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方孝孺 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

ほうたかし

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ほうたかし
《方正學先生遜志齋集》之方孝孺像
方正ほうせいがく先生せんせいへりくだこころざしときしゅうほうたかし孺像
大明だいめい
せきぬき浙江せっこううてなしゅうやすしうみけん
ぞく汉族
ごうまれじきまれいにしえへりくだこころざし
諡號しごう文正ふみまさ
出生しゅっしょうもといたりただしじゅうななねんがつじゅうにち(1357ねん3がつ16にち
こう浙等しょゆき中書ちゅうしょしょう東道とうどううてなしゅうやすしうみけん
逝世あきらひろしたけさんじゅうねんろくがつじゅうにち(1402ねん7がつ25にち) 處決
ちょくおうてん
はかそうこう南京なんきん聚寶門外もんがい山上さんじょう
配偶はいぐうてい
おやぞくほうかつつとむちち
ほうたかしあに
ほう孝友たかともおとうと
ほうなかけん
かたちゅういよいよ
著作ちょさく

ほうたかし(1357ねん3がつ16にち—1402ねん7がつ25にち),まれじきまたまれふるごうへりくだこころざし南明なんめい弘光ひろみつみかどつい文正ふみまさ浙江せっこううてなしゅうやすしうみこんぞく宁波にんよりどころあきらはつ大儒たいじゅかたこう孺的書法しょほう藝術げいじゅつ》(作者さくしゃはやしくにとくちゅう記載きさいほうたかし孺生於1357ねん3がつ16にち(陰曆いんれきがつじゅうにち)。ときめいへりくだこころざしときしょくけんじおうしゅ椿つばきあらためためせいがくしょうせいがく先生せんせい明朝みょうちょうたてあやとし重臣じゅうしん文学ぶんがく思想家しそうか

きさきいん参与さんよ组织そぎはん及在やすしなんへんこうこばめ绝与しゅ合作がっさく而遭しょ

生平おいだいら

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早年そうねん生涯しょうがい

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すえあかり》记载,ほうたかし孺自おさな聰明そうめい好學こうがくつくえ敏捷びんしょう双眼そうがん炯炯けいけいゆうしんまいてん读书りょうちょういちすんあつしさとじん稱呼しょうこためしょうかん」(しょうかんいよいよ)。長大ちょうだいはい大儒たいじゅそうためため同輩どうはいじんしょ推崇,そく使つかい为长辈的えびすはくひとし自称じしょう如。ほうたかし孺亦つね阐明王道おうどう追求ついきゅう天下でんか太平たいへい为己にん[1]。一次方孝孺卧病在床,いえさとだん粮后人相にんそうつげほうたかし孺反わらいどう:“古人こじんしょ说‘さんしゅんきゅうしょく[2]貧窮ひんきゅうつねゆうてきこと。”きさき其父かたかつつとむいんそらしるしあん受牵连被诛杀,ほうたかし孺为此扶そうあい慟行ちょくいたふく结束きさきさい跟从そう完成かんせいがく[3]

ひろしたけじゅうねん(1382ねん),いんひがしかくだい學士がくし楊樞てき舉薦,明太めんたいしゅもとあきら召見りょうかたこう孺。ふとし見方みかたこう孺舉とめはしそう學問がくもんふちはく稱讚しょうさん不可ふかとくてき人才じんさい。此后かたこう孺为かたきしょ牵连,逮捕たいほにゅう应天しゅもとあきらいた其名きさき,释放归乡。ひろしじゅうねんほうたかし孺再いん举荐召见。よし於方こう孺力ぬし施行しこう仁政じんせいさき德化とっか而後せいけい;而太そく主張しゅちょう以猛治國ちこく運用うんよう嚴刑げんけいたかしほうひかえせい官民かんみん所以ゆえんぼつゆう重用じゅうようかたこう[4]。雖然如此,ふとし有意ゆうい栽培さいばいかたこう孺,於是任命にんめい其為陝西せんせいかん中府なかぶ教授きょうじゅこうふとし之子ゆきこしょくおうしゅ椿つばき聞其けん,聘為世子せいしなみおやだいせいがく」二字贈其書齋[5]

辅佐けんぶんみかど

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ほうたかし孺笔すみよもぎ戶手とてまき·前代ぜんだい名人めいじん題跋だいばつ

ひろしさんじゅういちねん(1398ねん),明太めんたいすめらぎふとしまごしゅまことつぎそく明惠あきえみかどめぐみみかど即位そくいそく遵照ふとし遺訓いくん,召方こう入京にゅうきょう重任じゅうにん先後せんごゆずる他出たしゅつにん翰林かんりん侍講じこう及翰りん學士がくしめぐみみかど敬重けいちょうかたこう孺,讀書どくしょまいゆううたぐがたそくこう請教,處理しょり國家こっか大事だいじ也會徵求ちょうきゅうてき意見いけんゆうかえかいゆずるかたこう孺批ふく群臣ぐんしんてきそうあきら[6]當時とうじ宮中きゅうちゅう纂修《明太めんたい實錄じつろく》及《るいようとう史籍しせきみなよしかたこう擔任たんにん總裁そうさいきさきてい官制かんせいこう孺改为文學ぶんがく博士はかせ[7]めぐみみかどたいかたこう孺有知遇ちぐうおん使つかいかたこうじゅうふん感激かんげき也決こころ竭盡全力ぜんりょく輔助めぐみみかど天下でんか

