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カリフォルニア州の歴史 - Wikipedia コンテンツにスキップ

カリフォルニアしゅう歴史れきし

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カリフォルニアしゅうヨセミテ渓谷けいこく

カリフォルニアしゅう歴史れきし(カリフォルニアしゅうのれきし、えい:History of California)では、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく西海岸にしかいがん位置いちするカリフォルニアしゅうとなった地域ちいき人類じんるい歴史れきし社会しゃかい活動かつどう概説がいせつする。カリフォルニアにおける人類じんるい活動かつどうはおよそ13,000ねんから15,000ねんまえ到着とうちゃくしたインディアン民族みんぞくはじまる。

海岸かいがん渓谷けいこく沿った内陸ないりくへのヨーロッパ白人はくじんによる探検たんけん開拓かいたく16世紀せいきはじまった。べいぼく戦争せんそうにおけるメキシコ敗北はいぼく結果けっか1848ねんグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくにより、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがカリフォルニアを獲得かくとくしたことで、それまでメキシコの領土りょうどであった西部せいぶへの拡張かくちょう進展しんてんし、1850年代ねんだいのカリフォルニア・ゴールドラッシュによってさらに加速かそくされた。カリフォルニアは1850ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくしゅう昇格しょうかくした。19世紀せいきわりまでに、カリフォルニアのだい部分ぶぶんはまだ田舎いなか農業のうぎょうだったが、すでやく140まんにんんでいた。20世紀せいきはいるとさらに人口じんこう増加ぞうかし、2000ねんおこなわれた国勢調査こくせいちょうさでは、全米ぜんべい50しゅう最多さいた人口じんこうである3,500まんにん以上いじょうかかえている。

ネイティブアメリカンの時代じだい

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一般いっぱんみとめられている南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりくへの人類じんるい移動いどうかんする学説がくせつは、およそ16,500ねんまえネイティブアメリカン民族みんぞくベーリング陸橋りっきょうとおってアメリカ大陸あめりかたいりくはいったというもので、ネイティブアメリカンが、現在げんざいのカリフォルニアにいつ到着とうちゃくしたかは不明ふめいである。

サンタローザとうのアーリントン・スプリングスじん遺跡いせきは、もっと初期しょきにネイティブアメリカンがんだあとであり、やく13,000ねんまえウィスコンシンごおりもっとあたらしいこおり)のころとされている。現在げんざいのカリフォルニアになった地域ちいきには全体ぜんたいやく30の部族ぶぞくあるいは文化ぶんか集団しゅうだんんでおり、おそらくは6しゅ言語げんごぞく分類ぶんるいされる。これらの語族ごぞくなかにはもっと初期しょき到着とうちゃくしたホカ語族ごぞく(はるかきた山岳さんがくからみなみのコロラドがわ盆地ぼんち分布ぶんぷ)と最近さいきん到着とうちゃくした南東なんとう砂漠さばく地帯ちたいユト・アステカン語族ごぞくがいる。この文化ぶんか多様たようせいきたアメリカのなかでも密度みつどく、10,000ねんから15,000ねんまえ一連いちれん移民いみん勢力せいりょくあらそいの結果けっかかんがえられている[1]。ヨーロッパ白人はくじんによる最初さいしょ接触せっしょく、チュマシュぞく、マイドゥぞく、ミウォクぞく、モードックぞく、モハーベぞくオーロネぞく、ポモぞく、シャスタぞく、トングヴァぞくおよびウィントゥぞくなど、60をえるネイティブアメリカン部族ぶぞくんでいた。

これらの部族ぶぞくはカリフォルニアの多様たよう気候きこう適応てきおうした。海岸かいがん部族ぶぞくは、石器せっき使つかってイガイ貝類かいるいからからつくられる交易こうえきようビーズの主要しゅよう生産せいさんげんだった。カリフォルニアのひろセントラル・バレーやそれをかこおか部族ぶぞくは、はやくから農業のうぎょう発展はってんさせ、草地くさちいて食用しょくよう植物しょくぶつとくオーク生育せいいく促進そくしんした。これらのドングリ)をこなき、酸性さんせいタンニン濾過ろかすると食用しょくようこなができた。北部ほくぶ東部とうぶ山岳さんがく部族ぶぞくサケりょう動物どうぶつりょうおおきくたよっており、カリフォルニアの火山かざん生成せいせいぶつである黒曜石こくようせきあつめて成形せいけい交易こうえきもちいた。南東なんとう砂漠さばくは、過酷かこく環境かんきょうのこじゅつおぼえた部族ぶぞくみ、その土地とち植物しょくぶつ慎重しんちょうあつかい、オアシス水源すいげんちかくで生活せいかつした。

これらすべての部族ぶぞく状態じょうたい動的どうてきであり、より成功せいこうした部族ぶぞくがその領土りょうどひろげ、あまり成功せいこうしなかった部族ぶぞく縮小しゅくしょうした。奴隷どれい貿易ぼうえき部族ぶぞくあいだ戦争せんそう比較的ひかくてき平和へいわ期間きかん交互こうごつづいた。ヨーロッパじんによる接触せっしょく広範こうはんになった1700年代ねんだいには、およそ30まんにんのネイティブアメリカンがカリフォルニアにんでいたと推計すいけいされている。(→カリフォルニアのネイティブアメリカン部族ぶぞく

ヨーロッパじん探検たんけん(1530ねん-1765ねん

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最初さいしょのヨーロッパじん探検たんけんたちは、スペインあるいはイギリス国旗こっきかかげたものたちであり、1500年代ねんだい初期しょきから1700年代ねんだいなかばにカリフォルニア海岸かいがん航海こうかいしたが、ヨーロッパじんによる開拓かいたくつくられなかった。もっと重要じゅうよう植民しょくみん強国きょうこくであったスペインはその帝国ていこく中心ちゅうしんであるメキシコ、ペルーおよびフィリピン関心かんしん集中しゅうちゅうした。太平洋たいへいようせっするあらゆる陸地りくち(カリフォルニアをふくむ)はスペインが領有りょうゆうするという自負じふのもとに、スペインはカリフォルニア海岸かいがん航行こうこうする探検たんけんたい派遣はけんした。これらぶねった探検たんけんしゃたちからたカリフォルニアはおかおお草地くさじ森林しんりん土地とちであり、植民しょくみんしゃけるに資源しげん自然しぜん良港りょうこうはほとんどいとられた。

当時とうじほか植民しょくみん帝国ていこくはより人口じんこう密度みつどたか地域ちいき興味きょうみおこなっており、このとおはなれた世界せかい一部いちぶにはほとんど注意ちゅういはらわなかった。ロシアとイギリスの探検たんけんしゃたちおよび毛皮けがわ交易こうえき業者ぎょうしゃたちがこの地域ちいき周縁しゅうえんはいはじめたのは1700年代ねんだいなかばになってからだった。

エルナン・コルテス

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1530ねんころ、ヌニョ・ベルトラン・デ・グスマン(ヌエバ・エスパーニャすべりょう)がインディアンの奴隷どれいから、そのとおりがかねぎん舗装ほそうされているというシボラの7都市としはなしいた。おなころエルナン・コルテスアマゾネスおんなぞくみ、きむ真珠しんじゅおよび宝石ほうせきあふれているというはる北西ほくせい不思議ふしぎくにはなしけられた。スペインじんはこれらの場所ばしょひとつでおなじものと推測すいそくした。

1533ねん遠征えんせいたいはおそらくはラ・パスわんのこととおもわれる1つのわん発見はっけんしたが、艱難辛苦かんなんしんくしたのち帰還きかんした。コルテスは1534ねん1535ねん遠征えんせいたいひきいたが、もとめる都市としつからなかった。

1535ねん5月3にち、コルテスは「サンタクルスとう」(現在げんざいバハ・カリフォルニア半島はんとうとしてられる)を領有りょうゆうけん主張しゅちょうし、そのはるおそくにラ・パスとなる都市とし配置はいち建設けんせつした。

フランシスコ・デ・ウロア

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この1650ねん地図ちずではカリフォルニアがしまとしてあらわされている。海峡かいきょうにあるちいさな諸島しょとう初期しょき神話しんわかたられており、その結果けっかこの地域ちいき実際じっさい探検たんけんされたということをしんじた地図ちず制作せいさくしゃたちによってなに世紀せいきものあいだくわえられてきた。

1539ねん7がつ、コルテスはこれら伝説でんせつあらたにいてうごかされ、ちいさな3せきふねでフランシスコ・デ・ウロアを派遣はけんした。デ・ウロアはコロラドがわ河口かこうたっし、半島はんとうまわってとおくセドロスとうまで航海こうかいした。

この航海こうかい証言しょうげんによって、「カリフォルニア」という名前なまえはじめて記録きろくされた。これはガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルヴォが編集へんしゅう1510ねんころ出版しゅっぱんされた騎士きしどう物語ものがたり『ガリアのアマディス』だい5かん辿たどることができ、主人公しゅじんこうは「カリフォルニア」とばれるしまたびする。

フアン・ロドリゲス・カブリリョ

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カリフォルニア海岸かいがん最初さいしょ探検たんけんしたヨーロッパじんはスペイン帝国ていこくのために航海こうかいしたポルトガルじん航海こうかいフアン・ロドリゲス・カブリリョだった。1542ねん6がつ、カブリリョは現在げんざいのメキシコ西海岸にしかいがんから2せきふね探検たんけんたいひきいた。9月28にちサンディエゴわん上陸じょうりくし、カリフォルニアとうかんがえた土地とちをスペインりょう宣言せんげんした。

カブリリョとその隊員たいいんチャネル諸島しょとうひとつサンミゲルに上陸じょうりくし、つぎ海岸かいがん沿いにあるとかんがえられたアジア大陸たいりくかう航路こうろ北西ほくせい航路こうろ)を発見はっけんするためにきたすすんだ。カブリリョはきたポイント・レイズサンフランシスコきたやく50km)まですすんだとかんがえられるが、航海こうかいちゅう事故じこんだ。遠征えんせいたいのこりの隊員たいいんは、バルトローメ・フェレロにひきいられて、今日きょうオレゴンしゅう南部なんぶにあるログかわまで北上ほくじょうしたとられている[2]

フランシス・ドレークきょう

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1579ねん6月7にち、イギリスじん探検たんけんフランシス・ドレークきょうがサンフランシスコわん以北いほくのカリフォルニアの某所ぼうしょ良港りょうこう発見はっけんし、ノバ・アルビオンと名付なづけイギリスりょう主張しゅちょうした。ドレークが真鍮しんちゅうばんのこしてったその場所ばしょ現在げんざい不明ふめいであり、その追従ついしょうしゃかった[3]

セバスティアン・ビスカイノ

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1602ねん、スペインじんセバスティアン・ビスカイノがカリフォルニア海岸かいがんきたモントレーわんまですすみ、そこで上陸じょうりくした。そこから海岸かいがん沿って陸地りくちみなみすすみ、カーメルわんかんがえられるところおとずれたと記録きろくした。カリフォルニアの歴史れきしでビスカイノがたしたおおきな功績こうせきは、モントレーわん地域ちいき停泊ていはくとして、また定着ていちゃくてきした土地とちとしてしるしたきした報告ほうこくしょであり、さらに海岸かいがん水路すいろ詳細しょうさい海図かいずであった(その200ねんちかくも使用しようされた)[4]

