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カタパルト 、トレビュシェット やバリスタ のように、機械 きかい 的 てき な力 ちから によって弾丸 だんがん を放出 ほうしゅつ する兵器 へいき は古代 こだい から存在 そんざい した。それらは射程 しゃてい を伸 の ばすために「捻 ねじ れ」や「回転 かいてん 」といった物理 ぶつり の法則 ほうそく 原理 げんり を応用 おうよう していた。「捻 ねじ れ」によって得 え たエネルギーをロープに伝 つた えることが重要 じゅうよう だったのだ。初期 しょき の大型 おおがた 兵器 へいき は石 いし などを遠 とお くに飛 と ばす為 ため この力 ちから を利用 りよう した。アームの部分 ぶぶん を引 ひ くとロープが捻 ねじ れて力 ちから が加 くわ わりエネルギーを蓄 たくわ えられ、あとは金具 かなぐ を外 はず すだけでその瞬間 しゅんかん に力 ちから が解放 かいほう される。2メートル 近 ちか い巨大 きょだい な矢 や 、そして石 いし の塊 かたまり が、遠 とお く離 はな れた敵 てき を容赦 ようしゃ なく襲 おそ った。その為 ため バリスタやカタパルトが戦場 せんじょう に姿 すがた を現 あらわ すと、敵 てき は恐 おそ れおののき、震 ふる え上 あ がったという。
中国 ちゅうごく では1259年 ねん に南 みなみ 宋 そう の寿 ことぶき 春 はる 府 ふ で開発 かいはつ された突火槍 やり と呼 よ ばれる竹 たけ 製 せい 火砲 かほう が早 はや い時期 じき の物 もの とみられる、また1332年 ねん には大元 おおもと 統治 とうち 下 か で、青銅 せいどう 鋳造 ちゅうぞう の砲身 ほうしん 長 ちょう 35.3cm口径 こうけい 10.5cmの火砲 かほう が製造 せいぞう され、元 もと 末 まつ に起 お きた農民 のうみん 蜂起 ほうき でも多数 たすう 使用 しよう された。中央 ちゅうおう アジア や西 にし アジア でもティムール 軍 ぐん がイラン ・イラク 地域 ちいき の征服 せいふく 、オスマン帝国 ていこく のバヤズィト1世 せい やジョチ・ウルス のトクタミシュとの戦役 せんえき において攻 おさむ 城 しろ 用 よう の重砲 じゅうほう と野戦 やせん 用 よう の小 しょう 口径 こうけい 火砲 かほう を用 もち いている。
西洋 せいよう 最古 さいこ の大砲 たいほう の記録 きろく 図 ず , De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum , Walter de Milemete, 1326
16世紀 せいき の各種 かくしゅ 大砲 たいほう を描 えが いた図 ず 。前 ぜん 装 そう 砲 ほう のほか、後 こう 装 そう 砲 ほう や臼砲 きゅうほう もある
西欧 せいおう 世界 せかい で現存 げんそん する最古 さいこ の火砲 かほう 的 てき な物 もの の記録 きろく 図 ず は、14世紀 せいき (1326年 ねん )。イギリス のスコラ学 がく 者 もの Walter de Milemete の手 て 稿 こう にあるスケッチには、細長 ほそなが い矢 や のような物 もの を打 う ち出 だ す砲 ほう のようなものが描 えが かれている。ただし、これは実際 じっさい に作 つく られたかどうかも、実戦 じっせん で使 つか われたかどうかも不明 ふめい である。その後 ご 西欧 せいおう では一 いち 世紀 せいき 以上 いじょう を経 へ て東方 とうほう の技術 ぎじゅつ が伝 つた わり、現在 げんざい のような形 かたち へ改良 かいりょう される。つまり、矢 や 状 じょう の投射 とうしゃ 物 ぶつ ではなく球形 きゅうけい の砲丸 ほうがん を発射 はっしゃ するための、太 ふと さが均一 きんいつ な管 かん の形 かたち をした大砲 たいほう は、西欧 せいおう では15世紀 せいき の初頭 しょとう ごろから見 み られるようになったという事 こと だ。この時代 じだい の大砲 たいほう は射 い 石 せき 砲 ほう またはボンバード砲 ほう と呼 よ ばれ、石 いし の砲丸 ほうがん を発射 はっしゃ するものだった。15世紀 せいき 半 なか ば頃 ごろ までには、西欧 せいおう にも火砲 かほう の革新 かくしん が伝 つた わった。砲丸 ほうがん を大 おお きく、射出 しゃしゅつ 速度 そくど を速 はや くして投射 とうしゃ 物 ぶつ に巨大 きょだい な運動 うんどう 量 りょう を与 あた えるためには、多量 たりょう の装 そう 薬 やく の爆発 ばくはつ に耐 た えうる強靭 きょうじん な砲身 ほうしん が必要 ひつよう であるが、その強度 きょうど を得 え るために鋳造 ちゅうぞう によって一体 いったい 成型 せいけい された大砲 たいほう が、この時期 じき に作 つく られるようになった。
高 たか い破壊 はかい 力 りょく を持 も った重砲 じゅうほう の発達 はったつ によってそれまで難攻不落 なんこうふらく であった防衛 ぼうえい 設備 せつび を短時間 たんじかん のうちに陥落 かんらく させることができるようになり、防衛 ぼうえい 側 がわ と攻撃 こうげき 側 がわ の力 ちから 関係 かんけい の変化 へんか を生 しょう じさせた。1453年 ねん にオスマン帝国 ていこく によるコンスタンティノポリス包囲 ほうい 戦 せん という歴史 れきし 的 てき 出来事 できごと が起 お きたが、それには口径 こうけい の大 おお きな重砲 じゅうほう が決定的 けっていてき な役割 やくわり を果 は たしている。また、百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 末期 まっき のノルマンディー とボルドー からのイギリス軍 ぐん の撤退 てったい においても火砲 かほう は重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。
