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アイヌ地名ちめい

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
旭川あさひかわながれる牛朱別川うししゅべつがわ(うししゅべつがわ)の鹿島かしまきょう提示ていじされた河川かせんめいしるべ。アイヌのウシㇱ・ペッ(蹄のかわ)に由来ゆらい
北海道ほっかいどう釧路くしろぐん釧路くしろまちろうしゃまい(おしゃまっぷ)集落しゅうらくくち提示ていじされた標識ひょうしき。アイヌのオ・イチャン・オマㇷ゚(川尻かわじりさけます産卵さんらん場所ばしょがあるもの)に由来ゆらい[1]左下ひだりしたの「かたがく」(ちっぽまない)は、チㇷ゚・オマ・ナイ(ふねのあるかわ)、あるいはチェㇷ゚・オマ・ナイ(うおかわ)に由来ゆらいする地名ちめい[1]釧路くしろまちはアイヌ由来ゆらい難読なんどく地名ちめいおおまちとして有名ゆうめいである
宗谷本線そうやほんせん比布ぴっぷ(ぴっぷ)えきめいしるべ(2017ねん10がつ)。アイヌのピピペッ(いしのごろごろしているかわ)、あるいはピオㇷ゚(いしおおいもの)に由来ゆらい[2]

アイヌ地名ちめい(アイヌごちめい)とは、アイヌ由来ゆらいする地名ちめいのこと。また狭義きょうぎには、そのなかでもアイヌ復元ふくげんされた地名ちめいすこともある[3]

アイヌ地名ちめいは、アイヌやアイヌけい話者わしゃがその土地とち活動かつどうしていた記録きろくでもある。その分布ぶんぷ離島りとうふく北海道ほっかいどううち全域ぜんいき中心ちゅうしんとし、東北とうほく地方ちほう北部ほくぶなど本州ほんしゅうにもみられる。また、カムチャツカ半島はんとうサハリン千島ちしま列島れっとうにも存在そんざいするが、ロシアしき地名ちめいえられてすくなくなっている[4][3]北海道ほっかいどうのアイヌ地名ちめい明治めいじ時代じだい中頃なかごろまでカタカナ表記ひょうきおおかったが[5]、のちに無理むり漢字かんじてられたために難読なんどく地名ちめいおお[6]。また、日本語にほんごにない発音はつおんへの訛音かおんによりアイヌ本来ほんらい意味いみがわからなくなってしまったものもすくなくない[3][7]

語源ごげん生活せいかつ根差ねざした自然しぜん地名ちめいおおく、それゆえ方言ほうげん文化ぶんか慣習かんしゅうちがいに起因きいんする地方ちほう存在そんざいする[3]同時どうじにアイヌ地名ちめいはアイヌによる土地とち説明せつめいであり、アイヌがその場所ばしょをどのようにとらえていたかをることでアイヌ文化ぶんか解明かいめいする手掛てがかりにもなる[3][4]。こうした経緯けいいからアイヌ地名ちめいはアイヌのアイデンティティにかかわるものととらえられ[8][3]、2001ねんには北海道ほっかいどう遺産いさん選定せんていされた[9]。それととも北海道ほっかいどうでは、漢字かんじ表記ひょうきされたアイヌ地名ちめいにアイヌのカタカナ表記ひょうきマ字まじ表記ひょうきなみしるされることもおおくなっている[3][7]

分類ぶんるい

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広義こうぎのアイヌ地名ちめいは、アイヌ・アイヌ文化ぶんかとの関連かんれんせいにより3つに分類ぶんるいされる。

①アイヌ地名ちめい

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1つはアイヌによる完全かんぜんなアイヌでの地名ちめいで、アイヌ地名ちめいばれる。アイヌ地名ちめいもっと原始げんしてきなアイヌ地名ちめいであり、アイヌがアイヌ場所ばしょ表現ひょうげんしたものである。地形ちけい生業せいぎょう先祖せんぞ信仰しんこうなどのアイヌ文化ぶんか関連かんれんし、アイヌ文化ぶんかとアイヌ存続そんぞくするかぎおな表現ひょうげんとなるが、記録きろくされずにうしなわれた場合ばあい後世こうせいつたわらない[3]

日本語にほんごなまったアイヌ地名ちめい

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2つ日本語にほんごなまったアイヌ地名ちめいである。アイヌによる通称つうしょうとしてアイヌきていておりアイヌ由来ゆらい説明せつめい可能かのうなものだが、場所ばしょ変形へんけい由来ゆらい記憶きおくする人物じんぶつ死去しきょなどによりアイヌ文化ぶんかとの関連かんれんせいうしなわれていくものである[3]

③アイヌけい地名ちめい

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3つ漢字かんじ表記ひょうきなどによりもとのアイヌ推測すいそくできず、すでにアイヌ文化ぶんかはなれてしまった地名ちめいで、アイヌけい地名ちめいばれる。アイヌ由来ゆらいすることさえわからないものや本州ほんしゅうのアイヌ地名ちめいもこれにふくまれる[3]

語源ごげん

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アイヌによる土地とち

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ギョウジャニンニク(アイヌめい:キトピロ、もしくはプクサ)は、アイヌが食用しょくよう呪術じゅじゅつようとして重要じゅうようした山菜さんさいである。そのため北海道ほっかいどうない各地かくちに「喜登牛きとうし」「らいとめ」「おにうし」など、アイヌのキト・ウㇱ(ギョウジャニンニクのあるところ)に由来ゆらいする地名ちめいがある[10]

アイヌは、地形ちけい地形ちけいにまつわる神話しんわ生業せいぎょうにおける役割やくわり信仰しんこうなどにかかわる名称めいしょうでその土地とちんでいた。また、一般いっぱんてき意味いみでの「地名ちめい」はある程度ていどひろがりをつが、アイヌによる土地とち特定とくてい地点ちてんにピンポイントであたえられるものであり、おな地点ちてん複数ふくすう名称めいしょうくこともある[3]

語源ごげん地形ちけい植生しょくせいかかわるものがおおいが、生業せいぎょう関連かんれんする交通こうつう狩猟しゅりょう採集さいしゅう、あるいは自然しぜん現象げんしょう伝説でんせつ信仰しんこうなど表面ひょうめんてきえにくいものに由来ゆらいするものもあり、その理解りかいにはアイヌ文化ぶんかとアイヌ知識ちしき不可欠ふかけつである[3][4]たとえば、知里ちり真志保ましほによるとアイヌはかわ生物せいぶつとらえていたため、水源すいげんを「かわあたまアイヌ: ぺッ・キタィ/pét-kitay)」、かわ合流ごうりゅうてんを「っているかわアイヌ: ウと゚マㇺ・ぺッ/u-túmam-pet)」、ふるかわを「んだかわアイヌ: らィ・ぺッ/ráy-pet)」などの独特どくとく表現ひょうげんをもちいてんだ[4]音威子府おといねっぷ(おといねっぷ、アイヌのオ・トイネㇷ゚=川尻かわじりよごれたもの(かわ[11])、長都おさつ(おさつ、アイヌのオ・サッ・ナイ=川尻かわじりかわかわ[12])、帯広おびひろ(おびひろ、アイヌのオペㇾペㇾケㇷ゚=川尻かわじりけにけるもの[13])など、アイヌで「川尻かわじり」を意味いみする「オ」のかたり由来ゆらいする地名ちめい北海道ほっかいどう各地かくち存在そんざいする。「オ」のかたり本来ほんらい陰部いんぶ」をし、「川下かわしも川尻かわじり」を人体じんたい陰部いんぶたとえての命名めいめいである[14]

