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窩闊だい

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維基百科ひゃっか自由じゆうてき百科全書ひゃっかぜんしょ
窩闊だいあせ

Өгөдэй хаан
臺北たいぺい國立こくりつみや博物はくぶついんぞう窩闊だいあせぞう
だいこうむくにだい2にん皇帝こうていあせ
元朝がんちょうついみこと皇帝こうてい
統治とうち1229ねん9がつ13にち-1241ねん12月11にち
のぼりはじめげんふとしそう元年がんねんおのれうしうしねんはちがつじゅうよんにち
1229ねん9がつ13にち
ばくきた草原そうげんおびえみどりれんかわきょく雕阿らんこれてきくらてつがらすおもね剌里
舉行くらさとなんじだいせん大會たいかいけい推舉即位そくい
前任ぜんにんげんふとし成吉せいきちおもえあせ
つぎにんもと定宗さだむね貴由たかよし
出生しゅっしょうきむだいじょうじゅうろくねん丙午ひのえうまうまねんきゅうがつじゅうにち
1186ねん11月7にち
ばくきた草原そうげん
逝世げんふとしむねじゅうさんねんからしうしうしねん十一月じゅういちがつはつはちにちじゅうななさい
1241ねん12月11にち(55さい
ばくきた草原そうげんてつ𨬟えびす蘭山あららぎやま行宮あんぐう
やすそう
もと記載きさいざいおこり輦谷
ただし不知ふち其位於今なん
おうきさき

ぜん
  • 名字みょうじ
    窩闊だいᠦᠭᠡᠳᠡᠢ
諡號しごう
英文えいぶん皇帝こうていもといたりもとさんねんおいおくりな
びょうごう
ふとしむねもといたりもとさんねんおいみこと
こうむ古語こご尊號そんごう
またけんあい[1]
政權せいけんだいこうむくに
父親ちちおやげんふとし成吉せいきちおもえあせ
母親ははおやひかりけんじつばさせい皇后こうごう孛兒じょう
宗教しゅうきょう信仰しんこうあがかくさと薩滿きょう
げんふとしそう窩闊だいあせしんぞう

窩闊だいあせこうむ古語こごᠦᠭᠡᠳᠡᠢ
ᠬᠠᠭᠠᠨ
あわびつちかえ轉寫てんしゃÖgedei qaγがんまan秘史ひしおん斡歌歹·なかごう[2]西里にしざとなんじ字母じぼӨгөдэй хаан;1186ねん11月7にち—1241ねん12月11にち),またつく斡歌歹和歌わかだいやまと闊岱ひとし孛兒ただきん成吉せいきちおもえあせだいさんだいこうむくにだいあせこうむ帝國ていこくだいだいあせ,1229ねん9がつ13にち-1241ねん12月11にち在位ざいい在位ざいい12ねんれい3個月かげつとうもと接受せつじゅだいあせまたわけごうこうむ古語こごᠬᠠᠭᠠᠨあわびつちかえ轉寫てんしゃqaγがんまanてき稱號しょうごうかずもろあせこうむ古語こごᠬᠠᠨあわびつちかえ轉寫てんしゃqanあい區別くべつ[3]

いたりもとさんねん(1266ねんじゅうがつふとしびょうなりもと廷追みことびょうごうふとしむねおくりな英文えいぶん皇帝こうてい

生平おいだいら[編輯へんしゅう]

即位そくい[編輯へんしゅう]

ふみしゅうちゅう描繪窩闊だいのぼりはじめてきじょうがた
こうむくに國家こっかみやてき窩闊だいあせぞう

1229ねん9がつ13にちのうれきおのれうしねんはちがつじゅうよんにち),窩闊だいざいくらさとなんじだい大會たいかいちゅうかむ察合だい拖雷てつ哥斡あかきんとうそうおうかず大臣だいじん推舉ためだいこうむくにだいあせ管理かんりせいこうむ帝國ていこくよりどころ新元しんもとたたえ諸宗しょしゅうおう百官為窩闊台上尊號そんごうまたけんあい罕」(「ごう罕」ためだいあせてきべつやく)。[1]

繼承けいしょう父親ちちおやてき遺志いし擴張かくちょう領土りょうど主要しゅよう繼續けいぞく西にしせい南下なんか中原ちゅうげん在位ざいい期間きかん成功せいこう完全かんぜん征服せいふくちゅう華北かほく。內政方面ほうめん,以契じん耶律すわえざい為相ためすけ管理かんり華北かほく中原なかはら地區ちくざい征服せいふく這些地區ちくややほろ改變かいへんりょう戰後せんごほふしろてき作風さくふう保存ほぞんすくなかねあさのこみん政治せいじ制度せいど同時どうじまた耶律すわえざいてき建議けんぎつつみ拔漢人為じんいかん整頓せいとん內治,安定あんていりょうこうむざい華北かほく地區ちくてき統治とうち使つかい華北かほく地區ちく經濟けいざいざい戰後せんごいた一定いってい程度ていどてき恢復かいふくせい發展はってんためゆるがせ必烈しょうみかどめつみなみそうした基礎きそ

滅金めっき中原なかはら[編輯へんしゅう]

1229ねんのぼりはじめてき時候じこうだいこうむくにざい東亞とうあ部分ぶぶんてきひがし南部なんぶ大體だいたい黃河こうがためかいかねあさ領土りょうど基本きほんじょうただあましも黃河こうが以南いなんてき河南かなん陝西せんせい等地とうち當時とうじてき黃河こうがみち江蘇ちぁんすー北部ほくぶてき淮河入海いりうみ)。

1231ねん,窩闊だいあずか其四おとうと拖雷ぶんみち進攻しんこうきんあさ,1232年初ねんしょ,拖雷りつこうむぐんざい河南かなん三峰山みうねやま戰勝せんしょうきんぐんつき殲金ぐん精銳せいえい。其後,拖雷あずか自白じはく渡河とか南下なんかてき窩闊だいぐん會合かいごう,一同北返蒙古草原,1232ねんのうれききゅうがつ,拖雷於北かえし途中とちゅう病死びょうしこれ,拖雷よんゆるがせ必烈繼承けいしょうりょうざい華北かほく地區ちくてき勢力せいりょく

