ル・マン24時 間 レース
ル・マン 24
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FIA | |
---|---|
サルト・サーキット | |
1923 | |
24 | |
(ドライバー) | トム・クリステンセン (9) |
(チーム) | ヨースト・レーシング (13) |
(マニファクチャー) | ポルシェ (19) |
概要
1923
これまでにレースが
開催 方式
サーキット
出場 資格
また、
かつては
スケジュール
レースウィークは
ル・マン式 スタート
1925
「ル・マン
1971
オフィシャルカー
ペースカーはその
コース全長 の変遷
- A (1923
年 - )17.262 km -現 テルトルルージュ付近 に向 かわず、ル・マン市内 中心 部 まで行 き引 き返 すコースだった。 - B (1929
年 - )16.340 km - C (1932
年 - )13.492 km - テルトルルージュ→ユノディエールへと続 く現 コースの原型 になった。 - D (1956
年 - )13.461 km - 1955年 の大 事故 を受 けピット前 ストレートのスタンドを後退 させた。 - E (1968
年 - )13.469 km - F (1972
年 - )13.640 km - G (1979
年 - )13.626 km - H (1986
年 )13.528 km - ミュルサンヌコーナーの交差点 が十字 からロータリーに変更 されたため、ロータリーを避 ける専用 コースでショートカットしている。 - I (1987
年 - )13.535 km - ダンロップコーナー前 にシケインが設置 された。 - J (1990
年 - )13.600 km - ユノディエールに2か所 のシケインが設置 された。 - K (1997
年 - )13.605 km - ダンロップシケインのレイアウトを変更 した。 - L (2002
年 - )13.650 km - ダンロップブリッジ下 からS字 までレイアウトを変更 した。 - M (2006
年 )13.650 km - ダンロップシケイン付近 を改修 した。 - N (2007
年 - )13.629 km - テルトルルージュ付近 を改修 した。 - O (2018
年 - )13.626 km - ポルシェカーブ付近 を改修 した。
優勝 車 /優勝 者
メーカー別 勝利 数
- 1
位 . 19回 - ポルシェ - 2
位 . 13回 - アウディ - 3
位 . 11回 - フェラーリ - 4
位 . 7回 - ジャガー - 5
位 . 6回 - ベントレー - 6
位 . 5回 - トヨタ - 7
位 . 4回 - アルファロメオ - 7
位 . 4回 - フォード - 9
位 . 3回 - マトラ - 9
位 . 3回 - プジョー - 11
位 .2回 - ブガッティ - 11
位 .2回 - ロレーヌ・ディートリッシュ - 11
位 .2回 - メルセデス・ベンツ - 14
位 .1回 - シュナール・エ・ワルケル - 14
位 .1回 - ラゴンダ - 14
位 .1回 - ドライエ - 14
位 .1回 - タルボ - 14
位 .1回 - アストンマーティン - 14
位 .1回 - ミラージュ - 14
位 .1回 - ルノー - 14
位 .1回 - ロンドー - 14
位 .1回 - マツダ - 14
位 .1回 - マクラーレン - 14
位 .1回 - BMW
特筆 的 な出来事
ドライバー交代 なしで24時 間 に挑戦
ピエール・ルヴェーは1952
ルヴェーのリタイアにより
1955年 の事故
1955
ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド
なお、レースは
この
メルセデス・チームはトップを
「モータースポーツの
この
メルセデス
マクリンは
フェラーリとフォード
1960
その
これに
フォードではキャロル・シェルビー
映画 俳優 の参戦
映画 「栄光 のル・マン」で主演 を務 めたスティーヴ・マックイーンは、1970年 のセブリング12時 間 レースで2位 に入賞 するなどレーシングドライバーとしても活躍 しており、同 映画 でも代役 を立 てず実際 にマシンを走 らせていた。その後 正式 レースに出場 を希望 したが、周囲 からの猛 反対 に遭 って止 むなく断念 せざるを得 なくなり、彼 は生涯 それを悔 しがっていたという。後 に息子 のチャド・マックイーンが出場 を果 たしている。- ポール・ニューマンが1979
年 2位 となったが、レース中 からずっとパパラッチがしつこく付 いてくることに嫌気 が差 し、それ以降 エントリーすることはなかった。 近藤 真彦 は1994年 に初 出場 し、1995年 はNISMO(日産自動車 )からワークスチームドライバーとして参戦 し、雨 で荒 れた展開 となったレースで総合 10位 で完走 。2002年 には監督 兼 ドライバーとして自 らのチームで参戦 し、2003年 には総合 13位 で完走 を果 たした。- パトリック・デンプシーは2009
年 に初 出場 し、2013年 は自 らのチームで出場 しLMGTE-Amクラス3位 を走行 し表彰台 に手 が届 きそうだったが、惜 しくも4位 に終 わった。2015年 は、LMGTE-Amクラス2位 に入賞 し念願 の初 表彰台 を獲得 した。さらに富士 スピードウェイで行 われたFIA世界 耐久 選手権 最終 戦 でクラス優勝 している。
ユノディエールとその分割
ユノディエールは6kmに
WM・セカテバ・プジョーは、
各国 自動車 メーカーの活動
フランス
- ロレーヌ・ディートリッシュ
- 1925
年 、1926年 と連覇 している。 - ブガッティ
- 1937
年 、1939年 と総合 優勝 している。 - ドライエ
- 1938
年 総合 優勝 している。 - DB/ボネ/マートラ
- DBは
戦後 最初 に開催 された1949年 から1961年 までの長年 休 みなしで参戦 し、性能 指数 賞 を1954年 、1956年 、1959年 、1960年 、1961年 と獲得 している。オトモビル・ルネ・ボネ体制 になってからも1963年 まで継続 して参戦 した。この頃 は総合 優勝 を狙 える力 はなかったが、さらにその後 はマトラ体制 になり1966年 から参戦 、1972年 には総合 優勝 、その後 1973年 、1974年 と三 連覇 した[7]。 - タルボ
- 1950
年 総合 優勝 している。なお下記 のプジョーで1992年 から1993年 にかけて優勝 したレースチーム名 は、プジョー・タルボ・スポールである。 - アルピーヌ・ルノー
- 1978
年 総合 優勝 している。 - ロンドー
地元 に育 ったジャン・ロンドーは、自分 の名前 を冠 したマシンでルマンに優勝 するという夢 を1980年 に果 たした。- プジョー
- 1992
年 、1993年 、2009年 に総合 優勝 した。
イギリス
- ベントレー
当初 より参戦 し、1924年 第 2回 大会 でフランス以外 の外国 車 として初 優勝 。富裕 層 出身 のドライバーたちは「ベントレー・ボーイズ」と呼 ばれた。1927年 から1930年 まで4連勝 し、黎明 期 に非常 に大 きな足跡 を残 した。2001年 にはアウディグループ傘下 でル・マンへ復帰 し、2003年 にスピード8が73年 ぶりの総合 優勝 を果 たした。- ジャガー
先駆 的 なメカニズムを持 つCタイプで1951年 、1953年 に勝利 しDタイプで1955年 から1957年 まで3連勝 。またトム・ウォーキンショーと組 んで1988年 、1990年 に総合 優勝 している。- ロータス
- 1954
