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ナチス・アラブ関係かんけい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アドルフ・ヒトラーとアミーン・フサイニー。1941ねん11月28にち
アルジェリアけいのサイード・モハメディ(ひだり)は、だい世界せかい大戦たいせんちゅうドイツ空軍くうぐん支援しえんし、その1954ねんにはアルジェリア戦争せんそうくわわった。

ナチス・アラブ関係かんけい(ナチス・アラブかんけい)では、ナチとう政権せいけんドイツこく1933ねん - 1945ねん)とアラブ世界せかい指導しどうしゃそうとの関係かんけいについてべる[1]おなてきイギリスフランス帝国ていこく主義しゅぎ植民しょくみん主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎシオニズムひとし)にたいする共通きょうつう敵意てきい土台どだいとして、共同きょうどう政治せいじ軍事ぐんじ関係かんけい確立かくりつされた[1]ほかにもナチスのはんユダヤ主義しゅぎがこの協力きょうりょく関係かんけいにおける重要じゅうよう土台どだいとなった。はんユダヤ主義しゅぎは、一定いっていのアラブとムスリムの指導しどうしゃたちから劇的げきてき支持しじされたもので、とく著名ちょめい指導しどうしゃアミーン・フサイニーである。

ヒトラーとヒムラー公的こうてきにも私的してきにも、イスラームを宗教しゅうきょうてき政治せいじてきイデオロギーとしてえがきながら、友好ゆうこうてき声明せいめいした。かれらの表現ひょうげんではイスラームとは、キリスト教きりすときょうよりも規律きりつてき軍事ぐんじてき政治せいじてき実用じつようてき宗教しゅうきょういち形式けいしきである。そしてかれらはイスラームを、政治せいじおよび軍事ぐんじ指導しどうにおけるムハンマドの技術ぎじゅつ認識にんしきして賞賛しょうさんした。しかし同時どうじに、公式こうしきのナチ人種じんしゅイデオロギーは、人種じんしゅてきにアラブ民族みんぞくきたアフリカじんがドイツ民族みんぞくよりも劣等れっとうであるとかんがえていた。その感情かんじょうは、アラブやアフリカ人々ひとびと非難ひなんする目的もくてきで、ヒトラーやナチ指導しどうしゃたちによって反響はんきょうさせられた[1]

アラビアけん世界せかいは、ヨーロッパえた結束けっそく主義しゅぎ〔ファシズム〕を調査ちょうさする歴史れきしがくものたちから、とく注目ちゅうもくあつめている。こうした学者がくしゃらは傾向けいこうとして、おやナチ・おや結束けっそく主義しゅぎてきおやファシスト〕勢力せいりょく焦点しょうてんてて、結束けっそく主義しゅぎ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎナチズム〕がアラブ世界せかいにわたってっていた魅力みりょく強調きょうちょうしてきた。しかし最近さいきんになって、このかたかた〔ナラティブ〕はおおくの学者がくしゃたちから挑戦ちょうせんされた[2]そうした学者がくしゃ[だれ?]たちは、1930年代ねんだい1940年代ねんだいにおけるアラブの政治せいじてき討論とうろん非常ひじょう複雑ふくざつであると主張しゅちょうしている。かれらの主張しゅちょうでは、結束けっそく主義しゅぎ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎは、共産きょうさん主義しゅぎ自由じゆう主義しゅぎ立憲りっけん主義しゅぎひとしといったほか政治せいじてきイデオロギーととも議論ぎろんされていた。また、近年きんねん歴史れきし修正しゅうせい主義しゅぎしゃ作品さくひんは、アラブ世界せかいにおけるはん結束けっそく主義しゅぎはんファシズム〕およびはんナチの声明せいめい運動うんどう強調きょうちょうした[3][4]

アラブ世界せかいについてのナチスの認識にんしき[編集へんしゅう]

アラブ民族みんぞくとイスラームにたいするヒトラーの見方みかた[編集へんしゅう]