1232ねんはるこうむ軍隊ぐんたい繼續けいぞく南下なんか,抵達きんあさ首都しゅとつばめきょういま北京ぺきん附近ふきんいん周圍しゅういしゅうけん難民なんみん紛紛ふんぷん逃入汴京いま河南かなん開封かいふう),城中じょうちゅう人口じんこう激增げきぞう,而入なつ瘟疫流行りゅうこう死者ししゃたちきゅうじゅうあまりまんにん。1232ねんあきこうむいにしえ使者ししゃ入城にゅうじょう要求ようきゅうきんあさ投降とうこうかねあさ將士しょうししょころせこうむぐん於是再議さいぎげきつぶせきんあさ援軍えんぐんかこえこま汴京じょう

1233ねん2がつ6にちのうれきじゅうがつじゅうろくにち),きむあいむねかず后妃こうひ們分別離べつりひらき汴京,一路いちろこうみなみ。1233ねん2がつ26にちのうれき正月しょうがつじゅうろくにち),きむあいむね抵達かえりとくいま河南かなんしょうおか),ずいまた出走しゅっそう;8がつ3にちのうれきろくがつじゅうろくにち),きむあいむね逃到蔡州いま河南かなんしょうなんじみなみけん),ざい此地穩定らい

1233ねん3がつ5にちのうれき正月しょうがつじゅうさんにち),きむちょう汴京西にしめん元帥げんすいちぇだてりつ軍隊ぐんたいころせ汴京てき留守るす將領しょうりょうかんがおやつさるかんがお習捏おもねひかえせいぜんしろ使者ししゃこうこうむぐん統帥とうすいはやだい投降とうこう

1233ねん3がつ10日とおかのうれき正月しょうがつじゅうはちにち),はやだいこう汴京しんへいはやたい得知とくちちぇたて同意どうい投降とうこうよし為之ためゆきぜん進攻しんこう汴京かねじん抗拒こうきょ持久じきゅうしるべ致軍たい死傷ししょう甚多,便びんこう窩闊だいそうほう建議けんぎ軍隊ぐんたい入城にゅうじょうほふしろいきどお中書ちゅうしょれい耶律すわえざいけんけつ反對はんたいみとめため將士しょうし辛苦しんく奮戰ふんせんためてき就是土地とち人民じんみんほふしろかいしるべ致得みん,而且「たくみこうあつぞういえ集中しゅうちゅうざい汴京,ほふしろかいしるべ致一しょぼつゆう人民じんみん就沒有人ゆうじんこう朝廷ちょうてい交納ぜい軍隊ぐんたいかいしろ辛苦しんく一場いちじょう最後さいご窩闊だい採納さいのうりょう耶律すわえざいてき意見いけんただせき押了きむ朝宗ともむねしつ,其他人たにん一概いちがい赦免しゃめん當時とうじざい汴京城中じょうちゅう躲避へいてき147萬名居民因為耶律楚材的建議得以免於兵禍。[4]

1233ねん5がつ29にちのうれきよんがつじゅうきゅうにち),ちぇりつはた汴京城中じょうちゅうてききむ朝宗ともむねしつはりおうかんがおしたがえつとむ、荊王かんがお守純もりずみ以及其他宗室そうしつ男女だんじょ五百餘人送到速不台軍隊駐地あおじょうはやだいはた們送いたばくきた草原そうげんいたり窩闊だいてきぎょう鑾駐蹕之しょ,窩闊だいためほう祖先そせんかたききむ熙宗當年とうねん曾將こうむふるおれともえ孩汗くぎざいうさぎうまじょう),はた們全しょどう一天いってんちぇだてめんはやだい正式せいしきくだだいこうむくにはやたいりつぐん進入しんにゅう汴京,維護城中じょうちゅう秩序ちつじょなみはた城中じょうちゅうてききんあさ后妃こうひ宗廟そうびょうたから也送いたばくきた草原そうげん窩闊だいてきぎょう鑾駐蹕之しょ

1234ねん2がつ9にちのうれき正月しょうがつじゅうにち),だいこうむ國軍こくぐんたいあずかみなみそう軍隊ぐんたい聯合れんごうおさむいれ蔡州いま河南かなんしょうなんじみなみけん),きむあいむね自殺じさつかねまつみかど於亂ぐんなかきむちょう滅亡めつぼうせい北方ほっぽう中原なかはら地區ちく併入だいこうむくに版圖はんと

1234ねん窩闊だいあせ滅金めっきあさいた1368ねんがらす哈噶あせげんめぐみむね)逃離だいかいいた草原そうげんゆかりこうむぞく先後せんご建立こんりゅうてきだいこうむくにもと帝國ていこくりょう政權せいけんそうきょう統治とうち北方ほっぽう中原なかはら黃河こうが流域りゅういきちょうたち134ねん

はしひら入洛にゅうらくあずかこうむそう開戰かいせん[編輯へんしゅう]

1233ねん5がつ29にちこうむ軍隊ぐんたい取得しゅとく汴京いま河南かなん開封かいふう繼續けいぞく進攻しんこう蔡州きむあいむね所在地しょざいち),ゆかりかねあさ軍隊ぐんたい抵抗ていこう頑強がんきょうためりょう減少げんしょう損失そんしつ,窩闊だい決定けってい聯合れんごうみなみそう政權せいけんおさむかつ蔡州滅亡めつぼうきんあさ

按照こうむそう雙方そうほう協議きょうぎこうむそうれんぐんおさむかつ蔡州みなみそう取得しゅとく蔡州やぶぜんなおざいかねあさひかえせいてき河南かなん土地とち,也就とう、鄧、蔡、潁、宿やど、泗、じょ、邳等しゅうひとし河南かなん南部なんぶ[5]。這些しゅう於金あさ和南わなみそうてき交界地帶ちたいぞく於金あさ領土りょうど最南端さいなんたんてきしゅう

ざい1234ねん2がつ9にちこうむそうれんぐんおさむかつ蔡州滅亡めつぼうきんあさこれいんため河南かなん一帶いったいひさけい戰火せんか田地たじ荒蕪こうぶ缺乏けつぼう糧食りょうしょく當時とうじまたせい冬季とうき天氣てんき嚴寒げんかん,於是當地とうちだい部分ぶぶんきょみん暫時ざんじ遷往河北かほく一帶いったい準備じゅんびとう天氣てんきてんだんはたきょみんさい陸續りくぞく遷回河南かなんなみ恢復かいふく農業のうぎょう生產せいさん同時どうじ軍隊ぐんたいひさけいせんごと,也需ようきゅうせいだい部分ぶぶん軍隊ぐんたい撤到黃河こうが以北いほく

