有馬 晴信
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鎮純、鎮貴、 | |
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ドン・プロタジオ[3][ | |
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生涯
この
系譜
有馬 義 純 の娘 ー洗礼 名 ドナ・ルチア、?-文 禄 2年 (『国 乗 遺文 』)或 いは慶長 2年 (『イエズス会 日本 報告 集 』)、朝鮮 にて没 [注釈 4](正室 )中山 親 綱 の娘 ー菊亭 季 持 の未亡人 (1577年 -?、洗礼 名 ジュスタ)[注釈 5](継室 )
有馬 直純 (長男 )生母 は大上 (側室 )有馬 純 貞 ー右 京 亮 ・高麗 曹司 (次男 )生母 は荒木 氏 (側室 )富 蘭 [注釈 7]、生母 は継室 - 於松[
注釈 7]生母 は継室 近江 実 尊 、近衛 家 猶子 [注釈 8]娘 ー嫁 す(嫡女)生母 は正室 娘 ー酒井 摂津 守 室 (次女 )生母 は大上 (側室 )娘 ー菊亭 季 持 のち有馬 重 経 室 (三 女 )生母 は荒木 氏 (側室 )娘 ー有馬 純忠 室 (四 女 )生母 は荒木 氏 (側室 )娘 ー甲州 地 侍 ・有賀 善左衛門 室 )(五 女 )生母 は継室 娘 ー西郷 純 経 室 、生母 は大上 (側室 )
逸話
南蛮 貿易 に熱心 であり、朱印船 派遣 の回数 は、大名 の中 では島津 氏 ・松浦 氏 とならび、九州 大名 の中 でも最多 であった。有馬 氏 の領内 は龍造寺 氏 の侵攻 によってたびたび戦火 にさらされ、国人 衆 らの反乱 も相次 いだため、決 して肥沃 な土地 ではなかったが、南蛮 貿易 により多大 な利益 を上 げており、またそれによって多 くの宣教師 ・キリシタンの協力 も得 ており、沖田 畷 の戦 いでも大量 の鉄砲 ・兵糧 の援助 を受 けている。宣教師 ジョアン・ロドリーゲスの要求 により、領民 から「進物 即 ち少年 少女 達 」を徴集 し、ゴアに本拠 を置 くポルトガル領 インドの副 王 に奴隷 として送 ろうとした。このため「有馬 の地 全土 が苦悩 におおわれ」「錯乱 した人々 は、子供 たちをつれてしげみに逃 れた。」といわれている[28]。熱心 なキリシタンであったため、秀吉 ・家康 によってキリスト教 が禁止 ・処罰 されるようになっても領内 に多数 のキリシタンをかくまった。嫡男 の直純 が家康 の養女 (松平 信康 の孫娘 で家康 にとって曾孫 )を妻 としていたためや、南蛮 貿易 で莫大 な利 を得 て幕府 に貢献 していたため、有馬 領 内 はそれほど厳 しく監察 されなかったようで、領内 へは多 くの隠 れキリシタンが集 まった。しかし、岡本 大八 事件 で事件 の当事 者 である晴信 と大八 がキリシタンであったことから、有馬 氏 は所領 代 えとなり、旧 有馬 領 内 ではキリシタンへの弾圧 がはじまり、これが島原 の乱 の遠因 となっていったとされる。若 いころから積極 的 に数々 の戦 いにおいて活躍 し、島原 藩 の礎 を築 いたことで一定 の功 はあるが、信仰 に熱心 なあまり、破壊 した寺社 の資材 でキリスト教育 施設 を領内 に作 らせるなどの逸話 も残 っている。
関連 史跡
近在 の甲州 市 大和 町 木賊 に所在 する栖雲寺 には「晴 信生 前 の姿 を映 した」と伝 えられる「虚空蔵菩薩 画像 」と呼 ばれる掛軸 が現存 しているが、仏像 であるとの伝承 にもかかわらず、左手 に十字架 状 のものを捧 げており、実際 は人物 像 だった可能 性 も高 いともされる[29]。ただし、絵 は中国 ・元 代 仏画 の特徴 を表 しており、元 の時代 に江南 地方 で流布 されていたネストリウス派 キリスト教 (景 教 )の聖 像 とする説 や、マニ教 の教主 像 とする説 などがある。
脚注
注釈
- ^ a b c
尚 、「鎮」の字 は近隣 の強大 勢力 で同 じくキリシタン大名 でもある大友 義鎮 (宗麟 )から偏 諱 を賜 ったものであり、弟 とされる波多 鎮も賜 っている[2]。 - ^
後 に「ドン・ジョアン」と改名 したという説 もある[4]。 - ^
有馬 氏 の正統 系図 である『藤原 有馬 世 譜 』では「安富 入 道徳 円 女 」とする。 - ^ 『
藤原 有馬 世 譜 』に記載 無 - ^
菊亭 晴 季 の娘 という説 もあり(『藤原 有馬 世 譜 』など)。 - ^
元々 は直純 の乳母 だったという[26]。 - ^ a b
慶長 18年 (1613年 )イエズス会 年報 によれば、さらに嫌疑 がかかるのを恐 れた直純 が異母弟 2人 を殺 したという記述 があり、またイエズス会 関係 史料 から晴 信 には「フランシスコ」「マチアス」という息子 がいたことが確認 できることから、名前 の類似 した「富 蘭 (ふらん)」「於松(おまつ)」はこの殺害 された男子 であると推測 される[27][要 ページ番号 ]。 - ^ 『
藤原 有馬 世 譜 』にのみ記載 あり
出典
- ^ a b c
外山 1997, p. 65 - ^ a b
外山 1997, pp. 65–66. - ^ a b
外山 1997, p. 66 - ^
結城 了 悟 『キリシタンになった大名 』キリシタン文化 研究 会 、1986年 。 - ^
外山 1997, p. 56. - ^ グスマン, p. 823.
