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ル・マン24時間レース - Wikipedia

ル・マン24あいだレース

毎年まいとしフランスで開催かいさいされるよんりん耐久たいきゅうレース
ル・マン24あいだから転送てんそう

ル・マン 24あいだレース(ル・マンにじゅうよじかんレース、ふつ: 24 Heures du Mans )は、フランスル・マン近郊きんこうおこなわれるよんりん耐久たいきゅうレースである。24あいだでのサーキット周回しゅうかいすうきそう。

ル・マン24あいだレース
24 Heures du Mans
FIA 世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん
開催かいさい サルト・サーキット
はつ開催かいさい 1923
耐久たいきゅう時間じかん 24あいだ
最多さいた勝利しょうり
(ドライバー)
トム・クリステンセン (9)
最多さいた勝利しょうり
(チーム)
ヨースト・レーシング (13)
最多さいた勝利しょうり
(マニファクチャー)
ポルシェ (19)

主催しゅさいフランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブ(ACO)で世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん(WEC)の1せんでもある。ル・マン24あいだ耐久たいきゅうレースしるされることもある。

概要がいよう

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2017ねん大会たいかい

1923ねんに「ラッジウィットワースはい24あいだ耐久たいきゅうグランプリ(Grand Prix d'Endurance de 24 Heures "Coupes Rudge-Whitworth")」としてはつ開催かいさいされた歴史れきしあるレースのひとつで[注釈ちゅうしゃく 1]フォーミュラ1モナコグランプリアメリカインディ500ならび「世界せかいさんだいレースえい: Triple Crown of Motorsport)」とばれる。またデイトナ24あいだレーススパ・フランコルシャン24あいだレースとともに「世界せかいさんだい耐久たいきゅうレース」ともばれる。そのため、世界中せかいじゅう耐久たいきゅうレースにおおきな影響えいきょうあたえており、ル・マン・シリーズ(LMS)や世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん(WEC)の車両しゃりょう規定きていはル・マンのものにじゅんじている。長時間ちょうじかんレースと同様どうように、車両しゃりょうやその周辺しゅうへん環境かんきょうたいするしん技術ぎじゅつは、まずレースに導入どうにゅうされてから一般いっぱん車両しゃりょうとう展開てんかいされることがおおい。24あいだ走行そうこう変化へんかする天候てんこう、30かい以上いじょう給油きゅうゆどういちコースを300しゅう以上いじょう走行そうこうしたさい距離きょりやく5000kmとなるなど過酷かこく条件じょうけんした過去かこ発生はっせいした事故じこ教訓きょうくんとして安全あんぜんせい向上こうじょうさせている。このように、技術ぎじゅつ革新かくしん最先端さいせんたんになうレースとなっている。

これまでにレースが中止ちゅうしされたのは、フランス自動車じどうしゃ工業こうぎょうかいストライキ影響えいきょうによる1936ねんと、だい世界せかい大戦たいせん戦後せんごのフランスの疲弊ひへい混乱こんらんによる1940ねんから1948ねんにかけてのあいだだけである。スポーツカーレース参戦さんせんするマニュファクチャラー(自動車じどうしゃメーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利しょうり非常ひじょう名誉めいよなものとされており、かくチームがさい重要じゅうようレースとして入念にゅうねん準備じゅんびをしてのぞむ。

開催かいさい方式ほうしき

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ル・マン24あいだ開催かいさいされるサルト・サーキットのピット

競技きょうぎフランス中部ちゅうぶにあるル・マンのル・マン24あいだサーキット(Le circuit des 24 heures du Mans)とばれる全長ぜんちょう13kmをえる周回しゅうかいコースでおこなわれる。その2/3は普段ふだん一般いっぱんどうで、レースウィークちゅうのみ閉鎖へいさされる。スタートおよびゴール地点ちてんとその周辺しゅうへん競技きょうぎ専用せんようブガッティ・サーキット一部いちぶ使用しようする。なお、オートバイの24あいだレースはブガッティ・サーキットのフルコースでおこなわれる。

かくコーナーには「テルトル・ルージュ」、「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの、レース業界ぎょうかい著名ちょめい名称めいしょうがついている。サルト・サーキットの名物めいぶつといえば全長ぜんちょう6kmにおよぶロングストレート「ユノディエール」であったが、マシンの進歩しんぽにより1988ねんには最高さいこうそくが405km/hにたっするなどしたため、危険きけんせい低減ていげんさせるべく1990ねんに2箇所かしょシケインもうけられた。

出場しゅつじょう資格しかく

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参加さんかするだけでも名誉めいよなことであり世界せかい各国かっこく自動車じどうしゃメーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到さっとうすることから、FIA 世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん (WEC) の1せんくわえられている現在げんざいは、主催しゅさいしゃであるフランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブ(ACO)がWECのシーズンエントリーをベースに追加ついかのエントリーを選考せんこうし、招待しょうたいじょう送付そうふする。

審査しんさ前年ぜんねん大会たいかい優勝ゆうしょうしゃFIA 世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん(WEC)への参戦さんせん履歴りれき、ACOの車両しゃりょう規定きてい採用さいようするスポーツカー選手権せんしゅけんヨーロピアン・ル・マン・シリーズアジアン・ル・マン・シリーズウェザーテック・スポーツカー選手権せんしゅけん)における成績せいせきなどから判断はんだんする。自動じどう招待しょうたい制度せいどもあり、前述ぜんじゅつ各種かくしゅスポーツカー選手権せんしゅけん成績せいせき上位じょういチームやドライバーは自動的じどうてきにエントリーけんこと可能かのう[1][2]

また、最大さいだい参加さんか台数だいすうの55だい[注釈ちゅうしゃく 2]くわえて、2012ねんよりきん未来みらい自動車じどうしゃ技術ぎじゅつ挑戦ちょうせんする車両しゃりょうたいしてガレージ56というしょうてんがい特別とくべつわく用意よういされている。2016ねんやまい四肢ししうしなったドライバーがえらばれた[3]

かつてはおおすぎるエントリー希望きぼうしゃるいとすため、テストデーで予備よび予選よせんおこなわれた時期じきもある。また、ル・マンにまとしぼって特別とくべつ開発かいはつしたマシンで、ルマンにわせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい(FIA)がル・マンをふくめた世界せかいスポーツプロトタイプカー選手権せんしゅけん(WSPC)ぜんせんへの参加さんか義務付ぎむづけたこともある。

スケジュール

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ル・マン24あいだのスタート(2018ねん

毎年まいとし6がつに、1ねんうちもっとひるなが夏至げしころ開催かいさいされる。6がつ上旬じょうじゅんにはサーキットの一般いっぱん公道こうどう部分ぶぶん閉鎖へいさしてテストデーがおこなわれる。

レースウィークは月曜日げつようびル・マンきゅう市街地しがいちのリパブリック広場ひろば一般いっぱん公開こうかい公式こうしき車検しゃけんおこない、水曜日すいようびにフリー走行そうこう公式こうしき予選よせん1かい木曜日もくようび公式こうしき予選よせん2・3かいおこなう。レースちゅう夜間やかん走行そうこうがあるため予選よせん深夜しんやちか時間じかんたいおこなわれるが、初夏しょかのル・マンはりが22ごろおそい。日没にちぼつには気温きおんがり、タイムアタックにてきした時間じかんたいとなる。金曜日きんようびはル・マン市内しないでドライバーズパレードをおこなう。

土曜日どようび午前ごぜんちゅうにウォームアップ走行そうこうおこない、午後ごご3にスタートフラッグがられレース開始かいしとなる。例年れいねん主催しゅさいしゃフランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブ(ACO)がスタートフラッグを人物じんぶつえらぶ。日没にちぼつ日曜日にちようびむかえ、午前ごぜん6午後ごご3栄光えいこうのチェッカーフラッグをける。

ル・マンしきスタート

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ル・マンしきスタート(1965ねん

1925ねん大会たいかいよりもちいられたスタート方式ほうしきは、コースはば片側かたがわ競技きょうぎしゃ配置はいちし、ドライバーが車両しゃりょう反対はんたいがわからコースをわたるようって乗車じょうしゃする。

「ル・マンしきスタート」とばれてのレースでも採用さいようされたが、シートベルトをきちんとめないままスタートするドライバーが続出ぞくしゅつするなど危険きけんであり事故じこおおく、「初代しょだいミスター・ルマン」ことジャッキー・イクスをもって抗議こうぎ表明ひょうめいした。

1971ねん通常つうじょうのグリッドしきスタンディングスタート採用さいようし、1972ねん以降いこう耐久たいきゅうレースでは一般いっぱんてきローリングスタート採用さいようしている。

現行げんこうのWECになってからは、フォーメーションラップまえのセレモニーに、ル・マンしきスタートのようにくるまをコースにたいしてななめにならべるというかたち擬似ぎじてき再現さいげんしている。

オフィシャルカー

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ペースカーはその年度ねんどにEU圏内けんないしん発売はつばいされた車輌しゃりょう採用さいようされる。だい1かいレースが開催かいさいされてから65ねんとなる1999ねんには、自国じこくフランスの自動車じどうしゃではなく、そのとしデビューしたばかりのベントレー・アルナージ起用きようされた。1923ねんだい1かいのレースが国際こくさいレースうたいながらほとん自国じこくくるまめられていたものの、イギリスからエントリーした2だいのベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によってかろうじて国際こくさいレースとして開催かいさいできたことにたいする感謝かんしゃわすれることなくかたちにしたものとして注目ちゅうもくされた。

日本にっぽんしゃでは、日産にっさんがエントリーしていた1990ねん日産にっさん・フェアレディZ 300ZX、おなじく日産にっさんがエントリーしていた1997ねん日産にっさん・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用さいようされた。

コース全長ぜんちょう変遷へんせん

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  • A (1923ねん - )17.262 km - げんテルトルルージュ付近ふきんかわず、ル・マン市内しない中心ちゅうしんまでかえすコースだった。
  • B (1929ねん - )16.340 km
  • C (1932ねん - )13.492 km - テルトルルージュ→ユノディエールへとつづげんコースの原型げんけいになった。
  • D (1956ねん - )13.461 km - 1955ねんだい事故じこけピットぜんストレートのスタンドを後退こうたいさせた。
  • E (1968ねん - )13.469 km
  • F (1972ねん - )13.640 km
  • G (1979ねん - )13.626 km
  • H (1986ねん13.528 km - ミュルサンヌコーナーの交差点こうさてん十字じゅうじからロータリーに変更へんこうされたため、ロータリーをける専用せんようコースでショートカットしている。
  • I (1987ねん - )13.535 km - ダンロップコーナーまえにシケインが設置せっちされた。
  • J (1990ねん - )13.600 km - ユノディエールに2かしょのシケインが設置せっちされた。
  • K (1997ねん - )13.605 km - ダンロップシケインのレイアウトを変更へんこうした。
  • L (2002ねん - )13.650 km - ダンロップブリッジからSまでレイアウトを変更へんこうした。
  • M (2006ねん13.650 km - ダンロップシケイン付近ふきん改修かいしゅうした。
  • N (2007ねん - )13.629 km - テルトルルージュ付近ふきん改修かいしゅうした。
  • O (2018ねん - )13.626 km - ポルシェカーブ付近ふきん改修かいしゅうした。

