厚岸あっけし小島こじま

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小島こじま厚岸あっけし小島こじま

厚岸あっけし小島こじま空中くうちゅう写真しゃしん(2021ねん6がつ9にち撮影さつえい。)国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん北海道ほっかいどう厚岸あっけしぐん厚岸あっけしまち
所在しょざい海域かいいき 太平洋たいへいよう
座標ざひょう 北緯ほくい4258ふん29.5びょう 東経とうけい14452ふん45.7びょう / 北緯ほくい42.974861 東経とうけい144.879361 / 42.974861; 144.879361座標ざひょう: 北緯ほくい4258ふん29.5びょう 東経とうけい14452ふん45.7びょう / 北緯ほくい42.974861 東経とうけい144.879361 / 42.974861; 144.879361
面積めんせき 0.05[1] km²
海岸かいがんせんちょう 0.9[1] km
最高さいこう標高ひょうこう 27[1] m
人口じんこう 6にん
厚岸小島の位置(北海道内)
厚岸小島
厚岸あっけし小島こじま
厚岸あっけし小島こじま (北海道ほっかいどう)
厚岸小島の位置(北海道広域内)
厚岸小島
厚岸あっけし小島こじま
厚岸あっけし小島こじま (北海道ほっかいどう広域こういき)
厚岸小島の位置(日本内)
厚岸小島
厚岸あっけし小島こじま
厚岸あっけし小島こじま (日本にっぽん)
プロジェクト 地形ちけい
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小島こじま(こじま)は北海道ほっかいどう厚岸あっけしぐん厚岸あっけしまち沿岸えんがん大黒島おおくろしまきた位置いちするしま各地かくちにある「小島こじま」との混同こんどうけて厚岸あっけし小島こじま(あっけしこじま)と通称つうしょうされる。昆布こぶりょう拠点きょてんとして漁期ぎょきのみぶしてき居住きょじゅう人口じんこうがあり、北方領土ほっぽうりょうどのぞ道東どうとう地域ちいき、また北海道ほっかいどう太平洋たいへいようきしにおける唯一ゆいいつ有人ゆうじんとう[2]となっている。アイヌ名称めいしょうポンモシリで、文字通もじどおり「小島こじま」を意味いみする。明治めいじまではしょう大黒島おおくろしまでもばれていた[3]

人口じんこうは、2020ねんれい2ねん)の国勢調査こくせいちょうさによれば4世帯せたい6にんであるが[4]昆布こぶりょうおこなわれない冬季とうきには無人島むじんとうとなる[1]北海道ほっかいどう太平洋たいへいようがん主要しゅようしまとしては、厚岸あっけしの2とうのほかに室蘭むろらん大黒島おおくろしま浜中はまなかまち嶮暮帰島けんぼっきとう根室ねむろユルリ島ゆるりとうモユルリ島もゆるりとう友知島ともしりとうなどがあるが、1969ねん昭和しょうわ44ねん時点じてんで、集落しゅうらく存在そんざいするのは厚岸あっけし小島こじまのみとなっていた[5][2]

地理ちり[編集へんしゅう]

地点ちてん地形ちけい[編集へんしゅう]

北海道ほっかいどう本土ほんどから南方なんぽう 0.9 km地点ちてん位置いちする平坦へいたんしまであり[6]南東なんとうには海食かいしょくがけ屏風びょうぶのようにっている[6][5]島民とうみんである三浦みうら市之助いちのすけたいするききとり(1970ねん昭和しょうわ45ねん)によれば、「現在げんざいやま後方こうほうに、よんべいへだててもうひとつのやまがあった」が、「いつのまにかけて」消失しょうしつしていたという[6]西側にしがわひろがる平坦へいたんめん中生代ちゅうせいだい白亜はくあそう海食かいしょくだい砂礫されき堆積たいせきしたものである。しま周囲しゅういには海食かいしょくけた岩盤がんばん岩礁がんしょうとしてのこる。これは良好りょうこう天然てんねん昆布こぶ礁となっている。昆布こぶりょうには干場ほしば確保かくほ重要じゅうよう条件じょうけんであるが、しま砂礫されきめんはその適地てきちとなっている[5]

自然しぜん[編集へんしゅう]

