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大衆車 - Wikipedia

大衆たいしゅうしゃ

廉価れんか価格かかくたい乗用車じょうようしゃ
国民こくみんしゃから転送てんそう

自動車じどうしゃ > 大衆たいしゅうしゃ

大衆たいしゅうしゃ(たいしゅうしゃ、えい:People's car)とは、一般いっぱんてき大衆たいしゅう購入こうにゅう維持いじできるような、廉価れんか価格かかくたい乗用車じょうようしゃのことである。るい呼称こしょうとして「国民こくみんしゃ」(こくみんしゃ)があり、ほんこうではこれについてもあつかう。

概要がいよう

19世紀せいきすえ登場とうじょうした乗用車じょうようしゃは、当初とうしょ貴族きぞくだい富豪ふごうなど一部いちぶ上流じょうりゅう階級かいきゅうのみが道楽どうらくとして所有しょゆうするものであり、大衆たいしゅうしゃ高級こうきゅうしゃという区分くぶんはされなかった。20世紀せいき初頭しょとう大量たいりょう生産せいさん手法しゅほう導入どうにゅうしたフォード・モデルTはじまる乗用車じょうようしゃ普及ふきゅう大衆たいしゅうによりはじめて、一般いっぱん所得しょとくそうであっても所有しょゆうできる乗用車じょうようしゃ現実げんじつし、以後いご各国かっこく大衆たいしゅうがその日常にちじょう生活せいかつにおいて自家用車じかようしゃもとめる需要じゅようおうじて、様々さまざま企業きぎょうから発売はつばいされた。とく企業きぎょう自主じしゅてき設計せっけい開発かいはつ生産せいさんおこなって販売はんばいしたものもあれば、企業きぎょう政府せいふ依頼いらいけて開発かいはつしたものもある。

基本きほんてき大衆たいしゅうしゃでは、以下いかてん重要じゅうようされた。

  • そのくに一般いっぱんてき所得しょとくそうでも十分じゅうぶん購入こうにゅうできる価格かかくたいであること
  • そのくに一般いっぱんてき道路どうろ状況じょうきょうをみて日常にちじょう利用りよう十分じゅうぶん可能かのう走破そうは能力のうりょくがあること
  • そのくに一般いっぱんてき所得しょとくそうからみて、燃料ねんりょう維持いじなどの所有しょゆうコストに無理むりがないこと
  • 家族かぞく夫婦ふうふ子供こども2にんといった4めい程度ていど)が乗車じょうしゃできること

その大衆たいしゅうしゃ普及ふきゅうにより、初期しょき大衆たいしゅうしゃにはない様々さまざま価値かちもとめられ、現在げんざいでは多種たしゅ多様たよう大衆たいしゅうしゃ存在そんざいする。

大衆たいしゅうしゃ国民こくみんしゃ

大衆たいしゅうしゃ普及ふきゅうする以前いぜんに、自国じこくにおける一般いっぱんてき所得しょとくそうでも所有しょゆう可能かのう乗用車じょうようしゃ開発かいはつ販売はんばいし、そのくにモータリゼーションのはしりとなる構想こうそう各国かっこくでみられた。こうした構想こうそうにより開発かいはつされたくるま一般いっぱんてきには「国民こくみんだれもがれるくるま」として「国民こくみんしゃ」として呼称こしょうすることがある。

また、結果けっかてきにそのくになかたかシェア獲得かくとくしたくるまについても、「国民こくみんだれもがっているくるま」として「国民こくみんしゃ」と呼称こしょうすることがある。

国民こくみんしゃ」では、大衆たいしゅうしゃもとめられるものよりも一層いっそうきびしい要件ようけんとして、「そのくに一般いっぱんてき所得しょとくそうでも十分じゅうぶん購入こうにゅうできる価格かかくたい」と「家族かぞく全員ぜんいんれる一定いってい居住きょじゅうせい」、「舗装ほそう道路どうろとうざかなどでの一定いってい走行そうこう性能せいのう」、「こわれにくく修理しゅうりしやすい」というものがあった。実際じっさいにこの要件ようけんすべたす自動車じどうしゃ設計せっけい困難こんなんであり、ひろく「国民こくみんしゃ」として認識にんしきされた車種しゃしゅは、世界せかいてきにも非常ひじょうかぎられる。

日本にっぽんの「国民こくみんしゃ構想こうそう

太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつ日本にっぽん占領せんりょういた連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)は、1945ねん9月に日本にっぽんトラック生産せいさん許可きょかしたのにつづき、1947ねん6がつ台数だいすう限定げんていつきで小型こがた乗用車じょうようしゃ生産せいさん許可きょかした。しかし、戦後せんご急激きゅうげきインフレーション抑制よくせいするためにGHQが実施じっしした金融きんゆう政策せいさくドッジ・ライン)によるきょう翻弄ほんろうされていた当時とうじ日本人にっぽんじんには、乗用車じょうようしゃ所有しょゆうなどかんがえることすらできなかった。

状況じょうきょう変化へんかしたのは1949ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ、ならびに1950ねん6月の朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつけてのことである。GHQは早急そうきゅう占領せんりょう政策せいさく終結しゅうけつけた平和へいわ条約じょうやく締結ていけつと、日本にっぽん経済けいざいてき自立じりつのため、国内こくない産業さんぎょう育成いくせい必要ひつようせいせまられた。また朝鮮ちょうせん戦争せんそう軍需ぐんじゅ物資ぶっし調達ちょうたつのための、いわゆる朝鮮ちょうせん特需とくじゅにより、1956ねん昭和しょうわ31ねん)の経済けいざい白書はくしょで「もはや戦後せんごではない」という言葉ことば象徴しょうちょうされる空前くうぜん好景気こうけいき日本にっぽんき、1960ねん昭和しょうわ35ねん)には当時とうじ池田いけだ勇人はやと内閣ないかくが「所得しょとく倍増ばいぞう計画けいかく」を発表はっぴょうするなど、日本にっぽん戦後せんご復興ふっこう着実ちゃくじつあゆみをすすめていた。