ヒトラーは演説えんぜつなかでイスラーム文化ぶんか友好ゆうこうてき言及げんきゅうしていた様子ようすであり、「たとえばフランスよりも、イスラームの人々ひとびとのほうがもっと我々われわれちかしいのがつねだろう」とうべていた[5]

イスラームやアラブ民族みんぞくたいするアドルフ・ヒトラー見方みかたについて有名ゆうめい逸話いつわが、 アルベルト・シュペーアによって詳述しょうじゅつされている。シュペーアのベストセラーである回想かいそうろくだいさん帝国ていこく内幕うちまく』〔Inside the Third Reich〕の報告ほうこくによれば、「ヒトラーは著名ちょめいアラブじん代表だいひょうだんからまなんだ歴史れきし断片だんぺんに、非常ひじょう感動かんどうしていた」[6]

アラブじん代表だいひょうだん推測すいそくによれば、ベルベルじんおよびアラブじんが8世紀せいきトゥール・ポワティエあいだたたか」に勝利しょうりしていれば、世界せかいは「イスラームてき」〔Mohammedan ムハンマドてき〕になっていた。そしてドイツじんはイスラームのにな ―― すなわち「みずからの信仰しんこうけんひろげ、すべての国々くにぐにみずからの信仰しんこう服従ふくじゅうさせることを信条しんじょうとする宗教しゅうきょう ……そのような信条しんじょうはドイツ気質きしつ完全かんぜん適合てきごうするものであった」 ―― のになとなっていた[7]。シュペーアはさらに、このけんについてのヒトラーの主張しゅちょう以下いかのようにしめしている。

ヒトラーは、征服せいふくしゃたるアラブじん人種じんしゅとしておとっているため、長期ちょうきてきには国土こくどのよりきびしい気候きこう対抗たいこうできなかったであろうとべた。アラブじん征服せいふくしゃには、より強壮きょうそう原住民げんじゅうみんおさえつけることはできなかっただろうから、最終さいしゅうてきにはアラブじんではなくイスラームされたドイツじんが、このイスラム帝国ていこく指導しどうしゃとなったであろうと[8]

同様どうようにヒトラーは、「カール・マルテルがポワティエで勝利しょうりしていなかったら ... 我々われわれ十中八九じっちゅうはっくイスラームへと転向てんこうしていただろう。英雄えいゆう主義しゅぎ〔ヒロイズム〕をたたえ、大胆だいたん不敵ふてき戦士せんしにのみだいなな天国てんごくひらく、イスラームというカルト宗教しゅうきょうへと。そのゲルマン民族みんぞく世界せかい征服せいふくしただろう」との発言はつげん筆記ひっきされている[9]

シュペーアによるとヒトラーは通常つうじょう自分じぶん歴史れきしてき推論すいろんつぎのような発言はつげん結論けつろんけていた。「いいかね、我々われわれ不運ふうんにも、あやまった宗教しゅうきょう〔キリストきょう〕をってしまった。なぜ我々われわれ日本人にっぽんじん宗教しゅうきょう神道しんとうたなかったのだろうか、日本人にっぽんじん自己じこ犠牲ぎせいを、祖国そこく〔Fatherland〕のための最善さいぜんなしているのに? イスラームとて、キリストきょうよりもはるかに我々われわれへと適合てきごうしただろう。なぜ柔和にゅうわ軟弱なんじゃくそなえているキリスト教きりすときょうでなければならなかったのだろうか?」[10]

アラブ世界せかいたいするヒトラーの見方みかた[編集へんしゅう]

このやりとりは、サウジアラビア統治とうちしゃイブン・サウード特使とくしハリド・アル=ハッド・アル=ガーガニと、ヒトラーが面会めんかいしたときこった[11]。この会合かいごうはや段階だんかいでヒトラーは、なぜナチス・ドイツがアラブじんあたたかい共感きょうかんっているかについて、みっつの理由りゆうのうちひとつをべた。

