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足利あしかがさだ

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足利あしかが さだ
足利あしかがさだぞう浄妙寺じょうみょうじ所蔵しょぞう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき - 末期まっき
生誕せいたん ぶんひさし10ねん1273ねん[注釈ちゅうしゃく 1]
死没しぼつ 元弘もとひろ元年がんねん/もととく3ねん9月5にち1331ねん10月7にち[2]
戒名かいみょう 浄妙寺じょうみょうじ殿どのかん[2]
墓所はかしょ 神奈川かながわけん鎌倉かまくら稲荷山いなりやま浄妙寺じょうみょうじ[2]
官位かんい したがえ[2]讃岐さぬきもり[2]おくしたがえさん[2]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのう久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのう
とくむね北条ほうじょう貞時さだときたかとき
氏族しぞく 河内かわうちはじめ義国よしくにりゅう足利あしかが
父母ちちはは ちち足利あしかが家時いえとき[2]はは北条ほうじょうしげるむすめ[2]
つま 正室せいしつ北条ほうじょうあらわときむすめ釈迦しゃか堂殿どうでん[3][2]
側室そくしつ上杉うえすぎ清子きよこ[2]
こうよし[2]こう(のち尊氏たかうじ[2]こうこく(のち直義ただよし[2]みなもと御坊ごぼう[注釈ちゅうしゃく 2]
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足利あしかが さだ(あしかが さだうじ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから末期まっきにかけての鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん足利あしかが家時いえとき嫡男ちゃくなん[4]足利あしかが宗家そうけ7だい当主とうしゅ室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐんとなる足利尊氏あしかがたかうじやその異母いぼけい足利あしかが高義たかよし、そのおとうと足利あしかが直義ただよしちち

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

ちち家時いえときけて足利あしかが当主とうしゅとなる。さだ当時とうじ10さい前後ぜんこう少年しょうねんであったとされ、祖父そふ足利あしかがよりゆき以来いらい3だいつづけての幼少ようしょう当主とうしゅとなり、執事しつじこう高師たかし高師たかしじゅう父子ふし)の補佐ほさをうけた。金沢かなざわあらわときむすめ正室せいしつむかえるなど、家時いえとき自害じがいのあとをけても歴代れきだい足利あしかが当主とうしゅ同様どうよう北条ほうじょうとの関係かんけい重視じゅうしした。いみなの「さだ」のは、元服げんぷくさい当時とうじ執権しっけんとく宗家そうけ当主とうしゅであった北条ほうじょう貞時さだとき在任ざいにん1284ねん-1301ねん)のへんいみなたまわったものであり[5][6][7][8]、「とくむねへんいみなつう」で実名じつめい構成こうせいしてきた[6][9][10]祖父そふまでの慣例かんれいならってさだ名乗なのった。

さだまれたころ当時とうじ執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅう貞時さだときちち)はこうむ襲来しゅうらいへの勝利しょうり祈願きがんすべく、将軍しょうぐんおもんみやすしおうを「みなもとおもんみやすし」という「源氏げんじ将軍しょうぐん」としていただくことによって“うけたまわ寿ことぶきひさしらん勝利しょうりしゃみなもと頼朝よりとも”の再現さいげんはかったとするせつがある[11]。このせつけて、「源氏げんじ将軍しょうぐん」の復活ふっかつという現象げんしょうはかつての源氏げんじ将軍しょうぐん回顧かいこする機会きかいあたえ、東国とうごく武士ぶし社会しゃかいなか潜在せんざいしていた武家ぶけ正統せいとうイデオロギーとしての「源氏げんじ将軍しょうぐんかん」をも高揚こうようさせたとする見解けんかいもあり[12][13]たまものせい源氏げんじおもんみやすしよりも、頼朝よりともおな清和せいわはじめ系譜けいふつらなり、その一門いちもん筆頭ひっとう位置いちづく足利あしかがほう将軍しょうぐん相応ふさわしいとの認識にんしき周囲しゅういこし、足利あしかが将軍しょうぐん擁立ようりつしようとするうごきや足利あしかが野心やしんがあるのではないかという猜疑心さいぎしんをもたらしたとするせつもある[13]当時とうじ当主とうしゅであったちち家時いえときは、将軍しょうぐんおもんみやすし近臣きんしん筆頭ひっとう役割やくわりになうことによって時宗じしゅう政権せいけん協力きょうりょくする姿勢しせいせていたが、時宗じしゅう死後しごまもなくして自殺じさつげており[注釈ちゅうしゃく 3]、この理由りゆうについては諸説しょせつあるが、近年きんねんではいえがそうした「源氏げんじ将軍しょうぐんかん」の動向どうこう自身じしんはなすとともに、時宗じしゅう殉死じゅんしすることで北条ほうじょうとく宗家そうけたい忠節ちゅうせつくすための行為こういであったとするせつ提示ていじされている[13]

