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核兵器かくへいき歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1953ねん4がつ18にちおこなわれたアメリカのアップショット・ノットホール作戦さくせんだま

核兵器かくへいき歴史れきし(かくへいきのれきし)では、核兵器かくへいき開発かいはつとき系列けいれつ記述きじゅつする。核兵器かくへいきとは、核分裂かくぶんれつおよびかく融合ゆうごうもちいた大量たいりょう破壊はかい兵器へいき総称そうしょうである。 1930年代ねんだいになされたかく物理ぶつりがくうえ発見はっけんによって核兵器かくへいき実現じつげん可能かのうせいしめされたのち、1940年代ねんだいには実用じつよう兵器へいきとして使用しようできる原子げんしばくだん開発かいはつされ、冷戦れいせん期間きかんちゅうに、べい両国りょうこくによるかく開発かいはつ競争きょうそうまねいた。21世紀せいき現在げんざいにおいてもかく開発かいはつつづいている。

概要がいよう

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原子げんしばくだんばれる核分裂かくぶんれつ利用りようした兵器へいきは、最初さいしょケベック協定きょうてい背景はいけいとしたアメリカイギリスカナダ協力きょうりょくによるマンハッタン計画けいかくによって開発かいはつされた。そしてその計画けいかくによって開発かいはつされた核兵器かくへいきは、だい世界せかい大戦たいせんわりに広島ひろしま長崎ながさき実際じっさい使用しようされた。ソ連それんはその独自どくじ核兵器かくへいき開発かいはつ計画けいかくすすめ、1949ねん原爆げんばく開発かいはつした。その両国りょうこくは、より強力きょうりょく水素すいそばくだんまたねつかくばくだんばれる核兵器かくへいき開発かいはつした。

冷戦れいせん期間きかんちゅうつうじて、べい両国りょうこくすうせん核兵器かくへいき備蓄びちくし、核弾頭かくだんとうそなえた世界せかいのどこをもねらうことができるミサイルを多数たすう配備はいびした。50年代ねんだいから60年代ねんだいにかけて3こく核兵器かくへいき開発かいはつした。21世紀せいき初頭しょとうすくなく見積みつもっても9つのくに使用しよう可能かのう核兵器かくへいき所持しょじしているとされている。核兵器かくへいき脅威きょういあらたなくにへのかく拡散かくさんふせぐために、国際こくさいてき交渉こうしょう数多かずおおくなされている。

これまで、すくなくとも4かいおおきなにせかく警報けいほう発令はつれいされていて、最近さいきんでは1995ねんこっている[1]。それらは、アメリカとロシア両方りょうほう早期そうき警戒けいかい手続てつづき (early warning protocols) によるかく攻撃こうげき可能かのうせいまねいている[2]

1930年代ねんだい政治せいじ物理ぶつり

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ウラン235に中性子ちゅうせいし衝突しょうとつさせられると、ウランはバリウム141とクリプトン92へ核分裂かくぶんれつし、1個いっこから3ねつ中性子ちゅうせいし放出ほうしゅつする。そのとき同時どうじ莫大ばくだいなエネルギーも放出ほうしゅつする。

20世紀せいき最初さいしょの10ねんに、原子げんし性質せいしつについて物理ぶつりがくじょう革命かくめいてき発見はっけんがなされた。1898ねんに、フランス物理ぶつり学者がくしゃピエール・キュリーと、そのポーランドじんつまマリ・キュリーによってピッチブレンド (閃ウランこう) ないから放射ほうしゃせい物質ぶっしつ発見はっけんされ、かれらはその放射ほうしゃせい物質ぶっしつラジウム名付なづけた[3]。この発見はっけんった科学かがくしゃ一般いっぱんひとたち両方りょうほうは、我々われわれのまわりにある物質ぶっしつが、莫大ばくだいりょうえないエネルギーをゆうしていることをり、これを利用りようできるかもしれないとかんがえるようになった。

1911ねんアーネスト・ラザフォードによっておこなわれた実験じっけんによって、原子げんしのほとんどの質量しつりょうは、原子核げんしかくばれる原子げんし中心ちゅうしん存在そんざいしているということ、原子げんし陽子ようしというせい電化でんかった粒子りゅうしと、そのまわりをかこ電子でんしふくむことがしめされた[4][5]1932ねんに、ジェームス・チャドウィックは、原子核げんしかくにはもうひとつの基本きほんてき要素ようそ中性子ちゅうせいしふくむことを発見はっけんした[6]同年どうねんジョン・コッククロフトアーネスト・ウォルトンは、原子げんし世界せかいはじめて"分割ぶんかつ"し、元素げんそべつ元素げんそ人工じんこうてき変換へんかんする実験じっけんおこなった[7]。そして1933ねんレオ・シラードは、中性子ちゅうせいしもちいた連鎖れんさ反応はんのうのアイデアを構想こうそうし、原子げんしばくだん理論りろんてき可能かのうせい提案ていあんした[8]。シラードの取得しゅとくした原子力げんしりょく利用りようかんする特許とっきょは、1936ねん秘密裏ひみつりにイギリス海軍かいぐん譲渡ゆずりわたされた。実際じっさい核兵器かくへいき開発かいはつしたわけではないものの、このことをもってシラードを学術がくじゅつてき原子げんしばくだんちちぶものもる。

1934ねん、マリ・キュリーのむすめイレーヌ・ジョリオ=キュリーとそのおっとフレデリックは、アルミニウムα線あるふぁせん照射しょうしゃすることによって、人工じんこう放射ほうしゃせい同位どうい元素げんそ製造せいぞう成功せいこうし、翌年よくねんにんはノーベルしょう[9]。また同年どうねん、イタリアじん物理ぶつり学者がくしゃエンリコ・フェルミ中性子ちゅうせいしをウランへ照射しょうしゃすることで、同様どうよう放射ほうしゃせい同位どういたいられることを雑誌ざっしのネイチャーで報告ほうこくしている[10]

1938ねんの12月、ドイツじん化学かがくしゃオットー・ハーンフリッツ・シュトラスマンはウランへ中性子ちゅうせいし照射しょうしゃしたのち、ウランよりも原子げんしりょうちいさいバリウムが発見はっけんされたと科学かがく雑誌ざっし発表はっぴょうした[11]同時どうじに、二人ふたりはスウェーデンではたら物理ぶつり学者がくしゃリーゼ・マイトナーにこの結果けっか手紙てがみ相談そうだんした。マイトナーとそのおいオットー・ロベルト・フリッシュは、すぐにこの結果けっかが、核分裂かくぶんれつ (このときはそうはばれていなかったが) によるものだと解釈かいしゃくした[12]。 1939ねん1がつ13にちに、フリッシュはこれを実験じっけんたしかめている[13]。 この実験じっけん見学けんがく希望きぼうしゃなかに、ウィリアム・A・アーノルドというアイルランドけいアメリカじん生物せいぶつ学者がくしゃがおり、かれ言葉ことばからバクテリアの細胞さいぼう分裂ぶんれつになぞらえてこの現象げんしょうを"分裂ぶんれつ (fission) "と名付なづけたという[14]

オットーとストラスマンの実験じっけんたいするマイトナーとフリッツの解釈かいしゃくは、すぐに公表こうひょうまえから大西洋たいせいようわたり、アメリカのプリンストン大学ぷりんすとんだいがく教授きょうじゅニールス・ボーアのもとへとどけられた。プリンストンではたらコロンビア大学ころんびあだいがく教授きょうじゅイジドール・イザーク・ラービウィリス・ラム2人ふたりは、核分裂かくぶんれつのニュースをき、それをコロンビア大学ころんびあだいがくかえった。そこで、ラービは数カ月すうかげつぜんノーベルしょうけたばかりのエンリコ・フェルミにそのニュースをつたえたという。フェルミは核分裂かくぶんれつこったという結果けっかただしさを確信かくしんした。そのすぐにボーアはフェルミにうためにプリンストンへむかった。フェルミの教授きょうじゅしつにはかれなかったので、ボーアはプリンストン大学ぷりんすとんだいがくサイクロトロンエリアへとりていった。ボーアはそこで中性子ちゅうせいし研究けんきゅうちゅう大学院生だいがくいんせいハーバート・アンダーソンを見付みつけると、そこでウランの原子核げんしかく分裂ぶんれつと、その説明せつめいモデルについてかたったという[15]

ウランへ中性子ちゅうせいし照射しょうしゃしたときにきる核分裂かくぶんれつによって放出ほうしゅつされるエネルギーを計測けいそくする必要ひつようがある、とコロンビア大学ころんびあだいがくおおくの科学かがくしゃかんがえていた。1939ねんの1がつ25にちに、コロンビア大学ころんびあだいがく実験じっけんチームは大学だいがくないのピューピンホール(Pupin Hall)の地下ちかで、アメリカはつ核分裂かくぶんれつ実験じっけん実施じっしした[16]

ナチスが1938ねんチェコスロバキアへ、いで1939ねんポーランド侵攻しんこうし、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、ヨーロッパのトップ物理ぶつり学者がくしゃたちはせまった危機ききけ、アメリカへとわたっていった。枢軸すうじくこくがわ連合れんごうこくがわ両方りょうほう科学かがくしゃたちは、核分裂かくぶんれつ利用りようした兵器へいき実現じつげん可能かのうせいについて自覚じかくしていたものの、その時点じてんではどのように実現じつげんされるのかまったくかっていなかった。にもかかわらず、だい大戦たいせん初期しょきすうねんのうちに、物理ぶつり学者がくしゃたちは不意ふいかく物理ぶつりがくについて公表こうひょうすることをひかえるようになった。敵対てきたいするがわがどんなアドバンテージもられないようにするための自主じしゅ検閲けんえつであった。

1940ねんえいべい発表はっぴょうされた日本にっぽん研究けんきゅう

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1940ねん5がつ3にちけの理研りけん仁科にしな芳雄よしお東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ化学かがく木村きむら健二郎けんじろうひとし論文ろんぶんに、ウラン238高速こうそく中性子ちゅうせいし照射しょうしゃした実験じっけんにおいて、いまでは核兵器かくへいき爆発ばくはつによって生成せいせいすることがられているネプツニウム237[17]生成せいせいした[18] ことがしるされ、同年どうねん米国べいこく物理ぶつりがくフィジカル・レビュー掲載けいさいされた[19]。また、どう実験じっけんでは、1かい核分裂かくぶんれつで10以上いじょう中性子ちゅうせいし放出ほうしゅつされ核分裂かくぶんれつ連鎖れんさ反応はんのう(ちょう臨界りんかい)をともなうことがられている対称たいしょう核分裂かくぶんれつによる生成せいせいぶつ[20]生成せいせいされたことが、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速こうそく中性子ちゅうせいしによって生成せいせいされた核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつ)』とだいして、同年どうねん7がつ6にちけの英国えいこく学術がくじゅつ雑誌ざっしネイチャー掲載けいさいされた[21][22]

ロスアラモスからヒロシマ・ナガサキへ

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ロスアラモス研究所けんきゅうじょのリーダーをつとめ、"原爆げんばくちち"としょうされる物理ぶつり学者がくしゃロバート・オッペンハイマー
ウラン238 (あお) とウラン235 (あか) の割合わりあい
うえから、天然てんねんウラン (ウラン235の含有がんゆうりょう0.7 %) 、てい濃縮のうしゅくウラン (3から4 %:原子力げんしりょく発電はつでん燃料ねんりょうよう) 、こう濃縮のうしゅくウラン (80 %ちょう原子げんしばくだんよう)