... 我々われわれ連帯れんたいしてユダヤ民族みんぞくたたかっていたことが理由りゆうである。これがもとになってかれ〔ハリド・アル=ハッド〕はパレスチナとその状況じょうきょうについてろんじ、そしてかれ自身じしんすべてのユダヤ民族みんぞくドイツるまでやすみはしないとべた。ハリド・アル=ハッドは預言よげんしゃムハンマドが ... 同様どうようおこないをしたことに注目ちゅうもくした。かれはアラブからユダヤ民族みんぞく駆逐くちくしたのだ ... 。[12]

ジルベール・アシュカルの苦笑くしょうじりの論評ろんぴょうによると、その会談かいだんでヒトラーがアラブからの訪問ほうもんしゃたいし、指摘してきしなかったことがある。ヒトラー総統そうとうはそれまでドイツけいユダヤじんたいし、パレスチナへ移住いじゅうするよう扇動せんどうしていたのだ。だいさん帝国ていこく〔ナチス・ドイツ〕が積極せっきょくてき支援しえんした対象たいしょうは、複数ふくすうのシオニズム組織そしきであり、イギリスからユダヤけい移民いみんせられた制限せいげんを、それら組織そしきくことだった[13]

ヒトラーはだい世界せかい大戦たいせんはじまる直前ちょくぜん1939ねんぐん指揮しきかんたちへつぎのようにつたえた。

我々われわれ極東きょくとうアラビア動乱どうらんつくつづけるとしよう。我々われわれ人間にんげんとしてかんがえよう。そして、こういった極東きょくとうじんやアラビアじんてみるとしよう。かれらはくてもせいぜい外見がいけんりつくろった類人猿るいじんえんであり、熱心ねっしんにムチちを経験けいけんしたがっているのである[14][15]

だい世界せかい大戦たいせんより以前いぜんは、すべきたアフリカと中東ちゅうとうはヨーロッパ列強れっきょう諸国しょこく支配しはいにあった。アラブじん劣悪れつあくセムけい人種じんしゅ一員いちいんとみなすナチ人種じんしゅせつ〔アーリア神話しんわにもかかわらず、個人こじんとしてのアラブじんたちは、名誉めいよ敬意けいいをもってあつかわれた。このアラブじんたちは、中東ちゅうとう占領せんりょうしているイギリスとたたかうためにだいさん帝国ていこく〔ナチス・ドイツ〕をたすけたのであった。たとえばハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーは、ヒトラーやだいさん帝国ていこく緊密きんみつ協力きょうりょくしたことで、ナチスから「名誉めいよアーリアじん」の地位ちい授与じゅよされた[16]

ナチス・ドイツ政府せいふ誠実せいじつ結社けっしゃ発展はってんさせ、一部いちぶのアラブ国家こっか主義しゅぎ〔アラブ民族みんぞく主義しゅぎ指導しどうしゃたちと協同きょうどうした。その土台どだいにあったのはかれらが共有きょうゆうしている、はん植民しょくみん主義しゅぎてきはんシオニズムてき利益りえきだった。こうした共通きょうつう大義たいぎのためのたたかいのなかで、もっと著名ちょめいれいひとつは1936ねん~1939ねんパレスチナ・アラブ反乱はんらんひとし戦闘せんとうであり、これはイスラームのだい指導しどうしゃだいムフティー〕であるハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーによって先導せんどうされていた。もうひとつはイギリス・イラク戦争せんそうであり、ゴールデンスクエア〔Golden Square 黄金おうごん方陣ほうじん〕 ―― ラシード・アリー・アッ=ゲイラニによってひきいられたよんにん将軍しょうぐんたち ―― が、しんイギリスアブドゥル=イラーフ摂政せっしょう政権せいけんイラク転覆てんぷくし、おや枢軸すうじくこく〔pro-Axis〕の政府せいふ設置せっちした[17][18][19]

