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ビートルズの解散 かいさん 問題 もんだい
ビートルズの解散 かいさん 問題 もんだい (ビートルズのかいさんもんだい)は、イギリス のロック バンド 、ビートルズ の解散 かいさん にかかわる諸 しょ 問題 もんだい のことである。ここでは、解散 かいさん にいたる経緯 けいい とその原因 げんいん 、及 およ びそれらにまつわる背景 はいけい について解説 かいせつ する。
解散 かいさん にいたる経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
突然 とつぜん 吹 ふ き出 だ した「ビートルズ解散 かいさん 説 せつ 」[ 編集 へんしゅう ]
最初 さいしょ に「解散 かいさん 」が話題 わだい になった契機 けいき は、1966年 ねん 11月7日 にち にデイリー・メール 紙 かみ がビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタイン が語 かた った「グループとしての今後 こんご の予定 よてい は決 き まっておらず、近 ちか く将来 しょうらい について話 はな し合 あ うことになっている」という談話 だんわ を報道 ほうどう したことだった。1966年 ねん 8月 がつ 29日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく カリフォルニア州 しゅう サンフランシスコ で最後 さいご の公演 こうえん を終 お えた後 のち 、ジョン・レノン は主演 しゅえん 映画 えいが 『ジョン・レノンの 僕 ぼく の戦争 せんそう 』の撮影 さつえい のため西 にし ドイツ へ、ポール・マッカートニー は変装 へんそう をしてロンドン を散歩 さんぽ したりフランス 旅行 りょこう を、ジョージ・ハリスン はラヴィ・シャンカル にシタール を習 なら うためインド へ、リンゴ・スター は家族 かぞく とヨーロッパ旅行 りょこう に行 い くなど、ビートルズは2か月 げつ 余 あま りグループとしての活動 かつどう を休止 きゅうし していた。実際 じっさい は12月から始 はじ まる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』の制作 せいさく 前 まえ に予定 よてい されていた長期 ちょうき 休暇 きゅうか であったが、EMIとの再 さい 契約 けいやく や公演 こうえん 活動 かつどう を終了 しゅうりょう した後 のち の活動 かつどう 方針 ほうしん など、話 はな し合 あ いが必要 ひつよう だったことは事実 じじつ であった。
この時 とき はエプスタインが解散 かいさん を否定 ひてい することで騒 さわ ぎは収 おさ まったが、1967年 ねん 1月 がつ 22日 にち 、サンデー・タイムズ 紙 かみ が「我々 われわれ は自分 じぶん たちの好 す きな道 みち を進 すす む準備 じゅんび ができた。将来 しょうらい 4人 にん が一緒 いっしょ に演奏 えんそう するのは、お互 たが いが懐 なつ かしくなった時 とき である」というマッカートニーのインタビュー記事 きじ を掲載 けいさい したことで解散 かいさん 疑惑 ぎわく は再燃 さいねん してしまう。当時 とうじ はまだ明 あき らかにされていなかった公演 こうえん 活動 かつどう をやめたことで、ソロも含 ふく め、様々 さまざま な活動 かつどう ができる可能 かのう 性 せい を語 かた ったものであって、解散 かいさん を示唆 しさ したものではなかった。この騒 さわ ぎも2月 がつ にEMIとの再 さい 契約 けいやく をはじめ、ストロベリー・フィールズ・フォーエバー やアルバムの発売 はつばい 予定 よてい が明 あき らかになると収束 しゅうそく した。しかし、8月 がつ にエプスタインが急死 きゅうし すると、次第 しだい にメンバー間 あいだ の不協和音 ふきょうわおん が表面 ひょうめん 化 か し始 はじ めた。
リンゴ・スターの一時 いちじ 離脱 りだつ [ 編集 へんしゅう ]
1968年 ねん 8月 がつ 22日 にち 、スターは「バック・イン・ザ・U.S.S.R. 」のリハーサル・セッション中 ちゅう に突然 とつぜん スタジオを飛 と び出 だ した。
アルバム『ザ・ビートルズ 』のレコーディング・セッション中 ちゅう 、レノンがオノ・ヨーコ をスタジオに連 つ れてきたことを発端 ほったん にメンバー間 あいだ の確執 かくしつ が生 しょう じていた。一方 いっぽう 、アルバム制作 せいさく 途中 とちゅう から最新 さいしん の8トラック・レコーダーが導入 どうにゅう されたことにより、4人 にん が同時 どうじ に演奏 えんそう する必要 ひつよう が無 な くなり、メンバーが別々 べつべつ のスタジオで作業 さぎょう することも多 おお くなっていた。当時 とうじ のスターは、他 た のメンバーの作業 さぎょう の都合 つごう に自分 じぶん の予定 よてい を合 あ わせるなど、いわばセッション・ミュージシャンのような立場 たちば に置 お かれていた。またグループへの加入 かにゅう が一番 いちばん 遅 おそ く、しかも作曲 さっきょく 面 めん での貢献 こうけん も乏 とぼ しい自分 じぶん のグループにおける役割 やくわり の重要 じゅうよう 度 ど が他 た のメンバーに比 くら べて低 ひく いのではないかと感 かん じていた。また、マッカートニーが自作 じさく 曲 きょく のために自 みずか らドラムを演奏 えんそう するところを目撃 もくげき し、その思 おも いをさらに強 つよ めた。そんな中 なか 、久 ひさ しぶりに4人 にん そろったこの曲 きょく のセッションで、スターの演奏 えんそう に満足 まんぞく しないマッカートニーが度々 どど 注文 ちゅうもん をつけたうえに実演 じつえん して見 み せたことで、温厚 おんこう なスターも激怒 げきど し、脱退 だったい を宣言 せんげん した。
スターのこの行動 こうどう に3人 にん は動揺 どうよう し、レノンは励 はげ ましの電報 でんぽう を、マッカートニーはスターのドラムを褒 ほ め称 たた えるメッセージを送 おく り、復帰 ふっき するよう説得 せっとく した。イタリア のサルデーニャ島 とう への家族 かぞく 旅行 りょこう で静養 せいよう 後 ご 、9月3日 にち にスタジオに戻 もど ったスターは、ハリスンがスタジオ中 ちゅう に飾 かざ りつけた花 はな によって迎 むか えられた。
ジョージ・ハリスンの一時 いちじ 離脱 りだつ [ 編集 へんしゅう ]
1969年 ねん 1月 がつ 10日 とおか 、いわゆる「ゲット・バック・セッション 」[注釈 ちゅうしゃく 1] の最中 さいちゅう 、今度 こんど はハリスンが脱退 だったい を宣言 せんげん してスタジオを出 で ていってしまった。
稀代 きたい のメロディ・メーカーと称 しょう される「レノン=マッカートニー 」擁 よう するビートルズにおいて、一番 いちばん 年下 としした のハリスンの曲 きょく が採用 さいよう されたのは、5thアルバム『ヘルプ! 』で初 はじ めて2曲 きょく 収録 しゅうろく されるまで、2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ 』収録 しゅうろく の「ドント・バザー・ミー」1曲 きょく のみだった[注釈 ちゅうしゃく 2] 。寡黙 かもく な性格 せいかく などからメンバーの中 なか では一番 いちばん 目立 めだ たず、「静 しず かなビートル」(Quiet Beatle)と呼 よ ばれ、レノン=マッカートニーの陰 かげ に隠 かく れて実力 じつりょく を十分 じゅうぶん に発揮 はっき 出来 でき ていなかったハリスンだったが、映画 えいが 『ヘルプ!4人 にん はアイドル 』の撮影 さつえい 時 じ に出会 であ ったインド音楽 おんがく に興味 きょうみ を持 も ったことで、シタール をはじめとする新 あたら しい楽器 がっき を導入 どうにゅう するなど独自 どくじ の世界 せかい 観 かん を構築 こうちく することに成功 せいこう し、その作曲 さっきょく 能力 のうりょく はレノン=マッカートニーに匹敵 ひってき するまでになっていた。