年 、創始 者 コーリン・チャップマン自 らマーク9で参戦 し、失格 となったもののその速 さは国際 的 にロータスの名 が知 られるきっかけとなった[8]。参戦 2回 目 の1956年 にはイレブンで1,100ccクラス優勝 、総合 7位 入賞 を果 たした。1962年 にロータス・23を3台 持 ち込 んだが、フロントとリアのホイールボルト数 が違 うことから車検 不 通過 となり、手直 しして再 車検 に臨 むがその改造 が危険 であると指摘 されて決勝 に出場 できず、これをきっかけにワークスは出場 を取 りやめた。1997年 にエリーゼGT1で参戦 。2013年 にはLMP2クラスにT128(開発 はコデワ)を投入 した。 - その
他
- アストンマーティンが1959
年 に、ガルフ・ミラージュが1975年 に、総合 優勝 している。 - マクラーレン・カーズ(
現 マクラーレン・オートモーティブ)が開発 し、当時 行 われていたGT選手権 で出走 していたマクラーレン・F1 GTRが1995年 のル・マン24時 間 レースに同 レース初 出走 し、そのまま総合 優勝 している。 - ウィリアムズF1はドイツのBMWと
共同 開発 したBMW・V12 LMRで1999年 に総合 優勝 を果 たしている。
イタリア
- アルファロメオ
- 8Cで1931
年 から1934年 まで4連覇 した。 - フェラーリ
創業 間 もない1949年 に初 優勝 。その後 、1954年 、1958年 で勝利 。1960年 から1965年 まで6連覇 とル・マンの盟主 に君臨 していたが、1966年 フォードの物量 作戦 に敗 れた。1973年 に撤退 した。1994年 からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入 したが過去 の様 なワークスとしての参加 ではなかった。2023年 には50年 ぶりにル・マン24時 間 レースのトップカテゴリー(LMH)に復帰 し、ワークスマシンとなる「499P」を投入 。ここまでル・マンを5連覇 していたトヨタをLMHクラス参戦 初年度 にもかかわらず打 ち破 り、ル・マン100周年 の節目 かつ復帰 初年度 で総合 優勝 を飾 った。- ランチア
- 1982
年 にグループ6のLC1で参戦 したが、ポルシェ・956の前 に惨敗 に終 わった。1983年 からグループCのLC2にて参戦 し、特 にポルシェワークスが欠場 した1984年 は注目 を集 めたが、この時 もヨースト・レーシングに惨敗 した。
ドイツ
- 1951
年 、いまだフランスでドイツに対 する風当 たりが強 い中 、競技 長 であるシャルル・ファルーの招聘 によりポルシェ・356で参加 し、これがドイツ車 の戦後 初 の国際 レースへの参加 となった。長 らく908、910等 中 排気 量 車 によるクラス優勝 を続 けた後 、ポルシェ・917を開発 して1970年 に初 の総合 優勝 を果 たした。その後 は1971年 、1976年 、1977年 、1979年 、1981年 から1987年 まで7年 連続 総合 優勝 し、耐久 王 の名 を馳 せた。 - 1994
年 はダウアー・ポルシェ、1996年 と1997年 は1984年 と1985年 にも組 んだヨースト・レーシング、1998年 はTWRポルシェと連名 で優勝 した。ワークスチームとしての参加 は1998年 の優勝 以降 はしばらく遠 のく。 - 2014
年 よりLMP1マシンでル・マンへ復帰 。翌 2015年 のレースで17年 ぶり17度目 の優勝 、2016年 はトヨタとトップ争 いを繰 り広 げたが、最後 の最後 でトヨタを逆転 して18度目 の優勝 を飾 った。2017年 はLMP1の全車 がトラブルに見舞 われた影響 で、終盤 の時点 でもLMP2の車両 が総合 首位 につけていたが、一 度 は優勝 争 いから脱落 した2号車 (ティモ・ベルンハルト/アール・バンバー/ブレンドン・ハートレイ組 )が残 り1時 間 で逆転 し19度目 の優勝 を飾 った。その1か月 後 、ポルシェはFIA世界 耐久 選手権 から2017年 シーズン限 りで撤退 することを発表 した。
- メルセデス・ベンツ
- 1952
年 に総合 優勝 するなど強豪 であったが、1955年 の大 事故 で撤退 し、その後 長 らくモータースポーツ自体 に参加 しない時期 が続 いた。1985年 からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用 し、1988年 からワークス参戦 となり、1989年 には総合 優勝 を果 たしている。 - 1955
年 は大 惨事 、1988年 はタイヤバースト、1999年 はCLRが3度 宙 を舞 うアクシデントによって、3度 もレース撤退 の決断 を強 いられ、「西暦 下 2桁 ぞろ目 のジンクス」が囁 かれた。 - BMW
- 1995
年 に優勝 したマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ(BMW M)GmbH製 でBMW・8シリーズ#M8のS70/2型 というコードがつけられたエンジンが搭載 されていた。6.1LV型 12気筒 DOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。 - 1999
年 にはル・マン24時 間 レース参戦 用 にBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカーBMW・V12 LMRを共同 開発 。このマシンで同年 、BMWとしては初 のル・マン総合 優勝 を飾 った。同年 に開発 していたフライホイール式 KERSはその後 、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012年 に総合 優勝 したアウディが投入 したR18 e-tron クワトロにも提供 していた。
- 1999
年 に初 出場 で3位 入賞 。その後 、21世紀 に入 ると圧倒的 なペースで優勝 を重 ねる一方 で、参戦 初年度 からの様々 な記録 を更新 し続 けていることから「ル・マンの鉄人 メーカー」の異名 が付 いている。 - R8を
開発 し2000年 から2002年 、荒 聖 治 に日本人 2人 目 のル・マン優勝 をもたらした2004年 、そして2005年 に総合 優勝 を達成 。 翌 2006年 に投入 したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上 初 のディーゼルエンジン搭載 車 による総合 優勝 に加 え、2007年 、2008年 と2度目 の3連覇 、合 わせて2004年 から2008年 まで5連覇 を達成 した。- 2010
年 には総 走行 距離 の最長 記録 を更新 して総合 優勝 し、2011年 に10勝 目 を挙 げた。2012年 にはアウディ・R18 e-tron クアトロが初 のハイブリッドシステム搭載 車 として総合 優勝 を達成 した。 - 2016
年 限 りでル・マンを含 むWEC及 びプロトタイプレース活動 からの撤退 を表明 。同時 に達成 した参戦 初年度 から撤退 までの18年間 全 てに及 ぶル・マンの連続 表彰台 入賞 記録 は史上 初 かつ前人未到 の最長 記録 となった。
アメリカ
- カニンガム
- カルフォルニアの
大 富豪 ブリッグス・カニンガムが自分 の財産 をつぎ込 んでキャデラックのレーシングバージョンを製作 し、1950年代 に参戦 していた。 - シャパラル
- テキサスの
石油 王 ジム・ホールが個人 の資産 で作 った自動車 研究所 で空 力 特性 の良 い車両 を独自 の方針 に従 って開発 し、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援 を受 けて参戦 した。 - フォード
- 1963