そうしたなか1954ねん10月に軽自動車けいじどうしゃ規格きかく改定かいていされ、ボディサイズは全長ぜんちょう×全幅ぜんぷく×全高ぜんこう(mm)=3,000×1,300×2,000、排気はいきりょう2サイクル4サイクルともに360 cc以下いか統一とういつされた[ちゅう 1]。このしん規格きかく沿って開発かいはつされた日本にっぽんはつ本格ほんかくてき軽自動車けいじどうしゃとして、1955ねん昭和しょうわ30ねん)10がつには鈴木すずき自動車じどうしゃ工業こうぎょうげんスズキ)がドイツロイト手本てほんに「スズライトSF」を発売はつばいしている。

1955ねん昭和しょうわ30ねん)5がつ18にち通商産業省つうしょうさんぎょうしょうげん経済けいざい産業さんぎょうしょう)の「国民こくみんしゃ育成いくせい要綱ようこうあん国民こくみんしゃ構想こうそう」が新聞しんぶんとうほうじられた[ちゅう 2]。この構想こうそうでは、一定いってい要件ようけんたす自動車じどうしゃ開発かいはつ成功せいこうすれば、くにがその製造せいぞう販売はんばい支援しえんするというものであった。要件ようけん以下いかとおりである。

  • 最高さいこう速度そくど100 km/h以上いじょうであること。
  • 乗車じょうしゃ定員ていいん4めい、または2めいと100 kg以上いじょう貨物かもつめること。
  • 60 km/hで平坦へいたん道路どうろ走行そうこうちゅう燃費ねんぴが、30 km/L以上いじょうであること。
  • おおがかりな修理しゅうりをしなくても、10まん km以上いじょうはしれること。
  • 月産げっさん2,000だい場合ばあい最終さいしゅう販売はんばい価格かかくは1だい25まんえん以下いかであること。
  • 性能せいのう価格かかくから勘案かんあんされるエンジン排気はいきりょうは350 - 500 cc、くるまじゅうは400 kg以下いか

この計画けいかくたいし、国内こくないかく自動車じどうしゃメーカーからは実現じつげん不可能ふかのうであると消極しょうきょくてき反応はんのうおおかったが、1956ねん昭和しょうわ31ねん)9がつにはトヨタ自動車とよたじどうしゃ空冷くうれい4ストローク2気筒きとう700 cc、前輪ぜんりん駆動くどうの「A1がた[ちゅう 3]計画けいかく発表はっぴょうしたり、小松製作所こまつせいさくしょ国民こくみんしゃ政策せいさく発表はっぴょうしたりするうごきはあった。

当時とうじ自動車じどうしゃ市場いちばへの新規しんき参入さんにゅうねらったスバル・1500(P-1)発売はつばい断念だんねんから、1955ねん昭和しょうわ30ねん)からあらたな軽自動車けいじどうしゃ規格きかく沿って新型しんがた軽自動車けいじどうしゃ開発かいはつんでいた富士重工業ふじじゅうこうぎょうげんSUBARU)では、航空機こうくうき製造せいぞうつちかった経験けいけんれ、1957ねん昭和しょうわ32ねん)2がつ試作しさくだい1号車ごうしゃ完成かんせい1958ねん昭和しょうわ33ねん)3がつに「スバル360」として発表はっぴょうし、同年どうねん5がつ発売はつばいした。

スバル360は、それまでかくメーカーが実現じつげん不可能ふかのう冷遇れいぐうしていた通産省つうさんしょうの「国民こくみんしゃ構想こうそう」をほぼ満足まんぞくさせる内容ないようで、けい乗用車じょうようしゃ市場いちば確立かくりつさせた。ただし、富士重工業ふじじゅうこうぎょう首脳しゅのうじんおよび百瀬ももせすすむろく麾下きか開発かいはつスタッフの念頭ねんとうにあったものとしては、シトロエン・2CVのスペックとう参考さんこうとした以下いか要求ようきゅう実現じつげんはかったものであり、「国民こくみんしゃ構想こうそう」に完全かんぜん沿って開発かいはつされたものではない。

  • 定員ていいん大人おとな4めい
  • 車両しゃりょう本体ほんたい価格かかく35まんえん以下いか実際じっさい発売はつばいは42.5まんえん
  • 当時とうじひつじ舗装ほそうみちおおかった日本にっぽん主要しゅよう道路どうろにおいて、60  km/hでの巡航じゅんこう可能かのう
  • 生産せいさん台数だいすう確保かくほするため、三鷹みたか工場こうじょう合併がっぺいまえ富士産業ふじさんぎょう)で生産せいさんしていたラビットスクーターようのエンジン生産せいさんライン転用てんようする
  • 簡易かんいてき自動車じどうしゃではなく、海外かいがいメーカーのノックダウン生産せいさんくるま初代しょだいトヨタ・クラウン比較ひかくして遜色そんしょくのない「乗用車じょうようしゃ」であること

これにつづき、1959ねん昭和しょうわ34ねん)9がつには鈴木すずき自動車じどうしゃ工業こうぎょうも「スズライト」をモデルチェンジした「スズライトTL」を発売はつばい1960ねん昭和しょうわ35ねん)には東洋工業とうようこうぎょうげんマツダ)が「R360クーペ」を、1962ねん昭和しょうわ37ねん)10がつにはしん三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうげん三菱自動車工業みつびしじどうしゃこうぎょう)が「ミニカ」を、1966ねん昭和しょうわ41ねん)にはダイハツ工業だいはつこうぎょうが「フェロー」をそれぞれ発売はつばいし、軽自動車けいじどうしゃ市場いちば一気いっき活況かっきょうていすることになった。

また、小型車こがたしゃでは1960ねん昭和しょうわ35ねん)4がつ発売はつばいされたしん三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうの「三菱みつびし500」、1961ねん昭和しょうわ36ねん)4がつのトヨタの「パブリカ」が発売はつばいされた。三菱みつびし500はパブリシティにおいても「国民こくみんしゃ」を銘打めいうっており、車体しゃたいに「三菱みつびし500国民こくみんしゃ」とかれた発表はっぴょう写真しゃしんのこされている[1]

