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今川義元 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

今川いまがわ義元よしもと

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重定しげさだこう今川いまがわ义元
今川いまがわ義元よしもと
今川いまがわだいじゅういちだい家督かとく三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが大名だいみょう上總かずさかい治部じぶ大輔だいすけ
前任ぜんにん今川いまがわてる
つぎにん今川いまがわ氏真うじざね
今川義元
上總かずさかい治部じぶ大輔だいすけ
國家こっか三河みかわこく遠江とおとうみこく駿河するがこく
時代じだい日本にっぽん戰國せんごく時代じだい
主君しゅくん足利あしかが義晴よしはる足利あしかが義輝よしてる
今川いまがわ
氏族しぞくかわ內源
はつ今川いまがわもと
幼名ようみょうよし菊丸きくまる
別名べつめい五郎ごろう今川いまがわ嫡子ちゃくし稱呼しょうこ)、栴岳うけたまわよし法號ほうごう
戒名かいみょうてんさわてら殿どの四品前禮部侍郎秀峰哲公大居士
てんさわてらしゅうみねあきらおおやけ
其他名號みょうごう東海道とうかいどういち弓取ゆみとり
東海道とうかいどうだいいちゆみ
出生しゅっしょうえいただし3ねん(1519ねん
駿河するがこく駿府すんぷじょう
こんねん天文てんもん6ねん(1537ねん
逝世えい祿ろくさんねんがつじゅうきゅうにち(1560ねん6がつ12にち)(41さい) 
尾張おわりこくおけ狹間はざまにちおけ狭間はざま
はかそうくらい愛知あいちけん豐川とよかわまと大聖寺だいしょうじあたま顱)
くらい愛知あいちけん豐明とよあけてきおけ狹間はざま古戰場こせんじょう傳說でんせつにちおけ狭間はざま
くらい愛知あいちけん豐明とよあけてき高德院こうとくいん
くらい靜岡しずおかけん靜岡しずおかあおい大岩おおいわまちてき臨濟寺りんさいじ
くらい東京とうきょう杉並すぎなみてきかん泉寺いずみでらにちかん泉寺いずみでら
くらい愛知あいちけん西尾にしおてき東向こちむきてらにち東向こちむきてら
にちうつしほう
にち原文げんぶん今川いまがわ 義元よしもと
假名かめいいまがわ よしもと
平文へいぶんしき罗马Imagawa Yoshimoto

今川いまがわ義元よしもとにち语:今川いまがわ 義元よしもといまがわ よしもと Imagawa Yoshimoto,1519ねん—1560ねん6がつ12にち日本にっぽん戰國せんごく時代じだい守護しゅご大名だいみょう今川いまがわてきだいじゅういちだい家督かとく家系かけい出身しゅっしん鎌倉かまくら八幡はちまん太郎たろう源義家みなもとのよしいえ一系いっけいてき名門めいもんもちぞく,其先祖せんぞ源義家みなもとのよしいえこれ甲斐かい武田たけだ先祖せんぞ源義光みなもとのよしみつこれけい甲斐かい武田たけだあずか駿河するが今川いまがわゆう親戚しんせき關係かんけい室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが將軍家しょうぐんけ庶流よしりょう分家ぶんけ正室せいしつため武田たけだ信虎のぶとらこれおんなていめぐみいんはつため今川いまがわもとこう接受せつじゅ室町むろまち幕府ばくふだいじゅうだい將軍しょうぐん征夷大將軍せいいたいしょうぐん足利あしかが義晴よしはるてきへんいみな拜領はいりょう改名かいめいため今川いまがわ義元よしもと北條ほうじょう氏康うじやす武田たけだ信玄しんげんてき義兄弟ぎきょうだい今川いまがわ義元よしもと僅身ため武田たけだ信玄しんげんてき姊夫,かえ北條ほうじょう氏康うじやすてきつまおとうと

今川いまがわ義元よしもとこれ日本にっぽん戰國せんごく時代じだい前期ぜんき戰國せんごく大名だいみょうてき名將めいしょう今川いまがわ義元よしもとつぎ外交がいこうじょう轉變てんぺん父親ちちおや今川いまがわおやあずか長兄ちょうけい今川いまがわてるてき外交がいこう方針ほうしん,致力於改善かいぜん和睦わぼくあずか征戰せいせん多年たねんてき武田たけだ關係かんけいため武田たけだ武田たけだ信虎のぶとら長子ちょうし武田たけだ信玄しんげん做媒じんむかえめとりょう京都きょうと公卿くぎょう三條さんじょうこうこれおんな自己じこそくむかえめとりょう武田たけだ信虎のぶとら長女ちょうじょていめぐみいん[1]ため正室せいしつ結成けっせい鞏固きょうこてき婚姻こんいん同盟どうめい通過つうか政治せいじれん姻,武田たけだかず今川いまがわ兩家りょうけ長年ながねん對峙たいじやめひさてきかたきへんおや今川いまがわ義元よしもとざい軍師ぐんしふとしはらゆきとき母親ははおやことぶきかつらざいつくり輔佐ほさてき統治とうち全力ぜんりょくはた今川いまがわむかえこう全盛ぜんせい巔峰時期じき,佔有駿河するが遠江とおとうみ三河みかわさんこく領地りょうち石高こくだかたちひゃくまんせき以上いじょうゆう東海道とうかいどういち弓取ゆみとり[2]てき美名びめい今川いまがわ義元よしもとあずかどうだいてき甲斐かい武田たけだ晴信はるのぶ相模さがみ伊豆いず北條ほうじょう氏康うじやす尾張おわり織田おだ信秀のぶひできおい逐霸ぎょう庇護ひご三河みかわ松平まつだいらひろただしおさめため附屬ふぞくこくなみひさげ拔其松平まつだいら元康もとやす[3]しか今川いまがわ義元よしもとざいおけ狹間はざまたたかええい祿ろく4ねん1560ねん),意外いがいてきはいざいとしけいてき織田おだ信長のぶながじょう享年きょうねんよんじゅうさい今川いまがわ也迅そくよしもりうたておとろえ

