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とう邑窯あとぐん

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座標ざひょう: 北緯ほくい3430ふん04.2びょう 東経とうけい13529ふん59.7びょう / 北緯ほくい34.501167 東経とうけい135.499917 / 34.501167; 135.499917

陶邑窯跡群の位置(大阪府内)
陶邑窯跡群
とう邑窯あとぐん
座標ざひょう現地げんち保存ほぞんされている
高蔵寺こうぞうじ73ごうかま・74ごうかま地点ちてん

とう邑窯あとぐん(すえむらかまあとぐん/すえむらようせきぐん)は、大阪おおさか南部なんぶ分布ぶんぷする古墳こふん時代じだいから平安へいあん時代じだい初頭しょとうにかけての須恵すえかまあと日本にっぽんさん大古おおこかまの1つにかぞえられている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

TK73(大阪おおさか指定してい史跡しせき
TG61(移築いちく復元ふくげん

大阪おおさか南部なんぶ丘陵きゅうりょう地帯ちたいさかい和泉いずみ岸和田きしわだ大阪おおさか狭山さやま)に位置いちする日本にっぽん最大さいだい規模きぼ須恵すえ生産せいさんである。東西とうざいやく15㎞、南北なんぼくやく9㎞の範囲はんいに1000以上いじょうかま構築こうちくされ、古墳こふん時代じだい中期ちゅうきから平安へいあん時代じだいまでのおよそ500ねんものあいだ継続けいぞくてき生産せいさんがなされた。

とう邑の名称めいしょうは、たかしかみ天皇てんのうときやまと迹迹ひゃくかさねひめいのちかみかかしてけた託宣たくせんによりかや渟県のすえ邑において大田おおた根子ねこさがし、大和やまと三輪山みわやまかみ大物おおものぬしまつ神主かんぬし三輪山みわやまふもとにある大神神社おおみわじんじゃはじまりとされる。じつ大田おおた根子ねこは、大物おおものぬし人間にんげんむすめ生玉いくたまひめのもとにかよってませたかくであったとする)とし、それまでつづいていた疫病えきびょう災害さいがいしずめたとする『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつもとづく。この窯業ようぎょう生産せいさん全体ぜんたい呼称こしょうではないのはもちろん、どう時代じだいにそのように呼称こしょうされていたのではない、後世こうせいつけられた呼称こしょうであるのはうまでもない。そのためすえ邑窯あとぐんという呼称こしょうをさけ、大阪おおさか南部なんぶかまぐん阪南はんなんかまぐん泉北せんぼく丘陵きゅうりょうかまあとぐん場合ばあいもある[1]

とう邑窯あとぐん発見はっけんから現在げんざいまで[編集へんしゅう]

1941ねん10がつ5にちもり浩一こういちはじめてすえ邑窯あとぐんない見野山みのやまかまげん 高蔵寺こうぞうじ29ごうかま)をおとずれ、以来いらい1964ねん2がつ16にちまで分布ぶんぷ調査ちょうさ継続けいぞくし、とう邑窯あとぐん実態じったいあきらかにしていった[2]

1960年代ねんだい以降いこう泉北せんぼくニュータウンひとし建設けんせつによって当地とうち開発かいはつせまったことで、とう邑窯あとぐん全貌ぜんぼう次第しだいあきらかになっていった。そのなかでおおくのかまあと盗掘とうくつ破壊はかいされていったが、一方いっぽうで400ヶ所かしょ以上いじょうものかまあと発掘はっくつ調査ちょうさされ、その出土しゅつど資料しりょう全国ぜんこく各地かくち出土しゅつどする、古墳こふん時代じだいから古代こだいにかけての須恵すえ年代ねんだい推定すいていするためのへんねん基準きじゅんとなっている(とう邑編ねん)。なお、出土しゅつど資料しりょう一部いちぶ泉北せんぼくニュータウンないにある大阪おおさか府立ふりつ泉北せんぼく考古こうこ資料しりょうかん収蔵しゅうぞう展示てんじされていたが、後進こうしんさかい市立しりつ泉北せんぼくすえむら資料しりょうかん2016ねん平成へいせい28ねん)9がつ30にち閉館へいかんしたため[3]さかい博物館はくぶつかん保管ほかんされている。

とう邑編ねん[編集へんしゅう]

