用 さいよう したCPU i8086 の動作 どうさ 周波数 しゅうはすう は8MHz、主 しゅ 記憶 きおく 容量 ようりょう としてはROM 16Kbyte、RAM 256Kbyte(標準 ひょうじゅん )、512Kbyte(最大 さいだい )。
1987年 ねん に「パーソナルシステム/55 」シリーズと改称 かいしょう されたが、その上位 じょうい モデル(PS/55 S/T/V以降 いこう )はIBM PS/2 (MCA バス)ベースとなり、下位 かい モデル(PS/55 M/Pまで)は従来 じゅうらい モデル(マルチステーション5550)のアーキテクチャ であった。
キャッチフレーズは「1台 だい 3役 やく 」 で、3役 やく とは「日本語 にほんご ビジネス・パーソナル・コンピューター」「日本語 にほんご ワード・プロセッサー」「日本語 にほんご オンライン端末 たんまつ 」であった。「マルチステーション」の名前 なまえ もここから来 き ている。および「多 た 機能 きのう ワークステーション」「つながるOA、ひろがるOA」。
イメージキャラクターは渥美 あつみ 清 きよし 、CMのコピーは「友 とも よ。機 き は、熟 じゅく した。」であった。
5550は開発 かいはつ 当初 とうしょ より、IBM PCとの互換 ごかん 性 せい にとらわれない、日本 にっぽん 市場 いちば に特 とく 化 か したパソコンとワープロ の複 ふく 合 ごう 機 き として考 かんが えられていた[3] 。日本語 にほんご ワープロ専用 せんよう 機 き では一般 いっぱん 的 てき であった24×24ドットの明朝体 みんちょうたい フォントを表示 ひょうじ するため、当時 とうじ のパソコンとしては高 こう 解像度 かいぞうど の1024×768ドット(グラフィック画面 がめん の場合 ばあい )での表示 ひょうじ をサポートした(ディスプレイ型式 けいしき 5555-B01モノクロ15インチ利用 りよう 時 じ [4] )。日本語 にほんご のみならず中国語 ちゅうごくご や韓国 かんこく 語 ご といった他 ほか の言語 げんご への対応 たいおう を見据 みす えて、表示 ひょうじ 用 よう フォントはディスクから読 よ み込 こ んでソフトウェアで表示 ひょうじ する方式 ほうしき をとった[5] 。これは後 ご のDOS/V と同 おな じ手法 しゅほう である。キーボードは日本語 にほんご ワープロ機能 きのう に適 てき した1型 がた や各種 かくしゅ 通信 つうしん 端末 たんまつ 機能 きのう に適 てき した配列 はいれつ などが用意 ようい された。ディスプレイは目 め の疲 つか れを防 ふせ ぐために長 ちょう 残 ざん 光 こう 蛍光 けいこう 体 たい を使用 しよう し、モノクロディスプレイは黄 き 緑色 みどりいろ の単色 たんしょく 表示 ひょうじ であった[1] 。
5550は以下 いか の3つの機能 きのう を軸 じく にソフトウェアを供給 きょうきゅう した。
当初 とうしょ 、文書 ぶんしょ プログラムは日本語 にほんご DOSとは異 こと なる独自 どくじ のOSで動作 どうさ するもので、各 かく 端末 たんまつ エミュレータ も特殊 とくしゅ なプログラムの上 うえ で動 うご いていた。また、日本語 にほんご DOSは内部 ないぶ コードにシフトJIS を使用 しよう したが、文書 ぶんしょ プログラムはEBCDIC とIBM漢字 かんじ コード を使用 しよう し、データ用 よう のフロッピーディスクも日本語 にほんご DOSと互換 ごかん 性 せい がない独自 どくじ のフォーマットであった。これら3つの機能 きのう は起動 きどう 時 じ に使用 しよう するフロッピーディスクの入 い れ替 か え、またはハードディスクの起動 きどう 区画 くかく を変更 へんこう することで、切 き り替 か えて使用 しよう することになっていた。これらの間 あいだ でデータを交換 こうかん するには変換 へんかん プログラムを通 とお す必要 ひつよう があった。それぞれ独立 どくりつ した別々 べつべつ のソフトウェアとして供給 きょうきゅう されたことについて、日本 にっぽん IBMの5550担当 たんとう 者 しゃ は「アプリケーションが独立 どくりつ しているため、逆 ぎゃく に1つ1つの機能 きのう を十分 じゅうぶん に引 ひ き出 だ すことができる」と釈明 しゃくめい した[7] 。