ヒトラーはラシード・アリー・アッ=ゲイラニのクーデターにおうじて、かれらの大義たいぎ支持しじする「総統そうとう命令めいれい30ごう」を1941ねん5がつ23にち発布はっぷした。この命令めいれいはじまりには「中東ちゅうとうのアラブ解放かいほう運動うんどうは、イギリスにたいする我々われわれ自然しぜん同盟どうめいしゃである」とあった[19]

航空こうくうへい大将たいしょうヘルムート・フェルミーは、いわゆるこの「総統そうとう命令めいれい30ごう」にしたがい、「ドイツ国防こくぼうぐん関連かんれんするアラブ案件あんけん」のすべてにかんする中枢ちゅうすう権力けんりょく中央ちゅうおう当局とうきょく〕へと任命にんめいされた[20]。ドイツとアラブの国家こっか主義しゅぎしゃ民族みんぞく主義しゅぎしゃ〕たちにとっての戦略せんりゃくてき共通きょうつう利益りえきについて、大将たいしょうフェルミーは軍事ぐんじ見解けんかいをこう要約ようやくした。

すで緊迫きんぱくしていた中東ちゅうとう状況じょうきょうは、ユダヤけい国家こっか主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎてき大望たいぼう出現しゅつげんによって、さらに複雑ふくざつした。ユダヤ民族みんぞくたいするアラブてき憎悪ぞうおがあり、そして、アラブ独立どくりつ希望きぼうついえたことにたいする失望しつぼうがあり、それらは生臭なまぐさ暴動ぼうどうつながった。一連いちれん暴動ぼうどうは、最初さいしょ自然しぜん純粋じゅんすいはんユダヤけいであり、急増きゅうぞうしつつあるパレスチナへのユダヤ民族みんぞく移住いじゅう対抗たいこうしていたが、のちにはだいえい帝国ていこくをユダヤけい委任いにん統治とうちくになして標的ひょうてきにした。 この状況じょうきょう不満ふまんかかえたままつづいたのはだい世界せかい大戦たいせん発生はっせい時期じきいたるまで、つまりヨーロッパの危機ききかげげかけたときまでだった。 イギリスがドイツに宣戦せんせん布告ふこくしたとき、パレスチナへのユダヤけい移民いみん流入りゅうにゅう積極せっきょくてき支持しじしてきたシオニスト組織そしきは、即座そくざにドイツにたいする英国えいこくとの連帯れんたい宣言せんげんした[21]

1941ねん6がつ11にち、ヒトラーと最高さいこうぐん司令しれいかんつぎのような総統そうとう命令めいれい32ごう発行はっこうした。

アラブ解放かいほう運動うんどう搾取さくしゅ。ドイツの主要しゅよう作戦さくせんもよおしのなかで、イギリスの援軍えんぐん適切てきせつなタイミングで市民しみん騒乱そうらん反乱はんらん束縛そくばくされれば、中東ちゅうとうにおけるイギリスの現状げんじょうはより不安定ふあんていすだろう。この結末けつまつけてあらゆる軍事ぐんじてき政治せいじてき・プロパガンダてき手法しゅほうは、準備じゅんび期間きかんちゅう緊密きんみつ調整ちょうせいされなければならない。外国がいこく中心ちゅうしんてき機関きかんとしてアラブ地域ちいきすべての計画けいかく行動こうどう参加さんかする、特別とくべつ幕僚ばくりょうF〔Special Staff F〕をわたし指名しめいする。その本部ほんぶ南東なんとうぐん兵士へいし地区ちくかれる。本部ほんぶには、さいゆうかつ対応たいおう可能かのう専門せんもん〔エキスパート〕および代行だいこうしゃ〔エージェント〕が用意よういされる。ぐん司令しれいかんちょうは、政治せいじてき質問しつもんふくめた外務がいむ大臣だいじんとの合意ごういによって、特別とくべつ幕僚ばくりょうFの職務しょくむとくにんする[22]

