国鉄こくてつC53かたち蒸気じょうき機関きかんしゃ

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C53かたち蒸気じょうき機関きかんしゃ
C53 10
C53 10
基本きほん情報じょうほう
運用うんようしゃ 鉄道てつどうしょう日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう
製造せいぞうしょ 汽車きしゃ製造せいぞう川崎かわさき車輛しゃりょう
製造せいぞう番号ばんごう 別記べっき
製造せいぞうねん 1928ねん - 1930ねん
製造せいぞうすう 97りょう
引退いんたい 1950ねん
投入とうにゅうさき 東海道本線とうかいどうほんせん山陽本線さんようほんせん呉線くれせん全線ぜんせん開通かいつう
主要しゅようしょもと
じく配置はいち 2C1 (4-6-2、パシフィック)
軌間きかん 1,067 mm
全長ぜんちょう 20,625 mm
ぜんこう 4,000 mm
機関きかんしゃ重量じゅうりょう 80.98 t
動輪どうりんじょう重量じゅうりょう 46.27 t
そう重量じゅうりょう 127.25 t
固定こていじく 3,980 mm
動輪どうりんみち 1,750 mm
じくおも 15.44 tだい3動輪どうりん
シリンダすう 単式たんしき3気筒きとう
シリンダ
直径ちょっけい×行程こうてい
450 mm×660 mm
べん装置そうち ワルシャートしき左右さゆう
グレズリーしき中央ちゅうおう
ボイラー圧力あつりょく 14.0 kg/cm2 (1.373 MPa; 199.1 psi)
だい煙管きせる
直径ちょっけい×ながさ×かず
140 mm×5,500 mm×28ほん
しょう煙管きせる
直径ちょっけい×ながさ×かず
57 mm×5,500 mm×88ほん
格子こうし面積めんせき 3.25 m2
過熱かねつでんねつ面積めんせき 64.4 m2
ぜん蒸発じょうはつでんねつ面積めんせき 220.5 m2
煙管きせる蒸発じょうはつでんねつ面積めんせき 140.9 m2
しつ蒸発じょうはつでんねつ面積めんせき 13.5 m2
燃料ねんりょう 石炭せきたん
燃料ねんりょう搭載とうさいりょう 12.00 t
みずタンク容量ようりょう 17.0 m3
制動せいどう装置そうち くるま空気くうきブレーキ
編成へんせい自動じどう空気くうきブレーキ
出力しゅつりょく 1,250 PS
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C53かたち蒸気じょうき機関きかんしゃ(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ)の前身ぜんしんである鉄道てつどうしょうアメリカから輸入ゆにゅうしたC52かたち解析かいせきうえ国産こくさんした3シリンダーかたテンダーしき蒸気じょうき機関きかんしゃである。愛称あいしょうシゴサン幹線かんせんでの急行きゅうこう列車れっしゃ牽引けんいんおも用途ようととした旅客りょかくよう蒸気じょうき機関きかんしゃであった。

製造せいぞう[編集へんしゅう]

汽車きしゃ製造せいぞう川崎かわさき車輛しゃりょうの2しゃにより、1928ねんから1929ねんあいだに97りょう量産りょうさんされた。その状況じょうきょうつぎのとおりである。

  • 1928ねん:C53 1 - 53(53りょう
  • 1929ねん:C53 54 - 97(44りょう
  • 汽車きしゃ製造せいぞう(47りょう
    • C53 1 - 16(製造せいぞう番号ばんごう996 - 1011)
    • C53 43 - 53(製造せいぞう番号ばんごう1038 - 1049)
    • C53 57 - 59(製造せいぞう番号ばんごう1076 - 1078)
    • C53 71 - 80(製造せいぞう番号ばんごう1093 - 1097, 1104 - 1108)
    • C53 91 - 97(製造せいぞう番号ばんごう1152 - 1158)
  • 川崎かわさき車輛しゃりょう(50りょう
    • C53 17 - 42(製造せいぞう番号ばんごう1241 - 1247, 1254 - 1272)
    • C53 54 - 56(製造せいぞう番号ばんごう1303 - 1305)
    • C53 60 - 70(製造せいぞう番号ばんごう1322 - 1332)
    • C53 81 - 90(製造せいぞう番号ばんごう1375 - 1384)

なお、ほん形式けいしき製造せいぞうちゅうにおいて以下いか代表だいひょうされる細部さいぶ変更へんこうおこなわれた。

  • すなばこ溶接ようせつ構造こうぞう(C53 34以降いこう、1929ねんせいのC53 54からは外形がいけい変更へんこう
  • 運転うんてんしつ上部じょうぶ天窓てんまど増設ぞうせつ加減かげんリンク受の形状けいじょう変更へんこう(C53 43以降いこう
  • シリンダ側面そくめん蒸気じょうきしつのぞあな大型おおがた(C53 45以降いこう
  • けむりしつ前面ぜんめん手摺てすり増設ぞうせつ(C53 54以降いこう川崎かわさき車輛しゃりょうせい
  • 汽笛きてき位置いちしつ上部じょうぶからドーム右側みぎがわめんへ、はいさわうつわ位置いちさき台車だいしゃから前部ぜんぶだいわくに(C53 57以降いこう
  • けむりしつ前面ぜんめん手摺てすりけむりしつとびらからけむりしつ外周がいしゅうへ(C53 57以降いこう汽車きしゃ製造せいぞうせい
  • ぜんデッキ前面ぜんめん垂直すいちょく一体いったいのものから4分割ぶんかつした引戸ひきど変更へんこう(C53 60以降いこう

開発かいはつ背景はいけい[編集へんしゅう]

大正たいしょう末期まっきからはがねせい客車きゃくしゃ出現しゅつげんによって客車きゃくしゃ重量じゅうりょうが10%ほど増加ぞうか特別とくべつ急行きゅうこう列車れっしゃ速度そくど維持いじするには18900がたC51かたち)では出力しゅつりょく不足ふそくであり[ちゅう 1]、このため狭軌きょうき1067mm軌間きかん)でこれ以上いじょう輸送ゆそうりょく増加ぞうか対応たいおうするには3シリンダー導入どうにゅうするしかないとかんがえられた[2][ちゅう 2]

これ以前いぜん1924ねん大正たいしょう13ねんごろ輸送ゆそうりょく増大ぞうだい見込みこんで3シリンダー機関きかんしゃあんがいくつかげられていた。「70かたち」「78-2かたち」「80かたち」という3形式けいしき断片だんぺんてきなデータがのこっており、それぞれ以下いかのような形式けいしきであった。

最初さいしょの3シリンダー計画けいかくあん[3]
形式けいしきめい じく配置はいち 最大さいだいじくおも 動輪どうりんみち 最高さいこう速度そくど 運転うんてん整備せいびそう重量じゅうりょう
70かたち 2C1(4-6-2) 15.6t 1750mm 100㎞/h 130.0t
78-2かたち 2D1(4-8-2) 15.0t 1600mm 134.95t[ちゅう 3]
80かたち 2C1(4-6-2) 17.8t 1600mm 95㎞/h 138.4t

