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桜田武 - Wikipedia

櫻田さくらだ たけし(さくらだ たけし、1904ねん明治めいじ37ねん3月17にち - 1985ねん昭和しょうわ60ねん4がつ29にち)は、昭和しょうわ経営けいえいしゃ日清紡績にっしんぼうせきげん日清紡にっしんぼうホールディングスもと社長しゃちょう日清紡績にっしんぼうせき"中興ちゅうこう"[1]日経連にっけいれん会長かいちょう名誉めいよ会長かいちょうつとめ、"ミスター日経連にっけいれん"ともばれた[2][3]。「財界ざいかい四天王してんのう」の一人ひとり広島ひろしまけん福山ふくやま赤坂あかさかまち出身しゅっしん福山ふくやま名誉めいよ市民しみん[4]

来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう

1904ねん商家しょうか櫻田さくらだひとし仲子なかご長男ちょうなんとして沼隈ぬまくまぐん赤坂あかさかむら現在げんざい福山ふくやま赤坂あかさかまち)にまれる[3]広島ひろしまだか附属ふぞく中学校ちゅうがっこう[5]だいろく高等こうとう学校がっこう1926ねん大正たいしょう15ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょうかみ恭輔きょうすけ広島ひろしまだか附属ふぞく中学ちゅうがくいちきゅうじょう[6]ろくだか柔道じゅうどう同郷どうきょうで、のちに「財界ざいかい四天王してんのう」とともにばれる生涯しょうがい盟友めいゆう永野ながの重雄しげおさそわれこうせん柔道じゅうどうさかい王座おうざきず[7]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう日清紡績にっしんぼうせき入社にゅうしゃ当時とうじ社長しゃちょうであった宮島みやじま清次郎せいじろうまり要職ようしょく歴任れきにん名古屋なごや支店してんちょうだった1939ねん、35さいのとき召集しょうしゅうされ、砲兵ほうへい少尉しょういとして中国ちゅうごく戦線せんせん武漢ぶかん[3]

むべあきら作戦さくせんなか留守るすたい急襲きゅうしゅうしてきた中国ちゅうごくぐん応戦おうせんし、刀剣とうけんによる白兵戦はくへいせんとなり、かたな使つかかたなどまるでらず、丸腰まるごし得意とくい柔道じゅうどうつぎからつぎへとかたぱしから中国ちゅうごくへいばして中国ちゅうごくぐん退却たいきゃくさせた[3]

1942ねん中尉ちゅうい除隊じょたい日清紡にっしんぼう復帰ふっき終戦しゅうせん1945ねんに41さい同社どうしゃ社長しゃちょう就任しゅうにんし、日清紡績にっしんぼうせき産業さんぎょうかいずいいち企業きぎょうそだげた[8]終戦しゅうせん混乱こんらんにラジカルな労働ろうどう攻勢こうせい労働ろうどうしゃがわたたかう、経営けいえいしゃがわ代表だいひょうてき人物じんぶつとして日経連にっけいれん設立せつりつ尽力じんりょく[9][10]1949ねんそう理事りじ1960ねんには代表だいひょう常任じょうにん理事りじ1974ねんには会長かいちょう就任しゅうにんした。日経連にっけいれん創立そうりつから1979ねん名誉めいよ会長かいちょう退しりぞくまで"日経連にっけいれん実質じっしつてきリーダー"で、象徴しょうちょうてき存在そんざいであった[11][12][13][14][15]戦後せんご日本にっぽん経済けいざい復興ふっこう企業きぎょう再建さいけん五里霧中ごりむちゅう時代じだいから労使ろうし関係かんけい正常せいじょう尽力じんりょく[16]戦後せんご師匠ししょう宮島みやじまつうじて吉田よしだしげる関係かんけいち、以降いこう、「財界ざいかい主流しゅりゅう」として政界せいかいにもつよ影響えいきょうりょくった[15][17][18][19]池田いけだ勇人はやと内閣ないかくには、永野ながの重雄しげお小林こばやしなか水野みずの成夫しげおとともに「財界ざいかい四天王してんのう」(三鬼みき陽之助ようのすけ命名めいめい)とばれるようになり、1975ねんからは土光どこう敏夫としおらとともに、行財政ぎょうざいせい改革かいかく中心ちゅうしんてき存在そんざいとなった[20]戦後せんご日本にっぽん経済けいざい基盤きばんきずいた人物じんぶつ一人ひとりである[10][21]1985ねんに81さい死亡しぼうするまで、政界せいかい財界ざいかい多大ただいなる影響えいきょうあたつづけた。