ヨーロッパじん探検たんけん(1765ねん-1821ねん

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イギリスじんジェームズ・クック船長せんちょう1778ねんの3度目どめにして最後さいご探検たんけん航海こうかい途中とちゅうで、HMSレゾルーションってきたアメリカ西海岸にしかいがん航海こうかいし、カリフォルニアからリング海りんぐかいかいいたるまでのすべての海岸かいがん地図ちず作成さくせいした。1786ねんラ・ペルーズはくジャン=フランソワ・ド・ガロールイ16せいめいじられた探検たんけんたいで1ぐん科学かがくしゃ画家がかひきい、モントレーで歓迎かんげいされた。彼等かれらはカリフォルニアの伝道でんどう仕組しくみ、土地とちおよび人々ひとびとについて証言しょうげんのこした。つぎすうじゅう年間ねんかん貿易ぼうえき業者ぎょうしゃくじらりょうしゃおよび科学かがくてき任務にんむびたものたちおとずれた[5]

スペインの植民しょくみん統治とうち

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1697ねんイエズスかい宣教師せんきょうしだんフアン・マリア・デ・サルバティエラバハ・カリフォルニア・スル最初さいしょ恒久こうきゅうてき伝道でんどうしょミシオン・デ・ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレト・コンチョを設立せつりつした。カリフォルニアの土地とち当時とうじヌエバ・エスパーニャの一部いちぶであり、今日きょうのように分割ぶんかつされてはいなかった。半島はんとうにおけるイエズスかい支配しはい次第しだいひろがり、最初さいしょロレト周辺しゅうへん地域ちいきだったものが、みなみのケープ地域ちいき最後さいごにはバハ・カリフォルニア・スルのきたえんえてさらにきたひろがった。1765ねんから1823ねんにかけてカリフォルニアにも21の伝道でんどうしょ設立せつりつされた。

18世紀せいき最後さいご四半世紀しはんせいきアルタ・カリフォルニアはじめてのスペイン開拓かいたく設立せつりつされた。きた太平洋たいへいよう海岸かいがん毛皮けがわ動物どうぶつについてロシア、またおそらくはイギリスがいた興味きょうみ反応はんのうするかたちで、スペインはカリフォルニアの南部なんぶ中部ちゅうぶ海岸かいがん沿いに一連いちれんのカトリック伝道でんどうしょ拡張かくちょうし、軍隊ぐんたいともない、牧場ぼくじょうつくった。これらの伝道でんどうしょスペイン帝国ていこくによるカリフォルニアの領有りょうゆうけん主張しゅちょうあらわすことが意図いとされた。

19世紀せいき最初さいしょ四半世紀しはんせいき、スペインじん宣教師せんきょうしだん牧場ぼくじょうおもおよび軍隊ぐんたいによるカリフォルニアの南部なんぶ中部ちゅうぶ海岸かいがん植民しょくみんがゆっくりとつづいた。1820ねんまでにスペインの影響えいきょうりょくロレトから今日きょうサンディエゴ経由けいゆしてサンフランシスコ・ベイエリアのすぐきたまでつながった伝道でんどうしょあらわされ、内陸ないりくへは伝道でんどうしょからおよそ25ないし50マイル(40 kmないし80 km)のひろがりをせた。この地帯ちたいそとではおそらく20まんにんから25まんにん先住民せんじゅうみん伝統でんとうてき生活せいかつつづけていた。1819ねん調印ちょういんされたアダムズ=オニス条約じょうやくでスペインの領有りょうゆうけん主張しゅちょう北緯ほくい42せんまでとすることとなり、事実じじつじょう今日きょうのカリフォルニアしゅうとオレゴンしゅうしゅうさかいができた。

スペインによる最初さいしょ植民しょくみん

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スペインは1519ねん以降いこうヌエバ・エスパーニャにおおくの伝道でんどうしょとりで維持いじしてきた。1542ねんにはカリフォルニア北部ほくぶ海岸かいがん地域ちいき領有りょうゆう宣言せんげんした。ニューメキシコサンタフェのぞき、ヌエバ・エスパーニャ北部ほくぶ開拓かいたくはそのの155年間ねんかんすすまなかった。バハ・カリフォルニア・スルのロレトは1697ねん設立せつりつされたが、スペインおうカルロス3せい治下ちかのスペインがより北部ほくぶ開発かいはつ必要ひつようだとかんじたのは、1765ねんアラスカからくだってきたロシアじん毛皮けがわ業者ぎょうしゃとそのるであろう開拓かいたくしゃによる侵略しんりゃく脅威きょういがあったときだった。この時点じてんでスペイン帝国ていこくななねん戦争せんそう政治せいじてき後片付あとかたづけにたずさわっており、はるはなれたカリフォルニア植民しょくみん優先ゆうせんはほんのわずかなものだった。アルタ・カリフォルニアにはフランシスコかい修道しゅうどうそうによって、軍隊ぐんたいまもられたカリフォルニア・ミッション展開てんかいされることになった。1774ねん1791ねんあいだ、スペイン帝国ていこくおおくの遠征えんせいたい派遣はけんし、アルタ・カリフォルニアと太平洋たいへいようがん北西ほくせい探検たんけん開拓かいたくすすめた。

ガスパル・デ・ポルトラ

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1768ねん5月、遠征えんせい将軍しょうぐんホセ・デ・ガルベスはアルタ・カリフォルニアにけて4方向ほうこう、2つはうみ、2つはりくからの遠征えんせい計画けいかくし、ガスパル・デ・ポルトラ指揮しきかん志願しがんした。

デ・ポルトラの陸路りくろ遠征えんせいたい1769ねん6月29にち現在げんざいのサンディエゴの到着とうちゃくし、そこでサンディエゴとりで構築こうちくした。デ・ポルトラとそのたいは、フアン・クレスピ神父しんぷと63にんかわ上着うわぎ兵士へいしたち[6]、100とうのロバで構成こうせいされており、モントレーわんまですすみたがったので、7がつ14にちきたかった。彼等かれら8がつ2にち現在げんざいロサンゼルス8がつ3にちサンタモニカ8がつ19にちサンタバーバラ9月13にちにサンシメオン、そして10月1にちにサリナスかわ河口かこう到着とうちゃくした。彼等かれらはモントレーわんさがしていたが、そこにいたとき認識にんしきできなかった。

10月31にち、デ・ポルトラの探検たんけんしゃたちサンフランシスコわん最初さいしょのヨーロッパじんとなった。皮肉ひにくなことにマニラのガレオンせんはこのころまでにほぼ200年間ねんかんもこの海岸かいがん航行こうこうしていたが、このわんには気付きづいていなかった。デ・ポルトラの遠征えんせいたい1770ねんにサンディエゴにもどった。

フニペロ・セラ

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フニペロ・セラ

フニペロ・セラマヨルカとう(スペインりょう)のフランシスコかいものであり、アルタ・カリフォルニアの伝道でんどうしょぐんおおくを設立せつりつした。カルロス3せい1768ねん2がつ3にちにヌエバ・エスパーニャからイエズスかい追放ついほうする命令めいれいしたのちは、セラが「みつるりょう神父しんぷ」になった。

セラは1769ねんミッション・サンディエゴ・デ・アルカラ設立せつりつした。そのとしおそく、セラやポルトーラ知事ちじちいさな集団しゅうだん太平洋たいへいようがんきたかった。彼等かれら1770ねんモントレー到着とうちゃくし、そこでセラがアルタ・カリフォルニアで2箇所かしょ伝道でんどうしょミッション・サンカルロス・ボロメオ・デ・カルメロ設立せつりつした。

カリフォルニア・ミッション

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伝道でんどうしょは、地元じもと先住民せんじゅうみんぞくキリスト教きりすときょうおしえをひろめるためにスペイン・カトリックのドミニコかい、イエズスかいおよびフランシスコかいによってつくられた宗教しゅうきょうてき前進ぜんしん基地きちならびで構成こうせいされたが、この地域ちいきたいするむかしからのスペインによる領有りょうゆうけん主張しゅちょう確保かくほする付加ふかてき利点りてんもあった。伝道でんどうしゃたちはカリフォルニア地域ちいきにヨーロッパの家畜かちく果物くだもの野菜やさい、および産業さんぎょう持込もちこんだが、先住民せんじゅうみん事実じじつじょうそのらしの状態じょうたいかれた。

ほとんどの伝道でんどうしょちいさなものであり、2人ふたりのフランシスコそうと6にんから8にん兵士へいしんだ。これらすべての建物たてものはフランシスコかいそう監督かんとくだい部分ぶぶん先住民せんじゅうみん無償むしょう労働ろうどうてられた。さらに「プレシディオ」(とりで)、「プエブロ」(まち)にくわえて「ミシオン」(伝道でんどうしょ)はスペイン帝国ていこくがその植民しょくみん領土りょうど統合とうごうしていくために採用さいようした3つの主要しゅよう機関きかんの1つだった。これらの伝道でんどうしょのどれも完全かんぜん自活じかつできず、(つましくはあるが)財政ざいせいてき援助えんじょ必要ひつようとしつづけた。1810ねんメキシコ独立どくりつ戦争せんそう開始かいしとも財政ざいせいてき援助えんじょ実質じっしつじょううしなわれた。1827ねんまでにメキシコ政府せいふはスペインまれのもの追放ついほうする「追放ついほう一般いっぱんほう」を成立せいりつさせ、カリフォルニアの宣教師せんきょうしかず激減げきげんした。伝道でんどうしょいくつかはメキシコ政府せいふ国有こくゆうされ、その売却ばいきゃくされた。いくつかの伝道でんどうしょをそれを所有しょゆうしていた修道しゅうどうかいもどしたのは、合衆国がっしゅうこくしゅうとして成立せいりつしたあとの連邦れんぽう最高裁さいこうさい判決はんけつっていた。

カリフォルニアのフランシスコかいは、灰色はいいろ衣服いふくにつけた

カリフォルニア海岸かいがんには4つのとりで戦略せんりゃくてき配置はいちされ、個別こべつ軍事ぐんじ地区ちくとして組織そしきされ、カリフォルニア北部ほくぶ伝道でんどうしょやスペインじん開拓かいたく護衛ごえいにあたった。

サンガブリエル公会堂こうかいどう、スペインじん伝道でんどうしょした、1920年代ねんだいのミッション・リバイバル建築けんちくれい

伝道でんどうしょ構築こうちくぶつおおくが今日きょうのこっているかあるいはえられており、そのおおくは20世紀せいきはじ以来いらい信徒しんとだんつくってきた。幹線かんせん道路どうろ伝道でんどうしょ牧歌ぼっかてき平和へいわ過去かこしめすロマンチックな象徴しょうちょうになった。「ミッション復古ふっこ調ちょう」はカリフォルニアの過去かこ理想りそうした見解けんかいからまれた建築けんちく運動うんどうである。

スペインじんたちは、周辺しゅうへんのインディアンたちをとらえ、かく伝道でんどうしょ強制きょうせいてきキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうさせ、かく部族ぶぞく単位たんい無視むししてひとからげに「ミッション・インディアン伝道でんどうインディアン)」と名付なづけ、奴隷どれいした。

ランチョ

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スペインじん(そしてのちにはメキシコじん)は、うしひつじそだてられる牧場ぼくじょうへの転向てんこう可能かのうおおきな土地とち特許とっきょ入植にゅうしょく奨励しょうれいした。牛皮ぎゅうひおおまかに1まい1ドル)や脂肪しぼう獣脂じゅうしばれ、蝋燭ろうそく石鹸せっけん使つかわれた)が、19世紀せいきなかばまでのカリフォルニアの主要しゅよう輸出ゆしゅつひんだった。牧場ぼくじょう所有しょゆうしゃたちはスペインの地主じぬし階級かいきゅう自分じぶんたちなぞらえた。その労働ろうどうしゃには、スペインうまへのかたおぼえさせられた「ミッション・インディアン」がおもだった。