とう邑窯あとぐん出土しゅつど須恵すえによるへんねんあんは、1958ねん昭和しょうわ33ねん)にもり浩一こういちによってはじめて提示ていじされ[4]、その田辺たなべ昭三しょうぞう[5][6]中村なかむらひろし[7]などの研究けんきゅうしゃへんねんあん提示ていじしている[8]

もり浩一こういちによるへんねん[編集へんしゅう]

田辺たなべ昭三しょうぞうによるへんねん[編集へんしゅう]

専門せんもんしょなどではしばしば、「TK73型式けいしき須恵すえ出土しゅつどした」とか、「MT15型式けいしき」とかあるいは、「TG232ごうかまどう時期じき」といった記述きじゅつがみられる。これはすえ邑窯の調査ちょうさはじまった時期じきかまあとぐん分布ぶんぷする丘陵きゅうりょう地形ちけいてきに、いくつかのしょう河川かせんによって区分くぶんされていることから、調査ちょうさ便宜上べんぎじょう、「陶器とうき山地やまち略称りゃくしょうMT)」、「高蔵寺こうぞうじ地区ちく略称りゃくしょうTK)」、「つが地区ちく略称りゃくしょうTG)」、「光明池こうみょういけ地区ちく略称りゃくしょうKM)」、「大野おおのいけ地区ちく略称りゃくしょうON)」、「谷山たにやまいけ地区ちく略称りゃくしょうTN)」という地区ちくめいあたえて[9]、その地区ちくごとにかまあと番号ばんごうけ、「TK73ごうかま」、「MT15ごうかま」などと呼称こしょうしたことによる。

たとえばTG232ごうかま(このかま発見はっけんされたさかい大庭寺おおばでら遺跡いせき地形ちけいてきすえ邑窯のつが地区ちくぞくする)は現時点げんじてんではすえ邑窯最古さいこ段階だんかいまたは揺籃ようらん(Ⅰ1段階だんかい前期ぜんき)の4世紀せいきまつ前後ぜんこう、TK73とTK216はそれに後続こうぞくするⅠ1段階だんかい後期こうきとし、5世紀せいき初頭しょとう、そのにTK208、TK23、TK47と5世紀せいきまつ前後ぜんこうまで変遷へんせんし、ⅡではMT15、TK10、TK43、TK209というじゅんに6世紀せいきだい推移すいいしてったとかんがえられている。

ところで、かま呼名よびなとして、そのそれぞれに、「高蔵寺こうぞうじごうかま(TK○)」、「陶器とうきやまごうかま(MT○)」といった正式せいしき名称めいしょうがあるのにもかかわらず、マ字まじ表記ひょうき略称りゃくしょう優先ゆうせんして使用しようされていることには批判ひはんがある。こういったマ字まじ表記ひょうき略称りゃくしょう本来ほんらい研究けんきゅう機関きかんない出土しゅつど遺物いぶつ整理せいり作業さぎょうなどの効率こうりつをはかる便宜べんぎのためのものにすぎず、正式せいしき名称めいしょうってわって使用しようされるべきではないという意見いけんである[10]。しかしながら、このマ字まじ表記ひょうき呼称こしょうは1966ねん昭和しょうわ41ねん刊行かんこう平安へいあん高校こうこう(げん龍谷大りゅうこくだいがく付属ふぞく平安へいあん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)考古学こうこがくクラブによるとう邑窯の初期しょき調査ちょうさ報告ほうこくしょなどにいてすで使用しようされており、学界がっかいにおいてはこのマ字まじ表記ひょうき呼称こしょうはすっかり定着ていちゃくしてしまったかんはある(先述せんじゅつすえ邑窯出土しゅつど須恵すえへんねん大筋おおすじもこの報告ほうこくしょのなかですでしめされており、高校こうこうのクラブ活動かつどうのこした偉業いぎょうの1つとえる)[11]

中村なかむらひろしによるへんねん[編集へんしゅう]

とう邑窯あとぐんにおける須恵すえ生産せいさん沿革えんかく[編集へんしゅう]

揺籃ようらん[編集へんしゅう]