當時とうじ各地かくちはんおう勢力せいりょくえき增大ぞうだいめぐみみかど聽從ちょうじゅう兵部ひょうぶ尚書しょうしょ齊泰なりやすかずふとしつねてらきょうきよしてきそぎはん建議けんぎ,以加きょう中央ちゅうおう集權しゅうけんちゅうもり北平きたひらてきつばめおうしゅそく後來こうらいてき明成めいせいとげ以「きよしくんがわためめいちかいやすしなん」,揮軍南下なんか京師けいしめぐみみかどまた派兵はへいきた當時とうじ討伐とうばつつばめおうてき詔書しょうしょ檄文げきぶん出自しゅつじかたこう孺之しゅ[8]

いんためつばめぐん驍勇善戰ぜんせん以及けんぶんみかどとう人的じんてき错误ゆび挥和判断はんだん王師おうし逐漸しつたてあやさんねんつばめ军攻うらない大名だいみょうほうたかし孺建议道:“つばめへいざい大名だいみょう长久とま顿,てん气炎热,じょうかい战自つかれ。请急いのち辽东队进いれ山海さんかい进攻ながひらたじょう队进おさむ北平きたひらつばめへい必然ひつぜんかい援。わが们再发兵おさむ撤退てったい队,そくとりこ。”明惠あきえみかど赞同,并命かたこう孺草拟诏书,派遣はけんだいてらしょうきょう薛嵓抵达つばめ军,并赦免しゃめんつばめおうざいぎょう使つかい其罢へいかいはんまたためせんさとしすう千言授于薛嵓,其在つばめ军中秘密ひみつ传散。薛嵓抵达きさき藏匿ぞうとくせんさとし敢出,而燕おうしゅ棣亦たてまつみことのり[9][10]同年どうねんがつすぐる平安へいあんもりいさおはつへい擾燕军餉どうつばめおうふく指揮しき武勝むしょう上書うわがき请求罢免さんしゃ职位,めぐみみかどはたよう批准ひじゅん时,ほうたかし孺称:“一旦いったんへい罢后,就不可能ふかのう聚起りょう,请不要ふよう迷惑めいわく。”めぐみみかど于是决定坚持あずかつばめ军作战[11]ひさつばめおうしゅ棣攻うらない沛縣,烧毁粮船。とう时黄かわ以北いほく队无战功,而山东德しゅうてき餉道ふうじほうたかし孺为此忧こころこげ虑。于是けん议惠みかど派遣はけんにしきころもまもるせんちょうやすし带璽しょ于燕世子せいししゅだか假借かしゃくあずかしゅだか炽签订密约为ゆかり,离间しゅだか炽与其弟しゅだか使つかいしゅ棣生うたぐきたかえし,以打どおりどおり往德しゅうてき饷道。きさきおく递时,しゅだか炽得书不けいふうじ,离间于是のう成功せいこう[12][13]

たてあやよんねん(1402ねんがつつばめぐん抵达长江以北いほくめぐみみかど诏在各地かくちせいへいほうたかし孺称:“じょうがたやめ非常ひじょう紧急りょうむべ派遣はけんじんこたえ应割,以拖のべ时间,东南各地かくちてき募兵ぼへい才能さいのう汇集おこりらいつばめ不善ふぜん于水战,ざい长江じょう决战,胜负还尚未定みてい。”めぐみみかど于是派遣はけんどうしゅうとけいなるぐんぬしいたつばめぐん劝说,しゅ棣不听,めぐみみかど于是派遣はけんすい集合しゅうごう[14]しか而,みず大将たいしょうちん却将戰艦せんかん投降とうこうつばめ军,使つかい其得以渡过长同年どうねんろくがつめぐみみかど非常ひじょう忧愁おそれ惧,有人ゆうじん劝其转移いた其他地方ちほうさい图复兴。而方こう孺则りょく请坚もり南京なんきん应天,以待援军[15]そく使つかいごとゆうすみ,也会为社稷しゃしょく而死[16]しか而,けいたかしひらけ金川かながわかどゆずるつばめぐん入城にゅうじょうきさきめぐみみかどざいみや內自焚而[17]一說いっせつよし地道じみち逃亡とうぼうしたがえ此失蹤跡[18])。つばめおうすすむきょう文武ぶんぶ百官多見風轉舵,投降とうこうつばめおうほうたかし孺拒投降とうこう結果けっか下獄げごく