これらのうち70かたち急行きゅうこう旅客りょかくようのちにC53かたち実際じっさいつくときに(おおきさや性能せいのうの)原型げんけいにしたもの、後者こうしゃ2つは重量じゅうりょう急行きゅうこう旅客りょかくようだが、3シリンダーそのものをまったくあつかったことがない[ちゅう 4]当時とうじ中央ちゅうおうシリンダー取付とりつけ位置いちなどは未定みていのまま[3]で、実際じっさいにアメリカから3シリンダーのパシフィック8200がたC52かたち)を試験しけんてき輸入ゆにゅうしたところボイラ効率こうりつ機械きかい効率こうりつわるいと判断はんだんされたので、これらの問題もんだい解消かいしょうすべくD50かたちなみのボイラーとC51かたちなみの1750mmみち動輪どうりんつ3シリンダー機関きかんしゃとして1928ねん昭和しょうわ3ねん)から製造せいぞうされた[4]

このとき、シリンダブロック周辺しゅうへんなど3シリンダー特色とくしょくとなる部分ぶぶん朝倉あさくら希一きいちによる「大学だいがくたばかりのあたまやわらかい新人しんじんまかせよう」との判断はんだんから、当時とうじ新進しんしんしま秀雄ひでお研究けんきゅう担当たんとうした[よう出典しゅってん]

シリンダー要素ようそ以外いがいにもボイラみちがC51かたちよりふとくなったことでボイラ中心ちゅうしん位置いちがったため、重心じゅうしんおさえるように設計せっけい配慮はいりょされており、鋳物いものせい化粧けしょう煙突えんとつからかるいパイプ煙突えんとつ変更へんこう給水きゅうすい加熱かねつ前方ぜんぽうだいわくり、さきしたがえは940mmだったものを860mmにしてたいわくひくめ、すなばこをボイラーじょうからあゆいたうえ変更へんこうされるなどの配慮はいりょがされている[5]

グレズリーしきべん装置そうち[編集へんしゅう]

ほん形式けいしき採用さいようされたグレズリーしき連動れんどうべん装置そうち[ちゅう 5]は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道てつどう (LNER) の技師ぎしちょう (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリーきょう考案こうあんした、単式たんしき3シリンダー機関きかんしゃのためのべん装置そうちである。

これは通常つうじょうワルシャートしきべん装置そうち基本きほんとして、その左右さゆうのピストンべんしりぼう先端せんたん連動れんどうだいテコ(2 to 1 Lever:右側みぎがわべんしりぼう連動れんどうしょうテコの中央ちゅうおうもうけられた支点してんとをむすび、中央ちゅうおうたいわくとピン結合けつごうされる)・連動れんどうしょうテコ(Equal Lever:中央ちゅうおうべんしりぼう左側ひだりがわべんしりぼうむすぶ)の2つのテコのはたらきにより、左右さゆうのシリンダーのバルブタイミングからどう合成ごうせいたいわく中央ちゅうおうもうけられたシリンダーのバルブタイミングを生成せいせいする、簡潔かんけつかつ巧妙こうみょう機構きこうである。

この方式ほうしき使つかえば、それぞれのシリンダーに独立どくりつしたべんがあるタイプの3シリンダーしきたいし、中央ちゅうおうシリンダーのロッド・クランクよこのバルブギアを省略しょうりゃくできるので整備せいびさいしたにもぐる手間てまはぶけるが、ベアリングの摩耗まもうなどでわずかでもレバーにガタがしょうじると中央ちゅうおうシリンダーのうごきがずれて主動しゅどうじくクランクに損傷そんしょうきるという問題もんだいがあった。そのため、ウォーバッシュ鉄道てつどうクラスK5では納品のうひん直後ちょくご中央ちゅうおうシリンダーのメインロッド関連かんれん不具合ふぐあいこし[7]ニュージーランドNZR 98もグレズリーしき連動れんどうべん装置そうち問題もんだいこし配備はいびから9ねんでCLASS G(4-6-2)へ部品ぶひん提供ていきょうのため解体かいたいされている[8]CLASS G(4-6-2)もグレズリーしき連動れんどうべん装置そうちつづ採用さいようしたこともあり欠点けってんおおく2シリンダー提案ていあんされたが費用ひようめん問題もんだいくるまよわい19ねん廃車はいしゃされた[9]発祥はっしょうのイギリスでもだい世界せかい大戦たいせんちゅうにこの問題もんだい発生はっせいしており[10]ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道てつどう (LMS)の3シリンダー機関きかんしゃの6ばいおよ故障こしょうきていた[11]。グレズリーしき連動れんどうべん装置そうちはリンクやピンのかずおおすぎて、摩耗まもうやレバーのたわみの影響えいきょうけやすかっただけでなく、「様々さまざま機能きのうてき欠点けってん」をかかえているとおおくの人物じんぶつ指摘してきしており設計せっけい自体じたい欠陥けっかんかかえていた[12]

ほんにおいては正式せいしき特許とっきょ実施じっしけん獲得かくとくしていたアメリカン・ロコモティブ(アルコ)で設計せっけい製造せいぞうしたC52かたちまんてつのミカニがた日本にっぽん製造せいぞうしたものもあるがアメリカ製造せいぞうしゃどう設計せっけい)とちがい、グレズリーべん関係かんけいのノウハウがない状態じょうたい設計せっけいえてあるので以下いかのようなてん問題もんだいしょうじている。

  • 軽量けいりょう優先ゆうせんして連動れんどうテコをほそ[ちゅう 6]、さらに上下じょうげ方向ほうこうあなを8つけておいたため高速こうそく動作どうさするさい変形へんけいまねいた。
  • クランクじくにニッケル・クロームこう使用しようしたところ発熱はつねつおおきくなった[ちゅう 7]
  • 給油きゅうゆ機構きこうがうまくいっておらず、上記じょうき発熱はつねつもあって潤滑じゅんかつ不足ふそくによる中央ちゅうおうクランクのきつき問題もんだいになった[ちゅう 8]
  • リンクの動作どうさ中心ちゅうしんをピストンべん中心ちゅうしんわせるのではなく、リンクの回転かいてんえんそとはしをピストンべん中心ちゅうしんわせて設計せっけいされている。

国鉄こくてつがわでは中央ちゅうおうシリンダーの不具合ふぐあいについてたいわくとのけがわるい(よわい)と認識にんしきしていた形跡けいせきがあり、国鉄こくてつによって編集へんしゅうされた『鉄道てつどう辞典じてん』では「C53かたち機関きかんしゃ」のこうで「このちゅうおもだいわく中央ちゅうおうシリンダーの部分ぶぶん)に亀裂きれつ発生はっせいしてこまった」と記述きじゅつがあるほか[14]、「3シリンダ機関きかんしゃ」や「C59かたち機関きかんしゃ」でも中央ちゅうおうシリンダーとたいわくけにかんして記載きさいがある[15]