1991ねん平成へいせい3ねん)、とう邑窯北部ほくぶ位置いちするさかい大庭寺おおばでら遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさにより、古墳こふん時代じだい集落しゅうらく遺構いこうひとしとともにあきらかにされたTG232ごうかまおよびTG231ごうかまからは朝鮮半島ちょうせんはんとうとうただし土器どき影響えいきょう色濃いろこ初期しょき須恵すえ大量たいりょう出土しゅつどしている。また、そこから1キロあま西にし地点ちてんさきの2つのかまあとよりややおくれる段階だんかい操業そうぎょう開始かいししたとおもわれるON231ごうかま発掘はっくつされ、ここからも大量たいりょう初期しょき須恵すえ出土しゅつどしている。さらにここから2キロ西にしはなれた和泉いずみ市内しないにおいて1966ねん昭和しょうわ41ねん)に調査ちょうさされながら、1999ねん平成へいせい11ねん)にせい報告ほうこくがなされたにごいけ須恵すえかまもTG232かまにすぐ後続こうぞくする段階だんかいのものであり、須恵すえ生産せいさん最古さいこ段階だんかい(4世紀せいきまつ - 5世紀せいき初頭しょとう)からとう邑で、かなりの規模きぼ生産せいさん継続けいぞくてきおこなわれていたことをしめしている。これらの初期しょきかまあとすえ邑でも北部ほくぶ平野へいやちか場所ばしょにあり、丘陵きゅうりょう入口いりくちから須恵すえかまとしての開発かいはつはじめられ、時期じきくだるとともに丘陵きゅうりょうおくかまもうけられるようになっていったようである。

なお、当古とうごかまあとぐん北方ほっぽうすうキロには5世紀せいき造営ぞうえいされた大仙だいせんりょう古墳こふんはじめとする百舌鳥もず古墳こふんぐん展開てんかいしており、とう邑窯の創設そうせつ当初とうしょ巨大きょだい古墳こふんぐん造営ぞうえい主体しゅたいである初期しょき畿内きない政権せいけんヤマト王権おうけん中枢ちゅうすう直接ちょくせつかかわりがあったことが想定そうていされている。こうして、5世紀せいき以降いこう時期じきごとにいとなまれたかまかず増減ぞうげんはあるものの平安へいあん時代じだいまで日本にっぽん最大さいだいきゅう窯業ようぎょう生産せいさんとしてさかえた。我国わがくに窯業ようぎょう生産せいさん発祥はっしょうの1つとえる。

拡散かくさん[編集へんしゅう]

衰退すいたい[編集へんしゅう]

とう邑窯一帯いったい生産せいさんは、7世紀せいき以降いこう衰退すいたいはじまり、9世紀せいき後半こうはんごろ廃絶はいぜつしてしまう。衰退すいたい原因げんいんひとつは、燃料ねんりょうとなる森林しんりん資源しげん消費しょうひしつくしたためとかんがえられている。これは、時代じだいるにつれ使用しようされる木炭もくたんしゅが、更新こうしん可能かのう広葉樹こうようじゅから荒廃こうはいでも生育せいいくするアカマツりん)に変化へんかしていることからも裏付うらづけられている[12][13][14]すくなくなりつつある燃料ねんりょうざいをめぐるあらそいは『日本にっぽんさんだい実録じつろく』のなか859ねんてんやす3ねん/さだかん元年がんねん)にきた「陶山すやまたきぎあらそ」として記録きろくされている[15]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 大阪おおさかすえ邑窯あとぐん出土しゅつどひん 一括いっかつ考古こうこ資料しりょう) - 内訳うちわけ以下いかさかい博物館はくぶつかん保管ほかん。2005ねん平成へいせい17ねん)6がつ9にち指定してい[16]
    • 須恵すえ 2572てん
    • かま道具どうぐるい 3てん
    • かわら塼類 10てん
くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい大阪おおさかすえ邑窯あとぐん出土しゅつどひん画像がぞう