一方 いっぽう 、レノンとマッカートニーは、ハリスンの曲 きょく のアルバムへの収録 しゅうろく は2曲 きょく までにとどめ[注釈 ちゅうしゃく 3] 、自由 じゆう な作品 さくひん 発表 はっぴょう の場 ば を与 あた えずにいた[注釈 ちゅうしゃく 4] 。また、ビートルズが公演 こうえん 活動 かつどう を止 と めたことにも強 つよ い不満 ふまん を持 も っており、スタジオ・ワークを重視 じゅうし していたハリスンとの間 あいだ に溝 みぞ ができていた。さらにマッカートニーは自作 じさく 曲 きょく の録音 ろくおん 中 ちゅう に、イメージを具現 ぐげん 化 か することを重視 じゅうし するあまり、ハリスンの能力 のうりょく を軽視 けいし しているとも捉 とら えられるくらい、演奏 えんそう に何 なん 回 かい も注文 ちゅうもん をつけたこともあった[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1月 がつ 2日 にち からトゥイッケナム映画 えいが 撮影 さつえい 所 しょ [注釈 ちゅうしゃく 6] で始 はじ まった「ゲット・バック・セッション」は、元々 もともと マッカートニーの発案 はつあん で行 おこな われた。スターの一時 いちじ 離脱 りだつ でバンドの将来 しょうらい を危惧 きぐ する一方 いっぽう で、「ヘイ・ジュード 」のプロモーション・フィルム撮影 さつえい の際 さい 、観客 かんきゃく の前 まえ で行 おこな った演奏 えんそう に手応 てごた えを感 かん じていたマッカートニーは、1966年 ねん 8月 がつ 以来 いらい 行 おこな っていないライブ・パフォーマンスを行 おこな うことでバンドとしての一体 いったい 感 かん が高 たか めるとともに、より簡潔 かんけつ なロックンロール の構成 こうせい に戻 もど ることでバンドの活性 かっせい 化 か を企図 きと した[15] [16] 。そこで、公演 こうえん で演奏 えんそう することを前提 ぜんてい とした、複雑 ふくざつ な編集 へんしゅう 作業 さぎょう を伴 ともな わない新曲 しんきょく によるリハーサル・セッションを同 どう スタジオで行 おこな うと同時 どうじ に、新曲 しんきょく を仕上 しあ げていく過程 かてい の撮影 さつえい を行 おこな い、公開 こうかい コンサートを含 ふく むテレビ特番 とくばん 用 よう のドキュメンタリー映像 えいぞう として使用 しよう することで合意 ごうい していた。しかし、セッションが進 すす むにつれて、慣 な れない映画 えいが スタジオでの作業 さぎょう 、本番 ほんばん まで時間 じかん が短 みじか いこと、メンバー以外 いがい の人間 にんげん がいる中 なか で常 つね に撮影 さつえい されていることなど、緊張 きんちょう と不満 ふまん が原因 げんいん となり軋轢 あつれき が生 う まれていった。
7日 にち にマッカートニーと対立 たいりつ [注釈 ちゅうしゃく 7] したハリスンは、10日 とおか にはレノンとの口論 こうろん をきっかけにセッションを放棄 ほうき してしまった[注釈 ちゅうしゃく 8] 。結局 けっきょく 、15日 にち の話 はな し合 あ いでハリスンはトゥイッケナムでの撮影 さつえい は中止 ちゅうし すること、本番 ほんばん はさらに延期 えんき したうえで無 む 観客 かんきゃく ・予告 よこく 無 な しで行 おこな うこと、アルバム制作 せいさく のためにアップル・コア 本社 ほんしゃ の新 あたら しいスタジオでレコーディング作業 さぎょう をすることを条件 じょうけん に復帰 ふっき した。セッションは21日 にち に再開 さいかい され、30日 にち にはビリー・プレストン を加 くわ えた5人 にん で事前 じぜん 予告 よこく 無 な しにアップルビルの屋上 おくじょう において、後 のち に「ルーフトップ・コンサート 」として知 し られることになるライブ・パフォーマンスを行 おこな った[21] 。非公開 ひこうかい とは言 い え、2年 ねん 5か月 げつ ぶりに行 い ったこのライブは結果 けっか として、グループにとって最後 さいご のライブ・パフォーマンスとなった。
ジョン・レノンの脱退 だったい 宣言 せんげん [ 編集 へんしゅう ]
1969年 ねん 9月 がつ 、アルバム『アビイ・ロード 』のリリースが間近 まぢか に迫 せま っていた9日 にち 、スターを除 のぞ く3人 にん [注釈 ちゅうしゃく 9] が次 つぎ のアルバムについての話 はな し合 あ いを行 おこな った。レノンはメンバーそれぞれがシングル候補 こうほ 曲 きょく を持 も ち寄 よ ってシングルとアルバムを制作 せいさく しようと、グループの存続 そんぞく について前向 まえむ きな発言 はつげん をしていた。
13日 にち 、レノンはトロント・ロックンロール・リバイバル にプラスティック・オノ・バンド を率 ひき いて出演 しゅつえん し、3年 ねん ぶりに観衆 かんしゅう の前 まえ で演奏 えんそう を行 おこな った。その1週間 しゅうかん 後 ご の20日 はつか 、ハリスンを除 のぞ く3人 にん [注釈 ちゅうしゃく 10] がクレインとともに米国 べいこく キャピトル・レコード との契約 けいやく 更新 こうしん の手続 てつづ きのためアップル本社 ほんしゃ で持 も った会合 かいごう の席上 せきじょう で、レノンとマッカートニーはバンドの今後 こんご を巡 めぐ って口論 こうろん になった。マッカートニーは公演 こうえん 活動 かつどう の再開 さいかい を望 のぞ み、小 ちい さなクラブでのギグ を提案 ていあん したがレノンは悉 ことごと く反発 はんぱつ し、挙句 あげく の果 は てにマッカートニーに向 む かって「契約 けいやく 書 しょ にサインするまでは黙 だま ってろと言 い われたんだけど、君 きみ がそう言 い うんなら教 おし えてやるよ。俺 おれ はもうビートルズを辞 や めることにした」と吐 は き捨 す てた。契約 けいやく 更改 こうかい を控 ひか えた現時点 げんじてん で脱退 だったい を公表 こうひょう することは大 おお きな不利益 ふりえき を被 こうむ るとマッカートニーとクレインに説得 せっとく され、この時点 じてん ではレノンの脱退 だったい は秘密 ひみつ とすることとなった。しかしレノンはこれ以降 いこう ビートルズとしてスタジオに戻 もど ることはなく、実質 じっしつ 的 てき にビートルズは解散 かいさん した[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
ポール・マッカートニーの脱退 だったい [ 編集 へんしゅう ]
マッカートニーはレノンの脱退 だったい 宣言 せんげん に衝撃 しょうげき を受 う け、暫 しばら くの間 あいだ スコットランド の農場 のうじょう に引 ひ き篭 こも ってしまった。その頃 ころ のマッカートニーを心身 しんしん ともに支 ささ えたのが、当時 とうじ のマッカートニーの妻 つま であるリンダ・マッカートニー だった。後 のち にマッカートニーは、自伝 じでん で「あの時 とき リンダが支 ささ えてくれたから、ソロでやっていく決心 けっしん がついた」と述懐 じゅっかい している[29] 。
1970年 ねん 1月 がつ 、クレインは棚上 たなあ げになっていた「ゲット・バック・セッション」をドキュメンタリー映画 えいが のサウンドトラック・アルバムとして発売 はつばい することを計画 けいかく し、フィル・スペクター をアップル本社 ほんしゃ に招待 しょうたい していた。「インスタント・カーマ 」制作 せいさく 時 じ のスペクターの仕事 しごと ぶりに感心 かんしん したレノンとハリスンは3月 がつ 23日 にち 、マッカートニーに無断 むだん でアルバムの再 さい プロデュースを依頼 いらい した。スペクターはオーバー・ダビングを基 もと に編集 へんしゅう 作業 さぎょう を進 すす め、4月 がつ 2日 にち に『レット・イット・ビー』を完成 かんせい させた[16] 。レノンとハリスンは、頓挫 とんざ しかけていた「ゲット・バック・セッション」の音源 おんげん を短期間 たんきかん のうちにアルバムとしてまとめあげたスペクターの仕事 しごと を高 たか く評価 ひょうか した[注釈 ちゅうしゃく 12] 。しかしマッカートニーは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード 」に加 くわ えられたコーラスやオーケストラ・アレンジに強 つよ い不満 ふまん を持 も つなど、自分 じぶん を除外 じょがい したまま進 すす められたスペクターの仕事 しごと を評価 ひょうか せず、アルバム発売 はつばい の中止 ちゅうし を求 もと めて訴訟 そしょう を検討 けんとう したが、アルバムの発売 はつばい に関 かん する契約 けいやく が1枚 まい 残 のこ っていたため、不本意 ふほんい ながらも発売 はつばい を認 みと めざるを得 え なかった。
