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木島きしまさくらたに

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木島きしま さくらたに(このしま おうこく[1]せい字体じたい:櫻谷さくらだに[1]さくらたにとも。明治めいじ10ねん1877ねん3月6にち - 昭和しょうわ13ねん1938ねん11月3にち)は、明治めいじから昭和しょうわ初期しょきにかけて活動かつどうした、四条しじょう日本にっぽん画家がか本名ほんみょう木島きしま文治郎ぶんじろうぶんしつべつごう龍池たついけ草堂そうどう主人しゅじんろういおりまがひと

四条しじょう伝統でんとういだ技巧ぎこうてき写生しゃせいりょく情趣じょうしゅある画風がふうで、「大正たいしょうはる」「最後さいご四条しじょう」としょうされた。

経歴けいれき

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京都きょうと三条さんじょう室町むろまちひがしいれ御倉おぐらまちで、木島きしま周吉しゅうきちだい)のとして、一女いちじょさんなん兄弟きょうだい次男じなんとしてまれる[2]祖父そふ木島きしまもとつねは、狩野かの絵師えし吉田よしだもとひね弟子でしで、京都きょうと在住ざいじゅう絵師えしおおくが参加さんかした寛政かんせい内裏だいり造営ぞうえい障壁しょうへき制作せいさくにもつらねている[3]祖父そふ周吉しゅうきちだいから内裏だいり高級こうきゅう調度ちょうど納入のうにゅうする「有識ゆうしきしゃ」というみせおこし、ちちもそのみせいでいた。ちち和歌わかちゃ造詣ぞうけいふかく、木島きしまにはかれしたった芸術げいじゅつ知識ちしきじん来訪らいほうえなかったという。そのなかには陶工とうこう永樂えいらく保全ほぜん篆刻てんこく茶人ちゃじん山本やまもとたけくも、そしてきし絵師えしきしたけどうがいた。周吉しゅうきちたけどうは、きしのもとでともまなんだなかで、木島きしまにはたけどう作品さくひんすくなからずあったようだ。

けいねんじゅく時代じだい

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地元じもと明倫めいりん尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく同級どうきゅう久保田くぼた金僊きんせん森本もりもとひがしかく幸野ゆきの楳嶺)、洋画ようがになるしば千秋ちあきがいた。下京しもぎょう高等こうとう小学校しょうがっこうて、京都きょうと府立ふりつ商業しょうぎょう学校がっこうすすむが、簿記ぼき算術さんじゅつ興味きょうみてず中途ちゅうと退学たいがくする。明治めいじ25ねん1892ねん)12月、同年どうねんくなったちち知己ちきで、当時とうじ京都きょうと画壇がだんにおける大家たいかであった今尾いまおけいねん弟子でしりする。けいねんは「桜谷さくらだに」のごうあたえ、ちちはやくしたさくらだに父親ちちおやてき存在そんざいだった。またおなごろ、儒医・本草学ほんぞうがくもの写生しゃせい画家がかだった山本やまもとけい儒学じゅがく本草学ほんぞうがく経文きょうもん漢学かんがくまなぶ。元来がんらい文学ぶんがく少年しょうねんだったさくらだには「論語ろんごみのさくらだにさん」とあだされるほどの愛読あいどくとなり、ひる絵画かいが制作せいさくよる漢籍かんせき読書どくしょ生活せいかつおくる。入門にゅうもん翌年よくねんはやくもだいさんかい青年せいねん絵画かいが共進きょうしんかいに『芙蓉ふよう小禽しょうきん』を出品しゅっぴんして褒詞ほうしけ、どうだいよんかいてんにも『春野はるの郊歩』でさんとう褒状ほうじょうとなるなど、けいねんじゅく代表だいひょうする画家がかとして成長せいちょうしていく。