優勝ゆうしょうしゃ/優勝ゆうしょうしゃ

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メーカーべつ勝利しょうりすう

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ポルシェ・956(1983ねん
 
アウディ・R10 TDI(2006ねん
 
ベントレー・4½リットル(1928ねん

特筆とくひつてき出来事できごと

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ドライバー交代こうたいなしで24あいだ挑戦ちょうせん

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ピエール・ルヴェーは1952ねんにタルボ=ラーゴで出走しゅっそうし、23あいだわたってステアリングにぎりトップをはしつづけたが、疲労ひろうのためギアを間違まちがえてエンジンをこわリタイアとなった[4]現在げんざい危険きけん防止ぼうしのためレギュレーションが変更へんこうされており、このような長時間ちょうじかん連続れんぞく運転うんてんはできない。

ルヴェーのリタイアにより優勝ゆうしょうたしたメルセデス・ベンツのチーム監督かんとくであったアルフレート・ノイバウアーは、そのルヴェーをメルセデスのチームへ招聘しょうへいしている(後述こうじゅつ)。

1955ねん事故じこ

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メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型どうけいしゃ
 
ジャガー・Dタイプ(同型どうけいしゃ

1955ねん6月11にち1828ふん、トップをはしっていたジャガーマイク・ホーソーン周回しゅうかいおくれのオースチン・ヒーレーいた直後ちょくごきゅう減速げんそくしてピットイン。後続こうぞくのオースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリン追突ついとつけようと進路しんろ変更へんこうしたところへ、メルセデス・ベンツ運転うんてんするピエール・ルヴェーがけきれずに衝突しょうとつげ、空中くうちゅうがった。

ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁そくへき衝突しょうとつし、車体しゃたい分解ぶんかいして炎上えんじょう衝撃しょうげきでエンジンとサスペンションがそのままのいきおいで観客かんきゃくせきみ、観客かんきゃく、スタッフ、そしてルヴェーもふくめて死者ししゃ86にん負傷ふしょうしゃ200にんというだい事故じことなった。当時とうじのサーキットにはピットとコースをさえぎるピットウォールが存在そんざいせず、またピットロードも存在そんざいしていなかった。これはサルト・サーキットも同様どうようで、ピットまえでの接触せっしょく事故じここう頻度ひんどきていたとされる。

なお、レースは事故じこ続行ぞっこうされた。「たとえどんな惨事さんじきようとも、たたかつづけるのがスポーツのルールである」ということが理由りゆうであったほか、レースを中断ちゅうだんすると帰路きろについた観客かんきゃくがサーキットのまわりや周辺しゅうへん道路どうろふさぎ、救急きゅうきゅうしゃうごけなくなるといった事態じたいふせぐための主催しゅさいしゃがわ判断はんだんによるものであった[5]優勝ゆうしょうしゃ皮肉ひにくにも、だい惨事さんじ発端ほったんとなったホーソーンであった。

この事故じこ映像えいぞうは、映画えいがグレート・ドライバー原題げんだい"Fangio")』とうることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時とうじかれ後方こうほう走行そうこうし、コクピットからその一部始終いちぶしじゅう目撃もくげきしていたファン・マヌエル・ファンジオは、この映画えいがなかで「ホーソーンのピットインが物議ぶつぎかもしたが、ピット手前てまえ360 mからの減速げんそくでルールじょう問題もんだいはなかった。マクリンがホーソーンを左側ひだりがわからし、さらにべつの1だいカール・クリングのメルセデス)がコース左側ひだりがわからピットにかって進路しんろみぎえた結果けっか、ルヴェーがうしな悲劇ひげきまねいた。自分じぶん奇跡きせきてき無傷むきず現場げんば通過つうか出来できたが、背後はいご地獄じごくだった」とべ、いわゆるレーシングアクシデント(特定とくていのドライバーの責任せきにんしないレースちゅうのアクシデント)であったことを模型もけいもちいて解説かいせつしている。なお、事故じこ調査ちょうさでファンジオのメルセデスの車体しゃたいにホーソーンのジャガーの塗装とそうがこびりいていたことでごくわずかに接触せっしょくしていたことが判明はんめいし、ファンジオが突然とつぜんピットインしたホーソーンのマシンをかろうじて回避かいひできたことを証明しょうめいしている。

メルセデス・チームはトップを走行そうこうしていたが、事故じこ発生はっせいから7あいだはんぜんマシンをもどして棄権きけんした。そして事故じこ一部始終いちぶしじゅうたりにしたファンジオはその多大ただい精神せいしんてきショックから、それ以来いらい生涯しょうがいル・マンに姿すがたせることはなかった。事故じこの10ふんには大破たいはしたマシンの残骸ざんがいをメルセデスのスタッフが必死ひっしになって回収かいしゅうしていたことが確認かくにんされ、これにかんしてのちに「ニトロメタンなど特殊とくしゅ添加てんかざいもちいていたのではないか」と(事故じこ原因げんいんとは関係かんけいない)レギュレーション違反いはんうたがこえがあったが、これについてファンジオは「あんな素晴すばらしいくるまにそんなものいらないよ」とわらばし、アルトゥル・ケザーは「燃料ねんりょう噴射ふんしゃシステム秘密ひみつられないため」という趣旨しゅし発言はつげんをしている[6]

「モータースポーツの安全あんぜんせい」というてんおおきな疑問ぎもんげかけたこの事故じこ影響えいきょう非常ひじょうおおきく、のちひらかれる予定よていだったスペインと西にしドイツのグランプリレースは中止ちゅうし、フランスとイタリアでも政府せいふ許可きょかるまでモータースポーツは開催かいさいされず、スイスいたってはモータースポーツそのものが禁止きんしされる[注釈ちゅうしゃく 3]など、ぜん世界せかいおおきな影響えいきょうのこした。F1例外れいがいではなく、1955ねん主催しゅさいしゃがキャンセルするなどして3せん中止ちゅうしになっているが、そののモータースポーツ全体ぜんたいでの安全あんぜんせい向上こうじょういしずえにもなっている。

この事故じこ詳細しょうさいしるした書籍しょせきとして『のレース 1955ねん ルマン』が存在そんざいする。事故じこから20ねん当事とうじしゃ1人ひとりであるランス・マクリンが著者ちょしゃ電話でんわはじめてかした事実じじつほかに、写真しゃしん関係かんけいしゃ証言しょうげんふくめた事故じこ詳細しょうさい当事とうじしゃであるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物じんぶつぞうやレース動向どうこうあらわされている。

メルセデス自体じたいも、1985ねんのル・マン24あいだレースザウバー・C8にて復帰ふっきするまで、30ねんにわたってモータースポーツかいから姿すがたすこととなった。復帰ふっきの1999ねんにも、このとし投入とうにゅうしたばかりのCLRが3にわたってちゅう事態じたい見舞みまわれ、「1955ねん悪夢あくむふたたび」とさわがれた。これをけてメルセデスはふたたびル・マンから撤退てったいし、2023ねん現在げんざい参戦さんせんしていない。

マクリンは後年こうねん、モータースポーツの世界せかいはなれてカーディーラー経営けいえいしゃとなったが、2002ねんにこのっている。

フェラーリとフォード

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フェラーリ・250LM(1965ねん
 
フォード・GT40Mk2(1966ねん

1960ねんから1963ねんにかけてル・マン24あいだレースを3連覇れんぱするなど、1960年代ねんだい初頭しょとうのスポーツカーレースで最強さいきょう君臨くんりんしていたフェラーリは、モータースポーツへの過剰かじょう投資とうしや、当時とうじイタリア北部ほくぶ勢力せいりょくしていたイタリア共産党きょうさんとうなどの左翼さよく政党せいとう後援こうえんした労使ろうし紛争ふんそうとそれがもたらしたストライキ、さらには創業そうぎょうしゃエンツォ・フェラーリつまのラウラによる現場げんばへの介入かいにゅうによって、1961ねん11月にはカルロ・キティ主要しゅようメンバーによるクーデター勃発ぼっぱつし、キティやジオット・ビッザリーニら役員やくいん8めいるなどの事件じけんきたことも影響えいきょうし、経営けいえい苦境くきょうおちいった。

その、1963ねんにはスポーツカーレースでの活躍かつやくのぞんでいたヘンリー・フォード2せいひきいるフォード・モーター買収ばいしゅうされることになり、マラネッロ本社ほんしゃ契約けいやく直前ちょくぜんまでぎつけた。しかし、金銭きんせんめん最終さいしゅうてきわなかったこと、さらにはモータースポーツ部門ぶもんつづ統括とうかつしたかったエンツォの判断はんだんにより、急遽きゅうきょ白紙はくし撤回てっかいされた。この背景はいけいには、フェラーリを他国たこく企業きぎょうわたしたくなかったフィアット・グループのトップ、ジャンニ・アニェッリ意向いこう影響えいきょうしていたといわれる。

これにおこったヘンリー・フォード2せいは、フェラーリをやぶることを目指めざして、当時とうじ「モータースポーツ史上しじょう最高さいこうがく」ともわれるほどの多額たがく投資とうしをしてGT40開発かいはつし、アメリカ国内外こくないがい選手権せんしゅけん経験けいけんみつつ、1964ねんにル・マン24あいだレースに参戦さんせんした。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マンけに開発かいはつしたフェラーリ・250LM/275Pたいして、ノウハウがないフォードは苦戦くせん連敗れんぱいきっした。

フォードではキャロル・シェルビーひきいるシェルビー・アメリカンのたすけをりてマシンを改良かいりょうし、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験けいけん豊富ほうふなドライバーをようして6だいもの大量たいりょうエントリーをすることで1966ねんはつ優勝ゆうしょうかざった。そのはフェラーリがF1集中しゅうちゅうしたこともあって、以降いこうすう年間ねんかんのル・マンはフォードが連勝れんしょうすることになる。

現在げんざい、フェラーリはLM-GTEに参戦さんせんするプライベートチームへのマシンの提供ていきょうというかたちでル・マンにかかわっている一方いっぽう、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰ふっきしていたものの、2019ねん撤退てったいした。