財界ざいかい代表だいひょうてき闘士とうしとして

編集へんしゅう

戦後せんご1945ねん、41さいわかさで日清紡にっしんぼう社長しゃちょう就任しゅうにんまもなく、1946ねん4がつ発足ほっそくした経済同友会けいざいどうゆうかい創設そうせつ参加さんか[22]。ここで若手わかて理論りろんとして、おおいに嘱望しょくぼうされる。戦時せんじちゅう仕事しごといがあった鹿内しかない信隆のぶたか桜田さくらだはこのかい主導しゅどうメンバーでのちにコンビをむ。当時とうじから桜田さくらだ鹿内しかないけ、日本にっぽん経営けいえいしゃ団体だんたい連盟れんめい日経連にっけいれん設立せつりつには日本にっぽん電子でんし工業こうぎょう常務じょうむであった鹿内しかないいた[23][24][25]鹿内しかない見出みいだしたのは桜田さくらだである[12]1946ねん6がつ桜田さくらだ諸井もろい貫一かんいち三鬼みきたかしらとたい労働ろうどう専門せんもん組織そしきとして関東かんとう経営けいえいしゃ協会きょうかい発足ほっそくさせる[9][10]戦後せんごあいだもなく、ぬさ原内はらうちかく労働ろうどう組合くみあいほう制定せいていで、おおくの企業きぎょう労組ろうそができると、これを日本にっぽん共産党きょうさんとう指導しどうされ各地かくち労働ろうどう争議そうぎこるが、GHQ労働ろうどう対策たいさくのためのセクションを企業きぎょうもうけることをゆるさず、経営けいえいしゃけてげまわり、労働ろうどうしゃがわのワンサイド・ゲームとなって各地かくちつる人民じんみん管理かんりがおこなわれた[25]。"っこからの資本しほんたましい"をった桜田さくらだには、経済同友会けいざいどうゆうかい活動かつどうは、過激かげき労働ろうどう争議そうぎおびえる経営けいえいぶつがわの"たんなる仲良なかよ団体だんたい"にえて次第しだい気持きもちがはなれてゆく[14]大塚おおつか万丈ばんじょうなどがとなえた「修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎ」が同友会どうゆうかい主流しゅりゅうとなると、そんなかんがえでは実際じっさい経営けいえいはできないとかんがえるようになる[8]関東かんとう経営けいえいしゃ協会きょうかい初代しょだい足立あだちただし委員いいんちょう諸井もろい貫一かんいちふく委員いいんちょうであったが、労使ろうし激突げきとつ時代じだいたおれ、桜田さくらだ委員いいんちょう鹿内しかない信隆のぶたかふく委員いいんちょうという労務ろうむ問題もんだいでのコンビがさい成立せいりつ、これが1948ねん4がつ経営けいえいしゃ団結だんけつしてたたかうための戦略せんりゃく本部ほんぶ日本にっぽん経営けいえいしゃ団体だんたい連盟れんめい日経連にっけいれん設立せつりついた[10][12][14][15][26][27]日経連にっけいれん桜田さくらだ中心ちゅうしん発足ほっそくされたもので、桜田さくらだは「たたか日経連にっけいれん」のそう理事りじ(のちに会長かいちょう改称かいしょう)にえらばれ、労務ろうむ対策たいさく司令しれい部隊ぶたいちょうやくつとめる[16]戦後せんご混乱こんらんおおくの労働ろうどう争議そうぎ矢面やおもてつが、柔道じゅうどうきたえた果敢かかん気力きりょくで、三井みつい三池みいけ争議そうぎなど、各地かくちこったラジカルな労働ろうどう攻勢こうせいった[12][16][27][28]

共同きょうどう調査ちょうさかい反共はんきょう活動かつどう

編集へんしゅう

1950年代ねんだいなかば、日本にっぽん共産党きょうさんとう武力ぶりょく闘争とうそう主義しゅぎからソフト路線ろせんへと戦術せんじゅつ転換てんかん、"うたっておどってこいをして"をうた文句もんくに、組織そしき拡大かくだいはか民青みんせい下部かぶ組織そしき労音ろうおんつうじて、積極せっきょくてきうたごえ運動うんどう展開てんかい青少年せいしょうねんあいだ急速きゅうそく浸透しんとうし、企業きぎょうないにも勢力せいりょく拡大かくだいして党員とういん組織そしきおこなっていた[29][30][31]左翼さよく勢力せいりょく拡大かくだい危惧きぐした桜田さくらだ1955ねん9月、そのめを目的もくてきとする「共同きょうどう調査ちょうさかい」という秘密裏ひみつり団体だんたい設立せつりつ[29][30][31]。この「共同きょうどう調査ちょうさかい」をじく広範こうはん反共はんきょう活動かつどうおこな[8][29]代表だいひょう植村うえむらかぶとうまろうであったが、実質じっしつじょうのリーダーは桜田さくらだ[8][29][31]日経連にっけいれん分身ぶんしんというべき、この団体だんたい設立せつりつにあたり「自由じゆう主義しゅぎ経済けいざいまもこう」と桜田さくらだびかけにおう有力ゆうりょくしゃ続々ぞくぞくあつまった[29][30][31]東京とうきょう財界ざいかいから桜田さくらだ植村うえむら永野ながの重雄しげお小林こばやしちゅう水野みずの成夫しげお今里いまさとひろ佐藤さとう喜一郎きいちろう大阪おおさか財界ざいかい芦原あしはら義重よししげ松下まつした幸之助こうのすけ堀田ほった庄三しょうぞう松原まつばら与三よぞうまつ名古屋なごや財界ざいかいからふちさんけい12にん幹事かんじ小坂こさか徳三郎とくさぶろう鹿内しかない信隆のぶたか井深いぶかまさる早川はやかわまさる坪内つぼうち嘉雄よしお田代たしろ茂樹しげき諸井もろい貫一かんいち盛田もりた昭夫あきおらを幹事かんじ補佐ほさとした[8][29][30][31]かい性格せいかくじょうひょう堂々どうどうとはられず、あくまで覆面ふくめん組織そしきとしてとおし、事務所じむしょ日比谷ひびや日活にっかつビル(のち日比谷ひびやパークビル、現在げんざいザ・ペニンシュラ東京とうきょう)の一室いっしつき、表札ひょうさつけず、つきに1かいこのメンバーがあつまった[29][31]とく1959ねん三井みつい三池みいけ争議そうぎは、財界ざいかいじんにとって敗北はいぼく絶対ぜったいゆるされない天下分てんかわたたかいであったが[29][30]、「共同きょうどう調査ちょうさかい」は、財界ざいかい使用しようしゃがわ)の勝利しょうりおさめるべく、三井みつい争議そうぎ会社かいしゃがわである三井鉱山みついこうざん支援しえんし、三井みつい争議そうぎ資金しきん援助えんじょ支援しえん組織そしきづくおよび、鎮圧ちんあつにあたる[8][29][30][32]。また政府せいふがわ責任せきにんしゃである松野まつのよりゆきさん労働ろうどう大臣だいじんがまったくノータッチでうごかないため、だい1きし改造かいぞうないかく石田いしだ博英ひろひで労相ろうしょう桜田さくらだらがした[8][29]石田いしだは、この三井みつい争議そうぎでの功績こうせきから労相ろうしょうばかりやることになる[29]さき労音ろうおん対抗たいこうする手段しゅだんとしては、音楽おんがく文化ぶんか協会きょうかい音協おんきょうおよび、全国ぜんこく文化ぶんか団体だんたい連盟れんめい全文ぜんぶんれん)を結成けっせいさせた[29][30]。また企業きぎょう浸透しんとうした共産きょうさん党員とういんあら[31]民社党みんしゃとうへの結党けっとう資金しきん提供ていきょう[31]日教組にっきょうそ分裂ぶんれつ工作こうさくなどのほか[29][30][31]ニッポン放送にっぽんほうそう設立せつりつフジテレビ開局かいきょく産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ買収ばいしゅうけるこのグループを中心ちゅうしんとした支援しえんも、メディアつうじた反共はんきょう対策たいさく一端いったんともいわれる[29][30][31][33]。「共同きょうどう調査ちょうさかい」は1968ねん11月までの13年間ねんかん活動かつどうつづけた[31]鹿内しかない信隆のぶたかは「解散かいさん理由りゆう共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎたいする危機ききかんうすらいだ。国民こくみん協会きょうかいができて政治せいじのためのかねケタ違けたちがいにおおくなり"財界ざいかい四天王してんのう"が財界ざいかいうごかせなくなった。佐藤さとう栄作えいさく企業きぎょうとおざけ財界ざいかいをバカにするようになったこと」とはなしている[34]勿論もちろんこれは「財界ざいかい四天王してんのう」が君臨くんりんした時代じだい衰退すいたい意味いみする。