鉄道てつどうしょう唯一ゆいいつ日本にっぽんせい3シリンダー[編集へんしゅう]

C53のだい3シリンダー
写真しゃしん中央ちゅうおう
石山いしやまえき構内こうない速度そくど超過ちょうかにより脱線だっせんしたC53 30(1930ねん4がつ25にち東海道とうかいどうせん石山いしやまえき急行きゅうこう列車れっしゃ脱線だっせん転覆てんぷく事故じこ

C53かたち予期よきどおりの性能せいのう発揮はっきしたので97りょう量産りょうさんされ、東海道本線とうかいどうほんせん山陽本線さんようほんせんにおいて特急とっきゅう急行きゅうこう列車れっしゃ牽引けんいんよう主力しゅりょくとして運用うんようされた[14]設計せっけい主任しゅにん伊東いとう三枝みえ国鉄こくてつDC11かたちディーゼル機関きかんしゃ設計せっけい製造せいぞう監督かんとく)。

しかし、構造こうぞう複雑ふくざつ部品ぶひん点数てんすうおおいため整備せいびけんおさむがわからはきらわれた。前述ぜんじゅつとお設計せっけいそのものもシリンダーまわりを担当たんとうしたしま秀雄ひでおをはじめとして3シリンダー機構きこう理解りかい不十分ふじゅうぶんであり、軽量けいりょう重視じゅうししすぎたことでわく剛性ごうせい不足ふそくによる亀裂きれつ多発たはつ連動れんどうテコの変形へんけいによるだい3シリンダーの動作どうさ不良ふりょう頻発ひんぱつ起動きどう不能ふのうなどといった重大じゅうだいなトラブルの原因げんいんとなった。なお、たいわく亀裂きれつ多発たはつLNER A1かたち・A3かたち蒸気じょうき機関きかんしゃでも軽量けいりょうのためにあなもうけたことで問題もんだいしていた[16]だい3シリンダーの動作どうさ不良ふりょう頻発ひんぱつはアメリカでも納品のうひん直後ちょくご発生はっせいしており[17]起動きどう不能ふのうオリジナル設計おりじなるせっけいでも発生はっせいすると須地じん鉄道てつどう協会きょうかいつグレズリーしき機関きかんしゃ判明はんめいしている[よう出典しゅってん]本家ほんけであるLNERは、さまざまな欠陥けっかんつグレズリーしき機関きかんしゃ乗務じょうむさせる人員じんいん1人ひとり1にん選別せんべつして1だい機関きかんしゃ専属せんぞくさせる運用うんよう対処たいしょしたが[18]当時とうじ鉄道てつどうしょうは1だい機関きかんしゃ乗員じょういん専属せんぞくさせずに運転うんてん可能かのう体制たいせい移行いこうしつつあり、旧態きゅうたい依然いぜんとしたLNERのやりかた相性あいしょうわるかった[19]

前述ぜんじゅつ改悪かいあくくわえ、軌間きかんせまさに由来ゆらいするべん装置そうちまわりの余裕よゆうのなさが致命ちめいてきで、とくメタル多発たはつしただい3シリンダーしゅれんぼうビッグエンドへの注油ちゅうゆきゅうあぶら)には想像そうぞうぜっする困難こんなん[ちゅう 9]ともなうなど、運用うんようめんでの問題もんだい発生はっせいした。

このため、めし列車れっしゃ運転うんてん開始かいし当初とうしょちょう特急とっきゅうつばめでは、信頼しんらいせいめんからC51かたち使用しようされている[ちゅう 10]。なお、つばめ名古屋なごや以西いせい牽引けんいんほどなくC53かたち担当たんとうすることとなった(沼津ぬまづ電化でんか沼津ぬまづ以西いせいをC53かたち担当たんとう)。

それでも戦前せんぜん時点じてんでは、鉄道てつどうしょうほんしゅとして名古屋なごや明石あかし下関しものせきの3機関きかん中心ちゅうしん運用うんようさせた。名古屋なごや機関きかんでは、東海道とうかいどう本線ほんせん国府津こうづ沼津ぬまづあいだ電化でんかに、従来じゅうらい浜松はままつ機関きかんっていたのぼり「富士ふじ」とり「さくら」をのぞぜん特急とっきゅう列車れっしゃ沼津ぬまづ - 名古屋なごやあいだ担当たんとうし、「さくら」は名古屋なごや - 京都きょうとあいだ上下じょうげ列車れっしゃ牽引けんいんしていた。明石あかし機関きかんは、配属はいぞくりょうかずが10りょう前後ぜんこうすくないながら、担当たんとう仕業しわざのほとんどが優等ゆうとう列車れっしゃ牽引けんいんなかには名古屋なごや - 神戸こうべあいだのロングラン運用うんよう存在そんざいしたにもかかわらず、1941ねん以降いこうのC59がたへのえまで大過たいかなくほん形式けいしき運用うんようしていた。運用うんよう維持いじのために、かく機関きかん整備せいびじんでは以下いかのような対策たいさくられた[21][22]

  • 機関きかんにはグレズリーしきべん装置そうち調整ちょうせいのためせんもん技工ぎこうちょうき、検査けんさ本線ほんせん試運転しうんてんでも技工ぎこう同乗どうじょうさせた。
  • 浜松はままつ工場こうじょうでは、名古屋なごや機関きかんからの要望ようぼうにより出場しゅつじょう走行そうこう距離きょり1まんkmまでは分解ぶんかい整備せいびせず運用うんよう可能かのうなよう検査けんさ確認かくにん緻密ちみつおこない、炭水車たんすいしゃには「10000きろめーとる限定げんてい標記ひょうき大書たいしょした。1937ねん以降いこうだい規模きぼ整備せいびしめぎおさむしゃ」にえられ、浜松はままつ工場こうじょう研究けんきゅうされた整備せいび技術ぎじゅつやC53かたち以降いこう登場とうじょうした新形しんがた機関きかんしゃ経験けいけん活用かつようされた[ちゅう 11]
  • 大阪おおさか鉄道てつどうきょくでは1930ねん明石あかし機関きかん創設そうせつに、梅小路うめこうじ機関きかんからもっと状態じょうたいのよい12りょう転属てんぞくさせ、そのてん配属はいぞくにおいても優秀ゆうしゅう配属はいぞくさせる集中しゅうちゅう配備はいびさくった[ちゅう 12]