映画えいが俳優はいゆう参戦さんせん

編集へんしゅう
 
パトリック・デンプシー(2009ねん
  • 映画えいが栄光えいこうのル・マン」で主演しゅえんつとめたスティーヴ・マックイーンは、1970ねんセブリング12あいだレースで2入賞にゅうしょうするなどレーシングドライバーとしても活躍かつやくしており、どう映画えいがでも代役だいやくてず実際じっさいにマシンをはしらせていた。その正式せいしきレースに出場しゅつじょう希望きぼうしたが、周囲しゅういからのもう反対はんたいってむなく断念だんねんせざるをなくなり、かれ生涯しょうがいそれをくやしがっていたという。のち息子むすこチャド・マックイーン出場しゅつじょうたしている。
  • ポール・ニューマン1979ねん2となったが、レースちゅうからずっとパパラッチがしつこくいてくることに嫌気いやけし、それ以降いこうエントリーすることはなかった。
  • 近藤こんどう真彦まさひこ1994ねんはつ出場しゅつじょうし、1995ねんNISMO日産自動車にっさんじどうしゃ)からワークスチームドライバーとして参戦さんせんし、あめれた展開てんかいとなったレースで総合そうごう10完走かんそう2002ねんには監督かんとくけんドライバーとしてみずからのチームで参戦さんせんし、2003ねんには総合そうごう13完走かんそうたした。
  • パトリック・デンプシー2009ねんはつ出場しゅつじょうし、2013ねんみずからのチームで出場しゅつじょうしLMGTE-Amクラス3走行そうこう表彰台ひょうしょうだいとどきそうだったが、しくも4わった。2015ねんは、LMGTE-Amクラス2入賞にゅうしょう念願ねんがんはつ表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。さらに富士ふじスピードウェイおこなわれたFIA世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけん最終さいしゅうせんでクラス優勝ゆうしょうしている。

ユノディエールとその分割ぶんかつ

編集へんしゅう
 
ユノディエール

ユノディエールは6kmにおよ直線ちょくせんであり、300 km/hではしっても1ふん以上いじょうかかった。最高さいこう速度そくどが400 km/hにちかづくにつれて54びょうほどではしるマシンが登場とうじょうしたが、非常ひじょうなが時間じかんアクセルを全開ぜんかいにして猛烈もうれつなスピードでけることになり、とく夜間やかんくるまのヘッドライトだけがたよりとなる。

日本にっぽんチームとして最初さいしょ参戦さんせんしたシグマ・オートモーティブ(サード)の監督かんとくつとめた加藤かとうしんは、ユノディエールをはしるマシンをて「マシンが悲鳴ひめいげているようにおもえ、日本人にっぽんじんドライバーには事前じぜんせないほう無難ぶなんではないか」という印象いんしょうった。

WM・セカテバ・プジョーは、成績せいせきよりもこのユノディエールの直線ちょくせんにおける最高さいこう速度そくど記録きろく注力ちゅうりょくし、1988ねん407 km/h公式こうしき記録きろくのこしている。しかし、実際じっさいには計測けいそくされていないだけで400 km/hをえたマシンは数多かずおおくあったといわれており、1989ねんにはメルセデス・ベンツのザウバー・C9決勝けっしょう走行そうこうちゅうに400 km/hを記録きろくした。

国際こくさい自動車じどうしゃスポーツ連盟れんめい(FISA、国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい)は、安全あんぜんせい観点かんてんから2 km以上いじょう直線ちょくせんみとめないむねのルールを作成さくせいし、ユノディエールを分割ぶんかつするよう圧力あつりょくをかけた。フランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブは「これこそがル・マンの特徴とくちょうである」と主張しゅちょうし、1989ねん世界せかいスポーツプロトタイプカー選手権せんしゅけんえい: World Sports Prototype Championship, WSPC)からはずれて対抗たいこうしたが、FISAは命令めいれいしたがわなければ国際こくさい格式かくしきレースとしてみとめないむね通告つうこくした。そのままではフランス国外こくがいからの参加さんかができなくなるため、急遽きゅうきょユノディエールにシケインを2かしょ挿入そうにゅうするコース改修かいしゅうがなされたが、工事こうじ完成かんせい1990ねんのレース直前ちょくぜんとなり、2かげつまえにFISAのコース査察ささつけなければならなかったため、1990ねんWSPCからははずれることとなった。

各国かっこく自動車じどうしゃメーカーの活動かつどう

編集へんしゅう

地元じもとでもありだいいちかい1923ねんにシェナール&ウォルカーが総合そうごう優勝ゆうしょうしたのをふく初期しょきには有力ゆうりょくであった。

ロレーヌ・ディートリッシュ
1925ねん1926ねん連覇れんぱしている。
ブガッティ
1937ねん1939ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしている。
ドライエ
1938ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしている。
DB/ボネ/マートラ
DB戦後せんご最初さいしょ開催かいさいされた1949ねんから1961ねんまでの長年ながねんやすみなしで参戦さんせんし、性能せいのう指数しすうしょう1954ねん1956ねん1959ねん1960ねん1961ねん獲得かくとくしている。オトモビル・ルネ・ボネ体制たいせいになってからも1963ねんまで継続けいぞくして参戦さんせんした。このころ総合そうごう優勝ゆうしょうねらえるちからはなかったが、さらにそのマトラ体制たいせいになり1966ねんから参戦さんせん1972ねんには総合そうごう優勝ゆうしょう、その1973ねん1974ねんさん連覇れんぱした[7]
タルボ
1950ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしている。なお下記かきのプジョーで1992ねんから1993ねんにかけて優勝ゆうしょうしたレースチームめいは、プジョー・タルボ・スポールである。
アルピーヌルノー
1978ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしている。
ロンドー
地元じもとそだったジャン・ロンドーは、自分じぶん名前なまえかんしたマシンでルマンに優勝ゆうしょうするというゆめ1980ねんたした。
プジョー
1992ねん1993ねん2009ねん総合そうごう優勝ゆうしょうした。
ベントレー
当初とうしょより参戦さんせんし、1924ねんだい2かい大会たいかいでフランス以外いがい外国がいこくしゃとしてはつ優勝ゆうしょう富裕ふゆうそう出身しゅっしんのドライバーたちは「ベントレー・ボーイズ」とばれた。1927ねんから1930ねんまで4連勝れんしょうし、黎明れいめい非常ひじょうおおきな足跡あしあとのこした。2001ねんにはアウディグループ傘下さんかでル・マンへ復帰ふっきし、2003ねんスピード8が73ねんぶりの総合そうごう優勝ゆうしょうたした。
ジャガー
先駆せんくてきなメカニズムをCタイプ1951ねん1953ねん勝利しょうりDタイプ1955ねんから1957ねんまで3連勝れんしょう。またトム・ウォーキンショーんで1988ねん1990ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしている。
ロータス
1954ねん創始そうししゃコーリン・チャップマンみずかマーク9英語えいごばん参戦さんせんし、失格しっかくとなったもののそのはやさは国際こくさいてきにロータスのられるきっかけとなった[8]参戦さんせん2かい1956ねんにはイレブン英語えいごばんで1,100ccクラス優勝ゆうしょう総合そうごう7入賞にゅうしょうたした。1962ねんロータス・23英語えいごばんを3だいんだが、フロントとリアのホイールボルトすうちがうことから車検しゃけん通過つうかとなり、手直てなおししてさい車検しゃけんのぞむがその改造かいぞう危険きけんであると指摘してきされて決勝けっしょう出場しゅつじょうできず、これをきっかけにワークスは出場しゅつじょうりやめた。1997ねんエリーゼGT1参戦さんせん。2013ねんにはLMP2クラスにT128開発かいはつコデワ)を投入とうにゅうした。
その
アルファロメオ
8C1931ねんから1934ねんまで4連覇れんぱした。
フェラーリ
創業そうぎょうあいだもない1949ねんはつ優勝ゆうしょう。その1954ねん1958ねん勝利しょうり1960ねんから1965ねんまで6連覇れんぱとル・マンの盟主めいしゅ君臨くんりんしていたが、1966ねんフォード物量ぶつりょう作戦さくせんやぶれた。1973ねん撤退てったいした。1994ねんからプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40投入とうにゅうしたが過去かこようなワークスとしての参加さんかではなかった。2023ねんには50ねんぶりにル・マン24あいだレースのトップカテゴリー(LMH)に復帰ふっきし、ワークスマシンとなる「499P」を投入とうにゅう。ここまでル・マンを5連覇れんぱしていたトヨタをLMHクラス参戦さんせん初年度しょねんどにもかかわらずやぶり、ル・マン100周年しゅうねん節目ふしめかつ復帰ふっき初年度しょねんど総合そうごう優勝ゆうしょうかざった。
ランチア
1982ねんにグループ6のLC1参戦さんせんしたが、ポルシェ・956まえ惨敗ざんぱいわった。1983ねんからグループCのLC2にて参戦さんせんし、とくにポルシェワークスが欠場けつじょうした1984ねん注目ちゅうもくあつめたが、このときヨースト・レーシング惨敗ざんぱいした。
ポルシェ
  • 1951ねん、いまだフランスでドイツにたいする風当かぜあたりがつよなか競技きょうぎちょうであるシャルル・ファルーの招聘しょうへいによりポルシェ・356参加さんかし、これがドイツしゃ戦後せんごはつ国際こくさいレースへの参加さんかとなった。ながらく908、910とうちゅう排気はいきりょうしゃによるクラス優勝ゆうしょうつづけたのちポルシェ・917開発かいはつして1970ねんはつ総合そうごう優勝ゆうしょうたした。その1971ねん1976ねん1977ねん1979ねん1981ねんから1987ねんまで7ねん連続れんぞく総合そうごう優勝ゆうしょうし、耐久たいきゅうおうせた。
  • 1994ねんダウアー・ポルシェ1996ねん1997ねん1984ねん1985ねんにもんだヨースト・レーシング1998ねんTWRポルシェ連名れんめい優勝ゆうしょうした。ワークスチームとしての参加さんかは1998ねん優勝ゆうしょう以降いこうはしばらくとおのく。
  • 2014ねんよりLMP1マシンでル・マンへ復帰ふっきよく2015ねんのレースで17ねんぶり17度目どめ優勝ゆうしょう2016ねんはトヨタとトップあらそいをひろげたが、最後さいご最後さいごでトヨタを逆転ぎゃくてんして18度目どめ優勝ゆうしょうかざった。2017ねんはLMP1の全車ぜんしゃがトラブルに見舞みまわれた影響えいきょうで、終盤しゅうばん時点じてんでもLMP2の車両しゃりょう総合そうごう首位しゅいにつけていたが、いち優勝ゆうしょうあらそいから脱落だつらくした2号車ごうしゃティモ・ベルンハルトアール・バンバーブレンドン・ハートレイくみ)がのこり1あいだ逆転ぎゃくてんし19度目どめ優勝ゆうしょうかざった。その1かげつ、ポルシェはFIA 世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけんから2017ねんシーズンかぎりで撤退てったいすることを発表はっぴょうした。
メルセデス・ベンツ
1952ねん総合そうごう優勝ゆうしょうするなど強豪きょうごうであったが、1955ねんだい事故じこ撤退てったいし、そのながらくモータースポーツ自体じたい参加さんかしない時期じきつづいた。1985ねんからザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用しようし、1988ねんからワークス参戦さんせんとなり、1989ねんには総合そうごう優勝ゆうしょうたしている。
1955としだい惨事さんじ、1988としはタイヤバースト、1999としCLRが3ちゅううアクシデントによって、3もレース撤退てったい決断けつだんいられ、「西暦せいれき2けたぞろのジンクス」がささやかれた。
BMW
  • 1995ねん優勝ゆうしょうしたマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ(BMW M)GmbHせいBMW・8シリーズ#M8のS70/2がたというコードがつけられたエンジンが搭載とうさいされていた。6.1LVがた12気筒きとうDOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。
  • 1999ねんにはル・マン24あいだレース参戦さんせんようにBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカーBMW・V12 LMR共同きょうどう開発かいはつ。このマシンで同年どうねん、BMWとしてははつのル・マン総合そうごう優勝ゆうしょうかざった。同年どうねん開発かいはつしていたフライホイールしきKERSはその、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしたアウディが投入とうにゅうしたR18 e-tron クワトロにも提供ていきょうしていた。
アウディ
  • 1999ねんはつ出場しゅつじょうで3入賞にゅうしょう。その、21世紀せいきはいると圧倒的あっとうてきなペースで優勝ゆうしょうかさねる一方いっぽうで、参戦さんせん初年度しょねんどからの様々さまざま記録きろく更新こうしんつづけていることから「ル・マンの鉄人てつじんメーカー」の異名いみょういている。
  • R8開発かいはつ2000ねんから2002ねんあらきよし日本人にっぽんじん2にんのル・マン優勝ゆうしょうをもたらした2004ねん、そして2005ねん総合そうごう優勝ゆうしょう達成たっせい
  • よく2006ねん投入とうにゅうしたアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上しじょうはつディーゼルエンジン搭載とうさいしゃによる総合そうごう優勝ゆうしょうくわえ、2007ねん2008ねんと2度目どめの3連覇れんぱわせて2004ねんから2008ねんまで5連覇れんぱ達成たっせいした。
  • 2010ねんにはそう走行そうこう距離きょり最長さいちょう記録きろく更新こうしんして総合そうごう優勝ゆうしょうし、2011ねんに10しょうげた。2012ねんにはアウディ・R18 e-tron クアトロはつのハイブリッドシステム搭載とうさいしゃとして総合そうごう優勝ゆうしょう達成たっせいした。
  • 2016ねんかぎりでル・マンをふくむWECおよびプロトタイプレース活動かつどうからの撤退てったい表明ひょうめい同時どうじ達成たっせいした参戦さんせん初年度しょねんどから撤退てったいまでの18年間ねんかんすべてにおよぶル・マンの連続れんぞく表彰台ひょうしょうだい入賞にゅうしょう記録きろく史上しじょうはつかつ前人未到ぜんじんみとう最長さいちょう記録きろくとなった。
カニンガム
カルフォルニアのだい富豪ふごうブリッグス・カニンガムが自分じぶん財産ざいさんをつぎんでキャデラックのレーシングバージョンを製作せいさくし、1950年代ねんだい参戦さんせんしていた。
シャパラル
テキサスの石油せきゆおうジム・ホールが個人こじん資産しさんつくった自動車じどうしゃ研究所けんきゅうじょそらりょく特性とくせい車両しゃりょう独自どくじ方針ほうしんしたがって開発かいはつし、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援しえんけて参戦さんせんした。
フォード
1963ねんシェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦さんせんし、スターリング・モスがマネージャーをつとめるACカーズが総合そうごう7入賞にゅうしょうし、これをフォード評価ひょうかしてGTプロジェクトにつながった。フォードはフェラーリ買収ばいしゅう失敗しっぱいし、フォード・GT投入とうにゅうした1965ねんのル・マンでも惨敗ざんぱい最終さいしゅうてきにシェルビー・アメリカンの協力きょうりょく大量たいりょうにエントリーし1966ねん勝利しょうり、これがアメリカしゃはつ勝利しょうりとなった。フォードは1969ねんまで4連覇れんぱ撤退てったいした。
パノス
シボレー