その霜月しもづき騒動そうどう1285ねん)やひら禅門ぜんもんらん1293ねん)も「源氏げんじ将軍しょうぐん」を擁立ようりつするうごきであったとされ、その同様どうよう反乱はんらんこる可能かのうせいがあったが、貞時さだときはこの対策たいさくとして烏帽子えぼしであるさだたいして「源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう」として公認こうにんすることをおこなったという[14]。このことは、源氏げんじ一門いちもんとの格差かくさ明示めいじされることにもつながるため、足利あしかががわにとっても歓迎かんげいすべきことであったといい、合意ごうい形成けいせいいたったという[6]貞時さだとき北条ほうじょうだかだいはいって、さだ最初さいしょ嫡子ちゃくし前述ぜんじゅつ慣例かんれいによって「こう」ではなく「こうよし」と名乗なのっていることがそのことを象徴しょうちょうてきしめしている。すなわち、「高義たかよし」の名乗なのりはとくむねだかへんいみなこう」と清和せいわはじめつうである「よし」によって構成こうせいされており、わざわざ「よし」の使つかわれている背景はいけいには足利あしかがを「源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう」に位置付いちづけることでたがいの政治せいじてき思惑おもわく一致いっちさせた、北条ほうじょうとくむね)と足利あしかがとの合意ごうい形成けいせいがあったとかんがえられている[6]ただし、このことは足利あしかが将軍しょうぐんになり可能かのうせい北条ほうじょうみとめることとなるため、北条ほうじょう公認こうにんあたえるにさいしての条件じょうけんとして、足利あしかがつづ北条ほうじょう擁立ようりつする将軍しょうぐん伺候しこうする立場たちば遵守じゅんしゅすることと、北条ほうじょうたい服従ふくじゅうする意志いしせることを足利あしかがもとめたという[6]さだもこのことをよく認識にんしきしていたようで、だい8だい将軍しょうぐん久明ひさあき親王しんのうしつのための祈祷きとうさい雑事ざつじやくつとめるひとしちち同様どうようむね擁立ようりつした将軍しょうぐん近侍きんじすることでとくむね政権せいけんへの協力きょうりょく姿勢しせいせ、また貞時さだとき出家しゅっけしたがってさだ出家しゅっけし、げんとおる3ねん1323ねん)の貞時さだときじゅうさん回忌かいき法要ほうようさいしては230かんぶんという、当時とうじ権力けんりょくしゃ長崎ながさきえんの300かんぶん高額こうがく費用ひよう進上しんじょうする[15]ひとしとくむね政権せいけんへの直接的ちょくせつてき従属じゅうぞく姿勢しせいせている。従来じゅうらい、このような行為こういは「ちちよりうけついだ怨念おんねん胸中きょうちゅうぞうしながら、表面ひょうめんとくむねをむかえることに汲々きゅうきゅうとして奉仕ほうしにつとめる、忍従にんじゅう立場たちばつらぬかれた」とひょうされていた[16]が、近年きんねんではぎゃくに、積極せっきょくてきむねむかえて奉仕ほうしすることで「源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう」の公認こうにん獲得かくとくし、とくむね擁立ようりつした親王しんのう将軍しょうぐん近臣きんしんになうことでとくむね政権せいけんへの協力きょうりょく姿勢しせいせることで、北条ほうじょうから優遇ゆうぐうされて政治せいじてき立場たちば安定あんていさせることに成功せいこうし、足利あしかがとく宗家そうけ家格かかく維持いじすることができたと評価ひょうかされている[17]

以上いじょうのようなせつたいして、源実朝みなもとのさねとも没後ぼつご鎌倉かまくら時代じだいには「みなもと嫡流ちゃくりゅう」は存在そんざいせず、鎌倉かまくら時代じだい後期こうきの「源氏げんじ将軍しょうぐんかん高揚こうよう」もこっていなかったとする見解けんかいもある。頼朝よりとも将軍しょうぐんであった鎌倉かまくら時代じだい初期しょきには御家人ごけにんは「門葉もんよう」「家子いえこ」「さむらい」にランクけされており、足利あしかが上位じょういの「門葉もんよう」に位置付いちづけられてはいたが、あくまでも将軍しょうぐん家臣かしんである御家人ごけにんだった。鎌倉かまくら時代じだい足利あしかがが「みなもと嫡流ちゃくりゅう」だったとするどう時代じだい史料しりょう確認かくにんできず、このせつしるされているのは戦国せんごく時代じだい成立せいりつの『今川いまがわ』『今川いまがわ』である。鎌倉かまくら時代じだいにおける足利あしかが家格かかく寄合よりあいしゅう赤橋あかばし金沢かなざわなどの北条ほうじょう庶流にならたかいものだったが、その位置付いちづけは「みなもと嫡流ちゃくりゅう」ではなく「御家人ごけにんなか名門めいもん」とかんがえるのが妥当だとうである。また鎌倉かまくら時代じだい後期こうきの「源氏げんじ将軍しょうぐんかん高揚こうよう」としてあげられる事例じれいは、いずれもみなもとであるというよりは頼朝よりとも後継こうけいしゃであることが将軍しょうぐん条件じょうけんとされている。よって鎌倉かまくら時代じだい後期こうきこっていたのは「源氏げんじ将軍しょうぐんかん高揚こうよう」ではなく「頼朝よりとも権威けんい上昇じょうしょう」だったとかんがえられる。以上いじょうのことから、鎌倉かまくら時代じだい足利あしかがは「みなもと嫡流ちゃくりゅう」ではなく、じつちょうぼつ鎌倉かまくら時代じだいには武士ぶしたちは「みなもと嫡流ちゃくりゅう」は滅亡めつぼうしたからもういないとかんがえていたとしている[18]