ロシアの植民しょくみんこころ

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1800年代ねんだい初期しょきからロシア帝国ていこく毛皮けがわわな猟師りょうしたち西海岸にしかいがん探検たんけんし、ラッコ毛皮けがわもとめてみなみのサンディエゴまでくだってきた。1812ねん8がつこったスペインとメキシコのあいだ戦争せんそうまれた混乱こんらんじょうじて、ロシア・アメリカ会社かいしゃはサンフランシスコのきた60マイル (100 km)のソノマ海岸かいがんにある現在げんざいのボドガわんちかくにロスとりで(フォート・ロス)という要塞ようさいした交易こうえき基地きちつくった。この土地とちはイギリスによって領有りょうゆうけん主張しゅちょうされていたが占有せんゆうはされていなかった。この植民しょくみん1841ねんまで存在そんざいした。エル・プレシディオ・デ・ソノマ、あるいは「ソノマ兵舎へいしゃ」は1836ねんにマリアーノ・グアダルーペ・バレホ(アルタ・カリフォルニア北部ほくぶ辺境へんきょう司令しれいかん)によって、ロシアじんがこの地域ちいき侵略しんりゃくすることをめるためのメキシコの戦略せんりゃく一部いちぶとして建設けんせつされた。

メキシコ時代じだい(1821ねん-1846ねん

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概説がいせつ

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19世紀せいきだい2四半世紀しはんせいきすくなからぬ変化へんかこった。メキシコが1821ねんにスペインから独立どくりつし、カリフォルニアのヨーロッパじん支配しはいわらせた。伝道でんどうしょはメキシコ支配しはいしたでその重要じゅうようせいらし、放牧ほうぼく交易こうえき増加ぞうかした。1840年代ねんだいなかばまでにアメリカじん存在そんざい増加ぞうかしたことでカリフォルニア北部ほくぶは、スペインはな人々ひとびと支配しはいてき南部なんぶ分化ぶんかした。

1846ねんまでに、カリフォルニアではスペインはな人々ひとびと人口じんこうが1まんにん下回したまわっており、メキシコりょう人口じんこうすくない地域ちいきくらべてもすくなかった。彼等かれらはカリフォルニオとばれ、やく800家族かぞく大半たいはんいくつかのおおきな牧場ぼくじょう集中しゅうちゅうしていた。やく1,300にんのアメリカじんやく500にんのヨーロッパじん混合こんごう集団しゅうだんがモントレーからサクラメントに分散ぶんさんし、カリフォルニオが放牧ほうぼく支配しはいしたように、彼等かれら交易こうえき支配しはいした。成人せいじん男性だんせい場合ばあい2つの集団しゅうだんはほぼ同数どうすうであったが、アメリカじんはよりちか時代じだい到着とうちゃくしていた。

宗教しゅうきょう分離ぶんり

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1827ねんにメキシコ政府せいふが「追放ついほう一般いっぱんほう」を成立せいりつさせた。このほうはスペインでまれたすべてのひと(ペニンスラール)を「違法いほう移民いみん」と宣言せんげんし、国内こくないからの退去たいきょめいじるものだった。当時とうじ宣教師せんきょうしおおくはスペインじんだった。つぎ1833ねん8がつ17にち、メキシコ議会ぎかいは「カリフォルニアにおける伝道でんどうしょ分離ぶんりのための法律ほうりつ」を成立せいりつさせた。サンファン・カピストラーノ伝道でんどうしょ翌年よくねんにこの法律ほうりつ影響えいきょうかんじることになった。フランシスコかいはそのあいだもなく伝道でんどうしょ放棄ほうきし、およそ価値かちあるものったので、その地元じもともの伝道でんどうしょ建物たてもの建築けんちく資材しざいとして略奪りゃくだつするのが普通ふつうだった。

その国民こくみんによるカリフォルニア進出しんしゅつ

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  • ロシア・アメリカ会社かいしゃきたアメリカでさいみなみ植民しょくみんとして1812ねんにロスとりで設立せつりつし、それよりきた不毛ふもうのアラスカにあるロシアの基地きち農産物のうさんぶつ供給きょうきゅうすることを目指めざした。この需要じゅようコロンビアがわ沿いにあったバンクーバーとりで農産物のうさんぶつについてのロシア・アメリカ会社かいしゃハドソンわん会社かいしゃとの取引とりひきたされたので、とりで目的もくてき頓挫とんざしたが、1841ねんまでロシアがとりで維持いじしており、そのあいだ、ロシアじんやロシア帝国ていこくからきたほか国籍こくせき人々ひとびと少数しょうすうんでいた。
  • この期間きかん、アメリカとイギリスの交易こうえき業者ぎょうしゃビーバーもとめてカリフォルニアにはいはじめた。シスキュー・トレイル、スペイン・トレイルおよびのちにはカリフォルニア・トレイルをとおってこれら交易こうえき業者ぎょうしゃ集団しゅうだんが、しばしばメキシコ当局とうきょくへの告知こくちやその承認しょうにんいままにカリフォルニアに到着とうちゃくし、のゴールドラッシュ時代じだいのフォーティナイナーズや農夫のうふ牧場ぼくじょうぬしはいってくる基礎きそとなっていった。
  • 1840ねん、アメリカの冒険ぼうけん作家さっか弁護士べんごしリチャード・ヘンリー・デイナ1830年代ねんだいにカリフォルニアおき航海こうかいした経験けいけんから『マストのまえの2年間ねんかん』をいた[7]
  • カリフォルニアを目指めざしたフランスの科学かがく遠征えんせいたい指導しどうしゃユージーン・デュフロット・モフラは1840ねんに、「カリフォルニアは1せき軍艦ぐんかん(Man-of-war)と200めい兵士へいしおく選択せんたくをしたくにならどこでもその支配しはいはいることはあきらかだ」といた[8]。1841ねん、バレホ将軍しょうぐんはアラバラド知事ちじてて、「うたがいもなくフランスはカリフォルニアの主人しゅじんになろうとたくらんでいる」といたが、フランス政府せいふつづいた一連いちれん問題もんだいのためにこの地域ちいきたいするフランスの興味きょうみ進展しんてんさせられなかった。ドイツけいスイスじんでフランス贔屓ひいきジョン・サッターはメキシコとの協議きょうぎがうまくかないときに、カリフォルニアにフランス国旗こっきかかげ、フランスの保護ほごしたみずからの入植にゅうしょくニュー・ヘルベティアをつくるとおどした。

アメリカの関心かんしん移民いみん

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1830年代ねんだい初期しょきから少数しょうすうのアメリカじん交易こうえき業者ぎょうしゃわな猟師りょうしがカリフォルニアにんでいたものの、アメリカじん最初さいしょ組織そしきてき陸路りくろ移民いみんたい1841ねんにビドウェル・バートルソンたいである。ロバに食料しょくりょうんだこのパイオニアの1たいはまだ検証けんしょうされていなかったカリフォルニア・トレイル使つかって手探てさぐりで大陸たいりく横切よこぎった[9]。1841ねんにはまた、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく探検たんけん遠征えんせい陸路りくろ探検たんけんたい太平洋たいへいようがん北西ほくせいからシスキュー・トレイルをくだってきた。1844ねん、ケレイヴ・グリーンウッドが最初さいしょ開拓かいたくしゃ案内あんない荷馬にうましゃシエラネバダ山脈さんみゃくえた。1846ねん不運ふうんドナーたいはカリフォルニアにはいるときに遭難そうなんし、ひと肉食にくしょくによって悪名あくめいた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく時代じだい(1846ねん以降いこう

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ベアフラッグ反乱はんらんとアメリカの征服せいふく

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1846ねん5月13にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがメキシコに宣戦せんせん布告ふこくしたのち、カリフォルニアまで戦争せんそうはなしとどくのにおよそ2ヶ月かげつ(7がつなかば)をようした。モントレーに駐在ちゅうざいしていた合衆国がっしゅうこく領事りょうじトマス・O・ラーキンは戦争せんそううわさくと、ホセ・カストロが指揮しきする少数しょうすうのメキシコぐん守備しゅびたいとアメリカじんあいだ平和へいわ維持いじしようとした。アメリカぐんジョン・C・フレモント大尉たいいやく60めい武装ぶそうとどいた兵士へいしれて、1845ねん12月にカリフォルニアにはいっており、メキシコと合衆国がっしゅうこくとのあいだ戦争せんそうけられないというはなしいたときに、ゆっくりとオレゴンにかって行軍こうぐんしていた[10]

カリフォルニア共和きょうわこくの「ベアフラッグ」、1890ねん撮影さつえい

1846ねん6月15にちやく30めいメキシコじん開拓かいたくしゃ、その大半たいはんはアメリカじん反乱はんらんこし、ソノマ英語えいごばんにあったメキシコのちいさな守備しゅび基地きち占領せんりょうした。彼等かれらはソノマのそらカリフォルニア共和きょうわこくの「ベアフラッグ」をかかげた。ベアフラッグ反乱はんらん英語えいごばんはフレモントにひきいられたアメリカぐん6月23にちおさえるまで1週間しゅうかんつづいた。今日きょうカリフォルニアしゅうはたはこの最初さいしょのベアフラッグにもとづいており、「カリフォルニア共和きょうわこく」という言葉ことばはいったままである。

アメリカ海軍かいぐんじゅんはたジョン・ドレーク・スロートは近付ちかづ戦争せんそうとソノマでの反乱はんらんはなしいて、7がつ7にちにその海軍かいぐんりょくで「ヤーバ・ブエナ」(現在げんざいのサンフランシスコ)を占領せんりょうするようめいじ、アメリカ国旗こっきかかげさせた。7がつ15にち、スロートはさらに好戦こうせんてき指導しどうしゃであるロバート・ストックトンじゅんしょう指揮しきけんわたした。ストックトンはフレモントの部隊ぶたいもその指揮しきいた。7がつ19にち、フレモントの「カリフォルニア大隊だいたい」はサクラメントちかくに到着とうちゃくしたあたらしい開拓かいたくしゃやく160めいぶくがり、ストックトンの水兵すいへい海兵かいへいきょうはたらけ行動こうどうおこなうためにモントレーにはいった。べいぼく戦争せんそうはじまったという公式こうしき伝言でんごんとどいた。アメリカぐん容易よういにカリフォルニア北部ほくぶ制圧せいあつした。数日すうじつのうちにサンフランシスコ、ソノマ、およびサクラメントのサッターとりで支配しはいした。

カリフォルニア南部なんぶではメキシコのホセ・カストロ将軍しょうぐんとピオ・ピコ知事ちじがロサンゼルスから逃亡とうぼうした。1846ねん8がつ13にちにストックトンたい抵抗ていこうしにロサンゼルスにはいったとき、ほとんど無血むけつカリフォルニア征服せいふく完成かんせいしたようにえた。しかし、ストックトンはロサンゼルスにあまりに少数しょうすう部隊ぶたい(36めい)をのこしたので、ホセ・マリア・フローレスにひきいられたカリフォルニオたち自分じぶんたち行動こうどうしメキシコからの援助えんじょかったが、9月おそくにアメリカのちいさな守備しゅびたい退去たいきょ強制きょうせいした。ストックトンの命令めいれいでウィリアム・マービン海軍かいぐん大佐たいさひきいられた増援ぞうえん200めいは、10月7にちから9にちサンペドロちかくでたたかわれたドミニゲス牧場ぼくじょうたたかいで撃退げきたいされ、14めい海兵かいへい戦死せんしした。一方いっぽう、カーニー将軍しょうぐんひきいられた100めい竜騎兵りゅうきへいたいは、ニューメキシコ、アリゾナおよびソノラ砂漠さばく苦闘くとうして行軍こうぐんしたのちにやっとカリフォルニアに到着とうちゃくしたが、そのかずっていた。12月6にち、カーニーたいはサンディエゴちかくでサンパスクァルのたたかいをおこない、このとき18めい戦死せんししたが、カリフォルニアでおこなわれた戦闘せんとうとしてはアメリカがわ最大さいだい損失そんしつとなった。