一部いちぶアラブじんとの軍事ぐんじ同盟どうめいたずさわっていたドイツ国防こくぼうぐん砲兵ほうへい大将たいしょうヴァルター・ヴァルリモント報告ほうこくでは、おおくのドイツ将校しょうこうつぎのようにしんじていた。

... アラブ諸国しょこくあいだにおける唯一ゆいいつしん政治せいじてき結集けっしゅうてんとは、共通きょうつうしてユダヤ民族みんぞくにくんでいることだった。一方いっぽうで「アラブ国家こっか主義しゅぎ運動うんどう〔アラブ民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう〕」とうといった事柄ことがらは、様々さまざまなアラブ諸国しょこく利害りがい不一致ふいっち原因げんいんで、かみうえにしか存在そんざいしなかった[23]

ヒトラーや国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ(ナチズム)についてのアラブの認識にんしき[編集へんしゅう]

ジルベール・アシュカルによると、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ〔ナチズム〕にたいしてアラブの認識にんしき統一とういつされていなかった。

まずだいいちに、アラブ民族みんぞくというようなものは存在そんざいしない。単数たんすうがたのアラブ言説げんせつ〔the singular form of an Arab discoure〕のなかはなすことは、常軌じょうきいっしている。アラブ世界せかいは、多様たよう視点してんうごかされている。当時とうじひとは、西洋せいようてき自由じゆう主義しゅぎからマルクス主義まるくすしゅぎ国家こっか主義しゅぎ〔ナショナリズム〕イスラーム原理げんり主義しゅぎまでひろがる、よっつの主要しゅようイデオロギーてきながれのなかからひとつをえらすことができた。これらのよっつのなかで、明白めいはく国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ〔ナチズム〕を拒絶きょぜつしたふたつは西洋せいようてき自由じゆう主義しゅぎマルクス主義まるくすしゅぎであり、それらの一部いちぶ土台どだいおなじだった(たとえば啓蒙けいもう思想しそういえいだことや、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ人種じんしゅ主義しゅぎ一種いっしゅとして弾劾だんがいしたこととう)。また部分ぶぶんてき理由りゆうとして、それらふたつは地政学ちせいがくうえ連携れんけいもしていた。この論点ろんてんにおいて、アラブ国家こっか主義しゅぎ〔アラブ民族みんぞく主義しゅぎ〕は矛盾むじゅんしている。しかし綿密めんみつると、ナチプロパガンダ自分じぶん自身じしんとを同一どういつしたアラブ国家こっか主義しゅぎてき集団しゅうだんかずが、じつはかなりちいさいのだとかる。アラブ世界せかい存在そんざいした国家こっか社会しゃかい主義しゅぎクローンはただひとつだけである。すなわち、レバノンキリスト教徒きりすときょうとアントン・サアデによって設立せつりつされた、シリア社会しゃかい民族みんぞくとうしかなかった。青年せいねんエジプトとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎとしばらく一緒いっしょにぶらついていたが、これはまぐれな日和見ひよりみ主義しゅぎとうだった。アラブ社会しゃかい主義しゅぎ復興ふっこうとうバアスとう〕が1940年代ねんだいはじめから国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ触発しょくはつされていたという非難ひなんは、完全かんぜん間違まちがいである[24]

アラブ世界せかいではヒトラーや結束けっそく主義しゅぎ〔ファシズム〕けいのイデオロギーは、ヨーロッパと同様どうよう議論ぎろんこしていたのであり、支持しじしゃらと反対はんたいしゃらの両方りょうほうともなっていた。

アラブ諸国しょこくだい規模きぼ宣伝せんでん活動かつどうプログラムを開始かいししたのは、最初さいしょファシストイタリアで、そのがナチス・ドイツだった。 とくにナチスが焦点しょうてんいていたのは、しん世代せだい政治せいじ思想家しそうか活動かつどう多大ただい影響えいきょうおよぼすことだった[25]