文展ぶんてん寵児ちょうじ

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明治めいじ30ねん1897ねん)にけいねんじゅく卒業そつぎょう展覧てんらんかいへの出品しゅっぴんえていく。四条しじょう円山まるやまながれをんだ写生しゃせい基本きほんとし、初期しょき動物どうぶつ得意とくいとし、一気呵成いっきかせいふでさばきで大作たいさく次々つぎつぎとこなしていった。明治めいじ32ねん1899ねん)に全国ぜんこく絵画かいが共進きょうしんかい出品しゅっぴんした『瓜生うりゅう兄弟きょうだい』はみや内省ないせいげとなり、桜谷さくらだに出世しゅっせさくとなった。明治めいじ36ねん1903ねん)のだい5かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい出品しゅっぴんさくゆら落』も天皇てんのうげの栄誉えいよよくす。画題がだい花鳥かちょう山水さんすい歴史れきし人物じんぶつへとひろがっていく。文展ぶんてんでは明治めいじ40ねん1907ねん)のだい1かいからだい6かいまで、とうしょう4かいさんとうしょう2かい連続れんぞく受賞じゅしょうし(このころ文展ぶんてんでは一等いっとうしょう空席くうせき)、早熟そうじゅく天才てんさいという印象いんしょうあたえた。その理由りゆうとして、桜谷さくらだに自身じしん画才がさいほかに、その作風さくふう展覧てんらんかい時代じだいにうまく適合てきごうしていたからともかんがえられる。各種かくしゅ展覧てんらんかい西洋せいよう建築けんちくによる大空おおぞらあいだ頻繁ひんぱんひらかれるようになると、おおくのかんしゃいちられる画面がめん要求ようきゅうたかまった。さら文展ぶんてんになると、応募おうぼさくおおきさの制限せいげんはなかったため、画家がかたちは出来できるだけおおきな画面がめん制作せいさくする必要ひつようかんじ、伝統でんとうてき屏風びょうぶ注目ちゅうもくする。そうしたなかさくらだには、左右さゆうたいとしてえがかれることがおお屏風びょうぶを、連続れんぞくするひとつの絵画かいが空間くうかんとしてとらなおし、幅広はばひろ横長よこなが画面がめんどうぜいかんのある充実じゅうじつした構図こうずによってパノラマミックにえがした[4]後述こうじゅつするように、審査しんさにははげしい毀誉きよ褒貶ほうへんきまとったようだが、さくらだにもだしてかたらず、「みみこえない」というべつごうろういおりまがひと」をもちいるのもこのころである[5]

大正たいしょう以降いこう

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大正たいしょう元年がんねん1912ねんに)京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこうげん京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく教授きょうじゅ委嘱いしょくされ、大正たいしょう2ねんにははやくも文展ぶんてん審査しんさいんげられる。同年どうねん京都きょうと市街しがい北西ほくせい衣笠きぬがさむら建設けんせつした邸宅ていたくうつむ(後述こうじゅつ)。竹内たけうち栖鳳せいほう京都きょうと画壇がだん人気にんきをわけ華々はなばなしく注目ちゅうもくされる作家さっかとなったが、それ以後いごけいねん過剰かじょうなまでの推薦すいせん反動はんどうとなって画壇がだんからきらわれ、熟達じゅくたつしたふでわざ過小かしょう評価ひょうかされてふたた台頭たいとうすることはなかった。ただ、依頼いらいきもらず、制作せいさくすうおおかったようだ。

昭和しょうわはいると平明へいめい筆意ひつい作風さくふうとなり、みかどてんにもわらず出品しゅっぴんかさねる。昭和しょうわ8ねん1933ねん)のだいいちよんかいみかどてんに『かいちゅうあき』を最後さいご衣笠きぬがさむら隠棲いんせいする。祇園ぎおんなどにあそびにかず、野人やじんとあだされるほど粗末そまつふくて、漢籍かんせきあい詩文しぶんしたしむ晴耕雨読せいこううどく生活せいかつおくった。しかし、徐々じょじょ精神せいしんみ、昭和しょうわ13ねん11月3にち枚方ひらかたちかくで京阪けいはん電車でんしゃかれ非業ひごうげた。享年きょうねん62。墓所はかしょ等持院とうじいん非公開ひこうかい)。

弟子でしに、西村にしむらやなぎ塢、今井いまいまつまど榊原さかきばらにじいずみ熊谷くまがいくも前川まえかわ秋帆しゅうはん由井ゆい漱泉、池田いけだみずほがつ[6]池田いけだ翠雲すいうん竹中たけなか椅堂、小林こばやしあめ郊、野崎のさきさんはま嘯などがいる。

櫻谷さくらだに文庫ぶんこ

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櫻谷さくらだに文庫ぶんこ

京都きょうときた等持院とうじいん東町あずままち財団ざいだん法人ほうじん櫻谷さくらだに文庫ぶんこは、木島きしまさくらだに遺作いさく習作しゅうさくやスケッチじょう櫻谷さくらだに収集しゅうしゅうした絵画かいがしょ漢学かんがく典籍てんせき儒学じゅがくなどの書籍しょせき1まんてん以上いじょう収蔵しゅうぞうしている。それらの整理せいり研究けんきゅうならびに美術びじゅつ芸術げいじゅつ文化ぶんか振興しんこうのために、さくらだに逝去せいきょした2ねん昭和しょうわ15ねん設立せつりつされた。櫻谷さくらだに文庫ぶんこ建物たてものは、大正たいしょう初期しょき建築けんちくされたかん洋館ようかん画室がしつの3むねからり、いずれもくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされている。これらはさくらだに三条さんじょう室町むろまちから当地とうち転居てんきょしたさい建立こんりゅうされたもので、かん住居じゅうきょに、和洋折衷わようせっちゅう洋館ようかん収蔵しゅうぞう展示てんじおよ商談しょうだんしつとして、また80たたみたたみだいアトリエ画室がしつ制作せいさくしつじゅくとして使用しようされていた。さくらだにたけこのんだため、建築けんちくざいとして各所かくしょ使つかわれている。この画室がしつ外観がいかんからかいてにえるが、実際じっさいには平屋ひらやで、中心ちゅうしんにははしら一本いっぽんもない。1951ねんから1976ねんまでは京都きょうと府立ふりつ図書館としょかん上京じょうきょう分館ぶんかんとして使用しようされ、現在げんざい絵画かいが教室きょうしつなどのためされている。