日本にっぽん

編集へんしゅう

ル・マンにはじめて日本にっぽん自動車じどうしゃメーカーのエンジンが登場とうじょうしたのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進せんしんこく主要しゅよう自動車じどうしゃ生産せいさんこくとしてはもっとおそ1970ねんである。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダせい10Aがたロータリーエンジン搭載とうさいしたものだった。

1970年代ねんだいは、排気はいきガス規制きせい対策たいさくオイルショックによって自動車じどうしゃメーカーのレース活動かつどう停滞ていたいしており、シグマオートモーティブ童夢どうむなどのプライベーターたちの地道じみち活動かつどうからル・マンへの挑戦ちょうせんはじまった。

1980年代ねんだい以降いこうマツダ日産自動車にっさんじどうしゃトヨタ自動車とよたじどうしゃ本田技研工業ほんだぎけんこうぎょうなどがワークス・じゅんワークスチームで参戦さんせんし、1991ねんにマツダがはつ総合そうごう優勝ゆうしょうたした。しかしマツダは1992ねん撤退てったいした。

2012ねんよりトヨタがさい挑戦ちょうせん。2018ねんには、ついにトヨタ・ガズー・レーシング中嶋なかじま一貴かずたか日本にっぽんチーム、日本にっぽんしゃというオールジャパンチームで総合そうごう優勝ゆうしょうかざった。2019ねんにもトヨタが2連勝れんしょうし、2020ねんにはLMP1規定きてい最後さいごとなるとしで3連覇れんぱたした。2021ねんにはLMH規定きてい初年度しょねんどとなるとしでトヨタは4連覇れんぱたすとともに、小林こばやしゆめえら悲願ひがんはつ優勝ゆうしょうかざった。2022ねんには平川ひらかわあきらはつ優勝ゆうしょうかざっている。なお(海外かいがいメーカーしゃ使用しようする)日本にっぽんチームや日本人にっぽんじんドライバーも優勝ゆうしょうしている。

マツダ
 
マツダ757(1988ねん
 
1991ねん総合そうごう優勝ゆうしょうしたマツダ787B
マツダは日本にっぽんぜいとしてはもっとふるく1970年代ねんだいからル・マン24あいだレースに参戦さんせんしていた。途中とちゅう1984ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのチームがマツダ・ロータリーエンジンをんだBFグッドリッチマツダローラを2だいエントリーし、うち1だい総合そうごう10・C2クラスでは優勝ゆうしょうという成績せいせきのこしている[9]。僚車であるもういちだいのBFグッドリッチマツダローラは総合そうごう12入賞にゅうしょう、マツダワークスとして参加さんかした727Cの2だい完走かんそうたし、4だいでダイヤモンドフォーメーションをんでゴールした。
レギュレーションの変更へんこうともなロータリーエンジン参加さんかできるのは1990ねんまでとなり、1990ねんのル・マン24あいだレースマツダ・787投入とうにゅうしたが惨敗ざんぱいした。しかし1990ねんあき各社かくしゃしん規格きかくプロトタイプカーの準備じゅんびととのわないことからよく1991ねんもロータリーエンジンの出場しゅつじょうみとめられることになった。
1991ねん日本にっぽんのメーカーとしてはじめて総合そうごう優勝ゆうしょうたした。優勝ゆうしょう車両しゃりょうマツダ・787B、ドライバーはジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・ヴァイドラー同時どうじ参戦さんせんしていたほかの2だいも6と8はいった。なおこのとしはファイナルラップちゅうに24あいだのゴールタイムをむかえたため終了しゅうりょうまえ観客かんきゃくがコースになだれんでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーをけることになってしまった。さらにゴールにドライブしていたジョニー・ハーバートが脱水だっすい症状しょうじょうこし、ゴール直後ちょくご医務いむしつ搬送はんそうされたために表彰台ひょうしょうだい姿すがたあらわさない一幕ひとまくもあった。
だい資本しほんをバックに大々的だいだいてき参戦さんせんしてきたほか日本にっぽんぜいちがい、ロータリーエンジンという独自どくじ技術ぎじゅつとともに、なが年月としつきをかけて地道じみち参戦さんせんつづけてきたマツダの総合そうごう優勝ゆうしょうは、おおくの地元じもと観客かんきゃくのみならず、参戦さんせんワークスチームや世界中せかいじゅうのモータースポーツファンからおおきな賞賛しょうさんびた[独自どくじ研究けんきゅう?]
このとき優勝ゆうしょうした55号車ごうしゃほどこされていたレナウン・チャージカラーの塗装とそうは、スポンサーであったレナウン当時とうじ社長しゃちょうがルマン以前いぜんのマツダのたたかいをにし「こりゃつのは無理むりだ。じゃあとにかく目立めたて」と指示しじし、レナウンの社内しゃないデザイナーが布地ぬのじアーガイルがらをベースに考案こうあんしたものである[よう出典しゅってん]
このとし最後さいご事実じじつじょうロータリーしゃされるため、当初とうしょ1991ねんをもってレースから撤退てったいする予定よていであったが、優勝ゆうしょうしたために急遽きゅうきょレシプロエンジン車両しゃりょうであるマツダ・MX-R01開発かいはつし、1992ねんディフェンディングチャンピオンとして参戦さんせん総合そうごう4入賞にゅうしょうするが、マツダの業績ぎょうせき悪化あっかともない、このとし最後さいご撤退てったいした。
その、レギュレーション改正かいせいによりロータリーエンジンが解禁かいきんされると1994ねんにモータースポーツ部門ぶもんであるマツダスピードがRX-7GTO(FC3S)で単独たんどく参戦さんせん久々ひさびさにル・マンにロータリーサウンドを復活ふっかつさせ、そのはマツダスピードや寺田てらだ陽次ようじろうひきいるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載とうさいマシンがル・マンをはしっているが、その撤退てったい余儀よぎなくされている。
 