結果けっかてきに、「国民こくみんしゃ構想こうそう」に沿って開発かいはつ発売はつばいされた「大衆たいしゅうしゃ」にたいして通産省つうさんしょう補助ほじょおこなうことはなかったが、それまで自動車じどうしゃとはえんがなかった一般いっぱん大衆たいしゅう自動車じどうしゃ身近みぢかなものとして定着ていちゃくさせ、欧米おうべい自動車じどうしゃ先進せんしんこくたいしていちじるしくおくれていた日本にっぽん自動車じどうしゃ産業さんぎょう画期的かっきてき技術ぎじゅつ革新かくしんうながしたという意味いみでは、この構想こうそう非常ひじょうおおきな貢献こうけんがあったとされる。一方いっぽう日本にっぽんでの自家用車じかようしゃ普及ふきゅうは、政府せいふ方針ほうしんにとらわれることなく開発かいはつされたスバル360の功績こうせきであり、国民こくみんしゃ構想こうそう影響えいきょうはほとんどないとする意見いけんもある。

大衆たいしゅうしゃれい

初期しょき乗用車じょうようしゃ上記じょうき要件ようけんたすため、そのおおくが小型こがたのエンジンを搭載とうさいし、そのエンジンで駆動くどうできるよう軽量けいりょうのために、やや小型こがたのものがおおい。またこのほかにもこくによってことなるニーズにより、一定いっていちがいもられる。とくにこれらのおおくがだい世界せかい大戦たいせん以降いこう開発かいはつされたのは、軍需ぐんじゅ産業さんぎょう民生みんせいひんへの転換てんかんと、経済けいざい復興ふっこうによる大衆たいしゅう購買こうばいりょく向上こうじょう関係かんけいする。

なお生産せいさんこく経済けいざい成長せいちょう大衆たいしゅう所得しょとくげ、一般いっぱん労働ろうどうしゃ購買こうばいりょく一定いってい以上いじょうたっしたため、これら一般いっぱん大衆たいしゅうしゃおおくは「自動車じどうしゃ普及ふきゅう」という役割やくわりえ、装備そうび充実じゅうじつしたつぎ世代せだい大衆たいしゅうしゃ市場いちばゆずることとなった。

日本にっぽん

日本にっぽんでモータリゼーションがすすはじめたのはだい世界せかい大戦たいせん1950年代ねんだいすえのことである。きびしい自然しぜん環境かんきょうゆえの耐久たいきゅうせいや、起伏きふくんだ国土こくどゆえの登坂とさか性能せいのう重要じゅうようされる一方いっぽう国土こくどせま道路どうろさい高速度こうそくどが100 km/hにとどまっていたため、高速こうそく長距離ちょうきょり巡航じゅんこう性能せいのうはさほど重要じゅうようされなかった。とく年間ねんかん寒暖かんだんが50 ℃から70 ℃ほどにもなる[ちゅう 4]ため、真夏まなつにおけるこう負荷ふかでもオーバーヒートしにくく、かつ冬場ふゆばひやあいだでもなんなく始動しどうできるエンジンがもとめられた。また、1960年代ねんだいまでは舗装ほそうおおかったことから、丈夫じょうぶあしまわもとめられた。さらには欧州おうしゅうおなじくせまみちおおいことから小柄こがらなボディや、ガソリン価格かかくたかさのためにていちゅうそくいきでの燃費ねんぴ性能せいのう重視じゅうしされる。

かつて大衆たいしゅうしゃ主流しゅりゅうであったセダンの市場いちばは、2000年代ねんだい以降いこう社用しゃようしゃおよび教習きょうしゅうしゃひとし業務ぎょうむ用途ようとのぞいて衰退すいたい一途いっとをたどっており、2020年代ねんだい現在げんざいでは長引ながびきょうもあってダウンサイジングいちじるしく、大衆たいしゅうしゃはもっぱら軽自動車けいじどうしゃ主流しゅりゅうとなっている。ファミリーカーとしては実用じつよう本位ほんいミニバントールワゴン人気にんきがある。

スバル・3601958ねん
 
スバル・360
商業しょうぎょうてきはじめて成功せいこうしたけい乗用車じょうようしゃで、日本にっぽんせい大衆たいしゅうしゃ元祖がんそとされる。コンパクトな車体しゃたい大人おとな4にんりに必要ひつよう十分じゅうぶん車内しゃないスペースを確保かくほし、さらに心地ごこち良好りょうこうものにするため4りん独立どくりつ懸架けんかもちいたことが特徴とくちょうとしてげられる。富士重工業ふじじゅうこうぎょうげんSUBARU)のけい乗用車じょうようしゃはそのR-2レックスヴィヴィオプレオステラがれるが、2011ねん4がつ初代しょだいステラの生産せいさん終了しゅうりょうをもってけい乗用車じょうようしゃ自社じしゃ製造せいぞうから撤退てったいし、他社たしゃからのOEMのみとなった。
トヨタ・カローラ1966ねん
 
初代しょだいカローラ
2ドアセダン1100デラックス(KE10Dがた
大衆たいしゅうけでも家族かぞく3にん以上いじょうかけることのおおいニーズにけ、実用じつようせい経済けいざいせいすぐれ、りしやすい3ボックススタイルのノッチバックセダンかた小型こがた乗用車じょうようしゃとして開発かいはつされた。のちにクーペステーションワゴンライトバンハッチバックなどの派生はせいモデルも多数たすう追加ついかされ、幅広はばひろいニーズにこたえた。1974ねんにはくるまめい別世界べっせかい生産せいさん台数だいすう1、1997ねんには累計るいけい販売はんばい台数だいすうフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)をいてギネス世界せかい記録きろく樹立じゅりつ[2]し、2024ねん現在げんざい通算つうさん12世代せだいかぞえるロングセラーモデルとなっている。
日産にっさん・サニー(1966ねん
 