3270漢字 かんじ エミュレーションは1983年 ねん 10月 がつ に「日本語 にほんご 3270PC」、5250漢字 かんじ エミュレーションは1984年 ねん 9月 がつ に「日本語 にほんご 5250PC」として日本語 にほんご DOS上 じょう で動 うご くバージョンが発表 はっぴょう され、従来 じゅうらい 品 ひん と並行 へいこう して段階 だんかい 的 てき に機能 きのう が実装 じっそう されていった[8] 。文書 ぶんしょ プログラムについても、1986年 ねん 5月 がつ に日本語 にほんご DOS上 じょう で動 うご く「DOS文書 ぶんしょ プログラム」が追加 ついか された[9] 。
5550の本体 ほんたい は、3台 だい の5.25インチフロッピーディスク ドライブが縦 たて 置 お きで搭載 とうさい できる立方体 りっぽうたい に近 ちか い形状 けいじょう になっていた。これは、ハードディスク 非 ひ 搭載 とうさい モデルの場合 ばあい 、システムディスク、日本語 にほんご フォント、ユーザーデータ用 よう で合 あ わせて3枚 まい のフロッピーディスクが必要 ひつよう になるためであった。1985年 ねん 2月 がつ に発売 はつばい された下位 かい 機種 きしゅ 「5540」は漢字 かんじ ROM ボードを内蔵 ないぞう し、本体 ほんたい はJX に近 ちか いスタイルの省 しょう スペースデスクトップ型 がた になった。1985年 ねん 9月 がつ には5550と同様 どうよう の本体 ほんたい 形状 けいじょう でCPUにIntel 80286 を搭載 とうさい した「5560」が発表 はっぴょう された。
5550はIBM PCとはハードウェア・ソフトウェア共 ども に互換 ごかん 性 せい がなく、一部 いちぶ の文字 もじ ベースのMS-DOSアプリケーションを除 のぞ くソフトウェアの移植 いしょく に改造 かいぞう を必要 ひつよう とした。また、IBM PCはハードウェアの仕様 しよう やBIOS が公開 こうかい されたオープンアーキテクチャ であったのに対 たい し、5550は仕様 しよう が一般 いっぱん に公開 こうかい されていないクローズドアーキテクチャであった[9] 。
5550にはIBM PC互換 ごかん の英語 えいご 環境 かんきょう が実装 じっそう されていなかったため、日本 にっぽん IBMは英文 えいぶん 需要 じゅよう に対 たい し当初 とうしょ はJX のオプション、後 のち にPC/XT ・AT やPS/2そのもの、最終 さいしゅう 的 てき にPS/55(モデルS/T/V以降 いこう )で応 こた えていた。
1981年 ねん 3月 がつ 、日本 にっぽん IBM藤沢 ふじさわ 研究所 けんきゅうじょ の川原 かわはら 裕 ひろし がパソコンとワープロの複 ふく 合 あい 端末 たんまつ 機 き 「マルチファンクショナルワークステーション」の企画 きかく を立案 りつあん し、米国 べいこく IBM本社 ほんしゃ にて提案 ていあん [3] 。開発 かいはつ チームは通常 つうじょう の意思 いし 決定 けってい 過程 かてい を省略 しょうりゃく できる IBU (Independent Business Unit 、独立 どくりつ 事業 じぎょう 体 たい ) として設立 せつりつ された[10] 。
IBM 5550の開発 かいはつ 目標 もくひょう は、パソコンとワープロのどちらとしても本格 ほんかく 的 てき に使 つか えるものであること。また、最低 さいてい 3年 ねん から5年 ねん は同一 どういつ のアーキテクチャーで十分 じゅうぶん に使 つか えることとされた。当初 とうしょ 、パソコンとしては既 すで にボカラトン の事業 じぎょう 所 しょ でIBUが開発 かいはつ していたIBM PCをベースに、ワープロは1980年 ねん にIBMオースティン (米国 べいこく テキサス州 しゅう オースティン )で開発 かいはつ された英文 えいぶん ワープロのIBM Displaywriter System 6580 (英語 えいご 版 ばん ) をベースに、日本 にっぽん 向 む けに改造 かいぞう することになっていた。しかし、互換 ごかん 性 せい はおろか設計 せっけい 思想 しそう が異 こと なる両者 りょうしゃ を1台 だい のマシンに統合 とうごう するのは難問 なんもん であった[10] 。