さくらだにきょかまえたことが契機けいきとなって、当地とうちには日本にっぽん画家がか転居てんきょ相次あいつぎ、「衣笠きぬがさ絵描えかむら」とばれた。そうした画家がかには土田つちた麦僊ばくせん金島かねしまかつらはな山口やまぐちはな村上むらかみ華岳かがく菊池きくち芳文よしふみ堂本どうもと印象いんしょう西村にしむらくも小野おのちくたかし宇田うだおぎ福田ふくだ平八郎へいはちろう徳岡とくおか神泉しんせんらがいる。ほかにも、洋画ようが黒田くろだ重太郎しげたろう映画えいが監督かんとく牧野まきの省三しょうぞうちかくにんでいた。

作風さくふう

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さくらだに作品さくひんは、えた色感しきかんをもってしずかに情景じょうけい表現ひょうげんしてゆくのがその特徴とくちょうとなっている。その作品さくひんからは対象たいしょうへのふか洞察どうさつささやかな愛情あいじょうかんじられ、ものやすらぎや心地ここちよさをかんじさせるきよらかな画風がふうえる。さくらだにもっと得意とくいとする動物どうぶつにもこうした傾向けいこうれ、動物どうぶつ叙情じょじょうてきえがかれ擬人ぎじんされたようなしたしみとあたたかさがかんじられる[7]。しかし、現在げんざいでは展覧てんらんかい出品しゅっぴんさくですらおおくが所在しょざい不明ふめいである。櫻谷さくらだに文庫ぶんこには674さつものスケッチブックがのこり、さくらだに生涯しょうがい写生しゃせい基本きほんにした画家がかだとかる。なお櫻谷さくらだに文庫ぶんこには、さくらだに使つかった顔料がんりょうなどの画材がざいるい当時とうじのままにのこっている。明治めいじ時代じだいはいると画家がかたちは、旧来きゅうらい使つかわれなったいろざい積極せっきょくてき使つかうようになるのは当時とうじ資料しりょうじつ作品さくひんからかるのだが、その詳細しょうさいあきらかになっていない。そうしたなか櫻谷さくらだに文庫ぶんこ画材がざいるいは、当時とうじ制作せいさく現場げんば貴重きちょう資料しりょうとして研究けんきゅうすすめられている[8]