だい世界せかい大戦たいせん初期しょき連合れんごうこくがわ科学かがくしゃたちは、ドイツこくがノルウェーにたいして重水じゅうすいぜん在庫ざいこ購入こうにゅうする注文ちゅうもんおこなっていたことを察知さっちし、ナチス・ドイツすで独自どくじ原子げんしばくだん開発かいはつ計画けいかくはじめているのではないかと懸念けねんしていた。連合れんごうこくでの最初さいしょ核兵器かくへいき開発かいはつかんする組織そしきてき研究けんきゅうは、イギリスチューブ・アロイズ一部いちぶとして開始かいしされた。アメリカでもレオ・シラードフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうたいする進言しんげんののち1939ねんに、リーマン・ジェイムス・ブリッグス (en:Lyman James Briggs) の指揮しきのもとでウラン諮問しもん委員いいんかいによって、アメリカでもウラン兵器へいき開発かいはつ可能かのうせいについての研究けんきゅうはじめられた。

イギリスじん科学かがくしゃによって、核兵器かくへいきすうねん以内いない完成かんせいしうるという計算けいさんがなされたが、それをけてアメリカで1941ねんには核兵器かくへいき開発かいはつ計画けいかくする部局ぶきょく設立せつりつ1942ねんレズリー・グローヴスじゅんしょう監督かんとくのもとに「マンハッタン計画けいかく」としてアメリカで本格ほんかくてき核兵器かくへいき開発かいはつはじまった。

アメリカの物理ぶつり学者がくしゃロバート・オッペンハイマーによって指揮しきされたこのプロジェクトは、当世とうせい最高さいこう科学かがくてき知性ちせいぬしたち (そのおおくはヨーロッパからの亡命ぼうめいものであった) と、アメリカの工業こうぎょうりょくいき結集けっしゅうし、ドイツよりさき核分裂かくぶんれつもととした爆発ばくはつ装置そうちつくりあげるという目的もくてきかって邁進まいしんさせた。イギリスとアメリカは、両国りょうこくのリソースと情報じょうほうをこの計画けいかくのために共有きょうゆうするという合意ごういいたったが、ソ連それんなどのほか連合れんごうこくにはらされなかった [23]

濃縮のうしゅくウランプルトニウム生産せいさんのために、アメリカ各地かくちだい規模きぼ新型しんがた物理ぶつり装置そうちそなえた秘密ひみつ工場こうじょう建設けんせつされた。

莫大ばくだい工業こうぎょうりょく科学かがくりょくによって、マンハッタン計画けいかく世界中せかいじゅうすぐれた科学かがくしゃ研究けんきゅう開発かいはつ両面りょうめんんでいった。アメリカは前例ぜんれいがないほどの莫大ばくだい投資とうしをこの計画けいかく戦時せんじちゅう研究けんきゅうついやし、この研究けんきゅうかかわった研究所けんきゅうじょはアメリカ・カナダの30ヶ所かしょ以上いじょうにものぼる。科学かがくてき研究けんきゅうは、おもロスアラモス研究所けんきゅうじょとしてられる秘密ひみつ研究所けんきゅうじょおこなわれた。

さて、ウランは自然しぜんかいでは2つの同位どういたいウラン238ウラン235として出現しゅつげんする。ウラン235が中性子ちゅうせいし吸収きゅうしゅうすると、核分裂かくぶんれつこし2つの核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつみだす。そのとき同時どうじ途方とほうもないエネルギーと、平均へいきん2.5中性子ちゅうせいし放出ほうしゅつする。しかしウラン238は、中性子ちゅうせいし吸収きゅうしゅうしても核分裂かくぶんれつこさず、核分裂かくぶんれつ反応はんのうめるはたらきをつ(ただし、これは低速ていそく中性子ちゅうせいしせん場合ばあいであって、高速こうそく中性子ちゅうせいし照射しょうしゃによりU238も核分裂かくぶんれつおこし、U235と同様どうよう分裂ぶんれつさいしておおきなエネルギーと中性子ちゅうせいし放出ほうしゅつする)。

ウランによる原子げんしばくだん作成さくせいするためには、ほとんど純粋じゅんすいな (すくなくとも80 %の) ウラン235が必要ひつようであり、そうでなければウラン238が即座そくざ核分裂かくぶんれつ連鎖れんさ反応はんのうめてしまうということがかった。最大さいだい難問なんもんは、天然てんねんウランのなかでたった0.7 %しかふくまれず、化学かがくてき性質せいしつわらないウラン235だけを濃縮のうしゅくすることだ、とフェルミらマンハッタン計画けいかく科学かがくしゃチームは即座そくざ認識にんしきした。

戦時せんじのプロジェクトちゅうに、遠心えんしん分離ぶんりほうガス拡散かくさんほうそして電磁でんじ濃縮のうしゅくほうという3つのウラン濃縮のうしゅく方法ほうほう開発かいはつされた。そのどれも、ウラン238は235よりもほんのすこしだけ原子げんしりょうおおきいという物理ぶつりてき性質せいしつ利用りようしたものである。このうち遠心えんしん分離ぶんりほう効率こうりつくなく、さらなる研究けんきゅうようするため、早々そうそう放棄ほうきされた。アーネスト・ローレンスによって発明はつめいされたサイクロトロンによって可能かのうになったのが電磁でんじ濃縮のうしゅくほうで、この方法ほうほう質量しつりょうによるローレンツつとむちがいにもとづいている。しかし、大金たいきんとうじて建設けんせつされたサイクロトロンによるウラン濃縮のうしゅくおもったような成果せいかげられなかった。ガス拡散かくさんほうは、原子げんし質量しつりょうによる気体きたい拡散かくさん速度そくど利用りようしたものであるが、これが当時とうじいちばん効率こうりつく、べつ秘密ひみつ研究所けんきゅうじょテネシーしゅうオークリッジ建設けんせつされ、ウラン235の製造せいぞう精製せいせいだい規模きぼおこなわれた。

ウラン濃縮のうしゅくへの投資とうし莫大ばくだいであった。当時とうじ、オークリッジない工場こうじょうひとつであるK-25 (en:K-25) は、ひとつの建物たてものにある工場こうじょうとしては世界せかい最大さいだいのものだった。オークリッジの研究所けんきゅうじょでは最大さいだいで1まんにんもの従業じゅうぎょういんやとっていたが、かれらのほとんどは自分じぶんなにをしているのかについてらされていなかった。

ウラン238は原子げんしばくだん最初さいしょ段階だんかいでは使用しようできないものの、ウラン238が中性子ちゅうせいし吸収きゅうしゅうすると最初さいしょ不安定ふあんていなウラン239となり、そのいくつかの不安定ふあんていかくへの崩壊ほうかいて、安定あんてい核種かくしゅである人工じんこう原子げんしプルトニウム239に崩壊ほうかいする。プルトニウムも核分裂かくぶんれつせい物質ぶっしつであり、かくばくだん使用しようしうる。反応はんのう制御せいぎょ持続じぞく可能かのう原子げんしうずたか (atmic pile) —原始げんしてき原子げんしかた—が世界せかいはじめて、エンリコ・フェルミによってシカゴ大学だいがく地下ちかつくられ、そのだい規模きぼ反応はんのう秘密裏ひみつりワシントンしゅうハンフォード・サイトとしてられる場所ばしょ建設けんせつされた。ハンフォード・サイトでは、コロンビアがわみず冷却れいきゃくすいとして使つかい、ウラン238を原爆げんばくのためのプルトニウムへ変化へんかさせていた。

核分裂かくぶんれつ兵器へいき作動さどうさせるためには、中性子ちゅうせいし照射しょうしゃされるさい臨界りんかい質量しつりょう核分裂かくぶんれつせい物質ぶっしつがなければいけない。もっと単純たんじゅん原子げんしばくだん動作どうさ方式ほうしきは、ガンバレルがたまたはガンタイプとばれるもので、臨界りんかいりょうたっしない核分裂かくぶんれつせい物質ぶっしつ (ウラン235など) にたいしてべつ核分裂かくぶんれつ物質ぶっしつ衝突しょうとつさせ、臨界りんかいこさせ、はや速度そくど核分裂かくぶんれつ連鎖れんさこし、所望しょもう爆発ばくはつしょうじさせるものである。1942ねんまでに考案こうあんされた核兵器かくへいきには、ウランを使用しようした「リトルボーイ」、プルトニウムがたの「シン・マン」、そして、ばくちぢみ方式ほうしきによる「ファット・マン」があった。

原子げんしばくだんの2種類しゅるい起爆きばく方法ほうほう
ガンバレルがた (うえ) とインプロージョンがた (した)

1943ねんはじめ、オッペンハイマーは、シン・マンとファット・マンの両方りょうほう計画けいかくつづけるべきか決定けっていしなければならなかった。プルトニウム砲身ほうしんがた大量たいりょう研究けんきゅう資源しげんついやしていたにもかかわらず、もっとかくばくだん製造せいぞうできるか不確ふたしかなプロジェクトだった。1944ねんの4がつエミリオ・セグレによって、これはシン・マンに使つかわれていたプルトニウムに、同位どういたいのプルトニウム240がふくまれており、それが不完全ふかんぜんかく爆発ばくはつこしたためであるとされている。そのため、リトルボーイとファットマンの研究けんきゅうのみがつづけられることとなった。

とくに、ばくちぢみ方式ほうしきによるファットマンの開発かいはつ優先ゆうせんされることになった。その方法ほうほうは、化学かがくてき爆発ばくはつぶつ使つかい、臨界りんかいりょう以下いかのプルトニウムを周囲しゅういからつよ圧力あつりょくけて圧縮あっしゅくし、臨界りんかいこさせるというものである。ばくちぢみ方式ほうしきには、火薬かやく衝撃波しょうげきは完全かんぜん均等きんとうかたちでプルトニウムにつたえなければならないという難問なんもんがある。もし、わずかでも圧縮あっしゅくりょく均等きんとうだった場合ばあい臨界りんかいこすまえにプルトニウムもろとも端微塵ぱみじん飛散ひさんしてしまい、効果こうかてき爆発ばくはつこすことができなくなってしまう。爆破ばくは加工かこうもちいられていた爆薬ばくやくレンズ応用おうようし、光学こうがくてきレンズのように、燃焼ねんしょう速度そくどはや火薬かやくおそ火薬かやくわせることで、対称たいしょう衝撃波しょうげきはつたえる、という方法ほうほうによってこの問題もんだい解決かいけつされた。

Dデイのち、グローブス将軍しょうぐんアルソス英語えいごばん計画けいかく (Project Alsos) としてられる科学かがくしゃチームにめいじて、ヨーロッパに上陸じょうりくひがしへと邁進まいしんする連合れんごう国軍こくぐん追従ついしょうしてドイツのかく計画けいかく進行しんこうじょうきょう調しらべさせ、また同時どうじに、侵攻しんこうしてくるソ連それんぐんにドイツのかく物質ぶっしつ人材じんざいうばわれないようにさせた。ナチスドイツもヴェルナー・ハイゼンベルクらによって原爆げんばく製造せいぞう計画けいかくしていたものの、結果けっかとしては、ナチスは計画けいかくたいして目立めだった投資とうしをしておらず、それゆえ成功せいこうとはほどとおいものだったという。