CPUの選定 せんてい にあたっては価格 かかく 性能 せいのう 比 ひ やアーキテクチャの発展 はってん 性 せい を踏 ふ まえ、Intel以外 いがい のメーカーも含 ふく めて検討 けんとう された。IBM PCでは8ビットバスのIntel 8088が採用 さいよう されたが、画面 がめん 解像度 かいぞうど が高 たか い5550ではバス の速度 そくど が性能 せいのう に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼすとみて、16ビットバスのIntel 8086が採用 さいよう された[9] 。
日本語 にほんご ワープロ機能 きのう では競合 きょうごう 機種 きしゅ との差別 さべつ 化 か を図 はか った。24ドットフォント表示 ひょうじ のモデルでは、文字 もじ ブロック26×29ドット(罫線 けいせん や字 じ 間 あいだ の空白 くうはく を含 ふく む領域 りょういき )を41字 じ ×25行 ぎょう で表示 ひょうじ するため、画面 がめん 解像度 かいぞうど は1066×725ドット。16ドットフォント表示 ひょうじ のモデルでは、文字 もじ ブロック18×21ドットで画面 がめん 解像度 かいぞうど は738×525ドットになった。当時 とうじ のパソコンで一般 いっぱん 的 てき な表示 ひょうじ サイズである40字 じ ×25行 ぎょう より1字 じ 多 おお いのは、日本語 にほんご の禁則 きんそく 処理 しょり に必要 ひつよう と考 かんが えられたためであった[9] 。
パソコンの機能 きのう としては、マイクロソフトによって日本語 にほんご MS-DOS 2.0に相当 そうとう する「日本語 にほんご DOS バージョン K2.00」が開発 かいはつ された。これは日本語 にほんご MS-DOS 2.0の実装 じっそう としてはパソピア16 に次 つ ぐものであった。日本語 にほんご DOSには同社 どうしゃ が開発 かいはつ したBASICインタプリタが標準 ひょうじゅん で付属 ふぞく した。また、日本語 にほんご DOS上 じょう で動作 どうさ するFORTRAN コンパイラなどの開発 かいはつ 言語 げんご や漢字 かんじ 版 ばん Multiplanが供給 きょうきゅう された[10] 。
開発 かいはつ 当初 とうしょ 、5550に通信 つうしん 端末 たんまつ 機能 きのう を付 つ けることは想定 そうてい されていなかったが、開発 かいはつ 中 ちゅう にその重要 じゅうよう 性 せい が認識 にんしき されていき、1982年 ねん 1月 がつ に通信 つうしん 端末 たんまつ 機能 きのう を加 くわ えた「1台 だい 3役 やく 」となることが決定 けってい された[3] 。SNA などの通信 つうしん プロトコル を実装 じっそう するのは容易 ようい ではなく、この変更 へんこう は開発 かいはつ スケジュールに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[10] 。1982年 ねん 5月 がつ に開催 かいさい されたビジネスシヨウ では日本 にっぽん IBMはIBM PCを参考 さんこう 出品 しゅっぴん として展示 てんじ するに留 と まり、その年 とし の秋 あき になって独自 どくじ のパソコンを開発 かいはつ していることがようやく明 あき らかになった[11] [12] 。