地形ちけい関連かんれんする土地とち名称めいしょうは「かわアイヌ: ぺッ または ナイ)」が圧倒的あっとうてきおおく、に「やまアイヌ: ヌプリ または シㇼ または イワ)」や「みずうみアイヌ: )」などがあり、それに「だいアイヌ: ポロ、シ)」「しょうアイヌ: ポン、モ)」などの修辞しゅうじくこともおおい。とくにやまみさき、あるいは通行つうこう危険きけんのある激流げきりゅうがけには「かみアイヌ: カムイ)」がくことがおおく、そうした場所ばしょをアイヌは神聖しんせい場所ばしょ、あるいは人間にんげん翻弄ほんろうする魔神まじん場所ばしょとらえていた(旭川あさひかわ郊外こうがい石狩川いしかりがわ激流げきりゅう地帯ちたいである神居かむい古潭こたんなど)[15]。また、うつくしさなどの抽象ちゅうしょうてき表現ひょうげんはなく、土地とちしも「みずめるか」「通行つうこう危険きけんがないか」などの直接的ちょくせつてき評価ひょうかであることがおお[3]植苗うえなえ(うえなえ)、雨煙別うえんべつ(うえんべつ)、遠別えんべつ(えんべつ)などアイヌで「このましくない、わるい」を意味いみする「ウェン/wen」に由来ゆらいする地名ちめい北海道ほっかいどう各地かくちにある。だが具体ぐたいてきなにが「わるい」のかはわすれられている[16]

生業せいぎょう関連かんれんする土地とち名称めいしょうは「くさ何時いつるところ(アイヌ: キナ・チャ・ウㇱ)」「丸太まるたぶねさわアイヌ: チㇷ゚・タ・ウㇱ・ナイ)」などの適材てきざいれる場所ばしょや、「ギョウジャニンニク群生ぐんせいするところ(アイヌ: キト・ウㇱ)」「カラスガイ群生ぐんせいするところ(アイヌ: ピパ・オ・イ)、現在げんざい美唄びばい(びばい)など」など狩猟しゅりょう採集さいしゅうかかわる場所ばしょなどがある[3]

そのには、交通こうつう関連かんれんするとうげ意味いみする「みちくださわアイヌ: ルペㇱペ)、現在げんざい留辺蘂るべしべなど」や、信仰しんこう関連かんれんする狩猟しゅりょうかみいのりをささげる場所ばしょ意味いみする「えだづけぬさがある場所ばしょアイヌ: ハシナウㇱ)」などがある[3]

アイヌ文化ぶんか圏内けんないにおける差異さい

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近世きんせいにおける、アイヌ話者わしゃ分布ぶんぷいき
アイヌ由来ゆらい地名ちめい

気候きこう植生しょくせいによる差異さい

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アイヌモシㇼ(アイヌ文化ぶんかけん)は北海道ほっかいどうとう中心ちゅうしんとしてきた樺太からふととうみなみ半分はんぶんひがし千島ちしま列島れっとう全域ぜんいきカムチャツカ半島はんとう南端なんたんみなみ本州ほんしゅうとう北部ほくぶ広大こうだい面積めんせきおよび、気候きこう動植物どうしょくぶつ分布ぶんぷ領域りょういきない差異さいおおきい。住民じゅうみん生活せいかつスタイルは気候きこう付近ふきんられる動植物どうしょくぶつなど天然てんねん資源しげんそくしたものとなり。かれらが重視じゅうし地名ちめいとして命名めいめいする事象じしょうことなる。たとえば北海道ほっかいどうアイヌ民族みんぞく衣装いしょうアットゥシオヒョウ樹皮じゅひから精製せいせいした繊維せんいられるため、素材そざいのオヒョウ(アイヌでアッニ/at-ni)は重要じゅうようされ、北海道ほっかいどう各地かくち厚床あっとこ(あっとこ at-tuk-to、オヒョウがびるぬま[17])、あつけいうすない(あっかるうしない at-kar-ush-i、オヒョウのかわをいつもるもの[18])など、アイヌで「アッ/at」とばれるオヒョウの樹皮じゅひにちなんだ地名ちめいがある。だが広葉樹こうようじゅのオヒョウは樺太からふと以北いほくには自生じせいしないため、樺太からふとアイヌイラクサ樺太からふとアイヌでハイ/hay)の繊維せんいった着物きもの「レタㇻペ」を[19]。さらに千島ちしま列島れっとう北部ほくぶには広葉樹こうようじゅ大半たいはん生育せいいくしないので樹林じゅりんにちなんだ地名ちめい存在そんざいしない。千島ちしまアイヌは、海獣かいじゅう海鳥うみどりかわ素材そざいとした衣装いしょうをまとい、地名ちめいも「トッカリ(アザラシ)のおおくいるところ」や「ちいさいかもおおくいるところ」など海獣かいじゅう海鳥うみどり生息せいそく場所ばしょしたものがおお[20]

方言ほうげんによる差異さい

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アイヌおおまかにけて北海道ほっかいどうアイヌ樺太からふとアイヌ千島ちしまアイヌがあり、その内部ないぶでもこまかな差異さいがある。そのため意味いみおなじでも発音はつおんことなる場合ばあいがある。たとえば「なつむら」は北海道ほっかいどうアイヌではサㇰ・コタン[21]だが、樺太からふとアイヌではサㇵ・コタン[22]となる。それぞれ北海道ほっかいどう日本海にほんかい沿岸えんがん積丹しゃこたん(しゃこたん)、樺太からふと西岸せいがんしがらみ(さくたん)の地名ちめい語源ごげんとなっている。そしてアイヌ地名ちめい外来がいらい日本語にほんご)の影響えいきょうける場合ばあいもある。北海道ほっかいどう大半たいはん地域ちいきでは、「温泉おんせん」は日本語にほんごの「」や「くすり」をれ「ユ/yu」、「クスリ/kusuri」とばれる(温根湯おんねゆ温泉おんせん登別のぼりべつクスリサンベツがわなど)[23]。だが北海道ほっかいどう東部とうぶ、さらに千島ちしま列島れっとうでは日本語にほんご影響えいきょうけず、温泉おんせん意味いみする本来ほんらいのアイヌ「セセキ/sesek」がのこされた。知床半島しれとこはんとう瀬石せせき温泉おんせんがそのれいである[24]