生平おいだいら

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還俗げんぞくそう、嫡庶これぶん

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とし幼時ようじ出家しゅっけ法號ほうごう栴岳うけたまわよし接受せつじゅ家老がろう軍師ぐんしふとしはらゆきときてき教育きょういくざい長兄ちょうけい今川いまがわてるやまい逝後還俗げんぞく回歸かいき今川いまがわざいぶとげんゆきとききょうじょ平定へいてい家中いえじゅう內亂花倉はなぐらみだれこうとくけんなみ繼承けいしょう家業かぎょう花倉はなぐらみだれ今川いまがわ内部ないぶてき繼承けいしょうじん爭奪そうだつせん今川いまがわおや生前せいぜん指定していてるため繼承けいしょうじんしか而在父親ちちおや親和しんわ長兄ちょうけいてるしょうつぎせん逝後,今川いまがわてき家督かとくくらいかかむなし所以ゆえんおやしょあましたてき兩個りゃんこげん廣惠ひろえさがせかず栴岳うけたまわよし便びん開始かいしためりょうそう家督かとくくらい對立たいりつ。「あきら長幼ちょうよう順序じゅんじょらいせつ家督かとく該由較年ちょうてき三男玄廣惠探來繼承,ただし按照いにしえ以來いらい嫡庶これぶんざい長子ちょうし今川いまがわてるりょう當然とうぜんせっちょよう扶立同樣どうようため嫡子ちゃくしてき今川いまがわ義元よしもとざいぼつゆう嫡子ちゃくしてき情況じょうきょう,庶兄げん廣惠ひろえさがせざい有機ゆうきかいなりため家督かとくただ今川いまがわおやてき側室そくしつ福島ふくしま所生しょせい庶子しょしおこり由正よしまさしつことぶきかつら所生しょせいてき栴岳うけたまわよし嫡子ちゃくし,較不正統せいとうせい。」げん廣惠ひろえさがせてき外祖父がいそふ福島ふくしま正成まさしげ家中いえじゅう重臣じゅうしんひかえせいりょう方上かたがみじょう高天こうてん神城かみしろひとし重要じゅうようささえじょう,其勢力せいりょく龐大ようしょう覷;於是げん廣惠ひろえさがせ決定けってい憑藉這樣てき優勢ゆうせいそう以武りょく跟栴だけうけたまわよしそう高下こうげ同時どうじ還俗げんぞく改名かいめい今川いまがわりょうしん。另一方面ほうめん正室せいしつことぶきかつら這邊也不あましめせじゃくしたれい栴岳うけたまわよしりつそく還俗げんぞくなみ改稱かいしょう今川いまがわ五郎ごろう」,以示正統せいとう〈「五郎ごろう今川いまがわ世代せだい嗣子ししてき通稱つうしょうざい這個情況じょうきょうゆうちょ象徵しょうちょううめだけうけたまわよしざい正統せいとうてき重要じゅうようせい。〉;同時どうじ今川いまがわてるたく重臣じゅうしんふとしはらゆきときたかしまこと策動さくどう家臣かしんたおせこう栴岳うけたまわよし這邊,ふとしはらゆきとき以栴だけうけたまわよしてきせい统性ためごう影響えいきょうりょく成功せいこう進行しんこうりょうたい一門和家臣的暗中攏絡工作。今川いまがわてき重臣じゅうしん朝比奈あさひなやすしのうむかえめとりょう母親ははおやことぶきかつらてき侄女为妻,最早もはや加入かにゅううけたまわよしかたかえゆう一門いちもん眾之くび先祖せんぞ貞世さだよてききさきだい濑名さだ也被ゆき斋说ふくてき加入かにゅう使うけたまわよしかたへんどくごくため有利ゆうり;此外在がいざいゆきときてきごう召之加入かにゅうてきかえゆううけたまわよしてきいもうとおっと關口せきぐちひろ家中いえじゅう岡部おかべ一族いちぞくてき岡部おかべただしつな岡部おかべ元信もとのぶ紛紛ふんぷん投入とうにゅううけたまわよしかたざいゆきとき其他家臣かしんしょうじょしたげん廣惠ひろえさがせぶく岛一ぞく相對そうたい孤立こりつ無援むえん

天文てんもんねん(1536ねんがつ母親ははおやことぶきかつらざい必勝ひっしょう把握はあくてき情況じょうきょうあずか支持しじげん廣惠ひろえさがせてき福島ふくしま正成まさしげかいめん希望きぼうせつふくたいかた放棄ほうき支持しじげん廣惠ひろえさがせただし這次談判だんぱん歡而散,福島ふくしま家族かぞく頑固がんこてき抵抗ていこうなみ堅持けんじ自己じこてき立場たちば持續じぞく支持しじげん廣惠ひろえさがせなみ談判だんぱんてきへだたてんおこりへいおさむ栴岳うけたまわよし所在しょざいてき駿府すんぷかん雙方そうほう軍隊ぐんたいざい駿府すんぷ城下しろした初次はつじ交戰こうせんゆかり駿河するがかんてきしろぼうじゅうふん堅固けんご福島ふくしまてき軍隊ぐんたい遭遇そうぐう慘敗ざんぱいとく退すさもりかた上城かみしろ花倉はなぐらじょうとう據點きょてん。栴岳うけたまわ芳見よしみ迅速じんそく發起ほっき反攻はんこう六月ろくがつ二日栴岳承芳派遣岡部おかべちかしつなおさむ福島ふくしまぐんてき據點きょてんかた上城かみしろ方上かたがみじょうちく構在燒津やいづ高草山たかくさやまてきやま顶上,したがえ駿府すんぷかんいたはな仓城てき重要じゅうようじょうしろへい拼命ぼうもり攻防こうぼう相當そうとう激烈げきれつただしおわり於還岡部おかべちかしつなきゅうおさむかつらいりょうずい進攻しんこうひがし遠江とおのえてきだか天神てんじんじょうてきうけたまわよしかたてき小笠原おがさわらはる城主じょうしゅ福島ふくしま正成まさしげ一直奮戰到最后一刻,ちょくいたり小笠原おがさわらぐんおさむにゅう本丸ほんまる也很しょうゆう投降とうこうてきじんおのれかた阵地いち个个しつもりげん廣惠ひろえさがせ遁入花倉はなぐらじょううら花倉はなぐらじょうまためいかのうなしじょう先祖せんぞはんしょきずけ一度いちど今川いまがわてき本城ほんじょう。以掛川城かわしろ朝比奈あさひなやすしあさ中心ちゅうしんてき军队,會合かいごうおさむかつ方上かたがみじょうてき岡部おかべちかしつな軍隊ぐんたい包圍ほういりょうげん廣惠ひろえさがせ所在しょざいてき花倉はなぐらじょう六月ろくがつはちにち花倉はなぐらじょう淪陷,げん廣惠ひろえさがせ逃入濑户たにひろし门寺。よし于多すうにんふううたてかじぶく岛氏一族等惠探的擁護者坚守普门寺,并为めぐみさがせ乞降请命。ただし母親ははおやことぶきかつら軍師ぐんしゆきとき決定けってい斷絕だんぜつ患。じゅうよんにちめぐみさがせざい门寺切腹せっぷく自殺じさつ花倉はなぐらみだれ就此結束けっそくよししょうてき栴岳うけたまわよし還俗げんぞく改名かいめい今川いまがわもと繼承けいしょう家督かとくこう接受せつじゅ征夷大將軍せいいたいしょうぐん足利あしかが義晴よしはるてきへんいみな拜領はいりょうよし改名かいめいため今川いまがわ義元よしもと