そうさとしむねざい部分ぶぶん大臣だいじんてき慫恿違背いはい當初とうしょてきこうむそう協議きょうぎ,1234ねんろくがつそうぐんぶん二路出兵北伐,準備じゅんびおさむふく當年とうねんかねあさおさむ取的とりてき三京さんきょう西京にしぎょう河南かなんいま河南かなん洛陽らくよう)、東京とうきょう開封かいふういま河南かなんしょう開封かいふう)、南京なんきんおうてんまたしょうためとくいま河南かなんしょうおか),這三きょうひとし河南かなん北部ほくぶざいこうむそう協議きょうぎぜん就已けいこうむ軍隊ぐんたいおさむ自然しぜんぞく當初とうしょこうむそう協議きょうぎちゅう滅金めっきみなみそう以得いたてき領土りょうど

よし於宋ぐん北上きたかみおさむ三京さんきょう發生はっせいざいそうさとしむねはしひらた年間ねんかんしょうはしひら入洛にゅうらく」。はしひら入洛にゅうらく揭開りょうこうむあずかみなみそう對峙たいじ連續れんぞくよんじゅうねん不斷ふだん戰爭せんそうてき序幕じょまくちょくいたゆるがせ必烈わたり長江ちょうこう滅亡めつぼうみなみそう

みなみそう違背いはいこうむそう協議きょうぎだい舉進へいただしよしためこうむ滅金めっきだい部分ぶぶんきんあさ軍隊ぐんたいきょみんやめけい撤到黃河こうが以北いほくみなみそう軍隊ぐんたい最初さいしょ進展しんてんじゅん,一個月後順利占領幾乎是空城的三京。よし三京さんきょう缺乏けつぼうかてそうそうぐん攜帶かてくさ較少また缺乏けつぼうつとむ補給ほきゅうこうむ軍隊ぐんたいまたずい發起ほっき反擊はんげきそうぐん很快撤離三京さんきょうなみ撤回てっかいみなみそうさかい內。

こうむ軍隊ぐんたいずいついいたりはらきむちょう和南わなみそうてきあたり界線かいせん一帶いったいなみこうみなみそうかいてきしゅうけん發起ほっき進攻しんこういんためこうむ軍隊ぐんたいなみ適合てきごう南方なんぽうかわりゅうみつぬのてき地形ちけい作戰さくせんざい取得しゅとく一定いってい戰果せんか撤回てっかい中原ちゅうげん

みなみそう違約いやく進攻しんこうこうむかた土地とち促成そくせいはしひら入洛にゅうらく以後いごみなみそう天災てんさいじんせっれん不斷ふだん國力こくりょく逐漸衰弱すいじゃくちょくいたり滅亡めつぼう[6]ざい軍事ぐんじじょうおさむふく三京さんきょう失敗しっぱいそんへいおりはた士氣しき不振ふしんはたしん不穩ふおんなりためみなみそうもりへいめん臨的嚴重げんじゅう問題もんだい[7][8]

ざい中國ちゅうごく北方ほっぽう實施じっし「以儒治國ちこく[編輯へんしゅう]

1230ねんゆう近臣きんしんべつとうひとこう窩闊だい上奏じょうそうみとめため漢人かんど於國,悉空其人以為まき。」主張しゅちょうはた漢人かんど驅逐くちくかんてきこう地變ちへんため牧場ぼくじょう耶律すわえざいのり上奏じょうそう請求せいきゅうひとしてい中原ちゅうげんぜいしょうぜいしおさけてつ冶、山澤やまさわ每年まいとしとくぜい白銀はくぎん50まんりょう、帛8まんひきあわ40あまりまんせきあし支持しじ窩闊だいみなみせいきんあさてき軍隊ぐんたいしょ需,窩闊だい同意どういよし耶律すわえざい試行しこう[9]

1230ねんのうれきじゅういちがつ耶律すわえざい奏請そうせいざいだいこうむくに統治とうちてき黃河こうが以北いほくてき河北かわきた山西さんせい山東さんとう當時とうじかねあさなお滅亡めつぼう黃河こうがみち江蘇こうそ北部ほくぶてき淮河入海いりうみ)、つばめきょう等地とうち設立せつりつじゅう徵收ちょうしゅう課稅かぜい使[10][11]なみせんよう有名ゆうめいてき儒士作為さくい課稅かぜい官員かんいんとくいた窩闊だい批准ひじゅん

1231ねんのうれきはちがつ,窩闊だい到達とうたつくもちゅういま山西さんせいだい同市どうし),じゅう徵收ちょうしゅう課稅かぜい使はた當年とうねん徵收ちょうしゅういたてきかんぜい簿さつ和金わきん帛陳於廷ちゅう,窩闊だいだいえつ當日とうじつ設立せつりつ中書ちゅうしょしょうあらため侍從じじゅうかんめい,以耶りつすわえざいため中書ちゅうしょれいねばごう重山かさねやまためひだり丞相じょうしょう鎮海ためみぎ丞相じょうしょう

おうしゅうじん描繪てきまんやすみやぎんじゅ

1235ねんはる,窩闊だい決定けっていざい哈拉りん建都けんとじょうおさむけんまんやすみやなみ部署ぶしょみなみそうせいこううららかずさいつぎ西にしただし;1236ねん正月しょうがつまんやすみやけんなり。窩闊だいだいうたげ群臣ぐんしん同月どうげつ,窩闊台下だいかみことのり發行はっこう紙幣しへい交鈔

1234ねん正月しょうがつ滅金めっきあさ,窩闊台下だいかみことのりくくへんかん戶籍こせき接受せつじゅ耶律すわえざいてき建議けんぎ,以按ため單位たんいおさむぜいよし中州なかすだんごとかんしつきちゆるがせ禿かぶろゆるがせ主持しゅうもち。1236ねんはちがつくく完成かんせいくくかんみん110あまりまん