大筒 おおづつ は、日本 にっぽん の戦国 せんごく 時代 じだい 後期 こうき から江戸 えど 時代 じだい にかけての大砲 たいほう の呼称 こしょう であり、その一種 いっしゅ の事 こと 。戦国 せんごく 時代 じだい 後期 こうき より用 もち いられ、攻 おさむ 城 しろ 戦 せん や海戦 かいせん において構造 こうぞう 物 ぶつ 破壊 はかい に威力 いりょく を発揮 はっき した[ 注 ちゅう 1] 。
百 ひゃく 目玉 めだま 火矢 ひや 銃 じゅう と火縄銃 ひなわじゅう 百 ひゃく 目玉 めだま 抱 かか え大筒 おおづつ
さらに15世紀 せいき 後半 こうはん には、石 いし の弾丸 だんがん に替 か わる鉄 てつ 製 せい の弾丸 だんがん や、燃焼 ねんしょう 速度 そくど の速 はや い粒状 りゅうじょう の火薬 かやく などの新 しん テクノロジーの発達 はったつ もあり、また小型 こがた で軽量 けいりょう ながら馬 うま 曳 ひ きで運搬 うんぱん 可能 かのう な強力 きょうりょく な攻 おさむ 城 しろ 砲 ほう も出現 しゅつげん した。ちなみにそれ以前 いぜん までの攻 おさむ 城 しろ 砲 ほう は巨大 きょだい なカスタムメイドの兵器 へいき であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁 じょうへき を打 う ち破 やぶ ったウルバン砲 ほう は戦場 せんじょう から200キロメートル 強 つよ 離 ばな れた首都 しゅと エディルネで鋳造 ちゅうぞう されていた。
近代 きんだい 的 てき な意味 いみ での大砲 たいほう は15世紀 せいき 末 まつ までにはほぼ完成 かんせい を見 み ており、1840年代 ねんだい までは瑣末 さまつ な改良 かいりょう を除 のぞ いて本質 ほんしつ 的 てき には同 おな じ設計 せっけい のものが使 つか われつづけた。1494年 ねん にナポリ の王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を争 あらそ ってフランス 王 おう シャルル8世 せい がイタリアに侵入 しんにゅう したとき、フランス軍 ぐん は牽引 けんいん 可能 かのう な車輪 しゃりん 付 づけ 砲 ほう 架 か を備 そな えた大砲 たいほう を引 ひ き連 つ れていた。この大砲 たいほう は旧来 きゅうらい の高 たか い城壁 じょうへき を一 いち 日 にち の戦闘 せんとう で撃 う ち崩 くず してしまった。それによって、盛 も り土 つち の土 ど 塁 るい によって大砲 たいほう の撃 げき 力 りょく を吸収 きゅうしゅう することを目的 もくてき とした築城 ちくじょう 術 じゅつ の革命 かくめい を引 ひ き起 お こした。
一方 いっぽう 、初期 しょき の大砲 たいほう は鋳鉄 ちゅうてつ や鍛鉄 たんてつ 製 せい であったが、素材 そざい の強度 きょうど が威力 いりょく 向上 こうじょう 化 か に追 お いつかず、金属 きんぞく 文明 ぶんめい の定性 ていせい に逆行 ぎゃっこう し鋳造 ちゅうぞう 性 せい の良 よ い青銅 せいどう 製 せい に取 と って代 か わった。この名残 なごり で青銅 せいどう は砲金 ほうきん ともいう。連射 れんしゃ 性 せい 、装填 そうてん 作業 さぎょう 性 せい を改善 かいぜん する後 こう 装 そう 式 しき 大砲 たいほう の概念 がいねん もフランキ砲 ほう のように早 はや くから存在 そんざい したが、増大 ぞうだい する発射 はっしゃ ガス圧 あつ をやはり封 ふう 止 どめ できない問題 もんだい があり廃 すた れた。ライフリング の発明 はつめい も15世紀 せいき だが、前 ぜん 装 そう 式 しき では装填 そうてん が面倒 めんどう であることに加 くわ え、弾 たま 体 たい がライフリングに食 く い込 こ みながら銃砲 じゅうほう 身内 みうち を進 すす むことで受 う ける抵抗 ていこう のため内圧 ないあつ が上昇 じょうしょう することで破裂 はれつ (腔発 )を起 お こす問題 もんだい を解決 かいけつ できず、これらのアイデアの実用 じつよう 化 か は鋼鉄 こうてつ 製 せい 火器 かき の製造 せいぞう が可能 かのう になるのを待 ま たねばならなかった。
また、大砲 たいほう の発達 はったつ は海上 かいじょう 戦闘 せんとう に対 たい して、地上 ちじょう 戦闘 せんとう とは違 ちが った革命 かくめい 的 てき な変化 へんか をもたらした。船舶 せんぱく 同士 どうし の戦 たたか いでは衝角 を装備 そうび しての敵 てき 船体 せんたい への体当 たいあ たり攻撃 こうげき および敵 てき 船 せん に乗 の り移 うつ っての白兵戦 はくへいせん が古来 こらい の戦法 せんぽう であったが、これに大砲 たいほう が加 くわ わる事 こと となった。当時 とうじ の艦載 かんさい 砲 ほう の威力 いりょく では船体 せんたい を完全 かんぜん 破壊 はかい する事 こと は不可能 ふかのう であったが、自立 じりつ 航行 こうこう が不可能 ふかのう になるまで損傷 そんしょう を負 お わせる事 こと や、白兵戦 はくへいせん の前 ぜん 段階 だんかい として敵艦 てきかん の兵 へい を死傷 ししょう させる事 こと は可能 かのう であった。16世紀 せいき の西 にし 地中海 ちちゅうかい においてオスマン帝国 ていこく が常 つね に制海権 せいかいけん を握 にぎ り続 つづ けたのは、船舶 せんぱく の性能 せいのう 差 さ もあるが、それよりも大砲 たいほう の性能 せいのう 差 さ による部分 ぶぶん が大 おお きかったといえる。また1571年 ねん のレパントの海戦 かいせん においても、スペイン を中心 ちゅうしん とした連合 れんごう 軍 ぐん による、地中海 ちちゅうかい の覇者 はしゃ オスマン帝国 ていこく の撃破 げきは には大砲 たいほう の火力 かりょく が大 おお きく貢献 こうけん していた。