なお出家しゅっけ時期じきについては、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』や『系図けいず纂要』におうちょう元年がんねん1311ねん11月27にちしるされ、従来じゅうらい研究けんきゅうでは同年どうねん10月26にちとくむね北条ほうじょう貞時さだとき死去しきょともな出家しゅっけとされてきたが、近年きんねん研究けんきゅうでは正安まさやす3ねん1301ねん)の貞時さだとき執権しっけん辞職じしょくおよび出家しゅっけともなってさだ出家しゅっけしたとのせつされている。

いち如法にょほうどうごと 長日ちょうじつ勤行ごんぎょう也、此堂たてまつためあずかもりいえみなもと家時いえとき菩提ぼだいはじめしょくだり也、しゅん算法さんぽうしるし以持仏堂ぶつどうかれしょ移送いそう云云うんぬんりょうしゃ額田ぬかたぐん上村田かみむらたさんだんまたせいかんぼうあと大門おおもん屋敷やしき云云うんぬん

正安まさやすさんねんじゅうがつ廿にじゅうさんにち
讃岐さぬき入道にゅうどう殿どの御下おしもぶんざいはん左衛門尉さえもんのじょうじゅうたてまつ

(「瀧山たきやまてら縁起えんぎ」より[19][20][21]

この史料しりょうからも正安まさやす3ねん12月23にち段階だんかい讃岐さぬきもりさだ出家しゅっけして「讃岐さぬき入道にゅうどう」となっていたことが裏付うらづけられる。「瀧山たきやまてら縁起えんぎ」については記載きさいふくめて信憑しんぴょうせいたかいものとされているが、『門葉もんよう』には正安まさやす4ねん(1302ねん)の段階だんかいで「足利あしかが讃岐さぬきもり」としるしている[22][23]ので注意ちゅういようする。しかし『鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがきには、よしみもと3ねん1305ねん)にきたよしみもとらんさいして、連署れんしょ北条ほうじょうむら殺害さつがいした与党よとう一人ひとり海老名えびな左衛門さえもん次郎じろうしゅうつなまさしくは海老名えびなつな[24]海老名えびな)のあずかりをつとめている人物じんぶつとして「足利あしかが讃岐さぬき入道にゅうどう」のしるされており[25][2]出家しゅっけ時期じきすくなくとも貞時さだときよりまえよしみもと3ねん以前いぜんであった可能かのうせいたかいとっていだろう[24]なおさだ讃岐さぬきもりであったことについては『尊卑そんぴぶん脉』とう確認かくにんできるが、せいおう5ねん(1292ねん)2がつにはおもんみそうぼう讃岐さぬきもりであったことから、せいおう5ねんから正安まさやす年間ねんかんあいだ補任ほにんされたとかんがえられている[22][26]

また、さだ出家しゅっけによりこうよし家督かとく継承けいしょうしたとのせつもあり[27]、その時期じきを『尊卑そんぴぶん脉』とうしめおうちょう元年がんねん11がつとする見解けんかいもあった[28]が、さだ出家しゅっけ時期じきよしみもと3ねん以前いぜんとした場合ばあいその可能かのうせいひくくなる[24]前述ぜんじゅつとおり、高義たかよしの「こう」はとくむね北条ほうじょうだかから拝領はいりょうしたものとみられるが、たかときのべけい2ねん1309ねん)に元服げんぷくして幼名ようみょうなり寿ことぶきからこうへと改名かいめい[29]よく1310ねんのべけい4ねん1がつ17にち幕府ばくふしょうさむらいしょにんじられているので、よしみもと3ねん以前いぜんにまだ「こう」を名乗なのらないなり寿ことぶきによって「こう」のいち拝領はいりょうすることはあり[30]高義たかよしがまだ元服げんぷくませていない状態じょうたい家督かとく継承けいしょうしたことになってしまう。実際じっさい古文書こもんじょても、正和しょうわ3ねん1314ねんうるう3月28にちづけ粟生あおうけいねがい譲状ゆずりじょううつし」やぶん2ねん1318ねん9月17にちづけ長幸ながゆきれん譲状ゆずりじょううつし」のように、この当時とうじさだ足利あしかが当主とうしゅであった様子ようすうかがえる(したがって出家しゅっけによって家督かとくゆずったというわけではないようである)。ただし、そのあいだ正和しょうわ4ねん1315ねん11月15にちに「足利あしかがひだりすけ」が鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう僧侶そうりょえんじゅうたいしてきょう僧職そうしょく安堵あんど書状しょじょうしている[31]が、この「足利あしかがひだりすけ」は高義たかよしすとかんがえられる[32]鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐううえ宮東みやひがし回廊かいろうには足利あしかが義兼よしかねりょうさかい曼荼羅まんだら一切経いっさいきょうおさめた「りょうさかいだん」とばれる区画くかくがあって、足利あしかが宗家そうけでは八幡宮はちまんぐう僧侶そうりょ依頼いらいして供養くようおこなっていたが、その供養くようおこなともそうしょく補任ほにん安堵あんど宗家そうけ当主とうしゅおこなっていたので、足利あしかがひだりすけ高義たかよし)のえんじゅうたいするきょう僧職そうしょく安堵あんど足利あしかが当主とうしゅとしての行為こういであったとかんがえられ、正和しょうわ3ねんから4ねんあいださだからこうよしへの家督かとく交代こうたいがあったことが推測すいそくされる。しかし、高義たかよし早世そうせいし、その没年ぼつねんぶん元年がんねん1317ねん)であったとされ[33]次男じなん(のちの足利尊氏あしかがたかうじ)もまだ元服げんぷくませていない状態じょうたいであった[注釈ちゅうしゃく 4]ため、ふたたさだかん)が家政かせいになうこととなったらしい。それを裏付うらづけるかのように、前述ぜんじゅつぶん2ねん(1318ねん)の古文書こもんじょ以降いこうも、さだ発給はっきゅう文書ぶんしょ多数たすうのこされており、生存せいぞんちゅうこうたかしはつ)には家督かとくゆずっていない[注釈ちゅうしゃく 5]