またアイヌは、みずからの居住きょじゅう中心ちゅうしんとし方角ほうがく地方ちほう表現ひょうげんした。みなみせんとう居住きょじゅうした北海道ほっかいどうアイヌは、きたせんとうチュㇷ゚カひがし)とんだ。いっぽうできたせんとう居住きょじゅうした千島ちしまアイヌは、みずからの居住きょじゅうルートㇺみちなかあいだ)とび、それよりもひがしのカムチャツカ半島はんとうチュㇷ゚カ西にしヤワニ内陸ないりくほうにあるところ)とんだ[25]

かわ意味いみする「ペッ」と「ナイ」の差異さい

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ナイ (nay) とペッ (pet) はともに「かわ」を意味いみするアイヌだが、地名ちめいとしての分布ぶんぷ地域ちいきがある。北海道ほっかいどうないでは両者りょうしゃ混在こんざいするが、千島ちしま列島れっとう北部ほくぶはペッのみ、樺太からふとではナイのみになる。この事例じれいについて、知里ちり真志保ましほは『地名ちめいアイヌしょう辞典じてん文中ぶんちゅういて「petが本来ほんらいのアイヌで、nayは外来がいらいかもしれない。かわ朝鮮ちょうせんでナリ、あるいは現代げんだい方言ほうげんでナイとっているのと関係かんけいあるかもしれない」と考察こうさつする[26]

一方いっぽう考古こうこ学者がくしゃ瀬川せかわ拓郎たくろう北海道ほっかいどうくわ東北とうほく地方ちほうのアイヌ地名ちめい考察こうさつし、北海道ほっかいどうのうちペッがおお太平洋たいへいよう沿岸えんがん、その対岸たいがんたる東北とうほく地方ちほう北部ほくぶではペッがおおいこと、北海道ほっかいどう日本海にほんかい沿岸えんがんはナイがおおいこと、そして東北とうほく地方ちほうにおけるぞく縄文じょうもん文化ぶんか進展しんてんから、「『ナイ』はアイヌ古語こご、『ペッ』はアイヌ新語しんごである」とのかんがえから以下いか持論じろん展開てんかいしている。

東北とうほく地方ちほうのアイヌ地名ちめいは、4世紀せいきごろまでにてつ製品せいひんもとめて南下なんかし、土着どちゃくしたぞく縄文じょうもん文化ぶんかじん=アイヌの祖先そせんのこしたものである。当時とうじかれらの言葉ことばかわは『ナイ』だった。その古墳こふん文化ぶんか北上ほくじょうしてぞく縄文じょうもんじんきた後退こうたいするが、ナイの地名ちめいはそのままのこされた。やがて東北とうほく地方ちほう北部ほくぶおさまったかれらのあいだで、『新語しんご』として『ペッ』のかたりまれ、地名ちめいにも命名めいめいされた。6世紀せいきには東北とうほくぞく縄文じょうもんじん北海道ほっかいどう太平洋たいへいようがん撤退てったいし、同地どうちではナイとペッが混在こんざいするようになる。一方いっぽう北海道ほっかいどう日本海にほんかい沿岸えんがん住人じゅうにん古来こらいからのナイのかたり使つかつづけた。当時とうじ北海道ほっかいどうオホーツクかい沿岸えんがんには樺太からふと方面ほうめんから進出しんしゅつした民族みんぞくが「オホーツク文化ぶんか」をいとなんでいた。9世紀せいきごろよりナイを使用しようつづけていた日本海にほんかい沿岸えんがんこすぶん文化ぶんかひとぞく縄文じょうもん文化ぶんかじん子孫しそん)はオホーツクじん同化どうか排除はいじょして樺太からふと進出しんしゅつし、樺太からふと地名ちめいは『ナイ』一辺倒いっぺんとうになる。10世紀せいきから12世紀せいきにかけ、こすぶん文化ぶんか日本にっぽん本土ほんど影響えいきょうけて「アイヌ文化ぶんか」に進化しんかする。どう時期じき、『ペッ』のかたりもちいていた太平洋たいへいよう沿岸えんがんのアイヌは千島ちしま列島れっとう進出しんしゅつし、15世紀せいきいたってきた千島ちしまからカムチャッカ半島はんとうにまで到達とうたつした。当地とうちかわかんする地名ちめいは、かれらがもちいた『ペッ』一辺倒いっぺんとうとなる。その北海道ほっかいどうとうでは各地かくちのアイヌ集団しゅうだん交流こうりゅうともない『ペッ』と『ナイ』が混在こんざいするかたちとなったが、交流こうりゅうから隔絶かくぜつしていた樺太からふとにはナイ、千島ちしま列島れっとうにはペッのみがそれぞれのこされた[27]

いっぽうで八木やぎ光則みつのりは「こうきたC2・Dしき分布ぶんぷとベツけい地名ちめい分布ぶんぷとを比較ひかくすると、つよ相関そうかん関係かんけいみとめられない。」「ぞく縄文じょうもん文化ぶんか濃密のうみつ下北しもきた盛岡もりおかは、とくにアイヌけい濃密のうみつ地域ちいきとなっていない。また、ナィ地域ちいき濃密のうみつ秋田あきたけん南部なんぶではこうきたC2・Dは出土しゅつどしていない。」「ぺツけい地名ちめい形成けいせい時期じきについては縄文じょうもん時代じだい後期こうき十腰内とこしない1しき以降いこう環状かんじょう列石れっせきつくげた地域ちいきとの関係かんけいもっと整合せいごうてきかんがえられる。」「十腰内とこしないからぞく縄文じょうもん後半こうはんのちきたC2・Dの分布ぶんぷ時期じきまで、アイヌけい地名ちめい温存おんぞんされなが年月としつきあいだ定着ていちゃくしていいたものとかんがえられる。」「ナィけい地名ちめいはぺツよりふるいから、縄文じょうもん時代じだい後期こうき以前いぜん形成けいせいされたことになる。」としるし (八木やぎ光則みつのり アイヌけい地名ちめい蝦夷えぞ 古代こだい国家こっか北方ほっぽう世界せかい 小口おぐち雅史まさし どうなりしゃ 2017 p256〜257要約ようやく)また、本州ほんしゅうでの分布ぶんぷから『ペッ』は『ナィ』よりもあたらしい言語げんごだが方言ほうげんのようなもので[28]とも縄文じょうもん時代じだいまでさかのぼるとしている(→#東北とうほく地方ちほうのアイヌ地名ちめい[29]

日本語にほんごによる記録きろく変化へんか

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近代きんだいいたるまでアイヌには文字もじがなかったためアイヌによる土地とち口承こうしょうによってつたえられてきたが、ぜん近代きんだいには民族みんぞくによってさまざまな文字もじ記録きろくされるようになる。なかでも江戸えど時代じだい交易こうえきおこなっていた松前まさきはんをはじめとする和人わじんは、おもかな文字もじをつかって記録きろくした。しかしアイヌには日本語にほんごにない発音はつおんがあるためかな文字もじによる表記ひょうきにも限界げんかいがあり、日本語にほんごなまりや間違まちがいに起因きいんする誤記ごきすくなくない[4][30]