千島ちしま海流かいりゅう影響えいきょうけるため気温きおんひくく、とくに5~8がつにかけては、 北海道ほっかいどう東部とうぶ特有とくゆう濃霧のうむ影響えいきょう日照ひでり時間じかんみじか[7]後述こうじゅつのようにかつては樹木じゅもく植生しょくせいがあったが、いまは1ほん樹木じゅもくもなく、岩山いわやま斜面しゃめんには雑草ざっそうしげいただきにわずかにハマナス繁茂はんもしている。動物どうぶつは8がつごろ営巣えいそうのため飛来ひらいするウミツバメイワツバメおもなものである[5]本土ほんど厚岸あっけしまち釧路くしろまち浜中はまなかまち海岸かいがんせん一帯いったいとともに、1955ねん昭和しょうわ30ねん)に厚岸あっけしどうりつ自然しぜん公園こうえん指定していされている[7]

厚岸あっけし小島こじま集落しゅうらく (2024ねん)

歴史れきし[編集へんしゅう]

近代きんだいまで[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ松浦まつうら武四郎たけしろうつちのえうま日誌にっし』には、「ホンモシリ したがえアイカツフ愛冠あいかっぷみさきより凡廿ひのと周囲しゅういじゅうちょうまるしまなり。ホンモシリとは小島こじまうんうえあかおおし」との記載きさいがあり、またべつに「小島こじましゅう8ちょうみながんいそにして奇岩きがんむらが々たり。あか楊・かばいそれしものいちめんなまたり」と説明せつめいしている。明治めいじ初期しょき編纂へんさんされた『釧路くしろこく地誌ちし提要ていよう』には、大黒島おおくろしまは「産物さんぶつ昆布こぶなつちゅう厚岸あっけしヨリ漁民ぎょみん出張しゅっちょう」とあり、児島こじま小島こじま)についてもしゅうちょう以外いがい大黒島だいこくじま同様どうようとされている[3][5]

1869ねん明治めいじ2ねん)、きゅう場所ばしょ請負人うけおいにん山田やまだぶんみぎ衛門えもん雇人やといにんだったはやし佐十郎さじゅうろうら3めいしょう大黒島だいこくじま漁場ぎょじょうあたえられ、対岸たいがん床潭とこたん土着どちゃくした[3]伊藤いとう久雄ひさおによる1969ねん昭和しょうわ44ねん)のききとりによれば、明治めいじ初年しょねんのころはアイヌが10すう定住ていじゅうして昆布こぶ採取さいしゅ従事じゅうじしていたようである。1882ねん明治めいじ15ねん)ごろ、川崎かわさき皮切かわきりにして、越後えちご函館はこだてからの移住いじゅうしゃがあった。1897ねん明治めいじ30ねん)にはしょう大黒島だいこくじまに9大黒島だいこくじまに2住民じゅうみん報告ほうこくされており[5]、その昆布こぶ採取さいしゅのため居住きょじゅうしゃがあった[3]

1890年代ねんだいまつから1900年代ねんだいにはニシン豊漁ほうりょう時代じだいむかえ、40世帯せたい以上いじょう小島こじま居住きょじゅうする盛況せいきょうをみせた[5]。1904ねん明治めいじ37ねん)9がつには床潭とこたん簡易かんい教育きょういくしょ付属ふぞく小島こじま特別とくべつ教育きょういくしょ開設かいせつされ、15にん生徒せいと入学にゅうがくした[8]

現代げんだい[編集へんしゅう]

ニシンの漁獲ぎょかく減少げんしょうともなって戸数こすう減少げんしょうしたが、それでも大正たいしょうから昭和しょうわはじめにはタラつり漁業ぎょぎょう、ニシンイザリもう漁業ぎょぎょうおこないえもあり、戸数こすう24・人口じんこう140にん時期じきがあった[5]戦前せんぜん戦中せんちゅうには昆布こぶくずはいから火薬かやく原料げんりょうである「ヨード」を抽出ちゅうしゅつする産業さんぎょう存在そんざいした[9]。1945ねん昭和しょうわ20ねん)には厚岸あっけし市街しがい空襲くうしゅうがあったが[10]、このさい小島こじま機銃きじゅう掃射そうしゃにあった[9]。ニシンイザリもう漁業ぎょぎょう不振ふしんおちいると、おもとするようになって、1969ねんにはりょうは10まで減少げんしょうした[5]