- ^
外山 1997, p. 69. - ^
外山 1997, p. 70. - ^
上田 正 昭 、津田 秀夫 、永原 慶 二 、藤井 松一 、藤原 彰 、『コンサイス日本人 名 辞典 第 5版 』、株式会社 三省堂 、2009年 64頁 。 - ^
外山 1997, pp. 64–65. - ^
外山 1997, p. 74. - ^
外山 1997, pp. 65, 245–248. - ^
外山 1997, p. 68. - ^
外山 1997, p. 66. - ^ 『
十 六 ・七 世紀 イエズス会 日本 報告 書 』p268.同朋 舎 . (1998年 ) - ^ 『フロイス
日本 史 』10巻 p340.中央公論社 . (1980年 ) - ^
外山 1997, p. 255. - ^
外山 1997, p. 256. - ^
外山 1997, p. 262. - ^
台湾 総督 府 博物館 ,岩 生成 一 「有馬 晴信 の台湾 視察 船 派遣 」. - ^
外山 1997, p. 268. - ^
外山 1997, p. 285. - ^
外山 1997, p. 286. - ^
外山 1997, p. 287. - ^
外山 1997, p. 291. - ^
外山 1997, p. [要 ページ番号 ]. - ^
外山 1997. - ^
神田 千里 『島原 の乱 ―キリシタン信仰 と武装 蜂起 ―』中央公論 新 社 、2005年 、81-82頁 。 - ^
外山 1997,当該 仏画 の写真 も所収 されている.
参考 文献
台湾 総督 府 博物館 編 『創立 三 十 年 論 文集 』1939年 。安野 真幸 「中世 都市 長崎 の研究 」『日本 歴史 』310号 、1974年 。清水 鉱 一 「有馬 晴信 考 (一 )―終焉 地 ―」『キリシタン文化 研究 会 々報 』20~23合併 号 、1979年 。結城 了 悟 「日 野江 城 のキリシタン大名 」『史跡 日 野江 城 』1981年 。根井 浄 「キリシタン伝来 と有馬 ・島原 地方 の寺院 」『日本 歴史 』427号 、1983年 。外山 幹夫 『肥前 ・有馬 一族 』新人物往来社 、1997年 。ISBN 4404025025。外山 幹夫 「肥前 国 高来 郡 深江 村 地頭 安富 氏 をめぐる二 、三 の問題 」『長崎 談 叢 』49輯、1970年 。外山 幹夫 「有馬 氏 と日 野江 城 」『史跡 日 野江 城 』1981年 。外山 幹夫 「有馬 氏 の領国 支配 」『長崎大学 教育 学部 社会 科学 論叢 』49号 、1995年 。- ルイス・デ・グスマン
著 、新井 トシ訳 『グスマン東方 伝道 史 』下巻 、養 徳 社 、1986年 、823頁 。 - ルイス・フロイス『フロイス
日本 史 』10巻 、松田 毅一 ・川崎 桃 太 訳 、中央公論社 、1979~1980年 、340頁 。 松田 毅一 監訳 『十 六 ・七 世紀 イエズス会 日本 報告 書 』第 Ⅲ期 第 6巻 、同朋 舎 、1998年 。宮本 次 人 『ドン・ジョアン有馬 晴信 』海鳥 社 、2013年 。ISBN 978-4-87415-867-8。清水 鉱 一 「有馬 晴信 」『キリシタン大名 布教 ・政策 ・信仰 の実相 』宮 帯 出版 社 、2017年 、193‐211頁 。 ISBN 9784801600188 。