明治めいじ時代じだいになりアイヌの土地とちアイヌ: アイヌモシㇼ)が大日本帝国だいにっぽんていこくまれると、和人わじん役人やくにんによる地名ちめい調査ちょうさおこなわれた。北海道ほっかいどう東部とうぶ豊頃とよころまち礼作別れいさくべつ(れいさくべつ)は、アイヌの案内あんないじんが「レ・サㇰ・ペッ/re-sak-pet」(名無ななしのかわ)と役人やくにんこたえたものが「レーサクペッ」として明治めいじ29ねん地図ちず掲載けいさいされ、やがて漢字かんじがなされた[31]

またアイヌにたいする同化どうか政策せいさくによりアイヌ地名ちめい漢字かんじてられると、音読おんよみから訓読くんよみにわったり一部いちぶ省略しょうりゃくされたりして本来ほんらいのアイヌ発音はつおんからかけはなれることがおおくなった[4][30]たとえば「ちいさいさかアイヌ: モルラン/mo-ruran)」を意味いみした地名ちめいには「室蘭むろらん」のてられ、当初とうしょは「もろらん」とまれたが現在げんざいでは「むろらん」になっている。また「川尻かわじりカバノキがあるかわアイヌ: オタッニオマㇷ゚/o-tatni-oma-p)」を意味いみした地名ちめいには「於尋麻布まふ(おたずねまっぷ)」がてられ、やがてりゃくして「麻布あざぶ(まっぷ)」になり、現在げんざいでは「麻布あざぶ(あざぶ・現在げんざい羅臼らうすまち麻布あざぶまち)」となってアイヌ発音はつおんのこしていない[30]斜里しゃりまちの「朱円しゅえん」はアイヌで「石浜いしはまのこちらがわかわ」を意味いみする「シュマ・トゥカリ・ペッ/suma-tukari-pet」だったが、「えん」を「まどか」とませ「朱円しゅえん」(しゅまどか)とされた。だが難読なんどくであるため、現在げんざいでは「しゅえん」とまれている[注釈ちゅうしゃく 1]

以上いじょうのように、アイヌによる土地とち現在げんざい地名ちめいになる過程かてい複雑ふくざつであり、もと意味いみがわからなくなったり解釈かいしゃく複数ふくすう仮説かせつがあることもすくなくない。そのため北海道庁ほっかいどうちょうただしいアイヌ文化ぶんかやアイヌ知識ちしきのもとでおこなわれた実証じっしょうてき研究けんきゅうもとづく名称めいしょうもちい、断定だんていてき表現ひょうげん極力きょくりょくけるなどの配慮はいりょをするようもとめている[8]

以下いかに、アイヌ地名ちめいによくもちいられる漢字かんじならびにアイヌ文化ぶんかけん各地かくち著名ちょめい地名ちめいのアイヌでの解釈かいしゃくしめす。

アイヌ 漢字かんじ 意味いみ
アイ(ai) あい [33]
イワウ(iwau) 岩尾いわお 硫黄いおう[34]
ウㇱ(us) うしうす 存在そんざいする[35][36]
オイ(o-i) なまおい 〜のあるところ[37]
オタ(ota) うた 砂浜すなはま[38]
オッ(ot) おつ たくさんいる[38]
オマイ(oma-i) まい 〜のところ[39]
カㇷ゚(kap) かんむり 樹皮じゅひ[40]
クマ(kuma) くま さかなたな[41]
サッ(sat) さつ かわ[42]
サㇽ(sar) さる あし湿原しつげん[43][1]
シ(shi) ささえ おおきい、本来ほんらい[44][45]
シュマ(shuma) しま いわ[46]
シㇼ(shir) しりのち みねしま[47][48]
チライ(chirai) 知来ちらい イトウ[38]
ト(to) とう みずうみ[49]
ナイ(nai) うち 小川おがわ[50]
ヌプㇽ(nupur) とう にご[51]
パラ(para) はら ひろ[52]
ピ(pi) よし 小石原こいしわら[44]
ピラ(pira) ひらた がけ[53]
プトゥ(putu) ふとし かわ合流ごうりゅうてん[54]
ペッ(pet) べつ かわ[54]
ポロ(poro) ほろ おおきい[55]
ホㇿカ(horka) 幌加ほろか 後戻あともどりする[56]
ポン(pon) ほん、奔 ちいさい[57][58]
モ(mo) しげるもち ちいさい[59]
モイワ(moiwa) がん、靄[注釈ちゅうしゃく 2] せいなる岩山いわやま[60][61]
ワッカ(wakka) わかやや しつみず[62]

北海道ほっかいどう地名ちめい

地名ちめい アイヌ 意味いみ
赤平あかびらあかびら ワッカ・ピラwakka-pira みずのあるがけ[63]
磯谷いそがいいそや イソ・ヤiso-ya 岩礁がんしょうきし[64]
歌志内うたしないうたしない オタ・ウㇱ・ナイota-us-nay すなのあるかわ[38]
恵庭えにわえにわ エ・エン・イワe-en-iwa あたまとがった岩山いわやま[12]
遠軽えんがるえんがる インカルㇱinkar ush 眺望ちょうぼうするところ[65]
歌棄うたすつうたすつ オタ・スッota-sut 砂浜すなはまはし[66]
長都おさつおさつ オ・サッ・ナイo-sat-nay 川尻かわじりかわいたかわ[12]
小樽おたるおたる オタ・オㇽ・ナイota-or-nay 砂浜すなはまなかながれるかわ[67]
釜谷臼かまやうすかまやうす カマ・ヤ・ウㇱkama-ya-us 岩盤がんばんきしにあるもの[36]
札幌さっぽろさっぽろ サッ・ポロ・ペッsat poro pet
サル・ポロ・ペッsar poro pet
かわいた広大こうだいかわ
葦原よしわらおおきなかわ[68]
沙流川さるかわさるがわ
沙流さるさる
サㇽsar 葦原よしわら[69]
知床しれとこしれとこ シレトシレトコsir etok 大地だいち先端せんたん[70]
豊平とよへいとよひら トウィエ・ピラtuye-pira くずれたがけ[53]
苫小牧とまこまいとまこまい ト・マㇰ・オマ・ナイto mak oma nay ぬまおくにあるかわ[71]
美唄びばいびばい ピパ・オ・イpipa-o-i カワシンジュガイのあるもの[72]
美馬牛びばうしびばうし ピパ・ウシpipa-us カワシンジュガイがいるところ[73]
富良野ふらのふらの フラヌイhuranuy くさにおいのするところ[74]
古平ふるびらふるびら フレ・ピラhure-pira あかがけ[75]
真駒内まこまないまこまない マㇰ・オマ・ナイmak oma nay おくにあるかわ[76]
幕別まくべつまくべつ マㇰ・ウン・ペツmak-un-pet おくにあるかわ[77]
鵡川むかわむかわ ムカッ・ペッ
ムツクアツ
川尻かわじりのたえずうご
つるにんじんのおおいところ[78]
室蘭むろらんむろらん モ・ルランmo-ruran ちいさなくだざかのあるところ[79]
藻岩山もいわやまもいわやま モ・イワmo-iwa ちいさな岩山いわやま[76]
もんべつ門別もんべつもんべつ モペッmo-pet ちいさな、またはしずかなかわ[39][69]
稚内わっかないわっかない ヤㇺ・ワッカ・ナイyam wakka nay 冷水れいすいのあるさわ[62]