財界ざいかい主流しゅりゅうとして

編集へんしゅう

宮島みやじまみかど大同だいどう吉田よしだしげる支援しえん政権せいけんったことで、宮島みやじま吉田よしだ体制たいせい裏方うらかたとして、小林こばやしちゅう水野みずの成夫しげお山本やまもと為三郎ためさぶろうとともにはたらく。吉田よしだ政界せいかいだい一線いっせん引退いんたいすると、宮島みやじま政策せいさく委員いいんし、政界せいかい関係かんけいのバトンは桜田さくらだわたされた[17]桜田さくらだ池田いけだ勇人はやとは、だい宮島みやじま吉田よしだとなる。池田いけだ同郷どうきょう県人けんじんかいひとしふるくからのいでもあり、大蔵おおくら次官じかん時代じだい池田いけだ桜田さくらだ宮島みやじま吉田よしだ紹介しょうかいしたのが池田いけだ政界せいかいりの契機けいき1949ねんだい3吉田よしだ内閣ないかく発足ほっそく宮島みやじまつうじて吉田よしだしげる首相しゅしょう池田いけだ大蔵おおくら大臣だいじん推薦すいせんした[8][17][35]戦後せんごGHQにより財閥ざいばつ解体かいたいされ財閥ざいばつけいだい企業きぎょう解体かいたいされて、一種いっしゅ真空しんくう状態じょうたいになった。その真空しんくう状態じょうたい乱世らんせい財界ざいかい仕切しきったのが、宮島みやじま弟子でしというべき桜田さくらだ小林こばやし水野みずのと、のちくわわった永野ながの重雄しげおの「財界ざいかい四天王してんのう」とかれらにつながる人々ひとびとで、敗戦はいせん混乱こんらん日本にっぽん経済けいざい基盤きばんづくりをおこない、戦後せんご政財界せいざいかい舞台裏ぶたいうら仕切しきることになる[8][19][36]。このグループは、経済同友会けいざいどうゆうかい日経連にっけいれん経団連けいだんれん商工しょうこう会議かいぎしょなどをまとめて、それを「財界ざいかい総意そうい」というかたちにして政界せいかい圧力あつりょくをかけた[10][19]。それはいちこく総理そうりめたり、めさせたりするほどちからっていた[10]

日清紡にっしんぼう社長しゃちょうとして

編集へんしゅう

戦後せんご1945ねんに41さい社長しゃちょう就任しゅうにんしたさい、いちはや精密せいみつ機械きかい自動車じどうしゃエレクトロニクス分野ぶんやとう現在げんざいにつながる「繊維せんい部門ぶもん」への本格ほんかく参入さんにゅう決断けつだんした[3]紡績ぼうせきぎょう戦後せんご日本にっぽん経済けいざい復興ふっこう主導しゅどうしたが。1950年代ねんだいなかばをピークにびがち、重工業じゅうこうぎょうともなって斜陽しゃようした[37][38]おおくのどう業者ぎょうしゃ社名しゃめいえ、合成ごうせい繊維せんい転換てんかんオイルショック紡績ぼうせき業界ぎょうかい軒並のきな無配むはい転落てんらくしたなかにあって、日清紡にっしんぼういちしゃだけが、唯一ゆいいつ安定あんてい配当はいとう会社かいしゃとしてのこった[3][8][14][16][39]桜田さくらだ財界ざいかい指導しどうしゃとしての立場たちばと、企業きぎょう経営けいえいしゃとしての立場たちばを併立させながら、ともに成功せいこう[3][8][12]新入しんにゅう社員しゃいんには「日清紡にっしんぼう自由じゆう主義しゅぎである」と強調きょうちょうし「フリードリヒ・ハイエク自由じゆう主義しゅぎ重要じゅうようさをいた」とはなしていたという[40]。19年間ねんかん社長しゃちょうをつとめ1964ねん、「社長しゃちょうは60さいまで」という宮島みやじま遺訓いくんまも取締役とりしまりやく会長かいちょう退しりぞく。