一部いちぶ歴史れきしは、このとき科学かがくしゃチームはナチスのかくばくだんのラフな設計せっけい発見はっけんした、と主張しゅちょうしている[24]研究けんきゅうは、ドイツかくエネルギー計画けいかく (en:German nuclear energy project) によって指揮しきされていた。1945ねんの3がつには、物理ぶつり学者がくしゃクルト・ディーブナー (en:Kurt Diebner) によってナチスの科学かがくしゃチームが指揮しきされていて、原始げんしてきかく装置そうち開発かいはつたっていたとされる[24][25]

1945ねん5月8にちにドイツが連合れんごうこくたいして無条件むじょうけん降伏ごうぶくした時点じてんで、マンハッタン計画けいかくは、いまだ使用しようできる兵器へいき完成かんせいまですうヶ月かげつおくれていた。同年どうねん4がつにはアメリカの大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト死去しきょし、ぜんふく大統領だいとうりょうであったハリー・トルーマンいだ。当時とうじ戦時せんじであり、なしくずてき大統領だいとうりょう権限けんげん拡大かくだいしており、トルーマンは大統領だいとうりょう就任しゅうにんまでかく開発かいはつ計画けいかくについてらされていなかったとつたえられている[26]。トルーマンは大統領だいとうりょう就任しゅうにん24時間じかん以内いないに、この戦時せんじ秘密ひみつ計画けいかくについてはじめてらされたという。とはいえ、まったく無知むちであったわけではないようで、『トルーマン委員いいんかい』とばれた上院じょういん国家こっか防衛ぼうえい調査ちょうさ委員いいんかいにおいて、莫大ばくだい戦費せんぴ使つかわれていることをり、調査ちょうさ活動かつどうたがスティムソン軍事ぐんじ長官ちょうかん要請ようせいけて中止ちゅうししたという[26]

かく時代じだい幕開まくあけをげる、トリニティ実験じっけん発生はっせいした人類じんるいはつかくだま

確実かくじつ動作どうさするプルトニウム兵器へいきつくるのはむずかしかったので、事前じぜんかく実験じっけん実施じっしのぞまれた。トルーマンは、すぐのちひかえた戦後せんごのヨーロッパ情勢じょうせい決定けっていする会談かいだん有利ゆうりすすめるため、そのまえかく実験じっけん結果けっかりたいとのぞんでいた。1945ねん7がつ16にちニューメキシコしゅうアラモゴードきた砂漠さばくで、ガジェット名付なづけられた原爆げんばくもちいてトリニティ実験じっけんというコードネームをけられた人類じんるい最初さいしょかく実験じっけん実施じっしされた。原爆げんばくTNT換算かんさんやく19 ktものエネルギーを放出ほうしゅつした。これは当時とうじまでに使用しようされたあらゆる兵器へいき威力いりょく上回うわまわるものであった。実験じっけん成功せいこうのニュースはただちにトルーマン大統領だいとうりょうとどけられた。

トルーマンは、科学かがくしゃたちやぐん上層じょうそう日本にっぽんへの原爆げんばく使用しよう方法ほうほうについての意見いけん総合そうごうし、最終さいしゅうてき日本にっぽん都市とし原爆げんばく投下とうかすることを決定けっていした。一部いちぶには、原爆げんばくをデモンストレーションようとして無人むじん地区ちく使用しようするべきとの意見いけん[27][28] もあったが、だい部分ぶぶんひと都市とし実際じっさい原爆げんばく兵器へいきとして使つかわれることをのぞんだ[29]。これには、日本にっぽん政府せいふたいして抗戦こうせん意図いとくじくために強力きょうりょくなメッセージをおくり、とく日本にっぽん本土ほんどたいしての上陸じょうりく作戦さくせん不要ふようにすることによって、べいぐん将兵しょうへい犠牲ぎせいらすという軍事ぐんじてき動機どうきもとづくものであったとされる。もし本土ほんどへの上陸じょうりくおこなわれれば、べいぐん将兵しょうへい死傷ししょうしゃは50まんにんえる[30] とされており、また日本にっぽんがわにも同数どうすう以上いじょう犠牲ぎせいしゃると想定そうていされたので、トルーマンは「原爆げんばく投下とうか戦争せんそう短縮たんしゅくし、なんひゃくまんもの生命せいめいすくった ("We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.")」[31]主張しゅちょうしている。

原爆げんばく投下とうか広島ひろしま廃墟はいきょ

1945ねん5がつ10日とおかロスアラモスないのオッペンハイマーの執務しつむしつで、8がつはじめに使用しよう予定よていの2はつ原子げんしばくだん投下とうか目標もくひょうとして、つぎの4都市としがはじめて選定せんていされた[32]。それは、京都きょうと広島ひろしま横浜よこはま小倉おぐらである。最終さいしゅうてきには、広島ひろしま長崎ながさきがターゲットにえらばれ、1945ねん8がつ6にち広島ひろしまへウランがた原爆げんばくのリトルボーイが、3にちにプルトニウムがたのファットマンが長崎ながさき投下とうかされた。犠牲ぎせいしゃについては諸説しょせつあるが、2はつ原爆げんばくけい20まんにん程度ていどくなったとされている[33]

日本にっぽんたいする原爆げんばく使用しよう不可避ふかひであったのかには議論ぎろんがある[34] が、ソ連それんへの示威じい行為こういであったとの指摘してきもある。

マンハッタン計画けいかくべいえい共同きょうどう作業さぎょうであり、情報じょうほう共有きょうゆう賜物たまものであったが、アメリカの1946ねん原子力げんしりょくほう英語えいごばん導入どうにゅうされた「ボーン・シークレット」である秘密ひみつ資料しりょう管理かんりにより、協力きょうりょく体制たいせい実質じっしつてきには一旦いったんわりをむかえた。

ソビエトのかく計画けいかく

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ソビエト連邦れんぽうソ連それん)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連合れんごうこくあいだによるかく開発かいはつ計画けいかく共有きょうゆう参加さんかできなかった。しかし、戦時せんじちゅうとおして、ソ連それんおおくの情報じょうほうマンハッタン計画けいかくうち自主じしゅてきスパイからけとっていたとされている (ヴェノナ・プロジェクト参照さんしょう。ソビエトの暗号あんごう通信つうしんでは、Enormozというコードネームでられていた)。

また、ソ連それんかく物理ぶつり学者がくしゃイーゴリ・クルチャトフは、連合れんごうこく兵器へいき開発かいはつ注意深ちゅういぶか見守みまもっていた。そのため、ポツダム会談かいだんせきヨシフ・スターリントルーマンに、アメリカが"強力きょうりょく新型しんがた兵器へいき"を開発かいはつした、とかされてもおどろかなかった。スターリンが興味きょうみしめさないことに、トルーマンはショックをけたという。

マンハッタン計画けいかくでのソ連それんのスパイは、全員ぜんいん自主じしゅてきなスパイであり、ロシアじんなかった [35] [36] 。 スパイのなかには、ドイツからの亡命ぼうめいものである理論りろん物理ぶつり学者がくしゃクラウス・フックスなどがおり、貴重きちょう情報じょうほうかれによってソ連それんにもたらされたという。その、ロスアラモスにたスパイ (おたがいに面識めんしきはなかったが) には、セオドア・ホール (en:Theodore Hall) やデビッド・グリーングラス (en:David Greenglass) などがる。しかしロシアはまだだい祖国そこく戦争せんそうどくせん)でいそがしかったため、これらの情報じょうほうかすのには戦後せんごたなければいけなかった。

だい世界せかい大戦たいせん直後ちょくごとし核兵器かくへいき国際こくさいてき統制とうせい必要ひつようせい世界中せかいじゅう議論ぎろんまととなった。原爆げんばく開発かいはつかかわったロスアラモスの科学かがくしゃたちは、「原子力げんしりょく国際こくさい統制とうせい」の必要ひつようせいき、1945ねん11月にはべいえい3こくによって原子力げんしりょく国際こくさい管理かんりつかさど委員いいんかい国連こくれんへの設置せっち提案ていあん [37]、 12月27にちべいえい外相がいしょうきゅう臨席りんせきしたモスクワさんこく外相がいしょう会議かいぎでは国連こくれんでの設置せっち検討けんとう声明せいめいとしてまれ、よく46ねんには原子力げんしりょく委員いいんかい安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいのもとに設立せつりつすることが決議けつぎされた。それにもかかわらず、米国べいこく国際こくさい管理かんり体制たいせい機能きのうするようになるまでは原爆げんばく保有ほゆうつづける姿勢しせい明確めいかくにしたため、早々そうそうソ連それん離反りはんまねき、ソ連それん独自どくじ核兵器かくへいき開発かいはつすすめることとなった。国連こくれん原子力げんしりょく委員いいんかいは1948ねん5がつ期限きげん休会きゅうかいした。

その、マンハッタン計画けいかくから情報じょうほうもとにしながら、ソ連それんはその工業こうぎょうりょく人材じんざいかく開発かいはつへとんだ。ソ連それんかく開発かいはつ計画けいかくでまず問題もんだいとなったのは、兵器へいきとして使用しよう可能かのうなウランをどこから採掘さいくつするかという問題もんだいである。ソ連それん領土りょうどないからはウランを発見はっけんできず、またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく当時とうじられていた最大さいだいの (純度じゅんどたかい) ベルギーりょうコンゴのウラン鉱山こうざん独占どくせんしていた。ソ連それん囚人しゅうじん使つかってチェコスロヴァキアうちふる鉱山こうざん発掘はっくつさせ、最終さいしゅうてきにはウランを発見はっけんした。

ソ連それんは、NKVD議長ぎちょうラヴレンチー・ベリヤ (スターリンの腹心ふくしんでありだい粛清しゅくせい実行じっこうしゃとしてられる) の監督かんとくのもとで「原爆げんばく開発かいはつプロジェクト」を開始かいし、それらのプロジェクトは"秘密ひみつ都市とし"とばれる地図ちずにすららない都市としなかだけで研究けんきゅうされていた。

ロスアラモスをしたソ連それん都市としサロフでは物理ぶつり学者がくしゃユーリ・ハリトン原爆げんばく開発かいはつ科学かがくてき指揮しきった。しかし、監督かんとくしゃたるベリヤは科学かがくしゃたちのことも、あつめられたスパイの情報じょうほう信用しんようしていなかった。そのため、ベリヤは複数ふくすう科学かがくしゃチームを (たがいにそうとはらせずに) おなじタスクにてさせ、もしそれぞれがちが結果けっかいたった場合ばあいのみ、かれらをたがいにわせ結果けっか議論ぎろんさせた。かれ研究けんきゅう進行しんこうじょうきょうじゅう確認かくにんのために科学かがくしゃたちのあいだにスパイをもぐりこませたという。また、ベリヤは効率こうりつてき原爆げんばく設計せっけいではなく、アメリカによって成功せいこうたしかめられた、ファットマンがた原爆げんばく開発かいはつすることを決定けっていした。