年 にシェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦 し、スターリング・モスがマネージャーを務 めるACカーズが総合 7位 に入賞 し、これをフォードが評価 してGTプロジェクトに繋 がった。フォードはフェラーリ買収 に失敗 し、フォード・GTを投入 した1965年 のル・マンでも惨敗 、最終 的 にシェルビー・アメリカンの協力 を得 て大量 にエントリーし1966年 に勝利 、これがアメリカ車 初 の勝利 となった。フォードは1969年 まで4連覇 し撤退 した。 - パノス
- シボレー
スイス
- ザウバー・モータースポーツ・AGが
上記 の通 り1989年 にザウバー・メルセデスとしてザウバー・C9で総合 優勝 した。
日本
ル・マンに
1970
1980
2012
- マツダは
日本 勢 としては最 も古 く1970年代 からル・マン24時 間 レースに参戦 していた。途中 1984年 にはアメリカ合衆国 のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積 んだBFグッドリッチマツダローラを2台 エントリーし、うち1台 が総合 10位 ・C2クラスでは優勝 という成績 を残 している[9]。僚車であるもう一 台 のBFグッドリッチマツダローラは総合 12位 に入賞 、マツダワークスとして参加 した727Cの2台 も完走 を果 たし、4台 でダイヤモンドフォーメーションを組 んでゴールした。 - レギュレーションの
変更 に伴 いロータリーエンジンが参加 できるのは1990年 までとなり、1990年 のル・マン24時 間 レースにマツダ・787を投入 したが惨敗 した。しかし1990年 秋 、各社 の新 規格 プロトタイプカーの準備 が整 わないことから翌 1991年 もロータリーエンジンの出場 が認 められることになった。 - 1991
年 、日本 のメーカーとして初 めて総合 優勝 を果 たした。優勝 車両 はマツダ・787B、ドライバーはジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・ヴァイドラー。同時 に参戦 していた他 の2台 も6位 と8位 に入 った。なおこの年 はファイナルラップ中 に24時 間 のゴールタイムを迎 えたため終了 前 に観客 がコースになだれ込 んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受 けることになってしまった。更 にゴール時 にドライブしていたジョニー・ハーバートが脱水 症状 を起 こし、ゴール直後 に医務 室 に搬送 されたために表彰台 に姿 を現 さない一幕 もあった。 大 資本 をバックに大々的 に参戦 してきた他 の日本 勢 と違 い、ロータリーエンジンという独自 の技術 とともに、長 い年月 をかけて地道 に参戦 を続 けてきたマツダの総合 優勝 は、多 くの地元 観客 のみならず、他 の参戦 ワークスチームや世界中 のモータースポーツファンから大 きな賞賛 を浴 びた[独自 研究 ?]。- このとき
優勝 した55号車 に施 されていたレナウン・チャージカラーの塗装 は、スポンサーであったレナウンの当時 の社長 がルマン以前 のマツダの戦 いを目 にし「こりゃ勝 つのは無理 だ。じゃあとにかく目立 て」と指示 を出 し、レナウンの社内 デザイナーが布地 のアーガイル柄 をベースに考案 したものである[要 出典 ]。 - この
年 を最後 に事実 上 ロータリー車 が締 め出 されるため、当初 1991年 をもってレースから撤退 する予定 であったが、優勝 したために急遽 レシプロエンジンの車両 であるマツダ・MX-R01を開発 し、1992年 にディフェンディングチャンピオンとして参戦 、総合 4位 に入賞 するが、マツダの業績 悪化 に伴 い、この年 を最後 に撤退 した。 - その
後 、レギュレーション改正 によりロータリーエンジンが解禁 されると1994年 にモータースポーツ部門 であるマツダスピードがRX-7GTO(FC3S)で単独 参戦 、久々 にル・マンにロータリーサウンドを復活 させ、その後 はマツダスピードや寺田 陽次 郎 率 いるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載 マシンがル・マンを走 っているが、その後 撤退 を余儀 なくされている。 日産 ・R390日産 日産 の初 参加 は1986年 、ニスモからのエントリーである。前年 WEC-JAPANを制覇 したR85VとR86Vの2台 体制 。R85Vが16位 で完走 した。- 2
年 目 以降 (R87E、R88C)は苦戦 するが、参戦 4年 目 の1989年 、ローラと共同 開発 のR89Cで、日本 車 として初 めてトップ争 いに加 わるが、3車 ともリタイヤに終 わった。 翌 1990年 には、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からエントリーしたR90CKが日本 車 初 のポールポジションを獲得 するも、決勝 ではリタイア。日本 (ニスモ)からエントリーしたR90CPが予選 3位 、決勝 5位 と健闘 した。- その
後 しばらく参戦 を休止 するが、1995年 にGTR-LMロードゴーイングバージョンベースのニスモGT-R-LMで復帰 。1997年 からは本格 的 GT-1マシンである日産 ・R390で参戦 した。1998年 には星野 一義 、鈴木 亜 久里 、影山 正彦 のドライブするR390が総合 3位 に入賞 し、純 日本人 ドライバーチームが初 めて表彰台 に上 がった。この年 は日産 から4台 がエントリーしたが、すべて10位 以内 で完走 した。翌 1999年 にも日産 ・R391で参戦 するがリタイヤ。翌 2000年 にもニスモがR391によるル・マン参戦 を計画 していたが、この頃日 産 のCEOに就任 したカルロス・ゴーンの判断 により撤退 を余儀 なくされている。 - 2015
年 には日産 ・GT-R LM NISMOで参戦 したが、全車 が未 完走 またはリタイアと言 う結果 に終 わった。その後 再度 の撤退 を余儀 なくされている。 トヨタ・GT-One TS020(1999 年 )- トヨタ
- トヨタが「ワークス」として
参戦 するようになったのは1987年 からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌 1988年 には88Cが12位 で完走 している。1990年 には90C-Vが6位 に入賞 。1年 の参戦 中断 の後 1992年 TS010で復帰 したが、雨 の中 のレースでプジョーに破 れ、結局 総合 2位 にとどまった。 - 1994
年 にはサードからトヨタ94C-Vが参戦 し、シフトリンケージが壊 れあと一 歩 のところで総合 優勝 を逃 し、総合 2位 、クラス優勝 となった。 久々 の復帰 となった1998年 はトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)を通 じて出走 したTS020が圧倒的 な速 さを見 せたが、終了 30分 前 にリタイア。また1999年 には片山 右京 、土屋 圭 市 、鈴木 利男 組 が1998年 仕様 と同型 の3号車 での出場 ながらトップに迫 る快走 を見 せたが、タイヤバーストに見舞 われ総合 2位 に終 わった。トヨタは2002年 からのF1参戦 に集中 するため同年 限 りで参戦 を休止 した。- なお
先述 のTTEの前身 はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちのトヨタF1の実働 部隊 であるトヨタ・モータースポーツ(TMG)の母体 となった組織 である。ル・マン参戦 前 はWRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦 し、選手権 を制覇 している。 - 2012