日経連にっけいれん会長かいちょうとして

編集へんしゅう

春闘しゅんとうベースアップ(ベア)が1972ねん16%、1973ねん21.7%と高水準こうすいじゅん推移すいいしていたなか、1973ねんあきだいいちオイルショックこり、インフレーション急速きゅうそくすすんだ。その影響えいきょうけたよく1974ねんは32.9%という史上しじょう最高さいこう水準すいじゅん記録きろくした。戦後せんごはじめて実質じっしつマイナス成長せいちょうとなった(高度こうど経済けいざい成長せいちょう終焉しゅうえんした)こともあり、日本にっぽん経済けいざい行方ゆくえ危機ききかんおぼえた櫻田さくらだは1974ねん5がつに「大幅おおはば賃上ちんあげの行方ゆくえ研究けんきゅう委員いいんかい」を日経連にっけいれんない設置せっちし、有識者ゆうしきしゃまじ議論ぎろんくした。その結論けつろんは、急速きゅうそくなインフレ進行しんこう原因げんいんは、実質じっしつ経済けいざい成長せいちょうりつ低下ていかしているにもかかわらず、大幅おおはば賃上ちんあげが実施じっしされていることであるとし、生産せいさんせい範囲はんいない賃上ちんあげを実施じっしする必要ひつようせい宣言せんげん労使ろうし大幅おおはば賃上ちんあ自粛じしゅくもとめ、ベースアップりつを1975ねん経過けいか措置そちとして15%以下いかで、1976ねん以降いこうは1けただいとするガイドラインを設定せっていした[32]。その結果けっか、1975ねん春闘しゅんとうベースアップは13.1%に急降下きゅうこうか、1976ねんには8.8%の1けただいとなり、急速きゅうそくなインフレは終息しゅうそく日本にっぽん経済けいざい混乱こんらんけられた[16]。これらは「日経連にっけいれん桜田さくらだ会長かいちょうあり」を印象いんしょうづけた。その、「大幅おおはば賃上ちんあげの行方ゆくえ研究けんきゅう委員いいんかい」は「賃金ちんぎん問題もんだい研究けんきゅうかい」→「労働ろうどう問題もんだい研究けんきゅう委員いいんかい」→「経営けいえい労働ろうどう政策せいさく委員いいんかい」(日本にっぽん経団連けいだんれん)とがれ今日きょうまで存続そんぞく毎年まいとし発行はっこうされる報告ほうこくしょ日本にっぽん経済けいざいしょ課題かだい企業きぎょう課題かだいまえた経営けいえいのありかたしめ指針ししんとしてひろまれている。

事業じぎょうとして

編集へんしゅう

日清紡にっしんぼう以外いがい事業じぎょうとしての業績ぎょうせきとして山下やました太郎たろう事業じぎょう意欲いよくしんたれて、桜田さくらだ個人こじん決断けつだんとしてアラビア石油あらびあせきゆ出資しゅっし創立そうりつ関与かんよした。この関係かんけいアラビア石油あらびあせきゆ創設そうせつ以来いらい監査かんさやくつとめた[29]東邦とうほうレーヨン(げん東邦とうほうテナックス)の倒産とうさん危機ききでは、メインバンクの富士銀行ふじぎんこうげんみずほ銀行ぎんこう)の岩佐いわさ凱実からたのまれ再建さいけんさせた[13][14]1968ねんきた日通にっつう事件じけんでは、当時とうじ中曽根なかそね康弘やすひろ運輸うんゆ大臣だいじんから日本通運にほんつううん再建さいけん一切いっさいのゲタをあづけられて木島きしまとらぞう成功せいこうさせた[14]三鬼みき陽之助ようのすけ創立そうりつした「財界ざいかい研究所けんきゅうじょ」の援助えんじょなど[41]故郷こきょう広島ひろしまへの功績こうせきとして永野ながの重雄しげお会長かいちょうとともに広島ひろしまけんじんかいふく会長かいちょうながつとめ、また日本にっぽん鋼管こうかん福山製鉄所ふくやませいてつじょ誘致ゆうちにあたっては、池田いけだ勇人はやと口添くちぞえをたのむなど、側面そくめんから尽力じんりょくした[14]。また、財政ざいせい制度せいど審議しんぎかい会長かいちょうなど、多数たすう要職ようしょくについた。