ストックトンはそのふくあい部隊ぶたい包囲ほういされていたカーニーたい救出きゅうしゅつし、サンディエゴからきたうごいて1847ねん1がつ8にちにロサンゼルス地区ちくはいり、フレモントたい合流ごうりゅうしてアメリカぐん総勢そうぜい660めいとなり、リオ・サンガブリエルのたたかいでカリフォルニオとたたかい、よく1がつ9にち、ラ・メサのたたかいをおこなった。3にち1がつ12にち、カリフォルニオの最後さいご意味いみある集団しゅうだんがアメリカぐん降伏ごうぶくした。これがカリフォルニアでの戦争せんそう終結しゅうけつとなった。1がつ13にちカフエンガ条約じょうやく締結ていけつされた。

1がつ28にち陸軍りくぐんウィリアム・シャーマン中尉ちゅういとその部隊ぶたいがモントレーに到着とうちゃくし、カリフォルニアにアメリカぐん次々つぎつぎながはじめとなった。3月15にちには、ジョナサン・D・スティーブンソンひきいるだい7ニューヨーク志願しがんへい連隊れんたいやく900めいでカリフォルニアに到着とうちゃくした。これらの部隊ぶたいすべては1848ねん1がつかね発見はっけんされたとき、カリフォルニアにのこっていた。

1848ねん2がつ2にち調印ちょういんされたグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくべいぼく戦争せんそうわった。この条約じょうやくで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはメキシコに1,825まんドルをはらうことに同意どういし、メキシコはカリフォルニア(および北方領土ほっぽうりょうど)を正式せいしきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく割譲かつじょうし、アメリカとメキシコのあいだ国境こっきょうはじめてかれた。それ以前いぜん国境こっきょうは1819ねんのアダムズ=オニス条約じょうやくでスペインとアメリカのあいだ交渉こうしょうされたものであり、現在げんざいのカリフォルニアしゅうとオレゴンしゅうしゅうさかいさだめていた。サンディエゴわんはサンフランシスコよりみなみのカリフォルニアでは数少かずすくない自然しぜんこうのひとつであり、この戦略せんりゃくてき水域すいいきすべてに所有しょゆうけん主張しゅちょうおこなわれ、国境こっきょうはそれをカリフォルニアにふくむようにななめにかれた。

ゴールドラッシュ

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1848ねん1がつ、サクラメントのやく40マイル (64 km)ひがし、シエラネバダ山脈さんみゃくふもとにあるサッターズミルでかね発見はっけんされた。これがカリフォルニア・ゴールドラッシュのはじまりとなり、カリフォルニアの人口じんこう急増きゅうぞうへのおおきな誘因ゆういんとなった[11]

坑夫こうふ商人しょうにんたち現在げんざいしゅうどう49号線ごうせん沿いのまちはいり、きむがカリフォルニアのどこでも(とくシスキューぐん発見はっけんされたので、シスキュー・トレイル沿いに開拓かいたく次々つぎつぎ出来できた。一番いちばんちか水深すいしんのある海港かいこうはサンフランシスコわんであり、サンフランシスコはきむ探鉱たんこう資金しきん手当てあてする銀行ぎんこう拠点きょてんになった。

ゴールドラッシュは世界せかいをカリフォルニアに注目ちゅうもくさせた。1855ねんまでに、あらゆる大陸たいりくからおよそ30まんにんのフォーティナイナーズが到着とうちゃくした。インディアン部族ぶぞくヤヒぞくかれらによって蹂躙じゅうりんされ、絶滅ぜつめつさせられた。フォーティナイナーのおおくはもなくった。そのなかには裕福ゆうふくものもいたが、大半たいはんはそれほど裕福ゆうふくではなかった。かね発見はっけんからの10年間ねんかん先住民せんじゅうみん人口じんこう急激きゅうげき減少げんしょうした。

しゅう昇格しょうかく(1849ねん-1850ねん

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1847ねんから1849ねんは、カリフォルニアはアメリカ陸軍りくぐんによって運営うんえいされた。地方ちほう政府せいふおおくの場所ばしょでアルカルデス(市長しちょう)によって運営うんえいされつづけたが、そのいくにんかはいまやアメリカじんになっていた。最後さいごぐん政府せいふ長官ちょうかんベネット・ライリーは1849ねん9がつにモントレーで憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ招集しょうしゅうした。その48にん代議員だいぎいん大半たいはんが1846ねん以前いぜんのアメリカじん開拓かいたくしゃであり、8にんはカリフォルニオだった。彼等かれら全会ぜんかい一致いっち奴隷どれいせい違法いほうとし、しゅう政府せいふつくげ、これが10ヶ月かげつあいだ運営うんえいされたのち1850ねん9月9にち連邦れんぽう議会ぎかいにより公式こうしきしゅう昇格しょうかくみとめられた。これは1850ねん妥協だきょう一部いちぶでもあった[12]州都しゅうとはそれまでのモントレーからサンノゼ(1850-51)、ヴァレーホ(1852-53)、ベニシア(1853-54)をて、最終さいしゅうてきに1854ねん、サクラメントが州都しゅうとえらばれた。

南北戦争なんぼくせんそう

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南北戦争なんぼくせんそうではカリフォルニアが主戦しゅせんじょうとおはなれていたために、ちいさな役割やくわりしかえんじられなかった。開拓かいたくしゃなかにはみなみぐん同調どうちょうするものもいたが、彼等かれら組織そしきつくることをゆるされず、その新聞しんぶん休刊きゅうかんにされた。もと合衆国がっしゅうこく上院じょういん議員ぎいんみなみぐん同調どうちょうしゃウィリアム・M・グウィンが逮捕たいほされ、そのにヨーロッパに逃亡とうぼうした。カリフォルニア政界せいかいをその鉱山こうざん輸送ゆそうおよび財力ざいりょく支配しはいした強力きょうりょく資本しほんが、あたらしい共和党きょうわとうつうじてしゅうない支配しはいした。兵卒へいそつとして志願しがんしたもののほぼ全員ぜんいん西部せいぶまり、その設備せつびまもった。みなみぐんニューメキシコじゅんしゅう南部なんぶアメリカ連合れんごうこくアリゾナじゅんしゅう設立せつりつし、さらにニューメキシコじゅんしゅう北部ほくぶコロラドじゅんしゅうれて金鉱きんこう港湾こうわんのあるカリフォルニアを目指めざそうというニューメキシコ作戦さくせん立案りつあんした。しかしカリフォルニア部隊ぶたいやく2,350めい1862ねんにアリゾナをえて東部とうぶ行軍こうぐんし、アリゾナとニューメキシコからみなみぐんした。カリフォルニア部隊ぶたい敵対てきたいてきインディアンとたたかうことにそのおおくのエネルギーをついやした。

活発かっぱつ労働ろうどう運動うんどう

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カリフォルニアしゅう選出せんしゅつ合衆国がっしゅうこく上院じょういん議員ぎいんデイビッド・C・ブロデリックは上院じょういんでのはじめての演説えんぜつで、「合衆国がっしゅうこくのどこにも、地球ちきゅううえ何処どこにもカリフォルニアにおけるほど労働ろうどうしゃめられむくいをけるところい」とべた。カリフォルニアしゅうへの初期しょき移民いみんおおくの職業しょくぎょう技術ぎじゅつっており、あるもの労働ろうどうしゃ組織そしきされた地域ちいきからていた。

カリフォルニアの労働ろうどうしゃ運動うんどうは、なんじゅうねんものあいだカリフォルニアで唯一ゆいいつ大都市だいとしであり、かってロッキー山脈さんみゃく西にしでは労働ろうどう組合くみあい主義しゅぎ中心ちゅうしんだったサンフランシスコではじまった。ロサンゼルスははん世紀せいきにわたって労働ろうどう組合くみあいへの加入かにゅう任意にんいという地盤じばん維持いじし、そのきたからの組合くみあい協業きょうぎょうしてカリフォルニアを「組合くみあいしゅう」にした。サンフランシスコが比較的ひかくてき孤立こりつした位置いちにあったので、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃたち東部とうぶ同様どうようものたち出来できなかった要求ようきゅうきつけることができた。印刷いんさつこう1850ねん組織そしきはじめ、えき馬車ばしゃ御者ぎょしゃ荷馬にうましゃ御者ぎょしゃ、はしけの船頭せんどう索具さくぐ装着そうちゃくしゃおよび港湾こうわん作業さぎょういん1851ねんに、パン職人しょくにんとれんが職人しょくにん1852ねんに、コーキング職人しょくにん大工だいく左官さかん、れんが製造せいぞうしゃ鍛冶たんやおよび造船ぞうせんこう1853ねんに、さらに1856ねんには音楽家おんがくか組織そしきされた。これらすべてのうごきは安定あんていするまで多様たようかたをしたが、より給与きゅうよ労働ろうどう条件じょうけんり、しゅう労働ろうどうほう制定せいていさせるながうごきをはじめた。1850ねんから1870ねんあいだ賃金ちんぎん支払しはら条件じょうけん機械きかいこう先取せんしゅ特権とっけんおよび1にち8あいだ労働ろうどう法制ほうせいすすんだ。

19世紀せいき後半こうはん、サンフランシスコの労働ろうどうしゃはアメリカのどの都市としよりも1にち8あいだ労働ろうどう享受きょうじゅできていたとわれた。1864ねんかた職人しょくにんとボイラー製造せいぞうしゃのストライキは、あたらしく形成けいせいされたてつ工業こうぎょう雇用こようしゃ協会きょうかいが、ストライキ参加さんかしゃ要求ようきゅうみとめた雇用こようしゃに1にちせんドルの科料かりょうるとおどし、全国ぜんこくのストライキやぶりに電報でんぽうったことに反対はんたいするためにびかけられた。サンフランシスコで最初さいしょ中央ちゅうおう労働ろうどうしゃ組織そしきであるサンフランシスコ労働ろうどう組合くみあいパナマにおけるふねいちはいのストライキやぶりとうために代表だいひょう派遣はけんし、彼等かれら教育きょういくした。彼等かれら組合くみあいいんとしてサンフランシスコに到着とうちゃくした。

1865ねん南北戦争なんぼくせんそうわると、カリフォルニアしゅう急速きゅうそく成長せいちょうつづけた。個人こじん坑夫こうふたちはほとんどだい規模きぼ会社かいしゃによる鉱業こうぎょうえられた。鉄道てつどう建設けんせつはじまり、鉄道てつどう会社かいしゃ鉱山こうざん会社かいしゃおおくの労働ろうどうしゃ雇用こようはじめた。決定的けっていてき出来事できごと1869ねん大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう開通かいつうだった。シカゴからサンフランシスコまで鉄道てつどうなら6日間にちかん旅行りょこうでき、ふねの6ヶ月かげつとはくらべものにならなかった。カリフォルニア労働ろうどうしゃ比較的ひかくてき保護ほごされた時代じだい鉄道てつどう開通かいつうともわった。そのすうじゅう年間ねんかん労働ろうどうしゃ中国人ちゅうごくじん抑圧よくあつし、政治せいじはん中国人ちゅうごくじん法制ほうせいすすめた。