こういった兵器 へいき は仕組 しく みは原始 げんし 的 てき だが、敵 てき に対 たい して心理 しんり 的 てき にもダメージを与 あた える事 こと が出来 でき る事 こと を、古代 こだい や中世 ちゅうせい の砲兵 ほうへい 達 たち は十分 じゅうぶん に知 し っていた。その凄 すさ まじい威力 いりょく のために、その砲火 ほうか にさらされた兵士 へいし 達 たち は敗北 はいぼく を予測 よそく してしまい、精神 せいしん 面 めん で負 ま けて絶望 ぜつぼう 感 かん を抱 だ いた。精神 せいしん 的 てき にダメージを負 お った兵士 へいし にとって弾 たま が飛 と んでくる音 おと は恐怖 きょうふ の象徴 しょうちょう であり、それは古代 こだい の石 いし も現代 げんだい の砲弾 ほうだん も同 おな じであった。狙 ねら われたら抵抗 ていこう する術 じゅつ が無 な く、正 まさ に最強 さいきょう の兵器 へいき と想像 そうぞう せざるを得 え ない状況 じょうきょう にもなり、勇敢 ゆうかん な兵士 へいし 達 たち の気力 きりょく を抉 こじ いて戦 たたか うことを諦 あきら めさせてしまう、大砲 たいほう にはそれほどまでに恐 おそ ろしい破壊 はかい 的 てき な威力 いりょく があった。
近世 きんせい では大砲 たいほう は野戦 やせん での活用 かつよう も行 おこ なわれるようになる。性能 せいのう を敢 あ えて抑 おさ えるという設計 せっけい 指針 ししん に基 もとづ いて砲身 ほうしん の軽量 けいりょう 化 か や砲 ほう 架 か の改良 かいりょう がなされ、また榴弾 りゅうだん やぶどう弾 だん といった軟目標 もくひょう に有効 ゆうこう な砲弾 ほうだん も用 もち いられ始 はじ めた。なにより中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か による富 とみ と権力 けんりょく の集中 しゅうちゅう は、それまで高価 こうか で数 かず を揃 そろ えられなかった大砲 たいほう の配備 はいび 数 すう を大 おお きく増 ふ やすことに繋 つな がり、大砲 たいほう は戦場 せんじょう における重要 じゅうよう な地位 ちい を占 し めることになる。18世紀 せいき にはグリボーバル・システム により、大砲 たいほう の規格 きかく 化 か と工業 こうぎょう 化 か が更 さら に推 お し進 すす められた。
ベトナム ヴィンロン に設置 せっち されていた木製 もくせい 大砲 たいほう (1862年 ねん )
大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )当時 とうじ の砲兵 ほうへい 下士 かし 卒 そつ の軍装 ぐんそう
18世紀 せいき ごろからの産業 さんぎょう 革命 かくめい に伴 ともな う製鉄 せいてつ 技術 ぎじゅつ の向上 こうじょう によって、脆 もろ く壊 こわ れやすい鋳鉄 ちゅうてつ からより強靭 きょうじん で良質 りょうしつ な錬鉄 れんてつ の大量 たいりょう 生産 せいさん が可能 かのう となり、鋳鋼 ちゅうこう 製 せい の大砲 たいほう の製造 せいぞう が可能 かのう となった。また、製造 せいぞう 精度 せいど の向上 こうじょう によって、駐 ちゅう 退 すさ 機 き 、後 こう 装 そう 式 しき 、砲身 ほうしん へのライフリングなど、現在 げんざい の大砲 たいほう に用 もち いられる基礎 きそ 的 てき な技術 ぎじゅつ が実用 じつよう 化 か された。
近代 きんだい 以前 いぜん の大砲 たいほう は、砲撃 ほうげき を行 おこ なう度 たび に反動 はんどう によって砲 ほう 全体 ぜんたい が後退 こうたい し再 ふたた び狙 ねら いをつけて砲撃 ほうげき をするため、連続 れんぞく した砲撃 ほうげき を行 おこな うことができなかった。また、大砲 たいほう 自体 じたい が動 うご くため砲撃 ほうげき 精度 せいど は保証 ほしょう されず、砲撃 ほうげき の度 たび に着弾 ちゃくだん 点 てん が大 おお きく変 か わるといった欠点 けってん があった。1840年 ねん ごろから実用 じつよう 化 か されはじめた駐 ちゅう 退 すさ 機 き の登場 とうじょう によって、発射 はっしゃ の反動 はんどう を砲身 ほうしん の後退 こうたい で吸収 きゅうしゅう し、砲 ほう 自体 じたい の位置 いち を後退 こうたい させずに済 す むようになり、砲撃 ほうげき の精度 せいど が向上 こうじょう した。また、1897年 ねん にはフランスのM1897 75mm野砲 やほう で液 えき 気圧 きあつ 式 しき 駐 ちゅう 退 すさ 復 ふく 座 ざ 機 き が採用 さいよう され、高速 こうそく な連射 れんしゃ が可能 かのう になった[ 6] 。
砲 ほう の後方 こうほう から砲弾 ほうだん と火薬 かやく を装填 そうてん する後 のち 装 そう 式 しき は前 ぜん 装 そう 式 しき と比 くら べ、砲弾 ほうだん の装填 そうてん が容易 ようい にかつ迅速 じんそく に行 おこな える。初期 しょき の後 のち 装 そう 式 しき 砲 ほう は15世紀 せいき までには登場 とうじょう しており、フランキ式 しき や縦 たて 栓 せん 式 しき があった。しかし、この当時 とうじ の技術 ぎじゅつ による後 のち 装 そう 式 しき 砲 ほう は尾 お 栓 せん の気密 きみつ 性 せい が低 ひく く燃焼 ねんしょう ガス の漏 も れや強度 きょうど 不足 ふそく により、前 ぜん 装 そう 式 しき に対 たい して威力 いりょく が劣 おと っていたり暴発 ぼうはつ などが起 お こった。これに対 たい して産業 さんぎょう 革命 かくめい 期 き の製造 せいぞう 精度 せいど の向上 こうじょう は尾 お 栓 せん の機密 きみつ 精度 せいど を向上 こうじょう させ、また錬鉄 れんてつ による頑丈 がんじょう な砲身 ほうしん によって、後 こう 装 そう 式 しき の大砲 たいほう が実用 じつよう 化 か された。
ライフリングによる精度 せいど の向上 こうじょう もあった。ライフイングは砲身 ほうしん 内部 ないぶ に施 ほどこ された螺旋 らせん 状 じょう の溝 みぞ に沿 そ って砲弾 ほうだん が回転 かいてん しながら射出 しゃしゅつ されることにより砲弾 ほうだん にジャイロ効果 こうか が働 はたら き、精度 せいど 、速度 そくど 、射程 しゃてい が向上 こうじょう する方法 ほうほう である。前 ぜん 装 そう 式 しき の砲 ほう では装填 そうてん の面倒 めんどう さなどから実用 じつよう 化 か されていなかったが、後 こう 装 そう 式 しき 砲 ほう の登場 とうじょう によって大砲 たいほう で実用 じつよう されるようになった。