初代しょだいサニー
2ドアセダン1000デラックス(B10がた
上記じょうきのカローラとどう時期じき登場とうじょうし、のちにクーペ、ステーションワゴン、ライトバン、ピックアップトラックなどの派生はせいモデルをくわえ、カローラとともに日本にっぽんにおける大衆たいしゅうしゃとしてながらく双璧そうへきをなす存在そんざいであった。しかし、1990年代ねんだいからはユーザーの高齢こうれいなどで段階だんかいてきにラインナップを縮小しゅくしょうしていき、2004ねん9がつをもって日本にっぽん国内こくないにおけるサニーはブランド廃止はいしとなった。日産にっさん主力しゅりょく乗用車じょうようしゃは、日本にっぽん国内こくない市場いちばではノートがそのいでいるほか、日本にっぽん国外こくがい一部いちぶ市場いちばではぎサニーのくるまめい継続けいぞく使用しようされている[ちゅう 5]
スズキ・アルト1979ねん
 
初代しょだいアルト(SS30Vがた
パーソナルユーザーにとくした「けいボンネットバンブーム」の草分くさわてき車種しゃしゅである。税金ぜいきん任意にんい保険ほけんりょうやすいという商用しょうようしゃ利点りてんと、車検しゃけんは2ねんごとという軽自動車けいじどうしゃ利点りてんをフルにかして顧客こきゃく開拓かいたくした。1980年代ねんだい後半こうはんには、軽自動車けいじどうしゃとしてはつDOHCインタークーラーターボエンジンよんりん駆動くどうわせ、最高さいこう出力しゅつりょく64馬力ばりき(ネット[ちゅう 6]ほこる「アルトワークス」もラインアップにくわわった。フロンテの統合とうごう乗用じょうようモデルへの移行いこうてブランドは存続そんぞくしているが、1990年代ねんだい以降いこうのダウンサイジングのながれによって軽自動車けいじどうしゃにファミリーカーとしての機能きのうもとめられるようになったため、主力しゅりょくモデルとしての地位ちいけいトールワゴンタイプのワゴンRシリーズスペーシアゆずっている。
ダイハツ・ミラ1980ねん
 
初代しょだいミラ(L55Vがた
フェローMAX/MAXクオーレ後継こうけいとして、当初とうしょは「ミラクオーレ」を名乗なの商用しょうようしゃとして登場とうじょうした。上記じょうきのアルトと同様どうようちであるとともに、アルトの最大さいだいのライバルであった。こちらも主力しゅりょくとしての地位ちいけいトールワゴンタイプのムーヴシリーズタントシリーズゆずり、単独たんどくネームとしてのミラは2018ねんまでに販売はんばい終了しゅうりょうとなった。けいベーシックカーとしての地位ちい派生はせいミライース後継こうけいとなっている。

フランス

フランス農業のうぎょう大国たいこく整地せいちおおいことから、あくでの走破そうはせいもとめられるじょう石畳いしだたみでの心地ごこち重要じゅうようなため、他国たこくくるまくらべてホイールベースながい、サスペンションストロークがおおきい、シートは大柄おおがらでソフトなものがおおい、などの特徴とくちょうつ。国土こくど大半たいはん平坦へいたん使用しよう速度そくどいきたかいことから、キャスターアクションもつよく、直進ちょくしん安定あんていせいすぐれる傾向けいこうがある。また、しょう排気はいきりょうしゃでもみのいち出品しゅっぴん購入こうにゅう)のさいだい荷物にもつむことや、キャンピングトレーラーをけんいんすることを想定そうていしており、かつ巡航じゅんこう速度そくどたか設定せっていされているため、ギア非常ひじょうにワイドレシオとなっている。

シトロエン・2CV1948ねん
 
2CV(試作しさくしゃ
当時とうじいまだに手押ておしゃ馬車ばしゃたよっていた地方ちほう農業のうぎょう従事じゅうじしゃおもなターゲットとして開発かいはつされ、生産せいさんぶつであるせいたまご商品しょうひんとして輸送ゆそうするさいあくでもれることのないような心地ごこち設計せっけい絶対ぜったい要件ようけんとするなど、独特どくとく仕上しあがりとなった。「こうもりがさに4つの車輪しゃりん」という基本きほんコンセプトのとおり、あく走破そうはせい積載せきさい能力のうりょく、そして経済けいざいせい重視じゅうしして高級こうきゅうかん無視むしという設計せっけい思想しそうであり、農村のうそん実地じっち調査ちょうさなど徹底てっていした市場いちば調査ちょうさおこなわれた。当時とうじとしても奇抜きばつなデザインは「みにくアヒル」「乳母車うばぐるま」「缶詰かんづめ」などと揶揄やゆされたが、これらの評価ひょうかはむしろ2CVの使つかいやすさにたいする信頼しんらい愛着あいちゃく表現ひょうげんへと変化へんかしていった。工具こうぐ使つかうことなく屋根やねのキャンバスドアはずすことが可能かのうで、その積載せきさいりょくアップライトピアノめるほどであった。1967ねんには後継こうけいとしてディアーヌ登場とうじょうするも2CVの代替だいたいにはいたらず、結果けっかとして2CVは1990ねんまでに累計るいけい385まんだい生産せいさんされた。
ルノー・41961ねん
 
4(1967ねんかた
ルノーはリアエンジンくるま4CVですでに成功せいこうおさめていたが、発売はつばい直後ちょくごからだいヒットとなっていた2CVの対抗たいこう製品せいひんとして新規しんき開発かいはつされたのが4(キャトル、カトル)である[ちゅう 7]。デザインはやや近代きんだいされているが、積載せきさい能力のうりょく最大限さいだいげん重視じゅうしし、荷役にやく考慮こうりょしたテールゲートを装備そうびしていた。リアサスペンションはしつひろさをそこなわないよう、よこきトーションバーを使つかったフルトレーリングアームを採用さいようし、安定あんていせい向上こうじょうにも寄与きよした。2CVとおなじく実用じつようてっしたコンセプトが消費しょうひしゃれられ、1993ねん生産せいさん終了しゅうりょうまでに累計るいけい813まんだい生産せいさんされた。単一たんいつモデルとしてはフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)、フォード・モデルTに史上しじょう3販売はんばい台数だいすう記録きろくしている。

イギリス

イギリス都市としにはせま路地ろじきわめておおいことから小柄こがら車両しゃりょうもとめられたが、長身ちょうしん欧州おうしゅうじんおさまる必要ひつようせいからひろ室内しつない重要じゅうようされ、なおかつ石畳いしだたみ故障こしょうしにくいサスペンションももとめられた。