しかし、以後いご鉄道てつどうしょう国鉄こくてつつうじ、3シリンダー機関きかんしゃ製造せいぞうはおろか設計せっけいすらなくなり、日本にっぽん蒸気じょうき機関きかんしゃ実用じつようせいではるかにすぐれた2シリンダー機関きかんしゃのみに限定げんていされることになった[ちゅう 13]

もっとも、適切てきせつ調整ちょうせい保守ほしゅされたほん形式けいしきは、等間隔とうかんかくのタイミングでかくシリンダが動作どうさする3シリンダーゆえに振動しんどうすくなく、ひろくて快適かいてき運転うんてんだい蒸気じょうきがりのいボイラ、牽引けんいんりょくつよさから、乗務じょうむいん評価ひょうか人気にんきたかかったという。後続こうぞくのC59かたちやC62かたちより心地ごこちかったとつたえられている[ちゅう 14]

改造かいぞう[編集へんしゅう]

C52がた使用しようけむりしつぶたけて清掃せいそうちゅうにシンダ(すす)がグレズリーしきべん装置そうちはい問題もんだい発生はっせいしたのでそれをふせぐためにぜんデッキに鉄製てつせいのエプロンを追加ついかけていた[ちゅう 15]。これにたいし、ほん形式けいしき最初さいしょからこのてつエプロンが正面しょうめんだけでなく側面そくめんまでおおっていた、しかしこれは整備せいびじょう不便ふべんから短期間たんきかん撤去てっきょされ前面ぜんめんのみとなり、こちらが標準ひょうじゅんスタイルになっている[25]運用うんよう開始かいし直後ちょくご勾配こうばい区間くかん走行そうこうやブレーキ蒸気じょうきため内部ないぶみずはい問題もんだいきた。みずはシリンダーない膨張ぼうちょうしないため出力しゅつりょくられないばかりか、まんいち高速こうそく運転うんてんちゅう大量たいりょう流入りゅうにゅうしてドレンわなかった場合ばあいにはウォーターハンマーこすため、対策たいさくとして蒸気じょうきためのドーム内部ないぶ通風つうふうかんもうけたが、C53 93は試験しけんてきにドームのたかさをしたうえでドーム自体じたい位置いち後方こうほううつ改造かいぞうをおこなっている。

だい動輪どうりんのクランクじくとう初動しょどうじく一体いったい鍛造たんぞうしなであったが強度きょうど工作こうさくじょう観点かんてんから組立くみたてしき変更へんこうピストンからだやクロスヘッド、内側うちがわすべぼうといった箇所かしょ強度きょうど問題もんだいから順次じゅんじ改造かいぞうされた。また、1930年代ねんだいなか以降いこうけんおさむじょう問題もんだいから一部いちぶ初期しょき製造せいぞうしゃはいさわうつわ移設いせつ蒸気じょうきしつのぞあな拡大かくだいぜんデッキ垂直すいちょくを4分割ぶんかつ引戸ひきどとして後期こうき製造せいぞうしゃあつかいを共通きょうつうしたほか、C53 88は試験しけんてきだんれていたぜんデッキ傾斜けいしゃ部分ぶぶんいちめんひらき変更へんこうした。

昭和しょうわ初期しょきには排煙はいえん効果こうかたかめるためC51かたちおなじく煙突えんとつ上部じょうぶけむりしつ周囲しゅうい各種かくしゅ排煙はいえん装置そうちけるこころみがなされたものの、じょけむりばん良好りょうこうだったので1931ねんごろからけがはじまり[26]排煙はいえん装置そうちのものも1933ねん以降いこう原型げんけいもどされている。じょけむりばん形状けいじょう名古屋なごや大阪おおさか門司もじ1935ねん以降いこう広島ひろしま鉄道てつどうきょく移管いかん)のかく鉄道てつどうきょくによりながさやたかさが若干じゃっかんことなるものが採用さいようされた。名古屋なごや門司もじ広島ひろしま採用さいようしたじょけむりばん大阪おおさかのものより基本きほんてき大型おおがたである。また、大阪おおさかきょく所属しょぞくのC53 47はC51がた一部いちぶでも採用さいようされたぜんえん開閉かいへいできるじょけむりばんそなえたほか、門司もじ広島ひろしまきょく所属しょぞくしゃでは煙突えんとついただき若干じゃっかん延長えんちょうしていた。

このほか、名古屋なごや大阪おおさか所属しょぞくしゃ一部いちぶには特急とっきゅう急行きゅうこう列車れっしゃ長距離ちょうきょり運用うんようそな炭水車たんすいしゃ標準ひょうじゅんてきな12-17がたからD50かたち初期しょきしゃ使用しようしていた20立方りっぽうまいがたえたものが存在そんざいした[ちゅう 16]ほん形式けいしき使用しようした20立方りっぽうまいがた炭水車たんすいしゃ石炭せきたん搭載とうさいりょうやすため炭庫たんこたかさやながさを改造かいぞうほどこしており、外見がいけんてき特徴とくちょうひとつとなった。

流線型りゅうせんけい改造かいぞう[編集へんしゅう]

のぼり「つばめ」回送かいそう列車れっしゃ牽引けんいんするC53 43
1934ねん12月9にち 大久保おおくぼ - 明石あかしあいだにて撮影さつえい

1934ねん11月には当時とうじ世界せかいてき流線型りゅうせんけいブームにり、梅小路うめこうじ機関きかん所属しょぞくのC53 43が鷹取たかとり工場こうじょうにおける20日はつか突貫とっかん工事こうじ試験しけんてき流線型りゅうせんけい改造かいぞうされた。けむりしつ前部ぜんぶななめにり、運転うんてんしつ密閉みっぺいしきのものに取替とりかえ、車体しゃたい全体ぜんたい炭水車たんすいしゃ上部じょうぶ流線型りゅうせんけい鉄板てっぱんおおい、機関きかんしゃ本体ほんたい炭水車たんすいしゃ隙間すきまほろおおった。さらに、露出ろしゅつした汽笛きてきにも流線型りゅうせんけいキセ装着そうちゃくする徹底てっていぶりであった。これらの改造かいぞうによりとはまったことなる外観がいかんていした。ぬりしょく完成かんせい直後ちょくご海老茶えびちゃしょくで、試運転しうんてんまえくろえられたかのように新聞しんぶんかれたが、当初とうしょくろ以外いがいあんがあって採用さいようされなかっただけともされる[ちゅう 17]

流線型りゅうせんけいブームでは空気くうき抵抗ていこう軽減けいげん効果こうかおお標榜ひょうぼうされたが、当時とうじの100km/hにたない運転うんてん速度そくどでは空気くうき抵抗ていこう列車れっしゃ走行そうこうあたえる影響えいきょうはごくちいさなものであった。それよりも列車れっしゃ周囲しゅうい空気くうきながれを改善かいぜんし、けむり列車れっしゃからみつくのをふせぐとともに、走行そうこうちゅう対向たいこう列車れっしゃえきホームじょう乗客じょうきゃくおよぼす風圧ふうあつ軽減けいげん目標もくひょうとしたという[27]