親和しんわ武田たけだ反目はんもく北條ほうじょう

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天文てんもんろくねん(1537ねんがつ今川いまがわ義元よしもとてのひらけん對外たいがい外交がいこうじょう轉變てんぺん父親ちちおや今川いまがわおやあずか長兄ちょうけい今川いまがわてるてき外交がいこう方針ほうしん,致力於改善かいぜん和睦わぼくあずか征戰せいせん多年たねんてき武田たけだ關係かんけい武田たけだ信虎のぶとら栴岳うけたまわよし今川いまがわ義元よしもととくいた今川いまがわ家中かちゅう大部たいぶ份的重臣じゅうしんよう戴,とげたい栴岳うけたまわよし表示ひょうじ支持しじなみざい花倉はなぐらみだれ結束けっそくきょうじょとりこ支持しじげん廣惠ひろえさがせ一方いっぽうてき福島ふくしま一族いちぞく殘黨ざんとう,而部分ぶぶんてき福島ふくしま一族いちぞく北條ほうじょう綱成つなしげぜん相模さがみ伊豆いずてき小田原おだわらじょうひろもとめもたれ北条ほうじょう氏康うじやすさら暗中あんちゅうたがえいのち匿藏はん義元よしもと殘黨ざんとうてき武田たけだ家臣かしん前島まえじま一族いちぞく剷除。よし武田たけだ信虎のぶとらてき支持しじ今川いまがわ新任しんにんとう主義しゅぎもととげ一改自父親氏親以來與武田家的敵對狀態,りょう關係かんけい出現しゅつげんりょう很大てき轉變てんぺんためりょうきょう兩國りょうこくれん繫,今川いまがわ義元よしもと利用りよう今川いまがわ多年たねん長期ちょうき以來いらい京都きょうと朝廷ちょうていてき良好りょうこう關係かんけいため武田たけだてき未來みらい繼承けいしょうじん武田たけだ信玄しんげん做媒,武田たけだ武田たけだ信虎のぶとら長子ちょうし武田たけだ信玄しんげんむかえめとりょう京都きょうと公卿くぎょう三條さんじょうこう次女じじょ三條さんじょう夫人ふじん自己じこそくむかえめとりょう武田たけだ信虎のぶとら長女ちょうじょていめぐみいん(武田たけだ信玄しんげんてき姊姊)ため正室せいしつ武田たけだ信虎のぶとらかえはた自己じこてき名刀めいとうむねさんひだり文字もじおくきゅう今川いまがわ義元よしもと結成けっせい鞏固きょうこてき婚姻こんいん同盟どうめい通過つうか政治せいじれん姻,武田たけだ與北よぎたじょうほん就因かたき關係かんけい,而導致今川いまがわ也仇武田たけだ,如今武田たけだかず今川いまがわ兩家りょうけ長年ながねん對峙たいじやめひさてきかたき轉化てんかため互通友好ゆうこうてきおやずいちょ二家建立聯姻關係,象徵しょうちょうちょきのえ駿しゅん同盟どうめいてき正式せいしき締結ていけつ成立せいりつ

しか而另一方面今川義元與武田家結盟相善的舉動引來了今川いまがわ盟友めいゆう武田たけだかたき宿敵しゅくてきてき北條ほうじょう不滿ふまんあずかいきどお恨,北條ほうじょうてき初代しょだい家督かとく北條早雲ほうじょうそううんほん今川いまがわ家臣かしん,而且今川いまがわ義元よしもと父親ちちおや今川いまがわおやてきしゅうとしゅうと兩家りょうけ一度曾長期和甲斐武田家及三河松平家交戰(今川いまがわ義元よしもと長兄ちょうけい今川いまがわてる曾和そわ北條ほうじょう氏綱うじつな一同いちどう進攻しんこう武田たけだ信虎のぶとら今川いまがわ義元よしもと父親ちちおや今川いまがわおや曾和そわ北條早雲ほうじょうそううん一同いちどう進攻しんこう松平まつだいら長親ながちか),現在げんざい今川いまがわちょ北條ほうじょう獨自どくじ共同きょうどうてきてきじん武田たけだ結盟けつめい北條ほうじょう家中かちゅう出現しゅつげん許多きょた今川いまがわ不可ふか信任しんにんてき風聲ふうせい自然しぜんてき也捨棄與今川いまがわ盟約めいやく今川いまがわ與北よぎたじょう兩家りょうけ關係かんけい破裂はれつ互相交惡,なみざい富士川ふじかわ以東いとうてき駿河するが國土こくどため戰場せんじょうつぎ交兵(「だいいち河東かわとうらん」)。

天文てんもんじゅうねん(1541ねんろくがつ武田たけだ這方めん信虎のぶとら出發しゅっぱつぜん往駿かわてき駿府すんぷかんさがせもち長女ちょうじょていめぐみいん及外まご今川いまがわ氏真うじざね武田たけだ晴信はるのぶざいおとうと武田たけだ信繁のぶしげ重臣じゅうしん甘利あまりとらやすし板垣いたがきしんかたひとしてき支持しじ放逐ほうちく信虎のぶとら繼承けいしょう甲斐がい武田たけだだいじゅうきゅうだい家督かとく晴信はるのぶおけしょ姊夫義元よしもと協議きょうぎ約定やくじょうよし義元よしもとはた信虎のぶとらとめざい駿府すんぷかん生活せいかつ费用ゆかり武田たけだかた負擔ふたん通過つうか这件ごと大大的だいだいてき強化きょうかりょう今川いまがわかず武田たけだてき同盟どうめい關係かんけい