年 にはハイブリッドカーのTS030 HYBRIDで13年 振 りにル・マン復帰 。2台 で参戦 し予選 で3位 になり、決勝 でもトップ争 いを繰 り広 げたものの、1台 は周回 遅 れの車 と絡 んでクラッシュ、残 る1台 もトラブルでリタイアした。2013年 には、決勝 で2位 に入賞 。新 モデルのTS040 HYBRIDで臨 んだ2014年 では、予選 で7号車 の中嶋 一貴 が日本人 初 のポールポジションを獲得 、中嶋 は本選 途中 リタイアだったがもう1台 の8号車 が決勝 では3位 に入賞 した[10][11]。2015年 も参戦 したもののライバルにスタートから終始 圧倒 され続 けてしまい、完走 したものの2台 とも表彰台 に昇 ることはできなかった。2016年 はマシンをTS050 HYBRIDへ変更 し、ポルシェと最後 まで競 り合 い初 の総合 優勝 がほぼ確実 と思 われた終盤 残 り3分 、トップを走 っていた5号車 がマシントラブルによりストップしポルシェに逆転 を許 した[12]。なお残 った6号車 が2位 でチェッカーを受 けている[13]。
(
- 2018
年 はTS050 HYBRID 8号車 のセバスチャン・ブエミ、中嶋 一貴 、フェルナンド・アロンソ組 が悲願 の初 優勝 を飾 った。8号車 はポールポジションからスタートを切 り、ポールトゥーウィンの快挙 を果 たした。2位 にもTS050 HYBRID 7号車 のマイク・コンウェイ、小林 可 夢 偉 、ホセ・マリア・ロペス組 が入 った。途中 7号車 の小林 がピットインのタイミングを忘 れ一 時 燃料 に懸念 が生 じセーフティモード走行 で意図 的 にスローダウンせざるを得 なかったなど人為 的 ミスはあったものの、8号車 と7号車 は最 前列 スタートから一 度 もトップ2を譲 らないレース運 びで、ル・マン24時 間 レース完全 制覇 を果 たした。日本人 が運転 する日本 車 が優勝 したのは史上 初 。 - 2019
年 、途中 トップを快走 していた7号車 がパンクし失速 した。その他 もトラブルに見舞 われる過酷 なレースになったが、中嶋 一貴 とフェルナンド・アロンソらの8号車 が優勝 、小林 可 夢 偉 らの7号車 が2位 に入 り2年 連続 のワンツーフィニッシュを飾 った[14]。 - 2020
年 は新型 コロナウイルスの影響 で無 観客 開催 となった中 、セバスチャン・ブエミ、中嶋 一貴 、ブレンドン・ハートレイ組 の8号車 が3連覇 を果 たした。 - 2021
年 は2年 ぶりに有 観客 開催 となり、新 規定 のLMH車両 ・GR010 HYBRIDを投入 。序盤 の接触 やトラブルに苦戦 しつつも着実 なレース運 びでワンツーフィニッシュを飾 りトヨタとして4連覇 を果 たした。また、7号車 のマイク・コンウェイ、小林 可 夢 偉 、ホセ・マリア・ロペス組 が初 優勝 を飾 り、セバスチャン・ブエミ、中嶋 一貴 、ブレンドン・ハートレイの8号車 が2位 となった。 NSXル・マンレーサー - ホンダ
- 1994
年 からホンダもNSX GTにより参戦 を始 めた。初年度 はクレマーレーシングとのタイアップにより3台 が参戦 し、数 多 くのトラブルに見舞 われ下位 に沈 むも、全車 完走 を果 たした。 - 2
年 目 の1995年 はTCPエンジニアリングが製作 したGT1を3台 (ターボ車両 2台 及 びNA車両 1台 )、GT2を2台 (チーム国光 及 び中嶋 企画 )エントリーさせたが、GT1ターボ車両 と中嶋 企画 とがアクシデントにより予備 予選 を通過 できなかった。ターボ車 の一 台 に至 っては、原因 不明 のトラブルでコースに出 ることすらできずに予備 予選 落 ちとなった。後 に分解 して調査 した結果 、カウルが電気 系統 のハーネスを挟 み込 んでいたために起 きた断線 が原因 であることが判明 している。中嶋 企画 はタイムアタックがうまく行 かず好 タイムを出 せないでいたところに、ピットアウト時 にオフィシャルが突然 マシンの前 に飛 び出 して撥 ねてしまうというアクシデントに見舞 われた。幸 いオフィシャルは軽傷 で済 んだが、このためフロントウインドウを大破 し、その補修 に手間取 るうちにタイムアタックの機会 を失 い、予備 予選 の時間 が終了 となってしまった。チーム側 はこれを不服 として嘆願 書 を提出 して抗議 したが、再度 のタイムアタックは受理 されず、結局 決勝 進出 は果 たせなかった(後 の十勝 24時 間 レースや鈴鹿 1000kmでもチーム国光 とは全 く明暗 が分 かれることとなる)。 決勝 レースでは、GT1クラスのターボ車 が序盤 にリタイア、NA車 が深夜 にクラッシュし、修復 したものの義務 周回 数 不足 となり完走 扱 いとならなかったが、悪天候 の中 を果敢 に攻 めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光 (高橋 国光 /土屋 圭 市 /飯田 章 組 )がGT2クラスでクラス優勝 を果 たした。GT1クラスのターボエンジン車 はル・マンの後 に鈴鹿 サーキットでテストを行 っているが、それ以降 姿 を消 しており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦 はこの年 限 りで終了 した。- 1996
年 はGT2クラスにチーム国光 1台 のみが参戦 したが、ライバルの進歩 が上回 りクラス3位 に終 わった。結局 この年 を最後 に、ホンダのル・マン24時 間 レースへの参戦 は幕 を閉 じている。
日本 のプライベートチームの参戦
- シグマオートモーティブ
- ル・マンに
初 めて日本 のチームとマシンとドライバーが登場 したのは1973年 のシグマ・オートモーティブである。当初 はトヨタ製 エンジンを搭載 する予定 だったが、トヨタからエンジンの供給 を受 けられず、やむなくマツダ製 の12Aロータリーエンジンを購入 して搭載 した。このため、ル・マンに出場 したMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描 かれていながら、マツダのエンジンを搭載 した異色 のマシンであった。シグマMC73は元々 富士 グランチャンピオンレース用 のマシンで耐久 性 に問題 があり、クラッチトラブルにより79周 目 にリタイアした。 - 1974
年 はマツダオート東京 と正式 にジョイントし、24時 間 を走 り切 ったが、周回 数 不足 で完走 と認 められなかった。マツダオート東京 はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当 し、この時 のル・マンへの思 いがのちのマツダのル・マン挑戦 のきっかけとなったと言 われている。なおこのときのドライバーの一人 が、長年 参戦 を続 けたことから後 に「ミスター・ル・マン」の異名 を取 ることになる寺田 陽次 郎 である。 - 1975
年 はトヨタからのエンジン供給 が実現 し、2T-Gターボエンジンを搭載 したシグマ・MC75でエントリーしたが、結果 はエンジントラブルでリタイアとなった。 - これを
最後 にル・マン挑戦 をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体 に設立 されたサードがその後 を引 き継 ぎ、1990年 にトヨタのワークスチームとしてル・マン再 出場 を果 たした。1994年 には旧 グループCカーを貸与 され出場 、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組 が2位 表彰台 を獲得 している。1995年 、1996年 には独自 開発 のGTマシン・サード・MC8RとスープラLM-GTで参戦 した。 童夢 (1979 - 1986年 )- 1978