完成かんせいの11月24にちには鷹取たかとり工場こうじょう構内こうない公式こうしき試運転しうんてん実施じっしし、同年どうねん12がつ1にちから1937ねん7がつ1にちのダイヤ改正かいせい梅小路うめこうじ機関きかんのC53かたち特急とっきゅう運用うんようから撤退てったいするまでのあいだのぼり「つばめ」の神戸こうべ - 名古屋なごやあいだ明石あかし操車そうしゃじょう - 神戸こうべあいだ回送かいそう列車れっしゃ牽引けんいん)、くだり「富士ふじ」の名古屋なごや - 大阪おおさかあいだ担当たんとうしたほか機関きかんしゃ回送かいそうねて急行きゅうこう17列車れっしゃ京都きょうと - 神戸こうべあいだ普通ふつう列車れっしゃ牽引けんいんした[28]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)6がつには東海道とうかいどう本線ほんせんはら - 鈴川すずかわげん吉原よしはらあいだでC53 43と通常つうじょうがたのC53 55を使つかった性能せいのう試験しけんがおこなわれ、性能せいのう試験しけんしゃオヤ6650とひかえしゃスハフ34445を連結れんけつした状態じょうたいで100km/h前後ぜんごまで加速かそくして走行そうこうしたさい機関きかんしゃ状態じょうたい計測けいそくした[29]。この試験しけん成績せいせき良好りょうこうだったため、C53かたち全車ぜんしゃ流線型りゅうせんけい改造かいぞうするため改造かいぞう1りょう3000えん計上けいじょう昭和しょうわ10年度ねんどとして10りょう改造かいぞうすることが内定ないていした[30]実現じつげんしなかった。「つばめ」の客車きゃくしゃ展望てんぼうしゃ後部こうぶながれ線形せんけいにし、貫通かんつうほろ車体しゃたいはばいちはいまで2400ミリひろげるなどして空気くうき抵抗ていこうを3わりらす改造かいぞう着手ちゃくしゅするという計画けいかく報道ほうどうされたが[31] 、これも実現じつげんしていない。

運転うんてんしつないほろおおわれているため室内しつない騒音そうおん軽減けいげんされたが、その反面はんめんねつがこもり、室内しつない温度おんど高温こうおんになりやすかった。また整備せいび点検てんけんにはのC53かたちよりもやく180%おおくの時間じかんようしたという[32]特急とっきゅう運用うんようからはずれた直後ちょくごには炭水車たんすいしゃ上部じょうぶのカバーを撤去てっきょ戦時せんじちゅうには車体しゃたい下部かぶのカバーも撤去てっきょされ、開閉かいへい手間てまようしたけむりしつとびらにはジャッキをけた。

廃車はいしゃ[編集へんしゅう]

1940年代ねんだいはいり、2シリンダーでどうクラスの性能せいのうつC59がた完成かんせいともなって幹線かんせん主力しゅりょく機関きかんしゃゆずったが、あまりに大型おおがたであるため、当時とうじ東海道とうかいどう山陽さんよう本線ほんせん軍事ぐんじ輸送ゆそうじょうから山陽本線さんようほんせんなみ軌道きどう状態じょうたい整備せいびされた呉線くれせん以外いがいには転用てんよう不可能ふかのうであった。おりから戦時せんじ体制たいせい突入とつにゅうしたために機関きかんしゃ需要じゅようがさらに逼迫ひっぱく、にもかかわらず旅客りょかくよう機関きかんしゃ製造せいぞう中断ちゅうだんされたためにほん形式けいしきもフルに運用うんようされ、はからずもその寿命じゅみょうばすことになる。さい末期まっき中央西線ちゅうおうさいせん名古屋なごやこう関西本線かんさいほんせん名古屋なごや - 亀山かめやまあいだ)でごく一部いちぶ使用しようされたといわれる。また、関門かんもんトンネル開通かいつう小倉おぐら工場こうじょうでもほん形式けいしき検査けんさおこなった関係かんけいじょう回送かいそう試運転しうんてん鹿児島本線かごしまほんせん一部いちぶ区間くかん門司もじ - 吉塚よしづかあいだ)を走行そうこうした。

だが部品ぶひん点数てんすうおお複雑ふくざつ構造こうぞうであったうえ戦時せんじ酷使こくし整備せいび不良ふりょう、さらには相次あいついだ戦災せんさい事故じこによる損傷そんしょうたたり、戦後せんごすぐに運用うんようはなれる車両しゃりょう続出ぞくしゅつした。結局けっきょく国産こくさん本線ほんせんよう大型おおがた蒸気じょうき機関きかんしゃなかではもっともはやく、1948ねんから1950ねんにかけてすべて廃車はいしゃとなった。そのはやすぎる廃車はいしゃたい朝日新聞あさひしんぶん投書とうしょらん発端ほったんとなり衆議院しゅうぎいん運輸うんゆ委員いいんかいげられることになった[33]

保存ほぞん[編集へんしゅう]

京都きょうと鉄道てつどう博物館はくぶつかんのC53 45

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に廃車はいしゃされたC53 45は国鉄こくてつ吹田すいた教習所きょうしゅうじょ教習きょうしゅうよう車両しゃりょう鷹取たかとり工場こうじょうない放置ほうちされていたが、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に鉄道てつどう90周年しゅうねん事業じぎょう一環いっかんとして大阪おおさかみなと開館かいかんした交通こうつう科学かがくかん(のちの交通こうつう科学かがく博物館はくぶつかん)に保存ほぞんされることとなり、前年ぜんねん1961ねん昭和しょうわ36ねん)に運行うんこう可能かのう状態じょうたい復元ふくげん整備せいびされ[34]9がつ20日はつか9月21にちには吹田すいた操車そうしゃじょう - 鷹取たかとりあいだで2日間にちかん記念きねん走行そうこうおこなわれている。1972ねん昭和しょうわ47ねん)9がつ京都きょうと梅小路うめこうじ蒸気じょうき機関きかんしゃかんうつされ、現存げんそん唯一ゆいいつのC53がたとして、同館どうかんが2016ねん平成へいせい28ねん)4がつ京都きょうと鉄道てつどう博物館はくぶつかん新装しんそうオープンしたのち静態せいたい保存ほぞんされている。2006ねん平成へいせい18ねん)、「梅小路うめこうじ蒸気じょうき機関きかんしゃぐん関連かんれん施設しせつ」として、じゅん鉄道てつどう記念きねんぶつ指定していされた。

