ビートルズの解散かいさん問題もんだい

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ビートルズの解散かいさん問題もんだい(ビートルズのかいさんもんだい)は、イギリスロックバンドビートルズ解散かいさんにかかわるしょ問題もんだいのことである。ここでは、解散かいさんにいたる経緯けいいとその原因げんいんおよびそれらにまつわる背景はいけいについて解説かいせつする。

解散かいさんにいたる経緯けいい[編集へんしゅう]

突然とつぜんした「ビートルズ解散かいさんせつ[編集へんしゅう]

最初さいしょに「解散かいさん」が話題わだいになった契機けいきは、1966ねん11月7にちデイリー・メールかみがビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインかたった「グループとしての今後こんご予定よていまっておらず、ちか将来しょうらいについてはなうことになっている」という談話だんわ報道ほうどうしたことだった[1]。1966ねん8がつ29にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンフランシスコ最後さいご公演こうえんえたのちジョン・レノン主演しゅえん映画えいがジョン・レノンの ぼく戦争せんそう』の撮影さつえいのため西にしドイツへ、ポール・マッカートニー変装へんそうをしてロンドン散歩さんぽしたりフランス旅行りょこうを、ジョージ・ハリスンラヴィ・シャンカルシタールならうためインドへ、リンゴ・スター家族かぞくとヨーロッパ旅行りょこうくなど、ビートルズは2かげつあまりグループとしての活動かつどう休止きゅうししていた。実際じっさいは12月からはじまる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作せいさくまえ予定よていされていた長期ちょうき休暇きゅうかであったが、EMIとのさい契約けいやく公演こうえん活動かつどう終了しゅうりょうしたのち活動かつどう方針ほうしんなど、はないが必要ひつようだったことは事実じじつであった。

このときはエプスタインが解散かいさん否定ひていすることでさわぎはおさまったが、1967ねん1がつ22にちサンデー・タイムズかみが「我々われわれ自分じぶんたちのきなみちすす準備じゅんびができた。将来しょうらい4にん一緒いっしょ演奏えんそうするのは、おたがいがなつかしくなったときである」というマッカートニーのインタビュー記事きじ掲載けいさいしたことで解散かいさん疑惑ぎわく再燃さいねんしてしまう[2]当時とうじはまだあきらかにされていなかった公演こうえん活動かつどうをやめたことで、ソロもふくめ、様々さまざま活動かつどうができる可能かのうせいかたったものであって、解散かいさん示唆しさしたものではなかった。このさわぎも2がつにEMIとのさい契約けいやくをはじめ、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーやアルバムの発売はつばい予定よていあきらかになると収束しゅうそくした。しかし、8がつにエプスタインが急死きゅうしすると、次第しだいにメンバーあいだ不協和音ふきょうわおん表面ひょうめんはじめた。

リンゴ・スターの一時いちじ離脱りだつ[編集へんしゅう]

1968ねん8がつ22にち、スターは「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」のリハーサル・セッションちゅう突然とつぜんスタジオをした[3]

アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションちゅう、レノンがオノ・ヨーコをスタジオにれてきたことを発端ほったんにメンバーあいだ確執かくしつしょうじていた[4]一方いっぽう、アルバム制作せいさく途中とちゅうから最新さいしんの8トラック・レコーダーが導入どうにゅうされた[3]ことにより、4にん同時どうじ演奏えんそうする必要ひつようくなり、メンバーが別々べつべつのスタジオで作業さぎょうすることもおおくなっていた。当時とうじのスターは、のメンバーの作業さぎょう都合つごう自分じぶん予定よていわせるなど、いわばセッション・ミュージシャンのような立場たちばかれていた。またグループへの加入かにゅう一番いちばんおそく、しかも作曲さっきょくめんでの貢献こうけんとぼしい自分じぶんのグループにおける役割やくわり重要じゅうようのメンバーにくらべてひくいのではないかとかんじていた。また、マッカートニーが自作じさくきょくのためにみずからドラムを演奏えんそうするところを目撃もくげきし、そのおもいをさらにつよめた。そんななかひさしぶりに4にんそろったこのきょくのセッションで、スターの演奏えんそう満足まんぞくしないマッカートニーが度々どど注文ちゅうもんをつけたうえに実演じつえんしてせたことで、温厚おんこうなスターも激怒げきどし、脱退だったい宣言せんげんした[5][6][7]

スターのこの行動こうどうに3にん動揺どうようし、レノンははげましの電報でんぽうを、マッカートニーはスターのドラムをたたえるメッセージをおくり、復帰ふっきするよう説得せっとくした。イタリアサルデーニャとうへの家族かぞく旅行りょこう静養せいよう、9月3にちにスタジオにもどったスターは、ハリスンがスタジオちゅうかざりつけたはなによってむかえられた[8][9]

ジョージ・ハリスンの一時いちじ離脱りだつ[編集へんしゅう]

1969ねん1がつ10日とおか、いわゆる「ゲット・バック・セッション[注釈ちゅうしゃく 1]最中さいちゅう今度こんどはハリスンが脱退だったい宣言せんげんしてスタジオをていってしまった[10]

稀代きたいのメロディ・メーカーとしょうされる「レノン=マッカートニーようするビートルズにおいて、一番いちばん年下とししたのハリスンのきょく採用さいようされたのは、5thアルバム『ヘルプ!』ではじめて2きょく収録しゅうろくされるまで、2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ収録しゅうろくの「ドント・バザー・ミー」1きょくのみだった[注釈ちゅうしゃく 2]寡黙かもく性格せいかくなどからメンバーのなかでは一番いちばん目立めだたず、「しずかなビートル」(Quiet Beatle)とばれ、レノン=マッカートニーのかげかくれて実力じつりょく十分じゅうぶん発揮はっき出来できていなかったハリスンだったが、映画えいがヘルプ!4にんはアイドル』の撮影さつえい出会であったインド音楽おんがく興味きょうみったことで、シタールをはじめとするあたらしい楽器がっき導入どうにゅうするなど独自どくじ世界せかいかん構築こうちくすることに成功せいこうし、その作曲さっきょく能力のうりょくはレノン=マッカートニーに匹敵ひってきするまでになっていた[11]

一方いっぽう、レノンとマッカートニーは、ハリスンのきょくのアルバムへの収録しゅうろくは2きょくまでにとどめ[注釈ちゅうしゃく 3]自由じゆう作品さくひん発表はっぴょうあたえずにいた[注釈ちゅうしゃく 4]。また、ビートルズが公演こうえん活動かつどうめたことにもつよ不満ふまんっており、スタジオ・ワークを重視じゅうししていたハリスンとのあいだみぞができていた。さらにマッカートニーは自作じさくきょく録音ろくおんちゅうに、イメージを具現ぐげんすることを重視じゅうしするあまり、ハリスンの能力のうりょく軽視けいししているともとらえられるくらい、演奏えんそうなんかい注文ちゅうもんをつけたこともあった[13][注釈ちゅうしゃく 5]