日本にっぽんとアイヌ地名ちめい歴史れきし

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ひがし蝦夷えぞ地名ちめいこう』(1808ねんはた檍丸の一部いちぶ現在げんざい内浦湾うちうらわん沿岸えんがん洞爺湖とうやこまち地名ちめい有珠うす」「虻田あぶた」「赤川あかがわ」(フレナイは、直訳ちょくやくすれば「あかかわ」)が解説かいせつされている。絵図えず有珠うす善光よしみつてら有珠山うすざん

アイヌによる土地とち名付なづけがいつごろからおこなわれていたかはさだかではないが、アイヌ研究けんきゅうしゃ金田一きんだいち京助きょうすけは『日本書紀にほんしょきひとしあきら4ねんじょう(658ねん)にしるされる「沙羅さらアイヌ: to-kisar日本語にほんご直訳ちょくやく:ぬまみみ))」や『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』(10世紀せいき前半ぜんはん)の「くんもとだんアイヌ: rik-un-kotan日本語にほんご直訳ちょくやく高所こうしょにあるむら))」など、近代きんだいアイヌてること可能かのう名称めいしょうがあると指摘してきしている[4]。そのほかにもアイヌえることができる地名ちめいは『ろく国史こくし』などに散見さんけんされるが、はやくからアイヌ地名ちめいかんがえられてきたものとしてのべぶん元年がんねん(1356ねん)に成立せいりつした『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』にしるされる「宇曾とぎ鶴子つるこべつ[注釈ちゅうしゃく 3]」や「□堂宇どううまん[注釈ちゅうしゃく 4]」がある[4]

江戸えど時代じだいになり蝦夷えぞとの交易こうえきはじまると、和人わじんによってアイヌ地名ちめい記録きろくされていく。18世紀せいきごろの記録きろくとして『津軽つがる一統かずのりこころざし』『元禄げんろくきょうちょう』『和漢わかんさんさい図会ずえ』があるが、これらはかな表記ひょうき漢字かんじ表記ひょうきまじえて記録きろくしており、アイヌへの理解りかい不足ふそく起因きいんするあやま表記ひょうきがあることも共通きょうつうしている。19世紀せいき前期ぜんきにアイヌ地名ちめいをアイヌ解釈かいしゃくしようとこころみた和人わじんあらわれる。『ひがし蝦夷えぞ地名ちめいこう』(1808ねん)をあらわしたはた檍丸(村上むらかみとうまこと)はアイヌ日本語にほんごどう言語げんごかんがえていたため日本語にほんご古語こご解釈かいしゃくしようとするが、『蝦夷えぞ地名ちめいこうなみ里程りてい』(1824ねん)をあらわした上原うえはら熊次郎くまじろうはアイヌ通詞つうじとしての知識ちしきかしてアイヌ理解りかいしようとしたてんことなる。1850ねん前後ぜんこうでは松浦まつうら武四郎たけしろうによる紀行きこうるい特筆とくひつされる。なかでも『東西とうざい蝦夷えぞ山川やまかわ地理ちり取調とりしらべ』(1859ねん)は内陸ないりくふかくまでしるした画期的かっきてきなもので、現在げんざいのアイヌ地名ちめい研究けんきゅうでも史料しりょう価値かちたか[4][80]

近代きんだいになると、永田ながた方正ほうせいによる『北海道ほっかいどう蝦夷えぞ地名ちめいかい』(1891ねん)や金田一きんだいち京助きょうすけによる『北奧きたおく地名ちめいこう』(1932ねん)が刊行かんこうされ、学術がくじゅつてき検討けんとうくわえられるようになる。太平洋戦争たいへいようせんそうにはアイヌの言語げんご学者がくしゃ知里ちり真志保ましほの『地名ちめいアイヌしょう辞典じてん』『アイヌ入門にゅうもん-とくに地名ちめい研究けんきゅうしゃのために』(いずれも1956ねん)が刊行かんこうされたほか、金田一きんだいち知里ちり交流こうりゅうをもち現地げんち調査ちょうさによる検討けんとうくわえた山田やまだ秀三しゅうぞうあらわした『アイヌ地名ちめい研究けんきゅう』(ぜん4かん。1982ねんから1983ねん)はたか評価ひょうかされている[80][81]

本州ほんしゅうのアイヌ地名ちめい

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前述ぜんじゅつしたように、アイヌ地名ちめいはアイヌもしくはアイヌけい話者わしゃらしをした痕跡こんせきにほかならず、歴史れきしてきにその範囲はんいがどこまでおよぶのかについて様々さまざま考察こうさつおこなわれている。アイヌ地名ちめいきた東北とうほく散在さんざいすることははやくからみとめられているが、その南限なんげんがどこになるのかについて定説ていせつはない[82]

東北とうほく地方ちほうのアイヌ地名ちめい

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東北とうほく地方ちほう南限なんげんについて金田一きんだいちは、日本海にほんかいがわ鼠ヶ関ねずがせきから太平洋たいへいようがわ勿来なこそせき白河しらかわせきむすせんよりきた南限なんげんとし、常識じょうしきてき蝦夷えぞがいたとされる地帯ちたい東北とうほく6けん)がアイヌ地名ちめい範囲はんいとしていた。一方いっぽう金田一きんだいち薫陶くんとうけて実地じっち調査ちょうさおこなった山田やまだは、日本海にほんかいがわ秋田あきた山形やまがた県境けんきょう太平洋たいへいようがわ仙台せんだいのすぐきた平野へいやあたり南限なんげんとし、それよりきた山間さんかん僻地へきち分布ぶんぷしていると指摘してきしたうえで、飛鳥あすか時代じだいから奈良なら時代じだい初頭しょとうたい蝦夷えぞの5つのしがらみつくられた蝦夷えぞ居住きょじゅうきた東北とうほく3けん)の境界きょうかいせん一致いっちするとしている[83][84]以上いじょうのようなせつから、東北とうほく分布ぶんぷするアイヌ地名ちめい蝦夷えぞによるもので、かれらはアイヌ(金田一きんだいち)もしくはアイヌ語族ごぞく山田やまだ)であった可能かのうせい示唆しさされている[84][81]