代表だいひょうさく

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  • 寒月かんげつ京都きょうと美術館びじゅつかん絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 167.0x372.0cm(かく大正たいしょう元年がんねん1912ねんだい6かい文展ぶんてん2とうしょうだい1せき
下弦かげんつきらされたゆきふか竹林ちくりんつめたくみきった風景ふうけいに、いちひききつね川辺かわべみずみにたのか、周囲しゅういくばりながら一歩一歩いっぽいっぽゆきあしめてすす場面ばめんえがく。わた筆致ひっちによってえがされた静寂せいじゃく空気くうき奥行おくゆきある背景はいけい、それをやぶ孤独こどく生命せいめい対比たいひものふか印象いんしょうあたえる。一見いっけんモノクロームのようにえるが、実物じつぶつをよくるとたけみき木々きぎにはあおみどりちゃなどのいろられ月光げっこうらされた生命せいめいかびがらせる。当時とうじ新聞しんぶんインタビューにると、前年ぜんねん12がつ中旬ちゅうじゅんごろ鞍馬あんばあそびにき、日暮ひぐちかくにやぶかげとおると、しょうやみ残雪ざんせつかびがり、その所々ところどころしし足跡あしあとがあった。その瞬間しゅんかん寂寞せきばく情感じょうかんと、足跡あしあときつねちがいないと直感ちょっかんしたさくらだには、これをにしようと決意けついしたという[9]
しかし、だいろくかい文展ぶんてん評論ひょうろん記事きじ連載れんさいした夏目なつめ漱石そうせきは、「木島きしまさくらたに去年きょねん沢山だくさん鹿しかならべて[10] とうしょうったひとである。あの鹿しかいろといいづけといい、いまおもしても気持きもわるくなる鹿しかである。今年ことしの「寒月かんげつ」も不愉快ふゆかいてんいてはけっしてあの鹿しかおとるまいとおもう。屏風びょうぶつきたけおっとからきつねだかなんだかの動物どうぶついちひきいる。其月はさむいでしょうとっている。たけよるでしょうとっている。ところ動物どうぶつはいえ昼間ひるまですとこたえている。うさぎかく屏風びょうぶにするよりも写真しゃしん背景はいけいにしたほう適当てきとうである。」と酷評こくひょうしている[11]。また、横山よこやま大観たいかん後年こうねんこの受賞じゅしょうについて、審査しんさいんないだい2とうしょうない席次せきじめるさい大観たいかん安田やすだうつぼの『夢殿ゆめどの』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんくら)をだい1せきすと、けいねんが『寒月かんげつ』をだい1せきにしないと審査しんさいんをやめると抗議こうぎし、その辞表じひょういて提出ていしゅつしたため、大観たいかん妥協だきょうしたと回想かいそうしている[12]
漱石そうせきつら評価ひょうかをした理由りゆう不明ふめいだが、「写真しゃしん背景はいけい」といういいかたから、留学りゅうがく時代じだい泰西たいせい名画めいがおおてきた漱石そうせきにとって、桜谷さくらだに西洋せいよう絵画かいがてき写実しゃじつれたことによってしょうじる日本にっぽんらしさの欠如けつじょ矛盾むじゅん、わざとらしさがはなについたのが理由りゆうともかんがえられる。当時とうじ漱石そうせきは、でもしょでも作為さくいたくらみがかんじられるものを嫌悪けんおする性向せいこうがあり、「寒月かんげつ」のような技巧ぎこうかさねた作品さくひんは、漱石そうせきこのみとはわなかったようだ。
しかし、明治めいじ30年代ねんだい以降いこう日本にっぽんにおいて、西洋せいよう絵画かいがてき写実しゃじつかん導入どうにゅう重要じゅうよう課題かだいだった。先輩せんぱいかくにあたる竹内たけうち栖鳳せいほう先鞭せんべんをつけ、桜谷さくらだに制作せいさくおな方向ほうこうせいうえっている。さくらだには『寒月かんげつ』において、横山よこやま大観たいかんの《山路やまじ》(えいあお文庫ぶんこぞう前年ぜんねんだい5かい文展ぶんてん出品しゅっぴんさく)の影響えいきょう[13]竹林ちくりん青色あおいろえがくのに高価こうか群青ぐんじょうえていてもちいたり、当時とうじあらたに開発かいはつされたあら粒子りゅうしをもった人造じんぞういわ絵具えのぐもち[14][15]たくみな技法ぎほう明暗めいあん濃淡のうたん微妙びみょう変化へんかをつけることで、日本にっぽんでありながらザラザラとした物質ぶっしつかんかんじさせる油絵あぶらえのようなマティエール(はだ)と、劇的げきてきなリアリティの表出ひょうしゅつ成功せいこうしている[4]
作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 出品しゅっぴん展覧てんらんかい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
野猪やちょ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 99.0x142.0 個人こじん 1900ねん明治めいじ33ねん だい6かい新古しんこ美術びじゅつひんてん2とう1せき
咆哮ほうこう かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 155x361.2(かく 石川いしかわ県立けんりつ美術館びじゅつかん 1902ねん明治めいじ35ねん だい8かい新古しんこ美術びじゅつひんてん2とう1せき
もうわし 絹本けんぽん墨画ぼくがちょしょく 1ぶく 182.5x144.0 法人ほうじん 1903ねん明治めいじ36ねん 款記「櫻谷さくらだにうつし」/「櫻谷さくらだにしゅぶんえんしるし だい5かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかいせんそう出品しゅっぴんしてとうしょう受賞じゅしょうした天鵞絨びろうどビロード友禅ゆうぜんあらし》(さんまるなお蔵館くらだてくら)の原画げんがしみこう藤井ふじいたかしひいで、協賛きょうさんとうしょうている[16]
初夏しょか晩秋ばんしゅう かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 153.5x359.6(かく 京都きょうと京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん管理かんり 1903ねん明治めいじ36ねん だい3かい今尾いまおじゅく絵画かいが展覧てんらんかい
もうわし濤図屏風びょうぶ かみほん金地きんじ墨画ぼくが ろくきょく一双いっそう 165.8x372.0(かく 個人こじん 1903ねん明治めいじ36ねん
獅子ししとら屏風びょうぶ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 153.8x360.0(かく 個人こじん 1904ねん明治めいじ37ねん
くまわし屏風びょうぶ かみほん墨画ぼくがちょしょく きょく一双いっそう 153.1x171.6(かく 個人こじん 明治めいじ時代じだい
Old Boar in Snow[17] 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 164.47x87 ミネアポリス美術館びじゅつかん 20世紀せいきはじ
巡礼じゅんれい屏風びょうぶ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 153.0x357.6(かく 高野山こうのやま清浄せいじょうしんいん 明治めいじ30年代ねんだい 5代目だいめ市田いちだわたる惣右衛門そううえもん遺言ゆいごんにより、どう未亡人みぼうじん明治めいじ43ねん(1910ねん)8がつ寄進きしん[18]
田舎いなかあき 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 153.0x342.0(かく はな大塚おおつか美術館びじゅつかん 1907ねん明治めいじ40ねん だい12かい新古しんこ美術びじゅつてん2とう3せき
しぐれ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 151.0x357.0(かく 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1907ねん明治めいじ40ねん だい1かい文展ぶんてん2とう1せき