不屈ふくつ而亡

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當時とうじかたこう孺已けい名聞みょうもん天下でんかてきだいいち大儒たいじゅ,其學識品とくため四海しかいしょしょう頌。しゅ棣起へい,其謀姚廣こう曾對せつ,“しろやぶこれ日方ひかたこう孺是けつかい投降とうこうてきただしまんまん不能ふのうころせほかころせりょうこう孺,天下てんかてき讀書どくしょ種子しゅし」(のううけたまわせんけいてき讀書どくしょじん)就滅ぜっりょう。”しゅ點頭てんとうこたえおう[19]。其實,しゅ棣也有意ゆうい借用しゃくようかたこう孺的威信いしんらい收攬しゅうらん人心じんしん所以ゆえんとうつばめぐんおさむやぶ南京なんきんしゅ棣屢じんいた獄中ごくちゅうむこうかたこう孺招降,希望きぼうよしせんうつししん皇帝こうてい即位そくいてき詔書しょうしょほうたかし孺堅けつしたがえずいしゅ強行きょうこうじん押解かたこう孺上殿どのほうたかし孺披あさ戴孝(おとろえ)而入,悲慟至極しごく,哭聲ひびきとおる大殿おおいどの[20]

しゅ棣上ぜんやす慰方こう孺,告訴こくそ:「ほう先生せんせいべつ辛苦しんくりょうわがただぞうしゅうこう輔佐ほさなりおう一樣いちよう。」ほうたかし孺厲ごえ質問しつもんしゅ棣:「なりおうゆび明惠あきえみかどざい哪?」しゅ棣稱めぐみみかどやめけい焚。ほうたかし孺继续质问:“ためなんたてなりおうてきゆびめぐみみかどてきためくん呢?”しゅ棣答どう:“國家こっかおおせよりゆき年長ねんちょうてき君王くんのう啊。”ほうたかし孺继续追问:“为何たてなりおうおとうと呢?”しゅ棣则しょう:“這是ちんてき家事かじ。”并命じんはた筆墨ひつぼくなげいたかたこう孺面まえこえしょう:“よう命令めいれい天下でんか人的じんてき詔書しょうしょかた先生せんせいうつしてき不可ふか以。”強迫きょうはくうつし詔書しょうしょ[21]ほうたかし孺接ふでうつしじょうつばめぞく篡位」いくそく擲筆於地,ののしみち:「就死,詔書しょうしょわがうつし。」しゅ見方みかたこう孺寧不屈ふくつそくおびえどう:「你不怕我誅你九族きゅうぞくりょう?」ほうたかし孺義無反むぞり顧地斥責せつ:「就算誅十ぞく,奈我なに!」しゅ棣怒不可ふか遏,いのちじんはた其押赴集ほどこせ磔刑たっけいろくがつじゅうにち [22][23][24]

ほうたかし孺被すすむろう时,明成めいせいしゅ棣派じんだい肆搜捕方とりかたこう在京ざいきょうてきおやぞく相傳そうでん誅殺ちゅうさつじゅうぞく」,さらしょう於誅九族きゅうぞく),なみざい行刑ぎょうけい當日とうじつ們押往刑じょう在方ざいかたこう孺面まえいちいち殺害さつがい場面ばめんじゅうふん残忍ざんにん[25]ほうたかし孺的おとうとおとうとほう孝友たかともはたようころせてき時候じこうほうたかし孺看ちょおとうとおとうと流下りゅうかりょうなみだほう孝友たかともやす慰他せつ:“おもねあになん必淚潸潸さんさん義成よしなりひとしざい此間。はなひょう柱頭ちゅうとう千載せんざいたびたましいきゅういた家山いえやま。”[26]ずい從容しょうよう赴死、

ほうたかし孺強にん悲痛ひつう始終しじゅう不屈ふくつしのげおそ殺害さつがい南京なんきん聚寶もんいま中華ちゅうかもんそとねんよんじゅうろく岁。[27]

ほうたかし孺被ころせ無人むじん敢收かばね戴德つねなでかばね慟哭どうこくやめ絕食ぜっしょくさんにちゆううん:「臨危生死せいしけつ須臾しゅゆ為國ためくにやすし憐家あずか軀?つぎこころざしじょういん愧力たんうけたまわせんねんきりぐう渝。關山せきやまよくだん春秋しゅんじゅうなみだ骨肉こつにくちょうぶん南北なんぼく手澤しゅたくのここんふくもり,聊憑風雨ふうう泣桑榆。」さいきさきかたこう孺遗むくろよし門人もんじん廖鏞、廖銘おさむそう于聚たから門外もんがい山上さんじょう[28]ずい兩人りょうにん也因此連坐れんざ[29][30]ほうたかし妻子さいしていあずか子方こかたちゅうけんかたちゅういよいようえつるし杀,两个おんな儿亦とべにゅうしん淮河自尽じじん[31]