年 のジュネーブモーターショーで、スーパーカー「童夢 -零 」を発表 し、その玩具 ライセンス収入 をきっかけに1979年 のル・マン24時 間 レースに初 挑戦 した。零 RLはF1用 に販売 されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載 したが、1台 がエンジントラブルで、もう1台 もガス欠 でリタイアした。 - 1980
年 、零 RLをクローズドボディ化 したRL80を1台 エントリーし、最下位 の25位 で完走 した。1981年 は、前年 と同 じRL80で出場 したが、エンジントラブルでリタイアした。 - 1982
年 、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載 した童夢 RC82を製作 したが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983年 、マーチとの提携 は1年 で解消 され、前年 のマシンを改良 したRC82改 で出場 したが、マシントラブルでリタイアした。1984年 、RC-83で出場 するものの、予選 でコースアウトしてマシンを大破 し、決勝 出場 を辞退 した。現地 チームに貸与 したRC82は予選 を通過 するも決勝 はリタイヤ。 - 1985
年 、童夢 ・トヨタ・トムスによる提携 が実現 し、童夢 製 の車体 に当時 市販 されていたグループB車両 のトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレース用 に修正 した4T-GT改 を搭載 する85C-Lで出場 。決勝 はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼 ばれるがほぼ同一 のマシンである。1986年 、前年 と同様 の体制 で86C-Lで出場 したが、冷却 系統 のトラブルでリタイアした。この年 限 りで童夢 の第 1期 ル・マン参戦 は終 わった。 童夢 ・S101Hbi・ジャッド (2006年 マシン)- 2001
年 にFIA スポーツカー選手権 (FIA SCC)参戦 用 の車 としてオープンプロトタイプカーのS101を開発 すると、同車 を購入 したプライベーターによりル・マンに再 び参戦 するようになった。中 でもヤン・ラマース率 いるRacing for Hollandが2001年 から2007年 までル・マンに参戦 し、2001年 ・2003年 には予選 4番手 を獲得 するなど、打倒 アウディ・R8の有力 候補 として期待 されていたが、決勝 ではトラブルに悩 まされることが多 く、最高 位 は2003年 ・2004年 の総合 6位 と、期待 されたほどの成績 は残 せなかった。 - 2005
年 以降 はル・マンのレギュレーション変更 によりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、2008年 には久々 の新車 としてクローズドプロトタイプのS102を開発 しワークス参戦 (総合 33位 )。2012年 には改良 型 のS102.5でアンリ・ペスカロロと提携 して4年 ぶりに復帰 した。 - 2015
年 にはLMP2クラスにS103を投入 し、ストラッカ童夢 の42号車 としてルマンを出走 したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 - マツダオート
東京 (1979年 、1981 - 1983年 ) - 1974
年 にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦 したマツダオート東京 は、1979年 に自 らのチームで参戦 を果 たした。マシンはIMSA-GTO仕様 のサバンナRX7・252iであった。しかしマツダ本社 のサポートを得 られず、マシンのテスト不足 とチーム体制 の不備 により結果 は予選 落 ちとなった。 翌 1980年 チーム体制 構築 のための参戦 を見合 せ、1981年 に再 挑戦 をする。この際 にトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と提携 した。また1979年 に参戦 した際 、食事 面 の配慮 を欠 いたため食 当 たりでドライバーの体調 不良 を招 いた反省 から、フランスで修行 中 だった料理人 の脇 雅世 をチームの料理 長 に迎 えた。脇 は1991年 まで料理 長 を務 めることとなった。この年 はRX7・253を2台 をエントリーし2台 とも予選 通過 をしたものの決勝 はリタイアとなった。1982年 はRX7・254を2台 エントリーし、1台 はエンジントラブルでリタイア、もう一 台 の寺田 陽次 郎 /従 野 孝司 /アラン・モファット組 はガス欠 症状 に悩 まされながらも14位 完走 。- 1983
年 、前年 に創設 されたグループCのジュニアクラスに参戦 し、マツダ・717を2台 製作 した。2台 が完走 を果 たしグループCジュニアクラスの1位 と2位 となったが、もともとこのクラスの参戦 が少 なく評価 はされていない。この年 TWRの都合 で提携 を解消 した。その後 、マツダオート東京 のモータースポーツ部門 は独立 してマツダ本社 傘下 のマツダスピードとなり、以後 の活動 はワークス・チームによるものとなった。 - トムス(1980
年 、1985 - 1986年 ) - 1980
年 、トヨタ・セリカRA40系 ベースのIMSA-GTXマシンで初 参戦 し予選 落 ち。 - 1982
年 、童夢 と共同 で日本 で初 めてグループCカーを開発 しWEC-JAPANに参戦 。1983年 以降 WEC-JAPANおよび全日本 耐久 選手権 (後 の全日本 スポーツプロトタイプカー耐久 選手権 )にフル参戦 するようになった。 - 1985
年 、童夢 とともにトヨタエンジンを搭載 した85C-Lで5年 ぶりにル・マンに参戦 し12位 完走 。これが事実 上 トヨタのル・マン初 参戦 である。翌 1986年 、86C-Lで参戦 するが完走 できなかった。1987年 以降 はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動 になった。
その他 の日本 のチーム、ドライバー
- 1986
年 から1990年 まで高橋 国光 がドイツ・クレマーレーシングのポルシェ・962Cで参戦 。最高 位 は1988年 の9位 。当時 の日本人 最高 位 記録 。 - 1987
年 には岡田 秀樹 がザウバーから参戦 。リタイア。岡田 は88年 から90年 までクレマーレーシングのポルシェで参戦 、最高 位 は高橋 国光 と組 んだ88年 で9位 。 - 1988
年 、米山 二郎 と福山 英 朗 がADAエンジニアリング(ADA・03)から参戦 し、総合 18位 でC2クラス2位 に入賞 している。片山 右京 もクラージュ・コンペティション(クーガー・C22)で、初 参戦 リタイア。 - 1989
年 では、粕谷 俊二 がクラージュ・コンペティション(クーガー・C20B)から参戦 し、総合 14位 でC2クラス優勝 を果 たしている。またFromAレーシングがブルンとジョイントで参戦 。レギュラードライバーの中谷 明彦 が初 出場 。この他 、池谷 勝則 がチーム・デイビーのポルシェで参戦 、15位 完走 。米山 二郎 がクラージュのクーガーC22で参戦 、リタイア。 - 1990
年 、東名 スポーツがメンテナンスし、その後 1992年 に全日本 F3選手権 のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ・962Cが3位 表彰台 を獲得 する。トラストもポルシェ・962Cで初 参戦 、粕谷 俊二 もドライブ。13位 で完走 する。池谷 勝則 もデイビーから参戦 、19位 完走 。 - 1991