1がつ2にちからトゥイッケナム映画えいが撮影さつえいしょ[注釈ちゅうしゃく 6]はじまった「ゲット・バック・セッション」は、元々もともとマッカートニーの発案はつあんおこなわれた。スターの一時いちじ離脱りだつでバンドの将来しょうらい危惧きぐする一方いっぽうで、「ヘイ・ジュード」のプロモーション・フィルム撮影さつえいさい観客かんきゃくまえおこなった演奏えんそう手応てごたえをかんじていたマッカートニーは、1966ねん8がつ以来いらいおこなっていないライブ・パフォーマンスをおこなうことでバンドとしての一体いったいかんたかめるとともに、より簡潔かんけつロックンロール構成こうせいもどることでバンドの活性かっせい企図きとした[15][16]。そこで、公演こうえん演奏えんそうすることを前提ぜんていとした、複雑ふくざつ編集へんしゅう作業さぎょうともなわない新曲しんきょくによるリハーサル・セッションをどうスタジオでおこなうと同時どうじに、新曲しんきょく仕上しあげていく過程かてい撮影さつえいおこない、公開こうかいコンサートをふくむテレビ特番とくばんようのドキュメンタリー映像えいぞうとして使用しようすることで合意ごういしていた[17]。しかし、セッションがすすむにつれて、れない映画えいがスタジオでの作業さぎょう本番ほんばんまで時間じかんみじかいこと、メンバー以外いがい人間にんげんがいるなかつね撮影さつえいされていることなど、緊張きんちょう不満ふまん原因げんいんとなり軋轢あつれきまれていった[18]

7にちにマッカートニーと対立たいりつ[注釈ちゅうしゃく 7]したハリスンは、10日とおかにはレノンとの口論こうろんをきっかけにセッションを放棄ほうきしてしまった[19][注釈ちゅうしゃく 8]結局けっきょく、15にちはないでハリスンはトゥイッケナムでの撮影さつえい中止ちゅうしすること、本番ほんばんはさらに延期えんきしたうえで観客かんきゃく予告よこくしでおこなうこと、アルバム制作せいさくのためにアップル・コア本社ほんしゃあたらしいスタジオでレコーディング作業さぎょうをすることを条件じょうけん復帰ふっきした。セッションは21にち再開さいかいされ、30にちにはビリー・プレストンくわえた5にん事前じぜん予告よこくしにアップルビルの屋上おくじょうにおいて、のちに「ルーフトップ・コンサート」としてられることになるライブ・パフォーマンスをおこなった[21]非公開ひこうかいとはえ、2ねん5かげつぶりにったこのライブは結果けっかとして、グループにとって最後さいごのライブ・パフォーマンスとなった。

ジョン・レノンの脱退だったい宣言せんげん[編集へんしゅう]

1969ねん9がつ、アルバム『アビイ・ロード』のリリースが間近まぢかせまっていた9にち、スターをのぞく3にん[注釈ちゅうしゃく 9]つぎのアルバムについてのはないをおこなった。レノンはメンバーそれぞれがシングル候補こうほきょくってシングルとアルバムを制作せいさくしようと、グループの存続そんぞくについて前向まえむきな発言はつげんをしていた[22]

13にち、レノンはトロント・ロックンロール・リバイバルプラスティック・オノ・バンドひきいて出演しゅつえんし、3ねんぶりに観衆かんしゅうまえ演奏えんそうおこなった。その1週間しゅうかん20日はつか、ハリスンをのぞく3にん[注釈ちゅうしゃく 10]がクレインとともに米国べいこくキャピトル・レコードとの契約けいやく更新こうしん手続てつづきのためアップル本社ほんしゃった会合かいごう席上せきじょうで、レノンとマッカートニーはバンドの今後こんごめぐって口論こうろんになった[23]。マッカートニーは公演こうえん活動かつどう再開さいかいのぞみ、ちいさなクラブでのギグ提案ていあんしたがレノンはことごと反発はんぱつし、挙句あげくてにマッカートニーにかって「契約けいやくしょにサインするまではだまってろとわれたんだけど、きみがそううんならおしえてやるよ。おれはもうビートルズをめることにした」とてた。契約けいやく更改こうかいひかえた現時点げんじてん脱退だったい公表こうひょうすることはおおきな不利益ふりえきこうむるとマッカートニーとクレインに説得せっとくされ、この時点じてんではレノンの脱退だったい秘密ひみつとすることとなった[24]。しかしレノンはこれ以降いこうビートルズとしてスタジオにもどることはなく、実質じっしつてきにビートルズは解散かいさんした[25][注釈ちゅうしゃく 11]

ポール・マッカートニーの脱退だったい[編集へんしゅう]

マッカートニーはレノンの脱退だったい宣言せんげん衝撃しょうげきけ、しばらくのあいだスコットランド農場のうじょうこもってしまった。そのころのマッカートニーを心身しんしんともにささえたのが、当時とうじのマッカートニーのつまであるリンダ・マッカートニーだった。のちにマッカートニーは、自伝じでんで「あのときリンダがささえてくれたから、ソロでやっていく決心けっしんがついた」と述懐じゅっかいしている[29]

1970ねん1がつ、クレインは棚上たなあげになっていた「ゲット・バック・セッション」をドキュメンタリー映画えいがのサウンドトラック・アルバムとして発売はつばいすることを計画けいかくし、フィル・スペクターをアップル本社ほんしゃ招待しょうたいしていた。「インスタント・カーマ制作せいさくのスペクターの仕事しごとぶりに感心かんしんしたレノンとハリスンは3がつ23にち、マッカートニーに無断むだんでアルバムのさいプロデュースを依頼いらいした。スペクターはオーバー・ダビングをもと編集へんしゅう作業さぎょうすすめ、4がつ2にちに『レット・イット・ビー』を完成かんせいさせた[16]。レノンとハリスンは、頓挫とんざしかけていた「ゲット・バック・セッション」の音源おんげん短期間たんきかんのうちにアルバムとしてまとめあげたスペクターの仕事しごとたか評価ひょうかした[注釈ちゅうしゃく 12]。しかしマッカートニーは「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にくわえられたコーラスやオーケストラ・アレンジにつよ不満ふまんつなど、自分じぶん除外じょがいしたまますすめられたスペクターの仕事しごと評価ひょうかせず、アルバム発売はつばい中止ちゅうしもとめて訴訟そしょう検討けんとうしたが、アルバムの発売はつばいかんする契約けいやくが1まいのこっていたため、不本意ふほんいながらも発売はつばいみとめざるをなかった。

ところがクレインは『レット・イット・ビー』の発売はつばい優先ゆうせんさせるために、マッカートニーのソロ・アルバム発売はつばい延期えんきしようとかんがえ、スターをその通達つうたつのためにけた。マッカートニーは、すで決定けっていしていた4がつ17にちけてリリースの準備じゅんびすすめていたが、ソロ・アルバムでさえもクレインの管理かんりにある状況じょうきょう激怒げきどし、スターにかって辛辣しんらつ言葉ことばてた。結局けっきょく『マッカートニー』は予定よていどお発売はつばいされることになった[30]