1963ねん北岸ほくがん護岸ごがん工事こうじおこなわれるとともに、共同きょうどう自家じか発電はつでん形式けいしきはじめてしま電気でんき開通かいつうし、どう時期じきにはテレビも全戸ぜんこ普及ふきゅうした。1972ねんには海底かいてい水道すいどうかん敷設ふせつされている[11]。このころには通年つうねん定住ていじゅうしゃがあって人口じんこうあつたかく、島内とうないでの自給じきゅう困難こんなんであったため、対岸たいがん末広すえひろ床潭とこたんなどで蔬菜そさいだしづくりがおこなわれていた[5]。また、大黒島だいこくじまでも同様どうよう畑作はたさくがおこなわれた[9]当時とうじ日本海にほんかい沿岸えんがん漁村ぎょそんではりょう閑期の出稼でかせぎがおおかったなかで、このしまでは沿岸えんがんでの昆布こぶ採取さいしゅとニシンりょう、サケ・マスながあみりょう平均へいきん200まんえんかせぐことができた[5]

1955ねん昭和しょうわ30ねん)には12世帯せたい98にん、その一貫いっかんして人口じんこう減少げんしょうすすみ、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に閉校へいこうした。このころから島民とうみん通年つうねん定住ていじゅうからぶし居住きょじゅうへと転換てんかんしている[7]。2014ねん平成へいせい26ねん)に設立せつりつされた厚岸あっけし蒸留じょうりゅうしょは、熟成じゅくせい候補こうほのひとつとして厚岸あっけし小島こじま検討けんとうしているものの、施設しせつ運搬うんぱん問題もんだいがあり、実現じつげんはしていない[12]

人口じんこう変遷へんせん[編集へんしゅう]

1955ねん昭和しょうわ30ねん 98にん[7]
1995ねん平成へいせい7ねん 17にん
2005ねん平成へいせい17ねん 13にん
2015ねん平成へいせい27ねん 12にん
2020ねんれい2ねん 6にん[4]

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

1978ねん昭和しょうわ53ねん撮影さつえい厚岸あっけし小島こじま空中くうちゅう写真しゃしん
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい干場ほしば昆布こぶなら様子ようすえる。

定住ていじゅうしゃ存在そんざいした1969ねん時点じてんでの報告ほうこくによれば、厚岸あっけし小島こじまの10世帯せたい昆布こぶりょうおもぎょうとし、年間ねんかん2000まんえんみずあげ金額きんがくがあるという。昆布こぶりょうは7がつから9がつまでのあいだにおこなわれ、これとはべつ小型こがた定置網ていちあみおよびとげもうによりニシンりょういとなまれており、最高さいこう400まんえんほどの生産せいさんがくがある。みちみなみ道北みちきた日本海にほんかいがわ漁村ぎょそんでは漁民ぎょみん出稼でかせぎや副業ふくぎょうなどをしなければいけないれいおおいが、伊藤いとう久雄ひさおは「漁業ぎょぎょう収入しゅうにゅう年間ねんかん1平均へいきん200まん えん以上いじょう」である同島どうとうにおいてその必要ひつようはないとべている[5]島民とうみんであり小島こじま自治じち会長かいちょうであった石崎いしざきまさるたいするききとりによれば、もっとも漁獲ぎょかくだかおおかったのは昭和しょうわ50年代ねんだいのことであり、当時とうじ昆布こぶりょう冬場ふゆば出稼でかせぎによりあわせて年間ねんかん1000まんえんほどをかせいだという。石崎いしざきは、2019ねん平成へいせい30ねん)のみずからの水揚みずありょうは300(6t)、水揚みずあ金額きんがくは650まんえんであるとべている[9]

島民とうみんふゆあいだ対岸たいがん床潭とこたんらし、はるうみけとともに小島こじまわたって様々さまざまりょうおこなう。一家いっか総出そうで作業さぎょうで、初夏しょかからなつわりまでに年間ねんかん収入しゅうにゅうかせげる[13]昆布こぶりょうおこなわれる7がつ~9がつには、400せき漁船ぎょせん小島こじまよこのスタートライン(海上かいじょう)から一斉いっせい漁場ぎょじょうかう光景こうけいをみることができる[14]

インフラ[編集へんしゅう]

上下水道じょうげすいどう[編集へんしゅう]