ところがクレインは『レット・イット・ビー』の発売 はつばい を優先 ゆうせん させるために、マッカートニーのソロ・アルバム の発売 はつばい 日 び を延期 えんき しようと考 かんが え、スターをその通達 つうたつ のために差 さ し向 む けた。マッカートニーは、既 すで に決定 けってい していた4月 がつ 17日 にち に向 む けてリリースの準備 じゅんび を進 すす めていたが、ソロ・アルバムでさえもクレインの管理 かんり 下 か にある状況 じょうきょう に激怒 げきど し、スターに向 む かって辛辣 しんらつ な言葉 ことば を吐 は き捨 す てた。結局 けっきょく 『マッカートニー』は予定 よてい 通 どお り発売 はつばい されることになった。
1970年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、マッカートニーがグループを脱退 だったい する意向 いこう であることがイギリスの大衆 たいしゅう 紙 し 『デイリー・ミラー 』で報 ほう じられた。これは『マッカートニー』のリリース前 まえ にプレス向 む けに配付 はいふ された、マッカートニー自身 じしん が用意 ようい した資料 しりょう に基 もと づいた記事 きじ であった。一 いち 問 もん 一 いち 答 とう 形式 けいしき の資料 しりょう の中 なか には「今後 こんご ビートルズのメンバーと創作 そうさく 活動 かつどう をすることはない」とあり、マスコミから「脱退 だったい 宣言 せんげん 」だと受 う け取 と られた。こうしてビートルズは事実 じじつ 上 じょう 解散 かいさん した。
法的 ほうてき な解散 かいさん [ 編集 へんしゅう ]
マッカートニーは1970年 ねん 12月31日 にち 、ロンドン高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ にビートルズの解散 かいさん とアップルでの共同 きょうどう 経営 けいえい の解消 かいしょう を求 もと める訴 うった えを起 お こした。この訴 うった えは主 おも にクレインの活動 かつどう を封 ふう じることが目的 もくてき であった。既 すで にレノンはビートルズを辞 や めてしまい、バンドは解散 かいさん 状態 じょうたい であったが、アップル設立 せつりつ 時 じ に交 か わした「4人 にん の収入 しゅうにゅう は全 すべ てアップルに管理 かんり され、平等 びょうどう に分配 ぶんぱい される」という契約 けいやく に縛 しば られ、4人 にん がビートルズとしての活動 かつどう はもちろん、それ以外 いがい で得 え た収入 しゅうにゅう もクレイン(アブコ)が管理 かんり するアップルに支払 しはら われていた。この状況 じょうきょう ではビートルズの財産 ざいさん が全 すべ てクレインに握 にぎ られており、また用途 ようと 不明 ふめい の手数料 てすうりょう をアップルに要求 ようきゅう し続 つづ けることでメンバーが稼 かせ いだ収益 しゅうえき を吸 す い取 と っていると考 かんが えたマッカートニーは、契約 けいやく を法的 ほうてき に無効 むこう にするため提訴 ていそ した。
裁判 さいばん ではクレインを信用 しんよう することは出来 でき ないという訴 うった えの根拠 こんきょ に、アルバム『マッカートニー』の発売 はつばい を遅 おく らせようとしたこと、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に許可 きょか なく手 て を加 くわ えたこと、アップルが製作 せいさく した映画 えいが 『レット・イット・ビー』を無断 むだん でユナイテッド・アーティスツ に譲渡 じょうと したこと、などを挙 あ げた。クレインはアメリカの印税 いんぜい 契約 けいやく を引 ひ き上 あ げ、その増加 ぞうか 分 ぶん の収益 しゅうえき から20パーセントを手数料 てすうりょう として受 う け取 と るはずであった。しかし、クレインは印税 いんぜい 全体 ぜんたい の収益 しゅうえき の20パーセントを不正 ふせい に請求 せいきゅう しており、すでに支払 しはら い済 ず みであった。これらの不正 ふせい が法廷 ほうてい で明 あき らかにされ、判事 はんじ は「クレイン氏 し は口 くち が達者 たっしゃ な二流 にりゅう のセールスマンである」とし、「ビートルズの財政 ざいせい を管理 かんり 出来 でき る人物 じんぶつ ではない」との判断 はんだん し、3月12日 にち にパートナーシップ解消 かいしょう を認 みと める判決 はんけつ を下 くだ した。レノンらは控訴 こうそ を断念 だんねん し、4月 がつ 26日 にち に判決 はんけつ は確定 かくてい した。
しかし4人 にん が解散 かいさん 合意 ごうい 書 しょ にサインを済 す ませたのは1974年 ねん 12月 がつ で、マッカートニーが提訴 ていそ してから4年 ねん 余 あま りたった1975年 ねん 1月 がつ 9日 にち にビートルズは正式 せいしき に解散 かいさん した。
解散 かいさん にいたる背景 はいけい ・要因 よういん と考 かんが えられている事項 じこう [ 編集 へんしゅう ]
公演 こうえん 活動 かつどう の終了 しゅうりょう とブライアン・エプスタインの死 し [ 編集 へんしゅう ]
1966年 ねん 8月 がつ 29日 にち 、ビートルズは8月 がつ 12日 にち から始 はじ まった全米 ぜんべい ツアーの最終 さいしゅう 公演 こうえん としてサンフランシスコ のキャンドルスティック・パーク で行 おこな った公演 こうえん は、バンドにとって最後 さいご の観客 かんきゃく を前 まえ にしたライブ・パフォーマンスとなった。
エプスタインは1964年 ねん にアメリカ初 はつ 上陸 じょうりく を果 は たした際 さい の過密 かみつ なスケジュールに疲弊 ひへい していたメンバーを見 み て、翌年 よくねん は大 だい 人数 にんずう を収容 しゅうよう できる野球 やきゅう 場 じょう などを会場 かいじょう として使 つか うことでゆとりを持 も たせようと考 かんが えた。ところが観客 かんきゃく との距離 きょり が遠 とお くなったため、さらに絶叫 ぜっきょう するファンから発生 はっせい する大 おお きな音 おと に対抗 たいこう して強力 きょうりょく なアンプを用意 ようい しても音楽 おんがく を届 とど けるのは不可能 ふかのう になっていると感 かん じていたバンドは、ライブのやり方 かた に次第 しだい に不満 ふまん を持 も つようになっていた。さらにミュンヘン から始 はじ まった1966年 ねん のツアーは様々 さまざま なトラブルに見舞 みま われ、特 とく に3つの出来事 できごと がこの思 おも いをさらに強 つよ めることになった。
一 ひと つ目 め は日本 にっぽん 公演 こうえん 。会場 かいじょう は日本武道館 にほんぶどうかん だった[注釈 ちゅうしゃく 13] が、反対 はんたい 運動 うんどう が行 おこな われるなど騒動 そうどう になっていた[注釈 ちゅうしゃく 14] ため、非常 ひじょう に厳重 げんじゅう な警備 けいび 態勢 たいせい が敷 し かれた。観客 かんきゃく は着席 ちゃくせき を義務付 ぎむづ けられ、声 こえ を出 だ すことも制限 せいげん されていたため、いつもと違 ちが う静 しず かなコンサートになった[注釈 ちゅうしゃく 15] 。この静 しず かさは普段 ふだん 、観客 かんきゃく の叫 さけ び声 ごえ や歓声 かんせい によって演奏 えんそう すら聞 き くことが出来 でき なかったメンバーにとって、図 はか らずも自身 じしん の演奏 えんそう を再 さい 確認 かくにん させることとなり、演奏 えんそう 能力 のうりょく が低下 ていか したように感 かん じたという。
二 ふた つ目 め はフィリピンでの暴行 ぼうこう 事件 じけん 。7月4日 にち 、フィリピンのリサール・メモリアル・スタジアム で行 おこな われた公演 こうえん は観客 かんきゃく 総数 そうすう 約 やく 10万 まん 人 にん はというビートルズにとって最高 さいこう の動員 どういん 数 すう だった。ところが、翌朝 よくあさ の新聞 しんぶん で「ビートルズがファーストレディ に肘鉄 ひじてつ を食 く らわした」[注釈 ちゅうしゃく 16] と報道 ほうどう されると状況 じょうきょう が一変 いっぺん 、帰途 きと に就 つ く空港 くうこう でのことに腹 はら を立 た てた暴徒 ぼうと に襲 おそ われてしまった[注釈 ちゅうしゃく 17] 。この様 よう なトラブルに巻 ま き込 こ まれたのは初 はじ めての経験 けいけん だったため、メンバーは大 おお きなショックを受 う けた。