さだころ足利あしかが家政かせい機関きかんととのい、それら機関きかん活動かつどう充実じゅうじつし、足利あしかが被官ひかんのもとにのこされたすうおおくのさだ発給はっきゅう文書ぶんしょのこされている。鎌倉かまくらにおける足利あしかが菩提寺ぼだいじ浄妙寺じょうみょうじ再興さいこうしたほか弘安ひろやす4ねん1281ねん)に落雷らくらい焼失しょうしつしていた足利あしかが鑁阿てら大御堂おおみどう再建さいけんおこなっている。

元弘もとひろ元年がんねん/もととく3ねん1331ねん)9がつ5にち、59さい死去しきょ[35]よくもととく4ねん1332ねん)には次男じなんこう文書ぶんしょ発給はっきゅうしており[36][37]さだ死後しごこう家督かとくいだことが確認かくにんできる。こう尊氏たかうじ)が1333ねん北条ほうじょう鎌倉かまくら幕府ばくふ反旗はんきひるがえしてほろぼすよりわずか2ねんまえ死去しきょであった。

年表ねんぴょう

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れき 西暦せいれき 月日つきひ
旧暦きゅうれき
内容ないよう 典拠てんきょとなる史料しりょうめい
ぶんひさし10ねん 1273ねん   このころ生誕せいたんか。  
弘安ひろやす7ねん 1284ねん 6月25にち ちちいえ自殺じさつ。これをけて家督かとく継承けいしょう 瀧山たきやまてら縁起えんぎほか
      執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき加冠かかんにより元服げんぷくし、へんいみなけてさだ名乗なのる。  
えいひとし2ねん 1294ねん 1がつ2にち 所領しょりょう相模さがみこく宮瀬みやぜむら(みやがせむら)にきちしょくだす(史料しりょうにおけるはつ[38] 倉持くらもち文書ぶんしょ
1295ねん 12月20にち 兵部ひょうぶ僧都そうずえんけい鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうりょうさかい供養くようしょく安堵あんどする。 相承そうしょういん文書ぶんしょ
えいひとし4ねん 1296ねん 3月1にち 執事しつじ高師たかしむすめ稲荷いなり女房にょうぼう三河みかわこく額田ぬかたぐん志賀郷しがさと安堵あんどする。 総持寺そうじじ文書ぶんしょ
3月11にち 倉持くらもち新左衛門しんざえもんじょう家行いえゆき陸奥みちのくこくぐんこくせききょう以下いか安堵あんどする。 倉持くらもち文書ぶんしょ
えいひとし5ねん 1297ねん   このとし長男ちょうなん(のちの足利あしかが高義たかよし誕生たんじょうか。 『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず
正安まさやす3ねん 1301ねん 8がつ22にち 北条ほうじょう貞時さだとき出家しゅっけ執権しっけんしょくす。
さだもこれに追随ついずいして出家しゅっけか。法名ほうみょうかん(ぎかん)。
尊卑そんぴぶん脉』、『鎌倉かまくら年代ねんだいほか
1302ねん 12月13にち さだ瀧山たきやまてら如法にょほうどうりょう大門だいもん屋敷やしき寄進きしんする。
瀧山たきやまてら縁起えんぎ』によれば、この寄進きしん執事しつじ高師たかしじゅう奉書ほうしょによっておこなわれ、
どう文書ぶんしょに「讃岐さぬき入道にゅうどう」のそでばんえられたという。
瀧山たきやまてら縁起えんぎ
正安まさやす4ねん 1302ねん 2がつ9にち 門葉もんよう』に「足利あしかが讃岐さぬきもり」の記載きさいあり。 門葉もんよう
2がつ25にち べん律師りっしきょうじゅん鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうりょうさかい供養くようしょく安堵あんどする。 相承そうしょういん文書ぶんしょ
いぬいはじめ2ねん 1303ねん うるう4がつ12にち 倉持くらもち左衛門さえもん次郎じろうけい家行いえゆき)に陸奥みちのく国賀こくかぐん沼袋ぬまぶくろ上郷かみごう以下いかを、
そのおとうと倉持くらもち左衛門さえもん三郎さぶろうただし陸奥みちのく国賀こくかぐんまいせききょう以下いかを、それぞれ安堵あんどする。
倉持くらもち文書ぶんしょ
  鹿島かしまそうみのるに、額田ぬかたぐん沙汰さたじんあまり三太郎さんたろうあと給田きゅうでんばたけ給付きゅうふする。
この書状しょじょうそでばんおよ外題げだい安堵あんどおこなった「ひんぜんごう」はさだ比定ひていされる[39]
天龍寺てんりゅうじ文書ぶんしょ
よしみもと3ねん 1305ねん 4がつ-5月 足利あしかが讃岐さぬき入道にゅうどう」、よしみもとらんさいして、連署れんしょ北条ほうじょうむら殺害さつがいした与党よとう一人ひとり
海老名えびなつなあずかる。
鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがき
7がつ27にち 次男じなん(のちの足利尊氏あしかがたかうじ誕生たんじょう
8がつ14にち 粟生あおうよんろう入道にゅうどうに三河国額田郡秦梨子郷司職を安堵あんどする。 前田まえだ所蔵しょぞう武家ぶけ手鑑てかがみ
徳治とくじ元年がんねん
または
どう2ねん
1306ねん
または
1307ねん
  三男さんなん(のちの足利あしかが直義ただよし誕生たんじょう 尊卑そんぴぶん脉』ほか