天文てんもんじゅうねん(1541ねんなながついきどお而不滿義みつよしもと改變かいへん外交がいこう方針ほうしんはた北條ほうじょう捨棄てき北條ほうじょうだいだい家督かとく北條ほうじょう氏綱うじつなあずか其子だいさんだい家督かとく北條ほうじょう氏康うじやす開始かいし今川いまがわため爭奪そうだつ富士川ふじかわ以東いとうてき土地とち持續じぞく征戰せいせんじゅうねん義元よしもととげあずか武田たけだ武田たけだ晴信はるのぶ扇谷おうぎや上杉うえすぎ上杉うえすぎちょうじょうやま內上すぎ上杉うえすぎ憲政のりまさ聯合れんごう輪番りんばん攻擊こうげき北條ほうじょう成功せいこう遏制りょう北條ほうじょうてきおさむ势,使つかい北條ほうじょう軍勢ぐんぜいざい駿河するがひがしてき國境こっきょう撤退てったいかい相模さがみ義元よしもと成功せいこうてき支配しはいりょう駿東すんとう富士ふじぐん

天文てんもんじゅうよんねん(1545ねんじゅうがつ義元よしもとざい駿河するが東部とうぶ富士ふじぐんあずか北條ほうじょう氏康うじやす對陣たいじんさい關東かんとう管領かんりょうやま內上すぎだいじゅうだい當主とうしゅ上杉うえすぎ憲政のりまさ聯合れんごう扇谷おうぎや上杉うえすぎ末代まつだい家督かとく上杉うえすぎちょうじょう及末にん古河ふるかわ公方くぼうてき足利あしかが晴氏はるうじ集結しゅうけつごうたたえはちまん大軍たいぐん包圍ほうい僅有さん千北條軍駐守的かわえつじょう義元よしもとためりょう奪回だっかいぜん北條ほうじょう氏綱うじつな占據せんきょてき駿河するが東部とうぶ出兵しゅっぺいだい河東かわとうらん)。氏康うじやす駿河するが快速かいそく退すさへいさい今川いまがわぐんしたがえそくおさむおちい吉原よしはらしろ長久保ながくぼしろ氏康うじやす雖是智勇ちゆう兼備けんびてき名將めいしょう也無ほうたいづけ這麼てきじん經由けいゆ甲斐がいこくてき武田たけだ晴信はるのぶ仲介ちゅうかいしたがえちゅうてき斡旋あっせん北條ほうじょう氏康うじやす同意どうい割讓かつじょうなみ退出たいしゅつひがし駿河するがてきかわ東之ひがしのため條件じょうけんあずか義元よしもと和解わかいざいあずか今川いまがわ解決かいけつ西にし今川いまがわてきおびえ氏康うじやすとく以班關東かんとうあが雙手そうしゅらい全力ぜんりょく對抗たいこう足利あしかが上杉うえすぎれんぐん

卓越たくえつ內政、實行じっこう檢地けんち

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擴張かくちょうてき同時どうじなみぼつゆう忘記内政ないせいてき重要じゅうようせいそくこう各地かくち派遣はけん檢地けんち奉行ぶぎょう展開てんかいりょう艱辛てき檢地けんち工作こうさく使つかい領地りょうち基礎きそいたりょう强化きょうかざい戰國せんごく时代,大名だいみょうためりょう備戰,こう百姓徵收的年貢率很高,だいざい五公五民ごこうごみんおさむ获量てき五成歸领主,なり歸農きのうみん自己じこ以上いじょう乃至ないし有高ありだかたちはちおおやけみんしゃ今川いまがわ義元よしもとうけたまわかさね父親ちちおや今川いまがわおやてきよんおおやけろくみんてき年貢ねんぐりつふか民心みんしん

天文てんもんじゅうねん(1541ねん),たい內,ざい駿河するが遠江とおとうみ三河みかわつぎ進行しんこう檢地けんち增加ぞうかりょう家臣かしんてき军役俸祿,確保かくほりょう年貢ねんぐ納入のうにゅう責任せきにんしゃ江尻えじり清水港しみずこう連接れんせつ東國とうごくいたり京都きょうと難波なんばてき交通こうつうよう義元よしもときょう港内こうない治安ちあん保護ほご沿岸えんがんてきたびてん商人しょうにん義元よしもとまた發展はってん沿海えんかい带的製鹽せいえんぎょう開發かいはつ安倍あべ内地ないちてき金山かなやまきん礦。いち时之间,ゆかり于義もとてきぐんちゅうもち優秀ゆうしゅうてき內政手腕しゅわん卓越たくえつてき內政政策せいさく使つかい義元よしもと統治とうちてき駿府すんぷかん城下町じょうかまちあずかまちまち非常ひじょう繁榮はんえい

今川いまがわ義元よしもと擔任たんにん今川いまがわ家督かとくゆかり於對京都きょうと文化ぶんかゆうきょうねつてき崇拜すうはいはた京都きょうと文化ぶんか關東かんとう地區ちく流傳りゅうでんため使命しめいよし此他こく仿效なみ且遵循京都きょうとうら華麗かれいてきおうまご公卿くぎょう穿ほじ直衣なおし、戴烏帽子えぼしぬりくろ、描蟬眉、抹脂、召開かい

另外今川いまがわ義元よしもとまたため其父今川いまがわおやてき今川いまがわ假名がな目錄もくろく追加ついか制定せいていじょう重視じゅうし內政、主從しゅうじゅうあいだてき組織そしき強化きょうかたい農工のうこう­商業しょうぎょうしゃてき管理かんり建立こんりゅう交通こうつう制度せいどとうなみ強調きょうちょう主從しゅうじゅうあいだてきおん給與きゅうよ奉公ほうこう關係かんけい(よせおやよせせい)。《今川いまがわ假名がな目錄もくろく此凡じゅうよんじょうそく假名かめい目錄もくろく追加ついか21じょう》,東國とうごく大名だいみょうちゅう最早もはやてきぶん國法こくほう,也是せん國家こっかほうちゅうさい完備かんび­てき一部いちぶよし今川いまがわ世代せだいてき累積るいせきうえ義元よしもと細心さいしん管理かんり今川いまがわよし最初さいしょてき駿河するが22まんせき知行ちぎょう領地りょうちいた今川いまがわ義元よしもとてき實力じつりょくやめゆうななじゅうろくまんせき調ちょうしゅう投入とうにゅうせん鬥的兵員へいいんさらたちまんろくせんじんあい當時とうじ尾張おわり織田おだてきよんじゅうさん萬石也只能勉強調集出將近一萬五千多人而已。