オースチン1922ねん
 
7(1926ねんかた
だいいち世界せかい大戦たいせんきょうにあった1922ねん小型車こがたしゃ7(セブン)を発売はつばいしてだい成功せいこうし、これが世界せかい小型車こがたしゃおよび大衆たいしゅうしゃ最初さいしょのスタンダードとなった。ドイツでは7のノックダウン生産せいさんからBMW自動車じどうしゃ生産せいさんはじまったほか、日本にっぽんではダット自動車じどうしゃダットサン)のダットソンごうが7のコピーとされており、オースチンしゃ歴史れきしには日産にっさんも7を製造せいぞうしたと記録きろくされている。
だい世界せかい大戦たいせんA40サマーセット1952ねん)、A50ケンブリッジ1954ねん)などをかくくるまかくにおける最低さいてい価格かかくたい車両しゃりょうとして販売はんばいした。日本にっぽんでは日産自動車にっさんじどうしゃによって上記じょうき2車種しゃしゅノックダウン生産せいさんおこなわれ、A50ケンブリッジ生産せいさんちゅう1956ねん8がつには完全かんぜん国産こくさん達成たっせいするなど、日本にっぽんにおける自動車じどうしゃ生産せいさん技術ぎじゅつ向上こうじょう貢献こうけんした。日産にっさんがオースチンの生産せいさんつちかったノウハウは、後継こうけいとなるセドリックがれている。
後述こうじゅつするミニも当初とうしょはオースチンブランドから販売はんばいされていたが、1960年代ねんだい以降いこうはいわゆる「英国えいこくびょう」の影響えいきょうから品質ひんしつ低下ていか顕著けんちょとなり、1970年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけて発売はつばいした新型しんがたしゃ市場いちばでの評価ひょうかかんばしいものではなく、最終さいしゅうてき1987ねんをもってオースチンブランドは廃止はいしとなった。オースチンの商標しょうひょうけんは2024ねん現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく南京なんきん汽車きしゃ所有しょゆうしている。
ミニ1959ねん
 
モーリス・ミニ マイナー(1967ねんかた
ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)の技術ぎじゅつしゃであるアレック・イシゴニス指揮しき開発かいはつされた小型車こがたしゃ当時とうじ量産りょうさんしゃとしては革新かくしんてきな、よこきエンジンかいトランスミッション(イシゴニスしき)による前輪ぜんりん駆動くどう採用さいようしており、これを実現じつげんするためにもちいられたひとしそくジョイントをはじめとする機構きこうは、その小型車こがたしゃ標準ひょうじゅんとなった。小柄こがらなボディサイズながら最大限さいだいげん居住きょじゅうスペースを確保かくほし、なおかつ堅牢けんろう設計せっけいであることが大衆たいしゅうれられ、乗用車じょうようしゃとしてのみならずモータースポーツさかいでも活躍かつやくした。後継こうけいとして、フェイスリフトばんのミニ・クラブマンや新型しんがたしゃメトロ投入とうにゅうされたが、いずれも旧来きゅうらいのミニを代替だいたいするにはいたらず、2000ねん生産せいさん終了しゅうりょうまでに累計るいけい530まんだい製造せいぞうされた。ミニの権利けんりいだBMW2001ねん小型車こがたしゃブランドとして新生しんせいミニ誕生たんじょうさせている。
さんりん自動車じどうしゃ
イギリスでは欧州おうしゅう他国たこくちがい、三輪みわ自動車じどうしゃかんする免許めんきょ税金ぜいきん優遇ゆうぐう措置そち存在そんざいしていたため、ぜい負担ふたんからよんりん自動車じどうしゃ所持しょじできないてい所得しょとく労働ろうどうしゃやオートバイ免許めんきょしかっていないそう中心ちゅうしんさんりん自動車じどうしゃ根強ねづよ人気にんきがあり、とりわけリライアントしゃでは2000年代ねんだいまで製造せいぞうつづけていた。

ドイツ

ドイツせい大衆たいしゅうしゃ信頼しんらいせい安全あんぜんせい定評ていひょうがあり、アウトバーンによる高速こうそく長距離ちょうきょり巡航じゅんこう能力のうりょく重視じゅうしし、小型車こがたしゃでも140 km/h以上いじょう高速こうそく巡航じゅんこう想定そうていした設計せっけいとなっているものがおおい。モータリゼーションの起源きげんナチス・ドイツ政権せいけん1930年代ねんだいであり、ゼネラル・モーターズ(GM)の子会社こがいしゃであるオペル1935ねんOpel_P4よく1936ねんカデット発売はつばい1938ねんには国威こくい発揚はつようという趣旨しゅしから、エリートかぎらず一般いっぱん国民こくみん自由じゆうかつ廉価れんか旅行りょこうできる手段しゅだんとしてKdF-Wagenフォルクスワーゲン・タイプ1)が開発かいはつされた。とく長距離ちょうきょり走行そうこうでも故障こしょうこさないことがもとめられ、また高速こうそく走行そうこうでの燃費ねんぴさも重要じゅうようされた。これに並行へいこうしてアウトバーンの整備せいびおこなわれていたが、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより資源しげん軍事ぐんじけられ、本格ほんかくてきなモータリゼーションは戦後せんごつこととなる。

フォルクスワーゲン・タイプ11938ねん
 
フォルクスワーゲン・タイプ1
Volkswagenドイツで「大衆たいしゅうくるま」の意味いみ。そのスタイリングから「ビートル」の通称つうしょうられる。起源きげんアドルフ・ヒトラー1933ねん提唱ていしょうした「国民こくみんしゃ構想こうそう」にあり、のちポルシェ創業そうぎょうしゃとなるフェルディナント・ポルシェ基本きほん設計せっけいがけた。国威こくい発揚はつようという使命しめいびたタイプ1は大衆たいしゅうしゃという位置いちづけにもかかわらず、当時とうじとしてはきわめて前衛ぜんえいてきなデザインとたか性能せいのうゆうしていた。本格ほんかくてき量産りょうさん1945ねん終戦しゅうせん直後ちょくごから開始かいしされ、ドイツのみならず世界せかい各国かっこくでの販売はんばい現地げんち生産せいさんおこなわれたことでひろ人気にんきた。後継こうけいしゃ開発かいはつ難航なんこうしたこともあり、時代じだい沿った改良かいりょうほどこしながらながきにわたって生産せいさんつづけられ、1978ねんにドイツ本国ほんごくでの生産せいさん終了しゅうりょうしたのちメキシコでは2003ねんまで生産せいさんつづけられた。累計るいけい生産せいさん台数だいすうは2,100まんだい単一たんいつモデルでの世界せかい最多さいた記録きろくつ。後年こうねん、タイプ1の意匠いしょうさい解釈かいしゃくしたモデルとして、ニュービートル1998ねん)とザ・ビートル2011ねん)の各車かくしゃ販売はんばいされた。
トラバント1957ねん
 