エルヴィン・ロンメルは、ほとんどヒトラー同様どうよう人気にんきがあった。 つたえられるところでは、「ロンメルまんさい」〔"Heil Rommel"〕がアラブ諸国しょこく共通きょうつう挨拶あいさつとして使つかわれていた[よう出典しゅってん]一定いっていすうのアラブじんたちは、ドイツじんがアラブじんを、フランスと英国えいこくきゅう植民しょくみん支配しはいから解放かいほうするとしんじていた[よう出典しゅってん]。1940ねんにナチス・ドイツによってフランスが敗北はいぼくしたのちダマスカス街並まちなみで、フランスと英国えいこくじんたいしてこうとなえるアラブじんたちもた。「ムッシューはもうわり、ミスターはもうわり、天国てんごくにはアッラーフだ、地上ちじょうにはヒトラーだ」[26]シリアまち々の商店しょうてんでは、「天国てんごくではかみが、地上ちじょうではヒトラーが、あなたの支配しはいしゃ」というアラビアのポスターが頻繁ひんぱんられていた[27]

1930年代ねんだいにドイツへ旅行りょこうした一部いちぶ富裕ふゆうアラブじんは、ファシズムの理想りそうかえって、アラブ国家こっか主義しゅぎ〔アラブ民族みんぞく主義しゅぎ〕へとれた[よう出典しゅってん]原理げんりてきにアラブ社会しゃかい主義しゅぎ復興ふっこう運動うんどう〔バアス主義しゅぎ思想しそうおよびアラブ社会しゃかい主義しゅぎ復興ふっこうとう〔バアスとう〕を創設そうせつした人々ひとびと一員いちいんザキー・アル=アルスーズィーうには、結束けっそく主義しゅぎ〔ファシズム〕と国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ〔ナチズム〕がアラブ社会しゃかい主義しゅぎ復興ふっこうイデオロギーへおおきく影響えいきょうした[よう出典しゅってん]。アル=アルスーズィーの生徒せいとサミ・アル=ジュンディはこういている。

我々われわれ人種じんしゅ主義しゅぎものであり、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ〔ナチズム〕を崇敬すうけいし、ナチのほんやその思想しそう源泉げんせんんだ。とくに、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこうかたった』、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの『ドイツ国民こくみんぐ』、人種じんしゅについておもめぐらしたヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『19世紀せいき基礎きそ』をんだ[28]我々われわれは、『闘争とうそう』の翻訳ほんやくかんがえた先駆せんくしゃだった。
当時とうじダマスカスにんでいたものだれでも、アラブの人々ひとびと国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ〔ナチズム〕へ傾斜けいしゃしていることを理解りかいしただろう。国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ勝者しょうしゃとしての役目やくめたせるちからだったし、敗北はいぼくしたもの自然しぜん勝者しょうしゃあいするからだ。しかし我々われわれ信条しんじょうではかなりことなっていた[29]

積極せっきょくてきにナチスと協力きょうりょくしたもっと著名ちょめいにんのアラブ政治せいじは、エルサレムだい指導しどうしゃだいムフティー〕であるアミーン・フサイニー[30][ようページ番号ばんごう][31]、そしてイラクのラシード・アリー・アッ=ゲイラニ首相しゅしょうであった[32][33]

パレスチナの1936~1939ねんアラブ革命かくめいにおいて指導しどうしゃアル=フサイニーがたした役割やくわり理由りゆうで、イギリスはフサイニー追放ついほう強制きょうせいした。もと指導しどうしゃ〔フサイニー〕は、代理人だいりにんをイラク王国おうこくとフランスりょうのシリアおよびパレスチナにそなえていた。1941ねんにフサイニーは、ラシード・アリー・アッ=ゲイラニひきいるイラクのゴールデンスクエア〔黄金おうごん方陣ほうじん〕のクーデターを活動かつどうてき支持しじした[34]