島内とうない水道すいどう施設しせつ(2024ねん

かつては対岸たいがんのピリカウタからみずんで島内とうないまではこんでいた。隣家りんかのぶんもふくめて2だるにつめて1かいに20たるはこび、1世帯せたいあたりでは25にちぶんを備蓄びちくすることが一般いっぱんてきであった[5]。また、雨水あまみず貯留ちょりゅうし、用水ようすいとしてもちいることもあった。1952ねん昭和しょうわ27ねん)には島内とうないみず自給じきゅうすべく、ボーリング調査ちょうさがおこなわれたが、地下水ちかすい発見はっけんするにはいたらなかった[6]島民とうみん久保田くぼたいさお(2020ねんきとり・当時とうじ85さい)は、島内とうないには井戸いどが2箇所かしょあったと述懐じゅっかいし、いずれも塩気しおけふくんでおり、風呂ふろ使つかったところ「潮気しおけからだがぴりぴり」したとべている[9]。1972ねん昭和しょうわ47ねん)には床潭とこたん小島こじまあいだの 2.7 kmに海底かいてい送水そうすいかん敷設ふせつされた[6]下水げすい設備せつび存在そんざいせず、し尿にょう肥料ひりょうとして自家じか菜園さいえん散布さんぷされている[1][7]

電気でんき[編集へんしゅう]

1963ねん昭和しょうわ38ねん)に漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい事業じぎょう主体しゅたいとなり、北海道電力ほっかいどうでんりょくから電気でんきげる共同きょうどう自家じか発電はつでん形式けいしきにより集落しゅうらくへの送電そうでん実現じつげんした[5]。2023ねんれい5ねん北海道ほっかいどう離島りとう振興しんこう計画けいかくには、「電力でんりょくについては、本土ほんどから海底かいていケーブルで送電そうでんされている」とある[15]

通信つうしん[編集へんしゅう]

厚岸あっけし大黒島だいこくじまあいだには、日本にっぽん海軍かいぐんにより電話でんわせん敷設ふせつされており、1945ねん昭和しょうわ20ねん)にはこれをもちいてねがい電話でんわ供用きょうようされるようになった。1948ねん昭和しょうわ23ねん)にはどう電話でんわせん撤去てっきょ計画けいかくされたが、これをふせぐべく島民とうみん運動うんどう展開てんかいされた。これにより、1948ねん昭和しょうわ23ねん)6がつ15にちには釧路くしろ電気でんき通信つうしん工事こうじ局長きょくちょうより逓信ていしんしょうまで、床潭とこたんから大黒島だいこくじままでの海底かいていケーブルを温存おんぞんするよう請願せいがん文書ぶんしょ提出ていしゅつされた。同年どうねん12がつ26にちには床潭とこたん郵便ゆうびんきょく電話でんわ交換こうかん事務じむがはじまり、小島こじまにおいても電話でんわ利用りよう可能かのうとなった。1960ねん昭和しょうわ35ねん)には対岸たいがんのピリカウタから、あらためて最短さいたん距離きょり電話でんわせん敷設ふせつされた[6]。しかし、2013ねん平成へいせい25ねん北海道ほっかいどう離島りとう振興しんこう計画けいかくによれば、当時とうじ時点じてん固定こてい電話でんわのケーブルは敷設ふせつされていないことになっている。ブロードバンドアクセスもう存在そんざいしないものの、携帯けいたい電話でんわ利用りよう可能かのうである[7]。1994ねん平成へいせい6ねん)に防災ぼうさい無線むせん導入どうにゅうされ、屋外おくがい拡声かくせい整備せいびされた[1]

また、大黒島だいこくじまとともに日本にっぽん郵便ゆうびんさだめる交通こうつう困難こんなん該当がいとうし、郵便ゆうびんぶつ配達はいたつされない[16]すくなくとも1968ねん昭和しょうわ43ねん)まで、小島こじま住民じゅうみんはピリカウタの松尾まつお一括いっかつ郵便ゆうびんぶつあずかってもらっていたものの[5]、1970ねん昭和しょうわ45ねん)の三浦みうらへのききとりによれば、「最近さいきん個人こじんたく郵便ゆうびんぶつあづけることはダメだということになったそうで」、床潭とこたんにポストをて、そこをつうじて郵便ゆうびん配達はいたつ引受ひきうけをおこなっている[6]

交通こうつう[編集へんしゅう]

本土ほんどからの定期ていきせんはなく、連絡れんらくはもっぱら自家用じかよう漁船ぎょせんたよっている[7]。ゆえに、観光かんこうなどで外部がいぶしゃおとずれしまする場合ばあいには、厚岸あっけし漁港ぎょこうなどからのチャーターせん以外いがい方法ほうほうがない[17][1]。とはいえ、観光かんこうにあたっては本土ほんどがわにピリカウタ展望てんぼうだいがあり、しま全景ぜんけい一望いちぼうすることができる。「ピリカウタからのぞ小島こじま大黒島だいこくじま」は厚岸あっけしまち観光かんこうじゅうけいにもえらばれている[14]島内とうない港湾こうわん施設しせつ存在そんざいせず、はまふねげるかたち上陸じょうりくする[1]