三 みっ つ目 め は全米 ぜんべい ツアー直前 ちょくぜん に巻 ま き起 お こった「ビートルズ排斥 はいせき 運動 うんどう 」。発端 ほったん はレノンが3月 がつ にイギリスの記者 きしゃ モーリーン・クリーヴ とのインタビューで述 の べた「今 いま はキリストより人気 にんき がある 」というコメントであった。当時 とうじ イギリスでは「いつものレノンの毒舌 どくぜつ 」としてほとんど注目 ちゅうもく されなかった。ところが、7月 がつ 末 まつ にアメリカの10代向 む け雑誌 ざっし 『デートブック 』が取 と り上 あ げると、保守 ほしゅ 派 は からの激 はげ しい反発 はんぱつ が起 お こった。南部 なんぶ を中心 ちゅうしん にビートルズのレコード焼 や き討 う ちや排斥 はいせき 運動 うんどう が起 お こり、30のラジオ局 きょく が放送 ほうそう 禁止 きんし にした。さらにバチカンが抗議 こうぎ 声明 せいめい を出 だ し、スペインとオランダ、南 みなみ アフリカの放送 ほうそう 局 きょく がレコードの不買 ふばい 運動 うんどう を行 おこな うに至 いた って、ツアー前日 ぜんじつ の8月 がつ 11日 にち にレノンは記者 きしゃ 会見 かいけん で謝罪 しゃざい に追 お い込 こ まれた。コンサートはもはや悲鳴 ひめい を上 あ げて音楽 おんがく を聴 き くことの出来 でき なくなっているファンの前 まえ でいつも通 とお り行 おこな われ、演奏 えんそう する側 がわ は惰性 だせい 感 かん と退屈 たいくつ 感 かん を覚 おぼ え、ステージに立 た つ意欲 いよく を失 うしな いつつあった。殺害 さつがい 予告 よこく の脅迫 きょうはく を受 う け、ホテルから外出 がいしゅつ 禁止 きんし を禁止 きんし されたため、ツアー中 ちゅう はホテルと会場 かいじょう を往復 おうふく するのみで、そこに何 なん ら音楽 おんがく 的 てき な向上 こうじょう は望 のぞ めない環境 かんきょう を認識 にんしき した彼 かれ らは、このツアーを最後 さいご にすることにした。ここに世界中 せかいじゅう で1,400回 かい 以上 いじょう のコンサート出演 しゅつえん を含 ふく む、ほとんど休 やす み無 な くツアーに明 あ け暮 く れた4年間 ねんかん は終 お わりを告 つ げた。
ほぼ1年 ねん たった1967年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、エプスタインが自宅 じたく の寝室 しんしつ で死亡 しぼう しているのが発見 はっけん された。当時 とうじ 私生活 しせいかつ でのトラブルを抱 かか えており、遺書 いしょ らしきメモも発見 はっけん されたが、公式 こうしき には睡眠薬 すいみんやく や鎮痛 ちんつう 剤 ざい などの過剰 かじょう 摂取 せっしゅ による事故死 じこし とされた。ビートルズはエプスタインの死 し に大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う けた。ビートルズのライブ活動 かつどう 終了 しゅうりょう によりエプスタインは役割 やくわり の多 おお くを失 うしな ってしまったと言 い われているが、実際 じっさい のところは依然 いぜん としてバンドの対人 たいじん 関係 かんけい や財政 ざいせい に強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を行使 こうし していた。ツアー終了 しゅうりょう 後 ご にハリスンがグループからの脱退 だったい を申 もう し入 い れた時 とき も[注釈 ちゅうしゃく 18] 、今後 こんご ツアーは一切 いっさい 行 おこな わないことを確約 かくやく し、思 おも いとどまらせていた。
取 と り纏 まと め役 やく を失 うしな ったビートルズは混乱 こんらん し、将来 しょうらい に対 たい する恐怖 きょうふ を抱 だ いた[52] 。特 とく に危機 きき 感 かん が強 つよ かったマッカートニーは、率先 そっせん してアイデアを実行 じっこう に移 うつ し、主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ っていった[注釈 ちゅうしゃく 19] 。その様子 ようす は彼 かれ の提案 ていあん で始 はじ まった『マジカル・ミステリー・ツアー 』セッションでも明 あき らかである。マッカートニーは必死 ひっし にグループを存続 そんぞく させようと努力 どりょく するが、周囲 しゅうい には独 ひと り善 よ がりと受 う け取 と られた。レノンは1970年 ねん に『ローリング・ストーン』誌 し のインタビューでエプスタインの死 し がバンド解散 かいさん の主 おも な原因 げんいん であるとし、「ブライアンの死後 しご 、君 くん らが知 し っているように色々 いろいろ なことが僕 ぼく たちに降 ふ りかかり始 はじ めたことで、僕 ぼく たちはポールのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死 し んで僕 ぼく たちは意気 いき 消沈 しょうちん してしまった。ポールは彼 かれ を引 ひ き継 つ いでおそらく僕 ぼく たちをリードしようとしたけれど、僕 ぼく たちは精神 せいしん 的 てき に参 まい ってしまったんだ」と語 かた った。
「ビートルズを解散 かいさん させた女 おんな 」の代名詞 だいめいし で呼 よ ばれているオノ・ヨーコ とレノンの出会 であ いは、デイリー・メール紙 し がビートルズの「解散 かいさん 」を報 ほう じた1966年 ねん 11月7日 にち だった。レノンはロンドンのインディカ・ギャラリー で行 おこな われていた女性 じょせい 前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 家 か の個展 こてん 内覧 ないらん 会 かい に招 まね かれ、経営 けいえい 者 しゃ のジョン・ダンバー からオノを紹介 しょうかい された。オノの作品 さくひん や言動 げんどう に魅力 みりょく を感 かん じたレノンは、その後 ご 資金 しきん 提供 ていきょう を行 おこな い、連絡 れんらく も頻繁 ひんぱん に取 と るようになっていった。
1968年 ねん 5月 がつ 30日 にち 、『ザ・ビートルズ』のレコーディングのためにEMIレコーディング・スタジオ にメンバーは集合 しゅうごう したが、そこにレノンはオノを連 つ れてきていた。レノンはその日 ひ 予定 よてい されていた自身 じしん の曲 きょく [注釈 ちゅうしゃく 20] に実験 じっけん 音楽 おんがく の要素 ようそ を取 と り入 い れるために、後 のち に共同 きょうどう 名義 めいぎ で発表 はっぴょう される『未 み 完成 かんせい 作品 さくひん 第 だい 1番 ばん トゥー・ヴァージンズ 』を一緒 いっしょ に制作 せいさく したオノをセッションに参加 さんか させるつもりだった[注釈 ちゅうしゃく 21] 。しかし、事前 じぜん に知 し らされていなかった他 ほか のメンバーは、かつてエプスタインがスタジオに顔 かお を出 だ すことさえ嫌 いや がっていたレノンが「グループの仕事場 しごとば に部外 ぶがい 者 しゃ はもちろん、パートナーであっても連 つ れてこない」という不文 ふぶん 律 りつ を破 やぶ ったことに驚 おどろ いた[注釈 ちゅうしゃく 22] 。その後 ご 、常 つね にレノンに寄 よ り添 そ い、時 とき には彼 かれ の意見 いけん を代弁 だいべん するという形 かたち で口出 くちだ しをするオノの存在 そんざい はグループに大 おお きな緊張 きんちょう 感 かん をもたらした。キンフォーンズ でのデモ・セッション[注釈 ちゅうしゃく 23] でせっかく取 と り戻 もど した一体 いったい 感 かん は次第 しだい に失 うしな われていき、メンバーが個々 ここ にスタジオに籠 こも ってしまう一因 いちいん となってしまった。ライブ・ショーを行 おこな うためのリハーサル・セッションとして始 はじ めた「ゲット・バック・セッション」では他 た のメンバーも妻 つま や子供 こども を連 つ れてくるようになったが、以前 いぜん より寡黙 かもく になったレノンの代 か わりにオノが発言 はつげん することは続 つづ いた[注釈 ちゅうしゃく 24] 。
当時 とうじ の心境 しんきょう についてマッカートニーは、「ジョンがその当時 とうじ ヨーコにかなり惚 ほ れ込 こ んでたのは事実 じじつ だから、今 いま 思 おも えば、ジョンは新 あたら しく手 て に入 い れた自由 じゆう をエンジョイして、ワクワク気分 きぶん だったんだろうなと思 おも うよ。でもヨーコがスタジオに現 あらわ れて、何 なに もしないでチョコンと僕 ぼく らの真 ま ん中 なか に座 すわ られてもね、って感 かん じだったよ。僕 ぼく らはその事 こと にウンザリしてたって認 みと めざるを得 え ないよね。」と語 かた っている[61] 。