奴隷どれい輸入ゆにゅう、いわゆる「契約けいやく労働ろうどうしゃについては坑夫こうふ都市とし労働ろうどうしゃ闘争とうそう結果けっか1852ねん法律ほうりつ違法いほうとされた。

しゅう全体ぜんたいでは最初さいしょ連合れんごう労働ろうどうしゃ組織そしきしゅう機械きかいこう協議きょうぎかいであり、1867ねんにできた雇用こようしゃの「10あいだ同盟どうめい」に対抗たいこうして1にち8あいだ労働ろうどうすすめた。この協議きょうぎかいはアメリカでも最初さいしょ全国ぜんこくてき労働ろうどう組合くみあい組織そしきである全国ぜんこく労働ろうどう組合くみあい提携ていけいした。1872ねんまでにサンフランシスコの工場こうじょう労働ろうどうしゃ半数はんすう中国人ちゅうごくじんとなり、白人はくじん労働ろうどうしゃよりもはるかにひく賃金ちんぎんはたらかされた。サンフランシスコの著名ちょめい労働ろうどう指導しどうしゃデニス・カーニーのスローガンは「中国人ちゅうごくじんよ、け」だった。カーニーは1877ねん登場とうじょうし1ぐん自警じけいだんひきいて市中しちゅう彷徨ほうこうし、中国人ちゅうごくじんなぐり、その仕事しごと破壊はかいした。

西海岸にしかいがん海員かいいんは2かいほど組合くみあい結成けっせいしようとしたがそのたび失敗しっぱいした。1875ねん海員かいいん保護ほご協会きょうかい設立せつりつされ、賃金ちんぎん船上せんじょうでの労働ろうどう条件じょうけん闘争とうそうはじめた。このうごきにサンフランシスコ・ポストの編集へんしゅうしゃヘンリー・ジョージがくわわった。残酷ざんこく船長せんちょう対抗たいこうする法制ほうせい闘争とうそう船員せんいんの3ぶんの2はアメリカじんであるべきという要求ようきゅう提案ていあんされ、このうごきは30年間ねんかん、アンドリュー・フルセス、1908ねん以後いご太平洋たいへいよう海員かいいん組合くみあい、さらにアメリカ国際こくさい海員かいいん組合くみあいによって遂行すいこうされた。海岸かいがん海員かいいんジャーナルが1887ねん創刊そうかんされ、ながあいだカリフォルニアにおけるもっと重要じゅうよう労働ろうどうしゃよう雑誌ざっしになった。

現在げんざい海員かいいん組織そしき太平洋たいへいよう海事かいじ連合れんごうがれている。

労働ろうどう政策せいさくとアジア移民いみん排斥はいせきうご

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なんせんもの中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃとしてはたらくためにカリフォルニアに到着とうちゃくし、実業じつぎょうてい賃金ちんぎん労働ろうどうしゃとしてやとわれた。ながあいだに、金山かなやま都市としこった紛争ふんそう白人はくじん中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃあいだ偏見へんけんんだ。鉄道てつどう完成かんせいしたのちの10年間ねんかんにおよぶきょう白人はくじん労働ろうどうしゃ中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃ非難ひなんはじめた。おおくの中国人ちゅうごくじん鉱山こうざんからされた。セントラル・パシフィック鉄道てつどう開通かいつうしたのち中国ちゅうごくもどったものもいた。のこったものたちおおくはサンフランシスコやそのいくつかの都市としチャイナタウン移転いてんし、あじわった暴力ぼうりょくてき攻撃こうげきから比較的ひかくてき安全あんぜんになった。

1850ねんから1900ねんまでに、はん中国ちゅうごく移民いみん排斥はいせき感情かんじょうかぞえきれないほどの法律ほうりつむことになり、そのおおくは20世紀せいきなかばになってものこった。もっとあま逸話いつわはおそらく1879ねんあたらしいしゅう憲法けんぽう起稿きこう批准ひじゅんだった。デニス・カーニー(アイルランド移民いみん)がひきいるはん中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃとうによる活発かっぱつなロビー活動かつどうのおかげで、しゅう憲法けんぽうだい19じょうだい4せつ会社かいしゃ中国人ちゅうごくじんクーリーをやとうことを禁止きんしし、カリフォルニアの全市ぜんしぜんぐんには完全かんぜん中国人ちゅうごくじん追放ついほうするかむことのできる場所ばしょ制限せいげんする権限けんげんあたえた。この条項じょうこう1952ねん撤廃てっぱいされた。

1879ねんしゅう憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎでは、連邦れんぽう議会ぎかいにむけてつよ移民いみん規制きせい嘆願たんがんするメッセージをはっすることもおこない、これが1882ねん中国人ちゅうごくじん排斥はいせきほう成立せいりつつながった。このほう1889ねん合衆国がっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょによっても支持しじされ、1943ねんまで議会ぎかいによって撤廃てっぱいされることはかった。同様どうよう感情かんじょう1907ねん日本にっぽんとの紳士しんし協定きょうてい日米にちべい紳士しんし協約きょうやく)に発展はってんし、日本にっぽん自発じはつてき合衆国がっしゅうこくけた移民いみん規制きせいすることに合意ごういした。カリフォルニアしゅう1913ねん外国がいこくじん土地とちほう成立せいりつさせ、外国がいこくじんとくにアジアじん土地とち所有しょゆうけんることをきんじた。1960年代ねんだいまでアジアまれのもの合衆国がっしゅうこく市民しみんけんることがむずかしかったので、土地とち所有しょゆうけんはアメリカ市民しみんとなれるアメリカでまれた子供こどもたちわたされた。この法律ほうりつ1952ねんにカリフォルニアしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょによって違憲いけんとされ撤廃てっぱいされた。

1886ねん中国人ちゅうごくじん洗濯せんたくじょう所有しょゆうしゃ中国人ちゅうごくじん洗濯せんたくぎょうからすサンフランシスコの条例じょうれい合憲ごうけんせいについて異議いぎもうてをおこない、合衆国がっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょはその中国人ちゅうごくじんかた裁定さいていくだし、現代げんだい平等びょうどう保護ほごという憲法けんぽう理論りろんてき根拠こんきょあたえた。一方いっぽう、アジア移民いみんたいするきびしい制限せいげんったが、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ富裕ふゆう土地とち所有しょゆうしゃあいだ緊張きんちょう関係かんけい世界せかい恐慌きょうこうころまでつづいた。小説しょうせつジャック・ロンドンオークランド労働ろうどうしゃ闘争とうそう題材だいざいに、その幻想げんそうてき古典こてんつき渓谷けいこく』をいた。この表題ひょうだいうみやまレッドウッドとオーク、きり日光にっこうあいだのソノマぐん原始げんしてき状態じょうたい想起そうきさせるものである。

鉄道てつどう興隆こうりゅう

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アメリカ大陸あめりかたいりく横断おうだん鉄道てつどう完成かんせいはカリフォルニアを恒久こうきゅうてきくにほか地域ちいきつなぎ、それにつづ世紀せいき遠距離えんきょり輸送ゆそう仕組しくみは、カリフォルニアしゅう社会しゃかいてき政治せいじてきおよび経済けいざいてき発展はってんにおいて無敵むてきとなることにはかれない貢献こうけんたした。

20世紀せいき

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組織そしき労働ろうどうしゃ

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カリフォルニアにおける組織そしき労働ろうどうしゃ歴史れきししゅう初期しょき大半たいはんはサンフランシスコが中心ちゅうしんだった。20世紀せいき最初さいしょの10年間ねんかんにまでに、労働ろうどう運動うんどうはロサンゼルス、ロングビーチ、およびセントラルバレーにひろがった。1901ねん、サンフランシスコを本拠ほんきょとする都市とし戦線せんせん連合れんごうはこのくにでももっとつよ労働ろうどう組合くみあい連合れんごうという評判ひょうばんだった。これは世紀せいきわりこったこうきょうあいだぜん産業さんぎょう推進すいしんされた強力きょうりょく組織そしき成長せいちょうした。雇用こようぬしは1900ねん建設けんせつぎょうストライキおよび1901ねん都市とし戦線せんせん連合れんごうのストライキのあいだ組織そしきすすめ、建設けんせつぎょう協議きょうぎかい設立せつりつつながった。任意にんい加入かにゅう問題もんだい危機ききひんしていた。市長しちょうがストライキやぶりを保護ほごするために市警しけい使つかったことに労働ろうどうしゃたちおこったために、都市とし戦線せんせん連合れんごうのストライキのなかから組合くみあい労働ろうどうしゃとうまれた。1902ねんとう公認こうにんでユージーン・シュミッツが市長しちょうえらばれ、サンフランシスコはしばらくのあいだ全米ぜんべい唯一ゆいいつ労働ろうどうしゃ運営うんえいされる都市としとなった。改革かいかくしゃ堕落だらく不謹慎ふきんしんわされ1907ねん汚職おしょく告発こくはつつながった。

1910ねん、ロサンゼルスはまだ任意にんい加入かにゅう状態じょうたいであり、北部ほくぶ雇用こようしゃはサンフランシスコもあらたに任意にんい加入かにゅうとするようおどしをけた。これに反応はんのうした労働ろうどうしゃは1910ねん6がつ代表だいひょう南部なんぶおくった。ロックアウトで仕事しごとくなった金属きんぞくぎょう労働ろうどうしゃ1,200にん全国ぜんこくてきまとめやく派遣はけんされた。そのにロサンゼルスの労働ろうどうしゃ組織そしきなん年間ねんかん挫折ざせつさせる出来事できごとこった。1910ねん10がつ10日とおか、「ロサンゼルス・タイムズ印刷所いんさつしょばくだん破裂はれつし、21にん労働ろうどうしゃころした。

そのの10年間ねんかん組合くみあい業種ぎょうしゅ伐採ばっさいぎょう小麦こむぎ農業のうぎょう製材せいざいぎょうで「世界せかい産業さんぎょう労働ろうどう組合くみあい」(IWW)が急速きゅうそく成長せいちょうし、鉱業こうぎょう港湾こうわんおよび農業のうぎょうにそのうごきをひろげた。保安ほあんかん集団しゅうだん抗議こうぎ集会しゅうかいやぶり、4にんころされたホィートランド・ホップ暴動ぼうどうのちでIWWは大衆たいしゅう注目ちゅうもくびた。これがはたけ仕事しごとをする労働ろうどうしゃまも最初さいしょ法制ほうせいつながった。IWWははん組合くみあい運動うんどうや、あたらしい州法しゅうほう政府せいふ主義しゅぎ犯罪はんざいとするなか組合くみあいいん告発こくはつされることで障害しょうがいけた。IWWは1923ねんのサンペドロにおける海員かいいんストライキにもかかわり、アプトン・シンクレア独立どくりつ宣言せんげん朗唱ろうしょうしたことで逮捕たいほされた。IWWのなかでももっと著名ちょめいになったおとこトマス・ムーニーはもなく労働ろうどうしゃ関心かんしんあつめる対象たいしょうとなりアメリカでももっと重要じゅうよう政治せいじはんとなった。