トラバント・P601L
「トラビ」の通称つうしょうられる、ひがしドイツ代表だいひょうする大衆たいしゅうしゃきゅうアウトウニオンけいアウディ)の工場こうじょういだVEBザクセンリンクによって開発かいはつ生産せいさんされた。基本きほん構造こうぞう戦前せんぜんDKWせい2ストロークエンジンくるま大差たいさない旧弊きゅうへいなものであったが、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい計画けいかく経済けいざいという環境かんきょうゆえに市場いちばでの競合きょうごう存在そんざいせず、非常ひじょうぜん時代じだいてき設計せっけいのままだい規模きぼ改良かいりょうけずに生産せいさんつづけられた。繊維せんい強化きょうかプラスチック(FRP)せいのボディは、末期まっきにはコスト削減さくげんのためパルプ羊毛ようもう代用だいようされることすらあった。ひがしドイツの大衆たいしゅう容易ようい購入こうにゅうできる乗用車じょうようしゃはこれ以外いがいになかったが、おも生産せいさん能力のうりょくひくさが原因げんいんで、注文ちゅうもんから納車のうしゃまでには10ねん以上いじょうようするような状況じょうきょうであった。1990ねん東西とうざいドイツ統一とういつにより市場いちば価値かちうしなって姿すがたしたが、21世紀せいき現在げんざいでも冷戦れいせん象徴しょうちょうする存在そんざいとしてヨーロッパでの人気にんき根強ねづよい。

イタリア

イタリアせまんだ路地ろじおおく、小型こがたでスペース効率こうりつ重視じゅうしした乗用車じょうようしゃ主流しゅりゅうである。まただい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんから経済けいざいてきなおっていなかった時代じだいには、とりわけ小型こがた安価あんか乗用車じょうようしゃもとめられた。

フィアット・5001957ねん
 
500
500(チンクェチェント)」は排気はいきりょう由来ゆらい。1936ねんから1955ねんにかけて生産せいさんされた同名どうめい車種しゃしゅ(トポリーノ)と区別くべつするため、「NUOVA 500(ヌオーヴァ)」の呼称こしょうられる。戦後せんご、イタリアで安価あんか移動いどう手段しゅだんとしてスクーターがひろ普及ふきゅうしていたが、500はそれらからのえをねらって開発かいはつされた。そのコンセプトゆえ、どう時期じき大衆たいしゅうしゃとしてはミニよりも小柄こがら車体しゃたいであり、かつていコストで走行そうこう性能せいのう必要ひつよう十分じゅうぶんなものであったため、おも若者わかものてい所得しょとくしゃそうけのシティコミューターとしてヨーロッパ全土ぜんどれられた。日本にっぽんではアニメ『ルパンさんせい』に登場とうじょうしたことで知名度ちめいどたかめた。1975ねん126(バンビーノ)にこうゆずって生産せいさん終了しゅうりょうとなるが、1991ねんにはポーランドせい小型こがた戦略せんりゃくしゃとして「チンクェチェント」の名称めいしょうもちいられたほか、2007ねんにはNUOVA 500をモチーフとした新型しんがた500登場とうじょうした。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは都市としあいだ長距離ちょうきょり走行そうこう念頭ねんとうき、おおきめのボディサイズ、だい排気はいきりょうのエンジン、やわらかめのサスペンションというわせが基本きほんである。当初とうしょ未開みかいおお存在そんざいしていたため、あくでの走破そうはせい修繕しゅうぜんのしやすさがもとめられてきた。税制ぜいせい関係かんけいじょうピックアップトラック人気にんきたかく、かくメーカーは実用じつようせいたかさのほか、アメリカじんこのみの力強ちからづよいイメージをしている。近年きんねんではそれらから派生はせいしたSUV人気にんきあつめ、乗用車じょうようしゃ派生はせいクロスオーバーSUV人気にんきほか地域ちいきとはことなる状況じょうきょうにある。また、ガソリンの価格かかく地域ちいきよりもやすいため、燃費ねんぴはあまり重視じゅうしされない傾向けいこうにある。

フォード・モデルT1908ねん
 
フォード・モデルTラナバウト
世界せかいはつ大衆たいしゅうしゃとして、アメリカのみならず世界中せかいじゅうおおきな影響えいきょうあたえた。途中とちゅうからなが作業さぎょう方式ほうしき導入どうにゅうして大量たいりょう生産せいさんおこない、てい価格かかく推進すいしんしていった。その運転うんてん方法ほうほう自動車じどうしゃとは相当そうとうことなっていたが、当時とうじ自動車じどうしゃとしては運転うんてんのしやすいものであった。1927ねんまでに累計るいけい1,500まんだい生産せいさんされ、単一たんいつモデルとしては前出ぜんしゅつのフォルクスワーゲン・タイプ1にぐ2記録きろくつ。
ピックアップトラック
かつては農場のうじょうおお使つかわれていたが、自動車じどうしゃぜい課税かぜいもしくは割安わりやすになることから、所得しょとくすくない若者わかものたちがはじめたのが人気にんきはじまりである。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

経済けいざい発展はってんいちじるしい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく)ではちゅうあいだそう拡大かくだいいちじるしく、北米ほくべい世界せかいだい2の自動車じどうしゃ市場いちば成長せいちょうしている。自国じこくのメーカーはちゅうあいだそうけに幅広はばひろ車種しゃしゅそろえ、他国たこくのメーカーも現地げんち生産せいさん価格かかくおさえたなかあいだそうけの大衆たいしゅうしゃ発表はっぴょうしている。実用じつようせい以上いじょうにステータスシンボルとしての価値かち重視じゅうしされ、中型ちゅうがたセダンやクロスオーバーSUVが人気にんきで、のアジア諸国しょこくとはことなり小型車こがたしゃすくない。