5550では用途 ようと に応 おう じた数種類 すうしゅるい のキーボードに共通 きょうつう して、上部 じょうぶ に4個 こ 単位 たんい で幅 はば を空 あ けた12または24個 こ のファンクションキー がある。これは3270/5250専用 せんよう 端末 たんまつ ではファンクションキーが12または24個 こ なためである。これらは文書 ぶんしょ プログラム使用 しよう 時 じ には機能 きのう の呼 よ び出 だ しに使用 しよう でき、1型 がた キーボードには各 かく キーに機能 きのう を示 しめ す文字 もじ も印字 いんじ されている。一方 いっぽう 、IBM PC・PC/XTではファンクションキーは10個 こ となっており、12個 こ が標準 ひょうじゅん になるのはPC/AT後期 こうき の101キーボードからである。5550がパソコン・ワープロ・通信 つうしん 端末 たんまつ を統合 とうごう した企業 きぎょう 向 む けパソコンとして開発 かいはつ されたのに対 たい し、IBM PCは個人 こじん が簡単 かんたん に使 つか える個人 こじん 向 む けパソコンとして開発 かいはつ されたという設計 せっけい 思想 しそう の違 ちが いが表 あらわ れている[10] 。
5550の本体 ほんたい とディスプレイ、ハードディスクは松下電器産業 まつしたでんきさんぎょう 、プリンター は沖電気工業 おきでんきこうぎょう 、キーボードはアルプス電気 あるぷすでんき が製造 せいぞう を担当 たんとう した[12] [13] 。
5550は数 すう 千 せん 台 だい を超 こ える規模 きぼ の販売 はんばい が予定 よてい されていたが、日本 にっぽん IBMの自社 じしゃ 工場 こうじょう にはパソコンを大量 たいりょう 生産 せいさん する環境 かんきょう が整 ととの っていなかったため、松下電器産業 まつしたでんきさんぎょう が製造 せいぞう を受託 じゅたく して日本 にっぽん IBMにOEM供給 きょうきゅう することになった[14] [15] 。松下 まつした が自社 じしゃ で販売 はんばい しようという案 あん もあったが日本 にっぽん IBM側 がわ がこれを拒否 きょひ 。次 つぎ に日本 にっぽん IBMと合弁 ごうべん で販売 はんばい 会社 かいしゃ を設立 せつりつ しようとしたが、小林 こばやし 大 だい 祐 ゆう (当時 とうじ 、富士通 ふじつう の会長 かいちょう 兼 けん パナファコムの社長 しゃちょう )が難色 なんしょく を示 しめ したため実現 じつげん しなかった[16] [17] 。シリーズがPS/55に移行 いこう して日本 にっぽん IBM藤沢 ふじさわ 工場 こうじょう でパソコンの生産 せいさん が始 はじ まった後 のち も、5550系統 けいとう のモデルは松下 まつした が製造 せいぞう を担当 たんとう した[18] 。
ただ、1984年 ねん に松下通信工業 まつしたつうしんこうぎょう と松下電器産業 まつしたでんきさんぎょう から互換 ごかん 性 せい はないものの仕様 しよう が酷似 こくじ した特注 とくちゅう のビジネスパソコン「JB-5000」やワープロ の「パナワード5000」が販売 はんばい されていた[19] 。
日本 にっぽん では企業 きぎょう 向 む け多 た 機能 きのう 複 ふく 合 あい パソコンとしては既 すで に日本電気 にほんでんき がN5200 、富士通 ふじつう がFACOM 9450 を販売 はんばい していたが、どちらも需要 じゅよう が伸 の びず苦 くる しい状況 じょうきょう にあった。日本 にっぽん IBMが5550でパソコン市場 いちば に参入 さんにゅう し、大々的 だいだいてき に宣伝 せんでん したことで多 た 機能 きのう パソコンの市場 いちば が活性 かっせい 化 か され、N5200やFACOM 9450はそれまでの倍 ばい 以上 いじょう のペースで売 う り上 あ げた。これらの多 た 機能 きのう パソコンは、当時 とうじ の市販 しはん のパソコンが売 う り切 き りで保守 ほしゅ メンテナンスがないことに不満 ふまん を持 も ったユーザーの注目 ちゅうもく を集 あつ めた。