また八木やぎ光則みつのりは、言語げんごけん文化ぶんかけん密接みっせつ関連かんれんすると指摘してきしたうえで[85]、『ナィ』の濃密のうみつ範囲はんい形成けいせい飛鳥ひちょう奈良なら時代じだいから平安へいあん時代じだいはじめごろ(7世紀せいきから9世紀せいき)の末期まっき古墳こふん分布ぶんぷかさなるとした。またそれよりも南側みなみがわで『ナィ』の分布ぶんぷうすくなるのは、弥生やよい時代じだいから古墳こふん時代じだいにかけて日本語にほんご文化ぶんかけん地名ちめいわっていったためと推測すいそくする[29]。また『ペッ』の分布ぶんぷ範囲はんいぞく縄文じょうもん時代じだい(4世紀せいきから5世紀せいき)のゆうどう生活せいかつ地域ちいき、もしくは縄文じょうもん時代じだい晩期ばんきにつくられた小型こがたした環状かんじょう列石れっせき分布ぶんぷ範囲はんいかさなるとする[29]

東北とうほくのアイヌ地名ちめい日本語にほんごなまりもおおい。山田やまだは、アイヌ地名ちめいおおい「かわアイヌ: ぺッ)」は北海道ほっかいどうのアイヌ地名ちめいでは「べつ」とまれて「べつ」の漢字かんじてられることおおいが(登別のぼりべつ当別とうべつなど)、本州ほんしゅうでは「べ」とまれて「あたり」や「」の漢字かんじてられていることおおい(長流ちょうりゅう(おさるべ・二戸ふたど浄法寺じょうほうじまち。アイヌのオ・サㇽ・ペッ=川尻かわじり葦原よしわらのあるかわ由来ゆらい)、母衣ほろ(ほろべ・八幡平やわただいら安代あしろまち兄畑あにはた。アイヌのポロ・ペッ=おおきなかわ由来ゆらい)など)としている[86]

一方いっぽう東北とうほく以南いなんにもアイヌ解釈かいしゃく可能かのう地名ちめいがあると指摘してきする研究けんきゅうしゃもいる。とくにアイヌを日本にっぽん列島れっとう先住民せんじゅうみんとする仮説かせつもとづき、関東かんとう九州きゅうしゅう四国しこくにもアイヌ地名ちめい分布ぶんぷしているとかんがえる研究けんきゅうジョン・バチェラー以来いらい根強ねづよ存在そんざい[82]きた東北とうほく南限なんげんせんいた山田やまだも「わかいころのゆめ」と表現ひょうげんして晩年ばんねんまで北関東きたかんとうから新潟にいがたにかけて調査ちょうさおこなっている[83][87][注釈ちゅうしゃく 5]山田やまだ没後ぼつごには東北とうほくアイヌ地名ちめい研究けんきゅうかいなどが東北とうほく以南いなんのアイヌ地名ちめい研究けんきゅうおこなっており、島根しまねけん出雲いずも恵曇えとも東北とうほく地方ちほう分布ぶんぷするオトモ(小友こども乙茂おとも乙母おともなど)が「断崖だんがいみさきアイヌ: エンルム)」の転訛てんかであるとするせつや、信濃川しなのがわ支流しりゅう五十嵐川いがらしかわなど新潟にいがたけん各地かくちにある地名ちめい五十嵐いがらし(いがらし)を「見晴台みはらしだいアイヌ: インカラ)」の転訛てんかであるとするせつなどの実証じっしょうこころみている[87]以上いじょうのような本州ほんしゅう地名ちめいをアイヌ解釈かいしゃくしようとするこころみについて、アイヌと縄文じょうもんじん関連付かんれんづけるはにはら和郎かずおの「じゅう構造こうぞうモデル」にむすけるせつもあるが[82]、こうしたこころみにたいして「語呂合ごろあわせ・こじつけであり、学問がくもんてきではない[89]」「古代こだい以前いぜん地名ちめい現代げんだいアイヌによって解釈かいしゃくすることに無理むりがある[4]」などの否定ひていてき意見いけんもある。

千島ちしま列島れっとうからカムチャツカ半島はんとうのアイヌ地名ちめい

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蝦夷えぞ闔境山川やまかわ地理ちり取調とりしらべ大概たいがい松浦まつうら武四郎たけしろう
樺太からふととう北部ほくぶ千島ちしま列島れっとうてカムチャツカ半島はんとう南端なんたん地名ちめいしるされている

考古学こうこがく調査ちょうさ成果せいかにより、千島ちしまアイヌ出現しゅつげんは15世紀せいきなかばから17世紀せいきなかばのあいだとされている。その居住きょじゅう千島ちしま列島れっとうロシア:クリル列島れっとう)の北部ほくぶきたせんとう)からカムチャツカ半島はんとう南端なんたんにかけてであったが、ロシアの南進なんしんにより18世紀せいき初頭しょとうにはきたせんとう限定げんていされるようになった[90]近代きんだい千島ちしま列島れっとうは、新知しんちとう以北いほくきたせんとう千島ちしまアイヌアレウトぞくこんじゅうし、国後島くなしりとう択捉島えとろふとうみなみせんとうには北海道ほっかいどうアイヌ居住きょじゅうしていた[91]

19世紀せいき南下なんかつよめるロシアとそれを警戒けいかいする日本にっぽん江戸えど幕府ばくふ)とのあいだ国境こっきょう問題もんだい発生はっせいする。1853ねんおこなわれたにち交渉こうしょうで、ロシアがわとくなでしま(ロシア:ウルップとう)にべい会社かいしゃ進出しんしゅつしロシアじん居住きょじゅうしていることを根拠こんきょなでしままでの領有りょうゆうけん主張しゅちょうしたのにたいし、日本にっぽんがわはアイヌを日本にっぽんぞくみんとしたうえ千島ちしま列島れっとう地名ちめいがアイヌ地名ちめいであることを根拠こんきょ領有りょうゆうけん主張しゅちょうした。交渉こうしょうすえ1855ねん締結ていけつされたにち和親わしん条約じょうやくでは日本にっぽんがわ主張しゅちょうみとめられず、千島ちしま列島れっとう択捉島えとろふとう(ロシア:イトゥルップとう)となでしまあいだ国境こっきょうせんとした[92]

1875ねん明治めいじ8ねん)に樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくにより千島ちしま列島れっとう全島ぜんとう日本にっぽん領土りょうどとなり、同時どうじ日本にっぽん政府せいふによる千島ちしまアイヌはみなみせんとう色丹島しこたんとう移住いじゅうさせられ、きたせんとう無人むじんとなった[91]。その、1945ねんうらないもりとうたたかによってソビエト連邦れんぽう占領せんりょうされ、現在げんざいいたるまでロシアによる実効じっこう支配しはいつづいている[93]