本土ほんどまでの所要しょよう時間じかんは10ふん程度ていどであり、日常にちじょう生活せいかつけん本土ほんどとほぼ一体化いったいかしている[7]。なお、島内とうないには整備せいびされた道路どうろ存在そんざいせず、もっぱ徒歩とほによる移動いどうである[1]。また、山上さんじょうまで、津波つなみ高潮こうちょうさい避難ひなん階段かいだんもうけられている[18]

施設しせつ[編集へんしゅう]

きゅう小島こじま小中学校しょうちゅうがっこう(2024ねん
厳島いつくしま神社じんじゃ(2024ねん

小島こじま小中学校しょうちゅうがっこう[編集へんしゅう]

1904ねん明治めいじ37ねん)9がつには床潭とこたん簡易かんい教育きょういくしょ付属ふぞく小島こじま特別とくべつ教育きょういくしょ開設かいせつされ、15にん生徒せいと入学にゅうがくした。この学校がっこうは1907ねん明治めいじ40ねん)に小島こじま簡易かんい教育きょういくしょ改称かいしょうされた。1913ねん大正たいしょう2ねん)、児童じどう減少げんしょう理由りゆうとして厚岸あっけし町議会ちょうぎかい同校どうこう廃止はいし決定けっていしたが、島民とうみん有志ゆうしはこの存続そんぞくねがい、反対はんたい請願せいがん提出ていしゅつした。1917ねん大正たいしょう6ねん)に小島こじま尋常じんじょう小学校しょうがっこう改称かいしょうされた。1923ねん大正たいしょう12ねん)にもふたた廃止はいし決定けっていがなされたが、島民とうみん北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかんあて嘆願たんがんしょ提出ていしゅつし、これをふせいだ。陳情ちんじょうおよび学校がっこう存続そんぞくのための寄付きふきん収集しゅうしゅう結果けっかとして、6ねんの1929ねん大正たいしょう18ねん正式せいしきには昭和しょうわ4ねん)までの学校がっこう存続そんぞくみとめられることとなった。この時点じてんで、小島こじま尋常じんじょう小学校しょうがっこう全校ぜんこう生徒せいと2人ふたりであった[8]

1948ねん昭和しょうわ28ねん)には中学校ちゅうがっこう付設ふせつみとめられ、小島こじま小中学校しょうちゅうがっこうとなった。このさい廃校はいこうとなった大黒島だいこくじま学校がっこう校舎こうしゃ移設いせつされた[6]。さらに、1957ねん昭和しょうわ32ねん)には学校がっこう児童じどうすうが30にんかぞえ、戦後せんごのピークをむかえた。どう学校がっこうはながらく、島民とうみん文化ぶんかセンターの役割やくわりになってきたものの、1975ねん昭和しょうわ50ねん)には廃校はいこうとなった[7]学校がっこうがないため、移住いじゅう漁師りょうし世帯せたい小中学生しょうちゅうがくせい夏休なつやすみをのぞき、親元おやもとはなれて本土ほんどらすこととなる[18]。その校舎こうしゃ公民館こうみんかん転用てんようされているものの[18]、2013ねん平成へいせい25ねん北海道ほっかいどう離島りとう振興しんこう計画けいかくには、「建築けんちくから49ねん経過けいか老朽ろうきゅうはげしく、適宜てきぎ補修ほしゅうおこなっている」とある[7]。また、その10ねんにあたる2023ねんれい5ねん振興しんこう計画けいかくにおいても、同様どうよう記述きじゅつ存在そんざいする[15]

寺社じしゃ[編集へんしゅう]