1236ねんくく完成かんせいしつよしゆるがせ禿かぶろゆるがせ主張しゅちょう以往いおう風俗ふうぞく在中ざいちゅうばらたい諸王しょおう有功ゆうこうしん進行しんこう分封ぶんぽう,窩闊だい表示ひょうじ同意どうい。耶律すわえざいりょくひねきれぶんみんてき弊害へいがい使つかい窩闊だい同意どうい封地ほうちてき官吏かんり朝廷ちょうてい任命にんめいのぞき常定つねさだ賦役ふえきがい諸王しょおう勛臣とく擅自せい斂,以限せい諸王しょおう勛臣ざい封地ほうちてき權力けんりょく

くく完成かんせい,耶律すわえざいせいていりょう中原なかはらぜい制度せいどまいりょう戶出といでいといちきんうえ朝廷ちょうてい,以供中央ちゅうおう政府せいふ使用しようまいいといちきん,以與しょたまものいえさきよし中央ちゅうおう政府せいふ徵收ちょうしゅうしかこうたまもの該受ふう貴族きぞくじょ此之がい貴族きぞくとく擅加せい斂。上田うえだまいうねぜいさんしょうはん中田なかた三升みます下田しもだしょう水田すいでんしょうしょうぜいさんじゅうふんいちしおごとぎんいちりょうよんじゅうきん[12]

這個ぜいてき定額ていがく比較ひかくけいてき有利ゆうり當時とうじやめ破壞はかいてき中原なかはら地區ちく休養きゅうよう生息せいそくざいぐういただいてきわざわいじょうすわえざいかえ採取さいしゅめんちょうてき措施。如果部分ぶぶん地區ちく出現しゅつげん逃亡とうぼう浮客,們的ぜいようよしとめてきしゅ負擔ふたん,這些ぬし負擔ふたんてきぜいかい重一しげかず些。此外,みん也要負擔ふたん一些較為隨意的雜泛差役。[13]そうてきらいせつみんてき擔還較輕。

ざい耶律すわえざいてき努力どりょく中原なかはら北方ほっぽうてき經濟けいざいいたりょう恢復かいふく保存ほぞん

1230ねん耶律すわえざい制定せいてい課稅かぜいかく,1231年收ねんしゅう取的とりてき各種かくしゅぜいちゅう白銀はくぎんため50まんりょう,1234ねん滅金めっきあさ取得しゅとく河南かなん等地とうちぜい收入しゅうにゅういちちょくざい增加ぞうかいたりょう1238ねん朝廷ちょうていざい中原なかはらかんおさむ取的とりてき各種かくしゅぜいちゅう白銀はくぎんため110まんりょう[14]いとかずべいとうぜい也有やゆう顯著けんちょ增加ぞうか

1233ねんためりょう培養ばいようこうむかんそう翻譯ほんやくるい人材じんざい,窩闊台下だいかみことのりざいつばめきょういま北京ぺきんけん國子くにこがく派遣はけんこうむ古人こじん子弟してい18にん學習がくしゅう漢語かんご漢人かんど子弟してい12にん學習がくしゅうこうむ古語こご弓箭きゅうせんなみせん儒士ためきょう讀。規定きてい受業じゅぎょう學生がくせい僅要學習がくしゅう漢人かんど文書ぶんしょかえようけん諳匠げいこと及藥ざい所用しょよう彩色さいしき所出しょしゅつ地理ちりしゅうぐんしょしもいたりしゅ醴麴櫱、水銀すいぎんみやつこ飲食いんしょく烹飪これせいみなよくあまねらんつくりどおり」。當時とうじちょん真教まさのりざいつばめきょう勢力せいりょく很大,儒家じゅか大夫たいふゆう很多たくひさし於全真教まさのりつばめきょうてきがくみや也是如此,がくみやてき主持しゅうもちしゃじょ楊惟ちゅうこれがいかずらこころざしさきこころざしつねひとしため當時とうじ有名ゆうめいてきぜん道士どうし[15]

1233ねんのうれきよんがつこうむ軍隊ぐんたい進入しんにゅう汴京じょういま河南かなん開封かいふう),中書ちゅうしょれい耶律すわえざいこう窩闊だいそう請遣じん入城にゅうじょうもとむ孔子こうし家族かぞく後代こうだいとくじゅういちだいまごもと措,そうかさねふう衍聖こうづけあなりんびょう。耶律すわえざいまたじんいれ汴京,挑選りょう大量たいりょうてき人才じんさい

1233ねんのうれきろくがつ,窩闊台下だいかみことのり,以孔子こうしじゅういちせいまごあなもとかさねふう衍聖こう

1233ねんふゆてん,窩闊だい敕修つばめきょう孔子こうしびょう渾天[16][17]

1236ねんのうれきさんがつふくおさむ孔子こうしびょうつかさたかしだい[18]

1236ねんのうれきろくがつ,耶律すわえざい奏請そうせい窩闊だい同意どういざいつばめきょういま北京ぺきん建立こんりゅう編修へんしゅうしょざいたいらよういま山西さんせい臨汾建立こんりゅう經籍けいせきしょ主持しゅうもちけいるい書籍しょせきてき編纂へんさん刊行かんこう,召儒りょうのぼるたかし長官ちょうかん,以おうまんけいちょうちょふくこれ[19]ゆずる們直しゃくきゅうけい進講しんこう東宮とうぐうまたりつ大臣だいじん子孫しそんけいかい使つかい們知どう聖人せいじんみち[9]

1237ねん,窩闊台下だいかむね蠲免孔子こうし孟子もうしかおひとし儒教じゅきょう聖人せいじん子孫しそんてきはつ雜役ざつえき[20]

1237ねん,耶律すわえざい奏請そうせいたい儒士舉行舉考こころみ,這就1238ねん舉行てきつちのえいぬせんためしきょうろく4030にんみな當時とうじてき名士めいし

1238ねん,耶律すわえざいまた支持しじ楊惟ちゅう姚樞ざいつばめきょう建立こんりゅう太極たいきょく書院しょいん,請ちょうふくとう人為じんい教授きょうじゅ儒家じゅかてき經典きょうてんみなみそう名士めいしちょうふくてきこうがく使つかいほどしゅ理學りがくざい北方ほっぽう中原なかはら地區ちく傳播でんぱひらけらい[13]

つちのえいぬせんためし[編輯へんしゅう]