年 にはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR(長坂 尚樹 /見崎 清志 /横島 久 組 )が12位 で完走 し、カテゴリー1クラス優勝 を遂 げる。トラストも2年 連続 参戦 するが、残 り1時 間 でリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川 とみ子 他 女性 3名 (リン・セント・ジェームズ、デジレ・ウィルソンら)での出場 を目指 しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地 で吉川 にはライセンスが発給 されず、吉川 の参戦 は断念 。代役 の女性 ドライバーで参戦 するが、47周 でリタイヤに終 わる。この他 、池谷 勝則 がチーム・デイビーのポルシェで、粕谷 俊二 がクラシック/TFRのスパイスでエントリーしていたが、いずれも予選 落 ちに。 - 1992
年 には、粕谷 俊二 、松田 秀 士 がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦 し、総合 13位 で完走 。また、原田 淳 ・吉川 とみ子 ・嶋村 健太 らがチーム・ニッポン(登録 名 チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦 したが、こちらはチェッカーをうけたものの周回 数 不足 (160Lap)で非 完走 (NC)となり結果 表 のリタイアしたチームの一番 上 に記載 されている。 - 1993
年 には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田 淳 が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川 とみ子 が参戦 したが、両方 リタイアに終 わっている。 - 1994
年 は、チーム・ニッポン(登録 名 ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田 淳 ・吉川 とみ子 ・近藤 真彦 の3人 で参戦 したが、途中 リタイア。 - 1995
年 には、1985年 より参戦 を続 けてきた関谷 正徳 が、日本人 ドライバーとして初 の総合 優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際 開発 UK、ドライバーは関谷 正徳 、J.J.レート、ヤニック・ダルマス)を果 たした。 - 1997
年 、チーム郷 がマクラーレン F1 GTR LMで参戦 。ドライバーは中谷 明彦 、土屋 圭 市 、ゲイリー・アイルズ。決勝 は88周 リタイア。 - 1999
年 、チーム郷 がBMW・V12 LMで参戦 。ドライバーはヒロ松下 、加藤 寛 規 、中谷 明彦 。223周 リタイア。 - 2000
年 にはテレビ朝日 がチーム郷 と共同 で、"テレビ朝日 ・チーム龍 (Dragon)"としてパノスLMP-1を2台 エントリーさせている。当初 はLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを2台 投入 した"チーム虎 (Tiger)"として、二 つのクラスで出場 を計画 していたが、諸 事情 でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定 していたドライバーには高橋 国光 、近藤 真彦 、関谷 正徳 らが予定 され、ル・マン経験 者 を中心 に布陣 を固 めた「ドリームチーム」として期待 されていた。この時 ドライバーとピットとの会話 を中継 するなど新 しい試 みが行 われたが、レースに出場 するエントラントでもあったため他 チームのピットを取材 しようとして拒否 されるなどのトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝 を達成 している。 - 2001
年 、チーム郷 がデンマークのデン・ブラ・エイビスとジョイントで参戦 。マシンは童夢 ・S101。ドライバーはジョン・ニールセン、加藤 寛 規 、キャスパー・エルガード。リタイア。 - 2002
年 から2004年 にかけてKONDO Racingが横浜 ゴムとジョイントし、童夢 ・S101でル・マンに参戦 。近藤 真彦 や福田 良 ・片山 右京 ・加藤 寛 規 らがステアリングを握 ったが、2003年 に総合 13位 に入 ったのが唯一 の完走 。 - 2002
年 、チーム郷 がアウディ・R8で参戦 。ドライバーは加藤 寛 規 、ヤニック・ダルマス、荒 聖 治 。総合 7位 。 - 2003
年 、チーム郷 がアウディ・R8で参戦 。ドライバーは荒 聖 治 、ヤン・マグヌッセン、マルコ・ヴェルナー。総合 4位 。 - 2004
年 にはチーム郷 のアウディ・R8が日本 のプライベーターとしては初 めての総合 優勝 を果 たした。同 チームのドライバーの1人 の荒 聖 治 は、日本人 として2人 目 の総合 優勝 。リナルド・カペッロ、トム・クリステンセンとドライブ。 - JLOC(
日本 ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年 のレースに、桧 井 保孝 らのドライブで参戦 したものの完走 には至 らなかった。2007年 にも参戦 したがフリー走行 でクラッシュし、結局 1周 でレースを終 えてしまっている。また2009年 と2010年 にも参戦 したがリタイアに終 わる。 - 2009
年 、チーム郷 がポルシェ・RSスパイダーで参戦 。ドライバーは荒 聖 治 、国本 京 佑 、サッシャ・マーセン。リタイア。 - その
他 に太田 哲也 が1993年 ~1996年 まで、羽根 幸浩 が1995年 に、鈴木 隆司 が1996年 ~1997年 まで、それぞれプライベートチームからの出場 を果 たしている。 東海大学 において林 義正 研究 室 (開発 コース)でル・マン参戦 のための車両 が研究 開発 されていた。2002年 頃 からル・マン参戦 車両 開発 に向 けた先行 実験 車両 が開発 され、その動向 が注目 されていたが、2008年 の大会 に参戦 する意向 が正式 に発表 され、2月 にエントリーが認 められた。東海大学 で設計 し山形 のYGKが製作 した産学 協同 開発 エンジンを、クラージュ・オレカ製 シャシーを修正 したものに搭載 したマシンを使用 したが、学生 がメカニック作業 に慣 れていないなどの要因 からトラブルが多発 。メカニックについてR&D SPORTの支援 を仰 いだものの、結果 は決勝 185周 リタイアに終 わった。林 が東海大 を退官 する関係 から2012年 に同 プロジェクトは終了 したが、林 はYGKと共同 で新 たなル・マン参戦 プロジェクトを立 ち上 げる方針 である。- 2016
年 にクリアウォーター・レーシングよりエントリー(フェラーリ・458GT2)した澤 圭 太 が、LM-GTEアマクラスのポールポジションを獲得 した。 - 2017
年 にMRレーシングよりエントリー(フェラーリ・488GTE)した石川 資 章 が、2018年 、2019年 とLM-GTEアマクラスで参戦 している。 - 2021
年 には青木 拓磨 がフランスのSRT41チームより特別 枠 で出場 (マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木 拓磨 、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)[15][16]。334周 、総合 32位 で完走 している。 - 2021