フォルクスワーゲン・サンタナ1981ねん
 
初代しょだいサンタナ
1983ねんから中国ちゅうごくでの現地げんち生産せいさん開始かいし。ドイツ本国ほんごくでの生産せいさん終了しゅうりょう独自どくじ改良かいりょうかさねつつ生産せいさん継続けいぞくされ、教習きょうしゅうしゃタクシーパトカーいたるまで幅広はばひろもちいられた。2012ねんにはフルモデルチェンジをけた2代目だいめ登場とうじょうするが、クロスオーバーSUVの人気にんきたかまりをけ、2022ねん生産せいさん終了しゅうりょうとなった。

インド

ヒンドゥスタン・アンバサダー1958ねん
 
チェンナイ中央ちゅうおうえきならぶアンバサダーのタクシー
イギリスしゃモーリスオックスフォード1956ねん)をベースに開発かいはつされた。ベースしゃよりもたかめられた地上ちじょうだかがインドの道路どうろ状況じょうきょう適応てきおうし、構造こうぞう単純たんじゅん修理しゅうり部品ぶひん安価あんかかつ容易ようい入手にゅうしゅできたことからひろ支持しじされた。インドでは輸入ゆにゅうしゃたいする関税かんぜい割高わりだかであったことも、アンバサダーの普及ふきゅうすすめる要因よういんとなった[3]生産せいさん2014ねんまでつづけられた。

日本にっぽんせい大衆たいしゅうしゃ席巻せっけん

日本にっぽん大衆たいしゅうしゃアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく輸出ゆしゅつされ、1980年代ねんだいにはジャパンバッシング代表だいひょうされる感情かんじょうてき米国べいこくない自動車じどうしゃ産業さんぎょうかい反発はんぱつまねくほどに市場いちば席巻せっけんしたが、その進出しんしゅつ歴史れきし最初さいしょから順風じゅんぷうまんというわけでもなく、日本にっぽん国内こくない自動車じどうしゃ産業さんぎょう大衆たいしゅうしゃ開発かいはつ発展はってんともな円熟えんじゅくする1970年代ねんだいまでたねばならなかった。

日本にっぽんしゃのアメリカへの本格ほんかく輸出ゆしゅつは、大衆たいしゅうしゃまれる以前いぜん1960ねんころからはじまり、トヨタからはクラウンランドクルーザー日産にっさんからはダットサン・トラック220がたセダン210がたスポーツS210がた輸出ゆしゅつされた。

トラックなみシャシ排気はいきりょう3.9 Lのエンジンを搭載とうさいしたランドクルーザーは評判ひょうばんかったが、クラウンは当時とうじのトヨタにおけるさい高級こうきゅうしゃであったにもかかわらず、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHiPs')のテストでは高速こうそく走行そうこう操縦そうじゅう安定あんていせい危険きけんとされるレベルであり、オーバーヒートきつき頻発ひんぱつし、早々そうそう輸出ゆしゅつ中止ちゅうしされた。のちにT20けいコロナもクラウンにあやかった「ティアラ」のくるまめい北米ほくべい進出しんしゅつたしたが、評価ひょうかられないまま輸出ゆしゅつ中止ちゅうししている。また、トヨタはつ大衆たいしゅうしゃであるパブリカは極少きょくしょうすうしか輸出ゆしゅつされなかった。

トヨタは、クラウンやコロナのための販売はんばい会社かいしゃとショールームをロサンゼルスもうけたが、肝心かんじん商品しょうひんまったくない状態じょうたいとなってしまい、カローラ本格ほんかくてき輸出ゆしゅつはじまるまでは、ランドクルーザーの販売はんばいのみで北米ほくべい会社かいしゃささえる日々ひびつづいた。

ダットサン各車かくしゃは、もとより丈夫じょうぶなオースチンしゃのコピーであったため、最高さいこう速度そくどおそてん以外いがいおおきな不満ふまんはなかったが、貧相ひんそうちいさすぎることからきはかんばしくなかった。しかし、のち北米ほくべい日産にっさん社長しゃちょうとなる片山かたやまゆたかが、みずからの運転うんてん現地げんちディーラーへの営業えいぎょうつづけた結果けっか次第しだい品質ひんしつみとめられ、フェアでフレンドリーな片山かたやま人柄ひとがらもあって着実ちゃくじつ販売はんばいもうやしつづけ、1970年代ねんだいだい躍進やくしんにつながった。

トヨタや日産にっさん本格ほんかくてき乗用車じょうようしゃ輸出ゆしゅつこころみて苦戦くせんしていたこの時期じき、スバルやホンダといった軽自動車けいじどうしゃ中心ちゅうしんのメーカーは、360ccのエンジンを400 - 600ccのものにかわそうしたうえ北米ほくべい欧州おうしゅう輸出ゆしゅつし、それなりの実績じっせきげていた。これらは本格ほんかくてき乗用車じょうようしゃではなく、粗末そまつバブルカー代替だいたいとなるシティコミューターとしてれられたものである。戦後せんご輸出ゆしゅつ市場いちばにおける日本にっぽんしゃつよみが「小型こがた軽快けいかい」であることは、この時点じてん確定かくていしていた。

一方いっぽう、カローラやサニーの輸出ゆしゅつ1967ねんモデルからと、日本にっぽんしゃのアメリカ進出しんしゅつとしてはやや後発こうはつ部類ぶるいはいる。

大衆たいしゅうしゃ社会しゃかい

市場いちば経済けいざい成長せいちょう登場とうじょうした大衆たいしゅうしゃは、初期しょきこそ民衆みんしゅう生活せいかつ向上心こうじょうしんあおさかんに販売はんばい消費しょうひされたが、次第しだい経済けいざいてき成長せいちょう傾向けいこう鈍化どんかすると、飽和ほうわ状態じょうたいおちいって消費しょうひしゃ関心かんしん細分さいぶんする傾向けいこうがあることから、これら画一かくいつてき大衆たいしゅうしゃへの関心かんしんうすれる傾向けいこうにある。このため大衆たいしゅうしゃ勃興ぼっこうは、一種いっしゅ経済けいざいてき指標しひょうとみなすことも可能かのうである。