以上いじょうのアイヌの居住きょじゅういきにも、アイヌ地名ちめいがあったことが記録きろくされている。

千島ちしま列島れっとうのアイヌ地名ちめい

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日本語にほんごめい ロシアめい 英語えいごめい 名前なまえ由来ゆらいとなったアイヌ
うらないもりとうしゅむしゅとう Шумшу
(シュムシュ)
Shumshu シュㇺ・シュあぶらなべ)、シ・モシㇼ本島ほんとうおおきなしま)など諸説しょせつあり[94]
ほろむしろとうぱらむしるとう Парамушир
(パラムシル)
Paramushir パラ・モシㇼ(ひろい・しまポロ・モシㇼおおきい・しま)など諸説しょせつあり[94]
ゆたか古丹こたんとうおんねこたんとう Онекотан
(オネコタン)
Onekotan オンネ・コタンおおきな・むら[94]
捨子すてご古丹こたんとうしゃすこたんとう Шиашкотан
(シアシュコタン)
Shiashkotan シャク・コタンなつの・むら)や シャシ・コタン昆布こぶむら)など諸説しょせつあり[94]
しょ和島わじまらしょわとう Расшуа
(ラスシュア)
Rasshua ルㇱ・オ・ア毛皮けがわが・そこに・豊富ほうふにある)[95]
新知しんちとうしむしるとう Симушир
(シムシル)
Simushir シ・モシㇼおおきい・しま[96]
とくなでしまうるっぷとう Уруп
(ウループ)
Urup ウルㇷ゚ベニマス[96]
択捉島えとろふとうえとろふとう Итуруп
(イトゥルップ)
Iturup エトゥ・オロ・プみさきの・ある・しょ[97]
国後島くなしりとうくなしりとう Кунашир
(クナシル)
Kunashir キナ・シㇼくさしま[97]
色丹島しこたんとうしこたんとう Шикотан
(シュカタン)
Shikotan シ・コタンおおきなむら[98]
歯舞はぼまい群島ぐんとうはぼまいぐんとう Острова Хабомай
(アストラバ・ハボマイ)
Habomai / Khabomai アㇷ゚・オマ・イ流氷りゅうひょうのあるもの)[99]
多楽島たらくとうたらくとう Полонского
(パロンスキー)
Polonskogo トララ・ウㇰかわひもる)[98]
志発島しぼつとうしぼつとう Зелёный
(ゼリョーヌイ)
Zelyony シペ・オッさけぐんざいするところ[98]
勇留島ゆりとうゆりとう Юрий
(ユーリ)
Yuri ユウロ(それのがたくさんいる→しま
または ウリル(しま[100]
水晶島すいしょうじますいしょうじま Танфильева
(タンフィーリエフ)
Tanfilyeva シ・イソおおきい・いそいわ[99]

明治めいじ時代じだい千島ちしま列島れっとう北部ほくぶいて千島ちしまアイヌ調査ちょうさのフィールドワークをおこなった人類じんるい学者がくしゃ鳥居とりい龍蔵りゅうぞううらないもりとうなみ牟石利島としま(はる古丹こたんとう?)、捨子すてご古丹こたんとうしょ和島わじま以下いか地名ちめい採録さいろくしている[101]

うらないもりとう

地名ちめい 意味いみ
Pet’ topo かわ沿岸えんがんむらあるところ
Toichi ushi 穴居けっきょあるところ
Muriuchi むしろつくくさるところ
Chep’ pet さかなおおくいるかわ
Yaichishi あみかもをとらえたところ
Poro etu not おおきなみさき
Sayaki みなと
Pit saki 石原いしはら

なみ牟石利島としま 

地名ちめい 意味いみ
Susu pet やなぎかわ
Pon nupuru あたまちいさなとがったやま
Shinukareshi 見晴みはらしのいい場所ばしょ[注釈ちゅうしゃく 6][102]
Kayakano pet つばめのいるかわ
Oto moi 砂浜すなはま
Tahukohu 小山こやま[注釈ちゅうしゃく 7][103] 
Hurat moi 昆布こぶくさって悪臭あくしゅうがするわん
Hashiri inao ushpe イナウつくえだのあるところ
Paikaipi 背負せおったようないわ[注釈ちゅうしゃく 8][104]
Charasu pet いわよりながちるかわ[注釈ちゅうしゃく 9][105]

捨子すてご古丹こたんとう 

地名ちめい 意味いみ
Poro niyoi 流木りゅうぼくおおるところ
Tanne sara not ながみさき
Etu pirikoi エトピリカるところ
Sheshiki 温泉おんせん
Kabari iso ひらたいいそいわ
Shum so よる松明たいまつりょうをする場所ばしょ

しょ和島わじま 

地名ちめい 意味いみ
Ereuke not がったはし
Chiashikots とりでのある場所ばしょ
Tukoro hokipi not アザラシつねにたくさんいるところ[注釈ちゅうしゃく 10][105]

カムチャツカ半島はんとう南端なんたんのアイヌ地名ちめい

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1733ねん、ロシアじん博物学はくぶつがくしゃステパン・クラシェニンニコフロシアばんヴィトゥス・ベーリング探検たんけんたい一員いちいんとしてカムチャツカ半島はんとう調査ちょうさし、調査ちょうさ記録きろくを『カムチャツカ地誌ちし』として1756ねん発表はっぴょうした。文中ぶんちゅうにはカムチャツカ半島はんとう南端なんたんロパトカみさきから西海岸にしかいがん北上ほくじょうしてオパラがわ[注釈ちゅうしゃく 11]いた地域ちいき河川かせんめい32がげられているが、そのうち11は「ピト」(pet)のがつく[106]

  • ウタトゥム・ピト
  • トゥピト・ピト
  • チプト・ピト
  • チウス・ピト
  • イジアウム・ピト
  • チュイチュム・ピト
  • ワチュムクム・ピト

これらがわ語尾ごびの「ピト」は、千島ちしまアイヌかわ意味いみするpetであるという。さらにやまとして「パラミトゥト」をげているが、これはアイヌのpara-metot(ひろ山地さんち)につうじる[106]。さらにカムチャツカ南端なんたんロパトカみさきもアイヌ由来ゆらいするという[107]。「ロパトカ」はロシアかたかぶとこつだが、クラシェニンニコフの『カムチャツカ地誌ちし』によれば、現地げんちはクリルじん千島ちしまアイヌ)からkapury カプルイとばれていたという。(北海道ほっかいどうアイヌではかたかぶとこつはtapara。かた意味いみするtapと へら意味いみするperaの合成ごうせい[108]。なお千島ちしまアイヌかたはkap’ken[109])。つまり千島ちしまアイヌで「かたかぶとこつ」になぞらえられたみさき地形ちけいがロシアやくされ、「ロパトカ」と命名めいめいされたとのろんである[108]

また明治めいじ千島ちしま北部ほくぶでフィールド調査ちょうさをした鳥居とりい龍蔵りゅうぞう千島ちしま土人どじんふく酋長しゅうちょうアウヱキリの協力きょうりょくで、カムチャツカ半島はんとう南部なんぶクリル[注釈ちゅうしゃく 12]周辺しゅうへん千島ちしま地名ちめいとして以下いかれい提示ていじしている[110]

樺太からふとのアイヌ地名ちめい

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最近さいきん踏査とうさしんりょう樺太からふと明細めいさいぜん』 1920ねん発行はっこう樺太からふと全島ぜんとうおよび沿海州えんかいしゅう地図ちず