  • 櫻田さくらだ宮島みやじま清次郎せいじろう政府せいふから叙勲じょくんはなしがあったとき、「おとこ民間みんかん一生いっしょうをかけてやった仕事しごと役所やくしょ一等いっとうだ、とうだとランクづけするのはおかしい。さくらってことわってい」とのいのちけ、辞退じたい使者ししゃやくとなった。櫻田さくらだ自身じしんにも当然とうぜん叙勲じょくんはなしがあったが、宮島みやじまなら叙勲じょくん辞退じたいした[8][42][43]
  • 叙勲じょくん辞退じたいしたが、素朴そぼく市民しみん気持きもちを大事だいじにしたいというかんがえから故郷こきょう福山ふくやま名誉めいよ市民しみん称号しょうごうだけはけている[16]
  • 宮島みやじま会長かいちょう引退いんたいさいして、いっさい退職たいしょくきんらない現場げんばのあたりにして、私欲しよくてて、おおやけにつくす、という指導しどうしゃ処世しょせいじゅつまな実践じっせんした[16]
  • 1949ねんだい3吉田よしだ内閣ないかく発足ほっそく宮島みやじまつうじて吉田よしだしげる首相しゅしょうから「大蔵おおくら大臣だいじん民間みんかんから採用さいようしたい。適当てきとう人材じんざい推薦すいせんしてしい」と依頼いらいけ、大蔵省おおくらしょう退官たいかんし1949ねん1がつそう選挙せんきょはつ当選とうせんたして1ヶ月かげつもたたない同郷どうきょう池田いけだ勇人はやと推薦すいせんした。宮島みやじまかんがえた人材じんざいが、みな戦後せんごパージにかかっていたこともあったが、これを宮島みやじま電話でんわで「おまえとうはいったばかりの池田いけだでどうだ」と吉田よしだつたえると、「きみがいうなら、役人やくにんあがりではあるが、よかろう」と電話でんわ一本いっぽん決定けってい吉田よしだ党内とうない反対はんたいって池田いけだだい3吉田よしだ内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん抜擢ばってきした[17][44]
  • 池田いけだ首相しゅしょう時代じだいに「財界ざいかい四天王してんのう」とばれた桜田さくらだ小林こばやしちゅう水野みずの成夫しげお永野ながの重雄しげお関係かんけいはじまりは、永野ながの桜田さくらだ同郷どうきょうろくだか東大とうだいつうじて柔道じゅうどう仲間なかま水野みずのいちだかろくだか柔道じゅうどう試合しあい対戦たいせん経験けいけんがあり、宮島みやじま国策こくさくパルプで、もと共産きょうさん党員とういん水野みずのみなみ喜一きいち使つかおうとして桜田さくらだ首実検くびじっけんをさせたとき、すぐに意気投合いきとうごうした[45]小林こばやし戦後せんご経済同友会けいざいどうゆうかいつうじてのもので、それ以外いがい関係かんけい小林こばやし-水野みずの小林こばやし-永野ながの水野みずの-永野ながの経済同友会けいざいどうゆうかいつうじてのもの。そしてこの4にんちかいグループが鹿内しかない信隆のぶたか今里いまさとひろ五島ごしまのぼる小坂こさか徳三郎とくさぶろうである[19]
  • 1949ねん、GHQからの指示しじ国営こくえい事業じぎょう公社こうしゃおこなわれたが、またも吉田よしだしげる首相しゅしょうから「国鉄こくてつ民間みんかん人間にんげんにやらせたい」との要請ようせいけ、宮島みやじま推薦すいせんしたのが小林こばやしなかで、桜田さくらだはそのむね小林こばやしつたえるが、いち週間しゅうかん鉄道てつどう国有こくゆうほうなどをんだ小林こばやし怒鳴どなんできて「あらゆる予算よさん国会こっかい承認しょうにんする。総裁そうさいなに出来できない。かざりものはゴメンだ!」などと就任しゅうにん要請ようせい固辞こじした。わって国鉄こくてつ初代しょだい総裁そうさいになったのが下山しもやま定則さだのりである[46]皮肉ひにくにも、この事件じけん小林こばやし評価ひょうかたかめる[47]
  • 1949ねん、50ねんごろのち首相しゅしょうとなる池田いけだ勇人はやと蔵相ぞうしょう中心ちゅうしんとし、の「財界ざいかい四天王してんのう」があつまる「二黒じこくかい」という会合かいごう毎月まいつき柳橋やなぎはし料亭りょうてい開催かいさいされていた。池田いけだ吉田よしだ同様どうよう財界ざいかいとの交流こうりゅうおもんじた[48]毎回まいかいあつ議論ぎろんひろげられ、桜田さくらだ池田いけだ蔵相ぞうしょうなどにも遠慮えんりょなく苦言くげんていし、池田いけだ蔵相ぞうしょうらが言葉ことばまらせる場面ばめんがしばしばあったと、当時とうじ池田いけだ蔵相ぞうしょう秘書官ひしょかんつとめていた宮澤みやざわ喜一きいちもと首相しゅしょうかたっている。なお、この「二黒じこくかい」は、最初さいしょはそういう名前なまえではなく、内輪うちわしょう人数にんずう財界ざいかいじんだけのかいで、いち万田まんだ尚登なおと白洲しらす次郎じろうなどもはいっていた。そこへ池田いけだが「おれれろ」とってはいってきたが、池田いけだいちまんなかわるいため、そこで小林こばやしちゅう水野みずの成夫しげお池田いけだ中心ちゅうしんとした明治めいじ32ねんまれ(二黒じこく)だけにかいにしようといちまん白洲しらす退しりぞいてもらい、小池こいけあつしこれすけ堀田ほった庄三しょうぞう東畑とうはた精一せいいちくわえて、明治めいじ32ねんまれだけ6にんかいにした[48][49][50]