企業 きぎょう への一括 いっかつ 導入 どうにゅう に対 たい してメーカーやディーラーのサポートが手厚 てあつ いことも利点 りてん に挙 あ げられた。IBM専用 せんよう 端末 たんまつ のリプレースとして約 やく 500台 だい の5550を導入 どうにゅう することを決 き めた明治生命保険 めいじせいめいほけん のシステム担当 たんとう 者 しゃ は「専用 せんよう 端末 たんまつ 並 なみ の速 はや さでホストコンピューターと応答 おうとう できなければ意味 いみ が無 な いし、また多様 たよう な通信 つうしん ソフトがないと困 こま る。これだけの仕事 しごと をこなす市販 しはん ソフトは現在 げんざい 見当 みあ たりませんから。」とコメントした。日本 にっぽん IBMのあるセールスマンは、専用 せんよう 端末 たんまつ の半額 はんがく で端末 たんまつ 機能 きのう とパソコン機能 きのう を併 あわ せ持 も つ多 た 機能 きのう 複 ふく 合 あい パソコンが登場 とうじょう したことに困惑 こんわく する様子 ようす を見 み せた[20] 。IT情報 じょうほう 誌 し 『日経 にっけい コンピュータ 』は、FACOM 9450とN5200は独自 どくじ OSでマルチジョブやファイルの互換 ごかん 性 せい を配慮 はいりょ していて使 つか いやすいだろう、と評価 ひょうか したことに比 くら べ、5550についてはIBM機 き との接続 せつぞく だけを考 かんが えるならその選択 せんたく が無難 ぶなん とした。日本語 にほんご ワープロの機能 きのう では、5550が入力 にゅうりょく キーボードへの配慮 はいりょ で他 た 機種 きしゅ より一 いち 歩 ほ 優 すぐ れているとしたが、ソフトウェア体系 たいけい とかな漢字 かんじ 変換 へんかん 機能 きのう が統一 とういつ されていないことに不満 ふまん を挙 あ げた[7] 。
パソコン市場 いちば 全体 ぜんたい でみた場合 ばあい 、日本 にっぽん IBMは5550で高級 こうきゅう 志向 しこう の企業 きぎょう 向 む けパソコンを発売 はつばい してから約 やく 2年 ねん 後 ご に個人 こじん 向 む けパソコン JX や下位 かい モデルの5540を展開 てんかい したが、5550発売 はつばい 時点 じてん では日本電気 にほんでんき のPC-9800シリーズ に相当 そうとう する低 てい 価格 かかく ビジネスパソコンのラインナップが存在 そんざい しなかった。5550の発売 はつばい 価格 かかく について、あるジャーナリストは後年 こうねん に次 つぎ のように振 ふ り返 かえ っている[21] 。
5550は発売 はつばい 価格 かかく を見 み ても、CRTディスプレー、16ビットの漢字 かんじ プリンター、5.25インチのFDDが2台 だい で、134万 まん 円 えん 。83年 ねん 当時 とうじ 発売 はつばい された国産 こくさん パソコンに比 くら べると、若干 じゃっかん 高 たか い程度 ていど で、それほど高 たか い価格 かかく ではなかったが、決 けっ して個人 こじん の購買 こうばい 意欲 いよく をそそるパソコンではなかった。それに比 くら べ当時 とうじ のIBM PCはすでに、日本円 にほんえん に換算 かんさん すると78万 まん 円 えん にまで下 さ がっていた。日本 にっぽん でも、その後 ご 国内 こくない のベストセラーパソコンに成長 せいちょう する日本電気 にほんでんき のPC-98シリーズは、100万 まん 円 えん を切 き っていたのを記憶 きおく している。
1985年 ねん 2月 がつ に発売 はつばい された5540については、わずか4ヶ月 かげつ 前 まえ に市販 しはん パソコンのIBM JX が発売 はつばい されており、5550の下方 かほう 展開 てんかい と思 おも われていたJXとの間 あいだ に5550と互換 ごかん 性 せい の高 たか い5540が登場 とうじょう したことで、JXのユーザーに混乱 こんらん をもたらした。日本 にっぽん IBMはパソコンのラインナップを強化 きょうか したかったと説明 せつめい した。パソコン雑誌 ざっし 『日経 にっけい パソコン 』は、米 べい IBM本社 ほんしゃ のIBM PCjr と互換 ごかん 性 せい を持 も つJXが5540と同 おな じ事業 じぎょう 所 しょ で同時 どうじ に開発 かいはつ されていたことを挙 あ げて、JXの発表 はっぴょう が5540に先行 せんこう したのはIBM本社 ほんしゃ から圧力 あつりょく があったのかと疑問 ぎもん を挙 あ げた。また、IBMの製品 せいひん は高価 こうか という指摘 してき に対 たい して日本 にっぽん IBMの手嶋 てじま 邦彦 くにひこ (当時 とうじ 、機器 きき 事業 じぎょう 部 ぶ 企画 きかく ・管理 かんり 担当 たんとう )は、既存 きそん モデルとの互換 ごかん 性 せい への配慮 はいりょ や米国 べいこく IBM本社 ほんしゃ による厳 きび しい技術 ぎじゅつ 審査 しんさ に苦労 くろう して時間 じかん を掛 か けていることを打 う ち明 あ けた[22] 。