援助えんじょ松平まつだいら、佔領さんかわ

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天文てんもんじゅうろくねん(1547ねん),開始かいし不斷ふだんざい與北よぎたじょう爭奪そうだつ駿河するが以東いとう富士ふじこれ織田おだ爭奪そうだつさんかわ,且勢力せいりょく不斷ふだん擴大かくだい尾張おわりてき織田おだ信秀のぶひで發動はつどうたいさんかわてき侵略しんりゃく

天文てんもんよんねん(1535ねん),こう尾張おわり進軍しんぐんてき松平まつだいら清康きよやす(松平まつだいら元康もとやす祖父そふ)阿部あべ定吉さだきち之子ゆきこわたる七郎しちろう误杀,ねんじゅう岁。清康きよやすきさき松平まつだいら馬上もうえいずる现势りょくそうややややてい現出げんしゅつ衰弱すいじゃくてき情況じょうきょう清康きよやすてき叔父おじ松平まつだいらしんじょうはかりごとがいせい康之やすゆき十岁的松平廣忠,奪取だっしゅ家督かとくくらいこうちゅう逃往清康きよやすてきいもうと婿むこかみ户城あるじ東條とうじょうひろしょ避開松平まつだいらしんじょうてきおいころせ

天文てんもんきゅうねん(1540ねん),織田おだ信秀のぶひでじょうきょ而入,おさむりょう西にし三河門戶重要據點安祥城,以長男ちょうなん織田おだ信廣のぶひろため城主じょうしゅ

天文てんもんじゅうよんねん(1545ねん),こうちゅうあんさちじょう奪回だっかいけい失敗しっぱいこうちゅう正式せいしき臣從しんじゅう今川いまがわ繼承けいしょう父兄ふけい遗志,一心要在京都插上自己的今川家軍旗的義元,自然しぜんかいちょ织田信秀のぶひでざい三河そうご擴充かくじゅう勢力せいりょく岡崎おかざき城主じょうしゅ松平まつだいらひろただしむかい義元よしもともとめ援,義元よしもとたてそくこう逃往てき松平まつだいらひろちゅうしんりょう援助えんじょ義元よしもと命令めいれいゆきときりつぐん進入しんにゅう西にし三河抵抗織田軍的入侵;同時どうじ義元よしもと要求ようきゅう松平まつだいらひろちゅう送出そうしゅつ其子たけせんだい(德川とくがわ家康いえやす)做為人質ひとじち,以示たい今川いまがわてき忠誠ちゅうせいしか而竹千代在前往駿府館的途中,田原たはら城主じょうしゅ户田康光やすみつ(こうちゅう繼室けいしつちち)竟将ちく千代ちよしげるため人質ひとじちおく靜岡しずおかてら一事以及實際具體的行進路線全部都密報給織田信秀,藉以織田おだてき獎賞。よし織田おだ信秀のぶひでじんはたたけ千代自半途中劫走,なみ以此脅迫きょうはく松平まつだいらひろただしたおせこう織田おだ背離はいり今川いまがわ松平まつだいらひろちゅうなみいんちく千代被劫走而屈服織田信秀,而是こころあまじょうねがいてき繼續けいぞく聽命於今川いまがわ義元よしもとざいやめけいさく織田おだ信秀のぶひで家臣かしんてき久松ひさまつしゅん夫人ふじんてき於大おだいたけせんだい生母せいぼてきこん肯求じょうたけ千代免於被織田信秀殺害,ただし作為さくい人質ひとじち扣留ざい尾張おわり

天文てんもんじゅうななねん(1549ねん),三河的松平家當主松平廣忠被岩松いわまつ八彌はちや刺殺しさつほろびねんじゅうよんさい織田おだ信秀のぶひでりつぐん五千餘再度入侵三河,もとふか怕松ひら家臣かしんだんたおせこう織田おだかた,於是決定けっていはた松平まつだいら家臣かしん全部ぜんぶ集中しゅうちゅういた駿府すんぷかんじょ冈崎じょう以外いがいてき松平まつだいらてきささえじょう全部ぜんぶよし今川いまがわてき部将ぶしょうだいもり義元よしもと判斷はんだん松平まつだいらしょうあるじ松平まつだいら元康もとやすざい織田おだてきしゅじょう松平まつだいら家臣かしん如果いんためしょうしゅ元康もとやすざい織田おだ,而倒こう織田おだたい自己じこよう介入かいにゅう三河的影響力會減弱,織田おだ信秀のぶひで就會介入かいにゅう三河みかわ松平まつへい無法むほう忍受にんじゅ這種形勢けいせいてき今川いまがわ義元よしもとしたれい軍師ぐんしふとしはらゆきときため總帥そうすい朝比奈あさひなやすしあさため副將ふくしょうりつまんせん人前にんまえ往迎せん雙方そうほうざい岡崎おかざき城東じょうとうみなみてき小豆あずきばんいち進行しんこう對峙たいじ小豆しょうずばん合戰かっせん先鋒せんぽう織田おだ信廣のぶひろ遭遇そうぐう今川いまがわてき朝比奈あさひなやすしのうとくなんぶん難解なんかいふとしはらゆきときさい派出はしゅつ岡部おかべ元信もとのぶりょうたい支援しえんおわり擊退げきたい織田おだぐん