頑強がんきょう科学かがくてき知識ちしきけたベリヤの監督かんとくしたではあったものの、ソ連それん科学かがくしゃたちは研究けんきゅうつづけ、1949ねん8がつ29にちには、アメリカがわでは"Joe-1"(RDS-1)とばれたソ連それんはつ原爆げんばく実験じっけんセミパラチンスクかく実験じっけんじょうおこなわれた。アメリカの見込みこみよりもすうねんはや完成かんせいだった。ソ連それん最初さいしょ核兵器かくへいき開発かいはつしたというニュースは、アメリカによって世界せかいへもたらされた。というのは、アメリカがカザフスタン国境こっきょうちかくで放射ほうしゃせい降下こうかぶつ観測かんそくしたためである。

アメリカは核兵器かくへいきの「独占どくせん」をうしない、こののち両国りょうこくわりのないかく開発かいはつ競争きょうそうつづけていくことになる。ソ連それんかく開発かいはつはアメリカで恐怖きょうふをもってけいれられ、ジョセフ・マッカーシー上院じょういん議員ぎいんによる赤狩あかがマッカーシズム)のような事件じけんこした。しかし、近年きんねんソ連それん崩壊ほうかいのちられた情報じょうほうによると、ソ連それんのスパイは全員ぜんいんこの赤狩あかがりをのがれていたとされている。

最初さいしょ水素すいそばくだん

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ハンガリーじん物理ぶつり学者がくしゃエドワード・テラーは、水爆すいばく起爆きばく方法ほうほう研究けんきゅう従事じゅうじし、"水爆すいばくちち"とばれている。

核分裂かくぶんれつ兵器へいきかく融合ゆうごう過程かてい点火てんか使つかうことができるかもしれないというかんがえは、1941ねんにまでさかのぼる。

真偽しんぎのほどはからないが、日本にっぽん京都きょうと大学だいがく理学部りがくぶ萩原はぎはら篤太郎とくたろうが1941ねん5がつ講演こうえんのなかで、U235の爆発ばくはつてき連鎖れんさ反応はんのうについてと、それを起爆きばくざいとした水素すいそねつかく融合ゆうごうのアイデアを議論ぎろんしたとわれている[38]。 1942ねんには、バークレーカリフォルニア大学だいがくでオッペンハイマーが開催かいさいした、最初さいしょ核兵器かくへいき開発かいはつかんするかく物理ぶつり学理がくりろんのカンファレンスにおいて、参加さんかしゃ一人ひとりエドワード・テラーは、エンリコ・フェルミの提案ていあんした、太陽たいようちからそのものとおな反応はんのうもちいるちょう強力きょうりょくばくだん開発かいはつすすめるべきだと強硬きょうこう主張しゅちょうした[39]。テラーは共産きょうさん革命かくめいのハンガリーで少年しょうねんごし、それ以来いらい共産党きょうさんとうをそしてソ連それんおそにくんでいた。ソビエトの脅威きょうい対抗たいこうすることのできるちょう強力きょうりょく兵器へいき開発かいはつを、自分じぶん天命てんめいだとかんがえていたのである[40]

しかし当時とうじは、核分裂かくぶんれつばくだん開発かいはつのほうが容易よういで、水素すいそばくだんよりはだい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうまでに完成かんせいできる可能かのうせいたかいとかんがえられていた。しかし、実際じっさいのところ"普通ふつうの"原子げんしばくだん開発かいはつすらそのすう年間ねんかん莫大ばくだい研究けんきゅうようしたので、実現じつげん可能かのうせいとぼしいちょう強力きょうりょくばくだんにはあまり関心かんしんけられなかった。テラーだけが、計画けいかくのリーダーのオッペンハイマーとハンス・ベーテ指示しじさからい、水爆すいばく研究けんきゅうつづけていた。

日本にっぽんへの原爆げんばく投下とうかのち、ロスアラモスのおおくの科学かがくしゃたちは、最初さいしょ原爆げんばくよりも強力きょうりょく兵器へいきつくるというかんがえに反対はんたいし、研究所けんきゅうじょっていった。かれらの疑問ぎもんは、一部いちぶ技術ぎじゅつてきなもの、つまり、そのような兵器へいき設計せっけいがうまくできるのかどうかからなかったというものもあるし、そのほかには道徳どうとくてき疑問ぎもんもあった。そのようなちょう強力きょうりょく兵器へいきは、科学かがくしゃたちのかんがえによると、戦場せんじょうでは使つかえず、それゆえ一般いっぱん市民しみんたいする虐殺ぎゃくさつよう兵器へいきとしてしか使つかえないものであるからだ。

ベーテ、そしてフェルミのようなおおくの科学かがくしゃたちは、アメリカはそのような兵器へいきつくるべきではなく、もしも開発かいはつすればソ連それんによる水爆すいばく軍拡ぐんかくまねくと主張しゅちょうして反対はんたいした。一方いっぽう水爆すいばく推進すいしんしゃたち、テラーやアーネスト・ローレンスルイ・アルヴァレらは、そのような兵器へいき開発かいはつけられないことであって、水爆すいばく否定ひていはアメリカ国民こくみん防衛ぼうえい否定ひていするものであると主張しゅちょうした。

このとき、マンハッタン計画けいかく継承けいしょうしたGeneral Advisory Committeeのリーダであったオッペンハイマーは、アメリカ原子力げんしりょく委員いいんかいにおいて水爆すいばく開発かいはつをしないように提言ていげんした[41]。その理由りゆうは、オッペンハイマーのかんがえによると、水爆すいばく技術ぎじゅつ開発かいはつによるソ連それんたいするアドバンテージは一時いちじてきなものであり、また合衆国がっしゅうこく原子力げんしりょく開発かいはつのリソースを水爆すいばく開発かいはつけるよりは、強力きょうりょくすうおおくの原爆げんばく開発かいはつ生産せいさんけたほうがより効率こうりつてきであるとのかんがえたからであった。よりおおくの原子げんしばくだん所持しょじしたほうが、きょだいあつかいにくく、かぎられた標的ひょうてきしか破壊はかいできない強力きょうりょく水爆すいばく所持しょじするよりは有効ゆうこうだ、というのである。

それにくわえて、もしそのような強力きょうりょく兵器へいきべい両国りょうこくによって開発かいはつされたのならば、それがアメリカにたいして使つかわれたときのほうがより破壊はかいてき効果こうかをもたらすとかんがえられた。それは、アメリカのほうが都市とし工業こうぎょう集積しゅうせき人口じんこう密度みつどたか地域ちいきおお存在そんざいし、きょ大兵だいひょうによる理想りそうてき標的ひょうてきとなるからである。

1952ねんアイビー作戦さくせんでの最初さいしょ水爆すいばくだま

結局けっきょく、トルーマン大統領だいとうりょうは、ソ連それんによる1949ねんかく実験じっけんけ、最終さいしゅう決断けつだんくだした。1950ねん1がつ31にち、トルーマンは水爆すいばく開発かいはつ強硬きょうこう計画けいかく表明ひょうめいした。テラーの提案ていあんした原子力げんしりょくだい研究所けんきゅうじょローレンス・リバモア国立こくりつ研究所けんきゅうじょ建設けんせつされ研究けんきゅうはじまった。しかしこの時点じてんでは、水爆すいばく正確せいかくなメカニズムはいまだられていなかった。"伝統でんとうてきな"水素すいそばくだん核分裂かくぶんれつねつかく融合ゆうごう物質ぶっしつ点火てんか使つかうもの—は動作どうさしえないとおもわれていた。しかし、ロスアラモスの数学すうがくしゃスタニスワフ・ウラム洞察どうさつによって、原子げんしばくだんかく融合ゆうごう物質ぶっしつばくだんなかべつ場所ばしょ配置はいちし、原子げんしばくだん圧力あつりょくかく融合ゆうごう物質ぶっしつ起爆きばくするぜん段階だんかい圧縮あっしゅく使つかえばかく融合ゆうごう兵器へいき実現じつげん可能かのうだということがしめされた。

テラーはこのかんがえをさらすすめ、"George"と名付なづけられた強化きょうかがた核分裂かくぶんれつ実験じっけん (少量しょうりょうかく融合ゆうごう燃料ねんりょうもちいて核分裂かくぶんれつ反応はんのう強化きょうかした装置そうち) をおこな重水じゅうすいかく融合ゆうごう実現じつげん可能かのうせいたしかめ、そのしん段階だんかい水爆すいばくテラー・ウラムがた水爆すいばく実験じっけん実施じっしした。オッペンハイマーやベーテといったおおくの科学かがくしゃたちは最初さいしょこの兵器へいき反対はんたいしたが、そのこのたね兵器へいき開発かいはつめられないとかるとかんがえをくつがえした。

最初さいしょかく融合ゆうごうばくだん実験じっけんは、1952ねん11月1にちアメリカでアイビー作戦さくせんとしてエニウェトク環礁かんしょう実行じっこうされた[42]。コードネームはマイク (Mike) と名付なづけられた。マイクは液体えきたい重水素じゅうすいそかく融合ゆうごう燃料ねんりょうとして使つかい、原子げんしばくだん起爆きばく装置そうちとしてもちいるものであった。この水爆すいばくはプロトタイプであり、実戦じっせん兵器へいきとしては使用しようできないものだった。というのは、6mものたかさと64tもの重量じゅうりょうがあり、それにくわえて重水素じゅうすいそ液体えきたいたもつための、10tをえる重量じゅうりょう冷却れいきゃく装置そうちまであったので、その当時とうじのいかなる飛行機ひこうきによっても運搬うんぱんできなかったからである。

マイクの爆発ばくはつは10.4メガトンのエネルギーを放出ほうしゅつした。これは長崎ながさきとされた原爆げんばくの450ばいえるものである。水爆すいばく設置せっちされたエルゲラブとう跡形あとかたもなく消滅しょうめつし、直径ちょっけい1.9km、ふかさ50mにもなるクレーターが水中すいちゅう形成けいせいされた。トルーマンは最初さいしょつぎ大統領だいとうりょう選挙せんきょへの影響えいきょうかんが実験じっけんについて秘密ひみつにしようとしたが、1953ねん1がつ7にち、トルーマンはメディアをつうじて水爆すいばく開発かいはつ成功せいこう示唆しさした。

テラー・ウラムがた水爆すいばく基礎きそ原爆げんばくかく融合ゆうごう燃料ねんりょう圧縮あっしゅく起爆きばく使用しようされる。

ソ連それんはそれにけることなく、1953ねん8がつ12にちアンドレイ・サハロフによって設計せっけいされた最初さいしょねつ核兵器かくへいき爆発ばくはつさせた。これは西側にしがわでは"Joe-4"(RDS-6)としてられている。ソ連それん水爆すいばく開発かいはつはアメリカ政府せいふ軍部ぐんぶ両方りょうほうに、ソ連それんすで運搬うんぱん可能かのう水爆すいばく所有しょゆうしているのではないかとの懸念けねんいだかせた。しかし、ソ連それん最初さいしょの"水爆すいばく"はしん水爆すいばくではなく、すうひゃくキロトンのエネルギーを放出ほうしゅつしただけだとされている。しかし、この兵器へいき完成かんせいソ連それんにとって強力きょうりょくなプロパガンダの道具どうぐとなり、技術ぎじゅつてきちがいはアメリカの一般いっぱん市民しみん政治せいじ無視むしされた。

ソ連それん水爆すいばく実験じっけんがマイクのすぐおこなわれたので、結局けっきょくのところアメリカの水爆すいばく開発かいはつけられなかったのだ、水爆すいばく開発かいはつ推進すいしんただしかったのだ、とテラーら水素すいそばくだん推進すいしんしゃたちはみずからを正当せいとうした。当時とうじは、マッカーシーによる赤狩あかがりの最中さいちゅうだったので、オッペンハイマーら水爆すいばく反対はんたいしゃはロスアラモス研究所けんきゅうじょわれてしまった。