5550の上位 じょうい 製品 せいひん にはオフィスコンピュータのシステム/36 があり、システム/36の下方 かほう 展開 てんかい がなされる代 か わりに5550の上方 かみがた 展開 てんかい はしばらくないだろうと予想 よそう されていた。しかし、1985年 ねん 9月 がつ に5550の上位 じょうい 製品 せいひん にあたる5560が発売 はつばい された。ソフトハウスは既存 きそん のソフト製品 せいひん の動作 どうさ が高速 こうそく になることを歓迎 かんげい した。一方 いっぽう で、下位 かい オフコンのシステム/36 ETは300万 まん 円 えん 近 ちか くし、150万 まん 円 えん クラスの5560とは競合 きょうごう していないものの、今後 こんご は競合 きょうごう が増 ま すことが予想 よそう された[23] 。
5550はパソコン市場 いちば 全体 ぜんたい ではPC-9800シリーズに大 おお きく差 さ を付 つ けられていったが、企業 きぎょう 向 む けパソコンとしてはメインフレーム でシステムを構築 こうちく する大 だい 企業 きぎょう を中心 ちゅうしん に善戦 ぜんせん した。販売 はんばい 数 すう は1983年 ねん 末 まつ では1万 まん 台 だい 超 ちょう であったが、1985年 ねん には1年間 ねんかん に7万 まん 台 だい を販売 はんばい した[9] 。1986年 ねん 初頭 しょとう に日経 にっけい パソコンで行 おこな われた調査 ちょうさ によれば、企業 きぎょう 向 む けパソコンのシェアで5550 (23.8%) が9450 (16.3%) やN5200 (6.5%) を抜 ぬ いて首位 しゅい になった。これはアンケートの回答 かいとう 者 しゃ に大 だい 企業 きぎょう が増 ふ えた為 ため だろうと推測 すいそく された[24] 。
ラップトップ機 き と次 つぎ の開発 かいはつ [ 編集 へんしゅう ]
1987年 ねん に発売 はつばい されたIBM パーソナルシステム/55 モデル5535 は日本 にっぽん IBMが開発 かいはつ した最初 さいしょ のラップトップパソコン であった。
エプソン 製 せい のバックライト方式 ほうしき 液晶 えきしょう ディスプレイ を搭載 とうさい し、サイズはW310×D350×H100mm、重量 じゅうりょう は8.1kgであった。日本 にっぽん IBMの堀田 ほった 一 いち 芙(当時 とうじ 、営業 えいぎょう 推進 すいしん 企画 きかく ワークステーション担当 たんとう )は「そもそも、日本人 にっぽんじん が楽 らく に持 も ち運 はこ びできる重 おも さは3kg。それが最初 さいしょ から無理 むり ならば、頑丈 がんじょう にして8.1kgにした。」とコメントし、都心 としん の狭 せま いオフィスに適 てき した省 しょう スペース・省 しょう エネルギーなパソコンであると主張 しゅちょう した[25] 。
液晶 えきしょう ディスプレイの技術 ぎじゅつ 的 てき な制約 せいやく から、ディスプレイの文字 もじ モードでの解像度 かいぞうど は738×525ドットとなり、16×16ドットフォントでの表示 ひょうじ になった。これは既 すで に旧型 きゅうがた となっていた5550の16ドットフォント表示 ひょうじ と同 おな じアーキテクチャで、PS/55対応 たいおう ソフトが約 やく 1000本 ほん だったのに対 たい して5535対応 たいおう ソフトは約 やく 30本 ほん と、対応 たいおう ソフトの少 すく なさが懸念 けねん に上 あ がった。IBMのメインフレームと接続 せつぞく するためのオプションカードが用意 ようい され、通信 つうしん 端末 たんまつ 機能 きのう にも力 ちから を入 い れていた[25] 。