のべけい元年がんねん 1308ねん 5月26にち 倉持くらもちこくせききょうたいし、去年きょねん10がつぶん御料ごりょう沙汰ざた用途ようとりょう900ぶんきわむずみめいじる。 倉持くらもち文書ぶんしょ
のべけい2ねん 1309ねん 6月16にち 倉持くらもち左衛門さえもん三郎さぶろうちゅう足利あしかがしょう木戸きど郷内ごうない屋敷やしきを、
倉持くらもちおつわかまるけい)に陸奥みちのく国賀こくかぐん沼袋ぬまぶくろはんきょう以下いかを、それぞれ安堵あんどする。
倉持くらもち文書ぶんしょ
おうちょう元年がんねん 1311ねん 10月26にち もと執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき(たかしえんじ)、死去しきょ
なおさだ出家しゅっけをこのとしの11月27にちつたえる史料しりょうあり。
尊卑そんぴぶん脉』ほか
正和しょうわ3ねん 1314ねん うるう3がつ7にち 粟生あおうよんろう左衛門尉さえもんのじょうもりひろに三可国額田郡秦梨子郷以下を安堵あんどする。 前田まえだ所蔵しょぞう古蹟こせきぶんちょう
7がつ10日とおか 高坊たかぼう少納言しょうなごんぼうきよしけん美作みさくこく稲岡いなおか南庄みなみしょう内田うちだ在家ありいえ安堵あんどする。 熊野くまのおっと須美すみ神社じんじゃ文書ぶんしょ
      このあいだ家督かとく嫡男ちゃくなんこうよしゆずったか。  
正和しょうわ4ねん 1315ねん 11月15にち 足利あしかがひだりすけ」(高義たかよしか)、そうまどかしげる鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうりょうさかい供養くようしょく安堵あんどする。 鶴岡つるおかりょうさかいだんきょうそう次第しだい
ぶん元年がんねん 1317ねん 6月24にち こうよし死去しきょ。これにともない、かんさだ)、家督かとくさいうけたまわか。 『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず
ぶん2ねん 1318ねん 9月17にち ちょう幸連こうれんちょう七郎しちろうれん長氏ながうじ)に能登のとこく土田つちたしょう上村うえむら半分はんぶん以下いか安堵あんどする。 まつくもこう採集さいしゅうのこへんるい纂』
もとおう元年がんねん 1319ねん   次男じなん元服げんぷくし「こう」と名乗なのる。 つづけぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう足利あしかが系図けいず
10がつ10日とおか 足利あしかがたかししたがえじょされ治部じぶ大輔だいすけにんぜられる。 公卿くぎょう補任ほにん
ぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう足利あしかがかん位記いき
もとおう2ねん 1320ねん 2がつ13にち 高坊たかぼう法眼ほうげん熊野山くまのさん本宮ほんぐうしょくおよ美作みさくこく稲岡いなおか南庄みなみしょう職名しょくめい安堵あんどする。
この執事しつじだかじゅう奉書ほうしょさだそでばん花押かおうえられている[30]
那智なち大社たいしゃ所蔵しょぞう文書ぶんしょ
米良めら文書ぶんしょ』    
げんとおる2ねん 1322ねん 3月15にち 武田たけだ信武のぶたけ徳光とくみつまる烏帽子えぼしおやつとめ、「」のへんいみなあたえてしん名乗なのらせる。 系図けいず綜覧そうらん所収しょしゅう
甲斐かい信濃しなのはじめ綱要こうよう
5月23にち 執事しつじ高師たかしじゅうちょう幸康ゆきやす継母けいぼかんおもね子息しそくれんそうろんたいし、裁許さいきょくだす。
その奉書ほうしょさだそでばん花押かおうえられる[30]
まつくもこう採集さいしゅうのこへんるい纂』
げんとおる3ねん 1323ねん 10月26にち 貞時さだときじゅうさん回忌かいき法要ほうようさいして、230かんぶんという高額こうがく費用ひよう進上しんじょう 円覚寺えんかくじ文書ぶんしょ所収しょしゅう
北条ほうじょう貞時さだときじゅうさんねん供養くよう
よしみれき4ねん 1329ねん 8がつ12にち 執権しっけん赤橋あかばし守時もりとき発給はっきゅうした「関東かんとう下知げじじょう」に「上総かずさ守護しゅご足利あしかが讃岐さぬき入道にゅうどう云々うんぬん」とある[30]
どう書状しょじょうで、あずま盛義もりよし[注釈ちゅうしゃく 6]上総かずさ国内こくない所領しょりょう金沢かなざわ称名寺しょうみょうじわたすべきことをめいじられ、
代官だいかん伊勢いせ九郎くろうむねまましがその執行しっこうにあたる。
金沢文庫かなざわぶんこ古文書こもんじょ
もととく2ねん 1330ねん 1がつ29にち 称名寺しょうみょうじあずま盛義もりよしあと交付こうふ執行しっこうしたむねの請文を提出ていしゅつ。その案文あんぶん現存げんそんする[30] 金沢文庫かなざわぶんこ古文書こもんじょ
もととく3ねん
元弘もとひろ元年がんねん
1331ねん 5月5にち 後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく発覚はっかくし、日野ひのしゅんもと文覚もんがくえんかんとらえられる。(元弘もとひろへん
そのうち、ちゅうえん鎌倉かまくらおくられ、さだ、これをあずかる[40]
鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがき
 