製造せいぞう銘板めいばんは1961ねん昭和しょうわ36ねん)の復元ふくげん整備せいびに、汽車きしゃ会社かいしゃ協力きょうりょく会社かいしゃ矢内やない金属きんぞく工業こうぎょう大阪おおさか御幣島みてじま)が保管ほかんしていた木型きがたによって製造せいぞう当時とうじ様式ようしきもの複製ふくせいされた[35]現役げんえき時代じだいのナンバープレートは廃車はいしゃうしなわれ、復元ふくげん走行そうこう交通こうつう科学かがくかん保存ほぞん当初とうしょ新規しんき鋳造ちゅうぞう形式けいしきなしのナンバープレートを装着そうちゃくしていたが、のちに形式けいしきめいりの赤地あかじもの梅小路うめこうじ移転いてん前後ぜんこう形式けいしきめいりの黒地くろじもの交換こうかんされている[ちゅう 18]

交通こうつう科学かがくかんから梅小路うめこうじへの移動いどうは、大阪港おおさかこうえきまで陸路りくろはこばれ、そこから本線ほんせんじょうふくせん甲種こうしゅ輸送ゆそうされた[36]

このほか、おなじく1950ねん昭和しょうわ25ねん)に廃車はいしゃされたC53 57が教習きょうしゅうようとしてボイラー部分ぶぶん切開せっかいした状態じょうたい浜松はままつ工場こうじょう保存ほぞんされた。1963ねん当時とうじ現存げんそんしていたが、のちに解体かいたいされている[37]

タキ1600かたち貨車かしゃへの改造かいぞう[編集へんしゅう]

1949ねん昭和しょうわ24ねん)9がつ30にちから同年どうねん11がつ5にちにかけて、廃車はいしゃとなったほん形式けいしき炭水車たんすいしゃ糖蜜とうみつ輸送ゆそうよう40tせきタンクしゃタキ1600かたち改造かいぞうする工事こうじ実施じっしされた。改造かいぞう工事こうじ東洋とうようレーヨン若松わかまつ車両しゃりょうの2しゃにて2ロット16りょう(タキ1600 - タキ1615、ほん形式けいしき32両分りょうぶん)がおこなわれた。

これは2両分りょうぶん炭水車たんすいしゃいし炭取すみとり出口でぐちがわ機関きかんしゃ運転うんてんしつがわ)をかいわせにして永久えいきゅう連結れんけつし、炭水車たんすいしゃ上部じょうぶ炭庫たんこはらい、下部かぶ水槽すいそうをタンクとして利用りようするというものであった。たいわく台車だいしゃもと炭水車たんすいしゃのものをもちいた。永久えいきゅう連結れんけつした2両分りょうぶんを1りょうとし、各々おのおの車両しゃりょうには「タキ16xxまえ」「タキ16xx」と表記ひょうきされた。