1954ねん3がつ1にち、アメリカはリチウムの同位どういたいもちいた最初さいしょ航空機こうくうき搭載とうさい可能かのう小型こがたねつ核兵器かくへいき爆裂ばくれつさせた。この水爆すいばくキャッスル・ブラボー実験じっけんの"シュリンプ (Shrimp) " (エビの) という名前なまえばくだんられている。実験じっけんマーシャル諸島しょとうにあるビキニ環礁かんしょう実施じっしされた。水爆すいばくは15メガトンの出力しゅつりょくがあり、想定そうていよりばい以上いじょうおおきいものだったため、アメリカの歴史れきしにおいて最悪さいあく放射ほうしゃせい物質ぶっしつによる被害ひがいをもたらした。 想定そうていよりおおきな爆発ばくはつと、わる天候てんこう状況じょうきょう、そしてアメリカの危険きけん区域くいき設定せっていせまさから、1まん平方へいほうキロメートル以上いじょうわたってはいりそそぎ、周囲しゅうい人間にんげん健康けんこう被害ひがいおよぼした。このなかには日本にっぽん漁船ぎょせんだい福竜丸ふくりゅうまるやマーシャル諸島しょとう住人じゅうにんふくまれている。これらの地域ちいき現在げんざいでもひとんでいないが、かつての住人じゅうにんいまでも放射能ほうしゃのうによるがん障碍しょうがいくるしめられている。だい福竜丸ふくりゅうまる事件じけん日本にっぽんでもおおきな反響はんきょうび、反核はんかく運動うんどうこるきっかけとなった。

水爆すいばく時代じだい到来とうらいは、一般いっぱん人々ひとびと軍人ぐんじん両方りょうほうにとって、かく戦争せんそうについてのかんがかた深刻しんこく影響えいきょうおよぼした。それまでは、原子げんしばくだんによるかく戦争せんそう影響えいきょうはある程度ていど限定げんていされうるとかんがえられていた。原爆げんばく航空機こうくうきから投下とうかされ、ひとつのおおきな都市とし破壊はかいできるのみであるとするなら、原爆げんばくさき大戦たいせんでの空爆くうばく (たとえば日本にっぽんやドイツにたいしておこなわれたはげしい空襲くうしゅう) の技術ぎじゅつてき拡大かくだいぎないとかんがえられるからである。そして、そのような兵器へいき世界せかい規模きぼでの死傷ししょうしゃみだす、というのはたんなる深刻しんこくぶった誇張こちょうだとかんがえられていた。

当時とうじのたった10ねんほどまえにも一部いちぶひとは、原子げんしばくだんちからによって、事故じこ意図いとしてかによらず人類じんるい地上ちじょうすべての生命せいめいわらせるちからってしまうかもしれないと心配しんぱいしていた。しかし、当時とうじのテクノロジーは人類じんるいがそんなちからつところまではいたっていなかった。それでも、水爆すいばくのとてつもないちからによって人類じんるい世界せかい破滅はめつさせるちからにまたいちちかづいたようにおもわれた。

キャッスル・ブラボー事件じけんは、かく戦争せんそう生存せいぞん可能かのうせいについてのおおくの疑問ぎもんしょうじさせた。べい両国りょうこく政府せいふ科学かがくしゃは、かく融合ゆうごう兵器へいき核分裂かくぶんれつ兵器へいきちがって危険きけん放射ほうしゃせい副産物ふくさんぶつ生成せいせいしないため、より"綺麗きれい"だと主張しゅちょうした。技術ぎじゅつてきには真実しんじつだが、これは重大じゅうだい問題もんだいかくしてしまっている。段階だんかい水爆すいばく最終さいしゅうステージでは、かく融合ゆうごうによって生成せいせいされる中性子ちゅうせいし使つかって水爆すいばく周囲しゅういつつ天然てんねんウランを分裂ぶんれつさせる。水爆すいばくは、この核分裂かくぶんれつによってかく出力しゅつりょく半分はんぶん以上いじょうのエネルギーをているのである。

水爆すいばくにおける核分裂かくぶんれつ段階だんかい単独たんどく使用しようされたときより"きたない"、つまりよりおおくの放射ほうしゃせい降下こうかぶつみだすとかんがえられている。この事実じじつは、ブラボー実験じっけんのちにできたたかくそびえつようなはいくもができたことによってたしかめられた。1955ねんソ連それんはつのメガトンきゅう爆発ばくはつ実験じっけんおこなったとき、一般人いっぱんじん政治せいじたちも"限定げんてい"かく戦争せんそうはもはや不可能ふかのうだとかんがえた。都市としくに直接ちょくせつかく攻撃こうげき対象たいしょうとならなくても、普段ふだんからの大気たいきながれによって放射ほうしゃせい降下こうかぶつくも危険きけん核分裂かくぶんれつ副産物ふくさんぶつ四散しさんし、世界中せかいじゅう目標もくひょうがい都市とし土壌どじょうみずなかはいんでしまうからである。

世界せかい規模きぼでの核兵器かくへいきいによる放射ほうしゃせい降下こうかぶつ影響えいきょうはいかほどかという考察こうさつが、世界中せかいじゅうはじめられた。このなかには、核兵器かくへいき保有ほゆうしておらずそれゆえ直接ちょくせつ核兵器かくへいき脅威きょういのないくにふくまれていた。世界せかい運命うんめいいま核兵器かくへいき生産せいさんしうる大国たいこく運命うんめいむすくこととなったからである。

かくふゆ参照さんしょう

かく抑止よくし政策せいさく瀬戸際せとぎわ外交がいこう

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1950年代ねんだいから1960年代ねんだい初頭しょとうにかけて、べい両国りょうこくはおたがいに相手あいてかく戦力せんりょく優位ゆういることのないように、すうおおくの原爆げんばく水爆すいばく開発かいはつしていった。この競争きょうそうは、技術ぎじゅつてきにも政策せいさくてきにも、さまざまなかたちをとって冷戦れいせん期間きかんちゅうつうじてつづけられた。

広島ひろしま長崎ながさき投下とうかされた最初さいしょ原爆げんばくは、巨大きょだいなカスタムメイドのばくだんであり、装備そうび配備はいびには高度こうど訓練くんれんけた専門せんもん職員しょくいん必要ひつようとされた。それらの原爆げんばくは、大型おおがた爆撃ばくげき当時とうじではB-29—によってしか投下とうかできなかったし、いちにつき一発いっぱつ原爆げんばくしか装備そうびできなかった。

初期しょき水爆すいばくも、同様どうよう巨大きょだい複雑ふくざつばくだんであった。いち飛行機ひこうきたいした一発いっぱつかくばくだん重量じゅうりょう比率ひりつは、伝統でんとうてき核兵器かくへいきくらべると途方とほうもなくおおきかった。しかし、核保有かくほゆうこく対峙たいじする場合ばあいにはこれは深刻しんこく危険きけんせいがあるとかんがえられた。戦後せんご直後ちょくごすう年間ねんかんに、アメリカは一般いっぱんてき兵士へいし使つかえるような、ノーベルしょう物理ぶつり学者がくしゃではなくてもあつかえるような核兵器かくへいき開発かいはつすすめた。そして、1950年代ねんだいには、核兵器かくへいき改善かいぜんするための一連いちれんかく実験じっけんかえされた。

1951ねんはじまった、ネバダしゅう砂漠さばくなかにあるネバダかく実験じっけんじょうがアメリカのすべてのかく実験じっけん主要しゅよう実験じっけんじょうとなった。(ソ連それんではセミパラチンスクかく実験じっけんじょう役割やくわりはたした。) かく実験じっけんは、おおきく2つのカテゴリにけられた。兵器へいき関係かんけい ("weapons related") (新兵しんぺい動作どうさするかの検証けんしょう、またはしん兵器へいき正確せいかくにはどのように動作どうさするかの観察かんさつ) と兵器へいき効果こうか ("weapons effects") (兵器へいき様々さまざま条件じょうけんしたでどのようにうか、ぐん組織そしき核兵器かくへいきさらされたときどのように行動こうどうするかの観察かんさつ) である。

初期しょきかく実験じっけんはほとんどすべ大気たいきなか (地上ちじょう) か水中すいちゅう (マーシャル諸島しょとうでの実験じっけんのように) でおこなわれた。かく実験じっけんは、国力こくりょく技術ぎじゅつりょく両方りょうほうちからしめすしるしとして使つかわれたが、このころ実験じっけん安全あんぜんせいについての疑問ぎもんこった。かく実験じっけん放射ほうしゃせい降下こうかぶつ大気たいきちゅうにまきらすからである。(1954ねんキャッスル作戦さくせん事件じけんで、これは劇的げきてき証明しょうめいされた。)

ネバダかく実験じっけんじょうでは、なんひゃくかいものかく実験じっけん実施じっしされた。

かく実験じっけん技術ぎじゅつてき開発かいはつりょくのしるしとしてかんがえられてきたが (使用しよう可能かのう核兵器かくへいきかく実験じっけんすることなしに設計せっけいできる能力のうりょくがあるとはかんがえにくい)、かく開発かいはつ競争きょうそう中止ちゅうしのための見返みかえりとして、実験じっけん中止ちゅうしがたびたび要請ようせいされてきた。おおくの優秀ゆうしゅう科学かがくしゃ政治せいじは、かく実験じっけん中止ちゅうしうったえた。1958ねん、アメリカ、ソ連それんそしてイギリス連邦れんぽう (新規しんき核保有かくほゆうこく) は政治せいじ問題もんだい健康けんこう問題もんだいへの配慮はいりょから、共同きょうどう宣言せんげん発表はっぴょうかく実験じっけん一時いちじてき停止ていし (モラトリアム) を宣言せんげんした。しかし1960ねんあらたにフランス核兵器かくへいき開発かいはつ、1961ねんになってソ連それん停止ていし撤回てっかいかく実験じっけん再開さいかいすると、べい両国りょうこくはこれまで以上いじょう頻度ひんどかく実験じっけんかえすようになった。

政治せいじりょく誇示こじのために、1961ねん10月にソ連それん史上しじょう最大さいだい水爆すいばくツァーリ・ボンバ実験じっけん実施じっししている。ツァーリ・ボンバは、最大さいだいで100Mtの出力しゅつりょく想定そうていされていたが、半分はんぶん程度ていどにまで出力しゅつりょくげて実験じっけんおこなわれた。これはあまりにも巨大きょだいすぎるために実用じつよう兵器へいきとしては適当てきとうなものであったが、100kmさきでも人体じんたいもっとひど火傷かしょうこすことができるほどのねつ放出ほうしゅつしたという。またその稚拙ちせつ設計せっけいのために、1945ねんからこのときまでにぜん世界せかい放出ほうしゅつされた放射ほうしゃせい降下こうかぶつの4ぶんの1がこのときに放出ほうしゅつされたという。

1963ねん、このときの4カ国かこく核兵器かくへいき保有ほゆうこくと、それ以外いがいおおくの非核ひかくこく部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやく調印ちょういんし、大気たいきちゅう水中すいちゅう大気圏たいきけんがいでのかく実験じっけん禁止きんしした。しかし、この条約じょうやく地下ちかかく実験じっけん禁止きんししていなかったため、そのかく実験じっけんつづけられることになった。