1234ねん2がつ9にちこうむ帝國ていこくめつかねあさ奪取だっしゅ中原なかはら地區ちくきゅう人才じんさい國家こっか

げんふとしむねきゅうねんのうれきはちがつじゅうにち(1237ねん9がつ15にち),根據こんきょ中書ちゅうしょれい耶律すわえざいてき建議けんぎ,窩闊台下だいか詔書しょうしょ[21]いのちだんごとかんうけらゆるがせとくかず山西さんせい東路あずまじ課稅かぜいしょ長官ちょうかんりゅうなかしょみち考試こうしためししょみち儒士,ひらきなみたい考試こうし內容參加さんか考試こうししゃてき要求ようきゅう以及ちゅう選者せんじゃてきゆうあつ待遇たいぐうさくりょう詳細しょうさい說明せつめい[22][23]

北方ほっぽう中原なかはら地區ちくてきしょみち考試こうしひとし於1238ねんつちのえ戌年いぬどし)舉行,しょうつちのえいぬせんためし」。[24]

1238ねんてき這次考試こうしどもろく東平とうへい楊奐とう4030にんみなためいち名士めいし使つかいとく朝廷ちょうてい及時いたりょうきょう統治とうちしょ需要じゅようてきかく方面ほうめんてき人才じんさいただし後來こうらい當世とうせいある以為便びんことふく中止ちゅうし[25]

ちょくいたもとじんむね1313ねんみことのり恢復かいふく,此時距離きょりもとふとしむね1238ねんてきつちのえいぬせんためしやめけいゆう75ねん天下てんか讀書どくしょてき士人しじんいたり此再獲得かくとく以科舉方しきすすむ做官てきみち

西にしただしおうしゅう[編輯へんしゅう]

1234ねん2がつ9にちかねあさ滅亡めつぼうゆかりだいこうむくにあずかみなみそうせっ壤,使つかい雙方そうほうてき衝突しょうとつややげき,也拉ひらきりょう雙方そうほう往後45ねん不斷ふだんそうせんてき序幕じょまくざい南方なんぽう戰線せんせん僵持下之したのこうむ大軍たいぐんてき鐵蹄てっていてん東方とうほうてきこううらら發動はつどう征戰せいせんにち使臣服しんぷく西にしせん方面ほうめん,以拔都ためくびてき欽察あせこく完全かんぜんひかえせいりょうなみ繼續けいぞく西進せいしんおうしゅう,佔領りょうじょだくおっと哥羅とく以外いがいにわかてき領土りょうど,以及なみらん王國おうこく匈牙王國おうこくてき一部いちぶ

1241ねん12月11にちのうれきじゅういちがつはちにち),窩闊だいいんため酗酒而突しか暴斃,使つかい其西せいしんほどせり中止ちゅうし當時とうじ大軍たいぐんただしあさかみ聖羅せいら帝國ていこくてき諸侯しょこうこく奧地おくち公國こうこく首都しゅと維也おさめ推進すいしんただしためりょう趕返參加さんか於蒙いにしえてきくらさとなんじだい大會たいかい而急せわし撤軍,此以こうむ大軍たいぐんさい也沒ゆう踏足這片土地とち

1241ねんねんそこざい窩闊だいひさてき察合だい

窩闊だい,1242ねんはるてん[26]皇后こうごう乃馬きさき開始かいししょうせい處理しょり朝政ちょうせいちょくいた1246ねん8がつ24にち窩闊だい之子ゆきこ貴由たかよしつぎにんだいあせためどめ。乃馬きさき臨朝しょうせい期間きかん朝政ちょうせい比較ひかく混亂こんらん中書ちゅうしょれい耶律すわえざいちからそう不能ふのう有效ゆうこうはて,於1244ねんのうれき五月憂憤而死。

家庭かてい[編輯へんしゅう]

妻妾さいしょう[編輯へんしゅう]

[編輯へんしゅう]

根據こんきょ新元しんもとまき118《ふとしそう諸子しょしでん記載きさいげんふとしそう窩闊だいゆうなな

女兒じょじ[編輯へんしゅう]

相關そうかん史料しりょう[編輯へんしゅう]

評價ひょうか[編輯へんしゅう]