1970ねん4がつ10日とおか、マッカートニーがグループを脱退だったいする意向いこうであることがイギリスの大衆たいしゅうデイリー・ミラー』でほうじられた。これは『マッカートニー』のリリースまえにプレスけに配付はいふされた、マッカートニー自身じしん用意よういした資料しりょうもとづいた記事きじであった。いちもんいちとう形式けいしき資料しりょうなかには「今後こんごビートルズのメンバーと創作そうさく活動かつどうをすることはない」とあり、マスコミから「脱退だったい宣言せんげん」だとられた。こうしてビートルズは事実じじつじょう解散かいさんした[31][32]

法的ほうてき解散かいさん[編集へんしゅう]

マッカートニーは1970ねん12月31にち、ロンドン高等こうとう裁判所さいばんしょにビートルズの解散かいさんとアップルでの共同きょうどう経営けいえい解消かいしょうもとめるうったえをこした[33]。このうったえはおもにクレインの活動かつどうふうじることが目的もくてきであった。すでにレノンはビートルズをめてしまい、バンドは解散かいさん状態じょうたいであったが、アップル設立せつりつわした「4にん収入しゅうにゅうすべてアップルに管理かんりされ、平等びょうどう分配ぶんぱいされる」という契約けいやくしばられ、4にんがビートルズとしての活動かつどうはもちろん、それ以外いがい収入しゅうにゅうもクレイン(アブコ)が管理かんりするアップルに支払しはらわれていた。この状況じょうきょうではビートルズの財産ざいさんすべてクレインににぎられており、また用途ようと不明ふめい手数料てすうりょうをアップルに要求ようきゅうつづけることでメンバーがかせいだ収益しゅうえきっているとかんがえたマッカートニーは、契約けいやく法的ほうてき無効むこうにするため提訴ていそした。

裁判さいばんではクレインを信用しんようすることは出来できないといううったえの根拠こんきょに、アルバム『マッカートニー』の発売はつばいおくらせようとしたこと、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に許可きょかなくくわえたこと、アップルが製作せいさくした映画えいが『レット・イット・ビー』を無断むだんユナイテッド・アーティスツ譲渡じょうとしたこと、などをげた[34]。クレインはアメリカの印税いんぜい契約けいやくげ、その増加ぞうかぶん収益しゅうえきから20パーセントを手数料てすうりょうとしてるはずであった。しかし、クレインは印税いんぜい全体ぜんたい収益しゅうえきの20パーセントを不正ふせい請求せいきゅうしており、すでに支払しはらみであった。これらの不正ふせい法廷ほうていあきらかにされ、判事はんじは「クレインくち達者たっしゃ二流にりゅうのセールスマンである」とし、「ビートルズの財政ざいせい管理かんり出来でき人物じんぶつではない」との判断はんだんし、3月12にちにパートナーシップ解消かいしょうみとめる判決はんけつくだした。レノンらは控訴こうそ断念だんねんし、4がつ26にち判決はんけつ確定かくていした[34]

しかし4にん解散かいさん合意ごういしょにサインをませたのは1974ねん12がつで、マッカートニーが提訴ていそしてから4ねんあまりたった1975ねん1がつ9にちにビートルズは正式せいしき解散かいさんした[33]

解散かいさんにいたる背景はいけい要因よういんかんがえられている事項じこう[編集へんしゅう]

公演こうえん活動かつどう終了しゅうりょうとブライアン・エプスタインの[編集へんしゅう]

1966ねん8がつ29にち、ビートルズは8がつ12にちからはじまった全米ぜんべいツアーの最終さいしゅう公演こうえんとしてサンフランシスコキャンドルスティック・パークおこなった公演こうえんは、バンドにとって最後さいご観客かんきゃくまえにしたライブ・パフォーマンスとなった[35]

エプスタインは1964ねんにアメリカはつ上陸じょうりくたしたさい過密かみつなスケジュールに疲弊ひへいしていたメンバーをて、翌年よくねんだい人数にんずう収容しゅうようできる野球やきゅうじょうなどを会場かいじょうとして使つかうことでゆとりをたせようとかんがえた。ところが観客かんきゃくとの距離きょりとおくなったため、さらに絶叫ぜっきょうするファンから発生はっせいするおおきなおと対抗たいこうして強力きょうりょくなアンプを用意よういしても音楽おんがくとどけるのは不可能ふかのうになっているとかんじていたバンドは、ライブのやりかた次第しだい不満ふまんつようになっていた[36]。さらにミュンヘンからはじまった1966ねんのツアーは様々さまざまなトラブルに見舞みまわれ、とくに3つの出来事できごとがこのおもいをさらにつよめることになった。

ひと日本にっぽん公演こうえん会場かいじょう日本武道館にほんぶどうかんだった[注釈ちゅうしゃく 13]が、反対はんたい運動うんどうおこなわれるなど騒動そうどうになっていた[注釈ちゅうしゃく 14]ため、非常ひじょう厳重げんじゅう警備けいび態勢たいせいかれた。観客かんきゃく着席ちゃくせき義務付ぎむづけられ、こえすことも制限せいげんされていたため、いつもとちがしずかなコンサートになった[注釈ちゅうしゃく 15]。このしずかさは普段ふだん観客かんきゃくさけごえ歓声かんせいによって演奏えんそうすらくことが出来できなかったメンバーにとって、はからずも自身じしん演奏えんそうさい確認かくにんさせることとなり、演奏えんそう能力のうりょく低下ていかしたようにかんじたという[38]

ふたはフィリピンでの暴行ぼうこう事件じけん。7月4にち、フィリピンのリサール・メモリアル・スタジアムおこなわれた公演こうえん観客かんきゃく総数そうすうやく10まんにんはというビートルズにとって最高さいこう動員どういんすうだった。ところが、翌朝よくあさ新聞しんぶんで「ビートルズがファーストレディ肘鉄ひじてつらわした」[注釈ちゅうしゃく 16]報道ほうどうされると状況じょうきょう一変いっぺん帰途きと空港くうこうでのことにはらてた暴徒ぼうとおそわれてしまった[注釈ちゅうしゃく 17]。このようなトラブルにまれたのははじめての経験けいけんだったため、メンバーはおおきなショックをけた。