ただ、「ビートルズ解散 かいさん の原因 げんいん はオノ」という説 せつ について、2012年 ねん 10月のオブザーヴァー 紙 かみ にマッカートニーは「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自 みずか らバラバラになった」と語 かた っており、2021年 ねん のインタビューでもヨーコと出会 であ ったことで起 お きたジョンの変化 へんか が彼 かれ の脱退 だったい 宣言 せんげん へ繋 つな がり、バンドを終 お わらせた直接 ちょくせつ の原因 げんいん になったことを認 みと めた上 うえ で「ジョンはヨーコと新 あたら しい人生 じんせい を作 つく ろうとしていたってことだよ。ジョンはずっと社会 しゃかい から自由 じゆう になりたがっていたんだ」「彼 かれ らは最高 さいこう のカップルだった」と、オノ・ヨーコに責任 せきにん があったとは思 おも っていないと再度 さいど 語 かた った[62] 。ハリスンも「グループ解散 かいさん にヨーコが全 ぜん 責任 せきにん を負 お うわけではない」と発言 はつげん している。
その後 ご 、オノとレノンは1969年 ねん 3月 がつ に結婚 けっこん 、プラスティック・オノ・バンドとしての音楽 おんがく 活動 かつどう を行 おこな い、いわゆる「ロスト・ウィークエンド」と呼 よ ばれている別居 べっきょ 期間 きかん を除 のぞ き、レノンが亡 な くなるまで二人三脚 ににんさんきゃく で活動 かつどう を共 とも にしていた。
アップルとアラン・クレイン [ 編集 へんしゅう ]
1968年 ねん 1月 がつ 、ビートルズは自 みずか らの財産 ざいさん を運用 うんよう するための会社 かいしゃ 、アップル・コア [注釈 ちゅうしゃく 25] を設立 せつりつ した。代表 だいひょう には友人 ゆうじん でロード・マネージャーだったニール・アスピノール が就 つ いた。
アップル・コアは、元々 もともと エプスタインがビートルズの稼 かせ ぎ出 だ す莫大 ばくだい な収益 しゅうえき に掛 か かる高額 こうがく の税金 ぜいきん を回避 かいひ する対策 たいさく として、1967年 ねん 4月 がつ に「ビートルズ・アンド・カンパニー」という会社 かいしゃ を設立 せつりつ したことに始 はじ まった。ビートルズの財産 ざいさん を運用 うんよう するため、音楽 おんがく だけではなく、様々 さまざま な物販 ぶっぱん を中心 ちゅうしん に据 す えた複数 ふくすう 事業 じぎょう の部門 ぶもん を持 も つ、複 ふく 合 ごう 型 がた マルチメディア企業 きぎょう とする構想 こうそう だった。将来 しょうらい 的 てき にはNEMS と統合 とうごう しようとも考 かんが えていた。しかし8月 がつ にエプスタインが急死 きゅうし したため、すべて中途半端 ちゅうとはんぱ なまま残 のこ されてしまった。これからのマネージメントは自分 じぶん たちが主体 しゅたい で行 おこな っていこうと考 かんが えたビートルズは、エプスタインがいなくなったNEMSとのマネージメント契約 けいやく 更新 こうしん を行 おこな わなかった。このためNEMSは会社 かいしゃ で実務 じつむ を行 おこな っていた社員 しゃいん を引 ひ き揚 あ げてしまった[注釈 ちゅうしゃく 26] 。アップル・コアを設立 せつりつ したものの、ビートルズのアイデアの実行 じっこう を統括 とうかつ できる人物 じんぶつ はおらず、レコード部門 ぶもん 以外 いがい はほとんど失敗 しっぱい に終 お わり、財務 ざいむ 管理 かんり も全 まった く手 て に負 お えない状況 じょうきょう になったため、外部 がいぶ の人間 にんげん の介入 かいにゅう が必要 ひつよう となった。
そこでマッカートニーが連 つ れてきたのは当時 とうじ 恋人 こいびと だったリンダ・イーストマン の父 ちち で弁護士 べんごし のリー と兄 あに ジョンだった。1969年 ねん 1月 がつ 、メンバー4人 にん とアスピノールの承認 しょうにん を受 う けて正式 せいしき な代理人 だいりにん となった[67] 。イーストマン父子 ふし は、ビートルズがNEMSとのマネージメント契約 けいやく 更新 こうしん はしなかったものの、EMIから支払 しはら われる印税 いんぜい はNEMS経由 けいゆ で25%を差 さ し引 ひ いてからビートルズに入 はい る仕組 しく みのままになっていたので、これを解消 かいしょう するために買収 ばいしゅう しようと考 かんが えていた[注釈 ちゅうしゃく 27] 。またノーザン・ソングス との印税 いんぜい 率 りつ の再 さい 交渉 こうしょう が拒否 きょひ されたため、NEMSの持 も つノーザン・ソングスの株 かぶ を手 て に入 い れることで将来 しょうらい 的 てき に買収 ばいしゅう しようとも考 かんが えていた[注釈 ちゅうしゃく 28] 。ところがレノンが連 つ れてきたアラン・クレイン [注釈 ちゅうしゃく 29] がアップル・コアの資産 しさん 状況 じょうきょう を精査 せいさ するまで待 ま つべきだと反対 はんたい したため、棚上 たなあ げ状態 じょうたい になってしまった[注釈 ちゅうしゃく 30] 。さらにクレインがNEMSを買収 ばいしゅう せずに25%の印税 いんぜい に関 かん する契約 けいやく を見直 みなお す方向 ほうこう を打 う ち出 だ したため、不信 ふしん 感 かん を持 も ったエプスタイン家 か はこれ以上 いじょう のトラブルに巻 ま き込 こ まれないために2月 がつ 17日 にち 、NEMSを投資 とうし 銀行 ぎんこう トライアンフ・インベストメント・トラストへ売却 ばいきゃく してしまった[注釈 ちゅうしゃく 31] 。
NEMSの買収 ばいしゅう が失敗 しっぱい に終 お わるとビートルズ側 がわ は更 さら なる窮地 きゅうち に立 た たされた。3月27日 にち 、ノーザン・ソングスのディック・ジェームズ は、自分 じぶん の持 も ち株 かぶ をビートルズ側 がわ には無断 むだん でATV に売却 ばいきゃく してしまった。慌 あわ てたビートルズ側 がわ は投資 とうし 家 か から株 かぶ を取得 しゅとく するために入札 にゅうさつ を試 こころ みたが、ATV側 がわ が過半数 かはんすう の株 かぶ を取得 しゅとく し経営 けいえい 権 けん を確保 かくほ してしまった。4月18日 にち 、イーストマン父子 ふし がレノンらから一方 いっぽう 的 てき に代理人 だいりにん を解任 かいにん されると[注釈 ちゅうしゃく 32] 、これに反発 はんぱつ したマッカートニーは5月8日 にち の会議 かいぎ で彼 かれ らをマネージャーにする提案 ていあん をしたが3対 たい 1で否決 ひけつ され、レノン、ハリソン、スターはバンドのビジネスマネージャーとしてクレインとの契約 けいやく にサインした。これにより4人 にん の関係 かんけい に修復 しゅうふく 不可能 ふかのう な溝 みぞ が生 う まれてしまった。その後 ご 、クレインはATVの買収 ばいしゅう を提案 ていあん したが、今度 こんど はマッカートニー側 がわ が反対 はんたい したためできなかった。結局 けっきょく 、レノンとマッカートニーは保有 ほゆう 株 かぶ を全 すべ てATVに売却 ばいきゃく することで利益 りえき を確定 かくてい せざるを得 え なかった。このためレノン=マッカートニー 作品 さくひん のほとんどは他人 たにん の手 て に渡 わた ってしまい、自分 じぶん たちの曲 きょく を歌 うた う度 たび に使用 しよう 料 りょう を支払 しはら わなければならなくなってしまった。
クレインは実質 じっしつ 的 てき にアップルを掌握 しょうあく すると、大量 たいりょう 解雇 かいこ [注釈 ちゅうしゃく 33] と経営 けいえい 再建 さいけん に着手 ちゃくしゅ した。アップルの経営 けいえい は改善 かいぜん したものの、クレインから解放 かいほう されたかったマッカートニーは、最終 さいしゅう 的 てき に訴訟 そしょう を起 お こすことを決 き めた。1971年 ねん 3月 がつ 、高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ はマッカートニーを支持 しじ し、管財 かんざい 人 じん が任命 にんめい された。