こうむくにてき窩闊だいぞう
  • 元朝がんちょう重臣じゅうしん郝經ざいなかみつる元年がんねん(1260ねんのうれきはちがつきゅうもとゆるがせ必烈てき上書うわがきたてせいちゅうたいげんふとしそう窩闊だいてき評價ひょうか:「とうふとしそう皇帝こうてい臨御りんぎょとき,耶律すわえざい為相ためすけていぜいたて造作ぞうさく,榷宣ふんこおりけんせき戶口とぐちごく訟,べつ軍民ぐんみんしつらえ舉,推恩肆赦,ほう有志ゆうじ於天,而一不逞ふていこれにんとうすき抵罅,そうあずかはい擯,百計ひゃっけいおさむ訐,じょうみや闈違さいほしいままため矯誣,そつ使すわえざいいきどお悒以。」[28]說明せつめいげんふとしそう窩闊だい在世ざいせいとき耶律すわえざいかえふか重用じゅうようてき,1241ねんげんふとしむね帝位ていいそらかけ皇后こうごう乃馬きさき開始かいし臨朝しょうせい朝政ちょうせい比較ひかく混亂こんらん中書ちゅうしょれい耶律すわえざいちからそう而無效果こうか於1244ねんいきどお而死)
  • 明朝みょうちょうかんおさむ正史せいしもとそうひとしてき評價ひょうか:「みかどゆう寬弘かんこうりょう忠恕ただひろこれこころりょうりょく,舉無ことはななつとみ庶,ひつじなりぐんたび齎糧,たたえ治平じへい。」[29]
  • 清朝せいちょう史學しがく邵遠ひらたもとるいへんてき評價ひょうか:「さつ曰:嗣業恢基,纘緒りつせい滅金めっきじゅういのち使ていたかし儒,ようあきら厥世;じんあつ恭儉きょうけんたたえ平治へいじ。」[30]
  • 清朝せいちょう史學しがくげんもと新編しんぺんてき評價ひょうか:「みかどゆうひろし宏之ひろゆきりょうあつししらきしつじょう開國かいこくうん武臣ぶしんりょくつぎこころざしじゅつごと席捲せっけん西域せいいき,奄有中原なかはらおもんみ諸子しょしざいまたけん宗之むねゆきかつ,而儲はやじょう,致身せい擅宮闈,大業おおわざいく淪,有餘ゆうよ憾焉。」[33]
  • 清朝せいちょう史學しがく曾廉もとしょてき評價ひょうか:「ろん曰:ふとし宗時むねとききんじんやめじゃくしかなおあし阻河ためかた也。ふとしそう遵遺れいおおとりしょうみちきょうもと,以達から鄧,而汴はり墟,いい聞斯ぎょう矣。とうみさお國政こくせい,耶律すわえざいいくためとうしかふと宗之むねゆきようすわえざい,以利也としやふとしそうげんすわえざいそく以其天下でんか,而紀綱きこうほぼたて矣。よう相違そうい也,而相なり也,あにてん哉!開國かいこくうんくもりゅう風虎ふうこ雷同らいどう也。」[34]
  • 清末きよすえみんはつ史學しがくほふよせこうむ兀兒史記しきてき評價ひょうか:「ろん曰:ざいしゃいちこくしょ公有こうゆう也。かたり曰:百姓ひゃくしょうあしきみ孰與不足ふそく人君じんくん以國よう睏乏,於民,しか不可ふかきょうたて奸人異類いるいほしいまま其侵だつ乎?斡歌歹汗はつとくきんもとおき剌合蠻撲かい中原なかはらぎん,舉國家こっか財政ざいせい大權たいけん授之賈胡公利きみとし而私これ上下じょうげ交損焉。封建ほうけんこれせいはじめ自然しぜんつよなみじゃく,眾暴寡。天子てんし以至しょくさい大夫たいふかくわたし其土人民じんみん聖王せいおうとく以而仍之。はたかん以降いこう,此制ややはい,偶いちぎょう,罔不召亂。いたり識者しきしゃけいふく也。あせくくかんふんたまもの諸王しょおう戚,其視無辜むこみんあずかやつとりこ奚擇。かれかた不知ふち封建ほうけんため何事なにごとしか斯制わかゆきへい且甚於封建ほうけんほろ耶律すわえざいげんたてとらひょう而食じんにく矣。前史ぜんししょうあせゆう寬仁かんじんこれりょう忠恕ただひろしんりょうりょくどう舉。あと其立站赤、せんぜい使ためし儒士、しゃく俘囚ふしゅうみことのりめんひでりいなご租,代償だいしょうひつじ羔之いきかたこころざし於民しゃ,惜乎たち怡體,而左右さゆうひとしょうじゅん其美しゃまた寡也。」[35]
  • みんこくかんおさむ正史せいし新元しんもと柯劭忞てき評價ひょうか:「ふとしそう寬平かんぺい仁恕じんじょ有人ゆうじんくんりょうつねいい即位そくいこれゆうよんこうよん滅金めっきたて站赤,しつらえしょみちさがせあか無水むすいしょ使百姓ひゃくしょう鑿井さくせいちんよんこう飲酒いんしゅくく叔父おじ斡赤きん女子じょしちくかこえ牆妨兄弟きょうだいりょう,以私撼殺功臣こうしん朵豁勒,ちんよん也。しか信任しんにんおきひしげあい蠻,始終しじゅうさとる其奸,ゆうためみかど知人ちじんるいくも。」[36]

紀年きねん[編輯へんしゅう]

根據こんきょもと·ふとそう本紀ほんぎ整理せいり

げんふとしそう英文ひでふみ皇帝こうてい 元年がんねん ねん さんねん よんねん ねん ろくねん ななねん はちねん きゅうねん じゅうねん
おおやけもと 1229ねん 1230ねん 1231ねん 1232ねん 1233ねん 1234ねん 1235ねん 1236ねん 1237ねん 1238ねん
干支えと おのれうし かのえとら からし みずのえたつ 癸巳きし きのえうま 乙未おとみ へいさる ちょうとり つちのえいぬ
げんふとしそう英文ひでふみ皇帝こうてい じゅういちねん じゅうねん じゅうさんねん
おおやけもと 1239ねん 1240ねん 1241ねん
干支えと おのれ かのえ からしうし

かげ形象けいしょう[編輯へんしゅう]

でんげき[編輯へんしゅう]

まいり[編輯へんしゅう]

延伸えんしん閱讀[編輯へんしゅう]

[ざい維基すうよりどころへん]

維基文庫中的相關文本:げんふみ/まき002》,出自しゅつじそうもと
維基文庫中的相關文本:新元しんもと/まき004》,出自しゅつじ柯劭忞新元しんもと
ざい維基どもとおる資源しげん閱覽影像えいぞう

參考さんこう資料しりょう[編輯へんしゅう]