  • 桜田さくらだは「二黒じこくかい」のメンバーではないため、このはなし柳橋やなぎばしではなく築地つきじ割烹かっぽう旅館りょかんさかえ[51]でないかとおもわれる。このみせ女将おかみ池田いけだ桜田さくらだ同郷どうきょう広島ひろしま出身しゅっしんで、永野ながのきょうせん高橋たかはし朝次郎あさじろうらも根城ねじろにしていた。「財界ざいかい四天王してんのう」のうち池田いけだ桜田さくらだ特別とくべつしたしく、桜田さくらだ池田いけだくなったのちも「宏池会こうちかい」の面倒めんどうをよくみた[14]。「宏池会こうちかい」のなが前尾まえおしげる三郎さぶろうから大平おおひら正芳まさよし交代こうたいするはないも桜田さくらだがこの「さかえ」ですすめたという[13][52]桜田さくらだは、今里いまさとひろにん中心ちゅうしんになって「はるよしかい」と大平おおひらかこ財界ざいかいじん有志ゆうし団体だんたいつくって大平おおひらささえた。このため、大平おおひらたいしても手厳てきびしく叱責しっせきすることがあったという[14]
  • 桜田さくらだ真骨頂しんこっちょうは、先見せんけんせいとズバリ直言ちょくげんする気骨きこつだった[1][28]。「財界ざいかい四天王してんのう」のなかでは、さんにんよりあとになって発言はつげん行動こうどう話題わだいとなった[16]1960年代ねんだいから1970年代ねんだいなかばには、ころもきせぬ発言はつげんなにかにつけてジャーナリズム話題わだいとなった[1][20]日経連にっけいれん総会そうかい雑誌ざっしインタビューなどで「いま日本にっぽん糖尿とうにょうびょうだ」「日本にっぽん国家こっか不在ふざい政治せいじ不在ふざい半人前はんにんまえ国家こっかだ」「三木みき首相しゅしょうは、日本にっぽんまる船長せんちょうではなく広報こうほう課長かちょうぎない」「日本にっぽん政治せいじ三流さんりゅうだが、民間みんかん官僚かんりょう一流いちりゅうだからもっている」[54]などと辛辣しんらつ発言はつげんかえした[1]昭和しょうわ40ねん不況ふきょうのさなか、都議会とぎかい選挙せんきょ参議院さんぎいん選挙せんきょでの自民党じみんとう惨敗ざんぱいにあたり、日経連にっけいれん臨時りんじ総会そうかいで「戦後せんご20ねんかかって、この程度ていど政治せいじしかそだてられなかった不明ふめいはじず」と財界ざいかいじんとしてははじめて保守党ほしゅとう不信ふしんばくだん発言はつげんをした[1]国家こっか不在ふざい発言はつげん1969ねん10月16にち日経連にっけいれん総会そうかいでの発言はつげんで、じゅう年来ねんらい持論じろんだとして「自主じしゅ防衛ぼうえいりょくたか国防こくぼうのありかた規定きていするための憲法けんぽう改正かいせい必要ひつよう1970ねん2がつ20日はつかには「憲法けんぽうだい9じょう改正かいせいして、防衛ぼうえいりょくについてははっきりむべきだ。また非常ひじょう事態じたい宣言せんげんせるようにし、弾薬だんやく備蓄びちくをふやす必要ひつようがある」[55]などと改憲かいけんろん堂々どうどう公式こうしきでぶち物議ぶつぎかもした[14][20][56][57]
  • だてかい結成けっせい資金しきん調達ちょうたつため藤原ふじわらいわ三島みしま由紀夫ゆきおれて桜田さくらだたけし資金しきん協力きょうりょくもうたが、桜田さくらだたけしはこれを拒否きょひ三島みしまに150まんえんぜにし、三島みしま由紀夫ゆきおたいし「きみ私兵しへいはいかんよ」とった。三島みしまはこのけん政治せいじ醜悪しゅうあくさをしったとわれている[59]
  • 小林こばやしちゅう追悼ついとうろく序文じょぶん桜田さくらだいた[60]
  • 鹿内しかない信隆のぶたかは「桜田さくらだというのは、今後こんごちょっとないおとこです。社会しゃかいてきにはいろいろな有名ゆうめいひとてくるけれども、辛抱しんぼう全然ぜんぜんちがいます」[24]わたし桜田さくらだ先輩せんぱいから、はかりしれない影響えいきょうけ、最大さいだい薫陶くんとうあたえられた。この先達せんだつとめぐりえたことは、わたし一生いっしょうしあわせであり、ほこりでもあった」とべている[12]