和楽わらく 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 152.5x360.0(かく 京都きょうと美術館びじゅつかん 1909ねん明治めいじ42ねん だい3かい文展ぶんてん3とうしょう
山水さんすい屏風びょうぶまん壑烟きり[19] かみほん墨画ぼくが金泥きんでい ろくきょく一双いっそう 169.4x551.6 法人ほうじん 1910ねん明治めいじ43ねん だい15かい新古しんこ美術びじゅつひんてん3とう1せき
かりくら 絹本けんぽんちょしょく 2ぶく 250.0x173.8(かく 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1910ねん明治めいじ43ねん だい4かい文展ぶんてん3とうしょう
若葉わかばやま 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 166.4x372.0 個人こじんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく 1911ねん明治めいじ44ねん だい5かい文展ぶんてん2とう[20]
寒月かんげつ 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 167.0x372.0cm(かく 京都きょうと美術館びじゅつかん 1912ねん大正たいしょう元年がんねん だい6かい文展ぶんてん2とうしょうだい1せき 上述じょうじゅつ
駅路えきろはる[21] 絹本けんぽんちょしょく金銀きんぎんどろ ろくきょく一双いっそう 福田ふくだ美術館びじゅつかん 1913ねん大正たいしょう2ねん だい7かい文展ぶんてん
富士ふじ屏風びょうぶ かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 個人こじん京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん寄託きたく 大正たいしょう時代じだい
月夜つきよかえり牧之ぼくし 絹本けんぽん墨画ぼくが 1ぶく 127..8x51.1 さんまるなお蔵館くらだて 1914ねん大正たいしょう3ねん たつみ画会がかい主催しゅさいだいかい表装ひょうそう競技きょうぎかいさんとう銅賞どうしょう みや内省ないせい[22]
ふるえはちあら衝立ついたて 絹本けんぽんちょしょく 衝立ついたて1両面りょうめん 152.1x208.9(かく いずみはく古館ふるたて分館ぶんかん 1916ねん大正たいしょう5ねん
やなぎさくら 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 179.0x363.2(かく いずみはく古館ふるたて 1917ねん大正たいしょう6ねん
行路こうろなん[23] 絹本けんぽん着色ちゃくしょく きょく一双いっそう 170.0x185.0(かく 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1922ねん大正たいしょう11ねん だい4かいみかどてん
竹林たけばやししろづる 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 178.8x361.2(かく いずみはく古館ふるたて分館ぶんかん 1923ねん大正たいしょう12ねん
たけがり きょく一双いっそう うみえるもり美術館びじゅつかん 1924ねん大正たいしょう13ねん だい5かいみかどてん
遅日ちじつ 絹本けんぽん墨画ぼくが 双幅そうふく 福田ふくだ美術館びじゅつかん 1926ねん大正たいしょう15ねん
婦女ふじょ屏風びょうぶ 福田ふくだ美術館びじゅつかん
こおりかおる屏風びょうぶ かみほんちょしょく はちきょくそう 83.0x324.0(かく 個人こじん 大正たいしょう時代じだい 琳派ふう作品さくひん[24]
孔雀くじゃく 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 155.5x71.1 京都きょうと京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん管理かんり 大正たいしょう時代じだい
はるえん孔雀くじゃく 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 74.0x87.3 はな大塚おおつか美術館びじゅつかん 大正たいしょう時代じだい
かそけけい秋色しゅうしょく 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 170.8x86.7 いずみはく古館ふるたて分館ぶんかん 大正たいしょう時代じだい
灰燼かいじん[25] 絹本けんぽんちょしょく 225.0x227.0 愛知あいちけん美術館びじゅつかん 1927ねん昭和しょうわ2ねん だい8かいみかどてん
孔雀くじゃく 絹本けんぽんちょしょく 1めん 169.5x57.9 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1929ねん昭和しょうわ4ねん 巴里ぱり日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい
獅子しし 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 139.7x56.6 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 昭和しょうわ時代じだい
望郷ぼうきょう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 254.5x175.5 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1930ねん昭和しょうわ5ねん だい11かいみかどてん
三昧ざんまい 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 201.0x130.0 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1931ねん昭和しょうわ6ねん だい12かいみかどてん
うまや 絹本けんぽんちょしょく 1めん 71.2x87.3 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1931ねん昭和しょうわ6ねん トレド日本にっぽん展覧てんらんかい
かくとぐ鹿しか 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 201.0x130.5 京都きょうと美術館びじゅつかん 1932ねん昭和しょうわ7ねん だい13かいみかどてん
かいちゅうあき 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 230.0x102.5 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ 1933ねん昭和しょうわ8ねん だい14かいみかどてん
Rain Clearing 絹本けんぽんちょしょく 129.9x70.5 シアトル美術館びじゅつかん 1930ねんはじ
朧月おぼろづき桜花おうか 絹本けんぽん墨画ぼくが淡彩たんさい 1ぶく 121.8x48.4 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 昭和しょうわ時代じだい[26]
うすき かみほんちょしょく ろくきょく一双いっそう 134.0x273.0(かく 京都きょうと美術館びじゅつかん
しん 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 140.0x50.3 西宮にしのみや大谷おおや記念きねん美術館びじゅつかん しょう 款記「桜谷さくらだに[27]
孔雀くじゃく 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 127.4x35.6 松岡まつおか美術館びじゅつかん[28]
春景しゅんけい山水さんすい かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい きょくいちせき 106.0x264.0 浜松はままつ美術館びじゅつかん[29]