ムーニー事件じけんでは10にんころされ、労働ろうどうすうじゅう年間ねんかんにわたってきずつけた。1920年代ねんだい任意にんい加入かにゅううごきがアメリカン・プランとばれる共同きょうどう戦略せんりゃくつうじて成功せいこうした。ある場合ばあいには、サンフランシスコの産業さんぎょう協会きょうかいが100まんドルの資金しきんつくって、1921ねん建設けんせつぎょうストライキをやぶり、建設けんせつぎょう組合くみあい崩壊ほうかいみちびいた。この雇用こようしゃがわ協会きょうかいは1ねんに2かい賃金ちんぎんをカットし、また金属きんぞく産業さんぎょう協議きょうぎかいやぶれて、1907ねん以来いらい有効ゆうこうだった協定きょうていうしなった。海員かいいん組合くみあいも1921ねん敗北はいぼくあじわった。

労働ろうどう運動うんどうは、1933ねん全国ぜんこく産業さんぎょう復興ふっこうほう成立せいりつと、オーストラリアわか労働ろうどうしゃハリー・ブリッジズが労働ろうどうしゃ指導しどうしゃとしてあらわれたことで、1930年代ねんだいたかまりをしめした。国際こくさい港湾こうわん荷役にやく労働ろうどうしゃ組合くみあい支部しぶが1933ねんにできたのちすう週間しゅうかんで、港湾こうわん労働ろうどうしゃの90%以上いじょう加入かにゅうした。ドック作業さぎょうしゃ1934ねん3月7にちにストライキを決議けつぎした。5月15にち海員かいいん組合くみあい投票とうひょうでストライキへの参加さんかめ、船舶せんぱく事務じむいん免許めんきょ士官しかん組織そしきつづいた。7がつ5にち、サンフランシスコの「だいストライキ」は、「木曜日もくようび」とばれる事件じけん2人ふたり労働ろうどうしゃころされ、すうひゃくにん棍棒こんぼうなぐられ催涙さいるいガスをびるということがこり、カリフォルニアの労働ろうどう組合くみあい大半たいはん西海岸にしかいがん港湾こうわんストライキに参加さんかすることになった。太平洋たいへいよう海事かいじ連合れんごう1935ねん組織そしきされた。

1930年代ねんだいのサンフランシスコには12まんにん組合くみあいいんがいた。港湾こうわん荷役にやく労働ろうどうしゃはその組合くみあいつくったしろ帽子ぼうし組合くみあいのボタンをけ、トラック運転うんてんしゅ組合くみあいいんとしてトラックを運転うんてんし、漁師りょうし、タクシー運転うんてんしゅ市街しがい電車でんしゃ車掌しゃしょう電車でんしゃ運転うんてん新聞しんぶん配達はいたつじん小売こうりてん店員てんいん、ホテルの従業じゅうぎょういん新聞しんぶん記者きしゃすべ代表だいひょうった。1933ねんから1934ねんは3まんにんだったロサンゼルスの労働ろうどう組合くみあいいんが、1938ねんきびしいはんピケ条例じょうれいにもかかわらず30年代ねんだいおそくには20まんにん成長せいちょうした。しかし、ロサンゼルスは飛行機ひこうき自動車じどうしゃ、ゴム、石油せきゆ大量たいりょう生産せいさん産業さんぎょうとサンペドロの工場こうじょう組織そしきされていた。のち組合くみあいうごきは音楽家おんがくか、トラック運転うんてんしゅ建設けんせつぎょう映画えいが俳優はいゆう作家さっかおよび監督かんとくにもひろがった。

農場のうじょう労働ろうどうしゃ組織そしきされず、労働ろうどう過酷かこく報酬ほうしゅうすくなかった。1930年代ねんだい、20まんにん農場のうじょう労働ろうどうしゃぶし調整ちょうせいしゅうないうごいた。組合くみあい土地とち所有しょゆうしゃたいして「内陸ないりく行進こうしん」を非難ひなんし、このとき農場のうじょう労働ろうどうしゃ組織そしきする初期しょきうごきがあった。渓谷けいこくまちおおくが組織そしき妨害ぼうがいのためにはんピケ条例じょうれい後押あとおしした。1933ねんから1934ねんけて、農業のうぎょうストライキのなみ中央ちゅうおう渓谷けいこくおそい、インペリアル・バレーのレタス・ストライキやサンホアキン・バレーのコットン・ストライキがこった。1936ねん、サリナスのレタス・ストライキでは、自警じけいだん暴力ぼうりょくくにちゅう衝撃しょうげきあたえた。また1938ねんはるやく300にん男女だんじょ子供こども自警じけいだんによってグラスバレーネバダシティいえからされた。

1938ねんのピケにたいする住民じゅうみん投票とうひょう提案ていあん提案ていあん1ごう」は、しゅう農民のうみん共済きょうさい組合くみあい解説かいせつしゃにファシスト(極右きょくう)となされ、おおきな政治せいじ闘争とうそうとなった。提案ていあん1ごう投票とうひょうやぶれた。もなくカリフォルニアの組合くみあい白人はくじん組合くみあいいんみとめるようになるにつれて、人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎよわまった。

だい世界せかい大戦たいせん開始かいしまでに、カリフォルニアは高齢こうれいしゃ支援しえんほう雇用こよう保険ほけんほう女性じょせいたいするしゅう最大さいだい48あいだ労働ろうどう徒弟とてい奉公ほうこうほうおよび職場しょくば安全あんぜん規則きそくつにいたった。

土木どぼく工学こうがく成果せいか

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カリフォルニアポピーえん

20世紀せいきへのわりから、カリフォルニアの歴史れきし工学こうがく分野ぶんやいくつかの功績こうせきてきた。おおくのなかでも最初さいしょ主要しゅようなものは鉱業こうぎょう建設けんせつおよび鉄道てつどうだった。そのかなりって、ロサンゼルス上水じょうすいオーエンズヴァレーからり、モハーヴェ砂漠さばくアンテロープ・バレーとおって、はるかみなみ乾燥かんそうしたロサンゼルスまでみずはこんだ。1911ねん完成かんせいしたが、独学どくがくのウィリアム・マルホランドの頭脳ずのう所産しょさんであり、今日きょうでも使つかわれている。東部とうぶシエラネバダ山脈さんみゃくからながるクリークのみずがこの水路すいろあつめられた。これは1960年代ねんだい議論ぎろんんだ。というのもこの水路すいろモノみずうみからみずいており、このみずうみとく別世界べっせかいのようなうつくしい生態せいたいけいっていたからである。またオーウェンズ・バレーの農夫のうふからも苦情くじょうがあった(カリフォルニアすい戦争せんそう)。

もう1つの功績こうせきフーバーダムネバダしゅうにあるが、電力でんりょくみずみなみカリフォルニア供給きょうきゅうされる)、ヘッチ・ハッチー貯水池ちょすいち、シャスタダムおよびカリフォルニア水路すいろであり、きたカリフォルニアから乾燥かんそう広範囲こうはんいひろがったみなみカリフォルニアにみずをもたらした。べつ計画けいかくはトゥーレアみずうみからの取水しゅすいだった。このみずうみはアメリカのなかこう水位すいいとき最大さいだい淡水たんすいみずうみだった。このことで乾燥かんそうしたサンホアキン・バレーのなかだい規模きぼ湿地しっちつくし、海岸かいがんにも豊富ほうふ沼地ぬまちつくった。1970年代ねんだいまでにみずうみみず完全かんぜんかれたが、多雨たうには自分じぶん復活ふっかつしようとしている。

1910ねん以降いこう自動車じどうしゃでの移動いどう重要じゅうようになった。重要じゅうよう道路どうろリンカーン・ハイウェイであり、アメリカでははじめての自動車じどうしゃよう大陸たいりく横断おうだん道路どうろとなり、ニューヨークとサンフランシスコをつないだ。1913ねん完成かんせいしたリンカーン・ハイウェイはしゅうない産業さんぎょう観光かんこう両方りょうほう発展はってんおおきな刺激しげきとなった。同様どうよう1926ねんのアメリカ国道こくどう66号線ごうせん完成かんせい効果こうかげた。

石油せきゆ映画えいがおよび軍事ぐんじ

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1920年代ねんだい北部ほくぶロサンゼルスぐんニューホールちかくで最初さいしょ石油せきゆ発見はっけんされた。もなくロサンゼルス盆地ぼんちやカリフォルニアのほか地域ちいきでさらにおおくの石油せきゆ発見はっけんされた。これがもなくしゅう南部なんぶではもっと利益りえき産業さんぎょうになった。

20世紀せいき最初さいしょの10年間ねんかんは、映画えいが撮影さつえいしょ興隆こうりゅうした。MGMユニバーサルおよびワーナー・ブラザースすべて、ロサンゼルス郊外こうがいの「ハリウッドランド」とばれたちいさな区画くかくだったハリウッド土地とち獲得かくとくした。

あいだもなく、くにちゅうとく中西部ちゅうせいぶからのアメリカじんは、カリフォルニアの温暖おんだん地中海ちちゅうかいしき気候きこうやす土地とちおよびトラックでけばぐに多様たよう地形ちけいられるこの地域ちいきけられた。この時代じだいおおくの西部せいぶげきは、シエラネバダ山脈さんみゃくひがし、そこには全米ぜんべい一番いちばんたかやまであるホイットニーさんそびえ、そのオーウェンズ・バレーで撮影さつえいされた。砂漠さばくのシーンはモハーヴェ砂漠さばくや、西半球にしはんきゅうもっとひく地点ちてんでありかつもっとあついるデスバレー撮影さつえいされた。海賊かいぞく映画えいがはカーメルで撮影さつえいされた。ふゆのシーンはサンベルナルディーノさん撮影さつえいされた。地中海ちちゅうかい合衆国がっしゅうこく東部とうぶ舞台ぶたい映画えいがは、ロケられるか、スタディオ地域ちいき戸外こがいセットでられ、あめゆきらし装置そうち必要ひつようだった。

1930年代ねんだいまでにショービジネスがラジオの普及ふきゅうともにその人口じんこうやし、20世紀せいきなかばまでには、みなみカリフォルニアはおおきなテレビ番組ばんぐみ制作せいさくしょあつまり、NBCCBSのような主要しゅようネットワークのためのスタディオがそなえられた。1934ねんしゅう知事ちじ選挙せんきょで、小説しょうせつのアプトン・シンクレアは世界せかい恐慌きょうこうたいする急進きゅうしんてき反応はんのうしめした社会しゃかい主義しゅぎしゃのEPIC運動うんどう(カリフォルニアの貧乏びんぼう追放ついほう運動うんどう)のプログラムにって出馬しゅつばしたが、民主党みんしゅとう候補こうほ僅差きんさやぶれた。

1941ねん12月にはじまっただい世界せかい大戦たいせんあいだ日本にっぽん海軍かいぐん潜水せんすいかん攻撃こうげきけ、しゅう全体ぜんたい灯火ともしび管制かんせいおこなわれたものの、カリフォルニアの温暖おんだん気候きこう戦争せんそう遂行すいこうおおきな資源しげんとなった。おおくの航空こうくう訓練くんれん基地きちみなみカリフォルニアにつくられ、そこにはダグラス・エアクラフトやヒューズ・エアクラフトのような飛行機ひこうき製造せいぞう会社かいしゃ工場こうじょう拡張かくちょうしたり新設しんせつした。

アメリカ海軍かいぐん主要しゅよう造船ぞうせんしょはサンディエゴ、ロングビーチおよびサンフランシスコわん拡張かくちょうされまた新設しんせつされた。サンフランシスコはリバティせん基地きちでもあった。まただい世界せかい大戦たいせん開始かいし日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうようおこなわれ、おおくの日系にっけいアメリカじん強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。