これらの技術 ぎじゅつ は1800年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん から実用 じつよう 化 か され始 はじ め、南北戦争 なんぼくせんそう で用 もち いられたホイットワース砲 ほう などがある。産業 さんぎょう 革命 かくめい によってもたらされたこれらの技術 ぎじゅつ は、この時代 じだい 以降 いこう それまでの砲 ほう とは比較 ひかく にならないほどの威力 いりょく と、砲撃 ほうげき の精度 せいど 、射程 しゃてい の向上 こうじょう を大砲 たいほう にもたらした。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 〜 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん
編集 へんしゅう
両 りょう 大戦 たいせん でイギリス軍 ぐん が使用 しよう した「QF 4.5インチ榴弾 りゅうだん 砲 ほう 」Mk.1P(1940年 ねん に撮影 さつえい された、イギリスにおけるニュージーランド軍 ぐん の演習 えんしゅう )
列車 れっしゃ 砲 ほう 「クルップK5 」(復元 ふくげん 、アバディーン戦車 せんしゃ 博物館 はくぶつかん )
主砲 しゅほう を斉射 せいしゃ するアイオワ(モスボール 解除 かいじょ 後 ご の1984年 ねん )
大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の自 じ 走 はし 砲 ほう 、一式十糎自走砲 (ホニII)
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の犠牲 ぎせい 者 しゃ の7割 わり は大砲 たいほう によるものだった。第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん では塹壕 ざんごう 戦 せん が中心 ちゅうしん であり、その前方 ぜんぽう に築 きず かれた鉄条 てつじょう 網 もう や機関 きかん 銃 じゅう により従来 じゅうらい の戦法 せんぽう (生身 なまみ の兵士 へいし による突撃 とつげき )の効果 こうか は薄 うす くなっていった。大砲 たいほう はそれらの防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を遠距離 えんきょり から破壊 はかい することが可能 かのう だったため、戦術 せんじゅつ 的 てき な価値 かち はより認 みと められるようになったが、これには攻撃 こうげき 目標 もくひょう が敵 てき に伝 つた わってしまうという欠点 けってん があった。
戦闘 せんとう では継続 けいぞく 的 てき な敵 てき への攻撃 こうげき が必要 ひつよう だったため、短期間 たんきかん で相手 あいて 以上 いじょう に多 おお くの損害 そんがい を与 あた えられる巨大 きょだい な火砲 かほう が必要 ひつよう とされた。そのニーズに伴 ともな い大砲 たいほう の口径 こうけい も巨大 きょだい 化 か を続 つづ け、その代表 だいひょう としてはより高 たか く鋭 するど い位置 いち 角度 かくど から敵 てき 地 ち に砲弾 ほうだん を落 お とすことができた榴弾 りゅうだん 砲 ほう などが挙 あ げられる。大砲 たいほう の威力 いりょく が増 ま すと共 とも に兵士 へいし たちへの精神 せいしん 的 てき 負担 ふたん も増加 ぞうか したが、これをイギリスの人々 ひとびと は戦闘 せんとう ストレス反応 はんのう (シェルショック=砲弾 ほうだん によるショック)という言葉 ことば で表 あらわ した。激 はげ しい砲撃 ほうげき で大 おお きい心理 しんり 的 てき ダメージを受 う けたのが原因 げんいん であり、シェルショックはその体験 たいけん の現 あらわ れだった。
速射 そくしゃ 砲 ほう が用 もち いられたのはこの頃 ころ であり、M1897 75mm野砲 やほう 、18ポンド野砲 やほう 、77mm野砲 やほう などが開発 かいはつ された。特 とく にM1897 75mm野砲 やほう のデザインは、それ以降 いこう の一部 いちぶ の大砲 たいほう にも引 ひ き継 つ がれている。
また当時 とうじ 、特 とく に重要 じゅうよう な箇所 かしょ ではコンクリート 製 せい の地下 ちか に居住 きょじゅう 区 く を持 も つ要塞 ようさい が作 つく られ、遠距離 えんきょり からの砲撃 ほうげき ではそれを破壊 はかい することができなかった。そのため近距離 きんきょり まで肉薄 にくはく し攻略 こうりゃく する必要 ひつよう が生 う まれたが、主力 しゅりょく 部隊 ぶたい を前進 ぜんしん させるには同士討 どうしう ちを避 さ けるため砲撃 ほうげき を停止 ていし させなくてはならず、それは敵 てき 側 がわ としても「相手 あいて の主力 しゅりょく が今 いま から侵攻 しんこう してくる」という合図 あいず になった。守備 しゅび 兵 へい は位置 いち につくと接近 せっきん する敵 てき を機関 きかん 銃 じゅう や砲 ほう で倒 たお すということを繰 く り返 かえ し、その度 たび に攻撃 こうげき 側 がわ は多大 ただい な犠牲 ぎせい を積 つ み上 あ げることになった。その対抗 たいこう 策 さく として装甲 そうこう で守 まも られた砲座 ほうざ や機銃 きじゅう 座 ざ そのものを車両 しゃりょう 化 か して前進 ぜんしん させ、守備 しゅび 側 がわ の迎撃 げいげき に耐 た えつつ銃座 じゅうざ や砲座 ほうざ を近距離 きんきょり から狙 ねら い撃 う ちして無力 むりょく 化 か させるアイデアを各国 かっこく は具現 ぐげん 化 か した。戦車 せんしゃ の誕生 たんじょう である。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でも基本 きほん 的 てき には同様 どうよう の戦法 せんぽう が使 つか われた。太平洋戦争 たいへいようせんそう におけるアメリカ軍 ぐん の「鉄 てつ の嵐 あらし 」と言 い われる苛烈 かれつ な砲撃 ほうげき はその一 いち 例 れい といえる。