いずれもさかい博物館はくぶつかん展示てんじ

大阪おおさか指定してい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • とう邑窯あとぐん(TG231・232ごうかま出土しゅつどひん 87てん考古こうこ資料しりょう) - 内訳うちわけ以下いか。2022ねんれい4ねん)3がつ15にち指定してい
      • TG231ごうかま須恵すえ12てん軟質なんしつけい土器どき4てん製品せいひん1てん
      • TG232ごうかま須恵すえ65てん軟質なんしつけい土器どき1てん製品せいひん1てんかま道具どうぐ3てん
  • 史跡しせき
    • 高蔵寺こうぞうじ73ごうかま、74ごうかま - 1993ねん平成へいせい5ねん)3がつ31にち指定してい[17]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もり(1978)pp.758-778
  2. ^ 田中たなか英夫ひでお2018 pp.35-36
  3. ^ さかいさかい市立しりつ泉北せんぼくすえむら資料しりょうかん閉館へいかんいたしました」、2020ねん3がつ閲覧えつらん
  4. ^ もり(1958)
  5. ^ 田辺たなべ(1966)
  6. ^ 田辺たなべ(1981)
  7. ^ 中村なかむら(1978)『とう邑Ⅲ』
  8. ^ 大阪おおさか府立ふりつちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん(2006)『年代ねんだいのものさし-とう邑の須恵すえ-』pp.60-65、pp.74-77
  9. ^ 陶器とうきさん(MT)→Mount Toki、高蔵寺こうぞうじ(TK)→Takakura-dera、つが(TG)→Toga、光明池こうみょういけ(KM)→Komyo-ike、谷山たにやまいけ(TN)→Taniyama-ike、※狭山さやま(SY/SI)→Sayama-ike/Sayama-ike、※富蔵とみくら(TM)→Tomikura
  10. ^ 山田やまだ(1998)pp.11-12
  11. ^ 田辺たなべ平安へいあん学園がくえん考古学こうこがくクラブ(1966)pp.11-79
  12. ^ 西田にしだ 1976 pp.178~187
  13. ^ 中村なかむらひろし 2006, p. 88.
  14. ^ 太田おおた猛彦たけひこ森林しんりん飽和ほうわ』p94 NHK出版しゅっぱん 2012ねん
  15. ^ とう邑窯あとぐん-泉北せんぼく丘陵きゅうりょう周辺しゅうへん遺跡いせき古墳こふん さかいホームページ 2017ねん12月1にち閲覧えつらん
  16. ^ 大阪おおさかすえ邑窯あとぐん出土しゅつどひん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  17. ^ 大阪おおさか府内ふない指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんひょう大阪おおさかホームページ、平成へいせい29ねん6がつ7にち更新こうしんばん)のさかいファイルより。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい1976-1995『とう邑Ⅰ』-『とう邑Ⅷ』 大阪おおさか文化財ぶんかざいセンター
  • 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい1995 『とう邑 ・大庭寺おおばでら遺跡いせきIV』 財団ざいだん法人ほうじん大阪おおさか埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい協会きょうかい
  • 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい1996 『とう邑 ・大庭寺おおばでら遺跡いせきV』 財団ざいだん法人ほうじん大阪おおさか埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい協会きょうかい
  • ちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん(大阪おおさか府立ふりつ)『年代ねんだいのものさし : とう邑の須恵すえ : 平成へいせい17年度ねんど冬季とうき企画きかくてん/重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい記念きねん大阪おおさか府立ふりつちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん大阪おおさか府立ふりつちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん図録ずろく ; 40〉、2006ねんNCID BA76460566CRID 1130000797123811200https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008140033-00 
  • 田中たなか英夫ひでお 2018「見野山みのやまかま光明池こうみょういけDかま」『古代こだいがく研究けんきゅうだい217ごう 古代こだいがく研究けんきゅうかい pp.35-36
  • 田辺たなべ昭三しょうぞうほか 1966 『とう邑古かまぐんI』 平安へいあん学園がくえん考古学こうこがくクラブ
  • 田辺たなべ昭三しょうぞう須恵すえ大成たいせい角川書店かどかわしょてん、1981ねんISBN 4048510347NCID BN01692947全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:81039399https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001515081-00 
  • 中村なかむらひろし 1995『須恵すえ集成しゅうせい図録ずろく だいいちかん 近畿きんきへん1』 雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん
  • 中村なかむらひろし泉北せんぼく丘陵きゅうりょうひろがる須恵すえかまとう遺跡いせきぐん新泉しんいずみしゃ〈シリーズ「遺跡いせきまなぶ」〉、2006ねんISBN 4787706381NCID BA77603115全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21075303 
  • 西田にしだ正規まさき 1976「和泉いずみすえ邑と木炭もくたん分析ぶんせき」『とう邑 I』pp.178-187
  • もりひろしいち 1958「和泉いずみ河内かわうちかま出土しゅつど須恵すえへんねん」『世界せかい陶磁とうじ全集ぜんしゅうだい1かん 河出かわで書房しょぼう
  • もりひろしいち 1978「だいさんせつ 生産せいさん発展はってんとその技術ぎじゅつ」『大阪おおさか だいいちかん大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい pp.768-782
  • 山田やまだ邦和くにかず須恵すえへんねんろん前提ぜんてい」『須恵すえ生産せいさん研究けんきゅう学生がくせいしゃ、1998ねん、11-21ぺーじISBN 4311304676NCID BA34434548全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:98076936 


関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]