所有しょゆうしゃ内外ないがい輸送ゆそうであり、その常備じょうびえき神奈川かながわけん新興しんこうえきであった。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)7がつまでに全廃ぜんぱいされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ C51かたち当時とうじ1067mm軌間きかんでは最大さいだい動輪どうりん直径ちょっけい1750mmを採用さいようしており、ボイラーをできるだけほそくするなどの制約せいやくがあった[1]
  2. ^ 鉄道てつどう辞典じてんじょう、pp.632 - 633「3シリンダー機関きかんしゃ」によると国鉄こくてつがわ認識にんしきしていた3シリンダーのメリットとデメリットはつぎとおり。
    利点りてん
    1. どう出力しゅつりょくでも)2シリンダーしきより個々ここのピストンをちいさくできるため、左右さゆう往復おうふく運動うんどう部分ぶぶん質量しつりょうちいさくなり、これによってできる蛇行だこう運動うんどう原文げんぶんは「へび運動うんどう」)をちいさくできる。
    2. シリンダーが3つになるのではし装置そうち全体ぜんたい重量じゅうりょうおもくなるが、これは重心じゅうしんげる方向ほうこうはたらくのでボイラー中心ちゅうしんたかくできる。
    3. トルク変動へんどうが2シリンダーしきよりおさえられ、そのためにこる動揺どうようり、粘着ねんちゃく重量じゅうりょう有効ゆうこう使つかえる。
      空転くうてんおさえられる。設計せっけいじょう粘着ねんちゃく係数けいすうは2シリンダーが「1/5」、3シリンダーが「1/4.5」とされた。)
    4. 左右さゆう中央ちゅうおう往復おうふく部分ぶぶん重量じゅうりょうってぜっ運転うんてん前後ぜんごどうおさえられる。
      理論りろんじょう左右さゆう中央ちゅうおうどう重量じゅうりょうかくシリンダーが120ずつにすれば前後ぜんごどうを0にできるが、C53のように中央ちゅうおうシリンダーがななめにげている場合ばあいすこのこる。)
    5. シリンダーの排気はいき動輪どうりん1回転かいてんにつき6かいとなり、2シリンダーの4かいよりも回数かいすうえ、個々ここちいさくなることで通風つうふう強弱きょうじゃく変動へんどうおさえられる。これにより通風つうふうがスムーズになるとともに燃焼ねんしょう石炭せきたん排気はいきされにくくなるため、ボイラー燃焼ねんしょう効率こうりつ向上こうじょうする。
    6. シリンダー引張ひっぱちから変化へんかちいさくなるので運転うんてんちゅう供給きょうきゅう蒸気じょうき圧力あつりょく十分じゅうぶんたかくして締切しめきりりつちいさくできるので経済けいざいてきになる。
    欠点けってん
    1. 中央ちゅうおうシリンダーは主動しゅどうじくそのもののクランクをまわすので構造こうぞう複雑ふくざつになり、設計せっけい工作こうさく難易なんいがる。
    2. たいわく内部ないぶにある中央ちゅうおうシリンダーのけんおさむ不便ふべんになる。
    3. シリンダーのかずえるのでねつげやすくなり、内部ないぶれもきやすくなる。
  3. ^ 本文ほんぶんちゅう記載きさい、この数値すうちまぼろし鉄道てつどう車両しゃりょう』p.61ひょう78-2かたち機関きかんしゃ重量じゅうりょう85.50tと炭水車たんすいしゃ重量じゅうりょう49.45t(いずれも運転うんてん整備せいび)の合計ごうけい
  4. ^ みなみまんしゅう鉄道てつどうの3シリンダーであるミカニがた輸入ゆにゅうおなじ1924ねんで、これをコピーして自前じまえ量産りょうさんできるようになったのは1926ねんから。
  5. ^ 国鉄こくてつでは「グレズレーしきべん装置そうち」と呼称こしょう[6]
  6. ^ うえからるとミカニなどは強度きょうど必要ひつよう中央ちゅうおうふねじょうふとくなっているが、C53かたち直線ちょくせんてき形状けいじょうをしている。
  7. ^ のち朝倉あさくら自身じしん「ニッケルはねばりがつよいので軸受じくうけ禁物きんもつあとった」としている[13]
  8. ^ ミカニがたなどは中央ちゅうおうクランクピンに直接ちょくせつグリースを注入ちゅうにゅうできるあながクランクじく中央ちゅうおうにあった。
  9. ^ きちんときゅうあぶらしたのちいでしても途中とちゅう潤滑油じゅんかつゆれをこすことがあり、沼津ぬまづから機関きかん助手じょしゅ高速こうそく運転うんてんおこな機関きかんしゃ制動せいどうてこ(かくせいをつなぐぼう、ブレーキロッド。)のうえった状態じょうたいのまま決死けっし覚悟かくごきゅうあぶらつづけ、名古屋なごやべつ機関きかんしゃ交換こうかんしてことなきをた、という逸話いつわまでのこっている[20]
  10. ^ つばめ箱根はこね用後ようごとして国府津こうづ機関きかんほん形式けいしきが3りょう配置はいち使用しようされた。この国府津こうづのC53かたち試験しけんてき急行きゅうこう列車れっしゃ牽引けんいんして東京とうきょうえき入線にゅうせんしている。
  11. ^ 名古屋なごや機関きかんからはつの「しめぎおさむしゃ修繕しゅうぜん対象たいしょうとなったC53 57とつづくC53 71には工場こうじょう出場しゅつじょうにランボードじょう手摺てすり、デフレクタには銘板めいばんといった装飾そうしょくほどこされた。
  12. ^ もっと状態じょうたいのよいC53 23やC53 30は、「明石あかし一等いっとうかん)」とばれていた[23]
  13. ^ 外国がいこくではドイツ・アメリカなども2シリンダーおおいが、ドイツは1935ねんりゅう線形せんけいタンク61がた(1号機ごうき)で試験しけんちゅう時速じそく160㎞をえたあたりで振動しんどうはげしくなり、比較ひかくようの3シリンダーではこれがきなかったことから、1939ねんから急行きゅうこう旅客機りょかくきは2気筒きとうから3気筒きとうえている(01かたちや03かたち→0110かたちや0310かたち)。アメリカは関節かんせつのぞ末期まっきまで2シリンダーが主流しゅりゅう(アルコの3シリンダーはどちらかというと傍流ぼうりゅう)だが、バランスウェイトを前後ぜんごどうおさえる(蛇行だこうふせぐ)かたってはげしくなったハンマーブローは堅固けんご軌条きじょうえ、シリンダーを縮小しゅくしょうして軽量けいりょうしそのぶんカットオフをおおきくとる(蒸気じょうき消費しょうひりょうがる)などの対策たいさくをしていたので、日本にっぽんきの手法しゅほうではなかった。もっとも3気筒きとう性能せいのう向上こうじょう蒸気じょうき機関きかんしゃ#気筒きとうすうによる分類ぶんるいかれているようにメリットのわりにデメリットがおおきすぎるという問題もんだいがあり、3気筒きとうこのんで使つかっていた英国えいこくですら戦後せんごに2気筒きとう選択せんたくすることになっている[24]
    日本にっぽんせいという意味いみでは3シリンダー前記ぜんきまんてつけミカニがたがあり、これはアルコの仕様しようをそのまま使つかっていたこともありそこまで不具合ふぐあいはなく1932ねんまでぞう備されていたが、それでもクランクじく折損せっそん事故じこ発生はっせいで41りょう正確せいかくには初期しょき5だいはアルコしゃせいなので日本にっぽんがわ製造せいぞう36りょう)で製造せいぞうって1934ねんから代替だいたいのミカシがた(トルク変動へんどう平均へいきん粘着ねんちゃくりょく確保かくほする制限せいげん方式ほうしき採用さいようの2シリンダー)にえられている。
  14. ^ 3気筒きとうきゅう排気はいきタイミングが等間隔とうかんかくになるようにつくられた機関きかんではいち振動しんどうがゼロになるため。
  15. ^ アメリカ本国ほんごくまんてつでは「けむりしつ内部ないぶのネッティング(もう)で着火ちゃっかりょくくしたほそつぶをシリンダー排気はいきのブラストでとばして排出はいしゅつ」(ようするに煙突えんとつからまきらしている)方法ほうほう使用しようしていた。このためC52がたのようなエプロンは必要ひつようとされず、いちれいとしてまんしゅう鉄道てつどう発達はったつ』p.77にあるミカニ1633ごう(1929ねん製造せいぞう)の写真しゃしんではエプロンはつけられずに連動れんどうレバー露出ろしゅつのまま使用しようしている。
  16. ^ 名古屋なごやではC53 7・57・67・68・71・73・75・85・86・87、大阪おおさかではC53 18・19・33・41・43・89が対象たいしょうとなり、後年こうねんにC53 19はC53 30と再度さいど炭水車たんすいしゃ交換こうかんした。
  17. ^ 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 1934ねん11月24にち記事きじ流線型りゅうせんけい機関きかんしゃあす試運転しうんてん 海老茶えびちゃ伊達だて姿すがた』には「いろいめの海老茶えびちゃで、下部かぶ鼠色ねずみいろにぼかしてある」とある。さらに11月25にち大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん記事きじには「鉄道てつどう法規ほうきにより漆黒しっこくしょくえられ」とかれている。後者こうしゃしま秀雄ひでお流線型りゅうせんけい蒸気じょうき機関きかんしゃ鉄道てつどうファン2000ねん7がつごう No.471 pp.126 - 131(『しま秀雄ひでお遺稿いこうしゅう』より)で引用いんようあり。『鉄道てつどう趣味しゅみ』1934ねん12がつごうだい2かんだい11ごう)で柏原かしわばらあきらやまが11月25にち鷹取たかとり機関きかんでの試運転しうんてん見学けんがくを「色彩しきさい鼠色ねずみいろすそぼかしだとか、小意気こいきなカラーといてましたが、(中略ちゅうりゃくかく黒色こくしょく間違まちがえひはありません。これはじめそのあんがあつたのでしたけれど、規程きていがあつて蒸気じょうき機関きかんしゃぬりしょくくろうんごとさだめられためめだとうんことです。」と報告ほうこくしている。
  18. ^ 共栄きょうえい興業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ大阪おおさか)でC53 45の形式けいしきめい赤地あかじナンバープレートが展示てんじされているが、交通こうつう科学かがくかん時代じだい装着そうちゃくしていたものかは不明ふめい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 国鉄こくてつ1958じょう p.650「C51かたち機関きかんしゃ
  2. ^ 国鉄こくてつ1958じょう p.633「3シリンダー機関きかんしゃ
  3. ^ a b 髙木2007 p.62
  4. ^ 国鉄こくてつ1958じょう pp.651-652「C53かたち機関きかんしゃ
  5. ^ 国鉄こくてつ1958じょう p.652
  6. ^ 国鉄こくてつ1958 p.1591「べんおよびリンク装置そうち
  7. ^ 2-8-2 "Mikado" Locomotives in the USA - Steam Locomotive dot Com(英語えいご
  8. ^ G class steam locomotive, NZR 98, Garratt type - ニュージーランド国立こくりつ図書館としょかん英語えいご
  9. ^ CLASS G 4-6-2 - Train Web.org(英語えいご
  10. ^ 齋藤さいとう2007 p.258
  11. ^ アーネスト・スチュワート・コックス英語えいごばん「Report on '2 to 1' valve gear on LNER 3-cylinder locomotives」(1942ねん6がつ8にち書誌しょし情報じょうほう
  12. ^ were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P35 - The Railway & Canal Historical Society(英語えいご
  13. ^ 朝倉あさくら希一きいち遺稿いこう技術ぎじゅつ随筆ずいひつ 汽車きしゃ今昔こんじゃく10」『鉄道てつどうファンだい19かんだい10ごう通巻つうかん222ごう交友こうゆうしゃ、1979ねん10がつ1にち、p.117 雑誌ざっし06459-10
  14. ^ a b 国鉄こくてつ1958じょう P.652
  15. ^ 国鉄こくてつ1958じょう p.633・651
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  17. ^ Wabash 2-8-2 "Mikado" Locomotives in the USA - Steam Locomotive dot com(英語えいご
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  20. ^ 名古屋なごや機関きかんOBのおも・OBのかたるC53と、そのふけ黄金おうごん時代じだい」『鉄道てつどうファン』通巻つうかん345ごう(1990ねん1がつごう)、交友こうゆうしゃ[ようページ番号ばんごう]
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  26. ^ 片野かたの2017 p.137「C53」
  27. ^ しま秀雄ひでお流線型りゅうせんけい蒸気じょうき機関きかんしゃ」『鉄道てつどうファン』通巻つうかん471ごう(2000ねん7がつごう) 、交友こうゆうしゃ、pp.126 - 131(『しま秀雄ひでお遺稿いこうしゅう』より)
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  32. ^ 今村いまむらきよし国鉄こくてつ蒸気じょうき機関きかんしゃ素描そびょうVIII C53」『鉄道てつどうファン』通巻つうかん34ごう(1964ねん4がつごう交友こうゆうしゃ[ようページ番号ばんごう]
  33. ^ だいじゅうろくかい衆議院しゅうぎいん運輸うんゆ委員いいん会議かいぎろくだいじゅうさんごう 昭和しょうわじゅうはちねんなながつじゅうさんにち』(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステムで閲覧えつらん
  34. ^ うみぬま武彦たけひこ大阪おおさか交通こうつう科学かがくかんとつぐC5345ごう復元ふくげんについて」『鉄道てつどう工場こうじょうだい12かんだい10ごう、レールウエー・システム・リサーチ、1961ねん10がつ 14-17ページ
  35. ^ 高田たかだひろし「50ねんまえのC53 45と周辺しゅうへん人々ひとびと『レイル』No.78、プレス・アイゼンバーン (エリエイ出版しゅっぱん)、2011ねん、pp.26 - 29
  36. ^ 『レイル』No.78、(エリエイ出版しゅっぱん)、2011ねん、p.18
  37. ^ 久保くぼさとし「プレイバック・展望てんぼうかん東海道とうかいどう 駿河するがから遠江とおのえへのみち-2」『鉄道てつどうファン』通巻つうかん640ごう交友こうゆうしゃ、p.108