前述 ぜんじゅつ した通 とお り第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 式 しき の長 なが い砲撃 ほうげき では事前 じぜん に攻撃 こうげき 地点 ちてん が敵 てき に伝 つた わってしまうという欠点 けってん があり、それを回避 かいひ するため攻撃 こうげき 地点 ちてん に火力 かりょく を集中 しゅうちゅう させ、短時間 たんじかん で多数 たすう の砲弾 ほうだん を送 おく り込 こ むように戦術 せんじゅつ は変化 へんか していった。ここで重要 じゅうよう 視 し されたのは「火力 かりょく の集中 しゅうちゅう 」であり、それは大砲 たいほう の高 こう 火力 かりょく 化 か のみならず、機動 きどう 力 りょく の獲得 かくとく も必要 ひつよう としたのである。これにより大砲 たいほう には車輪 しゃりん が取 と り付 つ けられ、より高速 こうそく な陣地 じんち 転換 てんかん を可能 かのう にした。これには第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 時 じ のフランスの大砲 たいほう をベースに米 べい 軍 ぐん が開発 かいはつ した155mmカノン砲 ほう M2 などがあり、これらは牽引 けんいん 砲 ほう と呼称 こしょう される。
これらの兵器 へいき は「常 つね に変 か わっていく戦況 せんきょう の中 なか でどの様 よう に対応 たいおう していくのか」という問題 もんだい に直面 ちょくめん した。牽引 けんいん 砲 ほう はその名 な の通 とお り牽引 けんいん 車 しゃ で運 はこ ばれていた。その際 さい 車輪 しゃりん が付 つ けられているものは戦場 せんじょう での移動 いどう を簡単 かんたん なものにしたが、目 め まぐるしく変 か わる戦況 せんきょう の中 なか に牽引 けんいん による移動 いどう では限界 げんかい があり、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 当初 とうしょ のドイツなど馬 うま で大砲 たいほう を引 ひ いていたものに関 かん してはより一層 いっそう 致命 ちめい 的 てき な問題 もんだい であった。その解決 かいけつ 策 さく として大砲 たいほう に車体 しゃたい ・エンジンを搭載 とうさい し、牽引 けんいん を必要 ひつよう とせず独力 どくりょく で移動 いどう できるようにした自 じ 走 はし 砲 ほう が開発 かいはつ されたが、こういった大砲 たいほう は戦車 せんしゃ への随伴 ずいはん を可能 かのう にし、機動 きどう 戦 せん に対 たい する適応 てきおう 力 りょく を向上 こうじょう させた。代表 だいひょう 的 てき な第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 期 き の自 じ 走 はし 砲 ほう としてはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のM7自 じ 走 はし 砲 ほう (プリースト)や英国 えいこく のセクストン自 じ 走 はし 砲 ほう などがあり、その自 じ 走 はし 砲 ほう は第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん の頃 ころ には少数 しょうすう ながら登場 とうじょう していた。
また移動 いどう においても陸上 りくじょう を進 すす むだけではなく、空 そら を行 い くことも可能 かのう になった。大砲 たいほう は空輸 くうゆ が可能 かのう となり、敵 てき 地 ち に乗 の り込 こ む空挺 くうてい 部隊 ぶたい で運用 うんよう されるようになった。1944年 ねん のノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん やマーケットガーデン作戦 さくせん を通 とお して、連合 れんごう 軍 ぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい は敵陣 てきじん へと空 そら から降 お り立 た った。輸送 ゆそう 機 き で空挺 くうてい 部隊 ぶたい を空 そら へ運 はこ ぶことが出来 でき るのだから、大砲 たいほう も輸送 ゆそう 機 き で運 はこ べる大 おお きさにすれば良 よ いという発案 はつあん のもと、必要 ひつよう な場所 ばしょ に直接 ちょくせつ 送 おく る方法 ほうほう を採用 さいよう した。6ポンド砲 ほう 、17ポンド砲 ほう 、40mm対空 たいくう 機関 きかん 砲 ほう 、更 さら に75mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう も送 おく った。これらの大砲 たいほう は敵 てき 地 ち で孤立 こりつ している空挺 くうてい 部隊 ぶたい にとって心強 こころづよ い味方 みかた となった。敵 てき に囲 かこ まれた空挺 くうてい 部隊 ぶたい の為 ため 、あらゆる種類 しゅるい の大砲 たいほう が必要 ひつよう な場所 ばしょ に送 おく られた。また、少数 しょうすう だが航空機 こうくうき に大砲 たいほう を装着 そうちゃく するようになった。大砲 たいほう の重量 じゅうりょう や反動 はんどう に耐 た えうる、かつ照準 しょうじゅん のための機動 きどう 性 せい を確保 かくほ しうるB-25 や四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き (キ109 )のような中型 ちゅうがた 爆撃 ばくげき 機 き クラスが選 えら ばれることが多 おお かったが、比較的 ひかくてき 軽量 けいりょう の攻撃 こうげき 機 き であるHs 129 に75mm対 たい 戦車 せんしゃ 砲 ほう を搭載 とうさい した例 れい もある。