みっ全米ぜんべいツアー直前ちょくぜんこった「ビートルズ排斥はいせき運動うんどう」。発端ほったんはレノンが3がつにイギリスの記者きしゃモーリーン・クリーヴとのインタビューでべた「いまはキリストより人気にんきがある」というコメントであった。当時とうじイギリスでは「いつものレノンの毒舌どくぜつ」としてほとんど注目ちゅうもくされなかった。ところが、7がつまつにアメリカの10代雑誌ざっしデートブック』がげると、保守ほしゅからのはげしい反発はんぱつこった[42]南部なんぶ中心ちゅうしんにビートルズのレコードちや排斥はいせき運動うんどうこり、30のラジオきょく放送ほうそう禁止きんしにした。さらにバチカンが抗議こうぎ声明せいめいし、スペインとオランダ、みなみアフリカの放送ほうそうきょくがレコードの不買ふばい運動うんどうおこなうにいたって[43]、ツアー前日ぜんじつの8がつ11にちにレノンは記者きしゃ会見かいけん謝罪しゃざいまれた。コンサートはもはや悲鳴ひめいげて音楽おんがくくことの出来できなくなっているファンのまえでいつもとおおこなわれ、演奏えんそうするがわ惰性だせいかん退屈たいくつかんおぼえ、ステージに意欲いよくうしないつつあった。殺害さつがい予告よこく脅迫きょうはくけ、ホテルから外出がいしゅつ禁止きんし禁止きんしされた[44]ため、ツアーちゅうはホテルと会場かいじょう往復おうふくするのみで、そこになん音楽おんがくてき向上こうじょうのぞめない環境かんきょう認識にんしきしたかれらは、このツアーを最後さいごにすることにした[45]。ここに世界中せかいじゅうで1,400かい以上いじょうのコンサート出演しゅつえんふくむ、ほとんどやすくツアーにれた4年間ねんかんわりをげた[46]

ほぼ1ねんたった1967ねん8がつ27にち、エプスタインが自宅じたく寝室しんしつ死亡しぼうしているのが発見はっけんされた。当時とうじ私生活しせいかつでのトラブルをかかえており、遺書いしょらしきメモも発見はっけんされたが、公式こうしきには睡眠薬すいみんやく鎮痛ちんつうざいなどの過剰かじょう摂取せっしゅによる事故死じこしとされた[47]。ビートルズはエプスタインのおおきな衝撃しょうげきけた[48][49]。ビートルズのライブ活動かつどう終了しゅうりょうによりエプスタインは役割やくわりおおくをうしなってしまったとわれているが、実際じっさいのところは依然いぜんとしてバンドの対人たいじん関係かんけい財政ざいせいつよ影響えいきょうりょく行使こうししていた。ツアー終了しゅうりょうにハリスンがグループからの脱退だったいもうれたとき[50][注釈ちゅうしゃく 18]今後こんごツアーは一切いっさいおこなわないことを確約かくやくし、おもいとどまらせていた。

まとやくうしなったビートルズは混乱こんらんし、将来しょうらいたいする恐怖きょうふいた[52]とく危機ききかんつよかったマッカートニーは、率先そっせんしてアイデアを実行じっこううつし、主導しゅどうけんにぎっていった[注釈ちゅうしゃく 19]。その様子ようすかれ提案ていあんはじまった『マジカル・ミステリー・ツアー』セッションでもあきらかである。マッカートニーは必死ひっしにグループを存続そんぞくさせようと努力どりょくするが、周囲しゅういにはひとがりとられた。レノンは1970ねんに『ローリング・ストーン』のインタビューでエプスタインのがバンド解散かいさんおも原因げんいんであるとし、「ブライアンの死後しごくんらがっているように色々いろいろなことがぼくたちにりかかりはじめたことで、ぼくたちはポールのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンがんでぼくたちは意気いき消沈しょうちんしてしまった。ポールはかれいでおそらくぼくたちをリードしようとしたけれど、ぼくたちは精神せいしんてきまいってしまったんだ」とかたった。

オノ・ヨーコ[編集へんしゅう]

「ビートルズを解散かいさんさせたおんな」の代名詞だいめいしばれているオノ・ヨーコとレノンの出会であいは、デイリー・メールがビートルズの「解散かいさん」をほうじた1966ねん11月7にち[54]だった。レノンはロンドンのインディカ・ギャラリーおこなわれていた女性じょせい前衛ぜんえい芸術げいじゅつ個展こてん内覧ないらんかいまねかれ、経営けいえいしゃジョン・ダンバーからオノを紹介しょうかいされた[55][56]。オノの作品さくひん言動げんどう魅力みりょくかんじたレノンは、その資金しきん提供ていきょうおこない、連絡れんらく頻繁ひんぱんるようになっていった。

1968ねん5がつ30にち、『ザ・ビートルズ』のレコーディングのためにEMIレコーディング・スタジオにメンバーは集合しゅうごうしたが、そこにレノンはオノをれてきていた。レノンはその予定よていされていた自身じしんきょく[注釈ちゅうしゃく 20]実験じっけん音楽おんがく要素ようそれるために、のち共同きょうどう名義めいぎ発表はっぴょうされる『完成かんせい作品さくひんだい1ばん トゥー・ヴァージンズ』を一緒いっしょ制作せいさくしたオノをセッションに参加さんかさせるつもりだった[57][注釈ちゅうしゃく 21]。しかし、事前じぜんらされていなかったほかのメンバーは、かつてエプスタインがスタジオにかおすことさえいやがっていたレノンが「グループの仕事場しごとば部外ぶがいしゃはもちろん、パートナーであってもれてこない」という不文ふぶんりつ[58]やぶったことにおどろいた[注釈ちゅうしゃく 22]。そのつねにレノンにい、ときにはかれ意見いけん代弁だいべんするというかたち口出くちだしをするオノの存在そんざいはグループにおおきな緊張きんちょうかんをもたらした[59]キンフォーンズでのデモ・セッション[注釈ちゅうしゃく 23]でせっかくもどした一体いったいかん次第しだいうしなわれていき、メンバーが個々ここにスタジオにこもってしまう一因いちいんとなってしまった。ライブ・ショーをおこなうためのリハーサル・セッションとしてはじめた「ゲット・バック・セッション」ではのメンバーもつま子供こどもれてくるようになったが、以前いぜんより寡黙かもくになったレノンのわりにオノが発言はつげんすることはつづいた[注釈ちゅうしゃく 24]

当時とうじ心境しんきょうについてマッカートニーは、「ジョンがその当時とうじヨーコにかなりんでたのは事実じじつだから、いまおもえば、ジョンはあたらしくれた自由じゆうをエンジョイして、ワクワク気分きぶんだったんだろうなとおもうよ。でもヨーコがスタジオにあらわれて、なにもしないでチョコンとぼくらのなかすわられてもね、ってかんじだったよ。ぼくらはそのことにウンザリしてたってみとめざるをないよね。」とかたっている[61]

ただ、「ビートルズ解散かいさん原因げんいんはオノ」というせつについて、2012ねん10月のオブザーヴァーかみにマッカートニーは「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズはみずからバラバラになった」とかたっており、2021ねんのインタビューでもヨーコと出会であったことできたジョンの変化へんかかれ脱退だったい宣言せんげんつながり、バンドをわらせた直接ちょくせつ原因げんいんになったことをみとめたうえで「ジョンはヨーコとあたらしい人生じんせいつくろうとしていたってことだよ。ジョンはずっと社会しゃかいから自由じゆうになりたがっていたんだ」「かれらは最高さいこうのカップルだった」と、オノ・ヨーコに責任せきにんがあったとはおもっていないと再度さいどかたった[62]。ハリスンも「グループ解散かいさんにヨーコがぜん責任せきにんうわけではない」と発言はつげんしている[63]