ギャラリー

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りゃく年譜ねんぷ

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  • 1877ねん明治めいじ10ねん)3がつ 京都きょうと三条さんじょう室町むろまち商家しょうかまれる(本名ほんみょう文治郎ぶんじろう)。
  • 1893ねん明治めいじ26ねん今尾いまおけいねん門下もんかとなる。かたわ山本やまもとけいまなぶ。
  • 1897ねん明治めいじ30ねんだい1かい全国ぜんこく絵画かいが共進きょうしんかいに『忠臣ちゅうしんころしておもすくえふの出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1898ねん明治めいじ31ねんだい4かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『熊鷹くまたか出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1899ねん明治めいじ32ねんだい5かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『はしうさぎ出品しゅっぴん。1とうしょう
  • 1900ねん明治めいじ33ねんだい6かい新古しんこ美術びじゅつひんてん京都きょうと美術びじゅつ協会きょうかい10ねん回顧かいこてん)に『野猪やちょ出品しゅっぴん。2とう1せき
  • 1901ねん明治めいじ34ねんだい7かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『けんまい出品しゅっぴん。2とうしょう5せき
  • 1902ねん明治めいじ35ねんだい8かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『咆哮ほうこう出品しゅっぴん。2とうしょう1せき
  • 1903ねん明治めいじ36ねんだい5かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかいに『ゆら落』出品しゅっぴん。3とうしょう
  • 1904ねん明治めいじ37ねんだい9かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『ももはなげん出品しゅっぴん。2とうしょう1せき
  • 1905ねん明治めいじ38ねん木島きしま櫻谷さくらだに屏風びょうぶてん御苑ぎょえんないもと博覧はくらん会場かいじょう開催かいさい
  • 1906ねん明治めいじ39ねんだい11かい新古しんこ美術びじゅつひんてんに『奔馬ほんば出品しゅっぴん
  • 1907ねん明治めいじ40ねんだい1かい文展ぶんてんに『しぐれ』出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1908ねん明治めいじ41ねんだい2かい文展ぶんてんに『かち乎敗乎』出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1909ねん明治めいじ42ねんだい3かい文展ぶんてんに『和楽わらく出品しゅっぴん。3とうしょう
  • 1910ねん明治めいじ43ねんだい4かい文展ぶんてんに『かりくら』出品しゅっぴん。3とうしょう
  • 1911ねん明治めいじ44ねんだい5かい文展ぶんてんに『若葉わかばやま出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1912ねん明治めいじ45ねんだい6かい文展ぶんてんに『寒月かんげつ出品しゅっぴん。2とうしょう
  • 1913ねん大正たいしょう2ねんだい7かい文展ぶんてん審査しんさ委員いいんとなり、『駅路えきろはる出品しゅっぴん
  • 1914ねん大正たいしょう3ねんだい8かい文展ぶんてんに『りょう出品しゅっぴん
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん大阪おおさか曽根崎そねざき演舞えんぶじょう貴賓きひんしつ絵画かいが完成かんせい
  • 1916ねん大正たいしょう5ねんだい10かい文展ぶんてんに『みなとあたまゆう出品しゅっぴん
  • 1917ねん大正たいしょう6ねんだい11かい文展ぶんてんに『孟宗もうそうやぶ出品しゅっぴん
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん京都きょうと絵画かいが専門せんもん学校がっこうげん京都きょうと芸術げいじゅつ大学だいがく教授きょうじゅとなる。だい12かい文展ぶんてんに『暮雲ぼうん出品しゅっぴん
  • 1920ねん大正たいしょう9ねんだい2かいみかどてん審査しんさ委員いいんとなる。
  • 1921ねん大正たいしょう10ねんだい3かいみかどてん審査しんさ委員いいんとなり、『松籟しょうらい出品しゅっぴん
  • 1922ねん大正たいしょう11ねんにちふつ交換こうかんてんに『しぐれ』出品しゅっぴんだい4かいみかどてん審査しんさ委員いいんとなり、『行路こうろなん出品しゅっぴん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 履歴りれきしょ]802:写生しゃせいじょう渓山けいざん趣味しゅみ木島きしまさくらだに雨上あめあがり こころうばわれたのは朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん2023ねん6がつ27にち2めん同日どうじつ閲覧えつらん
  2. ^ 以下いか伝記でんきは、実方じつかた葉子ようこ三昧ざんまいへのみち木島きしまさくらだに生涯しょうがい」(いずみ(2013)pp.74-81)、およ実方じつかた葉子ようこ三昧ざんまいへのみち、ふたたび ―木島きしまさくらだに生涯しょうがい動物どうぶつ」(いずみ(2017)pp.8-19)におおっている。
  3. ^ 同門どうもん谷川たにがわもといさおわりに参加さんかし、きた座敷ざしき杉戸すぎとに『たけにわとり/紅葉こうよう鹿しか』をえがき、文化ぶんか10ねん1813ねん)の修復しゅうふくにも参加さんかしている(江口えぐち恒明つねあき 禁裏きんり御用ごようとと絵師えしの「由緒ゆいしょ」・「伝統でんとう」」『天皇てんのう美術びじゅつ5 朝廷ちょうてい権威けんい復興ふっこう京都きょうと画壇がだん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねん4がつ20日はつか、pp.85,91,95-96、ISBN 978-4-642-01735-0)。
  4. ^ a b 野地のち耕一郎こういちろう漱石そうせき先生せんせい、そんなにさくらだにきらいですか? ─明治めいじ後期こうき日本にっぽんにおける写実しゃじつ色彩しきさいをめぐって」(いずみ(2013)、pp.88-91)。
  5. ^ 実方じつかた(2017)p.10。