艦 かん 砲 ほう は海 うみ での戦 たたか いを制 せい するために発達 はったつ してきた。第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん までに海 うみ に浮 う かぶ火力 かりょく として戦艦 せんかん や巡洋艦 じゅんようかん など戦闘 せんとう 艦 かん の火砲 かほう が数々 かずかず の砲弾 ほうだん を発射 はっしゃ し、熾烈 しれつ な砲撃 ほうげき 戦 せん を繰 く り返 かえ していた。海 うみ における戦闘 せんとう は自身 じしん ・標的 ひょうてき 共 とも にに動 うご き続 つづ けており、何 なに もない海洋 かいよう であるがために位置 いち 関係 かんけい が把握 はあく しづらいなど、複雑 ふくざつ な問題 もんだい を抱 かか えており陸 りく での砲撃 ほうげき とはあらゆる面 めん で異 こと なっていた。戦闘 せんとう 艦 かん に巨大 きょだい な大砲 たいほう が取 と り付 つ けられるようになったのは第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん の時期 じき からであり、遥 はる か遠方 えんぽう の敵 てき を見定 みさだ めるため海兵 かいへい たちは高性能 こうせいのう の測定 そくてい 器 き や観測 かんそく 用 よう の航空機 こうくうき を使用 しよう した。高 たか い破壊 はかい 力 りょく をもつ艦 かん 砲 ほう は戦 たたか いの行方 ゆくえ を十分 じゅうぶん 左右 さゆう しえるものであり、大和 やまと 型 がた 戦艦 せんかん の象徴 しょうちょう でもある45口径 こうけい 46cm3連装 れんそう 砲 ほう は、専用 せんよう の運搬船 うんぱんせん 「樫野 かしの 」を建造 けんぞう するほど巨大 きょだい なものとなった。アイオワ級 きゅう 戦艦 せんかん のニュージャージー は、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 期 き の有名 ゆうめい な戦艦 せんかん の一 ひと つである。
一方 いっぽう 陸 りく でも戦闘 せんとう 艦 かん と同様 どうよう に巨大 きょだい な大砲 たいほう が開発 かいはつ された。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ではより大 おお きな火砲 かほう を使 つか えば膠着 こうちゃく 状態 じょうたい を打破 だは できるという思想 しそう のもと鉄道 てつどう を利用 りよう した巨大 きょだい な列車 れっしゃ 砲 ほう が設計 せっけい されたが、ドイツ軍 ぐん が作 つく った当時 とうじ 最大 さいだい の長距離 ちょうきょり 砲 ほう 「パリ砲 ほう 」の効果 こうか はさほどではなく、それよりかはむしろ「恐怖 きょうふ の象徴 しょうちょう 」ともいうべきものだった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でも巨 きょ 砲 ほう は進化 しんか を続 つづ け、アドルフ・ヒトラー とその側近 そっきん たちは政治 せいじ 的 てき 宣伝 せんでん 効果 こうか を重視 じゅうし して巨大 きょだい な火砲 かほう を追求 ついきゅう していった。その極限 きょくげん がクルップK5 80cm列車 れっしゃ 砲 ほう (名称 めいしょう :ドーラ/グスタフ)であり、史上 しじょう 最大 さいだい にして最後 さいご の列車 れっしゃ 砲 ほう となった。
ケサンの戦 たたか い において、友軍 ゆうぐん を支援 しえん するアメリカ陸軍 りくぐん のM107
ベトナム戦争 せんそう でも大砲 たいほう を運 はこ ぶことが望 のぞ まれ、ヘリコプター の開発 かいはつ が進 すす むと、従来 じゅうらい では運搬 うんぱん が困難 こんなん だった場所 ばしょ も運 はこ べるようになった。この時 とき も大砲 たいほう と砲兵 ほうへい のチームが、激戦 げきせん 地 ち で戦 たたか う兵士 へいし たちの支援 しえん 戦闘 せんとう のため、空 そら から降 お り立 た った。ケサンの戦 たたか い においても、正確 せいかく な対 たい 砲兵 ほうへい 射撃 しゃげき を行 おこな い味方 みかた の部隊 ぶたい を守 まも る活躍 かつやく をみせる。敵 てき から味方 みかた を守 まも る「鉄 てつ の壁 かべ 」を作 つく ってくれたのは大砲 たいほう だった。
こういった大砲 たいほう を時 とき に大陸 たいりく を越 こ えてまで戦場 せんじょう へ輸送 ゆそう 出来 でき るか否 ひ かは、今日 きょう の戦闘 せんとう においても勝敗 しょうはい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた える。こうしたニーズから、プリミティブな形態 けいたい の牽引 けんいん 砲 ほう もM777 155mm榴弾 りゅうだん 砲 ほう のように最新 さいしん 技術 ぎじゅつ を駆使 くし してより軽量 けいりょう な砲 ほう を開発 かいはつ する試 こころ みがたゆまず続 つづ けられている。また、戦闘 せんとう 機 き や中距離 ちゅうきょり 以上 いじょう の対空 たいくう ミサイルを持 も たない敵対 てきたい 勢力 せいりょく 相手 あいて に限定 げんてい されるものの、長大 ちょうだい な滞空 たいくう 時間 じかん により低 てい コストで持続 じぞく 的 てき な対地 たいち 支援 しえん を行 おこな いうる、特 とく にゲリラ 掃討 そうとう 戦 せん に向 む いた航空 こうくう 攻撃 こうげき 手段 しゅだん として、大砲 たいほう を備 そな える航空機 こうくうき 、ガンシップ が一定 いってい の価値 かち を認 みと められた。