その、オノとレノンは1969ねん3がつ結婚けっこん、プラスティック・オノ・バンドとしての音楽おんがく活動かつどうおこない、いわゆる「ロスト・ウィークエンド」とばれている別居べっきょ期間きかんのぞき、レノンがくなるまで二人三脚ににんさんきゃく活動かつどうともにしていた。

アップルとアラン・クレイン[編集へんしゅう]

1968ねん1がつ、ビートルズはみずからの財産ざいさん運用うんようするための会社かいしゃアップル・コア[注釈ちゅうしゃく 25]設立せつりつした[65]代表だいひょうには友人ゆうじんでロード・マネージャーだったニール・アスピノールいた。

アップル・コアは、元々もともとエプスタインがビートルズのかせ莫大ばくだい収益しゅうえきかる高額こうがく税金ぜいきん回避かいひする対策たいさくとして、1967ねん4がつに「ビートルズ・アンド・カンパニー」という会社かいしゃ設立せつりつしたことにはじまった。ビートルズの財産ざいさん運用うんようするため、音楽おんがくだけではなく、様々さまざま物販ぶっぱん中心ちゅうしんえた複数ふくすう事業じぎょう部門ぶもんつ、ふくごうがたマルチメディア企業きぎょうとする構想こうそうだった。将来しょうらいてきにはNEMS統合とうごうしようともかんがえていた。しかし8がつにエプスタインが急死きゅうししたため、すべて中途半端ちゅうとはんぱなままのこされてしまった。これからのマネージメントは自分じぶんたちが主体しゅたいおこなっていこうとかんがえたビートルズは、エプスタインがいなくなったNEMSとのマネージメント契約けいやく更新こうしんおこなわなかった。このためNEMSは会社かいしゃ実務じつむおこなっていた社員しゃいんげてしまった[注釈ちゅうしゃく 26]。アップル・コアを設立せつりつしたものの、ビートルズのアイデアの実行じっこう統括とうかつできる人物じんぶつはおらず、レコード部門ぶもん以外いがいはほとんど失敗しっぱいわり[66]財務ざいむ管理かんりまったえない状況じょうきょうになったため、外部がいぶ人間にんげん介入かいにゅう必要ひつようとなった。

そこでマッカートニーがれてきたのは当時とうじ恋人こいびとだったリンダ・イーストマンちち弁護士べんごしリーあにジョンだった。1969ねん1がつ、メンバー4にんとアスピノールの承認しょうにんけて正式せいしき代理人だいりにんとなった[67]。イーストマン父子ふしは、ビートルズがNEMSとのマネージメント契約けいやく更新こうしんはしなかったものの、EMIから支払しはらわれる印税いんぜいはNEMS経由けいゆで25%をいてからビートルズにはい仕組しくみのままになっていたので、これを解消かいしょうするために買収ばいしゅうしようとかんがえていた[注釈ちゅうしゃく 27]。またノーザン・ソングスとの印税いんぜいりつさい交渉こうしょう拒否きょひされたため、NEMSのつノーザン・ソングスのかぶれることで将来しょうらいてき買収ばいしゅうしようともかんがえていた[注釈ちゅうしゃく 28]。ところがレノンがれてきたアラン・クレイン [注釈ちゅうしゃく 29]がアップル・コアの資産しさん状況じょうきょう精査せいさするまでつべきだと反対はんたいしたため、棚上たなあ状態じょうたいになってしまった[注釈ちゅうしゃく 30]。さらにクレインがNEMSを買収ばいしゅうせずに25%の印税いんぜいかんする契約けいやく見直みなお方向ほうこうしたため、不信ふしんかんったエプスタインはこれ以上いじょうのトラブルにまれないために2がつ17にち、NEMSを投資とうし銀行ぎんこうトライアンフ・インベストメント・トラストへ売却ばいきゃくしてしまった[注釈ちゅうしゃく 31]

NEMSの買収ばいしゅう失敗しっぱいわるとビートルズがわさらなる窮地きゅうちたされた。3月27にち、ノーザン・ソングスのディック・ジェームズは、自分じぶんかぶをビートルズがわには無断むだんATV売却ばいきゃくしてしまった。あわてたビートルズがわ投資とうしからかぶ取得しゅとくするために入札にゅうさつこころみたが、ATVがわ過半数かはんすうかぶ取得しゅとく経営けいえいけん確保かくほしてしまった。4月18にち、イーストマン父子ふしがレノンらから一方いっぽうてき代理人だいりにん解任かいにんされると[注釈ちゅうしゃく 32]、これに反発はんぱつしたマッカートニーは5月8にち会議かいぎかれらをマネージャーにする提案ていあんをしたが3たい1で否決ひけつされ、レノン、ハリソン、スターはバンドのビジネスマネージャーとしてクレインとの契約けいやくにサインした[68]。これにより4にん関係かんけい修復しゅうふく不可能ふかのうみぞまれてしまった[69]。その、クレインはATVの買収ばいしゅう提案ていあんしたが、今度こんどはマッカートニーがわ反対はんたいしたためできなかった。結局けっきょく、レノンとマッカートニーは保有ほゆうかぶすべてATVに売却ばいきゃくすることで利益りえき確定かくていせざるをなかった。このためレノン=マッカートニー作品さくひんのほとんどは他人たにんわたってしまい、自分じぶんたちのきょくうたたび使用しようりょう支払しはらわなければならなくなってしまった。

クレインは実質じっしつてきにアップルを掌握しょうあくすると、大量たいりょう解雇かいこ[注釈ちゅうしゃく 33]経営けいえい再建さいけん着手ちゃくしゅした。アップルの経営けいえい改善かいぜんしたものの、クレインから解放かいほうされたかったマッカートニーは、最終さいしゅうてき訴訟そしょうこすことをめた。1971ねん3がつ高等こうとう裁判所さいばんしょはマッカートニーを支持しじし、管財かんざいじん任命にんめいされた[71][72]

はじめはクレインの手腕しゅわん評価ひょうかしていたレノン、ハリソン、スターも『バングラデシュ難民なんみん救済きゅうさいコンサート』での不正ふせい疑惑ぎわく[注釈ちゅうしゃく 34]などで次第しだい不信ふしんかんいていった[76]結局けっきょく、1973ねん3がつ、3にん契約けいやく更新こうしんしなかったため、クレインはアップル・コアをった[76]。11月には3にんがクレインにたいし「虚偽きょぎによる搾取さくしゅ」「マネージメントの失敗しっぱい」について損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうおこな[77]翌年よくねん10がつ勝訴しょうそした。これにたいし、クレインも未払金みはらいきん1900まんドルの損害そんがい賠償ばいしょうもとめてぎゃく提訴ていそした[78]。1977ねん4がつ、アップルとビートルズがわがクレインたいして合計ごうけい500まんドルを支払しはらうことで和解わかい[79]関係かんけい完全かんぜん清算せいさんした。