初 はじ めはクレインの手腕 しゅわん を評価 ひょうか していたレノン、ハリソン、スターも『バングラデシュ難民 なんみん 救済 きゅうさい コンサート 』での不正 ふせい 疑惑 ぎわく [注釈 ちゅうしゃく 34] などで次第 しだい に不信 ふしん 感 かん を抱 だ いていった。結局 けっきょく 、1973年 ねん 3月 がつ 、3人 にん が契約 けいやく を更新 こうしん しなかったため、クレインはアップル・コアを去 さ った。11月には3人 にん がクレインに対 たい し「虚偽 きょぎ による搾取 さくしゅ 」「マネージメントの失敗 しっぱい 」について損害 そんがい 賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう を行 おこな い、翌年 よくねん 10月 がつ に勝訴 しょうそ した。これに対 たい し、クレインも未払金 みはらいきん 1900万 まん ドルの損害 そんがい 賠償 ばいしょう を求 もと めて逆 ぎゃく 提訴 ていそ した[78] 。1977年 ねん 4月 がつ 、アップルとビートルズ側 がわ がクレイン対 たい して合計 ごうけい 500万 まん ドルを支払 しはら うことで和解 わかい 、関係 かんけい を完全 かんぜん に清算 せいさん した。
しかし、ハリスンだけはその後 ご もクレインに苦 くる しめられた。1971年 ねん 2月 がつ に大 だい ヒット曲 きょく 「マイ・スウィート・ロード 」がシフォンズ の1963年 ねん の全米 ぜんべい 1位 い 曲 きょく 「いかした彼 かれ (シーズ・ソー・ファイン) 」の著作 ちょさく 権 けん を侵害 しんがい しているとしてブライト・チューンズ・ミュージックから訴 うった えられていた。クレインはアップルを去 さ った後 のち 、ブライト・チューンズを買収 ばいしゅう し、訴訟 そしょう の原告 げんこく 側 がわ になっていた[注釈 ちゅうしゃく 35] 。1990年 ねん 11月ハリスンの敗訴 はいそ が確定 かくてい 、クレインは以後 いご のロイヤリティ保障 ほしょう と慰謝 いしゃ 料 りょう 27万 まん ドル獲得 かくとく した。
1975年 ねん 1月 がつ 、ビートルズが正式 せいしき に解散 かいさん すると、アップル・コアの解散 かいさん も検討 けんとう されたが、結局 けっきょく 全 すべ ての部門 ぶもん を閉鎖 へいさ または休眠 きゅうみん させながら運営 うんえい を継続 けいぞく することが決定 けってい された。5月2日 にち 、アップルはサヴィル・ロウ のオフィスを閉鎖 へいさ し、セント・ジェームズ・ストリート に事務所 じむしょ を移転 いてん した。アスピノールは会計 かいけい と法務 ほうむ を補佐 ほさ するスタッフだけを残 のこ し、全員 ぜんいん 解雇 かいこ した。アップル・スタジオも5月16日 にち に閉鎖 へいさ された。
解散 かいさん 後 ご の4人 にん の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
1970年 ねん 4月 がつ にビートルズの解散 かいさん が公 おおやけ に発表 はっぴょう されたその直後 ちょくご の4人 にん の関係 かんけい は決 けっ して良好 りょうこう ではなかった。マッカートニーは1971年 ねん 12月4日 にち に発売 はつばい された『メロディー・メーカー』のインタビューで「僕 ぼく は4人 にん がどこかに集 あつ まって、すべてが終 お わったことを証明 しょうめい する書類 しょるい にサインして、お金 かね を4人 にん で分 わ けたいだけなんだ。4人 にん だけでいいし、妻 つま のリンダやヨーコ、マネージャーのクレインも立 た ち会 あ う必要 ひつよう はない。僕 ぼく が望 のぞ むことは、4人 にん が署名 しょめい した書類 しょるい をビジネス関係 かんけい 者 しゃ に手渡 てわた して、あとは彼 かれ らに任 まか せることだけど、ジョンはそうしないだろうね。誰 だれ もが僕 ぼく のことを攻撃 こうげき 者 しゃ だと思 おも っているけど、それは違 ちが う。僕 ぼく はただ縁 えん を切 き りたいだけなんだ」と語 かた っている[80] 。この意見 いけん に対 たい し、レノンは「リンダとヨーコ抜 ぬ きで会 あ おうというのは本当 ほんとう に不可解 ふかかい だ。キミの戯言 ざれごと なのはわかるが、常識 じょうしき のレベルを超 こ えないでくれ。僕 ぼく がJOHNANDYOKO(ジョン&ヨーコ)であることは、とっくに理解 りかい してると思 おも ってた。キミの弁護士 べんごし でさえ、紙 かみ に署名 しょめい するだけじゃ済 す まないことは知 し ってるよ。それとも、彼 かれ らから聞 き いてないの?」と手紙 てがみ を送 おく った[81] 。
1971年 ねん 、マッカートニーがアルバム『ラム 』の「トゥ・メニー・ピープル 」で、レノンとヨーコの一連 いちれん の平和 へいわ 活動 かつどう を批判 ひはん すると[82] 、激怒 げきど したレノンは『イマジン 』の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ? 」でマッカートニーの楽曲 がっきょく や容姿 ようし を批判 ひはん した。またハリスンは、マッカートニーがウイングス のアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ 』の裏表紙 うらびょうし に「ウイングス・ファン・クラブについての詳細 しょうさい は、切手 きって を貼 は った返信 へんしん 用 よう 封筒 ふうとう で(for more information on the Wings' Fun Club send a stamped self-addressed envelope to...)」と掲載 けいさい したことを揶揄 やゆ するかのように、アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド 』の裏表紙 うらびょうし に「ジム・ケルトナー・ファンクラブ[注釈 ちゅうしゃく 36] についてのすべては、切手 きって を貼 は った服 ふく を着 き ていない象 ぞう で(for all information send a stamped undressed elephant to...)」と掲載 けいさい した[注釈 ちゅうしゃく 37] 。
一方 いっぽう 、マッカートニーを除 のぞ く3人 にん の関係 かんけい は良好 りょうこう で、ハリスンはレノンのシングル「インスタント・カーマ 」やアルバム『イマジン』に参加 さんか し、スターのシングル「明日 あした への願 ねが い 」「バック・オフ・ブーガルー 」のプロデュースを行 おこな った。また、スターはレノンのアルバム『ジョンの魂 たましい 』やハリスンのアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』、そして『バングラデシュ難民 なんみん 救済 きゅうさい コンサート 』に出演 しゅつえん した。
1973年 ねん 、スターのアルバム『リンゴ 』にレノン、マッカートニー、ハリスンがそれぞれ楽曲 がっきょく 提供 ていきょう した。「アイム・ザ・グレーテスト 」のレコーディング・セッションにはキャピトル・レコード との仕事 しごと の関係 かんけい でロサンゼルスに滞在 たいざい していたレノンとハリスンが参加 さんか した[注釈 ちゅうしゃく 38] 。マッカートニーもロンドンで行 おこな われた「シックス・オクロック」のレコーディングに参加 さんか 、話題 わだい となった[87] 。
1974年 ねん 、ロサンゼルスでレノンがハリー・ニルソン の新 あたら しいアルバム のプロデュース行 い っていたところにマッカートニーが突然 とつぜん 訪問 ほうもん し、スティーヴィー・ワンダー らを交 まじ えてジャム・セッションを行 おこな った[注釈 ちゅうしゃく 39] 。また、12月にはハリスンの全米 ぜんべい ツアーの打 う ち上 あ げパーティーにレノンとマッカートニーが出席 しゅっせき した。
1975年 ねん にはマッカートニーとレノンのツーショットが撮影 さつえい されるほど関係 かんけい も回復 かいふく していた[88] 。さらに同年 どうねん 、ニューヨークのプロモーターであるビル・サージェントが「ビートルズの一夜 いちや 限定 げんてい の再 さい 結成 けっせい コンサートに67億 おく 円 えん 支払 しはら う」と発言 はつげん 、しかし、前座 ぜんざ が男性 だんせい とサメがレスリング・マッチを行 おこな うというもので、スターは2020年 ねん のインタビューで「僕 ぼく ら、一度 いちど 話 はな したんだよ。クレイジーなオファーがあってね。お互 たが いに電話 でんわ をかけ、どう思 おも うか知 し ろうとしたんだ。僕 ぼく ら、やらないことにした。オープニング・アクトがサメに食 く らいつく男 おとこ だっていうんだから。僕 ぼく ら、それはないなって思 おも った」と語 かた っている[89] 。