ベビーブーマーと自由じゆう精神せいしん

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戦後せんごすうおおくの土地とち開発かいはつしゃ土地とちやすい、それを分割ぶんかつしていえて、金持かねもちになった。不動産ふどうさん開発かいはつみなみカリフォルニアの主要しゅよう産業さんぎょうとしての地位ちい石油せきゆ農業のうぎょうってわった。1955ねんアナハイムディズニーランドがオープンした。1958ねんだいリーグロサンゼルス・ドジャースサンフランシスコ・ジャイアンツがそれまでの本拠地ほんきょちニューヨークはなれてうつってきた。カリフォルニアしゅう人口じんこう劇的げきてき拡大かくだいし1970ねんまでに2,000まんにんちかくになった。これはベビーブーム世代せだい成人せいじんだった

1960年代ねんだいおそく、ベビーブーム世代せだい徴兵ちょうへい年齢ねんれいたっしそのおおくがベトナム戦争せんそう反対はんたいした。おおくのデモやストライキがこり、もっと有名ゆうめいなものはサンフランシスコからはわんかいにあって、権威けんいカリフォルニア大学だいがくバークレーこうだった。1965ねんロサンゼルスの南中なんちゅうにあるワッツで人種じんしゅ暴動ぼうどうこった。ロサンゼルスのサンセットどおりでのヒッピー暴動ぼうどうバッファロー・スプリングフィールドの『For What It's Worth』(なにのための価値かちなのか、1966ねん)で不朽ふきゅうのものにもなった。連邦れんぽう政府せいふはベトナム戦争せんそうからの撤退てったい約束やくそくしたが、結局けっきょく1974ねんまでつづいた。急進きゅうしんてき政治せいじ運動うんどうはその目的もくてきおおくを達成たっせいしたが、支持しじしゃ構成こうせいいん資金しきんうしなった。

カリフォルニアは自由じゆう精神せいしんけっぴろげなしんなにとかなるという生活せいかつだった。当時とうじのポピュラー・ミュージックのタイトルは『カリフォルニア・ガールズ』、『カリフォルニア・ドリーミング』、『サンフランシスコ』、『サンホセへのみちってるかい?』(Do You Know the Way to San Jose?)および『ホテル・カリフォルニア』のようなものだった。これらはカリフォルニアでの天国てんごくてき気候きこう生活せいかつ容易たやすさが約束やくそくされていることを反映はんえいしていた。サーフィン文化ぶんか成長せいちょうした。おおくのものてい賃金ちんぎん仕事しごとえら海岸かいがんでトレーラーにむサーファーにくわわり、またべつおおくは大望たいぼうてて都市としのヒッピーの自由じゆう生活せいかつくわわった。

もっと有名ゆうめいなヒッピーのまりはサンフランシスコのハイト・アッシュベリー地区ちくだった。しゅうない都市としとくにサンフランシスコはその上品じょうひんさと寛容かんようさで有名ゆうめいになった。独特どくとく長閑のどかなカリフォルニアの文化ぶんか短期間たんきかんつくられた。この文化ぶんかのピークは1967ねんであり、「あいなつ」とばれた。合衆国がっしゅうこくほか場所ばしょからは、しばしば軽蔑けいべつてきに、またうらやみもって「果実かじつ土地とち」とばれるようになったが、カリフォルニアじん自身じしんはこれをたのしい生活せいかつかっていた。

経済けいざいりょく

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ぎゃくにこのおな時期じきに、ゴールデンステート(カリフォルニアしゅう渾名あだな)は天文学てんもんがくてき数字すうじ商業しょうぎょう産業さんぎょう膨張ぼうちょうもあった。1960ねん高学歴こうがくれきマスタープランの採用さいようで、コミュニティ・カレッジカリフォルニア大学だいがくカリフォルニア州立しゅうりつ大学だいがくこう効率こうりつ公的こうてき教育きょういく制度せいど発展はってんさせた。教育きょういくけた人材じんざいすことで、とくにハイテクにかかわる地域ちいきでの投資とうしんだ。1980ねんまでに、カリフォルニアは世界せかいでも8番目ばんめおおきな経済けいざいという認識にんしきがあった。経済けいざい膨張ぼうちょう対応たいおうするためになんひゃくまんという労働ろうどうりょく必要ひつようだった。当時とうじたか人口じんこう成長せいちょうりつによりアーバン・スプロール都市とし不規則ふきそくひろがり、ドーナッツ現象げんしょう)、交通こうつう公害こうがい、また程度ていどひくいものの犯罪はんざいという途方とほうもない問題もんだいこした。

アーバン・スプロールはおおくの都会とかい反動はんどうみ、地方ちほう政府せいふはある領域りょういきでは成長せいちょう制限せいげんし、いえてるための宅地たくち面積めんせきらすなどした。開発かいはつ土地とち取得しゅとくし、維持いじ保存ほぞんするためにしゅうないいくつかの場所ばしょにオープンスペース地区ちくもうけられた。たとえば、サンフランシスコわん地区ちくでは、オープンスペース地区ちくわん都心としんかこ海岸かいがん地域ちいきおかとおして、恒久こうきゅうてき開発かいはつ土地とちがほぼつづいており、おおきな自然しぜん公園こうえんつくることを可能かのうにし、ハイキング道路どうろ想定そうていして、最終さいしゅうてきにはいちつづきのたまきわんくことになる。

大気たいき汚染おせんスモッグ)というおおきな問題もんだいは1970年代ねんだい初期しょきおおきくなり、また反動はんどうんだ。オゾンの数値すうち不健康ふけんこうにまでたかまると「スモッグ・デイ」とされて都心としん学校がっこう周期しゅうきてき閉鎖へいさされ、都会とかいおかは1マイル (1.6 km)以内いないですら滅多めったえなかった。カリフォルニアは変化へんか対応たいおうできた。そのの30年間ねんかんにわたり、合衆国がっしゅうこくでももっときびしいスモッグ取締とりしまり規定きていつくり、自動車じどうしゃふく様々さまざま産業さんぎょう汚染おせん戦略せんりゃく奨励しょうれいする指導しどうてき存在そんざいとなった。たとえばカープール・レーン通常つうじょう2めいまたは3めい以上いじょうせている自動車じどうしゃのみが通行つうこうできた(2めいあるいは3めいという数字すうじ道路どうろによる)。ただし、電気でんき自動車じどうしゃ乗員じょういん1にんでもはしれた。その結果けっか、ピークくらべればスモッグはかなりったが、地方ちほうだい気質きしつ管理かんり地区ちくいまでも大気たいき状態じょうたいをモニターしており、あつくてスモッグが最悪さいあくになると予測よそくされるには汚染おせん行動こうどうけるよう奨励しょうれいしている。

交通こうつう輸送ゆそう都会とかい問題もんだいとしてのこっている。解決かいけつさくしめされたが、その計画けいかく承認しょうにんおよび施設しせつつくるための費用ひよう時間じかん人口じんこう増加ぞうか速度そくどっていない。いくらかの改良かいりょうおこなわれた。カープール・レーンは都会とかいたりまえになり、一人ひとりくるま運転うんてんするよりも相乗あいのりを奨励しょうれいすることが意図いとされた。サンノゼ徐々じょじょライトレール敷設ふせつしつつある(皮肉ひにくなことに、元々もともと世紀せいきわりごろにできた電車でんしゃ線路せんろは、自動車じどうしゃ時代じだい到来とうらい奨励しょうれいするためにがされ舗装ほそうされていた。そのみちがライトレールにいま使つかわれている)。解決かいけつさくのどれも批判ひはんけないものはかった。サンフランシスコわん地域ちいきやロサンゼルス盆地ぼんちでの郊外こうがいへのひろがりに対応たいおうして、それなりの人口じんこう対応たいおうできる大量たいりょう輸送ゆそう機関きかん建設けんせつするのがむずかしかった。

1970年代ねんだい東南とうなんアジアでの戦争せんそうわり、その地域ちいきくにとくベトナムからあらたにやってくるものなみおとずれ、そのおおくはカリフォルニアにはいった。大半たいはん一生懸命いっしょうけんめいはたらきびしい環境かんきょう生活せいかつした。ウェストミンスターやオレンジぐんのガーデングラブにはリトル・サイゴンがつくられた。

カリフォルニアの法制ほうせい革命かくめい

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1960年代ねんだい、ロジャー・J・トレイナー首席しゅせき判事はんじ指導しどうで、カリフォルニアはリベラルで進歩しんぽてきとなり、犯罪はんざいりつ急増きゅうぞうしても被告ひこく権利けんり強調きょうちょうした。トレイナーの首席しゅせき判事はんじとしての任期にんき(1964ねん-1970ねん)は、おおくの「最初さいしょ」で特徴付とくちょうづけられた。カリフォルニアは製造せいぞうぶつ責任せきにんしん厳格げんかく責任せきにんつくした最初さいしょしゅうであり、原告げんこく身体しんたいてき損傷そんしょう場合ばあいでも精神せいしんてき苦痛くつう過失かしつ傷害しょうがい行動こうどうみとめた最初さいしょしゅうであり、また身体しんたいてき損傷そんしょうだけが身内みうちたいするものである場合ばあい精神せいしんてき苦痛くつう過失かしつ傷害しょうがい第三者だいさんしゃうったえることをみとめた最初さいしょしゅうである。

1960年代ねんだいからカリフォルニアは家族かぞくほうでも指導しどうてき存在そんざいになった。1969ねん家族かぞくほう成立せいりつで、しん過失かしつ離婚りこんみとめる最初さいしょしゅうになった。1994ねん議会ぎかい家族かぞくほう民法みんぽうてんからし、あらたに家族かぞく法典ほうてんつくった。2002ねん議会ぎかい登録とうろくされた同棲どうせいしゃ州法しゅうほうじょう配偶はいぐうしゃおな権利けんりみとめた。2008ねん、カリフォルニアは、カリフォルニア最高さいこう裁判所さいばんしょ同性どうせいこん禁止きんし違憲いけんであると裁定さいていしたとき、これを合法ごうほうとしたことでは2番目ばんめしゅうになった。

1980年代ねんだいなか以来いらい、カリフォルニア最高さいこう裁判所さいばんしょは、とく刑事けいじ事件じけん被告ひこく権利けんりかんしてより保守ほしゅてきになった。これは一般いっぱんに1980年代ねんだい初期しょき首席しゅせき判事はんじローズ・バードがはん死刑しけい立場たちば厳密げんみつった反動はんどうられている。バードはしゅうない暴力ぼうりょく犯罪はんざい急増きゅうぞうして犯罪はんざいりつ記録きろくてきたかさになってもこの立場たちばまもった。しゅうない激怒げきどした選挙せんきょみん反応はんのうして1986ねん11月にバード(およびはん死刑しけい同調どうちょうしゃ2にん)を司法しほうしょくから解任かいにんした。