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 当時 とうじ から、火力 かりょく 投射 とうしゃ 手段 しゅだん としてあまりにも肥大 ひだい 化 か し過 す ぎた巨 きょ 砲 ほう は、急激 きゅうげき に発展 はってん した航空機 こうくうき による爆 ばく 撃 げき (空爆 くうばく )により淘汰 とうた されていった。加 くわ えて、大戦 たいせん 末期 まっき に萌芽 ほうが が現 あらわ れたミサイル が大砲 たいほう の領分 りょうぶん に進出 しんしゅつ してくる。大砲 たいほう が口径 こうけい に比例 ひれい して甚 はなは だしく増大 ぞうだい する重量 じゅうりょう と射撃 しゃげき 時 じ の反動 はんどう に耐 た える必要 ひつよう があるのに比 くら べ、ミサイルを含 ふく むロケット兵器 へいき は歩兵 ほへい 携行 けいこう あるいはトラック など、はるかに軽便 けいべん な発射 はっしゃ 母体 ぼたい から運用 うんよう 可能 かのう であること、何 なに より射撃 しゃげき 後 ご に誘導 ゆうどう 修正 しゅうせい することによる長 ちょう 射程 しゃてい と高 たか い命中 めいちゅう 精度 せいど のメリットがある。列車 れっしゃ 砲 ほう 、戦艦 せんかん 主砲 しゅほう から対 たい 艦 かん ミサイル 、対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう から対戦 たいせん 車 しゃ ミサイル のように、完全 かんぜん にミサイルに駆逐 くちく されて土台 どだい となる兵器 へいき ごと消滅 しょうめつ してしまった例 れい もある。冷戦 れいせん 中期 ちゅうき までに弾道 だんどう ミサイル や巡航 じゅんこう ミサイル は大陸 たいりく レベルの射程 しゃてい を誇 ほこ り大砲 たいほう の次元 じげん をはるかに超 こ えた兵器 へいき へと進化 しんか を遂 と げた。
戦闘 せんとう 機 き から機関 きかん 砲 ほう を撤廃 てっぱい したり、ミサイル戦車 せんしゃ あるいは戦車 せんしゃ 不要 ふよう 論 ろん が喧伝 けんでん されたこともあった(ミサイル万能 ばんのう 論 ろん )。しかしその後 ご の戦 せん 訓 くん により、地形 ちけい 等 とう の理由 りゆう によりミサイルは常 つね に射程 しゃてい の長 なが さを活 かつ かせるとは限 かぎ らない、威力 いりょく 射程 しゃてい が同 どう 程度 ていど の砲弾 ほうだん に比 くら べ高価 こうか な上 うえ に大 おお きくかさばるため戦闘 せんとう で携行 けいこう 可能 かのう な弾 たま 数 すう でも兵站 へいたん レベルでの補給 ほきゅう 可能 かのう 量 りょう においても継 つぎ 戦 せん 能力 のうりょく が劣 おと る、砲 ほう のように標的 ひょうてき の性質 せいしつ に応 おう じて弾 たま 種 しゅ を選択 せんたく できない、砲弾 ほうだん よりずっと初速 しょそく が遅 おそ く母 はは 機 き から誘導 ゆうどう し続 つづ けなければならない場合 ばあい があり特 とく に近距離 きんきょり 戦 せん で重要 じゅうよう な即時 そくじ 性 せい を欠 か く。
航空 こうくう 爆 ばく 弾 だん も航空機 こうくうき の高 こう コストと滞空 たいくう 時間 じかん の限界 げんかい から一過 いっか 性 せい に留 と まり大砲 たいほう の遍在 へんざい 性 せい と即応 そくおう 性 せい を具備 ぐび し得 え ないことなどの問題 もんだい が明 あき らかとなり、21世紀 せいき 現在 げんざい に到 いた っても砲 ほう はミサイルや航空 こうくう 爆 ばく 弾 だん と各々 おのおの 異 こと なる価値 かち を持 も つ兵器 へいき として共存 きょうぞん し続 つづ けている。ガンランチャー や誘導 ゆうどう 砲弾 ほうだん など、砲 ほう とミサイルの美点 びてん を融合 ゆうごう させる試 こころ みも実用 じつよう 段階 だんかい に達 たっ してきている。
また、中世 ちゅうせい 以来 いらい の火薬 かやく 力 りょく による砲 ほう から、電気 でんき 的 てき エネルギー(ローレンツ力 つとむ )を利用 りよう するレールガン など、まったく新 あら たな射出 しゃしゅつ 原理 げんり に基 もと づく砲 ほう の研究 けんきゅう 開発 かいはつ も続 つづ けられている。
幕末 ばくまつ 期 き 、外国 がいこく 勢 ぜい を迎 むか え撃 う つために、品川 しながわ 台場 だいば に設置 せっち されていた80ポンド青銅 せいどう 製 せい カノン砲 ほう (口径 こうけい 250mm、砲身 ほうしん 長 ちょう 3830mm)
1576年 ねん (天正 てんしょう 4年 ねん )、大友 おおとも 宗麟 そうりん がポルトガル の宣教師 せんきょうし より石火矢 いしびや (フランキ砲 ほう )を入手 にゅうしゅ し「国 くに 崩 くず し」と名付 なづ けたのが日本 にっぽん における最初 さいしょ の大砲 たいほう とされる[ 注 ちゅう 2] 。以後 いご 、石火矢 いしびや は火縄銃 ひなわじゅう を大型 おおがた 化 か した大筒 おおづつ (大 だい 鉄砲 てっぽう )と共 とも に海戦 かいせん ・攻 おさむ 城 しろ 戦 せん において構造 こうぞう 物 ぶつ 破壊 はかい に用 もち いられる。なお日本 にっぽん では快速 かいそく 機動 きどう の重視 じゅうし や起伏 きふく の多 おお い地形 ちけい の為 ため 、重量 じゅうりょう がかさばる大砲 たいほう の野戦 やせん における運用 うんよう は殆 ほとん どなされていない。
日本 にっぽん では1590年代 ねんだい から大砲 たいほう 生産 せいさん が盛 さか んになり、1614年 ねん (慶長 けいちょう 19年 ねん )には大坂 おおさか の陣 じん に備 そな えて、徳川 とくがわ 家康 いえやす はイギリス やオランダ より大 だい 口径 こうけい の前 ぜん 装 そう 式 しき 青銅 せいどう 砲 ほう (カルバリン砲 ほう 等 ひとし )を購入 こうにゅう している。これらは後 のち に国産 こくさん 化 か され、和製 わせい 大砲 たいほう となる[ 8] 。
1639年 ねん (寛永 かんえい 16年 ねん )には江戸 えど 幕府 ばくふ が前年 ぜんねん の島原 しまばら の乱 らん における戦 せん 訓 くん から、榴弾 りゅうだん とそれを運用 うんよう する臼砲 きゅうほう の供与 きょうよ をオランダ商館 しょうかん に求 もと める。ハンス・ヴォルフガング・ブラウン が平戸 ひらど で臼砲 きゅうほう を製造 せいぞう して江戸 えど にて試射 ししゃ を行 おこな っている。1650年 ねん (慶安 けいあん 3年 ねん )にもユリアン・スヘーデル による臼砲 きゅうほう 射撃 しゃげき が江戸 えど で行 おこ なわれている。