  6. ^ 植物しょくぶつられる。出典しゅってん高林たかばやし成年しげとし池田いけだみずほがつ国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかんへん日本にっぽん博物はくぶつ図譜ずふ じゅうきゅう世紀せいきから現代げんだいまで』( 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかん叢書そうしょ1〉、2001ねん10がつISBN 4-486-03153-9)pp.102-103。
  7. ^ 川島かわしま(2017)p.121。
  8. ^ 高林たかばやし弘美ひろみきのしばれん木島きしまさくらたにのこした絵具えのぐ櫻谷さくらだに文庫ぶんこ画材がざい調査ちょうさ現場げんばから―」(いずみ(2017)pp.82-86)
  9. ^ 京都きょうと画家がか文展ぶんてん出品しゅっぴんさん木嶋きじまさくらたにの「さむよるきつね」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん大正たいしょう元年がんねん(1912ねん)10がつ1にち記事きじ図録ずろく(2017)99ぺーじ紹介しょうかいおさむ
  10. ^ だい5かい文展ぶんてん出品しゅっぴんさく若葉わかばやま』(アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく個人こじんぞう)のこと。
  11. ^ 夏目なつめ漱石そうせき東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう元年がんねん10がつ24にちづけ日展にってん編集へんしゅう委員いいんかいへん日展にってん 2 文展ぶんてんへんニ』(1980ねん)474ぺーじ紹介しょうかい
  12. ^ 大観たいかんだん』1951ねん(『日展にってん 2 文展ぶんてんへんニ』 p.588)。なお、大観たいかんはそのわりに今村いまむら紫紅しこうふで近江おうみ八景はっけい』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を3とうから2とうげさせており、一方いっぽうてきけているわけではない。
  13. ^ 笹川ささかわ臨風りんぷう横山よこやま大観たいかんとその絵画かいが」『日本にっぽん美術びじゅつ』165ごう日本にっぽん美術びじゅつしゃ、1912ねん11月)
  14. ^ 田中たなか眞奈まな 荒井あらいけい 松島まつしまちょうしゅう 高林たかばやし弘実ひろみ すみ孝一こういち京都きょうと美術館びじゅつかんくら 木島きじま桜谷さくらだに寒月かんげつ》の彩色さいしき材料ざいりょう分析ぶんせき調査ちょうさ報告ほうこく」『文化財ぶんかざい保存ほぞん修復しゅうふく学会がっかい だい37かい研究けんきゅう発表はっぴょう要旨ようししゅう』(2015ねん6がつ27にち)pp.250-251
  15. ^ 荒井あらいけい日本にっぽん材料ざいりょう近代きんだいつくられた伝統でんとう』(武蔵野美術大学むさしのびじゅつだいがく出版しゅっぱんきょく、2015ねん10がつ9にちISBN 978-4-86463-034-4 )pp.136-137
  16. ^ 宮内庁くないちょうさんまるなお蔵館くらだて編集へんしゅう美術びじゅつ染色せんしょく精華せいかしみ・繍による明治めいじ室内しつない装飾そうしょく さんまるなお蔵館くらだて展覧てんらんかい図録ずろくNo.54』(宮内庁くないちょう、2011ねん3がつ29にち)pp.52-53
  17. ^ Old Boar in Snow ミネアポリス美術館びじゅつかん
  18. ^ 高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじ 高野山こうのやま文化財ぶんかざい保存ほぞんかい監修かんしゅう高野山こうのやまさわへい』(美術びじゅつ出版しゅっぱん 乃美のみ、1980ねん10がつ5にちだい127。なお、『木島きじま櫻谷さくらだにめい画集がしゅう』にも掲載けいさいなし。
  19. ^ 『【特別とくべつてん木島きしまさくらだに京都きょうと日本にっぽん俊英しゅんえいだい10では「まん壑烟きり」、平井ひらい啓修けいしゅう 古田ふるたあきら 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ編集へんしゅう円山まるやま応挙おうきょから近代きんだい京都きょうと画壇がだんへ』(もとめりゅうどう、2019ねん8がつ2にちISBN 978-4-7630-1918-9だい84では「山水さんすい屏風びょうぶ表記ひょうき
  20. ^ 図録ずろく(1987)4、図録ずろく(2017)79ぺーじおよび内山うちやま武夫たけお監修かんしゅう 京都きょうと 株式会社かぶしきがいしゃアートワン編集へんしゅうワシントン条約じょうやくだい8かい締約ていやく国会こっかい京都きょうと開催かいさい記念きねん いのち賛歌さんか 京都きょうと日本にっぽん100にんてん』(京都きょうと、1992ねん特別とくべつ出品しゅっぴん作品さくひん5ばんにカラー図版ずはん掲載けいさいされている。
  21. ^ コレクション _ 京都きょうと嵯峨さが嵐山あらしやま 福田ふくだ美術館びじゅつかん -FUKUDA ART MUSEUM-
  22. ^ 宮内庁くないちょうさんまるなお蔵館くらだて編集へんしゅう古典こてん再生さいせい作家さっかたちの挑戦ちょうせん宮内庁くないちょう、2016ねん3がつ26にち、p.62
  23. ^ 行路こうろなん 国立こくりつ美術館びじゅつかん
  24. ^ 京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん編集へんしゅう発行はっこう江戸えど植物しょくぶつ』2016ねん4がつ29にち、pp.46-49
  25. ^ [ID_9997]灰燼かいじん作品さくひん情報じょうほう _ コレクション検索けんさく _ 愛知あいちけん美術館びじゅつかん
  26. ^ 特別とくべつてん 平成へいせい寄贈きぞうひん ―115にんからのおくりもの―』東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん、2000ねん5がつ30にち、p.23
  27. ^ 枝松えだまつ亜子あこ西宮にしのみや大谷おおや記念きねん美術館びじゅつかん執筆しっぴつ編集へんしゅう開館かいかん40周年しゅうねん記念きねん 日本にっぽん そのみょうなる世界せかい』2014ねんだい21
  28. ^ 松岡まつおか美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう日本にっぽん名品めいひんせん』2006ねん10がつ20日はつか、p.93
  29. ^ 浜松はままつ美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう開館かいかん20周年しゅうねん 浜松はままつ美術館びじゅつかんの120せん』1992ねん、p.110(画像がぞうなし)