同年どうねん(1549ねんじゅういちがつ義元よしもと派遣はけんゆきとき出兵しゅっぺいおさむおちい西にし三河要衝安祥城,擄獲守將しゅしょう織田おだ信廣のぶひろ(織田おだ信長のぶながてき庶兄)。ゆきときとげ織田おだ信秀のぶひで交涉こうしょうただし信秀のぶひで謹慎きんしんてき顧慮こりょいた織田おだ因尾いんびちょうしょうすべ一的關係與家中出現不穩,なみ且還有尾ありおちょう北方ほっぽうてき織田おだ信友のぶともしょ於敵たい於與其正めん對抗たいこう今川いまがわ如先安定あんていこく內並あつ強敵きょうてきてき政治せいじ考慮こうりょ,也就欣然きんぜんこたえおうしょうねんろくさいてきたけせんだい送還そうかん,以(織田おだ信秀のぶひで長子ちょうし)織田おだ信廣のぶひろ交換こうかんかい(松平まつだいらひろちゅう長子ちょうし)たけせんだい˙松平まつだいら元康もとやす義元よしもとはた松平まつだいらたけ千代送到了自己的大本營駿府城,名義めいぎじょう保護ほご實際じっさいじょう扣為人質ひとじち此完ぜんしょう三河松平家的家臣置於今川家的控制之下。緊接ちょ今川いまがわ義元よしもとしんいちはた三河みかわ所有しょゆう領地りょうちてき領主りょうしゅひとし撤換ため今川いまがわてき人並ひとなみざい三河そうご推行檢地けんちいたり此三河徹底成為今川的領土。就這さま今川いまがわ義元よしもと完成かんせいりょう祖父そふ今川いまがわ義忠よしただかず父親ちちおや今川いまがわおや長兄ちょうけい今川いまがわてる占領せんりょう駿河するが遠江とおとうみ三河そうごさんこくてき夢想むそうやめ具備ぐびくじら吞天てき實力じつりょく。此舉ただし徹底てっていてのひらひかえりょう松平まつだいらなみゆずる自家じか勢力せいりょく擴張かくちょういたり西にし三河そうご區域くいき最終さいしゅうようゆう駿河するが遠江とおとうみ三河みかわてき領地りょうちなりため東海道とうかいどうひゃくまんせきだい大名だいみょう

培養ばいようちくせんだい烏帽子えぼしおや

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今川いまがわ義元よしもと決定けっていためりょう死去しきょてき松平まつだいらひろちゅう代替だいたいあきらたけせんだい今川いまがわ義元よしもとちょねんようてきたけ千代ちよふかし受喜あいゆずるちくせんだい先住せんじゅうすすむ静岡しずおかてらひさしまたうたて進入しんにゅう臨濟寺りんさいじ在住ざいじゅうしん寺院じいんてき期間きかん受到りょう今川いまがわさいゆう智慧ちえてきふとはらゆきとき教導きょうどうあずか培養ばいようちょくいたじゅうよんさいいちねん弘治こうじ元年がんねん(1555ねんじゅうがつ義元よしもとてき導師どうしふとはらゆきときせん逝。ゆきとき臨終りんじゅうぜん告訴こくそ義元よしもとひしげ攏竹千代成為今川家一門。

弘治こうじねん(1556ねん),ためりょうひさげだかちく千代在今川家的身分地位,やすはいむかえめといもうとおっと關口せきぐちちかしひさしてき女兒じょじちちめいためおもねてき濑名ひめそく築山殿ちくやまどの)。よし未成年みせいねんしゃとくむかえめといん此義もとさきためちくせん代行だいこう成年せいねんれい元服げんぷく義元よしもとなみためちくせんだい戴上烏帽子えぼし義元よしもとしょうもとたまものきゅうちくせんだいなみめいため松平まつだいら元信もとのぶ兩年りょうねんそくえい祿ろく元年がんねん(1558ねん),松平まつだいら元信もとのぶはた名字みょうじちゅうてきしんあらためため祖父そふ清康きよやすてきかん改名かいめいため松平まつだいら元康もとやすさいめと關口せきぐちちかしひさしてきおんな築山殿ちくやまどのためつま正式せいしきなりため今川いまがわ一門いちもん。這時松平まつだいら元康もとやすざい眾望しょとく以回いた岡崎おかざきじょうたい於竹せんだい作為さくい人質ひとじちざい駿府すんぷかんてき待遇たいぐう相當そうとう良好りょうこう同樣どうようため人質ひとじち且在駿府すんぷかんてき北條ほうじょう氏規うじのりなりため少時しょうじ玩伴。義元よしもとがえ死去しきょてきこうちゅうつきりょう父親ちちおやてき責任せきにんはたたけせんだいため親子おやこゆずる其導ふとしはらゆきとき教導きょうどう兵法ひょうほう及外交還ゆう陣形じんけいとう多種たしゅ學問がくもん,逐漸なりため今川いまがわ麾下きか不可ふかあるかけてきとしけい一門いちもん武將ぶしょう

さんこく同盟どうめい準備じゅんび上洛じょうらく

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天文てんもんじゅうきゅうねん (1550ねん) ろくがつていめぐみいん(武田たけだ信玄しんげん姊)義元よしもと正室せいしつてき急逝きゅうせい死去しきょ意味いみちょきのえ駿しゅん同盟どうめい就此結束けっそく使つかいとく武田たけだ信玄しんげんたいきのえ駿しゅん同盟どうめいあいだてき羈絆きはんかんいた不安ふあん

天文てんもんじゅうねん (1551ねん) なながつつよし完成かんせい小県ちいさがたぐん攻略こうりゃくてき武田たけだ信玄しんげんむかい今川いまがわ方面ほうめん派遣はけんさんおとうと武田たけだしんれん進行しんこう正式せいしきてき輿こしいれ申請しんせいとくいたりょう義元よしもとてきおうもと同時どうじ信玄しんげんまたたい北條ほうじょう氏康うじやす使つかい進行しんこう婚姻こんいん交涉こうしょう,致力於成立せいりつかぶとしょう同盟どうめい

天文てんもんじゅういちねん(1552ねんがつ武田たけだ太郎たろう義信よしのぶてき成人せいじんれい元服げんぷく完成かんせいかたとく正式せいしき實行じっこう武田たけだかた派遣はけん駒井こまい政武まさたけため使ざい穴山あなやま信治しんじ仲介ちゅうかい透過とうか今川いまがわ家臣かしん一宮いちのみや出羽守でわのかみ高井たかい兵庫ひょうごすけいた義元よしもとたい兩家りょうけ締結ていけつ婚姻こんいんてきおうもと

同年どうねん(1552ねんじゅういちがつ義元よしもと信玄しんげん二人ふたり互相交付こうふ起請文きしょうもん誓詞せいし義元よしもと長女ちょうじょみねまついんざい正式せいしきよめ太郎たろう義信よしのぶため正室せいしつ