日産にっさん・R390
日産にっさん
日産にっさんはつ参加さんか1986ねんニスモからのエントリーである。前年ぜんねんWEC-JAPAN制覇せいはしたR85VR86Vの2だい体制たいせい。R85Vが16完走かんそうした。
2ねん以降いこうR87ER88C)は苦戦くせんするが、参戦さんせん4ねん1989ねん、ローラと共同きょうどう開発かいはつR89Cで、日本にっぽんしゃとしてはじめてトップあらそいにくわわるが、3くるまともリタイヤにわった。
よく1990ねんには、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からエントリーしたR90CK日本にっぽんしゃはつポールポジション獲得かくとくするも、決勝けっしょうではリタイア。日本にっぽんニスモ)からエントリーしたR90CP予選よせん3決勝けっしょう5健闘けんとうした。
そのしばらく参戦さんせん休止きゅうしするが、1995ねんGTR-LMロードゴーイングバージョンベースのニスモGT-R-LMで復帰ふっき1997ねんからは本格ほんかくてきGT-1マシンである日産にっさん・R390参戦さんせんした。1998ねんには星野ほしの一義かずよし鈴木すずき久里くさと影山かげやま正彦まさひこのドライブするR390が総合そうごう3入賞にゅうしょうし、じゅん日本人にっぽんじんドライバーチームがはじめて表彰台ひょうしょうだいがった。このとし日産にっさんから4だいがエントリーしたが、すべて10以内いない完走かんそうした。よく1999ねんにも日産にっさん・R391参戦さんせんするがリタイヤ。よく2000ねんにもニスモがR391によるル・マン参戦さんせん計画けいかくしていたが、この頃日けいじつさんのCEOに就任しゅうにんしたカルロス・ゴーン判断はんだんにより撤退てったい余儀よぎなくされている。
2015ねんには日産にっさん・GT-R LM NISMO参戦さんせんしたが、全車ぜんしゃ完走かんそうまたはリタイアと結果けっかわった。その再度さいど撤退てったい余儀よぎなくされている。
 
トヨタ・GT-One TS020(1999ねん
トヨタ
トヨタが「ワークス」として参戦さんせんするようになったのは1987ねんからで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。よく1988ねんには88Cが12完走かんそうしている。1990ねんには90C-Vが6入賞にゅうしょう。1ねん参戦さんせん中断ちゅうだんのち1992ねんTS010復帰ふっきしたが、あめなかのレースでプジョーにやぶれ、結局けっきょく総合そうごう2にとどまった。
1994ねんにはサードからトヨタ94C-V参戦さんせんし、シフトリンケージがこわれあといちのところで総合そうごう優勝ゆうしょうのがし、総合そうごう2、クラス優勝ゆうしょうとなった。
久々ひさびさ復帰ふっきとなった1998ねんトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)をつうじて出走しゅっそうしたTS020圧倒的あっとうてきはやさをせたが、終了しゅうりょう30ふんまえにリタイア。また1999ねんには片山かたやま右京うきょう土屋つちやけい鈴木すずき利男としおくみが1998ねん仕様しよう同型どうけいの3号車ごうしゃでの出場しゅつじょうながらトップにせま快走かいそうせたが、タイヤバーストに見舞みまわれ総合そうごう2わった。トヨタは2002ねんからのF1参戦さんせん集中しゅうちゅうするため同年どうねんかぎりで参戦さんせん休止きゅうしした。
なお先述せんじゅつのTTEの前身ぜんしんはラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちのトヨタF1実働じつどう部隊ぶたいであるトヨタ・モータースポーツ(TMG)の母体ぼたいとなった組織そしきである。ル・マン参戦さんせんまえWRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦さんせんし、選手権せんしゅけん制覇せいはしている。
2012ねんにはハイブリッドカーTS030 HYBRIDで13ねんりにル・マン復帰ふっき。2だい参戦さんせん予選よせんで3になり、決勝けっしょうでもトップあらそいをひろげたものの、1だい周回しゅうかいおくれのくるまからんでクラッシュ、のこる1だいもトラブルでリタイアした。2013ねんには、決勝けっしょうで2入賞にゅうしょうしんモデルのTS040 HYBRIDのぞんだ2014ねんでは、予選よせんで7号車ごうしゃ中嶋なかじま一貴かずたか日本人にっぽんじんはつポールポジション獲得かくとく中嶋なかじま本選ほんせん途中とちゅうリタイアだったがもう1だいの8号車ごうしゃ決勝けっしょうでは3入賞にゅうしょうした[10][11]2015ねん参戦さんせんしたもののライバルにスタートから終始しゅうし圧倒あっとうされつづけてしまい、完走かんそうしたものの2だいとも表彰台ひょうしょうだいのぼることはできなかった。2016ねんはマシンをTS050 HYBRID変更へんこうし、ポルシェと最後さいごまではつ総合そうごう優勝ゆうしょうがほぼ確実かくじつおもわれた終盤しゅうばんのこり3ふん、トップをはしっていた5号車ごうしゃがマシントラブルによりストップしポルシェに逆転ぎゃくてんゆるした[12]。なおのこった6号車ごうしゃが2でチェッカーをけている[13]
 
トヨタ・TS050 HYBRID 8号車ごうしゃ
東京とうきょうオートサロン2019にて)
2018ねんはTS050 HYBRID 8号車ごうしゃセバスチャン・ブエミ中嶋なかじま一貴かずたかフェルナンド・アロンソくみ悲願ひがんはつ優勝ゆうしょうかざった。8号車ごうしゃはポールポジションからスタートをり、ポールトゥーウィン快挙かいきょたした。2にもTS050 HYBRID 7号車ごうしゃマイク・コンウェイ小林こばやしゆめえらホセ・マリア・ロペスくみはいった。途中とちゅう7号車ごうしゃ小林こばやしがピットインのタイミングをわすいち燃料ねんりょう懸念けねんしょうじセーフティモード走行そうこう意図いとてきにスローダウンせざるをなかったなど人為じんいてきミスはあったものの、8号車ごうしゃと7号車ごうしゃさい前列ぜんれつスタートからいちもトップ2をゆずらないレースはこびで、ル・マン24あいだレース完全かんぜん制覇せいはたした。日本人にっぽんじん運転うんてんする日本にっぽんしゃ優勝ゆうしょうしたのは史上しじょうはつ
2019ねん途中とちゅうトップを快走かいそうしていた7号車ごうしゃがパンクし失速しっそくした。そのもトラブルに見舞みまわれる過酷かこくなレースになったが、中嶋なかじま一貴かずたかとフェルナンド・アロンソらの8号車ごうしゃ優勝ゆうしょう小林こばやしゆめえららの7号車ごうしゃが2はいり2ねん連続れんぞくのワンツーフィニッシュをかざった[14]
2020ねん新型しんがたコロナウイルス影響えいきょう観客かんきゃく開催かいさいとなったなか、セバスチャン・ブエミ、中嶋なかじま一貴かずたかブレンドン・ハートレイくみの8号車ごうしゃが3連覇れんぱたした。
2021ねんは2ねんぶりにゆう観客かんきゃく開催かいさいとなり、しん規定きていのLMH車両しゃりょうGR010 HYBRID投入とうにゅう序盤じょばん接触せっしょくやトラブルに苦戦くせんしつつも着実ちゃくじつなレースはこびでワンツーフィニッシュをかざりトヨタとして4連覇れんぱたした。また、7号車ごうしゃのマイク・コンウェイ、小林こばやしゆめえら、ホセ・マリア・ロペスぐみはつ優勝ゆうしょうかざり、セバスチャン・ブエミ、中嶋なかじま一貴かずたか、ブレンドン・ハートレイの8号車ごうしゃが2となった。
 
NSXル・マンレーサー
ホンダ
1994ねんからホンダNSX GTにより参戦さんせんはじめた。初年度しょねんどはクレマーレーシングとのタイアップにより3だい参戦さんせんし、すうおおくのトラブルに見舞みまわれ下位かいしずむも、全車ぜんしゃ完走かんそうたした。
2ねん1995ねんはTCPエンジニアリングが製作せいさくしたGT1を3だい(ターボ車両しゃりょう2だいおよNA車両しゃりょう1だい)、GT2を2だいチーム国光こっこうおよ中嶋なかじま企画きかく)エントリーさせたが、GT1ターボ車両しゃりょう中嶋なかじま企画きかくとがアクシデントにより予備よび予選よせん通過つうかできなかった。ターボしゃいちだいいたっては、原因げんいん不明ふめいのトラブルでコースにることすらできずに予備よび予選よせんちとなった。のち分解ぶんかいして調査ちょうさした結果けっか、カウルが電気でんき系統けいとうのハーネスをはさんでいたためにきた断線だんせん原因げんいんであることが判明はんめいしている。中嶋なかじま企画きかくはタイムアタックがうまくかずこうタイムをせないでいたところに、ピットアウトにオフィシャルが突然とつぜんマシンのまえしてねてしまうというアクシデントに見舞みまわれた。さいわいオフィシャルは軽傷けいしょうんだが、このためフロントウインドウを大破たいはし、その補修ほしゅう手間取てまどるうちにタイムアタックの機会きかいうしない、予備よび予選よせん時間じかん終了しゅうりょうとなってしまった。チームがわはこれを不服ふふくとして嘆願たんがんしょ提出ていしゅつして抗議こうぎしたが、再度さいどのタイムアタックは受理じゅりされず、結局けっきょく決勝けっしょう進出しんしゅつたせなかった(十勝とかち24あいだレース鈴鹿すずか1000kmでもチーム国光こっこうとはまった明暗めいあんかれることとなる)。
決勝けっしょうレースでは、GT1クラスのターボしゃ序盤じょばんにリタイア、NAしゃ深夜しんやにクラッシュし、修復しゅうふくしたものの義務ぎむ周回しゅうかいすう不足ふそくとなり完走かんそうあつかいとならなかったが、悪天候あくてんこうなか果敢かかんめたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光こっこう高橋たかはし国光くにみつ/土屋つちやけい/飯田いいだあきらくみ)がGT2クラスでクラス優勝ゆうしょうたした。GT1クラスのターボエンジンしゃはル・マンののち鈴鹿すずかサーキットでテストをおこなっているが、それ以降いこう姿すがたしており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦さんせんはこのとしかぎりで終了しゅうりょうした。
1996ねんはGT2クラスにチーム国光こっこう1だいのみが参戦さんせんしたが、ライバルの進歩しんぽ上回うわまわりクラス3わった。結局けっきょくこのとし最後さいごに、ホンダのル・マン24あいだレースへの参戦さんせんまくじている。