60年代ねんだいはいると、おおくのかく実験じっけん比較的ひかくてきおだやかな (つまり、出力しゅつりょくひくい) ものがおおくなり、純粋じゅんすい技術ぎじゅつてき目的もくてきの"実験じっけん"というよりは、政治せいじりょく暗示あんじ目的もくてきでの実験じっけんもなされた。そして、兵器へいき改良かいりょうは2つのかたちるようになっていった。つまりは、より強力きょうりょく効率こうりつてきかく開発かいはつと、核兵器かくへいき小型こがたの2つである。

核兵器かくへいきちいさければ、ばくげきはよりおおくのかくばくだん運搬うんぱんすることができる。それはつまり、相手あいてがどれほどきびしい防空ぼうくう体制たいせいこうとも、かく攻撃こうげき脅威きょういとなるということを意味いみする。また、1950年代ねんだいから60年代ねんだいにかけて近代きんだいてきロケットおお開発かいはつされたが、ちいさな核兵器かくへいきはロケットで使用しようしやすいということも意味いみする。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、戦後せんご弾道だんどうミサイル開発かいはつ尽力じんりょくした。それらのおおくは、だい大戦たいせんちゅうナチス開発かいはつしたV-2のようなロケット技術ぎじゅつ鹵獲ろかくしたものから、またはヴェルナー・フォン・ブラウンのようにドイツからアメリカに亡命ぼうめいした技術ぎじゅつしゃ協力きょうりょくのもとで研究けんきゅうすすめられた。アメリカのペーパークリップ作戦さくせんによって、かれらのおおくが戦争せんそう末期まっきにアメリカにわたっていたためである。

兵器へいき改良かいりょう

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かく年代ねんだい核兵器かくへいきおおきさ比較ひかく核兵器かくへいき改良かいりょうかさねて小型こがたしていった(左上ひだりうえファットマンみぎじょうMark 17かくばくだん左下ひだりしたW59核弾頭かくだんとうみぎW87核弾頭かくだんとう)。

核弾頭かくだんとう装備そうびしたオネスト・ジョンのようなロケットは、1953ねんはじめて実戦じっせん配備はいびされたのだが、それらは比較的ひかくてき短距離たんきょり (最大さいだい25km) の射程しゃていしかたず[43]威力いりょくもファットマンのばい程度ていどかぎられた対地たいちミサイルであった。そのため、これらのミサイルはかぎられた軍事ぐんじてき状況じょうきょう使つかわれることだけを想定そうていされていた。つまりれいげると、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国内こくない配備はいびされた短距離たんきょりミサイルは、モスクワにたいして即時そくじ攻撃こうげきするというおどしのためには使つかえないわけである。そのため、これらのミサイルは"戦術せんじゅつてきな"、つまり規模きぼちいさい軍事ぐんじてき状況じょうきょうでの使つかかたしかできないのである。

"戦略せんりゃくてきな"目的もくてき敵国てきこく全体ぜんたいへの脅威きょういとなる兵器へいき—のためには、当時とうじ長距離ちょうきょり航続こうぞく可能かのう戦略せんりゃく爆撃ばくげきによってしか、相手あいて国内こくない投下とうかすることはできなかった。米国べいこくでは、1946ねん戦略せんりゃく航空こうくう軍団ぐんだん創設そうせつされ、命令めいれいがあったときにすぐにモスクワを爆撃ばくげきできるように24時間じかんつね航空機こうくうきばしつづけた。戦略せんりゃく航空こうくう軍団ぐんだん司令しれいかんにはカーチス・ルメイ将軍しょうぐん (日本にっぽんへの焼夷弾しょういだんによるだい空襲くうしゅう発案はつあんられる) があたった。

核兵器かくへいきとその運搬うんぱん技術ぎじゅつ開発かいはつは、それまでの軍事ぐんじ思想しそうとはちがったかく戦略せんりゃくというあらたな理論りろん発展はってんうながした。かく戦争せんそうこったときの被害ひがいがあまりにも甚大じんだいであるとかんがえられたため、人類じんるい歴史れきしはじまって以来いらいはじめて、もはや今後こんご戦争せんそうをすることは不可能ふかのうかもしれないとかんがえられるようになった。冷戦れいせんのはじめのすうねんソ連それんけたメッセージで、当時とうじ合衆国がっしゅうこく大統領だいとうりょうドワイト・アイゼンハワー大量たいりょう報復ほうふく戦略せんりゃくドクトリンかんがえをあきらかにした。それによると、もしソビエト赤軍せきぐんポツダム会議かいぎ保証ほしょうされた東側ひがしがわ諸国しょこく以外いがいのヨーロッパ諸国しょこく侵略しんりゃくしようとしたさいには、アメリカはソ連それんぐん (とおそらくソ連それんのリーダーも) にたいして核兵器かくへいき使つかうだろうと宣言せんげんしていた。

即応そくおうテクノロジー (ミサイルや長距離ちょうきょり爆撃ばくげき) の発達はったつによって、これらの政策せいさく変化へんかしていった。もし、ソ連それん核兵器かくへいき所持しょじしており、かつ、同様どうよう大量たいりょう報復ほうふく政策せいさくっていたとすると、アメリカによるかく先制せんせい攻撃こうげき通常つうじょう兵器へいきたいするかくによる報復ほうふくは、必然ひつぜんてきソ連それんによる報復ほうふくまねくことになる。この認識にんしきが、のち相互そうご確証かくしょう破壊はかい (Mutually Assured Destruction:MAD) としてられるようになる理論りろん軍部ぐんぶゲーム理論りろんいえランド研究所けんきゅうじょといったところで研究けんきゅうされるきっかけとなった。

潜水せんすいかんから発射はっしゃされるトライデントIIミサイル。潜水艦せんすいかん発射はっしゃ弾道だんどうミサイル脅威きょういから都市とし防衛ぼうえいすることはほとんど不可能ふかのうだとかんがえられていた。

MAD理論りろんでは、こりうるかく戦争せんそう初期しょき攻撃こうげきだい攻撃こうげき段階だんかいけていた。初期しょき攻撃こうげきは、核保有かくほゆうこくAこくによるべつ核保有かくほゆうこくBこくへの、核兵器かくへいきによる最初さいしょ攻撃こうげきである。もしAこく初期しょき攻撃こうげき段階だんかいで、Bこくたいしてかく報復ほうふく不可能ふかのうなほどのダメージをあたえることができなければ、BこくはAこくたいして核兵器かくへいきによるだい攻撃こうげきおこなうだろう。A,Bこくのどちらがアメリカかソ連それんであったとしても、戦争せんそう結果けっか、もはや両国りょうこくくにとしてのからだしえないほどにまで完全かんぜん破壊はかいされてしまうだろうとかんがえられた。

ゲーム理論りろんによれば、かく戦争せんそうはじめることは破滅はめつてき行為こういなので、理性りせいったくに指導しどうしゃは、わざわざかく戦争せんそう突入とつにゅうするようなことをしないだろうとかんがえられる。しかしながら、もしあるくに初期しょき攻撃こうげき敵国てきこく報復ほうふく能力のうりょく完全かんぜん破壊はかいすることができるのであれば、そのとき両国りょうこくのパワーバランスはくずれ、かく戦争せんそう安全あんぜん遂行すいこうできることになってしまう。

MAD戦略せんりゃくは、人間にんげんの2つの相対そうたいする思考しこう様式ようしきもとづいているとかんがえられる: 冷静れいせい論理ろんりと、感情かんじょうてき恐怖きょうふである。MADの"かく抑止よくし (nuclear deterrence) "としてられるフレーズは、フランスでは"諫止 (dissuasion) "、ロシアでは"脅迫きょうはく (terrorization) "を意味いみする言葉ことば翻訳ほんやくされて紹介しょうかいされた。イギリスの首相しゅしょうウィンストン・チャーチルは、かく戦争せんそうについての明白めいはくなパラドックスをしょうして「物事ものごとわるくなればなるほど、もっとくなる ("the worse things get, the better they are")」とった。つまり相互そうご破壊はかい危機ききおおきくなればなるほど、それを使用しようすることができないために、世界せかいはより安全あんぜんになるというわけである。

核保有かくほゆうこく相互そうご確証かくしょう破壊はかい思想しそうによって、さまざまな技術ぎじゅつてき政治せいじてき要求ようきゅうたす必要ひつようせまられた。たとえば、敵国てきこくつねに、"初期しょき攻撃こうげき能力のうりょく (first strike capability) "をようとしているために、我々われわれはそれをなにとしてでもふせがなければならない、とさかんに議論ぎろんされた。この問題もんだいはアメリカでは50年代ねんだいに、ミサイルギャップばくげきギャップにかんする議論ぎろんとしてられている。(それらの"ギャップ"は政治せいじによってつくされたものだったのだが、当時とうじはそれはからなかったのである。) 敵国てきこく初期しょき攻撃こうげき能力のうりょくあたえないように、アメリカ、ソ連それん両国りょうこくすうせんはつもの核兵器かくへいき生産せいさんした。それらは、相手あいて国民こくみん民間みんかん軍事ぐんじインフラすべてを破壊はかいしてもなおありあまるほどのりょうであった。

これらの政策せいさくかく戦略せんりゃくは、スタンリー・キューブリックの1964ねん映画えいが、『博士はかせ異常いじょう愛情あいじょう』で風刺ふうしされた。その映画えいがではソ連それんは、アメリカの初期しょき攻撃こうげき能力のうりょく無能むのうするために皆殺みなごろ装置そうち (en:Doomsday machine) —かく爆発ばくはつ検知けんちするときょ大水おおみずばく爆発ばくはつし、はい世界中せかいじゅうめつくし世界せかい破滅はめつさせる装置そうち—を開発かいはつする。そのくるったアメリカの将軍しょうぐんソ連それんへのかく攻撃こうげき命令めいれい皆殺みなごろ装置そうち発動はつどうし、世界せかいほろぶ、というプロットである。

SAGE制御せいぎょしつ。スクリーンにはアメリカ東海岸ひがしかいがん表示ひょうじされている。ふたつのターゲットが追跡ついせきされているところ。

かく政策せいさく初期しょき弾道だんどうミサイル早期そうき警戒けいかいシステム開発かいはつ促進そくしんした。伝統でんとうてき戦争せんそうは、どんなにはやくても、せいぜいが1にちか1しゅう単位たんいとしてうごいていた。長距離ちょうきょり爆撃ばくげきにより、攻撃こうげき命令めいれいから実際じっさい攻撃こうげきまでの間隔かんかくは、1あいだ単位たんいにまでちぢまった。さらに、ロケットにより、その間隔かんかくは1ふん単位たんいとするまでになった。伝統でんとうてき指揮しき統制とうせい体制たいせいでは、かく攻撃こうげきへの素早すばや対応たいおうができないとかんがえられたため、てき攻撃こうげき探知たんち直接ちょくせつ即時そくじ反応はんのうができるような初期しょきコンピュータ開発かいはつうながされた。

アメリカでは、はん自動じどうしき防空ぼうくう管制かんせい組織そしき (SAGE) の開発かいはつ莫大ばくだい資金しきん使用しようされた。それは遠隔えんかくレーダーからの情報じょうほう使つかい、てき爆撃ばくげき追跡ついせき迎撃げいげきするシステムである。SAGEは、世界せかいはつリアルタイム処理しょり多重たじゅうシステムであり、ディスプレイそなえた近代きんだいてき汎用はんようコンピュータであった。