ハイテクのひろがり

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1950年代ねんだいから北部ほくぶカリフォルニアのハイテク企業きぎょうを瞠る成長せいちょうげ、20世紀せいきわりまでつづいた。主要しゅよう製品せいひんとしては、パーソナルコンピュータビデオゲーム、およびネットワーク・システムがあった。これら企業きぎょうだい部分ぶぶんパロアルトからサンノゼにびる幹線かんせん道路どうろ沿いに立地りっちし、サンタクララ・バレーのサンタクララサニーベイルなどにあつまっていたため、それらの地域ちいき当時とうじだい規模きぼ集積しゅうせき回路かいろ (IC)をつくるために使つかわれた材料ざいりょう名前なまえちなんで、いわゆる「シリコンバレー」と名付なづけられた。こうした産業さんぎょう成長せいちょうはいわゆる「2000ねん問題もんだい」をかかえた2000ねんにピークをむかえ、同年どうねんまでに熟練じゅくれんした工学こうがく専門せんもんたいする需要じゅよういちじるしくたかくなったので、ハイテク企業きぎょうはそのもとめる役職やくしょくめるのが困難こんなんになり、それゆえに海外かいがい人材じんざい採用さいようするためにビザてをやすよう要求ようきゅうした。しかし2001ねんはいると、ドットコム・バブル崩壊ほうかいこり、おおくの人々ひとびと一夜いちやにして仕事しごとうしなうこととなった。これにつづく2年間ねんかんは、はじめて地域ちいきはいってくるものよりもものほうおおいという現象げんしょうられた。このことは、20ねんほどまえみなみカリフォルニアにおける宇宙うちゅう産業さんぎょう崩壊ほうかい幾分いくぶんていた。

2004ねんまでに、切望せつぼうされるハイテクの仕事しごとおおくは、労務ろうむがアメリカの10%であるインド外注がいちゅうされたり、インドや中国ちゅうごくなんじゅうおくにんなかから新参しんざんものやとってうちさくするかのどちらかになったようにえる。とくきたアメリカ自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい(NAFTA)採用さいようは、あたらしい法律ほうりつでビザの制約せいやくくした。1960ねん以降いこうだいさん世界せかいからすうせんまんにん人々ひとびと合衆国がっしゅうこくはいり、最初さいしょおもにカリフォルニアや南西なんせいはいったが、いま大陸たいりく全体ぜんたいひろがっている。1960ねん出生しゅっしょうりつ置換ちかんりつひとしくなったとき)の合衆国がっしゅうこく人口じんこうは1おく8せんまんにんだったが、2000ねん時点じてんでは2おく8せんまんにんになっている。

成功せいこう犠牲ぎせい

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大気たいき汚染おせん問題もんだいったものの、環境かんきょう汚染おせんともな健康けんこう問題もんだいつづいている。しかし「スモッグ」とばれる褐色かっしょくの靄は実際じっさいったが、喘息ぜんそく問題もんだいとしてのこっている。排水溝はいすいこうからされる汚染おせん海岸かいがん生物せいぶつころしたことでおおくの環境かんきょう保護ほご団体だんたいがった。海岸かいがんせんのクリーク河口かこう環礁かんしょう都市とし建設けんせつ計画けいかく消滅しょうめつし、海岸かいがん開発かいはつ規制きせいつながった。

電力でんりょく供給きょうきゅうときとして問題もんだいになった。たとえば、2000ねんはるなつみなみカリフォルニア・エディソンやパシフィック・ガス・アンド・電気でんき会社かいしゃのような電力でんりょく供給きょうきゅう会社かいしゃ計画けいかく停電ていでんおこな過剰かじょう供給きょうきゅうによる需要じゅよう抑制よくせいした(カリフォルニア電力でんりょく危機きき)。1990年代ねんだい、ネアブラムシの病気びょうきがカリフォルニアのブドウえんおそい、ワインようブドウをころし、すうじゅうおくドルの損害そんがいあたえた。

また、すうじゅう年来ねんらい熟練じゅくれん労働ろうどうしゃたいする需要じゅようつづいている。都市とし住宅じゅうたく価格かかくがりつづけ、反対はんたいおな期間きかん経済けいざい成長せいちょう速度そくどちていった。1960年代ねんだい平均へいきんてき家屋かおく価格かかくは25,000ドルだったものが、2005ねんまでに都市としでは50まんドル以上いじょうになった。都市としではおおくの給与きゅうよかせげるので、より田舎いなかいえ購入こうにゅうして通勤つうきん時間じかんながくかけるひとおおくなった。この様相ようそうは2007ねん住宅じゅうたく価格かかくがりはじめてわってきた。

21世紀せいき

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2002ねん知事ちじ選挙せんきょで、民主党みんしゅとう現職げんしょくグレイ・デイビス共和党きょうわとう挑戦ちょうせんしゃビル・サイモンをやぶった。

2003ねん10がつ7にち投票とうひょうしゃの55.4%が支持しじしてデイビスのリコールが成立せいりつした。さらに48.6%の多数たすう支持しじ共和党きょうわとうアーノルド・シュワルツェネッガー知事ちじえらばれた。ふく知事ちじクルス・バスタマンテは投票とうひょう総数そうすうの31.5%であり、共和党きょうわとう上院じょういん議員ぎいんのトム・マクリントックは13.5%にぎなかった。

シュワルツェネッガーは共和党きょうわとう出身しゅっしん知事ちじとして保守ほしゅてき政策せいさく実行じっこうした。当初とうしょしゅう予算よさんかんして民主党みんしゅとう多数たすうとうである下院かいん上院じょういんでいいあらそうことになった。この闘争とうそうはその悪名あくめいたかい「少女しょうじょっぽいおとこたち」というコメントをんだだけでなく、その支持しじりつにも損失そんしつあたえるようになった。シュワルツェネッガーは、2005ねん特別とくべつ選挙せんきょいくつかの住民じゅうみん投票とうひょう案件あんけん成立せいりつさせる運動うんどうはじめ、カリフォルニアしゅう予算よさん制度せいど選挙せんきょさい配分はいぶん権限けんげん、および労働ろうどう組合くみあい政治せいじ資金しきんづくりの改革かいかく目指めざした。カリフォルニア看護かんご協会きょうかい先頭せんとうにたった組合くみあい主導しゅどう運動うんどう特別とくべつ選挙せんきょでのすべての命題めいだい廃案はいあんにすることにおおいに貢献こうけんした。シュワルツェネッガーはこの敗北はいぼく以降いこう中道ちゅうどうしょくつよめ、ブッシュ政権せいけん距離きょりき、環境かんきょう政策せいさくなどで中道ちゅうどうてき政策せいさく実行じっこう伝統でんとうてき民主党みんしゅとうつよ議会ぎかいとは教育きょういく問題もんだい妥協だきょうした。結果けっか支持しじりつ復活ふっかつし2006ねん再選さいせんされた。

2007ねん〜2008ねんサブプライム住宅じゅうたくローン危機きき世界せかい金融きんゆう危機ききつづけにきた経済けいざい恐慌きょうこうによりカリフォルニアしゅう財政ざいせい危機ききてき状況じょうきょうにある。シュワルツネッガーは、財政ざいせい再建さいけんのため米国べいこくない論争ろんそうつづいているマリファナ合法ごうほうかんして「検討けんとうすべき」と前向まえむきな姿勢しせいせていたが、2010ねん中間ちゅうかん選挙せんきょどう時期じき実施じっしされた住民じゅうみん投票とうひょうでは反対はんたい多数たすう否決ひけつされた。

2017ねん10月8にちしゅう北部ほくぶやま火事かじ発生はっせいし、ワイン産地さんちとして有名ゆうめいなソノマぐん・ナパぐん中心ちゅうしんおおくの建築けんちくぶつ焼失しょうしつ多数たすう死傷ししょうしゃた。ワイナリーブドウはたけおおくが被災ひさいしたほか、『ピーナッツ』の原作げんさくしゃであるチャールズ・M・シュルツ生家せいか焼失しょうしつしている[13]

2018ねん11月8にちには、ビュートぐんしゅう史上しじょう最悪さいあくやま火事かじ発生はっせいした[14]

2020ねん新型しんがたコロナウイルス感染かんせん拡大かくだいはカリフォルニアしゅうにもおよび、しゅうないコロナウイルスによる急性きゅうせい呼吸こきゅう疾患しっかん患者かんじゃすう増加ぞうかした。3月19にちギャビン・ニューサム知事ちじは、ウイルスのふう対策たいさくとして3900まんにんぜん住民じゅうみん自宅じたく待機たいきめいじると発表はっぴょうした。住民じゅうみんらは、食料しょくりょう生活せいかつ物資ぶっし確保かくほうごき、まちちゅうのスーパーマーケットのたなからは商品しょうひんくなる状況じょうきょうられた[15]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Before California: An archaeologist looks at our earliest inhabitants [1] See Map of California Tribes.
  2. ^ U.S. National Park Service official website about Juan Cabrillo. (retrieved 2006-12-18)
  3. ^ 1936ねんに「ドレークの真鍮しんちゅうばん」が発掘はっくつされ話題わだいとなったが、でっちげだったことが1970年代ねんだいまつ確認かくにんされた
  4. ^ Information from Monterey County Museum about Vizcaino's voyage and Monterey landing (retrieved 2006-12-18); Summary of Vizcaino expedition diary (retrieved 2006-12-18]
  5. ^ The French In Early California”. Ancestry Magazine. 2006ねん3がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ 「soldado de cuera」(英語えいごばん)。ヌエバ・エスパーニャの兵士へいし俗称ぞくしょう。インディアンのふせぐために鹿しかがわ上着うわぎていた。Harry Crosby (1994). Antigua California: Mission and Colony on the Peninsular Frontier, 1697-1768. UNM Press. pp. 424,426. ISBN 0826314953 
  7. ^ etext "Two Years Before the Mast"
  8. ^ Bancroft, Hubert Howe (1884-1890) History of California, v.4, The works of Hubert Howe Bancroft, complete text online, p.260
  9. ^ Bancroft, Hubert Howe (1884-1890) History of California, v.4, The works of Hubert Howe Bancroft, complete text online, p.263-273.
  10. ^ 軍事ぐんじ博物館はくぶつかん
  11. ^ [2] [3]
  12. ^ Richard B. Rice et al, The Elusive Eden (1988) 191-95
  13. ^ https://www.cnn.co.jp/usa/35108776.html - カリフォルニアしゅうやま火事かじ、スヌーピー作者さくしゃ自宅じたく焼失しょうしつ
  14. ^ べいカリフォルニアしゅうやま火事かじ (2018ねん) - Yahoo!
  15. ^ べいカリフォルニアしゅうぜん州民しゅうみん自宅じたく待機たいき命令めいれい”. AFP (2020ねん3がつ21にち). 2020ねん3がつ23にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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研究けんきゅう

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  • Hubert Howe Bancroft. The Works of Hubert Howe Bancroft, vol 18-24, History of California to 1890; complete text online; written in the 1880s, this is the most detailed history,
  • Robert W. Cherny, Richard Griswold del Castillo, and Gretchen Lemke-Santangelo. Competing Visions: A History of California (2005), new textbook
  • Gutierrez, Ramon A. and Richard J. Orsi (ed.) Contested Eden: California before the Gold Rush (1998), essays by scholars
  • Carolyn Merchant, ed. Green Versus Gold: Sources In California's Environmental History (1998) readings in primary and secondary sources
  • Rawls, James and Walton Bean (2003). California: An Interpretive History. McGraw-Hill, New York, NY. ISBN 0-07-052411-4  8th edition of standard textbook
  • Rice, Richard B., William A. Bullough, and Richard J. Orsi. Elusive Eden: A New History of California 3rd ed (2001), standard textbook
  • Rolle, Andrew F. . California: A History 6th ed. (2003), standard textbook
  • Starr, Kevin California: A History (2005), interpretive history
  • Sucheng, Chan, and Spencer C. Olin, eds. Major Problems in California History (1996), primary and secondary documents

1846ねんまで

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1900ねん以降いこう

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学者がくしゃによる特別とくべつ研究けんきゅう

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外部がいぶリンク

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