岩山いわやま山腹さんぷく厳島いつくしま神社じんじゃがある[18]三浦みうらによれば祭神さいじんは「いしりの弁天べんてんさん」であり、祭日さいじつは10月13にちと14にちである[6]当初とうしょ神社じんじゃ山上さんじょうにあり、て、「いしほこらなどに神体しんたいまつってあった」という[19]。「おまつりの式典しきてん余興よきょう角力すもう」をおこなうほどの空間くうかんはあったというが、山崩やまくずれのため1913ねん大正たいしょう2ねん)に移設いせつされた[6]島民とうみん国泰寺くにたいじないし正行寺しょうぎょうじ檀家だんかであり、島民とうみん墓地ぼち本土ほんどがわにある[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん離島りとうセンター『日本にっぽんしまガイド SHIMADAS(シマダス)』公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん離島りとうセンター、2019ねん、37-38ぺーじISBN 9784931230385 
  2. ^ a b 霧多布きりたっぷ集落しゅうらくふく浜中はまなかまちにえとうは、地理ちりてきには「しま」であるものの、法律ほうりつ行政ぎょうせいじょう北海道ほっかいどう本土ほんど一部いちぶとしてあつかわれている。
  3. ^ a b c d 平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンター へん北海道ほっかいどう地名ちめい平凡社へいぼんしゃ日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 1〉、2003ねんISBN 4582490018OCLC 53979149 
  4. ^ a b 2020ねん 国勢調査こくせいちょうさ しょう地域ちいきまちひのととう男女だんじょべつ人口じんこう総数そうすうおよ世帯せたい総数そうすう”. jstatmap.e-stat.go.jp. 2024ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伊藤いとう久雄ひさお北海道ほっかいどう離島りとう漁村ぎょそん厚岸あっけし小島こじま」『北海道ほっかいどう地理ちりだい42かん、1969ねん、12-16ぺーじISSN 2186-5426NAID 130001935347 
  6. ^ a b c d e f g h i j 平成へいせい15年度ねんど 厚岸あっけしまち海事かいじ記念きねんかん特別とくべつてん大黒島だいこくじま小島こじまてん図録ずろく厚岸あっけしまち海事かいじ記念きねんかん、2003ねん、1-26ぺーじ 厚岸あっけしまち海事かいじ記念きねんかんおよびほんもり 厚岸あっけし情報じょうほうかん所蔵しょぞう
  7. ^ a b c d e f g h i j 北海道ほっかいどう離島りとう振興しんこう計画けいかく”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2022ねん11月5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  8. ^ a b しん厚岸あっけしまち 通史つうしへん だい2かん厚岸あっけしまち、2020ねん、553-554ぺーじ 
  9. ^ a b c d e f 土屋つちやひさ「きき とう精神せいしん文化ぶんか だい40 コンブりょう(北海道ほっかいどう小島こじま) 前編ぜんぺん」『季刊きかんしま』だい65かんだい1ごう、2019ねん 
  10. ^ 厚岸あっけし歴史れきし3 » 厚岸あっけしまち郷土きょうどかん”. edu.town.akkeshi.hokkaido.jp. 2024ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  11. ^ 厚岸あっけしまち要覧ようらん 資料しりょうへん平成へいせい30ねん改訂かいてい (PDF) 2019ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  12. ^ 土屋つちやひさ「きき とう精神せいしん文化ぶんか だい41 コンブりょう(北海道ほっかいどう小島こじま) 後編こうへん」『季刊きかんしま』だい65かんだい2ごう、2020ねん、70-79ぺーじ 
  13. ^ 加藤かとういさお原色げんしょく日本にっぽんとう図鑑ずかん日本にっぽんしま443』新星しんせい出版しゅっぱんしゃ、2013ねん、13ぺーじISBN 9784405071667OCLC 848054038 
  14. ^ a b ピリカウタからのぞ小島こじま大黒島だいこくじま | 観光かんこうじゅうけい | 観光かんこうされるみなさまへ”. 北海道ほっかいどう厚岸あっけしまち. 2019ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 北海道ほっかいどう離島りとう振興しんこう計画けいかく”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2024ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  16. ^ 日本にっぽん郵便ゆうびん株式会社かぶしきがいしゃ 交通こうつう困難こんなん速達そくたつ取扱とりあつかい地域ちいきがい一覧いちらん (PDF) 2019ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  17. ^ 厚岸あっけし小島こじま | 日本にっぽん離島りとう名鑑めいかん | リトレンゴ”. 2019ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ a b c d 生方うぶかた秀紀ひでき自然しぜん環境かんきょう自然しぜん体験たいけん調和ちょうわするエコツーリズムのありかたについて(2)厚岸あっけしまち海岸かいがん海上かいじょう島嶼とうしょにおける事例じれい研究けんきゅう」『釧路くしろ論集ろんしゅう : 北海道教育大学ほっかいどうきょういくだいがく釧路くしろこう研究けんきゅう紀要きようだい38かん北海道教育大学ほっかいどうきょういくだいがく釧路くしろこう、2006ねん、171-179ぺーじdoi:10.32150/00008355NAID 110006556931 
  19. ^ 古老ころうかたるあっけしむかしものがたり だい3しゅう厚岸あっけしまち教育きょういく委員いいんかい、1993ねん、25ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]