1976年 ねん 4月 がつ 24日 にち にはアメリカの人気 にんき バラエティ番組 ばんぐみ 『サタデー・ナイト・ライブ 』にて、「ビートルズが番組 ばんぐみ にて一緒 いっしょ に演奏 えんそう してくれたら3000ドルを支払 しはら う」との申 もう し出 で があり、ニューヨークのレノンの自宅 じたく でこの放送 ほうそう を見 み ていたマッカートニーは、レノンと共 とも にタクシーでスタジオへ向 む かおうとしたとされている[88] [90] 。
1979年 ねん にはエリック・クラプトン の結婚式 けっこんしき に、マッカートニー、ハリスン、スターが出席 しゅっせき 。レノンは不参加 ふさんか であり、後 のち に参加 さんか できなかったことを悔 く やんでいたという[91] 。また、当時 とうじ の国際 こくさい 連合 れんごう 事務 じむ 局長 きょくちょう クルト・ヴァルトハイム の呼 よ びかけにより12月に開催 かいさい された『カンボジア難民 なんみん 救済 きゅうさい コンサート 』にレノンを除 のぞ く3人 にん が参加 さんか 予定 よてい だったが、事前 じぜん に「ビートルズ再 さい 結成 けっせい 」と報道 ほうどう されたことでハリスンとスターは出演 しゅつえん を取 と りやめてしまった。
このように4人 にん が一堂 いちどう に会 かい することは、公式 こうしき はもちろんプライベートでもなかった。そして1980年 ねん 12月8日 にち のレノンの死 し により、その機会 きかい は永遠 えいえん に失 うしな われた。
1981年 ねん 、レノンの追悼 ついとう 歌 か としてリリースされたハリスンのシングル「過 す ぎ去 さ りし日々 ひび 」のレコーディングには、マッカートニーがコーラス、スターがドラムスで参加 さんか し話題 わだい となった[注釈 ちゅうしゃく 40] 。
1994年 ねん から1995年 ねん にかけておこなわれた「アンソロジー・プロジェクト 」では、オノから提供 ていきょう されたレノンのデモ・テープを基 もと にして、「フリー・アズ・ア・バード 」「リアル・ラヴ 」の2曲 きょく を3人 にん で制作 せいさく 、ビートルズの新曲 しんきょく として発表 はっぴょう した。
2001年 ねん 11月29日 にち にハリスンが死去 しきょ した後 のち も、マッカートニーとスターは活動 かつどう を続 つづ け、各々 おのおの のソロ・アルバムやライブにゲスト出演 しゅつえん を行 おこな っている。2023年 ねん には、前述 ぜんじゅつ の「アンソロジー・プロジェクト」でお蔵 ぞう 入 い りとなっていた「ナウ・アンド・ゼン 」が技術 ぎじゅつ 進展 しんてん により完成 かんせい し、レノンとハリスンを含 ふく むビートルズ4人 にん の「最後 さいご の新曲 しんきょく 」として発表 はっぴょう された。
^ この名称 めいしょう は正式 せいしき なものではなく、このセッションで作 つく られた曲 きょく 「ゲット・バック 」、未 み 発売 はつばい に終 お わったアルバム『ゲット・バック』、さらにマッカートニーの「原点 げんてん 回帰 かいき 」的 てき なコンセプトの一連 いちれん のプロジェクトを結 むす び付 つ けて後 ご から言 い われるようになったものであって、最初 さいしょ から「原点 げんてん に返 かえ ろう =Get Back」という言葉 ことば を明確 めいかく かつ具体 ぐたい 的 てき に掲 かか げてセッションが行 おこな われた訳 わけ ではない。
^ この事実 じじつ については『アンソロジー』の中 なか でハリスン自身 じしん が、「あの頃 ころ の僕 ぼく は気持 きも ちとソングライティングの実力 じつりょく が伴 ともな っていなかった。最初 さいしょ の頃 ころ の曲 きょく は(後期 こうき に作 つく った曲 きょく と比 くら べると)全然 ぜんぜん だね」という発言 はつげん をしており、曲 きょく 作 づく りにおけるビートルズ前期 ぜんき の頃 ころ の実力 じつりょく 不足 ふそく を自 みずか ら認 みと めている。
^ 『唯一 ゆいいつ の例外 れいがい は『リボルバー 』で、3曲 きょく 割 わ り当 あ てられた。ホワイト・アルバム 』は2枚 まい 組 ぐみ だったので、4曲 きょく 割 わ り当 あ てられた。
^ プロデューサー のジョージ・マーティン ですら、ハリスンの実力 じつりょく を軽視 けいし していたところがあった。マーティンは「ジョンとポールはお互 たが いに切磋琢磨 せっさたくま しながら曲 きょく を作 つく ることが出来 でき たが、ジョージにはそういうライバルがおらず、一人 ひとり きりだった」と述 の べている。
^ 「『ゲット・バック・セッション』の際 さい には、ジョンもポールも自分 じぶん の曲 きょく のギターパートを全 すべ て自分 じぶん で作 つく ろうとしていたために、ジョージは欲求 よっきゅう 不満 ふまん であった」とスターは述 の べている[14] 。
^ 映画 えいが 『ヘルプ!4人 にん はアイドル 』などの撮影 さつえい に使用 しよう された。
^ 口論 こうろん の光景 こうけい は映画 えいが 『 レット・イット・ビー 』にも使 つか われた。
^ 映画 えいが 『ザ・ビートルズ: Get Back 』ではマッカートニーがランチ休憩 きゅうけい にしようと言 い ったとき、ハリスンはバンドを辞 や めると告 つ げたように編集 へんしゅう されているが、実際 じっさい はランチ休憩 きゅうけい に入 はい った後 のち でレノンとハリスンが口論 こうろん 。その後 ご 、ハリスンはレノンに「バンドを去 さ ることにした。今 いま すぐ。」と告 つ げ、「代 か わりを探 さが せよ。NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス )で募集 ぼしゅう すればいい。」とい放 いはな った。食堂 しょくどう にいたマッカートニーらには「またクラブで会 あ おう。」と言 い ってスタジオを後 のち にした[20] 。
^ スターは検査 けんさ 入院 にゅういん で不在 ふざい だった。
^ ハリスンは母親 ははおや の病気 びょうき 見舞 みまい で不在 ふざい だった。
^ ちなみに、1969年 ねん 6月 がつ 以降 いこう のレノンは重度 じゅうど のヘロイン 中毒 ちゅうどく で、周囲 しゅうい の意見 いけん にほとんど耳 みみ を傾 かたむ ける余裕 よゆう がなかったという説 せつ がある。また麻薬 まやく の禁断症状 きんだんしょうじょう について書 か いた「コールド・ターキー 」をプラスティック・オノ・バンド名義 めいぎ で発表 はっぴょう し、自分 じぶん の中毒 ちゅうどく 症状 しょうじょう を訴 うった えているとされていたが、レノン本人 ほんにん は否定 ひてい している[28] 。
^ その後 ご もそれぞれのソロ作品 さくひん で彼 かれ をプロデューサーとして起用 きよう している。
^ 当時 とうじ 、屋内 おくない でビートルズ側 がわ が要求 ようきゅう する1万 まん 人 にん を収容 しゅうよう できる施設 しせつ は日本武道館 にほんぶどうかん だけだった[37] 。
^ 同年 どうねん 6月 がつ 5日 にち に放送 ほうそう されたTBS 系列 けいれつ 局 きょく の討論 とうろん 番組 ばんぐみ 『時事 じじ 放談 ほうだん 』では小 しょう 汀 なぎさ 利得 りとく が、「大体 だいたい ね、あんな気違 きちが い共 ども の為 ため に武道館 ぶどうかん を使 つか わせるなんて、以 もっ ての外 ほか だよ。ゴミ溜 だ めの夢 ゆめ の島 しま でやらせりゃいいんだ」と発言 はつげん するなど、「日本 にっぽん 武道 ぶどう の聖地 せいち 」である武道館 ぶどうかん でコンサートなどありえないと考 かんが える人 ひと たちもいた。
^ ハリスンは『ザ・ビートルズ・アンソロジー 』において日本 にっぽん 公演 こうえん を振 ふ り返 かえ り、「全体 ぜんたい 的 てき に静 しず かだった」と話 はな している。
^ 大統領 だいとうりょう 夫人 ふじん のイメルダ・マルコス が自 みずか らの家族 かぞく や友人 ゆうじん のためにパーティーを開催 かいさい 、ビートルズもこのパーティーに招待 しょうたい されていたがエプスタインは丁重 ていちょう に辞退 じたい していた。
^ スターは飛行機 ひこうき に乗 の ろうとした際 さい に肋骨 あばらぼね に怪我 けが を負 お い、他 た のメンバーも負傷 ふしょう した。機材 きざい は失 うしな われたほか、コンサートの収益 しゅうえき はすべて課税 かぜい されたという[41] 。また、スターはその後 ご のインタビューで「動物 どうぶつ 並 な みの待遇 たいぐう を受 う けた」と皮肉 ひにく 交 ま じりに語 かた っている。