しかし、ハリスンだけはそのもクレインにくるしめられた。1971ねん2がつだいヒットきょくマイ・スウィート・ロード」がシフォンズの1963ねん全米ぜんべい1きょくいかしたかれ (シーズ・ソー・ファイン)」の著作ちょさくけん侵害しんがいしているとしてブライト・チューンズ・ミュージックからうったえられていた。クレインはアップルをったのち、ブライト・チューンズを買収ばいしゅうし、訴訟そしょう原告げんこくがわになっていた[注釈ちゅうしゃく 35]。1990ねん11月ハリスンの敗訴はいそ確定かくてい、クレインは以後いごのロイヤリティ保障ほしょう慰謝いしゃりょう27まんドル獲得かくとくした。

1975ねん1がつ、ビートルズが正式せいしき解散かいさんすると、アップル・コアの解散かいさん検討けんとうされたが、結局けっきょくすべての部門ぶもん閉鎖へいさまたは休眠きゅうみんさせながら運営うんえい継続けいぞくすることが決定けっていされた。5月2にち、アップルはサヴィル・ロウのオフィスを閉鎖へいさし、セント・ジェームズ・ストリート事務所じむしょ移転いてんした。アスピノールは会計かいけい法務ほうむ補佐ほさするスタッフだけをのこし、全員ぜんいん解雇かいこした。アップル・スタジオも5月16にち閉鎖へいさされた。

解散かいさんの4にん関係かんけい[編集へんしゅう]

1970ねん4がつにビートルズの解散かいさんおおやけ発表はっぴょうされたその直後ちょくごの4にん関係かんけいけっして良好りょうこうではなかった。マッカートニーは1971ねん12月4にち発売はつばいされた『メロディー・メーカー』のインタビューで「ぼくは4にんがどこかにあつまって、すべてがわったことを証明しょうめいする書類しょるいにサインして、おかねを4にんけたいだけなんだ。4にんだけでいいし、つまのリンダやヨーコ、マネージャーのクレインも必要ひつようはない。ぼくのぞむことは、4にん署名しょめいした書類しょるいをビジネス関係かんけいしゃ手渡てわたして、あとはかれらにまかせることだけど、ジョンはそうしないだろうね。だれもがぼくのことを攻撃こうげきしゃだとおもっているけど、それはちがう。ぼくはただえんりたいだけなんだ」とかたっている[80]。この意見いけんたいし、レノンは「リンダとヨーコきでおうというのは本当ほんとう不可解ふかかいだ。キミの戯言ざれごとなのはわかるが、常識じょうしきのレベルをえないでくれ。ぼくがJOHNANDYOKO(ジョン&ヨーコ)であることは、とっくに理解りかいしてるとおもってた。キミの弁護士べんごしでさえ、かみ署名しょめいするだけじゃまないことはってるよ。それとも、かれらからいてないの?」と手紙てがみおくった[81]

1971ねん、マッカートニーがアルバム『ラム』の「トゥ・メニー・ピープル」で、レノンとヨーコの一連いちれん平和へいわ活動かつどう批判ひはんすると[82]激怒げきどしたレノンは『イマジン』の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」でマッカートニーの楽曲がっきょく容姿ようし批判ひはんした[83]。またハリスンは、マッカートニーがウイングスのアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の裏表紙うらびょうしに「ウイングス・ファン・クラブについての詳細しょうさいは、切手きってった返信へんしんよう封筒ふうとうで(for more information on the Wings' Fun Club send a stamped self-addressed envelope to...)」と掲載けいさいしたことを揶揄やゆするかのように、アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の裏表紙うらびょうしに「ジム・ケルトナー・ファンクラブ[注釈ちゅうしゃく 36]についてのすべては、切手きってったふくていないぞうで(for all information send a stamped undressed elephant to...)」と掲載けいさいした[注釈ちゅうしゃく 37]

一方いっぽう、マッカートニーをのぞく3にん関係かんけい良好りょうこうで、ハリスンはレノンのシングル「インスタント・カーマ」やアルバム『イマジン』に参加さんかし、スターのシングル「明日あしたへのねが」「バック・オフ・ブーガルー」のプロデュースをおこなった。また、スターはレノンのアルバム『ジョンのたましい』やハリスンのアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』、そして『バングラデシュ難民なんみん救済きゅうさいコンサート』に出演しゅつえんした。

1973ねん、スターのアルバム『リンゴ』にレノン、マッカートニー、ハリスンがそれぞれ楽曲がっきょく提供ていきょうした。「アイム・ザ・グレーテスト」のレコーディング・セッションにはキャピトル・レコードとの仕事しごと関係かんけいでロサンゼルスに滞在たいざいしていたレノンとハリスンが参加さんかした[85][注釈ちゅうしゃく 38]。マッカートニーもロンドンでおこなわれた「シックス・オクロック」のレコーディングに参加さんか話題わだいとなった[87]

1974ねん、ロサンゼルスでレノンがハリー・ニルソンあたらしいアルバムのプロデュースっていたところにマッカートニーが突然とつぜん訪問ほうもんし、スティーヴィー・ワンダーらをまじえてジャム・セッションをおこなった[注釈ちゅうしゃく 39]。また、12月にはハリスンの全米ぜんべいツアーのげパーティーにレノンとマッカートニーが出席しゅっせきした。

1975ねんにはマッカートニーとレノンのツーショットが撮影さつえいされるほど関係かんけい回復かいふくしていた[88]。さらに同年どうねん、ニューヨークのプロモーターであるビル・サージェントが「ビートルズの一夜いちや限定げんていさい結成けっせいコンサートに67おくえん支払しはらう」と発言はつげん、しかし、前座ぜんざ男性だんせいとサメがレスリング・マッチをおこなうというもので、スターは2020ねんのインタビューで「ぼくら、一度いちどはなしたんだよ。クレイジーなオファーがあってね。おたがいに電話でんわをかけ、どうおもうかろうとしたんだ。ぼくら、やらないことにした。オープニング・アクトがサメにらいつくおとこだっていうんだから。ぼくら、それはないなっておもった」とかたっている[89]

1976ねん4がつ24にちにはアメリカの人気にんきバラエティ番組ばんぐみサタデー・ナイト・ライブ』にて、「ビートルズが番組ばんぐみにて一緒いっしょ演奏えんそうしてくれたら3000ドルを支払しはらう」とのもうがあり、ニューヨークのレノンの自宅じたくでこの放送ほうそうていたマッカートニーは、レノンとともにタクシーでスタジオへかおうとしたとされている[88] [90]