ほうたかし孺的宗族そうぞく親友しんゆう前後ぜんこう受诛しゃ达873にん,受牵连者达数せんにん,其门人中ひとなか以身殉者ゆう原質げんしつていこうさとしはやしよしみ[32]しょう“誅十ぞく[33][34][35]

きさき

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くらい南京なんきんあめ花台かだいてきほうたかし衣冠いかん

えいじゅうねん明成めいせいしゅ棣驾くずしきさき長子ちょうし明仁あきひとむねしゅだか炽继同年どうねん11がつしゅだか炽寬まち齐泰きよしほうたかし孺等たて文忠ふみただしんぞくじん,并赦免しゃめんこれ。齐、二人各有一子被找到并赦免。ほうたかし孺未找到嗣,找到りょう其堂けいかたこう复,并赦免しゃめんかたこう复。まんれきじゅうさんねんさんがつ,释放いんかたこう孺连坐てき戍边きさき裔,其分别ながれいたしょくとうてき人数にんずうゆういちせんさんひゃく余人よにん[36]ゆう地方ちほうけんこころざし記載きさいこう可能かのう並無ならびな絕後ぜつご[37],《あかり實錄じつろくまた記載きさいかたこう孺的幼子おさなごほういさおむねためすうてき倖存しゃ[33]ほういさおそう其後ため逃避とうひついみなみ逃至廣東かんとんひがしふとい一帶いったい

明世あきよむね时期,松江まつえひと俞斌自称じしょう为方こう孺后じん,并纂うつしかえりむねろく》,一时士大夫均纷纷相信,これきさきざいほうきさきじん察觉[38]

明神みょうじんむね时期,ゆう诏书褒奖记录けんぶんねん忠臣ちゅうしん、并在南京なんきん建造けんぞうひょうちゅうほこらほこらちゅうしょれつ人物じんぶつちゅうじょあきら为首,其次そく为方こう[39]

弘光ひろみつみかど時期じきおくこう孺為ふとしおくりな文正ふみまさつまていついふう誥命夫人ふじんおくりなさだ

閩南じんのりみことためおうじいしんたたえかたこう孺、てつけいきよしためさん千歲ちとせ

著作ちょさく

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ほうたかし著作ちょさく甚豐,内容ないようあつしふか邁。とう时每いちへんにん们纷纷传诵。其撰ゆうしゅうあやこう》、《だいえきえだ》、《たけおう戒書註》、《そうふみようげん》、《帝王ていおうもといのちろく》、《ぶんみつるとうえい乐年间,しゅ棣查きんてき所有しょゆう著作ちょさく,并令藏匿ぞうとくかたこう文集ぶんしゅうしゃ死罪しざい[40]あきらしらきいん收藏しゅうぞうかたこう孺文しゅう楊善けん舉,而處,其弟あきらそう簡出めんもとめじょうまたころせ。其门じんおう稌潛ろくせいてきほうしろしゅう》,为现ざい传世さく[41]