年 に星野 敏 率 いるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井 誠 暢 が操 るアストンマーティン・ヴァンテージで参戦 し、クラス6位 ・総合 33位 で完走 する[17][18]。2022年 のFIA世界 耐久 選手権 にも参戦 中 [19]。
日本 での中継
2006
テレビ朝日 のテレビ中継
なおサッカー
それぞれの
実況
東出 甫 (1987年 )朝岡 聡 (1987年 )森下 桂 吉 (1987年 、1994年 )三浦 智和 (1988 - 91年 ) - マツダの日本 車 初 制覇 を実況 。松 苗 慎一郎 (1988 - 93年 、1995 - 96年 ) -関谷 の日本人 初 優勝 を実況 。大熊 英司 (1991 - 92年 ) - この後 は、スタジオ司会 を多 く担当 している。田原 浩史 (1993年 、1995 - 2003年 )飯村 真一 (1994年 )国吉 伸洋 (1997 - 2000年 、2003年 ) - 2002年 はスタジオ司会 を担当 。中山 貴雄 (2001 - 02年 )
解説
熊谷 睦 (1987 - 1990年 、1992年 ) - 『オートスポーツ』編集 長 (当時 )、91年 はスタジオ解説 を担当 。赤井 邦彦 (1987年 )- モータージャーナリスト、ピットレポートも併 せて担当 した。津々 見 友彦 (1991 - 95年 )- 90年 はスタジオ解説 を担当 。由良 拓也 (1995 - 2003年 ) -長年 に渡 って解説 を担当 、参戦 しているマシンを分析 する「由良 拓也 が斬 る!」というコーナーを持 っていた。1995年 はピットレポートを担当 。郷 和道 (2001年 )
- ピットリポーター
- ビル
大友 (1988 - 89年 ) 大石 吾朗 (1988年 )粕谷 俊二 (1993年 、1996 - 2001年 )服部 尚貴 (1996年 )近藤 真彦 (1997年 )影山 正彦 (2002年 )飯田 章 (2003年 )
現地 リポート
- ゲスト
解説
現地 ゲスト
松尾 雄治 (1987年 ) -実況 席 にゲストとして登場 。村上 龍 (1989年 )川島 なお美 (1990年 ) -実況 席 にゲストとして登場 。酒井 法子 (1992年 ) - ピットバルコニーゲストとして登場 。岡本 佳織 (1994 - 1995年 ) - ピットリポートを担当 した。- MANISH(1996
年 ) - この年 のテーマソング(後述 )を担当 し、ピットバルコニーゲストとして登場 。 伊達 公子 (1999年 ) - ピットバルコニーゲストとして登場 。松岡 充 (SOPHIA)(2001年 ) - MANISHと同様 、この年 のテーマソング(後述 )を担当 。
- スタジオゲスト
- スタジオ
司会
三好 康之 (1987 - 88年 )大熊 英司 (1989 - 90年 、1993 - 97年 、1999 - 2001年 、2003年 )田原 浩史 (1991 - 92年 )中山 貴雄 (1998年 )国吉 伸洋 (2002年 )高橋 享子 (1990年 )佐藤 紀子 (1991年 )川瀬 眞由美 (1992年 )木下 智佳子 (1993年 )大下 容子 (1994 - 95年 )高橋 真紀子 (1996年 )下平 さやか(1997 - 99年 )萩野 志保子 (2000年 )徳永 有美 (2001年 )石井 希 和 (2002 - 03年 )
歴代 テーマ曲
1987 - 89
- 1987
年 - Jerry Goodman「Rockers」 - 1988
年 - 3「Talkin' Bout」 - 1989
年 - Genesis「Behind The Lines」 - 1990
年 -高中 正義 「Can You Feel It」 - 1991
年 -外道 「龍神 〜空 に舞 う (1991 Version)」 - 1992
年 - DIMENSION「Out Of Wind」 - 1993
年 - FORCE「HUNAUDIERES」 - 1994
年 - FORCE「DISTANT VIEW」 - 1995
年 - DIMENSION「Land Breeze」 - 1996
年 - MANISH「It's so Natural」 - 1997
年 - ケン・イシイ「DRUMMELTER」 - 1998
年 - CORNELIUS「Count 5,6,7,8」 - 1999
年 - LUNA SEA「G.」 - 2000
年 -東儀 秀樹 「COOL RUN」 - 2001
年 - SOPHIA「KURU KURU」 - 2002
年 - SOPHIA「ROCK STAR」 - 2003
年 - B'z「IT'S SHOWTIME!!」
ラジオ中継
1990
実況
扇 一平 (1990年 - 1991年 )
ル・マン24時 間 レースを主題 にした映画 ・ドラマ・ゲーム
栄光 のル・マン(Le Mans、1971年 、アメリカ)- ミシェル・ヴァイヨン(2003
年 、フランス) - フォードvsフェラーリ (2019
年 、アメリカ) - グランツーリスモ (
映画 ) (2023年 、アメリカ)
ドラマ
- ル・マンへ
熱 き涙 を(1992年 、テレビ朝日 )マツダの参戦 記 をドラマ化 したもの。
レーザーディスク
- '84 24HEURES DU MANS(1984
年 、パイオニア、プロデューサー:林 正史 )
ビデオソフト
- エキサイティング ルマン(1984
年 、プロデューサー:林 正史 ) 爆 走 モンスターマシン 24時 間 の記録 - ル・マン'82
爆 走 !モンスター・マシン(1982年 、日本 コロムビア、プロデューサー:川野 真 ) - DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985
年 、ファンハウス、プロデューサー:林 正史 ) - 24 HEURES DU MANS 1983(1983
年 、アドインターナショナル) - Dramas of Le Mans 24Hours(1980
年 、東映 芸能 ビデオ) - '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986
年 、デルタポイント) - Le MANS 83(1983
年 、東映 ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd) - ル・マン カタログ'85(1985
年 、TDKコア) - プロジェクトX〜
挑戦 者 たち〜ロータリー 47士 の闘 い ~夢 のエンジン廃墟 からの誕生 ~(2000年 放送 、DVD NHKエンタープライズ)
LP
- 24HEURES DU MANS 1983(1983
年 、Japan Records、プロデューサー:林 正史 ) - TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979
年 、東芝 EMI、プロデューサー:新田 和 長 ) 童夢 ZERO RL(1979年 、東芝 EMI、プロデューサー:新田 和 長 )- FUNKY TRACK/
鳴瀬 喜博 (1984年 、徳間 ジャパン、プロデューサー:林 正史 ) - DIGITAL EXPLOSION '83(1983
年 、東芝 EMI、プロデューサー:林 正史 )
VHD
- DOME & TOM'S IN LE MANS '85(1985
年 、日本 ビクター、プロデューサー:林 正史 )
CD
- 24 HEURES DU MANS 1983(1983
年 、Japan Records、プロデューサー:林 正史 ) - Hot & Long Battle LE MANS 24 HOURS '90(1990
年 、ポニーキャニオン)