9月5にち
または6にち
死去しきょ
嫡男ちゃくなんこう(のちの尊氏たかうじ)が家督かとく継承けいしょう
尊卑そんぴぶん脉』
常楽じょうらく
大乗だいじょういん日記にっき目録もくろく
『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず


(※古文書こもんじょについては小谷おたに 2013, p. 127および田中たなか 2013, 巻末かんまつ下野しもの足利あしかが関係かんけい年表ねんぴょう」を参考さんこうとした。)

へんいみなあたえた人物じんぶつ

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関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 没年ぼつねんおよびその当時とうじ年齢ねんれい享年きょうねん)からの逆算ぎゃくさんによる。小谷おたに俊彦としひこは、北条ほうじょうしげるぶんなが7ねん(1270ねん)に30さいくなっている(『鎌倉かまくら年代ねんだい』・『北条ほうじょうきゅうだい』)ことから、さだがそのまごとするにはややなんがあり(しげるがそのままきていた場合ばあいときしげるさだ年齢ねんれいは33となる)、さだ北条ほうじょう貞時さだとき執権しっけんとなった弘安ひろやす7ねん(1284ねん)7がつ以降いこう元服げんぷくして「さだ」のへんいみなけたとみられるので、その当時とうじ10さい前後ぜんこうであったとかんがえて、建治けんじ3ねん(1277ねん)ごろのまれとする見解けんかいしている[1][2]
  2. ^ こうよしとするせつもある。
  3. ^ いえぼつ年月日ねんがっぴについては史料しりょうによって様々さまざまつたわるが、弘安ひろやす7ねん1284ねん6月25にちとするせつ有力ゆうりょくである。この詳細しょうさいについては足利あしかが家時いえときこう参照さんしょうのこと。
  4. ^ こう尊氏たかうじ)はもとおう元年がんねん(1319ねん)に15さい元服げんぷくしたとつたわる(『ぞくぐんしょ類従るいじゅうだい輯上所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」)。
  5. ^ こうよし死後しご元服げんぷくしたこう尊氏たかうじ)の仮名かめい宗家そうけ嫡男ちゃくなんけられる「三郎さぶろう」ではなく「また太郎たろう」であったことなどから、高義たかよし遺児いじ成長せいちょうもにらんでこう尊氏たかうじ)の家督かとく相続そうぞくただちに確定かくていしたわけではないようである。足利あしかが宗家そうけでは2代目だいめ義兼よしかねから代々だいだい正室せいしつ所生しょせい嫡男ちゃくなん幼少ようしょうであっても庶系には家督かとくゆずらず、庶兄・庶伯ちちなどが直系ちょっけい嫡男ちゃくなん家督かとく相続そうぞくするまでの家政かせい代行だいこうになったり援助えんじょしていた[34]なお、『ぞくぐんしょ類従るいじゅうだい輯上所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」や『系図けいず纂要』には高義たかよし息子むすことして安芸あきまもるぼう御坊ごぼうみなもと記載きさいがある。
  6. ^ ひがし系譜けいふは、ひがしたねよりゆき重胤しげたねたねぎょう義行よしゆきもりよし
  7. ^ 結城ゆうき』では貞時さだときへんいみなけたとするが[42]、「正宗まさむね寺本てらもと 佐竹さたけ系図けいず」の貞義さだよし傍注ぼうちゅうには「貞氏さだうじいち也」と記載きさいされており(『だい日本にっぽん史料しりょう』6-17、p.16)、正確せいかくには貞時さだときへんいみなけたさだから「さだ」のけた可能かのうせいがある。