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ あかり》(まき141):“ほうたかし孺,まれちょくいちまれいにしえやすし海人あまちちかつつとむひろし武中たけなか循吏,ゆうでんこう孺幼警敏,雙眸そうぼう炯炯けいけい讀書どくしょみつるすんさと人目ひとめためしょうかん。」ちょうしたがえそう濂學,濂門下知げじ名士めいしみな其下。先輩せんぱいえびす翰、はく衡亦いいどる如。こう孺顧まつ文藝ぶんげいつね以明王道おうどう、致太ひらたためおのれにん。”
  2. ^ さんしゅんきゅうしょくてき典故てんこ出自しゅつじすすむあさとうふかしあきらてき擬古ぎこ》:“さんしゅんきゅうぐうしょくじゅうねんちょいちかん。”せつさん十天中只能吃九頓飯,形容けいようさかい异常貧困ひんこん
  3. ^ あかり》(まき141):“嘗臥びょうぜっかて家人かじん以告,わらい曰:「古人こじんさんしゅんきゅうしょくひんあにどくわが哉!」ちちかつつとむすわそらしるしこと誅,扶喪そうあいどう行路こうろすんでめんふくしたがえ卒業そつぎょう。”
  4. ^ あかり》(まき141):“ひろしじゅうねん,以吳沈、揭樞こも,召見。ふとし其舉どめ端整たんせいいい皇太子こうたいし曰:「此莊とうろう其才。」れいかえこうためかたきしょれん,逮至きょうふとし其名,しゃくじゅうねんまた以薦召至。ふとし曰:「こんようこう孺時。」”
  5. ^ あかり》(まき141):“じょかんちゅう教授きょうじゅにちあずかしょせいこうがく倦。しょくけんじおう聞其けん,聘為世子せいしまいひねせつ道德どうとくおうたかし以殊れいめい讀書どくしょいおり曰「せいがく。」”
  6. ^ あかり》(まき141):“及惠みかど即位そくい,召為翰林かんりん侍講じこう明年みょうねん遷侍こう學士がくし國家こっかだい政事せいじ輒咨みかどこう讀書どくしょまいゆううたぐそく召使めしつかいこうかい。臨朝そうごとしん僚面可否かひあるいのちこう孺就扆前批答。”
  7. ^ あかり》(まき141):“おさむふとし實錄じつろく》及《るいようしょしょこう孺皆ため總裁そうさいさらてい官制かんせいこう孺改文學ぶんがく博士はかせ。”
  8. ^ あかり》(まき141):“つばめへいおこり,廷議討之,みことのりげきみな其手。”
  9. ^ あかり》(まき141):“けんぶんさんねんつばめへいかすめ大名だいみょうおう聞齊、やめ竄,上書うわがき請罷もりいさおすぐる平安へいあんへいこう建議けんぎ曰:「つばめへいひさしひたすら大名だいみょうてんあつとう不戰ふせんつかれきゅうれい遼東りゃおとんしょしょう入山にゅうざんうみせきおさむえいひらじょうしょしょうわたりみぞ搗北ひらめかれ必歸すくいわが以大へい躡其なりとりこ也。こん其奏ごとてきいたりむべ且與ほうしょ,往返逾月,使つかい其將こころたゆわがはかりごとじょうぜいごうしん而蹴なん矣。」みかど以為しかいのちこう孺草みことのりだいてらしょうきょう薛嵓はせほうつばめつき赦燕ざい使つかいやめへいはんまたためせんさとしすう千言せんげん授嵓,もちいたりつばめぐんちゅうみつしょ將士しょうしいたり,嵓匿せんさとし敢出,つばめおうまたたてまつみことのり。”
  10. ^ あかり实录·ふとそう实录》(まきはち):“陛下へいか审之,嵓归いたりきょういれ见。こう孺私就问,曰燕おうなんこと?其将こころ如何いか?且观彼此ひし两军势,孰壮孰弱?嵓曰:つばめおう语直而意诚,るい千百言皆天理人心之正不能难也。其将虽不及吾じゅういち,而皆あずかおう一心いっしん父子ふし过焉,われ军虽众,しか骄而たゆうと而寡谋,且诸はた不和ふわ见有胜之どう今日きょうこと朝廷ちょうていただしとう处之。以道不当ふとう以力。こう默然もくぜん。嵓入见具ごと上之うえのじょう及军中之なかのごとたてあやくん以语こう孺曰:诚如嵓言,きょく在朝ざいちょう廷齐误我矣。こう孺曰:闻嵓らい时,つばめおうしげる贿之,こん为之ゆう说,不足ふそく信也しんやとげ罢。”
  11. ^ あかり》(まき141):“がつすぐる平安へいあんもりいさおはつへい擾燕餉道。つばめおうふく指揮しき武勝むしょう上書うわがきしんぜん請。みかどはたもとこう孺曰:「へいやめ不可ふかふく聚,ねがい毋為しょ惑。」みかど乃誅勝以かつもちぜっつばめ。”