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう へん復刻ふっこくばん 鉄道てつどう辞典じてん上巻じょうかん)』同朋どうほうしゃメディアプラン、1958(2013ねん復刻ふっこく)。ISBN 978-4-86236-040-3 
  • 日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう へん復刻ふっこくばん 鉄道てつどう辞典じてん下巻げかん)』同朋どうほうしゃメディアプラン、1958(2013ねん復刻ふっこく)。ISBN 978-4-86236-040-3 

(『鉄道てつどう辞典じてん』は元々もともとISBNがいておらず、復刻ふっこくばんうえしたの3かんで1つのほんというあつかいのためISBNはすべて「978-4-86236-040-3」である。)

  • 『C52・C53 The echo of three cylinders』 プレス・アイゼンバーン 1973ねん
  • 頴川良平りょうへい『C53と西尾にしおさんのこと』(『西尾にしおかつ三郎さぶろうライカ鉄道てつどう写真しゃしん全集ぜんしゅう VI』所収しょしゅう) プレス・アイゼンバーン 2004ねん
  • 齋藤さいとうあきら蒸気じょうき機関きかんしゃ200ねん」、NTT出版しゅっぱん、2007ねんISBN 978-4-7571-4151-3 
  • 髙木宏之ひろゆきちょ)、岡田おかだ秀樹ひできへん)「まぼろし国鉄こくてつ車両しゃりょう」、JTBパブリッシング、ISBN 978-4-533-06906-2 
  • 髙木宏之ひろゆきまんしゅう鉄道てつどう発達はったつ」、株式会社かぶしきがいしゃしお書房しょぼう光人みつひとしゃ、2012ねんISBN 978-4-7698-1524-2 
  • 片野かたの正巳まさみ細密さいみつイラストでつづる日本にっぽん蒸気じょうき機関きかんしゃ」、株式会社かぶしきがいしゃネコ・パブリッシング、2017ねんISBN 978-4-7770-5407-7 
  • 齋藤さいとうあきら蒸気じょうき機関きかんしゃ技術ぎじゅつ (改訂かいてい増補ぞうほばん)  (交通こうつうブックス117)」、成山なりやまどう書店しょてん、2018ねんISBN 978-4-42576162-3 
  • 坂上さかがみ茂樹しげきC53がた蒸気じょうき機関きかんしゃ試論しろん ―― 近代きんだい技術ぎじゅつにおける3 気筒きとう機関きかんしゃ位置付いちづけと国鉄こくてつ史観しかんはん国鉄こくてつ史観しかん――」『Discussion Paper』だい62ごう大阪市立大学おおさかいちりつだいがく経済けいざい学会がっかい、2010ねん8がつ4にち 
  • 坂上さかがみ茂樹しげきC53がた蒸気じょうき機関きかんしゃ試論しろん[訂正ていせいばん 近代きんだい技術ぎじゅつにおける3気筒きとう機関きかんしゃ位置付いちづけと国鉄こくてつ史観しかんはん国鉄こくてつ史観しかん]」『大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅうディスカッションペーパー』だい62かん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅう、2010ねん8がつ、1-352ぺーじ 
  • 坂上さかがみ茂樹しげき高木たかぎ蒸気じょうき機関きかんしゃ技術ぎじゅつろんたいする疑問ぎもん以上いじょうのもの」(PDF)『大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅうディスカッションペーパー』だい118かん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅう、2019ねん4がつ、1-10ぺーじ 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]