日本にっぽんのプライベートチームの参戦さんせん

編集へんしゅう
シグマオートモーティブ
ル・マンにはじめて日本にっぽんのチームとマシンとドライバーが登場とうじょうしたのは1973ねんのシグマ・オートモーティブである。当初とうしょトヨタせいエンジンを搭載とうさいする予定よていだったが、トヨタからエンジンの供給きょうきゅうけられず、やむなくマツダせいの12Aロータリーエンジン購入こうにゅうして搭載とうさいした。このため、ル・マンに出場しゅつじょうしたMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーがえがかれていながら、マツダのエンジンを搭載とうさいした異色いしょくのマシンであった。シグマMC73は元々もともと富士ふじグランチャンピオンレースようのマシンで耐久たいきゅうせい問題もんだいがあり、クラッチトラブルにより79しゅうにリタイアした。
1974ねんはマツダオート東京とうきょう正式せいしきにジョイントし、24あいだはしったが、周回しゅうかいすう不足ふそく完走かんそうみとめられなかった。マツダオート東京とうきょうはエンジンのチューニングとメンテナンスを担当たんとうし、このときのル・マンへのおもいがのちのマツダのル・マン挑戦ちょうせんのきっかけとなったとわれている。なおこのときのドライバーの一人ひとりが、長年ながねん参戦さんせんつづけたことからのちに「ミスター・ル・マン」の異名いみょうることになる寺田てらだ陽次ようじろうである。
1975ねんはトヨタからのエンジン供給きょうきゅう実現じつげんし、2T-Gターボエンジンを搭載とうさいしたシグマ・MC75でエントリーしたが、結果けっかはエンジントラブルでリタイアとなった。
これを最後さいごにル・マン挑戦ちょうせんをやめたが、シグマ・オートモーティブを母体ぼたい設立せつりつされたサードがそのぎ、1990ねんにトヨタのワークスチームとしてル・マンさい出場しゅつじょうたした。1994ねんにはきゅうグループCカーを貸与たいよされ出場しゅつじょうエディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフくみが2表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくしている。1995ねん1996ねんには独自どくじ開発かいはつのGTマシン・サード・MC8RスープラLM-GT参戦さんせんした。
童夢どうむ(1979 - 1986ねん
1978ねんジュネーブモーターショーで、スーパーカー童夢どうむ-れい」を発表はっぴょうし、その玩具おもちゃライセンス収入しゅうにゅうをきっかけに1979ねんのル・マン24あいだレースはつ挑戦ちょうせんした。れいRLはF1よう販売はんばいされていたフォード・コスワース・DFVエンジン搭載とうさいしたが、1だいがエンジントラブルで、もう1だいもガスかけでリタイアした。
1980ねんれいRLをクローズドボディしたRL80を1だいエントリーし、最下位さいかいの25完走かんそうした。1981ねんは、前年ぜんねんおなじRL80で出場しゅつじょうしたが、エンジントラブルでリタイアした。
1982ねん、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジン搭載とうさいした童夢どうむRC82を製作せいさくしたが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983ねん、マーチとの提携ていけいは1ねん解消かいしょうされ、前年ぜんねんのマシンを改良かいりょうしたRC82あらため出場しゅつじょうしたが、マシントラブルでリタイアした。1984ねんRC-83出場しゅつじょうするものの、予選よせんでコースアウトしてマシンを大破たいはし、決勝けっしょう出場しゅつじょう辞退じたいした。現地げんちチームに貸与たいよしたRC82は予選よせん通過つうかするも決勝けっしょうはリタイヤ。
1985ねん童夢どうむ・トヨタ・トムスによる提携ていけい実現じつげんし、童夢どうむせい車体しゃたい当時とうじ市販しはんされていたグループB車両しゃりょうトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレースよう修正しゅうせいした4T-GTあらため搭載とうさいする85C-L出場しゅつじょう決勝けっしょうはトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lとばれるがほぼ同一どういつのマシンである。1986ねん前年ぜんねん同様どうよう体制たいせい86C-L出場しゅつじょうしたが、冷却れいきゃく系統けいとうのトラブルでリタイアした。このとしかぎりで童夢どうむだい1ル・マン参戦さんせんわった。
 
童夢どうむ・S101Hbi・ジャッド (2006ねんマシン)
2001ねんFIA スポーツカー選手権せんしゅけん(FIA SCC)参戦さんせんようくるまとしてオープンプロトタイプカーのS101開発かいはつすると、同車どうしゃ購入こうにゅうしたプライベーターによりル・マンにふたた参戦さんせんするようになった。なかでもヤン・ラマースひきいるRacing for Hollandが2001ねんから2007ねんまでル・マンに参戦さんせんし、2001ねん2003ねんには予選よせん4番手ばんて獲得かくとくするなど、打倒だとうアウディ・R8有力ゆうりょく候補こうほとして期待きたいされていたが、決勝けっしょうではトラブルになやまされることがおおく、最高さいこう2003ねん2004ねん総合そうごう6と、期待きたいされたほどの成績せいせきのこせなかった。
2005ねん以降いこうはル・マンのレギュレーション変更へんこうによりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、2008ねんには久々ひさびさ新車しんしゃとしてクローズドプロトタイプのS102開発かいはつしワークス参戦さんせん総合そうごう33)。2012ねんには改良かいりょうがたのS102.5でアンリ・ペスカロロ提携ていけいして4ねんぶりに復帰ふっきした。
2015ねんにはLMP2クラスにS103を投入とうにゅうし、ストラッカ童夢どうむの42号車ごうしゃとしてルマンを出走しゅっそうしたが、ミッショントラブルによりリタイアした。
マツダオート東京とうきょう(1979ねん、1981 - 1983ねん
1974ねんにシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦さんせんしたマツダオート東京とうきょうは、1979ねんみずからのチームで参戦さんせんたした。マシンはIMSA-GTO仕様しようサバンナRX7・252iであった。しかしマツダ本社ほんしゃのサポートをられず、マシンのテスト不足ふそくとチーム体制たいせい不備ふびにより結果けっか予選よせんちとなった。
よく1980ねんチーム体制たいせい構築こうちくのための参戦さんせん見合みあわせ、1981ねんさい挑戦ちょうせんをする。このさいトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携ていけいした。また1979ねん参戦さんせんしたさい食事しょくじめん配慮はいりょいたためしょくたりでドライバーの体調たいちょう不良ふりょうまねいた反省はんせいから、フランスで修行しゅぎょうちゅうだった料理人りょうりにんわき雅世まさよをチームの料理りょうりちょうむかえた。わき1991ねんまで料理りょうりちょうつとめることとなった。このとしはRX7・253を2だいをエントリーし2だいとも予選よせん通過つうかをしたものの決勝けっしょうはリタイアとなった。1982ねんはRX7・254を2だいエントリーし、1だいはエンジントラブルでリタイア、もういちだい寺田てらだ陽次ようじろう/したがえ孝司たかし/アラン・モファットぐみはガスかけ症状しょうじょうなやまされながらも14完走かんそう
1983ねん前年ぜんねん創設そうせつされたグループCのジュニアクラスに参戦さんせんし、マツダ・717を2だい製作せいさくした。2だい完走かんそうたしグループCジュニアクラスの1と2となったが、もともとこのクラスの参戦さんせんすくなく評価ひょうかはされていない。このとしTWRの都合つごう提携ていけい解消かいしょうした。その、マツダオート東京とうきょうのモータースポーツ部門ぶもん独立どくりつしてマツダ本社ほんしゃ傘下さんかマツダスピードとなり、以後いご活動かつどうワークス・チームによるものとなった。
トムス(1980ねん、1985 - 1986ねん
1980ねんトヨタ・セリカRA40けいベースのIMSA-GTXマシンはつ参戦さんせん予選よせんち。
1982ねん童夢どうむ共同きょうどう日本にっぽんはじめてグループCカーを開発かいはつWEC-JAPAN参戦さんせん1983ねん以降いこうWEC-JAPANおよび全日本ぜんにほん耐久たいきゅう選手権せんしゅけん全日本ぜんにほんスポーツプロトタイプカー耐久たいきゅう選手権せんしゅけん)にフル参戦さんせんするようになった。
1985ねん童夢どうむとともにトヨタエンジンを搭載とうさいした85C-Lで5ねんぶりにル・マンに参戦さんせんし12完走かんそう。これが事実じじつじょうトヨタのル・マンはつ参戦さんせんである。よく1986ねん86C-L参戦さんせんするが完走かんそうできなかった。1987ねん以降いこうはトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動かつどうになった。