  1. ^ 1.0 1.1 柯劭忞. 《新元しんもとまきよん本紀ほんぎだいよんふとそう》. 中華民國ちゅうかみんこく ちゅうぶん. あきはちがつやめ諸王しょおう百官會於怯綠連河闊迭額阿剌勒,請帝遵太のこみことのり即位そくいきょううえ尊號そんごう曰木またけんあい罕。 
  2. ^ 於《こうむ秘史ひしだい270いたり272とうぶしきょうじゅうあまりしょ
  3. ^ Twitchett, Denis C.; Franke, Herbert; Fairbank, John King. The Cambridge History of China: Volume 6, Alien Regimes and Border States, 907-1368. Cambridge University Press. 1978: 367 [2021-05-02]. ISBN 978-0-521-24331-5. (原始げんし內容そん檔於2021-05-10) 英語えいご. 
  4. ^ もとまきいちひゃくよんじゅうろく《耶律すわえざいでん記載きさい:汴梁しょう大將たいしょうそくだい使つかいらいげん:「かねじん抗拒こうきょ持久じきゅう死傷ししょう城下しろしたこれにちむべほふこれ。」すわえざいはせにゅうそう曰:「將士しょうし暴露ばくろすうじゅうねんしょよくしゃ土地とち人民じんみんみみとくみんはた焉用!」みかど猶豫ゆうよ未決みけつすわえざい曰:「たくみこうあつぞういえみな萃於此,わかつきころせこれはたしょ。」みかどしかこれみことのりざいとめかんがおみな勿問。とき避兵きょ汴者とくひゃくよんじゅうななまんにん
  5. ^ 具體ぐたいしょうはしひら入洛にゅうらく——おさむふく三京與蒙、そうてき開戰かいせんぺーじめんそん檔備份そんあみぎわもう檔案かん),作者さくしゃおう頲,はら元朝がんちょう探索たんさくはつしゅう
  6. ^ じょ鹿しかきょう清正きよまさそん稿こう卷一けんいち《四年丁酉六月輪對第一札》:「からし卯之うのわざわいうえ宗廟そうびょうにんいい權臣けんしんせん擅之おう也,陛下へいかかた且念其羽翼うよくろうせんみそじゅう,於是乎天いかいき,而警以喪失地しっちへん焉。三京さんきょうこれはいりゅうどくいたりいまにん以為しょしんきょうえき致也,顧乃委曲いきょくいみなまもるえつ三年而始下哀痛之詔。於是,てんいかいき,而又警之以震かみなり焉」。
  7. ^ ほうだい琮《てつあんしゅうまき○《あずかたいきょうしき中書ちゅうしょ》:「凡向しょすすむ拔之へん裨,こん有能ゆうのうためしょうしゃむこうしょ揀練これぎょう,其居しゃ捍鄉,其出しゃどく有功ゆうこう於閩,而江、廣實ひろみよりゆきこれ。惜乎はじめおり三京さんきょうつぎそん於邳、じょちかまた殲於じょうじょう,而西へい精銳せいえい畧盡矣,だれじつ使つかいしかげん短氣たんき」。
  8. ^ そうだいしょくぶん輯存》まき八一やいちふくまたろん天變てんぺんかしこ人事じんじとうおさむ疏》:「汴京退すさはし,而我きもやめじょ、邳再おちい,而我かしここころいよいよ甚。しつ其道,ねらえいつわりさくてきいきおいじつ使つかいかくぞく以唐叛,すうぐんへい不能ふのうかつおうぞく以宿叛,ごう一路之力而不能討。大敵たいてきどうさきやめこましょう寇弗戢,こう奚觀?范方倚李はくふちため腹心ふくしんおもえやしなえとら以遺患;ちょうまもるまたおけなつぜん於肘わきおそれ飽鷹あげ。邉塵おこり而銳やめ餒,兵刃へいじんせっ而敗しょうやめ」。
  9. ^ 9.0 9.1 もとまきいちひゃくよんじゅうろく《耶律すわえざい传》. [2012-08-19]. (原始げんし內容そん檔於2021-04-22). 
  10. ^ もとまきふとしそう本紀ほんぎぺーじめんそん檔備份そんあみぎわもう檔案かん記載きさいねんかのえとら,「ふゆじゅういちがつはじめおけじゅう徵收ちょうしゅう課稅かぜい使,以陳ちょう昉使つばめきょうりゅうちゅうりゅう桓使せんとくしゅうりつおうさだ使西京にしぎょうりょりゅう使つかいふとはら,楊簡、こう廷英使ひらおうすすむ、賈從使じょうちょう瑜、おうするど使東平とうへいおういさおとおるほうあらわ使北京ぺきん,夾谷ひさしほどたい使たいらしゅう田木たぎ西にしたかしつばさ使ずみみなみ。」
  11. ^ だいこうむくに時期じきじゅう徵收ちょうしゅう課稅かぜいしょこう》,作者さくしゃちょう琦,發表はっぴょう於《こうむ古史こし研究けんきゅう》2000ねん00
  12. ^ もとまきいちひゃくよんじゅうろく《耶律すわえざいでん記載きさいはちねんへいさるあきなながつゆるがせとら以民せきいたりみかどきれしゅうけんたまもの親王しんのう功臣こうしんすわえざい曰:「きれぶんみんえきせいいやすき如多以金帛與。」みかど曰:「やめもと奈何いかん?」すわえざい曰:「わか朝廷ちょうていおけ吏,おさむ其貢さいおわり頒之,使つかい毋擅せい可也かなり。」みかどしか其計,とげてい天下てんかぜいまいいといちきん,以給こくよういといちきん,以給諸王しょおう功臣こうしん沐之ぜい中田なかたまいうねしょうまたはん上田うえだ三升みます下田しもだしょう水田すいでんごとうねしょうしょうぜいさんじゅうふん而一;しおぎんいちりょうよんじゅうきん既定きていつね朝議ちょうぎ以為ふとかるすわえざい曰:「作法さほう於涼,其弊なおむさぼはたゆう以利しんしゃのりいまやめじゅう矣。」
  13. ^ 13.0 13.1 白壽はくじゅつね中國ちゅうごく通史つうしだいはちかんもと時期じきしもさつ),だいよんしょうだいさんせつ
  14. ^ もとまきいちひゃくよんじゅうろく《耶律すわえざいでんぺーじめんそん檔備份そんあみぎわもう檔案かん記載きさい:「かのえとらてい課稅かぜいかくいたりかぶとうま平河ひらかわみなみさいゆうぞうともいたりつちのえいぬぎんぞういたりいちひゃくいちじゅうまんりょう。」