  12. ^ あかり》(まき141):“いくつばめへいかすめ沛縣,しょうかてそうどき河北かほくろうこう,而德しゅうまた饋餉どうぜっこう孺深以為。以燕世子せいしじんあつ,其弟だか煦狡譎,ゆうちょう於燕おう,嘗欲だつ嫡,はかりごと以計あいだ使つかい內亂。乃建議けんぎしろみかどにしきころもまもる千戶張安賫璽書往北平,たまもの世子せいし世子せいしとくしょけいふうじなみやすおくつばめぐんまえあいだとくぎょう。”
  13. ^ あかり实录·ふとそう实录》(まききゅう):“ほうたかし孺言于朝曰:こんかわ师老无功,而德しゅう饷道また绝,こと势可忧。こう以罢へい说诱すんで不能ふのうぎょう,则当别图一策いっさくやすすわ视?しんゆう一策いっさくたてあやくん曰:试言。对曰:つばめ世子せいしこう谨仁あつとくこく人心じんしんつばめおうさい爱之。而其おとうとだかひうちずる谲,もと其宠,しばしば谗之于父,不信ふしんいまただしよう计离间,其世かれすんでうたぐ世子せいし,则必おもむき归北ひらめそくわれとくしゅう饷道どおり矣,饷道どおりそくへい气振图进取也。たてあやくん曰,なに以知其父子ふし兄弟きょうだい悉?こう孺曰:しんゆうはやしよしみ猷者,つばめおう尝召いたり府中ふちゅうきょひさしとく悉。たてあやくん曰:此策かたぜんただし父子ふし钟爱,すんでふかこわのう间之。こう孺曰:くだりとげれいこう孺草书贻世子せいしれいちち归朝,许以つばめおうくらい,而令锦衣卫千户张安赍诣世子,世子せいしとく书不启封,并安ひとおく军前。时中かん俨奸险,世子せいししょ恶,而高ひうちふか结之,为己及安书至。俨已先遣せんけんじん驰报,うえ曰:あさ廷与世子せいしやめどおりみつ谋。うえ不信ふしんこう煦时さむらいじょうまたがえ俨言谬。うえまた不信ふしん,语竟世子せいししょひと以书及张やすみないたりうえ览书,叹曰:甚矣!奸人险诈!われ父子ふしいたり亲爱,犹见离间?况君臣くんしん哉?”
  14. ^ あかり实录·ふとそう实录》(まききゅう):“そう庙之灵垂たすくあい见有也。ぐんぬし还,ごとけんぶん,以语かたこう孺。こう孺失しょくたてあやくん复问:こん奈何いかんこう孺徐曰:长江とうじゅう万兵まんひょう江北こうほくせんやめにんつき烧之矣。北兵きたへいのう飞度?况天气蒸,えき以染やましじゅうにちかれ退すさわか遽度こう祇送みみ。”
  15. ^ あかり实录·ふとそう实录》(まききゅう):“からしとりたてあやくん闻缘こう海舟かいしゅうへいみなくだまた闻镇くだ,忧郁胜,徘徊はいかい殿でんにわ间。ほうたかし孺称やましおこりひときょうおこり,问计。こう孺曰:今城いましろちゅうなおゆう劲兵じゅうまんしろだかいけふかし粮食充足じゅうそくつき撤城がいみんしゃ驱民入城にゅうじょうあし以为もりじょうそと积木悉运入城にゅうじょうかれ无所すえ,虽来能久よしひさ驻乎?たてあやくん从其计。”
  16. ^ あかり》(まき141):“明年みょうねんがつつばめへいいたり江北こうほくみかどみことのりせい四方しほうへいこう孺曰:「こときゅう矣。ひともと以割,稽延數日すうじつ東南とうなん募兵ぼへいややしゅうきたぐんちょうふねかじ決戰けっせん江上こうじょう勝負しょうぶ知也ともや。」みかどけいなるぐんぬし往燕ぐんちん其說。つばめおう聽。みかどいのちしょしょうしゅうふね江上こうじょう。而陳瑄以戰艦せんかんくだつばめつばめへいとげ渡江とのえときろくがつおつ也。みかどゆう懼,あるすすむみかどこうきょうふくこう孺力請守きょうじょう以待援兵えんぺい即事そくじすみとう社稷しゃしょく。”
  17. ^ あかり》(まき141):“おつうし金川かながわかどあきらつばめへいいれみかど焚。こう孺被下獄げごく。”
  18. ^ たにおうやすしあきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》:“けんぶんよんねんなつろくがつおつうしみかど金川かながわもんしつもりちょう吁,東西とうざいはしよく自殺じさつ翰林院かんりんいん編修へんしゅうほどすみ曰:“如出ほろび。”しょうかんおう鉞跪しん曰:“むかしだかみかどます遐時,ゆうのこ篋,曰:‘臨大なんとうはつ。’謹收藏しゅうぞうたてまつさき殿どのひだり。”群臣ぐんしんひとしげん:“きゅう!”にわか而舁いちべに篋至,四圍俱固以鐵,くさりまた灌鐵。みかど而大慟,きゅういのち舉火焚大內,皇后こうごう赴火ほどずみ碎篋,得度とくど牒三ちょういちめいおうぶんいちめいおうのういちめいおうけん袈裟けさぼう、鞋、剃刀かみそり俱備,白金はっきんじゅうじょう朱書しゅしょ篋內:“おうぶんしたがえ鬼門きもんしたがえすいせきみぞ而行,薄暮はくぼかい於神樂觀らっかん西にしぼう。”みかど曰:“數也かずや!”