略歴りゃくれき

編集へんしゅう
  • 1904ねん 出生しゅっしょう
  • 1926ねん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう日清紡績にっしんぼうせき入社にゅうしゃ
  • 1939ねん 従軍じゅうぐん(~1942ねん
  • 1945ねん 日清紡績にっしんぼうせき取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにん
  • 1946ねん 経済同友会けいざいどうゆうかい幹事かんじ就任しゅうにん
  • 1947ねん 経団連けいだんれん常任じょうにん委員いいん就任しゅうにん
  • 1948ねん 日本にっぽん工業こうぎょう倶楽部くらぶ理事りじ就任しゅうにん日経連にっけいれんふく議長ぎちょう就任しゅうにん
  • 1949ねん 日経連にっけいれんそう理事りじ就任しゅうにん
  • 1950ねん 経団連けいだんれん常任じょうにん理事りじ就任しゅうにん日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ代議員だいぎいん就任しゅうにん
  • 1953ねん 大倉おおくら製糸せいし取締役とりしまりやく相談役そうだんやく就任しゅうにん
  • 1954ねん ニッポン放送にっぽんほうそう発起人ほっきにん取締役とりしまりやく就任しゅうにん広島ひろしまけんじんかいふく会長かいちょう会長かいちょう永野ながの重雄しげお就任しゅうにん日本にっぽん生産せいさん本部ほんぶ理事りじ就任しゅうにん
  • 1956ねん 日本無線にほんむせん相談役そうだんやく就任しゅうにん産業さんぎょう計画けいかく会議かいぎ常任じょうにん委員いいん委員いいんちょう松永まつながやすしひだりもん就任しゅうにん
  • 1957ねん フジテレビ監査かんさやく就任しゅうにん
  • 1958ねん アラビア石油あらびあせきゆ発起人ほっきにん監査かんさやく就任しゅうにん
  • 1960ねん 日経連にっけいれん代表だいひょう常任じょうにん理事りじ(74ねんより会長かいちょう名称めいしょう変更へんこう就任しゅうにん
  • 1961ねん JOC日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい組織そしき委員いいん就任しゅうにん日本にっぽん実業じつぎょうだんバレーボール連盟れんめい発足ほっそく同時どうじ会長かいちょう就任しゅうにん[61]
  • 1964ねん 日清紡績にっしんぼうせき取締役とりしまりやく社長しゃちょう退任たいにんどう取締役とりしまりやく会長かいちょう就任しゅうにん新日本無線しんにほんむせん取締役とりしまりやく就任しゅうにん
  • 1965ねん 四国しこく化成かせい相談役そうだんやく就任しゅうにん
  • 1966ねん 東邦とうほうレーヨン取締役とりしまりやく相談役そうだんやく就任しゅうにん東京とうきょう防衛ぼうえい協会きょうかい会長かいちょう就任しゅうにん財政ざいせい制度せいど審議しんぎかい会長かいちょう代理だいり就任しゅうにん
  • 1968ねん 産経新聞さんけいしんぶん取締役とりしまりやく就任しゅうにん日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい理事りじ就任しゅうにん
  • 1969ねん 東邦とうほうレーヨン取締役とりしまりやく会長かいちょう就任しゅうにん
  • 1970ねん 日清紡績にっしんぼうせき取締役とりしまりやく会長かいちょう退任たいにんどう相談役そうだんやく就任しゅうにん
  • 1971ねん 八王子はちおうじゴルフ倶楽部くらぶ取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにん
  • 1972ねん 沖縄おきなわ海洋かいよう博覧はくらんかい理事りじ就任しゅうにん
  • 1973ねん 日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう諮問しもん委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにん日本にっぽんヨルダン協会きょうかい会長かいちょう就任しゅうにん
  • 1974ねん 産業さんぎょう計画けいかく懇談こんだんかい代表だいひょう世話人せわにん
  • 1975ねん 日本にっぽんベネゼラ経済けいざい協力きょうりょく懇談こんだんかい会長かいちょう就任しゅうにん財政ざいせい制度せいど審議しんぎかい会長かいちょう就任しゅうにん明治めいじ神宮じんぐう総代そうだい就任しゅうにん
  • 1978ねん 北部ほくぶアンデス地域ちいき経済けいざい使節しせつだん団長だんちょう就任しゅうにん外務省がいむしょう顧問こもん就任しゅうにん
  • 1979ねん 日経連にっけいれん会長かいちょう退任たいにんどう名誉めいよ会長かいちょう就任しゅうにん講道館こうどうかん理事りじ就任しゅうにん
  • 1980ねん 帝人ていじん相談役そうだんやく就任しゅうにん靖国神社やすくにじんじゃ奉賛ほうさんかい会長かいちょう就任しゅうにん
  • 1981ねん 福山ふくやま名誉めいよ市民しみん
  • 1984ねん 日清紡績にっしんぼうせき相談役そうだんやく退任たいにんどう顧問こもん就任しゅうにん
  • 1985ねん 逝去せいきょ