参考さんこう資料しりょう

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  • 櫻谷さくらだに文庫ぶんこ編集へんしゅう発行はっこう木島きじま櫻谷さくらだにめい画集がしゅう』1941ねん
  • 榊原さかきばら吉郎よしろうへん近代きんだい美術びじゅつ25 えんやま四条しじょうながれ』至文しぶんどう、1974ねん
  • 日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん編集へんしゅうしつへん日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん だいいちかん じょう日本にっぽん美術びじゅついん、1989ねん
展覧てんらんかい図録ずろく
  • 財団ざいだん法人ほうじん櫻谷さくらだに文庫ぶんこ監修かんしゅう 京都きょうと美術館びじゅつかん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ編集へんしゅう没後ぼつごじゅうねん 木島きしま桜谷さくらだにてん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1987ねん
  • けいねん桜谷さくらだに河合かわいぶんりん井原いはら市立しりつ田中たなか美術館びじゅつかん、1994ねん
  • 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんいずみはく古館ふるたて編集へんしゅう発行はっこう『【特別とくべつてん木島きしまさくらだに京都きょうと日本にっぽん俊英しゅんえい便利べんりどう制作せいさく印刷いんさつ、2013ねん
  • 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんいずみはく古館ふるたて編集へんしゅう生誕せいたんいちよんねん記念きねん 特別とくべつてん 木島きじま櫻谷さくらだに近代きんだい動物どうぶつ冒険ぼうけん株式会社かぶしきがいしゃ Zeppライブ、2017ねん10がつ27にち
論文ろんぶん
  • 実方じつかた葉子ようこ近代きんだい京都きょうとにおける日本にっぽん学習がくしゅう写生しゃせい木島きしまさくらたに写生しゃせいじょう調査ちょうさから―」『鹿島かしま美術びじゅつ研究けんきゅう年報ねんぽうだい33ごう別冊べっさつ)』公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 鹿島かしま美術びじゅつ財団ざいだん、2016ねん11月15にち、pp.458-469
  • 川島かわしまあまね木島きしまさくらたに研究けんきゅう人物じんぶつ作品さくひん―」『哲学てつがく会誌かいしだいよんじゅういちごう学習院大学がくしゅういんだいがく哲学てつがくかい、2017ねん5がつ)pp.117-138
  • 植田うえだあや芳子よしこ木島きじま櫻谷さくらだにひつ もうわし」『国華こっかだい1468ごう(2018ねん2がつ20日はつかISBN 978-4-02-291468-2)pp.28-32
  • 実方じつかた葉子ようこ木島きしまさくらだに写生しゃせいちぢみじょう近代きんだい京都きょうとにおける日本にっぽん学習がくしゅう制作せいさく並木なみきまことへん近代きんだい京都きょうと美術びじゅつ工芸こうげい制作せいさく流通りゅうつう鑑賞かんしょう―』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2019ねん3がつ29にちISBN 978-4-7842-1938-4)pp.27-52

外部がいぶリンク

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