1979ねんにはエリック・クラプトン結婚式けっこんしきに、マッカートニー、ハリスン、スターが出席しゅっせき。レノンは不参加ふさんかであり、のち参加さんかできなかったことをやんでいたという[91]。また、当時とうじ国際こくさい連合れんごう事務じむ局長きょくちょうクルト・ヴァルトハイムびかけにより12月に開催かいさいされた『カンボジア難民なんみん救済きゅうさいコンサート』にレノンをのぞく3にん参加さんか予定よていだったが、事前じぜんに「ビートルズさい結成けっせい」と報道ほうどうされたことでハリスンとスターは出演しゅつえんりやめてしまった。

このように4にん一堂いちどうかいすることは、公式こうしきはもちろんプライベートでもなかった。そして1980ねん12月8にちレノンのにより、その機会きかい永遠えいえんうしなわれた。

1981ねん、レノンの追悼ついとうとしてリリースされたハリスンのシングル「りし日々ひび」のレコーディングには、マッカートニーがコーラス、スターがドラムスで参加さんか話題わだいとなった[注釈ちゅうしゃく 40]

1994ねんから1995ねんにかけておこなわれた「アンソロジー・プロジェクト」では、オノから提供ていきょうされたレノンのデモ・テープをもとにして、「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2きょくを3にん制作せいさく、ビートルズの新曲しんきょくとして発表はっぴょうした。