キューバ危機ききとデタント

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ばくげき短距離たんきょりロケットは信頼しんらいできない。何故なぜなら、航空機こうくうきとされる可能かのうせいがあり、初期しょきかくミサイルはかぎられた射程しゃていしかたなかったからである。たとえば、最初さいしょソ連それんのロケットの射程しゃていはヨーロッパまでにかぎられていた。しかし、1960年代ねんだいまでには、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、ソビエト連邦れんぽうども大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル (ICBM) や潜水艦せんすいかん発射はっしゃ弾道だんどうミサイル (SLBM) を開発かいはつしていた。ICBMによって、世界中せかいじゅうのほぼどこをもねらうことができるようになり、SLBMはそれより射程しゃていみじかいものの、相手あいて気付きづかれることなく水中すいちゅうから接近せっきんし、近距離きんきょりから核兵器かくへいき発射はっしゃできるようになった。これらのミサイルの開発かいはつは、どのくににとってもそれまで以上いじょうかく攻撃こうげきからの防衛ぼうえい実用じつようてきになった。

迎撃げいげきするあいだもなくミサイルで都市とし壊滅かいめつしうるという軍事ぐんじてきリアリティは、不安定ふあんてい外交がいこう状況じょうきょうした。各国かっこく指導しどうしゃたちは瀬戸際せとぎわ外交がいこう政策せいさくり、もし対抗たいこうするくにかく戦力せんりょくじょうのアドバンテージをるくらいならば、かく戦争せんそうさない、とまで主張しゅちょうするようになった。ちょう大国たいこくでは民間みんかん防衛ぼうえいプログラムが実施じっしされてかくシェルター建設けんせつなどがすすめられ、かく戦争せんそう生存せいぞん可能かのうせいがさかんに議論ぎろんされた。

1962ねん、アメリカのスパイ航空機こうくうきU-2 (航空機こうくうき)撮影さつえいしたキューバの建設けんせつ途中とちゅうのミサイル基地きちキューバ危機ききのきっかけとなった写真しゃしんである。

瀬戸際せとぎわ外交がいこうのクライマックスは、1962ねんこったキューバ危機ききだろう。アメリカのスパイ航空機こうくうきU-2が、アメリカのわずか150kmほどみなみ位置いちするキューバじゅん中距離ちゅうきょり弾道だんどうミサイル基地きちぐん建設けんせつされているのを発見はっけんし、べいソの対立たいりつ激化げきかした事件じけんである。当時とうじのアメリカ大統領だいとうりょうジョン・F・ケネディは、エクスコム設置せっちし、キューバの首相しゅしょうフィデル・カストロがソビエト連邦れんぽうだいいち書記しょきニキータ・フルシチョフ共謀きょうぼうしてキューバへかくミサイルをんだのだと結論けつろんけた。同年どうねん10がつ22にち、ケネディ大統領だいとうりょうはテレビ演説えんぜつでミサイルの発見はっけん公表こうひょうソ連それん非難ひなんした。そして、キューバ周辺しゅうへんソ連それんせんたいする海上かいじょう封鎖ふうさ臨検りんけんおこなうことを宣言せんげん同時どうじに"あらゆる状況じょうきょうたいする"軍事ぐんじてき準備じゅんびができている、とソ連それんたいして警告けいこくおこなった。キューバにちこまれたミサイルの射程しゃていは4,000 kmほどであり、もしもミサイル基地きち完成かんせいすればアメリカ東海岸ひがしかいがん主要しゅよう都市とし射程しゃていおさめることになるだろうとおもわれた。

べい両国りょうこく指導しどうしゃたちは、だいさん世界せかい大戦たいせん突入とつにゅう危機きき背負せおいながら対峙たいじ交渉こうしょうした。フルシチョフがキューバにかく配備はいびしたがった直接ちょくせつ動機どうきは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリスイタリアトルコちかくに兵器へいき配備はいびしており、それにたいする対抗たいこうのためだったとされている。10月26にちには、フルシチョフからケネディにたいして妥協だきょうあんしめされた。その内容ないようは、もしアメリカが将来しょうらいキューバにたいする軍事ぐんじ行動こうどう一切いっさいおこなわないならば、ソ連それんすべてのミサイルを撤退てったいさせるというものだった。フルシチョフは、相互そうご破滅はめつてき運命うんめいけるために雄弁ゆうべんうったえた。

我々われわれは、戦争せんそうというむすのできたロープのはしはしをこれ以上いじょうくべきではありません。なぜなら、っぱればっぱるほどむすかたくなってしまうからです。そして、いつかこのむすがあまりにかたむすばれすぎて、もはやだれにもほどけなくなってしまうでしょう。そうしたらむするよりほかなくなってしまいます。わたしいたいことを説明せつめいする必要ひつようはないでしょう。なぜならあなたは我々われわれ2人ふたりくにがどれほどこわしいりょく所持しょじしているか、完璧かんぺきにご存知ぞんじだからです。』[44][45]

しかしながら1にちの10がつ27にち、ソビエトはさらなる条件じょうけん追加ついかする。その内容ないようは、アメリカにたいしてトルコに配備はいびされたジュピターミサイル撤去てっきょするようにもとめるものであった。この要求ようきゅうはアメリカがわにはがたいものであり、またどうにちキューバ上空じょうくう偵察ていさつしていたアメリカ空軍くうぐんのU-2がソ連それんぐんによって撃墜げきついされ、ソ連それん商船しょうせん臨検りんけんラインのちかくにまでせまった。ケネディは最初さいしょ条件じょうけんれることを発表はっぴょうし、またおとうとロバート・ケネディめいじて秘密裏ひみつりソ連それん大使たいしだい条件じょうけん、トルコからのミサイル撤去てっきょ、もれることをつたえさせた。

10月28にちソ連それんせん臨検りんけんラインまえ停止ていしし、そのすこしそこにとどまったあと、ソ連それんけてかえっていった。フルシチョフは、キューバからすべてのミサイルを撤去てっきょするようにめいじたと放送ほうそうした。

この危機ききは、のちにアメリカとソ連それんによる全面ぜんめんかく戦争せんそうもっとちかづいて、両国りょうこく最後さいご妥協だきょうによりすんでのところで戦争せんそう突入とつにゅうけられたとかんがえられている。コミュニケーションの齟齬そごからの危機きき再発さいはつ不安ふあんから、これを契機けいきとしてべいあいだはじめてのホットライン設置せっちされた。これは、べい首脳しゅのうあいだ直接ちょくせつつなぎ、軍事ぐんじ活動かつどう政策せいさくについてより容易よういはなうことができるようにするものである。この事件じけんによって、アメリカ・ソ連それん両国りょうこくのミサイル、ばくげき潜水せんすいかんとコンピュータされた発射はっしゃ装置そうちによって、ささいな状況じょうきょうから世界せかい破滅はめつまでの拡大かくだいが、それまでかんがえられていたより簡単かんたんこりうるということが証明しょうめいされた。

キューバミサイル危機ききすう年間ねんかんで、アメリカとソ連それん両国りょうこくかくによる緊張きんちょう状態じょうたい解消かいしょうするためにちからくした。核軍縮かくぐんしゅくへのうごきにおけるひとつの頂点ちょうてんは、1963ねん部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやくへの調印ちょういんであろう。この条約じょうやくでは、アメリカ・ソ連それん今後こんご大気たいき水中すいちゅう宇宙うちゅうでのかく実験じっけんおこなわないとした。この条約じょうやくでは地下ちかかく実験じっけん禁止きんしされていなかったため両国りょうこくはこれ以後いご核兵器かくへいき開発かいはつすすめたものの、世界中せかいじゅう放射ほうしゃせい降下こうかぶつによる危険きけん減少げんしょうすることになり、武力ぶりょく誇示こじのためのだい規模きぼかく実験じっけん時代じだい終焉しゅうえんむかえることとなった。

冷戦れいせん終結しゅうけつまで

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キューバ危機ききべい両国りょうこくPTBTはじめとする条約じょうやく締結ていけつし、かく戦争せんそう危機ききったかにえた。しかし、これらの条約じょうやく廃止はいしされた核兵器かくへいきは、老朽ろうきゅうして解体かいたいっているような、両国りょうこくかく軍備ぐんびへの障碍しょうがいにならないようなものだけであった[46]げんに、ソ連それん核兵器かくへいき備蓄びちくすうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく上回うわまわったのはこの時期じきである。米国べいこくレーガン政権せいけん時代じだい軍縮ぐんしゅくから軍拡ぐんかく路線ろせんへと転換てんかんした。

初期しょきかく拡散かくさん

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1950年代ねんだいから60年代ねんだいにかけて、べい両国りょうこく以外いがい3カ国かこくが"かくクラブ"りした。

イギリス連邦れんぽうは、1943ねんケベック協定きょうていでアメリカとかく開発かいはつのリソースを共有きょうゆう[47] して以来いらいマンハッタン計画けいかく初期しょきからのメンバーであった。しかし、1946ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマクマホンほう (en:McMahon Act) としてられる、原子力げんしりょく技術ぎじゅつ国外こくがい転移てんいきんじる法律ほうりつ[48]成立せいりつしたのち、アメリカは一方いっぽうてきにイギリスとのパートナーシップを破棄はきし、今後こんごイギリスには一切いっさい情報じょうほうわたさないと通告つうこくした。クレメント・アトリー政権せいけんのイギリスは、英国えいこく独自どくじ原爆げんばく開発かいはつがなんとしても必要ひつようであると決定けっていした。マンハッタン計画けいかく協力きょうりょくしていたため、イギリスは一部いちぶ分野ぶんやでは豊富ほうふ知識ちしきっていたものの、実用じつよう兵器へいき開発かいはつするまでのみちはまだほどとおかった。

ファットマンを改良かいりょうしたかた原爆げんばく開発かいはつされ、1952ねん2がつ26にちには当時とうじ首相しゅしょうウィンストン・チャーチルがイギリスも核兵器かくへいき開発かいはつしたと宣言せんげん最初さいしょかく実験じっけんであるハリケーン作戦さくせんは1952ねん10がつ3にち実施じっしされた。最初さいしょ自由じゆう落下らっかばくだんであったがそのミサイルを開発かいはつしている。べいえいあいだ核兵器かくへいきかんする協力きょうりょく関係かんけいは、1958ねんべいえい相互そうご防衛ぼうえい協定きょうてい回復かいふくしている。この協定きょうていとポラリス販売はんばい協定きょうてい (Polaris Sales Agreement) の結果けっか英国えいこくはアメリカの潜水せんすいかんミサイルの設計せっけい購入こうにゅう独自どくじ核弾頭かくだんとう配備はいびしている。イギリスはミサイルの使用しようについてアメリカからの完全かんぜん独立どくりつしたコントロールを所持しょじしている。

フランスは、だい世界せかい大戦たいせんまではジョリオ・キュリー功績こうせきなどもありかく物理ぶつりがく先進せんしんこくであった。しかしフランスでの研究けんきゅう戦争せんそうによって途絶とだえ、そのだいよん共和きょうわせい政権せいけん不安定ふあんていさと資金しきん不足ふそくによって、研究けんきゅう再開さいかいされることはなかった[49]。しかし、1950年代ねんだいには民間みんかんでのかく研究けんきゅう計画けいかく開始かいしし、その副産物ふくさんぶつとしてプルトニウムが生成せいせいされた。