而後,北條ほうじょう氏康うじやす出兵しゅっぺい駿河するがため盟友めいゆうてき信玄しんげん得知とくち消息しょうそくたてそく出兵しゅっぺい支援しえん義元よしもとゆきときみとめため氏康うじやすらいはんしょうかいこれなんまといてきたいまたかい阻礙上洛じょうらくてきけい劃,於是建議けんぎたい北條ほうじょう進行しんこう義元よしもと同意どういりょうゆきときてき提議ていぎ今川いまがわ義元よしもと出面でづら善德寺ぜんとくじ會見かいけん甲斐がいとら武田たけだ晴信はるのぶ相模さがみ北條ほうじょう氏康うじやすていりつりょう今川いまがわ武田たけだ北條ほうじょうてき盟約めいやくしょう善德寺ぜんとくじきのえそう駿しゅんさんこく同盟どうめい

天文てんもんじゅういちねん(1552ねんじゅういちがつ,「今川いまがわ義元よしもとおんなみねまついんよめきゅう武田たけだ信玄しんげんてき嫡子ちゃくし武田たけだ太郎たろう義信よしのぶため正室せいしつ。」

天文てんもんじゅうねん(1553ねんがつ,「武田たけだ晴信はるのぶおんな黃梅おうばいいんよめきゅう北條ほうじょう氏康うじやすてき嫡子ちゃくし北條ほうじょう新九郎しんくろうせいため正室せいしつ。」

天文てんもんじゅうさんねん(1554ねんなながつ,「北條ほうじょう氏康うじやすおんな早川はやかわ殿どのよめきゅう今川いまがわ義元よしもとてき嫡子ちゃくし今川いまがわ彥五ろう氏真うじざねため正室せいしつ。」

敗亡はいぼうおけ狹間はざまたたかえ

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おけ狹間はざまだい合戰かっせん豊明とよあけ市立しりつ圖書館としょかん所藏しょぞう

えい祿ろくさんねん(1560ねんがつ今川いまがわ義元よしもとみとめため尾張おわりこく內的政情せいじょう混亂こんらん尾張おわり北邊ほくへん美濃みのてき齋藤さいとうよしりゅう也病危,情勢じょうせい一片いっぺんだいこのみ所以ゆえん動員どういんりょうまん五千人出兵入侵尾張,對外たいがいそくごうたたえよんまんにんせんたたえよう上洛じょうらく今川いまがわ義元よしもと朝比奈あさひなやすしあさため先鋒せんぽう進攻しんこう鷲津わしづしろ命令めいれい長大ちょうだいりょうてきたけせんだい(松平まつだいら元康もとやすおさむまる根城ねじろ

よし松平まつだいら元康もとやす進攻しんこうまる根城ねじろてき進展しんてん相當そうとうじゅん,18にちじょううま進攻しんこうしもうま丸根まるねじょう就淪陷りょうまる根城ねじろてき守將しゅしょう佐久間さくま大學だいがくてき首級しゅきゅう松平まつだいら元康もとやすてきぐん使送しそういた今川いまがわ義元よしもとてき面前めんぜん,以致於鬆たゆりょう今川いまがわぐんてき警戒けいかいしんいたりょう5がつ19にち午後ごご今川いまがわ義元よしもとあやま以為此刻織田おだ信長のぶながおう該還かめちぢみざい清洲きよすしろ織田おだ居城きょじょう)內不敢出兵しゅっぺい,於是大意たいいけいてきざい善照寺ぜんしょうじとりでひがし南方なんぽうてきおけ狹間はざま附近ふきん歇息,なみ且竟ざい陣地じんち中開なかびらき擺筵せきだいうたげ將士しょうしいん此受到織田おだ信長のぶながりつさんせんてき突襲(另有一說是信長馬迴眾,熱田あつた神宮じんぐう宮司ぐうじ之子ゆきこ千秋ちあき四郎しろう戰死せんし義元よしもとためりょう加速かそく奪取だっしゅ平定へいてい熱田あつたざい大高おおたかどう途中とちゅうあらためはし鳴海なるみみち,而在おけ狹間はざま遭到信長のぶながりつりょうてきうま迴眾突襲)。

後世こうせい創作そうさく今川いまがわ義元よしもと受到突擊とつげきざい突圍ちゅうよし於之ぜんさけよい退すさじょうあしたん身長しんちょうせん受驚いん而摔下馬げばらい,以致遭到信長のぶながてきさむらいまもる服部はっとり小平こだいらふとしてき攻擊こうげきさいじょういちめいさむらいまもる毛利もうりしんすけ加入かにゅう混戰こんせん最終さいしゅう今川いまがわ義元よしもと就死ざい這兩めいさむらいまもるてき手下てした今川いまがわ義元よしもとぜんいんりょく竭倒在地ざいちおこりきゅう仗著しゅやぶくちだいののし服部はっとり小平こだいらふとしあずか毛利もうりしんすけ毛利もうりしんじょよし激憤げきふんまたがすわざい今川いまがわ義元よしもとてき身上しんじょう以左しゅ揮拳じゅうげき今川いまがわ義元よしもとともえ,碰巧今川いまがわ義元よしもとちょうくち就將あつざい身上しんじょうてき毛利もうりしんじょしょう指頭しとう咬斷,しか而最仍然這兩無名むめいしょうそつ梟首きょうしゅ今川いまがわ義元よしもと一死いっし上洛じょうらくてき今川いまがわ大軍たいぐんてんへんこくりつそくぶんくずしはなれ析了。信長のぶながいずる於對いちだい名將めいしょうてき尊重そんちょうざい清須きよす南方なんぽう二公里街道旁造了義元塚,かえ举行りょういむ謹仪しき執行しっこう超大ちょうだい規模きぼてき千僧せんぞちょうわたり誦經じゅきょう法會ほうえ」,隆重たかしげ送別そうべつ義元よしもとため其祈もとむ冥福めいふく

日暮ひぐらし西山にしやま名門めいもん覆滅ふくめつ

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えい祿ろく元年がんねん(1558ねん)今川いまがわ義元よしもとおろし家督かとくくらい今川いまがわ家督かとく一職由其子的今川いまがわ氏真うじざねせっにん