2001ねん11月29にちにハリスンが死去しきょしたのちも、マッカートニーとスターは活動かつどうつづけ、各々おのおののソロ・アルバムやライブにゲスト出演しゅつえんおこなっている。2023ねんには、前述ぜんじゅつの「アンソロジー・プロジェクト」でおぞうりとなっていた「ナウ・アンド・ゼン」が技術ぎじゅつ進展しんてんにより完成かんせいし、レノンとハリスンをふくむビートルズ4にんの「最後さいご新曲しんきょく」として発表はっぴょうされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ この名称めいしょう正式せいしきなものではなく、このセッションでつくられたきょくゲット・バック」、発売はつばいわったアルバム『ゲット・バック』、さらにマッカートニーの「原点げんてん回帰かいきてきなコンセプトの一連いちれんのプロジェクトをむすけてからわれるようになったものであって、最初さいしょから「原点げんてんかえろう=Get Back」という言葉ことば明確めいかくかつ具体ぐたいてきかかげてセッションがおこなわれたわけではない。
  2. ^ この事実じじつについては『アンソロジー』のなかでハリスン自身じしんが、「あのころぼく気持きもちとソングライティングの実力じつりょくともなっていなかった。最初さいしょころきょくは(後期こうきつくったきょくくらべると)全然ぜんぜんだね」という発言はつげんをしており、きょくづくりにおけるビートルズ前期ぜんきころ実力じつりょく不足ふそくみずかみとめている。
  3. ^ 唯一ゆいいつ例外れいがいは『リボルバー』で、3きょくてられた。ホワイト・アルバム』は2まいぐみだったので、4きょくてられた。
  4. ^ プロデューサージョージ・マーティンですら、ハリスンの実力じつりょく軽視けいししていたところがあった。マーティンは「ジョンとポールはおたがいに切磋琢磨せっさたくましながらきょくつくることが出来できたが、ジョージにはそういうライバルがおらず、一人ひとりきりだった」とべている[12]
  5. ^ 「『ゲット・バック・セッション』のさいには、ジョンもポールも自分じぶんきょくのギターパートをすべ自分じぶんつくろうとしていたために、ジョージは欲求よっきゅう不満ふまんであった」とスターはべている[14]
  6. ^ 映画えいがヘルプ!4にんはアイドル』などの撮影さつえい使用しようされた。
  7. ^ 口論こうろん光景こうけい映画えいが レット・イット・ビー』にも使つかわれた。
  8. ^ 映画えいがザ・ビートルズ: Get Back』ではマッカートニーがランチ休憩きゅうけいにしようとったとき、ハリスンはバンドをめるとげたように編集へんしゅうされているが、実際じっさいはランチ休憩きゅうけいはいったのちでレノンとハリスンが口論こうろん。その、ハリスンはレノンに「バンドをることにした。いますぐ。」とげ、「わりをさがせよ。NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)で募集ぼしゅうすればいい。」といいはなった。食堂しょくどうにいたマッカートニーらには「またクラブでおう。」とってスタジオをのちにした[10][20]
  9. ^ スターは検査けんさ入院にゅういん不在ふざいだった。
  10. ^ ハリスンは母親ははおや病気びょうき見舞みまい不在ふざいだった。
  11. ^ ちなみに、1969ねん6がつ以降いこうのレノンは重度じゅうどヘロイン中毒ちゅうどくで、周囲しゅうい意見いけんにほとんどみみかたむける余裕よゆうがなかったというせつがある[26]。また麻薬まやく禁断症状きんだんしょうじょうについていた「コールド・ターキー」をプラスティック・オノ・バンド名義めいぎ発表はっぴょうし、自分じぶん中毒ちゅうどく症状しょうじょううったえている[27]とされていたが、レノン本人ほんにん否定ひていしている[28]
  12. ^ そのもそれぞれのソロ作品さくひんかれをプロデューサーとして起用きようしている。
  13. ^ 当時とうじ屋内おくないでビートルズがわ要求ようきゅうする1まんにん収容しゅうようできる施設しせつ日本武道館にほんぶどうかんだけだった[37]
  14. ^ 同年どうねん6がつ5にち放送ほうそうされたTBS系列けいれつきょく討論とうろん番組ばんぐみ時事じじ放談ほうだん』ではしょうなぎさ利得りとくが、「大体だいたいね、あんな気違きちがどもため武道館ぶどうかん使つかわせるなんて、もってのほかだよ。ゴミめのゆめしまでやらせりゃいいんだ」と発言はつげんするなど、「日本にっぽん武道ぶどう聖地せいち」である武道館ぶどうかんでコンサートなどありえないとかんがえるひとたちもいた。
  15. ^ ハリスンは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』において日本にっぽん公演こうえんかえり、「全体ぜんたいてきしずかだった」とはなしている。
  16. ^ 大統領だいとうりょう夫人ふじんイメルダ・マルコスみずからの家族かぞく友人ゆうじんのためにパーティーを開催かいさい、ビートルズもこのパーティーに招待しょうたいされていたがエプスタインは丁重ていちょう辞退じたいしていた[39]
  17. ^ スターは飛行機ひこうきろうとしたさい肋骨あばらぼね怪我けがい、のメンバーも負傷ふしょうした[40]機材きざいうしなわれたほか、コンサートの収益しゅうえきはすべて課税かぜいされたという[41]。また、スターはそののインタビューで「動物どうぶつみの待遇たいぐうけた」と皮肉ひにくじりにかたっている。
  18. ^ その理由りゆうかんしては、音楽おんがく創造そうぞうしたいという願望がんぼう、そして、1960年代ねんだい中頃なかごろから発達はったつした録音ろくおん技術ぎじゅつによってつくられたきょくをライブ演奏えんそうするさい技術ぎじゅつてき制限せいげんとの葛藤かっとうからしょうじた不満ふまんがあったという[51]
  19. ^ レノンはのちに「ポールの努力どりょくはバンド存続そんぞくのために重要じゅうようであったが、それは自身じしんがソロキャリアを追求ついきゅうすることへの不安ふあんからるものだ」ととかえった[53]
  20. ^ レボリューション」のこと。セッションをかさねるうちに10ふんえるものになったが、最終さいしゅうてき前半ぜんはんのバンド・サウンドのパートを「レボリューション1」、後半こうはん前衛ぜんえいてきなパートを「レボリューション9」としてアルバムに収録しゅうろくされた。
  21. ^ レノンはつまシンシアの旅行りょこうちゅうにオノを自宅じたくび、実験じっけん音楽おんがく制作せいさくおこなった。その予定よていよりはやくシンシアが帰宅きたく、オノと鉢合はちあわせしたことで離婚りこん発展はってんした。
  22. ^ レノンの不倫ふりん騒動そうどうすでにメンバーのるところになっていたが、まさかその当事とうじしゃれてくるとはだれ想像そうぞうしていなかった。
  23. ^ 1968ねん5がつ20日はつかから29にちにハリスンの自宅じたくおこなわれた『ザ・ビートルズ』制作せいさく準備じゅんびのためのセッション。アルバム制作せいさくのために事前じぜんにリハーサル・セッションをおこなうことはグループとしてはじめてだったが、結局けっきょくこれが最後さいごになってしまった。
  24. ^ ハリスンが脱退だったい宣言せんげんしたのち会合かいごうで「ビートルズのことはメンバー4にんだけではなってめたい」というハリスンの意向いこうがあったにもかかわらず、なに発言はつげんしないレノンにわって、メンバーでもないオノが1人ひとり発言はつげんつづけたため、はないが決裂けつれつしてしまった[60]
  25. ^ ビートルズの広報こうほう担当たんとうしゃであるデレク・テイラーによると、社名しゃめいはマッカートニーの発案はつあんであった。子供こどもたちが学校がっこう最初さいしょおそわる「AはアップルのA」をもちいて「アップル・コア(Apple Core=リンゴのしん)」とするつもりだったが、登録とうろくできない名称めいしょうだったため、おな発音はつおんの「Corps」にした[64]
  26. ^ アリステア・テイラーピーター・ブラウンテリー・ドランひとしはビートルズをささえるためにNEMSをめた。
  27. ^ NEMSのかぶはエプスタインのははクイニーが70%、おとうとのクライブが20%、ビートルズが10%保有ほゆうしていた。当時とうじエプスタインはブライアンのによる多額たがく相続そうぞくぜい支払しはらいにきゅうしており、投資とうし会社かいしゃから売却ばいきゃく打診だしんされていたが、ビートルズがわ条件じょうけん提示ていじっていた。
  28. ^ 1965ねん税金ぜいきん対策たいさくのため株式かぶしき公開こうかいしていたノーザン・ソングスのかぶはジェームズが32%、レノンとマッカートニーがわせて30%、NEMSが7.2%保有ほゆうしていたので、NEMSを買収ばいしゅうできれば、ノーザン・ソングスの経営けいえいけん手中しゅちゅうおさめることができるはずだった。
  29. ^ このころレノンはミック・ジャガー紹介しょうかいでクレインとい、個人こじんマネージャーけんアドバイザーとしてやとっていた。
  30. ^ すでにイーストマン父子ふしはEMIからビートルズが将来しょうらいられる印税いんぜい前借ぜんしゃくするかたちで100まんポンドを用意よういし、エプスタイン提示ていじしていた。
  31. ^ この時点じてんではははクイニーの70%だけだったが、4がつ24にちにクライブの20%も売却ばいきゃくされた。
  32. ^ 3がつにマッカートニーがリンダと結婚けっこんすると、イーストマン父子ふし影響えいきょうりょく増大ぞうだいすることへの危機ききかんったレノンはのメンバーを説得せっとくして、クレインをグループのマネージャーとするとともにアップル・コアの経営けいえいなおしもまかせることにし、イーストマン父子ふし代理人だいりにんからはずした[67]
  33. ^ テイラーらおもだったものは経営けいえい責任せきにんらされて解雇かいこされた[70]。クレインはアスピノールも解雇かいこしようとしたがビートルズがわからもう反対はんたいされ断念だんねんした。
  34. ^ クレインはこの公演こうえんをユニセフのチャリティ・イベントとして登録とうろくせず[73]、ライブ・アルバムのげから11%あまりをれていた[74][75]
  35. ^ クレインは訴訟そしょう最中さいちゅうにブライト・チューンズがわから「シーズ・ソー・ファイン」の権利けんり買収ばいしゅうすることで訴訟そしょうかったものにしてしまおうとかんがえていた。ところがアップルから追放ついほうされてしまったので、意趣いしゅがえしをおこなった。
  36. ^ 実際じっさいはファンクラブではなく、レコード・プラント・スタジオ共同きょうどう設立せつりつしゃであるゲイリー・ケルグレンが1973ねん3がつからレコード・プラント主催しゅさい開始かいしした、親友しんゆう有名ゆうめいなスタジオ・ドラマーのケルトナーによる毎週まいしゅう日曜にちようよるおこなわれたジャム・セッション「ジム・ケルトナー・ファンクラブ・アワー」のことである。このセッションにはピート・タウンゼントロニー・ウッドビリー・プレストンミック・ジャガージョージ・ハリスンなどの有名ゆうめいミュージシャンが参加さんかしていた[84]
  37. ^ これをまえてスターはアルバム『リンゴ』のブックレットに「ジム・ケルトナー・ファンクラブについてのすべては、切手きってったふくていない封筒ふうとうで(for all information send a stamped undressed envelope to...)」と掲載けいさいした。
  38. ^ 10テイク、やく18ふんおよ[86]このセッションではクラウス・フォアマンがベースを担当たんとうしており、「ビートルズがマッカートニーのわりにフォアマンをむかえてさい結成けっせいした」とイギリスの音楽おんがく雑誌ざっしメロディーメーカー』がほうじ、世界せかいてきなニュースとなった。
  39. ^ ビートルズ解散かいさん、レノンがマッカートニーと演奏えんそうしたのはこれがはじめてだった。レノンのによって結果けっかてき最後さいごとなってしまったこのセッションの音源おんげんは、1992ねんに『ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74』というブートレグ・アルバムで[84]
  40. ^ ただし、3にん一緒いっしょにレコーディングしたものではない。元々もともとスターのアルバム『バラのかおりを』に収録しゅうろくするはずだったがおぞうりしたものにハリスンがあたらしい歌詞かしのボーカルと、マッカートニーがリンダとデニー・レインとともにバッキングボーカルをオーバーダビングした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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