ゴールデンスクエアのイラク政権せいけんしんイギリスぐんによって敗北はいぼくしたのち指導しどうしゃラシッド・アリおよびのイラクのベテランたちは、ヨーロッパへ避難ひなんして、枢軸すうじくこく利益りえき支援しえんした。かれらがとく成功せいこうしたことは、すうじゅうまんのムスリムをドイツの突撃とつげきたい(SS)のメンバーとして、かつ、アラビアけん世界せかいでのプロパガンダ扇動せんどうしゃとして採用さいようしたことだった。その協力きょうりょく活動かつどう範囲はんいひろかった。たとえば、のちエジプト大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたアンワル・アッ=サーダート回想かいそうろくによると、かれはナチス・ドイツのスパイ活動かつどうすすんで協力きょうりょくしていた[25]

結束けっそく主義しゅぎ(ファシズム)にまつわるアラブの結合けつごう模倣もほう[編集へんしゅう]

国家こっか主義しゅぎしゃ(ナショナリスト)たち[編集へんしゅう]

アラブ世界せかい出現しゅつげんしつつある多数たすう運動うんどう[よう出典しゅってん]は、1930年代ねんだいのヨーロッパの結束けっそく主義しゅぎ〔ファシズム〕やナチの組織そしきから影響えいきょうけた。歴史れきし学者がくしゃバーナード・ルイスによれば、青年せいねんエジプトとうみどりシャツたい)はヒトラー青少年せいしょうねんだん〔ヒトラーユーゲント〕に酷似こくじしており、「形式けいしきあきらかにナチスりゅう」だった[35]シリア社会しゃかい民族みんぞくとう(SSNP)は結束けっそく主義しゅぎ方式ほうしき採用さいようしていて、とう紋章もんしょうであるあか暴風ぼうふうは、ナチスのハーケンクロイツスワスティカ〕からられたものである[36]とう指導しどうしゃアントン・サアデは「総統そうとう」(al-za'im)としてられており、とう賛歌さんか「シリア、シリア、世界せかいかんたる」〔Syria, Syria, über alles〕は、ドイツ国歌こっか世界せかいかんたるドイツ〕とおな調子ちょうしうたわれる[37]。サアデが結束けっそく主義しゅぎてきなシリア社会しゃかい民族みんぞくとう設立せつりつしたさい政治せいじ要綱ようこうでは、シリアじんが「際立きわだっており自然しぜんすぐれている人種じんしゅ」であるとされている[38]

参照さんしょう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  2. ^ Among them are the works by Peter Wien (2006) and Orit Bashkin (2009) on Iraq, Rene Wildangel (2007) on Palestine, Götz Nordbruch (2009) on Lebanon and Syria, and Israel Gershoni and James Jankowski (2010) on Egypt.
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  24. ^ Christophe Ayad, Gilbert Achcar ‘Sait-on qu ‘un Palestinien a créé un musée de l’Holocaust?, at Libération 27 March 2010.'D'abord, les Arabes, ça n'existe pas. Parler d'un discours arabe au singulier est une aberration. Le monde arabe est traversé par une multitude de points de vue. A l'époque, on pouvait distinguer quatre grands courants idéologiques, qui vont de l'occidentalisme libéral à l'intégrisme islamique en passant par le marxisme et le nationalisme. Sur ces quatre courants, deux rejetaient clairement le nazisme : l'occidentalisme libéral et le marxisme, en partie pour des raisons communes (l'héritage des lumières, la dénonciation du nazisme comme racisme), et en partie à cause de leurs affiliations géopolitiques. Le nationalisme arabe est contradictoire sur cette question. Mais si on regarde de près, le nombre de groupes nationalistes qui se sont identifiés à la propagande nazie est finalement très réduit. Il y a un seul clone du nazisme dans le monde arabe, c'est le Parti social nationaliste syrien, fondé par un chrétien libanais, Antoun Saadé. Le mouvement égyptien Jeune Egypte a flirté un temps avec le nazisme, mais c'était un parti girouette. Quant aux accusations selon lesquelles le parti Baas était d'inspiration nazie à sa naissance dans les années 40, elles sont complètement fausses.
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