高 斎 正 『ニッサンがルマンを制覇 する時 』徳間 文庫 ISBN 978-4195775387高 斎 正 『お気 に入 りがルマンに優勝 する時 』徳間 文庫 ISBN 978-4195792780福野 礼一 郎 『スーパーカーのル・マン』 - 『スーパーカー野郎 』双葉社 ISBN 978-4575296983 に収録 、1994年 のル・マン24時 間 レースのパラレルワールド的 作品 - ブルース・カーター 『
栄光 のポンコツ車 』岩崎 書店 ジュニアベストノベルズ第 18巻 1975年 刊行 絶版 、1930年 台 のベントレースピード6を駆 って1950年 台 のスポーツカー相手 にル・マンを戦 う話 。訳 斎藤 伯 好 画 伊藤 梯 夫
新谷 かおる『白 と黒 の羊 』聖 悠紀 『ミルザンヌの嵐 』主婦 と生活社 ISBN 978-4391920086廣谷 章 、川崎 のぼる『日産 は勝 つ―'58オーストラリアラリーから'89ル・マンまで男 たち30年 の挑戦 』東急 エージェンシー出版 部 ISBN 978-4924664685
ゲーム
- ル・マン(1976
年 、アタリ) - WECル・マン24(1986
年 、コナミ〈後 のコナミデジタルエンタテインメント→後 のコナミアミューズメント〉、開発 はコアランドテクノロジー→後 のバンプレスト→後 のバンダイナムコエンターテインメント) - ルマン24 (アーケードゲーム)(1997
年 、セガ〈後 のセガ・インタラクティブ〉) - チェッカーフラグ(1988
年 、コナミ〈後 のコナミデジタルエンタテインメント〉、2面 に収録 ) - ル・マン24アワーズ(TEST DRIVE LE MANS、2001
年 、アタリ)日本 ではドリームキャスト、PlayStation 2版 はセガが販売 。 - グランツーリスモ4(PS2)(2004
年 、ソニー・コンピュータエンタテインメント)以降 のグランツーリスモシリーズの耐久 レースで当 レースを収録 。
格言
脚注
注釈
- ^ 「ル・マン24
時間 (24 Heures du Mans)」に改称 されたのは1937年 からである。 - ^ ピットのガレージを
拡張 したため、2016年 より最大 59台 。 - ^ ラリーやヒルクライム
競技 等 から徐々 に緩和 された。完全 に解禁 する法案 が2007年 6月 に下院 を通過 したが、上院 で否決 され2009年 に撤回 された。 - ^ 2013
年 以降 。J SPORTSが放送 開始 した2012年 はゴールまでの4時 間 だったため合計 12時 間 、また2015年 は直前 に野球 中継 「オリックス対 阪神 」戦 が放送 された関係 でゴールは5時 間 だった。 - ^
主 にスタートを担当 したアナウンサーは日曜 午後 の放送 とゴールの放送 を担当 し、中断 から朝 4 - 5時 までのパート2 - 3は別 のアナウンサーが担当 する傾向 にあった。
出典
- ^ “Which teams have already been invited to compete in the 2024 24 Hours of Le Mans?” (
英語 ). 24h-lemans.com. ACO (2023年 10月 22日 ). 2023年 11月30日 閲覧 。 - ^ “How many competitors will be invited to the 24 Hours of Le Mans 2024?” (
英語 ). Endurance Info (2023年 8月 10日 ). 2023年 11月30日 閲覧 。 - ^ “
両手 両足 を失 って、彼 は「ル・マン」に挑 み、見事 に完走 した”. WIRED (2016年 6月 20日 ). 2017年 4月 17日 閲覧 。 - ^ 『ルマン
伝統 と日本 チームの戦 い』p.40、グランプリ出版 。 - ^
二玄社 刊 ・世界 の自動車 「メルセデス・ベンツ」戦後 編 - ^ 『
死 のレース 1955年 ルマン』p.214。 - ^ 『
世界 の自動車 -11 シムカ マートラ アルピーヌ その他 』p.42。 - ^ 『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。
- ^ マツダ
公式 サイト内 の、同年 C2クラスで優勝 したBFグッドリッチマツダローラT616 - ^ トヨタ、ル・マン24
時 間 レース3位 入賞 も「結果 は厳粛 に受 け止 めなければ」 - ^ 【ル・マン24
時 間 2014】中嶋 一貴 選手 がル・マン初 の日本人 ポールポジションを獲得 ! - ^ トヨタ
初 勝利 の夢 、残 り3分 で破 れる。ル・マン24時 間 はポルシェ2号車 が大 逆転 勝利 - ^
当 の5号車 はのちにチェッカーを受 け、周回 数 では2位 ではあるが最終 周回 にかかった時間 が規定 (首位 でチェッカーフラッグを受 けた車両 より6分 以内 にチェッカーフラッグを受 けた車両 を完走 扱 いとするルールが存在 する)を超 えたため完走 扱 いになっておらず、失格 またはリタイア扱 いとなる。この時 はリタイアの届出 を行 わなかったため規定 違反 で失格 となった。 - ^ [2019.6.17
中日新聞 朝刊 ] - ^
元 WGPライダーの青木 拓磨 が2020年 のWECル・マン24時 間 レースに出場 ,autosport web,2018年 10月 10日 - ^
「
障害 あっても夢 はかなう」車 いすレーサーの青木 拓磨 がルマン24時 間 に初 参戦 青木 3兄弟 の次男 ,上 毛 新聞 ,2021年 8月 21日 - ^ “【
決勝 結果 】2021年 WEC第 4戦 ・第 89回 ル・マン24時 間 レース/7号車 トヨタが総合 優勝 | ル・マン/WEC | autosport web”. AUTO SPORT web (2021年 8月 22日 ). 2022年 5月 22日 閲覧 。 - ^ “D’station Racing、ル・マン24
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最後 の最後 まで何 が起 こるのか分 からない…24時 間 筋書 きのないドラマ「ル・マン24時 間 レース」J SPORTSで初 の完全 中継 が決定 !”. J SPORTS (2017年 6月 2日 ). 2017年 6月 13日 閲覧 。 - ^
川 喜田 研 (2016年 6月 20日 ). “トヨタの悲願 達成 ならず。中嶋 一貴 が語 ったル・マン24時 間 のラスト3分 ”. web Sportiva. 2017年 4月 15日 閲覧 。
参考 文献
- 『ルマン
伝統 と日本 チームの戦 い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2 - 『Gr.Cとル・マン』
学研 ISBN 978-4-05-604601-4 黒井 尚志 『ル・マン偉大 なる草 レースの挑戦 者 たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6- マーク・カーン
著 、相原 俊樹 訳 『死 のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN 4-544-04043-4 大川 悠 『世界 の自動車 -11 シムカ マートラ アルピーヌ その他 』二玄社 神田 重 巳 『世界 の自動車 -15 クーパー ローラ エルヴァ』二玄社
関連 項目
- ル・マン24
時 間 歴代 勝者 - スポーツカー
世界 選手権 - FIA
世界 耐久 選手権 - フランス
西部 自動車 クラブ - ル・マン・シリーズ
- アメリカン・ル・マン・シリーズ
- アジアン・ル・マン・シリーズ
録画 チャンネル4.5 -本 番組 と同 じく同業 他社 が同 一 番組 スポンサーとなった番組 。