出典しゅってん史料しりょうてき根拠こんきょ

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  1. ^ 田中たなか 2013, p. 126.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 安田やすだ 1990, p. 18, 福田ふくだ豊彦とよひこ足利あしかがさだ
  3. ^ 北条ほうじょう金沢かなざわ系図けいず」、『ぞくぐんしょ類従るいじゅうだい輯上所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」。
  4. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 29ぺーじ
  5. ^ 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて―鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん場合ばあい―」『中央ちゅうおう史学しがくだい2ごう、1979ねん 
  6. ^ a b c d e 田中たなか 2013, p. 25, 「中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  7. ^ 臼井うすい 2013, p. 68.
  8. ^ 吉井よしい 2013, p. 170。吉井よしい元服げんぷく時期じきせいおう年間ねんかん初期しょき1288ねん~)であったとする見解けんかいしめしている。
  9. ^ 臼井うすい 2013, pp. 67–68.
  10. ^ 小谷おたに 2013a, p. 131.
  11. ^ 細川ほそかわ重男しげおみぎ近衛このえ大将たいしょうげんおもんみやすしとくむね専制せんせい政治せいじ論理ろんり―」『年報ねんぽう 三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』9ごう、2002ねん /所収しょしゅう:細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら北条ほうじょう神話しんわ歴史れきし権威けんい権力けんりょく―』日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい研究けんきゅう選書せんしょ1〉、2007ねん 
  12. ^ 川合かわいやすし ちょ武家ぶけ天皇てんのうかん」、石上いしがみ英一ひでかず; 永原ながはらけい; 村井むらい章介しょうすけ ほか へん講座こうざぜん近代きんだい天皇てんのう』 4かん青木あおき書店しょてん、1995ねん /所収しょしゅう:川合かわいやすし鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ研究けんきゅう校倉あぜくら書房しょぼう、2004ねん 
  13. ^ a b c 田中たなか 2013, p. 23, 「中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  14. ^ 田中たなか 2013, p. 24, 「中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  15. ^ 北条ほうじょう貞時さだときじゅうさんねん供養くよう」(『円覚寺えんかくじ文書ぶんしょ』、所収しょしゅう:『神奈川かながわけん 資料しりょうへん2 古代こだい中世ちゅうせい(2)』2364ごう)。
  16. ^ 小谷おたに 2013, pp. 126–129.
  17. ^ 田中たなか 2013, pp. 25–26, 「中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  18. ^ 鈴木すずき由美ゆみ足利あしかが将軍家しょうぐんけ誕生たんじょうは、「みなもと嫡流ちゃくりゅう」の復活ふっかつだったのか?」(日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい監修かんしゅう関口せきぐち崇史たかふみへん征夷大将軍せいいたいしょうぐん研究けんきゅう最前線さいぜんせん ここまでわかった「武家ぶけ棟梁とうりょう」の実像じつぞうよういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy、2018ねん、P.78-93)
  19. ^ しんくだり 2013, p. 287.
  20. ^ 田中たなか 2013, p. 400, 「下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」.
  21. ^ 新編しんぺん岡崎おかざき 史料しりょう 古代こだい中世ちゅうせい
  22. ^ a b 前田まえだ 2013, p. 190.
  23. ^ 典拠てんきょは『門葉もんようまきななじゅう めいどうきょうなな関東かんとうめいどうきょう現行げんこう」(『大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょう図像ずぞうだい11かん大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょう刊行かんこうかい、1934ねん正安まさやす4ねん2がつ9にちじょう
  24. ^ a b c 吉井よしい 2013, p. 171.
  25. ^ 鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがき よしみもと3ねん5がつ2にちじょう
  26. ^ 前田まえだ治幸はるゆき足利あしかがさだ讃岐さぬきもり任官にんかん出家しゅっけ時期じき―『鑁阿てら文書ぶんしょちゅうつう足利あしかがさだ発給はっきゅう文書ぶんしょから―」『ぶい&ぶい』13ごう、2010ねん 
  27. ^ 千田せんだ孝明たかあき足利あしかが歴史れきしみことんだ世界せかい栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん、1985ねん 
  28. ^ 影山かげやまひろし鎌倉かまくら時代じだい足利あしかがいち考察こうさつ」『しゅう史学しがく創刊そうかんごう、1975ねん 
  29. ^ 鎌倉かまくら年代ねんだい正和しょうわ5ねん(1316ねんじょう北条ほうじょうだかこう
  30. ^ a b c d e 吉井よしい 2013, p. 172.
  31. ^ 鶴岡つるおかりょうさかいだんきょうそう次第しだい」(所収しょしゅう:『ぞくぐんしょ類従るいじゅうだいよん輯下)。
  32. ^ 尊卑そんぴぶん脉』。
  33. ^ 『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」(東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞう謄写とうしゃほん)の高義たかよし記事きじちゅうの“高義たかよし 嫡子ちゃくしごう円福寺えんぷくじ殿でんぶん元年がんねんろくがつ廿にじゅうよんにちそつ”による(田中たなか 2013, p. 386, 「下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」)。
  34. ^ 清水しみず 2008, pp. 125–142.
  35. ^ 尊卑そんぴぶん脉』。ただし、(おおきなちがいはないが)『常楽じょうらく』や『大乗だいじょういん日記にっき目録もくろくでは命日めいにちを9月6にち、『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」(東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞう謄写とうしゃほん)では9月5にちに60さい死去しきょとする(田中たなか 2013, p. 386, 「下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」)。
  36. ^ 吉井よしい 2013, p. 173.
  37. ^ もととく4ねん2がつ29にちづけ木戸きどたから寿ひさしあて安堵あんどじょう」(『上杉うえすぎ文書ぶんしょ』)。
  38. ^ 小谷おたに 2013, p. 124.
  39. ^ 原田はらだ正俊まさとし へん天竜寺てんりゅうじ文書ぶんしょ研究けんきゅう思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2011ねん 
  40. ^ 臼井うすい 2013, p. 69.
  41. ^ 千葉ちばみがく へん桓武かんむたいら こく香流かなれ系図けいず だいいちかん 常陸ひたちだいじょう北條ほうじょうぞくへん展望てんぼうしゃ、1986ねん、309ぺーじ 
  42. ^ 結城ゆうき だいよんかん 古代こだい中世ちゅうせい通史つうしへん結城ゆうき、1980ねん、297ぺーじ 
  43. ^ 系図けいず綜覧そうらん所収しょしゅう甲斐かい信濃しなのはじめ綱要こうよう」。