当時 とうじ 、日本 にっぽん で登場 とうじょう し始 はじ めた各社 かくしゃ のラップトップパソコンは640×400ドットのディスプレイを採用 さいよう し、738×525ドットを採用 さいよう した機種 きしゅ は他 た に例 れい がなかった。この仕様 しよう は競合 きょうごう 他社 たしゃ を上回 うわまわ っていたが、そのことが原価 げんか に大 おお きく影響 えいきょう した。エプソンで独自 どくじ 解像度 かいぞうど の液晶 えきしょう パネルを開発 かいはつ するにあたって、そこで使 つか われていたものと全 まった く別 べつ 工程 こうてい の技術 ぎじゅつ や開発 かいはつ ツールが必要 ひつよう になった。また、画面 がめん 解像度 かいぞうど の変更 へんこう はソフトウェアの移植 いしょく を難 むずか しくさせ、対応 たいおう ソフトがなかなか揃 そろ わなかった。日本 にっぽん IBMと年間 ねんかん 数 すう 億 おく 円 えん の取引 とりひき があった顧客 こきゃく が5535よりも東芝 とうしば のJ-3100シリーズ を選 えら んだ、という営業 えいぎょう 担当 たんとう からの情報 じょうほう に、開発 かいはつ 陣 じん は焦 あせ りを感 かん じ始 はじ めた。開発 かいはつ 陣 じん は5535-Mの開発 かいはつ を終 お えると同時 どうじ に、640×480ドットの薄型 うすがた ディスプレイとDOS/Vを搭載 とうさい した普及 ふきゅう 型 がた VGA パソコン『PS/55 note 』の構想 こうそう を固 かた めていった[26] 。
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^ 高橋 たかはし 純夫 すみお 「ハード最前線 さいぜんせん :機能 きのう よりサービス重視 じゅうし 、複 ふく 合 あい 端 はし 末 まつ がパソコン市場 いちば 変 か える」『日経 にっけい パソコン 』、日経 にっけい マグロウヒル 、1983年 ねん 10月 がつ 24日 にち 、122-123頁 ぺーじ 。
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^ 「ハード最前線 さいぜんせん :IBM 5540 5550の廉価 れんか 版 ばん 、下方 かほう シリーズ化 か の第 だい 1弾 だん JXとの近接 きんせつ 販売 はんばい でユーザーは困惑 こんわく 」、pp.65-69。
^ 「ハード最前線 さいぜんせん :日本 に アイ・ビー・エム IBM5560 5550の約 やく 2倍 ばい の処理 しょり 速度 そくど オフコンとの間 あいだ を埋 う めるべく、さらに発展 はってん か」、p.97。
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「ASCII EXPRESS : ついに発表 はっぴょう されたIBMマルチステーション」『ASCII 』第 だい 7巻 かん 第 だい 5号 ごう 、アスキー、1983年 ねん 5月 がつ 、94‐95, 100‐101。
高橋 たかはし 純夫 すみお 、蟻 あり 田 た 温 ゆたか 之 の 「ハード最前線 さいぜんせん :IBM 5540 5550の廉価 れんか 版 ばん 、下方 かほう シリーズ化 か の第 だい 1弾 だん JXとの近接 きんせつ 販売 はんばい でユーザーは困惑 こんわく 」『日経 にっけい パソコン 』、日経 にっけい マグロウヒル 、1985年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、64-69頁 ぺーじ 。
中野 なかの 潔 きよし 「ハード最前線 さいぜんせん :日本 に アイ・ビー・エム IBM5560 5550の約 やく 2倍 ばい の処理 しょり 速度 そくど オフコンとの間 あいだ を埋 う めるべく、さらに発展 はってん か」『日経 にっけい パソコン 』、日経 にっけい マグロウヒル 、1985年 ねん 11月18日 にち 、93-97頁 ぺーじ 。
戸塚 とつか 正 ただし 康 かん 『日本 にっぽん IBMのパソコン新 しん 戦略 せんりゃく 』日本工業新聞社 にほんこうぎょうしんぶんしゃ 、1991年 ねん 12月18日 にち 。ISBN 4819108565 。