その日本にっぽんのチーム、ドライバー

編集へんしゅう
 
関谷せきや手形てがたおさめられた優勝ゆうしょう記念きねんプレート
 
あらきよし(2010ねん
  • 1986ねんから1990ねんまで高橋たかはし国光くにみつがドイツ・クレマーレーシングのポルシェ・962C参戦さんせん最高さいこうは1988ねんの9当時とうじ日本人にっぽんじん最高さいこう記録きろく
  • 1987ねんには岡田おかだ秀樹ひできザウバーから参戦さんせん。リタイア。岡田おかだは88ねんから90ねんまでクレマーレーシングのポルシェで参戦さんせん最高さいこう高橋たかはし国光くにみつんだ88ねんで9
  • 1988ねん米山よねやま二郎じろう福山ふくやまえいろうがADAエンジニアリング(ADA・03)から参戦さんせんし、総合そうごう18でC2クラス2入賞にゅうしょうしている。片山かたやま右京うきょうクラージュ・コンペティション(クーガー・C22)で、はつ参戦さんせんリタイア。
  • 1989ねんでは、粕谷あらや俊二しゅんじクラージュ・コンペティション(クーガー・C20B)から参戦さんせんし、総合そうごう14でC2クラス優勝ゆうしょうたしている。またFromAレーシングがブルンとジョイントで参戦さんせん。レギュラードライバーの中谷なかたに明彦あきひこはつ出場しゅつじょう。このほか池谷いけがや勝則かつのりがチーム・デイビーのポルシェで参戦さんせん、15完走かんそう米山よねやま二郎じろうがクラージュのクーガーC22で参戦さんせん、リタイア。
  • 1990ねん東名とうめいスポーツがメンテナンスし、その1992ねん全日本ぜんにほんF3選手権せんしゅけんのチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ・962Cが3表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくする。トラストもポルシェ・962Cではつ参戦さんせん粕谷あらや俊二しゅんじもドライブ。13完走かんそうする。池谷いけがや勝則かつのりもデイビーから参戦さんせん、19完走かんそう
  • 1991ねんにはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR(長坂ながさか尚樹なおき/見崎みさき清志きよし/横島よこしまひさくみ)が12完走かんそうし、カテゴリー1クラス優勝ゆうしょうげる。トラストも2ねん連続れんぞく参戦さんせんするが、のこり1あいだでリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川よしかわとみ女性じょせい3めいリン・セント・ジェームズデジレ・ウィルソンら)での出場しゅつじょう目指めざしスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地げんち吉川よしかわにはライセンスが発給はっきゅうされず、吉川よしかわ参戦さんせん断念だんねん代役だいやく女性じょせいドライバーで参戦さんせんするが、47しゅうでリタイヤにわる。このほか池谷いけがや勝則かつのりがチーム・デイビーのポルシェで、粕谷あらや俊二しゅんじがクラシック/TFRのスパイスでエントリーしていたが、いずれも予選よせんちに。
  • 1992ねんには、粕谷あらや俊二しゅんじ松田まつだしげるがユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦さんせんし、総合そうごう13完走かんそう。また、原田はらだあつし吉川よしかわとみ嶋村しまむら健太けんたらがチーム・ニッポン(登録とうろくめいチェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦さんせんしたが、こちらはチェッカーをうけたものの周回しゅうかいすう不足ふそく(160Lap)で完走かんそう(NC)となり結果けっかひょうのリタイアしたチームの一番いちばんじょう記載きさいされている。
  • 1993ねんには、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田はらだあつしが、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川よしかわとみ参戦さんせんしたが、両方りょうほうリタイアにわっている。
  • 1994ねんは、チーム・ニッポン(登録とうろくめいADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田はらだあつし吉川よしかわとみ近藤こんどう真彦まさひこの3にん参戦さんせんしたが、途中とちゅうリタイア。
  • 1995ねんには、1985ねんより参戦さんせんつづけてきた関谷せきや正徳まさのりが、日本人にっぽんじんドライバーとしてはつ総合そうごう優勝ゆうしょうマクラーレン F1 GTR /チーム・国際こくさい開発かいはつUK、ドライバーは関谷せきや正徳まさのりJ.J.レートヤニック・ダルマス)をたした。
  • 1997ねんチームきょうがマクラーレン F1 GTR LMで参戦さんせん。ドライバーは中谷なかたに明彦あきひこ土屋つちやけいゲイリー・アイルズ決勝けっしょうは88しゅうリタイア。
  • 1999ねん、チームきょうBMW・V12 LM参戦さんせん。ドライバーはヒロ松下まつした加藤かとうひろしぶんまわし中谷なかたに明彦あきひこ。223しゅうリタイア。
  • 2000ねんにはテレビ朝日てれびあさひがチームきょう共同きょうどうで、"テレビ朝日てれびあさひ・チームりゅう(Dragon)"としてパノスLMP-1を2だいエントリーさせている。当初とうしょはLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを2だい投入とうにゅうした"チームとら(Tiger)"として、ふたつのクラスで出場しゅつじょう計画けいかくしていたが、しょ事情じじょうでLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定よていしていたドライバーには高橋たかはし国光くにみつ近藤こんどう真彦まさひこ関谷せきや正徳まさのりらが予定よていされ、ル・マン経験けいけんしゃ中心ちゅうしん布陣ふじんかためた「ドリームチーム」として期待きたいされていた。このときドライバーとピットとの会話かいわ中継ちゅうけいするなどあたらしいこころみがおこなわれたが、レースに出場しゅつじょうするエントラントでもあったためチームのピットを取材しゅざいしようとして拒否きょひされるなどのトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝ゆうしょう達成たっせいしている。
  • 2001ねん、チームきょうデンマークのデン・ブラ・エイビスとジョイントで参戦さんせん。マシンは童夢どうむ・S101。ドライバーはジョン・ニールセン、加藤かとうひろしぶんまわし、キャスパー・エルガード。リタイア。
  • 2002ねんから2004ねんにかけてKONDO Racing横浜よこはまゴムとジョイントし、童夢どうむ・S101でル・マンに参戦さんせん近藤こんどう真彦まさひこ福田ふくだりょう片山かたやま右京うきょう加藤かとうひろしぶんまわしらがステアリングをにぎったが、2003ねん総合そうごう13はいったのが唯一ゆいいつ完走かんそう
  • 2002ねん、チームきょうアウディ・R8参戦さんせん。ドライバーは加藤かとうひろしぶんまわしヤニック・ダルマスあらきよし総合そうごう7
  • 2003ねん、チームきょうがアウディ・R8で参戦さんせん。ドライバーはあらきよしヤン・マグヌッセン、マルコ・ヴェルナー。総合そうごう4
  • 2004ねんにはチームきょうのアウディ・R8が日本にっぽんのプライベーターとしてははじめての総合そうごう優勝ゆうしょうたした。どうチームのドライバーの1人ひとりあらきよしは、日本人にっぽんじんとして2人ふたり総合そうごう優勝ゆうしょうリナルド・カペッロトム・クリステンセンとドライブ。
  • JLOC日本にっぽんランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして2006ねんのレースに、ひのき保孝やすたからのドライブで参戦さんせんしたものの完走かんそうにはいたらなかった。2007ねんにも参戦さんせんしたがフリー走行そうこうでクラッシュし、結局けっきょく1しゅうでレースをえてしまっている。また2009ねん2010ねんにも参戦さんせんしたがリタイアにわる。
  • 2009ねん、チームきょうポルシェ・RSスパイダー参戦さんせん。ドライバーはあらきよし国本くにもときょうたすくサッシャ・マーセン。リタイア。
  • その太田おおた哲也てつやが1993ねん~1996ねんまで、羽根はね幸浩ゆきひろが1995ねんに、鈴木すずき隆司たかしが1996ねん~1997ねんまで、それぞれプライベートチームからの出場しゅつじょうたしている。
  • 東海大学とうかいだいがくにおいてはやし義正よしまさ研究けんきゅうしつ開発かいはつコース)でル・マン参戦さんせんのための車両しゃりょう研究けんきゅう開発かいはつされていた。2002ねんごろからル・マン参戦さんせん車両しゃりょう開発かいはつけた先行せんこう実験じっけん車両しゃりょう開発かいはつされ、その動向どうこう注目ちゅうもくされていたが、2008ねん大会たいかい参戦さんせんする意向いこう正式せいしき発表はっぴょうされ、2がつにエントリーがみとめられた。東海大学とうかいだいがく設計せっけい山形やまがたYGK製作せいさくした産学さんがく協同きょうどう開発かいはつエンジンを、クラージュ・オレカせいシャシーを修正しゅうせいしたものに搭載とうさいしたマシンを使用しようしたが、学生がくせいがメカニック作業さぎょうれていないなどの要因よういんからトラブルが多発たはつ。メカニックについてR&D SPORT支援しえんあおいだものの、結果けっか決勝けっしょう185しゅうリタイアにわった。はやし東海大とうかいだい退官たいかんする関係かんけいから2012ねんどうプロジェクトは終了しゅうりょうしたが、はやしはYGKと共同きょうどうあらたなル・マン参戦さんせんプロジェクトをげる方針ほうしんである。
  • 2016ねんにクリアウォーター・レーシングよりエントリー(フェラーリ・458GT2)したさわけいふとしが、LM-GTEアマクラスのポールポジションを獲得かくとくした。
  • 2017ねんにMRレーシングよりエントリー(フェラーリ・488GTE)した石川いしかわあきらが、2018ねん、2019ねんとLM-GTEアマクラスで参戦さんせんしている。
  • 2021ねんには青木あおき拓磨たくまがフランスのSRT41チームより特別とくべつわく出場しゅつじょう(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木あおき拓磨たくま、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)[15][16]。334しゅう総合そうごう32完走かんそうしている。
  • 2021ねん星野ほしのさとしひきいるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井ふじいまこととおるあやつアストンマーティン・ヴァンテージ参戦さんせんし、クラス6総合そうごう33完走かんそうする[17][18]。2022ねんのFIA世界せかい耐久たいきゅう選手権せんしゅけんにも参戦さんせんちゅう[19]

日本にっぽんでの中継ちゅうけい

編集へんしゅう

日本にっぽんでは、株式会社かぶしきがいしゃマクランサ代表だいひょうはやし正史せいし株式会社かぶしきがいしゃ童夢どうむ代表だいひょうはやしみのる実弟じってい)の企画きかくにより、1979ねんTBSによる2あいだ番組ばんぐみ「ルマン栄光えいこうへの24あいだ」が全国ぜんこく放送ほうそうされた。おなじく、はやし正史せいし企画きかく・プロデュースにより1982ねんから1986ねんまでテレビ朝日てれびあさひがダイジェストばん放送ほうそうし、 1987ねんから2003ねんまで中継ちゅうけいおこなっていた。2004ねんと2005ねんは、CS放送ほうそうスカイパーフェクTV!でレース前後ぜんこうふくめた25あいだ完全かんぜんせい中継ちゅうけいスポーツ・アイ ESPNJ sports ESPN)でも部分ぶぶんてき中継ちゅうけいおこなっていた。

2006ねんから2008ねんまでは、CS放送ほうそうG+でダイジェストばん放送ほうそうされた。2012ねん以降いこうはBSスポーツ専門せんもんチャンネルのJ SPORTSがスタートから8あいだとゴールまでの6あいだけい14あいだ[注釈ちゅうしゃく 4]なま中継ちゅうけい実施じっし。さらに2017ねんには念願ねんがんだった完全かんぜんせい中継ちゅうけいを25あいだ30ふんわたって実施じっしされることになった[20]。また、J SPORTSの契約けいやくしゃけにスカパー!オンデマンドでの24あいだライブ配信はいしん実施じっし。2012ねんからは、日経にっけいCNBC現地げんち取材しゅざいもとにした特別とくべつ番組ばんぐみ放送ほうそう現地げんち取材しゅざいへは、谷中たになか麻里まりころも出向でむいている。

テレビ朝日てれびあさひのテレビ中継ちゅうけい

編集へんしゅう

毎年まいとし原則げんそくとして、スタート直前ちょくぜん日本にっぽん時間じかん土曜どよう2259ふん現地げんち時間じかん1559ふんフォーメーションラップがメゾンブランツェに到達とうたつするころ放送ほうそう開始かいし放送ほうそう開始かいし直後ちょくご出場しゅつじょうするぜんマシンのスターティンググリッドがテロップで紹介しょうかいされ、スタートから2しゅうほどしたのちオープニングと提供ていきょうクレジット、そこから1あいだほど中継ちゅうけいし(ここまでがパート1とされた)日曜にちよう午前ごぜん0ごろにニュースとうによる中断ちゅうだんはさみ、その午前ごぜん2ぎまでパート2を中継ちゅうけいし、ニュースとうでの中断ちゅうだんはさんでパート3を午前ごぜん5まで(としによっては4までの場合ばあいもあった)放送ほうそう。その日曜にちよう午後ごごにパート4を1あいだはんほど放送ほうそう(2003ねん放送ほうそうされず)。ここまでがなま中継ちゅうけい。ゴールとなるパート5は遅延ちえん録画ろくが日本にっぽん時間じかん日曜にちよう23放送ほうそう開始かいしし1あいだはんほど中継ちゅうけい合計ごうけいやく9あいだにもおよ長時間ちょうじかん中継ちゅうけいであった。

なおサッカー欧州おうしゅう選手権せんしゅけん開催かいさいねんにはスタート/ゴールが現地げんち時間じかん15と1あいだはやまるため、日本にっぽんでのスタート放送ほうそう録画ろくがであった。日本にっぽん時間じかん土曜どよう23放送ほうそう開始かいしされた。