氏真うじざねせっにんてのひらけん今川いまがわえい祿ろくよんねん(1561ねん)義元よしもと麾下きかねんけい武將ぶしょう松平まつだいら元康もとやす原本げんぽんひさし打算ださんしたがえ今川いまがわしんぞくちゅう獨立どくりつ不斷ふだん出兵しゅっぺい騷擾そうじょう織田おだてき領土りょうどなみおさむ織田おだてきしろ寨,同時どうじ頻頻ひんぴん上書うわがききゅう義元よしもと之子ゆきこ今川いまがわ氏真うじざね,討滅織田おだ信長のぶながため今川いまがわ義元よしもとほうかたきゆきはじしか今川いまがわ氏真うじざねてき無能むのう使とく駿河するがこく內的政情せいじょうえつ紊亂びんらんしょう今川いまがわてき家臣かしん紛紛ふんぷん出走しゅっそう使つかいとく元康もとやすおわり於意識到今川いまがわやめ逐漸はしこう敗亡はいぼうてき心中しんちゅうのもえせいしたがえ今川いまがわ獨立どくりつてき念頭ねんとう

えい祿ろくねん(1562ねん),就在元康もとやすざい三河獨立捨棄與氏真的松平與今川臣從關係後,使つかい石川いしかわすうただしあずか織田おだてき瀧川たきがわ一益かずます交涉こうしょうなみぜん清洲きよすしろあずか少時しょうじ玩伴織田おだ信長のぶなが締結ていけつ清洲きよす同盟どうめい。而武田家たや方面ほうめんざい義元よしもと戰死せんし信玄しんげん知道ともみち自己じこ領地りょうち甲斐かい信濃しなのせっれんぜん山地さんちなん開發かいはつ促進そくしん經濟けいざい優勢ゆうせい,就在此時信玄しんげんはたほこあたま指向しこう今川いまがわ企圖きとおさむ駿河するが海外かいがい商業しょうぎょう製鹽せいえんぎょう促進そくしん經濟けいざい實力じつりょく

えい祿ろくじゅういちねん(1568ねん),信玄しんげん使つかいいたり岡崎おかざきしろはいかい家康いえやす協議きょうぎ兩家りょうけ出兵しゅっぺい消滅しょうめつ今川いまがわなみ約定やくじょう戰後せんご大井おおいがわためかい以西いせい遠江とおとうみ歸屬きぞく松平まつだいら以東いとうぞく駿河するがぶんまわしぞく武田たけだしょう大井おおい川會かわいめい呼應こおう駿河するが侵攻しんこうどう年年ねんねんそこざい信玄しんげんおさむやぶ駿府すんぷじょう後家ごけやすしぐんおさむかつ今川いまがわ領地りょうち遠江とおのえこくてき引馬じょう(即日そくじつ濱松はままつじょう)。

えい祿ろくじゅうねん(1569ねん),駿府すんぷじょうしつもり淪陷れん今川いまがわてき最後さいごてき根據地こんきょち掛川かけがわしろまた遭到包圍ほうい氏真うじざねほん固守こしゅじょうざい籠城ろうじょうせんてき最後さいご家康いえやす進行しんこう開城かいじょう勸告かんこくてきよび籲,氏真うじざねおわり投降とうこう此家かん開始かいし支配しはい遠江とおとうみ名門めいもん今川いまがわ遭到覆滅ふくめつてき命運めいうん今川いまがわ氏真うじざね透過とうか朝比奈あさひなやすしあさてき隨行ずいこう保護ほご下前したまえ相模さがみとうもたれ北條ほうじょう氏康うじやす北條ほうじょう氏康うじやすまたうたて而投もたれやめけいさらめい改姓かいせいてき德川とくがわ家康いえやす(そく松平まつだいら元康もとやす)。江戶えど幕府ばくふ真之まさゆきまご今川いまがわただしぼう以1,000せき收入しゅうにゅうてき高家こうかため德川とくがわ幕府ばくふこうちゅうちょくいた幕末ばくまつてき今川いまがわはん敘成ため若年寄わかどしより高家こうか旗本はたもと官位かんいしたがえ侍從じじゅうけん刑部おさかべ大輔だいすけ

したがええい祿ろく元年がんねん(1558ねん)氏真うじざねせっにん今川いまがわ家督かとくいたなが祿ろくじゅうねん(1569ねん),氏真うじざね投降とうこう德川とくがわ宣告せんこく覆滅ふくめつはなれ義元よしもとこれじゅうねん左右さゆう

评价

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雖然義元よしもと僅憑一代即建立起足以問鼎天下的大勢力,ただしよしおけ狹間はざまたたかえてきだい失態しったいいん此也ゆうみとめため今川いまがわてききょうもりなみ義元よしもとこう,而是はい其母ことぶきかつらあずか導師どうしふとしはらゆきときはかりごと劃策てき觀點かんてん存在そんざい

江戶えど時代じだいおこり義元よしもと喜好きよし公家くげ文化ぶんか、仿效公卿くぎょうもんまゆ涅齒なみ沉迷於和歌わか蹴鞠けまりてき形象けいしょう就廣ため流傳りゅうでん,甚至ちょくいた近年きんねんてきかげ遊戲ゆうぎちゅう,也往往因此賦義元よしもと滑稽こっけいてき形象けいしょう考慮こうりょいた作為さくい史料しりょうらいげんてき江戶えど時代じだい軍紀ぐんきつねゆう虛構きょこう杜撰ずさんてきじょうぶし元也もとなり真實しんじつてき肖像しょうぞうでん,其是真如しんにょ傳說でんせつ般過仿公其實並無ならびな定論ていろん;此外,考慮こうりょいた今川いまがわ在室ざいしつまち幕府ばくふちゅうようゆう於足利家としいえてき守護しゅご地位ちい,就算義元よしもと極力きょくりょくかたぎ仿公てきふん也有やゆう強調きょうちょう自家じか地位ちいあずか正當せいとうせいてき政治せいじ意義いぎ,而不能ふのうたんたんてき以奢靡的嗜好しこう

家庭かてい

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登場とうじょう作品さくひん

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小說しょうせつ
かげげき
漫畫まんが
遊戲ゆうぎ

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 武田たけだ信玄しんげんてき姊姊
  2. ^ 意味いみ東海道とうかいどう最強さいきょうてき武士ぶし
  3. ^ 即日そくじつてき德川とくがわ家康いえやす
  4. ^ よりゆき山陽さんよう重訂じゅうてい日本にっぽん外史がいし/まきじゅう文政ぶんせいじゅうねん(1827ねん):今川いまがわ義元よしもと。其子氏真うじざねあずか武田たけだ晴信はるのぶごうへいかず臨境じょう。以爭わが富士ふじかわ東之ひがしの。...... 及今川いまがわ義元よしもと氏真うじざねうけたまわ其後。