ほどずみためみかどしゅくかみくれおう教授きょうじゅ楊應のうねがいしゅくかみずいほろびかん察御まれけん毅然きぜん曰:“しんめいけんおうけんうたぐ。”またしゅくかみかくえきころも披牒。ざい殿しんがり凡五ろくじゅうにん痛哭つうこく仆地,俱矢ずいほろびみかど曰:“じん不能ふのうなま得失とくしつゆうとうにんごと著名ちょめいいきおい必窮つめゆうとう妻子さいし在任ざいにんこころ必縈繫,むべかくしたがえ便びん。”曾鳳韶曰:“ねがいそく以死ほう陛下へいか!”みかど麾諸しんだい慟,引去ひきさ若干じゃっかんじん。九人從帝至鬼門,而一ぶね艤岸,ためしん樂觀らっかん道士どうしおうのぼるみかど叩頭こうとうしょうまんさい,曰:“しんかた陛下へいか也。疇昔だか皇帝こうていゆめれいしんいたり此耳!”乃乘ぶねいたり太平たいへいもんのぼりしるべいたりかんやめ薄暮はくぼ矣。にわか而楊おうのうまれけんとうじゅうさんにんどういたり。”
  19. ^ あかり》(まき141):“さきなりはつ北平きたひら,姚廣こう以孝孺為たく,曰:「城下じょうかにちかれ必不くだこう勿殺ころせこう孺,天下てんか讀書どくしょ種子しゅしぜっ矣。」なり頷之。”
  20. ^ あかり》(まき141):“いたりほっ使くさみことのり。召至,悲慟ごえとおる殿どの陛。”
  21. ^ あかり》(まき141):“なりくだ榻,ろう曰:「先生せんせい毋自ほっほうしゅうこう輔成おうみみ。」こう孺曰:「なりおう安在あんざい?」なり曰:「かれ焚死。」こう孺曰:「なにたてなりおう之子ゆきこ?」なり曰:「くによりゆきちょうくん。」こう孺曰:「なにたてなりおうおとうと?」なり曰:「此朕家事かじ。」顧左右さゆう授筆劄,曰:「みことのり天下でんか先生せんせいくさ不可ふか。」
  22. ^ あかり》(まき141):“こう孺投ひつ於地,且哭且罵曰:「即死そくしみみみことのり不可ふかくさ。」なりいかいのちはりつけしょ
  23. ^ あかり实录·ふとそう实录》(まききゅう):“ちょううし。执奸臣かんしん齐泰、きよしほうたかし孺等いたり阙下。うえすう其罪,咸伏辜遂戮于。”
  24. ^ くにあさけんじちょうろく》(まきじゅう):“また召公くさみことのり。及見,悲慟とおる殿どの。陛上くだ榻勞曰:先生せんせい勞苦ろうくあまりよくほうしゅうこう輔成おうみみおおやけ曰:なりおういま安在あんざいぶんすめらぎ曰:みぞ焚死。おおやけ曰:なりおうそくそんなにたてなりおう之子ゆきこぶんすめらぎ曰:くによりゆきちょうくんおおやけ曰:なにたてなりおうおとうとぶんすめらぎまた曰:先生せんせい過勞かろうおけ左右さゆう授筆さつまた曰:みことのり天下でんか先生せんせいくさ不可ふかおおやけだい數字すうじ云云うんぬんとうひつ於地,まただい哭,且罵且哭,曰:即死そくしみことのり不可ふかくさぶんすめらぎだいいかいのちはりつけしょおおやけ慨然がいぜん就戮。”
  25. ^ あかり·ぜにますすめらぎあかりひょうちゅう》:“こう孺十ぞく誅,ゆう以激也。いよいよげきいよいよころせいよいよころせいよいよげきいたり於斷した碎骨,じんそう燔墓而不顧。”
  26. ^ あかり》(まき141):“おとうと孝友たかともあずかこう孺同就戮,またいちしょう而死。”
  27. ^ 27.0 27.1 あかり》(まき140):“こう孺投ひつ於地,且哭且罵曰:「即死そくしみみみことのり不可ふかくさ。」なりいかいのちはりつけしょこう慨然がいぜん就死,さく絕命ぜつめい曰:「てんくだらんはなれ兮孰其由,奸臣かんしんとくけい兮謀こくようなお忠臣ちゅうしん發憤はっぷん血淚けつるい交流こうりゅう,以此殉君兮抑またなにもとむよびあい哉兮庶不わがゆう!」ねんよんじゅうゆうろく。”
  28. ^ あかり》(まき141):“其門じんとくけいこう廖永忠之ただゆきまご鏞與其弟めいじけん遺骸いがいそう聚寶門外もんがい山上さんじょう。”
  29. ^ あかり》(まき129):“こう孺死,鏞、めいおさむ其遺むくろそういた聚寶門外もんがい山上さんじょうはじめ畢,またおさむろん。”
  30. ^ くにあさけんじちょうろく》(まき106):「やすし难后,ぶんすめらぎ以廖こう两子镛与铭尝受学かたこう孺,れい召之。こう儒怒曰:『なんじ读几ねん书,还不识个""!』两子复命,ぶんすめらぎだいいかれいおさむこう儒,けい聚宝门外,凡ななにち,骂声绝。廖两じつ遗骸,そう聚宝门外山上さんじょうはじめ毕而廖氏また见收,两子逃去。えい乐元ねんよんがつ,锦衣卫镇抚司そう获镛、铭,おく刑部おさかべ,论死。镛弟钺及从父淮安ゆび挥佥ごとます俱谪戍边,镛母东瓯おう长女也,并铭おんなおく浣衣きょく。”