^ その理由 りゆう に関 かん しては、音楽 おんがく を創造 そうぞう したいという願望 がんぼう 、そして、1960年代 ねんだい 中頃 なかごろ から発達 はったつ した録音 ろくおん 技術 ぎじゅつ によって作 つく られた曲 きょく をライブ演奏 えんそう する際 さい の技術 ぎじゅつ 的 てき な制限 せいげん との葛藤 かっとう から生 しょう じた不満 ふまん があったという。
^ レノンは後 のち に「ポールの努力 どりょく はバンド存続 そんぞく のために重要 じゅうよう であったが、それは自身 じしん がソロキャリアを追求 ついきゅう することへの不安 ふあん から来 く るものだ」とと振 ふ り返 かえ った[53] 。
^ 「 レボリューション 」のこと。セッションを重 かさ ねるうちに10分 ふん を超 こ えるものになったが、最終 さいしゅう 的 てき に前半 ぜんはん のバンド・サウンドのパートを「レボリューション1」、後半 こうはん の前衛 ぜんえい 的 てき なパートを「レボリューション9 」としてアルバムに収録 しゅうろく された。
^ レノンは妻 つま シンシアの旅行 りょこう 中 ちゅう にオノを自宅 じたく に呼 よ び、実験 じっけん 音楽 おんがく の制作 せいさく を行 おこな った。その後 ご 、予定 よてい より早 はや くシンシアが帰宅 きたく 、オノと鉢合 はちあ わせしたことで離婚 りこん に発展 はってん した。
^ レノンの不倫 ふりん 騒動 そうどう は既 すで にメンバーの知 し るところになっていたが、まさかその当事 とうじ 者 しゃ を連 つ れてくるとは誰 だれ も想像 そうぞう していなかった。
^ 1968年 ねん 5月 がつ 20日 はつか から29日 にち にハリスンの自宅 じたく で行 おこな われた『ザ・ビートルズ』制作 せいさく 準備 じゅんび のためのセッション。アルバム制作 せいさく のために事前 じぜん にリハーサル・セッションを行 おこな うことはグループとして初 はじ めてだったが、結局 けっきょく これが最後 さいご になってしまった。
^ ハリスンが脱退 だったい 宣言 せんげん した後 のち の会合 かいごう の場 ば で「ビートルズのことはメンバー4人 にん だけで話 はな し合 あ って決 き めたい」というハリスンの意向 いこう があったにもかかわらず、何 なに も発言 はつげん しないレノンに代 か わって、メンバーでもないオノが1人 ひとり で発言 はつげん し続 つづ けたため、話 はな し合 あ いが決裂 けつれつ してしまった。
^ ビートルズの広報 こうほう 担当 たんとう 者 しゃ であるデレク・テイラーによると、社名 しゃめい はマッカートニーの発案 はつあん であった。子供 こども たちが学校 がっこう で最初 さいしょ に教 おそ わる「AはアップルのA」を用 もち いて「アップル・コア(Apple Core=リンゴの芯 しん )」とするつもりだったが、登録 とうろく できない名称 めいしょう だったため、同 おな じ発音 はつおん の「Corps」にした。
^ アリステア・テイラー 、ピーター・ブラウン 、テリー・ドラン 等 ひとし はビートルズを支 ささ えるためにNEMSを辞 や めた。
^ NEMSの株 かぶ はエプスタインの母 はは クイニーが70%、弟 おとうと のクライブが20%、ビートルズが10%保有 ほゆう していた。当時 とうじ エプスタイン家 か はブライアンの死 し による多額 たがく の相続 そうぞく 税 ぜい の支払 しはら いに窮 きゅう しており、投資 とうし 会社 かいしゃ から売却 ばいきゃく を打診 だしん されていたが、ビートルズ側 がわ の条件 じょうけん 提示 ていじ を待 ま っていた。
^ 1965年 ねん に税金 ぜいきん 対策 たいさく のため株式 かぶしき を公開 こうかい していたノーザン・ソングスの株 かぶ はジェームズが32%、レノンとマッカートニーが合 あ わせて30%、NEMSが7.2%保有 ほゆう していたので、NEMSを買収 ばいしゅう できれば、ノーザン・ソングスの経営 けいえい 権 けん も手中 しゅちゅう に収 おさ めることができるはずだった。
^ この頃 ころ レノンはミック・ジャガー の紹介 しょうかい でクレインと知 し り合 あ い、個人 こじん マネージャー兼 けん アドバイザーとして雇 やと っていた。
^ 既 すで にイーストマン父子 ふし はEMIからビートルズが将来 しょうらい 得 え られる印税 いんぜい を前借 ぜんしゃく する形 かたち で100万 まん ポンドを用意 ようい し、エプスタイン家 か に提示 ていじ していた。
^ この時点 じてん では母 はは クイニーの70%だけだったが、4月 がつ 24日 にち にクライブの20%も売却 ばいきゃく された。
^ 3月 がつ にマッカートニーがリンダと結婚 けっこん すると、イーストマン父子 ふし の影響 えいきょう 力 りょく が増大 ぞうだい することへの危機 きき 感 かん を持 も ったレノンは他 た のメンバーを説得 せっとく して、クレインをグループのマネージャーとするとともにアップル・コアの経営 けいえい 立 た て直 なお しも任 まか せることにし、イーストマン父子 ふし を代理人 だいりにん から外 はず した[67] 。
^ テイラーら主 おも だったものは経営 けいえい 責任 せきにん を取 と らされて解雇 かいこ された。クレインはアスピノールも解雇 かいこ しようとしたがビートルズ側 がわ から猛 もう 反対 はんたい され断念 だんねん した。
^ クレインはこの公演 こうえん をユニセフのチャリティ・イベントとして登録 とうろく せず、ライブ・アルバムの売 う り上 あ げから11%余 あま りを手 て に入 い れていた[75] 。
^ クレインは訴訟 そしょう の最中 さいちゅう にブライト・チューンズ側 がわ から「シーズ・ソー・ファイン」の権利 けんり を買収 ばいしゅう することで訴訟 そしょう を無 な かったものにしてしまおうと考 かんが えていた。ところがアップルから追放 ついほう されてしまったので、意趣 いしゅ 返 がえ しを行 おこな った。
^ 実際 じっさい はファンクラブではなく、レコード・プラント・スタジオ の共同 きょうどう 設立 せつりつ 者 しゃ であるゲイリー・ケルグレン が1973年 ねん 3月 がつ からレコード・プラント主催 しゅさい で開始 かいし した、親友 しんゆう で有名 ゆうめい なスタジオ・ドラマーのケルトナーによる毎週 まいしゅう 日曜 にちよう 夜 よる に行 おこな われたジャム・セッション「ジム・ケルトナー・ファンクラブ・アワー」のことである。このセッションにはピート・タウンゼント 、ロニー・ウッド 、ビリー・プレストン 、ミック・ジャガー 、ジョージ・ハリスン などの有名 ゆうめい ミュージシャンが参加 さんか していた[84] 。
^ これを踏 ふ まえてスターはアルバム『リンゴ』のブックレットに「ジム・ケルトナー・ファンクラブについてのすべては、切手 きって を貼 は った服 ふく を着 き ていない封筒 ふうとう で(for all information send a stamped undressed envelope to...)」と掲載 けいさい した。
^ 10テイク、約 やく 18分 ふん に及 およ ぶこのセッションではクラウス・フォアマン がベースを担当 たんとう しており、「ビートルズがマッカートニーの代 か わりにフォアマンを迎 むか えて再 さい 結成 けっせい した」とイギリスの音楽 おんがく 雑誌 ざっし 『メロディーメーカー 』が報 ほう じ、世界 せかい 的 てき なニュースとなった。
^ ビートルズ解散 かいさん 後 ご 、レノンがマッカートニーと演奏 えんそう したのはこれが初 はじ めてだった。レノンの死 し によって結果 けっか 的 てき に最後 さいご となってしまったこのセッションの音源 おんげん は、1992年 ねん に『ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74 』というブートレグ・アルバムで日 ひ の目 め を見 み た[84] 。
^ 但 ただ し、3人 にん が一緒 いっしょ にレコーディングしたものではない。元々 もともと スターのアルバム『バラの香 かお りを 』に収録 しゅうろく するはずだったがお蔵 ぞう 入 い りしたものにハリスンが新 あたら しい歌詞 かし のボーカルと、マッカートニーがリンダとデニー・レインとともにバッキングボーカルをオーバーダビングした。
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