これ以降 いこう 、日本 にっぽん では大 だい 規模 きぼ な戦乱 せんらん がなくなり、大砲 たいほう の発展 はってん も停滞 ていたい する。
1841年 ねん には高島 たかしま 秋帆 しゅうはん が徳丸 とくまる ヶ原 ばら (現 げん 高島平 たかしまだいら )で日本 にっぽん 最初 さいしょ の近代 きんだい 砲術 ほうじゅつ 訓練 くんれん を行 おこな い、西洋 せいよう 式 しき の大砲 たいほう と和製 わせい 大砲 たいほう の技術 ぎじゅつ 差 さ を露呈 ろてい した。1850年代 ねんだい に次々 つぎつぎ と外国 がいこく 軍艦 ぐんかん が来航 らいこう し、国防 こくぼう のため江戸 えど 幕府 ばくふ は寺 てら の梵鐘 ぼんしょう を溶 と かして大砲 たいほう を鋳造 ちゅうぞう するよう命 めい じる毀鐘鋳 かねい 砲 ほう の勅諚 ちょくじょう を発令 はつれい 。諸 しょ 藩 はん は韮山 にらやま 反射 はんしゃ 炉 ろ 等 ひとし の反射 はんしゃ 炉 ろ を建設 けんせつ して大砲 たいほう を鋳造 ちゅうぞう するなど新 しん 技術 ぎじゅつ の導入 どうにゅう に力 ちから を入 い れたが、1862年 ねん の薩英戦争 せんそう や1864年 ねん の下関 しものせき 戦争 せんそう で欧米 おうべい との技術 ぎじゅつ 差 さ は実戦 じっせん により明 あき らかとなる。特 とく に下関 しものせき 戦争 せんそう では、長州 ちょうしゅう 藩 はん の日本 にっぽん 製 せい 32ポンド砲 ほう などによる砲台 ほうだい は四国 しこく 艦隊 かんたい の艦載 かんさい 110ポンドアームストロング砲 ほう などにまったく太刀打 たちう ちできず敗北 はいぼく した。
これらの戦闘 せんとう の後 のち 、薩摩 さつま 藩 はん や長州 ちょうしゅう 藩 はん は主 おも にイギリスから兵器 へいき の輸入 ゆにゅう を進 すす める一方 いっぽう 、幕府 ばくふ もフランスの援助 えんじょ を受 う けて軍 ぐん の近代 きんだい 化 か を進 すす めた結果 けっか 、両者 りょうしゃ が衝突 しょうとつ した第 だい 二 に 次 じ 長州 ちょうしゅう 征伐 せいばつ や戊辰戦争 ぼしんせんそう では各地 かくち で近代 きんだい 的 てき な大砲 たいほう による野戦 やせん や攻 おさむ 城 しろ 戦 せん が繰 く り広 ひろ げられた。フランスで開発 かいはつ された四 よん 斤 きん 山砲 さんぽう は第 だい 二 に 次 じ 長州 ちょうしゅう 征伐 せいばつ で幕府 ばくふ 軍 ぐん が使用 しよう して以降 いこう 、輸入 ゆにゅう やコピーが進 すす み、一連 いちれん の戦争 せんそう を通 つう じて両者 りょうしゃ の主力 しゅりょく 野戦 やせん 砲 ほう となった。この頃 ころ には諸 しょ 藩 はん の技術 ぎじゅつ も向上 こうじょう し、上野 うえの 戦争 せんそう では新 しん 政府 せいふ 側 がわ の佐賀 さが 藩 はん が製造 せいぞう したアームストロング砲 ほう が投入 とうにゅう され、会津 あいづ 戦争 せんそう では新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん が焼玉 やきだま 式 しき 焼夷弾 しょういだん を会津若松 あいづわかまつ 城 じょう 攻撃 こうげき に用 もち いた。旧 きゅう 幕府 ばくふ 方 かた の長岡 ながおか 藩 はん も北越 ほくえつ 戦争 せんそう でアームストロング砲 ほう やガトリング砲 ほう を使用 しよう して新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん を苦 くる しめている。
明治維新 めいじいしん 後 こう は大砲 たいほう の国産 こくさん 化 か が進 すす んだ。(大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 兵器 へいき 一覧 いちらん #火砲 かほう ・投擲 とうてき 器 き を参照 さんしょう )
火薬 かやく 、およびその燃焼 ねんしょう ガス圧 あつ により物体 ぶったい を投射 とうしゃ する火器 かき ならびにロケット の概念 がいねん も中国 ちゅうごく 圏 けん で発明 はつめい されたものだが、その後 ご の科学 かがく 技術 ぎじゅつ 発展 はってん は停滞 ていたい し、逆 ぎゃく に西洋 せいよう 側 がわ からの知見 ちけん や現物 げんぶつ の輸入 ゆにゅう に頼 たよ るようになった。
中国 ちゅうごく における西洋 せいよう 式 しき 大砲 たいほう の輸入 ゆにゅう は15世紀 せいき 初 はじ め、明 あきら の成 なり 祖 そ の交趾征伐 せいばつ 時 じ であり、ポルトガルから輸入 ゆにゅう した「紅 べに 夷 えびす 砲 ほう 」が後金 あときん に対 たい して使用 しよう された。明 あかり では「神 かみ 機 き 砲 ほう 」と呼 よ び、「神 かみ 機 き 営」という砲兵 ほうへい 隊 たい が設 もう けられたが、主 おも に爆音 ばくおん で相手 あいて を驚 おどろ かせる用途 ようと で、あまり改良 かいりょう はされなかった。その後 ご 、1621年 ねん にポルトガル宣教師 せんきょうし を火砲 かほう に従軍 じゅうぐん させたり、ドイツ宣教師 せんきょうし が砲術 ほうじゅつ を伝 つた えたが、中国人 ちゅうごくじん は製造 せいぞう ・砲術 ほうじゅつ の基礎 きそ となる自然 しぜん 科学 かがく 精神 せいしん の理解 りかい が乏 とぼ しかったため、火砲 かほう を中心 ちゅうしん とした近代 きんだい 攻 おさむ 城 しろ 戦 せん ・野戦 やせん の戦術 せんじゅつ を採用 さいよう する姿勢 しせい がなく、製造 せいぞう した大砲 たいほう に「安国 やすくに 全 ちょん 軍平 ぐんぺい 遼 りょう 靖 やすし 膚 はだ 将軍 しょうぐん 」の号 ごう を与 あた え、あつく祭祀 さいし する有 あ り様 さま だった。