1956ねんには、秘密ひみつ組織そしき原子力げんしりょく軍事ぐんじ応用おうよう委員いいんかい (Committee for the Military Applications of Atomic Energy) が組織そしきされ、かくばくだん運搬うんぱん兵器へいき開発かいはつ開始かいしされた。1958ねんシャルル・ド・ゴールがフランス大統領だいとうりょう復帰ふっきすると、かれかくばくだん開発かいはつ最終さいしゅう決定けっていめいじた。その1960ねんには、フランスは独自どくじかく実験じっけんジェルボアーズ・ブルー成功せいこうさせた。

1951ねんには、中国ちゅうごくソ連それん協定きょうていむすび、中国ちゅうごくがわソ連それんたいしてウランこう提供ていきょうし、その見返みかえりにかく技術ぎじゅつ援助えんじょけることに同意どういした。1953ねんには、中国ちゅうごくかくエネルギーの民間みんかん利用りようした原子力げんしりょく研究けんきゅうプログラムを開始かいししている。1950年代ねんだいとおして、ソビエトは中国ちゅうごく大量たいりょう装置そうち提供ていきょうしたが、両国りょうこく関係かんけい悪化あっかするにつれてソ連それんがわ協力きょうりょく減少げんしょうしていく。そして、1959ねんには、中国ちゅうごくはコピーのための核兵器かくへいき提供ていきょう拒絶きょぜつされている。それにもかかわらず、中国ちゅうごくかく開発かいはつ突貫とっかん計画けいかくすすめ、1964ねん10がつ16にちにはロプノール周辺しゅうへんにて最初さいしょかく実験じっけん実施じっし、1966ねん10がつ25にちにはかくミサイルを開発かいはつ、そして水爆すいばくを1967ねん6がつ14にち開発かいはつした。

中国ちゅうごく原爆げんばく核弾頭かくだんとうを1968ねんから、水爆すいばく核弾頭かくだんとうを1974ねんから生産せいさんしている[50]。また、アメリカへのスパイ活動かつどうから情報じょうほうもちいて中国ちゅうごく核弾頭かくだんとうは2200 kg から 700 kg まで小型こがたされたとかんがえられている。中国共産党ちゅうごくきょうさんとう極端きょくたん秘密ひみつ主義しゅぎのために、現在げんざい核兵器かくへいき保有ほゆうすうははっきりとしていない。それでも、最大さいだいで2000核弾頭かくだんとう生産せいさんされたとかんがえられているが、実戦じっせん使用しよう可能かのうなものはそれよりもずっとすくないかもしれない[51]中国ちゅうごくは21世紀せいき初頭しょとう現在げんざいのところ、核兵器かくへいきによる先制せんせい攻撃こうげきをしないと宣言せんげんしている唯一ゆいいつくにである[52]

だいかく時代じだい

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かく拡散かくさん兆候ちょうこう冷戦れいせんなかからられたが、ソ連それん崩壊ほうかいによる冷戦れいせん終了しゅうりょうともなって、それまでおさえつけられていた小国しょうこくへのかく拡散かくさんはじまった。だいかく時代じだいである[53]

インド最初さいしょ原爆げんばく実験じっけんは1974ねん微笑ほほえむブッダというコードネームで実施じっしされた[54]。インド政府せいふ説明せつめいによると、それは"平和へいわ目的もくてきかく爆発ばくはつ"としている[54]。インドは原爆げんばくと (おそらく) 水爆すいばくを1998ねん爆発ばくはつさせている。同年どうねん隣国りんごくパキスタン原爆げんばく実験じっけん成功せいこうさせ、国際こくさい社会しゃかいから、相互そうご核兵器かくへいき使用しよううのではないかと懸念けねんされた。

また、ソビエト連邦れんぽう一部いちぶであった3こく ( ベラルーシ[55]ウクライナ[56]カザフスタン[57]) は、ソ連それん崩壊ほうかい核兵器かくへいきいだが、それらは1996ねんまでにはすべ自主じしゅてき放棄ほうき、またはロシアへと返還へんかんしている。

2004ねん1がつ、パキスタンじん冶金やきんがくもの兵器へいき学者がくしゃカーン博士はかせ告白こくはくしたところによると、かれかく技術ぎじゅつかく物質ぶっしつ知識ちしき機器ききやみ市場いちば構築こうちくし、リビアイラン北朝鮮きたちょうせんかく開発かいはつつながりうる物資ぶっし情報じょうほう提供ていきょうしたとされている。

みなみアフリカ共和きょうわこくは、2006ねん3がつ過去かこかく開発かいはつ計画けいかくについて発表はっぴょうした。それによると、1960年代ねんだいすくなくとも6はつのウランがた原爆げんばく開発かいはつ[58] たが、それらはすべて1990年代ねんだい初頭しょとうにまでは廃棄はいきしたという[59]一般いっぱんてきにはかく実験じっけんおこなったとはかんがえられていないが、1970年代ねんだいにアメリカのスパイ衛星えいせいが"アフリカ南部なんぶで、みじかく、強烈きょうれつな、かい閃光せんこう検出けんしゅつした"とつたえられている[60]ヴェラ事件じけんとしてられている)。これはみなみアフリカ共和きょうわこくとイスラエルのかく実験じっけんであったと推測すいそくされているが、一部いちぶにはこの閃光せんこう自然しぜん現象げんしょうだとの見方みかた存在そんざいする。なお、21世紀せいきはいってみなみアフリカがかく開発かいはつ計画けいかくかすまでは、アメリカの諜報ちょうほう機関きかんみなみアフリカの核兵器かくへいきについてまったく情報じょうほうていなかったという[59]

イスラエルは、実戦じっせん配備はいびされた核兵器かくへいき最大さいだいすうひゃく程度ていど所持しょじしているとひろ国際こくさい社会しゃかいからしんじられている。しかし、公式こうしきには核兵器かくへいき保有ほゆう否定ひてい肯定こうていもしない立場たちばつづけている。

北朝鮮きたちょうせんは、2003ねんNPT脱退だったい、2006ねん10がつ9にちになってはつかく実験じっけん実施じっし、また度目どめかく実験じっけんを2009ねん5がつ25にち実施じっししている。

このほかにも、過去かこ核兵器かくへいき開発かいはつ目指めざしていたくに多数たすう存在そんざいする。過去かこ開発かいはつこく参照さんしょう

現在げんざい(21世紀せいき初頭しょとう

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かつてのべい対立たいりつのような大量たいりょう核兵器かくへいき背負せおったちょう大国たいこく同士どうし全面ぜんめん戦争せんそう脅威きょういはしばらくとおのいたが、しかしながら、2001ねんアメリカ同時どうじ多発たはつテロ以来いらい戦争せんそう主流しゅりゅうがテロやゲリラなどの「非対称ひたいしょう戦争せんそう」にうつってきており、大国たいこくたいしてちからおとくにテロリスト大国たいこくたいして破滅はめつ覚悟かくごかくテロをなすこともいとはいきれない[61][62][63]北朝鮮きたちょうせんイラクイランなど、政治せいじりょく経済けいざいりょく不利ふり国家こっかが、自身じしん生存せいぞん可能かのうせいけて核兵器かくへいき開発かいはつするれいもある。これらのくにはしばしば独裁どくさい体制たいせいいており政治せいじてきには不安定ふあんていである。またテロリストにおいても、げん日本にっぽんのテロ宗教しゅうきょう団体だんたいであるオウム真理教おうむしんりきょうウラン採掘さいくつ核兵器かくへいき製造せいぞうこころみていた[64]

べいあいだのMAD戦略せんりゃくのような、"まともな"判断はんだんつうじず、突発とっぱつてき核兵器かくへいき発射はっしゃこすことが懸念けねんされている。たとえば、インド・パキスタン問題もんだいのようにかく開発かいはつ動機どうきには民族みんぞく問題もんだいかくれていることがおおく、こういった問題もんだいかかえたくに指導しどうしゃは「戦争せんそう相手あいてけるくらいならば、核兵器かくへいきでもろとも道連みちづれにしてしまおう」とかんがえる可能かのうせいすらある。そういったことをふせぐために、国際こくさいてき核兵器かくへいき拡散かくさんのためのみが数多かずおおくなされている。

2009ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくバラク・オバマ大統領だいとうりょうは、チェコプラハで、いわゆるプラハ演説えんぜつとしてられる演説えんぜつおこない、核軍縮かくぐんしゅくかく拡散かくさんながれを主導しゅどうし「核兵器かくへいきのない世界せかいけて、具体ぐたいてき措置そちる」[65]言明げんめい同年どうねん10がつにはノーベル平和へいわしょうけた[66]。しかし、各国かっこくとも、アメリカ自身じしんでさえも、『かくなき世界せかい』の理念りねんには理解りかいしめしつつも、短期たんきてきにはかく保有ほゆうしつづける姿勢しせいくずさなかった。そしてオバマのつぎ大統領だいとうりょうであるドナルド・トランプ使つかえる核兵器かくへいき開発かいはつする方針ほうしんしめした[67]。2017ねん採択さいたくされた核兵器かくへいき禁止きんし条約じょうやくにおいても、核保有かくほゆうこく一様いちよう採択さいたく拒否きょひした。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ べいかく戦略せんりゃくにICBMは必要ひつよう? 過去かこ失敗しっぱい事例じれいから専門せんもん疑問ぎもんこえ 瀬戸際せとぎわからの生還せいかん”. ニューズウィーク (2017ねん). 2017ねん12月6にち閲覧えつらん
  2. ^ Geoffrey Forden, False Alarms on the Nuclear Front.
  3. ^ Nobel Laureate Facts”. 2008ねん11月26にち閲覧えつらん
  4. ^ Ernest Rutherford: British physicist”. Encyclopædia Britannica. 2009ねん11月20にち閲覧えつらん
  5. ^ M. S. Longair (2003). Theoretical concepts in physics: an alternative view of theoretical reasoning in physics. Cambridge University Press. p. 377-378. ISBN 9780521528788. https://books.google.co.jp/books?id=bA9Lp2GH6OEC&pg=PA377&dq=rutherford+positive+charge+concentrated+nucleus&lr=&as_drrb_is=q&as_minm_is=0&as_miny_is=&as_maxm_is=0&as_maxy_is=&as_brr=0&ei=fFDNSqPQK6aSkQTMxIDgBw&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=rutherford%20positive%20charge%20concentrated%20nucleus&f=false 
  6. ^ James Chadwick - Biography
  7. ^ 1951ねんのノーベル物理ぶつりがくしょう (英語えいご)
  8. ^ Leo Szilard - A Biographical Chronology
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参考さんこう文献ぶんけん

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が80年代ねんだい以降いこう歴史れきし適格てきかくにまとめている

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  • ローズ, リチャード『原爆げんばくから水爆すいばくへ ―東西とうざい冷戦れいせんられざる内幕うちまく小沢おざわ千重子ちえこ, かみぬましん やく紀伊国屋きのくにや書店しょてん原著げんちょ2001ねん)。ISBN 431400889X 
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初期しょきかく開発かいはつ計画けいかく
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文化ぶんかなか核兵器かくへいきかくエネルギー
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かく備蓄びちく
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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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