  31. ^ あかり》(まき141):“つまてい子中こなかけんなかいよいよさきけい二女じじょとうしん淮河。”
  32. ^ あかり》(まき141):“こう孺之宗族そうぞく親友しんゆう前後ぜんこうすわ誅者すうひゃくにん。其門下士かしゆう以身殉者,原質げんしつていこうさとしはやしよしみ猷,みなやすし海人あま。”
  33. ^ 33.0 33.1 あかり熹宗实录》(まき22): “おのれ,诏恤さきしんかたこう孺遗たねこう孺在けんぶんあさ,以侍读学直文なおふみ渊阁。とうやすし难师いれ,以草诏不从,致夷じゅうぞく。其幼子おさなごとくむねこう宁海,谪尉泽匿みつたく诸生あまりがく夔负いれ松江まつえ岛屿,以织网自给。华亭俞允つま以养おんないん冐余せいとげのべいち线。いたり其十世孙方忠奕以贡来京,ふく阙上书得むねほうたかし孺忠节持ちょすんでゆう遗胤,なぞらえあずか练子宁一体いったい恤录。”
  34. ^ ほうりまことあきら》(まき2):“ぶんすめらぎすんで即位そくい,问广こう谁可くさ诏?广孝以方对,とげ召之。かず往返,ぽう竟不ぎょう,乃强にゅうぽう披斩おとろえくだり哭。すんでいたりれい视草,だいごう,詈不从,つよ使搦管,掷去,语益厉,曰:“过夷わが九族きゅうぞくみみ!”じょういかうん:“われえびすなんじじゅうぞく。”左右さゆう问何一族いちぞくうえ曰:“朋友ほうゆうまたぞく也。”于是つき其九族之命而大搜天下为方友者杀之。”
  35. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まき18):“ぶんすめらぎ大声おおごえ曰:“なんじやすのう遽死。即死そくしどく顾九ぞく乎?”こう孺曰:“便びんじゅうぞく奈我なに!”こえいよいよ厉。ぶんすめらぎだいいかれい以刀こじ其口两旁いたり两耳,复锢狱,だいおさむ朋友ほうゆう门生。まいおさむ一人ひとり,辄示こう孺,こう孺不いち顾,乃尽杀之,しかきさきこう孺,はりつけ聚宝门外。こう慷慨こうがい就戮,为绝いのち词曰:“てんくだらん离兮孰知其由,奸臣かんしんとく计兮谋国よう犹。忠臣ちゅうしん发愤兮血なみだ交流こうりゅう,以此殉君兮抑またなにもとめ。呜呼あい哉,庶不わがゆう!”时年よんじゅうろく。复诏おさむ其妻郑氏,つまあずか诸子みなさき经死。悉燔そぎかたはつせきじゅうぞくまい逮至,辄以しめせこう孺,こう孺执从,乃及ははぞくりん彦清とうつまぞく郑原きちとう九族きゅうぞくすんで戮,またみな从,乃及朋友ほうゆう门生廖镛、はやしよしみ猷等为一ぞく,并坐,しかきさき诏磔于市,すわ死者ししゃはちひゃくななじゅうさんにん,谪戍绝徼死者ししゃ不可ふか胜计。”
  36. ^ あかり》(まき141):“ひとしむね即位そくいさとしれい:「たてあやしょしんやめこうむあらわ戮。いえぞくせき在官ざいかんしゃ,悉宥ためみんかえ其田そのだ。其外おや戍邊しゃとめいちにん戍所,かえ。」まんれきじゅうさんねんさんがつしゃくすわこう孺謫戍者後裔こうえい浙江せっこう江西えにし福建ふっけん四川しせん廣東かんとん凡千さんひゃく餘人よにん。而孝孺絕無ぜつむおもんみかつつとむおとうとかつ有子ゆうこ曰孝ふく。”
  37. ^ みんこく鄞縣こころざし》:「ほうたかし孺長子中こなかいよいよこれのちかたきゅうなり自明じめいまん曆年れきねんあいだゆかり慈溪遷至鄞縣きょ於白岳鄉たけごうかたざい慈溪せいしゅいた鄞縣復姓ふくせいかたぽう九成為此始祖。」
  38. ^ あかり》(まき141):“宗時むねとき松江まつえじん俞斌自稱じしょうこう孺後,一時いちじ大夫たいふ信之のぶゆきため纂《かえりむねろく》。すんで而方察其にせこと於官,乃已。”
  39. ^ あかり》(まき141):“かみはじめはつゆうみことのり褒錄たて文忠ふみただしんけんひょうちゅうほこら南京なんきんしゅじょあきらこう孺云。”
  40. ^ あかり》(まき141):“こう孺工文章ぶんしょうあつしふか邁。まいいちへんうみ內爭相傳そうでん誦。永樂えいらくちゅうぞうこう孺文しゃざいいたり。”
  41. ^ あかり》(まき141):“門人もんじんおう稌潛ろくためほうしろしゅう》,とくぎょう於世。”

书籍

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かん
前任ぜんにん
へりくだ
明朝みょうちょうさむらい读学
1399ねん-1402ねん
つぎにん
かい