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  21. ^ びょうがく典禮てんれい卷一けんいちせんためし儒人めん》:ちょうとりねん(1237ねんはちがつじゅうにち皇帝こうてい聖旨せいしどうあずかよびかつとうひしげかずひろし、諤嚕、博克ひろかつたち扎爾かたひとしかんじんごと:「らいせいぎょう儒人,じゅう年間ねんかん學問がくもんかたなり古昔こせきはりおけ學校がっこうかんため廩給,養育よういく人才じんさい今來こんらいめい儒凋ぶんふう不振ふしんところよりどころ民間みんかんおうゆう儒士,收拾しゅうしゅうすうわかだかぎょう儒人,てんしょう教授きょうじゅおさむ習儒ぎょうつとむよう教育きょういく人材じんざい。其中せん儒士,わかゆう種田たねたしゃ,輸納ぜいかいうりしゃ出納すいとうしょうぜい開張かいちょうもんめん營運しゃあるきれい供出きょうしゅつはつ除外じょがい,其餘はつ並行へいこう蠲免。此上れいだんごとかんこうむかくとくあずか山西さんせい東路あずまじ徵收ちょうしゅう課程かていしょ長官ちょうかんりゅうちゅうへんこうしょみちいちどうかんこころみ,仍將論及ろんきゅうけいよしぶんためさんさくさんにちほどこころみせんいちためいちけいある有能ゆうのうけんしゃただししつ文義ふみよししゃためちゅうせん。其中せん儒人,あずかかく住處すみかたち嚕噶ひとしかんみんかん一同いちどう商量しょうりょう公事こうじ勾當こうとうしゃずいあきらせんくだ條理じょうり開闢かいびゃく舉場,精選せいせんいれつかまつぞく聽朝いのちじゅん此。」【其中,文中ぶんちゅうてき「扎爾かたひとし」,もとだい文獻ぶんけんちゅうつねさくいたる魯花あか」,まいりもとまきはちなな百官ひゃっかんこころざしさん》。文中ぶんちゅうてきいたる嚕噶ひとし」,もとだい文獻ぶんけんちゅうつねさくいたる魯花あか」,まいりもとまききゅう○《百官ひゃっかんこころざしろく》。】
  22. ^ 中國ちゅうごくぜんちゅうたいつちのえいぬせんためしてきかい紹:「しつらえさくろんけいよしさんにちていためさんてん,凡專一科不失文義者中選,のうけんしゃ參加さんかいくてきこう試聽しちょう其自便びん。凡漢ぞく知識ちしき分子ぶんしざい戰亂せんらんちゅう俘為奴隸どれいしゃ,也可參加さんか考試こうし,如主じん藏匿ぞうとくしゃしょ死刑しけい考試こうしちゅう選者せんじゃきゅう享受きょうじゅ賦役ふえきてきゆうあつ待遇たいぐう任命にんめい們與かくしょ長官ちょうかん同署どうしょ公事こうじ。」
  23. ^ かん儒林元朝がんちょうちゅうたいつちのえいぬせんためしてきかい紹:元朝がんちょう舉的最初さいしょ嘗試ざいもとふとしそう窩闊だい時期じき,「ふとしそうはじめ中原なかはら中書ちゅうしょれい耶律すわえざい請用儒術せんしたがえこれ」。窩闊だいあせきゅうねん(1237ねんはちがつしもみことのりいのちだんごとかんうけらゆるがせとくあずか山西さんせい東路あずまじ課稅かぜいしょ長官ちょうかんりゅうちゅう,「しょみち考試こうし。以論及ろんきゅうけいよしぶんためさんさくさんにちほどせんいちのうけんしゃ聽,ただし以失文義ふみよしためちゅうせん。其中選者せんじゃふく其賦やくれいあずかかくしょ長官ちょうかん同署どうしょ公事こうじ」(《もとまき81《せん舉志》いちだい2017ぺーじ)。みことのりれいちゅう所說しょせつてきふく其賦やく」,ゆびてき「其中せん儒生じゅせいわかゆう種田たねたしゃ納地のうちぜいかいうりしゃ出納すいとうしょうぜい開張かいちょうもんめん營運しゃれいきょうはつ除外じょがい,其餘はつ並行へいこう蠲免」。凡中せんてき儒生じゅせい,「あずかかくじゅうたち嚕噶ひとしかんみんかん一同いちどう商量しょうりょう公事こうじ勾當こうとうちょずいあきらさきくだ條例じょうれい開闢かいびゃく舉場,精選せいせんいれつかまつぞく聽朝いのち」(《せんためし儒人めん》,《びょうがく典禮てんれいまき1)。
  24. ^ 元朝がんちょうてき舉取いちきょう經歷けいれきよん階段かいだんつちのえいぬせんこころみのべゆうふくいたりもとはいかずいたるせいふくざいじょうなかたい元朝がんちょう舉取てき四個階段有詳細的介紹,此外,ざいじょうもとじんむねなかたいのべゆうふくゆう詳細しょうさいかい紹,ざいじょうげんめぐみむねなかたいいたりもとはいかずいたりせいふくゆう詳細しょうさいかい紹。
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  26. ^ 根據こんきょもと·ふとそう本紀ほんぎ記載きさい:「みずのえとらねん(1242ねんはる,六皇后乃馬真氏始稱制。」もと·ふとそう本紀ほんぎぺーじめんそん檔備份そんあみぎわもう檔案かん
  27. ^ 27.0 27.1 27.2 りゅうむかいまさる. げんふとしそうおさむ继元ふとし后妃こうひこう——以乞里吉さとよしゆるがせじょうあま皇后こうごうあずか阔里桀担皇后こうごう中心ちゅうしん. 《民族みんぞく研究けんきゅう》. 2019ねん, (だい01): 86–96 [2020-06-25]. (原始げんし內容そん檔於2020-12-11). 
  28. ^ 這段文字もじぶしせん元朝がんちょうめいしん郝經てき著作ちょさくりょうかわしゅうまきさんじゅうたてせい》,《たてせい全文ぜんぶん收錄しゅうろくうつしいれみんこく時期じきてきかん修正しゅうせい新元しんもと·郝經でんぺーじめんそん檔備份そんあみぎわもう檔案かん
  29. ^ もとまきふとしそう本紀ほんぎ. [2011-05-18]. (原始げんし內容そん檔於2020-11-24). 
  30. ^ もとるいへん卷一けんいち世紀せいき·ふとそう
  31. ^ 《续资どおり鉴》まきいちひゃくななじゅうそう纪一ひゃくななじゅう. [2012-08-19]. (原始げんし內容そん檔於2021-04-20). 
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  33. ^ もと新編しんぺんまきさんふとしそう本紀ほんぎ
  34. ^ もとしょまきふとしそう本紀ほんぎ
  35. ^ こうむ兀兒史記しきまきよん《斡歌歹汗本紀ほんぎ
  36. ^ 新元しんもとまきよんふとしそう本紀ほんぎ. [2011-06-14]. (原始げんし內容そん檔於2021-04-20). 

外部がいぶ連結れんけつ[編輯へんしゅう]

窩闊だい
出生しゅっしょう於:1186ねん?つき?にち逝世於:1241ねん12月11にち
統治とうちしゃあたま
しんあたま
窩闊だいあせこく建立こんりゅう
窩闊だいあせこく君主くんしゅ
1224ねん—1241ねん
つぎにんしゃ
貴由たかよしあせ
前任ぜんにんしゃ
拖雷
かんこく
だいこうむくに君主くんしゅ
1229ねん—1241ねん
つぎにんしゃ
乃馬きさき
しょうせい
そらかけ
うえ一位持有相同頭銜者:
成吉せいきちおもえあせ
げんふとし
こうむだいあせ
だいこうむくに皇帝こうてい

1229ねん—1241ねん
そらかけ
した一位持有相同頭銜者:
貴由たかよしあせ
もと定宗さだむね