日本にっぽん欧米おうべいといった経済けいざいてきゆたかな地域ちいきにおいては、これら大衆たいしゅうしゃおおくは役目やくめえて生産せいさん終了しゅうりょうしているか、一定いってい高級こうきゅうかんすことでファミリーカーへの転換てんかんはかられている。

先進せんしんこくにおけるダウンサイジング

21世紀せいきはいってからの先進せんしんこくでは、自動車じどうしゃ市場いちば成熟せいじゅくすすみ、乗用車じょうようしゃ動力どうりょく性能せいのう過剰かじょう性能せいのうになっていることから、大衆たいしゅうしゃふたた小型こがたするダウンサイジング様相ようそうていし、日本にっぽんでは税制ぜいせいめん優遇ゆうぐうされる軽自動車けいじどうしゃ売上うりあげばしている。欧州おうしゅう各国かっこくでも、常態じょうたいしている都市とし交通こうつう渋滞じゅうたい環境かんきょう対策たいさくとして基準きじゅんたしたAセグメントくるま税制ぜいせいめんでの優遇ゆうぐう措置そち実施じっしされたことで、ダウンサイジングがすすんでいる。

2010年代ねんだいにはトヨタ・アイゴやく7,000いぎりすポンド)、ヒュンダイ・i10やく8,000いぎりすポンド)、日産にっさん・ピクソやく6,900いぎりすポンド)、フォルクスワーゲン・up!やく10000ユーロ)など、装備そうび極力きょくりょく簡素かんそして価格かかくおさえた小型車こがたしゃ各社かくしゃから相次あいついで販売はんばいされている。これらはシティコミューターとしての利用りようだけでなく、欧州おうしゅうメーカーにとっては高級こうきゅうラインへの偏重へんちょうめなかったてい所得しょとくしゃそうをもターゲットにふくめることができる。

しん興国こうこく

2010年代ねんだいからかくメーカーでは、東南とうなんアジアやインドなど経済けいざい発展はってんいちじるしいアジア市場いちば投入とうにゅうする「アジア戦略せんりゃくしゃ」を相次あいついで発表はっぴょうしている。これらの市場いちばでは収入しゅうにゅう見合みあった価格かかく新車しんしゃでも日本円にほんえんにして100まんえん以下いか)と燃費ねんぴさにくわえ、舗装ほそうのこ冠水かんすい頻発ひんぱつする道路どうろ事情じじょうへの対策たいさくほどこした小型車こがたしゃこのまれる。トヨタ・アギアブリオ・サティヤ(ホンダ)のように現地げんち生産せいさんする新規しんき開発かいはつしゃもあるが、コスト削減さくげんのため先進せんしんこくけを現地げんち仕様しようにした車種しゃしゅおおい。メーカーにとっては、飽和ほうわ状態じょうたい各種かくしゅ規制きせいきびしい先進せんしんこくよりも多量たりょう販売はんばい見込みこめるため、あらたな世界せかい戦略せんりゃくしゃとしての側面そくめんつ。

日本にっぽんしゃにおいては軽自動車けいじどうしゃおよびその拡大かくだいばんがその役目やくめになうこともおおく、1990年代ねんだい以降いこうではマルチ・スズキ・インディア[4](スズキ合弁ごうべん)やプロドゥア(ダイハツ合弁ごうべん)、大宇だいう国民こくみんしゃ[5]存在そんざい、パキスタンにおける8代目だいめアルト現地げんち生産せいさんプロトン・ジュアラ三菱みつびし・ミニキャブ派生はせい)などがある。

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ それ以前いぜんは2サイクルが240 cc以下いか、4サイクルが360 cc以下いかさだめられており、2サイクルでの成立せいりつ不可能ふかのうだった。当時とうじは、おな排気はいきりょうであれば4サイクルより2サイクルのほうこう出力しゅつりょくやすいとかんがえられていたことによる。
  2. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん日刊にっかん工業こうぎょう新聞しんぶんがスクープ記事きじ掲載けいさいしたのみで、通商産業省つうしょうさんぎょうしょうからの発表はっぴょうおこなわれていない。
  3. ^ のち駆動くどう方式ほうしきこう駆動くどう変更へんこうし、空冷くうれい水平すいへい対向たいこう2気筒きとう700 ccの「パブリカ」として結実けつじつした。
  4. ^ 全国ぜんこくてき最高さいこう40 ℃、最低さいてい-10 ℃程度ていど北海道ほっかいどうなどでは最低さいてい-30 ℃以下いか想定そうていしなければならない(気象庁きしょうちょうのデータより)。
  5. ^ N17けい中国ちゅうごくおよびミャンマー)、N18けい中東ちゅうとう諸国しょこく)。いずれも日本にっぽんでは「ラティオ」(N17のみ)、アメリカでは「ヴァーサ」を名乗なのるモデル。
  6. ^ 軽自動車けいじどうしゃに64馬力ばりき出力しゅつりょく規制きせいもうけられる発端ほったんとなった。
  7. ^ 4CVの系譜けいふ上級じょうきゅうドーフィン8/10へとがれた。

出典しゅってん

  1. ^ 『60年代ねんだい 街角まちかどたクルマたち 日本にっぽんしゃちんしゃへん』p. 122 。同書どうしょによれば「国民こくみんしゃ」と銘打めいうったのは三菱みつびし500がはつという
  2. ^ しゅく50周年しゅうねん! カローラの歴史れきしかえ GAZOO.com 2016ねん8がつ22にち
  3. ^ GAZOO - ヒンドゥスタン アンバサダー 1959ねん1がつ
  4. ^ ただし設立せつりつは1981ねん
  5. ^ 3代目だいめアルト(大宇だいう・ティコこう参照さんしょう)、ラボ/ダマス(キャリイ/エブリイ)を排気はいきりょうアップのうえ生産せいさん

関連かんれん項目こうもく