樺太からふと(ロシア:サハリンとう)では、13世紀せいき中葉ちゅうようごろからアイヌけい話者わしゃ北進ほくしんして樺太からふと南部なんぶ移住いじゅうしたとかんがえられている。ただし16世紀せいき以前いぜん移住いじゅうしたかれらがアイヌ民族みんぞくであるかはたしかではない。近世きんせいには樺太からふとアイヌ居住きょじゅうしていたこと確認かくにんされており、その居住きょじゅうであった樺太からふと南部なんぶにアイヌ地名ちめいおお[111]

千島ちしま列島れっとう同様どうように、樺太からふとでも19世紀せいきにちあいだ領土りょうど問題もんだい発生はっせいする。ロシアがわは1853ねん占有せんゆう一方いっぽうてき宣言せんげんし、同年どうねん交渉こうしょうではにわわん周辺しゅうへんに「残留ざんりゅう」する日本人にっぽんじんあつかいについて議題ぎだいとした。日本にっぽんがわはこれに抗議こうぎし「日本にっぽん領有りょうゆうする土地とちには干渉かんしょうしない」というロシアがわ譲歩じょうほした。これをけて日本にっぽんきた蝦夷えぞ調査ちょうさおこない、アイヌによる遠隔えんかく交易こうえき東岸とうがん北緯ほくい48.5のフヌプ、西岸せいがん北緯ほくい50のホロコタンまでおよんでいたこと確認かくにんした。この成果せいかをもとに再度さいど交渉こうしょうおこなった結果けっかにち和親わしん条約じょうやくでは樺太からふとにちロの雑居ざっきょとされた[92]。その、1875ねん樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやく締結ていけつされて樺太からふとがロシアりょうとなると日本にっぽんがわでも基本きほんてきにロシアがわ地名ちめいもちいるようになり、樺太からふとでは一部いちぶのぞいてアイヌ地名ちめい消滅しょうめつする[112]

1904ねんはじまったにち戦争せんそうによって樺太からふと戦場せんじょうになると、日本にっぽん陸軍りくぐん現地げんち部隊ぶたいから樺太からふと地名ちめい日本語にほんごあらためるよう要望ようぼうがる。この陸軍りくぐん要望ようぼうみとめられなかったが[113]一方いっぽう海軍かいぐん作成さくせいする海図かいずによってみさきなどに日本人にっぽんじん名前なまえ採用さいようされるようになった[114]。そのなかには樺太からふと所縁しょえん近藤こんどう重蔵しげぞう名前なまえもあり、日本にっぽん新聞しんぶんなどで批判ひはんこえがった[115]

1907ねん樺太からふとちょう開設かいせつされて実質じっしつてき領有りょうゆうはじまると、同年どうねん6がつ樺太からふと地名ちめい調査ちょうさかい発足ほっそくして地名ちめい改称かいしょう検討けんとうされるようになる。その選定せんていにあたっては、アイヌ地名ちめい優先ゆうせんする方針ほうしんかかげられたが、これはアイヌ地名ちめい従来じゅうらいから日本にっぽんりょうであったあかしとされたためだとかんがえられている[115][116]地名ちめい改称かいしょうは、1908ねん明治めいじ41ねん)から1915ねん大正たいしょう4ねん)まで断続だんぞくてきおこなわれた。これにより、たとえばアイヌの「ポロアントマリ」(おおきなみなと)の「ポロ」を意訳いやくして「だい」とし、トマリに「はく」をにしただいはくなどの地名ちめいあらわれ、「漢字かんじ無理むりてて音訓おんくん雑然ざつぜんとしている」などの批判ひはんもあった[115]樺太からふと南部なんぶにわわん沿岸えんがんのクシュンコタン(kus-un-kotan/対岸たいがん・にある・むら)は幕末ばくまつに「久春ひさはる古丹こたん」とされていたが、明治めいじ初期しょき北海道ほっかいどう開拓かいたく使により「クシュン」のおとにちなんで「くすのきけい」とされ[117]樺太からふとちょう成立せいりつ音読おんよみされて「なんけい」とばれアイヌ由来ゆらい地名ちめいなされなくなるなど[118]音読おんよみ、訓読くんよみでもと語義ごぎから逸脱いつだつする問題もんだい北海道ほっかいどうない同様どうよう存在そんざいしていた。1945ねん昭和しょうわ20ねん)にソビエト連邦れんぽうによる侵攻しんこう樺太からふとたたか)にあい、現在げんざいにいたるまでロシアによる実効じっこう支配しはいつづいている[119]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 集落しゅうらくめい朱円しゅえん」の語源ごげんとなったかわは、島戸しまど狩川かりかわ(しまとかりがわ)とされている[32]
  2. ^ 北海道ほっかいどうでは「がん」か「茂岩もいわ」、東北とうほくでは「靄」(もや)か「茂谷もや」が使用しようされる場合ばあいおお
  3. ^ づるにわとり誤記ごき推測すいそくしてみはウソリケシで現在げんざい函館はこだてとするせつ、あるいはウソリとツルコベツの2つの地名ちめい解釈かいしゃくして下北しもきた意味いみとするせつがある[4]
  4. ^ 冒頭ぼうとういちめないがまん堂宇どううまんけんしる写本しゃほんがある。みはマトウマイヌで現在げんざい松前まさきアイヌの意味いみとするせつがある[4]
  5. ^ なお山田やまだ栃木とちぎけん那須野なすのはらながれる蛇尾川さびがわ(さびがわ)をアイヌのサッ・ピ・ナイ(かわいた小石こいし河原かわらかわ)に由来ゆらいする、アイヌ地名ちめい南限なんげんとしている。実際じっさい現地げんち蛇尾川さびがわかわいた小石こいし河原かわらである[88]
  6. ^ 同様どうよう地形ちけい北海道ほっかいどうアイヌでingar-ush-iとばれ、遠軽えんがるまち地名ちめい語源ごげんになっている
  7. ^ 同様どうよう地形ちけい北海道ほっかいどうアイヌでtapkopとばれる
  8. ^ 同様どうよう地形ちけい北海道ほっかいどうアイヌでpakkaiとばれ、稚内わっかない抜海ばっかい地名ちめい語源ごげんになっている
  9. ^ 同様どうよう地形ちけい北海道ほっかいどうアイヌでcharse(ちゃらちゃらおんをさせる)とばれる
  10. ^ アザラシは北海道ほっかいどうアイヌではtukara、北海道ほっかいどうべんではなまってトッカリ
  11. ^ オパラは、アイヌで「川尻かわじりひろい」と解釈かいしゃくできる
  12. ^ クリルは、ロシア千島ちしま列島れっとうならびに千島ちしまアイヌをかたりである。アイヌで「ひともの」を意味いみするクㇽに由来ゆらいするとされる。
  13. ^ 現地げんちにはぬまがあるという。北海道ほっかいどうアイヌでは「ぬまかたわら」をto-samという
  14. ^ kaniは日本語にほんごかに。moiは入江いりえ

出典しゅってん

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  10. ^ 角田つのだ陽一よういち 2018, pp. 120.
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  18. ^ 山田やまだしげるさん 1984, pp. 48.
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参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき
論文ろんぶんなど
辞書じしょなど
webなど

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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