参考さんこう文献ぶんけん史料しりょう

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  • 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん 
  • 清水しみず克行かつゆき ちょ足利尊氏あしかがたかうじ家族かぞく」、櫻井さくらい; 樋口ひぐちしゅうおとこ; にしき昭江あきえ へん足利尊氏あしかがたかうじのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん10がつISBN 978-4-404-03532-5 
  • 田中たなか大喜だいぎ へん下野しもの足利あしかがえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2013ねんISBN 978-4-86403-070-0 
    • p.6-51:田中たなか大喜だいぎ中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん
    • p.54-73:臼井うすい信義のぶよしたかし父祖ふそよりゆき家時いえとき年代ねんだいこう―」。 /初出しょしゅつ:日本にっぽん歴史れきし』257ごう、1969ねん 
    • p.117-133:小谷おたに俊彦としひこ北条ほうじょう専制せんせい政治せいじ足利あしかが」。 /初出しょしゅつ:近代きんだい足利あしかがだいいち足利あしかが、1977ねん 
    • p.134-156:小谷おたに俊彦としひこ鎌倉かまくら足利あしかがぞくてき関係かんけいについて」。 /初出しょしゅつ:史学しがくだい50かん記念きねんごう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく文学部ぶんがくぶない三田みた学会がっかい、1980ねん、155-171ぺーじ 
    • p.157-178:吉井よしい功兒こうじ鎌倉かまくら後期こうき足利あしかが家督かとく」。 /初出しょしゅつ:吉井よしい功兒こうじ中世ちゅうせい政治せいじざんへん』トーキ、2000ねん 
    • p.179-228:前田まえだ治幸はるゆき鎌倉かまくら幕府ばくふ家格かかく秩序ちつじょにおける足利あしかが」。 /初出しょしゅつ:阿部あべたけし へん中世ちゅうせい政治せいじ研究けんきゅう日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい、2010ねん 
    • p.273-298:しんぎょう紀一きいち足利あしかが三河そうご額田ぬかたぐん支配しはい鎌倉かまくら時代じだい中心ちゅうしんに―」。 /初出しょしゅつ:芳賀はが幸四郎こうしろう先生せんせい古希こき記念きねん 日本にっぽん社会しゃかい研究けんきゅう笠間かさま書院しょいん、1980ねん 
    • p.381-413:田中たなか大喜だいぎ下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」・「下野しもの足利あしかが関係かんけい年表ねんぴょう
  • 水野みずの智之としゆき へん名前なまえ権力けんりょく中世ちゅうせい 室町むろまち将軍しょうぐん朝廷ちょうてい戦略せんりゃく吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー388〉、2014ねん 
  • 黒板こくばん勝美かつみ; 国史こくし大系たいけい編修へんしゅうかい へん尊卑そんぴぶん だい3へん吉川弘文館よしかわこうぶんかんしんてい増補ぞうほ 国史こくし大系たいけい〉。 
  • 竹内たけうちさん へん鎌倉かまくら年代ねんだい武家ぶけ年代ねんだい鎌倉かまくらだい日記にっき臨川りんせん書店しょてん増補ぞうほ ぞく史料しりょう大成たいせい 51かん〉、1979ねん 

関連かんれん項目こうもく

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足利尊氏あしかがたかうじ系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 足利あしかがやすし
 
 
 
 
 
 
 
8. 足利あしかがよりゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 北条ほうじょうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 足利あしかが家時いえとき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 上杉うえすぎ重房しげふさ(=12)
 
 
 
 
 
 
 
9. 上杉うえすぎ重房しげふさむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 足利あしかがさだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 北条ほうじょうしげるとき
 
 
 
 
 
 
 
10. 北条ほうじょうしげる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. たいらはじめおやむすめ
 
 
 
 
 
 
 
5. 北条きたじょうしげるむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
足利尊氏あしかがたかうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわらきよしぼう
 
 
 
 
 
 
 
12. 上杉うえすぎ重房しげふさ(=18)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 上杉うえすぎよりゆきじゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 上杉うえすぎ清子きよこ