それぞれの時間じかんたいがパートでけられており、それに沿って実況じっきょうするアナウンサーは交替こうたいしていた[注釈ちゅうしゃく 5]

競合きょうごうする同業どうぎょうしゃおな番組ばんぐみ提供ていきょうするということは当時とうじ広告こうこく業界ぎょうかいでは禁忌きんきとされていたが、非常ひじょう長時間ちょうじかんおよぶこの番組ばんぐみ成立せいりつさせるためには競合きょうごうする自動車じどうしゃメーカーや、タイヤメーカーの協力きょうりょく必要ひつよう不可欠ふかけつであった。企画きかくしゃはやし正史せいしかくメーカーを説得せっとくしてまわり、日本にっぽんではじめて競合きょうごうしゃ提供ていきょうする番組ばんぐみ誕生たんじょうした。

実況じっきょう
解説かいせつ
  • 熊谷くまがいあつし(1987 - 1990ねん、1992ねん) - 『オートスポーツ編集へんしゅうちょう当時とうじ)、91ねんはスタジオ解説かいせつ担当たんとう
  • 赤井あかい邦彦くにひこ(1987ねん)- モータージャーナリスト、ピットレポートもあわせて担当たんとうした。
  • 津々しんしん友彦ともひこ(1991 - 95ねん)- 90ねんはスタジオ解説かいせつ担当たんとう
  • 由良ゆら拓也たくや(1995 - 2003ねん) - 長年ながねんわたって解説かいせつ担当たんとう参戦さんせんしているマシンを分析ぶんせきする「由良ゆら拓也たくやる!」というコーナーをっていた。1995ねんはピットレポートを担当たんとう
  • ごう和道かずみち(2001ねん
ピットリポーター
現地げんちリポート
ゲスト解説かいせつ
現地げんちゲスト
スタジオゲスト
スタジオ司会しかい
歴代れきだいテーマきょく

1987 - 89ねんはタイアップきょくではない(オープニングに曲名きょくめい、アーティストめい表示ひょうじがない)。また1987 - 88ねん提供ていきょうスポンサー紹介しょうかいテレビ朝日てれびあさひスポーツテーマがながれた。 また、1997ねん - 99ねんのテーマきょくは、テレビ朝日てれびあさひ中継ちゅうけいされていたインディ500中継ちゅうけいとのダブルタイアップとなっていた。

ラジオ中継ちゅうけい

編集へんしゅう

1990ねん、1991ねんに2年間ねんかん文化放送ぶんかほうそう中継ちゅうけいされた。

実況じっきょう

ル・マン24あいだレースを主題しゅだいにした映画えいが・ドラマ・ゲーム

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映画えいが

ドラマ

レーザーディスク

  • '84 24HEURES DU MANS(1984ねんパイオニア、プロデューサー:はやし正史せいし

ビデオソフト

  • エキサイティング ルマン(1984ねん、プロデューサー:はやし正史せいし
  • ばくはしモンスターマシン 24あいだ記録きろく
  • ル・マン'82 ばくはし!モンスター・マシン(1982ねん日本にほんコロムビア、プロデューサー:川野かわのしん
  • DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985ねんファンハウス、プロデューサー:はやし正史せいし
  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983ねん、アドインターナショナル)
  • Dramas of Le Mans 24Hours(1980ねん東映とうえい芸能げいのうビデオ)
  • '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986ねん、デルタポイント)
  • Le MANS 83(1983ねん東映とうえいビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd)
  • ル・マン カタログ'85(1985ねんTDKコア
  • プロジェクトX〜挑戦ちょうせんしゃたち〜ロータリー 47たたかい ~ゆめのエンジン 廃墟はいきょからの誕生たんじょう~(2000ねん放送ほうそう、DVD NHKエンタープライズ

LP

  • 24HEURES DU MANS 1983(1983ねん、Japan Records、プロデューサー:はやし正史せいし
  • TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979ねん東芝とうしばEMI、プロデューサー:新田にったかずちょう
  • 童夢どうむZERO RL(1979ねん東芝とうしばEMI、プロデューサー:新田にったかずちょう
  • FUNKY TRACK/鳴瀬なるせ喜博よしひろ(1984ねん徳間とくまジャパン、プロデューサー:はやし正史せいし
  • DIGITAL EXPLOSION '83(1983ねん東芝とうしばEMI、プロデューサー:はやし正史せいし

VHD

CD

  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983ねん、Japan Records、プロデューサー:はやし正史せいし
  • Hot & Long Battle LE MANS 24 HOURS '90(1990ねん、ポニーキャニオン)

小説しょうせつ

漫画まんが

ゲーム

格言かくげん

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昼夜ちゅうやとおして24あいだはしつづける過酷かこくなレース現場げんばでは予期よきせぬトラブルが発生はっせいすることから、日本にっぽんでは「ル・マンには魔物まものんでいる[21]」との格言かくげんまれた。2016ねんには、はつ優勝ゆうしょう目指めざしてトップを快走かいそうしていたトヨタのマシンが車両しゃりょう故障こしょうのため、のこり3ふんポルシェ逆転ぎゃくてんされた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「ル・マン24時間じかん(24 Heures du Mans)」に改称かいしょうされたのは1937ねんからである。
  2. ^ ピットのガレージを拡張かくちょうしたため、2016ねんより最大さいだい59だい
  3. ^ ラリーヒルクライム競技きょうぎとうから徐々じょじょ緩和かんわされた。完全かんぜん解禁かいきんする法案ほうあん2007ねん6がつ下院かいん通過つうかしたが、上院じょういん否決ひけつされ2009ねん撤回てっかいされた。
  4. ^ 2013ねん以降いこう。J SPORTSが放送ほうそう開始かいしした2012ねんはゴールまでの4あいだだったため合計ごうけい12あいだ、また2015ねん直前ちょくぜん野球やきゅう中継ちゅうけいオリックスたい阪神はんしんせん放送ほうそうされた関係かんけいでゴールは5あいだだった。
  5. ^ おもにスタートを担当たんとうしたアナウンサーは日曜にちよう午後ごご放送ほうそうとゴールの放送ほうそう担当たんとうし、中断ちゅうだんからあさ4 - 5までのパート2 - 3はべつのアナウンサーが担当たんとうする傾向けいこうにあった。

出典しゅってん

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  1. ^ Which teams have already been invited to compete in the 2024 24 Hours of Le Mans?” (英語えいご). 24h-lemans.com. ACO (2023ねん10がつ22にち). 2023ねん11月30にち閲覧えつらん
  2. ^ How many competitors will be invited to the 24 Hours of Le Mans 2024?” (英語えいご). Endurance Info (2023ねん8がつ10日とおか). 2023ねん11月30にち閲覧えつらん
  3. ^ 両手りょうて両足りょうあしうしなって、かれは「ル・マン」にいどみ、見事みごと完走かんそうした”. WIRED (2016ねん6がつ20日はつか). 2017ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  4. ^ 『ルマン 伝統でんとう日本にっぽんチームのたたかい』p.40、グランプリ出版しゅっぱん
  5. ^ 二玄社にげんしゃかん世界せかい自動車じどうしゃ「メルセデス・ベンツ」戦後せんごへん
  6. ^ のレース 1955ねん ルマン』p.214。
  7. ^ 世界せかい自動車じどうしゃ-11 シムカ マートラ アルピーヌ その』p.42。
  8. ^ 『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。
  9. ^ マツダ公式こうしきサイトないの、同年どうねんC2クラスで優勝ゆうしょうしたBFグッドリッチマツダローラT616
  10. ^ トヨタ、ル・マン24あいだレース3入賞にゅうしょうも「結果けっか厳粛げんしゅくめなければ」
  11. ^ 【ル・マン24あいだ2014】中嶋なかじま一貴かずたか選手せんしゅがル・マンはつ日本人にっぽんじんポールポジションを獲得かくとく
  12. ^ トヨタはつ勝利しょうりゆめのこり3ふんれる。ル・マン24あいだはポルシェ2号車ごうしゃだい逆転ぎゃくてん勝利しょうり
  13. ^ とうの5号車ごうしゃはのちにチェッカーをけ、周回しゅうかいすうでは2ではあるが最終さいしゅう周回しゅうかいにかかった時間じかん規定きてい(首位しゅいでチェッカーフラッグをけた車両しゃりょうより6ふん以内いないにチェッカーフラッグをけた車両しゃりょう完走かんそうあつかいとするルールが存在そんざいする)をえたため完走かんそうあつかいになっておらず、失格しっかくまたはリタイアあつかいとなる。このときはリタイアの届出とどけでおこなわなかったため規定きてい違反いはん失格しっかくとなった。
  14. ^ [2019.6.17中日新聞ちゅうにちしんぶん朝刊ちょうかん]
  15. ^ もとWGPライダーの青木あおき拓磨たくまが2020ねんのWECル・マン24あいだレースに出場しゅつじょう,autosport web,2018ねん10がつ10日とおか
  16. ^ 障害しょうがいあってもゆめはかなう」 くるまいすレーサーの青木あおき拓磨たくまがルマン24あいだはつ参戦さんせん 青木あおき3兄弟きょうだい次男じなん,うえ新聞しんぶん,2021ねん8がつ21にち
  17. ^ 決勝けっしょう結果けっか】2021ねんWECだい4せんだい89かいル・マン24あいだレース/7号車ごうしゃトヨタが総合そうごう優勝ゆうしょう | ル・マン/WEC | autosport web”. AUTO SPORT web (2021ねん8がつ22にち). 2022ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  18. ^ D’station Racing、ル・マン24あいだ目標もくひょう完走かんそうたしクラス6本当ほんとう素晴すばらしい結果けっか」と藤井ふじいまこととおる”. jp.motorsport.com. 2022ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  19. ^ D'station Racing、2022ねんのWEC/アジアン・ル・マン参戦さんせん体制たいせい発表はっぴょう初年度しょねんど以上いじょう結果けっか目指めざす | ル・マン/WEC | autosport web”. AUTO SPORT web (2022ねん1がつ12にち). 2022ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  20. ^ 最後さいご最後さいごまでなにこるのかからない…24あいだ筋書すじがきのないドラマ「ル・マン24あいだレース」J SPORTSではつ完全かんぜん中継ちゅうけい決定けってい”. J SPORTS (2017ねん6がつ2にち). 2017ねん6がつ13にち閲覧えつらん
  21. ^ かわ喜田きたけん (2016ねん6がつ20日はつか). “トヨタの悲願ひがん達成たっせいならず。中嶋なかじま一貴かずたかかたったル・マン24あいだのラスト3ふん”. web Sportiva. 2017ねん4がつ15にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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