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e #人国記じんこくき、56-58ぺーじ
  2. ^ 近代きんだい日本にっぽん産業さんぎょうじん(20)桜田さくらだたけし-戦後せんご財界ざいかい精神せいしんてき支柱しちゅう
  3. ^ a b c d e f g 池内いけうち治彦はるひこ. “未来みらい視座しざった事業じぎょう承継しょうけい 日清紡にっしんぼうもと社長しゃちょう櫻田さくらだたけし日本にっぽんてき経営けいえい”. 事業じぎょう構想こうそう大学院だいがくいん大学だいがく. 2017ねん12月22にち閲覧えつらん
  4. ^ 福山ふくやま名誉めいよ市民しみん - 福山ふくやまホームページ - 福山ふくやま市役所しやくしょ
  5. ^ しんかすみせき人脈じんみゃく 佐々江ささえ外務がいむ事務次官じむじかん広大こうだいづけだかりょう生活せいかつ 広島ひろしまけん全国ぜんこくばん - アカシアかい 公式こうしきサイト
  6. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(した)、92ぺーじ
  7. ^ #履歴りれきしょ12、7-31ぺーじ
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 津田つだしん澂「日本にっぽんてき経営けいえい経営けいえい思想しそう(いち) 桜田さくらだたけし日清紡績にっしんぼうせき」『青森公立大学あおもりこうりつだいがく経営けいえい経済けいざいがく研究けんきゅうだい2かんだい1ごう青森公立大学あおもりこうりつだいがく経営けいえい経済けいざいがく研究けんきゅう編集へんしゅう委員いいんかい、1996ねん9がつ、26-49ぺーじCRID 1050001337544671360ISSN 1341-9404NAID 110000485952 
  9. ^ a b #いまかす戦後せんご秘史ひし(うえ)、168-193ぺーじ
  10. ^ a b c d e f #戦後せんご財界ざいかい戦国せんごく、9-23、45-77ぺーじ
  11. ^ 法政大学ほうせいだいがく大原おおはらしゃけん 1984~1985ねん日経連にっけいれん労働ろうどう組合くみあい日本にっぽん労働ろうどう年鑑ねんかん だい56しゅう
  12. ^ a b c d e f #カリスマの秘密ひみつ、256-286ぺーじ
  13. ^ a b c #わたし財界ざいかい交友こうゆうろく、98-105ぺーじ
  14. ^ a b c d e f g h i j #財界ざいかい四天王してんのう 保守ほしゅ本流ほんりゅうささえた財界ざいかい人脈じんみゃく、227-281ぺーじ
  15. ^ a b c #寡黙かもく巨星きょせい、154-159、183、227ぺーじ
  16. ^ a b c d e f g h #人間にんげん昭和しょうわ4、167―178ぺーじ
  17. ^ a b c d #財界ざいかい首脳しゅのう、7―59ぺーじ
  18. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(した)、14-17ぺーじ
  19. ^ a b c d #福本ふくもと邦雄くにお回顧かいころく、33、34、235-273ぺーじ
  20. ^ a b c 週刊しゅうかん朝日あさひ1975ねん10がつ31にち、116-120ぺーじ
  21. ^ #財界ざいかい四天王してんのう 保守ほしゅ本流ほんりゅうささえた財界ざいかい人脈じんみゃく、281ぺーじ
  22. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(うえ)、186ぺーじ
  23. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(うえ)、101、141ぺーじ
  24. ^ a b #鹿内しかない信隆のぶたかかた、18-25ぺーじ
  25. ^ a b 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1969ねん4がつごう、188-201ぺーじ
  26. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(うえ)、193ぺーじ
  27. ^ a b #財界ざいかい 政治せいじ経済けいざいうごかすもの、154-162ぺーじ
  28. ^ a b 歴史れきしてき役割やくわりえた経団連けいだんれんいちから出直でなおしを | nippon.com
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #わたし財界ざいかい交友こうゆうろく、106-118ぺーじ
  30. ^ a b c d e f g h i くすのき綾子あやこ冷戦れいせん日米にちべい知的ちてき交流こうりゅう : 下田しもだ会議かいぎ(1967)のいち考察こうさつ」『国際こくさいがく研究けんきゅうだい3かんだい1ごう関西学院大学かんせいがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ研究けんきゅうかい、2014ねん3がつ、31-44ぺーじISSN 2186-8360NAID 120005447630  p.37-38 より
  31. ^ a b c d e f g h i j k #メディア1、362-365ぺーじ
  32. ^ a b 石油せきゆショック狂乱きょうらん物価ぶっかで1974ねん春闘しゅんとうは、30%を空前くうぜん賃上ちんありつになった。~ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2012/3/13
  33. ^ 奥村おくむらひろし徹底てってい検証けんしょう 日本にっぽん五大ごだい新聞しんぶんななもりしょかん、2009ねん、99-104ぺーじISBN 978-4822809850 
  34. ^ #戦後せんご財界ざいかい戦国せんごく、18-22ぺーじ
  35. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(した)、33-39ぺーじ
  36. ^ 追悼ついとう 小林こばやしあたる小林こばやしちゅう追悼ついとうろく編集へんしゅう委員いいんかい、1982ねん
  37. ^ 大津おおつよせ勝典かつのり 1989, p. 267-278.
  38. ^ FISPA便たより「忠臣蔵ちゅうしんぐらとグローバル経済けいざい」 | FISPA 繊維せんい産業さんぎょう流通りゅうつう構造こうぞう改革かいかく推進すいしん協議きょうぎかい
  39. ^ 大津おおつよせ勝典かつのり 1989, p. 277-278.
  40. ^ しょまど日清紡にっしんぼうホールディングス社長しゃちょう河田かわた正也まさや興味深きょうみぶかい『21世紀せいき世界せかいかんがえる』」
  41. ^ #四天王してんのう遺訓いくん、127ぺーじ
  42. ^ #カリスマの秘密ひみつ、279ぺーじ
  43. ^ しゅく叙勲じょくん 愛知あいち和男かずお理事りじちょう いつまでつづく「日本にっぽん謝罪しゃざい
  44. ^ #戦後せんご財界ざいかい戦国せんごく、51-52ぺーじ
  45. ^ #わたし財界ざいかい交友こうゆうろく、40-41ぺーじ
  46. ^ #いまかす戦後せんご秘史ひし(した)、44-49ぺーじ
  47. ^ #わたし財界ざいかい昭和しょうわ、211-212ぺーじ
  48. ^ a b #寡黙かもく巨星きょせい、167-169ぺーじ
  49. ^ #財界ざいかい四天王してんのう 保守ほしゅ本流ほんりゅうささえた財界ざいかい人脈じんみゃく、35-38ぺーじ
  50. ^ 松浦まつうらこうしん人間にんげん水野みずの成夫しげおサンケイ新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱんきょく 1973ねん巻頭かんとうアルバムしゅう20ぺーじ、336-339ぺーじ水野みずの成夫しげおしのぶ1-19ぺーじ、『追悼ついとう 小林こばやしあたる小林こばやしちゅう追悼ついとうろく編集へんしゅう委員いいんかい、1982ねん、170、377-381ぺーじ
  51. ^ 永野ながの重雄しげお『わが財界ざいかい人生じんせいダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1982ねん、167ぺーじでは、新橋しんばしさかえ
  52. ^ 宏池会こうちかい会長かいちょうわれる 「池田いけだ首相しゅしょうささえたおとこ前尾まえおしげる三郎さぶろう(5)
  53. ^ #カリスマの秘密ひみつ、277-278ぺーじ
  54. ^ 江田えだけんじNET 「霞ヶ関かすみがせき周到しゅうとう手口てぐちおしえます!」 月刊げっかん「WiLL」2008ねん12がつごう
  55. ^ 兵器へいき共同きょうどう研究けんきゅう開発かいはつ生産せいさん 木原きはら正雄まさお 19(503)ぺーじ
  56. ^ 衆議院しゅうぎいん会議かいぎろく情報じょうほう だい063かい国会こっかい ないかく委員いいんかい だい18ごう
  57. ^ 創刊そうかんごうせて
  58. ^ 麻生あそう太郎たろう対談たいだん
  59. ^ 山本やまもとしゅんかち自衛隊じえいたいかげ部隊ぶたい」―三島みしま由紀夫ゆきおころした真実しんじつ告白こくはく
  60. ^ 追悼ついとう 小林こばやしあたる小林こばやしちゅう追悼ついとうろく編集へんしゅう委員いいんかい、1982ねん
  61. ^ リコーインダストリー東北とうほく. “櫻田さくらだ記念きねんとは”. 2013ねん8がつ16にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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  • 櫻田さくらだたけし論集ろんしゅう櫻田さくらだたけし論集ろんしゅう刊行かんこうかいへん日経連にっけいれん出版しゅっぱん
  • 桜田さくらだたけしひと哲学てつがく大谷おおやけんちょ日経にっけい連盟れんめい弘報こうほう
  • 桜田さくらだたけし鹿内しかない信隆のぶたか『いまかす戦後せんご秘史ひし(うえ)』サンケイ出版しゅっぱん、1983ねんISBN 9784383022880 
  • 桜田さくらだたけし鹿内しかない信隆のぶたか『いまかす戦後せんご秘史ひし(した)』サンケイ出版しゅっぱん、1983ねんISBN 9784383022897 

外部がいぶリンク

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